神奈備掲示板の平成十三年四月ログ


掲示板のログ(平成十三年四月)お名前の敬称は略させて頂きます。

[978]  国巣と銅鐸  [setoh] 04/27

『埋もれた銅鐸』森秀人著から
 中国の古い楽器の鐃(にょう)はその形が銅鐸に似ているとか、日本名を「くすみ」の言うと書いてある。
 銅鐸の古語は伝わっていない。銅鐸を「くすみ」と呼んだのではないか、との見解です。

 「くすみ」とは何か? 色がくすんだのくすみか?

 熊野の熊野夫須美神は熊野久須毘命とも記され、「むすび」とかに解釈されており、那智大社では「那智のお山は夫須美神、又の御名を伊邪那美神と・・」と由緒書きに出てきます。
 また樟日のような字を当てて、楠の木や太陽信仰とからめる説もあります。

 最近、国巣が話題になりました。このクズとは銅鐸祭祀の連中を鏡を祭祀する連中が呼んだ言葉ではと思い立ちました。埋められて忘れられた被征服民の銅鐸、「くす」で解明できそうですね。

 なお、熊野久須毘神は、天照大神と素盞嗚尊の誓約で誕生した八皇子神の一で、この神の名前にはとってつけた不自然さを感じます。さらに、この神は他の七神と違い、現れて何もしていません。
 八皇子神とは、天忍穗耳命、天之穗日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須日命、多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命(後の三姫は宗像の神です)。


[977]  Re[975]: 心、千々に乱れて  [山浜]  04/27

泊瀬女さん
わたしも連休後半に出雲に行って来ます。この間のカキコとても参考になりました。


[976]  狂ったように・・・ [あかがね] 04/26

 私も八連休なので、いろんな予定があります。とりあえず、都祁・宇陀に行くのですが、あと地元の河内や友人の住む明石の方の神社も回ろうと思ってます。
 で、あと神社がらみでもないのですが、淡路にみんなでドライブに行こう。という話もあります。他の友達はまったく趣味も違う普通の(?)人々ですが、やはり一之宮の伊弉諾神宮は無理やり寄らせよう。と思ってます。

 で、地図を見てたら淡路島の西岸にも草香があるんですね。瀬戸内を東上して、ぶつかる場所。なんて考えすぎでしょうかね。


[975]  心、千々に乱れて  [泊瀬女] 04/26

ゴールデンウイークを控えて、神奈備のお仲間も西へ東へ旅の予定の書き込みが一杯。
出雲・・・いいなア。大和・・・行きた〜い。河内も魅力いっぱい。出雲や大和に住み込んで、神社巡り三昧したら気がすむかしら? それでもきっと満足はしないでしょうね。
私も5月には壱岐・対馬へ、6月には名古屋周辺へと旅の予定はたてているけれど、誰かが出雲に行くと聞くと私も行きたくなるし、宇陀や都祁へ行く人が羨ましいし、心は千々に乱れます。奈良は何度か行っているけど、都祁はまだです。葛城方面も行ってない。出雲だってまだまだ踏破してはいません。河内もほんの一部しか見てない。
文献や資料を読んで勉強もしなければならないのに追いつかないし、もうどうしたら良いのでしょう。元伊勢についても、調べれば調べるほど行きたい所が増えるし、年内に終わりそうにもありません。そろそろおヘビ様がおでましの季節だけど、怖いなんて言ってられませんワ。私、気が狂ってしまっているのでしょうか。


[974]  Re[972]: 「日本」の国号について、再度  [Setoh] 04/26

日下考、読ませて頂きました。
饒速日山の候補地は、河内の磐船神社から天野の方へいった所にもありました。その内、行ってきます。
日下が徐々に東へ移動したとどっかで読んだ気がします。大和の青垣と言われる山の麓にもクサカという所があったとか。石上神宮辺りとすると、日の谷に一石を投じるかも。


[973]  どうもありがとうございます。 [あかがね] 04/26

 あのあと、奈良交通や榛原町などのHPを探して見てみると、意外にバスはあるみたいですね。ヘナチョコ自転車でいけるところまで行ってみようと思います。

 setohさん、わざわざどうもありがとうございました。


[972]  「日本」の国号について、再度 [日下倭人] [Url] 04/26

「日本」という国号の成立について、河内の「日下(クサカ)」と関係があり、それは「ヒノモト」とも読めること。そして河内の日下は神武帝とナガスネヒコの激戦の地であり、物部一族とも関係が深いこと。そして神武帝の出発地は九州であり、饒速日命も九州の人であることなど。これらのことからいろいろのことが見えてくるように思います。

さらには青森県東北町に「日本中央の碑」があり、このこととも河内の日下の地名や物部氏が関わっていることなどを〔967〕でも書きました。

この中で委細はHPの中でとご案内したつもりでしたが、肝心のアドレスの記載が抜けていたようです。
皆様のご来駕をお待ちしております。

古代史倶楽部yokosuka

http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/kusaka.htm


[971]  矢掛に運河はあったかどうか キーワードの「押撫」 [焼尻紋次郎] [Url] 04/26

>・山、岩、樹木などの自然物ではなく、人工的器物に魂、精霊、神霊が宿るという思想は、いつごろ発生・渡来したものか。

☆ 転ばぬ先の杖……。直立歩行した人類にとって杖はこころにもヨスガ(拠りすがり)だったでしょうね。
☆ 神社の軒の隅っこには掛け軸などにみられる房が垂らしてあります。座布団の四隅にも似たようなものがありますが、これユダヤの風習と似ぃちゅうそうです。
  オーストラリア・アボリジニ−(の一部)にこの垂れ房がみられます。腰に巻いた紐からチンチンの前に垂らしてゆらゆらさせています。「いつでも来い」なんでしょうか? やっぱ悪魔払いでしょう。
  そういえば、北海道にもいたウイルタは男女ともに、20cm四角ぐらいの、チンチンの宛て布をズボンのなかに縫い込んでいます。布は木の繊維をほぐして、延ばし広げたものが始原でしょうから風俗は一致しているといえましょう。
☆ 「馴染む」は、今のパソコンは「なぢむ」では漢字文字化させません。「なじむ」なら出ます。しかし、オーストラリア・アボリジニ−にも nare(慣れ)がありますので r の濁音化としての nade が日本語のなかにも考えらます。
  そこでモンダイなのが「お撫でもの」です。天皇などの身分の高い人の鋳物製の手荒い鉢などをいうらしいのです。この「撫で」は古代でどこまで広がっていたことばだったのでしょう。
  岡山市内に「中撫川」がありますが、これはネパール語の nadi(大川)そっくりで、お撫で物ではない筈です。
  ところが、福山市東々北10キロ地点に「押撫」という地名があって、ぼくのこころを悩ませてるんです。
  ここは予想される矢掛運河の水を海のほうに逆流させたときの分水嶺でもあります。osi はネパール語等で「つのびと・神びと」と分析できます。また、オシホミミなど古代の神名にもさかんに用いられました。
  さて、この押撫をどう解くか……いい知恵をたのんま。

   どげんごげん(ならんと) ;  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[970]  Re[969]: ご教示頂きついでに  [Setoh] 04/25

天理から針へのバスの発車時間の状況
 8時34分、10時10分、12時10分

榛原から針へのバスの発車時間の状況
8時15分、10時10分、12時33分

この時刻は現在もそうであるのかは不明です。

榛原から宇陀方面(水分神社辺りまで)はバスはそこそこの頻度です。
そこからは、自転車が便利ですね。

一日ですますか二日かけるかは、行くところ、見る時間によりますが、せっかくの古代探訪、ゆっくりお楽しみ下さい。

 小生もナショナルのトレンクルと言う重量7.5kgの軽い折り畳み自転車を愛用しております。


[969]  ご教示頂きついでに [あかがね] 04/25

>  宇陀や都祁に行きますと、大和平野の雰囲気とはまた違う古代の新鮮なエネルギィを感じます。
>  GWをお楽しみ下さい。
>

毎度毎度ありがとうございます。是非行ってみたいと思います。
が、今度のGWは宇陀と都祁に公共交通機関と折りたたみ自転車(下りは楽ですが、上りは殆ど意味なし)で行ってみよう。となんとなく考えておったのですが、起点を榛原駅にすると宇陀と都祁は真っ二つに割れてしまいます・・・。どうしたものでしょうか・・・。バスなどをうまく使えば、折り返せるでしょうか・・・。それとも桜井のほうから宇陀→榛原→都祁。と北上するか。・・・かなりきびしそうですね。二日に分けたほうが無難でしょうか。(いつもの事ながら行き当たりばったりです・・・)


[968]  Re[966]: 船玉姫命  [玄松子] [Url] 04/25

> 【起】が確認できれば、そこそこですね。

・「現存する最古の祝詞」はいつの時代のものか。
・山、岩、樹木などの自然物ではなく、人工的器物に魂、精霊、神霊が宿るという思想は、いつごろ発生・渡来したものか。

知りたいですよ。


[967]  無題  [日下倭人] 04/25

河内に日下があって、そこは神武軍とナガスネヒコ軍の激戦の地。そして日下とは太陽と深いかかわりの地で、そういえば神武さんもナガスネヒコの妹を娶ったニギハヤヒもともに日の神とされる。

二人とも九州を出発して河内の日下に到着したこともよく似ている。
この日下が日本の国号につながるという説がある。

話は変わるが、青森県東北町に「日本中央の碑」なるものがある。坂上田村麻呂が書いたともいわれるが、下北半島に日本中央の地名が残るのも不思議な話。
それはなぜか。

以下については、恐縮ですがURLをクリックの上、「日本の国号−日下考」をご覧下さい。
皆様のご来駕をお待ちしております。

それから話の順序が前後して恐縮ですが、Setohさんには今回もお世話になりました。お許しも頂かねばならないのですが、次の5箇所について本文中にリンクを張らせていただきましたのでご了承ください。
・孔舎衛坂・石切剣箭神社・饒速日山・長弓寺・鳥見白庭山


[966]  船玉姫命  [setoh] 04/25

(*^。^*)なちゅうーさんこと船玉姫命の大神様からの御託宣(*^_^*)

> 船玉の神の一番古い方で、西暦300年頃とされている理由
 「古い祝詞の本に神舟をつかさどるのは船玉姫命と書いてあるのものがあるから。(-_-メ)」との事です。

 神奈備の杜の中言の神の解読
起.要するに、船をつかさどる古い神は船玉姫命である。それは祝詞の中にも出てきていることでわかる。
承.古くから、磐座や大木を依り代として神まつりの風習は存在していた。
転.300年頃とは、船の航行で大陸までも行っていたし、古墳も作られ、鏡も大切にされていた。
結.従って、船玉姫命はその頃には祀られていたはずである。
【起】が確認できれば、そこそこですね。
 倭人伝の「女を近づけない持衰(ジサイ)さんが祭っていたのは女神かも知れませんね。


[965]  Re[962]: 多氏について、その他 [setoh] 04/25

泊瀬女さん、揖夜神社の階段、ありがとうございます。参詣の予定でしたので、参考になります。 

竜王山の東に「小夫:オオブ」と言う字があります。ここに「小夫は多部にして神八井耳命の苗裔」との伝承が残るそうです。(聞書覚書:大和の原像:小川光三著から)
地図を見ますと、この辺りには、元伊勢伝承、泊瀬女さんには是非参詣して頂きたい滝蔵権現、芹井物部の芹井、新羅城が築かれた白木、神武聖蹟の鳥見山、その東北4kmに吐山「はやま」があり、この山の名前も古いイメージで「御」をつけると三輪山、これは別にしても、ここ、山辺郡都祁村吐山3957に下部神社(しもべ or おりべ)が鎮座、祭神が多氏の祖神の神八井耳命ともされています。
 また、都祁の東の山添村中峯山310-1に式内社の神波多神社が鎮座、秦氏の祭祀をうかがわせます。
 宇陀や都祁に行きますと、大和平野の雰囲気とはまた違う古代の新鮮なエネルギィを感じます。
 GWをお楽しみ下さい。


[964]  常識に白い目をむいた非常識バカ  [焼尻紋次郎] 04/25

 けふは曇りのち雨……らしいが泊瀬女ちゃんのスガスガ・カキコのお蔭で、上空1万メートルはいつも快晴なることを憶いだすことができました。アマ(天)カネぞな,もし。
 ahun ru par(アイヌ語; あの世への入り口)、胆振ホロぺツにある遺構はオートバイの曲乗りでやられてしまってんじゃねーだろーか。心配です。

 オオタタネコは「オオタタ・ネコ」と区切るのが本スジと思いけらくも、「「オオタ・タネコ」と区切る正当性はどこにあらいしょ。『ほにゃらか掲示板』 ご参考あれかし。
 多氏はおらは「タシ」と発音すべきだと思いけらくも、「オオシ」と発音しなければなんねぇ必然性はどこにあらいしょ。kokoroさんのコメントの欲しかとこですバイ。
 多良岳……けふ書けるかなぁ。ここで「ta =神」が濃密に育ったと惟ふのです。tala =棕櫚の木。

  ゴゲンゴゲン ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[963] 出雲幻想 [泊瀬女] 04/25

出雲には黄泉の国への入り口が2カ所ありますね。ということは、我々はいつかは出雲に旅をすることになるのでしょうかね、片道だけの旅。古事記によれば、出雲東部・黄比良坂(よもつひらさか)、出雲風土記によれば、出雲西部・猪目洞窟(いのめどうくつ)が黄泉の国の入り口とされます。片道だけの旅に出た時、どちらから入るのか迷わないためにも、皆さん下見をしておきましょう。黄泉の国に行く際に、入り口を自分の好みで選べるかどうかは・・・シ〜ラナイ!
その前に、揖夜神社について。といっても揖夜神社に行ったのは、泊瀬女の悪い癖で風狂の駆け巡りの果てだったため、疲れてしまって印象が鮮明ではありません。揖夜神社は出雲風土記では伊布夜社とされ、黄泉比良坂−伊賦夜坂の連想から暗い雰囲気の神社を想像していました。ところが、揖夜神社は境内も広く社殿も立派です。お掃除が行き届き清々しく、数人の子供たちが元気に走り回っていました。
本殿は少し高くなっていて、拝殿から覗いてみましたが、よく見えません。お母さんが呼びに来て子供達が拝殿左の階段を登って行きます。私もつられて階段を登ってみると何のことはない、本殿の前へでられました。子供達は本殿の前でピョコンとおじぎをして帰っていきました。小さい頃からこんな風に神様と付き合っているのって、いいですね。ホンワカとした気分になり、改めて見回すと本殿左に「韓国伊太氏神社」と額がかけられた立派な境内社がありました。ここでは五十猛様が大切にされているようです。韓国伊太氏(氏の下に横棒・カラク二イタテ)・イタケル神については、ものすごーく詳しい方がいらっしゃるので省略。
揖夜神社から9号線に出て東に行くと大きな看板があって、そこから少し奥の丘陵の小さな谷間に「黄泉比良坂神蹟」と彫られた石碑がありました。少しも怖い感じがしない場所です。入口(出口?)をふさいだ石はこれかな・・・大きな石が2つほど。この下に黄泉の国はあるのでしょうか。一般人はどこから入るのでしょうかね。
もうひとつの黄泉の国の通路は、出雲大社の背後の山を越えて、海に面した猪目洞窟。自動車道路の下に洞窟、反対側は海。ウップルイ湾が広がっています。海の侵食でできた岩の裂け目というより、板のような岩が歪んで倒れてできた隙間みたいな感じです。入口の上部には地層のストライプ模様がくっきり見えます。2、3歩中に入るとヒヤーっと冷たくて、ジメッとしています。奥は暗くてどこまで深いかすら分からない。黄泉の国へ行くのなら、私はここからはイヤ! こわいもん。早々に上の道路に這い上がったら立て看板がありました。「密入国者に注意しましょう」 潮流の関係で朝鮮半島あたりからの漂流物(人)が自然にこの湾に入ってくるのだとか。
むかし昔、人も神様もこの湾にやって来たのでしょうか。ウップルイ湾は冬は荒れるのでしょうが、この日の海は凪いで碧く美しく光っていました。

