青草掲示板ログ平二十二年 二月 2010.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5464] Re[5463]: 澪標(ミオツクシ)  琉球松 2010/02/28(Sun) 22:16 [Reply]
 大阪市のマークにこんな由来があるとは知りませんでした。

 この形もなかなか島の者にはなじみがないですね。珊瑚礁圏ではたんに一本の棒を立てるだけでこと足りるわけで。。。これには呪文のような意味もあるんでしょうか?「皆面黥面文身」とか??

[5463] 澪標(ミオツクシ)  神奈備 2010/02/25(Thu) 11:32 [Reply]
 大阪市のマークは澪標(ミオツクシ)の形をとっています。
 基本的には 乂 ですが、上に横棒 文 の鍋蓋の点を取った 一 がついています。それに水中に立てるための棒が乂の真ん中に突き出ています。縦棒です。

 このマークの意味ですが、難波堀江の中で、座礁しないように深い場所を案内するためのマークです。これは水運の神(安全)のために海人が胸に彫った蛇のマーク(うろこの逆三角形)乂のマークが基本です。胸の字の肉月をとり、囲いをとりますと残るのが乂です。水運の神は蛇が基本です。乂です。
 
 乂に形を整える”一”をかぶせ、縦棒をつけたものがマークとなったと思われます。

*******
 *   *
  ***
   *
  ***
 * * *
   *
   *

[5462] 古墳の墓碑石  神奈備 2010/02/24(Wed) 17:45 [Reply]
この前、会合で以下のサイトの話が出ていました。

http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GAZO2.html

識者に見ていただいた所、「完全にインチキだ」と一刀両断でした。

確かに、どの墓の文字もよく似た字のように見えますし、そんなに都合良く墓碑石が近所に転がっているのも奇妙。

稲荷山の刀剣のような字もあってもと思いますし、大山陵古墳を大雀命としている所などかわいいです。

[5461] Re[5460][5459]: 無題  琉球松 2010/02/20(Sat) 14:46 [Reply]
大三元さん、久しぶりです。
天津鰐と熊鷲に「十人中五人を殺す」性格があるとすれば、これはもう潜水艦や戦闘機のようなモノで、悪い奴ということなるかもしれませんね。 ただ、敵にとってはそうでも、味方にとっては頼もしい金属製武器ということになります?

その奄美のケンムンは海や川では「グヮーパ」と呼ばれているようで、水陸空万能の神(鬼)ですね。

[5460] Re[5459]: 無題  大三元 2010/02/20(Sat) 11:47 [Reply]
琉球松さん

>  特に奄美の「ケンムン」は猛禽類のごとく飛翔しますから恐ろしい。

お話の本流は理解できておりませんが、
荒神と飛ぶ(鳥)については:

『摂津風土記逸文』に 下樋山 天津鰐が鷲に化して十人中五人を殺す

という内容の記事があります。また、日本書紀に

神功皇后が「羽白熊鷲」を退治した(神功紀9年3月)という記事もあります
これは半死半生の性格はハッキリしませんが悪い奴ではあったようです

[5459] 無題  琉球松 2010/02/17(Wed) 23:47 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございます。

 銅山と "半死半生" もまた、ピタっとキマらないようで残念です。

 。。。中国の「蚩尤」との関わりでいうと、徳之島の「ぼうじがみ(兵主神?)」は奄美大島の「ケンムン」や沖縄諸島の「キジムナー」などと同じく河童との共通点がありますし、徳之島では鍛冶屋に対する恐怖の念がとりわけ強いように思えます。
 これら奄美沖縄諸島の「木のモノ?」は、まさに "荒神 半殺往来之人"。。友達になると大漁に恵まれたりするんですが、敵とみなされると抹殺の対象にされます。
 特に奄美の「ケンムン」は猛禽類のごとく飛翔しますから恐ろしい。

 ついでですが、沖縄島の「キジムナー」は魚の "左目" を好物としているんですが、これはアマテラスなど女神を敵視しているのかもしれません。

 また、河童が青錆に犯されて地下活動中だすると、金色のケンムン&キジムナーはバリバリ現役の銅鐸かも(笑)。。。もちろん琉球圏から銅鐸が出土する可能性はありませんから、ある時代に日本本土からもたらされた伝承とも考えられます。

