青草掲示板ログ平十九年十一月 2007.11
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[3380] Re[3379][3365]: 青草話  神奈備 2007/11/30(Fri) 19:28 [Reply]
> ベトナム語の「イネップ」は多分nepだろうと思います。ネバネバしたという意味で、gao nepといえばもち米のことで、gaoが米。飯はcom(クゥーム)、蒸したもち米はxoy(ソイ)でおこわ。私の知っているのはそんなところです。

ありがとうございます。誰かがネットでお話を流すとそれが何倍にもなって波及するようです。神奈備もガセを流さないように心しなくちゃ。ね、モンさん。

[3379] Re[3365]: 青草話  nepでは? 2007/11/30(Fri) 17:02 [Reply]
>  昨日面白い話を聞きました。
>
> 1.ベェトナムでは稲のことをイネップと言うそうです。

遅レス失礼。
ベトナム語の「イネップ」は多分nepだろうと思います。ネバネバしたという意味で、gao nepといえばもち米のことで、gaoが米。飯はcom(クゥーム)、蒸したもち米はxoy(ソイ)でおこわ。私の知っているのはそんなところです。

[3378]  伊太祁曽様の「曾」が ソシモリの曾    焼尻紋次郎 2007/11/30(Fri) 15:13 [Reply]
 一心月歩あるね。神奈備掲示板 [8566] でのダンナ様の書き込みに「和奈佐意富曽神社」とあって、この曾が、これでシッカとした平面をえました。

 これまで、社を「ソ」と呼ばせる例が一つあった。出雲大社の西一帯の浜辺を「ソノ浜」といったことが確認できていました。
 伊太祁曽様の「曽」はヤシロだろうというは推測の域を出なかったのですが、和奈佐意富曽神社の出現によって線から面のひろがりを確保できたと看てよかろうと思います。

 「シャ(社)」を朝鮮発音で(漢字語的処理で)「ソ」に変えた or なったとみることもできましょうが、もともと、「社」とは「場所」だったし、その場所とは先祖伝来とか社禝に引きづられた概念でした。このへんで社禝の社が「祖先のソ」へ音転したと、小生は思います。

 そこでさっそく。ソシモリとは「ソ(先祖伝来の地)シ(之)守り」となりはしませんカッてんだ。mol ……へびです。土地神です。

[3377] 小矢部市・桜田遺跡のハイテク木組み    焼尻紋次郎 2007/11/30(Fri) 05:56 [Reply]
 流れにチャチャ入れるようでわ〜るいが、都祁、闘鶏、兎我の発音は古代日本語としても異質です。しかも、地方神官グループのヒエラルキーとか、それが細部に関与してくる教条がプンプン臭うを感じますが……。これを裸にしてその内意を把握するには、母胎となっている古代朝鮮語とか江南語を掴まねばならんと想われま。
 だが、古代朝鮮語・江南語の把握は、いまんとこ不能といったほうがはやい。

 ダンナ様
> 落ち着いて調べてみたいもの。
 せっかくの思い立ち。ここんとこの底辺前提事項を傍らに置いて、落ち着いて調べてくれたら、蝦夷とか俘囚が効率よく浮びたつと、おら惟ふよ。

 古代の物流道、金沢からクリカラ峠を越えると小矢部市がある。ここに桜田遺跡があって、ハイテク木組みが出土しました。これが“縄文時代”の遺跡なので学者さんたちはビックリしてま。
 この木組にはナンとかいう名前がついていたのだが、誰か知りませんか?
 わかったら、オレのパソコンがブッシュ−ッ(フリーズ)となってもいいので、いちどは叩いてみたいです(“クリカラ”の意味が出るか?)。

 国家形成期にはいると、文化が錯綜してきて見えにくい。東北地方の歴史が比較的スンナリわかり易いはここでしょう。
 地域をみるには、文化の乖離とか断層をみるがいいと思います。

[3376] Re[3374]: 難波の日祀り  神奈備 2007/11/29(Thu) 21:03 [Reply]
> 都祁、闘鶏、兎我の名の地名の所在地も知りたいですね。

 カシミールの地名検索では、都祁は大和の国中の東方、闘鶏は神社名にある程度です。 
 大阪市北区兎我野町があります。仁徳紀に「菟餓野の鹿の鳴き声」のする方向として出てきます。

> 月と日の形を刳りぬいた

琴とは意味が違うのか同じなのか、多くの神社の灯籠の火を灯す所が日と三日月に刳りぬかれています。

> 或いは、絹なら天女さんから洗ったほうが早いのでしょうか?

案外に、伊弉諾尊 伊弉冉尊でよかったり。

[3375] Re[3372]: 古い時代に拘ってみますが、  神奈備 2007/11/29(Thu) 21:02 [Reply]
> 白山神社の祭神は、普通は菊理姫命ですが、少彦名命を主祭神とする白山社も存在します。

流石の着眼です。『平成CD』で見ますと全国で白山神社で少彦名命が主神となっているのが17社。全国の白山神社は約2000。

 白山信仰は渡来人に拘わっているようですし、また修験者が運んだとのされています。白山神社と俘囚ないし被差別との関連を指摘する方もおられるようですが、大和の東の方では九頭神社と白山神社とが同居しているのも目立ちます。

 落ち着いて調べてみたいもの。

[3374] Re[3371][3366]: 難波の日祀り  とみた 2007/11/29(Thu) 15:29 [Reply]
> > 韓国の歴史書の三国遺事に、延烏郎、細烏女伝説があるそうです。
>
>  実に興味深い伝説だと思います。
>
>  年代は第八阿達羅王の頃で西暦157年です。卑弥呼さんの頃ですね。

卑弥呼さんは確か247年ごろ亡くなっていると思いますが、紀元157年なら倭国大乱の時代ですね。
>
>  九州北岸西岸から日本海側に日と月と絹がキイワードの神話があればいいなと思います、即ち女神が主人公の神話と見ますと、舞い降りた天女が織物上手などがあります。

出雲因幡には、月と日の形を刳りぬいた琴板は出ていますね。これはやはり農耕祭祀かと思います。出雲市の姫原西遺跡は弥生時代後期の末の琴板で月日をくりぬき九本の線(この糸は何でしょう。絹ならピンポンで最高、そんな上手く行かないでしょう)。神魂神社で使われる琴板は月日がくりぬいてあります。

因幡(鳥取県)青谷上寺地遺跡からも弥生中期(紀元前後でしょうか)の琴板が出ています。

月日は確か琵琶にも彫られていませんでしたか。

琴は、古代はシャーマン(巫女)が祭祀に使ったのでしょう。この地のシャーマンが使う卜骨は韓半島の南部海岸島の小加耶の勒島のものと同じとされていますから、朝鮮の南部から渡ってきたと思われます。 絹はどうでしょうか。吉野ヶ里うにも絹はでていますし・・・

或いは、絹なら天女さんから洗ったほうが早いのでしょうか?


都祁、闘鶏、兎我の名の地名の所在地も知りたいですね。



[3373] 無題  焼尻紋次郎 2007/11/29(Thu) 14:40 [Reply]
[3365}いらい、だいぶ書き込みが出たので、割り込むばい。

玄どん、オッス
> 菊理姫命は生死を司り……。
★ これ、やっぱ khukuri(刀)ですなァ。火葬するまで胸に刃物持たせるアレ。

★ ベトナム語 ; イネップ(稲)。手許のベトナム語辞書にはこれは出ていません。されど、この語彙がベトナム領にあるという情報はホントだと思います。
 ベトナムには 53の小数民族がいます。現在広域標準語になっている「ベトナム語」こそがクセモノで、このような広域言語が出現したので、日本語のふるさとあたりも掴みにくくなった……そういうことです。
 インドのパンジャブ(五河)地方では cin がコメでした。秦とかカミナリの sin とも大いに関係あることでしょう。
 伊勢皇大神宮にミシネのミクラというコメ蔵があります。地名の品川あたりもこれでしょうナ。
 
★ 神々のことばはチベット語に近かかった。
 このおはなしは横浜の古川純一さんあたりから出た言辞でしょうか。3年前、同氏はアイヌ語とチベット語を睨んだ本を出されました。連絡とったら「これあげるヨ」と、大きな二冊のチベット語辞書をご恵送いただきましたが、発音の基礎が大幅に日本語とちがっているみたいなので、重用語をひき出したに留まっています。
 一つだけ紹介しますと、タマキハルの tama があります。意味は the last of several things で、数、時、ランクなどの末端です。「天皇のミイツのきわまるところ」と、訳したのは件のぢぃちゃん教授ですが、やっぱ、チベット語の tama のほうに軍杯があがりそう。

[3372] Re[3368][3365][3356]: 古い時代に拘ってみますが、  玄松子 2007/11/29(Thu) 12:06 [Reply]
白山神社の祭神は、普通は菊理姫命ですが、少彦名命を主祭神とする白山社も存在します。
白山と薬師に関連があるのは確かかも。


> 個人的には山頂の薬師は新しそうなので、クシ、クスがクズ(九頭)からの変化ならなと。
> 上田の別所温泉近くの三角山、夫神岳の山頂には雨乞いの九頭龍神の祠がありますし。

北陸の白山(石川)と九頭龍川(福井)は二大信仰対象と言えるかも。
同じく北陸の富山は薬売りで有名なのも、なにか縁があるのかも。

菊理姫命は生死を司り、穢れを祓う神ですが、薬(少彦名命)と関連するのかも。
同じく生死に関わる神・木花開耶姫を祀る冨士山頂には、浅間奥社と久須志神社がありますね。

[3371] Re[3366]: 難波の日祀り  神奈備 2007/11/29(Thu) 09:59 [Reply]
とみたさん こんにちは。

> 韓国の歴史書の三国遺事に、延烏郎、細烏女伝説があるそうです。

 実に興味深い伝説だと思います。

 年代は第八阿達羅王の頃で西暦157年です。卑弥呼さんの頃ですね。

 九州北岸西岸から日本海側に日と月と絹がキイワードの神話があればいいなと思います、即ち女神が主人公の神話と見ますと、舞い降りた天女が織物上手などがあります。

 とりあえずは、ツゲ・トキの地名にその痕跡が残っているのかもと想像するしかないようですね。『和名抄』では、但馬国二方郡に刀伎が見えます。、


 韓国語をあやつれれば、韓国のサイトから少しは調べられるのかも知れません。話は変わるのですが、韓国でバスガイドさんからスサノオのお話を聞きました。ネットにあったそうです。

 「素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡った。」と云う伝承があるとのこと。
ここの五十人の兵士とは五十猛命のことでしょうか。韓国語に明るい方にお願いします。上記内容の神話が韓国のネット上にあるのでしょうか。

[3370]   くす くすし しろ山     焼尻紋次郎 2007/11/29(Thu) 06:51 [Reply]
薬師岳白・山はヤクシ、ハクサンと発音してはオエンと思いますじゃ。
kus-us-i は各地に国見山、三国山があると同列で、kus(くに)を「ウシハく」。sir-o も、「そのsir(土地)の o(神)」で“城”と同列。
 ここには地方ごとの神官の教条があったと、そして使用言語での微差があったと看たいです。
でも、ここをたどると、蝦夷や俘囚の素成がバレますね。バンザァ〜イ!!

