浪花の鯉の物語

[8026] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/06(Wed) 13:35 [Reply]
1.太古、河内湾とか草香江と呼ばれる海が広がっており、これに淀川や大和川などが土砂を流しこんでいた。
 七千年前から六千年前の縄文前期には、河内湾は生駒山地のすぐ西に及んでいた。
 その後五千年前から四千年前の縄文中期には、淀川と大和川による堆積作用で三角州が広がり始めた。北側に天満砂堆、西側には難波砂堆が広がった。

 縄文中期の終わり頃には森ノ宮遺跡に見られるように貝塚が作られていた。マガキ、マダイ、クロダイを捕獲していたようで、海の幸を楽しんでいたようだ。

 約三千年前から二千年前、縄文時代から弥生前期、砂堆がさらに北にのび、河内湾は大阪湾と遮られ、水が溜まり、淡水化が進んだ。河内湖になった。

 生駒山地の西麓の日下貝塚は縄文晩期の遺跡で、淡水産貝塚が出ている。森ノ宮遺跡からもカキが消えてセタシシジミ、コイなどが出てくるようになった。
 弥生前期には河内湖の周辺の東大阪の広がる低湿地の山賀遺跡、瓜生堂遺跡などで稲作を行うムラが出現した。

 遺跡と神社 石田神社は船の形の巨石が埋まっているとの伝承がある。古墳の石棺の蓋かも知れない。この伝承が神社をよんだのかも。

日下貝塚  石切神社
山賀遺跡  若江鏡神社
瓜生堂遺跡 石田神社

[8026] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/07(Thu) 11:53 [Reply]
2.ドロドロの地

 河内湖の出口は天満砂堆の北側となり、今の新大阪駅付近の狭い所でした。なかなか排水が進まず、洪水がよくおこっていました。河川は南北方向に流れ、東へ行くにはその河川を越えなければならず、陸上交通も不便で、地形としては悪い地形と云う状態でした。

 このような状態では政治・経済・文化の中心にはなりにくいハンディを背負っていたのです。そこで5世紀後半に難波堀江が掘り抜かれたのです。上町台地の北に堆積した砂堆を掘削して河内湖から大阪湾に流れ出るようにしたのです。砂堆を掘ったので、比較的掘りやすかったと云うことです。後の世に和気清麿さんが上町台地そのものを掘ろうとしましたが、失敗しています。
 難波堀江は現在の大川と見なされています。

 この運河は極めて重要なもので、これによって大阪の意味が変わったのです。

 水害の減少は河内平野を開墾できる地にしました。
 大阪湾から船を直接入れ、淀川・大和川を遡れるようになり、畿内の中枢部と直結できるようになったのです。
 畿内 瀬戸内海 東アジアに直結した。
 
 倭の五王の間、難波津はその堀江の中にあって、国家の港であったのです。

[8029] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/09(Sat) 08:50 [Reply]
3.茨田の堤と浮気

 『仁徳紀』に、難波堀江を掘って南の水を西に流したとあり、続いて、北の河の塵芥を防ぐために茨田の堤を築いたとあります。堤のの工事丸いヒサゴを浮かべて沈めば神の意志、沈まなければ偽りの神と云って、人柱にならずに済んだ物語があるほどの難工事だったのです。茨田の堤の目的は、淀川からの水の流入を防いだものと、『難波京の風景』に出ています。淀川の水は天満砂堆の北側を流れ出たのでしょう。今の神崎川。
 
 『仁徳紀』には、続いて皇后の磐之姫が熊野に行っている間に八田皇女を召されたことを、難波の渡しで聞き、難波の大津の岸に寄らずに、そこから引き返し、川を遡って山城方面に行かれたと出ています。『難波京の風景』では、難波堀江を抜けて淀川に出たとあり、茨田の堤の工事はもっと後世だったのかも。小生は『難波京の風景』が日本書紀の文を読み誤っていると思っています。

 なぜなら『日本書紀』仁徳三十年九月「時皇后不泊于大津。更引之泝江。自山背廻而向倭」とあるからです。引き返して神崎川に回って淀川を登って行ったと云うこと。この時には既に堀江も茨田の堤も出来ていたのでしょう。同時に工事がなされたと考えられます。

[8030] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/10(Sun) 19:09 [Reply]
4.大型の倉庫と屯倉

 難波宮跡が公園となっている法円坂から16棟の大型倉庫跡が発見されました。上町台地の北と西に下がりかける場所で、大阪湾からも難波津からもよく見えた場所です。これらも5世紀後半の建築で、河内が開墾されつつあり、倭王権が難波堀江に対外政策もあって置かれたものと推定されています。
 またこれより少し前の時代ですが、紀ノ川下流域で大型倉庫7棟が立てられています。鳴滝遺跡です。これも倭王権が紀ノ川を水路として使っていた証なのでしょうが、難波に統合されたようです。それだけ難波堀江開削の大阪への影響は大きかったようです。
 
