青草掲示板ログ平二十一年 七月 2009.7
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5177] Re[5175][5168][5166][5162]: 皆既日食→ゴホウラ貝  琉球松 2009/07/27(Mon) 23:08 [Reply]
 "ゴホウラ系装飾品(装飾品ではないと思いますが・・)の出土地"は、だいたい薩摩半島〜淡路島周辺ですね。沖縄諸島はたんなる原産地で、この貝輪を必要としたのも「大乱」時の弥生人達でしょう。

 くどいようですが。。。奄美沖縄の巻貝は「太陽の母体」であり、本土弥生人にとっては "誰も所有できない太陽" への信仰の転換だったんじゃないでしょうか?
 ゴホウラ貝輪は、出雲からも、吉備からも、ソウルやピョンヤンからも出ますね。「ワ(倭・和・環・輪)」の主義者達の目的は、非戦連合でしょうか。

[5176]   訂正 サッタ峠      生田淳一郎 2009/07/27(Mon) 18:17 [Reply]
 かたばみさん、お騒がせしてすみませんでした。
 さきに、「サッタ峠はネパール語以外では解けないだろう」と書きましたが、大訂正です。
 アイヌ語に nisatta(明日) , nisatt(夜明け), nisato(夜明けに) などがあることを忘れていました。
 サッタ峠は駿河の本拠地ともいうべき中央盆地の東にあります。
 サッタ峠の東は、富士山の雪解け水が伏流となって、裾のほうで湧出するので、稲作ができる土地はほとんど無かったのではないでしょうか? だから箱根用水などの発想が民間から出た。

 サッタの「サッ」は薩と書きますが、「タ」は土へんに垂をかきます。パソコン向きの文字ないです。
 サッタがアイヌ語とするなら、夜があける方向としてドンピシャです。あんがいこれかもしれません。
 「夜があける」は、日本語では「アス」だとお思いでしょうが、ネパール語に現れている as は、どっちかというと「日没」です。いや、正確にいうと、陽が沈んで、こよみの上での日付けが「次の日」に変わることが as なんです。

 「静岡」という場で、もう少しアイヌ語地名にのめり込みたいです。
 そこで又々ウスラぼけ記憶ですが、たしか静岡には旅人が「大きな山地にかかる手前」にツカリと読める(漢字忘れた)神社があったはずですが……。神奈備ドン、おたしゅけくたシャイ。
 「ツカリ」はとてもアイヌ語くさい名前です。「手前」という意味です。
 下北半島の南から大平洋岸にそって、尻屋崎のほうに北上してゆくと、大きな岩山の崖にぶつかります。そういった岩はアイヌ語で sir いいますだ。
 そしてその崖の手前の集落は、静狩(シズカリ)いいますだ。 sir-tukari でんす。

 でもな、*nisatt も「日付けが変わる」が基本で、「陽の上昇」ではなかろう……と、思われますんじゃ♂ 「陽の上昇」は、あとから出来た概念、語彙だとおもわれます。

[5175] Re[5168][5166][5162]: 皆既日食→ゴホウラ貝  かたばみ [Url] 2009/07/26(Sun) 23:34 [Reply]
九州縄文に新しい波をもたらしたのは長江の良渚文化がBC2000頃に大洪水によって崩壊したことがきっかけだと考えています(三苗)。
その文化はまずは南西諸島経由でやってきた。船なら移動に1年はかからないと思います。
ただし、それで運ばれるのは海洋文化がメイン、農耕民は開墾しながらの東シナ海沿岸のゆっくりした北上であり、高度な水稲は北九州から広まった。
これを弥生のはじまりとするなら私はBC1000に遡るとみています。

それでは「倭」はいつどこで誕生したのでしょうか。
BC2000〜BC1000頃では西南諸島経由で運ばれてくる海洋文化が最新文化だった。
これが書紀にいう天照大神の原形(祭祀)の登場とみています、海(大綿津見神)と陸(大山祇神)の合体でもあります。
BC1000以降では最新文化の流れが北九州(内陸文化)から、にシフトし、水稲も北九州から広まる(弥生のはじまり)。
BC150前後、渡来人による王権意識の登場(地元でのその下地はまだ未発達)。
AD57、後漢が倭の国を認識し、金印を授与する(地元でも国家と王権意識が確立)。

盛衰はあっても連続していて断絶はしていませんから、倭の定義とはなにか、ということにもなりそうです。
ゴホウラ系装飾品の出土地とその年代を精査していませんが、弥生のゴホウラ系装飾品の登場が海洋文化の流れにあるかどうか。
例えば沖縄、奄美、種子島、鹿児島といった出土地と年代の流れがあるか、です。
いまのところそれはみえず、北九州の稲作の発達と共に登場している、そのようにみえるのです。


三角縁神獣鏡は近畿の新政権所属を示す証明書みたいなものと考えています。
お役所の証明書ですから乱発もする(^^; 崇神248-273あたりから始まり景行311-333でピークとみてます。

さて、卑弥呼はなぜ鏡をほしがったのか。
卑弥呼の鬼道とは楚の祭祀(鬼道)に等しいとみております。
(神武以降の対外関係は呉や楚など南方系が主とみていますが、その関係にクサビを打ち込もうとしたのが魏)
南の長江系祭祀なので北の黄河系文化圏からは鬼道という呼称が示すように否定的な扱いを受けています。
これがいかなるものかは竹簡が出土していて内容がわかるのですがあいにく資料を探すのが・・
(以前にちょこっと書いた記憶があります)

鏡は鬼(死霊)を防ぐ手段に使う、卑弥呼の場合は「一般的な死霊」が相手だったのだが・・
近畿天孫族の周辺に大量の鬼が登場した、滅ぼした出雲の怨霊が(^^;;;
心理的なものでしかないにせよ、垂仁景行時代は、出雲制圧に活躍した方々(出雲の恨みを買う方々)が棺に納まる時代、呪術用の鏡の注文が急増して粗製乱造となった。
天理市の黒塚古墳からは34枚、だれだろうなあ。英雄か大量殺戮者か(^^;

対してゴホウラ系装飾品には自身の祖霊を意識していたのではないかと思います。
九州弥生での倭の御先祖の象徴でもあり、その祖霊と共に眠る、であろうと考えています。
(九州への)葬送の船の埴輪、阿蘇石の石棺、これらの意識も類似です。
当時の信仰あるいは精神世界のことでもあり解釈だけでも容易ではないでしょうけれど。

[5174] Re[5165]:   栲麻時代 と 綿の時代     かたばみ [Url] 2009/07/26(Sun) 23:15 [Reply]
>師を mor ,mori , moro などと発音するのは
モロがどこの言葉かわかりませんが、mor ,mori という発音はどこにも書いてありませんので念のため。

>栲がタパにも通じる
タク布とタパ布が同系であろうと書いていますが、植物の皮の繊維という共通項のことです。
栲(タク)とタパが通じるとはいっていません。

>「“芸”の呉音読みの訛りがモロだ」というのですが
芸の呉音読みは辞書にあるゲしかしか知りません、字通にもそれらしきは書かれていません。

>相模の国の住人ですよね
江戸っ子です。他の場所に住まいしたこともなく、相模についてもなにも知りません。

[5173]   駿河と相模 追補 …… 2     生田淳一郎 2009/07/26(Sun) 17:51 [Reply]
みなしゃまの御胸貸してもらいながら、やみくもに突っ込みましたが、お崖様でウスラぼや〜ッとながらも古代のナゾの一部がみえてきたようです。
 計らずも、アマと akha が接近をみせました。そこから「坂」という古代人がすきな音の意味が、しだいに姿を現してきたようで、ミマサカまではあとひと息です( mi ma = 神へ)。

 このグ考察は、駿河と相模を同一言語のもとで解明しようと計ったのですが、接頭辞の s- が許されるとなると、再びインドネシア語の agam(宗教)が復活します。s-agam です。

 これも一つまた置いといて、漢字オンチが漢字をいじくってみました。
 駿河はわかります。当時の馬は駄馬ばかりでしたが、それでもときどきは、呂布が乗り回していた赤兎馬みたいな馬が紹介された。それをシュンメ(駿馬)と言っていたので慶字ばやりにのって「駿」をあて、ga は河にした……。surga の r は促音になったり n に音転するのです。
 相模……。これは慶字もくそもない。藤堂明保著『漢和大字典』と相談したところ、相模の古名は サカミだということだけが拾えました。
 しかし、これを音読みにすると「アイモ」ともなります。今のあっしゃ、このアイモに気が惹かされます。おそらく……のおそらく、この地は「アイのくに」といっていたのではないか。 mo とはくにです。そして今、愛川があって相京さんがいます。
 では「アイ」とはナニか、これは「アキ」だったのが k 音脱落で「アイ」になったと……。
 人里離れた僻地の山奥に「秋」がつく地名が点在しています。古い文化は僻地に残る。

 あ、駿府(現静岡)から清水にむかうところに、サッタ峠がありますが、このサッタはネパール語でしか解けないのではないかと思います。行者向きの意味( satta= 本当の)と sar-ta(荷運び)の二つの意味が出ます。サルタ彦でもあります。

[5172] 駿河と相模 追補 …… 1     生田淳一郎 2009/07/25(Sat) 17:49 [Reply]
    《  》
★  空、海をいう sagar を、もう少し掘りさげてみます。
 海も空も族際語で「広がる・大きい」となることは申し上げました。
 ネパール語には a と o の中間母音があって、これと kh という音が日本古代に、いわゆる甲類乙類を醸しだしています。この中間音は普通 a をひっくり返した文字で表現していますが、ここでは文字がないので、A とします。
 海をいうネパール語は sagAr です。手許の辞書の訳は「大洋」となっています。
 空のほうは sAgAr です。
 この二つはもう少し前では同一の「原意原音」だったことでしょう。現代人が考えると、かなりオカシイと思うのでしょうが、古代では厳然とした事実です。
 アイヌ語の「日・月」はいずれもジュピターに似た cup という語で表しますが、これは天空という“海”を cu(水旅)する p(もの)だとの伝統化された感覚によるものです。なにかシランが空が海になっているのです。
 或いは「 cu(水旅)」は“その後”にできたのかもしれません。
 これとそっくりな転倒が、日本語のアマに見られます。天も海もアマなんです。これはまたどういうことかというと、これは「 a-ma(無い・目)」まで遡れると、小生は思うんです。
 この意識の根底にあるのは「なんかワカラン = 目が届かない =アマ」ではないでしょうか。
 ここに adho(盲)とか 第三の目崇拝の芽があります。

 いやいや、白状しますと、これは ar-ma (第三の目)の r が落ちたのかもしれない……!

