『埋もれた銅鐸』森秀人著から
中国の古い楽器の鐃(にょう)はその形が銅鐸に似ているとか、日本名を「くすみ」の言うと書いてある。
銅鐸の古語は伝わっていない。銅鐸を「くすみ」と呼んだのではないか、との見解です。
「くすみ」とは何か? 色がくすんだのくすみか?
熊野の熊野夫須美神は熊野久須毘命とも記され、「むすび」とかに解釈されており、那智大社では「那智のお山は夫須美神、又の御名を伊邪那美神と・・」と由緒書きに出てきます。
また樟日のような字を当てて、楠の木や太陽信仰とからめる説もあります。
最近、国巣が話題になりました。このクズとは銅鐸祭祀の連中を鏡を祭祀する連中が呼んだ言葉ではと思い立ちました。埋められて忘れられた被征服民の銅鐸、「くす」で解明できそうですね。
なお、熊野久須毘神は、天照大神と素盞嗚尊の誓約で誕生した八皇子神の一で、この神の名前にはとってつけた不自然さを感じます。さらに、この神は他の七神と違い、現れて何もしていません。
八皇子神とは、天忍穗耳命、天之穗日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須日命、多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命(後の三姫は宗像の神です)。
泊瀬女さん
わたしも連休後半に出雲に行って来ます。この間のカキコとても参考になりました。
私も八連休なので、いろんな予定があります。とりあえず、都祁・宇陀に行くのですが、あと地元の河内や友人の住む明石の方の神社も回ろうと思ってます。
で、あと神社がらみでもないのですが、淡路にみんなでドライブに行こう。という話もあります。他の友達はまったく趣味も違う普通の(?)人々ですが、やはり一之宮の伊弉諾神宮は無理やり寄らせよう。と思ってます。
で、地図を見てたら淡路島の西岸にも草香があるんですね。瀬戸内を東上して、ぶつかる場所。なんて考えすぎでしょうかね。
ゴールデンウイークを控えて、神奈備のお仲間も西へ東へ旅の予定の書き込みが一杯。
出雲・・・いいなア。大和・・・行きた〜い。河内も魅力いっぱい。出雲や大和に住み込んで、神社巡り三昧したら気がすむかしら? それでもきっと満足はしないでしょうね。
私も5月には壱岐・対馬へ、6月には名古屋周辺へと旅の予定はたてているけれど、誰かが出雲に行くと聞くと私も行きたくなるし、宇陀や都祁へ行く人が羨ましいし、心は千々に乱れます。奈良は何度か行っているけど、都祁はまだです。葛城方面も行ってない。出雲だってまだまだ踏破してはいません。河内もほんの一部しか見てない。
文献や資料を読んで勉強もしなければならないのに追いつかないし、もうどうしたら良いのでしょう。元伊勢についても、調べれば調べるほど行きたい所が増えるし、年内に終わりそうにもありません。そろそろおヘビ様がおでましの季節だけど、怖いなんて言ってられませんワ。私、気が狂ってしまっているのでしょうか。
日下考、読ませて頂きました。
饒速日山の候補地は、河内の磐船神社から天野の方へいった所にもありました。その内、行ってきます。
日下が徐々に東へ移動したとどっかで読んだ気がします。大和の青垣と言われる山の麓にもクサカという所があったとか。石上神宮辺りとすると、日の谷に一石を投じるかも。
あのあと、奈良交通や榛原町などのHPを探して見てみると、意外にバスはあるみたいですね。ヘナチョコ自転車でいけるところまで行ってみようと思います。
setohさん、わざわざどうもありがとうございました。
「日本」という国号の成立について、河内の「日下(クサカ)」と関係があり、それは「ヒノモト」とも読めること。そして河内の日下は神武帝とナガスネヒコの激戦の地であり、物部一族とも関係が深いこと。そして神武帝の出発地は九州であり、饒速日命も九州の人であることなど。これらのことからいろいろのことが見えてくるように思います。
さらには青森県東北町に「日本中央の碑」があり、このこととも河内の日下の地名や物部氏が関わっていることなどを〔967〕でも書きました。
この中で委細はHPの中でとご案内したつもりでしたが、肝心のアドレスの記載が抜けていたようです。
皆様のご来駕をお待ちしております。
古代史倶楽部yokosuka
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/kusaka.htm
>・山、岩、樹木などの自然物ではなく、人工的器物に魂、精霊、神霊が宿るという思想は、いつごろ発生・渡来したものか。
☆ 転ばぬ先の杖……。直立歩行した人類にとって杖はこころにもヨスガ(拠りすがり)だったでしょうね。
☆ 神社の軒の隅っこには掛け軸などにみられる房が垂らしてあります。座布団の四隅にも似たようなものがありますが、これユダヤの風習と似ぃちゅうそうです。
オーストラリア・アボリジニ−(の一部)にこの垂れ房がみられます。腰に巻いた紐からチンチンの前に垂らしてゆらゆらさせています。「いつでも来い」なんでしょうか? やっぱ悪魔払いでしょう。
そういえば、北海道にもいたウイルタは男女ともに、20cm四角ぐらいの、チンチンの宛て布をズボンのなかに縫い込んでいます。布は木の繊維をほぐして、延ばし広げたものが始原でしょうから風俗は一致しているといえましょう。
☆ 「馴染む」は、今のパソコンは「なぢむ」では漢字文字化させません。「なじむ」なら出ます。しかし、オーストラリア・アボリジニ−にも nare(慣れ)がありますので r の濁音化としての nade が日本語のなかにも考えらます。
そこでモンダイなのが「お撫でもの」です。天皇などの身分の高い人の鋳物製の手荒い鉢などをいうらしいのです。この「撫で」は古代でどこまで広がっていたことばだったのでしょう。
岡山市内に「中撫川」がありますが、これはネパール語の nadi(大川)そっくりで、お撫で物ではない筈です。
ところが、福山市東々北10キロ地点に「押撫」という地名があって、ぼくのこころを悩ませてるんです。
ここは予想される矢掛運河の水を海のほうに逆流させたときの分水嶺でもあります。osi はネパール語等で「つのびと・神びと」と分析できます。また、オシホミミなど古代の神名にもさかんに用いられました。
さて、この押撫をどう解くか……いい知恵をたのんま。
どげんごげん(ならんと) ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
天理から針へのバスの発車時間の状況
8時34分、10時10分、12時10分
榛原から針へのバスの発車時間の状況
8時15分、10時10分、12時33分
この時刻は現在もそうであるのかは不明です。
榛原から宇陀方面(水分神社辺りまで)はバスはそこそこの頻度です。
そこからは、自転車が便利ですね。
一日ですますか二日かけるかは、行くところ、見る時間によりますが、せっかくの古代探訪、ゆっくりお楽しみ下さい。
小生もナショナルのトレンクルと言う重量7.5kgの軽い折り畳み自転車を愛用しております。
> 宇陀や都祁に行きますと、大和平野の雰囲気とはまた違う古代の新鮮なエネルギィを感じます。
> GWをお楽しみ下さい。
>
毎度毎度ありがとうございます。是非行ってみたいと思います。
が、今度のGWは宇陀と都祁に公共交通機関と折りたたみ自転車(下りは楽ですが、上りは殆ど意味なし)で行ってみよう。となんとなく考えておったのですが、起点を榛原駅にすると宇陀と都祁は真っ二つに割れてしまいます・・・。どうしたものでしょうか・・・。バスなどをうまく使えば、折り返せるでしょうか・・・。それとも桜井のほうから宇陀→榛原→都祁。と北上するか。・・・かなりきびしそうですね。二日に分けたほうが無難でしょうか。(いつもの事ながら行き当たりばったりです・・・)
> 【起】が確認できれば、そこそこですね。
・「現存する最古の祝詞」はいつの時代のものか。
・山、岩、樹木などの自然物ではなく、人工的器物に魂、精霊、神霊が宿るという思想は、いつごろ発生・渡来したものか。
知りたいですよ。
河内に日下があって、そこは神武軍とナガスネヒコ軍の激戦の地。そして日下とは太陽と深いかかわりの地で、そういえば神武さんもナガスネヒコの妹を娶ったニギハヤヒもともに日の神とされる。
二人とも九州を出発して河内の日下に到着したこともよく似ている。
この日下が日本の国号につながるという説がある。
話は変わるが、青森県東北町に「日本中央の碑」なるものがある。坂上田村麻呂が書いたともいわれるが、下北半島に日本中央の地名が残るのも不思議な話。
それはなぜか。
以下については、恐縮ですがURLをクリックの上、「日本の国号−日下考」をご覧下さい。
皆様のご来駕をお待ちしております。
それから話の順序が前後して恐縮ですが、Setohさんには今回もお世話になりました。お許しも頂かねばならないのですが、次の5箇所について本文中にリンクを張らせていただきましたのでご了承ください。
・孔舎衛坂・石切剣箭神社・饒速日山・長弓寺・鳥見白庭山
(*^。^*)なちゅうーさんこと船玉姫命の大神様からの御託宣(*^_^*)
> 船玉の神の一番古い方で、西暦300年頃とされている理由
「古い祝詞の本に神舟をつかさどるのは船玉姫命と書いてあるのものがあるから。(-_-メ)」との事です。
神奈備の杜の中言の神の解読
起.要するに、船をつかさどる古い神は船玉姫命である。それは祝詞の中にも出てきていることでわかる。
承.古くから、磐座や大木を依り代として神まつりの風習は存在していた。
転.300年頃とは、船の航行で大陸までも行っていたし、古墳も作られ、鏡も大切にされていた。
結.従って、船玉姫命はその頃には祀られていたはずである。
【起】が確認できれば、そこそこですね。
倭人伝の「女を近づけない持衰(ジサイ)さんが祭っていたのは女神かも知れませんね。
泊瀬女さん、揖夜神社の階段、ありがとうございます。参詣の予定でしたので、参考になります。
竜王山の東に「小夫:オオブ」と言う字があります。ここに「小夫は多部にして神八井耳命の苗裔」との伝承が残るそうです。(聞書覚書:大和の原像:小川光三著から)
地図を見ますと、この辺りには、元伊勢伝承、泊瀬女さんには是非参詣して頂きたい滝蔵権現、芹井物部の芹井、新羅城が築かれた白木、神武聖蹟の鳥見山、その東北4kmに吐山「はやま」があり、この山の名前も古いイメージで「御」をつけると三輪山、これは別にしても、ここ、山辺郡都祁村吐山3957に下部神社(しもべ or おりべ)が鎮座、祭神が多氏の祖神の神八井耳命ともされています。
また、都祁の東の山添村中峯山310-1に式内社の神波多神社が鎮座、秦氏の祭祀をうかがわせます。
宇陀や都祁に行きますと、大和平野の雰囲気とはまた違う古代の新鮮なエネルギィを感じます。
GWをお楽しみ下さい。
けふは曇りのち雨……らしいが泊瀬女ちゃんのスガスガ・カキコのお蔭で、上空1万メートルはいつも快晴なることを憶いだすことができました。アマ(天)カネぞな,もし。
ahun ru par(アイヌ語; あの世への入り口)、胆振ホロぺツにある遺構はオートバイの曲乗りでやられてしまってんじゃねーだろーか。心配です。
オオタタネコは「オオタタ・ネコ」と区切るのが本スジと思いけらくも、「「オオタ・タネコ」と区切る正当性はどこにあらいしょ。『ほにゃらか掲示板』 ご参考あれかし。
多氏はおらは「タシ」と発音すべきだと思いけらくも、「オオシ」と発音しなければなんねぇ必然性はどこにあらいしょ。kokoroさんのコメントの欲しかとこですバイ。
多良岳……けふ書けるかなぁ。ここで「ta =神」が濃密に育ったと惟ふのです。tala =棕櫚の木。
ゴゲンゴゲン ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
出雲には黄泉の国への入り口が2カ所ありますね。ということは、我々はいつかは出雲に旅をすることになるのでしょうかね、片道だけの旅。古事記によれば、出雲東部・黄比良坂(よもつひらさか)、出雲風土記によれば、出雲西部・猪目洞窟(いのめどうくつ)が黄泉の国の入り口とされます。片道だけの旅に出た時、どちらから入るのか迷わないためにも、皆さん下見をしておきましょう。黄泉の国に行く際に、入り口を自分の好みで選べるかどうかは・・・シ〜ラナイ!