 くずさん、オレの血のふるさと・玖珠は巨大な楠木伝説があって、父親は「切り株山」にうまれました。国民学校の教科書にも採用され、この巨木をくりぬいてつくったのが「ひと漕ぎ千里をはしる千早丸」でした。都に貢ぎ物を運んだといいますので、そんなに古い時代ではなさそうです。

[3369]  カイラ−ス山 と ピラミッド    焼尻紋次郎 2007/11/29(Thu) 06:21 [Reply]
 くずさん、貴重な情報を有り難うございます。
 かたばみさんが張られた情報ですので大安心です。
 わからぬ技術用語が四つ五つでてましたが、よろしくご教導のほど。

 かたばみさんがわれわれに示された最高情報だと小生が感じているは、カイラ−ス山の写真、就中、その裏山で拝める巨大な「タテ」に裂けた亀裂ですが、この写真は神奈備の写真掲示板に奉納されているのでしょうか? 未だだったらぜひ、かたばみさんに、もういちどお骨折りいただきたい紋です。

 オレ、5才ぐらいのとき、国防婦人会の催しで、母につれられて近くの神社に詣ったことがあるのですが、そのとき在郷軍人の西野先生が「神社はうしろから詣るのも、また別の御利益があります」としゃべったのを記憶してま。
 この「うしろからも拝む」には、カイラ−ス山偏執がこめられているのではないか……。

 朝鮮語と日本語に詳しい人びとは、日本語の解釈をなんでもかんでも朝鮮語でやろうとします。それと同じように、とんがった三角山をすぐにピラミッドへ結びつけた連想をするのではないでしょうか。
 「なぜ、ピラミッドがそうなんだ?」と問いなおすとき、小生はピラミッドの原形がカイラ−ス山にあると想像するのですが、これまちがってますかネェ。

 カイラ−ス山解説には“水源”がついてまわってま。水源は神です。
 カイラ−ス山を想うとき、なぜか小生は朝鮮語のカイ(雷神)を連想します。

[3368] Re[3365][3356]: 古い時代に拘ってみますが、  くず 2007/11/28(Wed) 23:04 [Reply]
> 3.日本の中でピラミッドの形の山−ピラミッドかも知れない−の頂上には薬師如来が祀られており、また麓には白山神社が鎮座しているとの共通点があるそうです。
>

白山神社と薬師(東光寺)の組み合わせは、各地に残る別所地名が俘囚の移配地であったとする説に見えるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/åˆ\æ‰

その点で"三角山"信仰と蝦夷について、ですが、
日本書紀 敏達天皇10年に、辺境を荒らした蝦夷の首領、綾粕が泊瀬川から三諸岳(三輪山)へ向け、朝廷への服属の誓いをたてたとの記載。
それと、仙台にある"三角山"太白山との関係で郡山遺跡で見つかった石組みの池が、同時代に明日香に見られる遺構と類似する点。
http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/display/1631/

これらから、三輪山(三角山)崇拝と禊の組み合わせが当時の朝廷を象徴する儀礼で、単にその習俗に従わせたと見るより、
"三角山"を神聖視する信仰が蝦夷にも存在し、彼らの神の前で朝廷への服属を誓わせる事を重んじたのではないか。

製鉄との関係からは陸奥白山岳の舞草鍛冶が浮かびます。
時代は溯りますが景行天皇の治世、伊勢から三輪山周辺へ移された蝦夷の集団が神山の木を切ってしまい、大騒ぎをしたとあって、これは蝦夷が三輪山の周りでせっせと製鉄を行おうとしたのを朝廷が「ちょっとまて!」という事になったとか^^

個人的には山頂の薬師は新しそうなので、クシ、クスがクズ(九頭)からの変化ならなと。
上田の別所温泉近くの三角山、夫神岳の山頂には雨乞いの九頭龍神の祠がありますし。


>[3356] 日本に於ける造船技術の興廃 
紋次郎さん、単に日本における造船技術の推移についてなんですが、
ここの過去ログで、http://kamnavi.jp/log/ktba0503.htmのあたりに船の事がまとめて語られていました。

吾妻鏡に、源実朝が宋人に外洋船を作らせたのだけれど、浮かばずに砂浜で朽ちたとあります。遠浅の海が災いしたでしょうかね^^
 和船の技術は丸木舟の時代から構造船に至っても一貫して、外板が応力を負担するモノコック構造で発達したようです。
太平洋側でクスの巨木を刳り貫いて前後につなぎ合わせ側板を付けた準構造船が作られ、巨木の良材が得られなくなると、クスの育ったない地域の技術(日本海側のオモ木造り、津軽周辺のムダマハギ)から棚板造りへと。
漁場となる磯、艇泊地となる潟、河川を利用した舟運等の利用条件を考えると、
平で厚底で堅牢な船底が発達したのも頷けそう。
荒波を受ける外洋航海には向かない形なんでしょうけど。


[3367] Re[3365]: 青草話  神奈備 2007/11/28(Wed) 13:39 [Reply]
> 3.日本の中でピラミッドの形の山−ピラミッドかも知れない−の頂上には薬師如来が祀られており、また麓には白山神社が鎮座しているとの共通点があるそうです。


 薬師如来の中には片目のものがあるそうです。
 天目一箇神と同じく、薬師如来も金属精錬の工程で目を痛めた技術者が治るように祈願をする神仏であり、患者に自身の目を与えて治すと云う伝承があったようです。

 和歌山では和歌山県有田郡吉備町の白山がピラミッド状の神奈備山で、名の通り頂上に白山神社が鎮座しています。
http://kamnavi.jp/ny/tadono.htm

 下宮とされた高野明神社の鎮座する井口村にかっては医王山光明寺と称した薬師堂が鎮座しています。一応、ワンセット揃ったということ。


[3366] 難波の日祀り  とみた 2007/11/28(Wed) 13:35 [Reply]
縁madokaさんが気にされていた話。 

難波には、朝鮮ゆかりの話があります。岡本健一さんが”古代の光”という本で面白いことを書かれています。アメノヒボコの妻アカルヒメが夫の新羅王子のヒボコが追いかけてきたので、難波に逃げて赤留比売神社に隠れた。ヒボコは但馬の出石に落ち着き神功皇后と田道守の祖先になった。このあたりはお馴染みかと思います。

韓国の歴史書の三国遺事に、延烏郎、細烏女伝説があるそうです。二人は新羅の漁師夫妻。海辺で海草を採っていたら大きな岩が現れ二人を日本に連れ去った。日本人は、その尋常でない姿を見て王に戴いた。新羅では日と月の光が薄れてしまった。王妃が細絹を新羅の人に渡し、東海岸の迎日県・都祁野でこの絹を祭ると日月は光を取り戻したとあります。

都祁野は日本にも同じ地名が難波をはじめ各地にあります。都祁はツゲ・トキと読み闘鶏や兎我とも書きます。

都祁野は伝説のように日の出を祀る聖地だから、日本のツゲやトキ・トガも日の出祭祀と関係するとーーー大和岩雄さんや韓国文学の金思ヨブさんが説かれてきた。
難波の地名そのものが太陽信仰に由来するという。
ナニハの語源は。浪速とか魚庭の二説が有力だとされていますが、大和さん金さんはナは朝鮮語の太陽・日(ナル)に由来しナニハは、太陽・日の聖なる庭の意味とされています。難波の東端の生駒山を日の出るところと考えその西麓を日の下に見立てた。この古地名が草香であったので日の下のクサカと呼んだ。

これからは私見です。

新羅の東海岸の迎日県・都祁野は迎日湾があるところでしょう。出雲の日御崎とは日本海を渡って往来があったかも。

河内湖の湖畔の日下ー草香、そのあたりから発した古代大和川に沿った南に玉手山丘陵があり、そこにも立柱祭祀の太陽信仰があります(火を炊いて煙を太陽に向ける祀り)。渡来人の多い高井田遺跡もありますね。

日下部(草壁)忌寸はもと草香部吉士であって、難波津造営にも関与したらしい。

[3365] 青草話  神奈備 2007/11/26(Mon) 09:44 [Reply]
 昨日面白い話を聞きました。

1.ベェトナムでは稲のことをイネップと言うそうです。
 大陸ではcineだそうで、これが支那となったり、Chinaとなったり。


2.神々の話す言葉はチベット語に似ているそうです。なぜならばここは最も神の世界に近い言語だからだそうです。
 ネパールで話されていた言葉はどうなんでしょうね。バベル以前の言語に近いのでしょうか。

3.日本の中でピラミッドの形の山−ピラミッドかも知れない−の頂上には薬師如来が祀られており、また麓には白山神社が鎮座しているとの共通点があるそうです。

 皆さんはどのようにお考えでしょうか。

[3364] じぶんでない因子を排泄させるクセ   焼尻紋次郎 2007/11/25(Sun) 07:46 [Reply]
 理屈こいたついでに……。
 このことは三年半前にも書いて鋭意訴えたところですが、このことはとても重要なことですので、できることでしたら、二ヶ月に一度とか、三ヶ月に一度ぐらいの頻度でしばしば掲出する必要を感じます。すでに 10月 4日いらい、楽しかるべきKamrad を一人失ってしまったようで……。

 多田富雄さんは免疫細胞を“自我”の基底に据えましたが、ここはちょっと早とちりをしたようです。
 われわれが日常生活で「おれ・おまえ」というときの自我は D.N.A.様の展開であって、この場合の自我には実体概念はなく、いわば錯覚の領域です。
 ところが免疫機能での、白血球に含まれているキラー細胞が規制する「高等動物の個体固有」はあきらかに一種の自我を形成しています。

 とはいえ「じぶんでないもの」をじぶんの生活圏外に追い出すべく「認知・敵対意識の形成・攻撃・排泄」は、われわれの日常生活での自我領域にくいこんできていることもまた、タシカなスジです。このへんの微妙な関係と大脳処理の具体的実体は、近い将来、えらぁ〜い学者さんが解るように解説してくれるものと楽観できます。

 小生が鋭意うったえたいのは、言語作用においての免疫機能のことです。
 ある人物がじぶんとちがった特殊言語観を持っていると判断したとき、これをシャカリキになって忌避し、いのちがけでこれを攻撃し、自分の領域から追い出(排泄)そうとします。まさに A細胞 T細胞まるだしで、ここにはあきらかに、大脳内部で「免疫細胞みたいなもの」が音速でチェックしている事実を直感できます。
 この「ただのクセ」のために、これまでどんなに多くの言語研究がボツになってきたことか! 日本語研究だけに的をしぼっても、語源研究は本居宣長いらい、一歩も前進していないと言っても過言ではないのです。

 われわれは理性を持っています。単細胞生物ではないはずです。
 その理性こそ、スジを含んでいる言語そのものが導き、おしえてくれたのです。

 三年半前には大脳内部の電流の速さは「電磁波のそれ」とやりましたが、これは「音速」だそうですので、訂正します。

[3363] 古代の認識〜評価     焼尻紋次郎 2007/11/25(Sun) 05:48 [Reply]
> それぞれそれなりにですね。

 科学的思考方法がてめぇの茣蓙を広げる前、すなわち、古代における認識論の世界〜領域ならましや。
 1755年前後t6おいうことになろうか、カントが 自然科学(その当時は science とはいわずに Wissnshaft……叡智といっていたが)の講議で、黒人はへそにリングを巻いて生まれ出る、などのことを大まじめにしゃべっていた。
 そういう心霊・迷信から脱却せんことには、どうもならんという意識が底支えして『純粋理性批判』がうまれたと、小生はうけとってま。

 なにせ古代とか宗教の世界は迷信だらけ。いや、迷信のあるところ宗教ありといったほうが早いのでは? ……・ ついに因果律の成立しない「間脳妄想」(桐山靖夫)に一種の権威を認めたり、陶酔こそ真理がらみであるとの(半分)社会的諒解が成立している。
 とまれ、言語的限定が成り立たぬ領域をめぐって、それを言語で包む。この状況は今でもそうでっせ。

[3362] Re[3361]: お話だけのことではないかナァ〜  神奈備 2007/11/24(Sat) 21:58 [Reply]
>  この二つはどうも現実みがない。

神とみなされているへびは祖霊がその姿をとったものとされています。
腹がへっている虎に身を与えた坊主の話がありましたが、それぞれそれなりにですね。

[3361] お話だけのことではないかナァ〜  焼尻紋次郎 2007/11/23(Fri) 18:30 [Reply]
 手塚治虫のマンガみての知識です。

★ アシタ聖人のためにうさぎが火にとびこんで、じぶんの肉をささげます。
★ シッダルタさんの友人のアッサジ君は、飢えた狼の子供たちに自分の身をカンパしました。

 この二つはどうも現実みがない。
 しかし、諏訪では蛙(水の神)から神事がはじまり、出雲では沖縄から流れてきたような海へびを捕らえることから神事がはじまっています。

 宮古島では島が上がったり海へ下がったりしたので、動物……とくに両生類に特殊な能力をもったものがでました。
 一種のうみへびは繁殖のときには、崖を這いのぼってくるのです。
 へびが陸地にいればレッキとした大地の護り神。でも、このうみへびは陸と海の護り神だと意識されたのでは?

