青草掲示板ログ平二十一年 一月 2009.1
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[4823] Re[4821]クシシ  くず 2009/02/01(Sun) 14:25 [Reply]
大三元さん

> > 位置は現在の輪島市(門前町)の櫛比にあたるようです。
>
> いくつかの地図を見てますがまだ見つけておりません。門前・・、というのは一杯ありますが。


旧櫛比村(櫛比の庄)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E8%87%B3%E9%83%A1
旧門前町
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%89%8D%E7%94%BA_(%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
「中世加賀・能登地域における「町」について」
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/11521/1/AN10063514-5-tanishige.pdf
29P(7枚目/21P中の)地図左上の櫛比の荘ではないでしょうか?

> http://www.dai3gen.net/kusuba.htm
>
ありがとうございます。拝見しました。

> クシシ 醸す 
> 要注意でしょう。

大若子命の湧くに通じそうな^^

> 阿彦は弥彦かも、それは天香語山;それを「賊」だとする。私の越・出雲戦争仮説に貢献しそうです(^^)。ただ、この種のオハナシがどれほど古くからあったものなのか、というのが何時も気になる点です。

そうですね。
越の神社に祭られる大若子命、越に点在する櫛田地名は気になります。
もう少しあたってみたいと思います。


[4822] Re[4816]: 纒向立都  くず 2009/02/01(Sun) 13:52 [Reply]
とみたさん、
モンゴル高原にスキタイが残した鹿石、Webで見ました。
遠く縄文の意識に通じそうなところを感じました。
鹿(や鳥)を魂を運ぶ聖獣ととらえたようで、
鹿を神聖視する鹿島神宮や、諏訪大社の要石に通じるものがありそうです。
もっともモンゴルのものは天空との繋がり、日本のものは地や海との繋がりを感じ、
そのあたりは土地の持つ影響力からかも。と考えます。


3世紀中頃から出現期の大規模古墳が纒向にて集中築造されています。
同時期の他地域では、大規模古墳は見られても点在するという状況でしたが、
河内から大和盆地にかけては点在が見られず纒向にのみ集中します。
この纒向の集団が、少なくとも関東以西を想定した初期国家構想を持つていたと考えています。

この地域の利点は大和川から瀬戸内地域、九州。琵琶湖から日本海へ出て山陰、北陸。
伊勢湾へ出ての東海、関東と交通の要衝にある事と思います。
特に河川、湖、海と船運の利用に長けた集団であれば、その理を最大に引き出せたと思います。
弥生前期から大和盆地、河内方面に勢力持った集団の認識下にあったと思います。
摂津の東奈良遺跡、河内の池上曽根遺跡、大和の唐子鍵遺跡と拠点集落が存在し、
遺跡を結ぶネットワーク(周辺集落遺跡)の広がりも見られます。
長野柳沢遺跡の銅鐸・銅戈はその勢力によったものと考えています。

交易上のメリットだけでは国家構想の要に大和盆地を限定出来ませんが、防衛上からは有利に働く点が大きい。
海を越えての大規模船団を想定すると、北九州、や日本海沿岸部は軒並み危険地域となります。

その上で、以前とみたさんからお話がありましたが、
纒向のホケム山古墳の埋葬施設に見える石囲いの木槨構造は、
スキタイ文化に由来する可能性を持ちます。
ホケム山古墳は積石塚ではないけれども、前方後円の祖形と見える形を共有し、
同じ石囲いの木槨構造を持つ積石塚が徳島県鳴門市の萩原にある1号墳、2号墳。
ホケム山古墳と萩原の古墳からは後漢時代の舶載鏡、画文帯神獣鏡が出土しており、
この鏡は楽浪郡の置かれた地域からも出ていて繋がりがあった事を裏付けます。
3つのうちでは萩原2号墳が最古で2世紀末から3世紀初頭。
倭国大乱の時期に関連した勢力であった可能性が大きくあります。

朝鮮半島の三韓のうち辰韓国(後の新羅)には、スキタイの文化、石囲いの木槨構造を持つ墓制があった。

楽浪郡が設置されての大国に対する脅威、
その中で、半島諸国と倭国内で生じた抗争と構想。
ここをどう捉えるかでしょうか。

[4821] Re[4817][4808][4806][4802][4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/02/01(Sun) 11:57 [Reply]
くずさん

> 位置は現在の輪島市(門前町)の櫛比にあたるようです。

いくつかの地図を見てますがまだ見つけておりません。門前・・、というのは一杯ありますが。

> アイヌ語、Ci-Kus-i 我、通る、所 がやはり気になるところ。

この関連では『古事記』(崇神天皇、建ハニヤス王の反逆の段)に『久須婆(クスバ)の度(わたり:渡、のこと)』という地名が出てくる。これがアイヌ語のkusa(単数)/kuspa(複数)(= 〜を船で川を渡す)が源だろう、と見当は付けています。
http://www.dai3gen.net/kusuba.htm

なお、萱野茂のアイヌ語辞典には、クシシ 醸す と出ていますがあまりに簡単な記載で、また、他の辞書に見えないことから要注意でしょう。

> 越の賊(阿彦)を誅する

阿彦は弥彦かも、それは天香語山;それを「賊」だとする。私の越・出雲戦争仮説に貢献しそうです(^^)。ただ、この種のオハナシがどれほど古くからあったものなのか、というのが何時も気になる点です。

[4820] Re[4819]  くず 2009/02/01(Sun) 11:54 [Reply]
佐々木さん、

僕はここにお邪魔するようになる前は専らにサッカーを見ていました。
日本でワールドカップが開催されたあと、ある代表選手がこう発言しました。
「問題は細部(ディティール)にある」と、
伝え聞いた発言ですから、選手の真意や付随して語られた言葉があったかは解りません。
でもこの言葉には強い違和感を持ちました。
その発言が直接関係したとは思えませんが、その選手は以来代表に選ばれず、
現役を引退しています。

これだと思う細部に突っ込んでいく時、僕は覚悟を決めてとことん行きます。

今言語分野に誘って頂く方もいますが、自分に不足しているのは、
全体を俯瞰しうる総合的な知識と認識していますのいで、
まだしばらくは、視野を広く、視点を変えつつ歩いてみたいと思っています。
以上、私事を失礼致しました^^


>  トミタさんがご案内された甲元先生の文献もちょっと感情的で面白いです。
>  
>  なお炭素同位体については、古い年代測定値は参考レベルとした方がよいようです。また測定対象によって違うようです。

そう考えます。

信頼しうる資料探しは進めますが、掲示板内容の偏重は違う話題を持つ皆様のご迷惑と考えますので、
(すんませんm__m)
この話題に限っての応答はこれにて失礼させて頂きます。
様々な地質資料に基く過去の環境変動についての考察、
大変参考になりました。ありがとうございました。


[4819] Re[4818][4815][4814][4813][4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/02/01(Sun) 11:09 [Reply]
くずさん

 トミタさんがご案内された甲元先生の文献もちょっと感情的で面白いです。
 
 なお炭素同位体については、古い年代測定値は参考レベルとした方がよいようです。また測定対象によって違うようです。  
名古屋大学の年代測定総合資料センターの報告書がpdfで見れますので、適当に確認ください。 http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/ja/tande_report/index.html
 ほか良いものがあれば、またご案内します。

信州大学は公文教授が信州の池湖を精力的に調査されているようですね。

 ちなみに甲元先生の文献で中国東北部の東翁根山遺跡の花粉化石の概要がありました。
 7000年前のクロスナ第1層、クワは養蚕?。ニレ、コナラ、ヤナギは周辺の山地の植生。まだある程度の湿り気が考えられます。
 4400年前の第2層でクロスナ層の厚さから焼畑の規模の拡大。ニレ、コナラ、ヤナギも消滅。
 西アジア以西原産のシナガワハギやウマコヤシ、染料の原料のアカネ科も見られる。 西からの移動民増加による西アジア以西原産植物花粉の流入とアカネの栽培。
 地場産業は養蚕から染料へ変化。気候変化で養蚕が難しくなった?
 2900年前の第3層で、焼畑継続でマメ、アブラナの栽培。アブラナは菜種油?
 地場産業は染料から油の流通への変化?
 1400年前の第4層で、焼畑継続でマメの栽培。
 土地の荒廃と乾燥は4400年前から始まったとしてもよいと思います。
 
 ちなみにクロスナは、ほとんど微粒炭つまり焼畑の燃え殻物質なのです。これが風で堆積しているのですから、再移動再堆積もあります。
 ただその厚さを見ると、どれだけの面積が焼かれたのかわかるようです。局地的気候変化もあったと思われます。日本にも燃え殻が飛んできたでしょう。
 クロスナ第2層で九州全域ぐらいの焼畑の可能性がありそうです。
>放射性炭素年代測定法と、弥生時代の土器偏年の再編、遺跡年代の再構築について
 今勉強中なのですが、ざっと見聞きする限り画期的な研究成果が出そうな時期なのかもしれません。またご案内できれば致しますが。

[4818] Re[4815][4814][4813][4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  くず 2009/01/31(Sat) 22:55 [Reply]
佐々木さん、
>  琵琶湖の珪藻殻数の文献をやっと発見しました。
>  http://ci.nii.ac.jp/naid/110000475711/

論文拝見しました。ありがとうございました^^
でも歴史年代と比較するには少なくても100年単位の変化を知りたいところと思います。

佐々木さんの資料を見る注意点を考慮に入れつつ、100年単位で資料の出ている、
日本海の珪藻温度指数(対馬海流の強弱)と、とみたさんが掲示された論文より、
日本海海岸地域の堆積層におけるクロスナ層の研究を軸に考えてみたいと思っています。
放射性炭素年代測定法と、弥生時代の土器偏年の再編、遺跡年代の再構築について、
指標になりえる良い研究がありましたら知りたいところです。

個人的には倭国大乱は内因よりも108ADの漢による楽浪郡を含む4郡の設置が強く影響してのものと考えています。

>  しかし環状木柱列と貯蔵穴の相関は大変面白いです。
>  神社と賽銭箱の関係かいや、今なら奉納酒群なのか。

桜町の環状木柱列遺構も10Mほどの当時の河川をはさんで対岸にあたるところに貯蔵穴遺構が出ています。
http://hokuriku.yomiuri.co.jp/hoksub2/hokuexp/toyama/toyama_oyabe7.htm
環状木柱列遺構から鮭の骨が出土した例もあり、食物に関連した祈りの場であったかもしれませんね。

> 私は以前松原湖周辺や菅平に棲んだ事があります。懐かしいです。

今年は暖冬で雪が少なくスキー場は大変でしょうが暮らすぶんには助かっております。
畑はすでに土が見えていて、強い寒気がきた時に土壌菌が心配ですが…

[4817] Re[4808][4806][4802][4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  くず 2009/01/31(Sat) 14:30 [Reply]
大三元さん、

> > 和名類聚抄、国郡部、越中国鳳至郡に櫛(久之々)の地名がみえます。
>
> 正宗敦夫さんが編纂校訂した『和名類聚璋鈔』の索引では「久之々」は「久之多」の間違いかも、と注意しています。後続する越中国射水郡には「櫛田(久之多)」と言う地名があり、それと同じ地名なのかも、と考えたのでしょう。
>
> 倉知英明著『和名類聚抄 道・国・郡界郷名比定図』では、鳳至郡の4郷のうち「久之々」は羽咋郡との堺に近い所(西岸やや内陸)、他の3郷は珠洲郡に近い北岸に並んでいます。


高山寺の写本には櫛師とあるようなので、クシ音と連続するシ音(イ行音?)があったと見ます。
連続音は逸脱しやすいかと思うのですが残っている点からそう考えます。
位置は現在の輪島市(門前町)の櫛比にあたるようです。

和名類聚抄の櫛の次の郷、小屋は「おや」と読み輪島市域(大野?)にあたるようです。
大屋湊、親湊とも。
正倉院宝物銘文集成に勝宝5年(753)鳳至郡大屋郷、舟木秋麻呂の名が見えます。


> > 形の近い"良"の誤用か誤写ではなかったかと青草く^^;
>
> 立論は難しそうですね。

十二支に関わる暦や時以外に、シ音として辰を使用するのは異例では?と考えたのですが、
写本が皆辰ならば誤写は考えられず、字の誤用となると可能性はほとんどないでしょうね。

ただ、せっかくなので久良為を見てみましたところ、
伊勢の度会氏の系図から、彦久良為と言う人物にあたりました。
越の阿彦を誅したという大若子の父にあたる人物です。

倭姫の伊勢入りの時、大若子命が安佐賀山の荒ぶる神を祭り鎮めています。
http://kamnavi.jp/ym/miekusida.htm
阿耶訶大神とは猿田彦神であり伊豆速布留神。

伊勢  彦久良為命−大若子 別名大幡彦
          猿田彦、伊豆速布留神を祀る。越の賊(阿彦)を誅する。
越   高倉長命 −伊豆目姫命
          (大幡神杉伊豆牟姫命であれば)
          猿鬼と戦う伝承。大幡の名が共通。伊豆の名も関係か?
2神の比較と能登にも残る櫛田地名、
大若子命が越の阿彦も誅したと言う話、

関連アリでは?と自分の青草アンテナが騒ぎます^^

>「為」も「し」と読みますね。久辰為=くしし あり得ますね。
> 意味は「くしゐ」の方が取りやすいけど。

本道はこちらでしょう。
オキツ、へツから能登あたり周辺の地名、神名にあたって見ました。
舳倉島へ至る航路は、輪島から。
輪島周辺の地名に古地名にクシシが残っていたので興味を持ちました。

アイヌ語、Ci-Kus-i 我、通る、所 がやはり気になるところ。
櫛比(門前町)は少し内陸ですが、地形を見ると海沿いは断崖のようで、
輪島(港)方面へ抜けるには山間の櫛比を通り抜けるところ。
それはKusが意味する地形に当てはまるのではないかと思います。
また古代港日下地名とアイヌ語Kusa=渡るなども興味深いと思っています。    


[4816] 気候変動と考古学  とみた 2009/01/30(Fri) 14:20 [Reply]
スキタイ文明は紀元前900年ごろに北方の草原地帯に始まっていて、遊牧から騎馬に替わった民族でしょう。匈奴は紀元前4世紀ごろに始まっていますね。

スキタイ人はバイカル湖の西、エニセイ川の上流域が発祥と考えられるようになりました。ハミという馬具を考案し、馬に乗って御するノウハウを身に着けたのでしょう。ハミが紀元前9世紀の遺跡から出土しています。

匈奴もスキタイ人から騎馬を教えてもらって大きな力を得て、秦漢を揺さぶった。
スキタイはギリシャ語でペルシャ語ではサカイ、サカ人です。中国語では塞人です。

騎馬と武具で草原地帯から南下して暴れ回ったのでしょう。

これらの民族の墓は木囲い積石塚が多いですね。

バイカル湖あたりは、兎に角、いろいろな民族が出ています。

東に辿ればアムール川(黒竜江)で樺太の北部の対岸に注ぎます。北海道のオホーツ文明との接点もありますし、中国東北部のツングース族との接点も大いに関係がありそうです。

南シベリヤのエニセイ川上流域はアンドロノブ文化の発祥地で、紀元前2300年から紀元前1000頃の青銅器文化です。紀元前2000年頃から紀元前1500年にかけて、東への急速な拡大を見せました。

南シベリヤとカザフスタンではアンドロノボ文化はカラスク文化(紀元前1500年ー紀元前800年ごろ)として引き継がれる。カラスク文化は紀元前700年ごろにシベリヤ南部で始まり鉄器時代初期まで続くタガール文化やオルドス青銅器文化に影響を与えたとされている。

オルドスは黄河の湾曲部で匈奴の支配地。この地の争奪戦が前漢と匈奴の争い。

その北はフフホトで内モンゴルです。

最近、内モンゴルの朱開溝遺跡からオルドス直柄匕首形青銅短剣が出土しました。

中国では最古の青銅製剣として注目されています。この遺跡は紀元前2200年ー1500年前の遺跡です。

夏王朝から殷(商)王朝開始期に相当します。

青銅器の銅鐸も小銅鐸はシベリヤが淵源であり、シベリヤーモンゴルー朝鮮と渡り、日本では弥生期に大和川の柏原あたりや葛城の水越峠の名柄あたりで見つかっています。

信州の柳沢の銅鐸や銅戈は一体どこから来たのでしょう。北九州か大阪湾か??日本海経由で、入り江、潟湖から船に乗せて川を遡ったのでしょうか?

