神奈備掲示板の平成十三年三月ログ


掲示板のログ(平成十三年三月)お名前の敬称は略させて頂きます。
更新 H13/3.30   過去ログへ


Setoh あさもよし掲示板 H13.3.29

あさもよし掲示板の今までの流れを切るべく、神奈備掲示板に統合しました。
新あさもよし掲示板は紀の国和歌山にゆかりの掲示板に特化いたしました。
従って、新あさもよし掲示板には、紀の国に無関係な投稿はご遠慮願います。


Setoh エデンの証明 H13.3.29

とりあえず、
「草薙剣」
「天叢雲之剣」
「都牟羽之大刀(ツムハノタチ)」
が同じ物であることの証明がいらいしょ。

神話的には
「草薙剣」の名は素盞嗚尊がオロチから取った時からあったが、意味不明になって、日本武尊の説話ができたはず。ナギは蛇。草は草野姫を「かやのひめ」と読む位だから、半島で、蛇を神格化した剣かも。
オリジナルの説話は、大挙して白鳥が羽に水を含ませて上から降り注いだ。と想像している。伊豆で五十猛命が鳥の羽の水で助かっている。天叢雲之剣の雰囲気が出る。

都牟羽之大刀の羽は羽根か蛇か、確かハハには蛇の意があったはず。ムツは何か。

本牟智和氣命ホムツワケの説話
石王古事記から
かれ、その御子(ミコ)を率(ヰ)て遊びし状(サマ)は、尾張(ヲハリ)の相津(アヒヅ)にある二俣榲(フタマタスギ)を二俣小舟(フタマタヲブネ)に作りて、持ち上(ノボ)り来て、倭(ヤマト)の市師池(イチシノイケ)・軽池(カルノイケ)に浮かべて、その御子を率(ヰ)て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚(ヤツカヒゲ)心前(ムナサキ)に至るまで真事(マコト)とはず。かれ、今高往(タカユ)く鵠(ククヒ)の音(コヱ)を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。

注目は、本牟智和氣命が軽池(カルノイケ)、八拳鬚(ヤツカヒゲ)心前(ムナサキ)に至るまで真事(マコト)とはず。
オシだったと言うことは、金属製錬で喉をやられたか。

八拳鬚(ヤツカヒゲ)では、素盞嗚尊に似ている。すなわち
石王古事記から
速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)命(ヨ)さしし国を治(シ)らさずて、八拳須(ヤツカヒゲ)心前(ムナサキ)に至るまで、啼(ナ)きいさちき。

目下、似ている程度で「それがどうした」とすれば、剣より髭が面白いといった所。


kokoro Re[804]: 剣の舞 H13.3.29

 香具さん、[804剣の舞]短期間でものすごく徹底した調査をされますね。びっくりしました。しかも飲み代を削って文献資料の購入にあてられる…本当に敬服します。おかげで記紀に登場する剣について大分見通しが良くなってきました。
香具さんの徹底調査を下記のようにまとめてみました。

A.タケミカツチが平国(クニムケ)した剣(フツノミタマ)
  1【十握剣(トツカノツルギ)】記紀

B.神武天皇がタカクラジから奉られた剣(フツノミタマ)
  2【佐士布都神(サジフツノカミ)】記
  3【甕布都神(ミカフツノカミ)】記
  4【布都御魂(フツノミタマ)】記
  5【平國之剣(クニムケノツルギ)】紀の本文

C.スサノオがヤマタノオロチを退治した剣(フツシミタマ)
  6【十握剣(トツカノツルギ)】記・紀の本文
  7【蛇之麁正(オロチノアラマサ)】紀の一書
  8【蛇の韓鋤(オロチノカラサヒ)】紀の一書
  9【天蠅斫の剣(アマノハバキリノツルギ)】紀の一書

D.草薙の剣
  10.スサノオがヤマタノオロチの尾から発見した剣
  11【都牟羽之大刀(ツムハノタチ)】という標記が古事記にある剣、
  12.いつも上空に雲が集まっているので【天叢雲之剣(アメノムラクモノツルギ)】の別名がある剣
  13.ヤマトタケルが東方征討に出かけるとき叔母のヤマトヒメから授かり、以後、タケルの冒険で重要な役割を果たす剣
  14.天智天皇7年に僧道行が新羅に盗んでいこうとして果たせなかった剣
  15.朱鳥元年に天武天皇がタタリをおそれて熱田神宮に返還した剣

E.イザナギがカグツチを斬殺した剣
  16【十握剣(トツカノツルギ)】
  17【天之尾羽々張(アマノヲハバリ)】
  18【伊都之尾羽張(イツノヲハバリ)】

F.スサノオが誓約した剣
  19 十握剣(トツカノツルギ)】

G.アジスキタカヒコネが喪屋を切伏せた剣
  20【十握剣(トツカノツルギ)】
  21【大葉刈・大量(オオハガリ)】
  22【神戸・神度(カムドノツルギ)】

 前回のカキコで石上神宮にまつわる剣の説話のややこしさに触れ、その原因としてまず、同社には御神体の剣が二本あり(主祭神フツノミタマと第三相殿フツシミタマ)混同しやすい点を指摘しました。ややこしさの原因のもう一つは、同じ説話の剣に名前がいくつも付いているケースが多いことです。いったい固有名詞というものは、いくつかの説話があって、その担い手が特定の固有名詞で呼ばれるというのが普通ですが、ここでは、ほぼ同一の説話に対し3っから4っの固有名詞があるのです。つまり全く逆のことになっているわけです。そこで、ここではこうした煩雑さを避けるため、これらの剣を名辞でもって呼ばないで、『○○が○○した剣』という風に説話でもって指示することにします。したがって、例えば9と17は名前が似ていますが説話に共通点がないため、この原則に則って別の剣とます。また、17及び18は古事記でオオクニヌシに国譲りさせるため、葦原中国に派遣される件で登場するタケミカツチの親爺と同じ名前をしています。ここからEはA及びBと同じ剣である可能性が示唆できますが、これも説話的には共通するものがあまりないようなので、ノートするだけに留めておきます(後ろ髪引かれる思いですが)。
 AとBは別個の説話に登場する剣ですが、紀の本文で、タケミカヅチがBのことを5のように言っているので説話的に同一のフツノミタマと認定できるようです。

 ただし、以上とは別の文脈で、フツノミタマとフツシミタマが同体ではないのかというsetohさんの指摘は検討する必要があると思います。なんといっても備前の石上神社は、社名が『石上布都之魂神社』なのですから、その御神体はフツシミタマではなくてフツノミタマだと考えるのは最も自然なことです。記紀のオケ王(仁賢天皇)とヲケ王(顕宗天皇)の物語は、同じ様な名前で説話が二重化されています(和田萃先生によれば顕宗は架空の人物)。話を面白くするテクなのでしょう

 他に気が付くのは7及び8の名称からCのフツシミタマは朝鮮半島からの舶載刀であるらしいこと、Bは2〜4のように物体としての剣ではなく、神名や霊魂として観念されており、これは物部氏のタマフリ呪術とこの剣が何らかの関係があったためではないかと思われること等です。

 上のA〜Gを見てもう気が付いた人が多いと思いますが、他の剣は名辞ではなく説話で指示≠オたわけですがDの草薙の剣だけは普通の固有名詞として扱いました。この剣だけはそうしないと意味をなしません。これはこの剣が別格で超有名だったためでしょうね。

 なお、1、6、16、19、20とトツカノツルギという名称が重複していますが、これについては『トツカノツルギ』は普通名詞であるという香具さんの解説が最良の解答になっていると思われます。

 神社にも古代にも関係しない話ですが、固有名詞についてユーアイ掲示板にカキコしますので興味のある人は読んでみて下さい。


習志野の てつ 日本武尊と吉備武彦 H13.3.28

済んだ話題を失礼ですが。
>何故、日本武尊に吉備武彦と大伴武日連がくっついていったのか?
答: 日本武尊と吉備武彦 は親戚だから。
仲哀さんは、日本武尊と両道入姫命との子供です。

以下 私見です。
この両道入姫命とは、吉備津彦(吉備勢力)の姫だと思います。
当時の吉備は、上道(かみつみち)と下道(しもつみち)と呼ばれてました。両道とは、このふたつの道のこと。
『吉備武彦は姫の叔父で、お目付け役』 この部分創作

 結果的に、遠征は成功、吉備勢力は外戚になったのです。
 その後天日槍(あめのひぼこ)系=神宮皇后にやられて没落。

・大伴 は天皇家の軍事担当なので、付き従うのは当然
・和気清麻呂は、上道=岡山県東部
  吉備真備は、 下道=岡山県西部 の出です。


香具 書肆徘徊中年?(青年!) H13.3.28

>何故、日本武尊に吉備武彦と大伴武日連がくっついていったのか?は取り消します。
ワーイ宿題から解放、先生ありがとう。ということで遊びに出ました・・・本屋に。

『新撰姓氏録の研究』を思いきって購入しようと大型書店に行きましたが、同じ棚に『日本古代氏族事典』佐伯有清編、雄山閣(5800円)という本を見つけました!
読み下し文しかヨウ読めない頭なので(ラッキー!と)「教科書ガイド」を見つけた気分のまま『新撰〜』の代わりに購入しました。 玄松子様、ごめんなさい。
(編者は同じやし〜、返り点のついた漢文みると眠るし〜、虎の巻で許して下さい)

衝動買いをしたのが、『先代旧事本紀・訓註』大野七三編、批評社(8000円)、ちゃんと読み下し文にルビもついて脚注つき、でも原典には弱いので解説用に同じ著者の『神々の原像』も購入しました。これも「教科書ガイド」かな。
嬉々として本屋を出たとたん懐の軽さに冷や汗が。花見を前に痛い出費です。
『先代旧事本紀』など文庫にしてほしいのですが、やはり「偽書」なのでしょうか?

この掲示板に来られる皆様には、トックの昔に読まれたことと思いますが、先週、中公新書の『日本書紀の謎を解く』(森博達著)をヤット読了できました。
薄い新書版ですが途中何度も沈没したので、買ってから一年近くもかかりました。
数式と図面しか相手にしなかった愚生が読了できたのも、この本の論の進め方がとても理系的に整然とした記述だったからです。日本書紀、各巻の表記の性格を分析して、巻ごとの述作者と成立過程を解明しています。最近読んだ本の中で、読了後に『エェ〜本ヤッタナァー』と感心した一冊でした。変?

>布都之魂と布都斯御魂は同じもの、「之」=「斯」だのし。
「石上神宮の『布都斯魂』はフツヌシと書いた『布都怒斯魂』の「怒」が落ちて、 後世、『布都御魂』と『布都斯魂』の二神のように錯覚したのであろう・・・」と、堂々と著作に書いておられる教授もいました。しかし、名称はともかく、剣をA、B、Cなどと変数にして、ストーリーに代入していくと、別種の剣(神)となって出てきます。連立方程式みたいですが、他の神話にも応用できますね。
 全部の例を見たわけではありませんが、フツヌシ・フツノミタマの場合には、この中の「ノ」を表記する漢字がありません。フツ+ヌシ、フツ+ミタマです。
 フツシミタマの場合は、フツ+シ+ミタマで「シ」を漢字表記しています。
ですから、布都斯魂の「斯」という言葉は通常よりもっと意味のある気がします。
布都之魂の場合も「之」は「ノ」よりも「シ」だった可能性も濃厚ですね。

>「之」=「斯」だのし
まったく、その通りのように思います。(が、古語に闇いので自信が・・・)

去年の今頃は、まだ古事記も日本書紀も、手にしたことがありませんでした。
無知・無恥な初心者の暴走をお許し下さい。


Setoh Re[799]: たたりじゃ〜 ! H13.3.27

> 神奈備過去ログで、丹生都姫さんを不祥の淫祠として捨てた話が有り
> ます。弁柄生産者が近いので、丹生産者はライバルであったのでしょ
> うか?

長州藩では天保十四年から翌年、寺院と村々の小堂宇、小社祠などを淫祠と見てその破却が行われています。主な理由は、仏教を含めた淫祠が民心をとらえたため、莫大な浪費が生まれたので、藩政改革の財政的な見地からだそうです。
 極端な主張をする人の中には、延喜式内社以外は淫祠とする主張もあったようです。しかしこれを破却してしうまうと、周防、長門などは式内社が少なく、多くの民衆を不安に陥れるということで、そこまでは至らなかったようです。


Setoh ハチャ!トチッタの剣の迷 H13.3.27

布都之御魂をてっきり草薙剣と思いこんでいましたが、間違っていましたね。<(_ _)>
 何故、日本武尊に吉備武彦と大伴武日連がくっついていったのか?は取り消します。

所で、備前国の石上布都之魂神社は布都斯御魂を祭神としているとすると、神社名とずれています。これは、小生の固定観念から見るとおかしいように思います。素直に、布都之魂神の社ですから、布都之魂でしょうね。
 ということは、布都之魂と布都斯御魂は同じもの、「之」=「斯」だのし。
 晴れし日、晴れの日、言語音痴の思いつきでした。


Setoh Re[802]: 「三ツ巴紋」について H13.3.27

丹生(にふ にぶ)の変化形
 壬生(みぶ)、遠敷(おにふ)、仁布(にふ)、爾保(にほ)、爾比(にひ)、迩幣(にへ)
はひふへほ全部とすると丹羽(には)もそうですか・・
 尾張国丹羽郡に式内社の尓波神社[ニハ]現在名爾波神社[にわ]「神八井耳命」丹羽の臣がその祖神を祀った。が鎮座しています。多氏との関連でしょうか。

 歴史的にはkammerさんが云われていた丹治家信、また水銀製錬技術の秦氏の拠点でもある赤穂(これは爾保からか)なんかが考えられますね。


Setoh Re[807]:ハナテンXXXセンター H13.3.27

> 『八剣(神社)』と日本武尊が繋がっているような錯覚が起こっているのですが・・・。素盞嗚尊の投影?

 大阪唯一の八劔神社が大阪市城東区鴫野東に鎮座しています。由緒は『応永の始め、鴫野村の住民某がある夜夢を見た。その夢枕に一人の老翁が現れ「吾はこれ熱田の神なり。跡をこの地に、垂れんと欲す。明日汝等出でて吾を淀川の河辺に迎うべし」と告げたので、翌日村人十数人を呼んでことの次第を語ったところ、自分も同じ夢を見たと云う者が十人余に及んだ。そこで一同は各々衣服を改めて河辺に出迎えると、果たして一ぴきの小蛇が河中に現れ、まっすぐこちらに向かって来て、やがて岸に上がった。その様の悠々泰然たるを見て、村人は畏敬にうたれ、一同相従って行くと、小蛇は川を越え、堤を経て鴫野村に入った。そして、小蛇がとどまった所を見て、村人たちはそこに小さな祠を建ててこれを祀った。時に応永三年(一三九六年)九月二十二日のことである。以来、今日に至る。』
祭神は、速素盞烏尊です。熱田の神を素盞嗚尊と認識していますね。

 また、愛知県では日本武尊を祀る神社は213社見えますが、その内、八剣、八劔、八剱とつくのは51社もありますね。素盞嗚尊は947社の内36社です。

 この二柱の神はよく似た神格を持っていることは古来より指摘されています。
 巡行神、製鉄(農耕も?習志野てつさん)、荒ブル神から福神へ、相聞と神婚、草薙剣、惨めな降臨の姿。

 楯原神社の近くの杭全神社はお勧めです。ここのHPは小生の友人の作品です。また宮司の藤江さんは気さくな若い人です。


古墳誰時 Hp 古代史解明図 H13.3.27

こんにちは。
 「秀真伝による古代史解明図(古墳誰時、2001.3.25版)」が出来ています。
前1〜後3世紀の主要人物の位置付けがほとんど明らかとなり、邪馬台国論争全盛時代には考えられなかった成果だと思います。


香具 ハナテンXXXセンター H13.3.27

setoh様、度々ありがとうございます。 「放出」(ハナテン)の地名に、そのような由来があったとは少しも知りませんでした。(CMが関の山)
>阿遅速雄神社 大阪市鶴見区放出東3-31-18
ヒョイと行けそうな所なので近いうちに参拝してきます。
(石上と絡むとすれば楯原神社も要参拝でしょうか)他にドコ行きまひょ?

『物部氏口伝抄』と『石上布留神宮略抄』からいくつか補足が拾えました。
>天智七年盗難事件
>朱鳥元年六月、皇居より尾州熱田の御社に奉還し給ひ・・・、
草薙剣を熱田神宮に送り遣わされた朱鳥元年六月十日の、その夜に、石上神宮の神主が『日の谷』に出雲建雄神が降臨する霊夢を見たことになっています。神話ですねー。
『石上布留神宮略抄』では経緯は殆ど同様ですが阿遅速雄神社のことは書かれていません。あっさりと天智天皇当時の『大津宮に献上ける・・・』で済ましています。

>八劒大明神と尊称す
八剣・・・草薙剣・・・日本武尊
草薙剣を媒体にしてか、『八剣(神社)』と日本武尊が繋がっているような錯覚が起こっているのですが・・・。素盞嗚尊の投影?
 天理市田井庄の八剣神社(八岐大蛇が水雷神となって出雲建雄神(草薙剣荒魂)に従いともに、日の谷の八箇石に降臨した神)は、都祁の村公(ムラキミ)が神殿を造って祀りはじめたとあります。関連祭祀が重層してますね〜。

>社格はなぜ降格していったのか?
社格や神階のことが、よく理解できていません。???・・・SOS

>備前の石上布都之魂神社は布都斯御魂を祀っていたのか
>布都之御魂(草薙剣)を祀っていたのか?
備前で奉っていたのは、『布都斯御魂』ですね。素盞嗚尊がもともと携帯していて、八岐大蛇を斬った剣です。またの名を『蛇の麁正・蛇の韓鋤・天羽羽斬』。
『物部氏口伝抄』や『石上布留神宮略抄』にも、kokoro様の書き込みにあったように、仁徳天皇の五十六年十月に物部首市川臣が大和に遷座されたとありました。

>日本武尊に吉備武彦と大伴武日連がくっついていったのか?
・・・宿題です。

>剣は土の中にあったのか、神府に置いてあったのか? 土中とは蛇のことか?
さきの資料には、石上布留高庭の地底は磐石で以って境とし石窟を作り、その中に布都御魂、布都斯魂、布留御魂を共に蔵して斎き祀った。その上に高地を築いて斎庭をつくり高庭の地と謂った、とあります。明治に発掘されたのですが、そのとき全部を発掘したのかどうか判りません。・・・蛇ではないようですが???


Setoh Re[798]: 稲荷の朱 H13.3.26

> 伊勢神宮の主祭神の本地仏は大日如来という時代
大日如来の垂迹が天照大神ということですね。うまくできていますね。
大国主は大黒天だったのでしょうか?

平安末期には、伊勢神宮や杵築大社にも神宮寺があったそうです。
神仏分離は流石に伊勢神宮は早かったそうです。出雲大社も江戸時代初期には分離しています。

心の御柱は男根に例えられますが、そうすると何故伊勢にもとなりますが、出雲大社では発掘調査で二柱出ているようです。少なくとも地上部分三尺には朱色、地下二尺の塗装は不明だそうです。


Setoh 香具さんの深夜作業のおかげ H13.3.26

> 「フツノミタマ」と「フツシミタマ」と「クサナギノツルギ」は別の剣。
スパゲッティが解きほぐされつつ・・

武甕雷・高倉下の剣
日本書紀説 フツノミタマ

素盞嗚尊の剣
備前石上布都之魂神社由緒 布都御魂
大和石上坐布都御魂神社由緒 布都斯魂

大蛇から出た剣 草薙の剣 朱鳥元年わかりましたよ。  
大蛇 素盞嗚尊 天照大神 瓊瓊杵尊 笠縫 伊勢 日本武尊 熱田神宮 天智七年盗難事件 阿遅速雄神社 浄見原宮 熱田神宮

大阪市鶴見区放出東3-31-18 阿遅速雄神社
天智天皇(三十八代)七年十一月、新羅の僧、道行尾張国熱田宮に鎮り座す御神劔、天叢雲劔即ち草薙御劔を盗み出し、船にて本国へ帰途、難波の津で大嵐に遇ひ流し流され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり、放手 放出 今「はなてん」と云ふ)後この地の里人、この御劔をお拾ひ申上げ、大国主命の御子阿遅鋤高日子根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ケ年後 草薙御神劔の御分霊は永遠に当御社に留まり座し、奉斎す。御神劔は天武天皇(四十代)の皇居、飛鳥の浄見原宮に御うつし申上げ更に朱鳥元年六月、皇居より尾州熱田の御社に奉還し給ひ、永へに熱田神宮に鎮り座します。右御由緒あらたかな当御社に御鎮座の八劒大神に、中御門天皇(百十四代)享保八年、御神階正一位を贈られ、八劒大明神と尊称す。


香具 剣の舞 H13.3.26

kokoro様、setoh様、いつもお世話になっています。
刺激たっぷりのご投稿にワクワクしています。
kokoro様のご説明の重ね塗りになりますが、神話に出てくる剣の名前について確認させてください。(神道大系(石上・大神)と先代旧事本紀を図書館に返却したので)手許にある岩波文庫の記・紀と神宮のパンフレットから神代の範囲で送信します。

 まず、十握剱(十拳剱・十掬剱)、九握剱、八握剱という剣名は、長さで表した一般的な名称ということから始めます。
 例えば、伊奘諾尊が軻遇突智命を斬ったのは「十握剱」、古事記ではこの剣の固有名を『天之尾羽張(アマノヲハバリ)』、またの名を『伊都之尾羽張(イツノヲハバリ)』と記述しています。(伊都之尾羽張神の子を建御雷之男神としているが、書紀では、武甕槌神の祖を甕速日神となっている。)・・・・伊都国の尾張氏と見えるのは錯覚・幻覚の類ですよね。(笑)

また、天の安の河の誓約の段で、打ち折ったのは須佐之男命の佩く十握剱。
さらに、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)が怒って喪屋を切り伏せた十握剱は、『大葉刈・大量(オホハガリ)』、またの名を『神戸剣・神度剣(カムドノツルギ)』。などなど・・・。

 次は、八岐大蛇退治の段から、
八岐大蛇を斬った剣を:A、八岐大蛇から出てきた剣を:B、とすると、 日本書紀の神代上の第八段の本文には、
A:(十握剱)、B:草薙剣(本註に天叢雲剣)。

同じく第八段の一書(第ニ)には、
A:蛇の麁正(ヲロチノアラマサ)、B:草薙剣 として、
『蛇の麁正』は「今、石上に在す」(吉備なのか大和なのかこれだけでは不明?)、
『草薙剣』は「尾張国の吾湯市村(あゆち)・・・熱田の祝部の掌りまつる神」。

同じく第八段の一書(第三)には、
A:蛇の韓鋤(ヲロチノカラサヒ)、B:草薙剣 として、
『蛇の韓鋤』は「今、吉備の神部の許に在り」(備前の石上布都之魂神社)、
『草薙剣』は「今は尾張国に在り」(昔は素盞鳴尊の許に在り)。

同じく第八段の一書(第四)には、
A:天蠅斫剣(アマノハハキリノツルギ)、B:草薙剣 として、
『天蠅斫剣』の記述はなし、
『草薙剣』は「天に上奉ぐ」(天照大御神に上納した?)。

古事記では、
A:(十拳剱)、B:都牟刈(ツムガリ)の大刀(のちの草薙剣)

古語拾遺では、
A:天羽羽斬(アマノハハキリ)として石上神宮にあり、としているらしい(未読)。

ここまでで言えることは、
・草薙剣については共通している。
・「フツノミタマ」または「フツシミタマ」の呼称には言及していない。

草薙剣は、出雲で見つかって素盞鳴尊から天照大御神に上納されて、天孫降臨の際に三種の神器としてに瓊瓊杵尊が持参されて高千穂へ、その後は皇統とともに大和に、そして倭姫命により伊勢に移され、日本武尊により尾張に・・・大雑把すぎました。

>朱鳥元年にはどこにあった?・・・これから調べます。

 大和の石上神宮では、(現代のパンフレット)
『素盞鳴尊が出雲国の簸の川上にて八岐大蛇を斬られた天十握劔(蛇之麁正)に宿られる御霊威を称えて、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)と申し上げます。』と説明し、摂社 出雲建雄神社について、
『出雲建雄神(草薙剣の荒魂)をお祀りしています。天武天皇の御代に御鎮座になった由・・・・、神が「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降って、皇孫を保じ諸民を守ろう」と宣託された・・・・。江戸時代には、布都斯魂大神の御子神と考えられ、そのため「若宮」と呼ばれていました。・・・・』と記述してあります。

 また、大和の石上神宮の創始は、宇摩志麻治命により宮中で奉祀されていた布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)と、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)を、伊香色雄命が石上布留高庭に遷されたことに始まるとあります。
 つまり布都斯魂大神こと天十握劔(蛇之麁正)は創めから、石上神宮にあったとは書いていません。どこかで、吉備から遷されたと読んだ記憶が・・・。

 この布都御魂大神について、石上神宮のパンフレットでは、
『天孫降臨に際して経津主神・武甕雷神が国譲りの交渉に天降った折り、武甕雷神が携行された剣』と説明し「音」扁に「師」の旁を合わせた字に「霊」を熟語して、「ふつのみたま」と読ませています。この神さまも、左士布都神・甕布都神・建布都神・豊布都神・布都主神魂刀・・・と亦の名が多いのですが、平国之剣(くにむけのつるぎ)として、天孫降臨の前の葦原中国の平定と、神武東征の熊野での危機に応援された剣で、布都斯魂大神(蛇之麁正)とは明かに異なります。

ここまで結局、「フツノミタマ」と「フツシミタマ」と「クサナギノツルギ」は別の剣。「トツカノツルギ」は一般的な呼び名。と、まとめてよいですか?
・・・・・・長い書き込みで失礼致しました。


Setoh 石上の謎々 H13.3.25

kokoroさんの調査、敬服します。面白くなってきました。
日本書紀から

●布都斯御魂(十握剱)
1.其の素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り。
2.其の蛇を断りし剣をば、号けて蛇の麁正と曰ふ。此は今石上に在す。

●五十瓊敷命
3.景行天皇三九年に五十瓊敷命の剣千口を石上神宮に納めた。

●布都之御魂(草薙剣)
4.(景行)天皇は吉備武彦と大伴武日連を日本武尊に従わせた。
5.天武天皇三年、忍壁皇子を石上神社に遣わして、膏油で神宝の武器を磨かせた。その日、神府に納めている諸家の宝物を皆その子孫に返せと命令。
6.朱鳥元年(天武十四年)、天皇の病を占うと、草薙剣の祟りと出たので、熱田社に送った。

●社格はなぜ降格していったのか? 元々神宮であったのが、神社となってきている。
●備前の石上布都之魂神社は布都斯御魂を祀っていたのか布都之御魂(草薙剣)を祀っていたのか?神社名と祭神とがずれている。
●出雲−吉備−大和−伊勢−尾張と草薙剣は流れた。それでは朱鳥元年にはどこにあったのでしょうか?
●日本武尊に吉備武彦と大伴武日連がくっついていったのか? 草薙剣との関連か?
●剣は土の中にあったのか、神府に置いてあったのか? 土中とは蛇のことか?