 そしてハナシは更に複雑怪奇になります。
 目明かしというお回りさんがいました。そして赤目という目明かし役職もいました。
 目 / 赤……!! ankha という語形もありますが、ネパール語で目は akha いいますだ。
 日本語にはスットコドッコイとかスッカンピン、スッカラカン、すってんてん、ずっこける、素っ裸など、語頭につけて強調 を表す接頭辞の s- , su- .がありそう。それがネパール語にはあると断言できそうなんです。
 akha の語頭の s- をつけたらどうなりましょうか? sakha ですよね。ankha という語形もあるといいました。 s- をつけたらサンカじゃないっすか。

[5171]   駿河 と 相模      生田淳一郎 2009/07/24(Fri) 16:12 [Reply]
 かたばみさんは相模の国の住人ですよね。また、ビッシリと整理された情報箱からの援助交際を願いたく……。相模の語源などについて、すでに書き込みなどありましたら site をお教えいただければ幸いです。

 話は 5155 の、佐賀んもんが多良岳の東を通過する旅人を攻撃するところまで遡ります。
 東方をだいじにする心情は、すべての古代人に共通するのか、アイヌも東の窓の外をひとが通過しただけでも、火がついたように怒るといわれています。イオマンテのとき、動物霊を送り出すのは東窓からだそうです。
 そういった古い原始文化段階のときだと思えるのですが、天国とか神々が舞い遊ぶところと訳される surga が、富士山の南にあるのです。(静岡という名前は明治になってからの呼び名だそうです)。
Google袋をちょと見たところによると、駿河はインドネシア語発というのもかなり現れているようですが、これがネパール語だという説は無いようです。しかし surga はネパール語にもあります。surga の r が促音をおこした suggha(美、清潔)もあります。
 駿河と相模はできるだけ同じ言語で解釈したいもんです。
 そこでインドネシア語を調べたのですが、sakal(逆風)ぐらいしか見当たりません。が、ネパール語には「空」と「海」が sagar という大略同語形で見られるのです。
 sa・gar は族際語で「広がる・大きい」と分解できます。
 サガミの「ミ」は、いろいろ意味づけできますが、いまのところ小生にはギリヤーク語にみられる mif(陸地)がいちばんピッタシに感じられます。

 多良岳の東方に佐賀があり、霊峰富士の東に相模があるのは偶然ではないはずです。
 「陽が昇る」はネパール語で udh-aunu いいますだ。-aunu の部分は「する」とか「なる」をいう動詞末尾ですので、地名などに遺っているとすれば udh のほうです。
 次郎長の家は有渡町だそうですが、これはウドと発音するのではないでしょうか。また静岡県には有渡郡もあります。天岩屋から天照大神を引出した立役者にウズメの命が坐す。この「ウズメ」も十種ほどの解釈が出ます。が、やっぱ「陽が昇る」にしておこうかなァ〜。

 富士山頂に坐す神々は、なんぼ神様でも寒いやら強風やらでたいへんです。
 どこでお休みになるのかを探してみました。すると簡単にわかりました。それは山中湖です。
 神々のお集りはヤマ、その場所が nak-a です。神は水の中に宿っていらっしゃる。

[5170] Re[5169][5163][5162]: 皆既日食  神奈備 2009/07/24(Fri) 08:39 [Reply]
> 計算誤差がどのくらいあるかによってはどうなるかわかりませんけど。

アスキー社の
stella navigator
を使用しています。
平成6年ころのソフトです。2000年も昔に引っ張れるのかどうかは承知していません。

[5169] Re[5163][5162]: 皆既日食  かたばみ [Url] 2009/07/24(Fri) 00:33 [Reply]
>福岡県で247年3月24日18時25分を最大食とした

手持ちのシミュレータでは福岡では部分食がかろうじて見える、になります。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/nisshoku247fukuoka.png
皆既近くが見えるのは四川省あたりの日没と思われます。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/nisshoku247shisen.png

計算誤差がどのくらいあるかによってはどうなるかわかりませんけど。

[5168] Re[5166][5162]: 皆既日食→ゴホウラ貝  琉球松 2009/07/24(Fri) 00:00 [Reply]
 猿田彦命の足を挟んだ「ヒラブ貝」はシャコ貝とされてますけど、三重県に生息していた可能性はまずないですね。もちろん、沖縄島での事故?の可能性もないでしょう。
 シャコ貝の沖縄名は「アジケー」。。。これは猿田彦が溺れ死んだ地「アザカ」の転訛と考えられます。

 また、ゴホウラ貝は「ティダクナ(奄美)・ティランナ(沖縄)・ティダンスー(宮古)」など "太陽の母体" のような名が与えられていますから、たんなる装飾品とか、特権階級の嗜好品との見方は、歴史を曇らせるのではと考えますね。

 もちろん、この考えは少数派でしょうけども、ゴホウラ貝輪のアップデート版である「鍬形石」は、前期前方後円墳においては、三角縁神獣鏡よりも被葬者の頭部に近い所で出土する場合もあります。

[5167] Re[5163][5162]: 皆既日食  かたばみ [Url] 2009/07/23(Thu) 23:29 [Reply]
>福岡県で247年3月24日18時25分を最大食とした

手持ちのシミュレータでは福岡では部分食がかろうじて見える、になります。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/nisshoku247fukuoka.png
皆既近くが見えるのは四川省あたりの日没と思われます。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/nisshoku247shisen.png

計算誤差がどのくらいあるかによってはどうなるかわかりませんけど。

[5166] Re[5162]: 皆既日食→ゴホウラ貝  かたばみ [Url] 2009/07/23(Thu) 23:25 [Reply]
>「ゴホウラ貝などの北限も現在よりずっと北にあった可能性」は残念ながら薄いと思います。

きっかけは猿田彦命が貝に挟まれて死んだという説話で、それができるのはシャコ貝以外には思いつかない。
現在、シャコ貝は沖縄以南の海にいるようですが、猿田彦命伝承が沖縄とは考えられません。
縄文の最温暖期に九州日向あたりにもシャコ貝がいたならば、ゴホウラ貝がいてもおかしくない。
ま、採る技があったかどうか、縄文人がそこまでの装飾品を求めたかどうかはおいといて。

>「ゴホウラ貝輪」の分布は、"倭の思想"の範囲と考えられますし

(南西諸島に)「ある思想」があってその思想の象徴として広まったのがゴホウラ貝輪、そうあってほしい、が琉球松さんの考えであろうと推察(^^;
私の考えは、人間の欲望に発するもの、です。そうあってほしいかどうかはおいといて。

弥生でのゴホウラ貝の貝輪は、特権階級しか入手できない、すなわち権威の象徴となる装飾品(貴重品)だった。
だから、そういう権威の登場する時代で多く出土するようになり、古墳時代でもその意識の継承として類似腕輪が作られていたのだと考えています。
水稲の拡大で弥生が始まる、そして権威が登場し、権威の持ち主が権威を示すための最高級の宝飾品を求めた。
私はこの順番だと考えています。

縄文の場合は運のよい人がそういう高級品を交易品として入手できたでしょうけれど、たいていはそこらへんで採れる貝で十分だった(^^;

この権威は本来はじっくり成長するはずですが、糸島半島の三雲遺跡(三雲王墓)や平原遺跡は前後関係がみえない特級品遺物が出土する遺跡です(あいにく多くが江戸時代に散逸したようです)。
その特級品は単発的でその後はでなくなります。
渡来人が運び込んだもの、それを再生産(あるいは模倣)できる下地(文化と技術)が地元にはまだなかったからだと考えています。

この渡来人こそが天孫降臨の親、天之忍穂耳尊たち(BC154頃)であると考えています。
すなわち三雲王墓は天之忍穂耳尊たちの墓(天穂日命たちの墓は・・島根以東の日本海側だと予測)。
(考古学がタブーとする神話との結合・・平然とやる(^^;)
少し先立っては素盞鳴尊たちが渡来していますが、天之忍穂耳尊たち(前漢の王族)より文化的にはだいぶ劣っていて、追放されたりもした(^^;

まだ国家や王の登場へ熟していないところへ素盞鳴尊や天之忍穂耳尊など王の意識を持つ渡来人がやってきたわけです。
渡来した本人が死去したとき、権威の象徴は埋納されて消えていった。
大型船(天の浮橋かな)で渡来したはずだけど、これも修理すら出来ずに朽ちていった。

ゴホウラ貝の装飾品は天之忍穂耳尊たちが持ち込んだ特級品(王権の象徴)の地元での代替品。
縄文的文化との複合から登場した特級品であり、熟しつつあった王権の象徴となった。
(神武もつけていたと思います)
なお、後に第2のゴホウラ貝の流れ(近畿での鍬形石や車輪石)が登場するのは、九州から近畿へ展開(AD250頃 )した天孫族が故郷を懐かしむところからでしょう(葬送の舟形埴輪や阿蘇の石を使う石棺と密接な関係がある)。

「倭」の挙動と深い関係があるわけですが、その源は権威という欲望から、と考えています。


余談
宮崎県の串間から周〜漢にかけて皇帝が諸侯に与えた「穀璧」という玉器が江戸時代に完全品で発見され国宝となっています。直径33.3cmです。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/08/kushima01.gif
こんなものがなんでここから出たのか謎となっていますが、江戸時代に三雲遺跡などから持ち出されて薩摩藩に持ち込まれた、が無難か。
できれば、瓊々杵尊ないし天火明命が降臨するとき親父殿からもらったもの、そうあってほしいけど(^^;
(徐福という線もないわけじゃないけど、始皇帝が平民であろう徐福にそこまではしないと思う)

[5165]   栲麻時代 と 綿の時代     生田淳一郎 2009/07/23(Thu) 10:49 [Reply]
 かたばみさん、有り難うございました。この上のお小遣など気になさらないでくださいね。

 するってぇと、師を mor ,mori , moro などと発音するのは、やはり日本列島で醸成された語だということになりましょうか。
 小生の血の里は豊後“森”です。その昔、薩摩勢力から攻められたとき、最後まで陥ちなかったのが森町の切株山だといわれ、オヤジはそこで生まれました。師をイクサともいうそうで、これも有り難き幸せです。ここんとこ、生田とはイクサ(戦)と関係あるのではなかろうかとおもってきました。神戸の生田の森も示唆に富んでいます。

 はからずも栲が出ました。もう御存知かもしれませんが、御礼になるかどうか、ひとくさり。
 ネパール語に dhago bat-(つむぐ)があって、服部〜機織りの原音(?)が bat であることを示していることかとおもわれます。バタン・バタン → bat ・bat かな?

 ここで義経さんの恋人、静御前のお出ましです。
 をだまきとは dhago (糸)のdha の巻いたもの。「を」は麻。
 伝説ですが、若いインドの青年が漂流して日本に上陸しました。そのとき壺を持っていて、その壺には綿のタネが入っていたと。
 織田信長さんは家康さんを「三河の親戚」と呼んでいたそうです。家康さん一家は綿の栽培で下地を造ったそうです。従来の麻ではなく、その綿で紡績用糸玉を造ったのが“織田”一家だったと思いますが……。軍事だけではなく、経済基盤で親戚関係だったと見てとれます。

 栲がタパにも通じる……ここも知りませんでした! ありがたい限りです。そのタパはアイヌ社会に入ってテパ(腰巻き、ふんどし)になっています。村山七郎先生はタガログ語を中心にして祖形 *taphi(小布)を締めくくられましたが、これはバスク語まで入っています。

 そこで、もいっちょ援助交際ねがいたいのですが……。
 これも、いつかどこかで拾ったのですが「“芸”の呉音読みの訛りがモロだ」というのですが、これはどうでしょうか? むろん、にらみは「オモロ」のモロです。
 タガログ語に modo(good manner)があって、moro < modo なども匂わせています。

[5164] Re[5163][5162]: 皆既日食  琉球松 2009/07/23(Thu) 10:45 [Reply]
 「3月24日18時25分」というと、通常でも夕日の状態でしょうから、太陽を直接肉眼で見ることができるかもしれませんね。
 とすると "太陽が欠ける" との認識を持つことは可能でしょうし ”そのまま日没” となれば、翌朝の日の出までの間に人々の不安感が大きくなっていったのかもしれません?