からくにの 神も来るらし 海道(うみみち)は ただ碧くして 空に溶け合う


[962]  多氏について、その他 [あかがね] 04/24

 話題についていけなくて大変です。
 分からない事だらけなのですが、いくつか教えてください。

・大田田根子が「オオ」氏がらみの人というのは初めて聞きました。三輪氏とか鴨氏とかは聞いた事があるのですが。どこかに書いてあるのでしょうか?系図とか・・・。言われてみれば名前は確かにそれっぽい・・・。
・都祁に多氏の拠点があったのですか?都祁→山奥!というイメージしか・・・(何とも貧困な・・・)GWに宇陀とかに行こうと思ってるので、是非教えていただきたいです。

 教わる事ばかりで恐縮仕切りですが、お願いいたします。


[961]  尾張二宮 [習志野のてつ]  04/24

尾張一宮:真清田神社(ますみだ) 祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)
=瓊瓊杵尊(ににぎのみこと・天皇の祖先)の兄 これは偉い!
「天火明命」は、南宮大社として美濃の国一宮にも鎮座

  二宮:大懸神社(おおあがた) 祭神:大荒田命
『犬山』の地名ははこの神社の戌亥の方角に当たるので、
いぬい→いぬ山に転じたという説 有ります。

  三宮:熱田神宮

尾張の二番目で熱田神宮より上位なのはなぜでしょう?
天下の奇祭や「おそそ洞」等で知られる大県神社の大荒田命はそんなに偉いのか?近くにある田懸神社の祭神:玉姫命のお父さん玉姫命は、尾張国造の祖・武稲種の御嫁さんで未亡人。武稲種は、日本武尊と一緒に東国遠征し、帰りに亡くなる。
その妹の宮津姫は、日本武尊の后となり、尾張国造2代目といわれる。
義理のお姉さんの父親に遠慮して、三番になったのだろうか?


[960] 「hir・hog-o 」樣 アマカネ [焼尻紋次郎] 04/24

  漢字にとらわれちゃぁイケネぇ〜〜イヨッ。
 間違い含みでブチまけると、Hir とは「神のおぼしめし・神意」なるべし。そこから「拝む」だの「昼」だの「微動」だのが派生して各地の氏族語となった。
 さきにも述べたとおり、倭人は「○l や△r」の末尾の「 l ,r 」をチョン切って落す。Hir は「ヒ」となる。
 第二子音を濁らせるのは朝鮮人、古代倭人ともに共通のクセでした。
 「ぼこ」と発音するのがイケネェ。これは hok を独立ステムに据えるべし。さすれば、「ことほぎ」のホグがすぐに得られよう。「ことほぎ」のコトはコトバであること、ミナシャンご存知のとおり。
 慣用によって「ホグ」のなかに、のりとなどの「神事での発声」という意味がすでにできあがっていたのではないだろーか。 (ho……秀……ホザキ か) hok-o の末尾の o は「男・神」。

 天・海の神意を宣(の)る者……アマ の ヒホコ ⇒ 転じて ヒボコ。のりちゃんアマカネ。


[959] 禁足  [香具] 04/24

以前、電車の乗り継ぎがうまくいくというお話しがありましたが・・・。
 先週の日曜に三木市の三坂・御坂・御酒神社と石上山周辺を調べようと準備していたのですが、前日の夕方に思いもよらず肉離れ?になり、すぐには歩けなくなりました。
 まったく・・・、『日の谷』のときも捻挫などで2度も延期し3度目にて強行したことがあります。(結果は悲惨でした。真冬の布留川にて禊をするはめに。帰りは白黒2色の公用車で親切に駅まで送って頂きました。)
 三木市の石上山に何があるのか判りませんが、GWを目前に禁足中であります。
周囲からは『触らぬ神にたたりなし』と注意されるのですが、『障らぬ神に祟りなし』だと間違って思っていました。鈍感な者には警告も直接的になるのですねェ。(日頃の心掛けが問題?・・・未だに『気にしないこと』が最強の御守だと誤解を続けています)

 『禁足』といえば、出歩くな・外出するなと蟄居を命じられることだったように思うのですが、『禁足地』と地がつくと足を踏み入れるな・進入禁止といった意味合いで使われていますね。このように今では、外に出さない意味と、内に入れない意味に分かれているようですが、神社の『禁足地』にはもともと封じ込める意味もあるのでしょうか。


[958] ヒボコ  [setoh] 04/24

 天日槍、天日矛と書かれるヒボコチャン、カニシ好きの紋チャンならどう解釈する? 火僕チャンかな。

 ヒボコにはその部族が奉ずる神の依り代として武器を掲げた金属精錬の民の象徴の雰囲気を感じますね。
 記紀のルート以外にその足跡は
筑前怡土 福岡県糸島郡前原町 高祖神社 タコソの訛か
淡路津名 洲本市由良生石崎 出石神社「天日槍命」生石神社
紀伊名草 和歌山市宮 日前國懸神宮 御神体が日矛
紀伊在田 和歌山県有田郡 生石山
大和式上 桜井市白木 天日矛が新羅城を築いたと言う伝承
大和式上 桜井市穴師町 穴師坐兵主神社「兵主神」

 特に、近江の柘植から大和の都祁へのルートで新羅城が築かれ、その大和平野への足がかりが古代都市巻向の真東の穴師であったのかも。巻向の盛衰に無関係とは思われませんね。
 また、kokoroさんの御指摘の多氏とか秦氏は都祁にたむろしていたようで、日矛ー兵主ー山東半島・・秦氏が浮かび上がりますね。


[957]  クサノヒメの語源 [焼尻紋次郎] 04/24

 朝鮮語は「子音+l」の語彙構成のクセを持っていますが、日本語はその末尾の“ l ”を省略、切り離すクセをもっています。
 草野(姫)は「 kul( ⇒ クズ)sa(里)+ no(人・神)」か、またはアイヌに入った kusa(渡船)周辺概念の……例えば舟つき場……みたいな意味をこめての懸詞だと思われます。
 また、朝鮮語 pi:l-(祈る)を phul (草)に懸けて「ヒルメムチ」を謂っているとも考えられます。
 英語でいう grass はサンスクリット語でも「クサ」です。このような一致は普通ではあり得ませんので、この草野ヒメが生きていた時代にはサンスクリット語系の支配階級が日本列島に上陸していて、尊敬されていたことがわかります。
 「ヒル」はまだワカラン。

 ミナシャンのお喋りのことばは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi  で


[956]  草野姫命 [Setoh] 04/23

kokoroさん、「わっ、長〜いっ!」のは全然迷惑ではありません。この書き込みの内容ははしょりますと益々訳が分からなくなるほど多くの含蓄ある中味を含んでいます。この前の[あかね]さんのも含めて考えて調べたい課題がどっさりですね。

> 草野姫命ですが(草野は地名)、この姫神は比売許曾神社の祭神と同一神ではないでしょうか。
この一行だけでも大変なことです。草野姫命は加夜奴比女命、茅野姫命、鹿屋野比売とも書かれ、また野槌神とも言われるそうです。古事記ではイザナギ、イザナミが国生みを行い、これに続いて、大屋毘古や速秋津比売に続いて久久能智、大山津見、鹿屋野比売と生まれます。天照大神や素盞嗚尊より先に生成された神々とされています。これらの神々は本当に古い神なのか、路傍の神々を、神々の系譜に上積みしたものか・・・

 さて、比売許曾神社の祭神と同一神であるのかどうかですが、よく似た事例では、伊太祁曽神社では先の大屋毘古神と五十猛命が同一神として祀っております。普通これだけ名前が違うのですから、玄松子さんが書かれていたように違う神と見るべきでしょう。その神々を同じ神だとしたのは、神仏が習合する位ですから神神も習合してしまったと考えていいでしょう。HPの「名草の神々」の中でも書いたのですが大屋毘古神と大屋津姫神、五十猛命と抓津姫命がそれぞれペア神であって、これらが習合して男神だけが一体化して、女神は残ってしまったと考えられます。これをやってのけたのは紀氏でしょう。

 同じように、比売許曾神社の祭神と草野姫命が習合したと考えてもおかしくはありません。習合とは悪く言えば祭神の乗っ取りで、元の祭神を摂社に放り出して、本殿に祀られるケースが普通でしょうが、同一化してしまうこともあったのかも。
 草野姫命を祀っていた地域を比売許曾神を祀る集団が押さえ込む際、我々も同じ神の子孫であるぞ。と統治上の手段に使われたのでしょう。
 上許曾神社がキイとしますと、近江国淺井郡を支配した豪族がやってのけた可能性が考えられますね。この豪族って、多氏、それとも息長氏?この辺り、弱いな〜。


[955]  Re[954].教えて下さい(*^_^*)  [玄松子] [Url] 04/23

> これは全く思い付きですが、郡には、組み替えはなかったのでしょうか?

あったかもしれません。
ですから、式内社を考証する場合は、「10世紀初頭」の期間限定になりますね。
長いスパンの「歴史」ではなく、約20年間のポイントで見ます。


[954]  Re[953][952].教えて下さい(*^_^*) [習志野のてつ] 04/23

> 尾張国知多郡「入見神社」ですね。緒川入海神社は愛知郡で、
> 「郡」が違うということで、否定されていますね。関連社ある
> いは類社ではないでしょうか。
早速のレス、ありがとうございます。

―< 古代配置替え説 >―
これは全く思い付きですが、郡には、組み替えはなかったのでしょうか?
岡山地方・吉備の国は、何回も組み替えを行っています。また武蔵の国ははじめは、東山道に所属、後に東海道へ組み替えたと聞きます。
ただ国としてで、郡単位はそうとう弱いとは思っています。
―< 売買説 >―信憑性0.×%(ほぼ無し)《緒川入海神社は、内海入海神社に祭神・社格・社名を売った》との言い伝えがあるらしい。←まったくの噂かもしれない。
第一そんなことが本当にありえるかどうかも判りません。
―< 個人的趣味では説 >―緒川の入海神社の社宝に、家康の子供の時の鎧が奉納されてます。
弟橘姫の父親といわれる「穂積忍山」の古墳?がすぐ側にあります。
貝塚の上にある の 三点から、 緒川を支持したいです。


[953]  Re[952].教えて下さい(*^_^*)  [玄松子] 04/23

> 早期縄文土器の一様式に、入海式土器が有ります。昭和16年に緒川入海神社
> の境内で発掘されたのです。延喜式にある入海神社は、知多半島西側先端近く
> の内海にある入海神社となっていますが、本当は半島東側付根付近の緒川入海
> 神社ではないでしょうか?

尾張国知多郡「入見神社」ですね。緒川入海神社は愛知郡で、「郡」が違うということで、否定されていますね。関連社あるいは類社ではないでしょうか。


[952] Re.教えて下さい(*^_^*)  [習志野のてつ] 04/23

>船玉の神の一番古い方で、西暦300年頃とされている理由は何でしょうか?
>是非知りたいものです。  ― 私も全く同感です ―

『群馬などの船玉様は川を渡る舟をおまつりするものです。』
これは誤解ではないでしょうか?川は渡るものではなく、通るもの。
現在のハイ・ウェイと考えたほうが良いのではないでしょうか?
江戸時代末期にすごく歩いた地図作りで有名な伊能忠敬は、佐原の出身だが、佐原は港町。もちろん海じゃなく川のですけども。
河口に牛・馬を飼う牧を置いたのも、単に他に利用できない広い土地だったから、ではなく舟で河を遡上する時に引かせる為の用意だった説あります。土佐日記でも、土佐からの舟でそのまま乗り換えず、淀川を上って行きます。日本武尊も上総から、舟で船橋、市川と来て、そのまま川をさかのぼり、利根川の支流経由で常陸の国(現霞ヶ浦)に行ったのではないかと考えています。

川といえば、春の小川 じゃなくて 知多半島緒川早期縄文土器の一様式に、入海式土器が有ります。昭和16年に緒川入海神社の境内で発掘されたのです。延喜式にある入海神社は、知多半島西側先端近くの内海にある入海神社となっていますが、本当は半島東側付根付近の緒川入海神社ではないでしょうか?
『入海神社』の祭神は、やはり弟橘姫がふさわしいと思います。
内海の入海神社の祭神は例の「五男三女神」です。

PS 前から思ってたんですが、『大田田根子』の読み方は オオのタタネコ もしくは オオのタタのネコ さらに進めてオオのタタのネコヒコ(根子彦)が本当では?


[951]  Re[941]: 播磨と紀伊・北摂  [kokoro] 04/22

 あかねさん初めまして!!最近のカキコを拝見して大ファンになりました。実に面白いし示唆的です。知識の質の高さと広がりに心から敬服します。これからもよろしく。

>川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あるようです。

 この一節に刺激されて『式内社調査報告』等に基づき式内多太、多田等の神社をリストアップしてみました。
@摂津国川辺郡の多太(タダノ)神社、【祭神】オオタタネコとする説あり
A大和国葛上郡の多太(タタノ)神社、【祭神】オオタタネコ
B近江国伊香郡…多田(オホタ)神社、【祭神】祭神をオオタタネコとする説あり、ただし所在不明社
C若狭国遠敷郡…多太(タダ)神社、 【祭神】祭神をオオタタネコとする説あり
D越後国三島郡…多多(タタ)神社、 【祭神】タカオカミ神、合産五神
E加賀国能美郡…多太(タタ)神社、 【祭神】オオタタネコとする説あり
F但馬国七美郡…多他(タタノ)神社、【祭神】現祭神→素戔嗚尊、『神社調書』等に→素戔嗚尊、オオタタネコ、埴安命

 こうしてみると、タタ神社の祭神は大田田根子オオタタネコ(以下タネコ)だという観念があるみたいです。『日本書紀』垂仁天皇三年の天日槍アメノヒボコの一説によればヒボコは、播磨国宍粟シサワ邑→宇治川(淀川水系)を遡る→近江国吾名アナ邑(近江国鏡邑の谷ハザマの陶人は、ヒボコに従ってきた人達)→若狭国→但馬国というルートをたどって但馬国に定着しています。そしてヒボコが通過した国には播磨以外それぞれ@BCFとタタ神社があるわけです。Dはルートから外れていますが祭神にタネコが登場しないので別系統の神社のようです。あかねさんのカキコにもあったAとEは、ルートから外れていながら祭神がタネコですが、Aはこじつけるとヒボコの八世に葛城のタカヌカヒメノ命(神宮皇后の母)がいるので葛城とヒボコも関係なくはないと…、Eはこじつけようがないですが、このルートから大きくは外れてないのでゴカンベンを…。
 さて、ここで想起されるのはヒボコが来帰したとき、垂仁天皇が長尾市ナガオチと一緒に三輪氏の祖、大友主を遣わしたと『日本書紀』にあることです。この物語をそのまま信じると、ナガオチはタネコと同世代なので(崇神紀七年参照)、大友主はタネコの息子でもおかしくない近親者のはずです。