マルヤ Hp 「三ツ巴紋」について H13.3.25

先週の連休に和歌山方面へ行って来ました。
三船神社、丹生酒殿神社、丹生都比売神社、丹生官省符神社の四社に参拝しました。
三船神社と丹生酒殿神社は初めて、丹生都比売神社は3回目、丹生官省符神社は2回目の参拝でした。三船神社はsetohさんに教えていただき、「神奈備神社名鑑」で写真は拝見していたのですが、改めて丹生都比売神ゆかりの神社の極彩色塗装の美しさに見とれました。

 この神社の神紋はと見ると、梁の木部に「尾長右三ツ巴」が彫られてあって、これは丹生川上神社上社の神紋と同じでした。そして丹生都比売神社は右三ツ巴が付されていました。
私は巴紋について以前から自分勝手な見解を持っていました。それは丹生都比売関連は「左三ツ巴」で応神天皇や神功皇后関連は「右三ツ巴」だと。でも実際はまちまちで、左右両方の神紋を入れている神社もあります。(例えば小生が住んでいる河内長野市の住吉神社)http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro2_002.htm

 そして左右の表現も様々です。私は巴紋の左右の区別を、尾を後ろに頭の部分を前回転にして時計回りを「右」、反時計回りを「左」と解釈していましたが、そうとは言い切れないようですね。
手元の「日本姓氏大辞典」丹羽基二著、解説編259頁には、

 「巴紋は古くからあった原始文様だが・・・中略、時計の針のように右に回るもの(オタマジャクシの頭に似たほうを頭として)右巴というが、いまは逆によばれていることが多い」 とありました。
ところでこの辞典の著者、丹羽基二(にわもとじ)氏の丹羽はタンバ、タニワそして、「ニウ」とも読めますね。やはりこの方も丹生にゆかりの方なのでしょうか?


kokoro Re[799]: たたりじゃ〜 ! H13.3.25

>銅山と弁柄生産で栄えた当時の町並みがよく保存され、国の伝統的建造物群保存地区。少し離れたところに、あの広兼邸(映画「八墓村」のロケ地・モデル)の大邸宅があります。

 そうですね。「八墓村」は渥美清と豊川悦司主演で2度映画化されており、広兼邸は両方で金田一耕助が訪れてます。ちなみに渥美清主演の「八墓村」で、村の全景として登場するのは滋賀県伊香郡余呉町の高時川上流にあった集落です(今はダムで移転)。近くには伊香郡の式内社、丹生神社の論社が2っ鎮座しています。

 滋賀県の民家は木製部分をベンガラで塗る習慣がありますね。ベンガラの色は文字通り紅色、塗ったばかりでもくすんだ感じです。したがってベンガラ朱で塗られていた時代の出雲大社も、春日大社のような鮮やかな朱のヤシロのイメージとはかなり異なっていたのではないでしょうか。また、ベンガラはすぐに黒っぽく変色します。僕は滋賀県を巡っていて多くの民家を見ていたのに、人から教わるまでベンガラで塗られているのに気が付かなかったです。てっきり黒く塗られているのかと思ってたぐらいでした。


焼尻紋次郎 Hp 意識には四つの色がついていた H13.3.25

あっしの「バカのひとつ聞き覚え」。サリセッセの出番カネ。
1 玄亀の黒は天地や五体……すなわちハ−ドの色。sex は黒、ロマン(青)じゃないよ。
  だが、お猿さんもイルカさんもカンチガイしてるのねぇ〜。カラスさんはまだみたい。
         
2 青龍の青はいのちの色……だからシシミ(神道・修験道・密教)の色は青たるべし。
  なんでもかんでもシナチン、先輩扱いしちゃタメアルネ。I.T.掲示板は情、ロマン、
  ふれあいの青ざんす。

3 朱雀の赤は叡智の色……よく喋べくりまくるのだ。仏教でも顕教といわれるジャンル。
  いまのシナも赤旗振って喋べくり共産主義である。喋ったら喋る程、喋らなならんこと
  が湧出し続ける。

4 白虎の白はドッチラケの経済。同窓会でゼニモーケの話カネ。

 上の4色を“あっち”行って見てきたオトコ、今なら沖縄市で生きているよ。おエメくれたら紹介する。
 ココロあにぃ、フリガナあが。よう書いた。リューイン下がって三日酔いさめたかね。オオモノヌシとオオナムチが二柱として数えられている。
 後世になって旧体制下の神を「めんどうだ」とタバにしたんとちゃうやろか。

 てつあにぃ、sar は水辺の地名につき易い。沙流、斜里カネ。
 八つの道が集中している。あれみんな古いんだろうか。
 津山市の西20キロの5河地方、ものすげぇ地形だぜ。久世、久米これあり。
 おえんばぁじゃろーが、『あさもよし』に語源ウジャウジャ書いたよ。


習志野の てつ たたりじゃ〜 ! H13.3.25

Kokoroさん、いつも労作ありがとうございます。
次回レポートも楽しみです。ところで岡山と言えば、吉備の勢力=伝承で吉備津彦=は、出雲を制覇しています。
吉備津神社は北北西方向(出雲?)に向かって、鎮座しています。

岡山県川上郡成羽町吹屋 http://www.machinami-net.gr.jp/Hozontiku/fukiya.html
銅山と弁柄生産で栄えた当時の町並みがよく保存され、国の伝統的建造物群保存地区。少し離れたところに、あの広兼邸(映画「八墓村」のロケ地・モデル)の大邸宅があります。
弁柄(朱)用硫化鉄を採掘・製造し、海外にも輸出。巨万の富をキズキました。杵築大社にも吉備国産の弁柄を塗ったのでしょうか?

神奈備過去ログで、丹生都姫さんを不祥の淫祠として捨てた話が有ります。弁柄生産者が近いので、丹生産者はライバルであったのでしょうか?でその祟りであんな映画のモデルにされた?ことも無いか?

Re〔774〕ひふみさん、Re〔791〕あかがねさん レス遅くなり恐縮です。
総武本線で銚子駅から2駅千葉寄りの駅が猿田駅です。さすがに交通の神様、JRの線路を跨いでいる珍しい参道がある猿田神社です。近くに猿田小学校もあります。地名も猿田町です。千葉市に八街(ヤチマタ)と言う地名も有ります(落花生で有名)が、関係は無いと思います。 http://www.shiosai.squares.net/saruda.html


えかわしんじ 稲荷の朱  H13.3.25

稲荷神社の社殿や鳥居の朱に関する考察、setoh氏の考察お見事です。
インドの土着信仰、中国の土着信仰、そして弘法大師空海がもたらした密教、さまざまな要素がこの色には込められていると思います。
ひらたくいえば信仰の情熱、エネルギーの高揚があの刺激的な色に表現されているのでしょう。
熊野三山を例に取りますと、熊野本宮大社はかつての朱色を洗い流したのか再塗装をしていないのに対し熊野速玉大社(戦後再建)、熊野那智大社(幕末再建)の社殿は当初の彩色を伝えています。那智大社に隣接している青岸渡寺本堂はなぜか再塗装をしておりません。
(本堂以外はおおむね朱塗りのお堂です)
熱田神宮、伊勢神宮、厳島神社の例でいいますと、いずれも密教の影響が非常に強い神社でしたので、古式と異なると思われる赤い鳥居が出現したのもうなずけます。熱田神宮には多宝塔もありましたし、伊勢神宮の主祭神の本地仏は大日如来という時代もありましたから。


kokoro 岡山県の大神々社  H13.3.25

 またまたカキコします。岡山へ行ったときに備前国上道郡の式内社、大神(オオミワ)神社にも行ってきました。現住所は岡山県岡山市四御神字土師之森381番地で、祭神は大物主命、少毘古那神、三穂津姫神、大穴牟遲神です(延喜式神名帳にも四座とあります)。
 神社はゆったりした境内に正確に南面する本殿、拝殿、随神門等があり多数の合祀社があります。一見、ごくありふれた田舎の神社ですが、社殿の東側の地面には古式の赤っぽい土師器の破片がたくさん散乱しており、祭祀遺跡の存在を感じさせます(もっとも神社の住所の字名が土師之森≠ナあるとおり、このあたりは土師焼の工場があったという説があるので、そのせいかもしれませんが)。また、社殿のすぐ左手には大きな岩石がいくつかあり、現在は陶製の狛犬が載っていますが、庭石にしては変な感じです。似たような岩石は合祀社の台座等にも使われているので、破壊された磐座の残骸ではないかとも思えました。
 しかしながらこの神社について『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』の大神神社の項P384〜は、「同社はもと四御神(シノゴゼ)の背後にある惣堂山の上に祀っていたので、神社の書上に上道郡四御神村大神々社式内神ニ御座候而先年大和國三輪ノ御供ニ而四御神ノ山上に御鎮座申由ニ候。爾後神妙之儀御座候而今之処御鎮座と申伝最モ縁起神宝等申物焼失<中略>≠ニある」という『岡山市史』の記事を紹介しています。したがって、もしも『岡山市史』が正確であるとすれば、現在の当社は別の場所から遷座(神社の引っ越しのこと)してきたことになり、古い祭祀遺跡があるとは思われません。
 ところが、この惣堂山の場所について聞き込み調査をしたところ、2年くらい前まで氏子総代を努めていた国末さんという方から、『岡山県史』とは全く違う内容の話が伺えました。恐らくこの話は文献等に紹介されていないというので、『岡山県史』と違う伝承もあるという記録を残すためここで紹介します(聞き込みは平成13年3月19日午後に自宅の庭先で。このお宅は神社の横の道を登ってから小さな道を左を入って2軒目でした)。

・惣堂山という山をご存じですか?
「惣堂山ならあの山だ」
・あの団地の後ろにある山ですね。頂上には登れますか?
「登れるよ。でも今は道が密林のようになってしまっている。止めた方がいい」
・大神々社(※ちなみに大神々社は現在、オオガ神社と呼ばれています)はかって惣堂山にあったという話を聞いたことはありませんか?
「それはない(非常にキッパリと)。先々代の宮司から聞いた話では、大神々社の古社地はサイオク(才奥or歳奥)という場所にあった。サイオクは一の鳥居(現社地の真南約500mのところに建っている)と現社地を結ぶ直線をそのまま北に6〜700m延ばしたところにあったという。一の鳥居、現社地、サイオクが直線上に並んだそうだ」
・先々代というと恐らくその宮司さんはもうお亡くなりですね。そのお話を聞いたのはいつ頃だったでしょうか?
「50年くらい前だ。私はこれで70になる。」
・拝殿の左手に大きな岩石があって、今は上に陶製の狛犬が置かれていますが、あれは古代の磐座だったのではないですか?
「うん。あの岩は昔からあった。今、境内にある社務所は私が氏子総代だった時に造ったものだが、その工事の時にも地中から岩が出てきて工事の支障になった」
「現社地は一の鳥居とサイオクの中間にあって、元々は二の鳥居があったような場所だったらしい」

 その他、近年になって付近に立ち並んだ住宅地の住民のために、氏子の規約を作って勧誘をした話等、面白い話が聞けたのですがここでは省略します。一の鳥居と現社地を結ぶ直線をそのまま北に6〜700m延ばしたところ≠ニいうサイオクの位置は、地図上で見ると惣堂山ではなく、その東にある別の山の中腹辺りです(しまった〜。この山の名前を国末さんにお聞きするんだった)。この山は神奈備型の秀麗なフォルムをしていて、駅から神社へ向かう途中、あれが惣堂山ではないかと当たりをつけていた山でした。また、一の鳥居とサイオクの中間にあって、元々は二の鳥居があったような場所≠セった現社地については、元々、山上にある山の宮を拝する里の宮、あるいは遙拝所があった場所とも考えられます。

 なお、『式内社調査報告』によれば、明治初年の『備前國式内書上考録』という本に「また、この村に有森氏の宗家といひ伝えたる者ありて大神(オオミワ)氏なりと云ふ」とあるらしいですが、神社の付近には有森という表札の人家が多く見られました。


kokoro 石上神社と石上神宮  H13.3.24

 3月17日から20日にかけて、備前、備中、美作の神社に行ってまいりました。早く報告したかったのですが、水曜から金曜まで送別会、歓迎会、接待と3連チャンの飲み会続き。おかげで今日も午前中いっぱい三日酔いで死んでました。まぁそれはともかく、旅行中は初日以外お天気にも恵まれ、人との巡り合わせにも恵まれて、ここの神々はゴクラクトンボも温かく導いてくださる心の広い神様たちです。春先の岡山県は何だか少し浮き世離れした雰囲気(←それはお前の頭の中だろーが)で印象的でした。

 2日目に石上布都之魂神社(イソノカミフツノミタマノカミノヤシロ。以下当社のことは「石上神社」、奈良県天理市にある石上神宮は「石上神宮」とします)に行ってきました。現在の祭神は素戔嗚尊ですが明治以前のそれは布都之魂神であったらしい式内社です(岡山県赤磐郡吉井町大字石上)。神社は小さな山里の一番高いところにあって社殿は南東面し、その背後は暖帯性ツブラジイの原生林、境内は日当たりが良くて高燥な感じがしました。また、そこから社殿横の山道を10分くらい登ると、本宮と呼ばれる古社地にたどり着きます。ここは当社が鎮座する風呂谷山の山頂で、ほぼ正確に南面する小さなお社と文政九(元?)年の銘がある石段等がありました。本宮の背後は巨大な岩床の大露頭になっており、磐座として禁足地になっています。耳をすませば古い時代の残響がまだ聞き取れそうな感じ…スゴイところです。
 当社は一時期、廃絶に近い状態だったらしいですが、備前藩主の命で二十石の社領を与え、江戸中期に再興されました。そしてその際、金屋肥後という祀官を旧姓の物部に復させて祀らせたともいいます。お話を伺おうと現宮司のお宅に立ち寄ったのですが、あいにくお留守のようでした。しかしながら、表札を見ると「物部」とあったので、現在でもこの金屋肥後の子孫の方が祭祀を司っているようです。この場合、金屋肥後という祀官が、単に旧姓が物部であるというだけで余所から呼ばれた人物なのか、それとも在地の祀官でもともと石上神社の祭祀に関係が深かったのかが気になります。もしも後者であったとすれば当社の祭祀氏族であったと思われる物部氏の血脈が宮司として一千数百年も保たれていることになり、ちょっとものすごいことです。金屋肥後というと肥後の国の人かという気もしますが、石上神社のある石上という土地は、宅美剣工という古吉備の中でも特に古い剣工の中心地であり、この宅美剣工の使ったと推定される金谷鉱山というのが付近にあるのでそれと関係があるのかもしれません。そこら辺りのところを宮司さんに確かめたかったのですが…。

 この神社には素戔嗚尊がヤマタノオロチ退治に使用した剣にまつわる興味深い話があります。多くの本で紹介されていますが、そのうち最もラジカルな『赤磐郡史』のP230にある説を大略で紹介すると、「石上神社は上代に、素戔嗚尊がヤマタノオロチ退治に使った神剣を納めて奉斎していた。しかしこの剣は崇神天皇か仁徳天皇の御代に石上神宮に遷座した。備前の国にはかって旧磐梨(イワナシ)郡に物部郷があり、現在の佐伯北、佐伯本、佐伯上の3大字がそれに該当する。石上神社のある大字石上から東に12q程のところだ。ここには佐伯氏の住んでいた佐伯荘もあった。この物部郷から出た物部氏が神剣の遷座に付き従って、大和で石上神宮を創祀し、後に佐伯氏もこの祭祀に参画した。石上神宮境内には石成(イワナシ)社という境内末社があり、物部・佐伯の両氏神を祀っていた。磐梨郡はかって、「石无」「石生」「岩生」等の字を用いたので、両氏神を祀る末社を石成(イワナシ)社といったのではないか。つまり、石上神社は石上神宮の本社であり、石上という地名も備前から大和に転移したものである」等とあります。

 以上の説はお国びいきの心理を計算に入れれば、鵜呑みにできませんが、考えさせるものがあります。ちなみに石成社に関する下線部分の記事は『大日本地名辞書』に大意の似た記事があるので、そこから持ってきたらしいです。もっとも『日本の神々』『天理市史』『奈良県史』等を調べても、石上神宮の境内・境外の摂末社には石成社という神社は見あたりません。しかしながら、香具さんの行った天理市滝本町の石上神社について、『天理市史』P655には「『続日本紀』に、聖武天皇神亀三年幣帛を石成神社に奉る、とある石成神社は、この石上神社の前身で『和名鈔』の「石成郷」の鎮守ではなかったか」とあり、いずれにしても興味深いです。

 単に当社とこの神剣に関する記事だけであれば、『式内社調査報告』『日本の神々』の石上神社及び石上神宮の項や『天理市史』、石上神宮の第三相殿にまつわる口伝(後述)にも記事があります。また『和漢三才図会』や『吉備温古秘録(寛政年間に岡山藩士の大沢惟貞が編纂)』のような江戸中期、後期の書物にも見られます。でもその内容はものすごく複雑なので少し整理し、見通しをよくする必要があります。
 まず、石上神宮には御神体の神剣が2本あり、1本は主祭神の布都之御魂(フツノミタマ)、もう1本は第三相殿に配祀されている布都斯御魂(フツシミタマ)で、両者が紛らわしいのが、複雑に感じる原因のひとつなのです。フツノミタマは武甕鎚命が葦原中州(アシハラノナカツクニ)を平定したときに帯びていた霊剣で「平國之剣(クニムケノツルギ)」の別名もあります。神武天皇が東征の途次、熊野で高倉下を介して奉られたのもこの剣です。これに対し、上代に石上神社に鎮座していたとされる、素戔嗚尊がヤマタノオロチを退治したという剣は後者です(僕なんか最初から勘違いしていて、石上神宮の御神体の剣はフツノミタマだけだと思いこんでいました)。ちなみにこの第三相殿について、『天理市史』の石上神宮の項P636に次の記事があります。「大和石上建布都大神(社記名←※何のことかよく分かりませんが、口伝を書き記したものか?)に「ヤマタノオロチを斬り給う十握剣を名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)とも申す。<中略>初めは吉備神社にあって布都斯魂と申す、人皇十七代仁徳天皇の御代五十六年十月、天皇布留氏の遠祖市川臣に勅して、布都斯魂神の神体を当宮の斎庭に遷し加え斎奉、市川臣を神主と定給う」と伝え、仁徳天皇の御代に当宮に奉斎したとしている」こうしてみると石上神宮側も第三相伝の御神体が上代に吉備にあったことを認めていることになります。

 ややこしさの原因はもう一つあるのですが、長くなるのでそれは後にします。すでに名前を出した『赤磐郡史』には他にも興味深い伝承や地名、面白い説が多く載っているので、それもまた紹介したいです。それから香具さんが探求しておられる「日の谷」及び布留川の上流地域と、石上神社のある備前赤磐郡の山間部の類縁性についてもカキコしたいです。

  アッ、いつのまにかこんなに長くなっていた!!(←ワザとらしー)setohさん、いつもすいません。香具さんメール本当にありがとうございます。僕なりの考えは少しずつ、ここにカキコしたいです。
 閉館直前まで、嫌な顔1つ浮かべずに大量のコピーを引き受けてくれ、他にも色々お世話になった奈義町図書館・現代美術館のスタッフの皆さん、どうもありがとうございました。いい思い出になりました。


日下倭人 Hp 相摸国の延喜式内社一巡  H13.3.24

小さな相摸国の延喜式内社は13座、それでも神奈備さんから教えていただいた数は論社も含め21社。どうやら一巡してきました。

そこでの感想ですが、
1 河川あるいは湧水との関わりが深いこと。やはり稲作が普及してゆくことと神社との関係はかなり深いものと認識しました。
2 古墳との関係。古墳上に社殿があるものも見うけられましたし、近くに古墳というのであれば殆どいうことになります。
3 古代官道との関係。道は重要です。道沿いにあるから祈願にも寄ってもらえます。
4 国府との関係。中央に官社として上申してもらうには国司の崇敬を受けることが重要です。どうも国府の近くの神社が重きをなしていたようです。
5 日本武尊伝説との関わり。官道との関係と重複するのですが、相摸国ではタケルと関わりを持つものがかなり多いです。無論後世の付会も多いに考えられますが。
といった整理をしながら個別にアップしてあります。皆様のご来駕をお待ちしております。


Setoh 杵築大社 H13.3.24

地震おみまい申し上げます。
地震の最中には丁度上田正昭さんの出雲大社の話の講演会の最中でした。

1 杵築大社の語源は、高層の神殿を「きずく」からではないか。

2 朱塗りの神殿だったそうで、ベンガラ朱だそうです。水銀ではないですね。
 何故、朱塗りか? これは判っていないようですが、伊勢神宮の白い木への対抗としての朱。
 また、大陸の影響を受けているのではないか、との見解でした。

3 平安時代から鎌倉時代、丁度6回倒壊していますが、再建を繰り返しています。また、この間の主祭神は素盞嗚尊だったそうです。

(これは上田先生ではないのですが、蝦夷を攻めると倒壊したと記憶があります。蝦夷ゲリラでしょうか 出典忘却 そう云えば本殿の真後ろに小祠があり、素盞嗚尊を祀っていますね。こっそり西向きの大穴持神を通り越して素盞嗚尊にお参りしているのかも。)

東アジアの古代文化を考える会の講演会でした。
4月28日(土)千田稔 『聖武朝の政争と紫香楽宮』
5月26日(土)兼康保明 『最近の狗奴国論争を考える』
場所:大阪科学技術センター(靫公園)14時〜17時 先着順¥1.000円


焼尻紋次郎 Hp Xosi(星・腰)のフラツキMENコ H13.3.23

バカは死ぬことに希望がもてる。この人生、わかってしまっていたら誰が生き続けるもんか。
 スミヨシさんがワカランのだ! 希望の神カネ。
 スミヨシさんは海と星に濃厚に関係があるみたい。そこで、一歩前進だらうか……。
 スミ……は S + umi(海) じゃんか。yosi の y がどこまでも悩ませる。だが、有名な音転に N ⇒ Y がある。アイヌ語 ; nociw (ノチウ)は星。ここに N ⇒ Y の音転をくらわすと「ヨチ」までが出る。
 吉野川は四国にも展開して“よし”は広大である。

 このごろ、ギリシャ〜ローマ時代の地名、人名に惹かれる。ーus , -os ばかりである。オス(忍など)、ウシ(大人)に関係ないのだろうか。
 men(こころ)そーれ。
 皆様、下記 YOU-I 掲示板では「川・海・舟」を渇望しています。どんなことでもいいのでカキコ願います。

  悩める紋 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


あかがね Re[773]: 本当の猿田さん  H13.3.22

ご無沙汰いたしております。
以前、志那都比古様に関してお騒がせいたしましたが(このページでなかったような気も)、今回帰阪した折に竹之内街道や王陵の谷や科長神社にも行ってまいりました。

 それはそうと、
> 息栖(イキス)神社です。
> 土地の名前からして迫力ありますが、祭神は志那都比古神
> 『「この里は気吹戸主(いぶきとぬし)の風寒し」芭蕉』
> この神を守るかのごとく、猿田さんが住んでいます。

 私は現在つくば市在住なので、県南の三社詣では何度かやりました。神職さんは若い自分が御朱印を頂くのを珍しく思われたのか、なんだか色々話しを聞かせて頂いた記憶があります。
 で、確か息栖神社の御祭神は岐(くなど)の神、配祀神に天の鳥船様および住吉三神という構成であったと思います。神職さんは、くなどの神と猿田彦は過去に混同された事もあったけど別神だ。とおっしゃてた様に思います。記憶があいまいなのですが、銚子のほうに猿田彦を祀る神社があって、そこの人がこの辺にも大勢いる。と言う事をおっしゃてたような。メモをとってるわけでもないので、甚だ自信がありません・・・。また行ってみます。
 陸海空の交通案内をつかさどる神様が揃い踏みなので、方向音痴が治ったというお礼参りもよくある、という話が印象的でした。


Setoh 星屑が降ってくる H13.3.22

神名に見えるヒメの漢字一覧

宗像三女神の市岐嶋ヒメ神のヒメの例
比賣 日賣 姫 比女 比ロ羊 毘賣 媛 比名 比目 毘女(賣と売は賣でまとめ)

伊勢神宮の釆女の倭ヒメの場合
姫 比賣

丹生都ヒメの場合
比賣 比ロ羊 姫

大宮賣神[オホミヤヒメ]の場合には 一文字表記の神名が見えます。ヒメガミ、メガミ、両方読めそうですね。
大宮乃女神、大宮乃賣神、大宮能免神、大宮能靈芽神

 書名は忘れたのですが、姫の字は皇統につならり、媛はそうではないヒメにつけられると読んだ記憶がありますが、真偽の程は不明です。現に天照大神の別名とされる撞賢木嚴之御魂天疎向津姫神、同媛命と両方あります。 お役に立てませんでした。 m(_ _)m


福島雅彦 Hp Re[787]: 湯の花は白い花  H13.3.22

>  話は変わりますが、豊作の祈願に翁と媼の男女の営みのマネの踊りがあります。彦と姫とですね。ヒコとヒメ、これをまとめてヒコメ、からコメ、米の汁を飲みながら旅先で思いついた米の語源論でした。何故か田主丸の近くでした。

 我が家の近くに御出ででしたか?。何時までご逗留ですか?。
『米』のその後の考察ですが…。稗、粟、黍は、これらの単独食ではなく、粉に挽いて団子かスイトン?みたいにして食べたのではないか、と。
米だけが、単独で『米飯(べいはん)』として、食したから『こーめッ(小さいもの)』と呼称したか、と。


えかわしんじ Hp 姫と比売のちがい  H13.3.21

こんばんは。最近、熊野古道やら町石道やら山岳撮影修行に励んでおります。遺跡の荒廃は時に目をおおうものもありますが、熊野古道を散策する若い女性に出会うのもつい普通の光景となり、なにか21世紀の心のありようのようなものが見えるような見えないような今日この頃です。

さてニセ山伏のごく初歩的な質問ですが(^^;
神名でいうところの姫、比売、媛はどれも同じ意味なのでしょうか?たとえば丹生都姫、丹生都比売、などなど???比売は姫の古名なのですかいな?
それともさらに深い意味があるのでしょうか?


Setoh 湯の花は白い花 H13.3.21

 平成新山は普賢岳より標高は高いそうだ。不気味な姿で島原の町をみおろしていました。

 昨年は有明海をかき回す台風は来なかったようです。だいたい毎年くるようで、これが有明海に渇を入れ、命を吹き込んでいたと言います。海苔の不作はこのせいであって、ギロチンが原因とは考えにくいとの話を聞きこみました。

 五十猛命は台風の神でもあります。則ち命の神です。 http://www.kamnavi.net/it/itake2.htm 参照。
この地図に主な五十猛命を祀る神社をプロットしています。

 話は変わりますが、豊作の祈願に翁と媼の男女の営みのマネの踊りがあります。彦と姫とですね。ヒコとヒメ、これをまとめてヒコメ、からコメ、米の汁を飲みながら旅先で思いついた米の語源論でした。何故か田主丸の近くでした。


焼尻紋次郎 Hp あなうれしや△△で息をすカネ H13.3.21

★ 飯塚市大字伊岐須に高宮八幡宮が鎮座。由緒に、霊亀元年(715年)宇佐八幡を勧請す。その時空中に飛鳥の声の如くにて「あな嬉しにや息をす」と云ふ。故に地名を伊岐須と呼べり。とありますね。ナンノコッチャ、遠賀川の州だな。  「目尾」は「はまお」、ここに浜生神社が鎮座。

☆ ここまで調べあげる実力、まさに神域・神業。ひとつはヒマなんだろうか?
  「あな嬉しにや息をす」……ボケ古老が昼酒のんで喋ったんダワサ。
  目尾は「シャカのオ」。いちおう「サガン」という役職名としちょきまっしゅう。大工の左官と関係あるとやろか。オラシラン。
  「尾」は丘か? 田川へ向かう峠は「カラス尾峠」。
  「飛鳥の声の如く」……ここに飯塚の語源のヒントこれあり。

 遠賀、コノハナサクヤ、ツツモタセ、などなどは『あさもよし』へ


玄松子 Hp Re[784]:  彼女達は一つ手前のバス停で降りた。 H13.3.21

> 「目尾」は「はまお」、ここに浜生神社が鎮座。
「しゃかのお」じゃないでしょうか。 by 福岡県民。


Setoh 彼女達は一つ手前のバス停で降りた。 H13.3.21

『女工哀史』のデッチアゲは、どれだけ多くの紡績女工に恥をかかせたか?