 しかし「倭人伝」の「卑弥呼の死亡」には日食を思わせる記事は見あたらないですし、「天岩戸神話」と天文学を結びつけるのも、意外とワクワク感が小さいんですよこれが。。。

[5163] Re[5162]: 皆既日食  神奈備 2009/07/23(Thu) 09:25 [Reply]
>  卑弥呼が亡くなったとされる247年に日食があったようですが、福岡や奈良ではどうだったんでしょうかね。

 加藤真司著『古事記が明かす邪馬台国の謎』によりますと、福岡県で247年3月24日18時25分を最大食としたに中心離角0.0度の日食(皆既か金環かは触れず)が起こっています。そのまま日没となっています。実に興味深いことです。

 奈良県でも日食が見えたかも知れませんが、西側に山があり、十分に欠けないままの日没だったそうです。気がついていないかも。

 また、上記の本によりますと、福岡県で中心離角が0.1度の日食が103年6月、127年8月、146年8月と短い期間に起こっています。

 昨日の日食の放送で、金星が見えていましたね。天加加背男命かも。

[5162] 皆既日食  琉球松 2009/07/22(Wed) 22:34 [Reply]
神奈備さんへ

 卑弥呼が亡くなったとされる247年に日食があったようですが、福岡や奈良ではどうだったんでしょうかね。

 今回は、全国的に天気が悪かったようですけども、沖縄島ではバッチリの部分日食でしたよ〜。やっぱり不思議な感じがしますね。セミの声がピタッと治まりました。

 で、どうなんでしょうか卑弥呼の死と日食の関係。「太陽がヘソを曲げて隠れ世界が暗くなった」とのモチーフは、ユーラシア大陸やアメリカ大陸には、とっくの昔からありますし。。。


かたばみさんへ

「ゴホウラ貝などの北限も現在よりずっと北にあった可能性」は残念ながら薄いと思います。
 この貝や、加工された「ゴホウラ貝輪」の分布は、"倭の思想"の範囲と考えられますし、倭語やそれに近い言葉(アイヌ語も含む?)を話す人々の生活範囲と思われるからですね。
 ただ、有珠遺跡(北海道伊達市)より北の北海道内から出土する可能性は?とすれば、それはあるかもしれません。

[5161] Re[5158][5151][5150][5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子+α  かたばみ [Url] 2009/07/22(Wed) 20:37 [Reply]
>三重県伊勢「海の博物館」でベトナム周辺で今も漁に使われている竹で編んだ舟、トエントエンを発見

おお現物がありましたか、ありがとうございます(^^)

うーん、お伊勢参りはちと遠いなあ。
ひょっとして、ゴホウラ貝などは・・縄文の最温暖期には黒潮が青森付近まで北上していた様子があってタイやヒラメが三内丸山でも食べられていたようです。
ゴホウラ貝などの北限も現在よりずっと北にあった可能性あり。

日食は東京は曇りでまったくだめ、TVによればトカラは大雨だったみたい、皆既中継は硫黄島とその周辺の客船からだけですね。

[5160] Re[5157]:  モロ…… 拾い物の やましさ     かたばみ [Url] 2009/07/22(Wed) 20:33 [Reply]
>この“師”には「モロと発音することがある」と、いつのまにか記憶しています

萬旗豊秋津師比賣命ヨロズハタトヨアキツシヒメ(古事記)または栲幡千千姫タクハタチヂヒメ(書紀)。
(栲はちょっと違う字形の原文あり)
師、辞書の漢字源にはシのみ。名付け読みには、カズ、ツカサ、ノリ、ミツ、モト、モロ。
足利尊氏の重臣に高師直コウノモロナオあり。

字通/白川静に、軍が出陣の時に軍社に祀った豚肉の象形とあります。
将軍や師長でありその居る処すなわち基地や駐屯地。
将軍や師長が引退した後に子弟の教育にあたったことで「周礼」に書かれる師の職事はこれに発する、とあります。
名義抄に、イクサ、ツカウマツル、キミ、ノリ、シタガフ、モロモロ、字鏡集の類例も書かれています。

栲幡千千姫→タクとは桑科の繊維で作るタク布やタク縄。朝鮮半島ではtak、東南アジアやポリネシアのタパ布と同系でしょう。
だとすればここでの幡は機織りのこと、萬旗豊秋津師比賣の萬旗の旗も機織りの意なら、どんな機織りでもまかせてちょうだいの豊秋津の女先生。

[5159] Re[5158]: 根子+α  神奈備 2009/07/22(Wed) 19:40 [Reply]
> 今日は、ぼつぼつ日食(アマテラス様の岩戸隠れ)がスタートしています。大阪は雲が厚くて残念(;一_一)
> M女史は今頃、悪石島らしいですよ。現地の天気はどうでしょうね?

 全国から晴れ男、晴れ女が集結しているので、何とかなるかなと思っていましたが。

 万が一、もう一つでしたら、M女史は船上からですので、晴れの地域に移動して、ちゃんと観察しているでことしょう。

 所で、月を太陽が追い抜いていくので、日食の地域は西から東へ移動していくのですね。

[5158] Re[5151][5150][5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子+α  サン・グリーン 2009/07/22(Wed) 11:06 [Reply]
かたばみさん。みなさまお久しぶりです。
マナシカタマの舟の件で情報を・・・・

> 書紀で鹽土老翁が彦穂々出見尊を綿積神の宮に案内するとき、乗せる舟が目無籠マナシカタマ?とあります。
> 目の詰んだ水の入らない(竹)籠の舟だと思います。
> こういう舟は現在も使われています、お椀のような形で沿岸部とか河川の岸辺をいったりきたりといった用途ですが、今は資料確認できず。

三重県伊勢「海の博物館」でベトナム周辺で今も漁に使われている竹で編んだ舟、トエントエンを発見(*^_^*)古事記に書かれている山幸彦の乗った船か? と説明されていて感激しました。


> 目無籠はその地の海女など沿岸漁民が使っていた舟じゃないかなあ、裏返して干してるときは亀の甲羅。
>

まったくそのとおりの形状でしたよ。その他にも興味深い資料がいっぱいのすばらしい資料館でした。ぜひぜひ現地に行ってみてくださいね。

神奈備さまへ
今日は、ぼつぼつ日食(アマテラス様の岩戸隠れ)がスタートしています。大阪は雲が厚くて残念(;一_一)
M女史は今頃、悪石島らしいですよ。現地の天気はどうでしょうね?

[5157]  モロ…… 拾い物の やましさ     生田淳一郎 2009/07/22(Wed) 07:38 [Reply]
 かたばみさん、この漢字オンチ奴にちょっと援助交際いただけないでしょうか。

> 萬旗豊秋津師比賣命
★ とありますが、このぜんたいは何と発音するのでしょうか?
 小生はとくに、“師”がわかりません。
 アイヌ語やネパール語には pa . pau -に、「みつける」とか「みつけて自分の物にする」という語があります。アバシリの pa などにくい込んでいるかと……。

 どこで、どう拾ったかをメモしていたらよかったのですが、この“師”には「モロと発音することがある」と、いつのまにか記憶しています。ほんとうにそういえましょうか。
 いえるなら、防人のモリは原音 mor で、これが「モリ」や「モロ」へと開音(母音づけ)化され、日本語らしくなった……とも考えられます。
 “師”はもちろん師団で、500名とか 2000名の軍隊のことでしょう。
 また、 mor は高句麗だったでしたか、馬でもあります(→ 盛岡のチャグチャグ馬っこ)。
 さらに「モロコシ」とか「モノノベ < モロノベ」にもひっかかりができそうです。

 ひっこしはまだ済まないでしょう。アレ、けっこう時間がかかるんですよね。
 古いホコリを大量に吸うとヘルペスになったりしますので、ご用心ください。

[5156] Re[5153][5151][5150][5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子+α  かたばみ [Url] 2009/07/21(Tue) 18:12 [Reply]
>日本の弥生時代は、神武兄弟の「穂」まで遡ると思いますね

弥生を稲作の始まりでありとするなら、BC660よりもっと遡ってBC1000近くになるかもしれませんが、現時点ではおおざっぱでよいと思います。
ただし、書紀の書くBC660が神武の即位年かどうかは別です(神武兄弟の「穂」とは稲飯命(稲氷命)のことと思います)。
事実の年代の事象と書紀の書くインチキ年代(の可能性甚大(^^;)での事象をそのまま重ねることはできないです。

書紀「神代上」に伊弉諾尊伊弉冉尊の子である月読神に、葦原の中つ国にいる保食神の様子を「偵察」にゆかせたところ、月読神が保食神を殺してしまい、天照大神は保食神の死体から生じた水田種子という稲種を天狭田に植えたとあります。
稲作開始(水田)を弥生のはじまりとするなら、書紀自身がそれを神代であり神武登場のはるか以前のことと書いています。

余談
神武の兄とされる稲飯命(稲氷命)は新羅国王の祖になったと新撰姓氏録にあります。
新羅本紀の書く王の系譜には3系統(朴、昔、金)があって、昔が脱解系譜でこの登場が自論の神武時代に一致します。
(脱解が稲飯命であるなら「ある時代」では倭王と新羅王が遠戚関係にあったことになる)
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/shiragi_ou.png

ついでに稲と神武に関連して金印「漢委奴国王」(AD57/後漢書)の解釈を一発(^^;

前に書いたように金印は神武36-66がもらった・・
委奴国とは後漢書の書く倭奴国の意、光武帝(BC6-AD57)の時代では「倭」の文字はなかった。
東方の未開人である東夷の「夷」のうちの稲を作る民であるので、夷に類音で「委」として金印に委の文字を使った。
委(イ、ヰ)、禾(イネ)+女(弱々しい)→弱々しく穂がたれるの意。
委奴国とは稲作の民の国(奴は卑下の文字)の意、光武帝は神武の国を稲作の民の国と認識した。

その後に稲作の民を意味する文字として後漢は委に「にんべん」を加えて「倭」の文字を作った。
説文解字AD100頃編纂に倭の文字が登場し、発音は呉音漢音ともにワまたはイ(ヰ)です。
いまのところですが光武帝以前の書に「倭」の文字は存在しません。
(山海経など後世に追記ないし修正のあるものは除きます)

後漢書の書く倭奴国の奴は漢音のはずで、ワドないしイドと読むのが正しいと考えています。
魏志倭人伝の伊都国は倭奴国の良字化の可能性あり。
ただし、天孫であることを意識したとき、奴をあえて呉音のヌ(ナ)と読む可能性もあり。
(奈良、ナ・ラの語源は・・第3の倭の奴国の意・・やめときます(^^;)

その意味では稲作の民の国の存在を後漢に認知させたのは神武36-66となります。

[5155]  ムス …… 2     生田淳一郎 2009/07/21(Tue) 12:05 [Reply]
 そういった、共にネパール語から大いに影響を受けた日本語とアイヌ語ですが、「双方ともに同系同義の語彙」は、そんなには無いのです。重なっていないのです。

 どうせへたな表現しかできませんので、ズバリ言いたいことの中核へ突っ込みましょう。
> ムスヒの神は火魂神 生魂神 足魂神 稚魂神 玉魂神、熊野夫須美神など多くの神名が残っています。
★ 小生が使っているのは 5754語彙しか載ってないネパール語の辞書で、そのせいかもしれませんが、神奈備ドンご注目の“ムス”についてはまず muslo(炎)が目につきます。
 わずかな語彙資料ですので、半日かけて、末尾の lo の機能を追いかけまわしたのですが、どうもこれは「わぁ〜と出て来る性質のもの」みたいなことを表す末尾辞のようです。
 で、mus は火と置けます。その火は火でも「ほむら立つ」のようなのが炎なんでしょう。

 「ムスヒ」となったら、いちおう、お手上げしておく必要があります。
 しかし、「ヒ」の周辺事にはパーリ語でおもしろいのがありました。
 誰かさんが、「昔にはネパールという国はなかった、だからネパール語もありゃしない」と、トンカチなことを言いました。このへんは Stan さんがおっしゃった「文化モザイク散在」という考え方を採るべきです。ネパール語を論じるとき、パーリ語は大いに参考にしなければなりません。
 そのパーリ語に(じつは近頃は未確認なんですが)ヒムカ(霊域)があるのです。このムカは古代人の好きな発音らしく、いろいろの内意がありますが、「東として通用しているヒムカ」をまるごとぶち込んでもいいでしょう。
 ここには多良岳の東で展開された「強執」がまつわりついています。
 「イサ」・「ハヤ」ともに、どうもパーリ語臭いんです。
 おっと、ちょっと戻りましょう。ヒムカのヒは pi , chi と同列語で霊です。