小銅鐸でも、九州では明器として墓に入れますが、大和では丘陵にシャーマンの祭器として使うようです。

以上、少しアジアを広く見てみました。








[9713] 気象変動と考古学 神奈備掲示板の写しです  とみた 2009/01/29(Thu) 13:03 [Reply]
環境考古学の安田喜憲先生は花粉分析による気候変動が得意ですが、厳密な気象変動(太陽活動の盛衰など)の時間的把握から見た研究を熊本大の甲元先生がされていて注目されています。

やはり紀元前800年から700年に亘り日本列島は寒冷期であった。弥生時代は歴博の炭素14法で400年ー500年ごろ遡る説が出て、弥生前期の前に弥生早期を入れました。これは正に紀元前700年ごろです。貼付サイトをご覧ください。


http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf

別の研究によります。関東の東京湾は縄文海進時代は奥東京湾が関東圏の内陸奥地に入り込んでおりました。香取の海と称する事もあります。

今の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼一帯は海でした。

埼玉の草加はもちろん、群馬の館林まで入り江がの海岸線があったようです。

学術的研究では・・・

9000年前から奥東京湾では海水面が急上昇し、海水が浸入。
6500年前から5500年前までが縄文海進が最盛期であり。館林台地の南東部まで浸入。

5500-5300年までは、その海進の後半期です。
海水面は現在より2−3m高く安定していた。

5300年前から4500年前まで海退期が始まり、1−2m海水面が下がる。その後4300年まで安定する。海退は4300年以降再び進み3500年前で終了。

以上は関東圏の東京湾近辺です。関西の河内湖ではどうでしょう。

四条畷市資料館の野島稔先生によると、7000年前までは、枚方市までは海で、弥生時代終末期から古墳時代初期までは門真市と中野市?は海であったそうです。

興味深い研究もあります。神武東遷の真偽です。真としても時代が紀元前660年は別としても紀元後1世紀、2世紀、3世期、4世紀説があるかと思います。
大和征服行路の地が現在もトレースできる。記紀の記事の地名と弥生期の河内湖地名が一致する。(たとえば長スネヒコに敗れた日下という地名は今もあります)。

同時代は大和湖標高は50−70mであり、神武関係地名が60m以上の土地にあるそうです。

小人閑居して不善をなす。

私は小人にて、閑居しながらパソコンと戯れています。

妙な話題を提供します。



[4815] Re[4814][4813][4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/30(Fri) 13:27 [Reply]
くずさん

 琵琶湖の珪藻殻数の文献をやっと発見しました。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000475711/

 珪藻殻数は図5は一番明瞭ですが、Kg(伊豆かわご平火山灰)のところがおおよそ3000年前です。
 3000年以降珪藻殻のピークがあります。珪藻殻の増加は気候の湿潤化と関係があると本文に記述されているので、琵琶湖付近での急激な多雨または多雪と見てよいでしょう。珪藻殻の急増急減も興味を惹くところです。
 琵琶湖東岸の環状木柱列のある正楽寺遺跡では貯蔵穴の多さにも目を惹きます。
 珪藻(プランクトンの1種)は食物連鎖で低位置にあるものなので、この現象は上位捕食動物の急増の要因であります。
 食物?増加による人口爆発、湿潤気候によるスギ林の激増、スギ林増加による食用樹林の現象(明治以降の放置された孟宗竹の増加と似ています)、食料貯蔵意識の創発、気候寒冷化と単位集落のおける人口維持能力の低下、一部倭国大乱的行動となるのか。まだまだ神社との接点が見えません。
 しかし環状木柱列と貯蔵穴の相関は大変面白いです。
 神社と賽銭箱の関係かいや、今なら奉納酒群なのか。

>非常に狭い視野でしか時代を見る事が出来ません。
 私もそうなのです。いいブレインストーミングになりました。

 御添付の栗林遺跡は、川の攻撃斜面に特徴的に立地していて面白いですね。長野は木崎湖でも以前ボーリングをしていたような記憶があります。
 私は以前松原湖周辺や菅平に棲んだ事があります。懐かしいです。

[4814] Re[4813][4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  くず 2009/01/30(Fri) 12:10 [Reply]
佐々木さん、とみたさん、
> 珪藻も実は相対的な判断になります。
物事を俯瞰して判断に繋げたいのですけれど、
今の自分は知識に乏しく、非常に狭い視野でしか時代を見る事が出来ません。
様々な視点を持たれるここでの皆さんとのお話、ありがたいです。

> 海のことは貝化石、有孔虫、貝形虫をみれば完璧に近いようです。
> 貝形虫は、信州大学に専門家が居ると聞きました。

今年に入って、地元戸隠で2種の貝形虫化石が新種と認定されました。
関わられているやも知れません。聞いてみます^^

>よく存じあげませんが所謂倭国大乱や卑弥呼の時代が気候不安定期または寒冷期の方が、
>稲作不振で食物の獲り合いやそれに伴う世情の乱れが起こりやすそうな感が致しますが。

中国の歴史書から倭国大乱は2世紀中〜後半、卑弥呼共立が2世紀末、
亡くなったのが3世紀半ば。(古墳時代へ)

神奈備掲示板とみたさんご提示の論文では、
砂丘層の発達→海退(寒冷化現象)
クロスナ層(有機質に富んだ黒色の砂)→海水準があがり植物が茂る、
         砂丘が生活域として利用される。→温暖化を示す。
と、クロスナ層に見られる土器年代から、

縄文晩期−弥生早期         砂丘発達(海退) 寒冷
弥生前期−中期           クロスナ層    温暖
弥生時代−中期以降から終末期前   砂丘発達(海退) 寒冷
弥生終末期−古墳時代初頭      クロスナ層    温暖
とされています。
卑弥呼の時代は暖かかった。でもそれ以前の寒冷化が、倭国大乱の遠因であったのかもしれませんね。

弥生期の長野の状況を見ますと、中期後半(柳沢銅鐸・銅戈の時代)から、
終末期(倭国大乱→卑弥呼の時代)は遺跡数が増え、領域が広がる発展傾向を見せます。
青銅器埋納が紀元前後、その後祭祀性の高い朱塗りの土器(箱清水式土器)の時代となります。
この変化が中期以降の環境変化(温度低下)に対応するものとも受け取れます。
箱清水期に入ってから、住居の柱配置が画一的になり、宅内から炉がなくなるようです。
http://www.city.nakano.nagano.jp/rekimin/r9.files/genshi.files/kuribayashi.htm
冬季における暖房も炉でとっていたとしたら、炉が無くなるのは温暖傾向を示しているのかもしれません。

寒冷時にも遺跡数つまり人口は増加している長野で、冷涼気候に強い稲が育っていたならば、
それを西社会に伝える事で、冷害に対処出来たかも知れません。
奴奈川の姫は鹿に乗って諏訪にも来ていたというので、彼女の子息が稲を運んだのかも^^


>  なお先般の福澤レジメを見て、紀元前800〜500年の大焼畑ブーム(これは微粒炭の量で見るのですが)で、
> 炭酸ガスが過剰となり最初の地球温暖化が起こったような印象を受けました。

自分は持ってませんが、当時の世界を見渡す”目”が必要そうですね。^^

[4813] Re[4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/28(Wed) 21:42 [Reply]
 くずさん
 
 大筋ではそれでいいような流れかと思います。

 個々のグラフは、学者の独自領域(煙をまく領域)とも言え、疎外感を感じられたでしょうが。

 珪藻も実は相対的な判断になります。
 海況が荒れると珪藻殻が壊れる傾向があります。また海底で死んだものが、海面上昇過程で打ち上げられることも多いようです。死んだはずの個体が細胞分裂することもあるようです。
 最近は単位体積あたりの量比も重要なようです。琵琶湖では珪藻で加(くわえ)さんという方が研究されているようですが、まだ見ていません。
 海のことは貝化石、有孔虫、貝形虫をみれば完璧に近いようです。貝形虫は、信州大学に専門家が居ると聞きました。

>紀元前1700〜1300年温暖期(オホーツク海の海底コアに暖流系の珪藻が見られる)
紀元前1300〜1200年寒冷期(1400BC頃からの太陽活動の減衰が原因)
紀元前1000〜900年気候回復(珪藻温度指数上昇)
紀元前800〜500年急激な寒冷化(珪藻土指数の低下【環状木柱列遺構・遮光器土偶】

※寒冷期から温暖期への移行に伴う突然の寒冷化現象と、同時期に太陽活動も減衰する。

紀元前 400年〜200年は温暖期へ移行(弥生温暖期)【稲作が広まり弥生化が進む】紀元前後に一時的な落ち込み           【第1次青銅器埋納?】
紀元後100年〜300年温暖期(弥生温暖期)     【倭国大乱〜卑弥呼の時代に相当】
紀元後300年〜800年寒冷期(古墳寒冷期)     【古墳時代への移行】

 うまくまとまっています。
 よく存じあげませんが所謂倭国大乱や卑弥呼の時代が気候不安定期または寒冷期の方が、稲作不振で食物の獲り合いやそれに伴う世情の乱れが起こりやすそうな感が致しますが。
 また寒冷期は確実に海面が下がるので、海岸沿いでは河川の下方侵食が進み、井戸涸れも起こりやすい。これも争いの原因。

 ちなみに平安京では寒冷化で11世紀に鴨川の水位が下がり、貴族の屋敷井戸(深さ3m)が涸れたようです。貴族らはこぞって水の得やすい御堂関白の居る宇治に移動したようです。
 平家の居た平安京南西湿地には水があったので、11世紀には平家が平安京の主となり、その後平家討伐後、宇治の貴族らは12世紀に平安京に戻って井戸を掘り下げた(深さ6m)ようです。
 
 なお先般の福澤レジメを見て、紀元前800〜500年の大焼畑ブーム(これは微粒炭の量で見るのですが)で、炭酸ガスが過剰となり最初の地球温暖化が起こったような印象を受けました。

[4812] Re[4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  くず 2009/01/28(Wed) 18:48 [Reply]
佐々木さん、ありがとうございます^^
表の見方などチンプンカンプンでしたが、なんとな〜く現在の論考の一端が見えてきたような気がします。
その中で自分なりに、解りやすく信頼できると思える根拠になりそうなものを見つけました。

日本海の堆積層(コア)に含まれる珪藻化石の分析から、珪藻温度指数(Td値)という数値が示されています(小泉格氏)
(珪藻は珪酸質の被殻を持つため残存しやすい)
黒潮と対馬海流に特有の暖流系珪藻種群の含有量と、珪藻種群全体における寒流系の珪藻種群との割合から算出され、
数値が高いほどその時代における暖流の影響が強いと見れます。

下記論文「気候変動と文明の盛衰」小泉格氏2007年 の66Pにその表があります。
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf116-1/p062-078.pdf

やはり縄文晩期の寒冷時には、数値の落ち込みがあります。
前400年頃から数値の上昇(暖流の影響が強い時代)が見られ、
弥生期は紀元0年近辺の落ち込み以外は温暖傾向が見られます。(弥生温暖期)
古墳時代に入ってまた数値が落ち込むようです(古墳寒冷期)

この数値は他の指標からなる気候変化モデルに良く符号しているように思います。
この数値等を参考にし、今のところこのように考えております。

紀元前1700〜1300年温暖期(オホーツク海の海底コアに暖流系の珪藻が見られる)
紀元前1300〜1200年寒冷期(1400BC頃からの太陽活動の減衰が原因)
紀元前1000〜900年気候回復(珪藻温度指数上昇)
紀元前800〜500年急激な寒冷化(珪藻土指数の低下【環状木柱列遺構・遮光器土偶】

※寒冷期から温暖期への移行に伴う突然の寒冷化現象と、同時期に太陽活動も減衰する。

紀元前 400年〜200年は温暖期へ移行(弥生温暖期)【稲作が広まり弥生化が進む】紀元前後に一時的な落ち込み           【第1次青銅器埋納?】
紀元後100年〜300年温暖期(弥生温暖期)     【倭国大乱〜卑弥呼の時代に相当】
紀元後300年〜800年寒冷期(古墳寒冷期)     【古墳時代への移行】

[4811] Re[4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/26(Mon) 20:45 [Reply]
くずさん
 いい資料をお教えいただきましたので。
 2件ほどご案内を。
 島根大学の高安克己教授のグループが出雲大社の東側で40mのボーリングをしていて、深度40mで10000年前、25mで4000年前、15mで2800年前、10mで1500年前の年代が出ています。
 有機物濃度(TOC)は深度10〜15m付近でピークを示していて、硫黄濃度もピークが見られます(2800年前から1500年前)。
 これはその時代の海域の荒れ模様そのものをあらわしているようです。
 なお1500年前以降は完全に陸化するようです。
 次に有機物濃度は25mでは激減し、硫黄濃度は0になります(4000年前から2800年前)。
 これは海面の停滞または低下をあらわしているようです。
 
 出雲でも2800年前は異常な時期だったようです。しかし1500年前まで引き続き荒れ模様だったようです。これには驚きました。

 千葉県八千代市で稲作の開始時期に関する研究が八千代東高校の稲田教諭によって稲作開始時期は3700年前で、同時にソバ栽培も示されていました。
 なお千葉でも2800年前から1300年前まで、かなり気候が荒れたようです。
 気候の安定と古墳の大型化関係あるのやら。大阪では河内潟の時代になるのかな。

[4810] Re[4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/26(Mon) 11:21 [Reply]
 くずさん

 福沢さんのレジメは助かります。これは聞き逃しました。レジメ途中からかなり手抜きされていますが。

>図を見ますとイベント3(4300BP)の前後でAl2O3/SiO2の比率上昇のピークが見られます。黄砂の量が減っていた時期と見て良いと言う事でしょうか。

 これは福沢レジメから、黄砂などの風成砂の供給源が数種類かあって、opal-Aのピークは○○砂漠、イライトや緑泥石(クロライト)のピークは△△砂漠と推定して風向きを決定すること、あと季節変動はどうかなど検討すべきかなと思いました。
 風成砂の量比の議論を取り込んで議論するにはまだまだハードルが高いような印象を持ちました。

>その時期(イベント3)の海の温度が低下していた事を示す指標があるようです。
 これは縄文の高温暖期(5500年前から5000年前)によって、極の氷山が大幅崩壊(流氷の急増)したのもあるでしょう。
 降水量増加による冷涼化・気温低下(打ち水効果)もあると思います。

>琵琶湖に入る湖水には少なからず影響があるのかな?と考えます。

 琵琶湖は大きすぎて、わかりにくいのですが、積雪が減少すると地下浸透量が低下して湖水循環システムが狂います。
 琵琶湖は河川水等の常温水の供給以外に、湖底付近からの年間通じての15℃前後湧水があり、それにより夏季冬季の湖水循環が維持されています。また湖水循環により生物活動が保証されています。

・P11のTOC(有機物の総量)はピークは陸上からの持ち込みが多い。つまり陸域での降水量増と判定するのですが、積雪減少による地下浸透水の低下、ひいては湖水循環システム不良で微生物の活動(微生物の捕食力低下)が低下したともいえるのです。 TOC何%で湖水循環システムが狂うのか生物活動の臨界線を引いてくれればもっとわかりやすいのです。
・P12の下の図、初期磁化率のグラフ(おそらく同志社大学林田明教授)を見ると、磁化率の低いところ(30>)が2800年前に見えます。
 これは気候的には乾燥で大地に風が吹き荒れる時代です。太陽も見づらかったと思います。テレビジョン停止時の砂嵐のようないやな毎日だったと思います。
 一時的な湖面低下もあり得るでしょう。まさに環状木柱列の時代ですが、太陽の復活を願ったとしてもおかしくないでしょう。
 なお6000年前の60越えるピークは指宿の池田湖か、4000年前の80付近のピークは三瓶大平山噴火だと思います。
 どちらにせよ2800年前は極めて重要な時代だと思います。くずさん感謝しています。

[4809] Re[4808][4806][4802][4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/01/26(Mon) 08:53 [Reply]
くずさん

そうか。「為」も「し」と読みますね。
久辰為=くしし あり得ますね。
意味は「くしゐ」の方が取りやすいけど。

[4808] Re[4806][4802][4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/01/25(Sun) 23:43 [Reply]
くずさん

> 和名類聚抄、国郡部、越中国鳳至郡に櫛(久之々)の地名がみえます。

正宗敦夫さんが編纂校訂した『和名類聚璋鈔』の索引では「久之々」は「久之多」の間違いかも、と注意しています。後続する越中国射水郡には「櫛田(久之多)」と言う地名があり、それと同じ地名なのかも、と考えたのでしょう。

倉知英明著『和名類聚抄 道・国・郡界郷名比定図』では、鳳至郡の4郷のうち「久之々」は羽咋郡との堺に近い所(西岸やや内陸)、他の3郷は珠洲郡に近い北岸に並んでいます。

> 久辰為=くししの可能性は?

