[11347] 『傀儡子記』1 神奈備   2013年 3月10日(日)20時01分39秒
『傀儡子記』 大藏卿匡房卿

 著者の大江匡房は、長久二年(1,041)に文章道の大江氏(元は土師氏)の男として誕生した。役人として、荘園管理の任につき、備中、備前、美作、越前の国司・受領として蓄財に励んだ。太宰府権帥を四年つとめ、幾度となく京と九州を往復し、神崎・江口の遊女を始め、瀬戸内海、九州の遊女事情にも精通した。
 1106年以降、『遊女記』(舟で客をさそう)・『傀儡子記』(陸地の遊女)を著す。ここでは、『傀儡子記』を中心として、傀儡女について調べたことを書いてみます。

  後白河上皇は『梁塵秘抄口伝集』の叙述において、明確に遊女と傀儡子を区別しています。
 「斯くの如き上達部・殿上人は言はず、京の男女・所々の端者・雑仕・江口神崎の遊女・国々の傀儡子、上手は言はず、今様を謡ふ者の聞き及び我が付けて謡はぬ者は少なくやあらむ。」
 江口神崎は淀川・神崎川沿いの水辺にいた遊女を指し、国々の傀儡子とは内陸(美濃、東海道・山陰道等の陸の宿駅)にいた遊女を言います。

『傀儡子記』−−−
 傀儡子は定住しない者たちである。家はなく、テントを張って、水と草に沿って移動する。北方異民族の者たちに風俗は似ている。
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 傀儡子はジプシーに似ています。ジプシーは西暦1100年頃にギリシャ北東部のアトス半島に現れたとされており、傀儡子の方が古いような気がします。ジプシーが遙かギリシャから日本にやって来たとは思いにくい所です。


[11349]『傀儡子記』2 神奈備 2013年 3月11日(月)11時59分59秒
『傀儡子記』−−−
男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである。魚や竜、ウナギやミミズのような生態の者たちで、石を魔術で金銭に変じ、草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす。
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 騎馬民族や東北の蝦夷の風習に見えます。縄文の流れの中にいて、定着し稲作に励むタイプではない性質だったのでしょう。
 「石を金銭に変じ」は、金属精錬の技術があったのか、もしくは、「草木を鳥獣に変え」など、奇術のみせものや、軽業、また傀儡子からは人形回しなどが思い浮かびます。

[11351]『傀儡子記』3 神奈備 投稿日:2013年 3月12日(火)13時51分49秒

『傀儡子記』−−− 女は媚術を用い、ながしめを行い腰を折って歩き歯を見せて笑み、唇に朱、顔に白粉を施している。歌を歌い淫らで、妖しい媚を売る。旅客に戯れても、父母夫はそれを知っても戒めない。一夜の歓楽ではあきたらず、続けてこれを求める。自ら千金を献じて錦の服を作り、金のかんざし、螺細の櫛を挿す。実に異様の民である。
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 唐では、宮妓 官妓 家妓 民妓がいました。宮妓は外国賓客に踊りを見せる役割があった。日本では、内教坊妓女を置いた。また、官妓に代わって、太宰府では高級な遊行女婦を持ってきたという。これは傀儡子の女達です。
 遊行女婦の歌は万葉集にも載録されています。
0966 大和道は雲隠れたりしかれども吾(あ)が振る袖を無礼(なめ)しと思(も)ふな
大伴郷が太宰府を去る時に、見送る府吏(つかさひと)の中に遊行女婦(うかれめ)あり。其の字(な)を兒島(こしま)と曰ふ。兒島が詠った。官吏と立場が同等で、教養もあることが判ります。蔑視や賤の気はなかったようです。


[11352]『傀儡子記』4 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月15日(金)08時22分44秒

『傀儡子記』−−−
 田を耕すことなく、植物を採集することもない。よって県官には属さず、土地につい正民ではなく、自ら浪人の境涯に身を置いている。上に帝、宰相のあることを知らず、郡司などの官吏を恐れない。課役がなく、一生遊んで暮らす。夜は百神の祭りで、鼓を打ち、舞い、喧嘩し、もって福助を祈る。
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 時の最高権力者であった後白河法皇の所へ多くの遊女がやって来て、今様を唄ったのを記録したのが、『梁塵秘抄』で、中世の様子をうかがう素晴らしい資料となっています。
 例 女の盛りなるは 一四五六歳 二十三四 とか 三十四五 にし成りぬれば紅葉の下葉に異ならず (やはりAKBの年代が可愛い。紅葉の下葉とは大年増を意味します。昔は成熟・老化が早かったのでしょう。)