その前に、揖夜神社について。といっても揖夜神社に行ったのは、泊瀬女の悪い癖で風狂の駆け巡りの果てだったため、疲れてしまって印象が鮮明ではありません。揖夜神社は出雲風土記では伊布夜社とされ、黄泉比良坂−伊賦夜坂の連想から暗い雰囲気の神社を想像していました。ところが、揖夜神社は境内も広く社殿も立派です。お掃除が行き届き清々しく、数人の子供たちが元気に走り回っていました。
本殿は少し高くなっていて、拝殿から覗いてみましたが、よく見えません。お母さんが呼びに来て子供達が拝殿左の階段を登って行きます。私もつられて階段を登ってみると何のことはない、本殿の前へでられました。子供達は本殿の前でピョコンとおじぎをして帰っていきました。小さい頃からこんな風に神様と付き合っているのって、いいですね。ホンワカとした気分になり、改めて見回すと本殿左に「韓国伊太氏神社」と額がかけられた立派な境内社がありました。ここでは五十猛様が大切にされているようです。韓国伊太氏(氏の下に横棒・カラク二イタテ)・イタケル神については、ものすごーく詳しい方がいらっしゃるので省略。
揖夜神社から9号線に出て東に行くと大きな看板があって、そこから少し奥の丘陵の小さな谷間に「黄泉比良坂神蹟」と彫られた石碑がありました。少しも怖い感じがしない場所です。入口(出口?)をふさいだ石はこれかな・・・大きな石が2つほど。この下に黄泉の国はあるのでしょうか。一般人はどこから入るのでしょうかね。
もうひとつの黄泉の国の通路は、出雲大社の背後の山を越えて、海に面した猪目洞窟。自動車道路の下に洞窟、反対側は海。ウップルイ湾が広がっています。海の侵食でできた岩の裂け目というより、板のような岩が歪んで倒れてできた隙間みたいな感じです。入口の上部には地層のストライプ模様がくっきり見えます。2、3歩中に入るとヒヤーっと冷たくて、ジメッとしています。奥は暗くてどこまで深いかすら分からない。黄泉の国へ行くのなら、私はここからはイヤ! こわいもん。早々に上の道路に這い上がったら立て看板がありました。「密入国者に注意しましょう」 潮流の関係で朝鮮半島あたりからの漂流物(人)が自然にこの湾に入ってくるのだとか。
むかし昔、人も神様もこの湾にやって来たのでしょうか。ウップルイ湾は冬は荒れるのでしょうが、この日の海は凪いで碧く美しく光っていました。
からくにの 神も来るらし 海道(うみみち)は ただ碧くして 空に溶け合う
話題についていけなくて大変です。
分からない事だらけなのですが、いくつか教えてください。
・大田田根子が「オオ」氏がらみの人というのは初めて聞きました。三輪氏とか鴨氏とかは聞いた事があるのですが。どこかに書いてあるのでしょうか?系図とか・・・。言われてみれば名前は確かにそれっぽい・・・。
・都祁に多氏の拠点があったのですか?都祁→山奥!というイメージしか・・・(何とも貧困な・・・)GWに宇陀とかに行こうと思ってるので、是非教えていただきたいです。
教わる事ばかりで恐縮仕切りですが、お願いいたします。
尾張一宮:真清田神社(ますみだ) 祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)
=瓊瓊杵尊(ににぎのみこと・天皇の祖先)の兄 これは偉い!
「天火明命」は、南宮大社として美濃の国一宮にも鎮座
二宮:大懸神社(おおあがた) 祭神:大荒田命
『犬山』の地名ははこの神社の戌亥の方角に当たるので、
いぬい→いぬ山に転じたという説 有ります。
三宮:熱田神宮
尾張の二番目で熱田神宮より上位なのはなぜでしょう?
天下の奇祭や「おそそ洞」等で知られる大県神社の大荒田命はそんなに偉いのか?近くにある田懸神社の祭神:玉姫命のお父さん玉姫命は、尾張国造の祖・武稲種の御嫁さんで未亡人。武稲種は、日本武尊と一緒に東国遠征し、帰りに亡くなる。
その妹の宮津姫は、日本武尊の后となり、尾張国造2代目といわれる。
義理のお姉さんの父親に遠慮して、三番になったのだろうか?
漢字にとらわれちゃぁイケネぇ〜〜イヨッ。
間違い含みでブチまけると、Hir とは「神のおぼしめし・神意」なるべし。そこから「拝む」だの「昼」だの「微動」だのが派生して各地の氏族語となった。
さきにも述べたとおり、倭人は「○l や△r」の末尾の「 l ,r 」をチョン切って落す。Hir は「ヒ」となる。
第二子音を濁らせるのは朝鮮人、古代倭人ともに共通のクセでした。
「ぼこ」と発音するのがイケネェ。これは hok を独立ステムに据えるべし。さすれば、「ことほぎ」のホグがすぐに得られよう。「ことほぎ」のコトはコトバであること、ミナシャンご存知のとおり。
慣用によって「ホグ」のなかに、のりとなどの「神事での発声」という意味がすでにできあがっていたのではないだろーか。 (ho……秀……ホザキ か) hok-o の末尾の o は「男・神」。
天・海の神意を宣(の)る者……アマ の ヒホコ ⇒ 転じて ヒボコ。のりちゃんアマカネ。
以前、電車の乗り継ぎがうまくいくというお話しがありましたが・・・。
先週の日曜に三木市の三坂・御坂・御酒神社と石上山周辺を調べようと準備していたのですが、前日の夕方に思いもよらず肉離れ?になり、すぐには歩けなくなりました。
まったく・・・、『日の谷』のときも捻挫などで2度も延期し3度目にて強行したことがあります。(結果は悲惨でした。真冬の布留川にて禊をするはめに。帰りは白黒2色の公用車で親切に駅まで送って頂きました。)
三木市の石上山に何があるのか判りませんが、GWを目前に禁足中であります。
周囲からは『触らぬ神にたたりなし』と注意されるのですが、『障らぬ神に祟りなし』だと間違って思っていました。鈍感な者には警告も直接的になるのですねェ。(日頃の心掛けが問題?・・・未だに『気にしないこと』が最強の御守だと誤解を続けています)
『禁足』といえば、出歩くな・外出するなと蟄居を命じられることだったように思うのですが、『禁足地』と地がつくと足を踏み入れるな・進入禁止といった意味合いで使われていますね。このように今では、外に出さない意味と、内に入れない意味に分かれているようですが、神社の『禁足地』にはもともと封じ込める意味もあるのでしょうか。
天日槍、天日矛と書かれるヒボコチャン、カニシ好きの紋チャンならどう解釈する? 火僕チャンかな。
ヒボコにはその部族が奉ずる神の依り代として武器を掲げた金属精錬の民の象徴の雰囲気を感じますね。
記紀のルート以外にその足跡は
筑前怡土 福岡県糸島郡前原町 高祖神社 タコソの訛か
淡路津名 洲本市由良生石崎 出石神社「天日槍命」生石神社
紀伊名草 和歌山市宮 日前國懸神宮 御神体が日矛
紀伊在田 和歌山県有田郡 生石山
大和式上 桜井市白木 天日矛が新羅城を築いたと言う伝承
大和式上 桜井市穴師町 穴師坐兵主神社「兵主神」
特に、近江の柘植から大和の都祁へのルートで新羅城が築かれ、その大和平野への足がかりが古代都市巻向の真東の穴師であったのかも。巻向の盛衰に無関係とは思われませんね。
また、kokoroさんの御指摘の多氏とか秦氏は都祁にたむろしていたようで、日矛ー兵主ー山東半島・・秦氏が浮かび上がりますね。
朝鮮語は「子音+l」の語彙構成のクセを持っていますが、日本語はその末尾の“ l ”を省略、切り離すクセをもっています。
草野(姫)は「 kul( ⇒ クズ)sa(里)+ no(人・神)」か、またはアイヌに入った kusa(渡船)周辺概念の……例えば舟つき場……みたいな意味をこめての懸詞だと思われます。
また、朝鮮語 pi:l-(祈る)を phul (草)に懸けて「ヒルメムチ」を謂っているとも考えられます。
英語でいう grass はサンスクリット語でも「クサ」です。このような一致は普通ではあり得ませんので、この草野ヒメが生きていた時代にはサンスクリット語系の支配階級が日本列島に上陸していて、尊敬されていたことがわかります。
「ヒル」はまだワカラン。
ミナシャンのお喋りのことばは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で
kokoroさん、「わっ、長〜いっ!」のは全然迷惑ではありません。この書き込みの内容ははしょりますと益々訳が分からなくなるほど多くの含蓄ある中味を含んでいます。この前の[あかね]さんのも含めて考えて調べたい課題がどっさりですね。
> 草野姫命ですが(草野は地名)、この姫神は比売許曾神社の祭神と同一神ではないでしょうか。
この一行だけでも大変なことです。草野姫命は加夜奴比女命、茅野姫命、鹿屋野比売とも書かれ、また野槌神とも言われるそうです。古事記ではイザナギ、イザナミが国生みを行い、これに続いて、大屋毘古や速秋津比売に続いて久久能智、大山津見、鹿屋野比売と生まれます。天照大神や素盞嗚尊より先に生成された神々とされています。これらの神々は本当に古い神なのか、路傍の神々を、神々の系譜に上積みしたものか・・・
さて、比売許曾神社の祭神と同一神であるのかどうかですが、よく似た事例では、伊太祁曽神社では先の大屋毘古神と五十猛命が同一神として祀っております。普通これだけ名前が違うのですから、玄松子さんが書かれていたように違う神と見るべきでしょう。その神々を同じ神だとしたのは、神仏が習合する位ですから神神も習合してしまったと考えていいでしょう。HPの「名草の神々」の中でも書いたのですが大屋毘古神と大屋津姫神、五十猛命と抓津姫命がそれぞれペア神であって、これらが習合して男神だけが一体化して、女神は残ってしまったと考えられます。これをやってのけたのは紀氏でしょう。
同じように、比売許曾神社の祭神と草野姫命が習合したと考えてもおかしくはありません。習合とは悪く言えば祭神の乗っ取りで、元の祭神を摂社に放り出して、本殿に祀られるケースが普通でしょうが、同一化してしまうこともあったのかも。
草野姫命を祀っていた地域を比売許曾神を祀る集団が押さえ込む際、我々も同じ神の子孫であるぞ。と統治上の手段に使われたのでしょう。
上許曾神社がキイとしますと、近江国淺井郡を支配した豪族がやってのけた可能性が考えられますね。この豪族って、多氏、それとも息長氏?この辺り、弱いな〜。
> これは全く思い付きですが、郡には、組み替えはなかったのでしょうか?
あったかもしれません。
ですから、式内社を考証する場合は、「10世紀初頭」の期間限定になりますね。
長いスパンの「歴史」ではなく、約20年間のポイントで見ます。
> 尾張国知多郡「入見神社」ですね。緒川入海神社は愛知郡で、
> 「郡」が違うということで、否定されていますね。関連社ある
> いは類社ではないでしょうか。
早速のレス、ありがとうございます。
―< 古代配置替え説 >―
これは全く思い付きですが、郡には、組み替えはなかったのでしょうか?