 これだけでタタ神社をヒボコと関係させるのは難しいですが、あかねさんの下記のカキコを援用します。
>「太田神社」は呉の勝の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成し、6c以降?に中臣の祖神天児屋根を祀ったそうです。ですが、呉の勝が紀伊から太田へ移住したのは、地元の郷土史家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残ります。
 以上の記録は『式内社調査報告』『日本の神々』からは確認できなかったのですが、ともかくも多太神社はオオタ≠ニ訓めるので(実際にBはそう訓んでいます)、多太神社と太田神社は同系社で多氏と関係ありとして話を進めます。
 まず、近江国淺井郡の上許曾カミコソノ神社のことをあげます。コソのつく神社については、コソが朝鮮語の社であるという耳タコの定説がありますが、『古事記』応神天皇のヒボコ物語によって、難波の比売許曾神社と豊後国の比売語曾神社の両コソ社はヒボコと関係が深いのは知られています。したがって、上許曾神社もヒボコとの関係がある可能性があります。当社の祭神は草野姫命ですが(草野は地名)、この姫神は比売許曾神社の祭神と同一神ではないでしょうか。また当社のすぐ付近には太田≠フ地名があります(余談ですが伊勢国奄藝郡の式内社、大乃己所オホノコソ神社は多氏に関係があるといわれます。総じて多氏とコソのつく神社には何か関係があるのかもしれません。当社のある三重県の中京地域は椿大ツバキオホ神社、太オホ神社等、多氏の遺跡とされる神社がいくつかあります)。
 また、当社の南西2qくらいのところに田根という地名があり、ここを開拓したのはタネコだという伝説があります。それだけなら単なる附会の説かもしれませんが、この付近の「エンノコシ」という場所から子持勾玉が出土しているのです。子持勾玉は、森浩一先生が指摘されておられるように、ともにタネコの伝承のある大阪南部の須恵器生産地域と三輪山周辺で特に多く見つかり、他の地域ではそれほどしょっちゅう見つかるものではありません。また、両地域共に太田≠ニいう地名があります(以上の内容は山田郁郎氏の好著『湖北の神々〜その古代史〜』に全面的に負ってます。湖北地方の神社・古代史に興味のある方にご一読を勧めます)。
 ヒボコに従ってきた人達とされる近江国鏡邑の谷ハザマの陶人≠フ鏡邑≠ヘヒボコを祭神とする滋賀県竜王町の鏡神社付近とされます。こうしてみるオオタ、タネコ、多氏を介して鏡神社→上許曾神社→Bと『日本書紀』通りのヒボコのネットワークが裏打ちされます。
 なお、ご存知かも知れないですが滋賀県新旭町太田に近江国高島郡の式内社、大田ヲホタノ神社の論社、大田神社があり、境内社の六所船魂大明神は住吉三神を祭神としています。この地に隣接して舟木という地名があり、近世直前まで船大工が多かったそうです。大田は「大田田命」を連想させ、舟木の地名とあいまって当地に舟木連が居住した可能性を示唆します。社地は安曇アド川の最下流域です(『日本の神々5山城・近江』をご参照下さい)。

 『日本書紀』一説にある播磨国宍粟郡から但馬国までヒボコが移動したルートは、かなりの遠回りです。宍粟郡から川を遡って山を越え、また川を下れば出石神社のある場所まですぐなのに、あたかも環状線を逆回りして目的地に向かうようにして但馬にたどり着きます。結局これはヒボコと同族の渡来系で安曇系海人の船運と連携し、播磨〜摂津〜近江〜上越〜但馬の経済圏を掌握していた息長氏の影響圏のことを物語に組み込んだのではないでしょうか。そうして来帰したヒボコを導いたのは多氏で、多氏はやはりヒボコと同族だったのでは。またタタ神社、タネコ、大田、コソのつく神社は多氏の遺跡で、彼らは日神祭祀の習俗があり、それを追ってヒボコがやってきたことを『古事記』の伝説は伝えているのでは。↑わっ、長〜いっ!!setohさんごめんなさいm(__)m


[950] 歴史と思考方法との曲がりかど  [焼尻紋次郎] 04/21

 モヤがしだ〜いに晴れていくような現象〜……それを写した心境なんです。

 もちろん、わからないことばかりですが、仮りに日本の神様の名前ぜんぶが、南部朝鮮の難しい朝鮮語でできたものとしても、そこには高率にネパール語的な語彙がはいっているし、日本に遅れてはいってきた秦氏のことばも、音韻が急速に日本語化されたとしても、「朝鮮語の背後にあるシナ語」の超異質なものは、そんなには感じられないのです。
 そしてシナ語そのものが、つい最近(ここ、表現がむずかしいのですが)平原で造語され、それが急激にシナ大陸に蔓延して行ったのではないか……を感じていたのです。

 そこへ鹿島昇さんが次のように書いている記述にぶつかりました。
 『紀元前十世紀のころ、ソロモン王のタルシシ船はマレー半島からバンチェンに到達したあと、南シナ海を経て日本列島にまでいたたが、洛陽郊外の金村出土の銘文によると、中国大陸に上陸したフェニキア人が、洛陽に植民していたことがわかる。しかし、このような歴史は、なぜか、中国の史書には登場していない』として……

 『メソポタミアにはイシン王国があった。シナの古い王朝の殷とはそのイシンらしい。漢字の原形である甲骨文字はイシン王国のディルムン、マカン、メルッハ(水軍の長)などがシナへ持ち込んだエトラ・ドラビダ語族の象形文字だろう』と。
 さらに、シナの歴史の記述は、周はアッシリアと、晋はバビロンと、秦はペルシャと、魯はイスラエルと、事件や経過が酷似している』と。
 
 パール・バックの『大地』をむかし読んだことがあるが、そこに描かれている人間像はボノボおカンジ君を連想させるものばかりで、苦渋をのり超えた“文明”は感じられなかった。これ、パール・バックさんの偏見によるものだろうか。
 いまじゃああた、ケンリ・ケンリを大合唱する十余億の人々ではある。

  ことばの曲がりかど ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[949]  お手数おかけしましたm(__)m [あかね] 04/20

>Setohさん
転載、お手数をお掛けして申し訳ございませんでした。それにしても早い!驚きました。

それで過去ログへ移動していただいたメール中に書きました鉱物の件ですが、やはり間違っておりましたので訂正します。失礼しました。
黄銅鉱に出る事が多いのは、磁硫鉄鉱と、砒硫鉄鉱が正解です。
それから、播磨多可郡の天目一と宗像女神のお子神はアジスキらしいとはいわれてるのですが、地元の関連社ではお子神の名は特定しておりません。お子の名より、婚姻しなかった点と、新に命を生出す事の方に意味があるそうです。
 
>玄松子さん 話が前後してすみません。
>対半島の防衛ラインとして、玄界灘沿岸の神社配置が有名です。
>東から、宗像-織幡-志賀海-住吉-志登-田島などの古社が並んでいますね。
>「防衛」という見地からみると、兵主ラインは機能するんでしょうか。
よくわからないのですが、A.兵主と、B.宗像・住吉を、結びつけて考えるという事かもしれません。武器(鉱物採掘・加工・炭材)・船材などを調達する目的によって、AとBを祀る民が重なっていったと。播磨・丹波・但馬の場合は姫路を除き、加古川〜円山川の川ルート沿いに兵主があり、その流域には宗像・住吉も、多分鉱山も多く、地域が重なる点が重要なのだとは思うのですが、果してホントに防衛となったのか…。

[948]で神社について、有難うございました。抜粋した本には私の書き込みより無論、もう少し詳しく書いてありましたが、短くしようと省きました。すみません〜。


[948]  9世紀の神社事情 [玄松子] 04/20

859年は、貞観元年。三代実録では、この年に全国の神社へ神階が叙位されています。これを貞観式内社と呼ぶ場合もあります。
850年あたりから盛んに、全国諸神に叙位されている状況ですね。
そして905年に延喜式の編纂が開始されました。
神社に関するまとまった史料が出てくるのはこの時期になります。


[947]  Re[942]: 妙見  [Setoh] 04/20

[942] で  あかねさん が
> 対新羅防衛線についてはメールしますね。
と書かれた通り、力作のめーるを頂きました。
あかね さん の許可がでましたので、神奈備掲示板ログに転載しております。
ご覧下さい。


[946]  Re[945]: 長弓寺・登弥神社のこと [setoh] 04/20

> 長弓寺にある登弥神社
現在は伊弉諾神社の名称です。この社につきましては
www.kamnavi.net/mn/nara/izanagi.htm
に粗末な記載をしていますのでご覧下さい。
> 同寺の坊舎8坊
大きいお寺ですが、坊舎8坊については確認いたしておりません。後日の課題にさせてください。

また、長髄彦、その周辺につきましては
www.kamnavi.net/mn/nara/sumiyosi.htm
に同様な記載をしております。

なお、予断ですが、長弓寺の真弓塚には「なにも霊的なものは埋まっていない」と知り合いの霊能者が言っていました。この塚の前で祈念したそうです。何かあれば、たいていの場合反応があるそうですが、ここはなかったそうです。『> ホレ、信じナシャイ。』とは言えませんねぇ。


[945]  お教えください、長弓寺・登弥神社のこと [日下倭人] [Url] 04/20

ナガスネヒコとクサカについて調べています。
生駒市上町にある長弓寺と登弥神社がナガスネヒコと関わりの深いものであることを知りました。本の中に「長弓寺にある登弥神社」という記載があるのですが、寺社がどういう状態および関係にあるのかご存知でしょうか。
それから、「同寺の坊舎8坊はナガスネヒコの旧跡」ともありましたが、坊舎は8坊なども現存しているのでしょうか。
もしご存知でしたら、setohさんよろしく。


 [944] 「ヒメ」とはクマリで氏族の名前だった [焼尻紋次郎] 04/20

 おらはいつも「古代の神様は『ヒメ』だらけじゃんか、こんなにヒメがいたんじゃ道路事情といっしょで、“まつりごと”も渋滞してカナワんやろなぁ」と思ってきました。
 また、黒姫などという名前の神様が坐すのは、いくら古代感覚とはいえ、こりゃオカシイですよね。
 しかも「ヒメ」を表記している漢字は5〜6種類もありそう。
 そこでおらは、ここ3年間ばかりは、このヒメとは“「目ひく一 =日」 + 「目(または目付け)」”の語彙構成からなる金属製錬士の片目神のことで、少なくともヒメと呼ばれている神様の半分は男の神様だ……と、主張しつづけてきました。

 ところが、おらのアタマに電球がともった。
 「○○ヒメ」とは「○○クマリ(=○○ヒメの“集団”)」ではなかったろうか……、です。
 ヒメとはクマリの別呼称だったにちがいありません。クマリとは今でもインド各地にみられる生きた少女神(化身)です。
 Jamat-ai(意味は集会ということ)国のヒミコ・イヨが複数氏族のクマリだったことは記録により明らかです。

 氏族の構成員が増えてくると、山ひだで細かく仕切られたわが日本列島では、それまでの占拠地ではすぐに狭くなり、肉親は泣きの涙で各地に散りました。それは渡来民の割拠状況の記録にもあります。
 そのとき、複数氏族統合の象徴がクマリ(ヒメ)だったにちがいない……です。ですから、ヒメとは個人名ではなく、氏族〜集団の名前だったにちがいない。これが電球の「ともしび」です。

 具体的には、いろんな例外現象もありましょうし、一氏族が同一地域内によそをまねてクマリを立てた場合もあったしょう。
 では、なぜネパール語系やパーリ語直の制度名でなく、新たに「ヒメ」という語彙ができたか……。
 これはたった今の発想で申しわけないのですが「クマリ」は「クソまり」にそっくりで、コマラ(パーリ語)は「困る・小マラ」に通じるから……。

 おら、泊瀬女ちゃんに「その前にクマリを入れて“クマリ・泊瀬女”にしなせぇ」と言ったら
 カンタンに嫌われちゃった。みごとな直感力に敬服する。もう言わね。maphi ra〜 アマカネ。
 
 ヒメという発音が決まるまえは「ヒルメ」だった筈です。「ヒル」はわかりません。この解説について、クソヂヂィは「霊力の発動」という領域に逃げこみました。
 BC.450年、ヒルミコという氏族名がギリシャ周辺に現れています。沢内村には真昼岳があります。
  
  ことばの古代のことば ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[あかねさん]からのメール  Re[935]: 対新羅防衛線 [あかね] 04.20


『加古川流域の古代史(上・中流篇)』神崎勝著・妙見山山麓遺跡調査会発行 から抜粋した内容に自分の見解を加味してお伝えします。

@道主日女命=道主貴であり、この「道」は本来、半島への航路(海北道=北ノ海ツ道)を意味し、玄海灘の沖ノ島を基点としたこの海の女神への信仰は、日本海沿岸を経由して山陰・北陸方面へ拡布していったらしい事(能登のへくら島は旧名沖ノ島、出雲の隠岐島は沖ノ島)と、宗像女神信仰は更に内陸部へも伝播していき、播磨各地にも関連する信仰伝承がみられる事。多可の播磨二宮・荒田神社(式内社天目一神社)と式内社古奈為神社も宗像女神を祀り、加古川上・中流域にはこの海の女神を奉じる社が多く、これはその信仰が日本海沿岸沿いに山陰・北陸地方を経由し中国山地を越えて伝播した事をさす。

A多可では宗像女神は針間鴨国造山直(主に多可・賀茂郡を支配)による奉祀を受けた事。

B宗像女神と伊和神(天目一・スサノウ・大国主等)の聖婚伝承等、播磨でこれらの信仰伝承が伝播ないし成立した時期は、住吉大神系の海神信仰伝播との関係からみて7C中頃より以前の段階とみるべきで、その伝播背景には全国各地の豪族たちが大和朝廷を中心として朝鮮半島へ進出してその利権獲得に狂奔していた6〜7C代に、この地方の豪族たちの半島進出が日本海ルートで行われた事が想定される。多可郡の6つの式内社の内、荒田・古奈為・天目一の三神社は多可地方の古代氏族の動向と深い関わりをもつ社。

C兵主神社19社のうち10社が兵庫県にあり、姫路の射楯兵主を除くと、加古川〜円山川ルート上に点在し、因幡や壱岐の兵主神社などを点綴すれば、日本海〜玄海灘を結ぶルートと直結している。香住町には九斗や隼人、浜坂町の沿海地方にも兵主神社がある。

D大和穴師兵主神社の初見は859年、穴師神は842年を初見とするので、多可郡黒田庄岡の式内社兵主神社を大和から勧請したのはそれ以降である。近江や壱岐の兵主神社の初見も、859年に集中している。なお、黒田庄町の式内社・兵主神社も、社伝によると延暦3(784)年に大和国から勧請された」としてるそうです。

E834〜897年に渡る半世紀余りは、平安期を通じ最も新羅との関係が緊迫した時期。天平年間に新羅討伐が中止されて後は、新羅との関係は比較的平穏で新羅人の入国・帰化も許されていたが、840年以後は新羅人渡来を禁じ、先立つ承和2年に朝廷は壱岐国へ防人を配備する等、西辺防備を強化したが、870年以後は壱岐・対馬をはじめ大宰府を中心とする北九州諸国、更に山陰諸国において武器・兵員を増強しつつ、更に北陸諸国へは恕師を派遣して弓兵の養成に当らせた。836年以来行われなかった遣唐使派遣が894年に半世紀ぶりに計画されたのも、新羅と対立する外交政策の一つと理解できる。
 各地の兵主神社はこうした国際的契機の下で一斉に設けられていったと考えられる。