 では、そのへびにわが身をささげる諏訪の蛙と、それを食べるへびとは、どちらが高級ということになりましょうかねぇ。

[3360] 島田さんをヨイショする    焼尻紋次郎 2007/11/22(Thu) 14:13 [Reply]
 まず、訂正。下で t∫m が目、穴。t∫ma と書きましたが、t∫a∫m 、t∫a∫ma
がほんとうです。

 t∫a∫m 、t∫a∫ma が日本流の発音となったらカシマ(鹿島)かタシマ(田島、但馬)になるはずです。
 オレの知り合いに田島さんがいまが、チャウシェスクみたいな顔してます。

 武人の多くが田島姓を名乗ったと思えますが、シマに領域の意味が強まってくると、田島の解釈は「田のところ」となり、「こりゃ農家だ」と判断した人びとは、田島から島田(泉の地)へと名前を替えたことが想像されます。

 なんでこういう空想をいうかと言いますと、勝海舟の剣術の師承が島田虎之助だからです。
 日本の武道精神は塚原ト伝の「剣禅一如」から始まりました。
 関ヶ原で生き残った宮本武蔵がベンベベラベラと、観念論的ことばを並べて、ことばに拠る武士道を語り、日本サムライたちはト伝の体験での収穫をアタマだけで理解したのでした。

 そこを! 島田虎之助は「ホトケは身体で、剣で悟れる」主義を貫いていました。17才で島田虎之助から免許皆伝をもらった勝海舟はその精神をうけ継いで、日本を列強の侵蝕から免れさせたのでした。

 なぬ、「空想ばかりでモノいうな」だと? いや積極的極端論にだけ進歩があるのでアリマス。

[3359] ソグドとマロ(麿)と鹿島  焼尻紋次郎 2007/11/21(Wed) 17:18 [Reply]
 さっそくのコメント、ありがとさんにござんす。

  今でも地方に行けば正月に一軒で五つも六つものほこらに参る家は、珍しくはない……なんだか、そういう“社”の設置を感じます。

 九耀の紋は「fron シナ」であることは、まちがいないところかと思います。オレ家紋を商品にしたことがあるんです。大岡越前の守ね。

 ヒルコを水蛭子と考えるは、紀記編纂当時に、もう意味が解らなくなっていたからだと思います。hir-co と置きたい。 hir はいちおう「宗教上の指導者」ですが、むかしは宗教と軍事はこんがらがっていた。そういう hir-co だと思われてなりません。 hir の r が取れて ・ ヒコ(彦)。

 「葦舟に乗せて流した」……なんだかモーゼの焼き直しみたい。アイヌ語に kina(葦)があるが、エジプトでもキナをいったとか / 馬屋の皇子。

 サカとソカはちょっと音がすれちがってるみたいやけどナア。男の意味で mar を遣うは掃いてすてるぐらいに各種言語にありますが、「領主・首長」の意味を持たせるはソグド語だけでんねん。シナ人はソグド人のことを粟(発音はソグ)の字をあてて表記した。いちおう sog の開音(母音づけ)化した語形が soga 。また gar には家の意味も懸け言葉されているとも。

 ソグド語 t∫m が目、穴。t∫ma が泉。日本ではチャシムも チャシマも混同され
て用いられたと思いますよ。東南アジアからインドにかけて広く casma は眼鏡。
日本・アイヌでは「海難よけの、見張り」の神だったと思います。浦和の県庁所在地は鹿島台です。
 この思想は秦氏の本拠地「ウズマサ」にも通じているかと。竜眼です。沖縄でも。
 チャシマのシマに御注目あれ。sim(水)ね。

[3358] Re[3357]: 無題  神奈備 2007/11/21(Wed) 16:13 [Reply]
>「社禝」の思想はシナ系であり、

 陳舜臣さんの『中国の食物史』にありますね。
 社の祭りというのは「やしろ=土地の神様の祭り」です。(古代の国家の)周の規定では二五軒の家を以て一里とする。その一里に一つずつ社をつくれということだったそうです。
 社禝と言う言葉の禝とは穀物の神で、これが国家の基本だとか。


> むかし九つの太陽が照りつけ、暑くてたまらないので、弓で八つを射落とした

 複数の太陽から一つの太陽にするお話は、諾册二神が水蛭子を生んで葦舟に乗せて流したと言うお話として『記紀』に記載されているとの説があります。


> 蘇我氏がつくば周辺で力をつけて、中央に乗り込んできた

 飛鳥時代に牛乳を1/10に煮詰めた酥(蘇)と言うチーズがありました。現在でも奈良土産として売られています。実に美味しいものです。「酥は我のもの」と称した氏族が蘇我氏と言う青草もありました。蘇我の娘が多く天皇家に嫁入りしているのは健康な美人が多かったかたとか。
 
 ギリシャ文化が日本にもたどり着いているようで、これは南ロシアにいたスキタイ人がユーラシアの草原を東に駆け抜けて北日本にやって来たとの説が栗本慎一郎『シリウスの都飛鳥』の中で述べられています。知的には面白い内容です。スキタイ人とはサカ人で、これがソガ氏を構成したとのこと。

[3357] 無題  焼尻紋次郎 2007/11/21(Wed) 06:56 [Reply]
後続コメント無し。ということは「日本の造船技術の推移の大枠は下記 3356で良し」とさせてもらおうか。

 河岸を変えましょう。こんなのドンジャ。
 長州征伐のとき、江戸では毛利家上屋敷(現在の麻生桜田)に人夫を入れて、二三日で取り壊した。
 そのとき、稲荷を祭った祠があり、その横に巨岩の露出があった。この巨岩の底も底なしに根深かかったという(子母沢寛著『勝海舟』三巻)。名前は無い。

 これを見ておれは茨城鹿島神社と千葉香取神社のオス・メス対の巨岩を思いだしました。
 この「鹿島」はあとから、異民族によって名付けられたことを直感します。香取のほうは「高速舟・組合」ではないか……これも後日、異民族からの命名らしい。

 これまでは、鹿島・香取の二社だけなので言いだせなかったのでしたが、麻生桜田が出たので、これで三つ……すなわち“面”となる。
 ということは、「社禝」の思想はシナ系であり、その一つ昔は巨岩文化がこの日本列島に支配的だったのではないか……を想像するんです。その目でみると、日本列島じゅうに巨岩が散財していることに注目せざるをえません。

 つくば周辺には、「むかし九つの太陽が照りつけ、暑くてたまらないので、弓で八つを射落としたら、三本足のカラスが死んでいた」という物語りがあります。
 九つの太陽とは from シナで、三本足のカラスとはモノノベのことでしょう。

 シナ語に詳しい飯野睦毅さんは「『モノ』の語源はシナ語で五つも六つもの内意が考えられる」といっていらっしゃいます。が、他の言語では、これは割れない。

 また、「蘇我氏がつくば周辺で力をつけて、中央に乗り込んできた」という風説にも接したことがあります。
 すると、つくばでモノノベ勢力を撃退させたは sog(粟)系ソグド人ではなかったかと思うんです。

 また、戦いにまけた旧勢力は諏訪へ逃げて行ったとの伝説もあって、その古さだ忍ばれます。おそらく……ですが、鹿島・香取の巨岩を曳かされたのは、戦いに破れた旧勢力だったことでしょう。

 この鹿島・香取神社の脇に、ぽつねんと伊岐須神社があります。この igis はラテン語の「火」以外には考えられないところです。福岡県飯塚市にも伊岐須という字があります。九十九里浜から北九州固有の併わせ瓶棺が出土しています。

[3356] 日本に於ける造船技術の興廃     焼尻紋次郎 2007/11/20(Tue) 07:41 [Reply]
 くずさん、長いコメント書かせてしまっちゃった。すみません。
 質問の焦点を絞りきれなかったことに、後悔のホゾを噛んでま。

 人類は同じ D.N.A.様を戴くので、洋の東西で金属精錬単位の地方が固まり、西洋にも荘園・社禝があり、モガリもありました。
 日本の荘園・社禝の在り方はシナからの流民による文化と云いきってもよいかと愚考するところです。
 それが、多彩な氏族が日本列島に入ってきたために、まず豪族連合ダイジから、自分らの荘園ダイジ(藩ダイジ)へ移り、その次にお家ダイジとなり、「我が家ダイジ」が武士階級に徹底浸透して行ったかと思うんであります。
 これ要するに、今につづく“官害”というもので、保身技術へのみ汲々たる佇まいを創りあげていった。アイディアの力なんざはまったく考えつかず、制度を護ればわが身が守れるとの・・・です。
 もいっちょ要するに、みのむしのように閉鎖社会を創れば *matr が円滑に推移する……となる。
 原理ばかりをいうようですが、こうしてできた体質が海外へ向ける眼を閉ざしてしまったのではないでしょうか。
 
 13世紀、元に逐われた南宋の人びとが大挙して日本列島になだれこんできました。それから 300年後、日本人はナウ船に乗ってきたイエズス会の西洋人を知りました。第一次黒船ショックです。
 そこで注目されるのが秀吉時代から(?)の南蛮交易ですが、これはナウ船に触発された“むかし宋人”が介在していたのではないでしょうか(この時期に沖縄がふたたび大きな和人化をうける)。

 「山田長政」を検索してみようと GOOGLE 叩いたとたんにフリーズしちゃった!
10月 4日いらい、これで 15回めでんねん。  

[3355] Re[3354]: オオヤマツミ合同祭祀がエポックか?   くず 2007/11/19(Mon) 18:34 [Reply]
紋次郎さん、
>二三行でも日本語解説がほしかったです。

自分が"唇を噛んだ海人の血"と書いたのは具体的には大海人皇子(天武天皇)と壬申の乱で彼を支持した勢力を考えています。エポックが白村江の戦い。
遼東半島南部に出自を持つ倭人の領域とは現在の日本と、朝鮮半島南部(伽耶)にあり、ここを境界無く結んでいた時代があったのだと思っています。
白村江の戦いが行われた時代にはそんな事も遠い昔の記憶の彼方であったかもしれませんが、この戦いに敗れた事で朝鮮半島との直接的な繋がりは絶たれ、それは倭の国の原初、本来の形の終焉を意味し、そして防衛ラインとともに見えない線〈国境〉が引かれた。