岡山地方・吉備の国は、何回も組み替えを行っています。また武蔵の国ははじめは、東山道に所属、後に東海道へ組み替えたと聞きます。
ただ国としてで、郡単位はそうとう弱いとは思っています。
―< 売買説 >―信憑性0.×%(ほぼ無し)《緒川入海神社は、内海入海神社に祭神・社格・社名を売った》との言い伝えがあるらしい。←まったくの噂かもしれない。
第一そんなことが本当にありえるかどうかも判りません。
―< 個人的趣味では説 >―緒川の入海神社の社宝に、家康の子供の時の鎧が奉納されてます。
弟橘姫の父親といわれる「穂積忍山」の古墳?がすぐ側にあります。
貝塚の上にある の 三点から、 緒川を支持したいです。
> 早期縄文土器の一様式に、入海式土器が有ります。昭和16年に緒川入海神社
> の境内で発掘されたのです。延喜式にある入海神社は、知多半島西側先端近く
> の内海にある入海神社となっていますが、本当は半島東側付根付近の緒川入海
> 神社ではないでしょうか?
尾張国知多郡「入見神社」ですね。緒川入海神社は愛知郡で、「郡」が違うということで、否定されていますね。関連社あるいは類社ではないでしょうか。
>船玉の神の一番古い方で、西暦300年頃とされている理由は何でしょうか?
>是非知りたいものです。 ― 私も全く同感です ―
『群馬などの船玉様は川を渡る舟をおまつりするものです。』
これは誤解ではないでしょうか?川は渡るものではなく、通るもの。
現在のハイ・ウェイと考えたほうが良いのではないでしょうか?
江戸時代末期にすごく歩いた地図作りで有名な伊能忠敬は、佐原の出身だが、佐原は港町。もちろん海じゃなく川のですけども。
河口に牛・馬を飼う牧を置いたのも、単に他に利用できない広い土地だったから、ではなく舟で河を遡上する時に引かせる為の用意だった説あります。土佐日記でも、土佐からの舟でそのまま乗り換えず、淀川を上って行きます。日本武尊も上総から、舟で船橋、市川と来て、そのまま川をさかのぼり、利根川の支流経由で常陸の国(現霞ヶ浦)に行ったのではないかと考えています。
川といえば、春の小川 じゃなくて 知多半島緒川早期縄文土器の一様式に、入海式土器が有ります。昭和16年に緒川入海神社の境内で発掘されたのです。延喜式にある入海神社は、知多半島西側先端近くの内海にある入海神社となっていますが、本当は半島東側付根付近の緒川入海神社ではないでしょうか?
『入海神社』の祭神は、やはり弟橘姫がふさわしいと思います。
内海の入海神社の祭神は例の「五男三女神」です。
PS 前から思ってたんですが、『大田田根子』の読み方は オオのタタネコ もしくは オオのタタのネコ さらに進めてオオのタタのネコヒコ(根子彦)が本当では?
あかねさん初めまして!!最近のカキコを拝見して大ファンになりました。実に面白いし示唆的です。知識の質の高さと広がりに心から敬服します。これからもよろしく。
>川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あるようです。
この一節に刺激されて『式内社調査報告』等に基づき式内多太、多田等の神社をリストアップしてみました。
@摂津国川辺郡の多太(タダノ)神社、【祭神】オオタタネコとする説あり
A大和国葛上郡の多太(タタノ)神社、【祭神】オオタタネコ
B近江国伊香郡…多田(オホタ)神社、【祭神】祭神をオオタタネコとする説あり、ただし所在不明社
C若狭国遠敷郡…多太(タダ)神社、 【祭神】祭神をオオタタネコとする説あり
D越後国三島郡…多多(タタ)神社、 【祭神】タカオカミ神、合産五神
E加賀国能美郡…多太(タタ)神社、 【祭神】オオタタネコとする説あり
F但馬国七美郡…多他(タタノ)神社、【祭神】現祭神→素戔嗚尊、『神社調書』等に→素戔嗚尊、オオタタネコ、埴安命
こうしてみると、タタ神社の祭神は大田田根子オオタタネコ(以下タネコ)だという観念があるみたいです。『日本書紀』垂仁天皇三年の天日槍アメノヒボコの一説によればヒボコは、播磨国宍粟シサワ邑→宇治川(淀川水系)を遡る→近江国吾名アナ邑(近江国鏡邑の谷ハザマの陶人は、ヒボコに従ってきた人達)→若狭国→但馬国というルートをたどって但馬国に定着しています。そしてヒボコが通過した国には播磨以外それぞれ@BCFとタタ神社があるわけです。Dはルートから外れていますが祭神にタネコが登場しないので別系統の神社のようです。あかねさんのカキコにもあったAとEは、ルートから外れていながら祭神がタネコですが、Aはこじつけるとヒボコの八世に葛城のタカヌカヒメノ命(神宮皇后の母)がいるので葛城とヒボコも関係なくはないと…、Eはこじつけようがないですが、このルートから大きくは外れてないのでゴカンベンを…。
さて、ここで想起されるのはヒボコが来帰したとき、垂仁天皇が長尾市ナガオチと一緒に三輪氏の祖、大友主を遣わしたと『日本書紀』にあることです。この物語をそのまま信じると、ナガオチはタネコと同世代なので(崇神紀七年参照)、大友主はタネコの息子でもおかしくない近親者のはずです。
これだけでタタ神社をヒボコと関係させるのは難しいですが、あかねさんの下記のカキコを援用します。
>「太田神社」は呉の勝の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成し、6c以降?に中臣の祖神天児屋根を祀ったそうです。ですが、呉の勝が紀伊から太田へ移住したのは、地元の郷土史家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残ります。
以上の記録は『式内社調査報告』『日本の神々』からは確認できなかったのですが、ともかくも多太神社はオオタ≠ニ訓めるので(実際にBはそう訓んでいます)、多太神社と太田神社は同系社で多氏と関係ありとして話を進めます。
まず、近江国淺井郡の上許曾カミコソノ神社のことをあげます。コソのつく神社については、コソが朝鮮語の社であるという耳タコの定説がありますが、『古事記』応神天皇のヒボコ物語によって、難波の比売許曾神社と豊後国の比売語曾神社の両コソ社はヒボコと関係が深いのは知られています。したがって、上許曾神社もヒボコとの関係がある可能性があります。当社の祭神は草野姫命ですが(草野は地名)、この姫神は比売許曾神社の祭神と同一神ではないでしょうか。また当社のすぐ付近には太田≠フ地名があります(余談ですが伊勢国奄藝郡の式内社、大乃己所オホノコソ神社は多氏に関係があるといわれます。総じて多氏とコソのつく神社には何か関係があるのかもしれません。当社のある三重県の中京地域は椿大ツバキオホ神社、太オホ神社等、多氏の遺跡とされる神社がいくつかあります)。
また、当社の南西2qくらいのところに田根という地名があり、ここを開拓したのはタネコだという伝説があります。それだけなら単なる附会の説かもしれませんが、この付近の「エンノコシ」という場所から子持勾玉が出土しているのです。子持勾玉は、森浩一先生が指摘されておられるように、ともにタネコの伝承のある大阪南部の須恵器生産地域と三輪山周辺で特に多く見つかり、他の地域ではそれほどしょっちゅう見つかるものではありません。また、両地域共に太田≠ニいう地名があります(以上の内容は山田郁郎氏の好著『湖北の神々〜その古代史〜』に全面的に負ってます。湖北地方の神社・古代史に興味のある方にご一読を勧めます)。
ヒボコに従ってきた人達とされる近江国鏡邑の谷ハザマの陶人≠フ鏡邑≠ヘヒボコを祭神とする滋賀県竜王町の鏡神社付近とされます。こうしてみるオオタ、タネコ、多氏を介して鏡神社→上許曾神社→Bと『日本書紀』通りのヒボコのネットワークが裏打ちされます。
なお、ご存知かも知れないですが滋賀県新旭町太田に近江国高島郡の式内社、大田ヲホタノ神社の論社、大田神社があり、境内社の六所船魂大明神は住吉三神を祭神としています。この地に隣接して舟木という地名があり、近世直前まで船大工が多かったそうです。大田は「大田田命」を連想させ、舟木の地名とあいまって当地に舟木連が居住した可能性を示唆します。社地は安曇アド川の最下流域です(『日本の神々5山城・近江』をご参照下さい)。
『日本書紀』一説にある播磨国宍粟郡から但馬国までヒボコが移動したルートは、かなりの遠回りです。宍粟郡から川を遡って山を越え、また川を下れば出石神社のある場所まですぐなのに、あたかも環状線を逆回りして目的地に向かうようにして但馬にたどり着きます。結局これはヒボコと同族の渡来系で安曇系海人の船運と連携し、播磨〜摂津〜近江〜上越〜但馬の経済圏を掌握していた息長氏の影響圏のことを物語に組み込んだのではないでしょうか。そうして来帰したヒボコを導いたのは多氏で、多氏はやはりヒボコと同族だったのでは。またタタ神社、タネコ、大田、コソのつく神社は多氏の遺跡で、彼らは日神祭祀の習俗があり、それを追ってヒボコがやってきたことを『古事記』の伝説は伝えているのでは。↑わっ、長〜いっ!!setohさんごめんなさいm(__)m
モヤがしだ〜いに晴れていくような現象〜……それを写した心境なんです。
もちろん、わからないことばかりですが、仮りに日本の神様の名前ぜんぶが、南部朝鮮の難しい朝鮮語でできたものとしても、そこには高率にネパール語的な語彙がはいっているし、日本に遅れてはいってきた秦氏のことばも、音韻が急速に日本語化されたとしても、「朝鮮語の背後にあるシナ語」の超異質なものは、そんなには感じられないのです。
そしてシナ語そのものが、つい最近(ここ、表現がむずかしいのですが)平原で造語され、それが急激にシナ大陸に蔓延して行ったのではないか……を感じていたのです。
そこへ鹿島昇さんが次のように書いている記述にぶつかりました。
『紀元前十世紀のころ、ソロモン王のタルシシ船はマレー半島からバンチェンに到達したあと、南シナ海を経て日本列島にまでいたたが、洛陽郊外の金村出土の銘文によると、中国大陸に上陸したフェニキア人が、洛陽に植民していたことがわかる。しかし、このような歴史は、なぜか、中国の史書には登場していない』として……
『メソポタミアにはイシン王国があった。シナの古い王朝の殷とはそのイシンらしい。漢字の原形である甲骨文字はイシン王国のディルムン、マカン、メルッハ(水軍の長)などがシナへ持ち込んだエトラ・ドラビダ語族の象形文字だろう』と。
さらに、シナの歴史の記述は、周はアッシリアと、晋はバビロンと、秦はペルシャと、魯はイスラエルと、事件や経過が酷似している』と。
パール・バックの『大地』をむかし読んだことがあるが、そこに描かれている人間像はボノボおカンジ君を連想させるものばかりで、苦渋をのり超えた“文明”は感じられなかった。これ、パール・バックさんの偏見によるものだろうか。
いまじゃああた、ケンリ・ケンリを大合唱する十余億の人々ではある。