ご慧眼! 岩波の『風土記』P126には、幾つかの写本のうちの一つだけには、二カ所の内の一カ所が「辰為」ではなく「辰辰」となっている、と校注があります。しかし、大多数は「辰為」としているようで「辰辰」は僅か一例、しかも、同じ写本のもう一カ所は「辰為」となっている;これでは「辰辰」は誤記、と考えることになりましょう。(多数決、という意味ではなく、少数意見でも二カ所中一カ所は多数意見と同じ、ということが誤記と判定する根拠。)

> それから、シの音に辰を当てるの用例を他にご存知でしょうか?

存じません。

> 万葉集を検索してみたのですが、辰は"とき"を表している様子。

そうですね「辰」は二例あるようですが、いずれも「とき」の意味ですね。

> 形の近い"良"の誤用か誤写ではなかったかと青草く^^;

立論は難しそうですね。

[4807] Re[4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  くず 2009/01/25(Sun) 23:31 [Reply]
佐々木さん、完新世の寒冷化サイクル(ボンドサイクル)が、
縄文時代の変遷に良く符合している点。
750BC近辺のイベント2が当時の人々に大きく影響を与えたであろう点。
に興味を持って書込みを続けさせて頂いております。
ご解説ありがとうございます。非常に助かります^^

>達家台の場合、opal-Aの量比が増加すると、SiO2の量が増加してAl2O3の量が減るので比が下がります。つまり黄砂が増加となる。

図を見ますとイベント3(4300BP)の前後でAl2O3/SiO2の比率上昇のピークが見られます。
黄砂の量が減っていた時期と見て良いと言う事でしょうか。
風性の堆積土からなる資料なので、黄砂の量が減る原因としては、

@西の砂漠地帯から黄砂を運ぶ偏西風が弱まっていた。
A黄砂を運ぶ偏西風に南東からの風(夏季モンスーン)が卓越していた。

が考えられると思います。
達家台(蘭州)は内陸深い半乾燥帯。
この地点までモンスーンが影響を与えていたとすれば、
偏西風の弱まりに加えて、海水温と大陸の温度差が大きかったとも考えられますね。
その時期(イベント3)の海の温度が低下していた事を示す指標があるようです。
この時期の炭素14同位体偏差には大きな変化はみられない。
つまり太陽活動は減衰期になかったようなので、世界各国の指標が示す、
イベント3の寒冷化、海水温の低下の原因は解りませんが
(論文ではサブミランコビッチサイクルの影響を考えているようです)
中国大陸においては冷涼、湿潤であったと考えます。

>そのために琵琶湖の試料は「欠如」が発生し、ノーデータの可能性があります。あまりにドラスティックな変化なので、それが高いように思います。

福澤仁之氏による諏訪湖のデータも含めた資料を見つけました。
http://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukusawa-2006-01biwa.pdf
湖水準の上昇、下降の時期におおよその重なりが見られます。

日本の場合、日本海海水温の低下は冬季の水蒸気供給の低下に繋がり、日本海側に降る雪の量が減るのではないかと考えます。
諏訪湖は内陸性の気候で冬季の積雪量の影響はあまり受けないのでしょうが、
琵琶湖に入る湖水には少なからず影響があるのかな?と考えます。
イベント2(2800BP)以降にも湖水準の低下が見られます。

[4806] Re[4802][4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  くず 2009/01/25(Sun) 22:22 [Reply]
大三元さん、

> 日本語古語では二重母音が殆ど使われない(例外はあることはありますが)ので「クシイ」という語はないでしょう。「久辰為」は「クシヰ」です。「ヰ」が意味しうることは「井、猪、藺」。さてさて・・・・・
>
> この名前の分析も難しいですよね「沖・筑紫・ヰ」と切るのか「沖の・奇し・ヰ」なのか。

ありがとうございます。

和名類聚抄、国郡部、越中国鳳至郡に櫛(久之々)の地名がみえます。
http://www.littera.waseda.ac.jp/wamyou/doc/Level3/bc011202.html
今の櫛比(輪島市)でしょうか。位置的にも興味を持っています。
久辰為=くししの可能性は?


それから、シの音に辰を当てるの用例を他にご存知でしょうか?
万葉集を検索してみたのですが、辰は"とき"を表している様子。
形の近い"良"の誤用か誤写ではなかったかと青草く^^;

仮に久良為(クラヰ、あるいはクラシ)ですと、高倉下、武位起、舳倉などに類似してくるのですけど。

[4805] Re[4804]: 妄想空想  大三元 2009/01/25(Sun) 18:12 [Reply]
多美さん

> 大三元さん著書拝読しました。

有り難うございます。

> 『二重母音は嫌われる』

これは上代日本語のことで、平安時代には許されるようになってこんにちに到っていますので念のため。

[4804] 妄想空想  多美 2009/01/24(Sat) 20:51 [Reply]
『二重母音は嫌われる』

大三元さん著書拝読しました。

一年ほど前に保護した猫ちゃんに「ちい」と命名しました。
これに「チャン」を付けて「ちいチャン」と呼びます。
しかし、どうも、しっくりこない!

ところが、大三元さんの御蔭で、納得!

「チャン」を付ける場合、「チーちゃん」の方がいいようですね。

したがって、「ちい」でなく「チー」ですかね?

ところで、

広辞苑で「ぼいん」と引いたら“女性の乳房が豊かなさまをいう俗語”とありました。
「ぼいん」も認知されたのでしょうか。

正月、NHKで、小沢征爾ベルリンフィル、チャイコフスキー「悲愴」の解説をやっていました。氏は第四楽章を「儚い」と表現。                 違う!違う!これは「切ない」だ。
なんて思って、「はかない」・・・・、「墓」がない「はかない」、パンツを「はかない」・・「はか」の語源は?なんて妄想。

「切ない」映画音楽の一番手は「ひまわり」か「シェルブール雨傘」か・・・・・両方か・・・・・。

究極の選択

播磨国風土記に、土を背負って遠くに行くのと糞(くそ)を我慢して遠くに行くのは、どっちが勝つか?オオナムチとスクナビコの争いらしい(ネタ拝借)。

タケミカヅチ・・・・「槌」

そう言えば、古今亭志ん朝(三代目)の「文七元結(ぶんしちもっとい)」に吉原「佐野槌(さのづち)」という大店が出てきます。
「槌」繋がりなんでしょうか?

因みに、この志ん朝の「文七元結」が落語最高傑作と、私は、思います。

正月、落語昭和の名人決定版「古今亭志ん朝」、本屋で買う(490円は安い)。
付属CD「夢金」「品川心中」

「夢金」欲張り船頭のお噺。まくら『欲深き 人の心と降る雪は 積もるに連れて 道を忘るる』、これメモっておこう。

本題

大三元さんの著書から、縄文語、アイヌ語、琉球語の関係など理解できました。


妄想空想連想で失礼しました。

[4803] Re[4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/24(Sat) 17:37 [Reply]
くずさん

 琵琶湖のopal-A(非晶質の石英≒黄砂)のグラフは特徴的ですね。つまり琵琶湖流域への風成の(黄)砂の比率を出しているのですね。
黄河上流域から日本海側への風を示しているといえます。風成砂とは鳥取砂丘の砂丘砂に代表されるものです。 
 達家台の場合、opal-Aの量比が増加すると、SiO2の量が増加してAl2O3の量が減るので比が下がります。つまり黄砂が増加となる。
  
 なお機械ボーリングで採取する際、地下の試料を引き上げる時に、試料が伸びることがあります。その場合伸びシロは破棄されてしまいます。
 そのために琵琶湖の試料は「欠如」が発生し、ノーデータの可能性があります。あまりにドラスティックな変化なので、それが高いように思います。
 東郷池の場合は欠層がないように平行して掘削したようです。

 ちなみで風の方向で怪異な時期は、伊豆かわご平火山の火山灰が大垣から琵琶湖、大阪湾へ飛んでいる現象(普通は東方向ですが)があります。
 これは丁度2800年前〜3000年前のことなのです。

[4802] Re[4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/01/24(Sat) 17:34 [Reply]
くずさん

アイヌ語の前に日本語ですが、

> 出雲国風土記の記述から、祖父意支都久辰為命、父俾都久辰為命と、

日本語古語では二重母音が殆ど使われない(例外はあることはありますが)ので「クシイ」という語はないでしょう。「久辰為」は「クシヰ」です。「ヰ」が意味しうることは「井、猪、藺」。さてさて・・・・・

この名前の分析も難しいですよね「沖・筑紫・ヰ」と切るのか「沖の・奇し・ヰ」なのか。


[4801] Re[4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/24(Sat) 10:09 [Reply]
くずさん

 何度もおおきにです。
 明石さんは本業は経済学者ですが、よく最近の成果をまとめられています。
47ページの図4には3つの表があります。

>鳥取県東郷池の古土壌堆積物分析
 これは安田喜憲先生らのグループが日本海側のラグーンであります東郷池の湖底でボーリングをされたときの試料であります。
 このときに湖底の試料から縞縞(しましま)粘土が見つかって、その縞が季節を現していることがわかったようです。現在では年縞と呼ばれています。

>4200年前の良渚文明の時代はボンドサイクルのイベント3(4300BP)が関係していそうです。しかし、蘭州の指標からは夏季モンスーンの影響を強く受けるピークと重なっています。世界的には寒冷化でありながら、中国内陸部は湿潤だった事になります。

 海洋で出来た乾いた雲が内陸の3000m級の山脈に衝突し、雲冷却されて露点に達して湿った雲に変化して、雨が降ったということでしょう。
 但し寒冷化という表現より冷涼化の方がよさそうかもしれません。
 日本でも山岳部や日本海側は降水量が増加したようです。その関係で大阪や関東海域の大部分が埋立られて平野になったようです(名大海津正倫教授や日大遠藤邦彦教授)。4000年前はデルタの時代であるそうです。

>また琵琶湖湖水準はイベント3の時には低下しており、日本においては降水量が少ない時期と見られます。
 琵琶湖の湖水準は、8000年前標高80m、6000年前81m、4000年前81.5m、2400年前〜10世紀83m、13世紀80.5m、現在84.4mと変化するようです(奈良大学池田碩教授)。
 イベント3ではまだ湖面は上昇過程にあるようです。琵琶湖を含む周辺湿地の花粉化石を見ても、湿潤気候を示すスギが優勢なのです。

[4800] Re[4796]: 気象変動と文明崩壊  くず 2009/01/24(Sat) 00:31 [Reply]
とみたさん、佐々木さん、
東アジアの気候変動は論文「気候変動と文明崩壊」の47ページ
(1枚目が37ページ目で始まるので注意)図4表からよく説明できると思います。
http://www.seijo.ac.jp/faeco/misc/kenkyu/pdf/169/akashi.pdf

(以下、同論文47p図4と合わせて見て頂けないと、なんのこっちゃ?だと思われます^^;)

47ページの図4には3つの表があります。
1番上が鳥取県東郷池の古土壌堆積物分析による指標(青草[4779]で佐々木さんご提示)
  海面水準の変動を示すもの。
2番目は中国、黄河中流域の蘭州市(達家台)の古土壌堆積物の分析からなる指標。
  古土壌の生成要因が夏季モンスーンの影響に起因する。
3番目が琵琶湖における湖水準の変動を基にした指標
  諏訪湖でもほぼ同様の変動期を示し、湖水準の低下を降水量が少ない時期と見込める。

下向き矢印(↓)を伴って表の上に書かれている数字が寒冷化イベント(ボンドサイクル)の年代。
単位BPは放射性炭素年代で、核実験による影響の少ない1950年が基準です。
BPの前にcal.yr.とあるので、年輪等で較正された推定暦年代 (Calendar year)で示されています。

7000年前の河姆渡遺跡の時代は、蘭州の指標から温暖期であり夏季モンスーンの影響も強く受けた時代と見てとれます。
(中と下の図の上に書かれた卵形が中国における温暖期)

4200年前の良渚文明の時代はボンドサイクルのイベント3(4300BP)が関係していそうです。
しかし、蘭州の指標からは夏季モンスーンの影響を強く受けるピークと重なっています。
世界的には寒冷化でありながら、中国内陸部は湿潤だった事になります。

論文57ページにそのあたりの事が書かれており抜粋しますと、
寒冷化により中緯度偏西風が蛇行し南下。一方太平洋高気圧が何らかの形で拡大し、
夏季モンスーンを活発化させて、寒帯前線を刺激し続けたと見られる。
とあり、同時代中国に大雨、洪水があったとしたらこれが原因と思われます。

また琵琶湖湖水準はイベント3の時には低下しており、日本においては降水量が少ない時期と見られます

イベント2(2800BP)以降中国は温暖期であり、千年前頃まで夏季モンスーンの影響を強く受ける時代と見れます。




[4799] Re[4784][4781][4773]: 三保津姫  くず 2009/01/24(Sat) 00:18 [Reply]
かしこさん、
>これは、糸繰りの動きではありませんか。糸繰りと宇宙。

能登周辺の姫神さん達は皆さん機織が得意らしく気になっておりました^^
能登比盗_(能登比盗_社)石川県鹿島郡中能登町(旧鹿西町)
http://kamnavi.jp/en/hokuriku/notohime.htm
姉倉比売神社(姉倉比売神社)富山県富山市船倉、富山市呉羽町小竹
http://www.genbu.net/data/ecyu/anekura2_title.htm
http://www.genbu.net/data/ecyu/anekura_title.htm

奴奈川姫も機を織ったそうです。
http://www.city.itoigawa.niigata.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1671

奴奈川姫は母を黒姫とする伝承があるようです。
出雲国風土記の記述から、祖父意支都久辰為命、父俾都久辰為命とされるので、
俾都久辰為命と黒姫の子が奴奈川姫で、奴奈川姫と大国主の子が美穂須須美命となりますが、

少しおもしろい話かも?と思っていますのが、
遠く長崎の五島列島に「へトマト」というお祭りが伝わっており、
このお祭りでは竃の煤を「ヘグラ」と言いこのヘグラを塗りあうという奇祭のようです。
http://www.nagasaki-np.co.jp/kankou/tanhou/goto/folkart/68.html

このススとヘグラは、能登の舳倉島http://www.genbu.net/data/noto/okutu_title.htm
輪島市の重蔵神社http://www.genbu.net/data/noto/jyuzo_title.htm
そして、須須神社(美穗須須見命)のススと関連ありそうに思えています。

父、祖父の名、オキツ、へツありますし、ススの黒色→黒姫などと。
クロ、クラをアイヌ語のkur影、人(古くは神の意?)からと置くと繋がるのかも^^
クシイは、アイヌ語kus−i 通り抜ける−ところ、と置くとどうでしょうか?
付け焼刃です。ご教示頂ければ幸い。>大三元さん、

神奈備さん、[4782][4783]御削除ありがとうございます。

[4798] Re[4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/01/23(Fri) 20:37 [Reply]
 とみたさん
 こうゆうことですかね。
>縄文海進は今から6500年前(紀元前=BCの4500)

 縄文の最高海面期は5500年前だそうです(兵庫県立大学前田保夫教授)。
 瀬戸内海では、海進自体は明石海峡が9000年前、備讃瀬戸および河内湾が8000年前に海が入ったようです(同志社大学増田富士雄教授)。
 つまり8000年前に瀬戸内海の東西がつながったとのことです。

>三国志の時代は、後漢が黄巾の乱で乱れたのは寒冷化が始まって飢餓や病厄で民族が移動したのかもしれません。いずれにせよ人口は戦乱と飢餓で10分の一に激減しました。

 国際日本文化研究センターの安田喜憲教授は、焼畑家畜文化民族独自の伝染病説を唱えられています。宦官の出現とも関係があるかもしれません。
 日本は人糞利用稲作文化民族とされています。
 
>紀元前700年前後に、日本は大変な寒冷期であったようです。太陽の黒点は11年周期で盛衰を生じます。この太陽活動から気象学専門の熊本大学の中元教授が研究されておられるそうです。
 ヤタガラスの話ですね。
 この時代は海が猛烈に荒れた時代で、アムール川からどんどん氷山が日本海に流入したようです。
 この時代は現在の地球温暖化現象と酷似されているので注目されています。ゲリラ豪雨、ゲリラ豪雪、夏暑く夏寒い、冬寒く冬暑いそうゆう極端な気候期です。
 占いが流行しそうな時代ですね。神武さんのころでしたか。

>メソポタミやでは乾燥化が起こり中国では洪水が起こったのでしょうか??)
 一般論で言えば、急激な温暖期によって、海水が蒸発して雲を造ります。
そして気温の微低下によって連続的な降水が発生します。
 この気温の微低下時に、大地の緑被率が低いと土壌流出・大洪水・・・そして荒地化(→最終的に砂漠化)が起こります。
 気温の微低下時に焼畑跡地などへの稲作を主体とする人工的緑地転用があるかないかなのです。