[5458] Re[5456][5455]: サンスクリット語の地名  神奈備 2010/02/17(Wed) 11:18 [Reply]
> それと、やっぱり河童は零落した銅鐸神の成れの果てじゃないでしょうかね。

 河童はヒョウズベで、兵主につながります。兵主神は蚩尤のことで、かって苗族が山東半島で祀っていた神です。蚩尤は黄帝と争って殺され、その首は晒されました。その頭が饕餮と言われます。饕餮紋は銅鼓に彫られて銅鐸と同じように境に埋められました。
 河童と銅鐸はつながっていると言えそうですね。


> 同じエリアに銅山はないんでしょうかね。

 香春岳は古代の有名な銅山ですが、近くの銅鐸とすれば、大分市多武尾遺跡、大分県別府遺跡など。また山口県の長登銅山も有名です。この県からは銅鐸は未出土。
共に、半殺し峠は見あたりません。

[5457] Re[5452]: 一方通行  素人 2010/02/15(Mon) 23:37 [Reply]
蛇足
古墳時代ですと日本海側でも大和朝廷地域の西日本と蝦夷の東日本とでは大陸・半島からの北風による漂着者の運命も、違ったものになったのかも知れません。
大和朝廷では、送り返さなければ蝦夷と同じように隔離して監視して時間(100年ぐらいか?)をかけて同化させたのでしょうか。蝦夷の場合は、大和朝廷からすると両者共に蛮族と言うことになるのですが、歓迎して受け入れて行ったのでしょうか。蛮族同士ですから恐怖心から激しく戦ったのでしょうか。仲良くして、勢力を増して行ったならば蝦夷は益々強力になって大和朝廷を苦しめたかもしれません。大陸からの渡来者は乗馬も得意だったかも知れません。しかし、強力な半弓が東北で出ないので夢想かも知れませんが。
青草でした。

[5456] Re[5455][5454][5453][5451][5450][5449]: サンスクリット語の地名  琉球松 2010/02/15(Mon) 20:41 [Reply]
 あっ、すみません。また河童を持ち出してしまいました。

 しかし、しかし、河童の語源は中国揚子江の鮫神「グワーパ」でしょうし、象頭山の斜面に設けられる「金比羅」の語源も、インドガンジス川の鮫神でサンスクリット語「クンピーラ」でしょうから、まったく荒唐無稽とも言えないと思います。

 「半死半生」が伝わっている地から銅鐸が出土しないとしても、同じエリアに銅山はないんでしょうかね。何かこれも無関係じゃないと思います。

 それから、昨日は旧暦の1月1日、本家の聖地の泉から汲み取った「若水」をいただきました。正月は年を重ねる日ではなく、再生する日ですね。。。今年もよろしくお願いします。

[5455] Re[5454][5453][5451][5450][5449]: サンスクリット語の地名  琉球松 2010/02/13(Sat) 20:12 [Reply]
 神奈備さん、どうもどうも。

 まずは訂正があります。
 ※「黄泉平坂(沖縄の神話では"生死のサカ")」を(沖縄の説話では"生死のヒラ")に訂正。

 銅鐸の出土地と「半死半生」などは、かならずしも重ならないようですけど、銅鐸が地上から消えさって久しい時代にも、何か土中に得体の知れないモノが "隠れるている" との感覚は残っていたとすれば。。。まあこじつけですがありうるかもしれません?

 これは、「オニ(鬼)」の語源が「オン(穏)」とする説とも関わるとすれば。。。まあこれもこじつけですが(泣)。

 それと、やっぱり河童は零落した銅鐸神の成れの果てじゃないでしょうかね。河童の両腕が同時にスライドするというのも、銅鐸に残された左右の穴に棒を通していた名残かもしれません?
 また、ピカピカの銅鐸は金色でしょうけど、土中に放置されては青錆で朽ち果ててしまいます。銅鐸の "水の神の部分" は本土では河童として伝わっているんじゃないでしょうかね。

[5454] Re[5453][5451][5450][5449]: サンスクリット語の地名  神奈備 2010/02/12(Fri) 17:04 [Reply]
 琉球松さん、面白い着眼です。

