青草掲示板ログ平二十二年 五月 2010.5
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5594] Re[5593]: 高麗犬  琉球松 2010/05/29(Sat) 09:57 [Reply]
沖縄の「シーサー」のルーツは中国の獅子とされていますが、直接的には熊野権現や八幡信仰によって伝搬されたのではと考えています。

ところで。。。「狛犬」と呼ばれるからには犬でしょうから、隼人との関係はどうでしょうか?

[5593] 高麗犬  神奈備 2010/05/27(Thu) 10:47 [Reply]
獅子はインド・中央アジアに棲息しており、これが高麗経由で伝わって来て狛犬(高麗犬)になったとされています。平安中期には、清涼殿の天皇の御座は帳(とばり)の左右に置かれていました。それが宮中から出て神社の神前に置かれるようになったのは平安末。始めは神殿の前でしたが、徐々に拝殿前、鳥居の前へと外に出てきました。木製から石製さらに陶製もできてきました。
口を閉じているのを「吽」、開いているのを「阿」、と云います。阿吽の呼吸と云う言葉があります。大和郡山市に国史現在社の薬園八幡神社が鎮座しています。国史現在社とは『続日本紀』などの古い史書に名前が載っている神社を云います。
http://kamnavi.jp/as/yakuon8.htm
阿の犬は雄犬、吽は雌犬でした。

[5592] Re[5591][5590][5589][5588]: 熊野神社の御祭神は?  やさか 2010/05/25(Tue) 06:43 [Reply]
> くしみけぬ の みこと
>
> だったような・・・。

野はヌにもあてられるのでしたね。
そういえば吉野は、ヨシノ或いはヨシヌでした。
ありがとうございました。

[5591] Re[5590][5589][5588]: 熊野神社の御祭神は?  神奈備 2010/05/24(Mon) 23:17 [Reply]
(くまのかむろぎくしみけののみこと)とでもよむのでしょうか。

くしみけぬ の みこと

だったような・・・。

[5590] Re[5589][5588]: 熊野神社の御祭神は?  やさか 2010/05/24(Mon) 22:54 [Reply]
早速のお答えありがとうございます。
祭神は熊野神呂伎櫛御氣野命、(配祀)伊弉諾命 伊弉冉命ですか。
やっと判りました。早速訂正したいと思います。ありがとうございました。
(くまのかむろぎくしみけののみこと)とでもよむのでしょうか。

>  やさかさんも人が悪いと言うか、ここは長野県でしたが、2005年に岐阜県に自らをトレードした村ですから、中津川市役所の方や教育委員会の方もよく判らない神社だったのでしょう。
>
あ、そういうことでしたか。それなら役所の人がよく判らななかったということにも納得できました。

御嶽神社の石碑については、境内社というものではなく、
なるほど、どなたかの参拝記念か奉納建造物のようなものかもしれませんね。
どうもありがとうございました。

[5589] Re[5588]: 熊野神社の御祭神は?  神奈備 2010/05/24(Mon) 21:57 [Reply]
『平成祭CD』によりますと、熊野神呂伎櫛御氣野命 (配祀)伊弉諾命 伊弉冉命となっています。

 やさかさんも人が悪いと言うか、ここは長野県でしたが、2005年に岐阜県に自らをトレードした村ですから、中津川市役所の方や教育委員会の方もよく判らない神社だったのでしょう。

長野県木曽郡山口村神坂 → 岐阜県中津川市馬籠

また、この祭神からは出雲系の熊野神社でしょう。


> 同じ境内にある御嶽神社(石碑のみ)

各地で金比羅神宮とか天照御大神などの石碑を見かけますが、氏子さんの参拝記念に建立したりするもののあるようです。

[5588] 熊野神社の御祭神は?  やさか 2010/05/24(Mon) 20:08 [Reply]
神奈備さん、こんばんは。
みなさん、久しぶりにお邪魔します。
分らないことがあると何時もここでお世話になっています。

岐阜県中津川市馬籠神坂(字峠)に鎮座の、熊野神社の祭神が分りません。
ご存知の方教えてください。
五月の連休に妻籠・馬籠に行ったのですが、馬籠の熊野神社に参拝したところ何処にも由緒が記されてないのです。
境内にも説明看板はなく、馬籠宿のパンフレットにも記載がありません。
家に帰ってから色々調べたのですが不明です。インターネットで検索してもよく分りませんでした。
それで仕方なく、当方のHP神社紹介では、「熊野大神」としたのですが、どうもすっきりしません。
それで中津川市役所に電話で尋ねました。
電話は、担当部署(教育委員会や観光課?)にまわしてくれたのですが、「分りません。調べて返事します」とのこと。
そして2日経っても連絡がないので、念のためメールを入れて再度お願いしておきました。
ところが、電話したのは5月7日だったと思うのですが、2週間以上も経った今日現在も回答をもらっていません。
それでもう回答はあきらめて、ここでお聞きします。
●馬籠・熊野神社の祭神名と、
  同じ境内にある御嶽神社(石碑のみ)の事も、何か分りましたら教えていただけませんか。

[5587] Re[5585]: 森浩一の  神奈備 2010/05/23(Sun) 12:03 [Reply]
> PCでもみれるかな?

 新しいPCは大丈夫でしょう。

 画像で見ますと色んなイメージが湧きやすいかも。

 カラオケの画面で歌声に悩まされるより、こい言うものの画像を見ながらグラスを傾けたいものです。

[5586] 悪いことは申しません。  伊作 2010/05/21(Fri) 22:00 [Reply]
買う前に、私の森浩一説評に目を通してみて。

森浩一氏の『倭人伝』解釈批判01
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/3bfe9bd4f9f281d38e96fb69ac45c0cb

森浩一氏の『倭人伝』解釈批判02
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/d1c06aba16d29b725cd423884f01240c

[5585] 森浩一の  縁MADOKA [Url] 2010/05/21(Fri) 21:04 [Reply]
森浩一の古代を語るDVD
http://www.u-canshop.jp/kodai/index.html?cid=gaw134094
誰か?買った人いるかな?
PCの動作環境保障しませんで買うのんまよってますが・・・
PCでもみれるかな?

[5584] Re[5583][5582]: 漢音・呉音  琉球松 2010/05/19(Wed) 16:29 [Reply]
神奈備さん、ありがとうございます。

[5583] Re[5582]: 漢音・呉音  神奈備 2010/05/19(Wed) 14:50 [Reply]
応神天皇の名

『古事記』品陀和気
『日本書記』誉田別  訓は褒武多 ホムタ

品は呉音で「ほん」 漢音で「ひん」 故に古事記は呉音。

[5582] 漢音・呉音  琉球松 2010/05/19(Wed) 11:38 [Reply]
神奈備さんへ

琉球圏の文献に関しては、漢音呉音の区別は参考にならないようですが、『古事記』ではどちらの読みが妥当でしょうか?

[5581] Re[5580]: リフォーム終了。  縁MADOKA [Url] 2010/05/18(Tue) 20:58 [Reply]
おっしゃーー
そうやでここまで書き込んで覆面はないで!!
邪馬台国には興味ないが!
しゃーない
お気に入りのページには登録しておいてやろうwwwww

[5580] リフォーム終了。  伊作 2010/05/18(Tue) 20:19 [Reply]
まだ・かんぺきじゃ・なかばってん。
改修工事の終わったけん。せんでんばひとつ。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear
きょーみのあるしとは・覗いてらっしゃい。

[5579] Re[5578][5577]: 朗報です!  縁MADOKA [Url] 2010/05/17(Mon) 21:35 [Reply]
お久しぶりです!!!
いやいやなんのなんの とみたさんは頭柔らか柔軟で 私もそうありたいものとしつもおもっております

> 今、流行のツイッター、つぶやきですね。効果があるんだ。
はじめたばかりです 最初はなんのこっちゃわからず・・
古代史検索でよさげな人でブログをもってる人と結構用心しながらフォローしてるうちにいいメンバーに知り合いましたわ
ツイッターはある意味で運と直感ですわ 縁がよければ情報は今一番はやいですね

私はある意味 運一本で古代史やってますからねWWWW

> 私は、古事記や日本書紀の神話部分は、淡路島の安曇族の海人族の語りが元のような気がしています。

国生み神話は間違いなく
淡路島近辺の海の民の伝承でしょうねえ
私もひょんなことで 海の環境の学者さんたちとのコラボで大阪湾が渦巻く海であることを知り・・仰天しました なんで歴史の人はしらんのかと・・・

非常にうまく忌部氏まとめてイタダキありがとうございます
たしか忌部か阿波氏かの本の紹介されてましたよね
私もあの本人にいただいたんですわ
掲示板でぼこぼこでしたが
私はあの本の伝承は確かでは?とおもってます
ただ論証できる副読本がなく・・・・
四国はあきらめてたんですか
今回ひょっこりですわ
また いい本があればご紹介ください

[5578] Re[5577]: 朗報です!  とみた 2010/05/17(Mon) 14:10 [Reply]
縁MADOKAさん 実にお久しぶりです。
お元気のようですね。こちらはそろそろ歳でダウンしそうです。
古代史瞑想で何とか呆けを防いでいます。


> 情報源はツイッターで知り合った阿波古事記研究会
> 四国にすべてがつう傾向はありますが

今、流行のツイッター、つぶやきですね。効果があるんだ。
確かに阿波古事記研究会の話は面白いですね。
> こつこつ地道に論証されているメンバーのようです

これしか、古代史探求には方法はない。極力怪しげな発言は避けてネタを拾い集めています。円さんの、インスピレーション、霊感力はすごいようで・・・
> 阿波と古事記
> http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
私は、古事記や日本書紀の神話部分は、淡路島の安曇族の海人族の語りが元のような気がしています。