 本テーマは安田喜憲先生の長年のテーマでした。

[4797] Re[4796]: 気象変動と文明崩壊  とみた 2009/01/23(Fri) 12:51 [Reply]
> 中国の2200年前の長江の下流域の良渚文明は寒冷化で滅びた。
訂正です。良渚文明は、紀元前2200年ごろです。今から4200年前ごろです。

上海蟹で有名な大湖の周辺です。長江の下流域です。

[4796] 気象変動と文明崩壊  とみた 2009/01/23(Fri) 12:37 [Reply]
気候変動と文明崩壊に関しては、私も大変興味を持っています。

私の材料は些少ですが、披露して皆様のご意見をいただく思います。

縄文海進は今から6500年前(紀元前=BCの4500)

縄文中期(紀元前2500ごろ)の三内丸山時代は暖かく人口が増えた時代で、列島全体で25万人という説。

紀元前1000年ごろは縄文晩期で寒冷期で人口が減って列島全体で10万人を切った。

中国は、7000年前の長江下流域の河姆渡遺跡は亜熱帯で象もいた。栽培稲粒が出ている。

中国の2200年前の長江の下流域の良渚文明は寒冷化で滅びた。

一つは大洪水説で滅びたという説。他の説は、黄河文明を背負う勢力が寒冷化に伴い南下せざるを得ず長江に侵入して長江の勢力を滅ぼした。これの後に洪水を治めた禹の夏王朝が出来る。

三国志の時代は、後漢が黄巾の乱で乱れたのは寒冷化が始まって飢餓や病厄で民族が移動したのかもしれません。いずれにせよ人口は戦乱と飢餓で10分の一に激減しました。

同じころ日本では倭国大乱が2世紀後半にあり、3?世紀崇神時代は全国に疫病や飢餓が流行する時代。大物主が陶邑のオオタタネコを呼び寄せて祈願させて収めた。246年に日本では寒冷化が始まるようです。環濠集落が消滅します。民族移動の契機かもしれません。

紀元前700年前後に、日本は大変な寒冷期であったようです。太陽の黒点は11年周期で盛衰を生じます。この太陽活動から気象学専門の熊本大学の中元教授が研究されておられるそうです。
話を中央アジアやメソポタミヤに移します。

楼蘭のミイラは、今の南ロシア地方から寒冷化に伴って4000年前に移動した白人系のアーリア人が西域に住み着いてコーカサス人(コーカソイド)が現地の女性と混血した民です。アーリア人の一種でしょう。

同じように、アーリア人は北方の草原地帯から4000年前ころに南下しました。騎馬民族のスキタイ人(ギリシャ語)これはペルシャ語ではサカ人です。中央アジアで馬や牛の犠牲として祭る民です。中国語では塞人です。これがさらに南下したのが今のインド人とイラン人です。

メソポタミやでは、寒冷化や乾燥化がシュメール文明に関係します。シュメールは今のイラクの南半分の地でしょうか。

粘土板の記事に拠れば、都市国家のウルでは、4000年前(紀元前2000年)天候異変の砂嵐で旱魃が起こり飢饉で餓死したようです。エルニーニョ現象だそうです。数十年から百年も続いたそうです。

(メソポタミやでは乾燥化が起こり中国では洪水が起こったのでしょうか??)

旧約聖書では、ウルから蜜の溢れるカナンの地に向うことになります。これが今のパレスティナで、おぞましいイスラエルとパレスティナ紛争が今も続いています。


[4795] Re[4794][4779][4788]環状木柱列遺構  佐々木 2009/01/22(Thu) 20:25 [Reply]
 くずさん

 ご案内の文献、良くまとまっていると思いました。
 最近はイベント2はダンスガードサイクルというそうです。
 イベント2は、氷山の融解による海水表面の凍結、そして凍結した海面からの太陽光の反射量の増加(海水に熱が伝わらない)、それによる海水温の低下と暖流遡上の阻害。結果気候の寒冷化と段階的です。
 おそらく冷水の影響で仮死状態の魚が大量に浜に打ち上げられたと思います。
 食事に占める魚の割合が増加したと思います。

 イベント1は、所謂「倭国大乱」がキーワードでしょうか。

 参考文献 「氷に刻まれて地球11万年の記憶」ソニーマガジンズ
 他に映画「The day after Tomorrow」

 いやはやいい勉強になりました。感謝。

[4794] Re[4779][4788]環状木柱列遺構  くず 2009/01/22(Thu) 18:41 [Reply]
佐々木さん、[4779]と[4788]を読ませていただいて、
関連資料などから自分なりにまとめてみました。

成城大学経済研究の明石茂生氏の論文「気候変動と文明の崩壊」(平成17年)より
http://www.seijo.ac.jp/faeco/misc/kenkyu/pdf/169/akashi.pdf

最終氷期以降、人類活動に影響を与えたと思われる地球規模の寒冷化イベントが7つあったと推定されている。

・ヤンガードリアスイベント(12,900-11,500年前)
最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から急激に寒冷化に戻った現象
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9

・イベント5(6400〜6000BC)
・イベント4(4200〜3200BC)
・イベント3(2200〜2000BC)
・イベント2(750BCを中心とする世界規模の突然の寒冷化)
    詳細には1300-1200BCにも寒冷のピークがあり、
    これには1400BCからの太陽活動の減衰が影響していると思われる。
・イベント1(5世紀〜7世紀)
    日本では尾瀬の花粉分析から(240〜742AD)を冷涼な古墳寒冷期と推定
    また屋久島の杉の年輪からは5世紀と7世紀半ば〜8世紀半ばを寒冷期と推定

・イベント0(小氷期 14世紀半ば〜19世紀半ば)
小氷期http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B0%B7%E6%9C%9F

北陸の環状木柱列遺構が作られた時代はまさしくイベント2に対応していると思われます。
上記論文では、750BCを中心とした寒冷化は大気循環と深層海流の変化などにより世界規模で突然に起こったと推定されているようです。(論文22P)

焼畑を目的とした火入れ(桜町遺跡からきび類のプラントオパールが出土)
と、急激な寒冷化による森林への2重のダメージによって、彼らは生活基盤を失っていったと考えられますね。
環状木柱列は太陽か森林の復活を願う祭祀遺跡とみてよいように思います。

[4793] Re[4789]  かしこ 2009/01/21(Wed) 17:22 [Reply]
>空想を傍らに置きつつ、丹念な道歩き

私もこれはよい言葉だと思います。
どうも魅力的な神名ですから、ついお邪魔してしまいました。くずさんを青草道大驀進に引き込むことなく退出を、と思っておりましたから、これで。(^^)
みなさんのお話を面白く聞かせて頂きますね。

[4792] Re[4790][4780][4778][4740][4738][4736][4734][4733][4730][4728][4726]: 足一騰宮  大三元 2009/01/21(Wed) 15:29 [Reply]
琉球松さん

> 『影薄き国つ神/伊波普猷(琉球新報)1936 』より

『をなり神の島・2』収載のものでは、お書きになった記事の直後にアシャゲの写真があり参考になりましょう。

[4791] Re[4789][4787][4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/01/21(Wed) 15:20 [Reply]
くずさん

> ただこの空想を傍らに置きつつ、丹念な道歩きは出来るつもりでいます。

素晴らしい。それですよ、それ!
私も色んな思いつきをバッファに入れておく、ナンカの時にハッとつながったりする、そういう自分なりの醍醐味が喜びです(^^)

今回はくずさんのバッファの開陳を強要しちゃったことになり失礼しました。

> 今回、大三元さんの歩かれる大道を辿らせて頂いた時、カヤナルミの周辺に最も気持ちが騒ぎました。

大道とは恐れ入りますが、はい、カヤナルミ周辺も三保津姫も、葉江さんも面白いテーマですよね。ガンバリましょう(^^)

[4790] Re[4780][4778][4740][4738][4736][4734][4733][4730][4728][4726]: 足一騰宮  琉球松 2009/01/21(Wed) 10:55 [Reply]
 大三元さん、いつもありがとうございます。

「ホフキ(沖縄島北部にて)」が「ハブキ:羽鞴」の転訛だとすれば、(ホトに風を入れる)との解釈はあたらないかもしれませんね。

 それから、「アシ」について、今ひとつの解釈を見つけましたので紹介します。
『影薄き国つ神/伊波普猷(琉球新報)1936 』より
*** 「土台」のことを古く「あし」といったことは、首里城の東南の石がきを積んだ事を歌ったオモロに「しもアシから、もとアシから織り上げて、たけ高くはり広くおり上げて」とあって、石垣の基礎になる部分を「あし」といっているので知れる。(略)
 現代琉球語で、土台のぐらつくを「アシヌ弱サン」といい、またすべての物の下にあって、その体を支える脚に似たものを、国語同様に「あし」というから、「あしあげ」に土台騰宮の議があり、従って紀の足一騰宮にも同じ意味があるに違いない。***

[4789] Re[4787][4781][4773]: 三保津姫  くず 2009/01/21(Wed) 10:36 [Reply]
大三元さん、
後で無駄な時間を費やしたと、そう思われてもいけないので、
正直なところを書いてみました^^

ただこの空想を傍らに置きつつ、丹念な道歩きは出来るつもりでいます。
いかにもそれらしい場所には何もなく(あっても霧の如くに霧散していて掴めない。)
ただ道端の石ころのように、
はっきりとした形を伴うモノにこそ真実に辿りつく可能性が秘められる。
そうした事がままあると考えるからです。

今回、大三元さんの歩かれる大道を辿らせて頂いた時、カヤナルミの周辺に最も気持ちが騒ぎました。
三保津姫はとても魅力的ですが、磯城県主葉江さんを尋ねてみようと思っています。


かしこさん、ご無沙汰しております。
かしこさんとのやりとりは個人的にはとても楽しいのだけれど、
また突っ走ってしまう事になりかねないので、今回は自らに自重を言い聞かせつつ、
お話が出来たらいいかな。と思っています。
よろしくお願いします^^

[4788] Re[4785][4777]立柱と火の祭祀  佐々木 2009/01/21(Wed) 10:18 [Reply]
 くずさん

 いい資料をご案内頂き恐縮です。小生資料探しは不得意なのです。
>戸隠、飯縄の高原域は標高が900〜1200m、現在も積雪が50cm〜1mほどあります。
 ご案内頂いた富山県の井口・桜町遺跡あたりでは積雪は、戦前(おそらく昭和30年ぐらいまで)ならば平均6m程度、井口では場所により12m以上。
 冬電柱の上に老人がしばしば腰掛けておられました。雪の下に住居があって、もぐらのように出入りしていました。鳥居の上に石を置いたことがあります。

 2800年前ごろの気候は現在の平均気温と比し−1℃程度だったと言われているので、もう少し積雪はあったと思います。
 おそらく環状木柱列は雪の下なのでしょうか。地下水位が高い場所ので、地温の関係で雪が比較的少なかったのかもしれませんが、当時なら定住は考えにくいです。目印にはなります。
 海岸沿いの真脇や桜町へ移動したのか、または南下したのかもしれません。

 なお卑弥呼のころが、−3℃程度(縄文前期以降の寒冷気候のピーク)だったそうなので、このときは大規模な民族移動(南下)があったかもしれません。それまで出会わなかった人々が争ったりしたのでしょうか。
 以下ランダムです。
 さらにそれぞれご案内頂いた遺跡を見ていますと、方形→環状の変化があるような印象です。

 最後に稲作関連遺跡は、長野では御社宮司、一津、石行、新潟では御井戸があるのですね。

[4787] Re[4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/01/21(Wed) 08:50 [Reply]
くずさん

> 個人的な概念の話になってしまいますが青草板とお許し下さい。

リクエストしておいて、なんですが、ついて行けませんので、あしからず。

[4786] Re[4785][4777]立柱と火の祭祀  くず 2009/01/20(Tue) 22:58 [Reply]
度々すみません、滋賀県正楽寺遺跡のリンクを訂正します。
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2133/index.html

[4785] Re[4777]立柱と火の祭祀  くず 2009/01/20(Tue) 22:43 [Reply]
申し訳ありません。[4782]及び[4783]は誤って書き込みしてしまいました。
神奈備さん、お手数をお掛けしますが上記の削除をお願い出来ないでしょうか。
以後気をつけます。

佐々木さん
> たとえば飯綱高原での火入れに関する参考文献は富樫ほか(2004)長野県自然保護機構研究所7、1-15.

ご案内の論文、見る事が出来ました。
http://www.pref.nagano.jp/xseikan/khozen/khokoku/kyuizuna/pdf_f/bull_p/bull_71.PDF

試料が採取された飯縄高原の逆谷地は家から車で15分ほどの所ですので驚きました^^
http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/ike/sakayati.htm

>富樫文献では長野県飯綱高原では縄文後期から人間活動に伴う火入れが活発化した。

縄文晩期と弥生期の境(論文の試料年代はBC.900〜BC.600年頃と推定)あたりから蕎麦類の花粉が検出されるとあり驚きました。

戸隠、飯縄の高原域は標高が900〜1200m、現在も積雪が50cm〜1mほどあります。
今の気候で古代に人が定住したとはとても思えません。
ただし縄文中期までの遺跡は高原域でも見られます。子供の頃、良く土器や黒曜石を拾いました。
縄文後期からは寒冷化が進み、結果、高原域には定住者がいなくなったと感じていました。
早期の遺跡が見られるような河川沿いの洞窟に、晩期に属する薄手の土器が見られるので、
縄文中期の文化は失われ、早期に戻るような生活が行われていたと考えていました。
しかしその時期に高原域に火入れが行われ、蕎麦類、稲類の栽培が行われていたとしたら、新たな想像心が掻き立てられます^^

火関連の話で、火伏せの神、秋葉神社の三尺坊は戸隠(飯縄とも)出身とする伝承があります。
戸隠、豊岡神社にあります飯縄神社の里宮と秋葉社は共に2mほどの自然石の石柱を立ててその上にお社を乗せています。
古い信仰が背景にあるように感じています。

立柱と火の関係で見ますと、
諏訪郡原村、阿久遺跡(縄文前期)の環状集石群の立石周辺には火床があり、立石にも焼けた痕が残っている事から、火を焚く祭祀が行われていたようです。
またここからは方形に木柱を配した遺構も見つかっています。

北陸の環状木柱列と阿久遺跡では随分時間差がありますが、新潟県糸魚川市(青海町)の寺地遺跡から、
炉跡を伴う配石遺構、組石墓、木柱群が見つかっています。(この遺跡からは環状木柱列遺構は未発見)
http://www.nbz.or.jp/rekibun/iseki/teraji.html

北陸の環状木柱列遺構からは炉跡は見つからないようですが、
金沢市、米沢遺跡の環状木柱列遺構中央部の穴から鮭の骨が検出され、土が焼かれた跡があるそう。
滋賀県の正楽寺遺跡で見つかった環状木柱列遺構は中央部に篝火をたいた焼け痕があり、
ここでは火を使う祭祀が行われたようです。
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2133/index.htm
l

>安田喜憲先生は火入れはクリ園の管理と示唆されていますね。
>参考文献:安田喜憲(1996)森の日本文化 縄文から未来へ 新思索社

富山県桜町遺跡で見つかっている栗の実(殻)は大きく現代の栽培種に引けを取らないようです。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/kikaku/022/2.htm

また石川県埋蔵文化財センターの文化財情報11号に、
「縄文晩期の低湿地集落」という発表記録があり、環状木柱列遺構を含む日本海沿岸部の様子が窺えます。まだ全部読めていないので論文資料のご紹介まで。
http://www.ishikawa-maibun.or.jp/senter/pdf/jouhou_11.pdf

> ※環状木柱列もクリ。面白い一致です。
> ※配置は木柱列と墓が対照(生命と死)ですね。これも面白い。

遺跡の配置平面図を眺めましても、対照位置と見えなくもないです。

[4784] Re[4781][4773]: 三保津姫  かしこ 2009/01/20(Tue) 22:37 [Reply]
お久しぶりです。横からちょっとだけ失礼致します。
世界樹にはこころ惹かれますね。記事、面白く拝見しました。

 神目伊豆伎比古:目=北極星。目は牟。
 神杉伊豆牟姫 :杉=地軸。杉は伎。

という形で、北極星と地軸の関係、首振り運動を表現しているのでしょうか。
首振りの描く軌跡は、杖に絡まる蛇を思わせます。ナーガとナーギ、ジョカとフクギのようでもあります。イザナギとイザナミにも通じますか。
そしてこれは、糸繰りの動きではありませんか。糸繰りと宇宙。

[4781] Re[4773]: 三保津姫  くず 2009/01/20(Tue) 17:14 [Reply]
大三元さん、
> > 伊邪那美命と美穂津姫の神格がなんとなく近いところにあるのでは・・が今のところ。
> 出来ればもう少し伺いたいですね。

