掲示板のログ(平成12/3月) お名前の敬称は略させて頂きます。



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更新 H12/3/31


ながたてつや H12/3/31
はじめまして。ながたと申します。数年前に神社に格付があることを知って以来、神社巡りにはまっています。昨年このHPを知ってからは延喜式内社も回れるようになってますます拍車がかかってます。
関東で式内社を沢山回りたいのならまずは三島周辺がお勧めです。(関東ではないですが・・・)名神大社の三島大社、楊原神社をはじめ、10数社の式内社があります。
韮山、伊豆長岡、修善寺といった温泉もありますし、レンタカーを借りられれば更に沢山回ることが出来ると思います。
もしくは、水戸周辺ですね。市内に常盤神社、護国神社、水戸東照宮の3つの別表神社と吉田神社(名神大、県社)が近くに固まってます。海側に足を伸ばせば大洗磯前神社、酒列磯前神社がありますし、山側には静神社、稲田神社(ともに名神大)、笠間稲荷神社(別表神社)などもあります。
香取神宮は最寄駅の佐原から若干遠めですが、香取神宮〜鹿島神宮〜大洗〜水戸と北上されたら如何でしょうか?
皆さんのように詳しい知識はありませんが、参考にしていただけたら幸いです。それでは失礼致します。


玄松子 HP H12.3.27
>千葉県の香取神宮と茨城県の鹿島神宮は比較的近くです。
そうですね。関東ではこの2つは押さえておきたい所ですね。
>日本最北の式内社は確か志賀理和氣神社(岩手県紫波郡紫波町)ですね。
岩手ですか。温泉神社ですか。
なるほど、ゆったりのんびり神社を巡るのもよいかもしれません。


Setoh H12/3/27
>今年は長期の休みを
メーカーなら5/2を休めば9連休がありますね。
日本最北の式内社は確か志賀理和氣神社(岩手県紫波郡紫波町)ですね。
温泉神社と云う式内社もあります。神社と温泉、すばらしき風流を楽しんで下さい。ついでに温泉紹介などお願いしたいですね。

 全然話が違うのですが、素盞嗚尊を祀る式内社で格の上の神社が和歌山の有田の須佐神社です。由緒に、伊太祁曽神社が日前国懸神宮に社地譲りをしたのと同時期に、大和は芳野の西川峯から遷座して来たとなっています。元の場所は特定できません。 西を東に、川を山に読み替え、逆さまにしますと、山東となり、伊太祁曽神社が遷座した場所になります。ところてん方式の神社の遷座ではなかったかと想像しています。山東に須佐神戸が伊太祁曽神戸と並んでありました。これを傍証としているのですが。・・・


てっちゃん H12/3/27
>玄松子様
千葉県の香取神宮と茨城県の鹿島神宮は比較的近くです。一応、総武線と鹿島線でつながっています。
二つとも重要な神社なのに東京から少し離れているのであまり遠くからの観光客は来ないらしいです。


玄松子 HP H12.3.26
今年は長期の休みを取って、関東・東北へ行ってみようと考えていますが、どこかおもしろそうな地域はありませんか。
できれば、神社がごそっとかたまっている場所がいいんですが。


Setoh H12/3/23
香春岳と大元山への登頂は出来ませんでしたが、香春岳の惨状にはびっくりしました。およそ、神が鎮まっている山をゴリゴリ削る神経は何でしょうね。神体山ではないのですね。近江の伊吹山もまだ形は変わっていませんが、やはり削られていますね。
セメント事業が香春町の主要産業だそうです。故郷の山を削って生きていく、これは故郷の地下の石炭を掘って生きていくのと同じ発想でしょうね。
2年前の台風で紀伊、大和の山々は大きい被害を受けました。古来、その様な風が吹いたことがないとされた所に猛烈なのが来ました。山間に道路を通すために、山を削り崩して行くので、風の道が変わってしまったと聞きました。
神が鎮まる事にしておくとは、そこを大切に保存せよとの古来からの知恵なんでしょうね


Setoh H12/3/21
香春の三の岳の麓の清祀殿でおもしろい物を見付けました。 三つの磐座です。この地が清祀殿跡の唯一の証拠だそうです。
出来上がった銅鏡をここに奉じて先に祀ったようです。 原初宇佐の姫神が大元山の三つの磐座だそうですが、750年頃には、これら姫神は、出先へ行く検収員ですね。 召使いの立場に落ちていたのでしょうかね。


玄松子 HP H12.3.16
玄松子の宇佐神宮に大元神社(御許山)の写真を掲載しています。
拝殿裏に鳥居があり、周囲は有刺鉄線で囲まれています。
夕方に行くのは、ちょっと怖い。