F多可郡黒田庄町岡の兵主神社は大志野郷を官郷とする神社であり、この社が加古川〜円山川〜日本海〜玄海灘を結ぶ各地の兵主神社群と畿内の兵主神社を結ぶ起点として位置づけられた背景は、岡(風土記の都麻里)が、奈良時代を通じ朝廷によって直轄支配されてきた「椅鹿山領地」北端部に位置する事と無関係ではないと思われる。
 (7C中頃、明石川〜加古川周辺の東播磨諸地方が半島出兵に向けての造船基地として再編成されて、その頃半島交渉の守護神として国家的祭祀を受けていた住吉大社神領として認識された←これらの地方で刈出された用材は、住吉大社の神霊を鎮めた船材<船木※>として臨海部へ運ばれ、造船に供された)。
  ※←この切出しには多臣系?(これは私の推測)の明石の大海人が船木連配下で当たった。
 尚、大海人は、多可郡(風土記では託賀郡・大海山・荒田村・賀眉里)へ定住しました。
 同郡加美町にも多田の地名が残り、東播磨北部〜丹波へかけ多・大のつく地は多いです。
 また、賀茂郡には船木氏の「行基」が携わった庄園が残り、加古川沿いに行基縁の寺もいくつかあります。
GFにより、加古川本流沿いとその以東の地には、住吉神社が集中してます。

>1 立地 小高い見晴らしのよい所? 烽火の届く所に次の兵主神社ありや?
 兵主神社のある地は、地名からいくと鉱山のある地が多いようです。黒田庄の岡は現地へ行くと小高い感じはしませんが、字名からすると周囲より少し小高いようです。
 兵主神社のある所は、海や川の交通上などの、重要な地だったかもしれません。 加古川〜円山川沿いにある兵主は、川の交通の要衛のようで、例えば、黒田庄兵主神社の近くには加古川が流れ、「式内社大津乃命神社」(=船着場の神)もあり、この辺りも風土記の都麻の里で、官郷の津万郷でした。

>2 対新羅 白村江以降の緊張、それとももっと昔、とすればいつ頃でしょうか?
   防衛した主体は? 大和朝廷かな
 はい。DEFです。

>3 兵主神とは兵站基地に祀られた神 兵士を鼓舞した、逃亡したらたたるゾー。
 播磨は「中国山脈〜近江へと続く生野鉱床帯」上にあり、加古川以西は宍粟郡など鉄生産が盛んでしたが、加古川以東では鉄そのものは殆ど産しなかったようです。但し、中国山脈から流れ出る水脈が続くため、水質から行くと褐鉄鉱ならなんとか採れたかもしれないです。
 それと、黄銅鉱に含まれる事が多い、硫黄を含む磁硫鉄鉱と砒硫鉄鉱、磁鉄鉱なら東播磨一帯でも多く採れたので、鉄自体ではなくても、全く鉄が出なかったとは言えないかもしれません。これは摂津でも同様です。
(東播磨〜摂津〜丹波は、銅山・銀山が多いです)

 銅は古代製錬でも今の刀工でも取り除けませんが、奥州刀など、古代刀の鉄刀は銅を含むものが多かったそうで、磁鉄鉱等で造られてたかもしれないそうです。銅を含む刀は折れ易く、再度鍛え直せないものの、刃目に地模様が出るそうで、それが味ともなるそうです。
 つまり兵主神社のある地は鉱物・燃料材を産する地が多い?ので、兵器をつくる重要な地であり、すぐれた採掘・加工技術を受継ぐ民のいた地だと。故に天目一・金山彦・イシコリドメ・スクナヒコ彦など、鍜治・製鋼・鋳物の神は播磨にも多く、多可も大和鍜治の起源地なのだと。
 加えて、平城京・平安朝の時代から国宝級の建物を手がけた名工たちは、大和鍜治と韓鍜治を起源に持つ三木の鍜治から出た「日原大工」という東播磨の大工たちでした。大和鍜治は後の河内鋳物師も輩出。全国に技術を伝播しています。ちなみに姫路・揖保周辺からは鉄が出ており、姫路には平安から野里鍜治が居住。多可も明治初期まで鍜治が多くいました。

 即ち、兵主のある所は、兵士を兵器でパワーアップ、鼓舞する地であり、その地に兵器の神を祀る事は、神を称え、その恩恵にも預かることになるのかな、だから大丈夫?と思います。
 鉱物の出る土地は播磨の場合、長石なども多く産するので、古来より土地も豊かで天領だらけです。中国〜播磨の山々も、炭用に木々を狩出しても30年で植樹しなくてもほぼ、もとの状態に戻る恵まれた山です。百姓一機も全国一少ない土地柄です。酒米の山田穂が多可郡中町の山田翁(庄屋)によって開発され、明石の農業試験場?で山田穂にかけあわせて山田錦が作られた事も、古代よりの恵まれた自然環境・土壌・信仰?ゆえかもしれません。


[942]  妙見 [あかね] 04/20

うわぁ。我ながら長い…ご迷惑をお掛けしてすみませんm(__)m続けてごめんなさい!
↓の妙見山ですが、多可郡の中町加美町の妙見山・黒田庄の妙見山、山南町・妙見山、
能勢妙見山とは、一直線上に並んでます。
また長くなってご迷惑ですので、勝手ながら対新羅防衛線についてはメールしますね。


[941] 播磨と紀伊・北摂 [あかね] 04/19

>5c中頃に百済系韓鍛冶が「丹生山」に来て、・・、紀伊・伊勢・・と相互に交流
>>播磨国風土記の「神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った」話に符  合しているようですね。
 前後してごめんなさい。これは符号してるらしいです。7cに「椅鹿山領地」が加古川中・上流域に成立する以前、5〜6cから山直は、大和へ山の資源を出してたそうです。

>播磨国風土記飾磨の郡大田の里
 これは播磨・揖保郡大田の里のことですね。でも飾磨郡美濃の里や揖保郡美濃谷は、5c以来、茨木・高槻辺りの首長であった「三嶋県主飯粒」が、安閑朝へ献上した摂津国西成郡三野郷と、何らかの関係があるのかもしれませんね。多氏の移住地・足跡を、鴨族が追ったためかな。ちなみに「三嶋は鴨族」です。

>播磨国の揖保の郡の大田の村とは 太子町太田の辺りでしょうか。 はいそのようです。

> 摂津国 大阪府茨木市 太田神社あり また大字安威の阿爲神社の由緒に
> 安威周辺の将軍山古墳や海北塚[かいぼう]の石材は紀ノ川流域から運ばれている。大田連の居住地であり、渡来系で紀伊の大田からの移住者と推定される。
 「太田村」は茨木市の島下郡とされ、「太田神社」は呉の勝の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成し、6c以降?に中臣の祖神天児屋根を祀ったそうです。ですが、呉の勝が紀伊から太田へ移住したのは、地元の郷土史家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残ります。で、阿為神社の本来の祭神は、建甕槌神を鹿島の多氏がこの地に奉遷したそう。
 尚、茨木市太田東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」もあり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土してます。また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あるようです(ご存知の事を書いてすみません)。
 茨木は西国街道にあって、北摂は街道でも川の道でも、重要な位置だったようですね。続日本紀には高槻市北部・神峰山山麓の原〜丹波〜但馬へ行く桧尾川ルート(枚方・交野市へと流れる「天川」の上流地域です)が出てくるそう。紀伊から播磨へ入ったルートは、紀ノ川〜吉野川〜飛鳥川〜淀川〜桧尾川〜丹波・篠山川〜加古川〜市川と、川が主な道筋だったかも。海人ですし。方向音痴なんで今一、イメージできませんが…

> 摂津との関係では粒坐天照御魂神社と疣水神社があげられます。
神功皇后と、揖保郡を開拓した阿曇連百足関連からですね。安曇氏が淀川河口・三島で開拓したと。
> 紀伊との関係では中臣印達神社と伊太祁曽神社が考えられます。←主に忍海部からみですね。

> 天目一=スサノウ、播磨には素尊が片目であるという伝説があるのでしょうか
はい。あります。多可郡には道主日女命(宗像女神)と天目一命が婚姻せずに、同郡黒田庄町(式内社兵主神社がある)でお子神・アジスキをなした話や、郡北部でそのお子神が天目一に酒を奉げて父だと示した話が残ります。更に西脇市(昭和27年までは多可郡)大木町(この地の天目一神社は地元の専門家は式内社ではないとしてます)には、“道主日女が刀鍛冶のスサノウに守り刀造りを頼んだところ、刀が思い通りに造れずに、やけになって振り下ろした槌の火花が目に入って片目になったが、十日めにできあがり、ヒメへ刀を持参して求婚(婚姻してないけど)し、ヒメはそれを受けた”という伝承が残ってます。
 多可郡北部には他に、「あまんじゃこ(天邪鬼)」(=郡名を名付けた大人=天日槍命)が残した大石もいくつか残り、それは野タタラを現すと同時に、太陽信仰も示してるのかもしれません。どうもその石が置かれてる場所(銅山)を結ぶと三角形になるようです。そして、多可郡の中心的な銅山であった妙見山の南麓には「日向の風」信仰もありました。更に西脇市大木町の天目一神社を中心にして、その三方の山の頂きには、環状列石も残り、結ぶと直角三角形?なるようです。


[940] どうもありがとう(*^_^*) 早い!! [なちゅうー] 04/19

どうもありがとう!近いうちに必ず行ってみますね!!
あのですね、船玉姫命は女神様です。
彼女は船玉大明神と言われる方だと私は聞いています。
ついの神様で船玉彦命さんって男性の方もいます。
なぜ知っているって・・・。それはひみつです(*^^*ゞ

群馬などの船玉様は川を渡る舟をおまつりするものです。
船玉は舟の神様のというほかに道をスムーズにするという意味があるので人生の岐路になったら気休めですけどお参りに行くのもいいかもしれませんね。


[939] Re[937]: 教えて下さい(*^_^*) [Setoh] 04/19

 ありましたよ。神奈川県横浜市神奈川区入江 一之宮社「船玉姫命」です。
所で、質問があります。
1.船玉姫命とは女神でしょうか? 船玉命や船玉大神と呼ばれる神々は現在は同じ神と扱われていますね。
2.船玉の神の一番古い方で、西暦300年頃とされている理由は何でしょうか?是非知りたいものです。

 船玉社って全国で数拾社あるんですね。群馬県にも!。ここ海に面していませんよね。


[937] 教えて下さい(*^_^*) [なちゅうー] 04/19

初めまして、こんにちは。m(._.)m
YAHOOで船玉を検索していたらこちらの掲示板にであえました。実は私は以前から船玉神社を探しています。船玉だったら何でもいいわけではなくて、祭り神が船玉姫命(ふなだまひめのみこと)のを探しています。船玉の神の一番古い方です。西暦300年頃。かなり古い時代の方なので今は船玉と言えば他の人になってしまったり、住吉神社に合併されてしまいなかなか見つかりません。でも、絶対にあるはずなんです。本によっては祝詞にものっています。そこで、どなたかご存じのかたがいたら教えて下さい。メールでもかまいませんお待ちしています。よろしくお願いいたします(*^_^*)


[936]  Re[935]: 対新羅防衛線 [玄松子] 04/19

> 兵主=日槍=新羅の王子と連想してしまうので、対新羅防衛線とは!!思いつかない新鮮さですね。

対半島の防衛ラインとして、玄界灘沿岸の神社配置が有名です。
東から、宗像-織幡-志賀海-住吉-志登-田島などの古社が並んでいますね。
「防衛」という見地からみると、兵主ラインは機能するんでしょうか。

> この辺りの話、もう少し、お願いできませんでしょうか。


[935] 対新羅防衛線  [setoh] 04/19

> 因幡の巨野乃兵主神社や佐弥乃兵主神社、壱岐の兵主神社などと結べば、やはり新羅への防衛のため故となるようですね!

 ねあかのあかねさん、面白い発想ですね。兵主=日槍=新羅の王子と連想してしまうので、対新羅防衛線とは!!思いつかない新鮮さですね。
 この辺りの話、もう少し、お願いできませんでしょうか。
 1 立地 小高い見晴らしのよい所? 烽火の届く所に次の兵主神社ありや?
 2 対新羅 白村江以降の緊張、それとももっと昔、とすればいつ頃でしょうか? 防衛した主体は? 大和朝廷かな
 3 兵主神とは兵站基地に祀られた神 兵士を鼓舞した、逃亡したらたたるゾー。
 席亭の発想は即物的で、miss.Matsukoさんのようなロマンがありませんね…m(__)m 。


[934] 異次元体験を支援する社会の対応……それが文明だ [焼尻紋次郎] 04/19

 ネパール語のakhas を日本人が聞いたら「ア−カース」(“ー”はも少し短いらしい)で、「空・海」の両方の意味があって、日本語の「アマ」の考え方に酷似しています。
 末尾が「イック」となっているのをみると、こりゃ英語くさいが、こりゃどういう意味(語源)でっしゃろ?

 あのな、だれが言い出しっぺかは詮索する必要はまったくないんじゃ。いやさ、有害ですらある。
 モンダイは、そういく記録装置がおらたちのノーミソに、あまねくセットされているかどうかが、チョ−だいじざんす。
 そして、その内部に突入して異次元体験をする若者の群れを社会がどう支援するしてゆくか……ここだ!

 「誰がいうたか」を極める神経は現代の“まちがった学問での佇まい”が然らしめる名誉がらみの集団形成作業にしかすぎねぇ。
 サリセッセがいみじくも宣りたもうたように、ダイジなんは「ロマン」であらいしょ。200年後の智的水準からみたら、わえらアホばぁやりよんのよ。おらが『価値観のヘリクツ』みてけろ。
  www.you-i.org  ⇒ 『ユーアイ・カラー』 ⇒ 価値観


[933]  Re[932]: 無題 [玄松子] 04/19

> アカシックレコードを言い出したのは
> 心理学者ユングではなく、人智学のルドルフ・シュタイナですよー!

そうでしたか。
僕は、エドガーケイシーあたりだとばかり思っていましたよ。


[932] 無題 [通行人] 04/19

アカシックレコードを言い出したのは心理学者ユングではなく、人智学のルドルフ・シュタイナですよー!