忌部氏は安曇氏に統率されていたのではありませんか。忌部のイメージは語り部、シャーマン、の臭いもします。

豪族の素性を先祖からの尤もらしい話でヨイショしながら、世継のときに語る。世継の正当性を訴える。
これが天語歌でしょう。

それが天皇の大嘗祭に利用された。
忌部は祭具生産氏族に格下げになった。
阿波忌部は木綿と麻、讃岐忌部は楯、紀伊忌部は材木(宮殿や社殿を作るため)。出雲忌部は櫛玉、筑紫と伊勢忌部は天目一箇神・天津麻羅で鉄作り?鏡作り?
安曇氏は海産物を奉献した。

阿波忌部は天日鷲神でこれは伊勢神宮の渡会氏もこの神を奉じているのがポイント。伊勢津彦を平定して伊勢国造になった。ところが天武・持統天皇時代に伸してきた
中臣氏系の荒木田氏に内宮の神職はのっとられる。

荒木田氏は鹿島神の船を造った巨狭山の子供です。どうも中臣氏は常陸や房総と関係がありそうです。

阿波忌部氏が黒潮に乗って房総に来たところが、房総の安房です。

安房神社を造ったのは安房忌(齋)部が元正天皇の養老元年(717年)のときです。それまでは天忍日命を祀る大伴氏の国造社であった。忌部子人・色弗兄弟は壬申の乱のときは大伴吹負の部下に過ぎなかった。元正時代に忌部と大伴氏は地位が逆転しています

[5577] 朗報です!  縁MADOKA [Url] 2010/05/17(Mon) 00:34 [Reply]
四国の古事記情報欲しい方多いとおもいますが!
なかなか付いていけない話が多く考えあぐねておりましたが・・
これはベース的にOKではないかと思うサイトにめぐりあいました
情報源はツイッターで知り合った阿波古事記研究会
四国にすべてがつう傾向はありますが
こつこつ地道に論証されているメンバーのようです
阿波と古事記
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html

なかでも面白いのは
<「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)」
九州は筑紫 この文は明確に 文字が違う太陽に向かう渦巻く小戸は四国つうのがおもしろい
阿波ぎ原を行くビデオダイジェスト参照
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/video/index.html

私は対岸の住吉との関係と
淡路島があってこそ生まれる巨大渦を考え
やはり湾岸は繫がった文化ケンとかんがえるべきではないかと興味ぶかかったです

<西都原はもともと斎殿原(さいとのはる)と呼ばれていました

これはちょっとおもろかった

[5576] Re[5562][5554]: 「鳥居の間の石」他  佐々木 2010/05/16(Sun) 17:42 [Reply]
>鳥居の間の石
 神奈備さん
 諸事万端、お疲れ様でございます。

 寝屋川市誌(1966)を見たところ、p727の国守神社の写真でも「それらしきもの」確認しました。
 現況配置は寝屋川市史(第二巻)改訂版(2006)の第二節 神社の石造遺物の項で確認できるようです(手元に見当たらないので、未見情報で申し訳ありません)。 

[5575] Re[5572]: トビ とみ  神奈備 2010/05/16(Sun) 09:49 [Reply]
> 古代の出雲郷にあるこの神社を出雲社とみるせつが考古学の中であるようです。

 『神国島根』には、「八束水游美豆奴命が此処へ来て鎮座、この里を出雲郷、神社を出雲神社と称したとあり、後に出雲神社富明神と言った。」との記載があります。
 
 例の大国主の末裔で司馬遼太郎さんなどと一緒に産経新聞におられた方の先祖から口伝を受けた神社かなと思っています。富さんでした。


> ご存知でしょうが地元では、トビジンジャと読みます。

 美・未・弥・眉・微   漢音で「ビ」 呉音で「ミ」。ビとミとは親戚みたいなもの。

[5574] Re[5571]: 神奈備さん。  神奈備 2010/05/16(Sun) 09:48 [Reply]
 神社巡りは自分が霊気を感じるためと言うより、地元の方々がその神社をどう感じてきたのか、そうしてどのように祭祀を行って来たのかにより興味を持っています。

> 私の知り合いの論敵に、都万(つま)という地名があることを理由に、ここを投馬国だというのがいますが、彼もやはりタコです。

 ヘタなことを書いてタコ呼ばわりされるのはご免ですから、この辺で・・。

[5573] Re[5570]: ニライカナイ  琉球松 2010/05/16(Sun) 09:45 [Reply]
伊作さんへ

「ニライ・カナイ(ネリヤ・カナヤ)」は、原初は北方だったはずです。
 西方とされた徳之島の方は、たぶん天城町など東シナ海側で。。つまり"海の向こう側"がたまたま西だからだと思いますね。八重山では南、沖縄島南部は東方など 。

そこは、島人にとっては、友好的な時代のヤマトの"ヘソ(中心)"と考えられます。
貝輪が普及していった頃の北部九州でしょうか。

[5572] トビ とみ  かじりかけ 2010/05/16(Sun) 01:14 [Reply]
神奈備さま、お久しぶりです。
その節には、ありがとうございました。

とみ、トビと聞くと富神社を思い出します。
ご存知でしょうが地元では、トビジンジャと読みます。
「え!とび?」と、最初に聞いたときに思いましたので、
知らない人が読むとどのように思われるのだろうと思い書き込みました。

古代の出雲郷にあるこの神社を
出雲社とみるせつが考古学の中であるようです。

[5571] 神奈備さん。  伊作 2010/05/15(Sat) 22:38 [Reply]
四方山ばなしです。

古墳探訪問されたことがあると思います。
古墳と神社では、感じる霊気が違うと思われたことはありませんか。
分かりやすくいえば、霊魂の霊気と精霊の霊気の違いですね。

私がご幼少のみぎり、私の母上が私にこう教えてくれました。
「霊魂は地面に近いところにいます。あなたのためになる精霊は、
あなたの目線よりも上にいます。だから、いつも上を向いて歩きなさい」。

「精霊は樹木や建造物の上のほうの空間にいる」。
というのが霊気を感じるときの私の所感です。

[5570] ニライカナイ  伊作 2010/05/15(Sat) 22:26 [Reply]
「ニライカナイの祭祀では、どちらの方角を向いて行われるのか」
と・徳之島の知人に質問したことがあります。

解答は「西」でした。

それだけをみても、非常に珍しい祭祀ですね。

[5569] 原はハルです。  伊作 2010/05/15(Sat) 21:44 [Reply]
熊本には原一字では「はる」といいます。
これが、文字の前後関係で「ばる」に濁ったり、「はら」「ばら」「わら」になるんですね。

そもそも原のつく所は、人の手が入った土地という意味で、
人が住むのに適した良い土地をいうようです。
徳之島の知人がいうには、原は田畑をいうそうです。

九州北部にまで、「ばる」がつく地名が残存するところが・興味をそりますね。

なお。この「ばる」をとりあげて、半島語の「ばるとか「ぼる」に直結して、
半島語との関連をいう言説がありますが、
原を「はる」という土地の出身である私にいわせれば、笑止千万ですね。

[5568] Re[5566]: あそうそう。  琉球松 2010/05/15(Sat) 20:09 [Reply]
 「サイト原」の語源は、"サルタ原(案内者達の地?)"ではなかったかと考えてますがどうでしょう。
 神武神話に見える"日向"が当地だとすればつじつまが合いますね?

 西都原古墳内の男性被葬者の右腕には、さらに南の沖縄産貝輪が装着されていないでしょうか?

[5567] あ〜・そうそう。  伊作 2010/05/15(Sat) 19:17 [Reply]
この西都原と西都市をすっぽり包むのが児湯群です。古代名を「児湯の県」といいました。
私はここが『倭人伝』のいう呼邑国だとみています。(これも伊作説)

私の知り合いの論敵に、都万(つま)という地名があることを理由に、ここを投馬国だというのがいますが、彼もやはりタコです。

投馬は「つま」ではありません。『日本書紀』を書いたちゅこくじんも、「当麻の王子」とかなんとかに引用して、「とうま」と呼んでいますしね。

そのタコは伊都を「いと」と読みますが、つまらんことをいったせいで、3世紀には都を「つ」と読んでいたと、自白してるよーなもんです。

[5566] あそうそう。  伊作 2010/05/15(Sat) 19:03 [Reply]
宮崎県の西都原古墳郡ですが、これは私は倭国の国葬墓地の一つだったとみています。

九州東側は山脈が海岸まで迫っていて、豊かな国葬地帯ではなかった。「高をくくる」という言葉がありますが、米の産出量(石高)が国力・兵力・軍事力を測る物差しになります。その観点からいえば、この地に何世紀にもわたって古墳群を経営する国力は萌芽し得ず、豊かな豪族が存続し得た可能性はないのです。ですから、倭国の国葬センターの一つだったとみるのが物理的にも妥当だと思います。

あにはからんや。西都原はもともと斎殿原(さいとのはる)と呼ばれていました。まんま一大斎場の名ですね。ここが倭国歴代の国葬墓地だったとすれば、朝鮮半島に出征して戦死した有力武人の墓も混じっているかも知れません。その場合は、遺骸がなくて副葬品だけの場合もあるでしょね。


思考エンジンが勝手に巡るめぐるもので。ええ


[5565] あの  伊作 2010/05/15(Sat) 18:50 [Reply]
私の論考にもとづく見解は、私独自のものが多いですから。
引用される場合は「伊作説」とクレジットしていただくよう、お願いしときますから。

それではしつれいしますから。

[5564] ●祭祀人材の育成と供給  伊作 2010/05/15(Sat) 18:48 [Reply]
●祭祀人材の育成と供給
前方後円墳といっても、形・規模・外形バランスなど、細部がまちまち。石室をみれば、石の素材・大きさ・組み方・空間の広さや形状などがまちまち。棺もまた、素材・形・大きさなどがまちまちである。統一された設計マニュアルがあったわけでもなく、全国各地の墓づくり技術者が個々のカンや知識を頼りに、その土地の労働力や材料でつくったからこういう現象が起きたものと思われる。