ことばの曲がりかど ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
>Setohさん
転載、お手数をお掛けして申し訳ございませんでした。それにしても早い!驚きました。
それで過去ログへ移動していただいたメール中に書きました鉱物の件ですが、やはり間違っておりましたので訂正します。失礼しました。
黄銅鉱に出る事が多いのは、磁硫鉄鉱と、砒硫鉄鉱が正解です。
それから、播磨多可郡の天目一と宗像女神のお子神はアジスキらしいとはいわれてるのですが、地元の関連社ではお子神の名は特定しておりません。お子の名より、婚姻しなかった点と、新に命を生出す事の方に意味があるそうです。
>玄松子さん 話が前後してすみません。
>対半島の防衛ラインとして、玄界灘沿岸の神社配置が有名です。
>東から、宗像-織幡-志賀海-住吉-志登-田島などの古社が並んでいますね。
>「防衛」という見地からみると、兵主ラインは機能するんでしょうか。
よくわからないのですが、A.兵主と、B.宗像・住吉を、結びつけて考えるという事かもしれません。武器(鉱物採掘・加工・炭材)・船材などを調達する目的によって、AとBを祀る民が重なっていったと。播磨・丹波・但馬の場合は姫路を除き、加古川〜円山川の川ルート沿いに兵主があり、その流域には宗像・住吉も、多分鉱山も多く、地域が重なる点が重要なのだとは思うのですが、果してホントに防衛となったのか…。
[948]で神社について、有難うございました。抜粋した本には私の書き込みより無論、もう少し詳しく書いてありましたが、短くしようと省きました。すみません〜。
859年は、貞観元年。三代実録では、この年に全国の神社へ神階が叙位されています。これを貞観式内社と呼ぶ場合もあります。
850年あたりから盛んに、全国諸神に叙位されている状況ですね。
そして905年に延喜式の編纂が開始されました。
神社に関するまとまった史料が出てくるのはこの時期になります。
[942] で あかねさん が
> 対新羅防衛線についてはメールしますね。
と書かれた通り、力作のめーるを頂きました。
あかね さん の許可がでましたので、神奈備掲示板ログに転載しております。
ご覧下さい。
> 長弓寺にある登弥神社
現在は伊弉諾神社の名称です。この社につきましては
www.kamnavi.net/mn/nara/izanagi.htm
に粗末な記載をしていますのでご覧下さい。
> 同寺の坊舎8坊
大きいお寺ですが、坊舎8坊については確認いたしておりません。後日の課題にさせてください。
また、長髄彦、その周辺につきましては
www.kamnavi.net/mn/nara/sumiyosi.htm
に同様な記載をしております。
なお、予断ですが、長弓寺の真弓塚には「なにも霊的なものは埋まっていない」と知り合いの霊能者が言っていました。この塚の前で祈念したそうです。何かあれば、たいていの場合反応があるそうですが、ここはなかったそうです。『> ホレ、信じナシャイ。』とは言えませんねぇ。
ナガスネヒコとクサカについて調べています。
生駒市上町にある長弓寺と登弥神社がナガスネヒコと関わりの深いものであることを知りました。本の中に「長弓寺にある登弥神社」という記載があるのですが、寺社がどういう状態および関係にあるのかご存知でしょうか。
それから、「同寺の坊舎8坊はナガスネヒコの旧跡」ともありましたが、坊舎は8坊なども現存しているのでしょうか。
もしご存知でしたら、setohさんよろしく。
おらはいつも「古代の神様は『ヒメ』だらけじゃんか、こんなにヒメがいたんじゃ道路事情といっしょで、“まつりごと”も渋滞してカナワんやろなぁ」と思ってきました。
また、黒姫などという名前の神様が坐すのは、いくら古代感覚とはいえ、こりゃオカシイですよね。
しかも「ヒメ」を表記している漢字は5〜6種類もありそう。
そこでおらは、ここ3年間ばかりは、このヒメとは“「目ひく一 =日」 + 「目(または目付け)」”の語彙構成からなる金属製錬士の片目神のことで、少なくともヒメと呼ばれている神様の半分は男の神様だ……と、主張しつづけてきました。
ところが、おらのアタマに電球がともった。
「○○ヒメ」とは「○○クマリ(=○○ヒメの“集団”)」ではなかったろうか……、です。
ヒメとはクマリの別呼称だったにちがいありません。クマリとは今でもインド各地にみられる生きた少女神(化身)です。
Jamat-ai(意味は集会ということ)国のヒミコ・イヨが複数氏族のクマリだったことは記録により明らかです。
氏族の構成員が増えてくると、山ひだで細かく仕切られたわが日本列島では、それまでの占拠地ではすぐに狭くなり、肉親は泣きの涙で各地に散りました。それは渡来民の割拠状況の記録にもあります。
そのとき、複数氏族統合の象徴がクマリ(ヒメ)だったにちがいない……です。ですから、ヒメとは個人名ではなく、氏族〜集団の名前だったにちがいない。これが電球の「ともしび」です。
具体的には、いろんな例外現象もありましょうし、一氏族が同一地域内によそをまねてクマリを立てた場合もあったしょう。
では、なぜネパール語系やパーリ語直の制度名でなく、新たに「ヒメ」という語彙ができたか……。
これはたった今の発想で申しわけないのですが「クマリ」は「クソまり」にそっくりで、コマラ(パーリ語)は「困る・小マラ」に通じるから……。
おら、泊瀬女ちゃんに「その前にクマリを入れて“クマリ・泊瀬女”にしなせぇ」と言ったら
カンタンに嫌われちゃった。みごとな直感力に敬服する。もう言わね。maphi ra〜 アマカネ。
ヒメという発音が決まるまえは「ヒルメ」だった筈です。「ヒル」はわかりません。この解説について、クソヂヂィは「霊力の発動」という領域に逃げこみました。
BC.450年、ヒルミコという氏族名がギリシャ周辺に現れています。沢内村には真昼岳があります。
ことばの古代のことば ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
『加古川流域の古代史(上・中流篇)』神崎勝著・妙見山山麓遺跡調査会発行 から抜粋した内容に自分の見解を加味してお伝えします。
@道主日女命=道主貴であり、この「道」は本来、半島への航路(海北道=北ノ海ツ道)を意味し、玄海灘の沖ノ島を基点としたこの海の女神への信仰は、日本海沿岸を経由して山陰・北陸方面へ拡布していったらしい事(能登のへくら島は旧名沖ノ島、出雲の隠岐島は沖ノ島)と、宗像女神信仰は更に内陸部へも伝播していき、播磨各地にも関連する信仰伝承がみられる事。多可の播磨二宮・荒田神社(式内社天目一神社)と式内社古奈為神社も宗像女神を祀り、加古川上・中流域にはこの海の女神を奉じる社が多く、これはその信仰が日本海沿岸沿いに山陰・北陸地方を経由し中国山地を越えて伝播した事をさす。
A多可では宗像女神は針間鴨国造山直(主に多可・賀茂郡を支配)による奉祀を受けた事。
B宗像女神と伊和神(天目一・スサノウ・大国主等)の聖婚伝承等、播磨でこれらの信仰伝承が伝播ないし成立した時期は、住吉大神系の海神信仰伝播との関係からみて7C中頃より以前の段階とみるべきで、その伝播背景には全国各地の豪族たちが大和朝廷を中心として朝鮮半島へ進出してその利権獲得に狂奔していた6〜7C代に、この地方の豪族たちの半島進出が日本海ルートで行われた事が想定される。多可郡の6つの式内社の内、荒田・古奈為・天目一の三神社は多可地方の古代氏族の動向と深い関わりをもつ社。
C兵主神社19社のうち10社が兵庫県にあり、姫路の射楯兵主を除くと、加古川〜円山川ルート上に点在し、因幡や壱岐の兵主神社などを点綴すれば、日本海〜玄海灘を結ぶルートと直結している。香住町には九斗や隼人、浜坂町の沿海地方にも兵主神社がある。
D大和穴師兵主神社の初見は859年、穴師神は842年を初見とするので、多可郡黒田庄岡の式内社兵主神社を大和から勧請したのはそれ以降である。近江や壱岐の兵主神社の初見も、859年に集中している。なお、黒田庄町の式内社・兵主神社も、社伝によると延暦3(784)年に大和国から勧請された」としてるそうです。
E834〜897年に渡る半世紀余りは、平安期を通じ最も新羅との関係が緊迫した時期。天平年間に新羅討伐が中止されて後は、新羅との関係は比較的平穏で新羅人の入国・帰化も許されていたが、840年以後は新羅人渡来を禁じ、先立つ承和2年に朝廷は壱岐国へ防人を配備する等、西辺防備を強化したが、870年以後は壱岐・対馬をはじめ大宰府を中心とする北九州諸国、更に山陰諸国において武器・兵員を増強しつつ、更に北陸諸国へは恕師を派遣して弓兵の養成に当らせた。836年以来行われなかった遣唐使派遣が894年に半世紀ぶりに計画されたのも、新羅と対立する外交政策の一つと理解できる。
各地の兵主神社はこうした国際的契機の下で一斉に設けられていったと考えられる。
F多可郡黒田庄町岡の兵主神社は大志野郷を官郷とする神社であり、この社が加古川〜円山川〜日本海〜玄海灘を結ぶ各地の兵主神社群と畿内の兵主神社を結ぶ起点として位置づけられた背景は、岡(風土記の都麻里)が、奈良時代を通じ朝廷によって直轄支配されてきた「椅鹿山領地」北端部に位置する事と無関係ではないと思われる。
(7C中頃、明石川〜加古川周辺の東播磨諸地方が半島出兵に向けての造船基地として再編成されて、その頃半島交渉の守護神として国家的祭祀を受けていた住吉大社神領として認識された←これらの地方で刈出された用材は、住吉大社の神霊を鎮めた船材<船木※>として臨海部へ運ばれ、造船に供された)。
※←この切出しには多臣系?(これは私の推測)の明石の大海人が船木連配下で当たった。
尚、大海人は、多可郡(風土記では託賀郡・大海山・荒田村・賀眉里)へ定住しました。
同郡加美町にも多田の地名が残り、東播磨北部〜丹波へかけ多・大のつく地は多いです。
また、賀茂郡には船木氏の「行基」が携わった庄園が残り、加古川沿いに行基縁の寺もいくつかあります。
GFにより、加古川本流沿いとその以東の地には、住吉神社が集中してます。
>1 立地 小高い見晴らしのよい所? 烽火の届く所に次の兵主神社ありや?
兵主神社のある地は、地名からいくと鉱山のある地が多いようです。黒田庄の岡は現地へ行くと小高い感じはしませんが、字名からすると周囲より少し小高いようです。
兵主神社のある所は、海や川の交通上などの、重要な地だったかもしれません。
加古川〜円山川沿いにある兵主は、川の交通の要衛のようで、例えば、黒田庄兵主神社の近くには加古川が流れ、「式内社大津乃命神社」(=船着場の神)もあり、この辺りも風土記の都麻の里で、官郷の津万郷でした。
>2 対新羅 白村江以降の緊張、それとももっと昔、とすればいつ頃でしょうか?