 飯塚市大字伊岐須に高宮八幡宮が鎮座。由緒に、霊亀元年(715年)宇佐八幡を勧請す。その時空中に飛鳥の声の如くにて「あな嬉しにや息をす」と云ふ。故に地名を伊岐須と呼べり。とありますね。
ナンノコッチャ、遠賀川の州だな。

「目尾」は「はまお」、ここに浜生神社が鎮座。

木曽といえば御嶽さん〜♪
阿田木神社(あたぎ) 和歌山県日高郡美山村
伊太祁曽神社(いたきそ)
うたき 沖縄の山信仰
御嶽神社(おんたけ) 長野県木曽郡三岳村

> 飛弾の五十猛樣は新しいのではないかな。
一宮水無神社は貞観9年に文書に初出、栗原神社「五十猛命」も共に式内社に列せられています。水無神社は高山より南ゆえ、より早く、栗原神社は奥の方だから新しいかも知れませんね。

 ところで、筑紫野市の天拝山の荒穂神社「五十猛命」の鎮座する山にはルリヒタキがいるそうな。


Setoh 木花咲夜姫神社 H13.3.20

温泉神社の摂社木花咲夜姫神社、楽しい神社でした。
古事記、石王さんの努力の結晶です。ダウンロード可。 http://www24.freeweb.ne.jp/area/itakiso/kojiki.htm
紋老先輩、ダウンロードやってみなはれ。神様のカナにいらつかなくなるよ。


焼尻紋次郎 Hp みなし子の美女は哭いた ああ、野麦峠 H13.3.20

モバイルというヤツ、聞いたことあるぞ。せば、サラセッセは目に見えない電線を、雲仙までひっぱって行ったんカネ。苦労……もワカル。キー・ボードに昼酒ぶちまけたんだろ。ザマァみれ。

 こんどの資料摘出作業はキッツーいよ。急ぎ厳禁。体力第一カネ。
 伊太祁曾神社の主祭神、五十猛樣の分布は木曾・飛弾とだいたいにおいてダブっていたよな。だが、それを精密に地図の上でピン立て(赤点)ねばならん。
 飛弾は日田、常陸、北上とのダブりを睨んでのピン・アップも。要するに五十猛樣の分布ぜんぶとなる。

 だがね、飛弾の五十猛樣は新しいのではないかな。
 おらは地図みてるんだが、飛弾一の宮は水無神社となっている。こんどはここにモバイルの電線引っぱてみらんカネ。現地人の言い習わしのなかに「オミナシ神社」が聞けるかもしれん。あっしのカンだが「omi(足)・asi(足<柱)」の中間に介入子音(強調)の N が挿入された……と思える。すなわち、ここにはニ部族連合があると惟ふ。

 飛弾も柱祭りは諏訪に劣らない。
 水無神社から東へ行くと美女高原がある。意味はワカランが八溝(栃木)の「ミゾ」くさい。更に東に進むと明治期の女工哀史をきざんだ野麦峠。乙女たちはくちべらし〜出稼ぎに岡谷の紡績工場へ歩いた。岡谷の東が諏訪。
 岡谷に来るまでのあいだ、乙女らは二つの 「ta-kir-i 谷」を渉らねばならなかった。

真理のしもべ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


山浜 Re[778]: 息栖のよみ  H13.3.20

> 息栖はイキスと発音してもいいんですけぇ。オキスかな?
イキスだけかと思ってましたが、オキスの読みもあるようです。


Setoh 土地勘 H13.3.19

鳥見神社16社 対 宗像神社13社

数を競うのではありません。印旛郡に絞って考えてみました。
この鎮座の住所を見てください。土地勘のある方なら一方が川の東側、かたや西側に偏っているように思いませんか?

宗像神社
印旛村瀬戸1081、印旛村平賀1、印旛村山田98、印旛村吉高700ー1、印旛村吉田1602、印旛村造谷656、印旛村岩戸1615、印旛村大廻536、印旛村鎌苅1668ー1、印旛村師戸1109、白井町清戸553、印西町船尾1293、印西町戸神920

鳥見神社
印旛村萩原1424、白井町白井391ー7、白井町神々廻1408、白井町富塚694、白井町名内408、白井町平塚962、印西町大森1943、印西町浦部2125、印西町小倉956、印西町和泉622、印西町平岡1476、印西町小林2712、埜村萩原17、本埜村笠神402、本埜村中根1339、本埜村長門屋8ー1


Setoh  H13.3.19

> 多古町高津原の熊野神社には、3社の名前
熊野大神(くまのだいじん)由緒書きによると、「元禄の昔、造営す。」とありますね。息栖神社に覆い被さったのでしょうかね。
息栖神社といいう名で現存するのは
福島県福島市永井川字宮ノ下に一社
祭神は「岐神、天鳥船命」
由緒は「延暦年中(約1200年前)征夷大将軍坂上田村麻呂が戦死した人々を合祀して、当時東国の神社として尊崇された鹿島、香取、息栖の大神を此の地に勧請して、永井川地区の守護神として奉斎したと言い伝えられて来た。」とあります。

千葉県はゼロ、茨城県は13社
主祭神は住吉神5社、岐神7社、気吹戸主2社、天鳥船1社となっています。
 有名な国譲りの段で、香取の神、鹿島の神は談判に及ぶのですが、天鳥船は事代主を迎えに行く(古事記)、また香取の神は岐神の案内でその後の掃討戦を行っています(日本書紀一書)。天鳥船と岐神は国奪いの功労の第三第四の神々ですね。


焼尻紋次郎 Hp 鬼の居ぬまに シマ荒らし H13.3.19

 山浜さん、息栖はイキスと発音してもいいんですけぇ。オキスかな?
 あっしが生まれ育った稲築町近くの飯塚市には伊岐須と書いて「イギス」と読ませる地名これあり。
 イギスはあっしにとっちゃぁ超難解な地名ざんしたが、これで辰諱・馬諱・弁諱あたりの氏族用語らしきことが浮上しやした。

 この飯塚市に「目尾」の地名これあり。これをナンと読むのか、読めるひとは……エライ!
 さらに、「イイズカ」、ナンという意味か、わかるひとには イ○△の キ○×マあげる。
 皆シャァ〜〜ン がんばれェ〜〜。


山浜 Re[773]: 息栖神社について  H13.3.18

習志野のてつさん はじめまして
地図で見たら、息栖神社は香取神宮の真東にあり、香取神宮と鹿島神宮とほぼ等しい距離にあります。3社をつなぐと鈍角二等辺三角形になるのですが、不思議ですね。多古町高津原の熊野神社には、3社の名前と共に、中臣祓1万遍成就の石碑がありました。息栖、香取、鹿島と3つのセットには何かいわくがあるのでしょうか?


ひふみ Re[773]: 本当の猿田さん H13.3.18

てつ様、はじめまして。
私は、ただ今、奈良は奥吉野に住んでおりますが、実家は佐倉市にあります。
習志野といえば、高校の時の通学途中の駅で友達も何人かおり、懐かしい地であります。

さて、鹿島、香取の両神宮はお参りした事はあるのですが、お話にあった息栖神社は行った事はありませんでした。
猿田さんは、こんな所にいたのですね。
と、申しますのは、昔々に読んだ「日本の昔話(松谷みよ子編著)」で紹介されていた、千葉県白井町の民話の中で、こんなお話があったからです。

「昔千葉に、猿田彦様が植えた椿があり、それが空を覆う程の大木になり、そこに魔物が住みついた。その頃、猿田彦の神様は伊勢におり、その事を知らなかった。民が困り果てていたので、たくさんの神様が連合軍を作り、その魔物を倒し、椿の木を切り倒した。その時の連合軍の総大将が、鹿島、香取両神宮に祭られている神様である。という話。(木が倒れた跡が霞ヶ浦あたりでしょうか。)」

私は、徳島生まれで、産土神社が大麻比古神社になり、猿田彦様になるので、千葉にも猿田彦様の痕跡があったのは驚いたのですが、関連のありそうな神社がわからなかったのです。

息栖神社、もしかしたら、民話の話と関係があるのかもしれませんね。
今度の里帰りの時にでも、行けたらなと思います。それでは。


習志野の てつ 本当の猿田さん H13.3.18

東国三社と呼ばれる三神社があります。鹿島、香取の両神宮と息栖(イキス)神社です。鎮座する所は鹿島郡神栖(カミス)町。
土地の名前からして迫力ありますが、祭神は志那都比古神
『「この里は気吹戸主(いぶきとぬし)の風寒し」芭蕉』
この神を守るかのごとく、猿田さんが住んでいます。  http://www.river.or.jp/rw/rw0015/rw15.html
上記HPの右の写真にある鳥居に向かって左側です。 http://www.i-kamisu.com/cgi-local/kamisu.cgi?x=3580&y=6543&z=2&mv=100&p=
この地図、真ん中下方のWは水で、南が利根川です。そしてその左1.7と読める敷地。
ここは、猿田食品の工場と、猿田一族の住まいです。まさに神を道案内してきて、
門(鳥居)の入り口で警護をしている姿に見えます。今いる本当の猿田さんでした。


焼尻紋次郎 Hp ミマサカ・マジメ人間 H13.3.18

「ミマ」というくにがオキャーマのプラトンホームで交差しちょるとですタイ。丸亀周辺だったかにミマサカだったか……、ある。「サカ」はこの場合「政府周辺……」の概念です。「ナ」は「土地」でいいんやろう。

 「真鍋さん」の意味・語彙構成にくるしみよりますと。mang-ab(漁)……で、いいとやろか。オエンとやろか。菩提樹の実ゴシゴシカネ。

 現地に立ってナニカがわかるご仁は、額の中央上部に卍の目を持っている。マジメ人間カネ。


香具 Re[770]: trading country Kibi H13.3.18

天啓か、ご託宣か、まさに天の声。

> 布都御魂を祀る石上神宮からの勧請ではなさそうな式内社
> 出雲−吉備−大和
> 素盞嗚尊を祀る須佐と名の付く式内社
> 出雲−吉備−紀伊

ふと、JR岡山駅のホームを廻っている記憶が甦りました。
広島・福山方面、山陰方面、姫路・関西方面、四国高松方面とホントに十字路でした。
吉備から大和・紀伊へは、陸路で三石・上郡の山を越えて播磨に出るより、児島から船で海路を取ったほうが速かったのでしょうね。
(あ、何かが湧いてくる!忙しくなりそうで仕事どころじゃないな〜?でも懐が大変)


Setoh trading country Kibi H13.3.16

布都御魂を祀る石上神宮からの勧請ではなさそうな式内社
出雲−吉備−大和
出雲:宇美神社[ウミ] 島根県平田市平田町
備前:石上布都之魂神社[イソノカミノフツノミタマ] 岡山県赤磐郡吉井町石上字風呂谷
大和:石上坐布都御魂神社[イシノカムノ]奈良県天理市布留町布留山

素盞嗚尊を祀る須佐と名の付く式内社
出雲−吉備−紀伊
出雲:須佐神社[スサ]島根県簸川郡佐田町大字宮内
阿須伎神社[アスキ]同社須佐袁神社[・・スサノヲ]島根県簸川郡大社町(出雲の須はサンズイ扁)
備後:須佐能袁能神社[スサノヲノ]広島県広島県芦品郡新市町大字戸手、深安郡神辺町上御領など
紀伊:須佐神社[スサ]和歌山県有田市千田

しか見あたりません。


マルヤ Hp 歌垣とネコにゃんにゃん H13.3.15

紋次郎さん、卓越した見識と言語解析をいつも読ませて頂き勉強させてもらっています。
「あさもよし掲示板」で次の書き込み・・・
>佐渡おけさは庄屋に飼われていたネコが歌った歌だということになっています。あっしは、このネコとは(プロト・アイヌの)メノコが歌った歌だとみている。
 めこ(女こども)のメコはアイヌ語でのメコ(猫)と同音です。
・・・を拝見してあらぬ妄想をしています。【715】私の書き込み「出雲わらべ歌」の次の文言は、神様が動物のネコと遊んだ歌ではなく、土地の娘っこを集めて八百万の神々が開いた「合コン」ではなかったかと。つまり出雲の神社前の「歌垣」ですね。
<<< 神様がかわいくて ネコ ネコ ネコと呼ぶ、
     にゃんにゃんのん・・・ 
     ネコは喜んで神様にいい よい踊りを見せよと踊る
     にゃんにゃんのん、にゃんにゃんのん
オオクニヌシの神様、不謹慎でゴメンナサイ。


Setoh Re[765]: 都農神社とニギハヤヒ H13.3.15

 白水社 日本の神々1の都農神社の項で、中村明蔵さんが、土着の神を祀っていたのであろうが、後国土の神の大己貴命と結びついたと推測しています。
『日向国風土記』逸文に、「吐濃峯、神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる。神功皇后が新羅を討ちたまう時、この神をお迎えして御船の舳先を護らせ給うた云々」とあります。
『播磨風土記』には因達の里の条には、御船前の伊太ての神がこの所においでになる。」とあります。

 伊太ての神とは五十猛命とされます。この両風土記からは、都農神社は五十猛命、都萬神社は抓都姫命と考えることができます。宇佐神宮の初期の祭祀者の辛島氏の伝える系図に
素盞嗚尊−五十猛命−豊都彦−豊津彦−都万津彦
とありまして、この都万津彦の名は佐賀の妻山神社にしか見えなかったのですが、案外、都農神社に五十猛命の名で坐すのかも。

 なお、尾鈴山は九州では霊山らしく、幾多の神々と関連がありそうですね。 http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-kamigami.html に出ています。
 日下倭人さん、我田引水の応答でした。


日下倭人 都農神社とニギハヤヒ H13.3.15

暮れの南九州旅行で日向一之宮都農神社を参拝してきました。祭神はオオナムチ、神武さんが東征に出掛ける前、当社に立ち寄り戦勝祈願したという古社です。

当社と信仰的に不可分の関係にあるとされる尾鈴山という山が神社西方にあって、当社の大鳥居越しに見ることもでき、遥拝所も設けられていたそうです。その山頂には物部氏の祖、ニギハヤヒが祀られ、降臨伝承も伝わっています。

尾鈴山には別の伝説も伝わっています。
安康天皇3年、部下に命じ都農神山に狩をさせ、白鳥を得た。ところがその場にいた従者たちは血を吐いて死亡するものが大変な数に上ったという。この事件は、ニギハヤヒを祀る神の山をけがしたことで神の忌諱にふれた、と解釈されるようです。(安康天皇が大草香皇子を殺してしまう事件との関係も指摘されているようです。)

これらの話で、都農神社の祭神大己貴神とニギハヤヒの関係はどのように考えればよいのか、気になってなりません。」


玄松子 Hp Re[763]: 天下大平 H13.3.15

> お伊勢参りはテンカカア公認の買春旅行でした。
昔は、女性の「お伊勢参り」は無かったんですか。


Setoh 天下大平 H13.3.15

 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ。
この津は三重県津市の津ではありません。最寄りの港は松阪です。津はツツモタセのツです。お伊勢参りはテンカカア公認の買春旅行でした。
大流行の伊勢にあやかるべく、寂れた神社は何とかこじつけてお伊勢さんに関連する神様を祀っていると宣伝を行いました。伊太祁曽神社も例にもれず、イタキソから日抱尊(ひだきそ)、日出貴孫(ひだきそ)、居懐貴孫(いだきそ)などと称して、天照大神を天岩戸から抱いて出てきた天手力男神だと言いだして、参拝者を募ったようです。
本居宣長の息子の本居大平は、抱腹絶倒の神名だと嘲笑しています。(続紀伊風土記)
 本居大平は
山々の木々の栄えを木の国の栄と守る伊太祁曽の神
泊瀬女さんは
神奈備の人の告らしし五十猛の植えたまいける木々の豊かに
とうたわれました。謝。


焼尻紋次郎 Hp 日本一の景観・鬼無里の峠 H13.3.15

 英語で蚊のことをモスキトーというように、日本語の「虫」はスペイン・ポルトガルの mos(蠅)、アイヌ語のmos(蝿) と同根です。「ムシ」の発音を用いて蛇をいうときにはナガムシとかマムシというようです。だからムシクラは虫送りで虫を封じこめたクラ(岩)とも解釈できる。
 青森市のアサムシ温泉は、やっぱ「麻を蒸し」だと惟ふ。
 それより、モンダイは「日抱き」にあり。
 イタキソ神の名前分析の最初に小鳥の「ヒタキ」との類似が出ていた。あしゃ ta-khii に拘泥はしやせんぜ。真理の徒カネ。まんずは発音。これをめぐっての付帯説話などを please 。

 鬼無里から西へ峠をこえるとき、日本一の景観……大パノラマが拝めるのだが、ほとんど知られていねぇ。詳しくはwww.you-i.org  ⇒ 紋次郎旅籠連名 でどうぞ。一泊 5500円〜6500円 ぞな。ポンビキあるね。
 鬼無里の語源等は『あさもよし』でよしよしぞな もし。


かたばみ Hp Re[734][716][707]:ゴンダラ様 H13.3.14

≫でも 「ゴンダラ様」って何でしょう?
「なんもありゃあせん、権田原磯のわき水のおかげでホンダワラがよくとれたんよ」・・かも。

≫付け加えて、『米といっしょに揚子江下流域からきた。』はどうですか?
に鳥の人形(鳥形)を置いてあります。

縄文の稲は東南アジアの熱帯ジャポニカ(晩生種)、運んだのは南の人々。
長江流域で内陸種とまじって生まれたのが温帯ジャポニカ(晩生種)、運んだのは長江の人々。
が混植された地域で生まれたのが弥生の稲、BC500頃。発見者は半島か九州の人々。→自説(^^; (いわゆるインディカが東南アジアに広まるのはAD500以降です)→事実

熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混植から早稲種が生まれることは実験栽培で確認されているようです。
出現しているはずだけど、長江あたりでは意味のない性質でだれも気に止めなかったと思うのです。

台風の来る前に収穫でき、早霜などの被害を受けにくい品種の登場です。
乙女など早いサ=めでるといった意味の言葉は早稲種の登場によって生じたと推定。

収穫した穀物の最大の敵はネズミ。
烏が居るぞ、小屋の天井に蛇がいるぞ、ネズミを捕ってくれて感謝感謝で大切に。
の場合は焼き鳥になったとき感謝されます(^^;


玄松子 Hp Re[755]: 虫倉神社 H13.3.14

> > 僕は、「虫」と「長命」とくれば、まず庚申を連想してしまいます。
> 庚申さん、道祖神でしたかね。「虫」のイメージについて解説をお願いします。

庚申待、あるいは守庚申という習慣があります。庚申の夜は、寝ずに過ごすものです。

いろいろな説がありますが、通説は、道教からという説ですね。
庚申の夜に、三尸という虫が人体を抜け出し、天帝にその人の罪過を報告するのです。
その報告によって、人の寿命や病気が決められるのですが、
その報告を阻止するために、庚申の夜は起きて過ごすのです。

これは、四世紀に書かれた「抱朴子」にも記されている話ですが、日本では、庚申は三猿・青面金剛・妙見・日月などと絡み合い、非常に複雑多岐ですね。建築の神としての機能もあるようで、鎮宅霊府や妙見信仰とも絡んでおり、道祖神との混同もあって、猿田彦・大田と、少しですが五十猛の匂い。かな。


マルヤ Hp 吉野の桜 H13.3.14

まずは鳥羽院に仕えた元北面の武士、佐藤義清(西行)の歌から。
●花を見し昔の心あらためて吉野の里に住まんとど思う
●吉野山やがて出でじと思う身を花散りなばと人や待つらん
●思いやる心や花にゆかざらん霞こめたるみ吉野の山
●吉野山こずえの花を見し日より心は身にもそはずなりき
●あくがるる心はさてもやまざくら散りなんのちや身にかへるべき

・・・・・と西行も歌った吉野の桜はあまりにも有名ですが、行って見ると「期待はずれでがっかりした」と言う人もかなりいます。でももう一度訪ねる人も多く、二度目はとても良かったという人が多くなります。
吉野の桜はその殆どが山桜で、咲いているときは若葉が出た状態であり、ソメイヨシノのような華やかさはありません。楚々として、しかし妖しく咲いています。私は遠く離れて見る吉野の桜がとても好きです。
西行はあまりにも妖しく咲く桜の大木をして、その根元に髑髏をいくつも抱え込んでいる故としたとか。たしかに吉野の山は古戦場でもあります。植物に骨粉を肥料として与えるとよく成長することは確かです。
ところでソメイヨシノは、ヨシノの名が付いていますが吉野山とは無関係の種類で、ヒガンザクラとオオシマザラの交配種らしいです。

ちなみに万葉集には桜を詠んだ歌が43首あるそうですが、吉野を特定したものは一首もなく、吉野の桜が登場するのは10世紀初頭の「古今和歌集」が始めのようで、その頃から吉野は花の名所として有名になり始めたそうです。(「奈良の街道筋」青山茂著による)
万葉の時代の吉野の魅力は桜ではなく、山や川などの自然そのもの(あるいは丹砂など鉱物資源か)だったようで、万葉集には吉野を歌った歌が88首(吉野の郷土史家・桐井雅行氏)もあるといいます。

●吉野の桜情報(小生のH・PからリンクのYosinoWebさんより)
下千本:開花時期4/5〜6日頃   満開は4/12日頃
中千本:      4/4〜8日頃       4/15日頃
上千本:      4/10〜11日頃     4/17日頃
奥千本:      4/17〜18日頃     4/24日頃
●今年は平年並みのと予想


泊瀬女 私の好きな神社 H13.3.14

皆さんが「好きな神社」を書いていらして、では私も・・・と今まで廻った神社のリストをチェックしてみましたが、困った。管理人さん、玄松子さんには及ぶべくもありませんが、約250社あまりの神社にお参りしています。
神社巡りを始める前は、神社なんてどれも同じようなものだと何となく思っていました。
ところが、神社巡りを始めたらどの神社も個性的で、魅力的で・・・
その奥に隠れた深い歴史と文化。みーんな大好き。
皆さんが紹介された神社、行ったことのあるものは「そうそう!いいわよねェ」と納得、まだ行ってない神社は「アッ!行ってみよう」と。

それよりも、自分が無知なためお参りしそこなった神社が多くて・・・
たとえば、伊賀上野まで行きながら寄らなかった高倉神社(setohさんご推薦)
近くに泊まっていたのに、なぜか行かなかった丹後の大宮売神社
諏訪大社・上社前宮は行ったけど、恐くなって逃げた。
ここは、近いうちもう一度行って、なぜ恐かったのか確かめてくるつもり。
悪い神様に脅されたのだと管理人さんがおっしゃたので、絶対決着つけてやるもんネ! 脅かされたままにしておくものか!!!

それでも、心安らぐ場所は・・・
神社、空、山、川、川原、海、海岸の石までもすべてをひっくるめて、紀州熊野。
特に熊野本宮の旧社地・大斎原とすぐそばの川原で過ごした一時は忘れられません。
私の神社巡りの原点、伊勢神宮・別宮 倭姫宮。同じく別宮 滝原宮。
ポピュラーだわね。


Setoh Re[753][752]: 虫倉神社[754]雪の三輪山  H13.3.14

> 僕は、「虫」と「長命」とくれば、まず庚申を連想してしまいます。
庚申さん、道祖神でしたかね。「虫」のイメージについて解説をお願いします。

泊瀬女さんの頑張り敬服します。雪の三輪山奥津磐座、これはすごいですね。まさに神々の座でしょうね。うらやましいことです。
森正、にゅう麺で登山の後の「お腹も満足」、何杯目で?


泊瀬女 雪の三輪山 H13.3.14

曇り時々晴れ、ところによりにわか雪の伊賀(一部大和に出たり入ったり)の宮巡りの旅の途中、ついに倒れた泊瀬女は・・・

3月10日、この日にどうしても三輪山に登りたかった泊瀬女は、前夜倒れ込んだベッドからムックと起き上がって、カーテンを開けてみた。空は晴れているし、気分も悪くない。
三輪の神様が「来てもいいよ」と言っている・・・と(こんなふうに思っちゃうのが私のノーテンキなところで)
急いでシャワーを浴びて、朝食もとって名張の宿を飛び出した。

予定より出遅れたので、大神神社に着いたのが10時頃、参道の木々からは溶けた雪がバシャバシャ落ちてくる。御山もさぞかし大変なことになっているだろうと覚悟を決めて狭井神社へ。
以前、この掲示板で皆さんに教えていただいた通り、襷をいただき三輪山登拝に挑戦しました。狭井神社の神職さんが「ゆっくりね。時間がかかってもいいから気を付けて」と言ってくださいました。
登り口のあたりは雪がうっすらと残っている程度でしたが、少し行くと木々にも道にも雪がいっぱい。時折、木の枝についた雪がザザッーと落ちてくるけど、夢の中みたいに思えるほど美しい景色。特に滝の下あたり、小川が流れている谷のきれいなこと・・・
滝の所の小屋(行場なのかな)で一息ついて気が付いた。気合が入りすぎていたのか狭井神社で杖を借りてくるのを忘れた。
神様の山だから木の枝なんか折っちゃいけないのよね。倒木の枝も折っちゃいけないのかな・・・なんて思いながら、ゆっくりゆっくり登って行きました。朝一番に登って行ったのか山を降りてくる女の人に出会いました。挨拶を交わして「雪がきれいですね」なんて話をして、そうしたらその方が「上の方は粘土質で滑るから、この杖をお持ちなさい」とご自分の杖を譲ってくださいました。この後、登りは結構きつかったので、杖は助かりました。
setohさんが「たんたんと行けばいつか着く」と掲示板で書いてくださっていた言葉を思い出し「たんたんと」とつぶやきながら登りました。私にとっては山登りは辛いことですが、この御山はなぜか楽しかった。神様の山にいるという意識があったからでしょうか。
奥津磐座のことも教えていただいておいて良かったァ。知らなければ、頂上の小さなお社にお参りして下山してしまったでしょうね。
それにしても奥津磐座、圧巻だわね。岩の上に雪を乗せて、素晴らしい光景でした。
かなりの時間、磐座の側でボーっと立っていました。この頃からボツボツ人がやってきたので、御山を降りましたが、これが大変でした。雪が溶け始めて足元ヌルヌル。滑らないように転ばないように。登る時、あれほどきれいだった雪景色も降りる時はベショベショ。ギリギリ良い時に登ったらしい。狭井神社まで無事たどり着いたら午後1時近かった。2時間半以上かかったのね。
山登り苦手な私が条件の悪い中、よくも登ったものだと嬉しくて、大神神社二の鳥居脇の森正で祝杯代わりににゅうめんを食べて、気持ちもお腹も満足して気分爽快でした。
三輪山登拝のレクチャーをしてくださった皆様、ありがとうございます。


玄松子 Hp Re[752]: 虫倉神社 H13.3.14

>  長野県上水内郡鬼無里村と中条村に二座の虫倉神社があり、いずれも磐長姫を祭神としています。「虫」は土蜘蛛を連想させますし、倉は座で神の坐すところです。水内郡も蛟かも。

僕は、「虫」と「長命」とくれば、まず庚申を連想してしまいます。


Setoh 虫倉神社  H13.3.14

> クゼはクズの音韻転訛ということはありえないかな
kokoroさんの着想、いつもながらあざやかです。

山城国に久世郡がありましたね。
延喜式内社に
○石田神社[イハタ](大。月次新甞。)石田神社「磐裂神」京都府八幡市八幡大字岩田里が論社ですね。
○巨椋神社摂社子守神社「天磐樟船神」摂社勝手神社「手力男神」宇治市小倉町寺内
があります。神々の雰囲気はクズをにおわせているようにも感じますね。

 石長姫が磐座+蛇(ナーガ)の組み合わせのようで、丈夫でたくましい縄文女性のイメージで、豊穣の女神かも。土偶にもそういうのがありましたね。手力男神の女神版かと。
 長野県上水内郡鬼無里村と中条村に二座の虫倉神社があり、いずれも磐長姫を祭神としています。「虫」は土蜘蛛を連想させますし、倉は座で神の坐すところです。水内郡も蛟かも。


焼尻紋次郎 Hp 神名から けしかけられた仕掛人 H13.3.14

 フクロウの目をした童神は世界中に分布しているので、すくなくとも2万年まえの偏執(文化)だと言える。
 足切りの風習を伴っている遮光器土偶は i adho(⇒えぞ)である。i adho は安藤安東・安曇に繋がる。遮光器土偶は日本列島に3000年前から上陸している。
 日本語で動詞の命令形がすべて“e”終わり。終止形は -nu と同列の“u”終わり、「あぬ、あず」の否定がネパール語と同一なること……これらは日本語の基底がネパール語的なものであることを雄弁に物語っている。
 大野晋教授は350のペア類似語彙をタミル語とのあいだに挙げられたが、ネパール語は1200のペア類似語を吐き出した。ケタ違いなのである。
 このネパール語基底の上に朝鮮半島をトコロテンの押し出し筒にして、震源地のシナ平原と江南の敗残軍が家族をかかえて次から次に日本列島に入り込み、ネパール語を基底とした一つの言語を共有し、一つの民族を形成するに至った。
 日本列島各地に割拠した集団は、夫々の英雄や従来の神をいままでの言語に拠って祀り、その名を残した。

 シナ語々彙の特徴は
 1 語頭単音でチョン切る。
 2 子音+母音 に t , k を添える。
 3 n 終わりにする。
 4 ミョウ、ビョウのように拗音+長音化……で、これは人工的に新しく造語された跡を感じさせる。これらシナの発音グセを取り払うと、やはりここにも大幅なネパール語の偏執が顔をだす。
 だから、朝鮮半島経由で日本列島に入った辰諱・馬諱・弁諱などのそれぞれ違った言語にも、かなりの%でネパール語的なものがかいま見られるという蓋然性が許容されるかと惟える。

 あっしゃ、キカイ・音痴 + 漢字オンチ + 数字メチャオンチ でボケが気になる昨今にござんすが、発音がまちがいなければ「オッ、これは……」にしばしばぶつかる。
 もちろん、意味のワカラン神樣ばかりだか、少しでも意味が判りはじめると、イモ蔓式に系統も出よう。
 『当節・かむ流れの語源』をこの裏の『あさもよし掲示板』に並べちいやす。来い来い。


山浜 Re[740]: 好きな神社  H13.3.14

マルヤさん 初めまして
私は千葉に住んでおりますが、やはり関西はあこがれの地ですね。
吉野も行ってみたいところです。これからは桜のシーズンでしょうか?