以下は3世紀後半頃の北信濃からの視点です。

以前ここでも紹介させて頂いたのですが、今回(おそらく紀元前の)銅鐸・銅戈が見つかった長野、柳沢遺跡から7キロほど北に3世紀後半の根塚遺跡があり、ここから伽耶の鉄剣が出土しています。
その鉄剣は日本の他地域では出土例がないようで、九州、あるいは大和経由でない、半島との直接的な繋がりを意味するように思います。
そして能登半島の七尾から同時代の巨大倉庫群が見つかっています。大阪湾周辺に見られる古代倉庫群に先駆ける時代です。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/MangyouRemains.htm
湾内に海を望む巨大倉庫は、海上を利用した大量の物資輸送が存在した事を示していると思います。
日本書紀に継体期、欽明期に名前が見える日系の百済官僚として斯那奴(しなの)姓の人物が見られますから半島と信濃に基盤を持つ氏族の直接的な往来があったのかもしれません。

倭国の時代、古代人は積極的に海を使って交易をしていたと思います。


[3354] オオヤマツミ合同祭祀がエポックか?   焼尻紋次郎 2007/11/19(Mon) 10:11 [Reply]
 流れの腰を折ったときはごめん。
 
 くずさん、海人へのコメント、有り難うございました。
 でも二三行でも日本語解説がほしかったです。

 さすがダンナ様、快刀乱麻の太刀さばき。あが。

 ということは、オオミシマに海人族の神が合同祭祀されたをエポックにして、全員総力あげて陸の経営に専念しようとしたようなものを感じるのです。
 それ以前、神武東征のときは、ただの水先案内人が、東征に成功したら大臣クラスに抜てきされていることに、多くの学者がめんくらっていたのですが、今はどうしょう?
 海賊と云うたら言葉がわるいのかもしれないので、「海での有力者」でもいい。
 神武東征はそういったオオヤマツミに合祀するを許諾した「海での有力者」の支配領域をかいくぐってなされた……と思うんです。

 そのオオミシマとかオオヤマツミには、古代語がしみついてま。
 古代の「おお(大)」は、ウウ、ウと云っていたようです。
 また、オオミシマに隣接する柳井(市)も井戸を中心の神とした文化であったことがいえます。

 オオミシマとは、いちおう「大神」または「大・水」と。シマとはさきに述べた「わき水」です。地域でのオオミシマは、わき水とか井戸の所在地のようです。

 オオヤマツミは oo-yamat-u-mi と置いてみると「大・集会・大・神」。
 ここに yamat(人びとの集り、集会)が出ていることにご注目あれかし。
 しかし、この「オオ」が大だけだったのか……、オレはまた別の意味がこめられているような気がしてなりません。たとえば「お互いに」とかの……。

 オオヤマツミなる発音は琵琶湖周辺にあったみたいな記憶がおぼろにあるのですが、ほんとだったか。そうすると、u-mi には「うみ(海)」が懸け言葉されてま。

 とまれ、オオヤマツミがオオミシマに合同祭祀されたあと、聖徳太子がうれしくなったのか、二度も松山温泉を訪ねたり、なんとかいう天皇は山口県の海岸よりのところにイマ(座、滞在)して「新羅・豊のくに」のうごきに注意を払ったということです。
 やっぱ、この「海での有力者」の合同祭祀がエポックになっていると思えます。

 それにしても、その前の段階で、シナから乗ってきた船は、やはり 70%以上で難破して、「もう大洋航海なんざはこりごりだ」との意識ができたのではないでしょうか。そして、大丈夫だった船は、船ムシからやられるまでの十数年間、日本列島のあちこちを探索したのでは? 隠岐の島は九州型のイントネーションなんです。

 ウイルタ(オロッコ)にも、「われわれが舟を作ったらロクなことにはならぬ」という信仰(伝説・スタンス)があります。先祖がいのちからがら、どこへか漂着したのでしょう。

[3353] Re[3352][3349]: 古代の肉食について  神奈備 2007/11/18(Sun) 17:33 [Reply]
 玄松子さん、くずさん、肉食についてのヒント、ありがとうございます。

> 鹿や猪の生血を用いる呪的栽培法があったのかも。
> 春に生え始めて秋に立派に成長する雄ジカの角を稲の成長と重ねて

 稲の豊作の予祝行事として、鹿の血に稲を蒔くことは、今日でも行われている種籾の選別作業、すなわち稲種を蒔く前に、それを塩水につけて浮いてくるものは捨てて、比重の重い物を選ぶそうです。
 しっかりした種から良い苗が発芽してくると言うノウハウが予祝行事として伝えられたのかも。


> 日本人は海人といえるのでしょうか?

 古代日本の主要な氏族、例えば物部氏、藤原氏、和仁氏、鴨氏、多氏、紀氏圧倒的に海人系が多いような気がします。

[3352] Re[3349]: 古代の肉食について  玄松子 2007/11/18(Sun) 13:14 [Reply]
>  『播磨国風土記』讃容郡のお話。
>  大神姉妹二柱、各、競ひて国占めましし時、妹玉津日女命、生ける鹿を捕り臥せて、其の腹を割きて、其の血に稲種きき。仍りて、一夜の間に、苗生ひき。即ち取りて殖ゑしめたまひき。
>
>  このお話は一体何を現しているのでしょうか。鹿や猪は田畑を荒らす害獣として、今日でも各地で網を張ったり囲いを作ったり苦労しています。その害獣を退治したから苗が生えやすいとのことを語っているのかな。

賀毛郡雲潤里では「宍の血以て佃(たつく)る」とあります。
また、その後「故れ、河の水を欲りせず」とあり、水の替りに血を用いるのでしょう。

鹿や猪の生血を用いる呪的栽培法があったのかも。
(小学館『風土記』の注より)

[3351] Re[3348]: 無題  くず 2007/11/18(Sun) 12:00 [Reply]
>総合得点式に考えてみて、日本人は海人といえるのでしょうか?

国家「日本」(の原形)の誕生とは倭国の終焉を同時に意味します。
日本を構想した人物、あるいは集団が何を選択していったのかで、その後の形は定まっていく。
海人っぽくない選択をしたんでしょうかね^^

>[3349] 古代の肉食について  神奈備さん、
古代の肉食とは関係ないんでしょうが、長野の銅戈に関連したところで、長野県大町市海の口の上諏訪社に伝わる銅戈に鹿の陽刻がありました。
他の例でも銅戈に描かれるモチーフは決まって鹿なので、銅戈を使った祭祀に鹿が特別に関係していたかもしれません。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/005/re_005_040522.htm

それからこれですね。戈と盾を持つ鳥装の戦士と両袖を広げる巫女。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/005/re_005_040529.htm


讃容郡の玉津日女命は賛用都比賣。でこんな話。
http://www.h4.dion.ne.jp/~sa-ya/html/mukashi/kaisetsu/matsuura.html
領巾を振る姫です。

[3350] 象を食えば象になる(サンテグジュぺリ)   焼尻紋次郎 2007/11/18(Sun) 06:05 [Reply]
★ 「そこへ直れ」とは「そこへ正座しろ」が原意、その前には「なおらい」があらいしょ。また「くそまりたまひき」の表現も残っている。神様も食べた。神様はなにを食べたんやろ。
★ イワシぐらいの小さな肉は格好の肥料になるが、大型動物の屍体には虫がわく。
★ 魚だけでは欠陥食品である。漁民はサメ、鯛、まぐろなどの内蔵……とくに肝臓などを狙って、あらそってたべた。

★ 栄養失調状態は何ヶ月続けることができるんやろか。アイヌは春になったら、くちのまわりを真っ赤にしてフレップ(赤いもの……潅木の実)をたべた。
 かっけ状態は何ヶ月続いたら死ぬのかな? ここがバロメーター。
 伊豆大島では「年にいちどはアシタバを食べるもんだ」との信仰があった。

★ シシカバブということばは、いつごろから日本に定着したんやろか。シシは肉、カバブは古代族際語の焼肉のこと。
 すき焼きのスキは「健康」だとオレ惟ふ。刃だけが嵌めこまれているだけの(ほとんど木の)鋤では肉は焼けまへん。

★ 「手足」というが、探ってゆくとどこのことばでも、手と足・首は解剖学的センスで名づけられていて、手も足も同じになる。ムカデの「ムカ」はまだ掴めきれてはいませんが、どうみてもムカデの「テ」は足でっせ。

 台湾ではひと食い風習が、ついさいきんまで残っていたという。
 高僧がわが身をささげてその奇習をくいとめたというが、かなり本当らしい

[3349] 古代の肉食について  神奈備 2007/11/17(Sat) 20:10 [Reply]
 『播磨国風土記』讃容郡のお話。
 大神姉妹二柱、各、競ひて国占めましし時、妹玉津日女命、生ける鹿を捕り臥せて、其の腹を割きて、其の血に稲種きき。仍りて、一夜の間に、苗生ひき。即ち取りて殖ゑしめたまひき。

 このお話は一体何を現しているのでしょうか。鹿や猪は田畑を荒らす害獣として、今日でも各地で網を張ったり囲いを作ったり苦労しています。その害獣を退治したから苗が生えやすいとのことを語っているのかな。

 『古語拾遺』に御歳神の怒りのお話があります。

 大地主神 田を営る日に 牛の宍を以て田人に食はしめき。時に御歳神の子、其の田に至りて、饗に唾きて還り、状を以て父に告しき。御歳神怒りを発して、蝗を以てその田に放ちき。で、苗は枯れてしまったとのこと。

 これは牛は害獣ではなく耕すのに必要な家畜で、これを殺して食ったことに稔りの神である御歳神が怒ったと理解されています。

 肉食については、魏志倭人伝に、「持衰は肉を食べない。近親者が死ぬと肉を食べない。」とあり、肉についての穢れの気持ちの萌芽が見られます。何も仏教の影響があったと言うことではないと思われます。後の時代でも神餞には獣の肉などが捧げられていたようですから。

 古代の肉食についてヒント、おくれやす。

[3348] 無題  焼尻紋次郎 2007/11/17(Sat) 18:31 [Reply]
 くずさん、「くちびるを噛んだ海人」とありました。
 われわれは子供のころは √♪ 海の民なら 男なら ♪ と、国民学校で歌いました。
 しかし、総合得点式に考えてみて、日本人は海人といえるのでしょうか?