防衛した主体は? 大和朝廷かな
はい。DEFです。
>3 兵主神とは兵站基地に祀られた神 兵士を鼓舞した、逃亡したらたたるゾー。
播磨は「中国山脈〜近江へと続く生野鉱床帯」上にあり、加古川以西は宍粟郡など鉄生産が盛んでしたが、加古川以東では鉄そのものは殆ど産しなかったようです。但し、中国山脈から流れ出る水脈が続くため、水質から行くと褐鉄鉱ならなんとか採れたかもしれないです。
それと、黄銅鉱に含まれる事が多い、硫黄を含む磁硫鉄鉱と砒硫鉄鉱、磁鉄鉱なら東播磨一帯でも多く採れたので、鉄自体ではなくても、全く鉄が出なかったとは言えないかもしれません。これは摂津でも同様です。
(東播磨〜摂津〜丹波は、銅山・銀山が多いです)
銅は古代製錬でも今の刀工でも取り除けませんが、奥州刀など、古代刀の鉄刀は銅を含むものが多かったそうで、磁鉄鉱等で造られてたかもしれないそうです。銅を含む刀は折れ易く、再度鍛え直せないものの、刃目に地模様が出るそうで、それが味ともなるそうです。
つまり兵主神社のある地は鉱物・燃料材を産する地が多い?ので、兵器をつくる重要な地であり、すぐれた採掘・加工技術を受継ぐ民のいた地だと。故に天目一・金山彦・イシコリドメ・スクナヒコ彦など、鍜治・製鋼・鋳物の神は播磨にも多く、多可も大和鍜治の起源地なのだと。
加えて、平城京・平安朝の時代から国宝級の建物を手がけた名工たちは、大和鍜治と韓鍜治を起源に持つ三木の鍜治から出た「日原大工」という東播磨の大工たちでした。大和鍜治は後の河内鋳物師も輩出。全国に技術を伝播しています。ちなみに姫路・揖保周辺からは鉄が出ており、姫路には平安から野里鍜治が居住。多可も明治初期まで鍜治が多くいました。
即ち、兵主のある所は、兵士を兵器でパワーアップ、鼓舞する地であり、その地に兵器の神を祀る事は、神を称え、その恩恵にも預かることになるのかな、だから大丈夫?と思います。
鉱物の出る土地は播磨の場合、長石なども多く産するので、古来より土地も豊かで天領だらけです。中国〜播磨の山々も、炭用に木々を狩出しても30年で植樹しなくてもほぼ、もとの状態に戻る恵まれた山です。百姓一機も全国一少ない土地柄です。酒米の山田穂が多可郡中町の山田翁(庄屋)によって開発され、明石の農業試験場?で山田穂にかけあわせて山田錦が作られた事も、古代よりの恵まれた自然環境・土壌・信仰?ゆえかもしれません。
うわぁ。我ながら長い…ご迷惑をお掛けしてすみませんm(__)m続けてごめんなさい!
↓の妙見山ですが、多可郡の中町加美町の妙見山・黒田庄の妙見山、山南町・妙見山、
能勢妙見山とは、一直線上に並んでます。
また長くなってご迷惑ですので、勝手ながら対新羅防衛線についてはメールしますね。
>5c中頃に百済系韓鍛冶が「丹生山」に来て、・・、紀伊・伊勢・・と相互に交流
>>播磨国風土記の「神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った」話に符 合しているようですね。
前後してごめんなさい。これは符号してるらしいです。7cに「椅鹿山領地」が加古川中・上流域に成立する以前、5〜6cから山直は、大和へ山の資源を出してたそうです。
>播磨国風土記飾磨の郡大田の里
これは播磨・揖保郡大田の里のことですね。でも飾磨郡美濃の里や揖保郡美濃谷は、5c以来、茨木・高槻辺りの首長であった「三嶋県主飯粒」が、安閑朝へ献上した摂津国西成郡三野郷と、何らかの関係があるのかもしれませんね。多氏の移住地・足跡を、鴨族が追ったためかな。ちなみに「三嶋は鴨族」です。
>播磨国の揖保の郡の大田の村とは 太子町太田の辺りでしょうか。 はいそのようです。
> 摂津国 大阪府茨木市 太田神社あり また大字安威の阿爲神社の由緒に
> 安威周辺の将軍山古墳や海北塚[かいぼう]の石材は紀ノ川流域から運ばれている。大田連の居住地であり、渡来系で紀伊の大田からの移住者と推定される。
「太田村」は茨木市の島下郡とされ、「太田神社」は呉の勝の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成し、6c以降?に中臣の祖神天児屋根を祀ったそうです。ですが、呉の勝が紀伊から太田へ移住したのは、地元の郷土史家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残ります。で、阿為神社の本来の祭神は、建甕槌神を鹿島の多氏がこの地に奉遷したそう。
尚、茨木市太田東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」もあり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土してます。また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あるようです(ご存知の事を書いてすみません)。
茨木は西国街道にあって、北摂は街道でも川の道でも、重要な位置だったようですね。続日本紀には高槻市北部・神峰山山麓の原〜丹波〜但馬へ行く桧尾川ルート(枚方・交野市へと流れる「天川」の上流地域です)が出てくるそう。紀伊から播磨へ入ったルートは、紀ノ川〜吉野川〜飛鳥川〜淀川〜桧尾川〜丹波・篠山川〜加古川〜市川と、川が主な道筋だったかも。海人ですし。方向音痴なんで今一、イメージできませんが…
> 摂津との関係では粒坐天照御魂神社と疣水神社があげられます。
神功皇后と、揖保郡を開拓した阿曇連百足関連からですね。安曇氏が淀川河口・三島で開拓したと。
> 紀伊との関係では中臣印達神社と伊太祁曽神社が考えられます。←主に忍海部からみですね。
> 天目一=スサノウ、播磨には素尊が片目であるという伝説があるのでしょうか
はい。あります。多可郡には道主日女命(宗像女神)と天目一命が婚姻せずに、同郡黒田庄町(式内社兵主神社がある)でお子神・アジスキをなした話や、郡北部でそのお子神が天目一に酒を奉げて父だと示した話が残ります。更に西脇市(昭和27年までは多可郡)大木町(この地の天目一神社は地元の専門家は式内社ではないとしてます)には、“道主日女が刀鍛冶のスサノウに守り刀造りを頼んだところ、刀が思い通りに造れずに、やけになって振り下ろした槌の火花が目に入って片目になったが、十日めにできあがり、ヒメへ刀を持参して求婚(婚姻してないけど)し、ヒメはそれを受けた”という伝承が残ってます。
多可郡北部には他に、「あまんじゃこ(天邪鬼)」(=郡名を名付けた大人=天日槍命)が残した大石もいくつか残り、それは野タタラを現すと同時に、太陽信仰も示してるのかもしれません。どうもその石が置かれてる場所(銅山)を結ぶと三角形になるようです。そして、多可郡の中心的な銅山であった妙見山の南麓には「日向の風」信仰もありました。更に西脇市大木町の天目一神社を中心にして、その三方の山の頂きには、環状列石も残り、結ぶと直角三角形?なるようです。
どうもありがとう!近いうちに必ず行ってみますね!!
あのですね、船玉姫命は女神様です。
彼女は船玉大明神と言われる方だと私は聞いています。
ついの神様で船玉彦命さんって男性の方もいます。
なぜ知っているって・・・。それはひみつです(*^^*ゞ
群馬などの船玉様は川を渡る舟をおまつりするものです。
船玉は舟の神様のというほかに道をスムーズにするという意味があるので人生の岐路になったら気休めですけどお参りに行くのもいいかもしれませんね。
ありましたよ。神奈川県横浜市神奈川区入江 一之宮社「船玉姫命」です。
所で、質問があります。
1.船玉姫命とは女神でしょうか? 船玉命や船玉大神と呼ばれる神々は現在は同じ神と扱われていますね。
2.船玉の神の一番古い方で、西暦300年頃とされている理由は何でしょうか?是非知りたいものです。
船玉社って全国で数拾社あるんですね。群馬県にも!。ここ海に面していませんよね。
初めまして、こんにちは。m(._.)m
YAHOOで船玉を検索していたらこちらの掲示板にであえました。実は私は以前から船玉神社を探しています。船玉だったら何でもいいわけではなくて、祭り神が船玉姫命(ふなだまひめのみこと)のを探しています。船玉の神の一番古い方です。西暦300年頃。かなり古い時代の方なので今は船玉と言えば他の人になってしまったり、住吉神社に合併されてしまいなかなか見つかりません。でも、絶対にあるはずなんです。本によっては祝詞にものっています。そこで、どなたかご存じのかたがいたら教えて下さい。メールでもかまいませんお待ちしています。よろしくお願いいたします(*^_^*)
> 兵主=日槍=新羅の王子と連想してしまうので、対新羅防衛線とは!!思いつかない新鮮さですね。
対半島の防衛ラインとして、玄界灘沿岸の神社配置が有名です。
東から、宗像-織幡-志賀海-住吉-志登-田島などの古社が並んでいますね。
「防衛」という見地からみると、兵主ラインは機能するんでしょうか。
> この辺りの話、もう少し、お願いできませんでしょうか。
> 因幡の巨野乃兵主神社や佐弥乃兵主神社、壱岐の兵主神社などと結べば、やはり新羅への防衛のため故となるようですね!
ねあかのあかねさん、面白い発想ですね。兵主=日槍=新羅の王子と連想してしまうので、対新羅防衛線とは!!思いつかない新鮮さですね。
この辺りの話、もう少し、お願いできませんでしょうか。
1 立地 小高い見晴らしのよい所? 烽火の届く所に次の兵主神社ありや?
2 対新羅 白村江以降の緊張、それとももっと昔、とすればいつ頃でしょうか? 防衛した主体は? 大和朝廷かな
3 兵主神とは兵站基地に祀られた神 兵士を鼓舞した、逃亡したらたたるゾー。
席亭の発想は即物的で、miss.Matsukoさんのようなロマンがありませんね…m(__)m 。
ネパール語のakhas を日本人が聞いたら「ア−カース」(“ー”はも少し短いらしい)で、「空・海」の両方の意味があって、日本語の「アマ」の考え方に酷似しています。
末尾が「イック」となっているのをみると、こりゃ英語くさいが、こりゃどういう意味(語源)でっしゃろ?
あのな、だれが言い出しっぺかは詮索する必要はまったくないんじゃ。いやさ、有害ですらある。
モンダイは、そういく記録装置がおらたちのノーミソに、あまねくセットされているかどうかが、チョ−だいじざんす。
そして、その内部に突入して異次元体験をする若者の群れを社会がどう支援するしてゆくか……ここだ!
「誰がいうたか」を極める神経は現代の“まちがった学問での佇まい”が然らしめる名誉がらみの集団形成作業にしかすぎねぇ。
サリセッセがいみじくも宣りたもうたように、ダイジなんは「ロマン」であらいしょ。200年後の智的水準からみたら、わえらアホばぁやりよんのよ。おらが『価値観のヘリクツ』みてけろ。
www.you-i.org ⇒ 『ユーアイ・カラー』 ⇒ 価値観
> アカシックレコードを言い出したのは
> 心理学者ユングではなく、人智学のルドルフ・シュタイナですよー!
そうでしたか。
僕は、エドガーケイシーあたりだとばかり思っていましたよ。
アカシックレコードを言い出したのは心理学者ユングではなく、人智学のルドルフ・シュタイナですよー!
播磨国風土記飾磨の郡大田の里
大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。
大田の郷を比定してみます。
紀伊国名草郡 和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側 太田黒田遺跡あり。
摂津国 大阪府茨木市 太田神社あり また大字安威の阿爲神社の由緒に
安威周辺の将軍山古墳や海北塚[かいぼう]の石材は紀ノ川流域から運ばれている。大田連の居住地であり、渡来系で紀伊の大田からの移住者と推定される。
播磨国の揖保の郡の大田の村とは 太子町太田の辺りでしょうか。
摂津との関係では粒坐天照御魂神社と疣水神社があげられます。
紀伊との関係では中臣印達神社と伊太祁曽神社が考えられます。
所で
> 天目一=スサノウ、播磨には素尊が片目であるという伝説があるのでしょうか。
針間のハリ、尾張のハリ、天照御魂神、火明神、海人系、こちらも面白そうな課題ですね。
> ユングのように、何もかも「全人類に共通」なんて云われたらみもふたもありませんよね。
あれ、アカシックレコードってそういう意味なんですか?