大三元さんの「アラブル・ニシモノの解読」で半殺しの峠を参照
ペギラさんの「古代の謎」から銅鐸の出土地を参照

これらを組み合わせると:−

●播磨風土記揖保郡意此川条 品太天皇之世 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人 半死半生
●播磨風土記揖保郡佐比岡条 所以名佐比者 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲國人經過此處者 十人之中 留五人 五人之中 留三人・・・
姫路市の西側の太子町付近です。姫路市からはお城の西側2〜3km付近から出ています。だいぶずれています。

●播磨國風土記神前郡生野条 所以號生野者 昔 此處在荒神 半殺往来之人 由此號死野 以後 品太天皇 勅云 此爲悪名 改爲生野
但馬国朝来郡生野町に比定されています。未出土。

●肥前風土記基肄郡姫社郷条 昔者 此川之西 有荒神 行路之人 多被殺害 半凌半殺
安永田遺跡から出土

●肥前風土記神埼郡 此郡有荒神 往来之人 多被殺害
吉野ヶ里遺跡の銅鐸


●伊勢風土記逸文 安佐賀山 有荒神 百往人者 亡五十人 四十人往人者 亡廿人
松阪市の西 久保町からは出土

●筑後風土記逸文 筑後国号・・・昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰 人命盡神
筑紫野市付近からは出土していないようです。

●常陸風土記新治郡 東夷之荒賊
●常陸風土記信太郡 常陸風土記茨城郡 常陸風土記那賀郡茨木里
常陸国は茨城県、現在まで銅鐸の発見はないようです。

●景行紀 吉備穴海に荒ぶる神がいた、殺した。
吉備穴海は岡山市の平野になっています。岡山市からは7個の銅鐸。

●難波の柏の済の荒ぶる神を殺した
●摂津風土記逸文 下樋山 天津鰐が十人中五人を殺す
淀川沿いのような気がします。高槻市・茨木市・豊中市からは銅鐸出土。

半殺しは半分ほど出土のようですね。確率は高いのかも。

[5453] Re[5451][5450][5449]: サンスクリット語の地名  琉球松 2010/02/12(Fri) 10:02 [Reply]
 大三元さんの記事の紹介、ありがとうございます。日本語には複数の系統の言語がからんでいるのがよくわかりますね。

 。。。「アヲ」などと銅鐸の関係性はあると思います。
 銅鐸が埋納されている山の斜面などが境界だとすると「黄泉平坂(沖縄の神話では"生死のサカ")」を連想しますね。そこはたぶん結界なんでしょう?
 イザナギの小便でできた「オオ川(沖縄の神話では"マテ川")」も三途川なんでしょうけど、奄美沖縄の場合のそれは海岸から目前の小島「大島・オホ島・アフ島・アブ島」などですね。これらの小島は旧来は墓地で、あの世との境界と観念されていたようです。

 あまり自信はないのですけど、銅鐸には「サイの神」の一面がありそうですから、何か物理的な境界だけでなく「10人通れば5人は生かし5人は殺す」とかいう敵味方を判別する思想のように思えますがどうでしょうか。

 境界(重要ポイント)で通行を妨害する銅鐸とちがい、海人サルタ彦は案内役をかってでますね。海を駆けずり回る者にとって国境は迷惑な存在ですね。

[5453] Re[5451][5450][5449]: サンスクリット語の地名  琉球松 2010/02/12(Fri) 10:02 [Reply]
 大三元さんの記事の紹介、ありがとうございます。日本語には複数の系統の言語がからんでいるのがよくわかりますね。

 。。。「アヲ」などと銅鐸の関係性はあると思います。
 銅鐸が埋納されている山の斜面などが境界だとすると「黄泉平坂(沖縄の神話では"生死のサカ")」を連想しますね。そこはたぶん結界なんでしょう?
 イザナギの小便でできた「オオ川(沖縄の神話では"マテ川")」も三途川なんでしょうけど、奄美沖縄の場合のそれは海岸から目前の小島「大島・オホ島・アフ島・アブ島」などですね。これらの小島は旧来は墓地で、あの世との境界と観念されていたようです。

 あまり自信はないのですけど、銅鐸には「サイの神」の一面がありそうですから、何か物理的な境界だけでなく「10人通れば5人は生かし5人は殺す」とかいう敵味方を判別する思想のように思えますがどうでしょうか。

