青草掲示板ログ平二十一年 二月 2009.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[4873] Re[4871][4868][4862]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  素人 2009/02/28(Sat) 23:21 [Reply]
神奈備様
勉強させていただいております。
> >> 丹後の福田川河口の網野は日下族の本拠。
> > 網野のことは、どこに出ていましょうか。
>
>  『丹後国風土記』与謝の郡。日置の里。この里に筒川の村がある。ここに日下部首の先祖で、名を筒川の嶼子という男があった。
>
鉄関連のことを書き込みさせていただいているついでに。
大和政権の吉備の技術移転の実験と思われる製鉄遺跡。
製鉄に用いた海砂鉄は遠方から運んだものだそうです。
瀬田高原での律令期の実験製鉄操業前にこんな所で実験が行われたとは意外でした。
遠所遺跡6世紀後半の海砂鉄を用いた製鉄炉が発見されている。炉は角型の小型で吉備の塊錬鉄製造の炉に似ているようである。炉の温度が上がらなかったために、イルメナイトを溶解できず、不純物の多い低品質の鉄となり失敗して中断している。その後、しばらくして炉温の上昇に成功して白銑鉄を生産したと思われる。炭焼き釜は吉備のものと同じ「ヤツメウナギ」と呼ばれる穴の沢山開いた形式のものでした。
古くから吉備とも関係ある地域なのでしょうか。
http://inoues.net/tango/enjyo_iseki.html
京都府京丹後市弥生町和田野付近のようです。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=354030&l=1350400
旧竹野郡網野町(現京丹後市網野区)には近いのでは。
弥生期の鉄器集団の関西地域攻略にこの地域が重要な役割を果たしたのでしょうか。
皆様ご存じの青草でした。

[4872] Re[4871][4868][4862]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  佐々木 2009/02/28(Sat) 22:56 [Reply]
>  『丹後国風土記』与謝の郡。日置の里。この里に筒川の村がある。ここに日下部首の先祖で、名を筒川の嶼子という男があった。
>  網野には嶋兒神社や網野神社が鎮座、共に浦嶋子を祀っています。
 
 筒川は与謝郡伊根町本庄町だと地名から考えていたのですが、旧竹野郡網野町(現京丹後市網野区)にも浦島伝説がありました。
 ちなみに両地点から12km程度離れますが、京丹後市弥栄区等楽寺付近では、魚の化石やウラン鉱が産出します。浦島の加齢現象はウラン鉱だったとか?
 
 神奈備さん ありがとうございました。
 
 話は変わりますが、先般石清水八幡宮蔵の寛延年間の絵図を拝見したところ、現男山ケーブル八幡口駅の西側斜面に岩神が記載されていました。

[4871] Re[4868][4862]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  神奈備 2009/02/28(Sat) 11:12 [Reply]
>> 丹後の福田川河口の網野は日下族の本拠。
> 網野のことは、どこに出ていましょうか。

 『丹後国風土記』与謝の郡。日置の里。この里に筒川の村がある。ここに日下部首の先祖で、名を筒川の嶼子という男があった。

 網野には嶋兒神社や網野神社が鎮座、共に浦嶋子を祀っています。


>  しかし丹後半島周辺における神社の立地場所が山麓部にほぼ限定されることから、8世紀ぐらいまでは海があったのではなかろうかと小生は思いました。

 お隣の但馬では豊岡は湖であったが、天日矛が山峡を切り開いて湖水を日本海に流したとの伝承があるそうです。
 同じく円山川の瀬戸の切戸をひり開き、湖水を流したとも。(『但馬国から邪馬台国へ』宮下豊著)

 円山川沿いの兵主神社の鎮座地も円山川の水面よりだいぶ高い所のようです。


>  なお当地では渡来人は糸井氏(新撰姓氏録:新羅国人天日槍命之後也)が有名です。現在も糸井姓は多いです。

 磯城郡川西町にも糸井神社が鎮座、なお、糸井神社と言う名の神社は奈良だけのようです。(『平成CD』)

[4870] 日子坐と和邇ー赤坂  とみた 2009/02/28(Sat) 09:33 [Reply]
佐々木さん 素人さん

いろいろとお付き合いありがとうございます。

今日はこれから最先端の宇宙の講座がありますので出かけます。明日ゆっくりリスポンさせていただきます。

宇宙とインフレーション理論、ニュートリノで見通す宇宙、消えた反物質の謎、ブラックホールと因果律の危機という講座です。無料の講座です。

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古代史と宇宙は本当に謎がありロマンがあって面白く深淵です。


[4869] ギリシャ語 haima(血)からの連想  生田淳一郎 2009/02/28(Sat) 08:04 [Reply]
 日本語のあっちへ、こっちへの“he”は沖縄で kai と屈折。
 he の原音は xai だったか?
 
 / アイヌ語 kem(血)。

● 沖縄でマーカイメンソーチ(どこ行くとか?)。 mak は何。 末尾の chi はベトナム語と共通の疑問詞。

● バスク語で kaze(風)を haize いいますだ。/ アルプスの少女ハイジ ?

[4867] Re[4866]: 日子坐と和邇  佐々木 2009/02/25(Wed) 21:10 [Reply]
 順不同ですが。
>丹後の福田川河口の網野は日下族の本拠。
 網野のことは、どこに出ていましょうか。お教え願えれば幸甚です。

◎以前京都府埋文研の安藤氏が、丹後国分寺の場所について述べていたのですが、確かに立地場所としては少し異様なので、丹後半島以西には別の勢力がいたではないかと結論付けられています。
 
 しかし丹後半島周辺における神社の立地場所が山麓部にほぼ限定されることから、8世紀ぐらいまでは海があったのではなかろうかと小生は思いました。
 市史などの資料を見ているとやはり10世紀ぐらいまでは海が内陸まで入り込んいたようです。網野の銚子山は海際の古墳だったとなるのでしょう。
 海の男にふさわしい古墳と云えましょう。
 おそらく単に国分寺建設に不適切な土地ばかりだった。当時の拠点(本庄村)はアクセスは一応陸続きだが陸の孤島なので、隷属させた大和朝廷にとって不便なので、阿蘇海の西に決まったのでしょう。しかしそこも慢性的な山地の崩壊地だったようです。
 なお当地では渡来人は糸井氏(新撰姓氏録:新羅国人天日槍命之後也)が有名です。現在も糸井姓は多いです。

◎日置氏と条里制地割の相関度が良いので、そちらを現在重視しています。
 イネの生育条件には積算温度管理や日の長短に関する微変化管理が重要なのです。

◎弥栄区遠所遺跡は、砂鉄原料だったような。どこから砂鉄を持ち込んでいたのかはまだ調べていませんが。

◎日下姓は、阿波小松島界隈にもあったと思います。 

◎楠木正成は、水銀長者と言う説があります。また突然歴史に現れた時には従五位だったので、もともと受領だったとか。石清水八幡宮と縁者なので紀氏だとかいろいろあるようです。
>太陽神とは南方系か北方系かが私の関心事です。
 太陽と月のことは陽と陰の歴史、正伝と外伝の関係ではなかろうかと考えております。正伝は権力者の意思のもと文字により伝承され、外伝はランダムな民間伝承ではないかと。
 ただ神社の時代には、南方系か北方系と区分するのは難しいような感があります。
 以上ランダムにてご容赦ください。

[4866] 日子坐と和邇  とみた 2009/02/25(Wed) 10:40 [Reply]
神奈備さん

>楠木正成の山城で有名な千早赤阪城の赤阪は酸化鉄が含まれた土質で赤く見えたことに由来するようです。楠木氏の素性は不明ですが、とりあえずここには和爾氏の気配はなさそうです。

酸化鉄ですか。とするとFe2O3ですね。

赤鉄鉱なんですか。

楠木正成は千早城、石川の上流に合流する川の水分けの水利権を持っていたとか。

葛城山と金剛山の境辺りの山の麓ですね。

水越峠に通ずる。河内側。

赤坂といえば、丹後の峰山町(今は京丹後市)にも赤坂の地名があります。

赤坂今井墳丘墓は3世紀初めの弥生後期ー終末期の墳です。まあ卑弥呼と同じ時代です。頭飾りが出ています。

朱が墓にたくさん使われていますね。このあたりも鉄の産地でしょう。弥栄が有名です。

>日下部−朝倉氏は古代に但馬から越前に、平安以前から出雲から出羽あたりまで制海権

佐々木さん お久しぶりです。

知的好奇心が、古代から中世まで繋がるんですね。

日下、日置、日子みんな太陽神に関係するのでしょうか。

鉄も絡んでややこしいです。

日子坐だけでなく日下も日置も丹後に関係していますね。

浦島太郎は日下長者です。日下は生駒の麓、河内湖の畔でしたか。

丹後の福田川河口の網野は日下族の本拠。網野銚子山古墳が有名です。日本海でも有数の前方後円墳です。日置は筒川荘の豪族。舞鶴は戦後引き揚げ船の母港。

古代は水銀で丹薬で長命を願い、神仙思想や道経からみ。古墳の朱ではないでしょうね。舞鶴の北に、冠嶋と沓嶋がある。仙人になるとき冠と沓を脱ぐ。

赤鉄鉱はベンガラなら古墳も関係する?