 なぜか、幕末では軍艦よりも“陸から列強の船”を撃つ砲台にこだわりました。

[3347] Re[3346]: 先祖のかず    くず 2007/11/17(Sat) 11:06 [Reply]
>  数字オンチのオレが、先祖のことを数字で考えてみたんです。
>
"先祖の数"でググってみましたら(ググる=Google検索らしいです)2030件ヒットしました。
この中で自分の見方ともあわせ一番適当にまとめられているものを"一行"コピぺすればここでの会話はおそらく尻切れになるでしょう。

紋次郎さんが言われる"掲示板の現状"にとって、
インターネット普及初期よりも史料や掲示板会話が蓄積され、情報の共有化が進んでいる事がにとって個人的には一番大きいと思います。
読んでる方はそれでも結構いるのではないかと思うんです。

が、自分にとっては今のペースが結構ありがたい。
じっくり読ませて頂いて、関連を調べて自分なりに整理し、新たな意見、視点を窺いたいために投稿をしているつもりです。

数年前のことになります。地元が中央から突きつけられた平成の大合併に直面し、その問題に正面から向き合っていた時、村のある古老から頂いた本、森浩一著「地域学の進め」 がここへ来させて頂いている最初のきっかけでした。
それから投稿をさせて頂くようになったきっかけは昨年夏のワールドカップでの日本の惨敗・・・。
663年の白村江海戦の惨敗に唇を噛んだ海人の血が、今の日本を生み出した意思の源泉にあったのではないかとの思いがあります。
その時の自分にならその意思に思いを重ねる事が出来はしないかと、そんな感じでポツポツとやらせて頂き今にいたります。

これからオシムじーさんの回復を祈りに行ってまいりますので、また。

[3345] 庶民 I.T.掲示板は文化のプロモーター    焼尻紋次郎 2007/11/15(Thu) 08:00 [Reply]
玄どん、そのとおり!!
 オレが三年半の空白で掴んだ土産(ここへの)の最大は、『○×の法則』でした。
 それは「両極端・同時両にらみ」の視線が要求されるところとなります。
 多くの局面を持つ現象の処理は「多極総にらみ」の視線が必要となります。

 「ここまで言える領域」にこだわる教科書むきの学者は、ついつい極端を嫌うようになって、中庸を自らのスタンスにとりこみがちになります。が、「中庸」はいけません。これには発展性はゼロなんですから。

 三年半ぶりに舞いもどってみると、あっちの掲示板も、こっちの掲示板も消えていたり、閑古鳥が鳴いてました。ここでなんとかして、I.T.掲示板の底力を世に再認識させたいもんですね。

[3344] 無題  玄松子 2007/11/14(Wed) 18:24 [Reply]
質問への回答ありがとうございました。

結局、両者は同じことをおっしゃっているような印象を持ちました。
表現方法やアプローチが異なる、ということでしょう。

続きは、http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/utubobbs.cgi でやりたいようです。

[3343] 参考HP  2  an 2007/11/14(Wed) 15:23 [Reply]
日本人とユダヤ人、レプチャ族、ロシア人のABO式血液型の割合も略同じです。 ... ユダヤ人が遥々中東から日本まで移動したとして
http://www10.ocn.ne.jp/~kanam/distribution_of_a_blood_type.html

最近、発掘された縄文人の人骨からミトコンドリアDNAを抽出し、それを世界各地の人々と比較する研究が行われた。 その結果、20数体の縄文人のミトコンドリアDNAの内、17体がシベリアのバイカル湖周辺に住むブリヤート人のDNA構造と同じことが判った
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

[3342] C ・ V の転写がげきません  焼尻紋次郎 2007/11/14(Wed) 15:05 [Reply]
 カトレアさん、たびたびすみません。

 「日本語は△△語が起源」という言い方には、オレもむかしから反発をおぼえてきました。
 
 せっかく U.R.L.を取ってくれたのですが、ここの書き込み板のせいか、わがマッキントッシュのせいか、その転写ができません。
 申し訳ないですが、いまいちど『紋次郎・言語考古学』へ打ち込んでいただけませんか。ここなら転写が可能です。

 ヒンディー語とネパール語はほとんど同一です。
 ただ、「△△する」という言い方は、ヒンディー語は動詞に -na をつけますが、ネパール語は -nu となる。極言すれば、ここだけのちがいです。
 サンスクリット語は 10内外の ア−リア系言語の寄せ集めですし、それには人工的な変形もあろうことかと思って、オレはまだサンスクリット語は当っていません。
 これから先は『紋次郎・言語考古学』のほうに移りたいです。

[3341] 参考HP  an 2007/11/14(Wed) 14:39 [Reply]

1937(昭和12)年元大阪高校教授アメリカ人パーカーはチベット・ビルマ語と日本語は同系だと唱えたが、レプチャ語に気が付かなかった。 ... 従って私たちが毎日つかっているサンスクリット系の日本語は、祖形の発音とすこしも変わっていない。
私たちの祖先3
http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.43.html

[3340] Re[3339][3333]: 質問1  カトレア 2007/11/14(Wed) 14:19 [Reply]
申し訳ない、リンクを張るのを忘れました。
"A COMPARATIVE AND ETYMOLOGICAL DICTIONARY OF THE NEPALI LANGUAGE / Ralph Lilley Turner"
http://dsal.uchicago.edu/dictionaries/turner/

[3339] Re[3333]: 質問1  カトレア 2007/11/14(Wed) 14:08 [Reply]
>3世紀頃には、現ネパール語は存在していないけど、元ネパール語(サンスクリットの一方言、あるいはカトマンズ周辺のさまざまな言語)は存在していたということで良いでしょうか。

その通りですな。カトマンズは古くから交易の中心地だったので、いろいろな民族の言語が互いに影響されあったことは事実でしょうし、それらが現在のネパール語に色濃く反映していることも、疑いのないところです。しかし、影響はあくまでも影響、ベースはインド語(印欧語系)であることが決定的に重要でありますね。カトマンズが今も昔も交易の拠点ということは、現在に至るまでさまざまな新しいインド語(ヒンディ語、ウルドゥ語等)やその他言語の新語彙が流入し続けていると考えられ、どう見ても「現ネパール語に古代日本語と似た単語があるから、これはネパール発に違いない」などとはとても言えないでしょう。

以下は焼尻殿に対する回答
例えば、jamatが「邪馬台国」に関係するというが、jamat(集まり、集会)というネパール語はヒンディ語からの借用語で、そのもとはヒンディ語がアラビア語から借用したことまでもわかっている。ヒンディ語の成立は早くても12世紀なので、jamatがネパール語に加わったのは12世紀以降ということ、これが一つ。またアラビア語からヒンディ語に入ったのも同じく12世紀以降ということからも、3世紀にネパール発のjamatが邪馬台国と関係する可能性など全くないといえる。また、別の場合に焼尻殿が取り上げるネパール語の単語は、あるものはサンスクリット語起源、あるいはネパールの少数民族の言語の借用語などとてんでにバラバラ、これで何がいえるというのだろうか。日本人と日本語の起源の探索が問題ではなかったか。
ネパール語彙の語源は多くの学者の研究によってかなり解明されていて、異論はほとんどない程度に整合性が確認されている(ものだけが発表、公開されているはず)。まずこれを学び、例えばネパールの某少数民族の言葉と関係が深い、あるいはサンスクリット語との共通点が多いということなら理解できる。しかし、それも知らずに、小さなネパール語ー日本語辞書1冊でネパール語と日本語の類似、あるいは起源を語ろうとするのはムチャクチャといわざるをえない。もちろん焼尻殿が自分ひとりでやる分には自由だが『「ここを考えるにあたっては、西洋の言語学者たちがデッチあげた言語系統樹という虚構を根底からうたぐりデングリ返す必要があろうことかとおもいます。」神奈備掲示板[8523] 日本列島に「僮客」がやって来た』のような発言を、インターネットの掲示板で繰り返すのはいい加減にしたほうが良いですよ。

参考のために、語源も表示されているネパール語オンライン辞書のURLをリンクしておくので、活用してもらいたいものであります。
※例:jamat ,[lw. H. jam'at fr. Ar.]← lwはloan word(借用語) Hはヒンディ語、frはfrom、Arはアラビア語を表す。

[3338] どなたか、教えてください  とみた 2007/11/14(Wed) 13:20 [Reply]
どなたか教えてください。

焼尻さんは、ことばの通でいらっしゃるから期待しますが、他の方でもありがたいです。

中央アジアへ行って、ソグド語で、シルクロードはピラチュギ、ありがとうはナハズブホと知りました。

ソグド語とソグド人はタジキスタンに残っているらしい。

ソグド人がタジキスタンのペンジケントで、侵入したアラビヤ人に711年に滅ぼされますから、頷けます。

質問は、ドンブラという楽器がカザフスタンにあることです。キルギス語ではコムーズというそうです。
多分、中国のニ胡と同じような弦楽器です。

シングーラツマ、はタンブリンみたいです。ブべヌは〆太鼓です。

この楽器について、ことばの意味がわかりません。
ウマイエネという太陽神の石があります。ウマイはトルコ語で太陽、エネは母という意味らしい。

このあたりに詳しい人を探しています。

[3337] Re[3336]: √ ・♪ 星はなんでもしっている ☆・♪  とみた 2007/11/14(Wed) 13:00 [Reply]
焼尻紋次郎さん

新装開店の言語喫茶店の入り口がわかんないですよ。
言葉で古代を追うのは、どうも解釈が我流というか恣意的でわかりませんよ。
焼尻さんは苦悶しながら、権威を鵜呑みにされない姿勢は敬意を持っておりまする。

今はね、ミトコンドリヤDNAという秘密兵器もかなり進歩しているようで日本人の起源が解明されつつありますので、言葉とDNAなどいろいろなアプローチで出来るのではなかろうかと期待しています。全容解明なんて当分ありませんから、お互い老後の楽しみとしましょう。

 言葉だけで解明は難しい。相補的な分析の道具と心得ています。

言葉論議も時々、流石だなと感心したり、これは無理なこじ付けだなと思ったりして読ませていただいていますよ。

応援団の一人です。この掲示板はレベルが高いのでお互い敬意を持って学びあいたいと思っています。

>  とみたさん、援助交際 有り難うございます。
>  よごれはこっちのほうが気が抜けるんです。ニグラッ
>
>  石上雄君という文字づらみて、アリャ? と思いました。この名前には「皇室」が入ってるじゃん。
>  石上麻呂にも「首長・君主」というソグド語がもちいられています。
>  竹取物語、……神・域。
>  かぐや姫 ……光りの神。
>  子安貝  ……「子・xo 」「√ iーyas = 安らかにする、病気を治す」

高句麗などの積石古墳などには四神とか星座が描かれています。高松塚もキトラ古墳も同じく描かれています。

キトラということばにも、いろいろな解釈がされていますね。 タジク語とは初めてですよ。子安貝は、中国の殷(商)の時代の貴重品です。お金の代わりになりました。買うも売(元は貝がついていました)も商の国では商売に貝を使った名残りです。

ご存知だと思います。江上波夫先生は子安貝に執着されていました。

竹取物語のルーツは、斑竹姫で確か雲南省(四川省かも)が原典の筈です。雲南省は竹の産地です。ミャンマーに近い徳宏地区。


>  援助交際ついでに星宿図とはどんな概念なのかをお教え頂けませんやろか。
>
>  キトラ古墳ってのがありますよネ。このスペリングから判断して、これは「タジク語の sitora(星)っきゃ無い!」が、断固としていえます。
>  ただ、現在タジク語が用いているロシア文字系の表出が愚脳にはわかりまへん。
>  S は C で表しているのです。 Citore ならキトラに直結するんだがナァ〜、と残念です。
>  水の oB の B は母音のあとでは W の音になる。近江の OW , 邑知地溝帯の oB と推測してま。このオウが長音を嫌う紀記編纂当路者によって「 o 」と短音化されて「落ち(水・道)合い」などができていると思うんです。
>
>  717年 ! 有り難うございます。言語比較だけでは、時代とか年代がまるで掴めないんです。ホントに有り難うございます。
>

[3336] √ ・♪ 星はなんでもしっている ☆・♪  焼尻紋次郎 2007/11/14(Wed) 06:57 [Reply]

 とみたさん、援助交際 有り難うございます。
 よごれはこっちのほうが気が抜けるんです。ニグラッ

 石上雄君という文字づらみて、アリャ? と思いました。この名前には「皇室」が入ってるじゃん。
 石上麻呂にも「首長・君主」というソグド語がもちいられています。
 竹取物語、……神・域。
 かぐや姫 ……光りの神。
 子安貝  ……「子・xo 」「√ iーyas = 安らかにする、病気を治す」 

 援助交際ついでに星宿図とはどんな概念なのかをお教え頂けませんやろか。

 キトラ古墳ってのがありますよネ。このスペリングから判断して、これは「タジク語の sitora(星)っきゃ無い!」が、断固としていえます。
 ただ、現在タジク語が用いているロシア文字系の表出が愚脳にはわかりまへん。
 S は C で表しているのです。 Citore ならキトラに直結するんだがナァ〜、と残念です。
 水の oB の B は母音のあとでは W の音になる。近江の OW , 邑知地溝帯の oB と推測してま。このオウが長音を嫌う紀記編纂当路者によって「 o 」と短音化されて「落ち(水・道)合い」などができていると思うんです。

 717年 ! 有り難うございます。言語比較だけでは、時代とか年代がまるで掴めないんです。ホントに有り難うございます。

[3335] 「△△語」という技術  焼尻紋次郎 2007/11/13(Tue) 14:36 [Reply]
 玄どの、おしさしぶり。お元気でしたか? 
 おいしいコーヒーを用意してますので『紋次郎・言語考古学』へもおいでください。
 
 オレ、言語では「学者」ではありませんので、正確なこたえはでけまへんが、標題のように「△△語という技術」では間に合いませんか? 学者はいちおう賢いので、△△語といえば「あああれか」と、サッとお互いが解りま。
 「puroto△△語」などというのではないでしょうか。ボストン・イングリッシュなどという言い方を聞いたこともありますが……。

 また、オレは「言語(文化)モザイク観」をしてますので、ネパール語といっても、現在のネパール語をそのままミナシャンに押し付けるのではありません。
 「どっか、あのへんの、ネパール語周辺の、近隣類似言語族のことば」……。要領がいいんでアリマス。でもそういう言語のヌシには足が生えてるので、地球の隅々まで出かけてくるでいかんワァ(名古屋弁)。

[3334] 質問2  玄松子 2007/11/13(Tue) 11:33 [Reply]
焼尻紋次郎さん> 「国を持たないカラスのことば」……、これはご理解いただけたでしょうか?