[931] Re[927]: 紀伊話になると、つい長くなって…m(__)m [Setoh] 04/18

播磨国風土記飾磨の郡大田の里
 大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。

 大田の郷を比定してみます。
紀伊国名草郡 和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側 太田黒田遺跡あり。
摂津国 大阪府茨木市 太田神社あり また大字安威の阿爲神社の由緒に
 安威周辺の将軍山古墳や海北塚[かいぼう]の石材は紀ノ川流域から運ばれている。大田連の居住地であり、渡来系で紀伊の大田からの移住者と推定される。

 播磨国の揖保の郡の大田の村とは 太子町太田の辺りでしょうか。

摂津との関係では粒坐天照御魂神社と疣水神社があげられます。
紀伊との関係では中臣印達神社と伊太祁曽神社が考えられます。

所で
> 天目一=スサノウ、播磨には素尊が片目であるという伝説があるのでしょうか。

針間のハリ、尾張のハリ、天照御魂神、火明神、海人系、こちらも面白そうな課題ですね。


[929] Re[928]: 困ってます [のりちゃん] 04/18

> ユングのように、何もかも「全人類に共通」なんて云われたらみもふたもありませんよね。

あれ、アカシックレコードってそういう意味なんですか?
太古に人類が経験したことの記憶が「遺伝情報」として、残ってきたのが、アカシックレコードだと思ってました。
だから、「言葉」で伝承しなくても、人が、「記憶の遺伝」を持って散らばり、(紋次郎氏による指摘、血が濃くなりすぎないようにとの、他民族との婚姻なども含め、騎馬民族の移動、など)新しく民話・神話を作っても、自分たちの祖先の記憶が残っているから、同じようなお話ができちゃう・・・そんな風に理解していました。

確かに、全人類共通・・・って言われたら、おもしろみがないかも。
でも、「記憶の遺伝」にはロマンを感じませんか?記憶が遺伝しているから、見たこともない、神話の世界を、身近に感じることが出きるのかも。


[928] Re[926]: 困ってます [玄松子] 04/18

> ただ、この手の神話は、何もギリシャ神話と日本神話に限ったもんじゃないので、

そうです、この二地点に限った話ではないから面白いのではないでしょうか。
太古の昔、言葉や神話を担いで、人々が移動し、あるいは伝え合って、文化のネットワークができた。そう考えるから、紋次郎氏のネパール語研究も意味があるのではないでしょうか。
一見、何の関連も無い、二地点の言語や、神話のモチーフに共通点を見出し、その関連を探る試みが、この掲示板でも行われており、そこにロマンがあるのでしょう。
ユングのように、何もかも「全人類に共通」なんて云われたらみもふたもありませんよね。


[927] 播磨話になると、つい長くなって…m(__)m [あかね]04/18

Setohさん・香具さん>
 ごめんなさい。三坂明神社は完璧に勘違い…。御坂・三坂・美坂・御酒と7つ?もあってこんがらがってました。やはり式内社御坂神社の後裔社は、志染町にある「御坂神社」だと思います。御坂神社には古来からの「弓矢式」?も残るそうですし。御坂神社祭神は大物主・葦原志許男・八戸掛須御諸命、許大神だから、兵主の社と関係ある気もしますね。香具さんのおっしゃるように川の合流地、堺にある所に意味があるかもしれません。
 加古川以東の東播磨は、「瀬戸内海・加古川(支流含む)〜篠山川〜由良川〜円山川〜日本海〜玄海灘」の海・川ルートが古代より開けていたようで、7cには丹波の阿知万〜三田市〜三木市加佐〜多可郡西脇市・黒田庄町〜阿知万へと続く、「大和朝廷直轄杣山地帯=椅鹿山領地」として編成されてました(この地を支配してた山直は、6には既に産物を中央へ献上してたそうです)。つまり、加古川以東は朝廷への鉱物資源・炭燃料材・船材・建材・石棺材などの供給地帯であり、西播磨を押さえて、吉備国を制圧するための拠点地だったそうです。更に、加古川〜円山川ルート上には、兵主神社総数19社のうち、姫路の射楯兵主を除いて、9社が点在し、因幡の巨野乃兵主神社や佐弥乃兵主神社、壱岐の兵主神社などと結べば、やはり新羅への防衛のため故となるようですね!
 あ、加古川上流の支流・杉原川沿いの多可郡(風土記では託賀郡)北部などにも、熊野部(辺)等、紀伊縁の地名は結構、ありますよ。天船など、物部系の地名も残ります。宍粟郡には『播磨一宮・伊和神社』があり、佐用郡には「天一神社」が残り、『播磨二宮・荒田神社』(式内社天目一神社と比定。後背地の古墳から天目一の御霊刀といわれる刀が出土。地元では、まひとつさんと呼ばれる)は、宍粟郡の隣・神崎郡から更にすぐ東の多可郡にあり、全て鉱山のあった地。そして播磨二宮では、天目一=スサノウと宗像女神が婚姻せずにアジスキを産まれた事になっており、その社には聖徳太子や坂上田村麻呂伝承も残る…。加えて東播磨を治めたのは天目一を祖先神とし、息長氏系である「針間鴨国造・山直」。しかも多可郡は大和鍛冶の起源・起源地です。海人・製鉄、渡来民などとその神の繋がりが感じられて面白いです!


[926] Re[920][919]: 困ってます [のりちゃん] 04/18

> ギリシャ神話のパクリ(影響)という説もありますね。

イザナギの黄泉の国訪問=オルフェウスの地獄訪問
アメノウズメの裸踊り=デメテルの裸踊り
でしたっけ?他にもあったと思いますが。

ただ、この手の神話は、何もギリシャ神話と日本神話に限ったもんじゃないので、どちらかというと、ユングの言う、アカシックレコード(太古の記憶)なんじゃないかと思います。
ていうか、そう思ったほうが楽しいなぁって。


[925] や は た た ね ま く  [焼尻紋次郎] 04/18

 いまから10〜25年前のおらの関心事は川崎真治さんの著作を読むことでした。
 川崎真治さんは言語の面「ウル・シュメール・エジプト起源論」を展開しておられました。
 まいとし、2〜3回は電話して、こんどはどこから何という題名で本が出るのかを川崎真治さんから教えてもらっていました。
 その頃、川崎真治さんは吾郷清彦さん、鹿島昇さんと三人共著という形でガシッとした本を出されました。本の名前は2 m先の本棚まで行けないので、ザンネン至極ながら、いまここでは紹介できません。
 吾郷清彦さんといえば古代文字研究家として「亜流学問」の大家です。鹿島昇さんについては、あんまし知らないのですが、なにせ世界文化潮流の大局を抑え、オリエント⇒極東文化を精密に調べあげた人です。
 
 ところがこの3人さん、この本の出版のあと、3人揃って急速に勢いが落ちたのです。
 これはおらの、まったくのアテズッポウの推理だが、この本で吾郷清彦さんがU.F.O.文字についてまで言及されたのがイケなかったのだと惟ふ。
 ことばにもならない領域の……その文字までとは! 偏執の限界がワカラなくなって世紀の鬼才・3人が枕を並べて討ち死にしたような結果を招いたのではなかったでしょうか。

 『かむなび』にお世話になって、なにかワカランまま、且つ、記憶にはまったく残ってないが、おらのドタマも神様の名前なんかには、すこ〜し馴れてきたみたい。
 そこで「ボツボツかな?」と思って、鹿島昇さん関係でのツンドク本の一つを開けたとたんに『BC.695年±40 に国東半島で製鉄遺跡』の記述がおらが目にとびこんできました。
 宇佐八幡の三神……など、『かむなび』のハナシに出てこなかったワケがないのですが、タキリ、イチキシマ、タキツと、こう並べられたを見ると「ta-kir ・女地・屹立神」と、ピシャッと意味が出るではア〜〜リませんか! 

 おどろきイッパイの記述が連なるなかに、上田正昭さんの言として「平安時代の歌に“やはたたねまく”があるので、八幡とは農耕神だったと思われる」が紹介されています。
 アホこくんじゃねぇや。こりゃ 「ya(神)・ハタタ(雷)+ ne(指導者)maki(族・一家)」と読むのら。

 どなたか、この歌の前後の文字を紹介して下さい。瀬戸内っつぁん、香椎で清々しかとでっしょ? 教ぇてぇな。
 吾郷清彦さんは島根のご出身であるだけに、じつに惜しまれる失敗デシタ。
  言語オンチの掲示板 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[924] 香椎宮 散策 [瀬戸内] 04/17

0957 いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
前略 瀬戸内です。
今朝 香椎宮を散策しました。 気候もよく気持ちのいい朝でした。
本殿 武内神社 古宮とあるきました。歳を取ってくると朝が早くなります。6時半ぐらいですけど 人は結構多かったです。
いい雰囲気ですが 気にいらないところがあります。
手を洗い 口を漱ぐところの水が流れていないところです。
杓が洗えないのです。この1点 神社の方の感覚に疑問を感じます。
わが国でも 由緒ある神社がこのような始末です。
もっと きちんとしてもらいたいものです。
でも 境内は いい雰囲気です。
因みに 箱崎宮は流れています。当たり前のことですが。


 [923] 神社参詣記 [Setoh] 04/17
 神社参詣記を書こうと思ってもなかなか難しいものです。やはり豊かな感受性と文章力が必須ですね。才能ですね。
> レベルの高い討論
 いやいや、同好の素人同士のブレーンストーミングとしてご容赦下さい。
> 皆さんの息抜きに軽いお話
 軽く読むことができることはできますが、感性豊かな神社参詣記を書くほうがどれだけ難しいか、一応わかっているつもりですョ。
> 風のように、「吹いて」
泊瀬女、風になびいての図、いいですね。風雅ですね。風狂かな。

 皆さんも、神社参詣記に挑戦してみましょう。

 所で前に布留御魂神・素盞嗚尊と出雲ー吉備ー大和・紀伊の関係を取り上げましたが、実は播磨を中に置いて、式内社のイダテ神と出雲ー播磨ー紀伊を紹介します。
出雲国 意宇郡 佐久多神社同社坐韓国伊太氏神社
    出雲郡 阿須伎神社同社坐韓国伊太氏神社 など六座
播磨国 餝磨郡 射楯兵主神社
    揖保郡 中臣印達神社
紀伊国 名草郡 伊達神社
なお、陸奥國 色麻郡 伊達神社は播磨からの勧請社。

播磨と紀伊とはまだでそうです。後日に。

[922] ギリシャ周辺に吹いた風 [焼尻紋次郎] [Url] 2001/04/17

 中央公論社刊 ; 『科学が明かす古代文明の謎』金子史朗著 44頁に北アフリカ、ブッラ・レギア出土、大理石でできたビーナスの写真がでています。
 この写真、よくみると鼻梁はそれほど高くはないし、鼻が丸まっちい。大理石の写真なので眉やひとみの黒色はありません。そこでおらはボールペンで眉とひとみの黒を描いてみて……ビックラコ! いとこの英子じゃんか!
 いまじゃ70歳のババァだが、博多市民を代表したみたいにして力道山に花束を捧げたこともある美人でした。
 このビーナス、何族の娘かは書いてないが、この頁周辺にはカルタゴ、フェニキア、ギリシャなどの民族が書かれています。

 北アフリカといえば、思いだすのはベルベル人のことです。バルバル人とも云われバーバリアン(野蛮人)呼ばわりされた民族ですが、ここの娘が嫁いりするときには“毛”でツノを作って、これを頭髪のなかに隠し、白い布で被ううそうです。ネパール語でツノは sing 。エデン語 ; kar は「作る」ですが、singgar となると「化粧する」になります。

 当時、エジプトの北にミイラ製造に不可欠なアスファルトの生産を抑えていたナバタイ人がいました。ナバタイの末尾の「イ」は「人・処・神」であることが考えられます。これを神だとすると、ta-nabata……タナバタ(七夕)と同一です。ta-naka(田中) さんは mi-lok(ミロク)さんの別造りです。

 けふ、『ほにゃらか掲示板』に XaXa(姐さん・大地など)をカキコします。XaXa は hawa(風)の語形を写している筈です。
 姐さン、サワヤ〜〜カあるね。悟っちょる。古代人はそーゆーのを神にしやした。ナガイキしなせぇ〜イヨッ。

  世界の古代世界をことばで拓く ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[921] Re[915]: 三木… [香具] 2001/04/17

あかねさん、有難うございます。
三木市は隣町ですが、神社に目覚める以前に訪れただけでした。
[912] 『チャランポラン』で書き込んだ御坂神社も、地図で確認したら記憶違いで御酒神社の間違いです。ゴメンナサイ。(石上山はあってました)。ウロ覚え状態のところ、あかねさんのご解説で見通しが開けます。

強引ですが三坂神社と御坂神社を同じと数えると三木市内に四つ拾えました。
 三木市北東に接する美嚢郡吉川町から流れてくる美嚢川と、東部から流れる小川川が合流する細川町豊地に三坂神社がひとつ。
 さらに市内南東で、淡河川と志染川が合流する志染町御坂に御坂神社が二つ目。
 先の2地点で合流した川が、それぞれ美嚢川、志染川となり市内中央部の岩宮で合流し美嚢川となるのですが、この合流付近にあるのは岩壷神社です。
 そこから美嚢川は大きく蛇行し市の中心部に至り、西岸の加佐に三坂神社があり三つ目になります。
 市中央を過ぎた川は川幅を広げながら西に向い、南岸の別所町東這田に四つ目の三坂神社があります。この三坂神社は西南の加古郡稲美町に向う道沿いです。
 川はさらに下って西端で加古川に合流します。

このように三木市の中央、西部、北東、南東にあり、川(道)の分岐箇所にあたるようです。
どうも勾配のある坂というより、境というか三つに分かれる(裂く・割く)という意味でしょうか。現地で地形を確認しなければ判りません。
 御酒神社は、市内の西(別所町石野)と、北東(細川町中里)に対称にありますね。
ポピュラーな八幡さまは八つ、他に、愛宕神社が四つ、大歳神社が五つ、八雲神社が二つと拾えました。

>「み」は身・見・御・霊などもありそうですね・・・

でしょ。実とか、水・三・深・満なんかも繋がりませんでしょうか。
『ミ』神は、古代のシャーマンがチャネリングした、グレート・ホーリー・スピリットだ。
などという漫画そのものの妄想を描いてみましたが、遊びの域を越えません。
「み」には何か惹かれるものがあるのですが・・・・。


[920] Re[919]: 困ってます [玄松子] 2001/04/17

> 日本の神様とギリシャの神様ってどこか似たところがありますね。

ギリシャ神話のパクリ(影響)という説もありますね。

> 泊瀬女は困っています。

風のように、「吹いて」りゃ良いんじゃないでしょうか。
雰囲気ですよ。


[919]  困ってます [泊瀬女] 2001/04/16

泊瀬女は困っています。私のバカみたいなレポートが紋次郎さんにほめられちゃった(のかな???)。香具さんも楽しみだと言ってくださるし。どうしましょう。
神奈備の掲示板ではレベルの高い討論を理論的に闘わせているので、私なんかついて行くのが精一杯。皆さんの息抜きに軽いお話を・・・って時々割り込んでいただけなのに。
戸惑ってオロオロしてます。
玄松子さんは日本の神様だけでなく、ギリシャの神様のことまでよく知っているのね。博学であきれます。いいメールアドレスがきました。日本の神様とギリシャの神様ってどこか似たところがありますね。多神教だからでしょうかね。風神雷神図のような風の神ではなく、そよかぜのようなアイオロスを心がけましょう。


[918] Re[916]: 宣伝ありがとうございます。[大三元] [Url] 2001/04/16

坂に就いて少し面白いことがあります。下記ローマ字はアイヌ語です。

tupesan kur は 8つの・蔭 の意味になります。八雲、でも大過ないと思われます。
tupes san kur としても最初の語は8を意味し、8つ・出る・雲 の意味合いです。
これが 八雲立つ出雲、というから出雲という、という出雲の語源のミッシングリンクじゃないかと。

最初の tupesan kur が tupesan hur となると「八坂」です。
san kur の部分だけ抜き出して 漢字を勝手に宛てると「三雲」「三蔭」→「御蔭」
san hur と訛らせて漢字を勝手に宛てると「三坂」→「御坂」など。


[917] リンクはらせていただきました! [かわ] [Url] 2001/04/16

こんにちは。はじめまして。
わたくし、この度、古代史関連のHP(Historical http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/)を立ち上げることとなりました。
そこで、「神奈備にようこそ」様にリンクをはらせていただきました。
事後報告になりますが、どうぞ宜しくお願い致します。
また、遊びに来ます。


[916] 書き込みありがとうございます。[Setoh] 2001/04/16

大三元さん>「坂」それ自体が神格を持っているということではないと思う。
書き込みありがとうございます。大三元さんのオノゴロ島論、アイヌ語で古代を見ると見えてくる典型だと思います。皆さんももう一度ご覧下さい。
「山」を「神体山」としますと、「山」そのものが神です。
一方、「坂」とは「坂の上の神」「岡に坐す神」を一言での表現したものと考えることができますね。

 お祭りの中の言葉遊びになっちゃいますね。

あかねさん>三坂神社は、重文の「三坂明神社」のことですね。
あかねさん、書き込みありがとうございます。示唆に富む内容で参考になります。
三坂明神社の件ですが、式内社の御坂神社を兵庫県三木市加佐の天照皇大神を祭神としている三坂社であると言う意味ですね? そうだとするとその根拠はどんなものがあるのでしょうか?