丹後には徐福伝説もあって、丹生神社の近くに岩木村があり、道家姓だそうです。

太陽神とは南方系か北方系かが私の関心事です。どうお考えでしょうか。




[4865] Re[4863][4862]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  佐々木 2009/02/23(Mon) 21:37 [Reply]
 越前の朝倉氏、一門の越前神官家の織田氏のルーツの可能性がありそうです。
 織田氏は平安以前に近江から美濃尾張へ、日下部−朝倉氏は古代に但馬から越前に、平安以前から出雲から出羽あたりまで制海権をもっていたようです。
 現在進行中の成果です。
 なお丹後の海部氏の本拠は、どうも現在の伊根町本庄宇治地区のようでした。
 宇良神社のあたりです。水銀拠点は久美浜、西舞鶴、美浜、越前丹生の4箇所らしく、越前神官家は越前丹生の水銀勢力では?可能性が割り出されています。
 まだ青草ですが。

[4864] Re[4863][4862]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  神奈備 2009/02/23(Mon) 19:39 [Reply]
楠木正成の山城で有名な千早赤阪城の赤阪は酸化鉄が含まれた土質で赤く見えたことに由来するようです。楠木氏の素性は不明ですが、とりあえずここには和爾氏の気配はなさそうです。

[4863] Re[4862]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  とみた 2009/02/22(Sun) 22:59 [Reply]
> 渇鉄鉱、赤鉄鉱、磁鉄鉱の違いは何でしょう。
渇でなく褐鉄鉱でした。

[4862] 日子坐と和邇ー美濃赤坂  とみた 2009/02/22(Sun) 22:57 [Reply]
素人さん 助かります。美濃赤坂の金生山は、鉄と石灰岩が両立するのですね。


>金生山の石灰岩上のヘマタイト鉱床(αーFe2O3)前にもご紹介しました中国に多>い鉱床です。
>ヘマタイトでのたたら。
>上部のヘマタイトはほぼ取りつくされて、石灰山になっているようです。
>昔は赤いヘマタイトの鉱床が白い石灰岩の上部を覆っていたのでしょう

へマタイトなんて余り聞きなれない言葉です。語源は何でしょうか。英語ですか?
赤坂という地名は全国にかなりあると思いますが、鉄と関係が多いのでしょうか。

渇鉄鉱、赤鉄鉱、磁鉄鉱の違いは何でしょう。

鬼板、高師小僧は渇鉄鉱と見ていいのでしょうか。

砂鉄は磁鉄鉱でしょうか??

鉄について基礎知識がないので教えてください。

[4861] hiko  とみた 2009/02/22(Sun) 22:43 [Reply]
>
金生山の石灰岩上のヘマタイト鉱床(αーFe2O3)前にもご紹介しました中国に多い鉱床です。
上部のヘマタイトはほぼ取りつくされて、石灰山になっているようです。
昔は赤いヘマタイトの鉱床が白い石灰岩の上部を覆っていたのでしょう

[4860] Re[4857]: 日子坐と和邇ー美濃赤坂  素人 2009/02/21(Sat) 23:01 [Reply]
とみた様
以前、書きこんだことがあります。
> 神奈備さん
> >赤鉄鉱が出ることと赤坂(宿)の赤とは関係があるのでしょうか。
>
> 美濃赤坂は確かに今は石灰石とか、大理石で有名です。
> でも古代はやはり鉄か銅か採れたようです。下のように一般解説があります。
金生山の石灰岩上のヘマタイト鉱床(αーFe2O3)前にもご紹介しました中国に多い鉱床です。
ヘマタイトでのたたら。
http://www.mirai.ne.jp/~kinsyou3/1/sub1.htm
掲載Web
http://www.mirai.ne.jp/~kinsyou3/
上部のヘマタイトはほぼ取りつくされて、石灰山になっているようです。
昔は赤いヘマタイトの鉱床が白い石灰岩の上部を覆っていたのでしょう。
遠くからも目立ったのではないでしょうか。
不純物の関係から鍛接はあまり上手くいかないようですから、複雑な構造の刀には向かなかったかも知れません。赤鉄鉱ですと原始的な直接還元製鉄には向いているように思います。そのままでは、ランクの低い鉄しか取れなかったと思われますが。
御存知でしたら失礼しました。

[4859] サメとサヒ  かっぽれ 2009/02/21(Sat) 16:01 [Reply]
久しぶりに、ちょっとだけ参加させていただきます。

朝鮮語のサヒがサメになったという説についてですが、主に中国語福建省で話されている
ミンドン語でサメをサヒというようです。こちらの方が直接関連できるような感じがします。
参考サイト:Mulivo: multilingual wiki dictionary
http://mulivo.pbwiki.com/shark

このサイトに使われている各国語の略称の一覧は次のとおり。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Map_of_sinitic_languages-en.svg

突然の割り込みで失礼しました。

[4858] Re[4856][4855]: 日子坐と和邇  大三元 2009/02/21(Sat) 09:17 [Reply]
神奈備さん

>  ワニはサヒ、

これ(「朝鮮語のサヒが日本語のワニに対応した」)は無理ではないか、従ってこれをベースにした考察も無理、ということの理論武装中です(^^)

・「サヒ」という「朝鮮語」(できれば古語)は存在するのか
・存在するなら、その語義は何か
・岩波の日本書紀p126の頭注では朝鮮語 stapoが「{金且}(鋤)」のことで、これが日本語「サヒ」(小刀、刀)に当たる、としてますが、これさえ無理に思える〜もっと説明が欲しい。




>  赤は鉄の錆びの色なのか、銅のことをアカと言いますが、ワニ氏が扱った金属は銅とはどう?
>

[4857] 日子坐と和邇ー美濃赤坂  とみた 2009/02/20(Fri) 23:06 [Reply]
神奈備さん
>赤鉄鉱が出ることと赤坂(宿)の赤とは関係があるのでしょうか。

美濃赤坂は確かに今は石灰石とか、大理石で有名です。
でも古代はやはり鉄か銅か採れたようです。下のように一般解説があります。


金生山赤鉄鉱は、4世紀段階から製錬され製鉄品の素材ともされ美濃を中心に製鉄品を造り続けたと考え
られる。またその地金は各地域に搬出されたものであろう。7世紀後半以降 金生山赤鉄鉱は中央政権の
主要な生産地としてその地位を保ったものと解することが可能である.

東海の古墳風景という考古学者の専門誌には・・・池田山の麓の六郷には池田郷、額田卿、春日郷と併せて伊福郷があります。伊福部は谷川健一さんがご指摘のように、青銅や鉄の金属精錬の専門集団だと思います。

ところが、大垣市の文化財の中井正幸考古学者に直接訊ねると、美濃赤坂の鉱物はFe03でベンガラ用であると判明したそうです。

東海式土器に塗るパレススタインの赤味とか、6世紀の石室に使われたそうです。

私の材料は以上です。真偽は皆さんに委ねます。

[4856] Re[4855]: 日子坐と和邇  神奈備 2009/02/20(Fri) 19:47 [Reply]
とみたさん。
> 美濃(三野)の本巣国造の祖神は大根王です。大根王は日子坐王の息子です。美濃の大垣市の近くには美濃赤坂の金生山があり赤鉄鉱が産します。

 化石で有名な山です。赤鉄鉱が出ることと赤坂(宿)の赤とは関係があるのでしょうか。

大三元さん
> なお、私は高句麗語の勉強をしたときに サヒ は 赤 のことだと理解しました。

 ワニはサヒ、サヒは赤。
 赤は鉄の錆びの色なのか、銅のことをアカと言いますが、ワニ氏が扱った金属は銅とはどう?

[4855] 日子坐と和邇  とみた 2009/02/20(Fri) 12:26 [Reply]
ワニ氏に少し拘っています。特に日子坐王と武振熊です。

>  『日本地名ルーツ辞典』の中で山尾幸久氏が、ワニはサメを意味し、それは朝鮮語のサヒが日本語のワニに対応したと書いています。さらに、「太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団が、のちの和邇氏。」と推測しています

開化記に、日子坐王は開化天皇と丸迩臣の祖日子国意都祁都命の妹意祁都比命との間に生まれた。古事記では日子坐王は、丹波舞鶴の土着の豪族の玖賀耳耳御笠を殺害します。日本書紀では四道将軍の丹波道主が丹波に派遣して平定することになっています。日子坐王は息長宿禰の系統でもありますから鉄が関係するでしょうね。

舞鶴の土豪の笠津日子は倭宿禰でこれも鉄くさいですね。

日子坐王は、岐阜県北部の飛騨の両面宿禰もやっつけます。仁徳紀に両面宿禰を討伐した人物は、和邇臣の祖、難波の根子武振熊としている。

ワニ氏は日子坐王を先祖として奉じていたのでしょう。振熊は神功皇后の朝鮮征伐と応神・武内宿禰の忍熊・香坂との対戦で応援した水手(水軍)の海部でしょう。

ワニ氏の先祖は日子坐王と建振熊。岐阜県史によると、両面宿禰伝承はワニ氏の伝承とされています。

山尾幸久さんは、ワニ氏は北部九州とは別のルートすなわち裏日本から畿内中枢地域にやってきた太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団と推測されています。
ワニ氏系氏族は山城、近江を経由して北陸方面と結びつくと書き、ヤマト王権の武器庫であった石上神宮の祭祀氏族をワニ氏と見ています。(注:現在も、石上神宮の宮司は和邇氏系統だそうです。物部と思っていましたが)。日子坐の日子は日神=太陽神でこれを奉じた和邇氏は、岐阜県の飛騨にも美濃にも進出します。

