青草掲示板ログ平二十二年 三月 2010.3
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5483] Re[5482][5481][5480][5479][5478][5477]: イトと倭と金印  神奈備 2010/03/29(Mon) 17:45 [Reply]
 後漢の終末期は動乱の時代で卑弥呼が就任して挨拶に行けたのかどうが、確かに後漢の時代のこととして「其大倭王居邪馬臺国」で記載されているのであれば、卑弥呼の前の国なのかも。『魏書』と『後漢書』の書かれた順序から逆になっており、時代が錯綜していて、読みとりにくい所です。

[5482] Re[5481][5480][5479][5478][5477]: イトと倭と金印  かたばみ [Url] 2010/03/28(Sun) 20:29 [Reply]
神武が金印とかはおいといて(^^;

>『後漢書』は、南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。
>『魏志』は、3世紀末(280年-290年間)に西晋の陳寿によって書かれました。

原文解説書の岩波の魏志倭人伝他三編、に魏志倭人伝と後漢書の序文についての解説があります。
類似の内容であることを、後漢書が魏志倭人伝を写して編者が造作したのだと決めつけています。
中国史書の編纂者たちから袋だたきにされるに違いなし(^^;

魏志倭人伝で確実とできるのは魏の使者がもたらした見聞による記事であって、魏以前の事象の記事を同列に扱うわけにはゆきません。
魏以前の情報は前漢や後漢が収集した情報でしょう。
魏志倭人伝と後漢書での記事にはなんらかの共通資料がある、だから類似なのだと考えるのが順序だと思います。

魏志倭人伝が詳細な記事を書いている、邪馬壹国と邪馬臺国の文字が似ている、同じに違いない、魏志倭人伝が先に編纂されている、後漢書はこれを写したのだ・・錯覚と先入観ですね。
それでいて魏志倭人伝の邪馬壹国が写し間違いで、後漢書の邪馬臺国が正しいとしたりする。
こちらはヤマトに結びつけたいという潜在意識によるものでしょうけれど。

後漢書は倭国と前漢、後漢との関係を順序立てて書いている、まずはそれがスタートだと思います。
史書が間違っているとか凝った理屈が必要になるのは、確実な物証(あるいは複数の可能性の高さ)があって、それと史書の記述が矛盾する場合のみ。


>『旧唐書』では、「倭国は古の倭奴国なり。 中略  四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。」
>そうしますと、日本国は本州と見ていいのでしょうね

旧唐書(編纂はAD907以降、唐AD618-907)の東夷倭国伝はふたつに分かれています。
最初は「倭国者倭奴国也、去京師一萬四千里、在新羅東南海中・・」ではじまる。
貞觀五年(AD632)に使者(最初の遣唐使)の来たことが書れてこの項が終わります。
その後に
「日本国者倭国之別種也、以其国在日辺、故以日本為名、或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本・・」
(日本国は倭国の別種なり、日辺(日の昇る東端の意でよいと思う)にあるゆえに日本という、あるいは倭国(の呼称)が悪く雅でないために日本と改めた・・)

最初の倭国は「新羅東南海中」であり他の記述からも、これまでの倭国の基本情報と同じでしょう。
遣唐使がやってくるまでは「別種の倭国」が(本州に)あることを知らなかった(新羅の存在は知っていた)。
遣唐使の情報によって次の「日本国者倭国之別種也・・」の項を書いている。

其国界東西南北各敷千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限、山外即毛人之国・・
其の国の東西南北の隅々は千里、西と南はみな大海に至る、東と北の(境界)には大山があって、その外は毛人の国である・・

魏志倭人伝や後漢書の倭国とは違う状況が書かれています。
遣隋使や遣唐使の情報によって、はじめて(本州に)既知の倭国とは異なる「日本国」が存在することを知ったわけです。

この記述は唐以前の(少なくとも南北朝時代での倭王五代の)倭国と異なる日本国であることを明示しているわけです。
(芋づる式には邪馬壹国や邪馬臺国が近畿ではないことの逆算傍証ともなる)

なお、新唐書(編纂AD1050頃)は旧唐書の改訂版の意味でしょうけれど、遣唐使以前の日本については日本書紀の引用であり意味を持ちません。

関連して・・
隋書(隋581-618、編纂は直後の唐AD640前後)、では「にんべん+妥」という文字を「倭」の意味で使っています。
使者「清の情報から既知の倭国とは異なることを知って、「倭」の類似国の意味で「にんべん+妥」の文字を作ったのだと考えています。
しかし、定着せずに隋書だけの文字のままで消えたのでしょう。