>5c中頃に百済系韓鍛冶が「丹生山」に来て、・・、紀伊・伊勢・・と相互に交流
播磨国風土記の「神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った」話に符合しているようですね。

播磨はイダテ神も出てきます。紀の国の伊太祁曽神社の祭神とされます。興味津々の地域ですね。播磨の御出身で土地勘がおありのようです。今後ともよろしく。


[915] 三木… [あかね] 2001/04/16

Setohさん、お久しぶりです。香具さん、初めまして。話の流れをよく理解してないままに書いてますので、ピンぼけだったら申し訳ないのですが、私も播磨出身なので少し…。
ご存知だと思いますが、三木は加古川支流・美濃川に沿って開け、播磨風土記では大江の伊射報和気命(履中天皇)が「水流甚美しきかも」とおっしゃったので「みなぎ」と名付けたとあり、更に三木市HPにもあるように「三木の地名の由来は、神功皇后が市内の君が峰で休まれた時、土地の者が壷に入れた酒を献上したことから、御酒(みき)、美壷(みつぼ)と呼んだのが始まりで、御酒⇒三木、美壷⇒美嚢(みのう)に転じたといわれています」。三坂神社は、重文の「三坂明神社」のことですね。
この酒を入れた壺は「甕=みか」なのでしょうね。播磨国風土記にある、例えば、託賀郡法田里「甕坂」も、丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境界としたものだそうですし(「み」は身・見・御・霊などもありそうですね)。
また伊射報和気命は、美嚢郡志染(しじみ)里の志自牟(=<縮見屯倉首>=忍海部造細目)の家に入ったとされるため、美嚢、志染(志深)は、「葛城の忍海」に関係のある地らしいのも面白いです(そして景行天皇の七十余の子は筑紫、讃伎、伊予、阿波、播磨、美濃などでも統治しており、みのの地名は播磨各地や、美嚢郡吉川町にも箕畑村の地名が残り、美嚢が後に美濃となる事と何か関係ある気もします。わかりませんが)。
加えて三木金物の歴史は、5c中頃に百済系韓鍛冶が「丹生山」に来て、在地の大和鍛冶に先進技術を教えた事に始まり、続二本紀によると、美嚢郡大領に韓鍛首広富という人物がみえ、紀伊・伊勢・伊賀・近江・丹波の忍海漢人・金作部・弓削部・韓鍛冶など近隣諸国の鉄工技能者と相互に交流してた事もうかがえるようです。
で、結局何を言いたいのかと申しますと、東播磨は加古川上・中流(支流含む)を中心に、天目一(=天児屋根・スサノウ等)や宗像女神縁の社が多く、三輪との関わりも深いようで、鉱物採掘加工の民も神々と共に移動・定住していたと。ちなみにこの辺を中世まで主に治めてたのは「針間鴨国造・山直」で、無論、天日槍命・加茂大神との関係も深いそうです。やっぱりズレてるか…。ごめんなさい。


[914] 大三元さん、『ほにゃらか掲示板』においでください [焼尻紋次郎] [Url] 2001/04/16

 オッ 大三元さんが来てらぁ〜!
 もういっぺん、ここ見てくれるかなぁ。おらの知るかぎりGenさん(Gensさんでない、大三元さんのこと)は、アイヌ語研究史上、得難い人物です。鬼平さんも……。
 パソコン持っていたら、大いにやり合わないと……。でないと日本民族〜アイヌ民族……引いては世界的損失です。

 サラセッセわりいなぁ、言語のことバッかしになっちまって……。それくらいに、言語はたいせつなんだよナ。
 大三元さん、『かむなび』は兄弟掲示板として、元気バッカの紋次郎主催の掲示板を、ここ以外に二つ持ってい
て、言語は『ほにゃらか掲示板』;  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
 綜合会話は『ユーアイ掲示板 』; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgiと、二軒も別荘を持ってるんです。居心地満点でおつりまできます。
 気が向かないでも、イヤイヤながらでもおいでください。ここはいちおう“神域”らしいです。
 けふの大三元さんのカキコ、『ほにゃらか』に移してもいいですか?


[913] 古代史におけるアイヌ語の意義 [大三元] [Url] 2001/04/16

縄文末期に日本列島で行われていた言語(もし複数あるとするなら、その一つ)を縄文語と仮称する。この基層に前3世紀辺りから後3世紀の弥生時代と言われる期間を通じて恐らく複数の言語(と人種)が数波に亘って渡来して来て、彼らの言語(複数)と縄文語が何らかの形で混合して弥生語を形成した。 その間、渡来勢力から逃れた人達や地域では縄文語が(続縄文の土器文化のように)使われていた。その縄文語はそれ自身の内部的変遷があったであろうが、アイヌ語として現在に残った。

大山祇、コノハナサクヤ姫、クシナダ姫、ら先住民族は縄文語の使い手だった。
彼らの子孫は、縄文語で聞いた縄文以来の各種伝承を次第に弥生語、次いで古墳時代の言語(もし、そんなものを定義するなら、だが)、そして、奈良朝の日本語で『翻訳しながら』伝えて来た。

だから、記紀・風土記に残る伝承の幾つかは、アイヌの伝承と共通した事が出て来たりする。共通伝承らしい例では、共通する、という以上に、日本語に『翻訳』された伝承をアイヌ語を利用して縄文語に『戻して』みると、日本語に翻訳したために喪失していた原典の味わいまでが復活してくる。

こんな仮説(パラダイム)のもとで日本古代史の謎の一部がアイヌ語を『援用』して解けるものがありそうだ、と思ってる。アイヌ語で解ける、ということはその伝承(或いは地名など)が縄文起源だったことをうかがわせる。

こちらの最近の話題に少しコメントさせて貰うと、「坂」それ自体が神格を持っている、ということではないと思う。 アイヌ語 kur が「人」「神」を意味して、この語が hur (坂)と音声としても近いことから、訛りとか、誤解とか言葉遊びを通して、日本語に翻訳したり、漢字を宛字したりする時に「坂」になったのだ、と考えている。


[911] Re[901]: 言葉の祭り [香具] 2001/04/16

休日が明けて掲示板を覗いてみると、setoh監督の六甲颪しのような千本ノックが始まっている!
>兵庫県三木市・・・
刃物と金物・鍛冶がらみで行くのみで、まさか三木が御酒にかかるとは思っていませんでした。神戸市西区から三木へ抜けるルートの途中に、『神出(カンデ)』という地があり、ここには『雄岡山・雌岡山』というとても秀麗な神奈備山があります。(オッコウ・メッコウ)
スサノオノミコトとクシナダヒメがこの山に降臨されて、オオクニヌシをはじめとする神々をこの地でお産みになられた、という伝説が残る山です。神奈備サイトでは、
http://www.kamnavi.net/kmlist.htm に少し紹介が。
三木とからめて、ノックされたボールを拾いに走りますわ!

泊瀬女さま、おめでとうございます。これからも楽しみですね。

[912]三木市の御坂神社ですが、石上山を振り仰ぐ登山口にあたります。また、豊地の三坂神社は、さきの御坂神社へ至る三叉路にあります。


[910] フル・フレ始末記 [焼尻紋次郎] [Url] 2001/04/16

おらは神様オンチで言葉オンチだが、書くだ。
 アイヌ語が日本人や西洋人に最初に意識されたとき、すでに北海道でのインフォマント(喋る人)の99%以上がアイヌだったのです。こんな言語分布状況そのものが異状です。
 そしていちがいにアイヌ語‥‥といっても、十前後の方言にわかれ、その相互の違いは薩摩弁と東北弁ぐらいな差異のものもあったり……でした。
 おらは、大衆としてのアイヌはメラネシア、“目立った、アイヌ固有みたいな文化”を運んできた氏族は、新羅軍部で、その新羅軍部の言語はネパール〜ペルシャ文化がその核になっているとにらんでいます。
 それと、平泉の落ち武者たちです。もちろん半島の一般住民もワンサといました。
 なにせ、「これぞアイヌ語だ!」と思える地名はこの日本列島には三宅島のペンケ岬と下北突端のオコッペしかないのです。

 長くなるなぁ。だが、シャ〜ねぇよ。いつまでも「フル」「サカ」がつづくハンデ……。そうだ、こうしよう。 
 kokoro さんのおっしゃる huro は「極東エデン語; huru に、神の意味の末尾辞の -o がついた語形だから「神社の杜・杜の神」という概念と一致します。だから、ここはそこを信じてくれ。ただ、中国地方に限られる方言であれば、それをどこまで敷衍させていいのか……が少々のこりますね。
 とにかく、アイヌ語の huru(坂)は、アイヌ社会だけにできた極東エデン語の *huru(岡)からの派生語であること、これいちど言うたが、とにかくこのことに限っては紋次郎を信用してもらわなならん。
 じつは、ブッチャケたこと言うと、あの辞書に書いてある「huru=坂」は“誤訳”かもしれないのです。huru=坂は、地名にはほとんど出てこない。詳しい辞書を見たいが手もとにないし、あっても知里真志保がケチョンケチョンにけなした『蝦和英三対辞典』しかないし、それを探すにおへまがオラァ〜ん。

 そういうわけで(?)、ヒル・フルの意味語形なんぞの詮索は日本語やアイヌ語、朝鮮語の領域〜意識・知識ではダメ。インド方面で解決すべき語彙なんです。ホれ、信じなさい。ホレ……。
 いまから碁仇の黒沼氏が来るのら。先日勝ちすぎた。

 phir-(お戻りになる) hirdae(こころ)など ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
ただし、明日火曜日まで、これ請け負った。
  クマリちゃん、ウンジュのこと書いてるぜ。http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


[909] Re[902] ちょっとドキドキ [玄松子] [Url] 2001/04/16

> 四苦八苦のあげくにやっと「神奈備にようこそ」がつながった時は嬉しかったわ。
すると、このメールアドレスはプライベートのものですか。
[aino@aioros]
愛のアイオロスですね。ギリシャの風神、すばやさの形容ですね。
お似合いです。


[908] Re[901]: 言葉の祭り [kokoro] 2001/04/16

> 1 問題の発端は、八柱、八剣、八坂、この「坂」は「神」か、でした。
>  坂はアイヌ語でhuru、石上の布留の話に戻っていましたが、坂は神でしょうか?
>  御坂神社、三坂神社が存在するよう所から、やはり神に見えますね。

 ある本で読んだのですが、中国地方などで神社の森をフロというそうです。この場合のフロはただの森林ではなく、見事な原生林に覆われた小高い神奈備丘の聖地をイメージした方がよさそうです(古い神社でそういう外観のがありますよね)。とすればhuruには丘の意もあるそうですから、樹木の生い茂った丘でもhuruたることが可能であるとしたら、フロはフルの転訛であったように思われます。素人の思いつきでした。
 ただし、僕的にはフル=火というもう一つのsetohさんの説にも後ろ髪引かれます。出雲の荒神谷遺跡で、火をガンガン炊いて祭祀を行ったらしき痕跡が銅剣の周囲で見つかりましたが、そういうことを連想させかなりハマってます。

 東海地方には八剣神社という神社が多いですが、これらは全て熱田神宮の別宮で尾張国愛智郡の式内社、八劒神社を勧請したものです。この神社は現在、熱田神宮の境内の南端、一の鳥居の手前を左手に入ったところに鎮座しており、摂社みたいな感じですが、これだけ勧請されただけあって、古来、熱田神宮と同レベルの崇敬を受け(正一位)、祭祀面でも神宮との連続性を強く感じさせます。祭神は熱田神宮と同じ(アマテラス、スサノオ、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五柱)とされていますが、異説も少なくないようです。「社伝によれば、元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣せられ、西夷降伏の新顧がなされた。その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという。(『式内社調査報告 第八巻 東海道3 尾張国』の「八劒神社」P598)」僕は最近、この神社が香具さんが探求されている天理市田井庄町の八剣神社及び石上神宮境内摂社の出雲建雄神社と関係がないか可能性を探っています。


[907] 唐突ですが。、、[hin(かよ)] [Url] 2001/04/15

友人が賀茂について書いてるHPあるよと、教えてくれたんですが、占い関係の方も 探究してみえるんですね。びっくりした。
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/


[906] 日本とアイヌ・どっちがフリィか [焼尻紋次郎] [Url] 2001/04/15

 アイヌといえば日本人よりも古い民族ですか。
 その「古い時代」に日本人はナニをしてたんでしょうネ。

 アイヌ語 fur(坂)へのこだわりは、ちょと休憩しておいてくささい。
 日本古代語の S・ak -a については、いまわかりかけています。ak はいのちが形をえる過程に関係あらせんやろか……ち、惟ふてクサ。⇒ トサカかね。
 古代人、まんざらバカでもなかったが、やっぱバカじゃったと惟ふ。

  バツイチ・バカ掲示板; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[905] [setoh] 2001/04/15

泊瀬女さん> 四苦八苦したとは言え、インターネットが出来た、ということはパソコン操作ダメの機械オンチは卒業ですね。おめでとうございます。

> つんのめって、ひっくり返りそうになりました。
> 怖い思いをする
石見の物部神社では神官さんが神餞をうやうやしく運んでいる最中に、何もない所でボーンとぶつかり、落としてしまうことがあるそうです。居候の神様とぶつかっちゃうようですね。悪戯かも。

> 書きこみ消去事件
基本的には書き込みは消去はしていません。ここ2ヶ月では紋ちゃん一発程度。

> 乗り継ぎが非常にうまくいく
同感ですね。10秒差とか、一日3回程度のバスが5分程度で来たり、良いことが多いような気がしますね。

御坂神社の三木市には八雲神社もいくつかあります。
tupesan kur 八・人(神)=八・柱  これが 八・雲 に繋がり
tupesan hur 八・坂 へと また別に san kur 三・坂 へと転じたのでは。
(アイヌ語 gen さんの入れ知恵です)


[904] 神の力?アルコールボケ?[習志野のてつ] 2001/04/15

神社や神様についての、書きこみ消去事件
パソコンは一台壊れました。トホホ!新たに買い求めたパソコンも調子が悪くなり、インストールし直しが二回 トホホのホ!!!
きっかけはいつも神がらみ。
書きこみが、訳も判らず届かないこと数知れず。 神奈備さんに消去されるほどの(公序良俗に反する)ことは無いと思うのに、消えてい
ること10回以上 良く考えると、送ったつもりで送ってなかった。
そのまま消滅。 ナニモノ かに影響を受けている気がしてしかたない。

●神社詣でに、電車やバスの乗り継ぎが非常にうまくいく時があります。
一日に10本もないバスに、3分待ちで乗れたり。行こうと思っている『神様に歓迎されているにゃ〜』とうれしくなります。 もっとも待ち時間が長い時は、 『あわてるな。一杯やってのんびり帰り(来)なさい』の意と勝手解釈してます。
●手水鉢で手を洗い、口を漱ぐと、お参り直後突然腹痛になり、トイレに行きたくなる時があり、これは『もう他を見たりせず、真直ぐ帰りなさい』と勝手解釈してます。私が神社を前から後から、また垣根の隙間から覗き見はするはなので、『もう見るな、お参りだけは認める』の意味かなと。
 以前石上神宮で、禁足地を垣の間から覗いたとき、それを囲む数百の石板は、先を剣のように尖らせ、壮観でした。その石板は「布留社・奉納者名」が縦書きしてあったとおもいます。


[903] RE[902]: ちょっとドキドキ [のりちゃん] [Url] 2001/04/15

> でも、今まで一カ所だけ怖くて走って逃げた神社がありました。

私も、怖いっていうか、なぜか行こうとすると、途中で何か動物が車に轢かれているのを見てしまい、風邪をもらってきてしまう神社があるんです。
1度など、急に頭が重くなって、2、3日頭痛が続いたり。
そんなことになるのに、何度もその神社を訪問するなよ・・・と自分でも思いつつ、なぜか何度も足を運んでました。(とは言っても、去年も4回行っただけですが)近いわけじゃないのに。
毎回、「今度はどうかなぁ・・?」って思っていたから、つい先日、気分すっきりのまま、うちに着いた時には、嬉しかった!

