神奈備にようこそ 掲示板のログ(平成12/1月) 
お名前の敬称は略させて頂きます。


ログ
更新 H12/1/29


瀬藤禎祥 三輪山セミナーに行って来ました H12/1/29
みかささんようこそ!
履中天皇の子の市の辺の押し歯の王の二人の子、意祁王、袁祁王は播磨に隠れて後、雄略天皇の死後、この王朝が断絶したので、見出されて王位についた説話が古事記にのっています。 清寧、顕宗、仁賢、武烈です。従って播磨王朝と呼ぶんではないでしょうか。
ゆかさん、今晩は
>この古曾は伊太祁曽の祁曽と同じ意味なんですよね。
託杜神社もあります。社や杜は朝鮮語でコソと言うらしいです。ヤシロの事でしょうか。
伊太祁曽もおっしゃる様に鏡作伊多神社の伊多+コソと理解もでき、伊多は伊達イコール鉄(i-dhatu)とする説があり、素盞嗚尊の御子神としては素直に読めますが、イタキをitak(アイヌ語の話す) や板挙すなわち一種の斎の神と理解し素尊を斎祀る神と見る柳田國男説もあります。 この場合にはイタキ+ソとなりソの理解がいささか難儀です。
>高津宮にはおどろおどろしいところ
鎮座地は磐船山と言われていたようで、物部氏の遠祖の饒速日命が石山に降臨した地に祀られていた磐船神社を遷したとも伝えられています。
饒速日命→阿加流比売命→下照比売命と祭神が変遷していると思われ、それぞれの御霊社の役割を果たしているのでしょうかね。
大神神社が主宰する三輪山とその周辺の歴史や祀りのセミナーです。600人参加。 三輪山と大和三山についての報告で、「山口」神が坐していない共通点があるが、三輪山は國作り農業祟りの神、天香具山は王権の物実国見の山でお互いの関係は乏しいとの事でした。 「山」と称するとそれは三輪山の意であり、邪馬台国の邪馬を山とすれば、それは三輪山周辺ではとの暗示がありました。(皇學館学長西宮一民先生)


ゆか Re:祁曽 H12/1/29
>>佐賀の武雄に「丹生神社」って数社あるみたい
> 朗報です。九州に土地勘がないので武雄と言うと武雄市を考えてしまうのですが、それでいいんでしょうか。藤津郡嬉野町には幾つかは見つけていますが・・
ウッ…!? ごめんなさい。勘違いしてたみたい。そう、嬉野でした。嬉野郷には丹生川村も属していた。武雄にも温泉はありますけど。アララ…。(^^ゞ
> 大阪市中央区高津1-1-29の高津宮には「主 仁徳天皇 配 仲哀天皇、應神天皇、神功皇后、葦姫皇后、履仲天皇」が鎮座しています。ここは元の比売許曽社の境内だったそうです。
本殿の左側に下照姫命を祀った比売古曾神社がありますよね。この古曾は伊太祁曽の祁曽と同じ意味なんですよね、きっと。伊太は鏡作伊多神社の伊多と同じ意味なんだろうなぁと思います。意味は分かりませんけれど、たぶん朝鮮語の古語ではないでしょうか?
高津神社ですが、本殿の右側のお稲荷さんのところから石段をおりると、陰陽石があり、白菊(草野姫命)大神、千年(大市姫命)大神、常高(大山祇命)大神が祀られていますよね。高津さんって、おしゃれな感じがしますけど、やっぱりちょっとおどろおどろしいところもありますね。


みかさ はじめまして H12.1.28
はじめまして、みかさです。
こちらのHPはとてもわかりやすいですね。
これからもお邪魔すると思いますがよろしくお願いします。
くだらないことですが・・・
古事記の記述がときどきつじつまが合っていない(ような気がする)ことについて考えてみました。 古事記が成立した天武朝の政状が影響しているのでは?
「偽りを正す」のが目的だったのなら、当時にとって都合の悪い伝承は削り、物部氏などの主要な氏族の伝承に重点を置いたということは考えられると思います。
だとしたら、古事記の伝承は、一本のつながった伝承ではなく、当時にとっては「いいとこどり」の伝承だったと考えるのです。それに「王朝交代」ということも考えれば、それ以前にも、似たような「いいとこどり」があったとしてもおかしくはない。仁徳や、継体の時期はそうかもと考えています。


福島雅彦 RE:九州での『五十猛命』HP H12.1.28
早速の御教示、誠に有難う御座いました。
お蔭様で、大変良く判りました。
藤原氏の所業は、知りませんでした。
筑紫神社も何故素盞嗚尊でなくて『五十猛命』なのか、研究してみます。 古代史の研究に、とても役立ちそうです。


カヨ シツコク H12/1/27
有り難うございました。
知りたがり屋なもので、また教えて下さい。
武烈天皇は 何故、播磨朝とよばれるのですか?