一方の葬送儀礼のほうは、鏡・剣・矛・簇などの武器や、装身具・武具・農機具・大工道具などの副葬品から副葬の様子までが、全国均一といってよいほど共通している。とくに鏡と剣の共通点をみれば、統一された葬送様式がほぼ全国規模で広がっていたことを示唆する。この葬送様式こそがまさに初期道教(鬼道)の様式である。こうした現象の背景には、「祭祀人材の組織的あるいは計画的な育成と全国各地への供給」があったことを物語る。

この時代の祭祀は、支配者とその一族の女性が独占的にとり仕切っていた。(祭祀の様式と作法を庶民が習得できる時代ではなかったから、女王におさまってすんなり祭祀ができたということは、卑弥呼も支配層につながる女性だったことは明白ですから)。
『倭人伝』は卑弥呼の宮城に1000人の侍女がいたというが、私はその大半は全国から参集した支配者一族の女性で、卑弥呼様式すなわち初期道教(鬼道)の祭祀様式を学ぶ生徒ではなかったかとみている。彼女たちが卒業してそれぞれの故郷で、卑弥呼様式で葬送祭祀を行なったと考えれば、表記したような現象の説明もつく。魏の人間が目撃した時点で侍女が1000人いたというから、そのうちの半数が生徒だとしても、彼女たちが卒業証書代わりの銅鏡と「おみやげ」の銅鏡を個々に持ち帰ったとすれば、銅鏡も1000枚や2000枚では足りない計算になる。これが国産化に踏み切った最大の理由ではなかったかと思う。

▼祭祀人材の育成センター
滋賀県守山市の伊勢遺跡、福岡市の吉武高木遺跡、奈良県桜井市の纏向遺跡。この三者に共通するのは永続的生活集落でもなく軍事集落でもなく、むろん商工生産的な集落でもない。特定の期間だけ使用された祭祀遺構である。私はこれらこそが、祭祀人材の育成と供給を担っていたのではないかと思う。

ひと口に祭祀といっても、天地神を祀る祭祀から農耕祭祀・海上の安全祈願、武運祈願など多岐にわたる。天地神祭祀や農耕祭司(雨乞い祭祀を含む)は季節に応じて行なわれたのだろうが、最も頻繁に祭祀を行なったのは戦勝祈願(武運祈願)と海路の安全祈願だろう。そうした理由から軍事集落と思われる遺跡にも立派な祭祀施設が存在した。また男女司祭の役割を想定すれば、海路の安全祈願と武運祈願は覡(げき・男性みこ)、葬送儀礼や神降ろしは巫女(女性みこ)といった分担があったものと思う。そうした中で、男性みこを育成するセンターが、伊勢遺跡、吉武高木遺跡、纏向遺跡ではなかったかと思う次第である。

※この時代は軍事と祭祀が政治の両輪をなしていた。3世紀半ば(弥生時代末期)には関東にも前方後方墳や前方後円墳が登場することからも、弥生末(3世紀初頭)には進出への胎動があったと考えれば、表記のような祭祀中心の遺跡が存在することは別段不思議ではないと私は思う。

[5563] 話せば長いことながら。  伊作 2010/05/15(Sat) 18:46 [Reply]
『日本書紀』を書いた滅亡百済からの亡命帰化漢人(ちゅこくじん)は、『倭人伝』をみているのですが、実は彼らは邪馬台国を宮崎県にあったと読んだ節があります。私はされが正しいとは考えませんが、『日本書紀』を書いた人たちは神武の出立地を日向にしました。
(熊本では日向を「ひむき」と読みます。この名のつく地名は熊本にも幾つかあります。これが「ひむかい」で「ひむか」になにったり、昇る陽のあたる地で「ひなた」になったりもしたようです。「ひゅうが」と読むのは万葉読みでしょうかね)。

話を戻します。その神武の出立地と目される宮崎県の大淀川の上流部に「都城」があります。ここに実は、鳥見山、とんびが丘、そして何と、地元では「とっみっ」と発音する「豊満」という地名があります。
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/mokuji1.htm(「都城の鳥見山」) 

▼都城の鳥見山
都城の『中郷村史』によると、鳥見山の山裾には「豊満(とっみっ)」という所に、神田を耕作する役目の(御供府)の役人がいたという。さらに、『中郷村史』に次のようなことが書かれている。「鳥見山の中腹に、城跡と思われる広大な台地が幾段もの段をなして偉観を呈していた」。
▼消えた古墳
都城には、大正14年に歩兵第23連隊本部が設置された。鳥見山の周辺に古墳が一つもないのは、大正末期に連隊が古墳調査を口実に次々に田畑に変えたからだといわれている。地元の農家の人の話では、田畑を耕していると古代の遺跡、遺物がよく出たのだという。
▼古代土城の痕跡
都城の鳥見山の山裾に位置する豊満は、日当たりが良く風雨の災害は受けがたく、敵の守りに堅固な場所、それに広大な穀倉地帯、大淀川の源流、志布志湾に流れ込む安楽川の源流、ともに反対方向に流れ出る分水の地帯でもある。小河川で氾濫の心配もなく水枯れもない。

神武が東征へ出向いたときに助けにきた金色のトビもこの地方からきたらしい。ナガスネヒコを殺害してニギハヤヒが神武に無血開城した土地を、神武は「とび」と名づけました。鳥見山、登美、登弥、そして外山(とび)のつくのが、かの纏向遺跡で有名な桜井市の近くであり、(私の感触では死者の霊の拠る山)三輪山にも近いのではないか。この地が死者の霊に関する斎場ではなかったのかなー。

こ・ゆたかただけのこころ。なんか・文句ある?  

まだつづくから。

[5562] Re[5554]: 「鳥居の間の石」他  神奈備 2010/05/15(Sat) 17:25 [Reply]
> 本殿の中心線を守るというのは
> 密教の祭壇つくりにも非常に厳しく言われます

神奈備
>『神話と民俗のかたち』(井本英一著)のP66に、「日本でも古い形式の鳥居は、左右の柱の間に祭壇である平たい石が表面をだして埋めてある。」とあります。


佐々木さん
> 京阪八幡市駅前の観光案内所で「八幡まるごと味わい巡り」なるマップを頂き、開いてみると元の三の鳥居(神馬舎)の間に一個石がありました。これがその石では?現地でも確認。ご解決済みでしたらご放念下さい。

今日5月15日に京都へ参りました。京阪がやたら混雑、どうやら葵祭とぶつかったみたいでした。
石清水八幡宮で確認して来ました。
三ノ鳥居を入り、すこし行くと参道中央に平たい石がありました。
http://www.iwashimizu.or.jp/5/j/index.htm

神奈備別荘に写真をアップしました。本殿側から撮影です。

[5561] 追伸  縁MADOKA [Url] 2010/05/14(Fri) 11:02 [Reply]
↑のはこれやで
[5525] Re[5524][5523]: まどかさんへ。  神奈備

[5560] 伊作 トミ↓  縁MADOKA [Url] 2010/05/14(Fri) 10:54 [Reply]
みてやーーーーー
ホレ!!
神奈備さんが書いてくれたよー↓↓↓

なんやったんやーーー

[5559] Re[5554]: 「鳥居の間の石」他  神奈備 2010/05/14(Fri) 08:48 [Reply]
> トミの件 神奈備さんが書き込まれてますが・
> なんだったんですか?


[5523]
> 「とび」の地こそ、何かと話題になる巻向や三輪山に近いいんじゃありませんか。

[5524]
> とび はたしかになんかあるとおもってますが
まだ しらべきれてないですわ
どなたか?書き込んでくれればいいんですが・・・


[5525] は、上記を受けて書いたつもりですが、勘違いだったのかな。

これを調べているおかげで、長髄彦の古墳?が出てきました。よかった。

[5558] あははー。  伊作 2010/05/14(Fri) 07:11 [Reply]
彼は、前原=伊都国偏重型の九州北部説を叫ぶひと。私がタコ扱いしてる一人です。
ガラにもなく、ウィキィペディアをいじってまでブロパン(プロパガンダ)しているようですね。


私は、徒党を組まず誰にも与せず、畿内説にも九州北部説にも苦言を呈するひと。
孤高の正統派を自認しています。宣伝しにきたわけではないので・このへんで。

[5557] これちゃうんかいな!?  縁MADOKA [Url] 2010/05/14(Fri) 01:17 [Reply]
http://www.d7.dion.ne.jp/~sekai/wiki.htm#.E9.82.AA.E9.A6.AC.E8.87.BA.E5.9B.BD

縁MADOKAの直感一発!!

[5556] Re[5555]: 無題  縁MADOKA [Url] 2010/05/14(Fri) 00:32 [Reply]
> ただし、いまスッキリ改装準備中なので、もうしばらく・おしえなーい。

クソーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

不完全燃焼じゃーーーーーーーー

伊作さんこういう玉も投げられるのね!
感動したわ!!

手薬煉引いてまっておる!!
結構みんな・・・・興味しんしんで覗いてます 絶対!!!!!

[5555] 無題  伊作 2010/05/13(Thu) 23:25 [Reply]
>ビジュアル的にわかるものはないでしょうか?
あります。

>サイトとか?
あります。

>お勧め本とか?
ありません。私は、邪馬台国・卑弥呼を論じた本は読まないことにしています。
信用がおけないから。
客観的に解説した先生のの本だけよみます。

私のサイトは、詳しい説明図つきで公開しています。
yahooのカテゴリ検索にも掲載されているし、誰かがウィキペディアのリンクにも乗せてくれています。
「小細工解釈や不正解釈をせず、歴史に誠実で正直」がモットーですから。

ただし、いまスッキリ改装準備中なので、もうしばらく・おしえなーい。

[5554] 「鳥居の間の石」他  縁MADOKA [Url] 2010/05/13(Thu) 23:08 [Reply]
現物をみてないんでなんともいえませんが・・
鳥居の真ん中でしょうか???
それなら・・・・・
神様が通られる場所を示していると思います
参道は本来一番真ん中は神様がお通りになるラインで参拝者はそのラインをはずして少し脇を歩むのが作法のはずです
本殿の中心線を守るというのは
密教の祭壇つくりにも非常に厳しく言われます

神様が通る場所を囲んで回るということでお百度石はあるとおもいます

伊作さんへ
有明海と熊本平野の古代地図とか?
ビジュアル的にわかるものはないでしょうか?
サイトとか?お勧め本とか?結構皆欲しいとおもってるとおもいますが??