ただし、魏志倭人伝時代以前の「倭」まで「にんべん+妥」にして記述しているのはまずい。
前出の岩波の解説本では逆に「にんべん+妥」を「倭」に書き換えています、これもまずい。
「編纂者の解釈」が混じり込んだ資料を作り出してしまうからです。

隋書でも魏志倭人伝同様に、隋の使者の見聞記事は信用してよいと思います。
しかし、それ以前の倭国の紹介文は魏志引用と明記する部分以外ではなにを情報源にしているのか不明。
(邪靡堆ヤビタイ?なんて書いてる・・後漢書の邪摩推ヤバ・タイのコピー?)
総じて当事国の時代以前での情報の信頼度は低くなるとみておけばよいと思います。

余談
隋書における多利思比狐大王(=聖徳太子でしょう)と書紀における推古女帝と摂政の聖徳太子、どっちを信じるか・・(^^;


[5481] Re[5480][5479][5478][5477]: イトと倭と金印  神奈備 2010/03/26(Fri) 09:55 [Reply]
> 後漢書が順序をめちゃめちゃに書かない限り、後漢書の邪馬臺国(邪摩推)は金印(AD57)以前の国であり、魏志倭人伝の邪馬壹国より150〜300年古く、同じ国とみなすことはできない。


 『後漢書』は、南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。
 『魏志』は、3世紀末(280年-290年間)に西晋の陳寿によって書かれました。

 『魏志』では、邪馬台国の名は卑弥呼の都する所と出てきています。
 『後漢書』は、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」の文が「國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國 いかの説明」より後に書いていますが、倭国の説明として風俗などを記してから、具体的な交流の記録に移ったとも見ることができます。

 そのように読めば、「大倭王居邪馬臺國」はやはり卑弥呼の時代と言えるのでは。

 所で、『旧唐書』では、「倭国は古の倭奴国なり。 中略  四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。」とあります。この倭国は四面の小島とありますので九州を指しているのでしょうね。
 そうしますと、日本国は本州と見ていいのでしょうね。


[5480] Re[5479][5478][5477]: イトと倭と金印  かたばみ [Url] 2010/03/25(Thu) 16:37 [Reply]
>伊都国の場合、倭国の地名だった怡土であったのでそのままでよろしいかと思うのですが

怡土という地名が魏志倭人伝より前から存在したことを証明できるかどうか、ですね。
地名のほとんどは自然環境からのものか、特産物か、開拓者名を使うか、ではないでしょうか。
怡土の文字は、土を喜ばす、土を耕す、人の意識からくる文字を用いたとみえます。
委奴イド国、濁音がなくなってイト、それを漢字の意味を知ってから良字で表記したものと直感します。

以下持論がらみのいろいろ周辺も含む青草、毎度長くなります(^^;

>例の金印ですが「漢委奴国王」はやはり「イト国王」。

「漢委奴国王」の委は「倭」の文字がない時代での稲の意とみています。
金印をもらったのは神武、持論からのさらに青草を加えれば・・
神武が自らの国を後漢にどう自己紹介したか、「伊怒」イヌの読みのつもりで伊怒の文字を用いたとして、後漢側がそれをどう扱うか。

自前の情報や神武の自己紹介から、光武帝は神武の国を稲の民の国であると認識したはずです。
「伊怒」の場合は万葉仮名同様に文字に意味を持ちませんが、後漢側がこれに稲の意味を持ちイと同じ発音である委と、属国に相応の卑字である奴ドを用いて正式の国名とした。
怒は呉音でヌ、漢音ではド、後漢側の学者が発音の違いあるいは類似を知らぬはずもなく、うまいこと工夫したわけです(^^;
金印時代の後漢側の発音は委奴イド国だと思います。

新しい国名の文字、これらについて金印の使者が説明するでしょう。
その文字を呉音で読めば伊怒イヌに同じであり、神武側は漢字とその発音などのいろいろを知ったのではないかと思います。
すれ違いはあるものの、文字の正式使用は神武時代に始まるとみます、ごく限られた祭祀者が使う程度でしょうけれど。