太古に人類が経験したことの記憶が「遺伝情報」として、残ってきたのが、アカシックレコードだと思ってました。
だから、「言葉」で伝承しなくても、人が、「記憶の遺伝」を持って散らばり、(紋次郎氏による指摘、血が濃くなりすぎないようにとの、他民族との婚姻なども含め、騎馬民族の移動、など)新しく民話・神話を作っても、自分たちの祖先の記憶が残っているから、同じようなお話ができちゃう・・・そんな風に理解していました。
確かに、全人類共通・・・って言われたら、おもしろみがないかも。
でも、「記憶の遺伝」にはロマンを感じませんか?記憶が遺伝しているから、見たこともない、神話の世界を、身近に感じることが出きるのかも。
> ただ、この手の神話は、何もギリシャ神話と日本神話に限ったもんじゃないので、
そうです、この二地点に限った話ではないから面白いのではないでしょうか。
太古の昔、言葉や神話を担いで、人々が移動し、あるいは伝え合って、文化のネットワークができた。そう考えるから、紋次郎氏のネパール語研究も意味があるのではないでしょうか。
一見、何の関連も無い、二地点の言語や、神話のモチーフに共通点を見出し、その関連を探る試みが、この掲示板でも行われており、そこにロマンがあるのでしょう。
ユングのように、何もかも「全人類に共通」なんて云われたらみもふたもありませんよね。
Setohさん・香具さん>
ごめんなさい。三坂明神社は完璧に勘違い…。御坂・三坂・美坂・御酒と7つ?もあってこんがらがってました。やはり式内社御坂神社の後裔社は、志染町にある「御坂神社」だと思います。御坂神社には古来からの「弓矢式」?も残るそうですし。御坂神社祭神は大物主・葦原志許男・八戸掛須御諸命、許大神だから、兵主の社と関係ある気もしますね。香具さんのおっしゃるように川の合流地、堺にある所に意味があるかもしれません。
加古川以東の東播磨は、「瀬戸内海・加古川(支流含む)〜篠山川〜由良川〜円山川〜日本海〜玄海灘」の海・川ルートが古代より開けていたようで、7cには丹波の阿知万〜三田市〜三木市加佐〜多可郡西脇市・黒田庄町〜阿知万へと続く、「大和朝廷直轄杣山地帯=椅鹿山領地」として編成されてました(この地を支配してた山直は、6には既に産物を中央へ献上してたそうです)。つまり、加古川以東は朝廷への鉱物資源・炭燃料材・船材・建材・石棺材などの供給地帯であり、西播磨を押さえて、吉備国を制圧するための拠点地だったそうです。更に、加古川〜円山川ルート上には、兵主神社総数19社のうち、姫路の射楯兵主を除いて、9社が点在し、因幡の巨野乃兵主神社や佐弥乃兵主神社、壱岐の兵主神社などと結べば、やはり新羅への防衛のため故となるようですね!
あ、加古川上流の支流・杉原川沿いの多可郡(風土記では託賀郡)北部などにも、熊野部(辺)等、紀伊縁の地名は結構、ありますよ。天船など、物部系の地名も残ります。宍粟郡には『播磨一宮・伊和神社』があり、佐用郡には「天一神社」が残り、『播磨二宮・荒田神社』(式内社天目一神社と比定。後背地の古墳から天目一の御霊刀といわれる刀が出土。地元では、まひとつさんと呼ばれる)は、宍粟郡の隣・神崎郡から更にすぐ東の多可郡にあり、全て鉱山のあった地。そして播磨二宮では、天目一=スサノウと宗像女神が婚姻せずにアジスキを産まれた事になっており、その社には聖徳太子や坂上田村麻呂伝承も残る…。加えて東播磨を治めたのは天目一を祖先神とし、息長氏系である「針間鴨国造・山直」。しかも多可郡は大和鍛冶の起源・起源地です。海人・製鉄、渡来民などとその神の繋がりが感じられて面白いです!
> ギリシャ神話のパクリ(影響)という説もありますね。
イザナギの黄泉の国訪問=オルフェウスの地獄訪問
アメノウズメの裸踊り=デメテルの裸踊り
でしたっけ?他にもあったと思いますが。
ただ、この手の神話は、何もギリシャ神話と日本神話に限ったもんじゃないので、どちらかというと、ユングの言う、アカシックレコード(太古の記憶)なんじゃないかと思います。
ていうか、そう思ったほうが楽しいなぁって。
いまから10〜25年前のおらの関心事は川崎真治さんの著作を読むことでした。
川崎真治さんは言語の面「ウル・シュメール・エジプト起源論」を展開しておられました。
まいとし、2〜3回は電話して、こんどはどこから何という題名で本が出るのかを川崎真治さんから教えてもらっていました。
その頃、川崎真治さんは吾郷清彦さん、鹿島昇さんと三人共著という形でガシッとした本を出されました。本の名前は2 m先の本棚まで行けないので、ザンネン至極ながら、いまここでは紹介できません。
吾郷清彦さんといえば古代文字研究家として「亜流学問」の大家です。鹿島昇さんについては、あんまし知らないのですが、なにせ世界文化潮流の大局を抑え、オリエント⇒極東文化を精密に調べあげた人です。
ところがこの3人さん、この本の出版のあと、3人揃って急速に勢いが落ちたのです。
これはおらの、まったくのアテズッポウの推理だが、この本で吾郷清彦さんがU.F.O.文字についてまで言及されたのがイケなかったのだと惟ふ。
ことばにもならない領域の……その文字までとは! 偏執の限界がワカラなくなって世紀の鬼才・3人が枕を並べて討ち死にしたような結果を招いたのではなかったでしょうか。
『かむなび』にお世話になって、なにかワカランまま、且つ、記憶にはまったく残ってないが、おらのドタマも神様の名前なんかには、すこ〜し馴れてきたみたい。
そこで「ボツボツかな?」と思って、鹿島昇さん関係でのツンドク本の一つを開けたとたんに『BC.695年±40 に国東半島で製鉄遺跡』の記述がおらが目にとびこんできました。
宇佐八幡の三神……など、『かむなび』のハナシに出てこなかったワケがないのですが、タキリ、イチキシマ、タキツと、こう並べられたを見ると「ta-kir ・女地・屹立神」と、ピシャッと意味が出るではア〜〜リませんか!
おどろきイッパイの記述が連なるなかに、上田正昭さんの言として「平安時代の歌に“やはたたねまく”があるので、八幡とは農耕神だったと思われる」が紹介されています。
アホこくんじゃねぇや。こりゃ 「ya(神)・ハタタ(雷)+ ne(指導者)maki(族・一家)」と読むのら。
どなたか、この歌の前後の文字を紹介して下さい。瀬戸内っつぁん、香椎で清々しかとでっしょ? 教ぇてぇな。
吾郷清彦さんは島根のご出身であるだけに、じつに惜しまれる失敗デシタ。
言語オンチの掲示板 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
0957 いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
前略 瀬戸内です。
今朝 香椎宮を散策しました。 気候もよく気持ちのいい朝でした。
本殿 武内神社 古宮とあるきました。歳を取ってくると朝が早くなります。6時半ぐらいですけど 人は結構多かったです。
いい雰囲気ですが 気にいらないところがあります。
手を洗い 口を漱ぐところの水が流れていないところです。
杓が洗えないのです。この1点 神社の方の感覚に疑問を感じます。
わが国でも 由緒ある神社がこのような始末です。
もっと きちんとしてもらいたいものです。
でも 境内は いい雰囲気です。
因みに 箱崎宮は流れています。当たり前のことですが。
中央公論社刊 ; 『科学が明かす古代文明の謎』金子史朗著 44頁に北アフリカ、ブッラ・レギア出土、大理石でできたビーナスの写真がでています。
この写真、よくみると鼻梁はそれほど高くはないし、鼻が丸まっちい。大理石の写真なので眉やひとみの黒色はありません。そこでおらはボールペンで眉とひとみの黒を描いてみて……ビックラコ! いとこの英子じゃんか!
いまじゃ70歳のババァだが、博多市民を代表したみたいにして力道山に花束を捧げたこともある美人でした。
このビーナス、何族の娘かは書いてないが、この頁周辺にはカルタゴ、フェニキア、ギリシャなどの民族が書かれています。
北アフリカといえば、思いだすのはベルベル人のことです。バルバル人とも云われバーバリアン(野蛮人)呼ばわりされた民族ですが、ここの娘が嫁いりするときには“毛”でツノを作って、これを頭髪のなかに隠し、白い布で被ううそうです。ネパール語でツノは sing 。エデン語 ; kar は「作る」ですが、singgar となると「化粧する」になります。
当時、エジプトの北にミイラ製造に不可欠なアスファルトの生産を抑えていたナバタイ人がいました。ナバタイの末尾の「イ」は「人・処・神」であることが考えられます。これを神だとすると、ta-nabata……タナバタ(七夕)と同一です。ta-naka(田中) さんは mi-lok(ミロク)さんの別造りです。
けふ、『ほにゃらか掲示板』に XaXa(姐さん・大地など)をカキコします。XaXa は hawa(風)の語形を写している筈です。
姐さン、サワヤ〜〜カあるね。悟っちょる。古代人はそーゆーのを神にしやした。ナガイキしなせぇ〜イヨッ。
世界の古代世界をことばで拓く ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
あかねさん、有難うございます。
三木市は隣町ですが、神社に目覚める以前に訪れただけでした。
[912] 『チャランポラン』で書き込んだ御坂神社も、地図で確認したら記憶違いで御酒神社の間違いです。ゴメンナサイ。(石上山はあってました)。ウロ覚え状態のところ、あかねさんのご解説で見通しが開けます。
強引ですが三坂神社と御坂神社を同じと数えると三木市内に四つ拾えました。
三木市北東に接する美嚢郡吉川町から流れてくる美嚢川と、東部から流れる小川川が合流する細川町豊地に三坂神社がひとつ。
さらに市内南東で、淡河川と志染川が合流する志染町御坂に御坂神社が二つ目。
先の2地点で合流した川が、それぞれ美嚢川、志染川となり市内中央部の岩宮で合流し美嚢川となるのですが、この合流付近にあるのは岩壷神社です。
そこから美嚢川は大きく蛇行し市の中心部に至り、西岸の加佐に三坂神社があり三つ目になります。
市中央を過ぎた川は川幅を広げながら西に向い、南岸の別所町東這田に四つ目の三坂神社があります。この三坂神社は西南の加古郡稲美町に向う道沿いです。
川はさらに下って西端で加古川に合流します。
このように三木市の中央、西部、北東、南東にあり、川(道)の分岐箇所にあたるようです。
どうも勾配のある坂というより、境というか三つに分かれる(裂く・割く)という意味でしょうか。現地で地形を確認しなければ判りません。
御酒神社は、市内の西(別所町石野)と、北東(細川町中里)に対称にありますね。
ポピュラーな八幡さまは八つ、他に、愛宕神社が四つ、大歳神社が五つ、八雲神社が二つと拾えました。
>「み」は身・見・御・霊などもありそうですね・・・
でしょ。実とか、水・三・深・満なんかも繋がりませんでしょうか。
『ミ』神は、古代のシャーマンがチャネリングした、グレート・ホーリー・スピリットだ。
などという漫画そのものの妄想を描いてみましたが、遊びの域を越えません。
「み」には何か惹かれるものがあるのですが・・・・。
> 日本の神様とギリシャの神様ってどこか似たところがありますね。
ギリシャ神話のパクリ(影響)という説もありますね。
> 泊瀬女は困っています。
風のように、「吹いて」りゃ良いんじゃないでしょうか。
雰囲気ですよ。
泊瀬女は困っています。私のバカみたいなレポートが紋次郎さんにほめられちゃった(のかな???)。香具さんも楽しみだと言ってくださるし。どうしましょう。
神奈備の掲示板ではレベルの高い討論を理論的に闘わせているので、私なんかついて行くのが精一杯。皆さんの息抜きに軽いお話を・・・って時々割り込んでいただけなのに。
戸惑ってオロオロしてます。
玄松子さんは日本の神様だけでなく、ギリシャの神様のことまでよく知っているのね。博学であきれます。いいメールアドレスがきました。日本の神様とギリシャの神様ってどこか似たところがありますね。多神教だからでしょうかね。風神雷神図のような風の神ではなく、そよかぜのようなアイオロスを心がけましょう。
坂に就いて少し面白いことがあります。下記ローマ字はアイヌ語です。
tupesan kur は 8つの・蔭 の意味になります。八雲、でも大過ないと思われます。
tupes san kur としても最初の語は8を意味し、8つ・出る・雲 の意味合いです。
これが 八雲立つ出雲、というから出雲という、という出雲の語源のミッシングリンクじゃないかと。
最初の tupesan kur が tupesan hur となると「八坂」です。
san kur の部分だけ抜き出して 漢字を勝手に宛てると「三雲」「三蔭」→「御蔭」
san hur と訛らせて漢字を勝手に宛てると「三坂」→「御坂」など。
こんにちは。はじめまして。
わたくし、この度、古代史関連のHP(Historical http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/)を立ち上げることとなりました。
そこで、「神奈備にようこそ」様にリンクをはらせていただきました。
事後報告になりますが、どうぞ宜しくお願い致します。
また、遊びに来ます。
大三元さん>「坂」それ自体が神格を持っているということではないと思う。
書き込みありがとうございます。大三元さんのオノゴロ島論、アイヌ語で古代を見ると見えてくる典型だと思います。皆さんももう一度ご覧下さい。
「山」を「神体山」としますと、「山」そのものが神です。
一方、「坂」とは「坂の上の神」「岡に坐す神」を一言での表現したものと考えることができますね。
お祭りの中の言葉遊びになっちゃいますね。
あかねさん>三坂神社は、重文の「三坂明神社」のことですね。
あかねさん、書き込みありがとうございます。示唆に富む内容で参考になります。
三坂明神社の件ですが、式内社の御坂神社を兵庫県三木市加佐の天照皇大神を祭神としている三坂社であると言う意味ですね? そうだとするとその根拠はどんなものがあるのでしょうか?