> 気比神宮には、ネコのような狛犬がありましたね。
摂末社に気を取られて狛犬までは気づきませんでした。

月山神社へは羽黒山側からの登拝が安全です。バスは8合目まで行きますが、7月末〜8月がいいと思います。出羽三山神社(羽黒山)は年中参拝できますよ。


kokoro Re[742]: バプテスマでしたっけ? H13.3.14

setohさん、香具さん、メールありがとうございました。クズといえば全国的に山間部に「クゼ」という地名が多いような気がするのですが、クゼはクズの音韻転訛ということはありえないかなと思いつきました。
 setohさんは連休中は島原半島ですか。うらやましいですね。僕は石上神宮の御神体、フツノミタマのことを調べたいと思って、岡山県赤磐郡吉井町の式内社「石上布都魂神社」に行って来ようと計画中です。

 最近のカキコで、さまざまな方がお好きな神社のリストを披露していたので興味深く拝見しました。その中には行ったことはおろか名前も知らない神社もあれば、僕自身がリストを作ったら重複すると思われるものもありました。そしてそうした流れの中で香具さんが滋賀県の佐久奈度神社のことをカキコされていました。
>佐久奈度神社  滋賀県大津市大石中町
>なんか話題に上らないようなので・・・。
>あまりにコザッパリしすぎて人気がないのでしょうか。
>瀬田川が大きく曲がって、宇治川となるところ。大石蔵介の先祖の地でもあります。

 これは意表をついていて、とても面白いと思いました。滋賀県もいい神社がたくさんありますよね。そこで滋賀県にあり、なおかつ赤穂浪士の先祖の土地にある式内社をもう一社、紹介します。滋賀県野洲郡中主町比留田は四十七士の1人、近松勘六行重(ちかまつかんろくゆきしげ。マイナーっス)という人物の先祖の地で、本人も一時、ここの近松本家に潜伏していたそうです。そしてこの比利多の集落に鎮座している淺殿神社は、近江国野洲郡の式内社、比利多神社の論社のひとつであります。比利多神社のもうひとつの論社は、「式内社調査報告」によると、淺殿神社から南に数百mのところに鎮座している二宮神社境内の比利多神社ですが、案内板によればこの比利多神社は建久年間に比留田より移ってきたとありますから、淺殿神社と(二宮神社境内の)比利多神社は論社同士と言うよりも旧社地・現社地の関係のようですね。
 注目すべきはこの二宮神社で、境内全域に平安末期の遣水や島を伴う神苑の遺構が見られるのです。遣水は埋没しているので流水は見られませんが、今でも地表面に凹凸がくっきりと残っていて、全体のプランははっきり視認できます。そのプランがまた興味深いもので、社殿や参道と有機的に関係させるよう配置されており、極めて味わい深いです。このような遺構がひっそりと眠っていて、しかも自由に見学できるというのは全国的にも珍しいと思われます。

 それにしても年度末で多忙な上に送別会が多く、とかく体に負担のかかる時期です(特に胃と肝臓)。それでも戸外に行けば春らしさを感じてウキウキします。連休に各地の神社へ行かれた方は、その紹介をお願いしたいですね。


Setoh Re[747]: クズの神を祀る神社  H13.3.13

> 対馬の「天神多久頭魂神社」「多久頭魂神社」のタクヅは、入りませんかねぇ。
おっしゃる通り磐座も多いようで候補としては考えましたが、どうも天道信仰の理解がもうひとつ、また九州には土蜘蛛の話は多いようですが、この辺りは相当早く開けたようなので、残骸が少ないかと想定して、今回ははしょりました。
國津神社[クニツカミ] 現在の和多津美神社[わたつみ]「和多津美命、罔象女命、速秋津日命」長崎県壱岐郡郷ノ浦町渡良溝1349
國津意加美神社[クツイカミ]現在の国津意加美神社[くについかみ]「素盞嗚尊、大己貴命、稻田姫命」長崎県壱岐郡郷ノ浦町木村触133
なども要検討ですね。

壱岐対馬には行っていないので、どうも目が行きませんね。五十猛命にとっても重要地点です。この夏の終わり位を検討しましょうかね。玄松子さんと入れ違いになったりして・・。


玄松子 Hp クズの神を祀る神社 H13.3.13

対馬の「天神多久頭魂神社」「多久頭魂神社」のタクヅは、入りませんかねぇ。

>現地のバスの時刻などを勘案して・・
たしかに、一日つぶれてしまう可能性が高いですね。


Setoh Re[745][744]: 愚民将来  H13.3.13

> > また多良岳には太良嶽神社が鎮座
> 登るんですか?
現地のバスの時刻などを勘案して・・
土曜日はもう一つみたいですね・


玄松子 Hp Re[744]: 愚民将来 H13.3.13

> また多良岳には太良嶽神社が鎮座、ここいらを今週末の連休に、ゆっくりと巡ってこようと思っています。
登るんですか?

>  吉川弘文館に電話をしたら、新撰姓氏録の研究(本文編)¥6,500.−の在庫がありましたよ。
そうなんですよね、本文だけなら安いんです。古書店では3000円代です。


Setoh 愚民将来  H13.3.13

「伊太祁曽は日抱尊だから天手力男」
 中世伊太祁曽神社衰癈して供僧等執行の頃、上記の説があったようで、『紀伊続風土記』では、それを以下のように批判しています。
 かゝる妄作をなし愚人をあさむきしなり其作意は神名の伊太祈曾を日を抱く義に取なして手力男ノ命をおもひよせ日出貴孫等妄作の御名抱腹に堪さる事なり。

どうやら神奈備には愚人の血が流れていますので、今は素直に樹種を播いた神様と信じていますが、後世、実はやはり縄文的な力持ちの神様であって、ITの時代になっても愚民がいたなんて言われるのかも。

雲仙の島原半島は猛島と呼ばれ、五十猛命と縁のある猛島神社が鎮座しています。また多良岳には太良嶽神社が鎮座、ここいらを今週末の連休に、ゆっくりと巡ってこようと思っています。

桃尾の滝、弓月岳、熊野有馬、出石、出羽、出雲の奥、晴れの日の連休とお賽銭などの原資がほしいですね。

吉川弘文館に電話をしたら、新撰姓氏録の研究(本文編)¥6,500.−の在庫がありましたよ。


香具 訂正 H13.3.13

下の【742】佐久奈度神社の件
大石内蔵助の字が違ってました。失礼しました。なお、この神社には、『大石家に関する古記録があるとともに、曽祖父大石良勝奉納の絵馬がある。』そうです。


香具 バプテスマでしたっけ? H13.3.13

佐久奈度神社  滋賀県大津市大石中町
なんか話題に上らないようなので・・・。
あまりにコザッパリしすぎて人気がないのでしょうか。
瀬田川が大きく曲がって、宇治川となるところ。大石蔵介の先祖の地でもあります。
拝殿で神主さんを待つ間に、聞こえてくる瀬音が心地よい響きです。
まずは、ここで洗礼を? ご祭神は(云わずと知れたはずの)祓戸大神さまです。
JR石山駅からバスでどうぞ。


習志野の てつ Re[738] 大感謝 H13.3.13

大変有難う御座います。お神酒を差し上げます。

弟橘姫と日本武尊の関係
結論1:弟橘姫といっしょに海に入った姫は5人
蘇我神社 行ってきました。 書いてありました。

仮説1:日本武尊は、弟橘姫と同じ墓に入りたかった。
 尾張の熱田で美夜受比売(ミヤズヒメ)に冷たくされた後、日本武尊は知多半島の緒川(おかわ)に居た穂積氏忍山宿弥命(ホヅミノウジノオシヤマノスクネノミコト)を訪ねた。そして、忍山宿弥とその娘の弟橘姫を同伴し東征に向ったと云われる。(入海神社由緒によるー伝聞ー)
 まあ県知事に袖にされ、市長に頼りに行ったようなものですか。
 三重県亀山市に「忍山(おしやま)神社」があります。
 http://www.city.kameyama.mie.jp/gaiyo/rekisi.html
 穂積氏忍山宿弥命は、ここの神官一族、弟橘姫の生誕地説があり、父と緒川に進出。父は日本武尊に賭けて、一緒に東征、途中焼津の後、西伊豆の良港戸田(へた)に寄ったらしい。遠征は大成功?小田原あたりを領地にもらったらしい。
 海路帰途につき緒川に凱旋する。この時父の乗った船の後を追って、弟橘姫の形見である櫛が、緒川の紅葉川までついてきたと伝えられる。かわいそうな弟橘姫は、父の実家に祭られていた。
 神奈備にはもちろん載ってます。
忍山神社[オシヤマ]
 忍山神社[おしやま]「猿田比古命」三重県亀山市野村町4-4-65
  http://www.kamnavi.net/en/ise.htm#susuka
 同じ鈴鹿郡に
 那久志里神社[ナクシリ]があります。が、
 能褒野神社に合祀[のぼの]「日本武尊 配 弟橘姫命、建見兒王」明治11年創建、名越の能褒野陵を日本武尊の墓に比定、式内社那久志里神社、志婆加支神社を合祀。三重県亀山市田村町1537
 この 建見兒王は、実は二人の間にできた子供らしい。


マルヤ Hp 好きな神社 H13.3.12

山浜さん、初めまして。
たくさんのおすすめ神社嬉しくなります。
私は東の端は諏訪大社、西は日御碕神社、南は速玉大社、北は気比神宮と参拝しましたが、まだまだ参拝したい神社はいっぱいありますね。
気比神宮には、ネコのような狛犬がありましたね。諏訪大社は私も上社前宮が印象的でした。境内のすぐ横を流れる清冽なせせらぎ、ゆったりとした神殿へのアプローチ。落ち葉が一杯の秋の風情は格別でした。
山浜さんのおすすめ神社の内、月山神社、出羽三山神社など何時か行ってみたいと思います。


山浜 私も歩きました H13.3.12

泊瀬女さん そうなんです
敢国神社に行くとき私も歩きました。一の宮会のHPには駅から近いと書いてあったのですが、結構ありましたね。あの若い神職さんとても親切で、私も4時30分頃着いたのに帰り際だったにもかかわらず御朱印やら説明やらしていただきました。
そうそうまたいってみたい神社に敢国神社を追加です。


Setoh Re[736]:思兼て、お願いします  H13.3.12

東八代郡中道町下向山鎮座の佐久神社(大宮さん)ですね。
由緒書きでは向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)と呼んでいますね。
向山土本毘古王は日向土本毘古王(ひむかやまとほひこおう)と号し、長じて綏靖天皇のの大臣となる。後に甲斐の国造に任じられ臣佐々直武長田足円後辨尼その他千人を引き連れて甲斐の国に入国。甲斐の国の中央部は一面の湖であり、土地の豪族苗敷山に住む六度仙人(去来王子)、姥口山に住める右左辨羅などの協力を経て、水を富士川に落とし多くの平土を得たという。

よく似た話は
京都府亀岡市 桑田神社「市杵嶋姫命」、村山神社「大山祇命、木花開耶毘賣命」の祭神が(協力して)泥湖を干拓した。
盆地みたいな所に多そうな説話ですね。お役にたちませんね・・。


泊瀬女 冬眠から覚めたら雪だった! H13.3.12

ご無沙汰しました。昨年12月中旬に伊勢に行ってから冬眠に入りまして、3カ月ぶりに伊賀方面へお宮巡りに出かけました。名古屋で関西線に乗り換えて柘植へ。柘植駅から歩きだしたらチラチラと雪が舞い始め、都美恵神社に着いた時には雪が本格的になりました。誰もいない神社に霏々として降る雪はそれは美しいものです(・・・とこの時は思った)。

雪まみれになり、柘植から佐那具へ。佐那具に着いた時には雪はやんでいましたが、伊賀一宮行きのバスがない。しかたないので敢国神社まで40分位歩きました。佐那具駅からダンプカーが走りぬける畑の中の道をテクテク、名阪道路下をくぐったら世界が変わったように趣のある民家が並び、とても良い感じです。まもなく伊賀一宮・敢国神社に着きました。敢国神社の若い神職さんに「一宮巡りですか?」と聞かれました。この神社に来るためのバスは最近廃止になったとか。タクシーを呼んで伊賀上野の町へ。上野で組み紐の職人さんの工房に行き、作品をいろいろと見せていただいてキャーキャー言っていたら思わぬ時間を取られてしまい、上野から伊賀神戸にかけての神社に寄れず名張の宿に入りました。その夜は雪と風が吹き荒れていました。

次の日は雪化粧が美しい山や川をながめながらバスで曽爾まで行き、頼んでおいたタクシーで門僕神社・四社神社・御杖神社とお参り。5センチほど積もった雪でどこの神社もきれいで、境内に足跡をつけないように気を付けて歩きました。御杖神社はぜひ行ってみたかった神社だったので感激的でした。この時のタクシーの運転手さんが面白い人で、シーズンにはタクシーの仕事しないで、鮎釣りと山菜取りをしているとのこと。「神社ならいいところに連れていってあげる」と北畠神社(別格官幣社)と川上若宮八幡神社へ連れていってくれました。若宮八幡神社は最近管理人さんがお参りした神社でしょう? 美杉村ですよね。美杉村は景色が美しいところのはずですが、このころまた降り出した雪で景色が見えず残念でした。若宮八幡神社の神職さんが熱心にお話をしてくださるので「寒い!」とも言えず、雪まみれになりました。タクシーの運転手さんの自宅にまで連れていかれ、手作りの蕗みそをいただき、曽爾高原の写真をたくさんみせてもらいました。曽爾高原近辺をタクシーで行くのなら、大手タクシーをお勧めします。NHKで放映される「聖徳太子」の合戦のロケを曽爾高原で撮るとか。物部合戦のシーンでしょうかね。

雪の中を元気にあちこち廻ったのですが、宿に戻って大変でした。吐き気はするは、貧血を起こすは、多分熱も出たと思う。食欲もなくベッドに倒れて動けなくなりました。次の日は三輪山登拝の予定なのに・・・

雪の三輪山登拝については、改めてご報告します。


習志野の てつ 思兼て、お願いします H13.3.12

ヤマトタケルさんの脚気話にHPを使わせていただいた熊谷さんから以下のメールをいただきました。皆様の知恵をお貸し下さい。
お世話になっております。 熊谷@春日居町です。
 私のHPでは記載できませんが、以下の伝説が有ります。私では解釈のしようが有りません。何か解釈が出来るようで有れば御教授下さい。

1.東山梨郡誌によれば
 昔綏靖天皇の頃、彦火火出見命の後裔である向山土本毘古王(読み方が解りません:ムコウヤマトノモトヒコ?)が長田足の道案内で甲斐国に入ってきた。その頃の甲府盆地は一面の湖であった。そこで西山の六道仙人と右左弁羅(読み方が解りません:右左口と書いて「うばぐち」と言う地名があるのでウバベラ)と言う者が協力して鰍沢口を切り開いて、水を流し落とし立派な畑を作った。村人は右左弁羅を神として祭り、右左口(うばぐち)村の名の起こりとなった。

2.北巨摩郡誌によれば
 甲府盆地が湖水だった綏靖天皇のころ、日向土本毘古王が甲斐にやってきて、鰍沢の一角を切り開き立派な田んぼを作った。村人に稲作の技術を教え、はじめ右左口村の向山で、続いて北巨摩郡旭村で米を作らせた。これが甲斐での稲作の始まりである。その功によって後に穂見大明神として祀られた。

−−−−−−−
 右左口村は現中道町に当たり、曽根丘陵一帯です。方形周溝墓・銚子塚古墳(全長169メートル)・大丸山古墳・等々が点在し、風土記の丘と成っています。県立考古学博物館もあります。
 一方、北巨摩郡(八ヶ岳の南麓)には、金生遺跡・石堂遺跡などがあり縄文人の痕跡があります。
金生遺跡は http://www21.freeweb.ne.jp/area/kumagai7/jinjya/saku5/kinsei/kinsei.htm です。
東山梨郡誌:向山土本毘古王
北巨摩郡誌:日向土本毘古王
書き間違いでは有りません。
以上
*********************************************
       熊谷@春日居町です。
kumagai@eps4.comlink.ne.jp
jk1jfo@jarl.com
URL : http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/
*********************************************

これも農業改良普及員=米作り指導員の 土木改良・治水事業とは思いますが、判りません。 読みは一応
向山土本毘古王(むこうやまともひこおう)と
日向土本毘古王(ひむかともひこおう)だと思いますが。
よろしくお知恵をお貸し下さい。


習志野の てつ Re[716][707]:三本足の正体が出たぞ H13.3.12

[732] もふくめて、かたばみさん ありがとう。
 三本鳥居は東京都墨田区の三囲(国構えに偉いの左のつくりを入れた文字)神社には、二組あります。いずれも(上から見て)三角形の中に建造物(ちょっと大袈裟ですが)一つは井戸また一つは背の高い丸手水鉢様の物があります。

> 「小石を積み重ねて幣束を立て、その上に跨るように三柱鳥居がたっている」
> とあり、著者は鳥居というより神籬ヒモロギであろうといっています。
 まさにそのとうりで、『たまたま鳥居の形を使った』を、結論としましょう。

>「ゴンダラ様」として海神を祀っていたそうです。
>「ワケもなにもない、ありゃあ大工がデタラメやったモンだあね」・・
> だったそうです(^^; そういう大工さん好きです(^^;と
もう結論出てるのにしつこい!ご勘弁をでも 「ゴンダラ様」って何でしょう?

> 弥生の集落、その囲いや門は人間のための柵と出入り口。
> 集落の主→祖先神、住まい→神殿、柵→玉垣、門→鳥居、これが洗練されて
> 祖先神系の神社の基本様式となっていった。
 もう大賛成。

 付け加えて、『米といっしょに揚子江下流域からきた。』はどうですか?大阪の民博に、タイの少数民族の村の展示で入り口に鳥居のような構えをつくり、その上に鳥の人形(鳥形)を置いてあります。
 日本でいえば村の入り口の道祖神のような、外からの悪霊などを止める役だったのでは?
 この下総あたりでは、道祖神ではなく、藁製の大蛇を使います。通称『辻斬り』です。最初に聞いた時は、びっくりしました。 http://www.sakura-city.com/newspage/fureai/tsujigiri.htm

 話題変わって、みもみ 京成電鉄『実籾』駅が習志野市にあります谷津駅の隣の隣。我家から徒歩20分程度。この駅からすぐに『大原神社』があり、その境内に直径3Mほどの半円判状の物が祭られています。周囲にギザギザの歯がついています。この怪物様のもの、実は海底トンネルを掘る時などに使う掘削機の先端部分の模型です。近くに有った河を、地下に通す為、トンネルを掘った時の模型でした。
 つまり、土地改良に役立った=貢献した道具を、祭ったのです。地元・丹生神社 境内には庄司が池の干拓記念の石碑があります。 http://www.city.narashino.chiba.jp/furusato/siseki001.htm
 また車で10分程のところに検見川神社があります。ここにも「揚水機記念碑」(ようすいききねんひ)が残されています。
 土地の地盤改良に貢献したので、祭られています。下記のアドレスに、写真載ってます。(解説は少し違うと思いますが、写真はいい) http://www.tv-asahi.co.jp/machikado/back/makuhari/tue.html
結論:土地改良は現代人でも大変ありがたい。まして、安定した食料を得ることができる『米(こめー)が出来るなら教えられて、サトサレテあげましょう。』――東夷の言葉――


山浜 おすすめ神社 H13.3.12

こんばんわ 私の場合、基本的に一の宮が主体なので、好きな神社というとほとんど皆様ご存じのものばかりです。好きというか感慨深い印象を受けた神社です。順番は関係ありません。

伊太祁曽神社(もちろん理屈抜きです)
椿大神社 (三重県鈴鹿市 参拝するときなぜかどきどきしました)
大神神社とその周辺(奈良県桜井市 じっくり参拝したいところ)
厳島神社および弥山頂上の御山神社(安芸の宮島です。御山(みやま)神社は一押しです。眺望最高です)
丹生都比賣神社(あこがれの神社でしたから)
若狭彦・若狭姫神社(福井県小浜市 若狭姫神社での、参拝後に振り返ってみる杉の巨木が印象的です)
気比神宮(福井県敦賀市 美しい鳥居と社殿がいいです)
白山比め神社(石川県石川郡鶴来町 なぜか気になる神社です)
伊射波神社(三重県鳥羽市 なかなか行けないので行けたことに感激)
事任八幡宮(静岡県掛川市 社務所の方とお話したことが印象的)
諏訪大社上社前宮(長野県諏訪市 諏訪4社のなかでは一番好きです)
出雲大神宮(京都府亀岡市 周囲の神秘的な雰囲気がいいです)

一の宮以外では
熊野本宮大社(いまや心の支え)
熊野速玉神社(社殿の美しさにうっとり)
阿賀須神社(新宮市 こちらもあざやか)
熊野神社(千葉県八日市場市宮本256、千葉の熊野神社の中ではとてもいわくありげ)

あと、外宮・内宮、月読宮、月夜見宮(私は外宮が好きですね)

生まれ故郷はのぞくとありましたが、どうしてもはずせないのが
月山神社、出羽三山神社、湯殿山神社です。

ちょっと書きすぎでした。すみません

磐座で忘れてました。出雲大神宮(京都府亀岡市)や石都々古和気神社(福島県石川郡石川町)の周囲は磐座のオンパレードです。


かたばみ Hp Re[721][717][711]: 紀氏との関連?  H13.3.12

習志野のてつさん、こんにちは。
≫むしろ、牛からの連想で祭神がスサノオさんになったのでは? 
牛嶋一帯に牛の牧が作られたのは天武天皇の頃のようですが、牛の牧場に設ける神社であればますますぴったりだったのかもしれないですね。
スサノオと牛をつなぐことにはインド仏教の影響があると考えています。

スサノオ命と天穂日命、どちらかだけかずっと後の大国主命を祀るならなにも気にしないのですが、喧嘩していただろう二人(^^;を合祀するのにはなんらかの考えがあったからだろうと思っているのです。

≫出来たらもう少し詳しく
伊勢国風土記逸文の内容は「風土記/秋本吉郎/岩波書店」で数頁ですから立ち読みで楽勝です(^^;
島津国造、伊勢津彦、出雲臣の関係は「新編姓氏家系辞書/大田亮/秋田書店」の記述によります。

伊勢津彦の話は東海での弥生と縄文の接点の伝承と思えるのですが、歴史空白時代の私の歴史観と解釈を書くことになるので、後日http://member.nifty.ne.jp/stan/index.html「古代であそぼ」の雑談コーナーに弥生の流れの概略をアップしますので参考にしてください。


Setoh  H13.3.11

能に「和布刈」があるやに記憶しています。「メカリ」です。
「産田」は「サンタ」ではなく「ウブタ」。

玄松子さんの芳名帳に、玄松子さん関西へ引っ越しのもくろみあるやのこと。
歓迎パーティ、参加者募集中!。三輪山登拝、後、柿の葉すしと素麺などいかが。

所で、たくさん参詣されておられる玄松子さん、泊瀬女さん、山浜さん、お勧めの神社の御紹介、お願いしたいです。


焼尻紋次郎 Hp 闇夜に啼いた気の早いニワトリ矣 H13.3.11

かたばみさん、図を描いていただき更なるお教えあがあが。
なぁ〜んだ ガックリ! あらま、勝手よみ。 三輪と三本(足・柱)とは関係なかったのか。
埼玉県の高麗川(こまがわ)の写真だったと記憶していますが、ナントカ大将軍と書いた二本の柱が立っていました。鳥居はやっぱ門柱からの造作でしょうね。このごろの高層マンション入り口に建てられているオブジェみたいな、将棋の駒を連想させる金属の門……どうしてもおらは「墓場に連なる暮らし」を意識しちまうんだがなぁ。
 ま、それがほんとうと言えばほんとうだが、あんまし縁起よくねぇよなぁ。

 ひふみさん「たいとう」あが。タイ米(稲……とう)ではなかろうか。cf, 薩摩芋はとう(唐)芋。
 七戸のなんという遺跡だったかはボケ忘れましたが、3000年前です。
 おらは35組内外のシナでの敗残軍がネパール語をしょって日本列島に上陸した……を方法仮説にしています。いろんな品種のコメが持ち込まれたことでしょう。

 てつあにぃ、「未籾(ミモミ)」は形容詞後置形の「赤い実……赤コメ」にしかならねぇ。

 いま流れている用語(ヒヌマ・有馬・ヒバラ・川上・諏訪・島津など)、下記で語源分解してみました。来い来い。
  語源やりまくる ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


マルヤ Hp 参拝したい神社 H13.3.11

ひふみさん、マルヤです初めまして。
情報ありがとうございます。教えていただいた神社の内、
●京都府中郡丹後半島の峰山町にある比沼麻奈為(ヒヌマナイ)神社
●出雲 須賀神社の奥宮
●熊野有馬の花の磐と産田神社
●熊野新宮の神倉神社
●三輪山の檜原(ヒバラ)神社
この六社は未だ参拝したことが有りません。何時か是非行ってみたいと思います。
比沼麻奈為(ヒヌマナイ)神社はやはり天女伝説が有るのでしょうね。
私は吉野生まれで、特に丹生都比売と神功皇后縁の神社に興味を持っています。それで参拝する神社が偏っているのですが、参拝したい神社がどんどん増えて来ました。
またよろしくお願いします。


kokoro Re[709][705][698]: くず  H13.3.10

前回の「698くず」について補足します。奈良県に土地勘のない人はつまらないかもしれないので、後はもう今回でこの話をお終いにします。

 奈良県のクズ神社、28社の一覧は以下の通りです(祭神の高オカミ神の「オカミ」は、本当は「雨」という字の下に「口」を横に3っ並べてさらにその下に「龍」と書くのですが、ウ〜ン出ません。※マークで「○○神社境内社」としてあるのは合祀されてその神社の境内に祀ってありますよという意味です)。以下、特に断らない限り出典は「奈良県史 5 神社」です。
 1 国栖神社(?)    奈良市南田原町字天満一四一五 ※天満神社境内社
 2 九頭神社(天手力男命)奈良市広岡町字林ノ垣内二二一
 3 九頭神社(天手力男命)奈良市西狭川町八九四
 4 九頭神社(九頭神)  大和郡山市小泉二三三三    ※小泉神社境内社
 5 九頭神社(建御名方神)天理市下仁興町垣内四一
 6 九頭神社(建御名方神)天理市苣原町山内三七六
 7 葛神社 (竜頭大神) 天理市南六条町コモイケ三七四 ※杵築神社境内社
 8 葛神社 (葛大神)  天理市荒蒔町法田一九四    ※勝手神社境内社
 9 九頭神社(建御名方神)天理市長滝町長滝三〇一
 10 九頭神社(正勝吾勝々速日天忍穂耳命・栲機千々姫命)桜井市下字九頭子
 11 九頭竜神社(天忍穂耳命・栲機千々姫命)桜井市倉橋字森本
 12 九頭神社(九頭大明神)桜井市萱森字弥寿垣内
 13 九頭神社(高オカミ神)山辺郡都祁村南之庄字垣内四八五 ※国津神社境内社
 14 葛神社 (出雲建雄神)山辺郡都祁村藺生字上の宮一
 15 葛神社 (気咲戸主命・天津児屋根命)高市郡阪田七三六
 16 葛神社 (天照大神) 宇陀郡榛原町山辺三字杵湯川
 17 屑神社 (衝立舟戸神・道友神)宇陀郡大宇陀町嬉河原字宮ノ前一七四
 18 九頭神社(衝立舟戸神・道友神)宇陀郡大宇陀町宮奥字宮谷四一六 ※亥神社境内社
 19 九頭神社(建御名方神)宇陀郡大宇陀町牧字宮ノ尾三二〇
 20 九頭神社(建御名方神)宇陀郡菟田野町上芳野
 21 九頭神社(高オカミ神)宇陀郡室生村無山字宮山五四二
 22 九頭神社(天児屋根命・高オカミ神)宇陀郡室生村多田字南浦三七〇
 23 九頭神社(高オカミ神)宇陀郡室生村下笠間字モリ七五二
 24 国樔神社(石穂押別命)吉野郡吉野町入野字宮ノキク一四二
 25 国栖神社(久斯之神) 吉野郡吉野町色生字宮ノ前四八三
 26 葛神社 (天手力男命)吉野郡大淀町鉾立字宮山五三
 27 葛上神社(天手力男命)吉野郡大淀町岩壺字谷ノ宮六六八
 28 国栖神社(石穂押別命)吉野郡下市町阿知賀一六九四