美濃(三野)の本巣国造の祖神は大根王です。大根王は日子坐王の息子です。美濃の大垣市の近くには美濃赤坂の金生山があり赤鉄鉱が産します。この鉄を狙ったのが和邇氏や尾張氏とかの説があるようです。新幹線で関が原と大垣の間に池田山がありこの麓に池田郡六郷があります。春日郷と額田郷がありこれは和邇氏の系統です。国造本紀では額田国造の祖は和邇臣とされワニ氏が欽明朝に春日氏に改めたとされています。

西美濃の湯沐村は壬申の乱で真っ先に大海人皇子に味方した勢力がいたところ。

大海人は丹後の付近としたら海部民の地、そこは舞鶴に近い海の冠島と沓島これは神仙思想の地、つまり浦島太郎こと浦嶋子の源郷の地でありましょう。






[4854] Re[4853][4852][4851]: ワニ  神奈備 2009/02/18(Wed) 14:27 [Reply]
> 朝鮮語のサヒが日本語のワニに対応、ということの根拠は何か書いてありますか?
> なお、私は高句麗語の勉強をしたときに サヒ は 赤 のことだと理解しました。

和爾氏の祖神を祭る神社に和爾坐赤阪比古神社と言うのがあります。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/waniaka.htm

また、和爾下神社に山尾幸久氏の引用をしております。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/wanisita.htm

[4853] Re[4852][4851]: ワニ  大三元 2009/02/18(Wed) 09:08 [Reply]
神奈備さん

>  『日本地名ルーツ辞典』の中で山尾幸久氏が、ワニはサメを意味し、それは朝鮮語のサヒが日本語のワニに対応したと書いています。さらに、「太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団が、のちの和邇氏。」と推測しています。

朝鮮語のサヒが日本語のワニに対応、ということの根拠は何か書いてありますか?
なお、私は高句麗語の勉強をしたときに サヒ は 赤 のことだと理解しました。
http://www.dai3gen.net/kgkaku107.htm

>  『古事記』の海幸山幸のお話の終わりの方に、「一尋鰐は佐比持の神という」とあります。

神武天皇の兄、稲飯命は「剣を抜いて海に入って鋤持(サヒモチ)の神(ワニ=シャチのこと)となる」とある。この伝承は北方の神話のモチーフ、「水死してシャチになる」、「刀剣を陸に置き忘れる」に通じるものがあり興味深い。
http://www.dai3gen.net/shachi.htm
サヒモチ→→→サチ→シャチ かなぁ。。。

そういえば、先日TVで「人間になりたかったシャチ」(多少違うかも)というドキュメンタリーを見た。米国西岸まで、シャチと人の関わりについて高い関心が見られるようだ。

[4852] Re[4851]: ワニ  神奈備 2009/02/17(Tue) 17:17 [Reply]
くずさん、ワニのヒントありがとうございます。

 手白香皇女衾田陵は『延喜式』の「衾田の陵に葬りまつる」という一文から、大和古墳群の西殿塚古墳に比定されていますが、これは邪馬台国の台与の墓ともくされており、継体天皇との年代差は約200年、よく似た名前の西山塚古墳の方が時代的にはあうようです。

 『日本地名ルーツ辞典』の中で山尾幸久氏が、ワニはサメを意味し、それは朝鮮語のサヒが日本語のワニに対応したと書いています。さらに、「太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団が、のちの和邇氏。」と推測しています。

 『古事記』の海幸山幸のお話の終わりの方に、「一尋鰐は佐比持の神という」とあります。

 和邇氏のワニは地名からの氏族名ではなく、職能からの氏族名といえるのかもしれません。琵琶湖の西側には小野地名があり、また三重県松阪市小野には長さ71mの前方後方墳の向山古墳があります。
 大和の西殿塚古墳の近くにはハタゴ塚、下池山、フサギ塚などの前方後方墳があります。まさに和邇氏のたむろする所に前方後方墳が出来ています。

 和邇氏は狗奴国の有力なメンバーだったと言えるのかも。

 講談社の日本の歴史『王権誕生』で、寺沢薫氏は邪馬台国大和説ですが、倭国の中心は吉備を中心とした瀬戸内海中・東部だとしており、狗奴国を伊勢・尾張と見ておられますが、女王を狗奴国と接している大和に置くのはいかにも危ないように思われます。
 私は大和にも前方後方墳が点在していることから大和は狗奴国の一部だったと思っています。そこへ攻め込んだのが邪馬台国を含む倭国連合と女王だったと。

[4851] Re[4849][4848][4847][4846]: ワニ  くず 2009/02/17(Tue) 12:44 [Reply]
間が空いてしまいました。すみません。

神奈備さん、
> 和珥氏は后妃を多く出している氏族です。『古事記』から。
> さらに『雄略紀』には春日和珥新深目の女、童女君 がめされています。

童女君は采女の身分でありながら、物部目連の進言があって妃となっている。(異例か?)
子の春日大娘皇女は仁賢帝の皇后。その子手白香皇女がまた継体帝の皇后となります。

この手白香皇女の陵墓は、古墳時代後期としては例外的に三輪山の懐に作られますが、
これは越国出身の継体帝が、皇后の血筋の正当性を示そうとしたためとも考えられ、
和珥氏に繋がる女系の血が、出現期古墳の集中する三輪山周辺の古都にあったという認識からかもしれません。

古事記では雄略妃の童女君に相当すると思われる姫に、
丸迩の佐都紀臣の女、春日の袁杼比賣があります。
姫は采女であったとはされませんが、
岡に隠れた姫に送る雄略帝の歌は「姫の隠れる丘を五百もの鋤ですきおこしたい」
という内容で、鋤でおこされる畝との関係から、采女のおこりは畝女であったのでは、
と想起させます。(青草^^)
"畝"はたぶん女陰からと思いますが、当時の重要な神事に采女が関わっていた
ようです。

また日本書紀年代と古事記の干支崩年にはズレがあり、古事記の干支崩年のほうが、
海外文献や古墳等の想定年代とも符合する点。
(広開土王碑や倭の五王に相当する天皇の在位年など)

日本書紀が(無理に)年代をずらした理由として、中国史(晋書)に残る記事,
晋書『武帝紀』「泰始二年(266年)十一月已卯、倭人來獻方物。」から
この朝貢を行ったのが魏志に残る倭国女王、台与によるものとの認識が存在し、
それを神功皇后の事績、
日本書紀、「神功皇后摂政66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云
武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」

と重ねる必要があったため。と考えられますが、
台与と重ねられた(と思われる)神功皇后の血筋も、彦座王から和珥氏へと繋がります。

応神(仁徳)以下の男系血筋は弥生時代の倭国女王には繋がらず、
妃に和珥氏の姫が並ぶのは、姫を送り込み政治支配を謀ろうとする実家の事情ではなく、
正当な血筋と祭祀性?を求める、王統(男系)の都合であったのかも^^

[4850] Re[4845]: 孝霊の東征  素人 2009/02/14(Sat) 23:36 [Reply]
とみた様
日本への高度製鉄技術の導入と技術を囲い込んでいた製鉄華僑は秦氏によるものであろうと考えており、これを管理していた集団がたぶん前漢以来の鞍山の鉄官の系統の中国人で鉄官を金官と変えて金官伽耶として秦氏などの製鉄集団を支配していたのではと考えています。
>313年と314年に高句麗の進出で楽浪と帯方が滅びて、楽浪漢人は伽耶や倭国に逃げたのでしょうか。

>これが製鉄華僑と考えられているのでしょうか。日本では秦氏と漢氏が朝鮮から逃げてきます。秦氏は銅や鉄に関係していると思うのですが・・・

楽浪漢人は朝鮮支配の中で、朝鮮の鉄鉱石産出地に製鉄華僑を送り込んで、鉄を生産していたものと思われます。これらの技術者を差配していたのが、鞍山の鉄官であったと思われます。楽浪と帯方が滅びて後も製鉄は楽浪漢人が支配していたものと推定されます。特に金官伽耶での生産は日本との貿易の利益からして重要であり増産されて行ったと思われます。これに伴い楽浪漢人の金官伽耶地域への移住も多かったのでしょう。後に、鞍山の鉄官が鞍山の滅亡で金官伽耶地域に移動して、洛東江東岸地域の鉱山・製鉄地域などの製鉄華僑を支配して鉄の大増産が行われたと思われます。
西暦400年の高句麗の金官伽耶地域侵入で、鞍山の鉄官・楽浪漢人などの支配層が吉備の備中に早々と移住して、大古墳などを作ったと思われます。製鉄華僑(秦氏等)は日本に一時期避難して、鉱山のある洛東江東岸地域に戻って製鉄・鉄材の供給を続けることとなり、備中の鉄官が日本から半島の製鉄華僑をコントロールすることとなったと思われます。備中の鉄官は当然ながら中国本国からの支配を受けていたと思われます。
中国本国は日本への製鉄華僑(秦氏等)の移住、高度製鉄技術の日本への移転は乗り気では無かったように思われます。後に、伽耶地域の滅亡に伴い、木の実が熟して落ちるように、製鉄華僑(秦氏等)と高度製鉄技術が日本に転がり込むこととなったわけです。
しかし、備中の鉄官の製鉄華僑(秦氏等)への管理は厳しく、日本人への技術移転は進まず、鉄のみが、塊錬鉄として生産されて供給され吉備に巨万の富をもたらしたと思われます。後に、吉備の分割により、備中から鉄資源を奪って弱体化される憂き目見合っています。製鉄華僑(秦氏等)の移住から100年後の律令期になって日本人による製鉄が達成られることとなります。
素人の青草、失礼しました。
現在踏み鞴前の製鉄法について、色々夢想して実験にしています。
塊錬鉄を作る方法と白銑鉄を作る方法が有ります。どうも自然風も一部利用していたようです。お楽しみに。

[4849] Re[4848][4847][4846]: ワニ  神奈備 2009/02/13(Fri) 17:46 [Reply]
『古事記』孝昭天皇の皇子 天押帯日子命

 兄(イロエ)天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)は、春日臣(カスガノオミ)・大宅臣(オホヤケノオミ)・粟田臣(アハタノオミ)・小野臣(ヲノノオミ)・柿本臣(カキノモトノオミ)・壱比韋臣(イチヒヰノオミ)・大坂臣(オホサカノオミ)・阿那臣(アナノオミ)・多紀臣(タキノオミ)・羽栗臣(ハグリノオミ)・知多臣(チタノオミ)・牟耶臣(ムザノオミ)・都怒山臣(ツノヤマノオミ)・伊勢の飯高君(イヒタカノキミ)・壱師君(イチシノキミ)・近淡海国造(チカツアフミノクニノミヤツコ)の祖なり。


 『古事記』には、天押帯日子命を祖とする氏族として和珥氏の名は見えません。
春日臣 大和国添上郡春日
大宅臣 大和国添上郡大宅
粟田臣 山城国愛宕郡粟田
 これらは、臣の名と土地の名と同じです。鶏と卵?

