神奈備掲示板の平成十三年二月ログ


掲示板のログ(平成十三年二月)お名前の敬称は略させて頂きます。
更新 H13/2.28    過去ログへ


マルヤ Hp 御祭神のこと H13.2.28

setohさん 早速のご教示ありがとうございます。
いつもながら行き届いたご親切な解説と、その示唆に富んだ内容に敬服します。
事解男神が一言主神とは全く気が付きませんでした。改めて漢字表記に惑わされてはだめだと思わされました。
たしかに御祭神の置き換えにも要注意ですね。
紀伊国牟婁郡有馬村について私は有馬皇子を思い出してしまいます。牟婁の湯に送られ絞首された悲劇の皇子を。もう一つはイザナミノミコトがカグツチの神を産まれたときホトを灼かれてお亡くなりになり、紀伊国熊野の有馬村葬られたとする書記の説話です。やはり紀伊国牟婁郡に有馬の地名があったのでしょうね。


setoh 御祭神 H13.2.28

神奈備も御祭神で神社を仕訳して追いかけているのですが、御祭神の名があっても一体どこまで信じていいものか・・、と思っています。五十猛命のようなファン以外にはあまり知られていない神名の場合にはわざわざこの神に置き換えることもなかったでしょうが、天照大神、素盞嗚尊、日本武尊など有名な神様は要注意ですね。
私の手持ちの資料(平成祭礼データ:神社庁)では
奈良県吉野郡下市町平原706の熊野神社の祭神は素戔嗚尊となっています。由緒は記載されていません。
熊野で言えば第三殿証誠殿の家津美御子大神を素盞嗚尊や五十猛命のこととしていますね。
新宮市の速玉大社(これが紀伊国牟婁郡【有馬村】速玉神社?)には事解男神の名は見えません。近くの阿須賀神社の主祭神は事解男神です。

事解男神については神奈備連載中の「名草の神々11」から引用します。
日本書紀の一書(第十)にイザナギノ命は黄泉の国へ行き、イザナミノ命との別れの際にはいた唾から速玉之男が生じ、掃きはらって(関係を断って)生まれた神を泉津事解之男と名付けましたとあります。
熊野の神々の名が登場してきました。イザナギノ命の発した言葉と共に誕生した神ですから、生命力の神と離縁の神とされています。事解之男は言葉を離つ神、よく似た神では、一言主大神が雄略天皇と出会った時、我は言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なるぞと言っています。

通常は 三所権現とは家津御子神・早玉神・夫須美神を言います。『大和下市史』の速玉男命・事解男命・伊弉冉尊という説明と対比させますと、事解男命と家津御子神とが入れ替わっている(もしくは同神異名)ように見えますね
参考 和歌山市の射矢止神社
http://www.kamnavi.net/ki/city/iyato.htm


焼尻紋次郎 Hp 背骨病みのバック・ボーン H13.2.27

ゴリという川魚がいます。その語源は四万十川では「五里以上は遡上しないのでゴリという」と言われ、津軽では一匹づつ五里も連なって遡上するのでゴリという」と解釈されています。
これは二つともアマヤチで、 gor はモンゴル語で川、これに*wo(魚)の変化態の* yu , *fi がついたのが「ゴリ」の正体だと思われます。東北ではヤチ(沼沢)に棲む魚をヤチユなどといいます。で、ゴリとは「川魚」のこと。
ムツゴローさんのムツは朝鮮語の mut(陸地)を適用させるのはちょとムリで、やはり「ムタ」に連なる遠浅のドブのことだと考えられます。で、ムツゴローさんは「ムタ(地にいる)ゴリウオ」でいいはずです。

福島県いわき市に「いそあみ」さんがいらっしゃる。波たち騒ぐ礒に網を張るバカはいないので、これは「iso・大神」となる。だから「磯網さん」とは「iso 系に連なる大神」を信奉する一族みたいなことになるでしょう。
サラセッセよ、iso は根深いんだってば。イスラエル、イスラームがある。ネパールではキリスト教徒を isai という。
It began to rain. のit は es に連なり、es , it の意味をムリムリいうならやっぱ「神」になろう。

だが、ひるむんじゃないよ。こんなこと、おおいに発言すべし。わーわーウソ書くべし。それが大衆文化というもんだ。
月に飛んでゆくロケットの基礎・V-2発想の根源かね。うしろには背骨病みの紋チャンいるもんね。 
 かむなびのバック・ボーン ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


香具 Re[662]: 大和平野にムツゴロウ  H13.2.27

いつも興味深い資料を有難うございます。
今のムツゴロウは有明海で海苔とともに大変な目に遭ってるようで。

舒明天皇は7世紀前半、推古帝の次の天皇さまですね。
石上神宮は、西にある天理大学周辺から20m以上も急に高くなって海抜約100mぐらいになります。『春日断層崖』になるのでしょうか。
『石上』が『磯の上』の意味ならば、自然な読み方になり展望が開けそうです。

三重県多気町は知らないのですが、愛媛県西条市、鳥取県八束町、岡山県吉井町と並べると、
加茂川、八束川、吉井川と水量豊富な大きい川を思い出します。また製鉄や日本刀のイメージも。布留川、石上神宮、剣の神様・・・ムムム。

桃尾(もものお)の滝について『桃尾(とび)』と読ませる資料に出くわしました。
ホンマカイナ?という感じですが、トビ、トミ、トミの・・・。どこまで重層しているのでしょうか、または撹乱かな?
2〜300年きざみで、昔の海岸線がわかる日本地図があると便利なのですが。


マルヤ Hp 吉野郡の熊野神社 H13.2.26

マルヤです、こんばんは。
久しぶりにお邪魔します。いきなりあまり関連のない話ですみません。

 吉野郡下市町平原の熊野神社は祭神が分からず(近所の人も知らないので)、小生のページでは空欄にしていた【http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro2_004.htm】のですが、「大和下市史」で見つけました。この神社は神殿までの階段が特に急で、山の斜面に沿って一直線に続き、大日川か下中筒香の丹生神社のようだったので、以前たまたま通りがかった折りに参拝して、写真に撮っていたものですが、大和下市史によると祭神は事解男命(コトサカノオ)で、紀伊国牟婁郡有馬村速玉神社の三所権現(速玉男命、事解男命、伊弉冉尊)より、事解男命の一柱のみ当地へ分祀遷座したものだそうです。
当社はもと熊野権現といわれていたが明治初年、現在の熊野神社と改められたとされ、この地は下市から十日市、賀名生、十津川へと続く熊野への裏街道(丹生街道)に面しています。でもなぜ「事解男命」一柱のみの分祀なのか又この神の性格もよく分かりません。存知の方おられましたらご教示お願いします。

小生のホームページ「モノ語り」真朱の姫神は第二部の飛鳥編で当分筆を置きます【http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/asuka_001.htm】ので、また「神奈備」に時々お邪魔して勉強させていただきたいと思います。よろしくお願いします。


setoh 大和平野にムツゴロウ H13.2.26

舒明天皇の香具山に登りまして望国くにみしたまへる時にみよみませる御製歌おほみうた

大和には 群山[むらやま]あれど とりよろふ 天[あめ]の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙[けぶり]立ち立つ 海原は 鴎[かまめ]立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島[あきつしま] 大和の国は (巻二 二)

この歌は香具山からの風景を歌ったもので、当時は大和平野に海が存在していたとする有名な歌です。

 天理市の当たりも波打ち際があったのかも知れません。石上神宮は少し小高い所ですから、磯の上に当たります。
式内社「イソノ」神の一覧
石上神宮  奈良県天理市
伊蘇上神社 三重県多気町
伊曾乃神社 愛媛県西条市中野
伊曾能神社 愛媛県伊予市宮下北谷
伊蘇乃佐只神社 鳥取県八束町大字安井宿
石上布都之魂神社 岡山県吉井町石上字風呂谷(風呂=布留)
最後の吉井町はどうも山の中です。それ以外は磯から上がった地形らしき所に鎮座しています。

 石上神宮の存在は大和平野が海であった証明になりますね。

もう一首あります。

鴨君足人かものきみたりひとが香具山の歌一首、また短歌
天降[あもり]つく 天[あめ]の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木晩[このくれ]茂み 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ方へに あぢ群[むら]騒き ももしきの 大宮人の 退[まか]り出て 遊ぶ船には 楫棹[かぢさを]も なくて寂[さぶ]しも 榜ぐ人なしに (巻三 二五七)


kokoro  H13.2.26

いつも本当にお世話になっています。下のカキコで宮川村の人が大滝村に移住したという、また新しい発見に出会えて、思わず歓声を出してしまいました(あさもよし掲示板でsetohさんから、ワダとハタ、物部とスズキ、海人のネットワークと金属資源の探索等の示唆があって以来、雲が晴れたような気分がずっと続いています)。三峰山に関する神職の方の意見も興味深いです。

> 三重県の若宮八幡神社(美杉村川上)に参詣いたしました。
> 中央構造線、太陽の道、修験山の三要素の交差する大きい神社でした。

 きっと、とても雰囲気のある神社ではないかと推察します。三重県の美杉村、御杖村、名張市の太郎生の辺りには倭姫命の伝承と太陽の道を訪ねるために、車でなしにいつか行ってみたいです。本当にうらやましいです。


setoh  H13.2.25

能力の高い検索エンジンを紹介してもらいました。
Google日本語 http://www.google.com/intl/ja/
確か速いしよさそうです。

三重県の若宮八幡神社(美杉村川上)に参詣いたしました。
中央構造線、太陽の道、修験山の三要素の交差する大きい神社でした。
近くにアマゴの養殖場があり、おいしく頂きました。

神職さんから、埼玉の三峯神社は伊勢の三峯山の名前が遷ったのではないかと。
伊勢の宮川村の住人が大滝村に移住していると教えてもらいました。地名も似ているそうです。
あさもよし掲示板でkokoroさんからは紀州海人も移住していると教えていただきました。
人の移動は神社名に現れたりしますね。面白いですね。


習志野の てつ  H13.2.25

出張を無理やり創って、鹿児島に行きました。鹿児島市内から、高速道路で一時間弱で指宿温泉。そこで砂と熱による禊・祓い(単に砂風呂に入った)後、枚聞(ひらきき)神社にお参りしてきました。で帰ってきて、玄松子さんのHP見ました。
http://ucgi.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=7&target=place

そこで見たのが・・ハァー・・相変わらずすごい!解説及びきれいな写真 で またまた以下の仮説どうでしょう。

枚聞神社の北方約300Mの所に、『玉乃井』遺跡が有ります。あの釣り針を探しに来た山幸彦が、海神の娘豊玉姫に始めて会った井戸です。すぐ東の谷をトウセンキョウと呼びます。唐船峡です。 この唐船峡、実は昔呉から来た大きな船が、偵察用に小船を出し、その小船がたどり着いた峡谷でした。そこが良い土地だったので、住居を構えていました。

後に遣唐使が坊ノ津からでたり、唐からの鑑真和上がたどり着いたりして唐が有名になった為、呉の船だったことが忘れられ、唐船峡云う名になりました。

その唐船峡を通り玉ノ井に、日向(宮崎)から山幸彦がやってきました。そしてそこの娘と一緒になりました。呉の人々は当時の最新技術を持っていました。山幸彦にとっては見るもの、聞くもの珍しいものばかり。まるで夢見心地でした。しかし3年程居て相当な技術を習得し故郷へ帰りました。なくしたのと同じ釣り針を持って。
そもそも海幸彦が持っていた釣り針は、金属の扱いになれている呉の人々が作った適度な焼き入れをした針でした。いわば当時の最新ハイテク針、所が山幸彦は焼き入れの技術を持っていなかったため、何百本作ってもらっても、海幸彦は納得できなかったのでした。

