青草 名草戸畔物語 「軍至名草村。則誅名草戸畔者。」

[2109] 青草名草史1  神奈備 2006/05/15(Mon) 21:56 [Reply]
 神武さんが大和に来ようとしたら長髄彦に妨害をされ、南へ回って紀州の名草邑につき、名草戸畔を誅したと『日本書紀』は語っています。
 また『旧事紀』には、神武さんは天道根命を紀の国の国造に任じたとあります。

 天道根命の名は『記紀』には出てこない影の薄い名ですが、物部の遠祖の饒速日尊が降臨したときに、「防衛として天降り供へ奉る」とされた顔ぶれの中に、川瀬造等の祖
として天道根命の名が見えます。川瀬造は近江の人ですが、『姓氏録』には紀直の祖として出ています。紀直とは紀の国で活躍した豪族です。紀氏には武内宿禰の裔の紀臣と言う中央で頑張った豪族もいます。

  さて、神武さんが大和に行こうとした時、磐船にのって大和に先に降臨した饒速日尊がいたのです。それを承知で東征がはじまりました。饒速日尊の大和への降 臨に天道根命がお供をしていたと言うことです。かれはどこで何をしていたのでしょうか。そうです。紀の国で名草戸畔に取り入っていたのです。婿入りをして いたのかも知れません。

 大和での饒速日尊と長髄彦、同じ事が紀の国で起こったのではないでしょうか、天道根命と名草戸畔、そうです。名 草戸畔は天道根命に殺されたのです。なぜならば、神武さんと饒速日尊とが同じ天神の血を受けているのと同じく、天道根命も天神の末裔に連なる人だったので す。神武さんと結託し、流れ者の天道根命を受け入れて、息子同然に取り立ててくれた名草戸畔を陥れたのです。

[2110] 青草名草史2  神奈備 2006/05/16(Tue) 14:45 [Reply]
  名草戸畔は毎朝の如く神の森を遙拝する太田の祭祀場に赴き、名草の邑 の安寧を祈るのが日課でした。吉原から太田への道は名草戸畔にとっては聖なる道でした。太田からは太田黒田遺跡の名で有名な遺跡が発見されており、小銅鐸 や朱と灰を交互に幾重にも敷き詰めた祭祀場などが出土しています。

 名草戸畔の娘、所謂名草姫を娶っていた天道根命は名草山西側の毛見の 浜の警備を任されていました。その天道根命が神武さんに帰順することにしたのは、神武軍の先発隊がやってきて天道根命と接触、立派な鏡を二面見せられ、お 互いに天津神の子孫、無益な戦いは避けようと呼びかけられた時でした。
 鏡二面を預かった天道根命は名草戸畔にこれを見せて神武軍に帰順するように説得したことでしょう。

  しかし紀ノ川下流域の豊かな平野の長としての名草戸畔は、突然の侵入者かつ生駒で大和の梟師である長髄彦に敗退してきた神武軍に戦わずして国を譲る気には なれませんでした。長髄彦と名草戸畔は共に銅鐸で地霊を祀る仲間であり、大和への出入り口に辺る紀ノ川下流の支配権を渡すわけには行かなかったのです。さ らに太田祭祀場へ行く聖なる道筋にあたる竃山に五瀬命を葬りたいとの厚かましい要求には到底応ずる訳にはいかなかったのです。

 また、阿備の七原の葦などの根につくスズ(水酸化鉄)が豊富にとれ、鍬や鍬などの農具はすぐに武器にもなり、十分戦えるものと踏んでいたのです。

[2111] 青草名草史3  神奈備 2006/05/17(Wed) 11:49 [Reply]
 豈謀らんや弟知らんや、名草戸畔は娘婿でもある天道根命が寝返っていることに気がつかなかったのです。天道根命を名草山西方の名草浜の守備に赴かせました。
 やがて神武軍の船団がやってきました。天道根命は裏切りを名草戸畔側に知られないように、浜から適当に矢を射て神武軍を追いたてたように見せました。
 名草山頂から眺めていた名草戸畔はこれを見て満足したのです。
 ところが南に回った神武軍は船尾山に隠れて名草山から見えなくなったところで、船尾を着けて上陸、どんどん東へ入って行きました