個人的な概念の話になってしまいますが青草板とお許し下さい。
自分は造化三神と別天神の5柱を、北極星を頂にし、地軸延長を幹(柱)と見立てた世界樹に相当する神格ではないかと考えています。
"高木の神"と言われる高御産霊神もその1柱。
世界樹がイメージされるのは星空が見える夜の世界。
高御産霊神は人格神ではないけれども、その"夜の御柱"に仕える巫女が三保津姫ではないかと考えます。
伊勢の心御柱奉建に繋がるかもしれない。

そして同じく高御産霊神の子とされる栲幡千千姫命は七夕姫を想起させますし、
同じく子とされる思兼命が常世神とされるのも異世界に住まうとの認識からと思います。
造化三神の1柱、神皇産霊神の子の少彦名命も常世に去りました。

また丹波国一之宮の出雲大神宮では御影山に国之常立神が祀られます。
この神は別天神の天之常立神に続く神です。
出雲大神宮に三穗津姫が祀られるのもそうした由縁(世界樹を祀る巫女)があるのではないかと思います。
http://kamnavi.jp/yamasiro/izumodai.htm

これも前に書いた事があるのですが、
風土記や伝承にある半分を殺し半分を生かす神がいます。
(大三元さんからお借りします。http://www.dai3gen.net/arajin2.htm
出雲之大神、出雲御蔭大神と名が出てきます。
この神は大国主の別名とされているかと思いますが、
上記の出雲大神宮に祭られる御影の神と関係あるのではないかと考えます。
世界樹の周りを回転する星々を魂と見たて、星々は日周運動で半分は沈むけれども半分は昇ってくる。
その様子を神の所業に見立てた話(信仰)が変質したものではないか。と思っています。
これは、黄泉の国で毎日千人を殺すと言う伊邪那美命の神格と重なるところではないか、とも。

縄文に遡る思想、信仰の形ではないかと思います。出雲はその信仰の上に、築かれたのではないか?
中央(北九州、出雲、大和、)がどうにもならなくなった時、(倭国大乱)
縄文→出雲系信仰を引き継ぐ、地方(越?)の姫巫女が中央入りし、
祭祀を取り仕切った(卑弥呼か^^)

が、今の自分の青草です。
この場合卑弥呼=日の巫女ではなくなってしまいますけれど。

>>オホ(意富)ヤをイフヤと読むケースはないでしょうね?
> ないでしょうね。少なくともそういう例を存じません。

ありがとうございます。

> いわゆる卑弥呼の日食:248年09月05日のもの:の皆既帯は越・能登にかかり、夜須でも奈良でもない。この日食が岩戸隠れやら卑弥呼に関連づけて考えられるのならば、越・能登のあたりを十分検討する必要があるのではないか、と思ってます。

能登の神杉伊豆牟姫に興味を持っています。
名の通り、神の杉を斎祭る姫のようです。
能登の民話伝説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/LegendsInNorthNoto-3.htm
猿鬼と対決しますが、岩戸に隠れる猿からは太陽神を想像します。

同じ能登の式内社に、神目伊豆伎比古神社があります。
能登にはヒコ、ヒメで祭られる社が多く、このヒコ神は民話伝承には出てきませんが、
元々は神杉伊豆牟姫と対になる神が祀られていたのではないかと思います。
自分は世界に広く残る一つ目一本足伝承も、一つ目→北極星、一本足(地軸延長=柱)ではないかと考えていますので、この"神目"の名に惹かれます。
神杉姫と対立した猿鬼は矢で射られて片目(左目)を失います。
もしやすれば、この猿鬼が神目伊豆伎比古なのかも。

エジプト神話では天空神であり太陽神のホルスが、砂漠と異邦の神、嵐の神セトと戦い、
ホルス左目を失い、セトは片足と睾丸を失います。
失われたセト神の足は天に上がって北斗七星になったそうです。



[4780] Re[4778][4740][4738][4736][4734][4733][4730][4728][4726]: 足一騰宮  大三元 2009/01/19(Mon) 10:36 [Reply]
琉球松さん

最初の二点は良く判りませんが、

>  また、片足(足一つ?)で操作する「フイゴ」の古名は「ホフキ(ホトに風を入れる)」だそうですから、剣製造などの金属加工施設の可能性もあると思います。

「ホフキ」という語は時代別国語大辞典上代編では見つかりません。今「フイゴ」というものについては「ハブキ:羽鞴」が出ています。また、「フキガハ」もあります。(同辞典では「これの大きなもので足で踏んで操作するのがタタラである」としてます。)

「フイゴ」は直接的には「フキコ(吹き子?)」の音便だろうと思いますが「フキコ」という語も上代のものではなさそうです。

ですから「「フイゴ」の古名は「ホフキ」」というのはどの程度の「古さ」なのか疑問です。が、「ホフキ(ホトに風を入れる)」という「解説」は面白い。というのは:

ホトは「火戸」である、という説を見た記憶があります。この説自体は、「ホト(富登)」の「ト」が乙類であるのに対して「戸」の「ト」は甲類だから、疑わしいのですが、火の起源がホトにある、という南洋などで採集されている説話に照らして面白いと思います(カグツチの話もこの流れでしょう)。また、縄文土器にも女性の腹部に火をおくようになっているものがあったと思います。

ニニギの母親に関して「火之戸幡姫の女、千千姫」という伝承があり、火戸=陰部なら、この名の意味も少し判るのかと思いましたが、甲乙違いで失敗でした。

「ホト」は「ホソ(臍)」と同源ではないかと思ってます。アメノウズメが岩戸隠れのところでは「裳緒を番登(ホト)におし垂れき」とあり、サルタヒコと向かい合うときには「裳帯を臍(ホソ)の下におしたれて」とあるのを参考にしています。また「ト」と「ソ」は共に tso(ツォ)あたりに遡ると考えられ、サ行音とタ行音が交代することが見られます。

[4779] Re[4769][4765][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  佐々木 2009/01/19(Mon) 10:20 [Reply]
くずさん
> その時代、アジアの西ではスキタイの移動があり、東はモンゴル方面にまで影響下にあったようです。
> 周が実質滅んで春秋戦国時代に移行したのもその時代。
> 結果玉突き的に日本へ人や文化が流れ込んで弥生化が進んだとしたら、
> 引き金は太陽活動の低下による(世界的な?)寒冷化にあったのでしょうか?

 環状木柱列の時代(2800年前以降の数百年間)は、鳥取県東郷池の縞縞粘土に関する首都大学の報告書(福沢仁之先生ほか)では、北大西洋で融氷イベントが起こった時期と一致し、融氷による海水温の急低下による急激な寒冷化と、気候の温暖化がもたらす急激な気候の回復が起こった時代に当たるようです。
 つまり「世界的な異常気象の起こり易かった時代」と要約できるように思います。 現在見られる地球温暖化によって引き起こされるゲリラ豪雨と豪雪のような極端な現象が多発した時代なのかもしれません。
 当時ならは祭祀遺構が急増してもおかしくはないのでしょうか。

[4778] Re[4740][4738][4736][4734][4733][4730][4728][4726]: 足一騰宮  琉球松 2009/01/18(Sun) 23:51 [Reply]
 大三元さん、どうもです。

 なんか、やっぱり金属の匂いがしますね。「ヤマタノヲロチ・天村雲剣」「高倉下命・フツノミタマの剣」。

 沖縄諸島の「神アシャギ」の軒が低いのも、それなりに風量調整をしているようにも見えるわけで。。。強風だと「タケミカズチ」が失火して死んでしまうのかも?
 また、片足(足一つ?)で操作する「フイゴ」の古名は「ホフキ(ホトに風を入れる)」だそうですから、剣製造などの金属加工施設の可能性もあると思います。

[4777] Re[4774][4771][4769][4765][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  佐々木 2009/01/18(Sun) 10:59 [Reply]
くずさん
切れまして申し訳ございません。
富樫文献では長野県飯綱高原では縄文後期から人間活動に伴う火入れが活発化した。
また京都の深泥池でも2500年前以降に火入れ(微粒炭)が増加したようです。
http://www9.pref.kyoto.lg.jp/kankyo/rdb/eco/rs/rs02.html
安田喜憲先生は火入れはクリ園の管理と示唆されていますね。
 参考文献:安田喜憲(1996)森の日本文化 縄文から未来へ 新思索社

※環状木柱列もクリ。面白い一致です。
※配置は木柱列と墓が対照(生命と死)ですね。これも面白い。

[4776] Re[4774][4771][4769][4765][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  佐々木 2009/01/18(Sun) 10:14 [Reply]
> 当時ですと、小川など自然河川でも飲料水にはなりえたと思うのですが、
> わざわざ自噴帯を選ぶ理由はなんでしょうね?
> 木を多く切るようになり(あるいは気象異常が植生に影響を与え?)川が荒れる→
> 河川の近くには集落を作れなくなった。(かな?)

立地場所が扇状地の扇端なので地下水が自噴するのですが、扇状地のほかの場所は無能河川化しているので、地下水の自噴帯に集落形成するのはよいのですが、弥生初頭の気候寒冷化による河川の下方侵食の伴う地下水位の低下もあるだろうし、ご指摘の火入れの増加もあるのかな。
 たとえば飯綱高原での火入れに関する参考文献は富樫ほか(2004)長野県自然保護機構研究所7、1-15.


>
> >環状木柱列遺構の時代を顧みると、日本海側の食文化軸の変化との関係ありかと思います。
>
> 生活を支える食文化軸が変わると、祈りの対象も変化していくのでしょうね。
>  

[4775] Re[4772][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  くず 2009/01/17(Sat) 23:26 [Reply]
素人さん、
> 雷で割れた木の写真、ネットで探して見ました。
見事に割れるものですね。
抜きん出た大木になれば雷害にあう確率も高いでしょうし。。
遺物から焼け跡など、痕跡が認められていたら確証を得られるのでしょうけど。

> 御射鹿池の改修
池の様子はわかりました。ありがとうございました。
褐鉄鉱に興味があります。
写真から鉄成分の有無はわからないので、今度諏訪に行く機会のある時よってみようと思います。

[4774] Re[4771][4769][4765][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  くず 2009/01/17(Sat) 22:57 [Reply]
佐々木さん、ありがとうございます。

>環状木柱列の見つかっている地点は、ほとんどが地下水の自噴帯に位置することが共通事項であることは理解できました。

井口遺跡の調査実測平面図が手元にあります。
その例ですと、集落の中央に幅20mほどの空間(広場)があり、住居群が広場をはさんで北西と南東にあります。
環状木柱列遺構は、北西住居群と広場の境にあり、入り口を南西に向けています。
遺構と最も近い住居痕(柱穴)までは2mほどしか離れていません。
遺構は、同位置に4度立て替えられていますので、集落の存続期間の間は存在したと考えられます。

    北西住居群
      環状木柱列遺構


               広場

                
                     南東住居群
                         墓壙
集落の一部を聖域としているというよりは、
密集する住居群と柱列遺構は領域を共にしている感じです。
 もし祭祀施設ならば、お茶の間に仏壇がある感じ。(森かな〜?)

>地下水の自噴帯

当時ですと、小川など自然河川でも飲料水にはなりえたと思うのですが、
わざわざ自噴帯を選ぶ理由はなんでしょうね?
木を多く切るようになり(あるいは気象異常が植生に影響を与え?)川が荒れる→
河川の近くには集落を作れなくなった。(かな?)

>環状木柱列遺構の時代を顧みると、日本海側の食文化軸の変化との関係ありかと思います。

生活を支える食文化軸が変わると、祈りの対象も変化していくのでしょうね。
 

[4773] 三保津姫  大三元 2009/01/17(Sat) 20:07 [Reply]
ぐずさん

> 伊邪那美命と美穂津姫の神格がなんとなく近いところにあるのでは・・が今のところ。

出来ればもう少し伺いたいですね。

> オオ(ホ)ヤツ姫のオホ(意富)ヤをイフヤと読むケースはないでしょうね?

ないでしょうね。少なくともそういう例を存じません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三保津姫については、こんなことを考えてます。
1.第一次出雲・越戦争:出雲が越の八口を押さえて出雲の勝ち
2.第二次出雲・越戦争:稲佐浜での講和交渉、出雲が国を譲る、越の勝ち。大物主と三保津姫の婚姻。

1.と2.が倭国大乱。三保津姫を立てて平和になる。。。卑弥呼だぁ。
不満分子のタケミナカタ、ヌナカハ一派が神武の嫡男タギシミミを殺しクーデター。(卑弥呼没後男王が立ち、また国が乱れる、そして「豊」が立つ)
「豊」のつく天豊津媛とか倭国豊秋狭太媛あたりが勢力盛り返し。

> 能登のあたりをもう少し^^

いわゆる卑弥呼の日食:248年09月05日のもの:の皆既帯は越・能登にかかり、夜須でも奈良でもない。この日食が岩戸隠れやら卑弥呼に関連づけて考えられるのならば、越・能登のあたりを十分検討する必要があるのではないか、と思ってます。

[4772] Re[4763][4759][4760]環状木柱列遺構  素人 2009/01/17(Sat) 19:20 [Reply]
くず様
割れた木で、雷の霊力が宿っていればと安易に思ったわけです。
>
> 凄い発想ですね!
> 山仕事している人間なら常識ですが、環孔材である栗は縦に裂けやすいんです。
> たとえ落雷によって裂けたり燃えたりしなくても、立ち枯れしてしまう事はある。
> 栗の木では見たことがありませんが、杉等を切るとたまに中心部の組織が死んでアリが入っている事があります。
> そうした木は雷が落ちた木と思われています。(俗説で、本当にそうなのかは解りません)
> 栗の大樹に同様の事が起こるなら、本来腐食に強いはずの芯部を取り去るのも、理由となりそうです。
> また雷が落ちた木なら、大切な食料源を切り倒して使ってしまう事も頷けます。
> (現代人的発想かもしれないけれど…)
>

栗の大木は結構、江戸時代までは沢山有ったようですから大切な木ではなかったかも知れません。現在は見かけませんが。
雷で割れた木の写真
ネットで探して見ました。
やはり、沢山植えられているヒノキや杉の木で多いようです。
森の仕事人のブログ
2008-10-30自然の力 
雷で裂けた木
http://g-moriren.mo-blog.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/10/30/pict5401_2.jpg
http://g-moriren.mo-blog.jp/chousa/2008/10/index.html
鳥取県日野総合事務所農林局Web
スギ・ヒノキの落雷被害〜皆様のご相談から〜
樹幹に縦亀裂が生じた状況
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/299725/雷被害近景.jpg
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=94257
雷で裂けた木の写真
http://qel.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/08/20/sugi2_2.jpg
http://qel.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/08/20/sugi3.jpg
あまり強力な雷ですと木が爆発してバラバラになるようです。
山を採取などで廻っている時に、見つけたら目印をしておき適当な時期に刈って山などから引き出せばいいのではないでしょうか。
球電(火の玉)は落雷の落ちた木の周辺部(地面など)から御出現になり周辺を飛び回られるようですから必ずしも内側ではないようです。
>ミシャクジにも通じそうな地名ですね。
>諏訪鉄山跡が近くのようですが、御射鹿池も鉄分が多いようでしたか?
>褐鉄鉱を作る鉄バクテリアが働いていると水面に虹色の皮膜が浮く事があるのですが。

御射鹿池の改修
http://www.mizumori.pref.nagano.jp/modules/pukiwiki/?%B8%E6%BC%CD%BC%AF%C3%D3%A4%CE%B2%FE%BD%A4
池の状態がわかります。
Webの紹介ばかりになりまして、申しわけありません。
三宅島行って来ました。
大路池(マール)全体がご神域のようなところでした。
島全体が火山と言う島です。
神津島が見えましたが、肉眼ですと非常に近くに見えます。
伊豆三島神社と「火山と泉」・「神津島・黒曜石と石鏃」は強い結びつきがあると感じる三宅島でした。
青草失礼しました。

[4771] Re[4769][4765][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  佐々木 2009/01/16(Fri) 20:15 [Reply]
くずさん

>遺跡にはそのあたりの資料ありますでしょうか?
 入口なるものの方角は現場図面を入手していなかったので、わかりません。
 しかし環状木柱列の見つかっている地点は、ほとんどが地下水の自噴帯に位置することが共通事項であることは理解できました。
 なおチカモリ遺跡周辺での環状木柱列遺構は、御経塚遺跡と米泉遺跡であります。ともに手取川の扇状地の自噴帯で、先の桜町、真脇、桜町、井口遺跡もすべて地下水の自噴帯であるようです。
 なお滋賀県の正楽寺遺跡でも環状木柱列遺構が見られます。こちらも愛知川扇状地地下水の自噴帯でした。
 また正楽寺遺跡の環状木柱列遺構については植田文雄さんが著書「縄文の淡海学(サンライズ出版)」で、環状木柱の複数の木柱は「森」を意味すると述べています。

>引き金は太陽活動の低下による(世界的な?)寒冷化にあったのでしょうか?
 そうなりますね。
 日本海側は気候の微寒冷化と降水量増加によって、花粉化石を見るとスギが激増するようです。
 一方単位量あたりの熱量の高いクルミやトチノミが激減または、ほとんど無くなってしまうようです(たとえば京都府レッドデータブック自然環境編)。
※クルミやトチノミの熱量は鮭の2倍から3倍です(佐々木高明「日本史誕生」集英社)。
 環状木柱列遺構の時代を顧みると、日本海側の食文化軸の変化との関係ありかと思います。
 御経塚遺跡ではそれ以降稲作がはじまるようです。 

[4770] Re[4767][4766][4762][4761]木→火、イヤとミホ  くず 2009/01/16(Fri) 01:52 [Reply]
>大三元さん、

>言葉の方からも「8」と「3」が対立的(対比的)に観察されるように思うからです。
> http://www.dai3gen.net//gishi06.htm
> 三保:八穂丹杵築
> 三島:八島
> 三雲:八雲
> 三井:八井 etc.
興味深いところですが、その部分(対比構造)には考えが及びません。
大三元さんの、卑弥呼と当てられた音がヒミホであったのでは、と言う部分、惹かれています。
伊邪那美命と美穂津姫の神格がなんとなく近いところにあるのでは・・が今のところ。
オオ(ホ)ヤツ姫のオホ(意富)ヤをイフヤと読むケースはないでしょうね?