 和珥氏は后妃を多く出している氏族です。『古事記』から。
開化天皇 丸邇臣の祖日子国意祁都命の妹、意祁都比売命
応神天皇 丸邇の比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売
応神天皇 またその矢河枝比売の弟、袁那弁郎女
反正天皇 丸邇の許碁登臣の女、都怒郎女
反正天皇 同じ臣の女、弟比売
仁賢天皇 丸邇の日爪臣下の女、糠若子郎女
さらに『雄略紀』には春日和珥新深目の女、童女君 がめされています。

このように多くの天皇に后を出している和珥氏は葛城・蘇我と匹敵しています。

 『旧事本紀』には、事代主神が熊鰐に化して三島溝咋の娘の下に通った話があり、その娘が生んだ子が初期天皇の后妃になっていますが、これは和珥氏の家に伝わっていたものか、それとも『旧事本紀』の編纂者が和珥氏が后妃を多く出していることから事代主神を熊鰐にしてしまったのかも。
 
 なお、事代主神は戎神になっていますからワニでもいいのかも。

『日本書紀』本文から。
神武天皇 事代主神の女 媛踏鞴五十鈴媛
綏靖天皇 事代主神の女 五十鈴依姫
安寧天皇 事代主神の孫 渟那底仲媛
懿徳天皇 渟那底仲媛の子の息石耳命の女の天豊津媛命 曾孫になります。

[4848] Re[4847][4846]: ワニ  大三元 2009/02/12(Thu) 21:30 [Reply]
神奈備さん

>  古代氏族の臣姓は地名によるものが多く、和珥臣も大和国添上郡の地一帯を本貫としている氏族。『和名抄』には和珥は記載されていないようですが、『崇神記』に和珥坂が出てきます。

ワニ(氏族)が居たからワニ坂なのか、ワニ坂にいたからワニさんと呼んだのか。
「古代氏族の臣姓は地名によるものが多く」:いつもふむふむそうなのか、と読んでしまうのですが、本当なのか。定量的に「多い」と言えるのかぃなぁと思ってます。

(なお、前述の「イソ」≒iso-po=兎 の iso-po はアイヌ語です(ise-po とも)。iso だけだと「獲物:海の幸、山の幸」一般を云うようです。これが「五十ニウェ」「五十サチ」の「五十」を「イソ」と読んで、崇神・垂仁に「イソ」「兎」を色濃く感じております。「兎砥川上」のオハナシとかも。)

[4847] Re[4846]: ワニ  神奈備 2009/02/12(Thu) 21:01 [Reply]
> 「五十」=「イソ」≒iso-po=兎 になる。

 そこへ兎が跳んできてコロリ転んだ木の根っこ。♪

 木根子=木主=五十猛神=大屋彦
 五十=兎<ワニ
 兎は大国主に助けられ、大国主は大屋彦に助けられ。


 古代氏族の臣姓は地名によるものが多く、和珥臣も大和国添上郡の地一帯を本貫としている氏族。『和名抄』には和珥は記載されていないようですが、『崇神記』に和珥坂が出てきます。

[4846] ワニ  大三元 2009/02/12(Thu) 17:25 [Reply]
父系だけ見ていては判らないが、母系を見てみるとワニとのつながりが濃い。

ニニギ〓コノハナサクヤ
彦火火出見〓トヨタマ(●ワニ)
うがや・・〓タマヨリ(●ワニ)
神武〓五十鈴←事代主(●ワニ)の娘
綏靖〓五十鈴依←事代主(●ワニ)の娘
安寧〓ヌナソコナカツ←事代主(●ワニ)の孫娘
懿徳〓天豊津←▲オキソ耳の娘
孝昭〓ヨソタラシ(▲オキツヨソの妹)←・←・←・←ニギハヤヒ(トヨタマ(●ワニ)の子)
孝安 (兄がワニの祖だと。何故ここを祖とするか、もっと遡れるのに?)

別の考察から「オキ」も「ワニ」に列するように思われる。

この一連のワニが終わると「五十」=「イソ」≒iso-po=兎 になる。
その後「タラシ」が戻り「オキ」(息長)や「ワニ」(応神妃)が見られる。

[4845] 孝霊の東征  とみた 2009/02/12(Thu) 08:56 [Reply]
素人さん
>洛東江東岸地域の勿禁邑鉄鉱山付近の製鉄華僑が吉備付近の日本に移住して日本が高度製鉄技術を形だけでも自国のものとした訳です。製鉄華僑の技術を日本人の技術をするのには更に100年を必要とした訳ですが。

そうですね、洛東江がポイントですね。4世紀、新羅がまだ高句麗の属国みたいな時代に金官伽耶は栄えていました。金海地方の弁韓の狗邪国が鉄を媒介にした交易で栄えたのでしょう。(今も釜山空港は金海にありますね)。洛東江近辺の金官伽耶は高句麗に400年攻撃され勢力は衰えます。貴族は倭(日本)に逃げたり北西の高霊つまり大伽耶に逃げたりしますね。

申教授は、300年代に北方の扶余から騎馬民族が伽耶に侵入して墓制を代えたとされています。

その前には、素人さんの指摘のように、楽浪漢人が伽耶の地には居たでしょうか。

朝鮮は前漢武帝以来、漢の植民地でした。239年ごろは邪馬台国は魏の出先の帯方郡が窓口です。

313年と314年に高句麗の進出で楽浪と帯方が滅びて、楽浪漢人は伽耶や倭国に逃げたのでしょうか。

これが製鉄華僑と考えられているのでしょうか。日本では秦氏と漢氏が朝鮮から逃げてきます。秦氏は銅や鉄に関係していると思うのですが・・・

>孝昭天皇と尾張の世襲足姫の子の兄が天足彦国押人で、和邇氏の祖とされています。日本海側の籠神社の海部氏に関係しているのでしょう。

神奈備さん ありがとうございます。系図にお詳しいので助かります。

丹波は713年に丹波北部の竹野、与謝、加佐など五郡を割いて丹後国を作りますね。

国府を宮津に移す。ここに籠神社があるわけです。海部氏の系図があり海部の本拠とされています。丹後の郷土史にお詳しい方に拠ると、元々は海部の本拠は但馬と竹野の間の久美浜にあったそうです。

それを宮津に移したことになります。久美浜と但馬の出石とは近いようです。すると天日矛や長尾市という鉄の勢力に辿りつきます。

竹野をなぜタカノと呼ぶのかも不思議です。

竹はタカで武や高ではないか。これは高句麗と関係がないか。急に青草です。竹野姫は開化天皇(崇神の前)の妃であり、垂仁天皇(崇神の次)の妃です。
竹野姫は一人の固有名詞でなく、竹野地方の姫さんというのが当地の方の説です。



[4844] Re[4841]: 孝霊の東征  素人 2009/02/11(Wed) 22:55 [Reply]
とみた様
勉強させいただいて居ります。
>要は、百済と新羅が争って532年に金官伽耶を新羅が滅ぼし、562年に伽耶全体を新羅が滅亡させるまでの間、伽耶が倭国に応援を求めるとか、百済が倭に任那の割譲を願ったときに吉田連に朝鮮派遣要請をしたのでしょう。

日本は助けようと思えば、助けられたのではないでしょうか。
この時期に、洛東江東岸地域の勿禁邑鉄鉱山付近の製鉄華僑が吉備付近の日本に移住して日本が高度製鉄技術を形だけでも自国のものとした訳です。製鉄華僑の技術を日本人の技術をするのには更に100年を必要とした訳ですが。
国内経営で満足していた日本にとって、喉から手が出るほど欲しかったのが鉄の国産化だったのでしょうか。鉱山と半島にこだわる製鉄華僑を追い立て戻れなくするために、たてた計略かもせれません。西暦400年の金海伽耶への高句麗の侵入のとき可也の製鉄華僑が日本に来たようですが、混乱が日本の高句麗に対する陽動作戦の成功で収まると一部の金海の支配者階級を残して帰国してしまった。見方によるとこれも、製鉄華僑取り込み作戦とも見えるが、製鉄華僑の日本での生産に結び付かず鉄材の欠乏のために、泣く泣く断念したものかもしれません。高級鉄の国産化は古代から日本の最大の夢であったかもしれません。
黒曜石でもそうですが、鉄材料の品質にも特にうるさい民族であったようです。
古代からいろいろと細かい作戦を立ては、失敗を繰り返し最後には成功に結びつけているようです。戦略からも中々の知恵者が日本には居たようです。