発音がイドから濁音がなくなってイトに変化するのは自然だと思います。
神武朝の主体であった北九州の大部分をイトと称するようになった。
(そして、はるか後に漢字の意味を知るようになってから怡土の当て字をおこなった)
魏志倭人伝時代にはこれが小国に分裂しているわけですが、長くなるので略。

倭の文字は後漢以前には存在しません(調べた範囲の中国文献では)。
光武帝以後に神武の使者をきっかけにして稲作の民の総称として委に「にんべん」を加えて「倭」の文字が作られたと考えています(説文解字、AD100頃)。
倭は呉音漢音ともにワであり委とおなじイの読みです。
呉音漢音ともに同じということは、長江以南まで支配した後漢によって制定された新しい文字と読みであるから。


さて・・
金印の「漢委奴国王」と、後漢書に書かれる「倭」について。
まずは金印が本物かどうか、中国で同じ書体の印が出土しており、金印はそれ以前の出土ですから限りなく本物でよいと思います。
「倭奴国奉貢朝賀・・光武賜以印綬」、疑うとすれば後漢書に書かれる印綬が出土した金印のことかどうか、ですが疑えばきりがない(^^;

後漢書編纂はAD398頃以降ですから倭の文字と意味が存在しますが、倭の文字がなかった時代の事象をどう書くか。
倭奴国とありますから、まだ倭の文字がない時代でも、同じとみなせる地域ないし人々のことは「倭」と記述した。
つまらないことのようですがこれ大事なんです。

後漢書に登場する最初の「倭国」は「其大倭王居邪馬臺国(邪摩推)で、その風俗や城柵のことが書いてありますが女王うんぬんは書かれていません。
この邪馬臺国(邪摩推)の年代は不明なれど、100余国があり前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして(楽浪郡BC108)から使者など漢と通じる国は30国であり、皆が王を称しているるとあります。

次いで建武中元二年(AD57)に「倭奴国奉貢朝賀・・光武賜以印綬」が書かれます。持論の神武 36- 66と一致。
次いで永初元年(AD107)に倭国王師升が朝貢しています。
持論の孝昭105-137に対応、すなわち神武朝から交代した新しい王朝からの挨拶でしょう。

次に桓帝AD167〜霊帝AD189の間に倭国大乱と書かれ、次に卑弥呼なる女子が有り女王国・・とありますが女王国の国名は書かれていません。
倭国大乱は孝安137-175の末期に始まり、新羅本紀173の倭の女王卑弥呼の使者来訪の記事と合わせれば卑弥呼の登場は170頃となります。
孝霊175-204、孝元204-225は名目上の大王に格下げといったところか。

魏志倭人伝:景初2年(AD238)、倭の女王が使者難升米を魏に送る。(持論、開化225-248)
AD247頃までに卑弥呼死去、90歳くらいかな。(持論、崇神248-273)


後漢書が順序をめちゃめちゃに書かない限り、後漢書の邪馬臺国(邪摩推)は金印(AD57)以前の国であり、魏志倭人伝の邪馬壹国より150〜300年古く、同じ国とみなすことはできない。

それどころか、後漢書は衛氏朝鮮滅亡(BC108)以降に漢(前漢)と通じる国々の大倭王と書いており、神武の九州統一以前の古出雲の国を示す可能性が高い。
古出雲にとって箕子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮は敵だが、その敵を討ってくれた前漢は味方(^^; 楽浪郡を介して前漢となんらかのつながりがあって不思議なし。

後漢書に書かれる邪馬臺国(邪摩推、摩は漢音でバ)ヤバ・タイは中国史書に初めて登場する列島の国。
神武以前では北九州の多くが古出雲の版図であり、それがどこかとなるとちょいとやっかいですけど北九州のどこかでしょう。
持論での国譲り直前の古出雲の中枢は豊前豊後。



神武はその地を制圧して九州を統一し、後漢の光武帝に使者を送った。

ヤバとはなにか、なんらかの地形かなあ。目立つとすれば阿蘇か(現存では大分県の耶馬溪)。
阿蘇の東側と西側で言葉の流れが異なる可能性はあるか?
ヤマトが山門、山戸であるのはまず間違いないと思いますが、これは遠賀川流域や奈良などどこにでも生じる地名だと思います。