  おまけの―偽説―
豊玉姫の出産術は、水中で赤ちゃんを生むと云う現代にも通用する技術でした。当時のほとんどの人々には受け入れ難い思想でした。しかも、プールなど有りませんので、小船に海水を張って、その中で出産したのです。覗かれるかもしれないので、船の上に覆いをしました。あたかもワニのような形でした。尚この小船、開聞岳から日向まで山幸彦を送り届ける時に使ったのと同型の船でした。


setoh re:丹生都さん達が呉からきた H13.2.23

勾配の緩やかな長い参道を持つ神社では流鏑馬神事が行われていたと言います。一言主神社、中臣印達神社、新屋天照御魂神社(福井)土佐の小村神社など思い出せば沢山あります。「馬」と「矢」の種族の齋祭った神ですね。騎馬民族の匂いがしますね。南船北馬論では北馬系の男神でしょうか。

丹生神社の多くは長い参道を持っていません。かつ女神です。「弩」などの物騒なものよりは、しなやかな海の文化系かなと思っています。丹生姫かも知れない丹敷戸畔の墓(ほんまかいな)は那智の海岸近くの熊野三所神社にあります。この辺りは海人の跋扈したと思われる所で、こう言う所に置かれているのも偶然ではないと思います。呉越の南船系かも。


玄松子 Hp Re[654]: イカレ・ドタマで知る敗戦国ニッポン H13.2.22

お久しぶりですね。
> ツンドクにしている『ユング』でもみてみるか……。
フロイトが何もかも「下ネタ」に帰結しているのと同様、ユングは何もかも「全人類に共通」の集合的無意識を基本としているんじゃなかったでしょうか。「共通」が基本なので、出てくる結論は容易に想像できますよね。


焼尻紋次郎 Hp イカレ・ドタマで知る敗戦国ニッポン H13.2.22

 一生のうち、いちどは聖地とされているメッカに足を運ぼう……とする気運は、あんがいDNAにインプットされてんのか、はたまた、巨大な大衆心理なのか。皆シャンの神社めぐりはそーゆー“個”を超えた意識が支配していると惟ふ。
 それこそ「日本は神の国」の所以だろー。これあっしのついさいきんの新発見。
 だがネ……。その心情の発祥の地はパンジャブの源流地のカイラース山にこれあり。ピラミットとか四阿(アズマヤ)はこの山の姿を写し取ったものだとしかならない。人類がクロマニョンに化けてすぐたどりついた心情〜共通偏執(文化)ではなかっただろうか。
 ツンドクにしている『ユング』でもみてみるか……。哀しいねぇ、まんず毛唐の文化を調べるとは! 敗戦国日本の頭脳カネ
  おチョkuri(語り)の里  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


福島雅彦 Hp Re[652][643]: 石上神社? H13.2.22

 kokoro さん、愚説に関心をお持ち頂き、光栄です。
>…だから福島さんのいうようなことは、可能性がないとはいえないと思います。
>  三連水車や夜明けダムの辺りは一度、行ったことがありますが、大和の木津の辺りから京都南部の山城地方にかけてと土地の感じが少し似ているなと思いました。いかにも古い歴史が眠っていそうな感じです。また、もっと朝倉や甘木の辺りの話を紹介して欲しいです。
 この『狂心の渠』と比定している『堀川』は、『高山←こうやま←香山←香具山』の西方に位置しています。即ち、『天の香具山』の西方です。後下名からの説明は長くなりますので、割愛致しますが、『天の…』の本家・宗家はこの地であると確信しています。
 関連証拠として、『夜明け』⇒『明日香←飛鳥』でもあります(福島雅彦独創説)。
おまけ、『十・津川村』←『上・津江村・中・津江村・前・津江村』も高天原の、
『後方村=“뒤”(dwi)邑』で、似た配置に在ります(福島雅彦独創説)。


kokorok Re[643]: 石上神社?  H13.2.21

 福島さん始めまして!!You-Iにカキコしている皆さんが、絶賛している「細」→「米」説は本当に卓見ですね。古代人が身近に感じられます。紋次郎さんが復活したら早く意見が聞きたいです。

> 私は、常々『斉明天皇の狂心の渠』に疑問を持っていました。
 僕は633で、「日の谷」を手がかりに石上神宮のルーツを探求しているという、香具さんのカキコを読ませてもらい、着眼点が新鮮でびっくりしました。今回、福島さんが石上神宮を斉明天皇と関連付けて考えていることを読んで知ったときも同様に鋭い指摘にうならされました。日本書紀の斉明記には「狂心の渠」について、香具山の西から石上山まで引かれ、船200隻に石上山の石を積み、流れに従って下った云々とあります。僕はこれまでこの石上山は橿原市か明日香村のどこかにあると考えて、あの辺りの山に採石された形跡がないかを探して歩いたことがあります。益田の岩船のある丘陵には大昔に採石されたような痕跡があります(そのもっとも顕著な場所は、麓から岩舟まで歩いてゆく遊歩道の途中、少し左に森の中に入った場所にありました。そこは、カットされた岩盤の露出と大きなくぼみがあり、確かバイクや産廃のゴミが突っ込まれていたと思います。この山にはそういう感じの箇所が方々にありました)。露頭していた岩は新聞に載っていた斉明天皇の石垣の石と、見た感じでは似ており、このためこの丘陵が石上山である可能性を考えています。
 僕は福島さんの直感が鋭いと思ったのは、香具さんのカキコにもあるように石上神宮の一番神聖視されている台地は人為的に築造された形跡があり、またその周りには掘り割りを巡らしているからです。この人為的な形跡は台地の下に下りて池のあるところから瑞垣を見上げると何となく分かります(ちなみにこの台地は平地部に土盛りしたのではなく、舌状台地をカット・整形したのではないでしょうか)。掘り割の方は、社地が傾斜地にあるので、同水準で一本の掘り割りを巡らすことができず、細長い短冊形の池をいくつも周囲に連ねてあります(ところでこの池はワタカという魚の生息地です。ワタカは湖沼の沿岸部とか池や沼に住む魚です。『原色日本淡水魚類図鑑』に「びわ湖・淀川水系が唯一の天然分布域である。ただし、奈良県天理市の永久寺池や奈良市の猿沢池・鏡池へは、かなり古く放流されたらしい」とあり、何か宗教的な理由で古い時代に放された可能性があります)。
 さて、人為的に築造されたとされる石上神宮の瑞垣に囲まれた範囲は、まるで大きな舞台のように奈良盆地に張り出しています。かっては非常によく目立ったのではないでしょうか。このため、石上神宮は普通の神社と違い演劇性というか、劇場のように人の視線を集める意図が感じられます。そして、このような当社の特質は山や樹木等を祀る自然信仰のルーツからは説明がつかないと思われます(石上神宮には自然信仰が認められないという意味ではないです。逆に当社には神体山信仰や、香具さんが着目している河川に係わる祭祀の痕跡も顕著です。ただし、この神社のルーツは非常に“重層的”なので一面的には捉えられないのではないでしょうか)。この特質を仮にここで、@宗教性、A演劇性、B人工性、C水場を用いた景観設計、とまとめたとすれば、それはそのまま最近、発掘された斉明天皇の石垣や亀石の祭祀遺構の特質と重なるのです。僕は石上神宮のこの特質の説明が非常に難しいと思っていたので、斉明天皇と石上神宮を関係させる福島さんの意見がとても興味深いものに思われました。   

> 以前から、九州の故事の簒奪的移転地名ではないかと、疑っていました。
 これも面白い意見ですね(古代史を巡る研究は、北九州や出雲がクローズアップされているとはいえ、やはり大和中心であるように思われます。その原因の一つは記紀の作者達の大和中心史観とでもいうべきものにあるのではないでしょうか?)。斉明天皇は神籠石の築造にもきっと関わっていると思うので、九州の土木工事の歴史には関わりの深い名前だと思います。だから福島さんのいうようなことは、可能性がないとはいえないと思います。
 三連水車や夜明けダムの辺りは一度、行ったことがありますが、大和の木津の辺りから京都南部の山城地方にかけてと土地の感じが少し似ているなと思いました。いかにも古い歴史が眠っていそうな感じです。また、もっと朝倉や甘木の辺りの話を紹介して欲しいです。


nick 隼人 Re[645]: 馬刺で一杯  H13.2.21

関東も食べないようですね。鶏なども。。。
以前、「薩摩料理」の店に連れていったらそれから敬遠されて。(~_~)
鹿児島は何でも食べます。。芋のつるでも。新しい物なら大丈夫ですが、、、
私、東京で、ちょっと古い貝類を食べて「劇症肝炎」になりました。(臭いがちょっとと思いながら、居酒屋で)
生ものは新鮮なものを食しましょう。。
昔はどうだったんでしょうか。


setoh −水郷地帯の石神様と伊予のイソノカミ− H13.2.21

福岡県大川市大字下牟田口119
石上神社(いしがみじんじゃ)
通称 いぼ神さま
祭神 十種神寶
由緒 不明

愛媛県西条市中野
伊曽乃神社(いそのじんじゃ)
祭神 伊曾乃神
由緒  景行天皇の皇子、武国凝別命国土開発の大任をおび伊予の地に封ぜられる と、皇祖天照皇大神を奉斎し庶民を愛撫し皇威を弘められた。命の御子孫は伊予三村 別氏としてこの地方にひろがり栄え、天照皇大神に始祖武国凝別命をあわせ祀った。 これが当社の創祀である。

愛媛県伊予市宮下北谷2007
伊曾能神社(いそのじんじゃ)
祭神 天照大神

 伊予は共に式内社です。由緒や祭神はともかく、伊予は物部の臭いの強い所です。


福島雅彦 Hp Re[646][643]: 石上神社? H13.2.21

 何時も、貴重な情報を有り難う御座います。石上神社に関して詳しくは存じませんでしたが、お蔭様で良く判りました。
> > 石上神社が上代には違う名称だったとか。
> その名称、教えて下さい。よろしくお願いします。
[637]の kokoro さんの投稿を拝読しての感想です。
> > 『恵蘇の上』・・・
> 面白そうですね、『恵蘇』とはどんな意味なのでしょうか?
九州で一番の大河、筑後川右岸に『恵蘇宿八幡宮』が在ります。
私は、古代には、川が高速道路であった、と信じています。ここでは、言語考古学、語源は御法度ですが、一寸、お許し頂いて…。川(かわ)の語源から…。
“가”(ka)=行く、“와”(wa)=来る。即ち、行ったり来り、する所。
それから派生して土器(かわらけ)とは、別れの水杯の事に転じた。 
冠婚葬祭の時、出棺や門出の際叩き割るのは、迷わず成仏と婚家から出戻りにならない様に!≪行ったり来り≫を絶つ祈りです。武将の出陣の場合は、退路を断っての必勝祈願と。
其の様な川の交通機関は当然『船』です。下りは方向だけの操船で済みますが、上りの船は、人力で川岸からロープで曳き船をしたと、容易に想像できます。
『曳船』⇒“예선”(ye-seon)=『恵蘇』です。『恵蘇宿』とは、曳き船人足の宿場かと。
尚、『恵蘇宿(えそのしゅく)』とは、現代標準語の発音で、倭語(九州弁)は格助詞の『の』を「ン」と発音します。『えそンしゅく』です。又、倭語に漢字音の発音を訝られるでしょうが、華南語の一人称代名詞と格助詞が九州弁と一致し、ジャポニカ米のDNAが長江下流域原産と最近他のサイトで判りましたので、払拭できました。
因みに、筑後川の上流の日田市(三隈川と名称は変る)に『会所山(えそやま)』が在りますが、『恵蘇山』の別字の当て字かと。≪長い説明で恐縮です≫