 やっぱ、長くなるなぁ〜
 とにかく、言っておきますが、佐賀んもんは、多良岳の東海岸を通る旅人を攻撃したんです。

[5154] ムス …… 1  生田淳一郎 2009/07/20(Mon) 18:01 [Reply]
 裏番組・神奈備ドンの書き込みに手をかざしながら……です。
 日本語がどこの言語といちばん似ているのかというテーマに際して、西洋流の分析手法では、まず文法の類似を求めることになります。
 すると、それは、すぐに日本語とほとんど同一の朝鮮語との近似にたどり着きます。
 ところが朝鮮語は発音の基礎が日本語とは似ても似つかぬ形相を示し、類似語彙は 100たらずしかなく、ここに大きく期待を裏切られます。
 ならば、ここでいちど西洋流分析から離れて、別のアプローチを模索すればいいのでしょうが、“相互足ひっぱり”が目にみえていて、食いっぱぐれにつながるような冒険はだぁれもしません。いや、サヴァン症患者だったからこそ言語学者になったのですから、理論構成力はゼロなんです。
 今の言語学者さんたちは、もう「日本語の親戚さがし」は追おうともしません。しかも、出てきた薪見解に対しての攻撃手法だけは逞しく、そして自らはナァ〜〜ンも研究しないのです。

 ですから、この領域を突っつく学者は“「言語学者」ではない「いちおうの学者」”しかいなくなりました。「いちおうの学者」でないと、出版社の採算が採れないからです。
 私見では安本美典先生さんとか大野晋教授です。
 その大野晋教授が 30年前に提唱されたのが「タミル語“起源”説」でした。
 この「タミル語“起源”説」によると、日本語とタミル語との類似語彙は 350ペアあります。350といえば対朝鮮語の 3倍半もあります。
 わかいとき、朝鮮語と日本語を対比させて、そこからムリムリながら 140の類似語彙を掲出した経験を持つ大野晋教授には、この 350 という数字はまさにバンバンザイだったことでしょう。
 大野晋教授はタミル語と日本語の対比はやられましたが、「タミル語とアイヌ語」の対比はおやりにはなりませんでした。

 要は、いっちょいっちょやってみれはいいことでした。
 小生がやってみたところ、ネパール語が日本語とのあいだに 1400の類似語彙を示し、ネパール語 VS アイヌ語は 500もの類似語彙を示すんです。

あらま、長くなった。分割しやしょう。晩(酌)記者やしィ♂

[5153] Re[5151][5150][5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子+α  琉球松 2009/07/17(Fri) 10:19 [Reply]
 紀元前711〜585年というのは中国春秋時代前期ですけども、この中途半端さがなんかリアルなわけですよ(訂正・即位は660年でした)。

 たぶん、日本の弥生時代は、神武兄弟の「穂」まで遡ると思いますね。

[5152] Re[5151][5150][5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子+α  かたばみ [Url] 2009/07/16(Thu) 11:34 [Reply]
籠の舟、ひとつみっけ(^^)
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=630632

[5151] Re[5150][5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子+α  かたばみ [Url] 2009/07/16(Thu) 09:26 [Reply]
>神武の即位が、紀元前711年に設定されているのも、これはたぶん「稲」の渡来時期なんでしょうね。

書紀編纂者に稲の渡来年代の認識はなかったと思いますが、穀物類の大年神の概念とその系譜の大気都比賣命(豊宇気比賣神)の概念はあった。
で、大年神を素盞鳴尊の子としていますから稲は神代とみなし、神武と稲をつなぐ意識はなかったと思います。
(天之忍穂耳尊の「穂」、これは稲を意識した文字である可能性あり、すなわち長江文化圏の人物BC154頃)
(宝満神社の鵜草葺不合尊で白米、台風の被害を受けにくい早稲種の登場の可能性、BC50頃か)
(孝昭105-137の観松彦香殖稲尊、これはずばりの香米の品種でしょう、中国の王族向けの高級米かな)

系図綱要/太田亮では神武即位年はBC660です、BC711はだれかの推定の誕生日じゃないかな。
ま、この書紀年代はどのみちインチキだからおおざっぱでよろし。
中国史書とつきあわせてもばれにくいように、出雲が神代の話になって消去しやすいようにしただけ(^^;
このあたりにしておけばよかろう、書紀の設定はその程度と考えています。
(うまいこと神功が卑弥呼に重なるかも、くらいはあったかもしれない)

中国史書に書かれる倭王五代の年代を知らないはずもなく、それに応神以降の即位年を合わせるような姑息なことをしていないのがかわゆい(^^;
すなわち、部分部分での個別操作はないという判断による復元が毎度おなじみの以下
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/06/kojiki_shoki.pdf
直角三角形の比例配分(建築技術)で単純に年代をシフトさせているだけですが、いろいろな状況がこれに合致できるので、これも不動になっています(雄略に不安定要素あり)。


>「イザナミ」はまだ縄文的で平和的?な女神だったでしょうか

アマミキヨなどとからんでの期待がうかがえますが・・(^^;
縄文末期BC2000〜BC1000、寒冷化による縄文崩壊の時代、縄文海退の時代。
縄文末期の混乱を乗り切った西日本の人々を象徴させているのが伊弉諾尊伊弉冉尊の記述だと考えています。
原初を除き、ここまでの神々は夫婦神とみえます。
書紀編纂者に伊弉冉尊に女神(巫女)という意識はなかったと思います。

国生み島生み神話は縄文海退によって土地が生じる様の象徴(南西諸島は書紀編纂者の認識外だと思う)。
そして弥生がはじまり、天照大神や素盞鳴尊が登場する。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/hennen.png


>甑島から "高速船" で一日以上かかるって認識だったんでしょうか

この時代の1日というのが早いのか遅いのか、数字にはあまり重きをおかないほうがいいかも。
魏志倭人伝ならある程度の具体性があると思いますけど。

書紀で鹽土老翁が彦穂々出見尊を綿積神の宮に案内するとき、乗せる舟が目無籠マナシカタマ?とあります。
目の詰んだ水の入らない(竹)籠の舟だと思います。
こういう舟は現在も使われています、お椀のような形で沿岸部とか河川の岸辺をいったりきたりといった用途ですが、今は資料確認できず。
目無籠はその地の海女など沿岸漁民が使っていた舟じゃないかなあ、裏返して干してるときは亀の甲羅。

サバニのごときV字型断面の波を切って進める外洋航海、あるいは黒潮を乗り切れる舟ではないと思うのです。
海の民といっても現代と同様に、沿岸漁業もあれば遠洋漁業もある、あるいは交易をメインの海人もいたと思います。
ちなみに鹽土(塩土)老翁とは製塩業のじいちゃんでしょうね。

ゴホウラ貝など縄文の貴重品は儲けも大きい(^^; 双胴サバニなど高性能の船を使って遠くまででかけると思います。
(双胴サバニ、慶良間に記録があるらしいけど原文未確認、可能なれば調査よろしく(^^;)
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/bunka_senshi.png

薩摩〜甑島は40キロ前後。
時速2キロほどの手こぎなら丸1日はたっぷりかかりそうです。
(潮流を知りたいけどあいにく海上保安庁の潮流推算図に甑島周辺データがない)

[5150] Re[5149][5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子  琉球松 2009/07/15(Wed) 11:23 [Reply]
かたばみさんへ

 甑島は、BSフジで再放送中の『Dr,コトー診療所』原作のモデルですね。
 TVでは、八重山与那国島ロケとなっていて、沖縄県民としては嬉しいかぎりです。

 ところで、海幸彦が海神宮に3年滞在した際にトヨタマヒメが妊娠しますね。彼女は「1尋鰐」で一日かけて薩摩半島に到着します。
 これはどうでしょうか? 甑島から "高速船" で一日以上かかるって認識だったんでしょうか。
 九州〜瀬戸内海で出土する貝輪類はトカラ列島以南のものですし、八重山や宮古諸島からは弥生遺跡はまったく出ないことを考えると、彼女達の出発地の候補を奄美沖縄まで広げたほうがメリットありではないでしょうか。

[5149] Re[5148][5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子  琉球松 2009/07/15(Wed) 09:35 [Reply]
 神武の即位が、紀元前711年に設定されているのも、これはたぶん「稲」の渡来時期なんでしょうね。

 中国大陸、朝鮮半島との関係は間違いないと思いますが、「倭国大乱」がその後に始まることを考えると、「イザナミ」はまだ縄文的で平和的?な女神だったでしょうか。

[5148] Re[5142][5140][5138][5134][5129][5126]: 根子  かたばみ [Url] 2009/07/15(Wed) 09:19 [Reply]
>神武とその祖先が "鹿児島出身" という説は妥当だと思います。

1行だけの疑問符でも、本当はその背景と流れをからめないとわけがわからなくなるので、説明だけでもうんと長くなってしまうのですが、うんとはしょって(^^;

まずは天孫降臨とはなにか、があります。
歴史としては以下を想定しています。特段の修正もないので何度も同じで失礼。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/shindai01.pdf
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/BC800.png
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/kyushu.png

書紀はウケヒから多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の宗像三女神が生まれ、天之忍穂耳尊、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の五男神が生まれた、としていますが、これは天照大神を最上位とするための創作。

神武の祖は父親側では天之忍穂耳尊、中国の長江系文化圏からの渡来者。
その妃の萬旗豊秋津師比賣命は高魂尊(高皇産霊尊タカミムスヒ神)の系譜とされています。これも渡来者。
どちらもBC154頃、東シナ海沿岸国の大反乱、呉楚七国の乱で前漢に平定された王族の脱出によるもの。

長江〜黄河、いろいろな氏族と文化が一気に渡来してきた。
朝鮮半島へも脱出者がいる→赫居世の祖。
すなわちこの時代では九州と半島に渡来系の遠戚者が多数存在してつながっていた。

天之忍穂耳尊と萬旗豊秋津師比賣命(高魂尊系)は渡来者同士の結婚(萬旗とは様々な氏族の意で、北方系だがどの氏族だかわからないの意とみる)。
高魂尊(高皇産霊尊タカミムスヒ神)に対応するのが神魂尊(神皇産霊尊カミムスヒ神)で、分類するなら天之忍穂耳尊は神魂尊に属すと考えています(南方系、少彦名命はここに属す)。

高皇産霊尊と神皇産霊尊は中国大陸の文化を示している。
ちなみに、伊弉冉尊伊弉諾尊は地祇であって先住者、すなわち縄文文化の人々。
記紀は伊弉諾尊から天照大神が生まれ、天照大神ないし素盞鳴尊から天之忍穂耳尊等が生まれたとするゆえに、高皇産霊尊や神皇産霊尊と天照大神の関係に乱れが生じています。


北九州は人口急増で手狭となり素盞鳴尊の子孫(古出雲領土)とのからみもあって、天之忍穂耳尊の子は九州西岸と九州東岸(日向)の2カ所に移住した、これが降臨です。
瓊々杵尊と天火明命、二人の子がいるなら2カ所へ移住させるのが自然な流れだと思いますが、書紀はこれを一本化した。

書紀では瓊々杵尊の妃が木花開耶比賣(大山祇神の娘)とありますが大山祇神は縄文文化、日向へ移住(降臨)し、後に伊勢志摩あたりに展開した天火明命の妃こそが木花開耶比賣だと考えています。
(これがホツマツタエに東海での木花開耶比賣がちらほらする理由とみています)