鉄鏃の出土は弥生後期ですが、木の葉形サヌカイト鏃が紀元前1世紀ごろには登場しているので小型鉄器である鉄鏃は瀬戸内海東部方面で活躍していたのでしょう。
サヌカイトグループは新兵器に押されていたと思われ、吉備などの前戦に猟師など弓の名手を大量に投入していたのでしょう。対抗するためには専門の軍事集団が必要だったように夢想されます。二上山付近から戦場が近いので危機感も大きかったのでしょう。
青草失礼しました。

[4843] Re[4836]: 孝霊の東征  琉球松 2009/02/11(Wed) 22:29 [Reply]
 "神武東征とは孝霊の東征だった"。。。これは十分考えられると思いますね。
 開化天皇や『古事記・日本書紀』編纂の最終段階?の持統天皇を含め「ヤマトネコ」は一つのキーワードかもしれません。

 僕の師匠、名護教授は「孝霊伝説はモモソヒメの変形では?」との仮説を提唱されていますが、そうすると鬼退治は桃太郎ではなく「大倭迹迹日百襲比賣命」の活動の可能性もあると思います。
 と言うのも、沖縄諸島の伝統的観念では女性の「ホト」の呪力?で鬼は退治されるからなんです。

 仮に孝霊などが実在しないとしても、このあたりが邪馬台国運動とその統一の時代ではないかと考えたほうが妥当じゃないでしょうか?

[4842] Re[4841]: 孝霊の東征  神奈備 2009/02/11(Wed) 21:25 [Reply]
> 天皇のサイドで「タラシ」が初出するのは、第6代孝安天皇の「倭帯日子國押人」、と兄の「天押帯日子」においてです。

 ここだけに突然「タラシ」が出てくるのも不思議なことです。
 この次ぎに「タラシ」の名を持つ弟が皇位を継ぐのは景行天皇の「大足彦忍代別」でその兄が五十敷命。
 また、孝安天皇と景行天皇とは共に尾張の女性に 関係がありそうです。前者は母、後者は惚れた。


> 帯日子(彦)国押人命が孝昭と結びついて出てくるのはどう言うことでしょう。
これは和邇氏系ではありませんか。

 孝昭天皇と尾張の世襲足姫の子の兄が天足彦国押人で、和邇氏の祖とされています。日本海側の籠神社の海部氏に関係しているのでしょう。

[4841] 孝霊の東征  とみた 2009/02/11(Wed) 12:28 [Reply]
>
孝霊山は高麗山とも称したようです。麓の古墳群は436基の古墳がありとか。中でも長者ヶ平古墳は舶来品と考えられる金銅製の冠が出土しており、半島から多くの渡来人がやってきたようです。(『日本の中の朝鮮文化』8 金達寿著)

長者ケ平古墳は米子市淀江にある500年代の古墳ですね。金銅冠はどんなタイプでしょう。

草花、出型、いろいろあります。越前の松岡山の二本松古墳は大伽耶は高麗の王冠です。5世紀中葉。出型なら新羅です。

淀江は弥生時代には潟湖で内湾でした。

妻木晩田には鉄がでますね。


> 樂樂福神社(ささふくじんじゃ)「西の宮」「東の宮」由緒
 孝霊天皇は『武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う』と書かれております。いていないようです。

吉備津神社の宮司さんに伺いましたら、吉備にもこの神社がありますね。岡山から新見に向うと楽々福神社があり、北に進むと比太神社(金屋子)、西比田です。ここから西へ行くと飯坂神社へ、北へ進むと鳥取です。

岡山大の新納泉教授(考古学で有名)は東出雲ー津山ー播磨・吉備の出雲街道に注目されています。

吉備津彦神社と吉備津神社をつなぐ丘の麓で出合った古老の話では、朝鮮人参が植わって朝鮮と関係が深いと仰ってました。

私は西播磨の揖保の御津浜あたりに注目しています。



懿徳天皇 大倭日子鉏友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)
孝昭天皇 御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカヱシネノミコト)
孝安天皇 大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)

手元に吉田連(キチタノムラジ)の由緒があります。大和の話です。

布留川沿いの物部氏の後裔一族です。
大春日朝臣と同じき祖。孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の4世孫、彦国葺命の後なり、昔、磯城瑞かき宮御宇ミマキイリヒコ天皇の御代、任那国奏して曰さく〔臣が国の東北に三の己モンという地あり、上己モン、中己モン、下己モンなり〕地の方(ひろさ)三百里あり。土地人民は富饒減り。新羅国と相争い、彼も此も摂冶こと能ず。兵いくさ相つづきて民、生(暮らし)を安んじえず。・・・・

要は、百済と新羅が争って532年に金官伽耶を新羅が滅ぼし、562年に伽耶全体を新羅が滅亡させるまでの間、伽耶が倭国に応援を求めるとか、百済が倭に任那の割譲を願ったときに吉田連に朝鮮派遣要請をしたのでしょう。

帯日子(彦)国押人命が孝昭と結びついて出てくるのはどう言うことでしょう。
これは和邇氏系ではありませんか。吉田は物部知須だそうです。石上系の物部のはずですが、吉田は吉が本の姓で、田は居る地名だそうです。

唐子遺跡の近くです。この地は川の合流点で6世紀ごろは湿地帯で葦が一面に茂っいたそうです。

以上迷走的な話で、相済みません。点情報を如何に線として面としてつなぐことが出来ましょうか??

纏向遺跡とか邪馬台国の東征話にも何処かで繋がるよな気がするんですが??

青草コーナーなのでご容赦ください。



[4840] Re[4839][4837][4836]: 孝霊の東征  大三元 2009/02/11(Wed) 09:27 [Reply]
>  この和風諡号では孝霊天皇から「大倭根子」が付き、これは持統天皇の「大倭根子天之廣野日女尊」の初出だそうです。(『古代倭王朝論』畑井弘著)

「初出」という視点で私が注目しているのは「たらし」です。

天皇としては第6代(孝安)の「倭『帯』日子國押人」
(これは母親(よそたらし)から継承しているようだ。)

一方、大国主神裔の最後に「遠津山岬『多良斯』神」があり、古事記としてはこちらの方が先に出てくる。

この二つの名前が実は同じものではないか、と追いかけてます。彼らの父親の名前も同一らしく見える。詳しくは:
http://www.dai3gen.net/izm_kssi.htm


[4839] Re[4837][4836]: 孝霊の東征  神奈備 2009/02/10(Tue) 14:04 [Reply]
とみたさん こんにちは。

> 地元の人たちは韓の国の山という意味で、この山を〔から山〕〔こうれい山〕と呼び大切にしたそうです。現在は孝霊山となっています。

 孝霊山は高麗山とも称したようです。麓の古墳群は436基の古墳がありとか。中でも長者ヶ平古墳は舶来品と考えられる金銅製の冠が出土しており、半島から多くの渡来人がやってきたようです。(『日本の中の朝鮮文化』8 金達寿著)


> 鳥取のホテルの案内書には、〔孝霊天皇は朝鮮半島から渡ってきた鍛冶王で、砂鉄から鉄を吹く製鉄王〕カニという土着の鬼を退治して人々を救った〕とありました。

 樂樂福神社(ささふくじんじゃ)「西の宮」「東の宮」由緒
 孝霊天皇は『武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う』と書かれております。孝霊天皇は紀元七三一年(約二三〇〇年前)奈良県城下郡黒田の廬戸宮(いほとのみや)に於て天皇の位にお就きになりましたが、彦狭島命をお連れになって鳥取県内に数多くの足跡をお残しになって居られます。
 天皇は大和の都から丹波の国、更に日本海を経て西伯郡大山町妻木に上陸され、しばらくご滞在。つづいて溝口町の鬼住山と本町の鬼林山に兇賊あり、人民を悩ますとお聞きになり、皇子及び侍従を従えられてその賊をお討ちになって地方を平定し、皇代を普及されたのであります。

 これによりますと、神社の由緒ですからか、流石に「孝霊天皇は朝鮮半島から渡ってきた鍛冶王」とは書いていないようです。

懿徳天皇 大倭日子鉏友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)
孝昭天皇 御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカヱシネノミコト)
孝安天皇 大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)
孝霊(カウレイ)天皇 大倭根子日子賦斗邇命(オホヤマトネコヒコフトニノミコト)
孝元(カウグヱン)天皇 大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト)

 この和風諡号では孝霊天皇から「大倭根子」が付き、これは持統天皇の「大倭根子天之廣野日女尊」の初出だそうです。(『古代倭王朝論』畑井弘著)
 諸王家を束ねる「宗主」として、なみなみならぬ思い入れを見ているようです。

 孝安天皇までは后妃は一人しか記載がありませんが、孝霊天皇からは複数になっています。この天皇が古代の画期をもたらしたことは間違いのないところでしょう。欠史とは言えないと思えます。

[4838] 神武東征  とみた 2009/02/10(Tue) 11:11 [Reply]
孝霊東征と神武東征。物部のニギハヤヒが切り開いた河内・大和の地に後から神武がやってきた。

出雲と吉備・播磨を結ぶ出雲街道が気になり吉備が凄く気になり始めました。そして瀬戸内海から大阪湾へそして河内湖の日下で長スネヒコと戦いやられます。後退して紀伊の方のルート再度戦って、大和磐余で勝利宣言します。

河内湖は間違いなく存在して大和川がいくつかに分かれて流れ込んでいたここまでは確かです。

生駒・信貴山の麓の亀の背は細くって、急流で舟を乗り換える場所これも江戸時代はじめ(堺の方にb流れを変える)まで続いたこれも確かですね。大和川が石川と分岐するところに川津(港)も古代からあったでしょうね。

問題は弥生時代には亀の背付近は大和湖の出口であったのか?