ちなみに後漢書の邪馬臺ヤバ・タイをヤマ・タイと読むには馬をマと読む唐音が必要で、すなわち飛鳥奈良以降でしょう。
弥生のヤマ・トを邪馬臺(邪摩推)ヤバ・タイと表記するには、語呂合わせだけでも無理がありそう。
もし、使う文字に意味も持たせようとしていたなら、臺、推には台地とか押し広げるといった意味がある、耶馬溪ヤバ・ケはヤバの谷でずばり。
はてさて・・

[5478] Re[5477]: 孫権艦隊と呉音  かたばみ [Url] 2010/03/20(Sat) 21:01 [Reply]
>三国志三嗣主伝の原文には「艦隊が消えた」とは書いてありません。「明日當発、其夜衆悉逃走」です
ここでいわんとしているのは原文の「逃げた」を「消えた」にすりかえてはいかんぞよ・・

それはおいて、いわゆる呉音と呼ばれる発音の源は水稲技術の伝来とともに生じ、弥生時代初期(BC1000〜BC500頃か)に遡ると考えています。
米マイ呉音、ベイ漢音ですが、それではイネは?
大年神の妻の伊怒比賣の伊怒イヌと同義ではないかと思っています、稲比賣ですね。
魏志倭人伝の伊都国も源は伊怒国(呉音でイヌ国、稲の国)であったものが漢音読みでイド国→イト国となり、魏志によって伊都国の文字で書かれたのではないかと考えています。

呉音とは、おおざっぱに黄河と長江の中間を流れる淮河流域とそれより南、中国における水稲地域全体をひっくるめた発音の総称と考えるのがよいのではないでしょうか。
そういう地域に列島と関連の深い呉という国が登場しているゆえに、後に総じて呉音と称するようになった。
(天孫降臨での天之忍穂耳尊は前漢時代での呉の出自とみています)

漢は長江のはるか南まで支配していますから、「漢音」とやると厳密には呉音も含むことになってしまうけれど、おおざっぱに漢音とは淮河より北の北方系王朝での発音、ととらえるのがよいと思います。

持論
当初の神武 36- 66は前漢とは交流しにくかった。
神武の祖である天之忍穂耳尊は前漢における呉楚七国の乱の反乱者=罪人だからです。
しかし光武帝によって後漢が成立し、そのしがらみはなくなった。
胸をはって使者を送れるようになり、それが金印につながってゆく。

この時代に後漢王朝の発音が流入しているかもしれません。
後漢に対する自己紹介は漢字で書かれるはずで、ここで伊怒国イヌがイドないしイトの発音に変化した可能性をみています。

そして魏呉蜀、三国時代に卑弥呼が北方系の魏と交流したのは半島経由での交流が容易という理由が一番じゃないかと思います。
AD250頃、寒冷化と倭国争乱で九州倭国は疲弊して対外交流も停滞、倭国の主体が奈良に移って王朝の対外交流は完全に途絶した。
中国もまたAD380頃以降に北の五胡十六国と南の東晋の南北朝時代となり、対外交流が鈍化した。

新羅はこれを利して西アジアとの交流を活発化して国力を増大(ローマングラスなど)、倭国と対抗し伽耶併合に動き始めた。
倭国が外国情勢に無知となっていたゆえにインチキ年号の鏡も登場するわけです。
仲哀の、そんな国は知らんぞ・・これに危機感を持った(復興しつつあった)九州勢力が仲哀暗殺(^^;

応神以降倭王五代の交流は宋(AD450頃)など南朝(持論:倭王五代は九州の大王)。
この頃の百済と倭国は力関係で倭国が上位だと思います(半島の前方後円墳、広開土王碑文、新羅攻撃など)。
中国系の文物が百済経由で入ってきても、百済での扱いは中国語でしょうし、それが倭国に入ってもやはり中国語でしょう。
倭国が百済語?の影響を受けるどころか、半島南部には前方後円墳とともに「倭語」がはいっていったと考えています。

百済との力関係が逆転するのは継体507-530以降、この時代でなにが起きるかは応神時代に登場したであろう半島系倭人の行動がポイントかな(旧出雲と密な伽耶の半島系倭人も含む)。
用明585-586〜崇峻、推古(聖徳太子=多利思比狐大王)、舒明、皇極、孝徳〜斉明655-660、これらの王朝の実体はいかに、興味深いところです。

飛鳥奈良に至って北方系統一王朝の隋や唐との交流がはじまり、北方系の「漢音」が学僧や書物とともに大量に流入しはじめた。
例外はあるにせよ、漢音の登場は新しい。
王朝が漢音を採用したために、呉音と漢音が平行するようになったのでしょう。