 境界(重要ポイント)で通行を妨害する銅鐸とちがい、海人サルタ彦は案内役をかってでますね。海を駆けずり回る者にとって国境は迷惑な存在ですね。

[5452] 一方通行  素人 2010/02/11(Thu) 20:46 [Reply]
くず様
> なるほど!日本海北周りですか。
> とみたさんが[5430]で提出下さった、先進の九州や畿内にみられない朝鮮半島由来の遺物が信濃の地から出る。
> それは通常とは異なる航路が存在したとすれば理解しやすいですね。
>
渤海国からの使者の渡航法を調べたことが有りますが、北風が続く時期に、大陸を出航すると日本海沿岸のどこかに高速で漂着したとかあります。難破は日本沿岸での岩礁での難破が多かったようです。難破した場合などは、船を拵えて送ったようです。
記録に残る、一般民の大量漂着も有ったようです。送り返したようですが。
これから推測すると、大陸から一方通行で漂着者がかなり古い時代から有ったのではと夢想します。日本で歓迎されたか、撃退されたかは解りませんが。
素人の青草でした。

[5451] Re[5450][5449]: サンスクリット語の地名  神奈備 2010/02/10(Wed) 13:30 [Reply]
琉球松さん こんにちは。

> アワ(アホ、アモウ、アヲ、アブ)は「足がかり・間(ハシ)・橋渡し」ではないかと考えています。

 谷川健一さん『青銅の神の足跡』によりますと、阿保親王にゆかりの地から銅鐸が出土しているようです。

 伊賀の阿保(穴太)青墓のすぐ近く 銅鐸1個
 大和国山辺郡在原寺改め在原神社 (大和国添上郡の阿保山に在原寺とのかかわり?)銅鐸2個
 摂津国武庫郡(芦屋市)阿保親王の墓と称する古墳の濠 銅鐸2個
 滋賀県栗太郡栗東町 小槻大社「祭神は息速別命」この地域は銅鐸が多くでています。栗東町からは小銅鐸1個。

 銅鐸は境に埋められることが多いようで、アホの地も境なり峠であったと言えるのかも。すなわち端。

 さて、阿保親王は垂仁天皇の皇子の息速別命(いこはやわけのみこと)とされています。

> それと「ハエ・ハヘ」なんですけども、「ハエイロネ・ハエイロド」とも繋がるのでしょうけど、島では「速い・さっそうと・活動的」って意味も感じとれますから、

 阿保と息速、速がつながりそうですね。

大三元さんの記事を思い出しました。

http://www.dai3gen.net/kosi03.htm
磯城県主の名前に神武紀には「黒速」というのがあり、欠史8代后妃の出自では「葉江」となっており、「速」は「ハヤ」とも読まれようが「ハエ」と等価である。

[5450] Re[5449]: サンスクリット語の地名  琉球松 2010/02/10(Wed) 00:02 [Reply]
 神奈備さん、久しぶりです。旧暦ではまだ12月ですので、オメデトウではありません(笑)。


 。。。サンスクリット語か否かは別としても、アワ(アホ、アモウ、アヲ、アブ)は「足がかり・間(ハシ)・橋渡し」ではないかと考えています。
 前方後円墳の前方部が「ハシ」の性格があるとの説とも繋がるかも?

 と言うのも、奄美沖縄諸島の出先の小島は「オホ島・アフ島・アブ」などと呼ばれていて、神々はそこにいったん立ち寄った後に集落に入るとされているわけです。

 これを「淡路島」に適応できるとすれば、この島が四国島、あるいは本州島にとっての神々の足がかりの地と解釈できますね。「大三島」もそうかもしれません。
 これは「倭トトヒ百襲姫」とも関わると思いますが、つまりは彼女(達)が奄美沖縄諸島までやって来た女神「アマミキヨ」ではないかと推測されるわけですね。

 それと「ハエ・ハヘ」なんですけども、「ハエイロネ・ハエイロド」とも繋がるのでしょうけど、島では「速い・さっそうと・活動的」って意味も感じとれますから、昆虫の「蝿」にも同じニュアンスが含まれると思います。