 それから、もう一度見直して以下の4社が落ちていたのに気が付きました。
 29 国樔八坂神社(速須佐之男命・石穂押別命)吉野郡吉野町南大野字竹ノ鼻一六七
 30 久須斯神社(大木上之神)吉野郡吉野町三茶屋字庵垣内一四三
 31 葛上白石神社(道俣神・岐戸神)吉野郡吉野町千股字上垣内七一四
 32 元葛上神社(道俣神・岐戸神)吉野郡吉野町千股字上垣内七一四 ※葛上白石神社境内社

 また、別名がクズ神社だったり、あるいは、かってはクズ神社だったという神社も見つかりました。とりあえず僕が見つけた範囲では以下の3社ですが、これは探せばもっと見つかりそうですね。33が戸隠神社で祭神がタジカラオ神とタケミナカタ神であるのが注意を引きます。

 33 戸隠神社 (天手力男命・建御名方神・御年大神)桜井市横柿字宮ノ谷四一九 ※旧名「九頭神」
 34 高オカミ神社(高オカミ神)桜井市萱森字清水山(九頭神山)七六二 ※旧名「九頭神社」
 35 高オカミ神社(高オカミ神)桜井市和田字宮山一六四 ※別名「九頭大明神」

 こうして名前が変わってしまったというのは、結構速い時代にクズという神様がどういう神様だか誰にも分からなくなっていたということではないでしょうか。ただし、そうした中でも、どうもクズの神様は祈雨神で岩石に関係があるらしいという観念だけが長く保たれてきた感じがします。

 以上の中で磐座があるのは、僕に分かっている範囲では10、11、12、33だけです。現地に行けばもっと見つかるのかもしれませんが思ったより少なかったです。
 僕が行った桜井市の2っの九頭神社というのは11と12で、行ったのは6〜7年前です。いずれも本殿がありません。11はボロボロの木の鳥居があって、あとは注連縄をしたご神木と岩石だけという神社でした。磐座の石組みは日本庭園のご先祖様と考えられていますが、確かに何となくセンスを感じさせるものもあります。しかしここの磐座はただ石が並べてあるという感じで、しかも付近にこの磐座の一部だったと思しき岩石が学校の花壇の縁石(だったと思うのですが…)等にたくさん利用されていました。とにかくむやみに石が多いのです。それを見て「ヨリシロではなく岩フェチでは?」と感じた次第です。また、33は比較的近い場所にあり、しかもかって現在地よりも660m下方の巨岩の上にあったと何かで読んだ覚えがあります。ここは探しに行ったのですが見つかりませんでした(ただし、付近からの見晴らしだけはチョー素晴らしくって、山辺の道や箸墓一帯が一望になるおススメの穴場です。ぜひカメラをお忘れなく)。12は瑞垣の中に本殿の代わりにいくつかの岩があるという神社でしたが、一番、驚いたのは拝殿左手のバカデッカイ岩の露頭でした。

 「吉野郡の国栖の本拠地周辺」の「巨岩祭祀の痕跡がある神社」については『奈良県史 5 神社』や吉野郡各自治体の郷土史、あるいは『式内社調査報告 第二巻 京・機内2 大和A』『日本の神々 4 大和』の「川上鹿塩神社」の項をご覧下さい。

 その他にも調べていて、19がある宇陀郡大宇陀町の上竜門地区には、祭神が磐押開命で背後には巨岩が屹立している岩神社をはじめ戸隠神社が2社ある等、色々興味深い発見がありましたが長くなるのでこの辺でやめます。興味のある方は調べてみて下さい。

 習志野のてつさん、ごめんなさい。締め付ける金輪は見つかってました。うっかりしてました。それにしても三内丸山を見ても、縄文ってあれだけ豊かだったのにどうして弥生化したのでしょうか。まぁ気象とか経済活動とか小難しい理屈はいくつも考えられそうですが、「オラァ縄文の方が楽しいが若い衆が弥生にしたいって言うんならしょうがあんめぇ、勝手にしろっ。だけど岩神様とお柱様をお祀りするのだけはオラ、ゼッテェ止めねぇかんなっ!!」という縄文様がいたのかもしれません。それが人格神になってミナカタ神が登場したのでは!?←失敬しました。

 山浜さん、岩の話、本当に勉強になりました。ありがとうございます。

 setohさん、都祁村に国津神社が多いというのは示唆的ですね。気が付かなかったです。それにしても海人のネットワーク、タカクラジのネットワーク、太陽の道のネットワーク………古代を探索している途中、こうしたネットワークが現れると袋小路にならないでいつも必ず別の系へ送り届けられる感じがします。そしてその度に興奮を覚えます。

 室生村の海神社(中野)から北へ4〜50分歩くと古大野というところがあり、神明神社があります(もちろん祭神はアマテラスです)。ここはアマテラスが笠縫村から伊勢へ遷座する際に休息した場所と伝えられ、神社は後に伊勢神宮から勧請したといわれています。神社の手前の小川は五十鈴川で、入り口の傍らにある清泉は天の真名井です(泉の中には神座石らしきものがあります)。神社背後の山は岩戸山といい、拝殿の後ろから石段を登ると木製の瑞垣があって、その中は幾分崩落しているものの、扉のような形をした岩の露頭があるだけで本殿はありません。箱庭のようなあまり大きくない神社ですが周囲の高燥な雰囲気と相まって、行くと身も心も洗われる気分になります。しかし今では僕はこの神社が、もともとクズの人たちの聖地で、祭神も九頭竜神かタジカラオ神だったのでは、と考えています。それが岩戸に似た磐座と倭姫命の伝承への附会から神明神社になったのではないでしょうか。境内の石段や石灯籠には年記と共に「雨降」の語があり、雨乞いが成就したので寄進したらしいことから祈雨神としての性格もうかがえ、クズ神社との類縁姓を感じさせます。この推測が正しいとすれば、海人とタカクラジ(磐座)と太陽の道のネットワークがたまたまこの小さな神社で交錯したのだと思われます。


ひふみ Re[718]: 私の好きな神社  H13.3.10

そんなにあちこちは、お参りできてはいないのですが、何故か気になって、今でももう一度行ってみたい神社を、御紹介します。

1.京都府中郡丹後半島の峰山町にある比沼麻奈為(ヒヌマナイ)神社。         久次岳の麓宮になります。マナイ神社といえば、籠神社の方が有名ですが、私としては、こちらの方が、清々しく感じられました。あまり、人がいなかったせいでしょうか。
帰ってきてから、気が付いたのですが、ホツマツタエの方では有名な神社だったのですね。 (ホツマでは、アマテル・トヨケがカミアガリ(入寂)した所だそうです)
ちなみに、奥宮のある久次岳には、巨石(磐座)がごろごろあるそうです。
三輪山と同じような雰囲気かもしれません。一度登ってみたいです。

2.出雲 須賀神社の奥宮
普通、観光案内でいわれる須賀神社とは、ちょっと離れて山の中、道路からは15分位歩いた所にあります。大きな磐座が3つあります。とても強い場所でした。

好きな神社としては、
熊野有馬の花の磐と産田神社
熊野那智の飛瀧神社
熊野新宮の神倉神社
三輪山の檜原(ヒバラ)神社
十津川の玉置神社 等 
伊勢神宮や出雲大社はやはり別格です。
どちらかというと、縄文志向でしょうか。(気が付けば、磐座が多い)

丹生川上神社下社も、近いので良く行きます。  
天河神社も、旧社は好きだったのですが・・・。
何れの地も、気持ちを新たにさせられます。
まだまだ、行ってみたい所はいっぱいありますね。(不思議の国 日本!)


マルヤ Hp 参拝してみたい神社 H13.3.10

>神社の印象はたどりつく苦労や天候にも左右されますね。
確かにその通りで一概に言えないですよね。でもsetohさんが書かれたような表現にしてもらうとよく分かります。ありがとうございます。
この八社の中では熊野本宮大社以外はお参りしておりません。
華美な三船神社は以前に教えていただいた神社ですね。まえにsetohさんのメッセージにあった「五十猛神と丹生都比売のロマンス」を彷彿とさせるようです。神奈備のページで拝見しただけなので、近々ぜひ参拝したいと思います。他の六社もきっと魅力的な神社と思います。お陰様で今年の参拝目標が出来ました。
やはり私は女神の御坐す神社からお訪ねすることにします。ありがとうございました。 


Setoh Re[718]: 私の好きな神社 H13.3.10

神社の印象はたどりつく苦労や天候にも左右されますね。

荘厳 熊野本宮大社
壮麗 等弥神社 桜井市桜井1109
雄渾 神倉神社 新宮市新宮
質実 豊日別宮(草場神社)福岡県行橋市南泉
華美 三船神社 那賀郡桃山町神田
華麗 高倉神社 三重県上野市西高倉
衰亡 伊太祁曽神社 岐阜県大野郡丹生川村大字池の俣字口川ばた
調和 養父神社 兵庫県養父郡養父町市場

あらたな神社へ参詣するとまたそこが素晴らしいと思いますね。


習志野の てつ Re[717][711]: 紀氏との関連? H13.3.10

> 伊勢国風土記逸文とされるなかに登場する伊勢津彦がポイントです。
> 天日別(度会氏の祖)に敗れ伊勢を国譲りして信州に移った人物。
> 猿田彦同様の近代化縄文系と推定(^^; 
> 建御名方の諏訪入りより150年ほど昔とみています。
 すいません。出来たらもう少し詳しく教えて下さい。

> 島津国造と伊勢津比彦は出雲臣系譜。
 すいません。これも出来たらもう少し詳しく教えて下さい。

> 九州島津は秦系の出自とされますが、島津氏は伊勢も所領とし信州
> にも飛び地として所領があった。
> 牛嶋の御祭神はスサノオ(出雲神族系の祖)と天孫の天穂日(出雲臣系の祖)
 ・仲をとりもつ三輪鳥居(^^;
 これは少し無理筋かと。牛嶋は牛を飼っていた官牧で・・・と由来書きに有りました。
 むしろ、牛からの連想で祭神がスサノオさんになったのでは? 

> 守矢氏だそうで、未確認ですが紋所は丸に十の字(^^;
> 南九州に諏訪神社がある理由は島津氏が運んだものか・・
先日カキコしました南方神社 ずばり  島津さんの勧進でした。
何故、島津氏が?と疑問に思ってました。
また調べるテーマが増えました。もー大変  有難うございます。


Setoh Re:熊野行 H13.3.10

ひふみさん 投稿ありがとうございます。熊野、有馬、よかったでしょうね。
> かたや、食の女神が生れてすぐ殺される火の神。かたや、食の女神が殺された後生まれ変わる火の神。私としては、カグツチノミコトとスサノオノミコトが表裏の様に思えます。

 面白い見方です。国生みの後、家屋の神、海、水門、風、木、山川草木、霧、穀物、火などの神が生まれます。ここまでの神々は漁労、採取、焼き畑などを連想する神々にも見えます。【縄文的】
 次ぎに、イザナミノ命は死にのぞみ、鉱山の神、埴土の神、水神、生産力の神を生みます。湿地帯の開発、水耕栽培の普及を思わす神々の登場とも見えます。 【弥生的】
 記紀が編纂された7世紀頃の人々の頭の中には、まつろわぬ国や離れ小島、山奥での生活を原始的なものと見て、これを縄文的なものと見ており、平地での水耕農業をより進歩したものと見ていたのではと思っています。
 食の女神を殺した後に、穀物の種がとれる話は東南アジアにも多いそうです。
カグツチノミコトが殺されて、金属製錬、武器制作、また、さまざまな山津見の神の誕生は、それこそ火山活動やそれによる造山を思わせます。
> スサノオノミコトが記紀上で、百番目に生れた神様
これは面白いですね。古事記上?


ひふみ :追記・熊野行  H13.3.10

てつ様、紋次郎様、ありがとうございます。
さて、紋次郎様のお話の中で、「クマ(神米)」というのがありました。
先ほど届いた熊野市の方からの資料によると、産田神社の神田では、他のどこからも発見されていない「たいとう」という赤米が太古の昔から大正時代まで作りつづけられていた、そうです。
九州ルートで入って来たといわれる一般的な日本米より、ずっと細長い粒でより野生種に近いそうです。
産田の名の由来は、田んぼが生れたという意味もあるそうです。
黒潮の流れに乗った別ルートがあったのかもしれませんね。


マルヤ Hp 私の好きな神社 H13.3.10

神社好きの神奈備ファンの皆様、どなた様も自分の故郷の神社には特別思い入れがあると思いますが、今まで参拝された中で故郷の氏神を除くと、一番感銘を受けた(心に残る)、好きになった神社は何処の何神社でしょうか?
伊勢神宮は別格ですが私が一番印象に残っている神社は京都府加佐郡大江町の元伊勢内宮「皇大神社」です。その霊気が漂うような厳かな神域は何か特別の感が有ります。ピラミッドそっくりの日室岳、近くには元伊勢外宮もありました。
二番目はやはり丹生川上神社(下社)。三番目は丹生都比売神社と続きます。
神奈備ファンの皆様は如何ですか。
setohさんは伊太祁曾神社を別にすると何処の神社が好きですか。よろしければ教えてください。
私はどうも根っからの助平なのか、どうしてもアマテラスさんやニウツヒメさんなどの女神をお祀りする神社になってしまいます。


かたばみ Hp Re[711]: 紀氏との関連? H13.3.10

setohさん、ごぶさたです。
stanさんとはdoit yourselfといった趣旨のパソ通時代が共通項で、サクラの語源とか鳥居をきっかけにして歴史も自前で作り始めたのであります(^^;
(牛嶋神社の三輪鳥居に関しては後日古代で遊ぼにアップ予定)


3本足鳥居は現物が残っていたんですね(^^)
牛嶋の三輪型鳥居は神仏習合のなかから生まれた新しい社だと思いますが、その背景が興味深いところです。
貞辰親王は、文徳天皇、応天門の変、清和源氏の誕生などの動勢のなかの人物。
その流れのなかに紀夏井も登場します。
やや風が吹けば桶屋ですが、清和源氏、島津氏、諏訪大社・・関連に注目しています(^^;

伊勢国風土記逸文とされるなかに登場する伊勢津彦がポイントです。
天日別(度会氏の祖)に敗れ伊勢を国譲りして信州に移った人物。
猿田彦同様の近代化縄文系と推定(^^; 建御名方の諏訪入りより150年ほど昔とみています。

島津国造と伊勢津比彦は出雲臣系譜。
九州島津は秦系の出自とされますが、島津氏は伊勢も所領とし信州にも飛び地として所領があった。
牛嶋の御祭神はスサノオ(出雲神族系の祖)と天孫の天穂日(出雲臣系の祖)・・仲をとりもつ三輪鳥居(^^;

諏訪明神絵詞によれば建御名方と戦った先住者の子孫が守矢氏だそうで、未確認ですが紋所は丸に十の字(^^;
南九州に諏訪神社がある理由は島津氏が運んだものか・・
島津の根本は志摩津・・などなど。


かたばみ Hp Re[707]:   ミナシャァ〜〜ン おめでとう!!  三本足の正体が出たぞ H13.3.10

焼尻紋次郎 さん、はじめまして。
≫ミワは「倭の神」からゴロ合わせ(ことだま)で「三つの神」
ミワが飛鳥奈良時代あたりでの地名(社名)ならありえるかもしれないですね。
強いて3元素にわけるのであれば、私は近代化縄文(^^;、半島系渡来者、中国系渡来者、とするかなあ。
倭は夷のうちの稲作を糧にする人々の中国王朝側の表現で、少なくとも弥生時代では氏族でも地域でもなく、上記3者どれもが倭とされ得たと考えています。
≫三輪鳥井というのは三本柱の鳥居の通称なんですか
鳥居の研究/根岸栄隆/厚生閣(昭和17年/昭和61年復刻版)のみが私の資料でして、古本屋の親父が鳥居に関してはこれが唯一最良、というので入手しました。
以下はその引用です。
鳥居の形式名に定まったものはないようですが、三輪鳥居は大神神社の形を基準としているようです。
三輪鳥居は3本足ではなく4本足です。絵はキャラ絵でもわかると思いますので以下を参照ください。

○は補助柱 ●は主柱 =は主笠木

○−−●=====●−−○   上から見た図 

  ========= 
   |−−−−−|      正面からの図
−−−|     |−−−
|−−|     |−−|
|  |     |  |
|  |     |  |

両部鳥居は以下で6本足。厳島神社、富士浅間神社(1480、木製最古)、敦賀気比神宮など。
   ○     ○
   |     |
  =●=====●=
   |     |
   ○     ○

3本足の鳥居もあって「京都太秦木ノ島神明」の末社の「蠶之宮」(蠶はカイコの意)が紹介されていますが特殊例のようです。
社名からするとsetohさんの書かれている蚕社の三角鳥居がこれのようです。
「小石を積み重ねて幣束を立て、その上に跨るように三柱鳥居がたっている」とあり、著者は鳥居というより神籬ヒモロギであろうといっています。

     ●
    / \
   /小石 \
  /  小石 \
 ●−−−−−−−●
 
昭和2年に千葉の稲毛にもありの情報で実見したところ「ゴンダラ様」として海神を祀っていたそうです。
崖からわき水のでる場所にあり、老婆に由縁をたずねたら「ワケもなにもない、ありゃあ大工がデタラメやったモンだあね」・・だったそうです(^^;
そういう大工さん好きです(^^;

以下三輪型鳥居誕生の空想。
弥生の集落、その囲いや門は人間のための柵と出入り口。
集落の主→祖先神、住まい→神殿、柵→玉垣、門→鳥居、これが洗練されて祖先神系の神社の基本様式となっていった。
鳥居も丸太を組んだだけの最もシンプルな形態の神明型の鳥居が伝統となります。
御陵墓などに用いられているタイプです。

対して、自然との対話を本質とする場合は住まいも柵も門も不要。
山野や海に象徴となるものがあるだけで十分だった。

はるか時代が下って、密教の高僧が唐で学び、そして神仏習合の流れが生まれる。
自然神を祀る場合にもその流れが押し寄せます。
鳥居をもたなかったゆえに、三輪型や両部型といった近代型が設計されて用いられた、と考えています。
最古ゆえに最新型となったわけです。


マルヤ Hp 出雲わらべ歌 「ネコにゃんにゃん」 H13.3.10

いきなりですが、古い童歌を一つ。 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」

出雲にゃんにゃんのん 出雲にゃんにゃんのん
出雲にネコがいーたそうな にゃんにゃんのん・・・ 
神様がかわいくて ネコ ネコ ネコと呼ぶ、
にゃんにゃんのん・・・ ・・・

ネコは喜んで神様にいい よい踊りを見せよと踊る
にゃんにゃんのん、にゃんにゃんのん
神様手たたいて ほめてほーめて おだてておだてて
にゃんにゃんのん にゃんにゃんのん神様一緒に踊り出す
にゃん ・・・ にゃんにゃんのん・・・

ここは良いとこ出雲の神社の前で、
そのひろっぱにネコじゃじゃ ネコたんとたんと集まって
神様と踊る にゃんにゃんのん にゃーん
にゃんにゃんのん にゃん ・・・にゃんにゃんのん 

みんなおいでよ おいでよ集まってネコじゃネコじゃと踊る
踊る 踊るほどよけれ。踊るほど いいじょ いいじょ・・・ 
なんでも下手でも なんでも下手ら一緒に ネコと一緒に
じゃじゃ じゃじゃ じゃじゃ 踊れば
神様みんなよってきたって踊り出す 
にゃんにゃんのん にゃんにゃん にゃんにゃんのん ・・・
にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん 

これはある方に教わった歌ですが、古いと書きましたが本当に古いのかどうかも分かりません。
この歌を島根県の出雲大社前の竹内旅館(歌手竹内マリヤの実家)での宴会で私が歌った事があるのですが、地元の民謡保存会の人も、宿のご主人も女将も知らない、聞いたことがないと言われるのです。
私が教わったのは振り出しの部分だけで、二番三番・・と続いている云います。あるいは島根県の出雲大社ではなく、京都府亀岡市の出雲大神宮に因んだ童歌かも知れません。
みんなで手をたたいて囃し立てるような本当に愉快で楽しい歌なのですが、この歌の続きをご存知の方、またこのような歌をご存知の方おられましたらお教えください。
実は教えた当人もご存知ないのです。


焼尻紋次郎 Hp 古都の夏 卍の目を捜せ  H13.3.10

ひふみさん、アマカネ。てつあにぃもアマカネ。カタカナで神様の名前書いてくれるので、読み続けるうちにはおらのボケあたまにも、少しづつ蓄積のこれあらむか。
去年、サンフラワー号で海から熊野にはいるとき、卍模様が見えるという情報がはいりました。おらよりもボケた古代語研究者が「まちがいなし、おらもテレビで見た」と証言したので、てっきり岩の層にできている自然の卍模様が見えるのだなと思い込んだのでした。その正体はバス会社が建てた看板でしたが、この情報にはいたく振り回されました。

 サンフラワー号で海から熊野にはいるとき、あちこちに瀧がみえるという情報もオドロキです。去年の時点ではおらは驚かなかったと惟ふのです。ナァ〜ンデカというと、このごろになってのおらの偏見では「竹・瀧」が足切り偏執(文化)の範疇に入ってきたからです。瀧は岡山県久世町に垂水(タルミ)とあるように、この日本列島広くタルミだったのですが、いつのまにか“タキ”が広まったのです。その起爆の地こそ熊野だろうと惟ふのです。クマ(神米)や鈴木……その他モロモロの現代日本語が熊野で造語されている……みたい。
垂直に落ちる瀑流の下に立つ行(ギョウ)こそ垂水(jal=水、mi=神)の足きりだったろうと惟ふのです。あ、水は古代ではイノチを溶かしこんでいる物でした。直射日光が当ると七色のイノチが飛散ります。ひと昔前までの日本人は「おらたちのイノチはこんなに美しいものだ」と実感できたのでした。現代人あわれね。

 ひふみさん、モーレツなこと言やはった。『諏訪の万次の石仏』ざんす。石仏……となっているが諏訪(Swa=神)とある以上はこれ神道系だ。マタギの始祖万治万三朗カネ。
オオクニヌシは計13の別名を持っていますが「ダイコク」さんは紀記、うえつ、サンカには登録されていません。ナァ〜デカ。それはネ*da(柱)ik(一つ)ok(目)で柱のてっぺん部分に描かれた一つ目……卍模様だったから。オ・レイ!
すまへん、これまだ、おらの直感〜思い込みの領域ざんす。ミナシャァ〜〜ン、お力添えアマカネ。
発掘されるべきナゾの地は伊那市の東、高遠町(旧高遠藩)。すぐ南は長谷(badsaha……王)村だ。崖に卍の神目が見られるはず。 √いざ征け さらば ますらをよ 西風深き 古都の夏  足が立つひとぜんいん往くべし。
着物のすそひっからげてクマリ泊瀬女ちゃんもケッケムクリ(豊後弁; いっしょけんめい)卍の目カネ。アマカネ
   キチガイの館 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


習志野の てつ Re[712]: 熊野行  H13.3.10

> 海上より上がる朝日と、熊野連山の上に浮かぶ満月が、ちょうど一直線に対峙する、素晴らしい朝でした。熊野の地は海より見ると、あちらにもこちらにも滝が見え、まさに神々が降りたもう所に思えました。 

拝見し、私もぜひ海から行ってみたくなりました。他にも色々なヒント、有難うございます。いつもですが、自分の知らないことが何と多い事か、実感します。

ー「日本火之出初之社(ヒノモトヒノデゾメノヤシロ)」スサノオノミコトと火の関係ー
熊野大社のHP見に行き、『「亀太夫神事」かめだゆうしんじ』読みました。  http://www.web-sanin.co.jp/local/yakumo/ya25-2.htm
まさに舅にいびられてる婿さんと言った感じで面白いですね。


ひふみ 熊野行  H13.3.10

3月3日、熊野へ行ってきました。
今回は、10年前のお礼参りも兼ねています。
平成三年三月、安房から紀州へ引っ越す時、ふと思い立ち、神武天皇よろしく海から紀州へ入ろうとサンフラワーに乗り、宇久井港より熊野へ上陸しました。
海上より上がる朝日と、熊野連山の上に浮かぶ満月が、ちょうど一直線に対峙する、素晴らしい朝でした。熊野の地は海より見ると、あちらにもこちらにも滝が見え、まさに神々が降りたもう所に思えました。 
その時は、熊野古道も含め、ひたすら歩ける所は出来るだけ歩き、熊野を堪能させて頂きました。その後、縁あってこちらで結婚して家族をもつ事になりました。今は、奈良の地でおります。
今回は、残念ながら、子供が途中熱を出したりしたので、有馬の地と那智しかお参りできなかったのですが、友達が熊野にいるので、又、熊野詣でが始まりそうです。

さて、もともとは、「あさもよし掲示板」の方で始めた話なのですが、その後、こちらのサイトにて、熊野の話題が何度も出ていたので、こちらに投稿を移させて頂きます。

setoh様に教えて頂いたように、参考資料を探しに熊野市の図書館へ行ってみました。
他、歴史資料館等も行きましたが、資料を探すのならやはり図書館が一番でした。
残念ながら、今回は時間がなかったのですが、古い資料がたくさんあって面白そうでした。次回が楽しみです。

さて、元熊野の話ですが。日下様とsetoh様のお話と合わせて考えまするに、有馬氏はやはり大陸から流れてきたのでしょうか。出雲から入り、一部が紀州へ海沿いに移り、熊野において、熊野川を渡らずに本宮へ上がったものか、有馬の地まで行き、その後、本宮へ移ったものか。

最近読んだ本、西宮紘さんという方の「縄文の地霊」という本の中に、スサノオノミコトとカグツチノミコトの類似性が、指摘されていました。
カグツチノミコトを火の神とすれば、スサノオノミコトは火山活動を表わすというのです。(高天原追放等)私としては、もう一歩進んで、出雲の熊野大社の伝承で出てくる炭焼きの話か、やはり出雲という事もありたたらの話などとも関係があるのだろうか、などとも思ってしまいます。
出雲の熊野大社が、別名「日本火之出初之社(ヒノモトヒノデゾメノヤシロ)」といわれるように、スサノオノミコトと火の関係は、見逃せません。

又、記紀上で、カグツチノミコトが生れる直前に生れているオオゲツヒメが、スサノオノミコトの高天原追放の前に殺されているのも、気になります。
かたや、食の女神が生れてすぐ殺される火の神。かたや、食の女神が殺された後生まれ変わる火の神。私としては、カグツチノミコトとスサノオノミコトが表裏の様に思えます。
熊野本宮の大斎原のように、とても母親的女性的な形の地に、スサノオノミコトを木の神としてお祭りしたのは、火伏せと共に、生まれ変わりの祈りも込められていたのかもしれません。
記紀上で、最初に殺された火の神は、熊野において祭り直され、鎮められ、生まれ変わられたのでしょうか。
花の窟に百合と桃の花を御供えしながら、そんな事を思ってしまいました。

有馬の方の話では、王子の窟というのは、花の窟境内にあるカグツチノミコトをお祭りしている巨石の事をいうのだそうです。(諏訪の万次の石仏に似ています)ここが、本来、熊野九十九王子の始まりではないかとも言われているそうです。
スサノオノミコトが記紀上で、百番目に生れた神様という事を考えるとちょっと面白いですね。


setoh  H13.3.9

山浜さん、早速にありがとうございます。
> 花崗岩は直交方向の割れ目が入りやすすい
例の沖縄の海中遺跡らしきものも自然の働きかもしれませんね。

かたばみさんと stanさんとは 同いうご関係? 投稿ありがとうございます。

三輪鳥居、H13.1.10のあかがねさんカキコ参照ですね。
坐摩神社(いかすり)古社ですが、今となっては鳥居の由緒は不明だそうです。
北畠阿倍野神社 明治十五年一月、阿部野神社と号して創立、祭神は北畠親房、北畠顯家
名古屋市中区大須の三輪神社 創建は凡そ四百年以前
東京亀戸天神内花園神社 亀戸天神は正保年間(1,644年〜)
香具山の天岩戸神社

 北畠一族は南朝の忠臣で、これに秦氏が見方しています。忠誠心旺盛な所を見ると秦氏の血をひいているのかも。後に阿部野神社の創建に秦氏が関与しているのでは。

 秦氏と言えば香春岳、やはり三輪鳥居は香春岳の形を遷したものかも知れませんね。
理由1. 大和三輪山にはthreeのコンセプトは見えません。三輪山の「三」は全く別の「三」が持ち込まれたものでしょう。
理由2.大神神社の三輪鳥居のまっすぐな方向に三輪山頂上はなく、巻向山、三輪山の頂上を結んだ線上にあるのです。大神神社はこっそり兵主神を祀った元社を祀っています。兵主神、日矛、秦氏、香春岳とつながります。

 三輪=三柱=三足を三大豪族(出雲、陸倭人、海倭人)統合の象徴と見る紋次郎史観は興味深いのですが、三貴子や住吉、宗像の三神など、三が好きな国民性でしょうが、この国の成り立ちはもっと復層したようにも見えますね。
 三次元世界では、三輪車が走らずに倒れない最低限の車輪数です。
三輪鳥居を折り畳めば蚕社の三角鳥居、これは大和三山の形って・・散々な目にあいそうですね。

> 貞辰親王(清和天皇の第七子)はここでなくなられたという理由があるようで、紀氏との関連もみえるか?
紀氏との関連??? 紀の国の出ながら思い浮かびません。
慈覚大師もしくは弟子の良本阿闍梨に紀氏との関連がみえるのでしょうか?