[5477] 孫権艦隊  神奈備 2010/03/18(Thu) 19:58 [Reply]
> なお、AD280の呉滅亡時に消えた孫権艦隊の行方といった話題がありますが、三国志三嗣主伝の原文には「艦隊が消えた」とは書いてありません。「明日當発、其夜衆悉逃走」です。自然に読むなら明日出発(乗艦)しようとしていた軍勢がその夜のうちに逃亡してしまった、でしょう。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kf08.html

 乗艦していた衆が艦もろとも逃亡しまったと理解できないこともないかなと思いますが・・・。

 大量の呉人が渡来したとしますと、漢字の音に呉音が多いのは、何も百済から漢字が伝わって云々と言う回りくどい説明はいらないのかも。

 また280年頃、大きい歴史の転換点であり、古墳時代に入る頃になります。

[5476] Re[5475][5474]: NHKハイビジョン「出雲〜祈りの大地 神々のふるさと」  かたばみ [Url] 2010/03/18(Thu) 19:05 [Reply]
みるべきは出雲大社の内部の絵だけが唯一、これを出すためにその他を加えたものとみました(^^;

神話→信仰→神事の紹介にとどめれば風土記とはいえなくてもそれはそれだと思います。
しっかし、素盞鳴尊→八岐大蛇→剣→タタラとやっちゃった。
神話のありようと歴史の年代観なしで八岐大蛇の剣が鉄剣であるとしてタタラという現実をつないでしまう大ちょんぼ(^^;

高層建築としても某建築会社の推定図をそのままそうであったかのごとくに受け売りしてる。
巨木柱の間を回り階段で上ったかもしれない・・そういうことを考えてもいないのでしょう。
表面的なイメージだけで制作して専門家の監修を受けていないとみました。


>事代主が国譲りの際に打ったと言う「天の逆手」については、具体的な所作は判っていないようです。

柏手とは食物を大きな葉にのせて捧げることを略式化(形式化)したもので、柏の文字はそれを伝えるのだろうと思ってます。
「天逆手」も柏手に連動するものとみるなら、天逆手とは「捧げるべき食物を捨てる」の意ではなかろうか。
食物をのせている葉(器)をひっくりかえす、ですね。

事代主命を弥生の実在人物とするなら、事代主命にとっての「神」とはなにか。
祖先神、自然神、両方だとみておきます(瑯邪八主の流れをくむかもしれない)。
その神々に対して、もはや食物を捧げることができなくなった、この地を離れなくてはならなくなった、それを表す所作ではないかと考えています。
まずめったには行われない所作であり、完全に失われたのだと思います。

NHKでは二拝についてはなにも触れていませんでしたが、四拍については・・遠くの神様にも聞こえるように・・といってた(^^;
ま、一般神社での二拍ではないことへの苦肉の説明かな、わからんということでしょう。


[5475] Re[5474]: NHKハイビジョン「出雲〜祈りの大地 神々のふるさと」  神奈備 2010/03/13(Sat) 14:36 [Reply]
> 伊勢神宮の四拝八拍はその流れを考慮しながらも江南(いわゆる呉)系道教の「八」を基本として、四方八方≒八百万神をドッキングして中臣さんあたりが工夫した形式。

 四方拝などもそういう流れなのかも。孝徳朝の難波宮には八角の楼のようなものが建っていました。これは仏教的なのかも。

 所で、事代主が国譲りの際に打ったと言う「天の逆手」については、具体的な所作は判っていないようです。
 
 手の甲を合わせるとの語呂合わせ的解釈もあります。
 青柴垣神事の美保神社では忍手と同じく、音を出さない柏手と理解しているようです。

 一昨年の夏に出雲大社の神殿に昇る事ができましたが、中への立ち入りはできずでした。四部屋に分かれており、手前の二室と大神の鎮座する前の部屋までは見えました。天井の八雲の絵は前の二部屋にあり、これはよく見えました。


[5474] NHKハイビジョン「出雲〜祈りの大地 神々のふるさと」  かたばみ [Url] 2010/03/11(Thu) 22:16 [Reply]
四拝八拍一拝、伊勢神宮のみ?
二拝四拍一拝、出雲大社と宇佐神宮のみ?
二拝二拍一拝、その他一般?