瀬藤禎祥 寒中お見舞い申し上げます H12/1/27
ゆかさん、カヨさん、みなさん 寒中お見舞い申し上げます。
>佐賀の武雄に「丹生神社」って数社あるみたい
朗報です。九州に土地勘がないので武雄と言うと武雄市を考えてしまうのですが、それでいいんでしょうか。藤津郡嬉野町には幾つかは見つけていますが・・
>ちょっと脇道になっています。
東吉野の丹生川上神社中社通称蟻通神社に木津峠から深吉野ハイキングコースがあるのですが、途中に鳥見霊畤の碑が建っています。神武伝承が残っていて、そこに天武天皇が社を創祀したとされています。奥のほうへ入っていたので、雰囲気がよかったのでしょうか。
>紀伊、那賀など北部九州の地名と似ているのが気になります。
小生も気になります。木國のルーツは九州基山、ここから国東半島、紀の国や山城紀伊郡、さらに筑波方面に展開したのかなと想像できますね。
>葦田宿禰
この時代の応神一家のことに詳しい女性がおられるのですが・・・うう(!!)
小生の知っている事は古事記の履中天皇の條にある、この天皇葛城の曽都毘古の子の葦田の宿禰の女の黒比売の命と結婚して云々の記述のみです。
大阪市中央区高津1-1-29の高津宮には「主 仁徳天皇 配 仲哀天皇、應神天皇、神功皇后、葦姫皇后、履仲天皇」が鎮座しています。ここは元の比売許曽社の境内だったそうです。


カヨ 教えて下さい H12/1/26
はじめまして!突然失礼します。普通の主婦です。^0^
  葦田宿禰の事を詳しく知りたいです。
よかったら 御教えてください。


ゆか re:伊都と丹生報告 H12/1/25
こんばんは。
九州では佐賀関で採れるんじゃないでしょうか。紀伊半島から、四国を通って佐賀関へと中央構造線がはしってますよね。それと佐賀の武雄に「丹生神社」って数社あるみたいですけど、水銀朱が採れてたんじゃないでしょうか。
> 問い:和歌山県の天野大社こと丹生都姫神社の丹生広良氏の著書に「丹生神社と丹生氏の研究」と言う本があります。
> 丹生氏の第一歩は筑前伊都郡であり、例の邪馬台国の伊都国王の地であったとの主張です。
東吉野の丹生川上神社(中社になるのかな?)。明神平、薊岳に登る時前を通りますが、ここに神武の聖蹟碑が建っています。でも、この道は、熊野からの通り道じゃないんですよね。松坂のほうからも通らない。ちょっと脇道になっています。ずんずん行くと、山で行き止まり。上社だと、熊野から吉野への通り道になるのだと思います。まだ行った事ありませんけれど。 紀伊、那賀など北部九州の地名と似ているのが気になります。
話は変わりますが、枚方公園の近くに意賀美神社があります。今は山手の万年山古墳の上にありますが、もともとそのふもと(枚方公園駅の西側)の伊加賀という地名のところにあったんですって。
伊加賀といえば、物部に関係してますよね。
とりとめもない話ですみません。


瀬藤禎祥 伊都と丹生報告 H12/1/25
福島雅彦さんの掲示板に丹生と伊都の件で問い合わせをさせてもらいました。
問い:和歌山県の天野大社こと丹生都姫神社の丹生広良氏の著書に「丹生神社と丹生氏の研究」と言う本があります。 丹生氏の第一歩は筑前伊都郡であり、例の邪馬台国の伊都国王の地であったとの主張です。筑前の伊都郡に「丹生」「仁布」「壬生」の地名や水銀を掘った跡や赤土の濃い場所が存在するでしょうか。
お答え概要:伊都歴史資料館にもお尋ねしました。
「小規模製鉄遺構は在るが、『丹』は、棺内に塗られている」が、採掘等の痕跡は無い、との事でした。  私は、『彌嗚邪馬國と伊珍阿岐王』は未検証ですが、この移転地名が、邪馬臺國の元であり、水縄連山(耳納山)もその故地の山容に似ていると確信しています。
奴國はその北麓で古代の米の大生産地だからです。 二つ在る奴國のもう一つは、伊都國東南百里「筑紫野」です。 野上、志賀野、天野、恋野、泉南の佐野は皆北麓に在りますね。この「〜野」は「〜奴」と同義である。 この立地条件を教えたのも、『素盞嗚尊』(=葦原の醜男、大穴持神、大穴牟遅神、大己貴神)の、製鉄王を生んだのも、『伊弉諾尊』である。 その偉大な神が最初に上陸して、『都』を定めた土地だから『伊都』であろうと。
“??”(ittang)國=伊の地の國(直訳)である。 この王の命令で、丹生氏が各地に、水銀と鉄の鉱脈探索に赴いたかと。
ありがとうございました。
伊都國に伊弉諾尊を祭神とする神社は多いのですが、式内社は見当たりません。
水銀の痕跡のない所に丹生氏がいたはずがないので、肥後あたりから有明、豊後と展開したものと思っています。