 百神とは百大夫のことです。遊女達が信仰しました。イメージは少女、遊女が使役する神で、式神などと同じようです。神像に針を刺し、男を連れてこい、連れてきたら抜いてやると言う脅迫信仰だったようです。道教的で、神に感謝する心はないのです。現代中国が他国に感謝の心を持たず、逆恨みの性根はこんな所に根ざしているのかもしれません。遊女・傀儡子の世界と同じく背徳的です。

 さて、傀儡子と言えば、傀儡舞が著名であり、豊前の八幡古表神社に傀儡舞や細男の伎楽を奏していました。細男の舞は、伝承では、安曇の磯良が長い海底生活から浮上した際、顔面に貝などが付着して醜悪だったので、白布で顔を隠して現れたことに由縁して、今でもそのようにして舞う。春日大社など。
 傀儡子や遊女の起源を渡来人とする説もありますが、安曇磯良からは海人系が想起されます。起源は一種類ではなく、巫女、宮廷の官女、没落貴族の子女、など、美人もしくは歌人、などの女性にもその職業につくチャンスとか運命があったのでしょう。

 傀儡子は男も含まれています。ここでは傀儡女を対象としています。傀儡女には夫がいます。夫は妻が他の男に売色をするのを嫌わないようです。夫はヒモだったのかも。


[11352]『傀儡子記』5 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月18日(月)09時18分39秒

『傀儡子記』−−−

 東国では美濃、三河、遠江に党があり豪華な暮らしをする。山陽では播州、山陰では但馬の党がこれに次ぐ。西海の党はこの手下である。傀儡の名は、小三、日百、三千載、万歳、小君、孫君などがある。
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 歌人で白河上皇の側近公卿藤原顕季(一〇五五?一一二三)が、「日詰めにて、墨俣・青墓の君ども数多喚び集めて、様々の歌をつくしける」と東海道の墨俣や青墓の傀儡女が多く上京して歌を詠っており、墨俣にも傀儡女がいることがわかります。

、鏡山にも傀儡女が家居していました。(『本朝無題詩』)。鏡山は滋賀県蒲生郡の宿駅で、『梁塵秘抄口伝集』には、「鏡の山のあこ丸」(後述)が著名。傀儡女が他の職種にも就いていました。鏡山のあこ丸が、主殿寮におり、神崎のかねは、待賢門院に仕えています。奉仕の内容は、今様を謡ういわば歌手です。

 平安中期から後期にかけて、朝廷や貴族邸宅に出仕する女房や女官は、夫やパトロンを持たなければ、安定した生活を送れなかった。院政期には、落ちぶれた貴族女性や女房たちを、貴豪族層の男性達に斡旋する「中媒」がおり、実質的な買売春が行われていました。遊女・傀儡女は、芸能と売春を業としましたが、女房や半物、雑色等も、出仕しつつ、同様な売春をしていたのです。けっして、遊女や傀儡女だけが特別だったわけではなかったようです。


[11353]『傀儡子記』 6 終 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月19日(火)16時20分33秒
『傀儡子記』−−−
 女たちの歌は、あたか古代シナの韓蛾のごとく、塵を動かし、その残響は 梁をめぐつて、聴く者の襟を涙で滞らしてやむことがない。歌うのは今様、 古川様、足柄、片下、催馬楽、黒鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満固、風 俗、咒師、別法などの類である。余りに多く数えられない。

 これは天下第一のものである。誰が感動せずにいられよう。
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 青墓(美濃)の傀儡 名曳(なびき)は仁平元年(1151)の『詞花和 歌集』に、
  はかなくも 今朝の別(わかれ)の 惜しきかな いつかは人を なが らへて見む
  ( 別れゆく人は 天寿をまっとうしてほしい 神奈備訳)
が載録されています。傀儡子は顔よりも、歌で好まれたようだ。

 『本朝無題詩』中原廣俊作
 千年芳契誰夫婦 一夜宿縁忽別離 賣色丹州容忘醜 得名赤坂口多髭
 容貌が醜いのも、口髭が生えているのも、芸さえあれば、傀儡子がつとま るという詩。參河國赤坂傀儡女には口髭があると言う。

 最後に、藤原雅経(1170−1221)の家集『明日香和歌集』から
 吾妻へ下るとて、あをはかの宿にて、あそびて侍りける傀儡、のぼるとて たづねければ、みまかりけるよし申すをききて。
 尋ねばや いずれの草の 下ならむ 名はおほかた 青墓の里
                              以上。



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