たとえば、日本語の語彙とアメリカ語の語彙が似ていたと仮定して「日本語はアメリカ語を起源とする」と言えるでしょうか。
日本語の方がアメリカ語よりも古いことはみんな知っていますから、それは否定されます。

で、3世紀頃、アメリカという国はなかったが、アメリカにも人は住んでおり、言語を使用した。この言語はアメリカ語と言えないでしょうか。

が、現アメリカ語は英語の一方言であり、当時の人々が話していた語とは明らかに違いますから、彼らの言葉はアメリカ語ではありません。

で、英語がアメリカ語となる過程(方言化)において、原住民の言語(仮にインディアン語)が影響した可能性はあるでしょう。

であれば、「日本語はアメリカ語を起源とする」ではなくて「日本語はインディアン語を起源とする」と説くべきであり、インディアン語の語彙との共通性を主張すべきですよね。難しい作業でしょうが。

これはネパール語にも言えませんか。

[3333] 質問1  玄松子 2007/11/13(Tue) 11:22 [Reply]
カトレアさん> サンスクリット語を公用語とするリッチャヴィ朝、この方言とカトマンズ周辺のさまざまな言語が混ざり合い、後に長い時間をかけて現在の「ネパール語」が出来上ったわけです。ですから、2世紀や3世紀にネパール語が存在することなどありえない、このことは理解してもらいたいですね。

3世紀頃には、現ネパール語は存在していないけど、元ネパール語(サンスクリットの一方言、あるいはカトマンズ周辺のさまざまな言語)は存在していたということで良いでしょうか。

[3332]  アリャ、いけねえ       焼尻紋次郎 2007/11/12(Mon) 19:33 [Reply]
 ご心痛をアマカネ。 
 (アマカネはニューギニア高地石器時代人の挨拶、イミシンにして至便です)

 ここんとこ、オレ、テレビみても、なにゅう(豊後弁 ; なにを)考えても、ゴヘッ、ゴヘッてな調子でほほえむんでアリマス。なにを見てもきいても笑うんです。
 ついついココロもウヨッ・ウヒョッ・っとなってるんかも。

 これ悟ったとは言えないんやろかナァ〜。

 『紋次郎・言語考古学』のほうに書いてま。

[3331] Re[3330]: 『極端の法則』も      カトレア 2007/11/12(Mon) 11:54 [Reply]
>  もう『○×の法則』はご理解いただけたかと思いますが、いかがでしょう。「紋次郎のやつ、ロクな奴じゃねぇぞ」で出発すると、次第しだいに「ロクな奴じゃない」が内面に嵩じてきて「あ、紋次郎はヒョコッとしたらいい奴かもしれんぞ」との思いは次第しだいに消えてゆく……。そこへ二度の攻撃態度の表明。すぐに立場が構築される。もう、こうなったら不退転。論理とか理性を撥ねちらした意気地だけがアタマを支配しちゃう。免疫機能の A細胞 T細胞とも重なります。

「二度の攻撃態度の表明」とは、どうもこのカトレアに対して言われているようで
見過ごすわけにはいかないですな。「諌め」を「攻撃」と曲解されてはたまらない。
それなら、ネパール語のjamatやjamat-aiが「邪馬台国」と関係する可能性を説明して
ください。納得できるような回答であれば、今までの発言は陳謝して撤回しますから。

[3330] 『極端の法則』も      焼尻紋次郎 2007/11/12(Mon) 06:48 [Reply]
 もう『○×の法則』はご理解いただけたかと思いますが、いかがでしょう。「紋次郎のやつ、ロクな奴じゃねぇぞ」で出発すると、次第しだいに「ロクな奴じゃない」が内面に嵩じてきて「あ、紋次郎はヒョコッとしたらいい奴かもしれんぞ」との思いは次第しだいに消えてゆく……。そこへ二度の攻撃態度の表明。すぐに立場が構築される。もう、こうなったら不退転。論理とか理性を撥ねちらした意気地だけがアタマを支配しちゃう。免疫機能の A細胞 T細胞とも重なります。

 われわれは一つひとつの現象について判断評価をしていますが、その「気分」を支配している法則を掴むことこそ、超ダイジなんであります。

 「国を持たないカラスのことば」……、これはご理解いただけたでしょうか? 
 これをオレは『極端の法則』と呼ぶことにしました。
 こんな法則がワンサとあって、われわれの思考を呪縛してま。

 できあがってしまった自らの志向、佇まいには無検討・無反省なのが、普通のニンゲンです。気にしない、気にしない!! でも、新大衆メディアの I.T.掲示板の衰退に鑑み、ここをつまみ上げるは復興の原点ではないかと愚考します。

 『○×の法則』には「ポジティヴ思考だけに発展性が恵まれる」という副次の法則があるもとも申し述べました。“中庸”にも発展は恵まれません。
 ハワイ・テカ健康法、忘れずに実行しましょうね。

[3329] 村山七郎さんから受けた呪縛    焼尻紋次郎 2007/11/11(Sun) 10:12 [Reply]
 同じエビスという発音で、別の意味があったかもしれませんが、ダンナ様、土左衛門をめぐってのエビス解釈はあれでいいと思いますヨ。
 しかし、これ実におおきな飛躍だったんです。
 というのも、オレ、じつに長いこと村山七郎さんの呪縛にひっかかっていたことを自覚しました。村山七郎さんというは、九州大学教授で、比較言語学では世界的な名声を博した方でした。オーストロネシア語とアイヌ語の近似を訴えた学績は高く評価されねばならないところです。

 その記述の一つに、アイヌに伝わっている enciw(人)という語から出発して、蝦夷、エミシ、エベスを同時一挙に、その音転と意味を解説したのがありました。
 オレ、それをみたときは、まだ言語のことはほとんど知らなかったし、発言者は世界的な権威をもっている。「ああ、そういうもんか」と鵜のみにしちゃッたんです。

 だが……、これはかたばみさん主催の掲示板に登場していらっしゃった Stan さんから教わった新しい視角だったのですが、『文化モザイク論』があったのです。
 そこでハッと気がつくべきだったのですが、まだそう云われてもうすらバカのオレは、そのときも、ポヤ〜ンとしていました。
 それを気づかせてくれたのはニューギニアの言語分布状況です。

 国なんてなくっても、シートンさんも分類できたように、カラスは 17種の“言語”を持っているじゃん。
 言語は身振り語・情動を伝える咆哮語からオノマトペアの段階をパスして「発音と内意」が固定した語彙をえてきたのです。そしてしだいに語彙数が増え、脈絡を言語で表現できるようになった時点……すなわちB.C.500年前後……に“叡智”の領域を獲得できたのです。国なんぞはないままで……。

 村山七郎さんも「アイヌ語は日本語よか古い、だからアイヌ語が、そしてオーストロネシア語はもっと基本形を秘蔵しているはずだ」との思い込みがあったと思います。
 その村山七郎さんが剔出された成果に、凡古代族際語として phili(選びとる)と taphi(小布)がありました。日本語では、ひりふ(拾う)、アイヌ語ではピリカ / 日本語では足袋、アイヌ語ではtepa(腰巻き)。
 それがポルトガル語やバスク語にもあることを見つけたオレは、なんとかして村山七郎さんのアタマをネパール語に方向転換してもらおうと躍起になったのでした(ネパール語にも phili系があります)。
 ところが、その矢先、村山七郎先生は突如として他界されました。

 エビスは「 e(貴人)bi(××ふうの)si(人)」ともスンナリ分析できます。エミシ・エビスがごっちゃになっていた時代があったのではないでしょうか。
 イエズス会は、後続のポルトガル人、イスパニヤ人のために日葡辞典を編纂しています。その中でフロイスは「蝦夷」を「イエゾ」と書き遺しています。これはオレ、 i-adho(めくら神)……遮光器土偶……だと思っています。
 蝦夷とは「カイ」で、朝鮮語の雷神です。甲府のカイ然り。この蝦夷にはエビが懸け言葉(懸け文字?)されてま。
 あ、enciw ……。ciw はウチナンチュ−(沖縄びと)の ciw で、ネパール語にもあります。en はペルシャ語のエンサーン(人)でしょう。

[3328] 『紋次郎・言語考古学』・みせ開きのお報せ   焼尻紋次郎 2007/11/11(Sun) 07:32 [Reply]
カトレアさん、有り難うございます。

 あなた、おもしろい方だと感じ入った。
 4〜5日まえからダンナ様に頼んで、骨組みはできあがっていたのですが、このほど配線工事も終了。『紋次郎・言語考古学』という喫茶店板が開かされてま(盛岡弁)。
 ミナシャンにも申し上げます。ここへ入るには、この画面の左上を叩くと、神奈備 H.P が出ます。その神奈備 H.P のいちばん下の右隅に『紋次郎・言語考古学』
の入り口が出ていますので、ここから“出て”ください。

 この『紋次郎・言語考古学』は、けっして神奈備の離宮とか別宮とか姉妹板ではありません。また浅草寺にある奥山とか仲見世みたいなものでもなく、ただの出口
です。

 秘法の焙煎技術で焼きあげた、ウマイコーヒーを飲みながら、おおいにグダまいてください。
 夕方ともなれば、となりには『一杯のみやの価値観』なる板もあるでヨォ。

[3327] Re[3326][3325][3322]: ぼけバカ の一つ うろ覚え   カトレア 2007/11/11(Sun) 02:04 [Reply]
>4世紀 - リッチャヴィ王国が成立した。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、
>宗教・商業上の中心地として繁栄した。

リッチャヴィがネパールを征服したのは確かに4世紀ですが、人々が移り住むようになったのは100年くらい後のことではないかと推測しました。或いはもう少し早かったかもしれません。しかしリッチャヴィ王国の前、約1200年に渡ってネパールを支配していたのはキラット朝で、これはチベットービルマ系の民族といわれています。サンスクリット語を公用語とするリッチャヴィ朝、この方言とカトマンズ周辺のさまざまな言語が混ざり合い、後に長い時間をかけて現在の「ネパール語」が出来上ったわけです。ですから、2世紀や3世紀にネパール語が存在することなどありえない、このことは理解してもらいたいですね。