 倉庫とは限らないようですが、屯倉が難波にも置かれています。建物が建っている屋敷地がヤケで、それの美称が付いたものですが、建物の中には倉庫もあったことでしょう。

 難波屯倉は『日本書紀』に安閑天皇元年(534)、天皇の妃の物部木蓮子の娘の宅媛の名を伝えるために難波に設けられ、馬に曳かせて田を掘り返し耕す馬鍬を使う農民をつけたとあります。屯倉は各地に設けられました。倭王権の支店兼倉庫と云う存在でした。

 難波屯倉の場所はよく判っていませんが、西成区津守や難波宮付近と推定されていますが、やはり難波津にほど近い難波宮付近が便利だったと思います。

[8031] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/11(Mon) 18:35 [Reply]
5.大津
  住吉大社の鎮座地は住吉大神が「吾が和魂をば大津の渟名倉の長狭に居け。」と託宣した現在の住吉大社の鎮座地ですが、この中の大津とは住吉津を指しています。古代史に於ける大津とは国家的な港であったようです。住吉津以外に筑紫の大津、難波の大津、琵琶湖の大津があります。

 住吉大社の西側にも堆積した砂堆が細井川によって一部が切られ、ここに海から船が入り、『住吉大社神代記』に云う朴津水門(エナツノミナト)が船着き場だったようです。

 万葉集巻六−九九七
 住吉(スミノエ)の 粉浜のしじみ 開けも見ず 隠(コモ)りてのみや 恋ひ渡りなむ

 雄略天皇の時代に呉の国から漢織(アヤハトリ)、呉織(クレハトリ)、衣縫兄媛弟媛らを伴って住吉津についたとの伝承があります。仁徳天皇の時代に難波津は出来ていたことになっているので、こちらを利用してもいいのでしょうが、まだ住吉津が渡来人を迎える港だったようです。

 住吉大社から東に磯歯津路(シハツミチ)が出来ており、途中の須牟地社(住道社)で祓いを行ってこの国の人間と見なしたようです。『忌部記文』に「須牟地の神酒を賜うて穢を祓はない者は日本人ではない。」とあります。一杯飲め、そうしたら仲間と認めようと云うことのようです。一杯飲んだのは杭全神社の摂社になっている赤留比売命神社だったとか。昔は住吉大社の子神(摂社)でした。

 住吉津は重要な港でしたが、大和への水運がなく、大きい倉庫群ができるような環境ではなかったのかも。

[8032] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/12(Tue) 18:11 [Reply]
6.住吉津と難波津

 住吉津と難波津を比較しますと、住吉津の近くには住吉大社、大海神社、船玉神社など海の神を祀る神社が多く鎮座していますが、難波津には難波坐生国咲国魂神社、坐摩神社などが鎮座、海や航海の神々は見あたりません。航海安全の祭祀や禊ぎは住吉にお願いして難波はもっぱら荷物の受け渡しなどだったのでしょう。

 住吉津を管理したのは津守連で『姓氏録』では火明命男天香山命之後也とあります。丹後の海部氏や尾張氏とルーツは同じようで、海神族のようです。

 一方、難波津の管理は難波屯倉の管理者と同じと見ていいのでしょうから、三宅忌寸で、新羅の王族の天日槍命を祖とする三宅連と同族と見ていいのでしょう。渡来系の氏族は文字や数字に明るく、倉庫管理などに力を発揮したと云うことでしょう。その分の余録も多く、それぞれが力をつける源にもなったということ。

 先に磐之媛のお話を出しましたが、媛が生んだ仁徳天皇の皇子が住吉仲皇子です。磐之媛は葛城氏の出で、神功皇后の母が葛城高額媛と云う関係があり、住吉と葛城とは深いつながりがあったと云うべきでしょう。

 仁徳天皇の後の皇位は住吉仲皇子の同母兄の履中天皇で、高津宮で即位しようとしたのですが、弟の住吉仲皇子が安曇連浜子や淡路の野島の漁師を使って履中天皇の暗殺をはかったのですが、逆に殺されてしまいました。海神系の氏族の象徴である住吉の名を頂いた皇子が敗れ去って、難波津の勢力が住吉の勢力を上回ったと云うこと。

[8033] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/13(Wed) 13:11 [Reply]
7.難波に宮を置いた天皇