トミの件 神奈備さんが書き込まれてますが・
なんだったんですか?

鏡は海のほうが関係あるんじゃないかとおもってます
天=海 凪いだ鏡のように太陽を反射する海面
中国での意味と日本の意味はイコールではないのではないか?と最近おもってますね 太陽信仰は難しい課題ですが・・・



[5553] Re[5552][5551][5550]: ごぶさたです  琉球松 2010/05/13(Thu) 11:41 [Reply]
 なるほど。。。ということは、応神と神功は後から上書き?されているって感じでしょうか。

となると、元々はやはり3姉妹、韓国済州島の女神も"日本から来た3姉妹"ですね。

[5552] Re[5551][5550]: ごぶさたです  神奈備 2010/05/12(Wed) 21:58 [Reply]
『延喜式神名帳』豊前國宇佐郡には、宇佐八幡宮として、八幡大菩薩宇佐宮神社、比賣神社、大帯姫廟神社が記載されています。大仏開眼や和気清麻呂に託宣したのは八幡大菩薩宇佐宮神社の神だったのでしょう。

 この頃にはまだ応神天皇が祭神ではなかったのでしょう。大帯姫廟神社は神功皇后を祀っていたのかどうか良くわからない頃でしょう。八幡と皇后との関係はそれほどでもなかったのでは。

> 皇后が "出産を遅らせた"って。

 聖君主の誕生は奇瑞と共に・・

[5551] Re[5550][5545][5542][5541][5539][5538][5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  琉球松 2010/05/12(Wed) 13:54 [Reply]
追記

宇佐の祭神の一人、皇后が "出産を遅らせた"ってどういう事なんでしょうか?
「ワタ・ハタ(秦?)」は宮古島方言の「バタ・パタ(腹)」とも繋がりますね。

[5550] Re[5545][5542][5541][5539][5538][5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  琉球松 2010/05/12(Wed) 10:55 [Reply]
神奈備さん、どうもです。

「ワタ」は、琉球方言では腹全体を意味しますから、子宮との関わりもあるかもしれませんが、本土方言では内蔵をいうようですね。

[5549] 調子にのって追加。  伊作 2010/05/10(Mon) 22:02 [Reply]
『宋書』倭国伝に紹介されている武の上表書にこういう文言があります。
「率いる義士・勇士の力が戦の功績をもたらすためには、たとえ目前で白刃が交わされようとも顧みないところである」。

「たとえ目前で白刃が交わされようとも」ということは、王は戦場に出ても、白兵戦が展開するような場所にはいないということです。
将軍もそうですね。最後まで軍を指揮する必要がありますから、よほどの例外を除けば前線では戦わないでしょう。そういう人物が斧鉞を手に戦うというシチュエーションは、自陣深くまで敵兵が押し込んだということですから、ほぼ負け戦なわけです。

つまり、王や軍事指揮官が「武器」としての斧鉞を所持することはなかったのではないでしょうか。彼らが手にする斧鉞は、その人物の権限を象徴するツールだったと思います。
そう考えた場合に、わが国の古墳から出土する鉄斧もまた、その被葬者が一定規模の兵団を率いた軍人だったと考えることもできます。

めずらしく推察まじりに書きました。

[5548] またやった。  伊作 2010/05/10(Mon) 19:05 [Reply]
軍旗違反者ではつうじませんね。軍規違反者です。

ついでに。
神武皇后が斧鉞を手に全軍に檄を飛ばすシーンがありますが、
あれも、「命令に従わない者は処罰する」という決意ですね。

将軍を任命するとに印綬を与えたり斧鉞を与えたりで、
軍事システムまで中国にならっていたわけです。

[5547] 無題  伊作 2010/05/10(Mon) 18:48 [Reply]
>劉盆子は、秦始皇帝以来、歴代の皇帝が受けついで所持していたといわれる伝国璽を返上した。
これは先に少し書きました。
もともとは、夏・商・周代には鼎を法統(王朝の正統な継承)を象徴する礼器とした。
秦の始皇帝が正統性を欠いていたために9鼎は失われ、それ以後は御璽(印璽)を法統とした。

>ハン崇以下30余名の幹部は、更始帝が所有していた七尺の宝剣と玉と璧を献上した。
>この剣、玉、璧の三者が日本の三種の神器とどんな関連があるか?
「玉と璧」という表現は少しへんですね。玉でつくった壁のことでしょう。壁とは玉器の一つで、扁平ドーナツ状の宝器です。
『史記』魯周公世家に面白いシーンがあります。
周王朝を開いた武王(發)が病に倒れたとき。彼の実弟の旦(周公旦)が、古公亶父(太王)、季歴(王季)、昌(文王)父祖三代の祭壇を設け、天子を象徴する神宝の璧を抱き、天子が諸侯に国を封えらるときに授ける圭を手に、三者の霊に向かって發の命乞いをします。ここでは壁は天子を省庁する宝器の一つとして登場します。
 いずれにしても、「七尺の宝剣と玉璧を献上した」ことと、鏡と剣と玉璽を三種の神器とすることと異質ですね。時代的にもそぐわないようです。

>ついで鉞は武器
これは明らかに違います。「斧鉞」は時代と所持する人間の位階によって金だったり青銅だったりもします。これは、軍事指揮官に与えられるもので、軍旗違反(とくに命令に従わない者)を独断で処罰する絶対的な権限を意味します。一旦戦うことを命じられた者は、生き残るには戦って勝つしかないわけです。この軍事システムも『日本書紀』に登場しますね。


私の論考から引っ張って紹介します。中国の歴史・伝統・制度・作法・信仰精神などを知れば、書いてない行間が饒舌に語ってくれます。

継体天皇は物部麁鹿火に磐井の討伐を命じたあと、斧鉞を手にとって麁鹿火に授けていった。
「長門以東は朕が制す。筑紫以西は汝が制し、賞罰も専行して煩頻に奏すなかれ」。
(長門より東は私が制する。筑紫より西はお前が制し、賞罰も独断で行ない、いちいち報告しなくてもよい)。
▼ 賞罰の「賞」 とは軍功者の報奨・昇進(中国でいう封拝)。この一文によれば、天皇の許可なくこれを独断で行なう専断権を授けたことを意味する。
▼賞罰の「罰」とは、命令に従わない者・軍旗違反者を処罰することである。これも独断でできる権限を授与している。その印しが斧鉞である。斧鉞を授けたことは部下の生殺与奪の権限を与えたわけで、全軍に対する絶対的命令権を授けたことを意味する。
▼「長門以東は朕が制す。筑紫以西は汝が制し」は、戦地となる筑紫以西に関する全権を将軍に委譲することである。「制する」とは「統制する」という意味で、断じて統治するという意味ではない。
▼「煩頻に奏すなかれ」は「いちいち私の許可を得ることなく独断でやってよい」という意味だが、戦場にあっては、「将軍は天子の命令をも退ける」というほどの極限状況にある。九州の戦地から都の天皇に上表して指示や許可を仰ぐ暇などないわけで、これは至極当然の許可措置である。

この一連の文言の意図するところは、物部麁鹿火に心おきなく軍務(磐井の討伐)を遂行させるための方策である。こうした専断権の委譲は中国でも古くから見られる。
(この一文を「継体天皇と物部麁鹿火の二人で東西の支配を分けたのだ」という人がいたら、それはまさに、私のいう「間違った解釈を論拠とする手法」で、「そういう解釈に基づいて語られる歴史」には警戒しなければならない)。

物部麁鹿火が磐井を討ったあと、磐井の息子の葛子は父に連座して誅されるのを恐れて、糟屋の屯倉を献上することで死罪を免れることを求めた。結果として葛子は筑紫君を名乗り生きのびている。『日本書紀』のいう「父に」「連座して」「誅されるのを恐れて」とは、どう見ても王朝同士の戦争や戦いではない。何よりも、これが九州と大和の王朝間の戦争であれば、敗れたほうは一族誅滅・国土没収が相場。すなわち王朝の滅亡である。だが磐井の場合は、領土の一部割譲だけですんでいる。これは、もともと天皇家に連なる者の「内輪の確執」だったからこその処置である。(九州には「なになにの君」というのが多いが、これは天皇家から分かれた豪族が名乗った)。

磐井の一件を「九州と大和の王朝の戦争だ」という人がいたら、その人の語る歴史もマユにツバをつけて眺める必要がある。

[5546] Re[5544]: 太陽信仰の存在はいかに。  とみた 2010/05/10(Mon) 10:26 [Reply]
伊作さん 初めまして

本格的に勉強されておられるようで、非常に参考になります

私も古代史駆け出しですが、いろいろ考えあぐねております

三種の神器と道教と鏡について、大いに関心があります

私の少ないネタを出しますのでご検討ください。出典を添えます。

返答ができないときは、それ以上ネタ切れということでご容赦願います。

@三種の神器について、古代中国の反乱 福井重雅(教育社)から引用

中国の内乱 王莽の新から後漢光武帝に変わる時代。

建武3年(27年)赤眉軍が光武帝に降伏した。劉盆子は、秦始皇帝以来、歴代の皇帝が受けついで所持していたといわれる伝国璽を返上した。それと同時にハン崇以下30余名の幹部は、更始帝が所有していた七尺の宝剣と玉と璧を献上した。この剣、玉、璧の三者が日本の三種の神器とどんな関連があるか?