てっちゃん  H12/3/16
宇佐は本当に興味深いところです。 いろいろと調べて来て下さい。
前に大元山(御許山)は神域で入れないといいましたが 神域で入れないのは三本の柱の御神体の回りで近くまではいけるようです。 昨年、僕が行った時は行きのがしてしまいました。 また詳しくお教え下さい。


Setoh H12/3/16
豊の國の散策を前に調べておりますと、多くの秦氏がいたらしい事が出てきました。「多く」=「八orや」で、やはたでしょうか。
豊はホウで梟を連想します。おとなしい目立たない鳥だと思っています。まるで、古代の秦氏で、相当な勢力があったはずなのに権力的ではなく、ひたすらお上の為に働いた実直な民人・職人を見る思いです。まるで、日本人の原点を見る思いですネ。
以下、焼尻氏から頂いたメール概要
ネパール語でふくろうはulluだそうで、同時に ullu には「バカなひと」の意味があるそうです。この日本列島では、ある時期に「ふくろう」への評価が違っていた。バカ呼ばわりするヤツはモノノベ、多氏などの筑紫系ではなく、沖縄宮崎神武〜シナ、朝鮮系金属製錬士であった。東に逃れた旧出雲勢はガンとして、ふくろうを窯焼きの神とし続けた。西日本は「ふくろう」をやめてカラスに統一しようと計った。そのあとカラスはいやじゃという朝鮮系白金属製錬士がこうのとりや鶴をシンボルとした。
との事です


玄松子 HP H12.3.13
>推定される神社群 は全て神社庁CDに在りますので現存でしょう。
そうですか。じゃ、行かなきゃいけませんね。
>*7 宇佐神宮摂社北辰神社
これは、本宮廻廊の中にありますね。


Setoh H12/3/13
連休最後の日は宇佐でのんびり  HP原稿から
 「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと云う。
 辛嶋氏は伽耶国亀茲峯に酷似の宇佐郡稲積山*1を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称したらしく、ここに辛国神が降臨したとして、のちこの神は乙 (おとめ)社*2、泉社*3、瀬社*4、崇峻(すしゅん)天皇(588〜592)の御代 蘇我馬子(そがのうまこ)の時代に 鷹居社*5 、 改新後の 天智(てんじ)天皇(662〜671)の御代に 小山田社*6を祀ったという伝承がある。 更に、天智天皇以後に小倉山に入り宇佐氏と共同して 北辰社*7を設けたらしい。
推定される神社群 は全て神社庁CDに在りますので現存でしょう。
*1 宇佐市大字中561番地 稲積六神社
  *2 宇佐市大字下乙女1343番地 乙盗_社
*3 宇佐市大字辛島1番地 泉神社
*4 宇佐市大字樋田187番地の1 郡瀬神社
*5 宇佐市上田字高居 宇佐神宮摂社鷹居八幡神社
*6 宇佐市大字北宇佐2389番地の1 小山田神社
*7 宇佐神宮摂社北辰神社
でした。


玄松子 HP H12.3.12
宇佐神宮について。
起源で記述されている、鷹居社や小山田社は現存するんでしょうか。
こんど探しにいってみようかと考えているんですが。


てっちゃん  H12/3/9
瀬藤様 宇佐の件
>八幡の神鏡は香春製
> テッチャンの大元山では三本の棒状の石が御神体
>可能ならば確認したいですね。
ここは神域で三輪山のように禁足地になっているようです。
近くまではいけるようです。ただ京石といって同じようなものがたんぼの中にあったりするそうです。


自称:大和のアマチュア考古学者  H12/3/9
>巻向からの山越えの道・・・そうですよね。古地図によると、三輪山からは、放射状に登山道がありますが。 狭井神社の登り口からしか登らせていただけませ〜ん。
ただ、頂上右手奥に獣道の様な道があって、降りていくと脇本あたりには辿り着きそうですね。
やみで・・・なんてことは、ちょっと発言できませんし。


玄松子 HP H12.3.9
>頂上から降りる際、一本道で狭井神社の登り口に戻ってしまったような気がします。
測地測量関連のHPで見たことがありますが、巻向からの山超えの道があり、そこからも三輪山山頂へ行けるようです。ただし、ほとんど道の無い道で、それなりの装備等が必要かもしれませんし、「神奈備」ですから、狭井神社からが正しい登り方でしょう。 測地・測量や森林の管理・維持など、公共の福祉に従事する方々は別ですが。


自称:大和のアマチュア考古学者  H12/3/9
またまた、久しぶりに投稿させていただきます。
★三輪山、一本道で狭井神社の登り口ですね。そこしか、通行させていただけませんからね。
★東西に通る「太陽の道」桜井市職員さんたちがこのページで発信されてます。
http://www2.begin.or.jp/sakura/whnew4.htm