瓊々杵尊の本当の妃は海洋民じゃないか、豊玉比賣のお母さんかおばあさんあたり。
ま、それぞれの先住者にどのような人々がいたかはなんともいえずですが、沿岸部では漁労メインで内陸では採集狩猟がメインの人々だと思います(おそらくは焼き畑も)。

降臨時の日向の五十鈴川付近には猿田彦命あり。
九州南部では隼人族の祖先だろうなあ、これが彦穂々出見尊での海幸山幸でもあります。
海幸山幸と竜宮城説話は海洋系と内陸系の人々の葛藤と合体を示す説話であると考えています。

鵜草葺不合尊の離婚話は海洋文化と農耕文化の夫婦での性格の違いによるものでしょう(^^;
(鵜草葺不合尊の兄弟ともされる(系図綱要/太田亮)椎根津彦は海洋民)
(種子島の宝満神社に鵜草葺不合尊が(赤米に対して)白米を撒いたという伝承あり、農耕伝承)
(そのお隣に広田遺跡があり、山の文字のある貝札はここからでてますね)

神武はその両者の中間から登場する、というより日向宮崎は兄の五瀬命が継承し、末っ子の神武に分けられるのは霧島山麓の狭い土地しかなかった(佐野命→狭野でしょう)。
このときの妃は必然的に隼人族の娘の吾田吾平津姫(アタアヒラツヒメ、表記はいろいろあり)。

吾田吾平津姫、アタ阿多の名からは薩摩半島が見え、岐阜県長良川周辺にも阿多があります(奄美にも阿多地というのがある)。
連想するのは鵜草葺不合尊、鵜、鵜飼い。魏志倭人伝での烏奴国を薩摩に比定する薄弱な理由がこれです。
ま、状況証拠しかないのでやむなし。

さて・・
狭い土地で悶々とする神武が伝え聞いたのが「古饒速日」が北九州で活躍している話だった。
よし俺もやるぞと隼人族を率いて北上し、ついに九州の統一に成功した。これが真説神武北征(^^;
(北征途上で神武に従った国々が魏志倭人伝でなになに奴国と書かれている)

魏志倭人伝に書かれるふたつの奴国のうちの北九州の奴国が北上後の奴国。
魏志倭人伝に書かれるもうひとつの奴国が神武生誕地の奴国。
これが後漢書に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」と書かれる倭奴国で、「倭國之極南界」の意味が明確になるところです。
すなわち、光武帝から金印(AD57)をもらったのは神武36-66・・

新羅(そういう国はまだないけど)の建国の祖とされる赫居世、その祖はやはり降臨で、赫居世は降臨から数世代後の登場です。
神武登場もまた降臨から4ないし3代後、先住者との混血が重なって渡来者のイメージが消えないと建国者としてうまくないのだと思います(3代江戸に住まないと江戸っ子とは呼ばなかった)。


>トヨタマヒメとタマヨリヒメの出自が気になるわけで、彼女達が鮫であるというのはどういうことなんでしょうか

私の歴史観の流れからはトヨタマヒメとタマヨリヒメの出自は自動的に海洋民である、となります。
波間に見えるサバニのような帆船かなあ(この時代ですから白い帆じゃない)、潜水する海女かなあ、内陸民からみて鮫(魚)に表現されて不思議はないと思います。
(長江鰐はおとなしいそうです、日本にはきてないと思いますがどっかでそういう鰐にもなってしまったのだと思う)
海中に踊る美しい裸体にくらくらっときて彦穂々出見は時をわすれてしまった(^^;

竜宮城も海洋民の住処のイメージ化(甑島列島コシキ島が濃厚とみてます)、彦穂々出見尊は内陸文化系の訪問者であり、宮崎あたりか。
(手元に資料がないのですが宮崎か串間の神社で帰ってきた彦穂々出見尊を迎える神事があります)
九州南部の東西混合時代であり火照命や火須勢理命などと混乱気味に書かれる所以でもあると思います。
(火はむろん桜島でしょう)
この頃では最新文化を運べる海洋民が文化的上位にあって、潮満玉などは潮汐や天候予測などの知識を示す象徴とみております。

[5147]  ネコ と メコ と メノコ    生田淳一郎 2009/07/15(Wed) 06:30 [Reply]
> 祭祀関係で音韻にナゴ、二ギ(ニキ)、ネぐ 等がありそう。
★ これ、イタダキィ〜ッ。ありがとさん!
 そうしますと、祖音に *Nη みたいなのが浮上してきて、南方とつながるみたいなようなものを感じます。
 ここを考えるとき、シナ大陸〜極東で国家形成がすすんでいたときに使用された“寧”は外してはならないのでは? とくに朝鮮語で安寧をアンニョンと発音していて、このニョンが日本では neg , nig となって落ち着いたのではないだろうかと、邪推しています。
 津軽人はニグラッと笑うんです。アイヌ語には安寧の原義を訴えるようにして annno , anna , anne(健康、勝利) などがみえます。

 「いただき」での最大恩恵は nag です。長野県北にあるナグモ(南雲)姓に適用できそうです。これまでは「nag(へび)の mo(くに)」しか考えきれませんでした。
 イザナギ、奈義山、皆木、「ナギの木」解釈にも有力です。

 
 ネコがニャ〜ゴォ(nyag)と鳴くことに関係あるのでしょうか、佐渡オケサは猫が作曲したんだという言い伝えがあります。なんでも、昔むかし庄屋さんちに賢い猫がいて……だそうです。表現がへたですので以下は二三回繰り返えして読んでくださいネ。

 アイヌ・メノコというのは、今ではもう完全にアイヌ語ですよね。メノコはアイヌ語です。
 ところが、アイヌ語の猫は伝統的に メコです。猫のなき声は mek です。
 万葉集の貧窮問答では、「おんな・こども」はメコと言っています。メノコと言い換える必然があったわけ。
 今でも二つのマサラ川があって、マトネ山(男山女山の、女山)まで遺っている佐渡ヶ島。
 戦いにやぶれ、夫や恋人を失ったアイヌ・メノコが、倭人の座敷にでて、浮いた浮いたの酒を酌いだ。

[5146] ネコ談議  くず 2009/07/14(Tue) 23:23 [Reply]
ある種の尊称と思われる根子[ネコ]の表現には尼古、禰古等あって[根]と充てられた漢字から植物の根、根源の根と解釈できるのか?と言った疑問もあります^^

中臣氏の祖とされる天種子命もネコと言えばネコですが、亦の名に天多禰伎命があります。
鹿島神宮、賀茂神社等で神職のトップはネギ。禰宜の語源は[和ませる]の古語[ねぐ]からと言います。
古語拾遺でも和幣を爾伎弖、和衣を爾伎多倍と言っているので、祭祀関係で”和”の意味に相当する音韻にナゴ、二ギ(ニキ)、ネぐ 等がありそう。
ネコを→荒から和へ、荒れた状態を調和させる尊称 と置けば、
大物主の祟りを鎮めた太田々根子命、天照大御神の荒魂を祭った姫の父が山背根子命。
武内宿禰を救った壹岐直真根子命。反乱を平定した難波根子武振熊命などの事績に繋がるのかも。

「大倭根子」の持統天皇は盛んに広瀬、龍田の神を祭ります。
年初に勉強した話の延長になりますが、5世紀に相当する古墳寒冷期が終わり、温暖化が進む過程での急激な寒冷化現象(異常気象)が当時あった為ではないかと考えます。
モデルとしては、氷河期の終わりにあったヤンガードリアスの縮小版を推定。
太陽活動の低下→世界的な長い寒冷期→太陽活動が活性→温暖化が始まる→
       ↑5世紀の古墳寒冷期         ↑6世紀
高緯度地域の氷が溶ける→海水温の低下→急激な寒冷と異常気象→その後温暖期に移行。
                   ↑7世紀初めから8世紀半ば
屋久杉の年輪観測では古墳寒冷期から回復してきた気温が一転し、AD660年頃とAD730年頃に極端な寒冷のピークが見られます。これは飛鳥時代から奈良時代初期に相当。
670年が壬申の乱、平城京遷都が710年、東大寺大仏開眼供養が752年です。
根子の名を持つ天皇の時代、女帝の時代、伊勢の祭祀が固まった時代は、
寒冷期の中で太陽が求められた時代であったのかも。

[5145] Re[5144][5139]: 根子  琉球松 2009/07/14(Tue) 20:47 [Reply]
神奈備さん、再確認しました。ありがとうございます。

[5144] Re[5139]: 根子  神奈備 2009/07/14(Tue) 15:23 [Reply]
 神武さんの長男の手研耳命は『古事記』によりますと、神武さんの死後、皇后の伊須気余理比売を娶っています。この風習はモンゴルなどの風習のようです。
 開化さんも孝元さんの妃だった伊迦賀色許売命を娶って、崇神さんを生んでいます。

 それ以降、先の帝の妃を娶る話はないようですが、仁徳さんは応神さんが妃にと呼んだ日向の髪長姫を娶っていますし、敏達さんの皇后だった炊屋姫(後の推古天皇)を穴穂部皇子が犯そうとしますが、先帝の妃を娶ることは次の大王の資格を得る一つの方法だったのでしょう。

[5143]   見 落 と し     生田淳一郎 2009/07/14(Tue) 10:07 [Reply]
 語形が yap だったら気がついていたのかもしれませんが、jap だったのでついつい見落としたのでした。神奈備に座を貸してもらってるオラとしたことが、慚愧々々でんす。
 今おらは 対日本語で 類似語 1500になんなんとするネパール語をパソコン向きに打ち換えています。いま a から始めて k にかかったところです。できあがたヤツは、片っ端から『紋流・言語考古学』掲示板にアップしてますので、ご覧下さい。
 jap , japana に「いのり」があるのです。 a は「 a と o の中間の母音」です。
 japana という語形がわざわざ生まれているということは、 jap の p がもともと動詞的な意味合いが強かったからかもしれません。
 すなわち *ja が「いのる・祈り」だったと看ていいでしょう。ja は日本語になるときにはジャではなく「ヤ」で受け入れられたはず。

 いうまでもなく、たちまちのところ、ヤマ、ヤシロ、ミヤコ、ヤサカ、香具師、やつしろ、屋島、矢島さん、矢野さん、薮さん、安木、こヤね、このはなさくヤ、ヤたがらす、などの解釈に響きます。

★ 「コヤネ」だけ喋らせてもらいますと……
 タジク語勢力は古くから出雲に進出し、沖縄方面にも影響が大だったと見込めます。そのタジク語で o は二通りあって「y の上に“-”を入れる o 」と普通の o があります。
 「y の上に“-”を入れる o 」を使っての kox は山です。高野山はこれでしょう。これから発達した概念だとおもえるのですが、普通の o を使った kox は宮殿です。このどちらかは分かりませんが、それへの祈りをささげる ne が、「コヤネ」だろうと。
 ne は政治上の指導者です。
 タジク語には kovok(うつろな、中空の)という語彙もあります。これがネパール語になると khokra(木のホラの中になんにもない)という不思議な語彙になります。ホクラ(神庫)です。

[5142] Re[5140][5138][5134][5129][5126]: 根子  琉球松 2009/07/13(Mon) 21:59 [Reply]
 神武とその祖先が "鹿児島出身" という説は妥当だと思います。さらに狭めれば、薩摩半島でしょうね。

 僕など南島の者には、トヨタマヒメとタマヨリヒメの出自が気になるわけで、彼女達が鮫であるというのはどういうことなんでしょうか?