>5c中頃に百済系韓鍛冶が「丹生山」に来て、・・、紀伊・伊勢・・と相互に交流
播磨国風土記の「神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った」話に符合しているようですね。
播磨はイダテ神も出てきます。紀の国の伊太祁曽神社の祭神とされます。興味津々の地域ですね。播磨の御出身で土地勘がおありのようです。今後ともよろしく。
Setohさん、お久しぶりです。香具さん、初めまして。話の流れをよく理解してないままに書いてますので、ピンぼけだったら申し訳ないのですが、私も播磨出身なので少し…。
ご存知だと思いますが、三木は加古川支流・美濃川に沿って開け、播磨風土記では大江の伊射報和気命(履中天皇)が「水流甚美しきかも」とおっしゃったので「みなぎ」と名付けたとあり、更に三木市HPにもあるように「三木の地名の由来は、神功皇后が市内の君が峰で休まれた時、土地の者が壷に入れた酒を献上したことから、御酒(みき)、美壷(みつぼ)と呼んだのが始まりで、御酒⇒三木、美壷⇒美嚢(みのう)に転じたといわれています」。三坂神社は、重文の「三坂明神社」のことですね。
この酒を入れた壺は「甕=みか」なのでしょうね。播磨国風土記にある、例えば、託賀郡法田里「甕坂」も、丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境界としたものだそうですし(「み」は身・見・御・霊などもありそうですね)。
また伊射報和気命は、美嚢郡志染(しじみ)里の志自牟(=<縮見屯倉首>=忍海部造細目)の家に入ったとされるため、美嚢、志染(志深)は、「葛城の忍海」に関係のある地らしいのも面白いです(そして景行天皇の七十余の子は筑紫、讃伎、伊予、阿波、播磨、美濃などでも統治しており、みのの地名は播磨各地や、美嚢郡吉川町にも箕畑村の地名が残り、美嚢が後に美濃となる事と何か関係ある気もします。わかりませんが)。
加えて三木金物の歴史は、5c中頃に百済系韓鍛冶が「丹生山」に来て、在地の大和鍛冶に先進技術を教えた事に始まり、続二本紀によると、美嚢郡大領に韓鍛首広富という人物がみえ、紀伊・伊勢・伊賀・近江・丹波の忍海漢人・金作部・弓削部・韓鍛冶など近隣諸国の鉄工技能者と相互に交流してた事もうかがえるようです。
で、結局何を言いたいのかと申しますと、東播磨は加古川上・中流(支流含む)を中心に、天目一(=天児屋根・スサノウ等)や宗像女神縁の社が多く、三輪との関わりも深いようで、鉱物採掘加工の民も神々と共に移動・定住していたと。ちなみにこの辺を中世まで主に治めてたのは「針間鴨国造・山直」で、無論、天日槍命・加茂大神との関係も深いそうです。やっぱりズレてるか…。ごめんなさい。
オッ 大三元さんが来てらぁ〜!
もういっぺん、ここ見てくれるかなぁ。おらの知るかぎりGenさん(Gensさんでない、大三元さんのこと)は、アイヌ語研究史上、得難い人物です。鬼平さんも……。
パソコン持っていたら、大いにやり合わないと……。でないと日本民族〜アイヌ民族……引いては世界的損失です。
サラセッセわりいなぁ、言語のことバッかしになっちまって……。それくらいに、言語はたいせつなんだよナ。
大三元さん、『かむなび』は兄弟掲示板として、元気バッカの紋次郎主催の掲示板を、ここ以外に二つ持ってい
て、言語は『ほにゃらか掲示板』; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
綜合会話は『ユーアイ掲示板 』; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgiと、二軒も別荘を持ってるんです。居心地満点でおつりまできます。
気が向かないでも、イヤイヤながらでもおいでください。ここはいちおう“神域”らしいです。
けふの大三元さんのカキコ、『ほにゃらか』に移してもいいですか?
縄文末期に日本列島で行われていた言語(もし複数あるとするなら、その一つ)を縄文語と仮称する。この基層に前3世紀辺りから後3世紀の弥生時代と言われる期間を通じて恐らく複数の言語(と人種)が数波に亘って渡来して来て、彼らの言語(複数)と縄文語が何らかの形で混合して弥生語を形成した。
その間、渡来勢力から逃れた人達や地域では縄文語が(続縄文の土器文化のように)使われていた。その縄文語はそれ自身の内部的変遷があったであろうが、アイヌ語として現在に残った。
大山祇、コノハナサクヤ姫、クシナダ姫、ら先住民族は縄文語の使い手だった。
彼らの子孫は、縄文語で聞いた縄文以来の各種伝承を次第に弥生語、次いで古墳時代の言語(もし、そんなものを定義するなら、だが)、そして、奈良朝の日本語で『翻訳しながら』伝えて来た。
だから、記紀・風土記に残る伝承の幾つかは、アイヌの伝承と共通した事が出て来たりする。共通伝承らしい例では、共通する、という以上に、日本語に『翻訳』された伝承をアイヌ語を利用して縄文語に『戻して』みると、日本語に翻訳したために喪失していた原典の味わいまでが復活してくる。
こんな仮説(パラダイム)のもとで日本古代史の謎の一部がアイヌ語を『援用』して解けるものがありそうだ、と思ってる。アイヌ語で解ける、ということはその伝承(或いは地名など)が縄文起源だったことをうかがわせる。
こちらの最近の話題に少しコメントさせて貰うと、「坂」それ自体が神格を持っている、ということではないと思う。
アイヌ語 kur が「人」「神」を意味して、この語が hur (坂)と音声としても近いことから、訛りとか、誤解とか言葉遊びを通して、日本語に翻訳したり、漢字を宛字したりする時に「坂」になったのだ、と考えている。
休日が明けて掲示板を覗いてみると、setoh監督の六甲颪しのような千本ノックが始まっている!
>兵庫県三木市・・・
刃物と金物・鍛冶がらみで行くのみで、まさか三木が御酒にかかるとは思っていませんでした。神戸市西区から三木へ抜けるルートの途中に、『神出(カンデ)』という地があり、ここには『雄岡山・雌岡山』というとても秀麗な神奈備山があります。(オッコウ・メッコウ)
スサノオノミコトとクシナダヒメがこの山に降臨されて、オオクニヌシをはじめとする神々をこの地でお産みになられた、という伝説が残る山です。神奈備サイトでは、
http://www.kamnavi.net/kmlist.htm に少し紹介が。
三木とからめて、ノックされたボールを拾いに走りますわ!
泊瀬女さま、おめでとうございます。これからも楽しみですね。
[912]三木市の御坂神社ですが、石上山を振り仰ぐ登山口にあたります。また、豊地の三坂神社は、さきの御坂神社へ至る三叉路にあります。
おらは神様オンチで言葉オンチだが、書くだ。
アイヌ語が日本人や西洋人に最初に意識されたとき、すでに北海道でのインフォマント(喋る人)の99%以上がアイヌだったのです。こんな言語分布状況そのものが異状です。
そしていちがいにアイヌ語‥‥といっても、十前後の方言にわかれ、その相互の違いは薩摩弁と東北弁ぐらいな差異のものもあったり……でした。
おらは、大衆としてのアイヌはメラネシア、“目立った、アイヌ固有みたいな文化”を運んできた氏族は、新羅軍部で、その新羅軍部の言語はネパール〜ペルシャ文化がその核になっているとにらんでいます。
それと、平泉の落ち武者たちです。もちろん半島の一般住民もワンサといました。
なにせ、「これぞアイヌ語だ!」と思える地名はこの日本列島には三宅島のペンケ岬と下北突端のオコッペしかないのです。
長くなるなぁ。だが、シャ〜ねぇよ。いつまでも「フル」「サカ」がつづくハンデ……。そうだ、こうしよう。
kokoro さんのおっしゃる huro は「極東エデン語; huru に、神の意味の末尾辞の -o がついた語形だから「神社の杜・杜の神」という概念と一致します。だから、ここはそこを信じてくれ。ただ、中国地方に限られる方言であれば、それをどこまで敷衍させていいのか……が少々のこりますね。
とにかく、アイヌ語の huru(坂)は、アイヌ社会だけにできた極東エデン語の *huru(岡)からの派生語であること、これいちど言うたが、とにかくこのことに限っては紋次郎を信用してもらわなならん。
じつは、ブッチャケたこと言うと、あの辞書に書いてある「huru=坂」は“誤訳”かもしれないのです。huru=坂は、地名にはほとんど出てこない。詳しい辞書を見たいが手もとにないし、あっても知里真志保がケチョンケチョンにけなした『蝦和英三対辞典』しかないし、それを探すにおへまがオラァ〜ん。
そういうわけで(?)、ヒル・フルの意味語形なんぞの詮索は日本語やアイヌ語、朝鮮語の領域〜意識・知識ではダメ。インド方面で解決すべき語彙なんです。ホれ、信じなさい。ホレ……。
いまから碁仇の黒沼氏が来るのら。先日勝ちすぎた。
phir-(お戻りになる) hirdae(こころ)など ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
ただし、明日火曜日まで、これ請け負った。
クマリちゃん、ウンジュのこと書いてるぜ。http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
> 四苦八苦のあげくにやっと「神奈備にようこそ」がつながった時は嬉しかったわ。
すると、このメールアドレスはプライベートのものですか。
[aino@aioros]
愛のアイオロスですね。ギリシャの風神、すばやさの形容ですね。
お似合いです。
> 1 問題の発端は、八柱、八剣、八坂、この「坂」は「神」か、でした。
> 坂はアイヌ語でhuru、石上の布留の話に戻っていましたが、坂は神でしょうか?