福島雅彦 最高神 HP H12.1.21
瀬藤禎祥さんの仰る通りです。
倭人、倭種と中国の正史に登場するのは、九州在住の倭人、韓半島の倭人(狗邪韓国=九倭韓国=九つの部族国家)、徐福の子孫、句奴國(高句麗系=熊本・高知)等。
隋書に裴世清は、『竹斯國以東皆附庸於倭』と、畿内の事らしき述べ方をしています。其の最後の『遂絶』とは、『筑紫の倭國滅亡』の意と取れます。
何時の時代の、何処の最高神が『倭國全体の最高神』かは、確定不能でしょう。
しかし、『畿内皇統』は何故か『九州皇統』の最高神「天照大神」を、皇祖神にしています(愚説の語源解明から)。
それは『九州皇統と畿内皇統』を継ぎ足して古く見せる為と「万世一系」の体裁を整える為であろう。即ち、神代の昔からの九州皇統の正当な後継者である事を表明する必要があったと。≪神武天皇東征等≫
其の目的の為に『記紀』は編纂されたが…。
「古事記」はその目的にソグワズニ、没にした。従って、時代を重複させた「日本書紀」が、急遽造られたのであろう。勅撰歴史書が二つ存在する怪の説明に成るのでは?。対外的に体裁を整える為、との説が在るが、半分は当たっていると思われます。即ち、白村江の敗戦の後、唐の進駐将校(郭務宗・劉徳高等)に対して、倭國の御先祖は唐の前身と友好国であった、と胡麻を掏る為に。


瀬藤禎祥 生田淳一郎さんのクシについてのメール紹介 H12/1/20
イイトヨとイイデ(飯豊)がイクオールですので、或いは別の意味の「トヨ」があるのかもしれませんが、「トヨ」を「神・鳥」と置く正当性は出てきました。
 トヨの國と筑紫の國はことばがかなり違います。その境界線は南北に延びるカルスト台地の「関の山」です。 このカルスト台地が、北から南へ入ってきている遠賀川を東西に分けます。西側が嘉穂郡で東のトヨが田川郡です。 小生が生まれた稲築町は嘉穂郡の中心部にあって、一時は人口が45000人にまでなりました。  この東西対立(双方が海賊の末裔)が最も激しかったときは、石炭舟が石炭を運んだときでした。で、トヨとチクの二つのアラクレを纏めていたのが、直方(のうがた)の麻生一家でした。
  E メールに櫛磐門、豊磐門とあるのは「クシイワト・トヨイワト」の発音で良いのでしょうか?  こういう合同祭りをやっていたとするなら、そこには必ず麻生一家か、その先祖〜前身親分がかかわっている筈です。 高倉健さんはねっからのネクラかどうかは知りませんが、直方の出身です。麻生一家の直系長男とこっちで知り合いになりましたが、35歳ごろ形だけの襲名披露をしなければ、現地のみんなが立ってゆけなくなったと、こぼしていました。りっぱな堅気衆です。  高倉姓は嘉穂(チク)系の名前だと思います。
 いま、稲築町の役場のところから関の山を見ると、その肩がえぐられ、えぐられたマドから、これもグッサリと顔を削り取られた香春岳が見えます。 昔はそんな風景はありませんでした。削りとったのは「麻生セメント」という会社です。ひと(他人)のふるさとをこんなぐあいに破壊する権利があっても良いものでしょうか。 ザンネンでザンネン。
 小生は「トヨのくにで生を享け、豊後弁(トヨ方言)が濃厚な両親」から、チクのほうに生まれ育って、トヨの國でセールスをやりました。  瀬藤さんはオキナワの歌を聞いたとき、シナ人みたいに、のどを絞る発声がなんだか一種の美意識でもって、周辺から歓迎されているのかナ? との印象を持たれたことはありませんか。その「のど絞り」の発声が豊後にあります。  チクのほうは、イントネーションが「全く無い」ような地帯です。小生は「箸を持って橋を走る」と言えません。ところが、トヨのほうはかなり強烈なイントネーションを持っていて、それは広島県を飛び越えて備後〜甲斐・静岡と大略同じのイントネーションです。   そして、豊後には希薄(少し残っている)ですが、宮崎には明瞭にオキナワの癖音があります。例えば「かんなび」は「くわんなび」です。これは日本民族発祥の地が日向だとされたために、国民学校に採用され、小生らは学校を「ぐわっくゎう」と言うように強制されました。  これは印欧語の tw, pw. kw dw , などと同じ現象で、aki (農耕)が akri となるようにw が r や l へと移行する過程だと思います。  その他、オキナワと同様、「ウ(大)」は見のがせない現象です。また、ひだるいことを「ヨダキイ」と、ネパール語を遣うのも同じです。