飛鳥・大和の地は湿地帯で微耕地に集落が存在したけれど、湖まではなかったのではと思うのですが、古墳時代になってその湿地帯に伽耶から渡来人が来て開墾させ水田を開く。

大伴氏と蘇我氏が関わる。

今でも寺川。飛鳥川、曽我川、葛城川などたくさんの水路が大和川に合流しています。

やはり湿地帯であったけれど、湖つまり大和湖、奈良湖はあったのでしょうか。

実は、最近私の先輩が彩流社から〔物部氏の盛衰と古代ヤマト王権〕を発表されました。

樋口清之先生が説を唱えられた大和湖を宝賀寿男さんの神武東征の原像の本で引用され、それを孫引きされています。大和平野の地下の宙水=地下水脈は弥生時代は大和湖(奈良湖)であった証とされています。

大和の記紀にでる地名が現存する地名では標高60m以上のところにある。大和湖の標高は弥生時代は50−70mであった。
樋口先生は、最も低い島の山古墳は標高50mで止まっている。周辺部の遺跡はたくさんあるが、いずれも標高60mの線までであるとされています。

私は先輩にその考えは疑問視されているのではと伝えましたら、考古学的な事実を教えて欲しいと言われました。先輩の研究は、神武東征と欠史8代は真実であり弥生時代のことであるとして考古学的な研究と結びつけています。





[4837] Re[4836]: 孝霊の東征  とみた 2009/02/10(Tue) 10:09 [Reply]
神奈備さん

欠史八代、これも避けて通れませんね。孝霊、楽しいい話ですね。
一つ青草で割り込みます。ただし自信ありません。

>  神武東征とは孝霊の東征だった。かつ、九州にあった邪馬台国が東征したことがこの神武東征神話に反映しているように思います。
>
>  神社の祭神と云う殆ど宛にならないデータを示します。欠史8代の天皇達が九州、瀬戸内の北側(山口広島岡山)、愛媛香川徳島、奈良、奈良以外の東日本の神社に祭られている数を出してみました。ただし、多くの天皇がずらりと祭られている神社は除きました。
>
>   九州  瀬戸内  愛媛香川 奈良 近畿以東
>       の北側  徳島
> 孝安  0   0    0   3  4 御所市に集中
> 孝霊  1  17    2   1  1
>> これを見ますと孝安天皇が奈良で3社に祭られています。全て御所市です。さらにその皇子である孝霊天皇は広島・岡山に多く祭られています。吉備との関係が深かったのでしょう。

出雲・伯きの旅で米子市に行きました。妻木晩田周辺の昔話が出ていました。
大山と孝霊山との背較べの伝承です。

昔々、日本の伯きの国にそびえる〔大山〕と背比べするために韓(高麗)の人たちが背の高い山を運んできました。勝負は大山が勝ち韓の人たちが山を置き去りにして帰ってしまったので、山は仕方なくこの土地に留まることにしました。

地元の人たちは韓の国の山という意味で、この山を〔から山〕〔こうれい山〕と呼び大切にしたそうです。現在は孝霊山となっています。

鳥取のホテルの案内書には、〔孝霊天皇は朝鮮半島から渡ってきた鍛冶王で、砂鉄から鉄を吹く製鉄王〕カニという土着の鬼を退治して人々を救った〕とありました。

孫の小千御子は越智水軍の祖であり、瀬戸内海の制海権を握ったらしい。




[4836] 孝霊の東征  神奈備 2009/02/09(Mon) 17:28 [Reply]
 神武東征とは孝霊の東征だった。かつ、九州にあった邪馬台国が東征したことがこの神武東征神話に反映しているように思います。

 神社の祭神と云う殆ど宛にならないデータを示します。欠史8代の天皇達が九州、瀬戸内の北側(山口広島岡山)、愛媛香川徳島、奈良、奈良以外の東日本の神社に祭られている数を出してみました。ただし、多くの天皇がずらりと祭られている神社は除きました。

  九州  瀬戸内  愛媛香川 奈良 近畿以東
      の北側  徳島
綏靖 20   0    2   0  5
安寧  0   0    0   1  2
懿徳  0   0    0   1  1
孝昭  0   0    0   0  1
孝安  0   0    0   3  4 御所市に集中
孝霊  1  17    2   1  1
孝元  1   0    0   1  5
開化  0   0    0   1  4
大倭玖迩阿禮比賣命(卑弥呼?)
    0   1    0   0  0
大倭迹迹日百襲比賣命(台与?)
    0   4    6   1  1

これを見ますと孝安天皇が奈良で3社に祭られています。全て御所市です。さらにその皇子である孝霊天皇は広島・岡山に多く祭られています。吉備との関係が深かったのでしょう。孝霊天皇の皇子には大吉備津日子、また大倭玖迩阿禮比賣命を娶して大倭迹迹日百襲比賣命を生ませています。台与かも。どうもこの孝霊天皇が東征の主役のように感じます。

[4835] Re[4834][4833]: 粘土郭なら女性?  佐々木 2009/02/06(Fri) 20:56 [Reply]
 最初粘土郭の断面を見ていると、これは女性器の断面に似ているなと思ったのです。
 前方後円墳が並列であるとき、片方の古墳は石棺のみと、もう片方は木棺と粘土郭の組み合わせのパターン。木棺・粘土郭の方の前方後円墳の方が全長が長め。
 副葬品の鏡(内行花紋鏡の有無とか)の組み合わせ、玉の含まれる比率。
 こんなことちんたらアナログでやっております。
 
 まだかなり青青草でありますが、大山守皇子が佐々木または日置のルーツではなかろうかと愚考を重ねております。佐々木は家紋からしても方墳だろうとか。
 あの家紋は方角を示しているのですよ、ともある方から教えられ。

 とみたさん ご指導ありがとうございました。
 古代史は、毎年新本が多すぎて、これ頭痛の種、誠に困っています。

[4834] Re[4833]: 粘土郭なら女性?  とみた 2009/02/06(Fri) 12:40 [Reply]
> とみたさんの熱烈な古墳議論から、少し古墳の内部構造に興味を覚えました。首題のような内容ですが、書物にあたってみても判然としません。すでに常識レベルなのかもしれませんが、ご存知であれば。。。

佐々木さんが応援いただけるとは、心強いですね。

粘土郭は女性のものとは初見です。
まあ、いずれにせよ考古学はでは墓と土器がポイントです。墓では墓の形と規模と副葬品(鏡、刀、玉など)そして埴輪です。

墓には方墳と円墳、前方後方墳、前方後円墳いろいろな説があって百家争鳴。

石室、その中に石槨、セン(石専=煉瓦)槨、木郭、遺骸は石棺か木棺の中に

日本では煉瓦は先ずない。

竪穴、横穴、横口

まあいろいろあって退屈しませんが難しいですね。

考古学と神話伝承と記紀や風土記、神社、鉄を総合的に見てどう判断するか。

何か卓越したものがありませんでしょうか。

中国や朝鮮や日本各地の探訪をしています。

シルクロードや中央アジアまで行きました。そしたら天罰で、ただいまワイフが入院中で、それのフォローも掛け持ちする破目です。古代史は楽しめて悩みを開放するには一番です。



[4833] 粘土郭なら女性?  佐々木 2009/02/05(Thu) 19:48 [Reply]
とみたさんの熱烈な古墳議論から、少し古墳の内部構造に興味を覚えました。首題のような内容ですが、書物にあたってみても判然としません。すでに常識レベルなのかもしれませんが、ご存知であれば。。。

[4832] Re[4831][4830]: 福は内  かしこ 2009/02/04(Wed) 15:29 [Reply]
こんにちは。お邪魔しています。

>川に湯を流し、その上の床でもてなす

穏やかな床暖房になりそうで、寒い時期にはよいおもてなしですね。
サンカの人に「自分達の祖先は、神武さんに同行して先々で武器を鋳造した」という伝承があるそうですから、琉球松さん説の鋳造場かとも思いましたが、こんな見方もできるかも、とちょっとだけ書かせて頂きました。

[4831] Re[4830]: 福は内  神奈備 2009/02/04(Wed) 10:26 [Reply]
かしこさん こんにちは。
> それから、足一騰宮。これは、一本柱に刻み目を付けた梯子を登って入る南の島タイプの建物では。一柱騰宮という表記を素直に見れば「一本柱を騰がる」に思えます。この柱梯子を上る動作を想像すると片足を跳ね上げてゆく感じで、これが騰を当てた理由かと思いましたが。

 面白い見方です。
 神武さんご一行をお迎えする宮を形容するのに宮への入り方で表示するのは珍しい構造だからと云うことですね。
 『日本書記』では”宇佐の川のほとり”の宮としていますので、やはり川を生かした宮。宇佐には温泉があり、川に湯を流し、その上の床でもてなす、季節は冬10月下旬の頃のようですし・・。

[4830] 福は内  かしこ 2009/02/03(Tue) 16:19 [Reply]
少し前のお話ですが、環状列柱。材断面の弧の部分が内向きであることをくずさんが気にされていましたが、この断面は平原遺跡出土の「内行花文八葉鏡」の文様に似ていませんか。八咫鏡の箱のサイズとの関係が指摘されている鏡です。花弁(ガク?)の内側に注目すると、これは太陽の光輝に見えます。中心から外に向かって光の矢を放ち魔を除ける。その矢は力を加えてまた戻って来ることが期待されているのか・・と、弓形の花弁を見てそんな想像をしました。

チカモリ遺跡のものは、入口とされる二枚の板に反りが付いており、やはり弧の方が内側に向いています。内へと力を呼び込む気持が感じられるような。背後に投げたという昔の豆撒きを連想します。福は内(^^ゞ。内行花文八葉鏡と環状列柱は、時間的に何とか重なりはしませんか?