> 蛇足:五十瓊敷命は十の職業集団を掌握していたということを読んで、『五十』というのは今でいう『ゼネラル』というか、ある分野の総合(商社)的意味あいがあったのかな?と妄想しています。
 着想が、独創的で、私はこういうの大好きです!。


習志野の てつ ほめられついでに H13.2.21

天孫族の証としての矢!
矢を見ただけで、一族かどうか判ることを、とても不思議に思っていました。もしかしたら鏃(ヤジリ)が鉄製かどうかで判別したのかな?等と思っていました。

ここからアルコール漬け酔論 いや推論  無検証です。
『矢の形態が全く違っていた。』まつろわぬ東夷が使うのは、ふつうよく使うような弓。一方天孫族はクロスボウつまりいわゆるボウ・ガンでした。この為弓、矢ともに構造が全く異なっており、互いに簡単に判別できたのでした。

 ●99年、いしゆみ=ド(奴の下に弓を書く文字です)の発射装置である機(キ)が、仙台の北 伊治城で発見された。
『ド』は銃床のような台を有する弓のことで、普通の弓に比べ飛距離や貫通性に優れ、命中率が高い特性を持つ。
この青銅製の発射装置の構造は、中国に現物として残る正始2年(241年)銘のある機と基本的に同一である。
『ド』は中国の戦国時代以降流行、日本でも『日本書紀』を始めいくつかの文献に登場し、陸奥国においても『三代実録』等により蝦夷との抗争に使用されたことがうかがえるが、実物は知られていなかった。
ー『2000発掘された日本列島』朝日新聞 P51 から抜粋ー

丹生都さん達が呉からきた説の状況証拠として如何でしょう

私は東国に住むせいか、源氏の大将 八幡太郎義家や、鎮西八郎為朝のすさまじい破壊力の弓が好きです。為朝の弓は、八丈島にくる船を、一本の矢で沈めています。米原潜なみです。


香具 Re[643]: 石上神社?  H13.2.20

福島さん、いつもお世話になります。横から失礼します。
> 石上神社が上代には違う名称だったとか。
その名称、教えて下さい。よろしくお願いします。
> 『恵蘇の上』・・・
面白そうですね、『恵蘇』とはどんな意味なのでしょうか?

石上神宮の周辺にある布留遺跡では、豪族の居館跡や倉庫などの建物跡があり、人工的に掘削された大溝で区画されていたそうです。この幅13m、深さ2mの大溝が『石上溝』(いそのかみのうなで)と考えられているとのことです。(全長200m以上)
 日本書紀の履中天皇の条にある『石上溝』ですね、斉明天皇の頃『狂心の渠』として香山の西から石上山まで穿った渠と繋がったのでしょうか、その辺の事情が判りません。
(履中天皇条には、宗像三神の崇りを治めずに皇妃を亡くされた話しがありますから筑紫との関係も浅くないのでしょう。)

いつの頃に『布留』から『石上』になったのか興味があります。崇神天皇の頃、伊香色雄命が『フツノミタマ』と『十種瑞宝』を宮中から『石上布留高庭』にお遷しして奉祀されたのが神宮の創祀ということですので『石上』の地名もそこそこ古いのでしょう。
『高庭』について神宮周辺の土地が人工の台地ではないかという説が紹介されていますが、ふつうに参拝していても実感はありません。恵比寿社のある布留川よりの道から本殿の背面を望むと、周辺の田畑から一段と築き上げられたような段が、よくわかる処があります。

布留川のもっと古い祭祀は、神宮から対岸の布留川北岸で、水の神様の祭祀を行なっていたそうですので、今ある厳島神社や、豊井町の神社、kokoroさんから教えて頂いた八剣神社など要チェックと計画しています。
さきの『石上溝』からは20頭近くの馬の歯が、布留遺跡全体で64頭分の馬の歯が出土したそうです。雨乞いの生け贄でしょうか。川の神に牛馬を犠牲にするなんて、なんとなく中国的ですね。馬刺のお話しにつられました。(神戸市立博物館で開催中の大古墳展で、藤の木古墳のきらびやかな馬具を観てきました。思わず『ハイカラ!舶来デスカ?』てな美しさでした。シルクロードなイメージのデザインです???)

蛇足:五十瓊敷命は十の職業集団を掌握していたということを読んで、『五十』というのは今でいう『ゼネラル』というか、ある分野の総合(商社)的意味あいがあったのかな?と妄想しています。


setoh 馬刺で一杯 H13.2.20

甲斐、信濃、熊本では馬刺を食べるそうです。関西ではあまり食べません。群馬ではどうなのでしょうか?
> ◎馬を扱う一族(天孫族=渡来人)
継体天皇や天武天皇を支えた軍事力は東方の馬力のある武力だったのでしょう。
習志野のてつさんの、王権のシンボルの神宮の棒鞭懸(ムチカケ)への着目はすごいですね。
蘇我氏や藤原氏の出自も謎めいています。馬力がなければ権力を握り維持していくことができないのは洋の東西を問わないと思います。藤原氏が東国から春日大社に神々を勧請していますが、やはり東の馬力が根底にあったのかも知れませんね。
所が大和の古墳からはあまり馬具はでないそうです。雅になったのでしょうか。


福島雅彦 Hp 石上神社? H13.2.20

kokoroさん、始めまして! 『布留川上流の石上神社』を拝読して、驚嘆!驚愕!するやら、積年の謎が解けるか、と狂喜しています。私は、常々『斉明天皇の狂心の渠』に疑問を持っていました。
石上神社が上代には違う名称だったとか。

 福岡県朝倉郡の『橘の広庭宮』で崩御。
現に、橘田(たちばんだ)の地名もあり、橘の広庭の在った所?『木の丸殿』跡も。
そして、筑後川から『堀川⇒布留川?』で水を引いてもいます。
三連水車で有名(当地では)な川です。
其の、取り水口(堀川の最上流)に、『恵蘇宿(ゑそのしゅく)八幡宮』が在ります。『石上(いそのかみ)神社』の文字使いと読みは不自然だし、『恵蘇の上』の転か、と。

川の名前も、『ふる⇒ほり』と似ているし。
何しろ、土木技術の稚拙な時代に人工的に掘った『狂心の渠』でもあるか、と。

以前から、九州の故事の簒奪的移転地名ではないかと、疑っていました。
 こう成ると、単なる『狂気の仮説』から、一歩抜け出せるか!、と。
立証は、これからですが…。若しかして、亀石運搬用の運河だったりして…。


習志野の てつ お礼を兼ねて?調子に乗って H13.2.19

愚説へのお褒めの言葉、ありがとうございます。ついでに今温めているのはこんな説ですが、ご意見をいただけばうれしいです。
1. 縄文人は、馬=乗馬を知らなかった。
2.したがって鞭も知らなかった
だが
3.伊勢神宮はじめ、神馬を置いている神社があり、そこは千木の軒下に、鞭懸(ムチカケ)を付けている。浅学にして、必ずそうだとは言えません。逆に鞭懸はあっても神馬のいない神社は多々あります。
実はこれからがポイントなのです。千木の下に何本か突き出した棒鞭懸(ムチカケ)と云うそうです。昨年買った『お伊勢まいり』にでていました。天照大御神を祭るところは鰹木の本数 10本。鰹木の本数は 内宮10本、外宮9本もそこからの知識です。
4.鞭懸は通常 軒に斜めに4本4本で片側8本 左右で16本です私はこの片側に8本が常識?だとばかり考えていました。
所が群馬県の貫前神社の近くにある宇芸神社では、片側の軒下9本、両側で18本ありました。(最も一本は崩れてなかったのですが) かって見た中で、一番多い=日本一の本数でした。もしかしたら、この辺はすごく馬に関連する所では? 地名も群馬だし、馬が群れていたに違いない。と思いました

◎馬を扱う一族(天孫族=渡来人)だけが自分の家に鞭懸をつけた。
これは西部劇のときの馬をつなぐ横棒(バー)のような物では!天孫族の印って結局この程度のもの(馬具グッズ)だった?当然これは、Bar(バー)で考えたことです。何の検証もしておりません。ご意見を頂ければ幸いです。

日本倭人さんの『高麗人は関東各地へ』参考にさせていただきました。
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/koma.htm

ウケ神社は 神奈備・延喜式神名帳にあります。
http://www.kamnavi.net/en/kouzuke.htm
尚、貫前神社のすぐ北西1KM程に
http://www.kamnavi.net/ny/nyuiti.htm#gunma
群馬県 富岡市 下丹生 字六反田 土壌水銀含有率56ppm
 丹生神社  祭神 丹生都比賣尊 が鎮座しておられます。
群馬県甘楽郡や碓氷郡 みな近いです。 行ってみたい!


日下倭人 Hp 古代史を詠んだ短歌はいかが  H13.2.19

本題の前に習志野のてつ様の『コメ−食べ物』考は大変説得力があるように思いました。先般の弟橘比売の走水受難事件の解明もとても気に入っています。高木彬光の世界で活躍する神津恭介のようでした。

ところで年末に出掛けた南九州古代史の旅を仲間が短歌に詠んでくれたのでこれをアップしてあります。数例ご紹介します。
【チブサン古墳】赤と黒 色鮮やかに彩らる 肥後大王(きみ)の 黄泉の臥し処に
【江田船山古墳】銀(しろがね)の 七十五文字に秘められし 肥後大王の 出自語れよ
【天安河原】  神々の会議はつづく 岩の窟(や)に 交わす言葉も 消すや川音
全部で49首載せてあります。お立ち寄り下さい。
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/


習志野の てつ 米・『コメー食べ物』考 H13.2.18

以前テレビで100歳の老人のことを放送していました。若くして北海道開拓に従事しました。現在は子、孫、ひ孫、玄孫まで含め、総勢100人となり、全員が顔をそろえて記念写真を写しました。*環境がいいと、夫婦二人がわずか80年で100人になる!(もちろんこの過程で他の一族との婚姻はなされます)
2000年前なら、この老人とその奥さん、二人揃って神様として祭られたのではないでしょうか。100人いれば、立派な神社が維持できると思います。

 以前、倭健=米作普及員説を紹介させていただきましたが、神武さんも米作普及員説だったのではないでしょうか?
稲作・米・『コメー食べ物』(Y-I 197 福島説=それまでの主たる穀類は、栗とか、どんぐりとか比較的大きかった)を紹介するのに、最低でも半年かかります。つまり発芽させて刈り取り食べるまで。 何年かやってみせ、みなが納得し、つき従うようになる。そうなって初めて次の地域に攻め込むことができるようになる。だからこそ神武さんは九州でも、広島でも、岡山でも何年かの時を過ごさなければ、民衆を従え、次へ進むことはできなかった。

 又神武さんの時代は、土木技術が未熟で、単に涌き水のあたりで細々と米作りをしていた。ところが中国朝鮮系の(未熟で判別できません)土木技術を持った応神さんは、それまで米作りができないような土地を改良し、米を作れるようにしました。その為民の数は急激に増え、その土木技術で、応神、仁徳の大古墳も作られました。

安房の酔いどれ仮説・アルコール漬けの脳細胞から搾り出しました。『脳細胞シナプスは、アルコールでつながる』仮説も考えましたがかなり無理があるようで、これは個人的例外仮説にしてます。


nick 隼人 Re[630][623]: 韓国宇豆峯古杜神社について  H13.2.18

邪馬台国、九州論には諸説ありますが、中でも、吉田東伍の薩摩大隅説でいくと卑弥呼は当地に居たことになります。
そして、髪長姫は卑弥呼の末裔である。
その説を唱える方が石体神社の入口にお宮を。
また、隼人塚には観音像を建立されていましたが国指定遺跡の横ではまずかろうと隼人塚の方はこのところの公園整備で姿を消しました。


