[11347] 『傀儡子記』1 神奈備 2013年 3月10日(日)20時01分39秒 | |
『傀儡子記』 大藏卿匡房卿
著者の大江匡房は、長久二年(1,041)に文章道の大江氏(元は土師氏)の男として誕生した。役人として、荘園管理の任につき、備中、備前、美作、越前の国司・受領として蓄財に励んだ。太宰府権帥を四年つとめ、幾度となく京と九州を往復し、神崎・江口の遊女を始め、瀬戸内海、九州の遊女事情にも精通した。
後白河上皇は『梁塵秘抄口伝集』の叙述において、明確に遊女と傀儡子を区別しています。
『傀儡子記』−−−
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[11349]『傀儡子記』2 神奈備 2013年 3月11日(月)11時59分59秒 | |
『傀儡子記』−−− 男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである。魚や竜、ウナギやミミズのような生態の者たちで、石を魔術で金銭に変じ、草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす。 −−− 騎馬民族や東北の蝦夷の風習に見えます。縄文の流れの中にいて、定着し稲作に励むタイプではない性質だったのでしょう。 「石を金銭に変じ」は、金属精錬の技術があったのか、もしくは、「草木を鳥獣に変え」など、奇術のみせものや、軽業、また傀儡子からは人形回しなどが思い浮かびます。 |
[11351]『傀儡子記』3 神奈備 投稿日:2013年 3月12日(火)13時51分49秒 | |
『傀儡子記』−−−
女は媚術を用い、ながしめを行い腰を折って歩き歯を見せて笑み、唇に朱、顔に白粉を施している。歌を歌い淫らで、妖しい媚を売る。旅客に戯れても、父母夫はそれを知っても戒めない。一夜の歓楽ではあきたらず、続けてこれを求める。自ら千金を献じて錦の服を作り、金のかんざし、螺細の櫛を挿す。実に異様の民である。
唐では、宮妓 官妓 家妓 民妓がいました。宮妓は外国賓客に踊りを見せる役割があった。日本では、内教坊妓女を置いた。また、官妓に代わって、太宰府では高級な遊行女婦を持ってきたという。これは傀儡子の女達です。
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[11352]『傀儡子記』4 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月15日(金)08時22分44秒 | |
『傀儡子記』−−− |
[11352]『傀儡子記』5 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月18日(月)09時18分39秒 | |
『傀儡子記』−−− |
[11353]『傀儡子記』 6 終 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月19日(火)16時20分33秒 | |
『傀儡子記』−−− 女たちの歌は、あたか古代シナの韓蛾のごとく、塵を動かし、その残響は 梁をめぐつて、聴く者の襟を涙で滞らしてやむことがない。歌うのは今様、 古川様、足柄、片下、催馬楽、黒鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満固、風 俗、咒師、別法などの類である。余りに多く数えられない。 これは天下第一のものである。誰が感動せずにいられよう。 −−− 青墓(美濃)の傀儡 名曳(なびき)は仁平元年(1151)の『詞花和 歌集』に、 はかなくも 今朝の別(わかれ)の 惜しきかな いつかは人を なが らへて見む ( 別れゆく人は 天寿をまっとうしてほしい 神奈備訳) が載録されています。傀儡子は顔よりも、歌で好まれたようだ。 『本朝無題詩』中原廣俊作 千年芳契誰夫婦 一夜宿縁忽別離 賣色丹州容忘醜 得名赤坂口多髭 容貌が醜いのも、口髭が生えているのも、芸さえあれば、傀儡子がつとま るという詩。參河國赤坂傀儡女には口髭があると言う。 最後に、藤原雅経(1170−1221)の家集『明日香和歌集』から 吾妻へ下るとて、あをはかの宿にて、あそびて侍りける傀儡、のぼるとて たづねければ、みまかりけるよし申すをききて。 尋ねばや いずれの草の 下ならむ 名はおほかた 青墓の里 以上。 |