近場の小さい神社を訪問するときに、人通りが急に絶えて、そういう意味で怖い思いをすることは、何度かありますが(そういう時は、携帯電話が登場。誰かと話している演技をするようにしています。人が見たら、そんな私の方が「怖い」かも)、この神社のような「怖さ」は、ここだけです。いたずらされてたんでしょうか?


[902] ちょっとドキドキ [泊瀬女] 2001/04/14

パソコン操作ダメの機械オンチがとうとうパソコンを買いました。ノートパソコンですけどね。では今まではどうしてたか・・・オフィスのパソコン使ってたのよ。
四苦八苦のあげくにやっと「神奈備にようこそ」がつながった時は嬉しかったわ。これで夜も休日もこのサイトを見ることができます。ゴールデンウィークも近いしね。
ところで、泊瀬女は狂ったようにあちこちの神社を廻っていますが、いつも楽しく、良い気分で放浪しています。でも、今まで一カ所だけ怖くて走って逃げた神社がありました。諏訪大社・上社前宮。setohさんは「悪い神様に脅かされたのだ」とおっしゃったし、玄松子さんのHPにはミシャグチ神について気になることが書いてあるし。急に決着を付けたくなって、昨日、仕事が終わってからそのまま諏訪に行ってしまいました。今朝諏訪大社・上社前宮にお参りしたのですが「また怖い思いをしたらどうしよう」とちょっとドキドキしました。よく見たらいいお社ですよね。こんないい所、何で怖かったんだろうと不思議な位。今回は少しも怖い感じはありませんでしたよ。ただ気のせいかフレンドリーな感じもしません。社務所でミシャグチ神のことを聞いてみましたが、神官さんも「よくわからない」とのこと。詳しいことは近くの神長官守矢資料館に行ってごらんなさいと教えてくださいました。この資料館はすごい。前宮・十間廊で行われる祭祀、御頭祭の供え物の串刺しの白ウサギや鹿やイノシシの頭が展示してあって、びっくり。
いろいろと詳しく解説していただいて非常に面白かったわ。守矢家の邸内にミシャグチ神のお社があって、お参りさせていただきました。怖いので柏手はうたずに深く頭をさげたら、つんのめって、ひっくり返りそうになりました。またイタズラされたのかしら。
上社本宮、千鹿頭神社、御座石神社にお参りして、その後山梨の一宮周辺で満開になった桃の花を見て帰って来ました。甲府盆地は桃の花で濃いピンクの絨毯を敷きつめたみたいで、とってもきれいでした。我ながら、よくやるよ。


[901] 言葉の祭り [setoh] 2001/04/14

播磨国美嚢郡[ミナキ]に御坂神社[ミサカ]これあり。兵庫県三木市。

御坂社、美坂社、御酒神社が論社(式内社の候補社)です。
播磨国風土記には美嚢郡志深里(しじみのさと)の許曾社に至りて「この水流れ[ミナガレ]は大変に見事なこと」と云ったので、美嚢郡という。」とある許曾社は現在ありませんが、後裔社が御坂神社ではと云われています。

1 問題の発端は、八柱、八剣、八坂、この「坂」は「神」か、でした。
 坂はアイヌ語でhuru、石上の布留の話に戻っていましたが、坂は神でしょうか?
 御坂神社、三坂神社が存在するよう所から、やはり神に見えますね。

2 所で三木市の御酒神社、この酒は「き」と読めます。酒は神か?
 この神酒(みき)は、わが神酒ならず、倭成す(やまとなす) 大物主の醸(か)みし神酒
 酒をかむか 神の語源か?

3 フルから見ると久士布流とは何か?久士は?

4 さらに、許曾のつく主な神社
出雲国秋鹿郡[アイカ] 許曾志神社[コソシ]
摂津国東生郡[ヒムカシナリ] 比賣許曾神社[ヒメコソ]
近江国淺井郡[アサヰ]上許曾神社[カミコソ]
伊勢国奄藝郡[アムキ]大乃己所神社[オホノコソ]
伊勢国三重郡[ミヘ]小許曾神社[ヲコソ]
河内国澁川郡[シブカハ]波牟許曾神社[ハムコソ]
河内国丹比郡[タチヒ]阿麻美許曾神社[アマミコソ]
「祁曾」であるが
紀伊国名草郡[ナクサ]伊太祁曾神社[イタキソ]
コソは美嚢より古い社名のようで、コソは朝鮮語の杜の意とされていましたが、もっと古い言葉かもしれない。「コソ」とは何か?「キソ」「ケソ」は?


[900] 大友皇子  [Setoh] 2001/04/14

神奈備掲示板はお祭り広場、玄松子さんが云われたように踊らにゃ√♪〜

上総国夷隅郡の筒森神社(夷隅郡大多喜町筒森446)のことを調べていて、祭神が大友皇子であることがわかりました。
 ついでに大友皇子(弘文天皇)を祭神としている神社を平成祭礼データから探してみました。

滋賀県を除いて示します。
岐阜県不破郡関ケ原町藤下字自害峯306番地 若宮八幡神社  字の名前、凄いですね。
岐阜県不破郡関ケ原町山中字了願寺32番地の1 若宮八幡神社
京都府京都市下京区七条通加茂川西入稲荷町452 松明殿稲荷神社
京都府綴喜郡田辺町三山木山崎107 山崎神社
三重県阿山郡大山田村大字平田699  植木神社
愛知県岡崎市西大友町字天神10 大友天神社
愛知県岡崎市東大友町字堀所36 神明社
千葉県市原市飯給937 白山神社
千葉県旭市泉川1502ー1・口782ー2入合 内裏神社
千葉県君津市俵田1452 白山神社
千葉県夷隅郡大多喜町筒森446 筒森神社

逃亡ルートを推測して見ました。(ひどい話ですが)
まず、岐阜方面ではなく、軍議でも出た京都の山崎へ行き
もしくは直接南下して、
母親の里である伊賀上野におもむき、
親戚の案内で、船をしたてて
愛知県岡崎に着き
さらに船で千葉県に至る、
ということでしょうか。

日本武尊のルート、途中までは徳川家康も似ていますね。

[899] 駆体入替   [マルヤ] [Url] 2001/04/14

不肖我が嫡男の「電脳郎子」が、古い時計で遅れて困る、勉強部屋が小さい、倉庫が狭いなどと不平をつらね、満足に働かなくなったので思い切って駆体を入れ替えることにしました。そんなわけで二・三日休業します。


[898] Re[897]:邪悪の侵入を咎め立てする日本の伝統精神 [のりちゃん] 2001/04/13

>  ですから、Maphi ra〜 とは「お許しを!」ということ。

え?教えていただいてるのは、こっちなのに。
こちらこそ、厚かましいお願い、maphira〜です。

>  吉兆の神が「サイの神」。

sait=吉兆だとしたら、さいの神=「幸」の神だったのかも知れませんね。

>  それぞれの集落の入り口(くにざかい)にサイの神(人形など)を立てて邪悪の侵入を dos(咎め)したのでした。

面白いことに、さいの神=性の神ってなってる地方もあるらしいんです。
神奈川県の地方では、道祖神が夜這いにくる・・・なんて話もあるとか。

>  こんなこと、今の最高水準の学者はだれひとりとして知っちゃぁ〜いやせん。これらはネパール語です。

ネパールの言葉ですか?日本とはかなり距離があるのに、日本もネパール語の影響を受けているんですね。どういう民族の移動があったんでしょう。

>   もっともっと、いっぱいあるんやで http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

わ〜〜、ゆっくり見せていただきます。(また、頭こんがらがりそう)

あかがねさん
>「奈良は発掘に予算が行ってて、そこまで手が回らへんのやろ。」
阪奈道路の建築が遅々として進まないのは、土地を掘り返す度に何か出てきて、その度工事がストップするからだとか。古都も大変ですね。

>ご朱印ももらえるでしょうか・・・
お正月には、お守り等も出ていました。もしかしたら、ご朱印もいただけるかも・・


[897] 邪悪の侵入を咎め立てする日本の伝統精神 [焼尻紋次郎] 2001/04/13

 のりちゃんさん、Maphi ra〜。このMaphi はネパール語で「許し」です。ra は強調を示す末尾辞です。
 一人の場合にも「おいら」というのは、ただの「おれ」を強調してるだけ。
 ですから、Maphi ra〜 とは「お許しを!」ということ。

 おいらの説明、平べったいカネ?
 sait は「吉兆」ということ。神様を意味する -o ,或は「○○になる」という末尾辞の -au をつけたのが斎藤さん。普通 sait は日本人には「サイ」ときこえます。「サイ」のai は e (エ)になります。
 斎藤さんほどありふれてないのですが、瀬藤さんも同じ意味だと思われます。
 しかし、ひよっとしたら瀬藤さんは「瀬戸・王」かもしれません(ヨイショ・ヨイショ)。

 吉兆の神が「サイの神」。
 ついでに「くなど」の神もおぼえておいてください。 kuna は英語の corner と同じで「かど、隅っこ」です。家の敷地の隅っこや、集落の道の角地に祀られていたのが「くなどの神」。⇒ クナシリ島。

 dosadh(ドサード)は「くにざかいに近い土地」のことです。おいらが住んでいる埼玉(sait tama……吉兆の銅)県浦和市には道祖土と書いて「サイド」と読ませる地名があります。
 それぞれの集落の入り口(くにざかい)にサイの神(人形など)を立てて邪悪の侵入を dos(咎め)したのでした。今なら日本最後のサイの神が鬼首峠(こけしで有名な鳴子温泉の奥)に見られますヨ。

 こんなこと、今の最高水準の学者はだれひとりとして知っちゃぁ〜いやせん。これらはネパール語です。

  もっともっと、いっぱいあるんやで http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[896] 神社にも県民性が? [あかがね] 2001/04/12

>教育委員会などの案内板はありませんが、鳥居の横に「神社縁起」ならぬ「神社“緑”起」があります。

 それは気づきませんでした。鉄棒親子に気を取られてて・・・。
 黒田神社もしおりとかもらえるんですね。完全に無人のお社だと思い込んでました。ご朱印ももらえるでしょうか・・・。
 大阪にある式内社は小社でも教育委員会とかがフォローして板を立ててる場合が多いです。それにそもそも社地もよく残ってるし、神職さんがいらして管理も行き届いてる場合が多いです。
 奈良は結構愛想がなくて、下手をすると社号標すら見つける事が難しかったりします。重文とか国宝とか看板がどん、と立ってても教育委員会のフォローはあまり見たことがありません。それを田原本在住の奈良県職員(県道を造るために地上げをしている)の友人に言うと、「奈良は発掘に予算が行ってて、そこまで手が回らへんのやろ。」とのことでした。納得。ちょっと寂しいですが・・・。


[894] Re[892][888]: 庶民レベルでは、神様は動かないですかぁ。 [のりちゃん] 2001/04/12

> 踊らされているのは、この掲示板に集まっている方々でしょう。

たははは。それは否定できません。
でも、私は、自分の産土神様が、「荒ぶる蛇神」様とだけしか知らなかった時より、「大国主命の荒魂」と分かったときは、嬉しかったですが。

[895] 教育委員会などの案内板はありませんが、鳥居の横に「神社縁起」ならぬ「神社“緑”起」があります。


[893] Re[890][888]: 庶民レベルでは、神様は動かないですかぁ。[のりちゃん] 2001/04/12

> ここはお参りしたことがあります。両部鳥居の柱と柱をつなぐ部材で逆上がりの練習をしている親子がいたし、

それは、えらい時に訪問されましたね(笑)。
確かに、春休み、あの境内は子供に占領されておりました。

> 近くの黒田神社(式内社)には神八井耳命の隠し廟との伝承があったような。

はい。栞を見ますと、「古伝には神八井耳命のかくし廟所といわれ仁徳天皇の御代に端垣を建立し祭起されたという」とあります。
ちなみに宮司さんらしき方(栞をくださった方ですが)に、「志貴県主神社と縁があるのですか?」とお尋ねしたんですが、「よくわからない」とのことでした。

また、志貴県主神社の氏子総代の方に、何か資料がないかと聞いてみたんですが、現在、志貴県主神社は、道明寺天満宮が管轄しているそうで、道明寺天満宮の社務所にいけば、県主神社についての資料も閲覧できるハズとのことでした。もし、参考になりましたら・・・。


[892] Re[888]: 庶民レベルでは、神様は動かないですかぁ。[玄松子] 2001/04/12

> ちょっと、残念。神社や朝廷に氏子は踊らされてしまってるんですね。

これは、どうなんだろうか。
氏子にとって、「神」は「神」。
神社や朝廷の思惑の外だと思うんです。
踊らされているのは、この掲示板に集まっている方々でしょう。


[891] Re[886]: アノォ〜〜いいですかァ  [香具] 2001/04/12

泊瀬女さま、ありがとうございます。
>まさか私のレポートを楽しみにしていてくれる・・・
とても楽しみにしています。そして、たいへん参考になります。
隠れファンの方は多いと思いますよ。拝読していて気持ちが豊かになりますから。
これからも素晴らしい神社紀行を発表して下さい。
それにしても、ドトーの京都巡りですね!さ〜すが〜。


[890] Re[888]: 庶民レベルでは、神様は動かないですかぁ。[あかがね] 2001/04/12

> 氏子の署名で「実はうちの神様は、○○神の別名」・・・ってことにするのは、そりゃムりですね。

別名だけど同神というのは庶民には難しくてだめでも、よく分からない神様だからいつのまにか流行神にすりかわってるというのはあるんじゃないでしょうか。八幡様とか天神様とか。インテリがかんでることもあるでしょうけど。

> ところで、あかがねさん、藤井寺市惣社にある「志貴県主神社」の主祭神は、「神八井耳命」です。小さい神社で、社務所もありませんが、昔はかなり大きな境内であったと聞いています。秋祭りの時には、布団太鼓がでます。