Setoh H12/3/7
ユカさんが正月早々に、「住吉大社神代記」に、紀伊国伊都郡の丹生川上の天手力男意気続々流住吉大神なる神社をお探しとの書き込みを頂きました。
浅学なる小生は丹生川上で紀ノ川の南側を天手力男と住吉大神関係を探して、見つからないものですから、
>現存していません。退転したのでしょう。
等と答えましたが、実は伝承を伝える神社が現存していました。すみませんでした。お詫びして訂正いたします。
紀伊續風土記の伊都郡相賀荘胡麻生村の條に『八幡宮 境内周五町 とあり、本國(紀伊)神名帳に天手力雄氣長魂住吉神あり即此八幡なるへし』とありました。
現在は相賀八幡神社(橋本市胡麻生238番地 南海高野線御幸辻駅東1・5km)です。 祭神は誉田別尊、足仲彦尊、気長足姫尊です。由緒書きには、本来あった由緒深い神社に石清水八幡から勧請した八幡宮を合祀してしまい、八幡神社になってしまったと出ています。
お詫びの印になんとか3月中には参詣してHPに掲載をしようと思っております。


Setoh H12/3/6
 三輪山には磐座が多いと聞きますが、なかなか探検は難しいようです。
学者さんの中には弟子を神職として送り込んで、報告を受けている人もいる様です。
昔、蝦夷が近くに住んで、入山して木を伐ったりして、放逐されていますね。
頂上から降りる際、一本道で狭井神社の登り口に戻ってしまったような気がします。

 少し北の檜原神社は東西に通る「太陽の道」にあるとの説があります。
西へは等距離に神社が鎮座し、穴虫峠(二上山の北側で大和から地平線に日が沈むのが見えるとか)、更に淡路の伊勢の森へ
東へは、長谷の天神山山頂を通り伊勢神宮へと行きます。
小川光三氏の大和の原像から


玄松子 HP H12.3.5
昨日、大神神社へ行ってきました。
雨だったので、三輪山山頂へは登りませんでしたが、徒歩で桜井周辺の式内社も見てきました。
末社の金拆社を探して三輪山へ入りこんでしまいましたが幾筋も山頂への道はあるようですね。


玄松子 HP H12.3.5
「杜撰」とは、宋代の詩人・杜黙の詞が韻律を無視したもので、その著作集(撰)が、あまりにも出鱈目なものだったことに由来する、と記憶しています。


ずーサン H12/3/4
「杜撰」は、宋代の故事にちなむレッキとした中国語で、「出典もないことを妄りに述べる」という意味だったはずですが…


Setoh H12/3/3
 焼尻紋次郎さんのスサノヲ説
  ネパール、アイヌ、日本語ともに「杜撰、syushan(アイヌ語 ; そまつな)」があります。 日本語の「杜撰」の文字はアテ字です。  結論から先に言ってしまいますが、スサノオの「sunan」は、このズサンだということです。
* 「あいつが歩いた跡には草も生えない」という表現があります。スサノオとはそういう神様だったす。
* 九州には「スタクネェ」という言葉があります。やったあとに行ってみたら、「もう、ざまぁねぇ」という意味です。すた「スタ」と「スサ」が似ています。
* 「吹きスサブ」は「吹き荒ぶ」とも書きます。「すさんだこころ」は廃虚に近い概念です。
  * 遠く起源地(らしい)インドを見ますと、「神様だけが善いことをして、人間はこれに振り回されている。もう二度とこんな人間には生まれたくない。早く転生の循環の輪の外に逃げ出し(解脱し)たい」というのがヒンディーの考え方です。神は自分勝手に暴れまわるのが、本来の姿です。神が暴れたがっているワケは、人間の知るよしもない。しかし、暴れたがっている神を暴れさせないでおくと、その腹いせに何をされるかわかったもんじゃない。この恐怖が暴れミコシの原形でしょう。わきゃわからんが、神とともに命がけでバカをヂでやるのが、日本の matrix です。諏訪の御柱祭りです。それはヒンディーだけでなく、ギリシャのバッカスにも残っていると言えそうです。
  * 時間経過の順序や、時代設定はわかりませんが、日本列島にはヒンディー的(インド・土民的)なインドと、バラモン・サンスクリット的な集団との二つの、異質インド文化が入ってきています。バラモン・サンスクリット文化の中核は「破壊と創造」をスローガンに掲げる國造りのシバ神です。インドのどこかはわかりませんが、厖大な地域の森林が火災で燃えたあと、そこが“国土”となったのでした。これが破壊と創造の原形です。日本の「くさなぎ」とは、「民・草」を焼き殺した「N・ag(火)」だと考えられます。スサノオが日本の広域で matrix に担ぎだされているのは、地域社会を単位とした国家集団形成作用です。
* 「ズサン」の語源
  「ズ」は神名に出て来る「神」でしょうが、その前は *du , *dhu の“鳥”だと思われます。古代人が、ここまで高級な考えに辿りつけるかどうか……ですが、現代人にわかるように表現すれば、こうなります。即ち、アマ(天上界)に群れあそぶ精霊も鳥と同じ“dhu”だった。その群れのうち、まかり間違った暴れ者が、スッテーーンと天上界から転がり落ちてきた。この「落ちる」が sanで、「ずさん」が原音で、発音できないアイヌは、これを「シュシャン」と言った。語頭濁音を嫌う倭人も、こと神の御名のこったから「スサン」と言った。
スサン の お の みこと 