その縁起はなんなのだろう、形式だとしても違いがあるなら理由もあるはず。
宇佐神宮や出雲大社は起源としては伊勢神宮よりはるかに古い。
弥生〜古墳時代での宇佐や出雲(の源流)ではいかなる形式があったのか。

さて青草、持論の歴史観からゆけば(^^;
宇佐神宮と出雲大社は兄弟である・・
神武 36- 66の九州統一と大国主命の国譲り、ここに二拝四拍一拝の源流があるのではないか。

神武朝(神武〜懿徳 92-105)の祭祀中枢は宇佐にあり、宇佐の正式化と出雲大社(杵築大社)の成立はほぼ同時だと考えています。
宇佐は神武朝の政治≒祭祀(祈祷)の中枢であり、杵築大社は国譲りした大国主命の隠居所。
(文化や交易の中枢は福岡だと思う)
宇佐は最新の大陸文化の影響を受け続け、倭国争乱で複雑な背景を持つ社となっていった。
杵築大社はそれらとは切り離されて、往古の出雲文化と祭祀を象徴化するようになっていった。

神武朝は天孫と出雲神族の合体王朝(多臣族)、祭祀が祖先を祀る意味を持ったとき、双方の祖先を祀るはずです。
すなわち二拝とは出雲と天孫の祖に対する拝礼、これを一拝に略することはありえない。

柏手は魏志倭人伝にも記されているように往古からあった「偉人」に対する慣習なのだと思います。
二拝「四拍」、本来は二拝四「柏手カシワデ」であり、いつのまにか拍手の拍に変わっちゃったのでしょう。
(拍手は欧米的なほめそやすの意であって柏手とはちょいと違うと思います)

二拝が象徴に対する拝礼であるのに対して、四拍とは具体的な眼前の偉人に対する拝礼ではないか、すなわちそれぞれの夫婦への拝礼であり四つの柏手となります。
神武朝でその源流が生じ、後に宇佐と出雲でこれが形式化されて二拝四拍になった。
(引き下がるときはひっくるめて一礼すればよいと思う)

一般の二拝二拍は出雲大社と宇佐神宮の形式の省略化じゃないかな、夫婦神をひとまとめにしても怒られはしないでしょう(^^;
(夫婦神の意識は消えてゆきますし)
伊勢神宮の四拝八拍はその流れを考慮しながらも江南(いわゆる呉)系道教の「八」を基本として、四方八方≒八百万神をドッキングして中臣さんあたりが工夫した形式。
むろん書紀編纂以降の登場です。

それじゃ三三七拍子ってなに?? 奇数扱いとみえます。
道教と古代日本/福永光司によると、六と一は象徴的な意味を持つとされているようです。
七支刀、左右に三つの枝があり中央に本身の1がある、すなわち3+3=6と1で七支刀。
まさかなあ ●●●○●●●○●●●●●●●○  ○は一拍の休み、3と3に7・・(^^;


神在月と神無月について。
単純明快、全国のムラオサが集まって各地域の状況報告などの議事を行ったことを源とする。
同時に各地域の特産物を持ち寄ってお国自慢というか物産展もやったでしょう。

出雲は租税を徴収する「国家」にはなっておらず、文化と祭祀の共通化によるゆるやかな連携、それが弥生時代(〜AD250頃)の出雲だと考えています。
奈良はその文化の中枢となり、島根出雲(出雲大社)は祭祀の中枢となっていった。
ムラオサが集まり、物産展をやったのが奈良であって、各地域の土器が出土するのはこのことに発する。
一般交易は各地で適宜都合の良いように行ったのであって奈良が交易の中枢(集散地)になっていたわけではないと考えています。

出雲の縁結びについて。
単純明快(^^; 全国のムラオサが集まったとき、嫁や婿捜しの話がでないはずがない。

これらが書紀編纂以降に神話化され島根出雲に移されていった。


出雲大社の神殿内部の構成は他の神社と異なっています、なぜか。
単純明快(^^; 神殿ではなく住居だったから。

当初は神を拝するための殿ではなく人が住むための家であり、その形式が失われることなく後に神殿(大社造り)となった。
伊勢神宮など当初からの神殿(神明造り)とは違うわけです。
大社造りの入り口が妻側にあるのは、屋根の雪がどさっと入り口に落ちることがないように、大雪の降る地域特有の形式でしょう。