[5141]   パトロール      生田淳一郎 2009/07/13(Mon) 07:25 [Reply]
 だれが言いだしっぺだったかは忘れましたが、ことばには標準語系とパロール形があるとか。こういう言葉の区別をシッカリ学習するのが、いつのまにか言語学になっている。
 パロールなどと聴いてもすぐ忘れるので、オレはパトロールのこっちゃナと考えています。
 ちょっと時間が経つと、職人なら職人、役者なら役者固有の「語りぐち」が定着する。
 そこを、教えられたとおりに標準語でモノイイをつづければ、結局のところ「その見解は、えら〜〜い学者さんが斯くの如く言っている」とのスタイルで、シロートの会話は終わる。この傾向は、ここ神奈備でも繰返されたところだとおもうのですが、どな。
 そこにパトロール視野を加味すると、あっちのスジとこっちのスジに合体・整合がおこる。アイディアです。
 すなわち「へうずん語体系を破る」、これあるね。

 こんかいの、かたばみさんのご記述には、冒頭に「ひっこし」が出ているので、親近感がどーんと涌き出た。オレにもなんとかすると分かるのかナと思って読んでみましたが、基礎ができてないので、やっぱ、ワカラン。

> 原形の多くは「オホ」すなわち「意富」であり……。
★ なんで「イフ」がオホとかオオとなって歴史社会に落ち着くのだろう?
 「イ」が「ウ」となるのは、 hangωl(ハンギル)と書いてハングルと読ませることばクセと大いに関係あることでしょう(これ、東北〜蒙古〜トルコ語と同じ)。

 神奈備リンク集の一部を穢してる『古語辞典抜粋』は、二三度縮小して読んでほしいです。
 そこにはオフ(その方向へ向ってゆく)や、オフ(昔に遡る)があって、オオ(お上への応答辞)もみえます。このへん、アイヌ語の oosorusi(座る)の語源みたいなのが顔だしているみたい。
 更に、アフには「男女が契る」のほか、「山が戦争する」があります。
 人びとの集り(ヤマ)とは、根源において、他を暴力を使ってでも認めないというアイデンティティー含みのものだったか?!
 わえら凡人は、やっぱ中核概念を把握せんことには、オフ・オフ……、先にすすめまへんねん。

[5140] Re[5138][5134][5129][5126]: 根子  かたばみ [Url] 2009/07/12(Sun) 16:14 [Reply]
>仮に「耳」が沖縄諸島産の「ゴホウラ貝」だとすると、隼人によって「手研(加工?)」され

ミミが天孫降臨に関与するだろうとみているのは、神武と隼人娘の子であろう手研耳命と岐須耳命にミミがあり、出雲娘との子の神八井耳命と綏靖(神淳名川耳尊)にもミミがあり、神武が共通項であることが理由です。

天孫降臨の親が天之忍穂耳尊(天大耳尊の名でもある可能性あり)。
どれだけ正確に発音が伝わっていたかはおくとして、耳がでかい系譜がいて、神武はそれを自分の祖先の特徴と意識して子に耳を加えた、と単純に考えています。

私が神武を映像化をするなら、伎楽面の呉公を沖縄っぽい(海洋的?隼人的?)な顔立ちに修正して鯨面にするだろうなあ。
お釈迦様に入れ墨してふくよかさをとっぱずした感じでもある(^^;

しかし綏靖 66-78以降では懿徳 92-105の兄とされる息石耳命だけになります。
その意識までは子には伝わっていないのでしょう、代わって登場するのがヒコ、日子、彦ですね。

出雲系譜でも大国主命(神武36-66と同時代とみています)以降で日子が登場する。
ヒコは国家の原形ができ、王が登場したとき、その権威を示すための尊称として使われ始めたとみるところです。
(後に男性への尊称となってゆく)

そんじゃヒメは・・日女、これは古い。縄文からのイメージを継承するものとみています。
王者ではなくシャーマン、巫女ですね。
(後に女性への尊称となってゆく)
すなわち、日女ヒメがまずありきで、日子ヒコはそのイメージの男性化だろうと考えています。


>村山七郎先生は「パンのみみ」などと言っている表現に注目されました

パンにミミのイメージは薄く切った四角の食パンだけじゃないのかなあ(ひきちぎるときのイメージでしょう)。
この食パン形状がいつどこでどのように登場したか、この背景がどうかがまずありますね。
他にはトウモロコシや芋の粉で薄く焼いたパン?だとどうか、そのあたりからの検討が必要そう。

単発の言葉だけでは長い年月の変化のなかで表面的な類似性は無数に生じ得る。
そのなかのひとつを選んでそれだけでうんぬんすることはできない、というのは何度も申し上げているところです。
点ではなく線に、可能なれば面として、時間軸(歴史背景)でも説明できるなら、それは重要な証拠になりえると考えています。

[5139] Re[5135][5134][5129][5126]: 根子  かたばみ [Url] 2009/07/12(Sun) 16:08 [Reply]
今日もちょこちょこ荷物運びでアチチッチ(^^;

>大田田根子の父は大物主神、母は陶津耳の娘

なになに根子、なになにを祖先とする子、になります。
天孫族を祖にする場合が、開化225-248の稚日本根子彦大日日尊のごとく、日本ないし倭が直前にある場合(数字は自論による在位年)です。

開化の場合は「稚」の文字を使いながら彦大日日尊というどでかい名を付けているのが興味深いところ。
開化が近畿出雲を制圧して新政権(幼子のヤマト政権)を打ち立てた人物だからこその名、と考えています。
幼子とは卑弥呼がトップに就任している倭国(むろん九州)の分派の意(後述)。

大田田根子の場合は「タタ」がなにかはいまのところ不明、「大」がポイントだと考えています。
古代人物の名で「大」がある場合、原形の多くは「オホ」すなわち「意富」であり、オホのタタを祖先とする子、と解釈しています。
オホとは神武と媛踏鞴五十鈴媛の子の神八井耳命を祖にする多臣族、天孫と出雲の混血氏族。
(その子がどちらの血筋を重視するか、これは微妙です)
大田田根子は崇神が難儀していた天孫祭祀と出雲祭祀のなかだちとなるのに絶好の立場の系譜と思います。


伊勢神宮と多気については考察していませんが、タケなのかタキなのかだけでもいろいろありそうですね。
イセは五瀬(日向の五ケ瀬川)の変化である可能性大とみています。
隣接が五十鈴川(猿田彦命)と耳川、神武の兄の五瀬命の名もここからとみています。
多気と表記されるなら竹でも滝でもない古語である可能性あり。
タタ同様に文言からだけ考えても袋小路にはいってしまう危険性大と思います。

現代につながる伊勢神宮の登場は天武の意図によるものと思います。
開化や崇神(倭迹々日百襲姫)の運んだ「伊勢」は九州における古代祭祀の延長であり(卑弥呼の祭祀でもある)、統一国家の「宗教」としては非力だった。
天武はそれを統一王朝の頂点足るべき伊勢として理論武装して強化した。
それが書紀編纂の重要目的でもあり、道教的や仏教的の理論や形式も取り込んでいるかもしれません。

出雲文化との融合も必要であり、天照大神と素盞鳴尊のなんだかよくわからない(^^;ウケヒ(誓約)神話も書紀に加えた。
往古の祭祀での事象を象徴化したものが儀式として少なからず含まれてもいるだろうと考えています。
例えば、遷宮とは焼き畑の象徴。


関連の余談

綏靖 66-78〜懿徳 92-105まで母は出雲娘で混血が続く。
これが神武王朝であり、おそらくは魏志倭人伝に言う奴国(現在の福岡市)付近、倭国の原形と考えています。



魏志倭人伝に書かれるもうひとつの奴国が鹿児島(神武生誕地、極南界の奴国)であり、なになに奴国と書かれる国は、神武北上途上で神武に従った国である、と考えています。

開化の兄とされる大彦命、この大も意富であり神八井耳命の子孫であり、書紀系譜はウソ(^^;
大彦命は北九州にあって、書紀にいう四道将軍として日本海方面へ進出。
この系譜が後の応神登場に強く関与した・・万世一系どころではないばらばら。
出雲系譜の存在を表面にだしたくなかったのが天武、持統の思惑であり書紀の内容だとみています。
天武以降に再び倭根子が頻出するのは生粋天孫の子孫を強調したかったのでしょう。


開化は天火明命の直系であり日向宮崎にあった、開化こそが近畿出雲へ突入制圧した人物。
後背支援のない突入は食料も武器もなくなって自滅するだけです。
三重県津市〜新宮、この間には銅鐸が出土していません(小銅鐸を除く→祭祀ではなく実用の銅鐸)。

旧事本紀にいう天火明命(+物部系譜の祖のひとつ)の上陸地が伊勢志摩であり、その子孫の支援があったとみております。
天火明命上陸後に出雲勢力の領土拡大との接点となったのが尾張、出雲勢力と混合して複雑な情勢を作りだしてゆく→朝日遺跡など)。



和歌山県御坊市と田辺市の沿岸部に少なくとも3カ所の高地性集落があり銅鐸も出土。
海路による天孫進出をくいとめるための出雲側の軍事拠点でしょう。
しかし、開化は紀伊半島をぐるっと回って、天火明命後裔の支援を受けられる熊野〜伊勢志摩の南岸あたりに上陸。
出雲は山越えで奈良盆地背後から攻撃されて、本拠地が一気に制圧された。

開化に倭根子を用いるのは、日向の生粋の天孫なのだ、出雲とは関係ないのだ、の天武の主張であり、裏を返せば天智と天武は血縁ではないことを示すとみております。

孝昭105-137、孝安137-175では倭根子を使っていません、日向系天孫ではなく出雲や日本海系氏族の流れをくむからだと推定(旧事本紀では孝昭に混乱がみえますが、書紀が書く孝昭と情報が錯綜しているのでしょう)。

倭国争乱、孝昭、孝安で乱れた「倭国」に卑弥呼が登場して混乱収拾にあたった(邪馬壹国→日向、宮崎)。
葬送儀礼と見える舟形埴輪は棺を故郷(日向、宮崎)に送り返す現実の舟の埴輪、想念上の舟ではない。
(棺に阿蘇の石を使う場合も同様の意味を持つ)

孝霊175-204、孝元204-225で倭根子が登場、卑弥呼登場年代と対応しています。
新羅本紀で173年に卑弥呼が使者を送ってきたとあります(隣国への挨拶、登場年代として妥当なところでしょう)。
倭国争乱の要因は人口急増と寒冷化に伴う飢饉とその混乱(新羅本紀に飢饉多発が書かれています)。
そして出雲領土への侵攻、危急を救うには侵略しかないです。

書紀でのわずかな軍事痕跡が四道将軍です(大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命)。
(書紀はこの事象を神武の九州統一とまぜこぜにして神武東征として書いている)
考古学的にはこの時代とみえる北九州と畿内からでる庄内式土器の登場とそのありようがキーかな。
さて、九州側が先か近畿側が先か、炭素年代じゃ誤差が多くてだめだろうなあ。
私は疲弊した九州倭国への支援物資の輸送に使われたとみるけど(近畿側が先)。

侵攻軍の指導者(祭祀者)が倭迹々日百襲姫であり、卑弥呼の近縁者だとみています。
箸墓の年代が土器付着の炭素によってわかったという報道がありましたが、それをすぐにヤマタイコクやらヒミコやらに短絡させるのは毎度おなじみであります(^^;
箸墓の主は説話通りの倭迹々日百襲姫であって卑弥呼ではけっしてない。

新たな近畿倭政権は九州倭国の分派だったのだけれど、本国の九州倭国は壹与を経て疲弊崩壊して主従が逆転してゆきます。
これの再建のための行動が景行311-333の九州巡幸、九州経由の最新文化流入が途絶える時期でもあって文化的には停滞期(インチキ年号の三角縁神獣鏡も登場する)。