[5449] サンスクリット語の地名  神奈備 2010/02/09(Tue) 15:35 [Reply]
中西進著『聖武天皇』PHP新書 から 

 日本の海ぞいに残る地名は、多く明らかにやまとことばとは別であり、例えばメラ(布良、妻良など)のように各地に同じ名をとどめている。これらは、新井白石が「ハエ」(南風)をサンスクリット語だといったように、サンスクリット語が北上してきた可能性が大きい。大体(神島でおこなわれる)祭の名がゲーターもやまとことばではないだろう。
 アワ(アホ、アモウ、アヲ、アブ)は輝くもの(火、日など)を忌みするであろう。今の場合は太陽である。

安房峠 長野・岐阜の境
天生峠 岐阜県飛騨市と白川村
青山峠 三重県中北部
油日嶽 鈴鹿山脈の南端

日本の中にサンスクリット語の地名−特に海沿いに多い−と言うのは面白い話です。この前、和布刈(メカリ)神社へ参詣しましたが、この「メ」なんかもそうかも。
沖縄に多いとされる南風のハエは淡路島の南の沼島にもあります。

[5448] Re[5445][5444][5443][5442]:[5441][5433] 閑話休題 阿豆那比の罪  琉球松 2010/02/09(Tue) 12:23 [Reply]
 沖縄島でも部分日蝕が見れましたよ〜。
 やはり気温が下がり風が吹き、騒がしく鳥が鳴き出しましたね。

 以下は、琉球圏宮古島の日食、月食に関する『月と不死/ニコライネフスキー(平凡社)1971』の記事です。
*** 宮古群島では、この二つの発光体、太陽、太陰は、古代日本神話の様に姉弟とは考へずに、夫婦となっている。それで夫婦が同衾して夫が愛に包まれて片足を妻ー月の体に投げた時、月の光は曇って月食が起こり、妻が同じ様に夫に媚びた時に、日食が現はれるものと、平良町では謂っている。因みに、北米インデアン、トリンギト族も、同様に日食は妻が月が夫の太陽を訪ねたものと説いている。(略)
 然しながら、日月食の解釈を言葉に表したものとしては、宮古島民は「太陽を鬼が呑む、お月様を鬼が呑む」という説明文句を有している。これは前記のものと合わせて、日月食を或る怪物の嚥下した結果と説明する他の神話の存在したことを示しているので、この現象はアイヌ族及び馬来族の間にも見受けられる。***

[5447] Re[5446][5431][5427][5422][5415][5414]: 大陸との交流ルート  かたばみ [Url] 2010/02/06(Sat) 11:49 [Reply]
>なるほど!日本海北周りですか。

>聞く銅鐸の大量埋納を境に(紀元前後から数十年、弥生中期から後期への転換期か?)日本海域、出雲、丹波地域は独自色を強めていく。

まずは北九州で小型の銅鐸(吉野ヶ里など)が作られた、これは出雲の版図からの注文生産だと考えています。
持論での神武 36- 66〜懿徳 92-105、神武朝では出雲と天孫は婚姻関係が続いて交流自由でしょう、小型銅鐸はこの時代の事象とみます。
持論での孝昭105-137以降では九州は倭国争乱となり出雲と敵対関係となったが、青銅技術は近畿東海に伝播して銅鐸はここで生産されて大型化し、出雲版図へ供給された。
おおまかな銅鐸の流れはこうであろうと考えています。

対外交流の対馬ルートを出雲勢力が使えなくなる時期も同様と考えています。
で、この頃に島根(隠岐)あたりから高句麗との交流ができたのかどうか、そのあたりです。
注目は半島の東へ150キロ沖合にある鬱陵島です(新羅本紀512の記事に于山国があったという)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/oki-koukuri.png

高句麗への絶好の寄港地となるはずで、さらにその東南に竹島、そして隠岐がきれいに飛び石になってます。
対馬海流も拡散して微流になるとみえ、対馬海峡横断の延長で可能かもしれない。
鬱陵島、発掘調査してほしいなあ。

魏志東夷伝高句麗に「其国東有大穴 名隧穴 十月国中大會 迎隧神還於国東上祭之」とあります。
高句麗の東にある隧穴という大穴、その神を送迎する祭りがあった。
大穴とは鬱陵島の洞窟のことではないか、鬱陵島には洞窟がたくさんあって観光資源になっています。
(出雲風土記にみえる大穴牟遅命とは・・)