A日本では三種でなく二種ではなかったかという説もありますね。
690年持統天皇の即位のときは忌部氏が剣と鏡の二種を献上している。
文献で見られる神社の最初の建物は持統天皇の690年だそうです。伊勢内宮で遷宮が行われた(菅谷文即先生)。

伊勢神宮の神職は元々は度会氏で忌部氏の系統でしょう。度会氏は阿波忌部氏の祖神の天日鷲命を祀っている。

そこへ中臣氏系の荒木田氏が内宮に割り込ませている。荒木田氏は天武時代から伸してくるようです。

中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わったとする考えがあるようです。中臣氏は

各地の豪族の神事を取り込んでいるのではありませんか。壱岐氏の亀卜を取り込んだり、伊都県主の五十ト手の鏡・玉・県も採用したり、日奉部の太陽信仰を採用したりして神祇官の位を高めています。日奉部は古くは高皇産霊尊の子孫と称する大伴氏の配下です。アマテラスも中臣氏・不比等ー持統天皇のラインで持ち込まれたのでは。此れも各地の豪族の太陽信仰をパクッタ。桓武天皇は各地ではやっていた殺牛儀礼を取り込み王権を強化しました。

B玉は曲玉など、弥生時代後期ののたとえば丹後の赤坂今井墳墓の女王は巫女でたくさん玉を首飾りや腕輪につけます
C中国の玉は遼寧の数千年前の紅山文明時代にすでにあります。
中国南方の江南の地にも紀元前2000年前の良渚文明があり玉文化が盛んです。
当地の学芸員の話では、祭政一致の時代でした。

まず玉そう(王宗)が、ついで玉鉞が最後に玉璧が造られたのだそうです。
王宗は宗教=政治が初め、ついで鉞は武器、最後の璧は金=経済の順番です。経済と政治と軍備です。

D玉は魂で魂消るは身体から魂が消えると病気になるというのがアニミズムの世界の考えです。中国の漢代の王や貴族の死体には金や銀の玉で覆われた玉衣がつけられています。邪気の出入りを防ぐためでしょう。

以上思いつくままに書きました。






> はてさて。天照大神なる神が登場する以前の倭人は、いったいどんな神を信仰していたのでしょうかね。やはり、北斗の天帝・四神・日輪のカラス・月輪のかえるでしょうか。

[5545] Re[5542][5541][5539][5538][5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  神奈備 2010/05/10(Mon) 08:17 [Reply]
> 「八」は聖数でいいとしても「幡」には「"ワタ"(海神宮)」の成分があるように思いますがどうでしょうか?

 初期に宇佐八幡宮を祀ったのが辛島氏、この氏族は秦氏の枝族のようです。秦がパタ(海)との説がありますが、連動しているのかも知れませんね。

[5544] 太陽信仰の存在はいかに。  伊作 2010/05/09(Sun) 23:39 [Reply]
>勾玉は縄文時代からの重宝がられていたようです。
縄文以来の呪具・装身具の勾玉が、4世紀に成立する三種の神器になっているところが「???」なわけです。『日本書紀』の創作でしょう。本来は玉(ぎよく)か玉璽のはずですからね。

>須玖岡本から出た鏡に「光輝象夫日月」との銘文があるそうです。
銘文の内容からみて、天師道・道教とは別次元の、中国支配層の信仰精神のようです。「(鏡が)光り輝く象(かたち)は夫れ日月」とでも読むのでしょうか。太陽信仰とは無関係に、鏡の形と輝きを日月にたとえた文面のようです。

>大神の像を映すものを造って
これも鏡が太陽信仰を投影とたものではなく、太陽の姿を写す鏡という程度の文章のようです。

>鹿の皮を丸剥ぎにして鞴を造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。
鏡面を鹿の皮で磨いて、みごとな明鏡をつくったというのでしょう。これも「日前神」とありますから、鏡そのものを神格化したようで、太陽信仰とは結びつかないとおもいます。


はてさて。天照大神なる神が登場する以前の倭人は、いったいどんな神を信仰していたのでしょうかね。やはり、北斗の天帝・四神・日輪のカラス・月輪のかえるでしょうか。

[5543] Re[5540]: 鏡と太陽信仰  神奈備 2010/05/09(Sun) 21:27 [Reply]
 伊作さん、道教のこと参考になります。

> 青銅器を地下に埋めることは、土地の神・地下の鬼神を鎮め邪気をはらうと信じられていたようです。

青銅器についてはおっしゃる通り埋めると言うことがなされていますね。
 殷鐸を長江を渡った江南の要所要所に埋納。南方への呪鎮。苗族と楚は銅鼓をそれに対抗して埋めているようです。日本では甕がその役割をしたのでしょう。


>『日本書紀』が、途中で勾玉に変えたのではなかったでしょうか。

 勾玉は縄文時代からの重宝がられていたようです。三種神器のうち、鏡と剣は公権力としての天皇に、勾玉は天皇家の家長として継がれてきたとの説がありました。


> 倭人独自に鏡を太陽とみなすような記録があるのでしょうかね。

 鏡とは太陽や月をかたどったものとするのは、須玖岡本から出た鏡に「光輝象夫日月」との銘文があるそうです。日を迎える行事に使われたものと思われます。平原遺跡からは42面の鏡が出ており、日向峠との関連から太陽との関連が推測できそうです。

 記録と言えるのかどうかですが:−
 『日本書紀』巻一第七段一書第一
 天照大神は天の岩屋に入り、磐戸を閉じたので、天下が真っ暗になった。そこで思兼神の智恵で、大神の像を映すものを造って招き出すことになった。そこで石凝姥を工として、天香山の金を採って、日矛を造らせた。
 また鹿の皮を丸剥ぎにして鞴を造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。
 文字が抜けているような文章ですが、「これを用いて造らせた神」とは鏡のことだと思われます。

『日本書紀』巻一第七段一書第二
乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡。中略。此即伊勢崇秘之大神也。

 鏡作部の遠祖である天糠戸に鏡を造らせた。中略。これが伊勢にお祀りしてある大神である。

[5542] Re[5541][5539][5538][5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  琉球松 2010/05/09(Sun) 09:16 [Reply]
神奈備さん、とみたさん、佐々木さん、ありがとうございます。

そもそも、これは「ハチマン」なのか「ヤハタなのか。。。「八」は聖数でいいとしても「幡」には「"ワタ"(海神宮)」の成分があるように思いますがどうでしょうか?

[5541] Re[5539][5538][5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  佐々木 2010/05/08(Sat) 21:32 [Reply]
 なおついでございますが、石清水八幡宮はケーブルから上がるとまず鳥居があります。さらに進むと少し隠すように右手の三女神社がありますね。
 隠しているのは左手の公衆便所との関係でしょう。
 18世紀の絵図(八幡山上山下惣絵図⇒これは八幡市民図書館の階段に大きく引き伸ばして展示されていました)では、三女神は見つかりません。
 御本殿内に1社(解読できず)、御本殿周囲に今若宮、貴布祢、稲荷、南宮、夷、三良殿?、百太夫?、住吉、地主、龍田、三輪、阿蘇、上高良、若宮、若宮殿、水若宮、祇園、解読できず、大将軍、一童、子守社となっていました。
 なお現南総門前の参道に「五つ石」が見えました。その名のとおり五個石が並んでいます。「五つ石」は寛延五年の絵図(石清水八幡宮境内全図)にも出ていました。
 ご参考までに。

[5540] 鏡と太陽信仰  伊作 2010/05/08(Sat) 20:51 [Reply]
背景にあるものをきちんと提示して何かをいおうとすると長くなります。
論拠は用意してありますが、膨大になるので端折って事実だけを述べます。

ご存知のように、倭人の鏡信仰も源流は中国にあります。中国の鏡信仰は古くかにあるものと、後漢末に成立した張陵の天師道に起因するものがあります。
この天師道が張陵の子の張衡に継承され、張衡の死後、漢巴に古くからあった巫鬼道の巫士だった張脩に取り込まれた「五斗米道」と呼ばれます。
この張衡の子の張魯が張脩を攻め殺して天師道の教団を奪還しますが、体制派からは相変わらず「五斗米道」と呼ばれたり、邪教扱いされて批判的に「鬼道」と呼ばれることになります。

やがて4世紀末ごろになると、これが体制内宗教の道教へと昇華することになります。

●鏡の用途は2種
1. 神宝(神器・祭器)/中国において鏡を神霊視する意識はかなり早い時期から現われ、帝王権力を象徴する玉鏡、天鏡、金鏡がある。
2. そのほかに、悪鬼を駆除し災を回避するための道具としても使用された。こうした、銅鏡を「邪を払う」「神に会う」「仙人になる」呪具とする信仰は道教の中に継承されることになる。(呪具としての鏡は主に死者に副葬されるもので、これを明器という)。

●神宝と明器の材質の違い
1. 神宝ととしての鏡は鉄鏡や白銅鏡や鍍金鏡などがある。『曹操集』には天子クラスが使用した鏡は金象眼の鉄鏡、妃は銀象眼の鉄鏡とあります。倭人の場合は、神器として登場する鏡はすべて白銅鏡ですね。
2. 明器としての鏡は青銅鏡です。青銅器を地下に埋めることは、土地の神・地下の鬼神を鎮め邪気をはらうと信じられていたようです。

神器や祭器として扱われる鏡や剣の場合は、埋められることなく生者によって伝世所有されます。現実問題として、貴重な神宝を死者が出るたびに副葬していたのでは幾つあっても足りません。

●弥生人は鏡と剣の二種を神宝としていた
実は、張魯の天師匠道は鏡と剣を二種の神宝としていました。
「道教神学において、最高神である天皇大帝は、その宗教的神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。鏡と剣とがそれであり、神器という言葉も道教の経典でなどにその用例が見える」(福永光司)。
中国社会科学院歴史研究所教授の王育成氏によると、鏡、剣、印が道家の三宝としたといいます。中国では、夏・商・周代には鼎を法統(王朝の正統な継承)を象徴する礼器としました。秦の始皇帝が正統性を欠いていたために9鼎は失われ、それ以後は御璽(印璽)を法統としました。『日本書紀』には三種の一つが玉や勾玉ではなく、璽符・璽・璽印・璽綬・神璽といった表現で何度も登場しますが、これらは「玉の印璽」と判断して良いでしょう。
思うに日本では、三種の神器が成立した当初は道家の三宝と同じく鏡・剣・印璽だったものと思われる。これが8世紀に成立した『日本書紀』が、途中で勾玉に変えたのではなかったでしょうか。