 さて、だいぶ書きました。朝鮮語 kusi は山ノ神です。これは小生の直感ですが、五重塔を想ってみてください。カイラ−ス山のトンガリ部分(あずまやの上の屋根)を五つか六つを刺し連ねているのです。 「刺し連ね」これが kus(h) の基本だと思います。


瀬藤禎祥 続天照大神 H12/1/20
 2000円札を持って邪馬台国跡地がその日の内に往復できる。大阪に住んでいる人間にとっては、大和は手頃な候補地です。九州なら20,000円でも無理ですね。
さて、福島様のBBS過去記事の量と質はすごいです。ハングルと九州弁の両方に通じていない小生にとってはいささか解りにくい所が多くあります。
しかし福島様の創造性には再度敬意を表したいと思います。
さて、たまたま大陸の史書に記録された邪馬台国に卑弥呼がいたわけで、それが女性だったわけで、その偶然性に驚きます。 時間軸に於いても、また空間的にも、その偶然の交差点に魏使は立った訳です。 その偶然の出会いの卑弥呼が、列島の最高神としてあがめられている神になったとは到底信じられないのです。 記録に残っていない最高位の尊は、各地に、各時代にいたのです。
最高神とは最高神として構想されて初めて成り立つもののように思います。


福島雅彦 天照大神の語源考 HP H12.1.20
私は、古代史の謎は、語源から解かなければ解けない、と信じています。古代倭語(死語も朝鮮語に臍の緒)が、後漢書、魏志倭人伝の倭人の弁活写に残っていると。
『卑彌呼』=“?”(him=力・権力)尊=最高位の尊。
九州弁に『ひンの叫(おら)び』=声を限りの大声で呼ぶ。『ひン投げる』=(相撲で)圧倒的力の差で、投げ飛ばす。『ひンダレル』=非常に疲れる。
この『ひン…』を冠した『尊・命』の意が、中国の書記官に『卑彌呼』の文字使いをさせたと。後世の倭人がこの「卑しく彌(いよいよ)呼(さけ)ぶ」と言う鬼道の表現と卑文字を嫌って『天照大神』に代えたか?。
『阿毎多利思比孤』(アメノタリシヒコ)と、隋書にあるのが、倭人の発音であろうかと。
『天…』とは、「高天原(たかまンばる)」の在る、地域の意。『多利思比孤』=“??”(dal-da=属する=垂れる)日子。 高天原の出自の「大神」=『天照大神』である。
「高天原」、邪馬臺國、邪馬壹國、の語源は、私のHPに掲載しています。BBSの過去記事 ≫ 印をクリックして下さい。


斎藤武司 大国主命 HP H12/1/19
毎年5月14日の勅祭に御招き戴き参列の栄誉を賜っている者です。天皇家より勅祭社のご指定を受けて居られるとの話しをお聞きしまして、誠に光栄な事と深く感謝しています。 大国主命様は偉大なる通力をお持ちの方と承っています。何だか私もご縁を頂いてからは人生がスムーズに流れる様になった気持ちです。 また出雲大社へ出向く事が待ち遠しく思えています。心が休まり何とも言えない清浄な気持ちに成れますので、大変嬉しく心急いている次第です。 如何にせん東京・立川からではかなりの距離がありますから、思い立ったら直ぐにともゆかず、その日が来るのを待ち望む日々でも有ります。記紀等の古文書に啓発され探求が始まりましたが、今では日本の古代にはこの様な歴史が有ったと疑う事も無くなりました。 これも古代神の御力でしょうか。この事を模索するうちに「古代気」の働きを知り、今では「シンキ・サークル」というグループが出来ました。この「気」は大変威力があり、多くの人々に喜んで頂いている現在です。


斎藤武司 宇宙とエネルギー HP H12/1/19
宇宙の始めから神は存在されたのだろうか、『神』とはどの様な存在なのか、について独断と偏見、計らいと妄想で綴ったレポートです。


瀬藤禎祥 天照大神 H12/1/18
わざわざ伊勢神宮にまで問い合わせて頂きありがとうございます。
出雲で鉄の配分を決める会議との説もありますね。国津神の集いかも知れません。
まさか卑彌呼から連想したのではないでしょうが、天照大神は後世に構想された神ともされています。 この神が日本の最高神である所以がどうも分かりにくいですね。九州王朝の最高神もやはり天照大神でしょうか。 もしそうすると大和と九州は同根と言う事になり、分離もそれほど古いことではないと言うことですね。