[4768]神奈備さん、ありがとうございます。
能登のあたりをもう少し^^
>能登は大国主神とゆかりが深いのですが、気多大社、能登生国玉比古神社、大穴持像石神社などに祭られています。

能登生国玉比古神社はご祭神を多気倉長(たけくらなが)命とするのですね。
http://kamnavi.jp/it/higasi/ikukuni1.htm
姫神、市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。

少彦名命の妃、は少し衝撃でした(^^)が、又の名、伊豆目比売命とは、
輪島市三井町の式内論社の大幡神杉伊豆牟姫神社と関係ありましょうか。
足摩乳命 奇稲田比当スがご祭神で、市杵嶋姫命を配祀としています。
http://www.genbu.net/data/noto/oohata_title.htm
穴水町の神杉伊豆牟比盗_社は、伊豆牟比当ス 大名持命 三穗津比当スがご祭神。
http://www.genbu.net/data/noto/kamisugi_title.htm

海部氏勘注系図に出てくる、火明命と市杵嶋姫命の子に穂屋姫命の名があり、
天香語山命との間に天村雲命を生んだとあります。

この市杵嶋姫命とは越の伊豆牟姫ではないでしょうか。
この姫、猿鬼と戦い、岩戸の前で舞うのですね。ウズメとの共通項。。
系図に言うその子、穂屋姫とは神杉姫の子で木の神を祀る、オホヤ姫?

[4769] Re[4765][4763][4759][4760]環状木柱列遺構  くず 2009/01/15(Thu) 23:55 [Reply]
佐々木さん、

>炭素14同位体の変動から見ると2800年から2600年前は、一時的に太陽の活動が弱まった時期であると。いわゆる気候の一時的寒冷期。
>その時期以降に環状木柱列遺構が集中するのは、太陽の活動または太陽祭祀?と何か関係があるのだろうか?

その時代、アジアの西ではスキタイの移動があり、東はモンゴル方面にまで影響下にあったようです。
周が実質滅んで春秋戦国時代に移行したのもその時代。
結果玉突き的に日本へ人や文化が流れ込んで弥生化が進んだとしたら、
引き金は太陽活動の低下による(世界的な?)寒冷化にあったのでしょうか?

環状木柱列の遺構を見る限り、入り口部分として残る構造が印象的で、太陽祭祀と関係あるのなら、その方角に何かの意味があるのではないかと考え、少し調べてみました。
チカモリ、真脇、桜町の遺跡は南東(南南東)を向き、井口遺跡は南西を向いていました。
同じ場所で何度も立て変えられていますが、その都度入り口は同じ向きに向けられたようで、今だ気になっています。
井口遺跡の遺構では入り口構造の正面数mの所に独立した柱アナがあったようです。
佐々木さんのお調べになった遺跡にはそのあたりの資料ありますでしょうか?

[4768] Re[4766][4762][4761]木→火、イヤとミホ  神奈備 2009/01/15(Thu) 09:55 [Reply]
> 大屋毘古神はここで生まれてますが、実際の出自とは違い、家屋の神として再編された結果ではないか?

 それはありうるお話でしょうね。

 『先代旧事本紀』での大屋比古神・五十猛神

 陰陽本紀 国生みの後更に・・次生 大屋比古神  古事記とほぼ同じ

 地神本紀 素盞嗚尊が熊成峯より根国へ、その児五十猛神が天降り時、多くの木種を持て来て筑紫から播き始め・・・五十猛神は有功の神 妹大屋姫命次抓津姫命三神木種を分布し紀伊国に祭られる  日本書紀に似る。

 地神本紀 大己貴神が八十神に殺されそうなので紀国之大屋彦神の御前所に逃げる  古事記と一緒

      天照大神と素盞嗚尊との誓約の後、宗像の祭る三女神の後、
      次 五十猛握神 亦云 大屋彦神 次 大屋姫神 次 抓津姫神 紀伊国造の祭る神  日本書紀

 最後の五十猛握神とは多分五十猛神のことで何らかの事情で「握」が入り込んだものとは思いますが、『上記』には面白い記述があります。

『上記』第4綴 第8章 スサノヲに地上平定の詔勅を下す の項で

 こ こ に 国 照 大 神(素盞嗚尊のこと) そ の 御 子 多 紀 理 毘 売 の 命 市 寸 島 比 売 の 命 多 岐 都 比 売 の 命 五 十 猛 の 命 五 十 猛 背 面 の 命 大 屋 毘 古 の 命 大 屋 比 売 の 命 抓 津 比 売 の 命 八 柱 の 御 子 神 を 率 き ・・

 ここでは五十猛命と大屋彦命とは別神、また聞き慣れない五十猛背面(いたけるそとも)の命が登場しています。

 大屋彦神がいつ生成されようとも、紀の国の古い神だ思われます。紀の国の伊太祁曽神社の前身は大屋彦・大屋姫が祭神であり、そこに五十猛・抓津姫が習合して姫神はそのまま残り、男神が一本化されたものと思われます。
 
 能登は大国主神とゆかりが深いのですが、気多大社、能登生国玉比古神社、大穴持像石神社
などに祭られています。伊夜比めさんを三穗津姫命と考えますと、遙か佐渡や弥彦の神を迎える「おすずみ祭」は本来隠れて行う浮気を盛大にやってのける女傑!

[4767] Re[4766][4762][4761]木→火、イヤとミホ  大三元 2009/01/14(Wed) 17:58 [Reply]
「イヤとミホ」というタイトルに惹かれます。
というのは、言葉の方からも「8」と「3」が対立的(対比的)に観察されるように思うからです。
http://www.dai3gen.net//gishi06.htm
三保:八穂丹杵築
三島:八島
三雲:八雲
三井:八井 etc.

[4766] Re[4762][4761]木→火、イヤとミホ  くず 2009/01/14(Wed) 13:24 [Reply]
> [4761]大三元さん、
> 2.ククノチ→ククツチ(あり得ようが実例なし?)→カグツチ
> 3.火を起こすには木をこする

> [4762]神奈備さん、
> 大屋毘古神と五十猛神とが異名同神としているのは『先代旧事本紀』ですが、
大屋毘古神は諾册尊が神々の生成の所で登場させる神であり、実際には異名異神なのでしょう。

古事記は序文に五行の事が書かれています。
伊耶那岐命、伊耶那美命による神生みの段はその五行思想(木→火→土→金→水)に基づいて(記紀編纂時か?)に再編されているのではと考えます。
国土となる島を生んだ後、住まいとなる家(宮)の神(俗に家宅六神)を生む。
大屋毘古神はここで生まれてますが、実際の出自とは違い、家屋の神として再編された結果ではないか?

次に海の神、水の神となります。
中国春秋時代に確立されている五行思想は"木気"から始まりますが、
"水気"から始めるところが倭風アレンジではないか?

水に関連した神が出揃うと、風神の志那都比古神、木神の久久能智神。
五行で風は"木気"、以下山神、野神、
鳥之石楠船神も楠の船という素材から、大宜都比賣神も食物として考えここまでが木気。
そして火神、迦具土神が生まれる。火気。
次、苦しむ伊耶那美命から生まれるのが"土気"にあたるのではないか?

多具理から生まれる金山毘古神、金山毘賣神は、金気とも取れますが、鉱物の土に近い自然の状態を表すのではないか。
屎から生まれる波迩夜須毘古神、次波迩夜須毘賣神はそのままに土器素材としての粘土。
尿から生まれる彌都波能賣神、和久産巣日神その子豊宇気毘賣神。
彌都波能賣神は水神ですが、前後の結びつきから生産に結びつく肥料や灌漑の神としての配置と見ます。
それから、人が火を介して生産する金属の"金気"へ。
石拆神、根拆神、石筒之男神は鉱物採取か。
甕速日神、樋速日神、建御雷之男神は金属精製や金属そのもの。
血から生まれる闇淤加美神、闇御津羽神は闇の字が金属器を使った戦いの暗部を想像させますし、金属につく結露(水)とも見えます。

水気→木気→火気→土気→金気と、水気を先に持ってくる点、
それぞれの気を繋ぐように、水気の強い神が配される点、(彌都波能賣、泣澤女、闇淤加美、闇御津羽)
が日本風のアレンジ?^^

> [4762]、神奈備掲示板[9687]、神奈備さん、
> 伊弥比古神と出雲の揖夜神社や紀州の熊野神社(いや)、阿波の祖谷など。

出雲の伊賦夜坂対岸に三穗津姫命を祀る美保神社。
三穗津姫は高木の神の子で、国を譲り、幽冥主宰大神となった大国主命の妻。
イフヤ、イヤには異界、冥界のような意味が付着していそうですが、
トップページでご紹介の能登島、伊夜比め神社、ご祭神の元の鎮座地がイヤミ。
同神社に(姫が)弥彦の神を迎えるお祭りが"おすずみ祭"
大国主と越の奴那川姫の子が美穂須須美命(性別不明)で、能登の須須神社のご祭神、美穗須須見命。
玄松子さんのページ、須須神社
http://www.genbu.net/data/noto/suzu1_title.htm
出雲の国引き神話では越国の都都(珠洲?)の岬を三穂埼に引いたと言う。

能登島の伊夜比めとは美穂津姫=美穂須須見命ではないか?

[4765] Re[4763][4759][4760]環状木柱列遺構  佐々木 2009/01/13(Tue) 20:39 [Reply]
 くずさん
> 小矢部市の桜町遺跡(http://www.city.oyabe.toyama.jp/sakura/syu-5.htm) 
> 南砺市の井口遺跡などは海からだいぶ遠いようです。
小矢部市の桜町、井波町の井口の双方の遺跡は、比較的特定方向からの見通しのよい場所(峠や扇状地の真ん中)ですが、海との関係は考えにくいようですね。

 石川県における環状木柱列に関する資料(野々市町教委)を取り出しました。
チカモリ遺跡のほか5箇所。すべて手取川扇状地北東の扇端の湧水の多い地点の分布でした。
 また昨年の名古屋大学の絶対年代に関する報告では、能登の真脇環状木柱列の年代は2400年前以降と。
 さらに炭素14同位体の変動から見ると2800年から2600年前は、一時的に太陽の活動が弱まった時期であると。いわゆる気候の一時的寒冷期。
 その時期以降に環状木柱列遺構が集中するのは、太陽の活動または太陽祭祀?と何か関係があるのだろうか?
 素人さんの火玉誘引説は、正解に近いのかもしれません。

[4764] Re[4763][4759][4760]環状木柱列遺構  くず 2009/01/13(Tue) 18:30 [Reply]
> 北陸の環状木柱列遺構を地図におとしてみました。
> http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=2
> (青色の目印が北陸の環状木柱列遺構が検出された遺跡です。)

すみません、地図はこちらのアドレスから。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&gl=jp&ie=UTF8&oe=UTF8&msa=0&msid=114281146630819828924.0004602b7416aa363d27a

[4763] Re[4759][4760]環状木柱列遺構  くず 2009/01/13(Tue) 18:16 [Reply]
[4759]佐々木さん、
>当時の古地理的から推定すると、チカモリで海を見るのはいい場所のようです。
そのようですね。

北陸の環状木柱列遺構を地図におとしてみました。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=2
(青色の目印が北陸の環状木柱列遺構が検出された遺跡です。)

小矢部市の桜町遺跡(http://www.city.oyabe.toyama.jp/sakura/syu-5.htm) 
南砺市の井口遺跡などは海からだいぶ遠いようです。

また琵琶湖の西側にも環状木柱列の遺構が2例、飛び地になりますが群馬にもあるようです。
同時代のようですが、北陸の遺跡との直接関係は不明。

[4760]素人さん、
>落雷した柱の円柱列を呼び水にして、火の玉(球電)を呼ぼうとした。

凄い発想ですね!
山仕事している人間なら常識ですが、環孔材である栗は縦に裂けやすいんです。
たとえ落雷によって裂けたり燃えたりしなくても、立ち枯れしてしまう事はある。
栗の木では見たことがありませんが、杉等を切るとたまに中心部の組織が死んでアリが入っている事があります。
そうした木は雷が落ちた木と思われています。(俗説で、本当にそうなのかは解りません)
栗の大樹に同様の事が起こるなら、本来腐食に強いはずの芯部を取り去るのも、理由となりそうです。
また雷が落ちた木なら、大切な食料源を切り倒して使ってしまう事も頷けます。
(現代人的発想かもしれないけれど…)

感覚的に、木の内部面(建築用語で木裏面)をサークルの外側に向ける意味が少し疑問です。
サークルの内側が聖域なら、力を受けている内部面は内側に向けてよさそうに思うので。

>御射鹿
ミシャクジにも通じそうな地名ですね。
諏訪鉄山跡が近くのようですが、御射鹿池も鉄分が多いようでしたか?
褐鉄鉱を作る鉄バクテリアが働いていると水面に虹色の皮膜が浮く事があるのですが。

[4762] Re[4761][4758][4755]天香山  神奈備 2009/01/13(Tue) 10:44 [Reply]
大三元さん、くずさん、素人さん、生き生きとした発想と情報、ありがとうございます。


> 色々考えてみますが木の神と産銅が結びつく接点がどうもピンとこないです。

 木の神は五十猛神ですが、金属精錬の燃料となる木々を植えたということでは産銅への貢献もあったのでしょう。特に父神とされる素盞嗚尊は製鉄の神と見なす方々も多く、五十猛神も韓鍛冶の神とする(真弓常忠さん)方もおられます。

 余談ですが、全国的に土中の水銀濃度を測定された松田壽男さんの『丹生の研究』によりますと、神社周辺での水銀濃度の最も高かったのは紀の国の伊太祁曽神社でした。水銀と一般金属とは違うのですが、伊太祁曽神社本来の神である大屋毘古神と弥彦の伊夜比古神とは通じるところがありそうです。

 大屋毘古神と五十猛神とが異名同神としているのは『先代旧事本紀』ですが、大屋毘古神は諾册尊が神々の生成の所で登場させる神であり、実際には異名異神なのでしょう。

 だからピンと来ないのは当然であり、それには青草的屁理屈が要るということ。

 伊弥比古神と出雲の揖夜神社や紀州の熊野神社(いや)、阿波の祖谷など、思いが広がります。

[4761] Re[4758][4755]天香山  大三元 2009/01/13(Tue) 08:53 [Reply]
ぐずさん、
> 色々考えてみますが木の神と産銅が結びつく接点がどうもピンとこないです。

「木の神と産銅」の一つ手前で「木の神と火」の考え方候補:
1.武位起→タケイタテ→タケイタケ→五十猛
  武位起→タケクラ(ヰ)(オ)キ→タケクラジ→高倉下
2.ククノチ→ククツチ(あり得ようが実例なし?)→カグツチ
3.火を起こすには木をこする

どうかな?