  船尾山、城ヶ峰に隠れて今の阪和自動車道の辺りから北上、後の熊野古道を北に進み、山東に出たのです。ここには疫病退散の神を祭神とする民人が住んでいま したが、穏やかな気質の人が多く、さらに神武軍の武器の新しさと天道根命の説得が奏効して平和裡に服従することになりました。疫病はクサと言い、ナは否定 語で、ナクサとはまさに疫病退散の意味があり、薬草の意味も出てきたのです。余談ですが、クサナギの剱も病をなぎ倒すと言う霊剣のことです。ナクサの神は 後に素盞嗚尊になっていきました。

 神武軍の一部は名草平野の南端の冬野から、また山東へ回った軍は和田から、天道根軍は名草山頂から一 挙に名草戸畔が本拠を置いていた名草山東端の吉原の天皇森へ向かって攻め込んだのです。名草戸畔軍は阿備の七原の湿地帯をくる軍には矢を射かけて防いでい たのです。梅雨の真最中の湿地帯は進軍しにくいので吉原で待ち受けるのは良い戦法だったのです。ところが、名草山頂から駆け下りてくる天道根軍にびっく り、一挙に崩れて山裾にまで追い落とされました。

 名草戸畔軍はちりじりになりつつも、名草戸畔を奉じて南下し、なんとか小野田の里までは逃げ延びたのです。もう少しで溝ノ口、ここから黒沢山に入れば、山の土蜘蛛がはるか熊野にまで案内してくれることになっていました。
 しかし、高倉山西裾の高橋でついに神武軍に取り囲まれでしまったのです。多勢に無勢、名草戸畔の体は切り刻まれて捨て置かれました。

[2113] 青草名草史4  神奈備 2006/05/18(Thu) 09:19 [Reply]
 神武軍は周辺住民を慰撫しつつ、天皇森に戻り、勝ち鬨をあげたのです。そうして神武さんの兄の五瀬命を竃山に葬り、盛大な祭りを行いました。
  名草邑の統治を天道根命にゆだね、食料、水、塩、兵隊、武器などを調達して神武軍はさらに南下していきました。紀伊半島西部は銅鐸の王国でいわば神武さん の敵方、上陸をあきらめて熊野灘にまで一挙に航行しました。大和を押さえてからじっくり銅鐸祭祀氏族に背後から圧力をかけていけばいいとの方針だったので す。

 さて、名草山の山頂には夫である天道根命の裏切りに苦しんだ名草姫の自害した遺体が残っていました。哀れにもおつきの巫女さん方も共に自害していました。彼女らは名草山周辺の七原から選ばれた少女達でした。

  切り刻まれた名草戸畔の遺体は住民達がそれぞれ分け合って祭ることにしました。結局、頭部を祀ったのが宇賀部神社となり、胴体部を祀ったのは杉尾神社とな り、足部を祀ったのは千種神社となり、今日まで信仰を集めています。丁度、殺された地からそれぞれ等距離に鎮座しています。

 名草戸畔一族の歴代の墳墓は亀川と国主に造営されてきました。偶然にもすべて高橋から等距離の地点です。彼らの神霊は国主山や高倉山にとどまっているのでしょう。



 名草山で自害した名草の姫巫女達もそれぞれ中言神社、名草神社の名で名草山を取り囲んで祀られています。それもやはり名草戸畔と同じ大きさの直径3kmの円周上に鎮座しているのです。



 天道根命は同じように毎朝太田の祭祀場に赴き、神の森に坐す神々に名草の里の安寧と反映を祈念するようになりました。これによって徐々に名草の国の民人の心をつかんでいきました。

 最近、名草山自体が悲鳴を上げているように感じている市民が多くなりました。これは古代からの神々全体がこの国の姿を憂えるお姿と重なって見えます。
 和歌山市の聖山である名草山への侵食が激しくなっているのです。竹藪の増殖、紀三井寺浮図の増殖、電電公社の社宅建設、猪退治など、名草山を美しいいまま保つと言う心を失って、この山を便宜的に使おうとする物欲の姿が見えるからです。