福島雅彦 出雲詣の事 HP H12.1.18
早速、伊勢神宮に電話でお尋ねしました。
『伝承の上の神話であり、天照大神は、御社を出られることは無い』との御返事でした。
博多の総鎮守『櫛田神社』の主祭神「大幡主大神」も、脇神として左右に「素盞嗚尊」と「天照大神」が祭って在ります。
福岡県神社庁に出雲詣の件を訊ねました。
『神様の全国大会の様な行事だから、来賓格でお出ましあるかも…』との御返事でした。
『愚説』
卑彌呼も天照大神も『天――皇』(アメノスメラミコト)の前身的職掌名であり、『あめのすめらみこと』の音読みから『天皇』と言う名称が派生した。『あめの…』までは九州皇統の名称で、音読みの『天皇』からが、畿内皇統が横取りしてからの名称だろうと。
出雲の『大国主尊』も素盞嗚尊の子とか、5〜6世孫とか諸説在る。 別名も「大穴牟遅神、大己貴神、葦原醜男」とあります。 これは、全て「製鐵王」の意味の食職掌名ではないかと思われます。
素盞嗚尊=“?”(soe=鉄)産王。
「葦原醜男」=原始製鐵は野火で火力を得ていて、顔を遠赤外線で焼け爛れていた。
「大穴牟遅神、大己貴神」=火を大穴(窯)に閉じ込める技術革新をした。
「素盞嗚尊」=製鐵爐を完成させた。
製鐵の長(おさ)の職掌名であるから、何代も何人も居た。
従って、代々の『御霊』を祭っていて、その御霊を尊崇する立場の神々が、お詣りに成ると。
高良大社の歴代『卑彌呼の御霊』と素盞嗚尊より上位の『天照大神』はお出ましが無い、と。愚考致します。
高良大社の『玉垂=御霊』は、近畿皇統に憚って由緒不詳にしたものであろう、と。今の武内宿禰説は、後世のコジツケであろう、と。


瀬藤禎祥 三国志の馬超、馬岱も守り神。趙雲も! H12/1/17
 御所の御門巫祭神8座は4正面に櫛と豊の石窓神が鎮座しています。
神社の入り口には鳥居があります。東南アジアでは木の棒の上に鳥の模型をかざり村の入り口を守らせているそうです。
悪しき神々は蠅の如く空から侵入するとも思われていたはぜです。鳥神でなければ門を磐の如く強固には守れないと言うことです。
豊はホーで梟すなわち夜の守り、櫛は例えば鶏で明るい時を守る。鳴き声がクシイーと聴き取れるような鳥はありませんかね。

社日は泉州の男乃宇刀神社??だったと記憶していますが、一度だけ見ました。和歌山にはなかったようです。

 福島さん、ありがとうございます。玉垂尊は物部胆咋連が祖神として饒速日命を祀ったとか武内宿禰と説がありますね。大化の改新が不首尾であったら、武内宿禰は高御皇産靈神の地位を得ていたと言われます。この神や天照大神も出雲へ行くのでしょうか。

風姿 初めて書き込みます HP H12.1.17
掲示板があったのですね。気づきませんでした。
リンク有り難うございます。時折寄らせていただきます。


福島雅彦 筑紫の語源その他関連に就いて HP H12.1.17
御無沙汰致しました。スッカリ様子が一新されていて驚きました。
福岡県浮羽郡に(旧名)『水縄連山』(新名=耳納山)が在ります。東西約25qの単山(屏風山)です。 一山にして、二つの形容を持っています。 『千本の串で梳った様な谷、沢』と『千の尾根は頂上に千の頂き(穂)を形成』しています。文字通りの『筑紫の櫛触る・高(集ッ)千穂の嶺』です。高いは、『寄って集(たか)って』の当て字です。
天孫降臨の舞台の山は一山の表現ですので、ここが其の地です。 水縄山の名前も、韓半島の『彌嗚邪馬國』の倭人の移転地名であろと。 この山の東の端に『〜原(ばる)』の小字地名が百ヶ所近く犇いている所があります。『高天原』(たかッあまンばる)です。原が寄って集っている所です。
西の端に『高良大社』が在ります。ここの御祭神は「玉垂尊」ですが、左右の脇神様が「八幡様」と「住吉様」です。この「玉垂尊」は、余程偉い神様だと見えて、神無月にも出雲大社へはお出かけに成りません。近畿地方にも、この様な偉い?神様が坐しますでしょうか。
筑紫とは、「ちくし=千串(櫛)」で、奇しとは、この山が北斜面で照葉樹、落葉樹に覆われ、冬の積雪と落ち葉の保水力で古代に在っては天然のダムの役割をし、稲作に十分な水を供給した事に由来する。現在の平野の穀倉地帯は、低湿地の荒地で洪水の危険があって、貴重な稲など植えられなかった。水縄連山北麓の地名に『草野、竹(たか)野、北野』が並んでいるが『奴(ぬ、の)國』七萬戸の地である。

古代の稲作は、積雪の在る北麓が主流である。大分県の祖母傾き山系の北麓の「大野郡」、福井・岐阜両県に跨る「大野郡」その他、日本地図で、北麓に「〜野」の地名は30ヶ所は見付かるでしょう。もう一つの『奴國』二萬戸は、背振山系北麓の「筑紫野」です。『竹野』が、「集ッ野」である事は言うまでも無い。丹後半島の北麓にも全く同じ『竹(たか)野』が在る事でも判ります。
未だ述べ足りませんが、長いとダレますのでこの辺で…。