か よ HP H12/3/1
たまたま、土曜日 名古屋市内の『高座結御子神社』の写真を撮りに行き、高倉下命をお祀りしてあって、何故『座(クラ)』なのかな?
と素朴に思っていたので 『クラ』の解説、大変参考になりやした!


Setoh H12/2/29
 焼尻紋次郎さんからの「かまくらの語源」
 「クラ」には次のように、いろいろな意味があります。
 日本語として知られているものは「位、暗い、喰らい、倉、鞍」でしょう。
 しかし、もっと掘り下げてみると、kura にはネパール語とも同根をもっている「劇場などが“あいている”」という意味と、「物、語り」、それに被覆形で得られる「 kura(座)」があります。
 上にあげた日本語の「クラ」のうち、「位」は、天皇の前での席順からでたもの、「鞍」は「座」であることが分ります。
   むかし、自給自足が一般的だったころ、消費物資は、ほとんど皆、自分たちで作りました。壷や皿などは使っているうちに割れるので、ときどき作らなければなりません。それは村や集落ごとに共同でやります。
 粘土からレンガをつくり、これを積み上げて窯を築き、三日三晩がかりで薪をくべ続けます。そうしていよいよ窯を開くとき、 「おうい、窯クラァ〜」という声が村じゅうにふれられたことでしょう。ここで「クラ」と書いたのは「開く」という意味です。そのとき、村びとたちは、自分が作ろうとしていた製品が立派に上がっているかどうかに、こころを弾ませて集まり、搬出作業を共同で行ったことでしょう。
 この窯焼き〜窯開きは、夏の暑いときを避けて、冬にとり行われたでしょう。
 製品が運び出されたあとの窯には、まだまだ余熱がこもっていて、二日間ぐらいは暖かかったはずです。そうなると、そこは子供の遊び場です。ゴザや藁を敷いて座(クラ)を作って、いろんな物(クラ)を持ち込んで、たのしい遊びや語らい(クラ) が、夜おそくまで続けられたにちがいありません。
 陶器を村で焼かなくなったあとも、子供たちはその楽しみを忘れません。雪で窯を作り、クラを楽しんだのでした。
 一大事変が勃発したとき、大人たちは「すわ、カマクラ」と言いました。この「カマ」はうるさい、けたたましい響きです。この場合のカマ・クラは「騒音・事」です。 アイヌ語では kuma (大轟音)となっていますが、日本語、ネパール語では「カマ」です。
 「すわ・カマクラ」のスワは、もとは「そは(それは)」だったのですが、ネパール語のswal(神)を受けて、「スワ」へと音が変わったものと見受けられます。
 諏訪の神様はその後、ただの神様から「軍神」へと変身しています。


か よ HP H12/2/29
うわあ、、宇佐にご出発?いいなあ・・
中野幡能氏の『八幡信仰と修験道』を読むと香春岳神社は 豊日別神社、赤幡八幡と放生会と言う儀式で 深く繋がっているとあります。
一つの神社で 全部行なわず、他社も巻き込んで儀式を行なうところに興味が沸きます!


Setoh H12/2/29
 3月の3連休に香春、行橋、宇佐を回ろうと思っています。
行橋は清地神社
 素盞嗚尊、五十猛命を豊日別(猿田彦)が出迎え、饗応したとの伝承があります。

香春岳
 無惨らしい山を見る事
 竜骨があるとする雰囲気も 祭神の忍骨命の骨とは
 ついでに辛國息長大姫大目命は豊比賣命なのか
神主の赤染氏が常世連の名をもらった。
  常世神は富士山麓で大生部が喧伝し秦河勝が懲らしめた。
大生部と云えば兵主神社、則ち天日矛で、現人神社が鎮座。
また天日矛は息長足姫(辛國息長大姫大目命か)の祖先
グルグル回りです。

 八幡の神鏡は香春製
>テッチャンの大元山では三本の棒状の石が御神体
可能ならば確認したいですね。


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