このあたり、私の歴史観ではやはり不動になっています。

[5138] Re[5134][5129][5126]: 根子  琉球松 2009/07/11(Sat) 21:04 [Reply]
かたばみさんへ

 種子島の「広田遺跡(弥生時代後期〜)」に見られる貝製品の模様には、三国時代の中国大陸との関係が濃厚ですね。中には「山」の字が彫られた貝札もあります。
 また、太伯伝説は宮古島にも分布していますし、徐福も含め、大陸からの亡命人達?が九州にやってきたとの説は事実に近いと思います。

 それから、「耳」に関してワクワクさせてくれるのは「手研耳命」ですね。仮に「耳」が沖縄諸島産の「ゴホウラ貝」だとすると、隼人によって「手研(加工?)」され、九州全域に運ばれた「ゴホウラ貝輪」の完成品かも(沖縄諸島で荒加工済)。

以下、『邪馬台国総合説/名護博(ゆい出版)2001』より引用
*** 「皇統を受けるミコトは、みな稲に関する名を持っている」ということに関連してもう一点注意したいことは、原初ヤマトの皇統を受けるミコトたちのなかに、「耳」入りの名を持つ神(人)が多いことである。結論をいえば、「耳」という名は、ゴホウラを象徴するものらしい。天之忍穂耳尊は「神武天皇」の四代先の祖先にあたるが、神武天皇の御子たちのほとんど全てにも、「耳」入りの名が付けられている。一例をあげると、薩摩半島(吾田邑)出身の吾平津媛に産ませた子の名を「手研耳命」という。

[5137]   ミ ミ 考      生田淳一郎 2009/07/11(Sat) 08:05 [Reply]
 英語の ear をミミなどといっているのは日本語だけではないでしょうか。
 アジアに多いのは *ka . kan 系と *jur 系かと思います。多くはこの二つを併せて kanjur みたいなことで、表現しているようです。
 で、アイヌ語の kisara(耳) は、この *kanjur 系に 入るわけです。 

 村山七郎先生は「パンのみみ」などと言っている表現に注目されました。
 もしかしたら、壺などの持ち手をミミと言っていた氏族や時代があったのかもしれません。

 小生は、mimi は 、唇をオノマトペアがらみに *bir bir と言っていたことから意転音転したのが起源ではないだろうかと思い、楽しんでいます。
 子供のあそびです。くちを突き出しで、イ−といいながら指で上下させてやると「 bir bir 」が出ます。

 かなり観念的なことを申し述べます。
 言語にかかわる概念には、その時代、その氏族ごとに大略のところで「中核概念」があって、その中核概念は、周辺にぶわぶわした附随概念を持ち、そこから「類似発音・類似概念」へと語彙が派生してゆく……これが基本だとおもうんです。

 あんまし、おぎゃうぎがわ〜るいこと書いたらオエンそうです。でもひとこと。
 源氏物語など見るにつけ、その頃はすでに sex を ……。やめとこ。
 京都ではミミズをメメズというらしい。

★ バード・サンクチュアリ−で有名な北海道ウツナイ湖には「ミミペツ」があります。

[5136]   滝 の 語 源     生田淳一郎 2009/07/10(Fri) 06:24 [Reply]
 われら鈍才は、ひとつのことに喰らいついらた、4 〜 5年経って、はじめて「これかナァ〜」という答みたいなのに出くわします。
 神奈備ドンの書き込みに「滝という語が平地に使われていること」があって、それに驚いたのが、4 〜 5年まえのことでした。
 それからあと……
★ *Tak は神であること。水も神であること。
★ 静岡〜神奈川では滝をダルといっていること。
★ 垂水とはタガログ語系統であること( talon いうてますだ)。
★ ユタ用語で、神の降臨のときの神経の騒ぎをダルといっていること → dharma(宗教)。
★ 九州では「雨がダァーダァー降る」いいますだ。
 などが、周辺資料として集ってきました。

 そして、つい 4日まえのことですが、語彙を整理していたとき、ネパール語に dark(土砂降り)があることに遭遇して「これだッ!」と感じとりましたので、ご披露です。

 あとは、ご推測にお任せしましょう。

● いつもながら資料がビシィ〜ッ!!と整理されているかたばみさんの、脳内状況には天才のそれを感じています。
 ですが、言うちゃオエンことかもしれませんが、発想面では Stan さんに、無条件で天才の評価を捧げます(世に埋もれた大事件……のこと)。
 このお二人さん、一心同体とかゼロ親等じゃないだろうかと、Guess はカンぐってます。

[5135] Re[5134][5129][5126]: 根子  神奈備 2009/07/09(Thu) 17:58 [Reply]
> お暑うございます。

 かたばみさん、こんにちは。大阪も蒸し暑い夜が続いています。

> ちなみに「根子」とはある時代の天孫族(日向)を根=祖先とする子孫を意味する用法とみております。

 大田田根子の父は大物主神、母は陶津耳の娘の活玉依姫命。陶津耳の系譜は
 高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命
 となっていますが、これを天孫族と見ることができるかどうかですね。

 さて、「タキ」の意味について。
 天武天皇の皇女の大来皇女が長谷に齋宮を作り1年以上身を清めていました。それから伊勢に赴任しました。おそらく赴任先は伊勢神宮の前身である滝原宮だったのでしょう。『続日本紀』のは、文武2年(698)に、多気大神宮を度合郡に遷すとあります。これが伊勢神宮の誕生です。

 長谷には皇大神宮の本地仏とされる長谷観音があります。『アマテラスの誕生』で筑紫申真氏は、「長谷観音は三輪山信仰の仏教版」と言っています。「日は泊瀬より出始也」と信じられていたようです。もっともらしいことです。その長谷観音の鎮守はやはり「滝」の名を持つ滝倉明神です。

 この二つの「滝」は何か「日」と関連していると思いますが、いかがでしょうか。

皇大神宮別宮瀧原宮
http://www.genbu.net/data/ise/takihara_title.htm

滝蔵神社
http://kamnavi.jp/as/takikura.htm

[5134] Re[5129][5126]: 根子  かたばみ [Url] 2009/07/09(Thu) 10:23 [Reply]
お暑うございます。
現在ちびちび引っ越し中で、本の整理にどれだけかかるかうんざり。

天孫降臨の天之忍穂耳尊の出自は・・
神武〜懿徳までを神武王朝というイメージでおります(徳の文字を当てる名は異変のあった天皇という論をどっかでみたけど、ここでもありえそう、以降倭国争乱へ)。

呉太白、神武の祖に賛同するなら、呉太白→姫氏→遊牧民との合体氏族といった流れ。
はるか青草を望むと大耳の典型がお釈迦様ですね。
東南アジアにも大耳の氏族があります(どっかに写真もあったけど)。

伎楽面にも大耳あるいは垂耳がいろいろ。
http://park.org/Japan/DNP/MTN/MN/shin-gigaku/gigakumen.html
呉公の大耳、呉太白系譜の氏族であり長江付近とみていいんじゃないかな。
平安時代でもその特徴が残っていたのでしょう。
(私も耳たぶの大きい方です(^^;)

天之忍穂耳尊は呉楚七国の乱BC154からの脱出王族(長江付近の呉族)、とみる重要なヒントになっています。
海神族との合体が瓊々杵尊(九州西岸出水付近と見る)、山岳系との合体が天火明命(九州東岸、日向〜宮崎、耳川、五十鈴川→猿田彦命→先住者)。
その両者の複合から神武が登場し(鹿児島)、先住の隼人族を従えて九州統一(AD30頃か)をはたした。
この流れはいまのところ私の不動の歴史観になっています。

日本における大耳あるいは垂耳の登場は天孫降臨とその随伴者に源あり(すべてが貴族ではない)。
これは日本だけでなく少なくとも朝鮮半島南岸にも登場しているはずです。

ちなみに「根子」とはある時代の天孫族(日向)を根=祖先とする子孫を意味する用法とみております。

[5133]   北の彗星 落つ      生田淳一郎 2009/07/09(Thu) 08:41 [Reply]
 『アイヌ語地名考・掲示板』に現れた巨大な彗星、「なかしべつ・すがわらさん」が 56才という若さで亡くなられました。
 ご一生のことを効用的な眼で評価するの誹りはありましょうが、氏は天才でした。
 とりわけ、言語にタッチした天才ということで、小生は、こんご 20年間、言語に携わる天才さん達の案内役にはえがたい推進者として期待していました。

 Stan さんがおっしゃる「世に顕われない大事件」とは、こういうことではないでしょうか。

 現代言語学の基礎をつくったソシュールさんも、かなりの駿才でしたが、ソシュールさんを導き教えた言語群とは、「文字まで持ってしまった西洋語・サンスクリット語と」いう“同族語だけ”でした。
 そこで得られた西洋流言語原理を、日本では、記憶力だけがイヤ〜に発達して論理構成力がほとんどゼロの言語学者たちがサル真似して、迷妄をつづけてます。

 なかしべつ・すがわらさんの手法は、世界規模の言語比較でした。そして攻究の中心に据えたは原始を濃密に保っているアイヌ語でした。

 言語は人間の精神発達史を写しこんでいます。
 20億人の喋り屋さんを持つ大言語と、わずか20人しか喋り屋さんがいない小数氏族語を較べた場合、後者の小数氏族語のほうが、それこそ比較にならないぐらいに貴重です。
 すでにオノマトペア(擬音擬態語)を喪失してしまっている巨大言語の攻究は、人類をミス・リードするばかりです。
 小生はなかしべつ・すがわらさんと、ここに出没する佐々木天才さんの二人によって、天才現象に眼を開かされました。いま神奈備ドンのお裾にすがって、自らの遺伝因子や能力など顧みるいとまもなく、掲示板に思いのかぎりを書き連ねています。

 Surga bala …… わっかるよナ。

[5132]   RE 5098 オホントキ 2     生田淳一郎 2009/07/06(Mon) 18:48 [Reply]
 あれま、もう 7 月 7 日。あっしにちっちゃァ、めっぽう記念すべき日でんす。 フクロウがウインクしたところをテレビで見たのが、7 月 7 日でした。
 アイヌのオホ・モレウ(模様)は、霊体としてのフクロウを形どったものだといえましょう。ここにはプラトンのイデ−という考え方がくっきりと滲み出ています。

 盲目とか片目は古代の金属精錬士にとって、極めつきの“強執”でした。
 オホントキとは、普通、肛門と訳されています。ですが、これが「フクロウの片目」とも解釈できるのです。今に遺されているアイヌ語には「tok = 片目」という語彙はありません。しかし、それを補うようにして、ウイルタ語に tok-to:(片目)がみられます。
 tok-to: の to: こそが、小生が狙っている僮客の「ドー」だと思うんです(ほかに 4 〜5 の脇資料もあります)。 / 四川省出土、三星堆遺跡のメガテン仮面。
 同じ目でも、半眼に開いた目、閉じた目、ハッキリと見開いた目、 / VS 第三の目。
 オホントキの目は、「閉じられた目」でしょう。それはヒマラヤの堆積水成岩の層があやなすワレメだったはずです(2万年前の氷河期での意識)。
 悪魔は穴から入ってきます。カッパもウマの肛門に手を入れる。
 ケツに鎮座していて、その悪魔を咎めだてして「グワッ!」と睨んで追い返す機能者こそが、オホントキだった…… 、と思うんです。
 オカマ掘り……イヤラシイねぇ!! どうして、こうもエゲツないんでしょう。

 アイヌ語では o も ho も“尻”です。 un は日本語の「ん < の」と訳してもいいこと屡々です。
落語での「尻から睨まれたハナシ」、根が深い。

[5131] Re[5130][5129][5126]: 根子  神奈備 2009/07/04(Sat) 22:15 [Reply]
>  あと、これは笑わないで下さいネ。「ミミ」は「目×2=左右の目」なんて。。。

ここから天照大神や月読神が生まれました。

明日から3日間、尾瀬の散策などで留守します。

[5130] Re[5129][5126]: 根子  琉球松 2009/07/04(Sat) 18:28 [Reply]
 神名備さん、ニフェーデービル(ありがとうございます)。

 「耳・弥弥」は、やっぱり、事務能力や判断力とかのことなんですかね。聖徳太子は「和」を重要視していますから "政治的な調整力" かもしれません?