山浜  磐座について H13.3.9

すみません、だいぶの間冬眠しておりました。
磐座祭祀についてはあまり詳しくないのですが、一言でいうと、岩石の風化状況によってできた奇岩に対して神を見たというべきなのでしょうか?。
たとえば、花崗岩(御影石)などの深成岩が分布している地域には、不思議な形をした石塔や真っ平らな岩盤などが多く出現します。なかには、だるま落としのようにサイコロ状の岩石が高々と積まれてあったりする不思議な光景を目にすることがありますが、現代の工事技術でも到底不可能な巨石が不思議な形で積まれております。これをみたら、ほんとに神様の力の顕現とあがめてしまうのではないでしょうか?三輪山にも花崗岩などの深成岩がたくさん出ておりますね。
これらは岩石の風化が起こる時に起こる自然のいたずらといえるもので、岩盤に発生する亀裂面や節理面(岩石に生じる規則正しい割れ目)などに降雨や表流水がしみこみ、その部分が土砂化されていく課程で岩石部分が切り出され、巨岩として残ったためなのです。特に花崗岩は直交方向の割れ目が入りやすいので、風化するとサイコロもしくは直方体状の巨岩となります。したがって、岩の面についていえば、その岩が移動してない限り断層帯や節理帯の方向を示すことになります。また、岩石からわき出す水を「裂か水」とよび、それは岩盤の割れ目や断層破砕帯に貯まった地下水が湧出するものです。そのほか溶岩も冷えるときに柱状の割れ目がたくさんできます。やはり裂か水がでます。岩が水を呼んでますね。つたない説明ですみませんです?


setoh Re[705][698]: くず H13.3.9

 kokoroさんのクズ神社の御調査努力に敬服いたします。思い立って調べられて、その筋が出てくる、ゾクゾクしますね。実に快感ですね。成果のご披露感激しています。

それから
神の観念 物神→霊魂→人格神
時代変化 縄文→弥生→古墳 の対比への発想は慧眼だと思います。

 また「クズ」を王権から見た縄文的生活者一般への呼称とされる見方は同感です。

 紀伊続風土記の名草郡朝椋神社の項に「郡中九頭ノ神多くして唱へ・・」とあり、また都祁村の葛神社の由緒書きに「都祁地方には九頭・国津を称する神社が多く、国津神を祭神とし同時に祀雨神ともなっている。」と出ています。このクズは更に国主、栗栖などにも変わっているかも。大国主命が祀られている神社も要注意ですね。

 kokoroさんの「岩を依代でなく、神と崇める」発想ですが、岩そのものには実用的メリットはありませんが、岩が水を呼ぶとか、水の流れがあって岩がむき出しになるとか、伏流水の通っている場所を示すとか、何かあるのでしょうね。<山浜さん help us>

 南紀信仰の原点は、やはり磐座を祀るもので、後に矢倉神社となり、高倉下が祭神になりました。現在矢倉の名を持つ神社は僅かになっていますが・・。

 高倉下は宇陀に多い祭神です。都祁−柘植間の上野にも立派な高倉神社が鎮座しています。この高倉下は海部氏・尾張氏の祖神として現れます。尾張、高尾張邑、葛城山系がルーツではとの説があります。面白いのは建御名方神を祀る神社8座の内、2座が鴨都波神社、葛木神社と葛城山系にあります。海の民が建御名方神を持ち込んだ可能性もあります。室生郡には海神社が2座もあり、由緒にも「古来当地に海人族が移り住んだ」とあります。

 また建御名方神の2座は吉野郡大淀町の天髪(王)神社です。この吉野と宇陀の接点の吉野町三茶屋に久須斯神社(くすし)が鎮座し、祭神を大水上神、久須之神、天照國照日子火明之神としています。ここで大宇陀町牧の九頭神社の祭神が九頭大神、由緒に、建御名方神(久須斯神)をお祀りしていると出てきます。
建御名方神−海人−九頭がくるりと回りました。

 桃尾(もものお)村の隣に針之尾(はりのお)村がありました。針は尾張を思わせるのは、備前の国の式内尾針神社で祭神が天火明命ですね。磐座で有名です。

 磐座のネットワークは南紀から吉野宇陀都祁柘植と連なり尾張を通って諏訪まで繋がっていたのでしょう。縄文、サンカ、海部、修験道を連想しますね。

大和郡山市小泉町の小泉神社に摂社九頭神神社「九頭神明神」がありましたね。


習志野の てつ Re[705][698]: くず  H13.3.9

>  タケミナカタ神は国津神の代表選手ですし、人気があるので附会される機>会が多かったのではないでしょう。
…大賛成です。でもスサノウさんのような
>たたり神でもなく、ただ信濃開拓に尽力しただけで、何故こんなに人気があるのか?
個人的には《力はあるのに敢えて争そいを避けた》点だと思ってます。

見つかったはずですが?
> 紋次郎さん、締め付ける金輪は出なかったのですよ。…
『てつノート』私の覚え書き−既に出典不明−どこかのHPのコピーです。
7 柱の構造をうかがわせる大型のくぎや鎹、帶状金具などの鉄製品の出土
 柱の上面から本殿建築に使用されていたとみられる大型のくぎ、鎹などが出土した。
くぎは角針で断面約2cm四方と非常に太く、最長のもので長さ40cm以上である。
帶状の金具は幅7cmで、欠損しているが最長27cmであった。
8 柱がすべて赤く塗られていたことの判明
 いずれの柱材も表面に赤色の顔料がわずかに付着しており、柱がすべて赤く塗られていたことが明かとなった。また鉄製品にも赤い顔料が観察される部分があり、本 殿建築が完成した後で塗彩が施されていたことが判明した。

●この赤い顔料は丹でしょうか?丹生都比売さんとは時代が違い過ぎますが、もし伊勢神宮のように、昔と同じ構造で作っていたら、昔の建物は丹生都比売さんの一族の丹が使われていたのかもしれませんね。


焼尻紋次郎 Hp ミナシャァ〜〜ン おめでとう!!  三本足の正体が出たぞ  H13.3.9

* かたばみさん、三輪鳥井というのは三本柱の鳥居の通称なんですか?
  東京にお住まいのご様子ですので、厚かましくお希いします。上からみた図……と、普通にみえる手描きイラストをファクスで流していただけませんでしょうか。おらのパソコンはマッキントッシュで、また、キカイ・オンチのため、写真送付などまったく開くことができません。電話 Fax 048ー882ー4901 なんですが……。浦和市です。
ミワは「倭の神」からゴロ合わせ(ことだま)で「三つの神」へと偏執された……が言えそう。「柱はズバリ神」です。 <@>* いまのとこ、おらだけに通用する音転法則なれど「クズ」の原音は「クル」となるはず。サラセッセが酔っぱらわずに言った「クル・ス」とは、ゼッタイ繋がっている筈。
 使用されている名詞、固有名詞だけが真実である。おらはボケちょらんぞ。
   ことばの神酒 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


かたばみ Hp 三輪鳥居 H13.3.9

はじめて書き込みします。よろしくお願いいたします。
以前に大神神社の鳥居の話がありましたので、東京の牛島神社の報告をひとつ。 (墨田区向島1丁目、隅田公園内)
ここには大きく美しい総檜の三輪鳥居があります(昭和17年以前の建立と思われます)。
本殿は南面し、正面に三輪鳥居、本殿左右に明神鳥居が配置され、3方向から参内できるようになっています。
東京のどまん中となったせいか、鳥居をくぐればすぐ本殿正面という広さではありますけど。

860年に慈覚大師勧請によって須佐之男命(+天穂日命+貞辰親王)を祀ったとされるので、直接大神神社との関係はみえませんが、出雲系譜ということでつながっているのだろうと思っています。 (文武天皇時代にこの一帯が牛の牧となっていたことが名の由来とあります)
須佐之男命と天穂日命の合祀が興味深い。
貞辰親王(清和天皇の第七子)はここでなくなられたという理由があるようで、紀氏との関連もみえるか?

鳥居の研究/根岸栄隆によれば、大阪座摩神社、阿倍野神社、名古屋三輪神社、東京亀戸天神内花園神社などに三輪型鳥居があるようですが、昭和17年以前の話で(^^; どれも現況確認はしておりません。
これらの神社にはなにか関連する要素があるのだろうと思っています。

構造としては三輪鳥居は左右補強型、両部鳥居(厳島神社や富士浅間神社など)は前後補強型といったところですが、これにもなにか共通する考え方があるのかも。
なお、現在の牛島の鳥居の左右部分には植栽と簡易な玉垣?があるので通ることはできませんが、昭和17年以前の写真では通ることができるようにみえます。


Setoh Re:熊野行 H13.3.10

ひふみさん 投稿ありがとうございます。熊野、有馬、よかったでしょうね。
> かたや、食の女神が生れてすぐ殺される火の神。かたや、食の女神が殺された後生まれ変わる火の神。私としては、カグツチノミコトとスサノオノミコトが表裏の様に思えます。

 面白い見方です。国生みの後、家屋の神、海、水門、風、木、山川草木、霧、穀物、火などの神が生まれます。ここまでの神々は漁労、採取、焼き畑などを連想する神々にも見えます。【縄文的】
 次ぎに、イザナミノ命は死にのぞみ、鉱山の神、埴土の神、水神、生産力の神を生みます。湿地帯の開発、水耕栽培の普及を思わす神々の登場とも見えます。 【弥生的】
 記紀が編纂された7世紀頃の人々の頭の中には、まつろわぬ国や離れ小島、山奥での生活を原始的なものと見て、これを縄文的なものと見ており、平地での水耕農業をより進歩したものと見ていたのではと思っています。
 食の女神を殺した後に、穀物の種がとれる話は東南アジアにも多いそうです。
カグツチノミコトが殺されて、金属製錬、武器制作、また、さまざまな山津見の神の誕生は、それこそ火山活動やそれによる造山を思わせます。
> スサノオノミコトが記紀上で、百番目に生れた神様
これは面白いですね。古事記上?


ひふみ :追記・熊野行  H13.3.10

てつ様、紋次郎様、ありがとうございます。
さて、紋次郎様のお話の中で、「クマ(神米)」というのがありました。
先ほど届いた熊野市の方からの資料によると、産田神社の神田では、他のどこからも発見されていない「たいとう」という赤米が太古の昔から大正時代まで作りつづけられていた、そうです。
九州ルートで入って来たといわれる一般的な日本米より、ずっと細長い粒でより野生種に近いそうです。
産田の名の由来は、田んぼが生れたという意味もあるそうです。
黒潮の流れに乗った別ルートがあったのかもしれませんね。


マルヤ Hp 私の好きな神社 H13.3.10

神社好きの神奈備ファンの皆様、どなた様も自分の故郷の神社には特別思い入れがあると思いますが、今まで参拝された中で故郷の氏神を除くと、一番感銘を受けた(心に残る)、好きになった神社は何処の何神社でしょうか?
伊勢神宮は別格ですが私が一番印象に残っている神社は京都府加佐郡大江町の元伊勢内宮「皇大神社」です。その霊気が漂うような厳かな神域は何か特別の感が有ります。ピラミッドそっくりの日室岳、近くには元伊勢外宮もありました。
二番目はやはり丹生川上神社(下社)。三番目は丹生都比売神社と続きます。
神奈備ファンの皆様は如何ですか。
setohさんは伊太祁曾神社を別にすると何処の神社が好きですか。よろしければ教えてください。
私はどうも根っからの助平なのか、どうしてもアマテラスさんやニウツヒメさんなどの女神をお祀りする神社になってしまいます。


かたばみ Hp Re[711]: 紀氏との関連? H13.3.10

setohさん、ごぶさたです。
stanさんとはdoit yourselfといった趣旨のパソ通時代が共通項で、サクラの語源とか鳥居をきっかけにして歴史も自前で作り始めたのであります(^^;
(牛嶋神社の三輪鳥居に関しては後日古代で遊ぼにアップ予定)


3本足鳥居は現物が残っていたんですね(^^)
牛嶋の三輪型鳥居は神仏習合のなかから生まれた新しい社だと思いますが、その背景が興味深いところです。
貞辰親王は、文徳天皇、応天門の変、清和源氏の誕生などの動勢のなかの人物。
その流れのなかに紀夏井も登場します。
やや風が吹けば桶屋ですが、清和源氏、島津氏、諏訪大社・・関連に注目しています(^^;

伊勢国風土記逸文とされるなかに登場する伊勢津彦がポイントです。
天日別(度会氏の祖)に敗れ伊勢を国譲りして信州に移った人物。
猿田彦同様の近代化縄文系と推定(^^; 建御名方の諏訪入りより150年ほど昔とみています。

島津国造と伊勢津比彦は出雲臣系譜。
九州島津は秦系の出自とされますが、島津氏は伊勢も所領とし信州にも飛び地として所領があった。
牛嶋の御祭神はスサノオ(出雲神族系の祖)と天孫の天穂日(出雲臣系の祖)・・仲をとりもつ三輪鳥居(^^;

諏訪明神絵詞によれば建御名方と戦った先住者の子孫が守矢氏だそうで、未確認ですが紋所は丸に十の字(^^;
南九州に諏訪神社がある理由は島津氏が運んだものか・・
島津の根本は志摩津・・などなど。


かたばみ Hp Re[707]:   ミナシャァ〜〜ン おめでとう!!  三本足の正体が出たぞ H13.3.10

焼尻紋次郎 さん、はじめまして。
≫ミワは「倭の神」からゴロ合わせ(ことだま)で「三つの神」
ミワが飛鳥奈良時代あたりでの地名(社名)ならありえるかもしれないですね。
強いて3元素にわけるのであれば、私は近代化縄文(^^;、半島系渡来者、中国系渡来者、とするかなあ。
倭は夷のうちの稲作を糧にする人々の中国王朝側の表現で、少なくとも弥生時代では氏族でも地域でもなく、上記3者どれもが倭とされ得たと考えています。
≫三輪鳥井というのは三本柱の鳥居の通称なんですか
鳥居の研究/根岸栄隆/厚生閣(昭和17年/昭和61年復刻版)のみが私の資料でして、古本屋の親父が鳥居に関してはこれが唯一最良、というので入手しました。
以下はその引用です。
鳥居の形式名に定まったものはないようですが、三輪鳥居は大神神社の形を基準としているようです。
三輪鳥居は3本足ではなく4本足です。絵はキャラ絵でもわかると思いますので以下を参照ください。

○は補助柱 ●は主柱 =は主笠木

○−−●=====●−−○   上から見た図 

  ========= 
   |−−−−−|      正面からの図
−−−|     |−−−
|−−|     |−−|
|  |     |  |
|  |     |  |

両部鳥居は以下で6本足。厳島神社、富士浅間神社(1480、木製最古)、敦賀気比神宮など。
   ○     ○
   |     |
  =●=====●=
   |     |
   ○     ○

3本足の鳥居もあって「京都太秦木ノ島神明」の末社の「蠶之宮」(蠶はカイコの意)が紹介されていますが特殊例のようです。
社名からするとsetohさんの書かれている蚕社の三角鳥居がこれのようです。
「小石を積み重ねて幣束を立て、その上に跨るように三柱鳥居がたっている」とあり、著者は鳥居というより神籬ヒモロギであろうといっています。

     ●
    / \
   /小石 \
  /  小石 \
 ●−−−−−−−●
 
昭和2年に千葉の稲毛にもありの情報で実見したところ「ゴンダラ様」として海神を祀っていたそうです。
崖からわき水のでる場所にあり、老婆に由縁をたずねたら「ワケもなにもない、ありゃあ大工がデタラメやったモンだあね」・・だったそうです(^^;
そういう大工さん好きです(^^;

以下三輪型鳥居誕生の空想。
弥生の集落、その囲いや門は人間のための柵と出入り口。
集落の主→祖先神、住まい→神殿、柵→玉垣、門→鳥居、これが洗練されて祖先神系の神社の基本様式となっていった。
鳥居も丸太を組んだだけの最もシンプルな形態の神明型の鳥居が伝統となります。
御陵墓などに用いられているタイプです。

対して、自然との対話を本質とする場合は住まいも柵も門も不要。
山野や海に象徴となるものがあるだけで十分だった。

はるか時代が下って、密教の高僧が唐で学び、そして神仏習合の流れが生まれる。
自然神を祀る場合にもその流れが押し寄せます。
鳥居をもたなかったゆえに、三輪型や両部型といった近代型が設計されて用いられた、と考えています。
最古ゆえに最新型となったわけです。


マルヤ Hp 出雲わらべ歌 「ネコにゃんにゃん」 H13.3.10

いきなりですが、古い童歌を一つ。 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」

出雲にゃんにゃんのん 出雲にゃんにゃんのん
出雲にネコがいーたそうな にゃんにゃんのん・・・ 
神様がかわいくて ネコ ネコ ネコと呼ぶ、
にゃんにゃんのん・・・ ・・・

ネコは喜んで神様にいい よい踊りを見せよと踊る
にゃんにゃんのん、にゃんにゃんのん
神様手たたいて ほめてほーめて おだてておだてて
にゃんにゃんのん にゃんにゃんのん神様一緒に踊り出す
にゃん ・・・ にゃんにゃんのん・・・

ここは良いとこ出雲の神社の前で、
そのひろっぱにネコじゃじゃ ネコたんとたんと集まって
神様と踊る にゃんにゃんのん にゃーん
にゃんにゃんのん にゃん ・・・にゃんにゃんのん 

みんなおいでよ おいでよ集まってネコじゃネコじゃと踊る
踊る 踊るほどよけれ。踊るほど いいじょ いいじょ・・・ 
なんでも下手でも なんでも下手ら一緒に ネコと一緒に
じゃじゃ じゃじゃ じゃじゃ 踊れば
神様みんなよってきたって踊り出す 
にゃんにゃんのん にゃんにゃん にゃんにゃんのん ・・・
にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん 

これはある方に教わった歌ですが、古いと書きましたが本当に古いのかどうかも分かりません。
この歌を島根県の出雲大社前の竹内旅館(歌手竹内マリヤの実家)での宴会で私が歌った事があるのですが、地元の民謡保存会の人も、宿のご主人も女将も知らない、聞いたことがないと言われるのです。
私が教わったのは振り出しの部分だけで、二番三番・・と続いている云います。あるいは島根県の出雲大社ではなく、京都府亀岡市の出雲大神宮に因んだ童歌かも知れません。
みんなで手をたたいて囃し立てるような本当に愉快で楽しい歌なのですが、この歌の続きをご存知の方、またこのような歌をご存知の方おられましたらお教えください。
実は教えた当人もご存知ないのです。


焼尻紋次郎 Hp 古都の夏 卍の目を捜せ  H13.3.10

ひふみさん、アマカネ。てつあにぃもアマカネ。カタカナで神様の名前書いてくれるので、読み続けるうちにはおらのボケあたまにも、少しづつ蓄積のこれあらむか。
去年、サンフラワー号で海から熊野にはいるとき、卍模様が見えるという情報がはいりました。おらよりもボケた古代語研究者が「まちがいなし、おらもテレビで見た」と証言したので、てっきり岩の層にできている自然の卍模様が見えるのだなと思い込んだのでした。その正体はバス会社が建てた看板でしたが、この情報にはいたく振り回されました。

 サンフラワー号で海から熊野にはいるとき、あちこちに瀧がみえるという情報もオドロキです。去年の時点ではおらは驚かなかったと惟ふのです。ナァ〜ンデカというと、このごろになってのおらの偏見では「竹・瀧」が足切り偏執(文化)の範疇に入ってきたからです。瀧は岡山県久世町に垂水(タルミ)とあるように、この日本列島広くタルミだったのですが、いつのまにか“タキ”が広まったのです。その起爆の地こそ熊野だろうと惟ふのです。クマ(神米)や鈴木……その他モロモロの現代日本語が熊野で造語されている……みたい。
垂直に落ちる瀑流の下に立つ行(ギョウ)こそ垂水(jal=水、mi=神)の足きりだったろうと惟ふのです。あ、水は古代ではイノチを溶かしこんでいる物でした。直射日光が当ると七色のイノチが飛散ります。ひと昔前までの日本人は「おらたちのイノチはこんなに美しいものだ」と実感できたのでした。現代人あわれね。

 ひふみさん、モーレツなこと言やはった。『諏訪の万次の石仏』ざんす。石仏……となっているが諏訪(Swa=神)とある以上はこれ神道系だ。マタギの始祖万治万三朗カネ。
オオクニヌシは計13の別名を持っていますが「ダイコク」さんは紀記、うえつ、サンカには登録されていません。ナァ〜デカ。それはネ*da(柱)ik(一つ)ok(目)で柱のてっぺん部分に描かれた一つ目……卍模様だったから。オ・レイ!
すまへん、これまだ、おらの直感〜思い込みの領域ざんす。ミナシャァ〜〜ン、お力添えアマカネ。
発掘されるべきナゾの地は伊那市の東、高遠町(旧高遠藩)。すぐ南は長谷(badsaha……王)村だ。崖に卍の神目が見られるはず。 √いざ征け さらば ますらをよ 西風深き 古都の夏  足が立つひとぜんいん往くべし。
着物のすそひっからげてクマリ泊瀬女ちゃんもケッケムクリ(豊後弁; いっしょけんめい)卍の目カネ。アマカネ
   キチガイの館 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


習志野の てつ Re[712]: 熊野行  H13.3.10

> 海上より上がる朝日と、熊野連山の上に浮かぶ満月が、ちょうど一直線に対峙する、素晴らしい朝でした。熊野の地は海より見ると、あちらにもこちらにも滝が見え、まさに神々が降りたもう所に思えました。 

拝見し、私もぜひ海から行ってみたくなりました。他にも色々なヒント、有難うございます。いつもですが、自分の知らないことが何と多い事か、実感します。

ー「日本火之出初之社(ヒノモトヒノデゾメノヤシロ)」スサノオノミコトと火の関係ー
熊野大社のHP見に行き、『「亀太夫神事」かめだゆうしんじ』読みました。 http://www.web-sanin.co.jp/local/yakumo/ya25-2.htm
まさに舅にいびられてる婿さんと言った感じで面白いですね。


ひふみ 熊野行  H13.3.10

3月3日、熊野へ行ってきました。
今回は、10年前のお礼参りも兼ねています。
平成三年三月、安房から紀州へ引っ越す時、ふと思い立ち、神武天皇よろしく海から紀州へ入ろうとサンフラワーに乗り、宇久井港より熊野へ上陸しました。
海上より上がる朝日と、熊野連山の上に浮かぶ満月が、ちょうど一直線に対峙する、素晴らしい朝でした。熊野の地は海より見ると、あちらにもこちらにも滝が見え、まさに神々が降りたもう所に思えました。 
その時は、熊野古道も含め、ひたすら歩ける所は出来るだけ歩き、熊野を堪能させて頂きました。その後、縁あってこちらで結婚して家族をもつ事になりました。今は、奈良の地でおります。
今回は、残念ながら、子供が途中熱を出したりしたので、有馬の地と那智しかお参りできなかったのですが、友達が熊野にいるので、又、熊野詣でが始まりそうです。

さて、もともとは、「あさもよし掲示板」の方で始めた話なのですが、その後、こちらのサイトにて、熊野の話題が何度も出ていたので、こちらに投稿を移させて頂きます。

setoh様に教えて頂いたように、参考資料を探しに熊野市の図書館へ行ってみました。
他、歴史資料館等も行きましたが、資料を探すのならやはり図書館が一番でした。
残念ながら、今回は時間がなかったのですが、古い資料がたくさんあって面白そうでした。次回が楽しみです。

さて、元熊野の話ですが。日下様とsetoh様のお話と合わせて考えまするに、有馬氏はやはり大陸から流れてきたのでしょうか。出雲から入り、一部が紀州へ海沿いに移り、熊野において、熊野川を渡らずに本宮へ上がったものか、有馬の地まで行き、その後、本宮へ移ったものか。

最近読んだ本、西宮紘さんという方の「縄文の地霊」という本の中に、スサノオノミコトとカグツチノミコトの類似性が、指摘されていました。
カグツチノミコトを火の神とすれば、スサノオノミコトは火山活動を表わすというのです。(高天原追放等)私としては、もう一歩進んで、出雲の熊野大社の伝承で出てくる炭焼きの話か、やはり出雲という事もありたたらの話などとも関係があるのだろうか、などとも思ってしまいます。
出雲の熊野大社が、別名「日本火之出初之社(ヒノモトヒノデゾメノヤシロ)」といわれるように、スサノオノミコトと火の関係は、見逃せません。

又、記紀上で、カグツチノミコトが生れる直前に生れているオオゲツヒメが、スサノオノミコトの高天原追放の前に殺されているのも、気になります。
かたや、食の女神が生れてすぐ殺される火の神。かたや、食の女神が殺された後生まれ変わる火の神。私としては、カグツチノミコトとスサノオノミコトが表裏の様に思えます。
熊野本宮の大斎原のように、とても母親的女性的な形の地に、スサノオノミコトを木の神としてお祭りしたのは、火伏せと共に、生まれ変わりの祈りも込められていたのかもしれません。
記紀上で、最初に殺された火の神は、熊野において祭り直され、鎮められ、生まれ変わられたのでしょうか。
花の窟に百合と桃の花を御供えしながら、そんな事を思ってしまいました。

有馬の方の話では、王子の窟というのは、花の窟境内にあるカグツチノミコトをお祭りしている巨石の事をいうのだそうです。(諏訪の万次の石仏に似ています)ここが、本来、熊野九十九王子の始まりではないかとも言われているそうです。
スサノオノミコトが記紀上で、百番目に生れた神様という事を考えるとちょっと面白いですね。