[4760] Re[4757][4754][4753][4751]縄文と弥生の接点  素人 2009/01/12(Mon) 21:02 [Reply]
くず様
大変に勉強になります。
とんでも縄文宗教観ですが。
>この遺構がどのような特徴を持つかは下記URLに良くまとめられていると思います。
>〈読売新聞、富山支局の特集〉
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/kikaku/022/main.htm
縄文時代は火の玉信仰(雷・球電)これが、信仰の対象。
形にしたものが、翡翠などの勾玉。私の独善的縄文宗教観。
縄文人は光るモノが大好きだった。
木が真二つで、芯がないのは縄文人が恐れていた雷の落ちた巨木。
真二つで、芯は落雷の電流で焦げて燃えた、この為に芯部分が無い木である。
手近なところで、巨木で有った背の高い栗の木が犠牲となって雷に刈られた。
平地の巨木の大半が雷に刈られるようだ。真二つになった木を適当な長さに切って柱とした。
雷の莫大なエネルギーを蓄えたこの燃えた柱は神の力を持った特殊な柱でと考えていたのでしよう。
このような落雷した木の近くに、最高の神である火の玉(球電)が御出座、遊ばされることが多いので神の力を蓄えた御神柱の円の中に火の玉(球電)が御出座されることを願ったものと思われます。
銅と木ですが、地下に自然銅などの電気を流しやすいモノがあると周辺の木に落雷が多発したりして、経験があると鉱脈が地下にあると気がつくかもしれません。
 蛇足、江戸時代まではヒノキより耐久性のあるクリ材は日本には豊富にあったそうですが、ショウノウ材料のクスノキと同じで、日本の近代化の中で、鉄道のレールの枕木として大量に消費されて、大きな栗の木など見かけなくなってしまったようです。クリ材は古代であれば何処にでも有った材料と言う事ができます。鉄と反応するとタンニン酸鉄ができて黒くなるそうです。
超青草その1
落雷した柱の円柱列を呼び水にして、火の玉(球電)を呼ぼうとした。
「御射鹿池」由来
地図を見ていたら「御射鹿池」と言う農業用の溜池があった。このすぐ上流に八ヶ岳の冷山冷山黒曜石大露頭が有るので、古い時代の神事と関係があるのではと地元の方に伺って見ました。ご回答で元々はこの辺を御射鹿と言ったそうで、御射鹿の地に溜池を作りこれを「御射鹿池」と命名されたようです。
これからしますと、推測ですが諏訪大社の御射鹿の神事をこの辺で古代に行っていたのでしょうか。
もう一つお教え頂いたのですが、近くの笹山は江戸時代、諏訪藩の御狩場で神社があるそうです。鹿とは関係深そうな地域です。
鹿狩神社(長野県神社庁ホームページから)
http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/04nansin/02suwa/4082.htm
「御射鹿池」地図
北緯36度1分60秒、東経138度17分31秒
北緯36.033266度、東経138.291861度
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=360160&l=1381731
御射鹿池航空写真
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.02998948&lon=138.29527689&sc=2&mode=aero&pointer=on&home=on&hlat=36.01146306&hlon=138.24636
冷山黒曜石大露頭(この辺)航空写真
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.03764296&lon=138.32097212&sc=5&mode=aero&pointer=on&home=on&hlat=36.01146306&hlon=138.24636
後から知ったのですが、絵とかTVで結構、有名らしいです。
ちゃんと調べていただいたので、青草ではないようです。(詳細は省略)

[4759] Re[4757][4754][4753][4751]縄文と弥生の接点  佐々木 2009/01/12(Mon) 17:54 [Reply]
 くずさん
いつも秀逸な記事をありがとうございます。
> 方位については能登半島の西側、金沢のチカモリ遺跡の同形状の遺構が、
> 真脇遺跡とほぼ同じ方向に入り口構造を持つようです。
> だいぶ内陸に入って位置するものもあるので、"海の見張り台"と限定は出来なさそうです。

 チカモリとは、灯台下暗し。
 真脇もチカモリの標高は5〜7m程度、能登半島から金沢市の縄文時代の最高海面高度は6m程度で、時代は5500年前。
 その後海面高度を下げますが弥生時代以降もチカモリ遺跡のほんのすぐ近くまで海が入り込んでいたようです。
 当時の古地理的から推定すると、チカモリで海を見るのはいい場所のようです。

> 縄文人が構造物に栗を使うというのは、
 縄文早期以前から栗園が営まれていて、栗材は豊富だったことでしょう。それなりに栗の廃材もあったのでしょう。 

[4758] Re[4755]天香山  くず 2009/01/12(Mon) 14:49 [Reply]
大三元さん、
> > 木柱列は例外なく栗の木を使うので、音韻ではなく伝承異名なら手栗彦。
>
> 「手栗」ですが、やはりイザナミが「カグツチ」を生んで、その熱の為に死ぬときの、タグリ(嘔吐)に生まれる金山彦・姫の「タグリ」に絡めて解読して行くのが良さそうに思われます。

古語拾遺、
「令石凝姥神【天糠戸命之子、作鏡遠祖也。】取天香山銅、以鋳日像之鏡。」
などからも天香山と銅の関係ははずせませんね。
越後の弥彦神社と間瀬銅山、神社を囲むようにあった銅の鉱脈。
山中で自然銅を見つけたなら、形状からしてもまさしく神のタグリであったでしょうね。

色々考えてみますが木の神と産銅が結びつく接点がどうもピンとこないです。

> それらからも色々リンク派生してますのでどうぞ。
ありがとうございます^^

[4757] Re[4754][4753][4751]縄文と弥生の接点  くず 2009/01/12(Mon) 14:26 [Reply]
>[4574]佐々木さん、[4576]素人さん、
> >北陸の縄文晩期文化に特有の環状木柱列
> > http://mawakiisekijoumonkan.soycms.net/about/mokuchu

縄文晩期中頃(およそ2800年前)の遺構と考えられているようですので、
特徴的な構造物(信仰の具現化?)であり、初期の弥生社会と縄文の接点に位置づくとすれば、伝承なり神話なりとなりうるのかも?と考えてます。

この遺構がどのような特徴を持つかは下記URLに良くまとめられていると思います。
〈朝日新聞、石川のコラム〉
 http://mytown.asahi.com/ishikawa/news.php?k_id=18000470808230001
 http://mytown.asahi.com/ishikawa/newslist.php?d_id=1800047
〈読売新聞、富山支局の特集〉
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/kikaku/022/main.htm

方位については能登半島の西側、金沢のチカモリ遺跡の同形状の遺構が、
真脇遺跡とほぼ同じ方向に入り口構造を持つようです。
だいぶ内陸に入って位置するものもあるので、"海の見張り台"と限定は出来なさそうです。
縄文人が構造物に栗を使うというのは、
栗がタンニンを多く含むため水に強い点。堅い木でありながら、加工がしやすい環孔材である点。
 木材の基礎知識: http://www.fuchu.or.jp/~kagu/siryo/mokuzai.htm
など、木の性質から生まれる合理性と、そこから発達する技術を尊ぶ精神性にあるのではないか。と個人的には思います。
技術的には可能でありながら、頑なに黒曜石を磨かなかった(出土品がない)のは、
黒曜石の特性が"磨く"より"割る"にあった為で、その基本が守られたためでは?と。

>[4756]古代米生産の条件
西から進んだ弥生化は太平洋側では伊勢湾周辺で、日本海側では若狭湾(I−Wライン)で停滞を見ます。
弥生化の指標となる遠賀川式土器は長野全域にポツポツと出土しているので、水耕稲作の情報は早い段階で入っていたと思われます。
籾痕の残る縄文晩期の東海系(水神平式)土器と合わせて、遠賀川式が出ているので、その情報をもたらしたのは東海系の人々と考えられています。
ただ南の中央構造線に沿った伊那谷は土地の勾配が急で初期の稲作には向かず、
農機具なども雑穀向きのものが使われている事から、畑作に切り替えている様子が伺えます。
北の千曲川水系には、稲作に適した土地があり、事実中期以降(栗林土器の時代)にはあちこちで遺跡が出るようになるのですが、その時代に稲作の技術革新があったのか、北(日本海方面)からの情報、技術伝達を阻害していた何らかの箍がそこで外れたのか、と考えます。
諏訪の御作田神社には早米(御作田社の斉田に植えた苗が1ヶ月で実る)の伝承と神事が残るので、諏訪で稲の改良が行われ、北の千曲川水系にもたらされたのかも知れませんね。

[4756] Re[4751][4749][4748][4747][4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  素人 2009/01/11(Sun) 02:00 [Reply]
くず様
毎度のあまり関係のない思いつきですが。
>北陸の縄文晩期文化に特有の環状木柱列
> http://mawakiisekijoumonkan.soycms.net/about/mokuchu
大変面白いWebです。
この辺の集落の周りに外側にカシの木、内側に栗の木が植えられていたようです。外側のカシはこの辺で多い木としても、内側の栗の木には興味があります。栗の木は防御用ではと考えると栗の実は鋭いイガが外側にあり、実を取った後もイガを木の下に残しておけば撒菱を巻いたようになり、裸足であれば踏めば大声を上げるのではと思います。(イガが散らばっているのはよく見る光景です。)この様な栗の木をたくさん集落の周りに植えておけば円形の防護陣地が築けるのではと思います。
青草その1
縄文人の栗防護林。
この辺から、栗の円形柱は防護陣で守られた聖域とも夢想できるのではないでしょうか。

>弥生初期の稲作伝播は越を飛び越えて東北に至っているので
諏訪ではかなり遅れたのでしょう。海岸より200年遅れたとの記述もあります。
諏訪大社の関連と思われる地名で「御作田(みさくだ)」を見つけました。縄文期以前から黒曜石鏃で狩猟と関係の深い地に、弥生の最新技術が導入され、海抜900m以上の高地で古代米と取り組んだ跡と思われます。
「御作田(みさくだ)」地図
北緯36度0分26秒、東経138度12分10秒
北緯36.00714度、東経138.202861度
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=360026&l=1381210
小泉山と大泉山 御作田(みさくだ)
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.99628718&lon=138.20976258&sc=7&mode=aero&pointer=on&home=on&hlat=36.01146306&hlon=138.24636

諏訪大社上社から8km東の小泉山と大泉山に挟まれた谷に御作田(みさくだ)という地名があります。泉と名のつく山に囲まれ湧水に恵まれたので水温に恵まれ、夏から秋の八ヶ岳の凄まじいバレーウインドも山に遮られ、温室のような場所に御作田(みさくだ)は有ります。何としても水稲を作りたいと言う古代人の熱意が伝わってくるようです。
八ヶ岳の凄まじいバレーウインドは空を飛んでみると対地高度が200m以下となると凄まじい勢いで諏訪湖方面から吹きまくっていました。富士見町でしたが。稲作は大変だったのではないでしょうか。地表風ですね。諏訪大社が風の神でも有る訳でしょう。
古代米生産の条件
・背が高くなるために倒伏率が高く収穫量は少ない。(強風で倒伏しやすい。)
・刈入れのころ、籾が脱粒しやすい。(穂刈りなどが必要。強風では脱粒する。)
・温帯作物であるので、極度の低温には対応できない。
(古代米だけではない。品種改良が必要。)
古代米は風に弱く、低温には強いようですが、過酷な低温は無理なようです。
最近はお米が進化したのか、近くの普通の田んぼで作られているようです。
青草その2
縄文文化濃い地域の弥生文化の痕跡?
最近技術の導入。
度々の妄想、失礼しました。

[4755] Re[4753][4751]ウガヤフキアエズ  大三元 2009/01/10(Sat) 15:18 [Reply]
くずさん、今年も宜しく

> 木柱列は例外なく栗の木を使うので、音韻ではなく伝承異名なら手栗彦。

「手栗」ですが、やはりイザナミが「カグツチ」を生んで、その熱の為に死ぬときの、タグリ(嘔吐)に生まれる金山彦・姫の「タグリ」に絡めて解読して行くのが良さそうに思われます。

> 大三元さんのこのあたり、読んでます。
> http://www.dai3gen.net/hohodemi.htm
> http://www.dai3gen.net/takakura02.htm

有り難うございます。それらからも色々リンク派生してますのでどうぞ。

[4754] Re[4753][4751]ウガヤフキアエズ  佐々木 2009/01/10(Sat) 11:07 [Reply]
くずさん 皆さん 遅ればせながら謹賀新年おめでとうございます。

>北陸の縄文晩期文化に特有の環状木柱列
> http://mawakiisekijoumonkan.soycms.net/about/mokuchu

 これ大変面白い遺構ですね。ざっと見た感じでは、南東が入口で見張り台への螺旋階段と見張り台(北東)のような感じですね。逆かもしれないが。
 北東となると珠洲市の方角ですが、何か確認すべき対象があるのか?南東ならまず海でしょうが。

[4753] Re[4751]ウガヤフキアエズ  くず 2009/01/10(Sat) 10:19 [Reply]
>北陸の縄文晩期文化に特有の環状木柱列
> http://mawakiisekijoumonkan.soycms.net/about/mokuchu

は一般的には上部構造がなかったと考えられているようです。
用途は不明。ただし墓や住居跡ではなかったらしい。
倉のイメージからは離れますが、屋根がない構造物としたら、ウガヤフキアエズに繋がりはしないか。

天香語山命=越の八口(文化継承者)とおきます時、
天香語山命の異名、高志神はそのままに繋がります。
木柱列は例外なく栗の木を使うので、音韻ではなく伝承異名なら手栗彦。
高倉下は倉の足部分としての強調かも^^

大三元さんのこのあたり、読んでます。
http://www.dai3gen.net/hohodemi.htm
http://www.dai3gen.net/takakura02.htm

ヌナ川耳の名に繋がるのも不思議ではないのかも。


[4752] Re[4748][4747][4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  素人 2009/01/10(Sat) 02:32 [Reply]
神奈備様
ご挨拶が遅れていました。
皆様、明けましておめでとう御座います。
ボケたのか、間違えが多くて済みません。
> > 向巻山   巻向山
逆でした済みません。
向巻の谷(誤)――> 纏向川の谷だと 纏向の谷(正)?
この辺は何となく難しい。(この谷からは山は見えません。)
巻向山からの黒い雲の帯も纏向川の扇状地を抜け巻向駅付近で盆地の北風で向きを変えて、箸墓古墳付近を抜けて169号線を三輪の方に流れて行った。箸墓古墳では伝説や被葬者で色々あるようであるが墓穴を掘りそうなのでこの辺で。
耶馬渓と邪馬台国では耶馬渓が最近のものであることは、知っており大分地域での遺跡の発掘状況から今のところ邪馬台国と繋がりにくいことは十分理解しています。
 縄文以前からの石器材料の発掘分布から東九州と西瀬戸内海を宇佐氏と関連のある姫島の白っぽい黒曜石が占めており、讃岐や二上山のサヌカイトグループと対峙していたようである。吉備付近まで白っぽい黒曜石は入っていたようである。発掘から紀元前1世紀から1世紀にかけて、サヌカイトグループの石鏃が木の葉形となり重量が増して殺傷力が増加して武器としての弓として変化したとされている。銅鏃や鉄鏃と同じ重量となったようである。しかし、石鏃は大きいので空気抵抗であまり飛ばないように思います。弥生期に讃岐や関西地区のサヌカイトグループではあまり鉄鏃は出ていないようである。弥生期の鉄器は北九州沿岸で早く密度が濃くて瀬戸内海沿岸に広がっており、特に鏃などの小型鉄器は伝播が早かったようである。サヌカイトグループと対峙していたグループと言うと縄文期からの西瀬戸内海グループの宇佐氏などではないかと思われます。鉄鏃の出土の数から吉備・神戸・京都などは鉄鏃の出土が多いので宇佐氏グループなどが図版を広げたのではと思われます。これに伴い、鉄器加工なども東に広がっていったようです。最新兵器であった鉄鏃で、九州・瀬戸内海等の祭祀・経済を同じくグループが関西地域まで図版を広げていた時期が弥生時代中期から後期ではないかと夢想している訳です。サヌカイトグループで特異なのは大阪で石鏃から銅鏃に切り替わってある時期から、強敵となっていたのではと考えています。(出雲も銅鏃が多い。)こう考えると宇佐氏とそのグループは瀬戸内海を支配していたと考えられ、東に行くためには協力が必須と考えられます。強敵である大阪グループを攻めるには背後の奈良盆地などからが有利だったのでしょう。意外と名古屋辺りは早い時期から鉄鏃が多いようです。(飛地でしょうか。)
宇佐氏の祭祀も広大な地域を治めるに相応しい派手目のものではとかがえての岩の宮殿上での鏡などを用いた派手目のご信託を含む祭祀ではと考えた次第です。この時代巨大宮殿は建てられません。宇佐は古いのですね。
鉄は直接還元法の低炭素鉄と輸入の鋳鉄などが用いられて、色々な鉄材が作られていたと考えるこの頃です。自然風での製鉄を実験しようかと考えるこの頃です。いや炭の使い方が結構、難しかったりします。炭も色々有って。
炭ばかり使っているので、一酸化炭素でボケたか。
青草の夢想、失礼しました。