> 御坂神社、三坂神社が存在するよう所から、やはり神に見えますね。
ある本で読んだのですが、中国地方などで神社の森をフロというそうです。この場合のフロはただの森林ではなく、見事な原生林に覆われた小高い神奈備丘の聖地をイメージした方がよさそうです(古い神社でそういう外観のがありますよね)。とすればhuruには丘の意もあるそうですから、樹木の生い茂った丘でもhuruたることが可能であるとしたら、フロはフルの転訛であったように思われます。素人の思いつきでした。
ただし、僕的にはフル=火というもう一つのsetohさんの説にも後ろ髪引かれます。出雲の荒神谷遺跡で、火をガンガン炊いて祭祀を行ったらしき痕跡が銅剣の周囲で見つかりましたが、そういうことを連想させかなりハマってます。
東海地方には八剣神社という神社が多いですが、これらは全て熱田神宮の別宮で尾張国愛智郡の式内社、八劒神社を勧請したものです。この神社は現在、熱田神宮の境内の南端、一の鳥居の手前を左手に入ったところに鎮座しており、摂社みたいな感じですが、これだけ勧請されただけあって、古来、熱田神宮と同レベルの崇敬を受け(正一位)、祭祀面でも神宮との連続性を強く感じさせます。祭神は熱田神宮と同じ(アマテラス、スサノオ、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五柱)とされていますが、異説も少なくないようです。「社伝によれば、元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣せられ、西夷降伏の新顧がなされた。その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという。(『式内社調査報告 第八巻 東海道3 尾張国』の「八劒神社」P598)」僕は最近、この神社が香具さんが探求されている天理市田井庄町の八剣神社及び石上神宮境内摂社の出雲建雄神社と関係がないか可能性を探っています。
友人が賀茂について書いてるHPあるよと、教えてくれたんですが、占い関係の方も 探究してみえるんですね。びっくりした。
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/
アイヌといえば日本人よりも古い民族ですか。
その「古い時代」に日本人はナニをしてたんでしょうネ。
アイヌ語 fur(坂)へのこだわりは、ちょと休憩しておいてくささい。
日本古代語の S・ak -a については、いまわかりかけています。ak はいのちが形をえる過程に関係あらせんやろか……ち、惟ふてクサ。⇒ トサカかね。
古代人、まんざらバカでもなかったが、やっぱバカじゃったと惟ふ。
バツイチ・バカ掲示板; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
泊瀬女さん> 四苦八苦したとは言え、インターネットが出来た、ということはパソコン操作ダメの機械オンチは卒業ですね。おめでとうございます。
> つんのめって、ひっくり返りそうになりました。
> 怖い思いをする
石見の物部神社では神官さんが神餞をうやうやしく運んでいる最中に、何もない所でボーンとぶつかり、落としてしまうことがあるそうです。居候の神様とぶつかっちゃうようですね。悪戯かも。
> 書きこみ消去事件
基本的には書き込みは消去はしていません。ここ2ヶ月では紋ちゃん一発程度。
> 乗り継ぎが非常にうまくいく
同感ですね。10秒差とか、一日3回程度のバスが5分程度で来たり、良いことが多いような気がしますね。
御坂神社の三木市には八雲神社もいくつかあります。
tupesan kur 八・人(神)=八・柱 これが 八・雲 に繋がり
tupesan hur 八・坂 へと また別に san kur 三・坂 へと転じたのでは。
(アイヌ語 gen さんの入れ知恵です)
神社や神様についての、書きこみ消去事件
パソコンは一台壊れました。トホホ!新たに買い求めたパソコンも調子が悪くなり、インストールし直しが二回 トホホのホ!!!
きっかけはいつも神がらみ。
書きこみが、訳も判らず届かないこと数知れず。 神奈備さんに消去されるほどの(公序良俗に反する)ことは無いと思うのに、消えてい
ること10回以上 良く考えると、送ったつもりで送ってなかった。
そのまま消滅。 ナニモノ かに影響を受けている気がしてしかたない。
●神社詣でに、電車やバスの乗り継ぎが非常にうまくいく時があります。
一日に10本もないバスに、3分待ちで乗れたり。行こうと思っている『神様に歓迎されているにゃ〜』とうれしくなります。 もっとも待ち時間が長い時は、 『あわてるな。一杯やってのんびり帰り(来)なさい』の意と勝手解釈してます。
●手水鉢で手を洗い、口を漱ぐと、お参り直後突然腹痛になり、トイレに行きたくなる時があり、これは『もう他を見たりせず、真直ぐ帰りなさい』と勝手解釈してます。私が神社を前から後から、また垣根の隙間から覗き見はするはなので、『もう見るな、お参りだけは認める』の意味かなと。
以前石上神宮で、禁足地を垣の間から覗いたとき、それを囲む数百の石板は、先を剣のように尖らせ、壮観でした。その石板は「布留社・奉納者名」が縦書きしてあったとおもいます。
> でも、今まで一カ所だけ怖くて走って逃げた神社がありました。
私も、怖いっていうか、なぜか行こうとすると、途中で何か動物が車に轢かれているのを見てしまい、風邪をもらってきてしまう神社があるんです。
1度など、急に頭が重くなって、2、3日頭痛が続いたり。
そんなことになるのに、何度もその神社を訪問するなよ・・・と自分でも思いつつ、なぜか何度も足を運んでました。(とは言っても、去年も4回行っただけですが)近いわけじゃないのに。
毎回、「今度はどうかなぁ・・?」って思っていたから、つい先日、気分すっきりのまま、うちに着いた時には、嬉しかった!
近場の小さい神社を訪問するときに、人通りが急に絶えて、そういう意味で怖い思いをすることは、何度かありますが(そういう時は、携帯電話が登場。誰かと話している演技をするようにしています。人が見たら、そんな私の方が「怖い」かも)、この神社のような「怖さ」は、ここだけです。いたずらされてたんでしょうか?
パソコン操作ダメの機械オンチがとうとうパソコンを買いました。ノートパソコンですけどね。では今まではどうしてたか・・・オフィスのパソコン使ってたのよ。
四苦八苦のあげくにやっと「神奈備にようこそ」がつながった時は嬉しかったわ。これで夜も休日もこのサイトを見ることができます。ゴールデンウィークも近いしね。
ところで、泊瀬女は狂ったようにあちこちの神社を廻っていますが、いつも楽しく、良い気分で放浪しています。でも、今まで一カ所だけ怖くて走って逃げた神社がありました。諏訪大社・上社前宮。setohさんは「悪い神様に脅かされたのだ」とおっしゃったし、玄松子さんのHPにはミシャグチ神について気になることが書いてあるし。急に決着を付けたくなって、昨日、仕事が終わってからそのまま諏訪に行ってしまいました。今朝諏訪大社・上社前宮にお参りしたのですが「また怖い思いをしたらどうしよう」とちょっとドキドキしました。よく見たらいいお社ですよね。こんないい所、何で怖かったんだろうと不思議な位。今回は少しも怖い感じはありませんでしたよ。ただ気のせいかフレンドリーな感じもしません。社務所でミシャグチ神のことを聞いてみましたが、神官さんも「よくわからない」とのこと。詳しいことは近くの神長官守矢資料館に行ってごらんなさいと教えてくださいました。この資料館はすごい。前宮・十間廊で行われる祭祀、御頭祭の供え物の串刺しの白ウサギや鹿やイノシシの頭が展示してあって、びっくり。
いろいろと詳しく解説していただいて非常に面白かったわ。守矢家の邸内にミシャグチ神のお社があって、お参りさせていただきました。怖いので柏手はうたずに深く頭をさげたら、つんのめって、ひっくり返りそうになりました。またイタズラされたのかしら。
上社本宮、千鹿頭神社、御座石神社にお参りして、その後山梨の一宮周辺で満開になった桃の花を見て帰って来ました。甲府盆地は桃の花で濃いピンクの絨毯を敷きつめたみたいで、とってもきれいでした。我ながら、よくやるよ。
播磨国美嚢郡[ミナキ]に御坂神社[ミサカ]これあり。兵庫県三木市。
御坂社、美坂社、御酒神社が論社(式内社の候補社)です。
播磨国風土記には美嚢郡志深里(しじみのさと)の許曾社に至りて「この水流れ[ミナガレ]は大変に見事なこと」と云ったので、美嚢郡という。」とある許曾社は現在ありませんが、後裔社が御坂神社ではと云われています。
1 問題の発端は、八柱、八剣、八坂、この「坂」は「神」か、でした。
坂はアイヌ語でhuru、石上の布留の話に戻っていましたが、坂は神でしょうか?
御坂神社、三坂神社が存在するよう所から、やはり神に見えますね。
2 所で三木市の御酒神社、この酒は「き」と読めます。酒は神か?
この神酒(みき)は、わが神酒ならず、倭成す(やまとなす) 大物主の醸(か)みし神酒
酒をかむか 神の語源か?
3 フルから見ると久士布流とは何か?久士は?
4 さらに、許曾のつく主な神社
出雲国秋鹿郡[アイカ] 許曾志神社[コソシ]
摂津国東生郡[ヒムカシナリ] 比賣許曾神社[ヒメコソ]
近江国淺井郡[アサヰ]上許曾神社[カミコソ]
伊勢国奄藝郡[アムキ]大乃己所神社[オホノコソ]
伊勢国三重郡[ミヘ]小許曾神社[ヲコソ]
河内国澁川郡[シブカハ]波牟許曾神社[ハムコソ]
河内国丹比郡[タチヒ]阿麻美許曾神社[アマミコソ]
「祁曾」であるが
紀伊国名草郡[ナクサ]伊太祁曾神社[イタキソ]
コソは美嚢より古い社名のようで、コソは朝鮮語の杜の意とされていましたが、もっと古い言葉かもしれない。「コソ」とは何か?「キソ」「ケソ」は?
神奈備掲示板はお祭り広場、玄松子さんが云われたように踊らにゃ√♪〜
上総国夷隅郡の筒森神社(夷隅郡大多喜町筒森446)のことを調べていて、祭神が大友皇子であることがわかりました。
ついでに大友皇子(弘文天皇)を祭神としている神社を平成祭礼データから探してみました。
滋賀県を除いて示します。
岐阜県不破郡関ケ原町藤下字自害峯306番地 若宮八幡神社 字の名前、凄いですね。
岐阜県不破郡関ケ原町山中字了願寺32番地の1 若宮八幡神社
京都府京都市下京区七条通加茂川西入稲荷町452 松明殿稲荷神社
京都府綴喜郡田辺町三山木山崎107 山崎神社
三重県阿山郡大山田村大字平田699 植木神社
愛知県岡崎市西大友町字天神10 大友天神社
愛知県岡崎市東大友町字堀所36 神明社
千葉県市原市飯給937 白山神社
千葉県旭市泉川1502ー1・口782ー2入合 内裏神社
千葉県君津市俵田1452 白山神社
千葉県夷隅郡大多喜町筒森446 筒森神社
逃亡ルートを推測して見ました。(ひどい話ですが)
まず、岐阜方面ではなく、軍議でも出た京都の山崎へ行き
もしくは直接南下して、
母親の里である伊賀上野におもむき、
親戚の案内で、船をしたてて
愛知県岡崎に着き
さらに船で千葉県に至る、
ということでしょうか。
日本武尊のルート、途中までは徳川家康も似ていますね。