出雲大社は高層建築、三内丸山など縄文の巨木柱の流れを継承していると考えています。
縄文巨木柱はこれからも発見されるだろうと思いますが、海岸近くに限られるんじゃないかなあ。
まずは出雲大社は大国主命の隠居所であり、後に祭祀をかねた海路の見張りないし灯台ともなって高層化された。

おまけ
荒神山などの銅鐸と銅剣の埋納、他の地の銅鐸は祭祀埋納の可能性がありますが、ここでは隠匿だと考えています。
出雲崩壊時に出雲再起を目して祭祀中枢の地に埋めたわけですが、ならずして現代へ。

NHKハイビジョン3月16日に新日本風土記「出雲〜祈りの大地 神々のふるさと〜」が放映されるようで、神殿内部のTV公開ははじめてだそうです。
さてNHK、どんな内容としているのか、いろいろと楽しみ。


[5473] Re[5472]: 阿波の国  神奈備 2010/03/11(Thu) 10:24 [Reply]
 阿波の国にもご当地版邪馬台国説があります。

 卑弥呼の墓として、天石門別八倉比売神社の奧宮の五角形の祭壇が紹介されています。五角形の石積みの不思議な構築物です。
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm

 また、卑弥呼の居城としては名西郡神山町神領字高根の高根山悲願寺付近と言う伝承があるようです。
http://www.its-mo.com/z-122196582-483595049-11.htm

 紹介ビデオがありましたので下記に。
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/43418942.html

 所で、卑弥呼が愛好したものは鏡とされていますが、銅鐸についてはどういう考えを持っていたのでしょうか。大和に古墳が造られた頃から、銅鐸は姿を消して入っているようです。卑弥呼の流れの勢力が大和をおさえてから銅鐸が姿を消したとなると、卑弥呼は銅鐸祭祀ではなかったとなります。

 それとも卑弥呼は鏡だけではなく銅鐸も好んでいたとすれば、大和をおさえた勢力は反卑弥呼だったと言えるのかも。

 阿波での卑弥呼の居城の住所は神領となっており、いかにも銅鐸が出土しそうな地名です。現に、近くでしょうが、名西郡神山町下分・大久保から銅鐸が出土と伝わっています。

 また、墓とされる徳島市国府町矢野からは袈裟襷文(1号 52cm 2号 41.3cm)の小型銅鐸が出土しています。

 邪馬台国阿波説が成り立つのであれば、銅鐸祭祀国家であったと言えるのかも。『魏志倭人伝』には銅鐸のことは全然出てこないことは、阿波説には不利ですね。

[5472] Re[5471][5470][5469][5468]: 阿波の国  神奈備 2010/03/07(Sun) 22:14 [Reply]
>  ”阿波の国には古代の多くの謎が秘められている” 。。。これは案外、盲点をつくかもしれません!!

> 天照大神の別名とされる「大比留女」は、うつほ船で母子共に流されますね。7歳ですね。

 『八幡愚童訓』に、「震旦国隣大王(陳大王とも言う)の娘の大比留女(おおひるめ)は七歳の時に朝日の光が胸の間にさし入り、懐妊して王子を生んだ。この太子が八幡と言う名をつけられた。」とのお話ですね。

 阿波、邪馬台国説と言うご当地ソングがあります。『記紀』は阿波を隠すために北九州を持ち出したりしているとの主張もありますが、阿波を隠す理由は全くないので、いささか被害妄想の研究会があるようですが、素直に古代史の中での阿波の役割を探求してほしいと思います。

 忌部氏のルーツであり、祖谷をイヤと訓み熊野を思わせる地名があること。
 また女神で加良宇多姫命伝説があります。後醍醐天皇の第一皇子の姫のことで、この地で出産して肥立ちが悪く亡くなったとのこと。これが何故阿波なのか、何故祖谷なのか。
 また、国生みでは四国が淡路に次いで早いのか、銅鐸出土数が多いのか、その割には鉾の名を持つ神社が四国には多いのか、何とも面白い地域です。

[5471] Re[5470][5469][5468]: 阿波の国  琉球松 2010/03/06(Sat) 23:06 [Reply]
 天照大神の別名とされる「大比留女」は、うつほ船で母子共に流されますね。7歳ですね。中国というよりも「葦原中国」でしょうか。

 その母の名は、たぶん「オオヤマトクニアレ姫」でしょうから、淡路〜讃岐〜阿波ということになります?し、それは「蛭子」の神話となっているとも考えられますね。

 ”阿波の国には古代の多くの謎が秘められている” 。。。これは案外、盲点をつくかもしれません!!