で、あるならば魏志倭人伝の時代には高句麗がその存在を認知していたということになります。
当時に鬱陵島に住んでいた人々は漁労民でしょう、紀元前後であれば沃沮オクチョか濊ワイあたりか。
縄文であればウラジオストックの南あたりにロシアでいうところのボイスマン文化があり、出土物から漁労文化のようです。
北方系海人?特有の?回転式銛も出土(刺さると先端が分離して抜けなくなる)。
北にゆくほどツングース系(アムール系)が濃くなるか。


>日本海北周り航路が開発されていたとしたらこの時代以降となりましょうかね。

弥生どころか縄文でも北海道と大陸で交流があった物証があります(ルートは違うかもしれないけれど)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kokuyouseki_yushutu.png
海を渡ると大きな陸地があるのだ・・そういう情報は連綿と伝わっているはずで、向こうになにも見えない海へ出るのとはまったく違う状況と思います。

北海道松前町沖合に渡島大島オシマオオシマがあります、対馬暖流で比較的温暖らしい。
http://www.geocities.jp/hokurikenchigaku/chigakumulti-light-2002/osimao1.htm
http://www.oshima.pref.hokkaido.jp/os-ksktu/kuma/sizen/index.html
渡島半島の渡島は本州から渡るの意だろうなあ、現在の渡島オシマの地名がいつのものかわかりませんけど、斉明紀5年に渡島の蝦夷の記事があります。
津軽海峡に流れ込む対馬海流を乗り切ったところに渡島大島があるわけで、ここで一泊してさあゆくぞ・・
ここも発掘調査してほしい場所、江戸時代に大噴火してるようだけど。


内耳式というアイヌ文化?の中世の土器があります(下図は山梨県出土、蝦夷が運んだか?)。
http://www.tsugane.jp/meiji/doki/doki_iseki/dokijyoho.html#nai
これと同じと見られる土器破片が、カムチャッカ半島最南端のロパトカ岬の遺跡(住居と墓を伴い、下層には石器のみの遺跡がある)から出土しています(北方狩猟民の考古学/同成社)。
寛永通宝がいっしょにでているのでこの内耳式土器は江戸時代初期のアイヌ文化のものと推定されています。

利尻島の亦稚貝塚マタワッカからは大陸にしかいないトナカイの角とオホーツク土器が出土。
それぞれ時代もルートも違いますが北方の海人の活動が盛んであったことは間違いなし。

うんと遡ると東北〜北海道の環状列石
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kanjouresseki.jpg
北からでも南からでもないような・・沿海州付近に環状列石があるかどうかは不明だけど。

海上保安庁による2月の海流
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/2010/qboc2010021cu0.pdf
渡島大島より沖へ出ると対馬海流は津軽海峡へ流れて、渡島大島以北では潮汐による微流になるようにみえます。
距離は対馬海峡横断の2倍ほどですが、なんとかなるんじゃないか。


[5446] Re[5431][5427][5422][5415][5414]: 蕨手刀+中央アジア  くず 2010/02/03(Wed) 06:48 [Reply]
とみたさん、かたばみさん、
遅い返信になりました。すみません、

>[5431]
> 島根あたりから大陸側に渡る場合に対馬ルートが使えない場合でも、いったん日本海沿岸を北上して青森付近から一気に、ありそうです。
> http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/hyoucyaku.png

なるほど!日本海北周りですか。
とみたさんが[5430]で提出下さった、先進の九州や畿内にみられない朝鮮半島由来の遺物が信濃の地から出る。
それは通常とは異なる航路が存在したとすれば理解しやすいですね。

北九州→壱岐→対馬→半島南岸ルートが閉ざされた時代なら、その時代、北周り航路が脚光を浴びます。
聞く銅鐸の大量埋納を境に(紀元前後から数十年、弥生中期から後期への転換期か?)日本海域、出雲、丹波地域は独自色を強めていく。
日本海北周り航路が開発されていたとしたらこの時代以降となりましょうかね。

2月1日は善光寺のお駒送り行事が行われているはず。
北方(山の中腹)にある駒形獄駒弓神社にて、越年行事に使われた忌み物が焼かれます。
その昔はこの神社から神馬(木像)が、境内に運ばれて越年し、この日また駒弓神社に送られていたようです。
駒形神は、持統紀に見える水内神と同神という口承があるようで、
蕨手刀分布域とも重なる駒形神信仰に繋がるものと思います。


神奈備掲示板、写真掲示板、過去ログ集




神奈備ホームに戻る