松岡 Re:社日追加情報 H12/1/16
> 金鑚さん@埼玉から追加情報です。
「社日」の情報、ありがとうございます。
全国各地にあるようですが、出雲以外で見たことがありませんでした。
近畿の神社にはあるんでしょうか。 九州の神社では、「猿田彦命」の石碑は多くありますが。

瀬藤禎祥 社日追加情報 H12/1/15
金鑚さん@埼玉から追加情報です。
社日塔は、その地域の五方から土を集めてその上に建立する場合もあるようです。
神様の向きもあるようです。神様の相違するものも確認されています。


松岡 Re:櫛は奇、奇は和? H12/1/14
> 櫛を奇とすれば、奇魂は和魂「にぎたま」ですから、豊は荒に対応できます。「あらたま」です。
「櫛」を奇霊とするなら、「豊」は「幸霊」ではないでしょうか。
> 一柱の神から二柱できるのはニギとアラが素直な感じです。
天石戸別神は、門の存在・生成あるいは、道を切り開くという行為の神格化で、別系統の神ではないでしょうか。 中国道教の門神は、すでに二神です。2・3世紀の山海経にも登場する「神荼・鬱塁」が始めだということです。 ですから、日本に門神の概念が輸入された時点ですでに、二神であったと思います。また、狛犬や仁王との関連も考えられますが。
>クシフル岳は筑紫でしたか、このクシが源でしょうか?
ニニギが降臨した高千穂の峯ですね。広義の筑紫です。


瀬藤禎祥 社日 H12/1/14
 神社オンラインn/wなる所に質問を出しておきました。
300人以上メンバーがおられるのですが、埼玉の金鑚俊樹様 PXU10537@nifty.ne.jpさんが答えてくれましたのでそのまま掲載します。
〒367-0233 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮751
「しゃにち」と埼玉北部では称します。5角柱でして、祭神名がほられています。アマテラスオオミカミ・ウカノミタマ・ハニヤスヒメノミコト・スクナヒコナノミコト・オオナムヂノミコトの5角柱です。 今は石造がすべてですが、木製もあったようです。このあたりでは、文化文政期から多くみられます。埼玉でもこの北部は社日様は多いです。神社の境内にもありますが、まったく関係のない辻にもあったりします。春・秋の社日に泥団子をそなえたりするのではなかったかなあ?
五穀豊穣の神と理解しています。神職が社日に奉仕する場合もありますがほとんどは、郭(くるわ)の行事として内々で行われます。
http://quartet.nijl.ac.jp/IKDBpublic/IKDB.html上記の国書総目録で検索しました。
【書名】春秋社日・義 (しゅんじゅうしゃにっしょうぎ) K 1 【巻冊】一冊 【角書】神仙霊章 【分類】農業 神祇 【著者】 [1] 大江/文坡 (おおえ/ふみひろ) 作者へ (別称No=7) 【成立】天明元序
1770年ころに刊行されたこの書籍が社日のブームをつくった様です。社日に関した論文もあるらしいのですが小生は未見です。
著者の大江さんは、たくさん書籍を書いています。占いものが多いみたいですね。
社日も大陸に由来するものかもしれません。

瀬藤禎祥 櫛は奇、奇は和? H12/1/13
 櫛を奇とすれば、奇魂は和魂「にぎたま」ですから、豊は荒に対応できます。「あらたま」です。
一柱の神から二柱できるのはニギとアラが素直な感じです。
クシフル岳は筑紫でしたか、このクシが源でしょうか?


松岡 Re: 武内宿彌の出身地 H12/1/12
> 古事記の孝元天皇の条に、孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とあります。
『本朝神仙記伝』に、「公卿補任に、或本に云ふ、武内宿禰は、孝元天皇の玄孫、彦大忍信命の曾孫、屋主忍命の孫、武緒心命の子なりとある」、また、「紀氏系譜には、武内宿禰は、景行天皇三年、紀伊国において、誕生とも、紀伊国名草郡宇治郷に誕生ともある」とあります。
ある書には、武緒心命は、屋主忍男武緒心命とし、彦大忍信命の子としており、そうなると、一世代少なくなります。


松岡 Re:「筑紫」の由来・語源は H12/1/11

>「筑紫」の由来・語源が決め手になるのでしょうね。
「筑後国風土記」(逸文)には、「人命尽神(いのちつくしのかみ)」という悪神に困り、その神を祀って被害をなくしたことにより、「筑紫」となったとあります。ですから、「人を殺しつくす」も根拠の無いものではないでしょう。
「櫛=筑紫」は、単なる思い付きなです。他の思いつきで、「櫛=奇なら、豊=偶か」というのもありますが、これだと、豊=No2、に近い印象ですが。