 『日本書紀』に、応神天皇が難波の大隅宮を置いたとあります。大隅宮でなくなったとの説もあります。『古事記』では、明の軽宮(橿原市大軽町)。新大阪駅の7kmほど東に大隅神社があり、この辺りとされています。しかし淀川の河口にあたり、低地の湿地で、牛の牧場ならともかく、天皇の宮には向いていません。やはり難波なら上町台地、仁徳天皇の高津宮付近が見晴らしの面でも適地でしょう。

 で、仁徳天皇の高津宮はどこだったのかですが、難波堀江を掘削すること、、茨田堤の造築と云う大工事に着手したのですから、大阪城近辺だったのでしょう。『日本書紀』の仁徳三十八年に、宮の高殿から菟餓野で鳴く鹿の声が聞こえたとあり、これは北区兎我野町のことで、今では赤い火青い火の賑やかな所。

 『仁徳紀十年』に、「大道を京の中に作る。南の門より丹比邑に至る。」とあります。四天王寺の南東に大道と云う地名が残っています。どうやら大道は上町筋の東側にあった道のようです。
 大道から飛鳥へは大津道(応神陵の北側を通る現在の長尾街道)か丹比道(仁徳陵の北側を通る)で東に行き、穴虫峠か竹内峠を越えて、大和の横大路に合流し、下ッ道、中ッ道を経て飛鳥京に入ったようです。

 全てが仁徳天皇の時代に出来たと言うことではなく、後の時代にも整備されていったのでしょう。権力者は古墳、道路、堤防と土木工事の公共事業が大好きなようで、この体質は仁徳時代に植え付けられたものかも。
 
 反正天皇は河内の丹比に宮を作ったとあります。松原市に反正天皇を祭神とする柴籬神社が鎮座、また美原町にも同神を祀る丹比神社が鎮座、この辺りと目されていたのでしょう。
 

[8034] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/14(Thu) 09:03 [Reply]
8.孝徳天皇の巻

 大化の改新の中心人物は孝徳天皇であったとの遠山美都男氏の説が説得力を持っています。それは鎌足は摂河泉に中臣の同族が多くおり、また孝徳天皇(軽皇子)を始め乙巳の変とその後の政変に関係した人物の多くは和泉国周辺に拠点を持っていたのです。軽皇子や鎌足との関連があったのです。それ故の政変であり、その後の難波宮への遷都でした。全てが無理なく説明できる説です。

 孝徳天皇は難波に遷都して7年目にして長柄豊碕宮が完成した。豊碕宮の跡と称する神社があり、それは豊崎神社と云い、大阪市北区豊崎で、大阪駅の北1kmの地であり、難波堀江の北側となり、多分ここではないと思われます。しかし祭神を孝徳天皇としていますので、何かゆかりがあったのでしょう。

 孝徳天皇は宮の建造に倭漢の一族を遣っています。倭漢は渡来人だったと云うこともあったのでしょうが、宮の建造に生国魂神社の木を伐採しています。神道を軽んじたと云うことよりも、孝徳天皇は軽皇子とよばれたごとく、半島の金属採取集団の長のような人だったのかとも思われます。乙巳の変の時、目撃した古人大兄皇子が「韓人が鞍作(入鹿のこと)を殺した。」と云っています。首謀者だった孝徳天皇のことと思われます。従って倭の国の古い信仰など気にしない人だったのでしょう。

 長柄豊碕宮もやはり大阪城付近、即ち前期の難波宮に重なっているのでしょう。

[8038] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/15(Fri) 15:44 [Reply]
9.天武天皇

 天武八年(679)十一月、初めて竜田山・大坂山に関所を設け、難波に羅城を築いたとの記事が『日本書紀』にあります。竜田山と大坂山は河内から大和へ入る主要な道です。竜田山は今はJR大和路線、大坂山は近鉄が二本隣接して走っています。
 難波に設けた羅城とは、四方に設けた城壁のことで、将来の京の羅生門のはしりだったようです。
 天武天皇の時代は新羅との国交も回復し、対外的な防衛ラインの意味はあまりなかったはずです。西日本の勢力が反乱を起こす徴候があったのかも。

 天武十二年、「都城や宮室は一カ所だけということなく、必ず二、三カ所あるべきである。それ故まず難波に都を造ろうと思う。」との詔が出た。

 天武十四年十一月の『日本書紀』に面白い記事があります。
 ●官用の鉄一万斤を周防総令のもとに送った。
 ●官用のふとぎぬ百匹、糸百匹、庸布四百常、鉄一万斤、箭竹二千本を筑紫に発想した。