福永光司によると、4世紀ごろ儒教を取り込んで道教が成立するときに、儒教の神宝の「玉(タマではなくギョク)を加えて三種の神宝とたとあります。道家の三宝の印とは玉印を指すのかもしれません。いずれにしても、日本列島に三種の神器の概念が伝わるのは道教が伝わる5世紀ごろでしょうから、まさか、弥生の墳墓から出る色んな副葬品の中から、鏡と剣と勾玉だけをつみねあげて「三種の神宝がでた」なんていうは欺詐か歴史錯誤なわけです。

●明器としての鏡と剣
天津社会科学院教授の王金林氏によれば、墓に副葬された道教的呪具の中で、玉は不朽で永遠に存続する、銅鏡は神仙と会い悪魔を制御する、剣や刀は仙人になるために機能するのだといいいます。
さらには、銅鏡を被葬者の左右に置く「日明鏡」、銅鏡を前後左右に置く「四規鏡」は、神仙と会い悪魔を制御し、俗から離れて仙人になる目的を達成するのだそうです。
棺の中に置かれた鏡の配列にも意味があるということです。

中国でも銅鏡が明器として扱われています。身分や男女の区別なく副葬され、一人一面だけでなく複数の場合もあります。一つの鏡を2つに割って、二人別々の棺に納められていた例もあるといいいます。
また、鏡に関する故事も幾つかある。「破暗取明」は、暗い墓室の中にあって死者のために光明を取る意味である。「破鏡重円」は、生き別れた夫婦が再び会えるように、鏡を割って割り符のように持ったことに由来する。
割られた鏡にもそれなりの意味があるわけです。


さて。中国では、神器・神宝・祭器として使われた鏡に「太陽信仰」をみませんが、倭人独自に鏡を太陽とみなすような記録があるのでしょうかね。
私の知るかぎりでは、鏡信仰の発祥地である本場では、北斗の星(天帝)が最高神で、太陽信仰は日輪の中にいる三本足のカラス(月輪の中にはヒキガエル)です。

[5539] Re[5538][5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  神奈備 2010/05/08(Sat) 20:06 [Reply]
> 瀬戸内海の姫

 琉球松さん、とみたさん、問題提起への挑戦ありがとうございます。

 西から言えば。
 姫島の比賣語曽社の比賣語曽大神(赤留比売神?)、厳島の市杵島姫、難波の姫島の阿迦留姫命、それから姫路の沖の 伊刀島諸島の神島や上神の神々が思い浮かびます。宇佐八幡の女神は三女神社から行ったとか、御許山に三本の石柱があるとかで、三女神が有力な候補ですん。

[5538] Re[5537][5535][5534][5531]: ごぶさたです  とみた 2010/05/08(Sat) 16:20 [Reply]
>  宇佐八幡宮の祭神は瀬戸内海 "姫" だと考えられますが、鶴岡八幡宮もそうでしょうか?

古代祭祀のコンビは
律令・奈良期は、出雲大社ー大神神社ー伊勢神宮
平安前期は 宇佐神宮ー賀茂神社ー伊勢神宮
平安中期は 石清水八幡宮ー賀茂神社ー伊勢神宮

宇佐はご承知のように、応神、姫(比売)・神功 
姫は宗像三女神か豊玉姫か玉依姫か

石清水八幡宮も平安京の王族と貴族を守るお宮なんでしょう。宇佐から勧請。
祭神は、応神、比メ、神功

鎌倉の鶴岡八幡宮はは石清水八幡宮を勧請。こちらは武士の源氏の氏神で守護神。
祭神は応神、比売、神功



[5537] Re[5535][5534][5531]: ごぶさたです  琉球松 2010/05/07(Fri) 20:29 [Reply]
 宇佐八幡宮の祭神は瀬戸内海 "姫" だと考えられますが、鶴岡八幡宮もそうでしょうか?

[5536] Re[5535][5534][5531]: ごぶさたです  佐々木 2010/05/06(Thu) 21:34 [Reply]
 とみたさん

 ご無沙汰です。お元気そうな語り口、何よりのことです。
 誠に申し訳ないのですが、最近は近世文書を主に見ていて、何も勉強していません。私は裏日本です。
 さて古代の○○氏というのは、血族集団なのか、どこそこの集団程度の意味合いなのか悩んでいます。私の感覚では後者かなと思っております。大伴氏や中臣氏に氏をつけるのが正しいのが、現代の感覚では大や中が集団名なのか、伴や臣が役割的?称号?かなとも悩んでおります。意味のないことかもしれません。さらに当時の地域別の推定人口にも関心がありますが。
 実は石清水八幡宮さんは、近江源氏の関係で定期的に訪問しております。
 今は少し椿井文書に関心がありまして、京田辺の息長氏は椿井氏創作だとか。
 ぼちぼちぼちです。
 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/b_tubai_b.htm

[5535] Re[5534][5531]: ごぶさたです  とみた 2010/05/06(Thu) 09:07 [Reply]
打キーしてから確かめるとまた違っていた。送信前に確かめれば良いのに、まさかと思ってね。何時もの失態です。

岩清水神功・・・石清水八鰻宮です。

毎度毎度のミスです。

嘗てケーブルで登りました、宇佐八幡宮から勧請。

関東は鶴岡八幡宮です。今年、強風で神木の銀杏の巨木が倒れました。一ヶ月前に訪れたら若木に植え替えられて居ました。

時代は変わる。

[5534] Re[5531]: ごぶさたです  とみた 2010/05/06(Thu) 08:56 [Reply]

佐々木さん
お久しぶりです。最近お出ましになりませんので、心配しておりました。
> 皆様御無沙汰であります。
>  新緑の季節を迎え、少し体調が戻りつつあり、少しお邪魔致しました。
>  相変わらず冴えないことをぼちぼちと勉強しています。まあ私の場合、青草というより枯草です、いや立ち枯れですが。

京都八幡と聞いて岩清水神功と淀川を思い出します。8年も住んだ枚方樟葉の隣です。この近辺にお住まいのようで、また佐々木さんの語りを楽しみにしております。
日置氏の謎では大変お世話になりました。

目下、中臣氏にかなり拘っています。

私は千葉県に居ますので。鹿島とか市原と鎌足の関係を調べています。

鎌足の母は大伴夫人、大伴クイの娘、智仙姫と中臣御食子の間で鎌足が生まれた。

大伴齧子は鹿島の豪族の娘で智仙姫の母??

お知恵拝借します。

[5533] Re[5531]: ごぶさたです  神奈備 2010/05/05(Wed) 20:30 [Reply]
佐々木さん ご無沙汰です。

> これがその石では?現地でも確認。ご解決済みでしたらご放念下さい。

 石清水とは川の向こう側の山崎聖天に行きましたが、ここにも無いようです。それ以後、噂にも聞きません。


> ゆえに水害のときはまず拝殿が流失する可能性が高いのでしょう

 伝承に、「上流から祠が流れ着いたので、そこで祀った。」と言うのが散見できます。拝殿が流れて来て。わざわざ拾って祀ることは無かったのでしょうね。

[5532] Re[5530][5529][5528][5526][5522][5507]: 豊中歴史懇談会  神奈備 2010/05/05(Wed) 19:58 [Reply]
> その太陽信仰の拡大も、北部九州から始まったと考えていいのではないでしょうか。

 太陽信仰の象徴は鏡であると言うことは正しいと思います。日本での初期の鏡と言えば、前漢鏡、弥生中期のもの、これは九州北部から集中的に出ています。最初に北部九州に伝達したのでしょう。日向がつく地名もありますし。

 弥生後期になれば、関東までの広い地域から漢・魏の鏡が出始めるようです。各地がそれぞれ半島・大陸との交易ルートを持ち始めたのでしょう。

[5531] ごぶさたです  佐々木 2010/05/05(Wed) 10:52 [Reply]
皆様御無沙汰であります。
 新緑の季節を迎え、少し体調が戻りつつあり、少しお邪魔致しました。
 以前神奈備さんが、「鳥居の間の石」のことを述べられていたようにと思います。京阪八幡市駅前の観光案内所で「八幡まるごと味わい巡り」なるマップを頂き、開いてみると元の三の鳥居(神馬舎)の間に一個石がありました。
 これがその石では?現地でも確認。ご解決済みでしたらご放念下さい。

 この石が最近では多くの神社では「お百度石」として継承されているのではなかろうかというのが今の疑問です。
 ついでに八幡市街を散歩して、麓の善法律寺にて、江戸時代に以前移築された石清水八幡宮の本殿を見てきました。素朴な桃山様式で風格のある建築物でありましたが、山上よりご利益ありのようにと思いました。
 古いお話ですが、参道と拝殿の関係を尋ねました。
 参道は基本当時の水(河道)の流れにほぼ平行で、拝殿は水系の上流が多いことがわかりました。ゆえに水害のときはまず拝殿が流失する可能性が高いのでしょう。16世紀以降の建築の場合は例外あり?

 相変わらず冴えないことをぼちぼちと勉強しています。まあ私の場合、青草というより枯草です、いや立ち枯れですが。

[5530] Re[5529][5528][5526][5522][5507]: 豊中歴史懇談会  琉球松 2010/05/05(Wed) 09:38 [Reply]
銅鐸を銅鏡に再生したのは、観念的にも必要だったでしょうね。
太陽は誰も所有できませんから、この宗教転換?によって、土地の取り合いや水争いは減ったはずです。

その太陽信仰の拡大も、北部九州から始まったと考えていいのではないでしょうか。

[5529] Re[5528][5526][5522][5507]: 豊中歴史懇談会  神奈備 2010/05/04(Tue) 11:38 [Reply]
> 大乱終息後に銅鏡製造に転換されたとすると、これはもう失業保証政策でしょうかね?