瀬藤禎祥 「筑紫」の由来・語源は H12/1/11

兵庫県多紀郡篠山町福井に鎮座する櫛石窓神社は式内社(二座を祀る)で二座とは櫛と豊の石窓神であろうとおもわれますが、現在は大宮姫も祭神です。由緒書きによれば、天石戸別神亦名謂櫛石窓神亦名謂豊石窓神此神者御門之神也云々とあり、(途中略)豊磐間戸命櫛磐間戸命二神をして殿門を守衛せしむ是太玉命の子なりとあります。またの名と言いながら、二神とも言っています。
筑紫でも豊の国でも神社の祭神の記載順位は櫛が先になったり豊が先になったりです。国名との関係には疑問もでます。
門番・歩哨は複数で行うのは理にかなっています。一柱の天石戸別神を左右においたのでしょう。区分の為の美称として「櫛」と「豊」とがつけられたとしましょう。
さて、なぜ櫛と豊か、問題はここですね。国名との関係では筑紫の語源が何であるか、豊の語源が何であるか・・?
五十猛命の別名かもしれない白日別命を祀る筑紫神社の由緒には、筑紫の語源は出ていないようですが、その隣の荒穂神社にまつわる民話に「人を殺しつくす」「木を切りつくす」など、取るに足らない地名説話しかでていません。
「筑紫」の由来・語源が決め手になるのでしょうね。


おはん Re:龍を祭神とする奈良のお寺 H12/1/9
レス ありがとうございました〜〜♪
助かりました。母に尋ねられて せっかくネットで調べると豪語したのに見つからなかったら悔しかったもので・・・(笑)
ホントにありがとうございました!


松岡 Re:龍を祭神とする奈良のお寺 H12/1/9
> 実は私 龍を祭神とする奈良のお寺を探しています。
「寺」に関しては知りませんが、室生寺そばに、室生龍穴神社があります。
祭神はタカオカミですが、拝殿には、「善女龍王社」とあります。弘法大師が神仙苑で雨乞いをした時に現れた神です。


おはん 龍を祭神とする奈良のお寺 H12/1/9
はじめまして!
素人にはちょっと難しいHPですね。
でも 好きな人はすっごいはまりそうなトコ・・・
今は大阪に住んでいますが もともと奈良人なので大和三山とかぐらいは知ってますよ(耳成高校出てるし(笑))
実は私 龍を祭神とする奈良のお寺を探しています。どうも TVで出たらしいのです。ご存知だったら どなたか教えてやってくださいまし。
また 遊びにきます。ゆっくり読んだら楽しそうなHPだから・・・  


松岡 Re:住吉と和歌山の話題ならびに櫛と豊 H12/1/8
> 櫛と豊とは供に美称であると伊太祁曽神社の宮司さんが言っていました。

たしかに、「美称」ではあるんですが、「櫛磐門命と豐磐門命」と、対になっているので、上・下、左・右、表・裏、男・女、陰・陽といった概念がそこにあるように思えます。
また、櫛=筑紫、豊=豊前豊後と考えると、中心は香春から阿蘇、霧島辺り、というのは、飛躍しすぎですが、何らかの「差」や「区別」があるのではないでしょうか。


瀬藤禎祥 H12/1/8   住吉と和歌山の話題ならびに櫛と豊

 摂津の住吉大神の荒御魂は船玉神だそうで、元々は神功皇后を祀る第四殿の前に鎮座していたようです。 船霊は筒と言われますね。この船玉神を祀っていたのは紀の国の人々だそうです。 「住吉大社神代記」にはこの船玉神社が紀三所神とされる伊達神社、志摩神社、静火神社の本社としています。 それぞれ和歌山市内に鎮座しています。日神をのせた船を武内宿禰が祀ったのが紀三所神とされます。 また紀氏の斎祀る日前国縣神宮にも日神、船と伝承があります。 紀ノ川右岸の那賀郡打田町には船玉神を祀る海神社が鎮座、この神は熊野の海中に出現したとされています。
同じく熊野から来た神で和歌山市内に力侍神社が鎮座しています。この社と名草戸畔との関係を研究している人がいます。

 櫛と豊とは供に美称であると伊太祁曽神社の宮司さんが言っていました。
 明日から熊野の新宮をうろついてきます。



ゆか H12/1/7 丹生川上天手力男意気続々流住吉大神

 瀬藤さま、ご丁寧なレスポンス有り難うございます。
 ひとつひとつ説得されてしまってしょげているところです。探してもムダなのかなぁ、と。紀ノ川右岸はどうでしょう?
> 住吉は息長足姫と密接で意気続々流はこれを連想させます。
これらを組み合わして題名の神名となったのでしょう。
これには気がつきませんでした。
 紀ノ川沿いの地名には上中下を冠した地名が散見されます。ご指摘の筒香もそうですよね。 この紀ノ川沿岸は、住吉三神と因縁があるのだろうと思います。 「神代記」には、住吉三神を筑紫大神とも書いています。 北部九州から、瀬戸内を通り、紀ノ川を溯上した、そんなふうに想像しています。 御所へ行きますと、高鴨神社がありますよね。 彼等が道案内をして、五條、御所、そして橿原へ行ったのか、紀ノ川をもう少し溯上して、吉野、宇陀、桜井と行ったのか、その事が、神武の事績と神功応神のそれとが重なっているように見えて仕方がないのです。  もっともこのあたりは想像です。
 神社について、またお尋ねします。その節もまたどうぞよろしくお願いいたします。 