[2120] 青草名草史5  神奈備 2006/05/19(Fri) 08:29 [Reply]
 名草山は縄文時代には島で、周辺は海水がよせてはかえす浅瀬でした。シ ジミ、アサリなどの貝類や魚が豊富な漁場でした。徐々に海退が進み、湿地帯となって葦などが生え、根元に水酸化鉄が出来るようになってきました。これは名 草山だけではなく山東からこの辺り一帯は鉄分を多く含む赤土で褐鉄鉱が鈴なりの状態になっていたと言うことです。
 
 名草平野の東部から山東や海南市東部には縄文時代から人間が居住していました。大山祇神を奉じるネシア系の人々だったのかも知れません。

  山東大池遺跡からは大和の二上山のサヌカイトなどが出土しています。そこへ九州や出雲から先進技術を持った大陸・半島系の所謂弥生人とされる人々がやって きて名草平野の湿地帯で稲作を始めました。葦の生えている沼に稲を植えるのです。新たに来た人々の中から名草地域の指導的な役割を果たす一家が出来てきま した。名草戸畔の一家です。

 名草戸畔らが紀の国の国魂として祀っていたのは神の森の神で、ここには後に大屋比古と大屋比売と呼ばれる神 が鎮座していました。この神々ははるか遠い昔、名草戸畔の祖先らがこの地に来たときにはすでに先住民が奉じていた神のようです。神の森とは現在の日前国縣 神宮が鎮座している場所のことです。
 
 名草戸畔一家の住居は溝ノ口と言う所で、高橋の地から東へ5kmほど入った場所です。紀の国では珍しい二重神奈備山が形成されている聖地でした。ここは縄文時代から室町時代の複合遺跡の地で、名門名草家は名草戸畔の誅殺後も、ほそぼそと生きながらえていたのでしょう。

 後に紀の国一宮となった日前国縣神宮は名草浜の南端の浜の宮から、名草戸畔が安寧を祈った神の森に遷座、神の森に坐した神は社地を譲って山東に遷ったのです。

 天台宗を開いた最澄は名草の宮のことを溝口大明神と呼んでいます。溝口で生まれ育った名草戸畔の神霊に対しての呼びかけた命名だったのかも知れません。
 実際には名草平野への用水の供給口があったからと言うのが通説になっています。

 今、何故、名草戸畔か。それは自然との共生に人々が目覚めてきたからと思われます。大地を切り刻み、鉄筋を打ち込み、水脈を断絶させ、美しい海岸をテトラポットで埋め尽くし、産廃で水を汚し、まったく国土を愛する気持ちを持たない治世が戦後延々と続いてきました。
 国破れて山河あり、今、山河をなくして我々は何を手に入れたのでしょうか。国は破産寸前、次に国破れても我々には山河すらない、それがこの国のかたち。
 −−(終わり)−−


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[2123] Re[2122][2120]: 青草名草史5 付録  神奈備 2006/05/20(Sat) 17:36 [Reply]
 サン・グリーン さん、ありがとうございます。

 名草戸畔については、ある女性研究者の方が大学の先生の職を辞した後、故郷で研究するとの話を聞いたことがあります。それが、力侍神社をベースに調査にかかるとのことで、当時はもうひとつ意味がよく分からなかったのです。
 ところが、この前、和歌山の図書館で時間をつぶしているとき、ある書籍に力侍神社の祭神が麻為比売命とされているとありました。

 麻為比売命とは名草郡の式内社に麻爲比賣神社があり、この神社の祭神だとであることはまちがいのないところと思われます。力侍と麻為比売、この組み合わせは天岩戸開きの手力男神と天鈿女命を想起するのですが、名草戸畔との関連はこのお話では見えて来ません。
  端的に言えば、名草戸畔は力侍神として祭られたのか、麻為比売として祭られたのか、ここは名草戸畔が男なのか女なのかに関わってきます。圧倒的の女説が多 い中、なかひらまいさん方の現地伝承調査ではそういう中でも男として伝わっているようなので、力侍神として祭られ、その伴侶か娘の巫女が麻為比売として祭 られたのかも知れません。

 なかひらまいさん、平成の麻為比売として名草戸畔のご調査、よろしくお願いします。

力侍神社 http://kamnavi.jp/ki/city/rikisi.htm
麻爲比賣神社 http://kamnavi.jp/ny/tuhata.htm
なかひらまいさん http://blog.livedoor.jp/nagusatobe/