山浜  磐座について H13.3.9

すみません、だいぶの間冬眠しておりました。
磐座祭祀についてはあまり詳しくないのですが、一言でいうと、岩石の風化状況によってできた奇岩に対して神を見たというべきなのでしょうか?。
たとえば、花崗岩(御影石)などの深成岩が分布している地域には、不思議な形をした石塔や真っ平らな岩盤などが多く出現します。なかには、だるま落としのようにサイコロ状の岩石が高々と積まれてあったりする不思議な光景を目にすることがありますが、現代の工事技術でも到底不可能な巨石が不思議な形で積まれております。これをみたら、ほんとに神様の力の顕現とあがめてしまうのではないでしょうか?三輪山にも花崗岩などの深成岩がたくさん出ておりますね。
これらは岩石の風化が起こる時に起こる自然のいたずらといえるもので、岩盤に発生する亀裂面や節理面(岩石に生じる規則正しい割れ目)などに降雨や表流水がしみこみ、その部分が土砂化されていく課程で岩石部分が切り出され、巨岩として残ったためなのです。特に花崗岩は直交方向の割れ目が入りやすいので、風化するとサイコロもしくは直方体状の巨岩となります。したがって、岩の面についていえば、その岩が移動してない限り断層帯や節理帯の方向を示すことになります。また、岩石からわき出す水を「裂か水」とよび、それは岩盤の割れ目や断層破砕帯に貯まった地下水が湧出するものです。そのほか溶岩も冷えるときに柱状の割れ目がたくさんできます。やはり裂か水がでます。岩が水を呼んでますね。つたない説明ですみませんです?


setoh Re[705][698]: くず H13.3.9

 kokoroさんのクズ神社の御調査努力に敬服いたします。思い立って調べられて、その筋が出てくる、ゾクゾクしますね。実に快感ですね。成果のご披露感激しています。

それから
神の観念 物神→霊魂→人格神
時代変化 縄文→弥生→古墳 の対比への発想は慧眼だと思います。

 また「クズ」を王権から見た縄文的生活者一般への呼称とされる見方は同感です。

 紀伊続風土記の名草郡朝椋神社の項に「郡中九頭ノ神多くして唱へ・・」とあり、また都祁村の葛神社の由緒書きに「都祁地方には九頭・国津を称する神社が多く、国津神を祭神とし同時に祀雨神ともなっている。」と出ています。このクズは更に国主、栗栖などにも変わっているかも。大国主命が祀られている神社も要注意ですね。

 kokoroさんの「岩を依代でなく、神と崇める」発想ですが、岩そのものには実用的メリットはありませんが、岩が水を呼ぶとか、水の流れがあって岩がむき出しになるとか、伏流水の通っている場所を示すとか、何かあるのでしょうね。<山浜さん help us>

 南紀信仰の原点は、やはり磐座を祀るもので、後に矢倉神社となり、高倉下が祭神になりました。現在矢倉の名を持つ神社は僅かになっていますが・・。

 高倉下は宇陀に多い祭神です。都祁−柘植間の上野にも立派な高倉神社が鎮座しています。この高倉下は海部氏・尾張氏の祖神として現れます。尾張、高尾張邑、葛城山系がルーツではとの説があります。面白いのは建御名方神を祀る神社8座の内、2座が鴨都波神社、葛木神社と葛城山系にあります。海の民が建御名方神を持ち込んだ可能性もあります。室生郡には海神社が2座もあり、由緒にも「古来当地に海人族が移り住んだ」とあります。

 また建御名方神の2座は吉野郡大淀町の天髪(王)神社です。この吉野と宇陀の接点の吉野町三茶屋に久須斯神社(くすし)が鎮座し、祭神を大水上神、久須之神、天照國照日子火明之神としています。ここで大宇陀町牧の九頭神社の祭神が九頭大神、由緒に、建御名方神(久須斯神)をお祀りしていると出てきます。
建御名方神−海人−九頭がくるりと回りました。

 桃尾(もものお)村の隣に針之尾(はりのお)村がありました。針は尾張を思わせるのは、備前の国の式内尾針神社で祭神が天火明命ですね。磐座で有名です。

 磐座のネットワークは南紀から吉野宇陀都祁柘植と連なり尾張を通って諏訪まで繋がっていたのでしょう。縄文、サンカ、海部、修験道を連想しますね。

大和郡山市小泉町の小泉神社に摂社九頭神神社「九頭神明神」がありましたね。


習志野の てつ Re[705][698]: くず  H13.3.9

>  タケミナカタ神は国津神の代表選手ですし、人気があるので附会される機>会が多かったのではないでしょう。
…大賛成です。でもスサノウさんのような
>たたり神でもなく、ただ信濃開拓に尽力しただけで、何故こんなに人気があるのか?
個人的には《力はあるのに敢えて争そいを避けた》点だと思ってます。

見つかったはずですが?
> 紋次郎さん、締め付ける金輪は出なかったのですよ。…
『てつノート』私の覚え書き−既に出典不明−どこかのHPのコピーです。
7 柱の構造をうかがわせる大型のくぎや鎹、帶状金具などの鉄製品の出土
 柱の上面から本殿建築に使用されていたとみられる大型のくぎ、鎹などが出土した。
くぎは角針で断面約2cm四方と非常に太く、最長のもので長さ40cm以上である。
帶状の金具は幅7cmで、欠損しているが最長27cmであった。
8 柱がすべて赤く塗られていたことの判明
 いずれの柱材も表面に赤色の顔料がわずかに付着しており、柱がすべて赤く塗られていたことが明かとなった。また鉄製品にも赤い顔料が観察される部分があり、本 殿建築が完成した後で塗彩が施されていたことが判明した。

●この赤い顔料は丹でしょうか?丹生都比売さんとは時代が違い過ぎますが、もし伊勢神宮のように、昔と同じ構造で作っていたら、昔の建物は丹生都比売さんの一族の丹が使われていたのかもしれませんね。


かたばみ Hp 三輪鳥居 H13.3.9

はじめて書き込みします。よろしくお願いいたします。
以前に大神神社の鳥居の話がありましたので、東京の牛島神社の報告をひとつ。 (墨田区向島1丁目、隅田公園内)
ここには大きく美しい総檜の三輪鳥居があります(昭和17年以前の建立と思われます)。
本殿は南面し、正面に三輪鳥居、本殿左右に明神鳥居が配置され、3方向から参内できるようになっています。
東京のどまん中となったせいか、鳥居をくぐればすぐ本殿正面という広さではありますけど。

860年に慈覚大師勧請によって須佐之男命(+天穂日命+貞辰親王)を祀ったとされるので、直接大神神社との関係はみえませんが、出雲系譜ということでつながっているのだろうと思っています。 (文武天皇時代にこの一帯が牛の牧となっていたことが名の由来とあります)
須佐之男命と天穂日命の合祀が興味深い。
貞辰親王(清和天皇の第七子)はここでなくなられたという理由があるようで、紀氏との関連もみえるか?

鳥居の研究/根岸栄隆によれば、大阪座摩神社、阿倍野神社、名古屋三輪神社、東京亀戸天神内花園神社などに三輪型鳥居があるようですが、昭和17年以前の話で(^^; どれも現況確認はしておりません。
これらの神社にはなにか関連する要素があるのだろうと思っています。

構造としては三輪鳥居は左右補強型、両部鳥居(厳島神社や富士浅間神社など)は前後補強型といったところですが、これにもなにか共通する考え方があるのかも。
なお、現在の牛島の鳥居の左右部分には植栽と簡易な玉垣?があるので通ることはできませんが、昭和17年以前の写真では通ることができるようにみえます。


kokoro Re[698]: くず H13.3.8

「奈良県史 神社編」で僕が数えたところ、合祀社も入れて奈良県内には28社のクズ(九頭、九頭竜、葛、屑(←ママ)、国栖、国樔)神社がありました(結構、大変でした。好きじゃなくっちゃできないですね)。このうちタケミナカタ神を祀っているクズ神社は以下の5社があり、最多でした(ABCは、香具さんが685で紹介されたもの、Dは686でsetohさんが紹介されたものです)。
  A九頭神社…天理市下仁興町垣内四一
  B九頭神社…天理市苣原町山内三七六
  C九頭神社…天理市長滝町長滝三〇一
  D九頭神社…宇陀郡大宇陀町牧字宮ノ尾三二〇
  E九頭神社…宇陀郡菟田野町上芳野
 他のクズ神社のご祭神は以下の通りでした。
  @天手力男命(以下「タジカラオ神」)…4社
  A九頭神、九頭大神、久斯之神等…4社
  Bタカオカミ神…3社
  C衝立舟戸神と道友神…2社
  D石穂押別命(以下「イワオシワケ命」)…2社
  E竜頭大神、天照大神、天忍穂耳命と栲機千々姫命、正勝吾勝々速日と天忍穂耳命と栲機千々姫命、気咲戸主命と天津児屋根命、天児屋根命とタカオカミ神、出雲建雄神、不明…1社
 これを見るとクズ神社というのは、諏訪神社や春日神社なんかと違い、特定のご祭神が決まってないみたいです。また、分布しているのは奈良県南部から東部にかけての山間部で、西部とか盆地の平野部にはないようです。それからまたsetohさんの言う通り祈雨神の性格があります(配祠されたものも含めると、祈雨神のタカオカミ神を祭神とするものが4社あるのはそのためでしょう)。

 一方、奈良県下でタケミナカタ神を単独でお祀りする神社は10社だけで、しかもこのうちの5社は九頭神社なわけですから、この神様をお祀りすること自体が比較的珍しい上にその半分がクズ神社である、ということになります。しかも、距離的に離れた天理市と宇陀郡の双方にあるので局所的な流行とも言えず、どうもこれらのご祭神がタケミナカタ神であるのは深い理由があるみたいです。
 さて、ひとまずミナカタさんはおくとして、僕的にはクズ神社の祭祀の源流は2っだと思います。1つは長野県の戸隠神社の創祀伝承からの附会で、ここのご祭神のタジカラオ神は天岩戸をこじ開けるだけでは気が済まず、下界にブン投げてそれが今の戸隠山になったそうで、その後、ここの地主神の九頭龍神に迎えられて鎮座しました。上記の通り、奈良県下でタジカラオ神をお祀りするクズ神社は4社あり、タケミナカタ神の次に多いという結果となっております。そして、戸隠神社には祈雨神としての性格が顕著なんです(奥の院に池があって日照りの時はそこの水を持って帰るらしいです)。クズ神社の祈雨神としての性格は、ここから説明できるかなと思います。

 2つ目の祭祀の源流は、こっちが本流かと思うのですが、吉野郡にある5社のうち3社が国栖神社、国樔神社なので、クズという神社は「吉野の国栖」と何か関係がありそうだというものです。この吉野の国栖は東征の途次、神武天皇が吉野で出会った岩を押し分けながら出てくるイワオシワケ命というしっぽのある国津神の子孫です(風邪ひきさんが飲むトロ〜リ甘いのとは関係ないですよ)。このイワオシワケ命は上記3社のうちの2社のご祭神です。
 戸隠神社の九頭龍神と吉野の国栖を橋渡ししなければならないですが、結局クズというのは吉野の国栖の専売特許ではなく、元々大和王権が山地に住む先住民族を指していった普通名詞だったのではないでしょうか。だから、大和だけではなく、例えば北陸の九頭竜川流域なんかにもクズの人たちがいたのではないでしょうか。
 彼らが同じ系統の民族であったかどうかは分かりませんが岩を祀る習俗をもっていて、それが大和王権側から見てすごく印象的なので、そういう風習のある人たちを特にクズといったのではないでしょうか。僕の知る範囲でもクズ神社には岩石がルイルイしているのが多いようですし、また、クズ神社の鎮座している近くに例えば「大岩神社」というのがあったり、巨岩のある神社があったりというケースも大変多い気がします。また、吉野郡の国栖の本拠地周辺は巨岩祭祀の痕跡がある神社の宝庫です(その中には式内川上鹿塩神社の論社2社も含まれています)。それからまた戸隠神社の背後には岩窟があり、しかもそこから戸隠山の岸壁が始まっているそうです。

 岩石を祀る磐座祭祀は古代では決して珍しくなかったでしょうけど、むしろクズの人たちは岩そのものを祀ったのではないでしょうか……僕の見た桜井市にある2っのクズ神社には「これでもか」というくらい岩があり、それを見たときそう感じたのを思い出します。フェティシズム(物神崇拝)です。つまり、クズ神社にある岩石はヨリシロとしての磐座ではなく、岩がそのまま神様だったように思います。神観念はフェティシズム→霊魂→人格神(アマテラス、オオクニヌシ等)という発展をとげたとし、それぞれの段階を縄文→弥生→古墳の各時代にあてる考えがあるみたいですが、それでいくとクズの人たちは縄文なわけです。
 クズ神社の祭神になっているタケミナカタ神、タジカラオ神、イワオシワケ命の3神はいずれも岩と関係があるという共通点を持っています。まるで岩の話が出てくる古事記の神様を勢揃いさせたみたいです。クズの人たちが原始的な物神崇拝から岩石を祀ったのだとすれば、後で神社になったときそこに祀る人格神が見あたらなかったとしても無理はありません。しょうがないのでこうした岩に関係のある神様を附会したのではないでしょうか。特にタケミナカタ神は国津神の代表選手ですし、人気があるので附会される機会が多かったのではないでしょう。また、クズ神社の祭神がバラバラで統一性がないのもそこから説明できます。ただし、以上が石上神宮の祭祀とどう関係するのは不明のままですが…。

 setohさん、香具さん、習志野のてつさんいかがでしょうか。紋次郎さん、締め付ける金輪は出なかったのですよ。それにしても…、うわ〜っ長いっっ。ごめんなさいっ。


習志野の てつ てかざし ではなく   H13.3.7

まだ手すべり  703の 郡は 群 のまちがいです。
まちがいついでに
日本最初の井戸と云われる鹿児島に有る『玉の井』と、あちこちにある『真名井』似てるような気がします。
『謎の新撰姓氏録』に出てきそう。この本は間違っても買わないで下さい。3分程度の立ち読みで十分だと思います


習志野の てつ Re[693][691]:大事な 神奈備の過去ログ  H13.3.7

>「くれはあやは」さんは朝鮮半島南部の渡来人集団を一柱の神様として神格化したもの・・・
 ×すいません。日本の服=和服=呉服(ゴフク)を云いたかったのですが、筆(て)が
 すべりました。すべすべエス手ファイター

◎温故知新、古いものもおにゅうに
またも過去ログ  『ゆか さんの H12.5.9データ 』  http://members.tripod.co.jp/itakeru/yumv0005.htm
> 遠敷とは丹生の意
 たしか「おにゅう」と読むのでした。対馬海流に乗って北部九州の海洋氏族がここを通って湖西の方へやって来たんだろうと思います。滋賀、志賀、安曇川などにその痕跡が残っているのではないかと思います。
きょう清水の舞台から飛び降りたつもりで『新撰姓氏録の研究(本文篇)』を買いました。古事記の上つ巻と対照してみようと思って。…骨折しそうです 以上

この話の『湖西の安曇川』今月始めの にゅう す、3世紀前半の前方後方墳が見つかった滋賀県新旭町の熊野本古墳郡のすぐそばを流れています。

『新撰姓氏録』けっこう高いんですよね。清水の舞台からか、はたまた石上の梯舞台から飛び降りるか?酔った勢いでも私は決心つきません。


setoh 御柱と梯子 2 H13.3.7

裸伴 あかはだがとも
 1.鞘におさめず刀身のまま
 2.甲つけたる敵を裸を切るように鋭利
 3.剣を作った部民をその形状(裸で作業か?)から呼んだ
アイヌ語のgenさんのページで見たような・・
物部十千根大連 もののべのとをちねのおほむらじ
「天の神庫も樹梯の隋に」 あめ ほくら はしだて まにま

男−柱、女−梯子 ではあるまいか。


香具 串木野名物はツケ揚ゲ  H13.3.7

みなさん、いつも有難うございます。嬉し涙が止まらない・・・。
さっそく図書館に『新撰姓氏録の研究』を探しにいきます。

と言いながら、いきなり話題の流れから飛び出し失礼します。
nickさん、串木野へ行かれるそうで・・・。
次の件で、もし何か判りましたら宜しくお願いします。
過去のログ、去年の10月分より:
setohさん;(h12.10.16.)
>鹿児島県串木野市上名4558に
>伊多神社「饒速日命、天香山命」が鎮座しています。
>神社名と祭神と地名の薩摩国日置郡が妙に気に懸かります。
玄松子さん;(h12.10.18.)
>図書館で「串木野町郷土史」を見てきましたが、
>伊多神社の由緒はありませんでした。無格社とあったので、
>都道府県レベルの神社誌にも由緒はないかもしれませんね。
>行ってもわからない可能性もあります。
とありましたが、実はこの前日にすぐ近くを通っていたのでした。神戸に帰ってきてから掲示板を覗き、残念に思ったものです。その後、現地の人達に電話で問い合わせたのですが、「ノンカミ」の方ばかりなので『んたー、知たんど〜』で判らずじまいです。おそらく近くの社に合祀されているものと思います。
串木野では徐福伝説のPRやってるみたいですね。『春分の日に江南から東へ出帆すれば串木野到着』説は、別に春分の日でなくとも九州へ着くのでしょうが、ここ数日の春先の気象の通り、移動性高気圧の流れを利用することかと思います。ウチの爺さん達は、小さな帆船を繰って半島から黄海、東シナ海とウロウロできたそうです。(大型船はどうか知りません)
串木野市羽島崎神社の『たろうたろう祭り』は先週済みました。
羽島崎漁師の末裔の香具より。


焼尻紋次郎 Hp 煮詰まった 三本柱とサエの神 H13.3.7

 漢字がゴチャゴチャ飛び回り、意味不明のままノーミソが轢き殺されそう。一般庶民にもわかるように、これはと思える漢字にはフリガナ打ってくたシャァ〜イ。
* サラセッセよ、石上神社に行くときゃビタミンC と携帯電話携帯、濡れないように1ヶづつ油紙にくるんだライターを5〜6ヶ持って行きなされよ。ナァ〜〜ンデカ。香具さんに訊きなはれ。歩け歩け、汗流せ。
* 裸袢とは何のこって、なんとハチオンするんカネ。
* 物部十千根はトチネちゃんカネ。ネは指導者だ。トチは深ぇなぁ。オラシラン。「チ」そのものに「刀」の意味があらいしょ。  
* 大林組が復元した……。3本の*da(柱)が次々に組み伸ばされたものと見込めるが、そいつを締め付ける青銅は出土したんカネ。(3本鳥居、3本足鴉)
  柱の一部が残っていたら年代がわかるのではなかっただろうか。この場合はわからんのだろうか。
  石上神社にも高い大柱があった……としたら、「石上神社=物部=出雲」だろうか? 将又、「出雲なにぬかす。そのくらいの高さ大きさなら、わえらも作れるんやでぇ」やろか。
* ハシゴの「ご」……足がかりは、竹で編んだ形跡はなかっちゃろか。「 go 」=篭。
* ひとつは I(発声の助音)+ S(強調接頭辞)+ O(神)= 五十 = mo(国)。  momo = sait(吉兆) =sae (百)  momo-o = サイ(サエ)の神


玄松子 Hp Re[698]: 御柱と梯子 H13.3.7

>  現代語訳と注などのついた『新撰姓氏録』などの文献

『新撰姓氏録の研究』 佐伯有清 (吉川弘文館)が良いのではないでしょうか。
研究編・本文編・考証編6冊・索引の全9冊ですが、古書店では5〜6万程度です。
僕は、買おうかどうか迷って、辞めました。

『新撰姓氏録考証』 栗田寛 (臨川書店) 全2巻というのもあります。
こちらは2万程度です。内容は未確認です。


setoh 御柱と梯子 H13.3.7

 伊太祁曽神社に神社庁発行だったか『新撰姓氏録』が置いてありますが、現代語訳と注などのついた『新撰姓氏録』などの文献については玄松子さんを頼りたいと思います。また「諸家系譜」などから検索したら参考文献にでくわすかも。

諏訪大社の由緒から
古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。

大和での水神の数の比較
       天理市   それ以外の奈良  計
建御名方神   3 *1    5 *2  8
彌都波能賣神  1      28    29
高於加美神   4      29    33
闇於加美神   0       3     3
合計      8      65    73
*1 香具さんリストアップのみ。
*2 桜井1、御所2、吉野大淀2社(持統天皇は信濃を聖地と思っていたそうで、都を遷したい程の思い入れ。)
出雲建雄神は都祁村葛神社と石上神宮のみ(全国で)
水神は奈良県南部は雨乞いの不用な地域で、奈良盆地周辺に分布しています。それにしても、信濃の地から出てはならぬはずの建御名方神が全国的人気があるのは面白い現象です。

 何故、桃尾の滝の近辺に建御名方神が水神として鎮座するのか、ですが、石上神宮の祭祀氏族との関係は見なければなりませんね。信濃国造にいた多氏がにおいますね。奈良盆地の東側に多氏や秦氏がたむろしていたようです。

 kokoroさんの御投稿(H13.2.17)の中に、【元禄十二年(一六九九)の『布留神社縁起』には「梯村あり、其処に小社坐す桃尾の御前と云ふ。俗に訛りて太宇部能語年膳年と云ふ」とある。】とありました。
 この梯村で、問題の梯子は作られた!!。それも御柱の進化したものとして、なーんて。


kokoro Re[695][689]: 桃尾の妄想 H13.3.7

>  これよりまだ後の話し、神庫は拝殿の左右にあり左は伴氏、右は佐伯氏が掌っていたそうですが、氏族の関係はよく知りません。古代史に出てくる氏族についての概略がわかりやすい参考書がありましたら、お教え下さい。お願い致します。
 すいません。僕は氏族の話にはあまり興味がなくて疎いんですよ。『新撰姓氏録』が一番いいのでしょうけど現代語訳と注のついたのがあるか分からないし、あったて高価そうですし…。setohさん、知りませんか?


kokoro 三輪神社が395件!! H13.3.6

 setohさん、いつもお世話になっています。紹介してもらったGoogleの検索エンジンで早速、興味のある「三輪神社」を検索してみました。395件のヒット・・・僕にとっては多すぎず少なすぎずでちょうどいいくらいです!そして今日、いそいそと目を通し終わったところです(ところで「いそいそと」の「イソイソ」はエデン語でどういう解釈になるのでしょう?)。初めて見るホームページも多く、とても参考になりました。その中で面白かったのを二つ紹介します。

【抱きしめて石巻山】http://www2s.biglobe.ne.jp/~shirami/
 地元の方々が作っているらしいページです。とてもいい味です。『ただ、好きというだけで集まっています』の写真には徳利らしきものが…。これは良いです!!!!僕もこの「石巻山を考える会」にすごく参加したいです。呼んでいただけたら一升瓶持参で駆けつけます。←100%本気です。
 石巻山は駿河国八名郡の式内社、石巻神社の神体山です(愛知県豊橋市石巻町)。『式内社調査報告 第9巻 東海道4』の石巻神社の項で筆者の西山克氏は、石巻神社の社名は「イシマキ」で異訓はないとしながらも、その後で次のように書いています。
 「なお、『日本總國風土記』に、「八名郡美和神社<中略>」とある美和神社について、『參河國官社考集説』に「同學岩崎岑雄ノ説」として「美和郷は今の神郷村ニテ、美和神社ハ石巻神社ナルベシ」<中略>と述べている。美和は、<中略>『和名類聚鈔』に見える參河國八名郡の郷名である、しかも八名郡の式内社は石巻神社のみであるから、『日本總國風土記』に見える「美和(神社)」を石巻神社の異名とするのは、それ自体としては正しいかもしれない。しかし美和神社なる呼称が、はたして一般的に行われていたのかどうか、今のところ近世の若干の地誌類以外に史料を見ないので、懐疑的にならざるをえない」
 これを読んでもルビがないので、@「神郷村」とか「神郷」が現在でも「ミワゴウ」と呼ばれているのか、それとも、A「神郷(ジンゴウ、カミゴウ等)」と漢字表記される地名があるがかってはそれを「ミワゴウ」と訓んだのではないかと推定しているのか、よく分りませんでした。どうも@の方らしいのですが、実際に石巻神社に行って地元の方に、「神郷」の訓みを確かめた際、返ってきた答えは「ジンゴウ」だったのです。
 ところが、『抱きしめて石巻山』によれば、「神郷は、石巻山参道付近の人口百戸足らずの小さな集落である。まず面白いのは、その地名である。現在の読みは「ジンゴウ」であるが、40年ほど前まで「みわのさと」と読んでいたということで、60才以上の人だと実際にこの地名を使ったことがあるという。ミワとつく地名はほかにも三輪川がある。そして、石巻神社の祭神は奈良の三輪神社と同じ「オオナムチ」である」とあり、積年の疑問が解けたのでした。それにしても、歴史のある「みわのさと」という地名がなくなってしまったのはもったいないですね。

【三輪神社&あぐりこ神社】http://www.yutopia.or.jp/~miwa-jhs/zisyuken/1nen/104/104.htm
 これは、秋田県雄勝郡羽後町にある三輪神社について、中学校一年生のF.S.君(「君」ではなくて「さん」?)が自主研究で発表したものです(ページ自体は町立三輪中学校のものですが)。内容は中学1年生のものとしては信じられないくらい高度です。すっかり感心しました。いやはや、すごい若手です。ぜひ「神奈備」予備軍に入ってもらいたいです。

 それにしても、神社関係のホームページをいろいろ見てきましたが僕の見た限り、「神奈備」に匹敵するほど充実しているのはないと思います(ヨイショじゃないですよ)。


香具 Re[683]: 桃尾の妄想  H13.3.6

kokoroさん、階段のクライマックスといえば、長野オリンピックの開会式の聖火台点灯を思いだします。伊藤みどり選手はいかにもジャパンな格好でしたが・・・。
 石上神宮の神庫につきまして、垂仁天皇39年、五十瓊敷命が石上神宮の神宝を司られるときには、この神庫の話しは出てきませんが、後の87年に引退して大中姫に管理を委ねられるも辞退されたときに『天神庫(あめのほくら)』の話しが出てきますね。
 このとき五十瓊敷命が大中姫に『梯子を造ったから登れるで〜』と説得しているのは、それまでは無かったというのでしょうか? 命にして『歳やから引退したい』といわせる程の構造だったのかもしれませんね。
 これよりまだ後の話し、神庫は拝殿の左右にあり左は伴氏、右は佐伯氏が掌っていたそうですが、氏族の関係はよく知りません。古代史に出てくる氏族についての概略がわかりやすい参考書がありましたら、お教え下さい。お願い致します。


nick 隼人 卑弥呼神社  H13.3.6

当地、鹿児島神宮の摂社 石体神社の横にいつのまにか。。。
一応、写真掲載しました。
卑弥呼神社の看板を。。

今回は、鹿児島神宮、蛭子神社、稲荷神社をアップしました。明日は、止上神社を予定。
「隼人」からご覧下さい。


あかがね Re[691]: 忘れてました。 大事な 神奈備の過去ログ H13.3.6

> 忘れてました 大事な 神奈備の過去ログ
> ◎ [355] Re[351]: 丹波と丹比  あかがね
> 『呉服漢織(くれはあやは)、鎮座の由来を見ると渡来してきた呉服漢織を殖産の神
> として祀った』
書き込んだ当人も忘れてました。

 ところで、金達寿 氏の「日本古代史と朝鮮」(講談社学術文庫)によれば呉(くれ)は高句麗(こうくり→朝鮮語でこくれ)の漢(あや)は任那の安耶(あや)のことである。としています。
 詳しい説明は忘れてしまいましたが、秦(はた)氏が秦(しん)の人でないように、渡来系氏族の人々が出自を高めるために中国の国の名をあてているのではないでしょうか。
 あと唐(から)が韓(から)やもっというと加羅(から、伽耶ともいう)につうずるというのもありますね。要するに「や」とか「ら」とかいうのは古代の朝鮮語において「国」を意味する語であったそうです。で奈良もその辺に関係しているのではないのかなどと。
 「くれはあやは」さんは朝鮮半島南部の渡来人集団を一柱の神様として神格化したものなのでしょうか。


setoh 裸伴の恨み H13.3.6

五十瓊敷命の千本の刀剣は、新王権への服属儀礼でしょが、どうも泉南で作ったようで、気にかかります。と云うのは、泉南は名草戸畔の支配した地域(某神主説:根拠は紀の茅渟の男水門は記では紀伊国)、紀氏の支配した地域(泉南郡岬町淡輪の船守神社の祭神が紀船守、紀小弓宿禰、五十瓊敷入彦命と半島で活躍した伝承を持つ紀氏の頭領が祀られていること)とされ、いつの日かの紀氏の大和王権への屈服の物語と思われます。
千本の刀は千人の兵士を意味し、五十猛命を奉じ、丹敷戸畔に率いられた多くの猛者が殺戮された。猛者の魂は五十瓊敷命と呼ばれた。
 大中姫が断って物部十千根大連が石上の神宝を祀ることになったのは、物部の兵一万人が紀伊に攻め込んだ。この恨み、蘇我は嫌いだが、物部の守屋討伐で果たる!