瀬藤禎祥 H12/1/7  丹生川上天手力男意気続々流住吉大神
ゆかさん、カキコありがとうございます。
和歌山の神社のことですので、掲示板管理者自身で答えを出してみます。
結論としては現存していません。伝承も残っていません。事実とすればこの地域に点在する丹生神社に吸収された後退転したのでしょう。
住吉大社神代記は平安前期以降の偽書とされていますが、その中に丹生川上社が出てくるには以下の事が考えられます。
 丹生川の川上には富貴村筒香と言う地があります。タタラのフキの富貴は丹生都比売を鎮め祀った藤代の峯があるとされています。
 富貴村筒香は「つつ」が住吉を連想させます。ここには藤代の峯があるとされ、問題の場所です。現在特定できませんが高野山にお住まいの安井史郎先生が相当な所まで探されています。
 赤土の地で水銀や褐鉄鉱が出ていたようで、鉄が作られていたかもしれません。鉱脈が尽きたのか丹生都比売も播磨へ遷っていますが、鉄を取る船木氏も播磨へ移っています。この船木氏は伊勢の出で三重県多気郡多気町大字仁田156に佐那神社があり「天手力男命」を奉じていました。
住吉は息長足姫と密接で意気続々流はこれを連想させます。これらを組み合わして題名の神名となったのでしょう。(参考:真弓常忠氏古代の鉄と神々)


ゆか H12/1/7 丹生川上天手力男意気続々流住吉大神

 こんばんは。はじめて投稿いたします。どうぞよろしくお願いします。
「住吉大社神代記」に、「凡そ大神の宮、九箇所に所在り。」 そのなかのひとつに、
・紀伊国伊都郡 丹生川上天手力男意気続々流(あめのたちからをおけつづくる)住吉大神とありますが、この神様を祀った神社を探しています。お心当たりはありませんか? 


松岡 櫛と豊 H12/1/6

ちょと遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

九州の神社には、大抵、門守があり、櫛磐門命と豐磐門命が祀られています。櫛と豊の違いは何でしょう?

出雲大神の食事係(膳夫)は、櫛八玉です。熊野大社の祭神は櫛御食野命です。イザナギが投げた櫛は、タケノコになったけど、櫛は食と関係あるんでしょうか?

もう一つ質問。
出雲の神社には、神々の名を各面に刻んだ多角形の石柱が必ず在ります。境内図には「社日」とあるんですが、なんと読むんでしょう。


瀬藤禎祥 H12/1/2 石上神宮に十種神宝がない!

 神社は行ってみないと解らないものがありました。
大阪平野区の楯原神社へ初詣に行きました。なんとその神社に神宝十種の宮があり、説明板を見ると、織田信長時代に石上神社から持ち出されたとされる十種神宝が祀られていました。 石上神宮からの返還要請を断って祀っているようです。詳しくはHPで。


瀬藤禎祥 H12/1/1 山下影日賣追加

八女郡水田町大字月田字宮脇の玉垂神社には武内宿彌、比古布都押信、山下影日賣、味師内宿彌が祀られています。

中津彦 HOME H12/1/1 おめでとうございます

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします


瀬藤禎祥 H12/1/1 武内宿彌の出身地

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
古事記の孝元天皇の条に、孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とあります。和歌山市安原に武内神社や武内宿彌誕生井があります。 一方、佐賀県武雄市に武雄神社が鎮座、やはり武内宿彌誕生の地と伝わっているそうです。
 小生は和歌山県の出で、和歌山に軍配を揚げたい所ですが、父親とされる比古布都押信命(比古太忍信命)と母親とされる山下影日売を祀っている神社を探してみました。
父親 佐賀県伊万里の伊萬里神社、鹿児島県川内市の新田神社摂社武内社、近畿地方は京都府天田郡三和町の梅田神社一社
母親 福岡県宗像郡玄海町葛原神社、福岡県小郡市の竃門神社 やはり近畿地方はゼロ
日本書紀では父親は武屋主忍男雄心命となっています。母は影姫。 この父親 福岡1、佐賀2、長崎1に対し近畿では滋賀に3と同数です。 紀氏の誰かが赴任して祖先を祭ったかも知れませんが、肝心の和歌山が皆無とは(!!)
ひょっとすると応神期あたりまでの木の国とは基山のある基肄あたりでしょうか。荒穂神社もあるんです。五十猛命のルーツにも関わる小生にとっては大問題なのです。
なお本人の武内宿彌は八幡神社とともに多く分祀されていますが、奈良3、和歌山14社に対して福岡138社佐賀32社大分69社と九州勢が断然多いようです。


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