 これは戦の準備ではなかろうか。筑紫に遣わした防人(さきもり)が難破漂流した記事もあり、相手は新羅なのか、海賊なのか、はたまた隼人なのか。

 『紀』によれば、「12月14日に難波の大蔵省から失火、宮室がことごとく焼けた。ただ兵器職だけは焼けなかった。」とあります。それでも天皇は飛鳥で連日の宴を催しています。翌年、天皇は病に倒れます。
 難波宮の復興は全く急いだ感じではなく、難波大蔵のみ復興しています。物産の集散地の役割が大きかったのでしょう。これは江戸時代までそうです。


[8041] 浪花の鯉の物語  神奈備 2006/12/16(Sat) 11:16 [Reply]
10.聖武天皇 続日本紀から

 神亀二年(725)冬十月 天皇は難波宮に行幸された。
 神亀三年(726) 十月十九日  天皇は播磨国からの帰途に難波宮に至った。
 神亀三年(727) 十月二十六日 藤原宇合を知造難波宮事に任じた。難波宮の造営を始めた。
 難波宮の造営は天武天皇が着手するも火災・病気により出来なかった。聖武天皇は天武の後継者を自認、事業の継承をしたと、『難波京の風景』は指摘しています。

 天平四年(732)三月二十六日 知造難波宮事の宇合などに物を賜った。造営工事が完了したのだろう。

 万葉集巻三 三一二 昔こそ 難波いなかと 言われけめ 今都引き 都びにけり
 
 万葉集巻六 一〇六三 あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子(あまおとめ)らが 乗れる舟見ゆ

 万葉集巻九 一七二六 難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海人娘子ども 汝が名告らさね

 天平十七年 八月二十八日 天皇は難波宮に行幸された。彷徨する天皇であって、難波宮に落ち着いておらず、奈良京を都としていたのかも。

 天平十七年 九月十三日  天皇は「朕はこの頃病気がち。」と勅した。難波京で病を治そうと考えていたのかも。八十島祭の萌芽がみられる。


 天平勝宝七歳冬十月二十一日 太上天皇(聖武)は健康がすぐれない。
 天平勝宝八歳 三月 二日 太上天皇(聖武)は難波の堀江のほとりに行幸された。
 天平勝宝八歳夏四月十四日 太上天皇(聖武)のお体が不調になる。

 この太上天皇の難波行きは、堀江で祀りを行い、生命力を振るい起こすもの。八十島祭りの原型が見られる。

[8045] Re[8042][8032]: 浪速の鯉の物語  神奈備 2006/12/17(Sun) 09:54 [Reply]
とみたさん、おはようございます。大阪もいよいよ今晩から冬本番です。

> 難波掘江の開削は、仁徳期で5世紀、難波屯倉は安閑期で6世紀とされ時代の隔たりもある。

 この難工事、仁徳期で完成したのかどうか、また難波屯倉は発掘の結果、どうやら5世紀に遡るようです。(『クラと古代王権』直木孝次郎ほか P.23)


11.難波宮の終焉

 『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(七六二)四月丙寅《十七》の記事
 遣唐使駕船一隻自安藝國到于難波江口。著灘不浮。其柁亦復不得發出。爲浪所搖。船尾破裂。
 遣唐使船が難波津で座礁したとの記事。砂が堆積してきて港としての機能が果たせなくなりつつあるようです。

 桓武天皇が平城京から長岡京に遷都しました。平城京の諸門を長岡宮に移したと記されていますが難波宮の建物を移したとは記載されていません。

 所が長岡京から出土した瓦は70%程度が難波京の瓦です。軒瓦だけではなく建物をそのままなのか、木材として再利用されたのか、難波京が破壊されていったのでしょう。
 
 神崎川経由でしょうが淀川を遡って運搬できたので、平城京からよりも便利だったということ。

 長岡京への遷都にともなって、難波京は廃しされました。財政再建の意味もあったのでしょうが、二都を廃止し、新しい都での新しい政治を目指したと云うことだったのでしょう。

 古代的なものからの訣別がなされたように見えます。end

[8049] 浪花の鯉の物語 補  神奈備 2006/12/18(Mon) 19:36 [Reply]
> 住吉津は重要な港でしたが、大和への水運がなく、大きい倉庫群ができるような環境ではなかったのかも。

 これは訂正します。難波の屯倉は他に以下があります。

 仁徳紀 住吉郡に依網屯倉
 安閑紀 三嶋郡に竹村屯倉

 特に依網屯倉は今の大依羅神社付近としますと、住吉津とは3km程度の距離。


 ついでに難波の津の他のもの。

 応神紀 桑津  四天王寺の南東2km。
 仁徳紀 猪甘津 鶴橋の東


 


神奈備にようこそ