香具 投稿してヨカッタァ〜  H13.2.18

kokoroさん、ありがとうございます。感激して嬉し涙が止まりません。
投稿を読んで頂く手間、資料にあたられる手間、入力して送信される手間。
ご教示いただいた一語一語に大切な価値があり、さらなる前進に役立たせてもらいます。
お蔭様で私の何週もの日時が助かりました。心から感謝致します。
駆け出しの素人ですが、引き続けていきたく思いますので、今後とも宜しくお願い致します。


kokoro Re[633][629]: 布留川上流の石上神社 H13.2.17

 香具さんはじめまして。setohさんの「あさもよし掲示板」でカキコさせてもらっているkokoroです。神奈備掲示板は初めです。天理市滝本町の石上神社については、「奈良県史 第5巻 神社」の第二章「神社一覧 三 天理市」P60に以下の記述があるのでご紹介します。
神社名:石上神社
所在地:滝本町滝口四八三
祭 神:石上大神
旧社格:村社
備考(摂末社、文化財、その他):皇大神社(天照大神)、春日神社(春日大神)、住吉神社(住吉大神)、水分神社(天水分神)、八幡神社(八幡大神)

さらに同書第三章「神社解説 3 天理市」P314〜315に当該神社の解説があるので、全文を揚げます。
『 桃尾滝の南側、中腹に鎮座する旧指定村社で、石上大神を祀る。『竜福寺山内絵図』に「平大明神社」とあり、元禄十二年(一六九九)の『布留神社縁起』には「梯村あり、其処に小社坐す桃尾の御前と云ふ。俗に訛りて太宇部能語年膳年と云ふ」とある。『続日本紀』に、聖武天皇の神亀三年(七二六)弊帛を石成神社に奉るとあるのは、石上神社の前身で『和名抄』の「石成郷」の鎮守ではなかったと『天理市史』神社編でいっている。後世熊橋村の鎮守であったのを、字坂口の須賀神社と字垣内の墨江神社とを合祀したという。例祭は十月十五日。』

ご興味をお持ちの「日の谷」の記事として、同書P320の天理市田井庄町西浦二七三に鎮座している八剣神社の解説も全文揚げます。
『 八剣神を祀る旧村社。『石上振神宮略抄』に「夜都伎ノ神八伎大神ノ変神ニテ、神体ハ八ノ比礼、小刀小ナリ、仍チ八剣ノ神ト申ス」と『記』『紀』神話の素戔嗚命に伐られた八伎の大蛇が、天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上の日の谷に降臨して鎮まったのが当社の八剣神だと伝える。桃尾滝の上流に、八ツ岩と呼ぶ巨石があり、この伝承にあてている。例祭は十月十五日。』 こうした文献でも、「日の谷」の伝承の記事はそれほど目立つものとは思えません(僕なんか実は香具さんのカキコを読むまでほとんど気が付きませんでした)。それにもかかわらず、香具さんがそれに着目して「日の谷」の伝承を現地まで行って探索されようとしていることは、石上神宮の祭祀の源流を一端で掘り起こすことに繋がるかもしれません。願わくば今後も、八頭神社や九頭神社へ行った際の報告も紹介して欲しいです。よろしく、お願いします。
 setohさん毎度々々、長いカキコになってしまって申し訳ありません。


setoh 連想ゲーム H13.2.17

卑弥呼や武内宿禰なんかも山田太郎かも知れませんね。

五十猛命なんかも固有名詞かどうか、倭健命に置き換わっている神社もありそうです。

五十猛命より偉そうな八十猛命を見つけました。京都城陽の平井神社です。宮寺には頭が牛、身体が人間の二体の絡み合った像があるそうです。

石上神宮には五十瓊敷命が(泉州産の)剣千口を奉納とあるのですが、この五十瓊敷命から紀の国ゆかりの五十猛と丹敷戸畔を連想します。「雄の湊」の候補地も泉南と紀の国です。「速吸の門と珍彦」からは鳴門の渦潮を連想します。


玄松子 Hp Re[626]: 佐賀の五十猛 H13.2.17

>  所で、藤津郡太良町糸岐に荒穂神社「祭神は瓊瓊杵尊と推定」があると神社名鑑には出ている
基山の荒穂神社と同祭神とする判断から、瓊瓊杵尊としているようですね。
ということは、基山の荒穂神社が五十猛神なら、ここも五十猛神となりますね。


習志野の てつ Re[632][627]: 速吸之門は明石海峡 H13.2.17

> 日本書紀では出発して次ぎに速吸之門です。それから宇佐ですから豊後水道で素直
●大変ありがとうございます。
昨日飲み過ぎた二日酔いの頭にひらめきが!
『速吸之門』って一般名詞では?固有名詞ととらなければ、つまり単に流れの速い海峡の総称とすれば、両方とも正しいのでは?

籠(この)神社へ行く途中(大江山のそば)に、元伊勢と書いた所がありました。
なんじゃこれは?と思ったのですが、伊勢神宮が現在地に決まる前に、あちらこちら移ったのですから、元伊勢もあちこち有る訳です。元伊勢=籠神社とだけしか考えていなかったので、誤解していて驚いた訳です。
もっとも私の非力では、本当に大江山のそばに鎮座されたかどうかは不明です。
*倭健命も固有名詞ではなく、山田太郎商店の当主は、山田太郎何代目と云う様に何人かに繰り返し使われた名詞では?


香具 Re[629]: 布留川上流の石上神社  H13.2.17

いつもお世話になります。天理大図書館に廻る時間がなかったもので、由緒やご祭神の裏付けがない投稿となり失礼致しました。
和田萃先生が著書『大神と石上』で、物部氏による祭祀の以前に布留川の水神を祀る祭祀があったことを推測されていて、その中で、さらに松前健氏の推測として、「かつて石上神宮近くの布留川の川床に、七つの神石があった。神霊は布留川上流の『日の谷』に天降るが、神剣をささげ持つ斎女がそれを七つの神石の上に置き、改めて神霊を依りつける神事が存在したらしい。」ということを紹介されています。
また、石上神宮の摂社出雲建雄神社(出雲建雄神=草薙剣の荒魂)の由緒には「神主が布留川の上流の日の谷に八重雲が立ち湧き、その雲の中で神剣が光り輝いている夢を見て、明朝その地に行ってみると八つの霊石があって、神が託宣された。」とあり、先の川辺の祭祀と重なっているようにも思えます。
そのように石上神宮には重層的な祭祀が行なわれていたことを意識していましたので、『日の谷』はどこか、ルーツはどこかと気にしていました。都祁野の方まで関係あるのかな?と探しているうちの桃尾の滝です。石上神社は『大和の古社』という本の略地図に名前だけ掲載されていました。
現地にはJR天理駅からタクシーで15分、2000円で着きます。当日、足を傷めていたのでズルをしましたが、石上神宮で一休みしながらでもハイキングがてらに歩いていける距離です。苣原行きのバスは日に数本ぐらいしかでていません。
桃尾の滝からさらに国見峠まで登ると磐座らしい巨石が散在し、山頂には祠があるそうです。また、天理ダムを過ぎて、長滝町の山中に八頭神社、下仁興町の山中に九頭神社という神社があるようですが、『日の谷』とともに、ここもいつか確認したく思います。
おまけ:今の季節に石上神宮で昇殿参拝すると、座が電気カーペットで暖くて助かります。これもズルでした。


setoh Re[628][626]: 佐賀の五十猛 H13.2.16

> たいした記述量ではありませんが、明日にでもスキャンして、新庄神社のも合わせて送りましょうか。
ありがとうございます。よろしくお願いいたします。


setoh Re[623]: 韓国宇豆峯古杜神社について H13.2.16

剣神社には素盞嗚尊が合祀されています。この神社も河口に近い所から見ると遷いているような感じですね。現在の韓国宇豆峯神社のほぼ真南3kmに当たりますね。

所で全然話が違うのですが、鹿児島神宮の東300m位の所、または石体神社の南400m程度の所に、卑弥呼神社の名が見えます。摂社の大多羅知女神社「祭神:息長帶媛命」のことでしょうか。

和歌山県那賀郡貴志川町丸栖と言う所の大多羅乳女神社の祭神の大垂乳女大明神は大歳宮之御母也と伝わっています。近くには大年神を祀る神社もあります。


setoh Re[621]: 布留川上流の石上神社 H13.2.16

奈良和歌山社寺大辞典にも採録されていません。 
平成祭礼CDによりますと石上神社はやはり「イソノカミ」と読むようですね。
紋次郎氏ならここで桃尾(モモノオ)に着目するのでしょうが、物部氏は石上氏の伝承を横取りしたとどっかで読んだことがあります。
多くの磐が点在しているとのこと、何か謎を感じますね。一度参詣して見たいと思います。


玄松子 Hp Re[626]: 佐賀の五十猛 H13.2.16

>  所で、藤津郡太良町糸岐に荒穂神社「祭神は瓊瓊杵尊と推定」があると神社名鑑には出ているですが、CDには見当たりません。鎮守社「素盞嗚尊」かなと思っているのですが、心当たりはございませんでしょうか?
「佐賀縣神社誌要」には、建速須佐之嗚命となってますね。「明治神社誌料」でも、素盞嗚尊とあります。「その源は、或は基肄郡荒穂神社の分霊にあらざるか、姑く記して後の考証を竢つ」と記されています。
たいした記述量ではありませんが、明日にでもスキャンして、新庄神社のも合わせて送りましょうか。


習志野の てつ 速吸之門は明石海峡 H13.2.16

神奈備・神武東征 日向から熊野へからhttp://www.kamnavi.net/ym/hokura.htm

椎根津彦命。神武東征時速吸之門(明石海峡)に現れて軍勢を先導した珍彦(うづひこ)のことである。「倭直部の始祖」で、大和神社の祭祀氏族である。椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされている。ホクラ神社は和泉市に穂椋神社がある。ホクラとは秀座で、境内の楊梅林には磐鏡、磐座(神鳴石)が点在している。

先日、籠(この)神社にお参りしてきました。印象深いことが数々あったのですが、その中のひとつが、亀に乗った人の銅像でした。一瞬浦島太郎?と思いましたが、椎根津彦命の像で、なおかつ海部(あまべ)一族の先祖でした。その解説中に 速吸之門(明石海峡) とありました。
私の記憶では、古事記の解説で速吸之門(豊予海峡)と書いてありました。

神奈備での解説も速吸之門(明石海峡)とキチンと入っていました。今更ながら、神奈備の奥深さ、感心してます。

でも何故 速吸之門(豊予海峡) としたのでしょうか?


setoh Re[625]: 佐賀の五十猛 H13.2.16

> 鍋島村大字森田字西新庄の旧郷社、新庄神社に五十猛神が合祀さられています。
玄松子さん、ありがとうございます。
現在の、佐賀市鍋島町大字森田2028 新庄八幡神社 のことですね。既に配神合神の中から名前が消えているようです。ここいらはマイナーな神の探しにくい由縁です。
佐賀市の地図を見ていますと、この神社の近くに木角、木植なんかが見えます。この辺りの小祠だったのかも知れませんね。

所で、藤津郡太良町糸岐に荒穂神社「祭神は瓊瓊杵尊と推定」があると神社名鑑には出ているですが、CDには見当たりません。鎮守社「素盞嗚尊」かなと思っているのですが、心当たりはございませんでしょうか?