それから、足一騰宮。これは、一本柱に刻み目を付けた梯子を登って入る南の島タイプの建物では。一柱騰宮という表記を素直に見れば「一本柱を騰がる」に思えます。この柱梯子を上る動作を想像すると片足を跳ね上げてゆく感じで、これが騰を当てた理由かと思いましたが。
九州筑後市久富の盆綱曳きでは、子供達が裸に腰蓑の全身に煤を塗るとか。南の島々で行われる入墨の顔料も煤だそうで、五島の煤塗りといい、南方との関連が思われます。
煤を生むのは火ですが、火を梵語で utsAhaH とも。宇佐に通じそうかも・・と、青草の小道を。

[4829] Re[4828]: 北方の積石文化  佐々木 2009/02/02(Mon) 17:25 [Reply]
 とみたさん
 積石塚も面白いですね。乾燥地帯では土のみですと風化散逸してしまうので、積石構造としたのでしょうか。日本でも比較的乾燥した風が吹く、風速6m以上の場所なのでしょうか。千の風が吹くところが墓なのでしょうか。
 河内ではよくわかりませんが、淀川流域の文禄堤の建設時に拝借した可能性があるかもしれません。

[4828] 北方の積石文化  とみた 2009/02/02(Mon) 10:56 [Reply]
くずさん、佐々木さん、素人さん

いろいろ反応頂いて愉しいですね。

> とみたさん、
> モンゴル高原にスキタイが残した鹿石、Webで見ました。

モンゴルの鹿石は有名です。スキタイ文明については林俊雄先生が詳しいです。

興亡の世界史02 スキタイと匈奴と遊牧の文明(講談社2007年刊)

に鹿石の研究も入っています。カラスク文化時代(紀元前13世紀ー前8世紀)にすでにあります。丸太で囲まれた積み石塚はモンゴルに接するアルタイに、パジリク古墳として紀元前5世紀?のものが有名です。シルクロードの天山山脈の北道である天山北路のイリ川(バルハシ湖の注ぐ)に近いイッシク川の畔にイッシク クルガン(古墳の意味)は木槨積み石墳です。騎馬民族のスキタイ人=サカ人の墓と考えられていますが、匈奴と月氏(イラン系)の墓という説もあります。

いずれにせよや遊牧・騎馬民族は積み石塚が多いようです。

石文化はモンゴルや突厥などトルコ系民には普遍ですね。ジンギスカンのモンゴル軍が朝鮮の済州島を占拠すると、トルハルバン(石の爺さん)がもたらされます。

今でもモンゴルではオボと言って三角錐の積み石に木を乗せます。
高句麗の積み石塚も有名です。
新羅は木槨積み石墓は4-6世紀に多いですね。

果たして日本の纏向古墳群のホケの山古墳と阿波の萩原2号墳は3世紀初頭ー中葉の墳墓で木槨積石箱式木棺として高句麗由来かどうか私は自信がありません。

讃岐・阿波の対岸の播磨揖保郡御津は古代の瀬戸内海の停泊地でそこにも、石囲い木槨木棺がありホケの山と同じ形とされています。

積み石といえば信州にはたくさんの積み石墓があります。くずさんの地元でしょうか。長野の大室、松本の薄川の針塚、千曲川沿いの須坂の鎧塚にも大きな積み石塚がありますね。鎧塚は高句麗の安岳3号墳と似ているようです。5世紀のものでしょうか。ご承知のように信州は高句麗の5部の民が入っています。上部、下部・・・

須坂から東へ進むと毛の国つまり群馬県です。利根川の上流の渋川にも積み石塚の宇津野・有瀬遺跡があります。


> 遠く縄文の意識に通じそうなところを感じました。
> 鹿(や鳥)を魂を運ぶ聖獣ととらえたようで、
> 鹿を神聖視する鹿島神宮や、諏訪大社の要石に通じるものがありそうです。
> もっともモンゴルのものは天空との繋がり、日本のものは地や海との繋がりを感じ、
> そのあたりは土地の持つ影響力からかも。と考えます。
>
>
> 3世紀中頃から出現期の大規模古墳が纒向にて集中築造されています。
> 同時期の他地域では、大規模古墳は見られても点在するという状況でしたが、
> 河内から大和盆地にかけては点在が見られず纒向にのみ集中します。

[4826] Re[4818][4815][4814][4813][4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  素人 2009/02/01(Sun) 22:46 [Reply]
くず 様
勉強させていただいております。
内容が、TOC、opal-AとかTOCでもマニヤックな土のTOC(水のTC,IC、TOCは知っていますが)、opal-A:球形アモロファス二酸化ケイ素、ピークとはX-線回析?難しくて。
あまり理解できません。プランターオパールは知っていますが関係ないようです。

そこで、得意の思い付きの青草を書かせていただきます。

>個人的には倭国大乱は内因よりも108ADの漢による楽浪郡を含む4郡の設置が強く影響してのものと考えています。
日本の鉄器化と大いに関係あると思います。
お隣の遼東半島の鞍山では前漢時代に鉄官が置かれ、この地域は前にもご紹介した通りに大鉄鉱石鉱脈で、縦型炉などによる白銑鉄の製造と武器用の軟鉄塊等の製造がおこなわれ鉄材の大供給地であった。
楽浪郡・帯方郡を通しての朝鮮半島支配とこの延長線上での日本探査・情報収集・支配体制への関与・鉄材の供給・産品の獲得など考えられます。
出土から、九州北部沿岸地域に鉄の大量の流入があり・鉄器加工などにより初期には鏃、ナイフなど小型鉄器が加工され周辺地域に供給されたものと思われます。これらの鉄材は楽浪郡・帯方郡を通して供給されたのでしょう。民生用としての鋳鉄加工品を中心に。
宇佐を供給源として瀬戸内海西部地域に勢力を維持していた姫島産の白い黒曜石の鏃に鉄鏃が取って代わったと思われます。これに対峙していた二上山などのサヌカイトグループとの間で近代兵器の鉄鏃の登場により、軍事的バランスが崩れてサヌカイトグループが東に押されていったものと思われます。吉備あたりから神戸、京都と押されていったのではないかと思われます。大阪にいたって二上山などのサヌカイトグループは石鏃の大型化では対抗できないので、銅鏃で対抗してかなり善戦したのではないかと思われます。
サヌカイト鏃の大型化から見ますと、200年以上の長期にわたっていますので、戦闘の最前線では地元からの兵力というより、雇われた戦闘集団を派遣して駐屯させていたのではと夢想します。大和朝廷の蝦夷攻略でも前戦に柵などを設けて派兵軍を駐屯させて、領域を拡大していたようですから同じような手法が行われたのではないでしょうか。
旧支配者である縄文期・弥生期よりの支配者により、雇われて戦闘を行っていた人々は戦闘の中で強大な軍事力と富を蓄積してやがて旧支配者を凌駕するようになり、楽浪郡・帯方郡の中国人と結んで旧勢力を転覆する時代がやって来たように思われます。流れとしては自然な流れのように思われます。無謀ですが、この旧勢力転覆の戦いを倭国大乱などと考えるといかがでしょうか。鉄の利権の略奪でもあったと思われます。
この時の楽浪郡・帯方郡の中国人との関係から、楽浪郡・帯方郡の崩壊後にこれらの末裔が建てた朝鮮の国の傭兵として洛東江東岸地域に日本が派兵して長期にわたり駐屯して高句麗と戦闘をすることとなる。これらの戦闘の中で乗馬・騎射を習得して高度の戦闘技術を強大な高句麗との実践から取得して、強大な軍事力と富を朝鮮半島に築くこととなった。ある時期から中国人の支配者を凌駕することとなったと思われる。この辺が、広開土王碑に書かれている真実であろう。
これら半島で取得した高度な圧倒的軍事力によって、凱旋した軍人たちにより国内の平定が急激に進んだ。古墳時代でしょうか。
国内の平定の進展に伴い、半島への興味を急速に失っていったのでしょう。
製鉄技術の導入も中国王朝の暗黙の了解のもと製鉄華僑と共に日本に受け入れることとなったのも半島から興味を急速に失った遠因でしょう。

妄想ですが。

[4825] Re[9713]: 気象変動と考古学 神奈備掲示板の写しです  佐々木 2009/02/01(Sun) 21:45 [Reply]
> 四条畷市資料館の野島稔先生によると、7000年前までは、枚方市までは海で、弥生時代終末期から古墳時代初期までは門真市と中野市?は海であったそうです。

この一年ぼちぼち調べてみましたが、5500年前〜5800年前が最大海域で枚方公園から北へ阪急高槻市あたりまでの南北ラインまでのようです。
 表層の砂層からカキ殻が見られます。
 白肩津は寝屋川市石津ではなかろうかと少し疑っています。これは青草です。
 また皇極天皇二年七月の茨田池の水腐り・・・・は、淡水流入によるゴカイ類の大量死ではないかと考えています。また死んだ魚を食べてもあたらなかったことから、魚は淡水魚でなく海の魚ではないかと考えております。
 7世紀までは海水があったのでしょう。 

[4824] Re[4823][4821]クシシ  大三元 2009/02/01(Sun) 20:50 [Reply]
くずさん

> 旧櫛比村(櫛比の庄)

場所、判りました。有り難うございます。

[4823] Re[4821]クシシ  くず 2009/02/01(Sun) 14:25 [Reply]
大三元さん

> > 位置は現在の輪島市(門前町)の櫛比にあたるようです。
>
> いくつかの地図を見てますがまだ見つけておりません。門前・・、というのは一杯ありますが。


旧櫛比村(櫛比の庄)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E8%87%B3%E9%83%A1
旧門前町
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%89%8D%E7%94%BA_(%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
「中世加賀・能登地域における「町」について」
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/11521/1/AN10063514-5-tanishige.pdf
29P(7枚目/21P中の)地図左上の櫛比の荘ではないでしょうか?