 師匠の名護教授は、谷川健一氏の論考「目と耳の結婚『青銅の神の足跡(集英社文庫・他)」をヒント?に「邪馬台国は、目(銅鐸)と耳(巻貝)の結婚か?」と語ってますね。

 あと、これは笑わないで下さいネ。「ミミ」は「目×2=左右の目」なんて。。。

[5129] Re[5126]: 根子  神奈備 2009/07/04(Sat) 10:03 [Reply]
>「天忍穂耳命」などにも見える「ミミ」

 この耳は肉体の一部としての耳のサイズと思います。要は大きい耳の人。
 聖徳太子の豊耳聡聖徳の耳は能力の耳で、同時にしゃべる十人の声を聞き分けたとか、10リンガルの能力のように見えます。

 豊臣秀吉も人の話をよく聞いた人だったのかも。

 ミミのつく名は神武さんの4代前の天忍穂耳命から4代後の懿徳天皇まで9代に渡ります。全てが机上の作文とは思いにくい所です。

 話はずれますが、天帝(の子)と河の神の娘との間の子が始祖王となると言う建国神話はスキタイから高句麗、日本と共通しているのですが、名前の耳については々なんでしょう。これに触れた書籍をご存じならば教えて下さい。

 『魏志倭人伝』の投馬国の役人が弥弥と弥弥那利と言うのも弥弥はミミと訓むそうで、都万神社のある宮崎県の耳川などのつながりそうで、興味深い所です。

[5128]   五十鈴川 上流      生田淳一郎 2009/07/04(Sat) 07:51 [Reply]
 裏方番組の神奈備掲示板、神奈備ドン書き込みを巡って……です。
 そこには今、「五十鈴川上流」が現れています。
 ある天皇さまと、そこへ来たお客さんとのやりとりの言葉で、この「五十鈴川上流」とは、「久志呂(地方)」と表現されています。
 その文献は伊勢皇大宮に収められていて、二つあるそうです。
 で、この天皇さまが大略どなたであるかが判れば、五十鈴川流域開発の時代とか、三重にある鯨地名とか、鯨がつく三重県の姓などの由来も、大きな側面資料となるはずです。
 これを神奈備ドンに質問したのですが、話の流れの間々に流れてしまいました。

 久志呂とは、どうも「くに」らしいです。いまの Nation(国)ではなく、「おらがくにさ」ぐらいの、“地方”と解釈したほうがいい。
 そこで、「くに」をクシロに近い音で言い表している言語を探しますと、これはアラビヤ語の Qutir(Tの下に“・”あり……意味は「国、地方)しか見当たりません。
 アラビヤといえば、はるか隔絶した遠いくにのようですが、アラビヤ文化は唐の都に大量に入っており、その文化はアラビヤ船が運んできたことも事実です。
 沖縄、熊野、蜂子などにみられる王子はアラビヤ語の awj(山頂)でしょうし、沖縄にはヤンバル( ja bal……山)もみられます。

 下に“・”を持つ qutir の T の発音は、ほかの人びとには S と聞こえたはず。
 自然ななりゆきでの開音(母音づけ)では、qutir は、まず qutira になります。鯨とは、一つの陸地並みに巨大な魚だと意識されたことでしょう。次に qutir-o と、末尾に o がありますが、これは、その地方の「護り神」の意識がはたらいたからではないだろうかと思っています。
 まず、鯨の語ができて、その後、くにを意味する久志呂ができた……はずです。

 北海道の釧路の語源はアイヌ語で二種考えられていますが、これは誤りでしょう。上に叙べた久志呂が、何らかの経緯・コースで北上したと看るべきだと思います。
 その釧路に近いシラリカ・コタン(一般にはシラルka コタンとして知られる。白糠のこと)には、どうみても「この顔はアラビヤ系統だ」とおもえる遺伝形質がいまでも遺っています。いわゆる「殿様」の顔です。歩ける足を持っているご仁は、ぜひ一目、見に行ってくだしゃい。
 ひょっとしたら宮古〜薩摩〜長崎〜津軽に固有のイントネーションが聴けるかもよ。
 オレに掲示板へ写真をアップさせる技術がないのがザンネン至極ですじゃ。

[5127] ミクシイの名草戸畔コミュ  mai nakahira [Url] 2009/07/04(Sat) 00:43 [Reply]
神奈備さま、みなさま、こんにちは。

名草戸畔(なぐさとべ)研究のなかひらです。
ミクシイにて、名草戸畔のコミュニティを作りました。
ミクシイに登録している方、よかったらご参加ください。

名草戸畔(なぐさとべ)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4397101

現在執筆中(近々完成)の名草戸畔の原稿についての最新ニュースは
「ついったー」にて更新しています。

http://twitter.com/nagusatobe

では、また。

[5126] Re[5125][5124][5122][5120][5119][5118][5116]: 根子  琉球松 2009/07/03(Fri) 21:32 [Reply]
 いえいえ、聖徳太子の能力のことではなく、「天忍穂耳命」などにも見える「ミミ」と同じかなあ、という意味で。。。

 神奈備さんにはいつも迷惑をかけますが、やはり意見が欲しいんです。
 「ネコ・ミミ」、「齋宮・女帝・高天原・神武・百襲姫」などは、どこかでピッタリ繋がるんじゃないかと感じるわけです。

[5125] Re[5124][5122][5120][5119][5118][5116]: 根子  琉球松 2009/07/03(Fri) 15:20 [Reply]
 "齋宮を兼ねた存在" とは、何かやっぱり特別な事なんでしょうね。

 それと、聖徳太子と推古天皇の関係も興味深いです。太子はバリバリの仏教徒のはずなのに「和をもって・・・」を最優先?としていますね。「和」は仏教とは関係のない思想ですよ。
 また、彼の別名には「耳」の字が使われてますけども、神奈備さんの意見はどうでしょうか?やはり「連」に分類されるでしょうか。

[5124] Re[5122][5120][5119][5118][5116]: 根子  神奈備 2009/07/03(Fri) 08:49 [Reply]
> 「斎王」復権のような側面もあるでしょうか?

 用明前期に酢香手姫皇女を齋宮にしており、以降37年間勤めます。実は推古さんの時代にも齋宮を続けるのですが、聖徳太子の死去と同じ時に引退をしています。この解釈ですが、実は聖徳太子が天皇であって、その死後に推古さんが就任したとの見方があります。

 齋宮が置かれるのは男帝の場合との仮説があります。天武の娘の大来皇子が齋宮でしたが、同母弟の大津皇子の事件で解任されます。天皇は持統さんにかわるのですが、後任の齋宮の件は記載されていません。
 持統さんの次ぎの天皇は文武さん、当耆皇女を齋宮としています。次ぎに泉内親王。

 文武さんの次は元明・元正と言う女帝です。齋宮の名は出てきませんが、齋宮の頭とか齋宮関係の記事がでています。地元の巫女さんを当てたのかも。

 女帝とは齋宮の復権と言うよりは、齋宮を兼ねた存在だったと言えるのかも。

[5123] 宮浦宮ご造営賛助を  はやと [Url] 2009/07/02(Thu) 23:07 [Reply]
延喜式にも登場する由緒有る福山の「宮之浦宮」
についてメールを頂戴しましたので
掲載致します。

==========================

宮浦宮(みやのうらぐう)の記事をぜひ紹介してください
キーワードは神武天皇です。ご東征お船出の地が宮浦宮であり、
ここは古代における皇位継承の(三種の神器)が奉斎された霊跡であり
祭場であったことです。また、9月に完成する社殿は、
いわゆる神武紀に建てられた古代の建築(足一あがりの宮)の再興です
伊勢の神宮(第11代垂仁天皇の時代の建築を継承)より
更に古い(初代神武天皇の時代の)建築様式であり、
日本で初めての画期的な出来事なのです。
…本殿の資金はありますが、付属建物の予算がありません。
…浄財を募っています。どうか皆さん方に呼びかけていただければ幸いです
宜しくお願い申し上げます。

事務局長・千葉晋平

尚、詳細及びご浄財は次へ

宮浦宮御造営奉賛会

〒899-4501
霧島市福山町福山2437
 宮浦宮社務所内

 電話FAX(市来):0995-55-3021

 事務局(千葉):携帯090-5285-9217

振込先:
  ゆうちょ銀行
     01700-3-26962

尚、浄財は1口千円からとのこと。
境内には夫婦銀杏があります。
寺社探訪からどうぞ。

[5122] Re[5120][5119][5118][5116]: 根子  琉球松 2009/07/02(Thu) 17:57 [Reply]
 神奈備さんへ

 女帝などと聞くと、どうしても沖縄側からの視点になってしまいますが、「斎王」復権のような側面もあるでしょうか?
 奄美沖縄の伝統的な「根神(姉妹神)」は、大三元さん指摘のように神祭る者ですし、琉球王朝の祭祀システムとも繋がります。

 ところで、「ネコ」は、琉球圏でもまず「猫(マヨ・マユ・マヤ ※真世)」を連想してしまいますね(笑)。
 ちなみに、猫は「ミルク(弥勒)」に従い、「サーカ(釈迦)」の影響を排除する動物で、死してなお鼠を監視するがごとくに樹上に葬られます。これは「ノロ(神女=斎王?)」と同じ葬法で、犬とともに善なる者とされています。

[5121]  神名の意味    生田淳一郎 2009/07/02(Thu) 06:34 [Reply]
 神様の名前は漢字で書かれていて、その正式な(?)正しい読み方……発音はわからないという。オレ、そのことで神奈備ドンに数回質問したら、「愚紋だ」といわれて虫され、いま尚、神様の関係については、ワカランことばかりです。
 そこを乗り越え、先へどんどん推論してゆくミナシャンは秀才だと、尊敬しています。
 
 でも、我流ながらも「こうにまちがいない」と思える神名は、11柱だけ蓄積があります。

> 葉山媛をして天照大神の荒魂を広田に祭らせた
★ 葉山……。ha は神。山は集り。 神々の集う--駿河とおなじ。
★ 荒……。祭壇に用いられる「アラ」。ラテン語。
★ タマは from ram , dam
★ 広……hir(宗教上の指導者)
★ 田…… ta(人 叉は 場所)
★ matr…… 社禝の“社”。ここは土地神(にする)ぐらいの意味か

[5120] Re[5119][5118][5116]: 根子  神奈備 2009/07/01(Wed) 09:51 [Reply]
天皇名以外についている根子の人々

稚倭根子皇子 景行天皇の皇子、何をした人かわからない。→天皇名に準じたか?

山背根子 娘の葉山媛をして天照大神の荒魂を広田に祭らせた。→祭る人。

壹伎直祖眞根子 父に従い半島へ行き、帰朝後 壱岐にとどまる。武内宿禰の身代わり。→占いに従事か。

和珥臣祖難波根子武振熊 難波宿禰とも。忍熊王を討つ。飛騨の両面宿禰を退治。→典型的な武将のようです。

 地域を呪術、武力、血統などで守護・支配すると言う共通点が見えるようですね。


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