それにしても、太良嶽神社上宮まで参るのはやっかいそうですね。


玄松子 Hp 佐賀の五十猛 H13.2.16

鍋島村大字森田字西新庄の旧郷社、新庄神社に五十猛神が合祀さられています。
といっても、周辺の無格社16柱合祀の一つですが。


nick 隼人 韓国宇豆峯古杜神社について  H13.2.16

以前、探索した諏訪神社の上部の峯は古峯ではないようです。
南西5町というとあの辺りになるのですが、今日、これら神社にお詳しい国分市編纂委員の方にお話を伺ってさっき帰宅しました。
私の読んだ古文書には「辰巳の方角に45町」とあります。 これでいくと現在の「上野原縄文遺跡」の辺りです。土地の古老やその方の話によると、上野原テクノパーク造成のおり古蹟と墓地があって墓地は下の麓へ移したというお話でした。あるいは麓に遷座か合祀されたか。。
今度、その経過をご存知の方にお話を。
当時、さほど気にならなかった事項でも時が経過すると判らなくなるものですね。データーの明細記載と資料収集の重要さを痛感しております。
追記:古峯の「剣岩」というのは南西45町辺りにロッククライミングの岩場があります。剣神社はこの岩の麓の海沿いにあります。この神社も今度尋ねて見ようと考えております。


setoh  H13.2.15

kammerさん、お父上のご逝去、お悔やみ申し上げます。
kammerさんには、私等か到底入手できない情報を提供され、多くのご指導を頂き、誠にありがとうございました。
これからは、氏族の縦横のご研究へと網を広げられることでしょう。いつの日かkammerさんの古代史の闇を切り開くご研究の成果が公表されることを大いに期待いたします。
折々にご研究のこぼれ話など頂ければ幸甚です。


香具 布留川上流の石上神社  H13.2.15

先日、布留川沿いを遡り、天理市滝本町にある『石上神社』を参拝してきました。
ある本の略地図に載っているだけで普通の地図にもなく、石上神宮で訊いてもご存知でないことから現地に行くことにしました。
国道25号線を天理ダムに向い登っていき上滝本のバス亭近く『←桃尾の滝』の標識がある脇道に左折して進むと、国道から隠れるよう曲がった山裾に参道があります。
この『石上神社』の横道をあと5分も登れば『桃尾(もものお)の滝』です。
『石上神社』は、唱歌に出てくる村の小さな鎮守といった趣き、シンプルで落ち着いた佇まいでした。毎朝きれいに掃き清められている様子で、丁寧に手入れされた境内にいるとすぐ横を流れる布留川のせせらぎがとても心地良いところです。
石段と明治43年の石鳥居、簡素な拝殿があり、その奥に石上神社の祠(ほこら)?、向かって右には春日神社のやや小さな祠、左にも同様な祠があり3社が並んでいます。
この左の祠の名前が『八_神社』とあるのですが、下線が手偏に財というような漢字でよくわかりません。八坂でも八幡でもありませんでした。由緒やご祭神の解説板などありませんので、今後の調査課題です。また、石上神宮との関係も調べたいものです。
境内には神武天皇遥拝所の碑や凱旋紀念碑、そして1.5mくらいの苔むした大きな石がたくさんあります。神社の背後は勾配のきつい斜面が山頂まで続き、ところどころに大きな石が組み合わせたように見えています。シロートですので磐座かどうかまでは判りませんが、この山を拝んでいる形になります。桃尾の滝のほうにあったとされる、昔の桃尾山蓮華王院龍福寺との関係があるのかもしれません。
手水舎には竹の樋から小川の水を引き込み鉢に溢れていました。とてもジャパンな風情です。


kammer 狩場明神について H13.2.14

御無沙汰です。
丹生神社(宮本)のHP見ました。この当時の坂上氏の本拠地は橋本市で、確か頭領は坂上田村麻呂だったと思います。橋本の神野々に次の伝承があります。「光三宝光神社の巫女に坂上田村麻呂がおり、「この地は狩場明神の治める地である。祭るように」」と告げたとか。
坂上氏は勢力を伸ばし1200年〜1300年には、丹生都姫神社の社人となっています。
ちなみに、狩場明神については私は以前書きこみさせて頂いたように丹生家信だとみています。丹生惣神主家系図、武蔵武士丹党こと丹治氏の系図、宮本の丹生神社縁起、真言宗が空海の家紋?といつもセットで丹生氏の家紋を描いている(高野山や真言宗の僧侶のけさなんかにもかならずセットで描かれています)事を考えるとまず間違いないとみています。しかし、狩場明神がだれであるかを断定するのも夢がないかなあとも思っています。

これまで、丹生に関するHPを作ろうと思うたびに悪いことが起き、一時期ストップしていたのですが、1月より再度作ろうと思ったところとうとう父が亡くなってしまいました。丹生の血を引く者が、今まで世に出ていない丹生惣神主の系図を世に出そうとした事に対する御先祖様の祟りのような気がしてきました(考え過ぎとは思うのですが、あまりにもたび重なるので)。いろいろと考えたすえ、触らぬ神に祟り無し、というところにたどり着きました。
みなさまにはいろいろと教えていただきありがとうございました。父の死を機に丹生氏に関する書きこみは今後控え様と思います。今後は自分だけの趣味として調べて行こうと思っています。みなさまの書きこみは今後も毎日楽しく見させていただきますので、皆様の更なる御活躍をお祈りいたしております。
本当にありがとうございました。


ひふみ Re[614]: 房州と紀州についての質問 H13.2.14

鹿野山は、昔行った事があります。山頂にマザー牧場があって、ピクニックで行きました。
残念ながら、その時はこういう方面へはさほど興味がなく、通り一遍のお参りしかしなかったのが、今思うととても残念です。今度、又ゆっくりお参りできたらと思います。
鹿野山も中岳に「熊野」という名がついている所を見ると、大峰七十五靡のような修験の道があったのかもしれませんね。もし、昔の道が残っているものならば、一度歩いてみたいものです。ありがとうございました。


nick 隼人 Re[617]: 稲積  H13.2.13

貴重なご意見ありがとうございます。
鹿児島の場所には諸説ありますが、伝承や地名、それに山浪、地形を考慮するとやはり牧園辺りではないかと。。
またあの辺りには、豊前辺りと通じている氏があったようで。。
今後の調査が必要ですが。。まだ確証は。
また、なぜ妙見信仰を持ち込んだのか、その背景も勉強不足で判りません。(これも諸説お聴きしてはいるのですが、どうも今一つ。。。)


setoh 稲積  H13.2.13

和歌山の周参見に稲積島という島があります。弁天様が祭られています。
稲積で気に掛かるのが宇佐神宮祭祀の辛島氏が最初に拠点とした稲積山です。近くには宇佐市大字中の稲積六神社の鎮座しています。姫島の西にも稲積の地名がありますね。
鹿児島の国分市付近に稲積城があったようです。鹿児島では姶良郡溝辺町竹子の稲荷神社の祭神は保食神と稻積大明神となっています。山の神、海の神を山積、海積というように稲の神との説もあるようです。
式内社では讃岐国ですが、観音寺市の稲積山に高屋神社があり、山頂に元社の稲積神社があります。
出雲風土記の「北門の良波の国を国来国来と引いた闇見の国」とありますが、注には稲積、手角の切れ目とあります。

一体、稲積って何でしょうかね。


nick 隼人 : Re[615][613]: うずん  H13.2.13

な〜るほど、どこかで繋がってる。。(~_~)

日曜日、当地鹿児島は日本晴れ、地元の鹿児島神宮では恒例の「春を呼ぶ:初午祭」が盛大に催されました。20万人の人出とか(隼人の人口の6倍強)。。往時の活気を取り戻したような賑わいでした。


setoh Re[613]: うずん  H13.2.12

「うずん」から言語素人は「太秦」を連想してしまいます。
 太、宇豆には大や貴の意味があるそうですね。
 関西では「おおすみ」と普通に読んでいるように思います。お役に立てませんでした。<(_ _)>


setoh Re[611]: 房州と紀州についての質問  H13.2.12

房州と紀州
修験 房総の鹿野山(中岳は熊野峰という)、鋸山が有名です。
   逆に紀州那智大社境内から出土した教筒には 下総国木内庄云々とあったそうです。

熊野 干潟町の熊野神社の社伝 紀州熊野から御神体を背負って運んだ。
   ほかに千葉県の熊野神社は236社あり、関東近隣の他県のそれを合わせた数に匹敵します。
   詳しくは、神奈備の熊野三山の勧請社をご覧下さい。


nick 隼人 うずん  H13.2.12

当地の古老は、「大住」をそう呼びます。
過日、gensさんのページで「天降川(あもりがわ)」の話題が沸騰してその時、思い出したのですが、、、
幼少の頃は、この「天降川」を「うかわ」と呼んでいたと。。。

そこで調べてみましたら、江戸時代の古文書に鎌倉からの書き出しの中に
この川のルートを記載したページを見つけました。そこでは、なんと「大川」ではありませんか。。

そうか、「大川」、すなわち「うかわ」。。。納得でした。(gensさんは流石ですね。当初からご指摘しておられました。)

そちら関西では「大住」をどのように呼んでいるのでしょうか。結構気になりますが、


ひふみ 房州と紀州についての質問 H13.2.10

いつも、楽しく拝見させて頂いてます。
さて、setoh様、房州と紀州の類似点についてですが、地名のみならず、熊野権現と修験に関しても類似点があるという事ですが、よろしければ具体的に御教え願えないでしょうか。
私は、ただ今紀州の地におりますが、実家は房州にあります。
紀州の地は、様々な文化や信仰が残っていると思われるのですが、房州の地においては良くわかりません。もし解かったら、実家に帰った時等、色々訪ね歩いてみたいと思います。 よろしくお願いします。


nick 隼人 Re[609]: 止上神社  房州  H13.2.9

>神社の名は見落としたのですが、正八幡宮でしょうね。
今度の日曜日です。お天気はなんとか持ちそう。(~_~)春を呼ぶ「初午祭」を筆頭にあちこちの神社では「田の神祭」が氏子や部落会の子供総出で賑やかに催されます。(昨年度の模様は掲載しています、祭暦からどうぞ)

>所で地図を見ていましたら、止上神社と正八幡宮と宇豆峯神社で大きい正三角形を作っているように見えます。
そうです。また、島津が国分「舞鶴城」を築城の際は、これらを基準にして神社の配置をしています。前回お尋ねした件です。

>この止上神社の由緒が解らないのですが、やはり隼人の乱の鎮圧側の神社でしょうか。
私個人の解釈(いや地元の。。。)一応ページに。(隼人のルーツ)現地の由緒書きも画像で。止上神社関連の古文書は多数保存されてますが、まだそれを調査するに至っていません。一応、「妙見信仰、徐福」を一段落させてからです。

>伏見稲荷はTVで初午祭のコマーシャルを流しています。
そうですか。それは嬉しいです。しかし、どうして「稲荷で。。」と思いましたが、、実は島津の守護神なんですね。だから、鹿児島神宮にも鎮座しています。

>南紀の印南について調べていて、ここで鰹節の技術革新があっTことがわかりました。それまでの鰹節は薩摩、土佐が名産地であったようですが、新製法により、「紀州節」はその高い品質で一挙にトップに躍り出たそうです。面白いのは、一人の漁民が秘法を房総千倉にもたらし、「房州節」も鰹節番付で「紀州節」と並ぶようになったそうです。黒潮ルートで、紀州と房州とは交流が多く、地名、捕鯨、醤油、修験、熊野権現などが共通の要素として著明ですね。
そんなこともあったのですか。なんか身近かに感じられます。