[5470] Re[5469][5468]: 阿波の国  神奈備 2010/03/06(Sat) 10:15 [Reply]
> 7才で奈良の黒田を追放された百襲姫は「ウツボ舟」で香川県東部にたどり着きますが、この舟の材質が「柏(カシハ)」だったって〜のはどうでしょう?

 柏の幹は良質な舟材だと思います。百襲姫を祭る阿波国の神社は鳴門市の葛城神社の摂社の定水明神社があります。由緒は不明ですが、讃岐の水主神社と関連があるのかも。

 女神が阿波の橘湾に上陸したというのも、面白い見方です。また讃岐の引田の安戸浦に上陸と言うのも、引田物部に率いられた跡部の舟で安戸へ到着と理解すれば、もっともらしくなります。

 実際の所、東遷中の孝霊天皇が吉備や讃岐の勢力をまとめていよいよ畿内に乗り込むと言う西から東への途中の百襲姫の讃岐行幸だった可能性が大きいように思います。

[5469] Re[5468]: 阿波の国  琉球松 2010/03/05(Fri) 14:57 [Reply]
7才で奈良の黒田を追放された百襲姫は「ウツボ舟」で香川県東部にたどり着きますが、この舟の材質が「柏(カシハ)」だったって〜のはどうでしょう?

[5468] 阿波の国  神奈備 2010/03/05(Fri) 09:38 [Reply]
 一日に一人ずつ助けると言う神様が徳島県に鎮座しています。阿南市津乃峯町の津峯神社の神様です。
http://www.genbu.net/data/awa2/tunomine_title.htm
 『延喜式神名帳』では、賀志波比賣神社[カシハヒメ] となっています。この女神の名は『記紀』には見えませんが、一説には天照大神の幼名だとか。

 この神社の鎮座する津峯から眼下に橘湾は見えます。谷川健一著『古代海人の世界』によりますと、津峯の山の麓に青木と言う地名があるとのこと、イザナギ神が禊ぎをした阿波岐原と近い名前です。

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギ神にイザナミ神は一日に1000人を殺す、そうするとイザナギ神は一日1500人を誕生させると応答しますが、津峯の神を連想するお話です。

 国生み神話は阿波や淡路を中心に活躍していた海人が語り伝えたお話なのでしょう。阿波と言う言葉は”太陽”を意味するともされ、また阿波には式内社で、事代主神社が二社、伊射奈美神社、弥都波能賣神社、波尓移麻比メ神社、天石門別豊玉比賣神社、和多都美豊玉比賣神社、多祁御奈刀弥神社と言う国生みにからむ神々、海神、国譲りの神と神話を凝縮したような神社が見られます。

 阿波の国には古代の多くの謎が秘められているようです。

[5467] Re[5465][5464][5463]: 澪標(ミオツクシ)  琉球松 2010/03/01(Mon) 23:30 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございます。

 ウロコといえば、アニメ映画『河童のクウと夏休み』の東京タワーのシーンで登場する竜神様を連想しますし、蛇は「蛟・龍・鰐(鮫)」でもありますから「玉依姫」とも関係ありそうですね?

 「乂・V」の文様?は、海蛇の模様にも似てますね。出雲では「セグロ海蛇」を奉納する社もあるようです。

[5465] Re[5464][5463]: 澪標(ミオツクシ)  神奈備 2010/03/01(Mon) 20:34 [Reply]
 『日本書記』神代上に、「日神が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に降らせられた。今、来たの海路の中においでになる。名づけて道主神という。これが筑紫の水沼君らの祭神である。」と出ています。

 宗像神の説明です。水沼君はミヌマ(弥都波能売神)、即ち海底の蛇身の女神を祭っていたのです。蛇身の象徴は鱗(ウロコ)で、逆三角形であらわします。乂 V です。水運の神(安全)のマークとなったようです。

> これには呪文のような意味もあるんでしょうか?「皆面黥面文身」とか??

 おおしゃる通りです。宗像とは胸に入れ墨をしたので、そのように呼ばれると金関丈夫氏の説がありますが、その入れ墨は恐らく「乂 V」の逆三角形の形だったのではと思われます。



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