[3326] Re[3325][3322]: ぼけバカ の一つ うろ覚え   神奈備 2007/11/10(Sat) 20:17 [Reply]
>  ところで、ネパールにインド人が移住し始めたのは5世紀のことです。

ネパールウィキペディア

歴史
聖人ナイア・ムニがカトマンズの谷を乾かし、子孫に住まわせたことに始まると伝えられる。

紀元前6世紀 - ネパールはインドと交流があり、仏教はネパールから広がった。
紀元前3世紀 - インドのアショーカ王がブッダ生誕の地である南ネパールに巡礼を行った。
4世紀 - リッチャヴィ王国が成立した。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。

[3325] Re[3322]: ぼけバカ の一つ うろ覚え   カトレア 2007/11/10(Sat) 16:08 [Reply]
>  ヤマ(jamat)とは人びとの“集り、集会”という意味でネパール発。
焼尻殿。
いくらここが「青草掲示板」とはいっても、一応神奈備サイトの一部ですから
少し考えたほうがいいと思いますよ。
ご存知と思いますが、魏志にあらわれる「邪馬台国」は、西暦の2,3世紀の
日本にあった国で、239年と243年の2回、中国に使者を送ったことになってます。

 ところで、ネパールにインド人が移住し始めたのは5世紀のことです。彼らの
話すインド語が後にいわゆる「ネパール語」と呼ばれるようになった。それゆえ
インド語の方言の一つにすぎません。とにもかくにも、3世紀の邪馬台国を"jamat-ai
というネパール語で名づけることは不可能です。そのころはネパール語などという
ものは影も形もなかったのですから。

 外国語を勉強されること自体は視野が広くなって結構なことだと思います。どうか続けてください。

[3324] オイ、ド左衛門なら……    焼尻紋次郎 2007/11/10(Sat) 15:27 [Reply]
 下を訂正、あれは“靭”の字でヨカッタんでした。

 台湾ブヌン語でオイは「こんにちwa 」、オイオイは「もしもし」、タガログ語でのオイは hellow you よ。

 その前にエンマ様はインド系やろか、シナ系なんやろか?
 インドでは死体を川に流すは丁重な葬り、だがシナではその本人と一族への侮蔑を表明している。だから、シナでは水死体には怨恨がまつわっているとみて dos (咎めだて)しなければならない。
 o-ibhi-衆 には「o(水)ibhi(いやな奴)・衆」がハッキリ出てらいしょ。

 dos-ae の ae の語形はネパール語にいっぱい出てくるが、わが貧困ぼけアタマは意味を掴めきれていません。

 でも、エビスは大黒様の親友のはず。だがだが、大黒様の内意も蒸発ぎみやしィ。このニ柱をペアとして考えること自体がナンセンスなることか。
 やっぱ一筋縄では解けまへんわ。

[3323] オイオイ、エベスさん、雪江さん    焼尻紋次郎 2007/11/10(Sat) 14:05 [Reply]
 おっと早まったかな? 靭の右が皮になってるの、オレ漢字オンチなので引っ張り出せない。これはユキと読ませて「ユキ負」はユキエと読む。
 オイがエに音転してるんじゃ。

 そういえば、なぜ「エビス」と「エベス」が二つあるのかはハッキリしなかったが、語頭に o・i という重母音があったためにこうなった……とも考えられる。

 日本語には母音が二つ並ぶを嫌うクセもある。
 すると、これは oki とか ori が原音であって、 r や k が脱落したとも考えられる。
 オイという発音がついた固有名詞は朝鮮語にあった。大分も「オイタ」くさい。
 のど元に「オリベノショウ」というのがひっかかっている。
 
 いや、oi そのまま引っぱってきたものもあろう。オイカワという魚、及川さん。老神温泉。及川さんの kawa とは、「の、人」。オイの人が及川さん。

 それを踏まえて、エビスを oibhis(i)とおけば、豊後弁で云う「イビしい」(恐ろしい)」が出るが、 もともとこの ibh は「イヤなやつ」というネパール語。
 それにしても、ダンナはどこからか「エビス=こわい」を拾ってきたらしい。どこからくわえてきたんかね。

 いずれにしても、さんざ起源を探してきたエビス、エベスだ。簡単にはいくまいよ。

[3322] ぼけバカ の一つ うろ覚え   焼尻紋次郎 2007/11/10(Sat) 09:03 [Reply]
 まちがっていたら maphi raァ〜

★ 呉の王、孫権が赤壁の戦いで大勝した。孫権は青い目をしていた。代々同族結婚を重ねていた証拠だ。そして呉は豪族連合だったというから、これは jamat-ai の邪馬台国と基を一にしている。沖縄も北ヤマ、中ヤマ、南ヤマに分かれていた。
 ヤマ(jamat)とは人びとの“集り、集会”という意味でネパール発。

★ 孫権の父親の孫堅は、北へ派兵したが、なぜか同盟軍から食糧攻めに遭った。そういうドサクサのとき、ある井戸からどこの王朝のものかはハッキリしないが、王の身分証明書たる印璽を入手した。『倭奴国王の印』と大略おなじ時代である。

★ 孫堅は荊州との合戦で流れ矢に当って死ぬのだが、そのときの荊州の武将こそ僮客を 3年間も足留めにした黄祖だった。

 オレ、このごろの流行語を覚えようと必死です。モノには霊力が籠っているという考えをフェティシズムっちゅうのやろか? カタカナ語辞書と相談してみたら、「女の下着を盗んでよろこぶこと」とあった。どうなってるの?

★ 九州弁のエジイ、エズイと エビスは es と eb なので同根じゃないと思うヨ。
es(九州)はヒヨコッとしたら中東の is(神)につながっているのかもしれん。
「恐ろしい」の os と同根の可能性が高いと思います。os はアイヌ語の niossi(木のこころ)とか魚のオショロコマのオショとも同根の可能性が高い。アイヌはオショロコマとはへびだと云っていたとの風聞があります。

★ エビスの bis には「外つくにの」の意味があると云ったひとがいます。横浜市在住の建林賢司さんです。この方も西洋語をふくむ多くの言語をあたったのでしたが、本をだされた時点で 84歳。あれから 6年経ってるので、今は 90歳。
84歳ときいて、おれは繁く電話・手紙することをやめました。
 そういえば沖縄語の権威でいらっしゃる外間守善先生も 84歳とかじゃ。
 外間守善先生には云いたいことが山とあるのだが、グヤグヤ、ウンジュの歳をいかんせん。だれか、沖縄学で若いひと、コンタクトできないかなぁ〜。 

[3321] Re[3320]: 安徳天皇 と 香春岳    神奈備 2007/11/09(Fri) 16:08 [Reply]
>  三種の神器とは天皇の身分証明書なので、それ持たれたまま他界されたんじゃ、皇統が絶えるわけでしょ? このへん、正確にはどうなってるんやろ。

 崇神期に、八咫鏡と草薙剣は伊勢神宮へ移動。草薙剣は日本武尊によって伊勢神宮から熱田神宮へと移動しています。天武期に新羅の僧に盗まれますが、難波で発見、皇居に置いたのですが、天武天皇が病気になり、再び熱田神宮へと戻されています。

 従って皇室に置かれているものはレプリカとなります。一応皇位継承の標しのようです。『継体紀』には、葛葉の宮で大伴金村が天子の璽符の鏡・剣を奉って拝礼したとあります。

 三種の神器のもう一つは八尺瓊勾玉で、これは天皇家の家長の標しとか。従って本物は皇居にあるそうです。南北朝の頃には南朝へ持って行かれたのかも。南北統合されて戻っているのでしょう。

 壇ノ浦では勾玉と鏡は木の箱に収められていて、浮いていたそうで回収できていますが、剣は海底を探しても出てこなかったようです。徳島の剣山頂上に奉納されたとか。


> 安徳天皇伝説は、菅原道真と同じように死んだあとの祟りをエズ(九州弁 ; 怖)がったからではないでしょうか。

 安徳天皇が竜神(八俣大蛇?)と化して、草薙の剣の本来の持ち主となったとか、天皇の怨霊が鎌倉幕府の源氏に祟ったとか、いろいろと物語られたようです。

 所で水死体はエビス神として各地の海岸で祭られているのですが、エビスがエズに簡単化されたというようなことはないんかいな。

[3320] 安徳天皇 と 香春岳    焼尻紋次郎 2007/11/09(Fri) 11:53 [Reply]
 三種の神器は、剣と鑑となんだっけ……。とにかくそれが壇の浦合戦で平家が敗れたとき、安徳天皇といっしょに海の中(らしい)に消えたんじゃなかったかなァ。
 三種の神器とは天皇の身分証明書なので、それ持たれたまま他界されたんじゃ、皇統が絶えるわけでしょ? このへん、正確にはどうなってるんやろ。

 オレたちは、ジング皇后伝説がつよく残っている北九州に育った。そんな伝説の一つとして、安徳天皇はまだ赤ちゃんで、香春岳の上から誰かさんに抱かれて飛び下り自殺をしたと聴いてま。
 香春岳とは、ほらダンナ様、ダンナが 5 〜6年前に九州を巡行なすったとき、「九州のひとはスゴイ、なにせ神様(石灰岩)削って生きている」とのたもうた、あの山です。
 小生は 23歳から 2年半、その香春岳のふもとをうろつきまわって、飛び込みセールスの修行をしたのでした。
 香春岳があるのは田川郡のほうですが、小生の実家は山一つ西にこえた嘉穂郡です。いまじゃ、その稲築町の役場から東のほうをみたら、これも石灰岩のシェキ(関)の山の肩を大きく抉りとったその先に、むざんにもアタマを抉りとられた香春岳が見ゆるとです。
 シェキの山は横長がの、なだらかなスロープをみせて、それはそれは美しい山でした。わがシェイシュンの山です。
 その山を削り取ったのが麻生太郎一家です。
 もう、あげなふるさとには帰りとうはない。

 安徳天皇伝説は、菅原道真と同じように死んだあとの祟りをエズ(九州弁 ; 怖)がったからではないでしょうか。
 

[3319] √・♪ かんかん とんとん ぴーさまさん ・♪    焼尻紋次郎 2007/11/08(Thu) 18:52 [Reply]
 「笑点」での耳学問です。あぐらをかくことを、金沢だったか、富山でしたかで「ちんちんかく」というそうです。

 いま、オレ、新潮文庫刊 ; 子母沢寛の『勝海舟』(全六巻)を読んでま。これで五回めです。
 そこに麟太郎(勝)がうたった歌として
  √・♪ かんかん とんとん ぴィさまさん
      あぐちゃ らちゃかん ねまらんしょ ・♪  というのがあります。
 前後の文脈から、麟太郎は医者の松本良順から聴いたがわかります。
 これは佐渡の地歌ですから、松本良順は弟子の島倉伊之助から聴いたことになります。伊之助はことばを覚える天才で、松本良順は豪傑肌、慶喜さんの脈もとった偉いお医者さんです。

 「かんかん・とんとんを」囃しことばだと云ってしまえばそれまでですが、ここには kaka(姉さん・母さん)と toto様がふくまれています。
 ぴい様にはフィリピンのピナツボ火山の pi (*小さい)との同根もあります。
 「小さな女」が姫なんですが、ここには「宗教上の指導者」の hir と同音衝突もやらかしています。

 「ラチャカン」は「埒あかん」だと解釈されていますが、原意 latta(棒)は、或いは法的ななにかで、それが「あかん(大阪弁)」と云ってるようにも聞こえます。
 「ねまる」は秋田でも「すわる」ですが、そのまた語源をしゃべりだすと長くなりますので、このへんでやめましょう。