実は今日お天気がよかったので、南西5町辺りの山に登りました。(~_~)明日にでもアップします。一応、掲示板に少々追記してあります


setoh 止上神社  房州 H13.2.9

今朝のTVニュースで隼人町の初午祭が放映されていました。神社の名は見落としたのですが、正八幡宮でしょうね。所で地図を見ていましたら、止上神社と正八幡宮と宇豆峯神社で大きい正三角形を作っているように見えます。この止上神社の由緒が解らないのですが、やはり隼人の乱の鎮圧側の神社でしょうか。
伏見稲荷はTVで初午祭のコマーシャルを流しています。

南紀の印南について調べていて、ここで鰹節の技術革新があっTことがわかりました。それまでの鰹節は薩摩、土佐が名産地であったようですが、新製法により、「紀州節」はその高い品質で一挙にトップに躍り出たそうです。面白いのは、一人の漁民が秘法を房総千倉にもたらし、「房州節」も鰹節番付で「紀州節」と並ぶようになったそうです。
黒潮ルートで、紀州と房州とは交流が多く、地名、捕鯨、醤油、修験、熊野権現などが共通の要素として著明ですね。


nick 隼人 鎮守の杜の梅が満開 H13.2.8

地では満開です。
過日、近くの熊襲の城跡のある「城山」に登りましたが
その登山口にある「菅原神社」境内の梅が。。。

今日も暖かいからこれからちょっと散策を。。

地元の神社もかなり名称の変更、場所の移動、鎮座、合祀と。。 ここいらも整理して、「神奈備」さんのページのように。。と思ってます。
そちらはどうですか。梅は。


setoh 神倉山 H13.2.8

神倉山は標高120mです。
泊瀬女さん、こわいと思うからこわいので、その気になればドンドン歩けるもの。
ひふみさん、投稿ありがとうございます。猿田彦、道祖神でしょうか。
setohは昨年の春の早朝に登ったのですが、新宮高校の生徒さんが「おはようございます。」と大きい元気な声であいさつしてくれた清々しい一日でした。
途中で降りてこられた地元の方が、手すりに蛇がいたよ、と脅かされ、キョロキョロしながら登ったことを思い出します。上から新宮市内や太平洋を望む気分はいいですね。
花の窟を陰、ごとびき岩を陽とする話は修験道の本にもあるそうですね。海から見てみたいですね


ひふみ 神倉神社行きましたよ。 H13.2.8

はじめまして。初めて投稿します。
神倉神社の話を読んで懐かしくなりました。
私が初めて登った時、朝6時くらいだったのだけど、(本当はごとびき岩から日の出を見たかった)あの石段の鳥居の前に近所の御老人達がひざまずいて朝の参拝をされていたのが印象的でした。
二回目に登った時は、地元の御老人が火祭りの練習なのか、丸太を一本手に担いでそれを上げ下げしつつ、エイホッの掛け声と共に昇り降りされてました。

火祭りは見たいのだけど、基本的に女人禁制で女性は参加どころか見られないとも聞きました。残念ですね。

ところで、石段の鳥居の前にたしか猿田彦様をお祭りしてあったように覚えているのだけど、どういう関係があるのでしょう。

あと、ごとびき岩と花の窟が関係があると聞いた事があるのだけれど、どうなのですか。


nick 隼人 Re[600]: 徐福と熊野権現 H13.2.7

> 徐福と熊野権現との連動はどうして生じたのでしょうね。

当地の妙見信仰との関連は薄くなりました。。残念。
詳細は、こちらの掲示板へ。


泊瀬女 神倉神社 H13.2.7

昨晩、2月6日の夜は和歌山県・新宮市・神倉神社のお灯祭りでしたね。お天気はどうだったのかしら。一度勇壮な火の祭りを見てみたいものです。
神倉神社の石段を登った方はいますか? 泊瀬女は無謀にも登ったのよ。
あちこちと旅をしていろいろな経験をしたけど、ひょっとすると死ぬかも・・・と思ったのは神倉神社だけです。地元の人がヒョィヒョィと登って行くのを見て、ゆっくりと気を付けて行けば何とかなるだろうと、目の前にそびえる石段に両手両足でしがみつくようによじ登って、少し上がった所でふりむいてみてゾッとしました。後ろはまさに絶壁。
そこで思い出した。私は高所恐怖症でした。下を見ることができないので、腹を決めててっぺんまでよじ登ってしまいました。頂上にはゴトビキ岩と呼ばれる御神体の大岩があって、何とも不思議な場所です。その後、山から降りるのが大変。普通7〜8分で降りるという石段を1時間位かけてズルズルと石にお尻をこすりながら降りました。後から登って来た地元の人が笑いながら「気をつけてネー」と声を掛けてくれるけど、あの時は石段を転げ落ちて死ぬかと思いましたワ。それが原因か左膝を痛めて今でも時々痛いのよ。山登り苦手なのに無謀なことした自分が悪いんだけどね。

神倉神社のご祭神は天香山命です。越後の弥彦神社と弥彦山頂の天香山命のご神廟にお参りした時には「膝を傷めちゃたの何とかしてーェ」と文句言ってきましたよ。
弥彦山頂・ご神廟の社務所でその話をしたら、神官さんが笑うかと思ったら真面目な顔で「無事で良かったですね」とおっしゃる。話を聞いたら弥彦神社の氏子さんが団体で神倉神社に行った時、石段から落ちた氏子さんが大怪我したとか。改めてゾーっとしました。

神倉神社のお灯祭りは、松明を持った男達があの石段を一気に駆け降りるんだって。すごいね。2月6日ということで思い出して一席。バカ話でした。


setoh 梅干し H13.2.7

和歌山の梅干しの産地の南部(みなべ)には広大な梅林があります。一輪どころではない咲きようだそうです。
この3連休には南部付近の熊野古道から周参見(すさみ)界隈の熊野古道大辺路に行ってみようと思っています。海岸は枯木灘と言い、絶景だそうで楽しみです。
大辺路の王子社は殆ど残っていませんが、事代主神や蛭子神を祀った神社に変貌しているとのことで、南紀の地元の人しか知らない小祠を訪ね歩く遍路になります。
くれぐれも狂乱の駆け巡りにはならないように自制する所存です。


nick 隼人 韓国宇豆峯神社の神主さん H13.2.7

古文書で「斜木」という方だったことが判明しました。
鹿児島神宮にお尋ねしたら、現在若い方がおられます。(実は私も昨年お会いしているのです)
系図でもあればと、、、現在16代だそうです。ざっと計算しても400年ですか。。。ちょっと希望が。。。

そうそう、江戸時代は、島津が勧請 した「龍王宮」の神主も。。とあります。昔、島津が一時期、隼人、国分を居城としていましたから。その時国分に創建したのが「龍王宮」です。


setoh 徐福と熊野権現 H13.2.6

徐福と熊野権現との連動はどうして生じたのでしょうね。
串木野市冠嶽の冠嶽神社は用明天皇が馬子宿祢に命じて熊野権現を祀らせたと社伝にあります。
別に、熊野三所権現垂迹の霊地とも言われています。
英彦山には、中国から飛来した熊野権現が最初に6年間留まったとの伝えがありますが、その前に冠嶽に来ていたのかも知れませんね。


nick 隼人 Re[595]: 無題 H13.2.6

setohさん> 比売乃城は国分市との境ですね。南紀の熊野もそうですが、この辺りも、修験道、熊野権現、徐福が入り交じり、更に秦氏、日置氏が色々持ち込んでいるようですね。日本国中、一筋縄ではいかない、と言う所でしょうか。

似たような場所があるものですね。但しスケールはそちらが雄大ですが。

天狗岩の麓に鎮座する稲荷(妙見)神社の崖に梵字(妙)が彫ってありますがこれを保存しようという動きがあります。
今日、この下の民家の裏にある梵字をみてきましたがその折、神社の総代さん宅へ立ち寄ったらそのような話をされてました。
また過日は、この稜線を縦走しました。山頂の岩にも梵字を。。
益々「修験道の山」の感を深くしました


nick 隼人 Re[597]: あこがれの・・ H13.2.6

> 生れて初めてのできごと。なんと今度籠神社に行きます。天橋立にも行きます。
私も行きたや。。。。です。
昔、京都に月2回の割りで出張してましたが、、、見物のゆとりもなくて、、
ちょっと手をぬいて見物してれば。。。と
帰郷して「隼人を調査」し出したら、その神社と関連があるようで。。。
ここのデータには思わず小踊りしてしまいました。(~_~)
浦島伝承や龍神、、、はたまた神社まで同じ系統のようで。。。


習志野の てつ あこがれの・・ H13.2.5

生れて初めてのできごと。なんと今度籠神社に行きます。
天橋立にも行きます。出張で8日に京都に行くのをいいことに9日(金)休みを取って、憧れの籠(この)神社にいく予定です。ついでに賀茂神社も(ついでなどと失礼な発言、神罰が当たるかなー)行くつもりです。裏読み無しに、純粋に詣でる予定です。
実は意識的に神社をお参りするようになったのは、昨年半ばからなのですが、どんどん深みにはまってきてます。神奈備のsetohさん、玄松子さんのレベルのは及ぶべくもないけれど、・・せめてなりたや 殿様に・・ホンマニ・・
荒ぶる坂東のムシャクシャ町人 のたわごと でした。


595 setoh H13.2.5

> 高良玉垂尊が武内宿禰と同一
福島さんの根拠を示されてのトンデモ説(失礼をお許し下さい)、いつも感心して読ませて頂いています。大歓迎です。
高良大社の神主に紀氏がいたそうで、武内宿禰を持ち込んだ可能性もありえますね。高良は「かはら」とよまれていたとの事ですが、この山は金属と関係があったのでしょうか。
高良玉=香春魂、水沼氏の齋祀る神を秦氏−辛嶋氏−紀氏の系列が簒奪したのかも。

> 石見では五十猛は「いそたけ」とよむようですね。釣りの名所だそうです。西から仁万−五十猛−静間と駅があります。五十猛町は素盞嗚・五十猛兄妹の上陸、「静の磐」では大己貴神と少彦名神の国土開拓の出発地点とされる伝承がありますね。ここの邇幣姫神社の祭神が丹生都比売との説もありますね。

インパクの島根版の掲示板に http://www.inpaku.pref.shimane.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=Inpaku_messageboard_topic_list
が登場して、「スサノオノミコト」&「イソタケルノミコト」をメインテーマとする「古代神話ゆかりの地名」と「古代神話の神々を祀るお祭り」を話題とするようです。今朝は未登場でしたが・・。

> 比売乃城は国分市との境ですね。南紀の熊野もそうですが、この辺りも、修験道、熊野権現、徐福が入り交じり、更に秦氏、日置氏が色々持ち込んでいるようですね。日本国中、一筋縄ではいかない、と言う所でしょうか。


kammer 御無沙汰です。 H13.2.4

setoh様 御無沙汰しております。
この度は丹生酒殿神社にお越し頂き、ましてや私のコメントまで載せていただきまして、なんとお礼を言えばいいか。私が知らない事がまだまだたくさんあることを知らされ、とても勉強になりました。ありがとうございました。

>酒殿社別當福林寺寶永中の鐘の銘及社記に詳なり
この鐘は第2次世界大戦のおり、お国にもって行かれ、砲弾か何かに変わってしまったようです。当時は今の酒殿神社内にあったようです。

私12月、1月と仕事が忙しく、月の半分はホテル住まいと言う状況でなかなか書きこみできませんでしたが、HPはいつも楽しく見させていただいております。まだまだ忙しい日々が続きますので書きこみはしばらくできませんが、setoh様のさらなる御活躍をお祈りしております。