> http://www.dai3gen.net/kusuba.htm
>
ありがとうございます。拝見しました。

> クシシ 醸す 
> 要注意でしょう。

大若子命の湧くに通じそうな^^

> 阿彦は弥彦かも、それは天香語山;それを「賊」だとする。私の越・出雲戦争仮説に貢献しそうです(^^)。ただ、この種のオハナシがどれほど古くからあったものなのか、というのが何時も気になる点です。

そうですね。
越の神社に祭られる大若子命、越に点在する櫛田地名は気になります。
もう少しあたってみたいと思います。


[4822] Re[4816]: 纒向立都  くず 2009/02/01(Sun) 13:52 [Reply]
とみたさん、
モンゴル高原にスキタイが残した鹿石、Webで見ました。
遠く縄文の意識に通じそうなところを感じました。
鹿(や鳥)を魂を運ぶ聖獣ととらえたようで、
鹿を神聖視する鹿島神宮や、諏訪大社の要石に通じるものがありそうです。
もっともモンゴルのものは天空との繋がり、日本のものは地や海との繋がりを感じ、
そのあたりは土地の持つ影響力からかも。と考えます。


3世紀中頃から出現期の大規模古墳が纒向にて集中築造されています。
同時期の他地域では、大規模古墳は見られても点在するという状況でしたが、
河内から大和盆地にかけては点在が見られず纒向にのみ集中します。
この纒向の集団が、少なくとも関東以西を想定した初期国家構想を持つていたと考えています。

この地域の利点は大和川から瀬戸内地域、九州。琵琶湖から日本海へ出て山陰、北陸。
伊勢湾へ出ての東海、関東と交通の要衝にある事と思います。
特に河川、湖、海と船運の利用に長けた集団であれば、その理を最大に引き出せたと思います。
弥生前期から大和盆地、河内方面に勢力持った集団の認識下にあったと思います。
摂津の東奈良遺跡、河内の池上曽根遺跡、大和の唐子鍵遺跡と拠点集落が存在し、
遺跡を結ぶネットワーク(周辺集落遺跡)の広がりも見られます。
長野柳沢遺跡の銅鐸・銅戈はその勢力によったものと考えています。

交易上のメリットだけでは国家構想の要に大和盆地を限定出来ませんが、防衛上からは有利に働く点が大きい。
海を越えての大規模船団を想定すると、北九州、や日本海沿岸部は軒並み危険地域となります。

その上で、以前とみたさんからお話がありましたが、
纒向のホケム山古墳の埋葬施設に見える石囲いの木槨構造は、
スキタイ文化に由来する可能性を持ちます。
ホケム山古墳は積石塚ではないけれども、前方後円の祖形と見える形を共有し、
同じ石囲いの木槨構造を持つ積石塚が徳島県鳴門市の萩原にある1号墳、2号墳。
ホケム山古墳と萩原の古墳からは後漢時代の舶載鏡、画文帯神獣鏡が出土しており、
この鏡は楽浪郡の置かれた地域からも出ていて繋がりがあった事を裏付けます。
3つのうちでは萩原2号墳が最古で2世紀末から3世紀初頭。
倭国大乱の時期に関連した勢力であった可能性が大きくあります。

朝鮮半島の三韓のうち辰韓国(後の新羅)には、スキタイの文化、石囲いの木槨構造を持つ墓制があった。

楽浪郡が設置されての大国に対する脅威、
その中で、半島諸国と倭国内で生じた抗争と構想。
ここをどう捉えるかでしょうか。

[4821] Re[4817][4808][4806][4802][4799][4784][4781][4773]: 三保津姫  大三元 2009/02/01(Sun) 11:57 [Reply]
くずさん

> 位置は現在の輪島市(門前町)の櫛比にあたるようです。

いくつかの地図を見てますがまだ見つけておりません。門前・・、というのは一杯ありますが。

> アイヌ語、Ci-Kus-i 我、通る、所 がやはり気になるところ。

この関連では『古事記』(崇神天皇、建ハニヤス王の反逆の段)に『久須婆(クスバ)の度(わたり:渡、のこと)』という地名が出てくる。これがアイヌ語のkusa(単数)/kuspa(複数)(= 〜を船で川を渡す)が源だろう、と見当は付けています。
http://www.dai3gen.net/kusuba.htm

なお、萱野茂のアイヌ語辞典には、クシシ 醸す と出ていますがあまりに簡単な記載で、また、他の辞書に見えないことから要注意でしょう。

> 越の賊(阿彦)を誅する

阿彦は弥彦かも、それは天香語山;それを「賊」だとする。私の越・出雲戦争仮説に貢献しそうです(^^)。ただ、この種のオハナシがどれほど古くからあったものなのか、というのが何時も気になる点です。

[4820] Re[4819]  くず 2009/02/01(Sun) 11:54 [Reply]
佐々木さん、

僕はここにお邪魔するようになる前は専らにサッカーを見ていました。
日本でワールドカップが開催されたあと、ある代表選手がこう発言しました。
「問題は細部(ディティール)にある」と、
伝え聞いた発言ですから、選手の真意や付随して語られた言葉があったかは解りません。
でもこの言葉には強い違和感を持ちました。
その発言が直接関係したとは思えませんが、その選手は以来代表に選ばれず、
現役を引退しています。

これだと思う細部に突っ込んでいく時、僕は覚悟を決めてとことん行きます。

今言語分野に誘って頂く方もいますが、自分に不足しているのは、
全体を俯瞰しうる総合的な知識と認識していますのいで、
まだしばらくは、視野を広く、視点を変えつつ歩いてみたいと思っています。
以上、私事を失礼致しました^^


>  トミタさんがご案内された甲元先生の文献もちょっと感情的で面白いです。
>  
>  なお炭素同位体については、古い年代測定値は参考レベルとした方がよいようです。また測定対象によって違うようです。

そう考えます。

信頼しうる資料探しは進めますが、掲示板内容の偏重は違う話題を持つ皆様のご迷惑と考えますので、
(すんませんm__m)
この話題に限っての応答はこれにて失礼させて頂きます。
様々な地質資料に基く過去の環境変動についての考察、
大変参考になりました。ありがとうございました。


[4819] Re[4818][4815][4814][4813][4812][4811][4807][4803][4800][4796]: 気象変動と文明崩壊  佐々木 2009/02/01(Sun) 11:09 [Reply]
くずさん

 トミタさんがご案内された甲元先生の文献もちょっと感情的で面白いです。
 
 なお炭素同位体については、古い年代測定値は参考レベルとした方がよいようです。また測定対象によって違うようです。  
名古屋大学の年代測定総合資料センターの報告書がpdfで見れますので、適当に確認ください。 http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/ja/tande_report/index.html
 ほか良いものがあれば、またご案内します。

信州大学は公文教授が信州の池湖を精力的に調査されているようですね。

 ちなみに甲元先生の文献で中国東北部の東翁根山遺跡の花粉化石の概要がありました。
 7000年前のクロスナ第1層、クワは養蚕?。ニレ、コナラ、ヤナギは周辺の山地の植生。まだある程度の湿り気が考えられます。
 4400年前の第2層でクロスナ層の厚さから焼畑の規模の拡大。ニレ、コナラ、ヤナギも消滅。
 西アジア以西原産のシナガワハギやウマコヤシ、染料の原料のアカネ科も見られる。 西からの移動民増加による西アジア以西原産植物花粉の流入とアカネの栽培。
 地場産業は養蚕から染料へ変化。気候変化で養蚕が難しくなった?
 2900年前の第3層で、焼畑継続でマメ、アブラナの栽培。アブラナは菜種油?
 地場産業は染料から油の流通への変化?
 1400年前の第4層で、焼畑継続でマメの栽培。
 土地の荒廃と乾燥は4400年前から始まったとしてもよいと思います。
 
 ちなみにクロスナは、ほとんど微粒炭つまり焼畑の燃え殻物質なのです。これが風で堆積しているのですから、再移動再堆積もあります。
 ただその厚さを見ると、どれだけの面積が焼かれたのかわかるようです。局地的気候変化もあったと思われます。日本にも燃え殻が飛んできたでしょう。
 クロスナ第2層で九州全域ぐらいの焼畑の可能性がありそうです。
>放射性炭素年代測定法と、弥生時代の土器偏年の再編、遺跡年代の再構築について
 今勉強中なのですが、ざっと見聞きする限り画期的な研究成果が出そうな時期なのかもしれません。またご案内できれば致しますが。


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