  アグラは胡座と書きます。胡とはペルシャ人のことです。
 日本人の、殊似に武将は足の裏を合わせて坐りました。胡人は今のあぐらのようなスタイルで坐ったのでしょう。
 そうすると、足の指という遮蔽物がなくなるし、昔はズロース佩いてなかったのでちんちんが「垣間(カキマ ・ カイマ)見えた」のでしょうか。

 ああ、カイタら、ラチャカン・ラチャカン。


 

[3318] 狹穗姫と安徳天皇  神奈備 2007/11/08(Thu) 11:16 [Reply]
対馬も奥州と同じく政治的敗者の逃亡先だったようです。

 垂仁天皇の后で、兄にそそのかされてお命頂戴と寸前に一滴の涙、これで膝枕で居眠りをしていた天皇は目がさめて問いただす。狹穗姫命は白状し、兄の狹穗彦のこもる稲城に入り、物言わぬ皇子の火牟都和氣皇命(ホムツワケ)を生みます。その後姫は焼け死んだ事になるのですが、どっこい、対馬に逃亡していたそうです。

 対馬市厳原町大字久根田舎に鎮座する銀山上神社の摂社である山形十善神社の祭神が狹穗姫命となっており、件の由緒が伝わっています。

 また銀山上神社の祭神は諸黒神と安徳天皇となっており、対馬に逃亡、ここで没したとされています。
 福岡市城南区樋井川の御子神社の由緒に次のようなものがあります。
 神社創建の年代は詳<さだか>ではありませんが当社古伝によると安徳天皇或る年の晦かに太宰府より糸島郡吉井に遷御し白馬を騎ってこの地を過ぎ給いしが井戸に堕<おち>て歿<ぼつ>し給うと伝え、この古伝により古来よりこの地には白馬を養はず・又井戸を掘らず、もし犯せば必ず災いありと云う。

 徳島県の剣山頂上に安徳天皇が剣を埋めた伝承が残っています。

 落人伝説と同じように貴種が流れ着く物語は好まれたのでしょう。子孫であると称したのでしょう。

 なお、安徳天皇は水天宮の祭神になっており、壇ノ浦で海に没したことから祭られたのかも知れません。東京都中央区日本橋蠣殻町の水天宮にも祭られています。

[3317] 華南の広州で   焼尻紋次郎 2007/11/04(Sun) 07:30 [Reply]
いまでも kumanolife にいらっしゃるおりょんはんが、三年半前あたりに、切り抜きをしていた新聞記事をその掲示板に発表して下さいました。
 それによると漢時代の B.C.300年末〜 300年ごろに造られたと思える造船所跡の遺跡が、華南の広州で発掘されたとあります。

 造船跡は三つあり、巾 6〜8m,長さ 30m の木造船、滑走道の長さは 30m だそうです。周囲には鉄鋳物、鉄釘、鉄棒、砥石が出て、現代と変わらないとあります。
 昭和 52年 2月 27日付 読売新聞の記事だとのことです。

 われわれはこんなビックリ情報は共有していません。またこの記事はウソとも思えません。
 そういえば、あれは“説”のワクをはみだして事実だと思わせるテレビ放映がありましたよネ。古代シナの人びとがアメリカや中東にまで船に乗って行った……と。ことばの上からいうと、今のとこたった一つですが、ポンチョ(チャンチャンコ)が南米でも語られ、これが東北の七戸にもあることを想いだします。七戸の発音はハンサです。

 紀元 1 世紀にはインドとシナのあいだには航路ができていたことは事実です。小生は、これらに使われたのは、ダウ船だと勝手に思い込んでいましたが、上で造られたのは構造船でしょう。
 途中、国際都市が出現した唐のころには、アラビヤ船がおおいに活躍しています。
 1520年頃には、イエズス会の毛唐たちが日本にやってきて、この段階で日本は国際社会のメンバーとなったと、小生は考えてま。イエズス会の毛唐が乗ってきた船は「ナウ船」だそうです。

 1853年に黒船がやってきて、上を下への大騒ぎだったことが喧伝されていますが、ここの判断も 300年のズレがあります。

 沖縄ではアラビヤ文字が書かれた船板とおぼしき破片がみつかっています。

 あ、小生は、大野晋教授提唱のタミル語“起源”説は、1 世紀に壱岐に難破したダウ船からの影響だと置いて(仮設)してま。
 かたばみさん、助けてくれないかなぁ〜。

[3316] 船は嫌いではありません。  素人 2007/11/03(Sat) 23:32 [Reply]
貴重なお話ありがとうございます。
>  いまになって考えると、その pikdon が、いつごろ、どこでしゃべられていたのかをつっこんで質問すべきでした。が、いまとなってはザンネンです。
>  あるいは、鳥江あたりでもしゃべられていたのではないでしょうか。
大変興味ある事柄で感謝です。

>
>  赤壁の戦いは 208年で、かなり巨大な船が燃えたようです。
>  僮客の一団は、そういった船を奪って、徐福を真似して日本列島にたどり着いたとみるはムリでしょうか。
河舟は喫水が浅いので外洋はどうでしょうか。江南地域には外洋船は有ったと思われますので水先案内人が居れば、これでしたら十分可能と思われます。

>  なにせ、日本政府は造船といえば、すべて百済に発注していたとあり、このために白村江で大敗けに敗けたのです。それにも懲りずに、遣隋・遣唐使では遭難ばかりしてました。
>
日本近海は低気圧、台風の巣みたいなところで外航船の運用は困難だったと推定されます。
中世まで日本の船は丸木舟に館を載せたような船で、他国にお願いするような複雑な船ではなかったと聞いています。巨船を造る時は,偉い方の御威光で巨木を刈って造船したようです。丸木舟の部分はクスノキの真っ直ぐな直径6、7m以上あるもので作ったようです。軽くて意外と丈夫なようです。中国へ行くときは、見栄から中国風に色々複雑にした為に強度不足となったとも思われます。
以上素人の戯言です。
蛇足ですが、銃がいい加減で当たらず、玉込めに手間取ると白兵戦で素人の農民は侍に切り殺されたかもしれません。

[3315] エゲツない日本サムライ    焼尻紋次郎 2007/11/03(Sat) 06:38 [Reply]
 日本人だけで運転し、はじめて大平洋をアメリカまで航海したのがカイ臨丸ですが、そのカイ臨丸は、いよいよの戌辰戦争のとき、北海道開拓を志した幕府がた勢力として、江戸湾出て北へ向いました。しかし運わるく常陸沖で暴風に遭い、清水湊まで吹き流されてしまいました。
 船体はボロボロになって、航海能力もなく、乗組員たちは白い旗をたてて新政府へ降伏を表明しました。
 翌日、維新政府の船がやってきたとき、カイ臨丸の乗組員は看板に整列して反抗の意思がないことを表明したのでした。
 そういう光景は岸からも、よく見えたそうです。
 ところが、威張りくさった新政府がたの人間たちは、どうもなんとかかんとかイチャモンをつけ、屈辱を与えたらしく、ついに我慢できなくなったNO.2.らしい人物が抜刀した。とたんに全員が撃ち殺されたそうです。

 ま、それだけならいいが、旧幕府人の屍体を海に投げ込んだので、数日たつうちに屍体は腐って湾内に悪臭がたちはじめたのでした。
 一般の民間人たちは新政府からなにを報復されるか分らぬので、屍体を回収したり、弔うことができません。
 ついに、見ておれなくなって、ビランした屍体をひきあげ、弔ってあげたのが清水の次郎長一家でした。
 降伏した幕府兵士にあくどい行為をしたのは 九州 Y 藩のサムライたちです。

 日本人はあまりにも戦争をしなかったので、戦争時のマナーを知らなかったといえばそれまでかもしれませんが、こんなのは氷山の一角で、その根底には「じぶんの処だけよければいい」という“matr”意識しかはたらいていない。
 「わえらは全員、D.N.A.様を主人にいただく有機質サイボーグである」との現代大脳科学の成果の爪汁を飲ませてやりたい紋です。

[3314] アンポンタンの日本武士道    焼尻紋次郎 2007/11/02(Fri) 07:22 [Reply]
 素人さん、こっちに舟を曳いてきました。ニグラ。
 小生は前後 7 〜8回、川崎真治さん宅におしかけて、いろんなハナシを聴きました。うち 3回はせっかくの卓見ですので友人といっしょでしたが、舟曳き人夫を pikdon ということは、小生だけしか聴いてなく、川崎真治さんも、このことはその十数冊の著書には書いておられません。
 いまになって考えると、その pikdon が、いつごろ、どこでしゃべられていたのかをつっこんで質問すべきでした。が、いまとなってはザンネンです。
 あるいは、鳥江あたりでもしゃべられていたのではないでしょうか。

 赤壁の戦いは 208年で、かなり巨大な船が燃えたようです。
 僮客の一団は、そういった船を奪って、徐福を真似して日本列島にたどり着いたとみるはムリでしょうか。
 なにせ、日本政府は造船といえば、すべて百済に発注していたとあり、このために白村江で大敗けに敗けたのです。それにも懲りずに、遣隋・遣唐使では遭難ばかりしてました。

 あれぇ〜、ハナシが妙なところに流れて行くようです。が、重要です。
 この、合理精神の欠如は「百済」という「陶酔の核……すなわち、経よみ宗教」がなんだか“真理”に即しているとの身勝手な思い込みに端を発しているのではないか……、小生はそう感じま。
 酒のんで酔っぱらったみたくになったら、そこで人生の最高峰にたどり着けるとの思い込み(迷信)が、そのまま当時の日本社会に通用していたみたい。
 ユダヤ人が優秀なのは、何度も何度も戦争をして卓越した言語を獲得したからです。日本人が合理精神に欠けているのは、何度も何度も戦争をしなかったからでしょう。
 「いまから先の戦争は鉄砲が制する」は長篠の戦い(1582)であきらかになったことです。それが、300年ちかく後になっても、新撰組は鉄砲へ刀をふりかざして斬り込みをかけ、撃ちころされた……まるでバカ丸出しです。

 形あるものは変化する。形あるものは信用できぬ。形あるものを支配している精神性こそ実在であ〜る…………。
 そのついでに、物理法則さえ無視してかかった。アンポンタンの川ながれ!!

[3313] ホアカリのミコト    焼尻紋次郎 2007/11/01(Thu) 07:09 [Reply]
 オレは西西南の方向に頭むけて寝てま。だから、足もとの右方向が真東になる。
 けさ、 3時半、ふとそっちを見てびっくりした。はじめは U.F.O かと思った。
 色は、そういえば普通の月の色だ。
 なにせ、ビランビランに輝いている。星にしてはあまりにも巨大な光だ。
 みつめているうちに、これが明けの明星というものかと思うに至った。
 
 「アカリ」は“灯り”と同根だろうが、この場合は「姿を顕わす」と解釈したい。<ネパール語 ; akar(形、ものの姿)。「ホ」はこれまで「優」とされてきた*xo に還元できそうだが、これはネパール語 bhor(明け方、日の出まえ)で「あさぼらけ」 の bor .神様のことなので濁音をきらって ホ になった。

古文献のなかでホアカリノミコトがどのように活躍してるのかはオラシランが、日本列島での始発語源は明けの明星のことだとおもう。

 
 カトレアさん、ご忠告有り難うございます。
 Eメールを戴けないでしょうか。あの一文はダンナ様に申しでて削除してもいいのですが、そのまえに尊台のお許しを得たいとおもいまして……。
 わがEメール ; ijyana@rb3.so-net.ne.jp です。とりにくかったらkumanolife 掲示板には出ていますのでそこから取ってください。


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