 大和からの銅鐸の発見数が少ないのは、銅鐸を鋳なおして、鏡に作り替えたと云われています。今の都市鉱山というのか資源再利用ですね。

[5528] Re[5526][5522][5507]: 豊中歴史懇談会  琉球松 2010/05/03(Mon) 12:11 [Reply]
追記

「唐古・鍵遺跡」も北部九州から入ってきた物部勢力でしょうから、銅鐸製造に携わっていたでしょうか。
大乱終息後に銅鏡製造に転換されたとすると、これはもう失業保証政策でしょうかね?

[5527] Re[5526][5522][5507]: 豊中歴史懇談会  琉球松 2010/05/03(Mon) 09:13 [Reply]
弥生後期には、東北会津から沖縄諸島まで、安定した社会が達成されていたと思います。
各地の河川下流域や潟湖などには人々が集い、女達は安心して土器の移動ができたのではないかと。。。
大乱は終息し、"あちこちの『クナ国」" も連合体の一員となったでしょうし、銅鏡の普及範囲とも重なります。

この古墳時代前期までの穏やかな時代、奄美沖縄では『アマユ(甘世)」と呼ばれていたはずで、男性中心社会となるイリ王朝以降はたぶん『ニガユ(苦世)」。

[5526] Re[5522][5507]: 豊中歴史懇談会  神奈備 2010/05/02(Sun) 10:58 [Reply]
> 近畿地方は大陸から遠いこともあって、比較的後進地域だったと考えていいのではないでしょうか。

 畿内の遺跡として思い浮かぶのは

池上曽根遺跡 弥生中期 紀元前

唐古・鍵遺跡 弥生中期から古墳後期 など

 弥生初期には後進地域だったのかも知れませんが、弥生後半にはそこそこの力を持ってきているのではないでしょうか。

 大陸に近い九州南部や、台湾はどうだったのでしょうか。文明の進歩は大陸からの距離よりもその立地、例えば大きい川があり、平地があり、おだやかな気候であり、云々だと思います。

 30国を束ねた卑弥呼さんが、狗奴国との戦争で魏にうったえている事実があります。狗奴国が南九州とすると、それほどの戦力があったかどうかですね。度々匈奴に敗れる文明国、こう言う例もありますから、野蛮さには卑弥呼さんの呪術も通用せず、困ったものだと言う所かも。

[5525] Re[5524][5523]: まどかさんへ。  神奈備 2010/05/02(Sun) 10:31 [Reply]
> とび はたしかになんかあるとおもってますが、まだ しらべきれてないですわ、どなたか?書き込んでくれればいいんですが・・・

 どなたともうします。ご指名に応じ。

 紀の神武伝承の中で、金鵄が弓先にとまり、これで鵄村と名付けたと言う地名説話が載っています。奈良には幾つかの鳥見地名があります。

添下鳥見
 鳥養部の二字化とされています。式内社の登彌神社[トミ](奈良市石水町)が鎮座しています。この北の生駒市には富雄川が流れています。長髄彦の拠点。

宇陀鳥見
 ここも鳥養部の二字化。『雄略紀』に、「鳥官の鳥が宇陀の人の犬にくわれて死んだ。天皇は怒って、顔に入れ墨をし、鳥養部とされた。」とあります。榛原町に鳥見山中霊畤の伝承地があります。


式上鳥見
 桜井市の南に鳥見山(旧外見山)があります。式内社の等弥神社が鎮座しています。式内の南方神社もあります。ここにもまた鳥見山中霊畤があります。 

葛下鳥見
 当麻町に鳥飼地名があります。富川があり、竜田川に流れているそうです。「磐城村史」には、富見社、富白庭山があるとしています。前方後円墳の鍋塚があり、長髄彦の墳墓と伝えられています。当麻町竹内字鍋塚です。

山辺鳥見
 石上神宮の東に相当行きますと滝本に行きます。ここに桃尾の滝や石上神社が鎮座しています。桃尾はトウビと読み、建国神話の霊畤の候補地になったことがあります。

[5524] Re[5523]: まどかさんへ。  縁MADOKA [Url] 2010/05/02(Sun) 05:06 [Reply]
<私は日本の関西人のドライさと「えげつなさ(失礼)」は、実は長江河口付近の人たちに近いものがあるように思います)。

γ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞγ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞγ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ

そうでっか( ´艸`)

近頃長江付近が気になるのは DNAなのね
( ´艸`)

なかなか興味深いないようでしたよ
<大和盆地とまったくの相似形をした立地構造
これはとくに興味を感じましたね
具体的にもっとしりたいですが・・

とび はたしかになんかあるとおもってますが
まだ しらべきれてないですわ
どなたか?書き込んでくれればいいんですが・・・


日本国の国防を支えてきたのは間違いなく九州でしょう
宇佐に頻繁に勅旨がいくのもそのせいだろうとおもいますね

私は丸木舟でひょいひょい来てた頃に興味があるんですわ
渦に守られた 守りの堅い良港 難波津とね

伊作さんの話で 大阪人と九州人の関係をふと思い出しました
大阪で石を投げれば九州人にあたります
結構気はあうんだな
ただ ある大阪人がいってましたが 
ひとつものすごく違う点がある
九州人はこの国を守ってきたのは俺らだというすごい気概がある
あーいう感覚は大阪人にはとーていないわ!
なんせ 日本一弱い軍隊は大阪の八連隊 またも負けたか八連隊 歌にも歌われました 捕虜もばんばん逃がしたデ有名ですから・・

これも思うに 対外的な危機感に常に直面した九州と
渦に守られ 守りの堅い難波津の 数千年の歴史かしらんとおもいましたわ


[5523] まどかさんへ。  伊作 2010/05/01(Sat) 22:04 [Reply]
これは妄想の類いとさせてください。

私は『日本書紀』を集中して研究したことがなく「かじっただけ」です。
だからこそ、入れ込みすぎず傍目八目できます。その私にいわせれば、ニギハヤヒとナガスネが盤居した(のちに「とび」と呼ばれる)土地は、九州勢力の先遣部隊が構築した橋頭堡の一つではなかったかと見ています。

天の磐船に乗ってやってきた神武と、天の鳥船に乗ってやってきたというニギハヤヒは、互いの祖先が同じ系列であることを確認したあとで、ニギハヤヒは出雲の国譲りに似た無血開城をします。これは、ニギハヤヒの祖先に先遣開拓を命じたリーダーが神武の祖先だったからではないかと思うわけです。

「とび」の地こそ、何かと話題になる巻向や三輪山に近いいんじゃありませんか。

[5522] Re[5507]: 豊中歴史懇談会  琉球松 2010/05/01(Sat) 15:19 [Reply]
神奈備さんへ

近畿地方は大陸から遠いこともあって、比較的後進地域だったと考えていいのではないでしょうか。
いわゆる『邪馬台国」が北部九州から拡大していった連合体運動だとすると、奈良の大和政権も途中経過にすぎないように思いますがどうでしょうか? 銅鏡の普及も遅れてますしね。
ただ、崇仁の頃から政権の性格に変化があるようですが。。。

[5521] ご返答002  伊作 2010/05/01(Sat) 10:25 [Reply]
>日本海 越前海岸はおそろしく大陸に近い 真冬でも雪にはとざされない良港です
>地元民の感覚も朝鮮半島はほんそこ!真隣にある感覚ですわいまでもね
率直にいえば、日本海側への通交にも壱岐・対馬を通らざるを得ません。ここを通過しないで通交が可能になるのはいつごろからでしょうか。壱岐・対馬・長門・関門海峡・九州は、「沖の島」をヘソのように中心とした同心円状の「環玄界灘防衛監視ネット」ともいうべ有機的構造を構成していたはずです。そうするのが国家経営者の普遍の着想です。

関門海峡を絞っていた時代ですが、大和へ出入りするルートは日本海ルートを誰しも考えます。ところが、ルートの掌握は列島制覇という野望の要ですから、これを阻止する布石がしっかり打たれています。
●日本海側の陸海通交の要衝地に残る日置氏にゆかりの地名
○山口県大津郡日置町(長門)
○島根県出雲市朝山町日置郷。(出雲)
○福井県大飯郡高浜町日置(若狭湾)
○滋賀県高島郡今津町日置(若狭湾から琵琶湖への陸路の要衝)
○兵庫県篠山市日置(丹後半島からの陸路の要衝)
○京都府南丹市八木町日置(丹後半島からの陸路の要衝)
日置氏は古墳時代から実在が分っている九州の豪族ですが、もともとは「ひおき」だったものが日置の文字が当てられてから、地域によって「へき」や「ひき」などの読みに変化したようです。
日置氏は強大な勢力で大和朝廷の信任も篤かったらしく、要衝地を固めるために各地に配備されたようである。
※こうした地理的優位性が発生することから、九州勢力と敵対した勢力も多くはなかったものと思われます。誰しも自己の存続と繁栄を最優先するものだから、比較的早期から友好的に「先進文化のおこぼれ」を頂戴していた勢力や、もともと九州勢力の息の係った勢力が四国や瀬戸内にいたものと思われます。

>丸木につかまって流れていけば4時間で朝鮮半島にはつくんです
>季節風を利用すればもっと早いでしょう
私が子供時分には韓国からの密入国が頻繁に起きていました。そうした中で、手漕ぎの伝馬船の船底に10名ほど寝そびらせてやってきて、水際で捕捉されたことがありました。彼らは、ほぼ飲まず食わずで1昼夜でやってきたといっていました。倭人の緊急時の往来もその程度の時間で可能だったはずで、九州からソウル(帯方郡)まで行くのに1ヵ月もかかるようなことをいう人は、現実というものをまったく知らないか度外視してるのでしょうね。