習志野の てつ 忘れてました。 大事な 神奈備の過去ログ  H13.3.6

◎ [355] Re[351]: 丹波と丹比  あかがね
『呉服漢織(くれはあやは)、鎮座の由来を見ると渡来してきた呉服漢織を殖産の神として祀った』

◎焼尻紋次郎 気高き人の群  カンちがいコタツで母の手をにぎり H12.10.22
「春分の日に江南からまっすぐ東に向かえば、串木野に到着する」という信仰じみた言い伝えがあると川崎真治さんが言っていた。これ本当かどうか、…


習志野の てつ Re[689]桃尾の妄想 でたー〜! H13.3.6

>  日本書紀の垂仁天皇三九年の記事…石上神宮に納め…
> 『五十瓊敷命が妹の大中(オオナカツ)姫に語っていわれるのに、……「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」と。五十瓊敷命は「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない」と』

> ●石上神宮の宝庫というのはかなり背の高い建物だったことが伝わってきます。 ――舞台効果は迫力満点―― おそれ入谷の鬼子母神
関東蛮族表現で恐縮。ここまでは発想できませんでした。脱帽!

でたー〜! これ捜してました!
『五十瓊敷命は「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない」と…』この部分かつてどこかで読んだ記憶はあるもののどこだったか不明でした。ありがとうございます。高床式の非常に高い建物は、長い階段・梯子様のものを、2人が登っていく縄文土器か銅鐸の絵を見たことがあります。大阪・民族博物館でも非常に高い建物(タイ北部の少数民族の家、そこに鳥居もあり、千木もありました。)を見ました。

 揚子江南部地域(呉)にいた赤米を主食とする民族が、北方からきた小麦民族に圧迫され、海と陸に分かれて旅立った。陸を辿りタイ北部近くまで行き留まった人々は、運が悪く、山の中で拡大できなかった。一方海へ旅立った人々は、すばらしく豊かな土地に辿り着く。地味よく海の幸、山の幸に恵まれ、人口は増えた。赤米は、九州南部に多く現存。高床式の(南方の)住まいも両方に伝わった。*高床式(南方)の住まい:倉庫としてだけでなく住まいとして使われた。(通説は 倉庫として使用 です)
 黄河流域麦族の揚子江流域米族への圧迫は数次にわたる。
戦国の覇者・呉と越 最後はいずれも敗れ 脱出1
BC200年以前項羽と劉邦が戦い、麦の劉邦の勝 脱出2
4世紀三国時代の呉は、魏(晋)に負けて 脱出3
南宋(宋書に書かれた:日本では呉と呼ぶ)も滅亡 脱出4
・『南船北馬』にあるように、米族は舟の扱いがうまい。
・揚子江の大洪水時、鹿児島方面に大量の漂流物があった。
・『猿手』:腕の関節が180°以上に曲がる。タイの踊りの時よく見える:は、南と西日本に比較的多い。
・その他傍証・状況証拠は多々 EX『呉服』=『着物』
◎全く知りませんが、漢字の読み方で呉音は多いのでしょうか?


kokoro Re[685][683]: 桃尾の妄想 H13.3.5

 香具さん、すばらしいご報告をありがとうございます。
>『布留=火』説、スゴイです!斬新!。そういえば、大和では古代のみならず近世までも焼畑が続いていたという記述を読んだことがあります。盛大な「火」は、また天に昇る龍に見たてることもできますね。(炎の昇竜に慈雨を祈願する例があればいいのですが。)
 setohさんもすごいですけど、香具さんもすごいですね。ここの掲示板にカキコする人の特徴として、思わぬ形でイマジネーションや直感を文献や実際の現地を結びつけるのですごく驚ろかされます。そしてその度にこれまで誰も気が付かなかった問題点が新しく現れるのです。本当に興奮させられます。ところで、石上神宮の演劇性についてもう少し書かせて下さい。

 日本書紀の垂仁天皇三九年の記事によると、五十瓊敷命が茅淳(チヌ)の菟砥(ウト)の川上宮で剱一千口(フリ)を造らせてから石上神宮に納め、天皇の命で神宮の神宝を掌ることになっています。そして同八七年のこととして、次のような記事があります。
『五十瓊敷命が妹の大中(オオナカツ)姫に語っていわれるのに、「自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい」といわれた。大中姫は辞退していわれるのに、「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」と。五十瓊敷命は「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない」と(宇治谷孟訳「日本書紀(上)」講談社学術文庫)』
 この「高い宝庫」という表現から僕はどうしても、去年、「天下無双の大廈」の大柱が発掘された平安時代の出雲大社を連想します。建設会社の大林組が復元した古代出雲大社は地上高が100m近いですが、そこまでいかないにしても石上神宮の宝庫というのはかなり背の高い建物だったことが伝わってきます。そんな建物があの石上神宮の高殿に建っていたとすれば、天理市の奈良盆地側からの舞台効果は迫力満点だったと思われます。そしてこうした演劇的な仕掛けは恐らく、大和王権が政治的、軍事的な偉容をしめすことを目的としたのでしょう。僕は石上神宮へ行ったとき、なぜかその雰囲気が靖国神社にやや似ている気がして仕方がなかったのですが、政治的、軍事的な記憶を負っているという点ではまさに2っの神社には共通するものがあります。
 また、大林組の古代出雲大社の復元図には雄大な、梯子とのあいの子のような階段がついていますが、あの施設はただのアプローチなんかではなく、それ自体が重要な建築要素です。映画やミュージカルでは、クライマックスによく階段が登場します。これは階段に、舞台の空間を引き立て劇性を最大限に引き出す力があるからだと思われます(例えば善玉と悪玉が最後の決着をつけるチャンチャンバラバラは、階段の上で繰り広げられると、一層、手に汗握りますよね)。五十瓊敷命が言う「高い宝庫」への「梯子」も梯子というよりは、古代出雲大社のそれのような階段に近い梯子だったのではないでしょうか(僕は上記した日本書紀の五十瓊敷命と大中姫の会話がどうもピンとこないのですが、ここでいう「梯子」がそうしたものであったとすれば納得できる気がします)。そしてその「梯子」は建物から奈良盆地のある西の方に向いて下りていたのではないでしょうか。もしもそうだったとすれば、さぞかしそれは石上神宮の演劇性をいや増す効果があったことと思われます。

 setohさん、最近読んだ本に岸俊男先生の『紀氏に関する一考』という論文が引用されていたので孫引きですが紹介します。4〜5世紀の大和王権による朝鮮半島侵略の際に、紀氏が水軍として参加したことを立証したという文脈で、「これらの史料から紀氏が韓鍛冶(からかぬち)と密接な関係にあることが推定されるが、これは紀氏が朝鮮経路に積極的に参加していたことの明らかになった以上、極めて当然のことと考えられ、紀氏は朝鮮から多くの鍛工を率いて帰り、その本拠地や勢力圏に配置したであろう。そして単に工人のみでなく、南鮮に豊かに産する鉄を鉄金廷として持ち帰ったと考えられ、それらの鉄金廷と韓鍛冶の新しい技術によって製作された刀や甲冑などの武器は、また逆に軍事力を増強し、その朝鮮における活躍をいっそう華々しいものとしたのではなかろうか。『垂仁紀』には五十瓊敷命が菟砥川上宮にいて剱一千口を作り、石上神宮に蔵めたと記されている」とあります。
 あまり長くなったのでこの辺でやめます。setohさん、いつも長くて申し訳ないです。


習志野の てつ 怪説   H13.3.5

またも怪説
ヤマトタケルさん 実は脚気 この為足が三重になり、歩けなくなった。

脚気石神社 ご紹介
脚気石神社は甲府市上帯那町から帯那山に至る林道沿いにある。景行天皇の四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおりこの地を通りかかったとき、足の痛みで動けなくなり、この地に天照大神を祀ったところ平癒した事が、起こりだと云う。
http://www21.freeweb.ne.jp/area/kumagai7/jinjya/kou1/html1/k02.htm

獅子石
鉄剣と石剣、天孫族の侵略
獅子石 はタケミナカタさんで、天孫族がヤマトタケル?
 一宮北小学校の南側にある葡萄畑の中にひときわ大きな石がある、この茶褐色の石が獅子石である。
 獅子石には「昔、この地方に何日も降り続く大雨があり、京戸山が崩れ土石流が野呂、中尾の方に横流れを始めた。この時うずくまっていた獅子石が「うお〜っ」と一声吠えて土石流の横流れを支え村を救った。」という言い伝えがある
また一説では、「まだ日本国中がいくつもの国々に分かれていた古に、塩田の国に天孫賊が襲ってきた。塩田の人々は力を合わせ石剣を持って戦ったが、天孫族の持つ鉄剣にはかなわず劣勢になっていた。人々が獅子石に戦勝を祈願したところ大雨となり、これが三日三晩降り続き京戸山が崩れ出し、土石流がどっと野呂、中尾の方向へ横流れを始めた。そのとき、うずくまっていた獅子石が「うお〜っ」と一声大声でほえて、土石流の横流れを支えた。こうして山崩れの勢いは、石村方面に変わっていった。天孫族はあまりのことにびくりして逃げ出し、逃げるときに山崩れにのまれた天孫族も多かった。」と云う。
http://www21.freeweb.ne.jp/area/kumagai7/jinjya/kou1/sisiisi/sisiisi.htm


習志野の てつ RE [666]   H13.3.5

過去ログでどなたか『武甕槌神はターミネーターみたい』説を唱えていましたが、私は『タケミナカタはターミネーター』説。
@ 何と云っても語感が似ている
Aびっくりして逃げたことになっているが、力比べでは負けていな
いB後世、武の神として尊敬されている
C開拓神として地元に貢献した.など、すばらしいいい男に違いない。
スサノウさんは、疱瘡の病やその他たたり神として祭られるが
スワサン=タケミナカタは力を秘めたやさしい神としてです。

小笠原氏にも祭られたので、小笠原諸島に鎮座されているかと昨年行きましたが、神主さんは東京にいるとのこと(小笠原も東京都なのに)でお会いできず、地元の古老:日本復帰後わずかなので、戦前住んでいて一度千葉県館山市に疎開、その後戻った方:に話を伺ったのですが、祭神は『判りません』でした。

● 武甕槌神との力比べは、本当は健御名方が勝ちでした。ところが健御名方の武器は青銅製、鋼の刀に切っ先を切り落とされ、驚き『戦って相手を破ったとしても、味方にも大きな被害が出る』と判断、国を譲ったのです。こうした縄文的優しさ、おおらかさをもった人達が国ツ神は『敢えて争わないが、キチンと祭れよ』と云ったのでした。健御名方は大石を持っていたのですから、それを投げつければ簡単に勝てたのでした。たとえて云えば、10人の探検隊員を1000人で囲んだ時、突然ピストルを発射し、皆の度肝を抜いた様なものです。(これは私説)

●タケ(武・猛・建・健)ミナカタ(御名方)の武力の根元そもそも梓弓は信濃の特産、これは神への祈りに巫女も使います。何枚も張り合わせて作る和弓は信濃の特産でした。この弓の威力はすさまじく、八幡太郎義家や、鎮西八郎為朝の強弓は『鎧を着けた武者2人を貫き通し、3人目に深く刺さって止まる』程の威力でした。以前書きましたが、八郎為朝の矢は米原潜並み、外洋航海舟を一撃粉砕しています。力の無い源義経は、おのれの弱弓を流してしまい、恥として取りにいきました。こうした強い和弓ができた為、「弩」が忘れ去られた。(また私説)

● ダケダケ(武・猛)シサはあるが建設的(信濃開拓に尽力)なスコヤカ(健やか)な神 ファンクラブでも作りましょうか。
勝手カキコで大変失礼 下総・銚子の調子者。もう春だし、今後少し考えを温めてから発言します。


setoh お−い ミナカタさん H13.3.5

> 炎の昇竜に慈雨を祈願する
慈雨を祈願すべき水神である滝に日が射し込めば、虹となって昇竜が出現します。
八剣神社の由緒で、kokoroさんの御紹介の『石上振神宮略抄』の日の谷についての「桃尾滝の上流に、八ツ岩と呼ぶ巨石があり、この伝承にあてている。」との見方は正鵠を得ている感じですね。日の滝の上流の日の谷の八ツ岩、スバリですね。香具さんやkokoroさんが行かれておられるように小生も早々に行って自分の目で見たいものです。

それにしても、
苣原町(ちしゃわら)、長滝町、下仁興町の九頭神社の祭神が何故建御名方神なんでしょうね。大宇陀町牧の九頭神社の由緒に建御名方神を久須斯神というとあります。
山辺郡都祁村藺生1の葛神社(式内社出雲建雄神社の論社)の由緒には、都祁地方には九頭・国津を称する神社が多く、国津神を祭神とし同時に祀雨神ともなっている。とあります。国津神の代表神としての建御名方神でしょうかね。出雲建雄神とは倭武尊に殺された出雲建ではないでしょうね。建御名方神でしょうかね。
健御名方ファンの てつあにぃ の出番ですね。


香具 Re[683]: 桃尾の妄想  H13.3.5

>布留(ふる)の地とは焼き畑を特徴とする「火」の地
>ゆらゆらとふるえるのは炎
>布留氏と「火」の民とは同じ民
>「日の谷」の名を持つ伝承の地は「火の谷」「布留の谷」

『布留=火』説、スゴイです!斬新!。そういえば、大和では古代のみならず近世までも焼畑が続いていたという記述を読んだことがあります。盛大な「火」は、また天に昇る龍に見たてることもできますね。(炎の昇竜に慈雨を祈願する例があればいいのですが。)
[652]でkokoroさんが石上神宮の特質を@宗教性、A演劇性、B人工性、C水場を用いた景観設計と纏められたご指摘に続き感銘を受けました。感動が止まらない面白さです。

先日、桃尾の滝の北方にある『大国見山』の山頂に登ってきました。
巨岩が累々と重なっていました。天理市をはじめ大和平野が国見できます。山頂の祠から一番よく見えるのは、石上神宮でした。神宮の本殿禁足地の裏、台形の段で祭儀を行なった場合は特によく見えるのではないでしょうか。神宮の禁足地から山頂を遥拝したかもしれません。そしてこの山頂で火を焚いたら、近隣の平野部一帯からも目立つだろうと思いました。
天理市に限らず、桜井市など近隣の地図を見ると、『国見』とか『鳥見』の名がつく山がいくつもあります。『鳥見』の意味が気になるところです。

布留川上流の集落の神社について『天理市史』から抜粋します。
 内馬場町 春日神社(旧無指定村社)祭神:春日四神 境内社:玉垣神社・白鳥神社
 滝本町  石上神社(旧無指定村社)祭神:石上大神 境内社:春日神社・八幡神社
 長滝町  九頭神社 祭神:建御名方神 境内社:白山神社
 苣原町(ちしゃわら) 九頭神社(もと吉田神道直轄) 祭神:建御名方神    境内社:火産神社・蛭子神社・琴平神社 境外末社:須賀神社
 下仁興町 九頭神社(旧指定村社)(古くは葛神社とも)   祭神:建御名方神  境内社:白山神社・八雲神社
 上仁興町 四社神社(旧無指定村社)   祭神:天照皇大神・一言主神・住吉三神・息長帯姫命・熊野大神   境内社:厳島神社・金刀比羅神社
 藤井町 三十八神社  祭神:三十八柱大神  境内社:八雲神社
 竜王山頂 竜王神祠  柳本町の祠、田町・藤井町の祠
ご祭神に関して、雨乞祈願の記録が多いので本来は農耕に関する竜神・水神信仰ではないかということです。しかし、九頭神社が天理ダムより奥に扇状に三社が広がっているのが面白いです。また、石上・春日神に対して建御名方神であるのも何か意味があるのでしょうか。 『九頭』も気になります。・・・長い書き込みで失礼致しました。


習志野の てつ 健御名方は南方さん H13.3.4

 『健御名方は南方さん』話、以前もありましたが変化球鹿児島県枕崎市鹿篭町398に鎮座する南方神社を紹介します。
別名諏訪両社大明神。祭神は健御名方と事代主(八坂刀売神)先日鹿児島に行った時、偶然発見、寄らせていただきました。 もちろん偶然ではなく、神様のお導きで、が正しいのでしょう。
私は健御名方ファンです。『健御名方と言うけれど、普段は物静かな御方(おかた)では?』と思っていました。いつも喧嘩する訳ではなく、本当は猛々しくはない、タケのつかない御名前では?とおもっていました。ところが 「南方」。 なんだ、御名方(オナのカタ)ではなくミナカタ 当然そうだろう。と言うことで、さっそく参拝のため、階段を上がっていくと、はて?どうしよう。鳥居が横に二つ並んで立っています。
どちらから入るべきか?判らないまま右の鳥居から入りました。更に少し上がった所に、ふたつの神社。右は拝殿の中に本殿が納まり、一方左は拝殿と奥に本殿。鳥居が横並びで二つ有るのは、諏訪の上社と下社を横に並べたせいでした。でも鳥居の横並び、始めて見たのでドキッとしました。ついでで恐縮ですが『鹿児島暦』と言う鹿児島県の神社紹介入りの暦 タダ でいただきました。神職さん、大変ありがとうございました.


setoh 桃尾の妄想 H13.3.4

 石上神宮の後背地は都祁から柘植への広大な土地で、焼き畑農作が行われていたと思われます。
布留(ふる)の地とは焼き畑を特徴とする「火」の地と考えることができます。ゆらゆらとふるえるのは炎です。火です。『三代実録』に、貞観九(867)年に「大和国に令して、百姓石上神山を焼き、禾豆を播くことを禁止せしむ」とあります。(稲作以前 佐々木高明 NHK)その頃まで、石上神山では焼き畑が行われていたと云うことは、布留氏と「火」の民とは同じ民であったといえましょう。

そうすると「日の谷」の名を持つ伝承の地は「火の谷」「布留の谷」ということでしょうか。銅鐸でも出土するのかも。


焼尻紋次郎 Hp てつあにぃ 河岸ィ換えやしょう H13.3.4

てつあにぃ、ご指摘あが。このまま(下記)をYou-i 掲示板(下記)のほうへ写し移したのんま。
反論こそ飛躍台、金のわらじ・カネ太鼓カネ。ほかの衆もたのんまっせ。 
 ことばの bha(ネパール語 ; 言葉) ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


習志野の てつ Re[679] 「ネプタの語源」 H13.3.3

紋次郎あにぃ あっしは言語について河内弁も使えぬドツキ素人ですが、これは違う気がしますので、あえて一言。
瀬戸内さんの阿蘇神社では、8月6日に『ねむり流し』神事があります。
 http://wwweva.hi-ho.ne.jp/suruga/asozinnjya.htm
〔671〕で 秋田市の土崎『ネブ流し』をご紹介しましたが、元は、ねむりではないでしょうか?
『黒石ねぷた祭りの歴史』では、『睡魔のことをさします』と云ってます。
 http://www.jomon.ne.jp/~kkk/i_n_rekisi.htm
祭自体は、旧盆の精霊流しの大掛かりなもののようです。
青森でもあの山車様のものは、毎年つくるそうです。
ただ独特の囃子言葉 ラッセラーラッセラー は、何かありそうですね。
浅草でも、掛け声は セイヤーセイヤー で何だかよく判らないです。
温また、泉に付けてある名前は、あにぃの説のほうがよさそうです。


焼尻紋次郎 Hp 「ネプタの語源」掲出のご案内 H13.3.2

nick さん、観光課長さんだそうでアマカネ。そのうち紋次郎旅籠連名構築でお世話になりたいです。
 ところで、錦地では膿みを持ったカサブタのことをニープタとかネプタとかは言いませんか。

 おらのボケでのミッシング・リングの一つは香具さんが教えてくれて“越中富山八尾市の『おわら・風の盆』”だと判明しました。
 もうひとつは、習志野のてつあにぃせっかくのご教授なれど、あれ、方角ちがい。これも富山・滑川市の“ねぶた”ざんした。世紀の波に揺るがぬ鑑識眼持った観光課長が目ぇ光らせているのだろう。毎年ジミチなねぶた祭りがとり行われている。

 ねぶた、ネプタといえば「青森……」となっちまった。けっきょくこれはジャーナリズムに鑑識眼がなかったというこった。そのジャーナリズムを底で支えてきたのが学問……とりわけ綜合思索の哲学。これが崩壊してるんだが、この崩壊したことについての社会的コンセンサスができていない。
 あ、ハナシが横向いた。『ネプタの語源』を後日の記録に遺すべく、この掲示板の裏『あさもよし掲示板』にだしました。見においでやす。

特別サービス あさもよし掲示板から 【ネプタ の 語源】

 「ネブタという青森市がほんとうだ」、「いや弘前市でいうネプタのほうが正しい」などとをやっているが、これはいずれも語源を掴んでいないことによる鼻クソのなすり合いにすぎない。
 ネプタとネブタの音価は同じで、同根であることは判然としている。
 そこをアイヌ語の nepnep(急にでる)や nepta an(なんだ?)を持ち出すのは津軽〜下北〜南部の方言を総合的に研究したことがないからである(アイヌ語は実に僅少である)。

 津軽〜下北には奄美以南の南方語彙が多分にまぎれこんでいる。例えば弘前で○○キャ(です)というのは台湾タイヤル語と同一だし、ハドたてる(陰茎を立てる)もタイヤル語の「ハロ(陰茎)」、下北などでのイタゴ(巫女)はフィリピン・タガログ語の itago(降霊をする)、女陰のヘッペ、エッペも同語の「ペッペ(女陰)」である。
 そのようななかにネプタがあって、いまのところ富山県滑川市のネブタと連なっているだけである。
 このネプタは沖縄のニープタ以外には考えられない。ニープタとは膿がでて根をひくタチの悪いカサブタである。
 このネプタとニープタの同一を証明するのが輪島市のネブタ温泉である。輪島の現地でも語源が分らなくなって「この湯でむかし猪(⇒ぶた)が傷を治していたから」と語られている。
 だからこのままでは「ネブタ = ニープタ」の証拠能力が落ちるのだ。しかし、その落ちかけたものを引き上げるに預かって力を添えるのが、秋田県五城目町の「ホロセ温泉」である。ホロセとはジンマシンのことで、今は豊後とアイヌ語に見られる。すなわち、ネブタの湯とはニープタを治療する湯だったのである。

 青森のネプタ祭りには灯篭のまわりをハネトが跳んでまわっている。ハネトとは台湾ブヌン語で「バケモノ」を意味する。さらに、このハネトは「ラッセーラ」とわけのわからぬことを叫ぶ。ラッセーラとはネパール語で「元気をだせ」という意味である。
  古代語の目付け役 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi 
     


setoh 炭焼きを祖先に持つ寒がり H13.3.1

日下倭人さん ありがとうございます。
> 熊野川が流れ、熊野神社があり、那智の瀧まで
比婆山の近辺には温泉はどうなんでしょう。湯屋神社は仁多町にありますね。

> 「有馬氏というのは、もともと出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期に大挙して紀伊に移住した」
この言い伝えに付合するのでしょうか、和歌山県御坊市熊野(いや)に鎮座する熊野神社(いや)の由緒書きに、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、『当社に熊野神が一時留まりませる』ということが当神社の由緒になっている。」とあります。

 和歌山市に射矢止神社(いやと)が鎮座し、伝承として、天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとあります。天香期山命を高倉下(神倉神社)、一言主神を事解之男とするとそれぞれ、紀伊熊野に由縁の神々になります。

 伊弉册信仰が運ばれたとすると、阿波国美馬郡に式内社の伊射奈美神社が鎮座し、その山奥が祖谷と書くイヤですね。一部は阿波に分かれたのでしょうか。
いやいや、面白いですね。

 熊野市の地図を見ていて発見しました。三重県熊野市磯崎町の小さい半島の岬の名は猪ノ鼻っていうのですね。


玄松子 Hp Re[660]: 無題 H13.3.1

> 能力の高い検索エンジンを紹介してもらいました。
> Google日本語 http://www.google.com/intl/ja/
> 確か速いしよさそうです。

Googleの創立者は、現在27歳だそうです。世界にはすごい若手がたくさんいますねぇ。
http://www.atmarkit.co.jp/news/200103/01/google.html


日下倭人 Hp 有馬村のこと H13.3.1

熊野市の花の窟は本当に見事な大石で、私も圧倒される思いでみてきました。
ところでイザナミ終焉の地は書紀では有馬村ですが、古事記では出雲と伯耆の国の境にある比婆山になっています。
そこで比婆山付近の地図を調べてみると熊野川が流れ、熊野神社があり、那智の瀧まであるのです。もうこれはセットで地名転移したとしか思えません。

話は変わりますが、謡曲の演目に「熊野」と書いて「ゆや」と読むのがあります。これで気がついたのですが、出雲には揖夜神社(=伊布夜神社)があり、黄泉比良坂は伊賦夜坂ともいいます。すると次の図式が成り立つと思うのです。
熊野=ゆや(いふや)=伊布夜・言屋・揖夜→黄泉の国・常世の国
このように考えると熊野の語が“あの世”を連想させるものであることが分かります。

有馬の話に戻りますが、出雲の熊野には「有馬氏というのは、もともと出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期に大挙して紀伊に移住した」という伝承があり、また、朝鮮半島から出雲東部に渡来した有馬氏がスサノオ信仰を持ち、これを紀伊に伝えたとも言われています。
<以上、小生HPの「紀州熊野本宮大社と出雲熊野大社」から抜粋>


setoh 盆 H13.3.1

お盆の風習は聖徳太子が始めたと伝わりますが、元々は日本の古来の風俗とされます。鎮守の杜からおうちへ一時帰宅することですね。仏壇じゃなくて、本当は神棚で祀るものなんでしょうね。
 お釈迦様は輪廻からの解脱を解いたのです。西方浄土へ行ったきりのはずです。お盆に戻ると言う観点は本来の仏教にはありません。
 祖霊となって、鎮守の杜に漂よいたい人というのが祖先の原点だったと思います。


setoh ズウズウっと出雲へ H13.3.1

石川県輪島市大野町に「ねぶた温泉」がありますね。
大野町院内には高洲神社(こうのす:近くに鵠巣小あり)が鎮座、久久能智神ほか四柱の神を祀っています。
 戦国時代の兵乱にかかり記録中絶して不詳なりといえども創建は遠く人皇第十代崇神天皇の御宇なりと伝う。
高洲山(高巣山)の頃に鎮座し近郷二十八ケ村の雨乞の祈願所として崇敬されて来たという。
 摂社に湯元泉玉造神社「頭初生魂命」が鎮座しています。
想像をたくましくすると、出雲の玉造まで?


習志野の てつ Re[668]一部ですが流れに乗って H13.2.28

> こと流れ主義…… ここにカキコするなぁ気がひけるが、モノには流れっちゅうもんが「津軽じゃないネプタ祭り」の里                
流れから津軽はネブタですが、弘前はネプタと言います。ネプタは騒々しくなく、しみじみとした祭りだそうです。秋田市の土崎になると、『ネブ流し』といいます。扇型の大きな堤燈のようなものを乗せた一種の山車を、皆で引っ張る祭りです。流れてますか?
何でも有りの神奈備でも流石に何の関連もないような?
そもそもお盆は仏教の流れですよね?


setoh 【有馬村】 H13.2.28

三重県熊野市有馬は江戸時代には紀伊国牟婁郡有馬村でした。
ここに伊弉册尊の墓所ともされる有名な花窟(はなのゆはや)神社や軻遇突智尊を生んだとする産田神社(うぶた)が鎮座しています。
有馬には熊野本宮の元社との説があるようです。
最近の「あさもよし掲示板」に有馬の両神社の由緒など入れています。

言語方面で「五十」の読みが話題に
五十猛神社を「いそたけ」神社と読む
島根県大田市五十猛町
宮崎県日向市大字財光寺
岡山県玉野市広岡

五十猛神社を「いたける」神社と読む
福岡市西区金武
福岡市西区字尾の上
参考サイト http://www.kamnavi.net/you-i/itake.htm
習志野のてつさんの、王権のシンボルの神宮の棒鞭懸(ムチカケ)への着目はすごいですね。
蘇我氏や藤原氏の出自も謎めいています。馬力がなければ権力を握り維持していくことができないのは洋の東西を問わないと思います。藤原氏が東国から春日大社に神々を勧請していますが、やはり東の馬力が根底にあったのかも知れませんね。
所が大和の古墳からはあまり馬具はでないそうです。雅になったのでしょうか。


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