[4751] Re[4749][4748][4747][4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  くず 2009/01/09(Fri) 23:55 [Reply]
神奈備さん、皆さん、明けましておめでとうございます。
そして本年もよろしくお願いします。

大三元さん、"お蔵入り"する前にもう少し時間下さいませんか?^^

>ヤチマタが八本足の高倉 で、越とも関連あり。
とすると北陸の縄文晩期文化に特有の環状木柱列が浮かびます。
 能登町真脇遺跡
http://mawakiisekijoumonkan.soycms.net/about/mokuchu
上部構造は解らず、柱10本が基本ですが、うち2本を入り口構造と見ると、
口一つに柱(首)8本(上部構造があった場合、足ないしは尾)と見えたかも?
弥生初期の稲作伝播は越を飛び越えて東北に至っているので、
初期から中期にかけての対立、から武力制圧?関係改善?が、大国主による越の八口退治となったか。

また高倉下(天香語山)=八岐大蛇(八俣の高倉?)からですが、
海部氏"勘注系図"から、天香語山命(子、天村雲命)の母名に天道日女命。
天道日女命の亦名として"屋乎止女"があり、
同姫の母は多岐津姫命で亦名を"神屋多底姫"としますから、何れの亦名も建物(屋)に通じそう。
交易において母港には、倉庫、あるいは高見台等の建造物が必要でしょうから、
辺津宮の多岐津姫に"神屋建て"の名があっても必然かも。

今の僕のは浅はかな視点ですが、北長野、弥生中期後半、縄文と弥生の交錯点にあった(と思われる)柳沢遺跡の位置付けを考えていますとき、
また欠史八代の起こりの深淵に突き当たりそうな繋がりに、
沸く興味が尽きないでいます。


[4750] Re[4749][4748][4747][4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  サン・グリーン 2009/01/09(Fri) 10:17 [Reply]
神奈備さま、大三元さま

この心の御柱を建設する時、大工さんたちが「ここのはしらは?どの柱を使う?」「ここの柱はこの一番太い柱だ」「そうかそれではその大事なココの柱は此処に置いておこう」ということで、ココの柱=ここの九番目の柱=「九つ」の語源という説をつい最近知りました(*^_^*)なぁ〜るほど! と納得しています。
(ちなみに、ここの柱=ここの(み)はしら=心の御柱)外からは見えないけれど大事な大黒柱なのですね。

これから、福岡に行って「金印」をこの目でみてきまぁ〜す。

> > 倉庫の場合には、中心の柱は欠かせないのでは。心の御柱●。
> > ○ ○ ○
> >
> > ○ ● ○
> >
> > ○ ○ ○
> >
> > そうしまそと、角の一本を取って、入口に使うとか。
>
> そうですね。あとは、発掘例で実証して行くのでしょう。私は、とりあえず、ヤチマタが八本足の高倉、ということを理解したところで本件はお蔵入り(?)とします。

[4749] Re[4748][4747][4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  大三元 2009/01/09(Fri) 09:10 [Reply]
> 倉庫の場合には、中心の柱は欠かせないのでは。心の御柱●。
> ○ ○ ○
>
> ○ ● ○
>
> ○ ○ ○
>
> そうしまそと、角の一本を取って、入口に使うとか。

そうですね。あとは、発掘例で実証して行くのでしょう。私は、とりあえず、ヤチマタが八本足の高倉、ということを理解したところで本件はお蔵入り(?)とします。

[4748] Re[4747][4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  神奈備 2009/01/09(Fri) 08:31 [Reply]
> 向巻山   巻向山


> 馬肉燻製(*^_^*)好評だったとMADOKAちゃんから伺いました!

差し入れ感謝。時々はウガにもおいで下さい。


> 正方形でもこれでよいのでは?
> ○ ○ ○
>
> ○   ○
>
> ○ ○ ○

倉庫の場合には、中心の柱は欠かせないのでは。心の御柱●。
○ ○ ○

○ ● ○

○ ○ ○

そうしまそと、角の一本を取って、入口に使うとか。

[4747] Re[4739][4737]: 「足一騰宮」珍説  素人 2009/01/09(Fri) 01:30 [Reply]
神奈備様
思いつきに、書き込み有難うございます。
恐縮してしまいます。
>  妻垣神社の参道には磐座があるそうで、石の柱と足一柱とは共通点があるかも。祭神は卑弥呼に擬されている?
>
いろいろ関連したものが、近くにあって驚きました。
思い付きから言いますと、妻垣地区・安心院盆地・米神山方向から見ますとお椀を引っくり返したようで、奈良盆地の三輪山方向から見た畝傍山を考えてしまいました。
以前三輪に行ったとき、向巻山からの黒い蛇のような黒雲に追われて三輪山の雷鳴を聞きながら歩いて観た、畝傍山に似ているようです。向巻の谷からですが濡れなくて済みました。
こちらで話題になっていますお山と似た名前の天香具山も天から降ってきたようで、Googelで見た、浙江省四明山下の盆地の丸い地滑りで盆地に山ができているのを思い出します。
青草でした。

[4746] Re[4745][4742][4741][4740]: 足一騰宮  大三元 2009/01/08(Thu) 21:56 [Reply]
正方形でもこれでよいのでは?
○ ○ ○

○   ○

○ ○ ○

[4745] Re[4742][4741][4740]: 足一騰宮  神奈備 2009/01/08(Thu) 20:59 [Reply]
 難波出土の倉庫跡(古墳時代)は正方形なので、8本柱の正方形の建物を考えて見ましたが、うまくいかず、正方形を斜めに切ると何とか8本柱でまとまるかな。
 素直に長方形でよかったのかも。

> そうですね、「四俣にも八俣にも入らないときには大屋にいれる」・・・という趣旨のクェーナがあるようです。

食えない古謡?

[4744] Re[4743]: 謹賀新年  大三元 2009/01/08(Thu) 20:50 [Reply]
サン・グリーンさん、今年も宜しく。

日本語数詞の倍数法については
http://www.dai3gen.net//10ka50ka.htm
にも掲げましたように、通常の(1−2、3−6、4−8)に加え(5−10)を検討しています。

倍数法を採っている言語は日本語の周辺に見あたらないのですがマジャール語に痕跡が見られようか、ということを季刊『邪馬台国』#55 P140に書きました。ご参考まで。

[4743] 謹賀新年  サン・グリーン 2009/01/08(Thu) 19:38 [Reply]
神奈備さま。みなさま、今年もよろしくお願いいたします。

昨年から日本語(大和言葉)と数の派生にハマっていますので、皆さまのご意見をワクワクしながら拝見しています。
特に高床式の建設に関して、大三元さんの「四つ俣、六つ俣、八つ俣などがその数の足のある高床式倉庫だそうです。」の文章に、ヒラメキを頂きました。
日本語の数が一から十と順番に派生したのではなく(十進法ではなく)
まず、倍数(1−2、3−6、4−8)の数から派生したと推測される理由がここにあったのですね。お話の横道になって申し訳ありませんが新年の御挨拶代わりに初書き込みさせて頂きました。それから、浪速にかかる枕詞「おしてる」も私なりに解明できそうなのです。また聞いてくださいね。

神奈備さま、忘年会は失礼しました!
馬肉燻製(*^_^*)好評だったとMADOKAちゃんから伺いました!
今年もよろしくお願いいたしまぁ〜す。


[4742] Re[4741][4740]: 足一騰宮  大三元 2009/01/08(Thu) 13:28 [Reply]
神奈備さん
> > ヤツマタ(八俣)とは八本足の高倉のこと(沖縄古語辞典)
>
>   ○−−−−○−−−−○
>    \    I    /
>     ○ーー○ーー○
>      \   /
>       ○ ○
>        gate
>  こんなイメージかな?

私は単純に↓のように4X2の柱列を思ってましたが、これ↑はどうして思いつかれました?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Takayukasikisouko.JPG

>  高志神を弥彦神と見ますと、「これは大屋彦のこと」と、吉田東悟『地名辞書』で述べています。高倉も建造物で大屋に通じます。

そうですね、「四俣にも八俣にも入らないときには大屋にいれる」・・・という趣旨のクェーナがあるようです。

[4741] Re[4740]: 足一騰宮  神奈備 2009/01/08(Thu) 10:56 [Reply]
> ヤツマタ(八俣)とは八本足の高倉のこと(沖縄古語辞典)

  ○−−−−○−−−−○
   \    I    /
    ○ーー○ーー○
     \   /
      ○ ○
       gate
 こんなイメージかな?


> 天香語山は「高志神」(越の神)(籠神社伝承)
> 出雲勢が天香語山を退治して

 高志神を弥彦神と見ますと、「これは大屋彦のこと」と、吉田東悟『地名辞書』で述べています。高倉も建造物で大屋に通じます。
 『古事記』では、八十神が大穴牟遅を追いかけて木の国の大屋毘古の神の元に逃げ、木の俣より須佐の男の下に行きます。この時、大屋毘古は八十神に殺されたのかも知れません。
 大屋毘古神を五十猛神が襲名?

 天香語山の妃は大屋津比売(籠神社)
 また、五十猛神の妹(妃?)は大屋津比売、これで高倉下をいれて異名同神三柱。

 
 『平成祭CD』によりますと、天村雲神は
福島県 30社 見渡神社・三渡神社など 鶏の神との説があります。
http://nire.main.jp/rouman/ubu/niwatari.htm
三重県  6社 度会氏の祖
徳島県  6社
愛知県奈良県  0社

> 出雲勢が天香語山を退治してその息子天村雲を尾張に幽閉したのか(私論)

 これが皇位継承の神器のなるのは沢山の物語が要りそうですね。

[4740] Re[4738][4736][4734][4733][4730][4728][4726]: 足一騰宮  大三元 2009/01/07(Wed) 10:02 [Reply]
琉球松さん

>  「天香語山」との関係、もう少し教えてください。何かだか面白そうです。

面白がって頂いたようで有り難うございます。あまり付け加えることもないのですが
・ヤツマタ(八俣)とは八本足の高倉のこと(沖縄古語辞典)
・ヤマタ(高倉)ノヲロチとは「高倉下(たかくらじ)」のこと(私論)
 (ヲロチとは「尾の霊」か、とされる(時代別国語大辞典上代編)。
 私論では更に「尾」とは高倉の「足」のことであろうか、と敷衍も視野に
 入れて「高倉下」の「下」を理解しようとしている)
・「高倉下」は天香語山のこと(先代旧事本紀)
・天香語山は「高志神」(越の神)(籠神社伝承)
・スサノヲが「ヤマタノヲロチ」を退治した伝承(古事記)は
 オホナムチが「越の八口」を退治してきた伝承(出雲風土記)と同根(私論)
・ヲロチ(天香語山)を退治して得た「天村雲剣」 と
 天香語山の息子が「天村雲」であることの対比して
 出雲勢が天香語山を退治してその息子天村雲を尾張に幽閉したのか(私論)
・「尾張」即ち「をはり」も高倉の「足」が根を張ることでも意味してるか(私論)
 さすれば、高尾張、という語も「高足張り」の意味合いに取れそう(私論)

[4739] Re[4737]: 「足一騰宮」珍説  神奈備 2009/01/06(Tue) 21:56 [Reply]
> 思い付。その@ 宇佐市安心院町 竜王山耶馬渓の石の柱
> 宇佐市安心院盆地の南の入り口にある山である。ここには地面から生えた石の柱があるようである。崖の上から柱の上に宮を建てればいいのではないか。

 大分県宇佐郡安心院町にある、『妻垣神社』(つまがけ・都麻垣宮)の案内柱に『いっちゅうとうぐう』と読む「一柱騰宮」の古跡を示す柱があるそうです。
 この神社の由緒は『平成CD』によりますと、以下の通り。
 
 称徳天皇の天平神護元年十月八日、勅使従三位石川豊成に宇佐八幡の託宣がくだり、一柱謄宮に社を建てたのが始まりである。一柱謄宮を本宮と称し、境外地を下宮と称した。明治二十九年九月、県社になった。比淘蜷_の御降臨されたのが妻垣山とも言われ、並賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、中津藩・島原藩百余村の総社として崇敬されていた。
 妻垣神社の参道には磐座があるそうで、石の柱と足一柱とは共通点があるかも。祭神は卑弥呼に擬されている?


[4739] Re[4737]: 「足一騰宮」珍説  神奈備 2009/01/06(Tue) 21:56 [Reply]
> 思い付。その@ 宇佐市安心院町 竜王山耶馬渓の石の柱
> 宇佐市安心院盆地の南の入り口にある山である。ここには地面から生えた石の柱があるようである。崖の上から柱の上に宮を建てればいいのではないか。

 大分県宇佐郡安心院町にある、『妻垣神社』(つまがけ・都麻垣宮)の案内柱に『いっちゅうとうぐう』と読む「一柱騰宮」の古跡を示す柱があるそうです。
 この神社の由緒は『平成CD』によりますと、以下の通り。
 
 称徳天皇の天平神護元年十月八日、勅使従三位石川豊成に宇佐八幡の託宣がくだり、一柱謄宮に社を建てたのが始まりである。一柱謄宮を本宮と称し、境外地を下宮と称した。明治二十九年九月、県社になった。比淘蜷_の御降臨されたのが妻垣山とも言われ、並賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、中津藩・島原藩百余村の総社として崇敬されていた。
 妻垣神社の参道には磐座があるそうで、石の柱と足一柱とは共通点があるかも。祭神は卑弥呼に擬されている?


[4738] Re[4736][4734][4733][4730][4728][4726]: 足一騰宮  琉球松 2009/01/06(Tue) 21:46 [Reply]
 大三元さんへ

 「天香語山」との関係、もう少し教えてください。何かだか面白そうです。

 奄美沖縄の「アシアゲ(方音はアシャギ)」には床も壁もなく、しかも軒が低いことから結果的にお辞儀をする格好で入室しますね。
 これは想像ですが。。。「倭国の乱」以前の女性的?縄文時代の建築様式を"足"で持ち上げることに意味があるのではないか、あるいは穏やかな地炉神の復活を試みた祭場かも?

[4737] 「足一騰宮」珍説  素人 2009/01/02(Fri) 18:20 [Reply]
毎度の思い付きです。
思い付。その@ 宇佐市安心院町 竜王山耶馬渓の石の柱
宇佐市安心院盆地の南の入り口にある山である。ここには地面から生えた石の柱があるようである。崖の上から柱の上に宮を建てればいいのではないか。
宇佐市安心院町 龍王山耶馬渓
北緯33度25分10秒、東経131度21分8秒
北緯33.419336度、東経131.352222度
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=332510&l=1312108
豊肥火山の溶岩台地が浸食されてできた急崖、岩柱、奇岩怪岩なのである。
*龍王山耶馬渓写真(大分県の山紀行Web)
http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/ooita/ryuuou2.JPG
http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/ooita2.htm
*仙の岩写真(安心院町の名所旧跡Web)
100mの大絶壁には大巌寺岩窟や奥の仙岩窟などがあり、昔から山岳仏教の修行場であったようだ。弥生時代と関係あるかも。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~S-Dental/sennoiwa.jpg
http://www5c.biglobe.ne.jp/~S-Dental/ajimu01.html
龍王山のふもとには50号沿いに名勝「仙の岩」写真(楽しい大分の山々Web)
http://homepage3.nifty.com/ooitanoyama/yama-fhoto/ryuuouazimu2-sennoiwa.JPG
http://homepage3.nifty.com/ooitanoyama/ryuuouazimu2.htm
この辺の妻垣地区から銅矛・銅戈などが出たのではととされているので全く無関係でないかもしれません。南からのお客さまを迎えるにはいい場所かもしれません。
思い付そのA
安心院の石材
宇佐市安心院町 米神山(475m)
思い付で、米ではなくて、「米印」で八方位を表しているのではと考えている山です。
八方位で八幡なんて、手前味噌ですが。「御許山」「雲ヶ岳」の裏の山です。
浙江省四明山などと関係あるのではと考えている山です。川といい、盆地といい、盆地の中の小山といい、似てるような気がするのですが。
角型の石材 こんな石材で柱を立ててはどうか。
http://ozeki.sakura.ne.jp/yama/komekami19/kome13.jpg
http://ozeki.sakura.ne.jp/yama/komekami19/kome15.jpg
大分の山と町Web
http://ozeki.sakura.ne.jp/yama/komekami1907.html
こんな物もあります。
「佐田京石」小型の石の柱
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/sada_kyouisi/kyouisi.htm
宇佐神宮の社領だったのではという地域ですが、なにぶん離れているのでものすごい青草と思われます。


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