そういえば、1月に島根県邇摩郡迩摩町に仕事で行ってきました。郡名町名駅名とすべて「にま」なのに漢字が全て違いました(駅名は仁万駅でした)。そのとなりが、五十猛でした。おおおお、と思ってしまいました。


nick 隼人 Re[591]: やはり野に行け H13.2.4

> 関西は土曜日が久々に晴れ、紀の川沿いに神社巡り。約4時間のハイキング。

私は近くの昔熊襲の居城だった「比売乃城」に登りました。
四十年振り位です。昔の感を頼りに、菅原神社の参道前の旧登山道を。
今はここも宅地造成され、どこが入口だったか判りません。 薮をかき分け何んとか尾根伝いに。途中、倒木や崩落で、、 痩せた狭い尾根を足場を確保しながら慎重に、 四苦八苦して約1時間で山頂へたちました。
山頂は、ちょっとした平地があって、そこに10m程の小高い丘があります。この辺りに石碑や池があったように記憶していたのですが、下草が生い茂りその上倒木、丘も崩落して、位置の確認さえままならなかった。
昔、山伏や修験者が行をやった稲荷(妙見)神社の上部にある天狗岩まで稜線の縦走を試みましたが、、、ちょうど中間辺りにたつ金吾岩(30m程のオベリスク)で道が無くなってしまいました。どうやら平成5年の集中豪雨で崩落した様子。この爪跡はあちこちで散見されました。
また、金吾岩付近で梵字を発見して、この地が昔霊場であったことを再認識しました。
役行者「小角」がここを訪れたと古文書にはありますが、当時はどんな霊山だったのでしょうか。
眼下には、隼人の守護神を祭っていたであろう「蛭子神社」や「止上神社」が微かに望見できます。
南正面には、噴煙を上げる桜島が悠然と横たわっています。
遠くには、今度登る予定の「韓国宇豆峯神社」の山浪が。。。


福島雅彦 Hp Re[591]: やはり野に行け H13.2.4

武内宿禰が黒男!
「クロ」「クリ」「クル」は、全て丸い物を表しています。
『田の畔(くろ)』、『ぐり石=人頭〜拳大の石』『くりくり坊主』、『ぐるっと廻る』、『グルに成る=車座に成って悪企み?』etc。
 高良玉垂尊が武内宿禰と同一かと、常々思考を巡らせていました。『玉』は丸い!!!!。その『玉⇒黒』に何か隠蔽されている、匂いが…。
“다”(ta=全)・天(水縄連山の東端)の“딸리”(ddal-li=所属)⇒全・天照デアル。
天照大神が九州皇統の所縁である事を隠蔽する為、武内宿禰としたが、臍の緒の『黒』がしぶとくくっ付いて取れなかったか?。
 ここの掲示板はトンデモ説は御法度でしたっけか?済みません!。


setoh やはり野に行け H13.2.4

関西は土曜日が久々に晴れ、紀の川沿いに神社巡り。約4時間のハイキング。
丹生酒殿神社や百合野神社に参詣してきました。出会った人は全員親切このうえない人々でした。

武内宿禰が黒男と言うことは、どうやら唯の名前ではなかったのか、すなわち武黒男さんが大臣になり宿禰になったと。現在の到達点です。
アホか!お前はとの声が聞こえそうですね。


福島雅彦 Hp Re[589][585]: 別天神? H13.2.4

> >  この場合の「別」とは、どのような意味でしょうか?。
> 通常、「別天神」は「ことあまつかみ」ですから、誉田別の「わけ」とは違うと思いますよ。「別格」「区別」「異なる」って感じでしょう。以降の神々が夫婦・兄妹で登場するのと違って、性別を超越した神々ですね。
> 天満宮への変更は、圧力というより、「付会」って気がします。神社や氏子にとって、「天神様=天満宮」の方がわかりやすいし、現世利益的です。天満宮は朝廷にとって、祟り神ですから。

ご教示賜り、有り難う御座いました。『朝廷の祟り神』を奉祭する事で、磐井の鎮魂と重ね合わせたか?。チョツト穿ち過ぎですね。


玄松子 Hp Re[585]: 別天神?  H13.2.3

>  この場合の「別」とは、どのような意味でしょうか?。

通常、「別天神」は「ことあまつかみ」ですから、誉田別の「わけ」とは違うと思いますよ。
「別格」「区別」「異なる」って感じでしょう。
以降の神々が夫婦・兄妹で登場するのと違って、性別を超越した神々ですね。

> 畿内皇統からの圧力か、その勢力に阿って、天満宮に変えたのではないか、と。
天満宮への変更は、圧力というより、「付会」って気がします。
神社や氏子にとって、「天神様=天満宮」の方がわかりやすいし、現世利益的です。
天満宮は朝廷にとって、祟り神ですから。


習志野の てつ Re[584]: 息長帯比売の別名 H13.2.2

>丁度二年前、「ゆか」さんから、気長足姫(息長帯比売)の別の名の話題がでていました。
> -誉田比賣神が出てきました-息長帯比売のことです。
大変ありがとうございます。万歳!
私の勝手解釈にすばらしい傍証です。

誉田さんの奥さんが誉田比賣である。その二人の息子は訳(わけ)有って、誉田を名乗らず、天皇家の者だと偽り、天皇家を乗っ取った。母親が皇后なら、天皇の息子でもおかしくない。

〔574〕で誉田別の父さんは誉田さんでは と書きましたが〔575〕で、一番強いのは誉田さんと教えていただきました。−感謝− 且つ それが住吉さんであるとも。=大感謝=
大阪の住吉大社に 息長帯比売 といっしょに祭られてる!住吉三兄弟の末っ子?と息長帯ちゃん仲良く並んでるぞ。二人はできてる=不倫関係じゃ 家政婦は見た・・ってか
また玄松子さんのHP いつもありがとうございます http://ucgi.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=1&target=place

〔587〕* 原田の東、冷や水峠にあるコマイヌさんに使われている土台石に、ナサのスタッフがガンつけた。 すいません理解できません。
ナサってNASAでしょ?アメリカから見に来たのですか?
紋次郎あにぃ と 勝手に呼ばせていただいてるのに、喜んでいただき恐縮でも、『ゴッドヂヂイ』は迫力があってすごい名前だと思いますよ。


焼尻紋次郎 Hp ははぁ じんじゃ h13.2.2

蘇我 / 物部 戦争で物部が負けたということは、「それまでのホコラを撤廃しろ」という方針が露骨に出る結果となっただろう。……ということは、常民にとっては「そんなこと分りきってる領域」へ異国の「喋べくりまくり」がはいってきて暮らしが水くさくなってくる……というこった。
戦争に勝ったとはいえ、仏教普及はへたをしないでも政権の基盤をゆるがす大モンダイだったことには変わりがない。

 福島さん、ヒエラルキー・ matrix が働いて、格づけされた神社が出現する前のホコラみたいなものこそ、歴史に重みを添えるもんだわさ。いまとなったら玄さん・サラセッセがなんぼ天才でも、この資料あつめはカナワンやろな。

* おら、どしてん国鉄原田駅を中心とした博多〜久留米の分水嶺にひっかかる。ここのチクシ(私見 ; 道つなぎ)を牛耳っていたのは、ひと山越えた逃げ城の秋月藩ばい。
 太宰府は迎賓館がそのおもな役目でっしょう。飛ばされウ(大)メ(目)……の道ちゃんはトオルコガ(通古賀)の榎寺におんなすった。死んだあとに天満宮ができたとやろもんき。
 終戦のドサクサに紛れて秋月の青年たちが都府楼の土台石をリヤカーに積んで秋月まで持ち帰っていたげな。今やったらそんときのハラヘッタ青年も生きちょるやろ。トスゲもねぇ言い伝えが秋月にはありそう。このハナシ、テレビ局が動くとやなかでっしゅうか。

* 原田の東、冷や水峠にあるコマイヌさんに使われている土台石に、ナサのスタッフがガンつけた。ナンジャらホイ。
山浜あにぃの出番ですぞ。

* 原田の南になるのかな。小郡市の若宮八幡が建てられた年代はどえらく古くて、おらびっくらこいた。長田さんやったと惟ふ。

  ふだん記 言語学; www.you-i.org ⇒『 古代固有名詞・ネパール語解』


焼尻紋次郎 Hp ヤマタイ・ふだん記の精神……独立するが孤立しない H13.2.2

☆ 玄松子さんお教えあが。よくもいちいち覚えちょるモンだと感心 shikir-i (回転)ですバイ。
 あっしにとっち、ニハ、チヌ、サナツラが今後のターゲットになった和気。
 たいしたテキじゃない。大略のところで目ん玉の黒いうちには意味が掴めやしょう。
 この合祀形態をツラツラ勝手惟ふに、こりゃ地域々々が多分に独立性を持っていた段階での「一宮つくり」だったんじゃねーだろーか……ということをまず、感じやした。地方分権……ではなく、治外法権群のヤマタイということ。
 政治的に統一領土が出現しておれば、シバ(意味は交換尺度らしい)神のように、2000の別名を持たせても良かったはず。金属製錬士たちは地方々々で夫々窯焼きの神を別の名前で呼んでいたが、“国家”出現と同時に「天目一箇神(アマノマヒトツ)」に統一されている。
 全国どこに出かけて行っても共通風景となったとき、農民の神が造られ、大略のところでスサノオが共通になった。 <@p> むかしは、ヂヂババは10年もすりゃ死んでゆく。先祖からの遺産のひとつで、一人が5〜6ヶのホコラを持って拝んでいた。そういう繰り返しのなかで次第に有名なホコラが出現する。「この村にも中央に連なるレッキとした神社建てるぞ」は、そのような情勢のなかで展開されたんだろうぜ。
のは、今も太古もムズカしい。「いっしょに祭ってやっからヨォ、ドブロク樽で三つももってこい」。


福島雅彦 Hp 別天神? H13.2.1

   横合いから済みません!
 福岡県には、菅原道真公の没年よりも明らかに古い(と思える)古色蒼然とした神社が天満宮、天神様と成っています。畿内の北野天満宮から招致した事に成っている『北野町の天満宮』も此方の方が先に在ったのではないかと疑っています。即ち、
『古事記』の「天地のはじめ」の記述
≪天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神、宇摩志阿斯訶備比古遅の神、天の常立の神≫上の件り、五柱の神は別天つ神。
 これらの神々を祠っていたのに、畿内皇統からの圧力か、その勢力に阿って、天満宮に変えたのではないか、と。
 この場合の「別」とは、どのような意味でしょうか?。


584 setoh 息長帯比売の別名 H13.2.1

丁度二年前、「ゆか」さんから、気長足姫(息長帯比売)の別の名の話題がでていました。
誉田と誉田別はともかく、誉田比賣神が出てきました。そう、この名は息長帯比売のことです。


玄松子 Hp Re[582]:    wakil はネパール語でもエジプト語でも「大使」という意味だった H13.2.1

> ☆ テナコト言ワレテソノ気ニナッテも、「配祀」とはなんですかね。
一緒に祀られている神ですね。

> そしてここに居並ぶホトケさんたちゃ何と発音するんですカネ。
庭津女命(にはつめのみこと)
知奴命(ちぬのみこと)
沙南豆良姫命(さなつらひめのみこと)
八須良雄命(やすらをのみこと)
武彦根命(たけひこねのみこと)
麻發命、これは字が違うかもしれない。本当は麻背命(ませのみこと)らしい。