また余談ですが。
長江河口あたりの漁民は現在でも、沖へ出て黒潮に乗れば簡単に九州に行けるというのだそうです。(上海万博のおかげで下町庶民の「風情」がちらちらと垣間見えますが、私は日本の関西人のドライさと「えげつなさ(失礼)」は、実は長江河口付近の人たちに近いものがあるように思います)。

[5520] ご返答001  伊作 2010/05/01(Sat) 10:24 [Reply]
古代におけ防衛構想は、天然の地形・立地構造を利用することですね。これは時代の成熟度というか、船舶技術・航海技術と軍事力(戦法や武器)の進歩によって左右される面もあります。この防衛構想に、半島と大陸との通交の利便性と風水思想を加えた3拍子がそろった王都にふさわしい立地は、日本列島には2ヵ所しかありません。そう断言できます。

一つは、史実が証明する大和盆地です。『隋書』が目撃した邪摩堆は、左巻き台風の風水害がすくない東高西低(東と北を山地が囲んだ地形)の吉地だったことを「特筆」しています。気象学を包含した風水思想に基づいていたことを指摘しているわけですね。(完全統一がなって内外の脅威が少なくなった平安な時代になると、もっとひらけた平地に候補地が広がります)。大和の都も天皇の好みによってそちこちに移転しましたが、ここから出た実例は、よほどの理由があった時だけでしょう。

もう一つは九州にあります。大和盆地とまったくの相似形をした立地構造です。「大和以前」を想定したとき、時代的にも船舶技術・航海技術の面からみても、半島や大陸との利便性が大和より高いことは一目瞭然です。

以下は、九州勢力の大和への引っ越しという仮定で書きます。
●なぜ引っ越したのか
列島の統一経営には、列島の中心部へ出る必要があったこと。また九州は、年に数度は台風という招かれざる客が訪問する土地柄であること。台風、河川の氾濫、水害も、当事者にとっては切実な問題で、台風の被害がより少ないところへの移転も、大きな政治課題であり政治選択の一つだったろうと思います。
しかし私は、九州から瀬戸内の奥への遷都の最大の理由は、やはり関門海峡と瀬戸内海という日本列島特有の地形にあるとみています。

この時代、中国勢力はすでに1000人規模の兵士を積む海洋船舶技術を手にしており、海を渡って侵攻される恐れが現実的になっていました。3世紀に魏の使節が乗ってきた大型楼船(大国の虚勢と体面からも最新鋭の楼船でやってきたと思います)をみた時点で、そのことを明確に認識したはずです。

その後の中国はさっぱり安定しません。
魏を廃して成った晋政府は、倭国にはさほど興味を示さなかったとみえて、266年の倭国の朝貢に対してどう対処したかには『晋書』も触れていません。むろん、親晋倭王と認証した雰囲気もありません。晋の武帝・司馬炎は帝位についたあとは色ごとに熱中して政治を顧みず、武帝のあとを受けた恵帝は暗愚で外戚(皇后方の人脈)の思うまま。そうしたことが引き金となって、290年代に入ると晋の有力王たちによる「八王の乱」が勃発して国内は騒然となり、やがて五胡十六国入り乱れての騒乱の時代へ突入します。

倭国としてみれば、この争乱状態ではいつ何どきに中国勢力が侵攻してくるかは分からない。そうした外来勢力に対する防衛構想上、玄関口の九州から離れたほうがより安全で、関門海峡と瀬戸内海に幾重もの防衛体制を敷いた奥の大和へ引越したのだと考えています。大小の島々が形成する複雑な海域での海戦となれば、海人得意のフィールドですからね。

●東遷は一日にしてならず
大和に倭国の政権拠点が出現したということは、政権中枢が畿内にあって九州・瀬戸内海を経営し、淡路島と本州とで形成する内海を経営する体力と体制が備わったことを物語ります。 これらが、大阪湾内の水郷地帯を開墾する水利・治水技術と労働力と、大古墳を造る土木技術をそなえた時期と重なるのではぁりませんか。

東遷とぃっても、現実には一人一代で実現できることではありません。 おそらくは何代にもわたって継続して実現した事業だったはずです。 遷都も地ならしを終えてから徐ろに実行するものですから、相当に早くから根回し・地ならし・平定・開拓の尖兵が進出していたものと思います。
唐戸・鍵遺跡出土の土器に描かれた男女司祭の復元をみると、あれは明らかに九州隼人です。私は、こうした弥生遺跡は地ならしと開拓のための先遣舞台の拠点だったものと見ています。

むろん、「山一つ隔てた東が毛人の国」というのでは安心して引っ越すことができません。まずは派兵して毛人勢力を関東以北に押し込め、開拓農民を屯田させて地ならしをはじめたところで、王都建設がはじまります。

そうした何代にもわたる長い経緯を、3世紀末には関東にも前方後方墳や前方後円墳が登場することで知ることができます。そうした墓制と、鏡と剣を重要な呪具とする信仰精神をもった勢力が、3世紀末には関東への進出・開拓・定着を果たし、安定収穫を実現していたことを物語りますからね。

3世紀の倭人と倭国の知と力のレベルと政治展開は、実に、これまでの文献史観・考古史観の認識領域を遥かに超えていたようです。

[5519] Re[5515]: まどかさんへ。  縁MADOKA [Url] 2010/05/01(Sat) 03:10 [Reply]
> 『倭人伝』が書いた「会稽東冶」とは、編纂担当者が倭人の文身のルーツだろうと踏んだ、かつての越の領域を指すようです。その会稽の地とされる現在の紹興市の周辺は、無数の天然の水路が入り組んだ水郷地帯です。これと非常によく似ているのが筑後川河口域の虫食い状態で走る天然水路です。
> こうした、船でも徒歩でも直進不能で、土地勘があっても迷いそうな土地を庭のように使い、手なづけて農地とした人たちは、体験知識かDNA記憶が同じだったのかも知れません。
>
> 古代における一級道路は河川と水路ですから、古くから栄えたところに大小の河川と水路が入り組んでいるものです。有明海を抱えた熊本平野と、大阪湾が眼前にひろがる大和盆地は、兄弟かと思うほどに立地的に相似形をしています。これがどういうことを意味しているのか、考えると面白いですよ。
>

これはなかなか興味深い話です もっと詳しく聞きたいですね
たしか 私の前調べたとき 非常に良く似てるなあとおもたのは
朝鮮半島南部ウガヤ アルカヤ 有明海と熊本平野 難波津と大和 
エジプトナイル川流域でしたね・・
????とおもったもののそのまま放置してましたが・・
興味のある人も多いとおもいますよ

> 日本列島の支配勢力の「黎明・揺籃・確立」の流れとストーリーは、『日本書紀』の神話に頼らなくても、九州勢力の「東遷(引っ越し)」でしか説明不可能だと思います。

そうでしょうな・・私は神武東征はあった 
もし大和がすべての発祥なら神武は畝傍山で生まれ 九州討伐に行くべきなんだとかねがねおもってます 

がひとつ下記の件は異論があります

> 関門海峡の通交を遮断した場合を想定すると、日本海側が表日本で、瀬戸内海側は裏日本と化すのが分かります。事実、そうした時期があったことを日本海側の遺跡・異物が証言しています。
> 瀬戸内の奥の大和が日本海ルートを使ったとしても、しょせんメインメートとはなりません。大和政権以降も瀬戸内海・関門か依拠ルートを使った史実がそのことを証言しています。

日本海 越前海岸はおそろしく大陸に近い 真冬でも雪にはとざされない良港です
丸木につかまって流れていけば4時間で朝鮮半島にはつくんです
季節風を利用すればもっと早いでしょう
地元民の感覚も朝鮮半島はほんそこ!真隣にある感覚ですわいまでもね

琵琶湖は小野氏 など 渡来系氏族の巣窟
日本最長の政権 藤原氏もここに根拠地がある(私は海人族は秦氏に吸収合併され 最後に藤原氏に吸収され 藤原氏が海洋民の覇者になったのが藤原政権の実態とみています・・・ちなみに 彦根城の井伊直弼は藤原北家の末裔です 彦根の駅前に不比等と井伊氏の関係をかいた碑がでーーんとあります)
琵琶湖は外国にもっとも近い湖なんです

&和歌山は黒潮ルートという外国との大きなパイプがある
この和歌山の紀ノ川河口は内海でありなら外海に直結した場所なんです
そして紀ノ川は吉野川として大和へ大和は大和川で難波津へつまり三川はくるっとつながるんです そして淀川で琵琶湖 日本海
つまり大和は 日本列島の中で水難がない人がすむのに最も適した一番大きな
盆地であり 黒潮ルートと日本海ルートの情報物流がもっともできやすい地なんです
だから 数千年都が奈良京都から動かなかった理由です
神武をそれをしって目的をもって東征したんですわ
もうひとつの神武東征の意味は
瀬戸内海ルートの確保ですわ
あのルートは九州四国中国地方と連合または安保条約がないと通れない
ホケまきむくからは岡山との連合がうかがいしれる
大和建国は瀬戸内海ルートの確保 西日本の統一連合をいみしてます

私はあまり邪馬台国にはいまいち興味がないんでものたらないかもしれません
私のずっとおもってるのは
なんでずっと 都が近畿なんや? なんで天下をあさめるものがこぞって難波津の上町台地北端を牛耳ろうと戦火をくりひろげたのか?
私は近畿中華思想ではなく どちらかといえば 地方に都があるほうがええやん派
なのになんで有史の記録上の都がずっと近畿なの???
戦国武将も実力があっても京都に遠いからという理由で天下とりに参戦できないのか
祇園祭りの船ぼこも外国文化のパレードですわ 山の中の海祭り
つらつらかんがえると
島国日本の天下をとるのに 安全で都市文化を築けて外国にもっともアクセスがいいのが
奈良京都なんですわ 全国とのアクセスもいいんです
海からみればね
近畿が力をなくしたのも 海のアクセスが重要視されなくなって落ちぶれたんですわ



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