紋次郎さんが書いているように、「別」は「和気」かもしれない。ウジノワキイラツコの「ワキ」かもしれない。皇別・神別の「別」と同じかどうか、ですよね。


焼尻紋次郎 Hp wakil はネパール語でもエジプト語でも「大使」という意味だった H13.2.1

おらたちの仲人は岡山市生まれの和気という人物でした。
とても霊能力が強いヒトで、この人と接触しているとき、おらは「心眼で見る経験」を持ちました。
だが、この和気さんは、ほかのひとがどれくらい理解しているのかが分らずに ax + bx を説明するのに「1+1=2」から説きおこすのでした。
だが、いまは「1 + 1 =2 」の解説がほしい。
てつあにぃ、あっしを「あにい呼ばわり」しちくれち、あがぁ〜あがぁ〜。サラセッセは「ヂヂィ」いうモンネ。ばってんが

★ 配祀 庭津女命,知奴命,沙南豆良姫命,麻發命, 八須良雄命,武彦根命 を見て、配神の名前 割に 『有名では ない』神様が多い。紋次郎アニィ いかがでしょう
☆ テナコト言ワレテソノ気ニナッテも、「配祀」とはなんですかね。「配神」とは難ですカネ。そしてここに居並ぶホトケさんたちゃ何と発音するんですカネ。
モノゴトはビッグ・バンから考え始めるか、現代から考え始めるかの二つに一つだ。この場合はまんず現代にまで伝わっている「発音」を確かめなならん。 √ハツオン マチガヤ イノチ トリ
あとで「あのハツオンまちがいぞな、もし」なぁ〜んちゅうこつに……ムニャムニャ。 アマカネバイ。
※ サラセッセが血圧上げながら、『古代固有名詞・ネパール語解』を www.you-i.org に掲出しちくれやした。いまから先ゃ、これを踏まえずにモノ言うやたアンポンタンでしかありやせん。ぜひのご一読を。
 あなたとわたしの合い言葉 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi ユーラク蝶カネ


習志野の てつ 別について H13.2.1

別(わけ)について再度 くろ の続きと言うことで玄松子さんのHPを使わせていただきます
健御名方富命彦神別神社(飯山) http://www.genbu.net/place/place.htm
配祀 庭津女命,知奴命,沙南豆良姫命,麻發命,八須良雄命,武彦根命 を見て、配神の名前 割に 『有名ではない』神様が多いと思います。(私の浅学で恐縮ですが)

以下私の勝手解釈
健御名方さんを親分と仰ぎ、その子分となる。そこで『うい奴じゃ、吾が一家の子とみなして=扱ってやろう』てなことで、別(わけ)の名前のついた神社に、余り知られていない=中央では無名の人々がたくさん残っている。これって893の世界に近いと思いますが、根源的人間関係に近いのではないでしょうか。
大昔も義理の養子縁組みがあった?。紋次郎アニィ いかがでしょう

話は飛びますが応神天皇が、仲哀さんの子供ではないことは、キリストが大工ヨセフの子供では無いことより明らかだと思います。

更に話は飛びますが、マリアの姉の嫁ぎ先は、当時のユダヤ教の最高神官でした。また以下私説となりますが、キリストは、マリアがこの姉の所に遊びに行った時、最高神官との間にできた子で、その秘密を知った為にグレてあちこち放浪し、ユダヤ教に反発、キリスト教を創り出した。ほぼ関係ない話で済みません。

元に戻って、『A別』と云うのは、『Aから別れた』と考えてはマズイのでしょうか?皇別と云うのはは、天皇家から別れたと思ってました。


 setoh 黒に苦労 H13.2.1

 八幡古表神社の石坂姫大神について
播磨風土記に出てくる神憑りする播磨國造の名前にありました。
爾保都比賣命が國造の石坂比賣命に神憑りして、我が前を祀れば・・と、息長帶姫を助ける話です。
ここに配されている神々はどうやら息長帶姫縁の深い神が選ばれているのですね。
相撲は20柱より多いようですが男神がとったのでしょうね。まさか女神がねー。

 まだ武内宿祢の「黒」はつかめませんね。
 作戦上は「腹黒い」ようです。母親の影姫と言うのも凄い美人でかつ暗いと言うイメージですね。サニワは暗闇でやりました。暗殺者も黒い服が似合いますね。


瀬戸内 仲哀天皇の件 H13.1.31

香椎宮 徒歩 10分のところに単身で住んでいます。
にぎやかな箱崎宮とは対照的な静かな おむむきの社です。
昔は、気比 他とならぶ別格の4神社の一つとの事です。近くに不老水 武内屋敷もあります。夫老水飲みましたが 格別 おいしいとは思いません。
一説では 仲哀は神功と武内に暗殺されたとの事。 かの八幡の応神(誉田別)も実子ではなく、赤の他人で親子の関係は、記紀ででっち上げたのではとの事。
記紀に八幡が登場しないのも興味深々。とにかく 香椎宮は仲哀の鎮魂の地にふさわしい土地です。


nick 隼人 韓国宇豆峯神社 H13.1.31

今日、市役所に出かけてきましたが、、ちょっと判らないというご返事で。。
自分で調査しなければ回答はでない様子。
とりあえず、お天気をみて近くを探索しようと。。(といってもかなり山登りになりますね標高250m前後)


あかがね Re[576]: 無題 H13.1.31

> > 誉田別(ホンダワケ)と誉田は、当然違うはずで、

誉田というのは地名ですよね。今ではコンダ。河内出身なので懐かしいです。
地名は氏になっても名にはならないというような話も聞いたことがあったような気がしますが、王族に関してはゆかりの深い地名を名前にかぶせたりするみたいですね。

記に「品陀の日の御子(以下略。というか忘却。)」というような歌もありましたし、「別」がなくても特に問題ないのかもしれません。
それとも景行天皇の王子「ホンダマワカ」王とか。(応神天皇の舅。)


576 setoh  H13.1.30

> 誉田別(ホンダワケ)と誉田は、当然違うはずで、
所が神社庁では誉田大神を応神天皇と同一視しています。

HP八幡古表神社、若干改訂しました。
石坂姫大神と言う神がわかりませんね。


玄松子 Hp Re[574]: 黒く小さく強い神  H13.1.29

> うろ覚えで恐縮ですが、宇佐神宮の摂社のどれかに人形を20体程置いていて、相撲を取らせる行事があるそうです。
八幡古表神社ですね。たしか、神奈備サイトにも掲載されていたような。

> その人形の中で一番強いのが、色が黒かったと思います。
たしか、勝つのは住吉だったと思います。


習志野の てつ 黒く小さく強い神 H13.1.30

うろ覚えで恐縮ですが、宇佐神宮の摂社のどれかに人形を20体程置いていて、相撲を取らせる行事があるそうです。その人形の中で一番強いのが、色が黒かったと思います。必ず決められた二組に分かれ対戦相手、勝ち負けも全て決まっていて、最後に勝ち抜くのが、一番小さいまっ黒い人形だったと思います。それぞれの人形は、有名な神様の名前が付けられていたはずです。
私の関心事は、その中に名付けられていた誉田大神(ホンダのオオカミ?)と云う名前でした。誉田別(ホンダワケ)と誉田は、当然違うはずで、応神天皇以外に、誉田(ホンダ)さんと言う名の神様がいた。
以下勝手解釈
(お父さんは、いわれている仲哀さんではなく、誉田さんだ。お父さんといわれて、哀しい仲さん!)


焼尻紋次郎 Hp くろい花びら 静かに散った H13.1.30

ミクマリ泊瀬女ちゃんアマカネ。 おゲレツでも「気高さ志向」いっぱいの紋チャンカネ アマカネ 
そもそも なにかを隠蔽するっちゅうのはいかんねぇ。思考に乞食三日の偏執が出るよ。全方位的でねぇ〜〜イヨッ。いやさ、サラセッセが消さねぇとこみりゃ、あれで合格だわさ。
ガラにもなく数式使うた……ら、まちがえた。おしまいの“ 」”が二つ左にくる必要これあった。(m・t・t )a・biは股旅ざんす。(ト・チ・カ)ン はトンチンカンあるネ。
餌袋やられなすったけぇ。そいつァいけねぇ。メシィくう前にジャガ芋食べなされ。3回続けるとケロなおるよ。

あっしの持っている基礎ネパール語事典(天理教・海外伝道部刊)には、 
『 khola , kholo =川、小川。 kulo =小川、細い水のながれ 』と出ています。いちど、ネパールの青年から発音を聞いたことがありますが、khola はコラではなく「コーラ」と聞こえました。このことに就いては けふのYou-I 掲示板にて。

兼ねてから取っ組んでいた「日本古代固有名詞 に散文調解説をそえた一覧表」がけふ仕上がる予定です。希望者に E メール流しますので、お申し込みあれ。そのうち、「ほっつきある記」にも掲出の予定。

 気高くもおゲレツな言語小屋 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


玄松子 Hp Re[570]: 色の黒いのは災難を克服する  H13.1.29

>  宇佐神宮の摂社に黒男神社があり、建内宿禰命を祭神としています。
面白いことに気づきましたねぇ。
「黒男」ですか。なぜ、武内宿祢なんでしょう。
浮羽郡にも黒島神社があり、武内宿祢が祭神です。

久留米には、高良大社がありますが、そこも武内宿祢ですね。
「コオラ」と読みますが、「クロ」と似てますね。
「クルメ」は黒女でしょうかねぇ。

黒男関連社は佐賀から筑後を通って、大分へ抜ける道にあるんですね。
面白そうですね。


571 泊瀬女  Re[568]: 再び 野あるきの おすすめ  H13.1.29

> * クマリ・初瀬女ちゃん、ケツまくり以来アマカネカネ。“「テ・シ・ラ・マ」×「ン・コ」”ちゃんが最高なのら。
クマリ・泊瀬女ちゃんは裾ケッチラカシテ駆けまわることはしても、ケツはまくりませんわヨ! 紋次郎さん、下品だわ。言葉の専門家として尊敬してるのに・・・上品にね。
「テ・シ・ラ・マ」「ン・コ」って何? 意味の分からないこと書いて悩み深き泊瀬女をこれ以上悩ませないでください。
仕事が忙しくて、そのうえ雪まで積もってお宮巡りに行かれないから、ストレス溜まってサ。おかげで食欲に走り、食べすぎで太って、胃まで壊れた。
何とかしてェー


 setoh 色の黒いのは災難を克服する H13.1.29

宇佐神宮の摂社に黒男神社があり、建内宿禰命を祭神としています。確か入り口付近にありました。
 ほかに
福岡県大野城市大字筒井728 黒男神社
福岡県糟屋郡久山町大字山田1283 黒男神社
福岡市中央区今川2-1-17 鳥飼八幡宮摂社黒殿社
大分県中津市大字大貞209番地の 薦神社摂社黒人社
大分県東国東郡国東町大字重藤277番地 黒雄社
大分県築上郡築城町大字赤幡325ー1 八幡神社摂社黒男殿神社
の祭神に武内宿禰が入っています。

それから
佐賀県武雄市朝日町大字中野6741 黒尾神社
の祭神は武内宿禰の母親とされる神母景媛です。

黒男(雄、尾、人)神社で祭神が武内宿禰になっているのは九州にしか出てきませんでした。黒尾神と言うのが一社。

また、ついでに
大分郡野津原町大字荷尾杵1332番地 黒烏社
の祭神は武津之身命となっておりこれは八咫烏のことです。
八咫烏神社や賀茂社は朱色塗りですが、烏は黒いのが普通、海苔も黒いのが当たり前です。有明海周辺は五十猛命や紀氏のルーツにかかわる地域です。海の死滅は見過ごせませんね。


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