ここはお参りしたことがあります。藤井寺一帯を自転車で回ったことがあるんです。実家から自転車で三十分圏内です。でもまわった中では最後の方で日が暮れかかってたし、教育委員会の案内板とかもなかったし、両部鳥居の柱と柱をつなぐ部材で逆上がりの練習をしている親子がいたし、すぐに退散してしまって記憶がありません。
近くの黒田神社(式内社)には神八井耳命の隠し廟との伝承があったような。祭神ではないのですが。
でも崇神よりも前の伝承はいかにも捏造した系譜というような気がして本当に同系の氏族なのか良く分かりません。もう一回あの辺をまわってみようと思います。で、柏原の方まで足を伸ばしてみようかなと。GWに。


[889] 塞の神様について [のりちゃん] 2001/04/12

天八衢命のお名前を教えていただいてから、塞の神様についての記述をできる
だけ読んでみたのですが、結局、よくわかりません。
塞の神様と言う字面から、「千引きの石」のように、「塞ぐ」神様を差すのだと思い込んでいたのですが、道祖神的な意味もあるのですね。
天八衢命の「衢」が「ちまた」の意味ならば、この神様は、「塞ぐ」神様ではなく、「道を守る」神様なのでしょうか・・・。

とは言え、道祖神自体も、いろんな説があって、単に道を守り、旅人を守護する・・・だけではないようですね。
歓喜天のように男女が固く抱き合っている姿の道祖神もあるようですし。

どなたか、何か、よい読み物をご存知であれば、教えてください。
なるべく平たい文章であれば、助かります・・・。


[888] 庶民レベルでは、神様は動かないですかぁ。 [のりちゃん] 2001/04/12

あかがねさんからも、美具久留御魂大神(蛇神)=大国主命の荒魂は、大和朝廷側の捏造ではないかとの教授をいただきました。
ちょっと、残念。神社や朝廷に氏子は踊らされてしまってるんですね。
氏子の署名で「実はうちの神様は、○○神の別名」・・・ってことにするのは、そりゃムりですね。

ところで、あかがねさん、藤井寺市惣社にある「志貴県主神社」の主祭神は、「神八井耳命」です。小さい神社で、社務所もありませんが、昔はかなり大きな境内であったと聞いています。秋祭りの時には、布団太鼓がでます。
多氏との関わりについては、手持ちの資料には、石川・大和川の合流点付近から西方一帯は古代の志貴県といわれる朝廷の直轄地で、その管掌者は、神武天皇の皇子神八井耳命を始祖とする志貴県主一族であり、彼らは、古墳時代前期から河内地方に居住していたと推定される。」とあります。
知り合いに氏子の方がおられるので、機会があれば、聞いてみますね。


[887] Re[886]: アノォ〜〜いいですかァ setoh 2001/04/12

> どこにオトコの夢がある。
 椰子から揶揄になったのかね。書き込み、わからへん。

> 多氏
 神八井耳命の子供が阿蘇山の神様?、それでか熊本に集中。ほかには興味を引かれる地域として話題の都祁や初瀬川上流地域があります。神社の祭神は元伊勢伝承などで天照大神に置き換わっているようで神八井耳命はかき消されていますが、上の郷の小夫(おおぶ)は「多部にして神八井耳命の苗裔」とあり、多氏から出た名前だそうです。(小川光三 大和の原像より孫引き)
 山辺郡都祁村吐山3957の下部神社の祭神は彦八井耳命ですが本来はは神八井耳命ではなかったかと同書にあります。都祁国造降格の闘鶏直(つげあたえ)の祖が神八井耳命だそうです。

> 御姐様 ありがとうございます。
朗報です。長谷寺東の天神山という予喜山はその暖帯林が天然記念物となっている名山ですが、これを「隠国の泊瀬の山は出で立ちの宣しき山」と歌われ、別名泊瀬山というそうです。出で立ち、よろしいようで。


[886] アノォ〜〜いいですかァ [泊瀬女] 2001/04/12

神奈備さんちのドアを細めに開けて、遠慮がちに片目だけ覗いて「アノォ〜〜入ってもいいですかァ」って・・・
神奈備さんちは外から毎日覗いてはいたのですが、setohさんが先日「あのお方は?」と言ってらしたのは駆け回る・・・から私のことかな、とは思いましたが、香具さんが「あのお方」と待ち焦がれているのはまさか私のことじゃないよねと。そしたら、玄松子さんの書き込みで「アリャー私のことだァ」と分かりました。
まさか私のレポートを楽しみにしていてくれる方がいて下さるとは思ってもみませんでしたの。
すみません。出雲も伊勢も伊賀も中途半端になっちゃって。
仕事も忙しかったけど、遊び呆けておりました。人混みが嫌いなので、お花見なんてついぞ行ったことがなかったのですが、今年はなぜかお花見三昧。先週は京都にお花見に行ってました。大原野の花の寺、東山の将軍塚、山科の毘沙門堂から疎水の道、エトセトラ・・・。桜守・佐野藤衛門さんの桜畑にも行って桜・さくら、うんざりするほど見て廻りました。それで神社は?
やっぱり、やっちゃいました。少しですがね。大原野神社、平野神社はお花見で大変なことになってました。今宮神社はやすらい祭り。玄武神社もやすらい祭り。船岡山に登ったり、北野天満宮にも行って(これは天満宮前の粟餅を食べに)、大将軍八神社にも寄ってみました。またいろいろ面白いことがあったので、そのうちご報告します。


[885]  Re[883]: 武甕槌神あるいは多氏 [香具] 2001/04/12

甕といえば・・・、
布留の石上神宮の参道脇、大鳥居の北西の酒殿跡とみられるところから、須恵器の『厳甕(いつへ)』が出土しています。奈良県重要文化財指定。一番太い直径が1m数センチ、高さが90数センチ(細かい数字がウロ覚えでスイマセン)、ハート型というか桃型の底がすぼんだ形状なので、何かで支えるか、半分埋めないと転ぶような造りです。この形は、内の液体が中央に集まり掬い出し易かったのでしょう。醸造用の甕でしょうか。参道脇・・・少し坂ですね。(カミの語源がカメだとはヨー言いまへん)


[884] インチキの構造 どこにオトコの夢がある [焼尻紋次郎] [Url] 2001/04/12

 インチキ宗教を見破る視角の一つ……として、サラセッセにお手電したことなんですが、それは“誰それは「とある有名人」の生まれ変りだ”と吹聴する人物はインチキ……という見方です。
 一昨年でしたか屍体放置事件を起こし、テレビ会見のとき「いいですか? それはサイババさんの勝手ですよ」と言った教祖がいました。こいつなんざは日ごろさかんにこのテを使って「わたしはいつも天国に行くことができて、いつもサイババさんに会っている」とぬかしていたのでした。

 三島由紀夫は2・26事件の首謀者の北イッキの生まれ変わりだと言っていました。メヶメケ・丸山おかまは天草四郎の生まれ変わりですって。

 あと200年もしたら、われわれ現代人は「まとめて・まるっきし」のバカなんです。
 そういう意味で、科学の手法も知らない古代人は「まとめて・まるっきし」のバカなんです。
「ことだま……」なぁ〜んちぬかして、日本語だけの狭小な了見のまま“言うにこと欠いた領域”へ継ぎ穂のことばを入れながら、その座その座を切り抜け切り抜け時間帯を通過する。

 シカともしれぬ幻影をアイデンティティーの根拠にする。
 現代人も多分にそうですが、よくはワカラン領域のことは、そこに説明が加えられようと加えられまいと、結果的にはワカラン……といった事例が多発します。
 文字数にして100文字ぐらいのことばが並べられたら「ふ〜〜ん」と納得するのです。
 「バカヤロウ、そんなことあってたまるか」と、いちいち反論する資料も時間もないからです。

 「わたしはキリストの(或いはシャカの)生まれ替わりです」……○○の科学だそうな。
 すでにその聴き手が知っている最高のエスパーをもってきて、その「生まれ替わり」……。
 ♪ 言うも聴くもバカ丸だしじゃぁござんせんけぇ。どこにオトコの夢がある。


[883] 武甕槌神あるいは多氏 [あかがね] 2001/04/12

 「ふる」の語がしばらく話題になっていたようですが、国譲り時と神武東征時に活躍した「ふつのみたまのつるぎ」に大きなかかわりをもち、常陸の国鹿島神宮の祭神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)は元々太安万侶で有名な「おお」氏の奉斎していた神である。という話をどこかで読みました。たしか「日本の神々」だったでしょうか。
 鹿島神宮の説明では「ふつ」とは刀の風を切る音であり、転じて「ふる」ともなる。というように説明しています。が、「日本の神々」で大和岩雄氏の検証では、もともとは坂、峠などの境界に甕(みか。かめのこと)をすえ悪霊を払う術に関係する神でなかったかといいます。もしそうであるとすれば、「ふる」が坂に通じるという意見に関する傍証になるのかもしれません。
 ところで式内社をまわっていると、様様な氏族が祖神を祭った神社に出くわしますが、くだんの「おお(太、多)」氏に関する神社というのは各地にあるのでしょうか?私が知っているのは奈良県田原本町の多坐弥志理都比古神社と鹿島神宮摂社(元宮とも言われる)大生神社くらいです。上総飯富町の飫富神社なども祭神(神八井耳命、多氏の祖とされる)と字面からしてそうでしょうか?
 どなたか、「おお」氏に関する神社や文献などでご存知の方いらっしゃったらご教示願えないでしょうか。特に関東の神社。ヤマトタケル東征以前にも関東に来ていた、大和朝廷系氏族に関する情報といいましょうか。おお氏は皇別なのでしょうが、本籍はどこなんでしょうか(田原本?)。分からない事だらけです。


[882]  Re[881]: そう言えば、玄松子 2001/04/12

> 同じようなことかも知れませんが、弁天様=宗像三女神or市杵姫命ってのは、神社が捏造したっていうより、庶民の願望だったんじゃないかと思います。

これは、鎌倉時代の神仏習合によるものですから、仏教側の捏造っぽい。


> 力のある無しと関係なしに、庶民に人気のあった神様ほど別名も多いかもしれません。

それは確かにあると思いますよ。
たとえ捏造するにしても、人気・権威の無い神にする意味がないですからねぇ。

ただ、たとえば、市杵島姫を弁才天と主張するプロセスでは、やはり、仏教側、あるいは神社側の、ある程度の専門家・インテリが介在したのではないでしょうか。庶民レベルで、「実は、この神はXXXだ」とするのは、知識の点でも、神への崇敬という点でも、難しいのではないかと思います。どこまでを「庶民」と呼ぶか、にもよりますけどね。


香具さん > 御姐様、続きを・・・と待ち焦がれています。

ゴールデンウィークに壱岐・対馬へ行かれるようですが、その前に、仕事が忙しいのでしょう。



[881] そう言えば、 のりちゃん [Url] 2001/04/11

>中央の神々の権威を借りて、地方の神を、「実はXXXの妹」とか
>「○○○と同神」と捏造された伝承も多いようです。

同じようなことかも知れませんが、弁天様=宗像三女神or市杵姫命ってのは、神社が捏造したっていうより、庶民の願望だったんじゃないかと思います。
なんか、美人で色っぽい神様(ちゅうか、弁天なんだから仏様か?)が流行ってるし、身近にいて欲しいんで、たまたま側にいた女神様、かと言って、天照大神のような大きな神様では、具合が悪いんで、ちとマイナー(?)な神様を「実は弁天様だった」と言って、満足しているような、素朴な捏造もあったんじゃないかなって。
力のある無しと関係なしに、庶民に人気のあった神様ほど別名も多いかもしれません。

私の産土の神様は、美具久留御魂大神。
これ、大国主命の荒魂なんだそうです。これは、神社の捏造の方かも知れないけど、氏子としても、「あなたの産土の神様は”蛇”なのよ。しかも人も食ったのよ!」といわれるよりも、「大国主命の荒魂なのよ」といわれたほうが嬉しいってもんです。

神社の勉強って、歴史の勉強にもなりますし、文化人類学の勉強にもなる。
為になりますね♪・・・というわけで、昨日カレーライス、今日はカレーうどんなのは、ちょっと資料読みすぎたからなのよ・・・と旦那に言い訳する今日のワタクシでござりま
した。


[880] 坂上の雲 setoh 2001/04/11

 クル から フル へ変わったとすれば
 雲  から 坂  となります。(アイヌ語genさんの示唆)
 八雲 から 八坂 素盞嗚尊で一貫します。
 この雲は土蜘蛛のクモ、栗栖のクル、則ち、布留のこと。
 
 石上坐布留御魂神社(石上神宮)の東は都祁で、大和平野から見れば高原の地です。ここには九頭の名を持つ神社が多いということは、やはり、原初は都祁辺りの山住みの民の大和平野への出店だったのでしょうね。


[879] 一ファンより 香具 2001/04/11

 ヒヨッコに過分のお言葉を頂き、恥かしい限りです。譜代の氏子衆にとっては、傍迷惑な流れ者だろうと思います。
 しかし、桜井市の田中八郎氏の著書『大和誕生と神々(三輪山の昔話)』の中に、全国の神様は一様に、『ウム、身内か。悪いようにはせぬ。安心せい。』とのことですので、遠慮も自粛もなんのその、タブーと無礼のみ犯さぬよう巡っています。
 それにしても、こちらと玄松子さんのサイトを読むだけでした自分が、外に出て歩き始めたのは『あの御方』の素晴らしいレポートに啓発されたからです。
ファン待望の書き下ろし紀行エッセイをご執筆なのでしょうか。
 御姐様、続きを・・・と待ち焦がれています。


[878]  シュロ と 守礼の門 焼尻紋次郎 2001/04/11

 気がついてみたら、おらのアタマにはシュロとビンロージュの差がなかった。こんごもシロートらしく多くのアマヤリ侵すっぺ。
 ヒンカヨの姐さン、きのふ、香具さんが「クバとビンロージュはちゃう」いうて教えてくれました。
 香具さん「ビン」とはコメカミあたりの生えぎわだけのことやろか、or 「髪全体」か?

 シュレイの門という。先日 N ; dhuri と 朝鮮語 ; jul(材木)の一致がみられました。
 元軍の攻撃をかわして、13世紀に朝鮮の武将が沖縄に来ていたという事実がありますので「syur-i 」は、今は何とも言えないのですが、門柱という線でプンプン匂います。
 また、ネパール語の suro には英雄という意味これあり。⇒ 新羅の古名のシロも……。
 またまた、N ; *sur には「太陽」という意味もありそう。

 “黒柱”の偏執を呼び込む木は「シュロ」のほうでっしゃろ。
 いま流行で売れ筋のケ染めクリ−ムは、ビンロージュ系だっしゃろ。アレ、たいした専売特許でもないんじゃないかナ? 今川義元さんもお歯ぐろしていた。何回もこすりつけたら害なく、黒くなるんとちゃうか。え〜、シラガあたまはおらんかぁ〜〜。

  腹白く、アタマの黒い掲示板 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[877] Re[876]: 良い季節ですから、神社を訪問するのがいっそう楽しいですね 玄松子 2001/04/10

> 「衢」は衝立の意味があるんでしょうか。
「衢」は、「ちまた」と読みますね。「巷」と同じです。分かれ道ですね。


[876] のりちゃん 良い季節ですから、神社を訪問するのがいっそう楽しいですね [Url] H13.4.10

香具様
>「美人妻」さんとニアミスしていたんですか。
「自称」です、「自称」!!!JAROから抗議が来ちゃう!!

>なかなか奥が深くて次の神社に進めません。
そういう姿勢で、神社訪問するべきなんでしょうね。
絵を描くときにも、細部から細かく描くのが苦手で、画用紙一杯に描いた後に細部を埋めて行く方なので、きっと神社訪問も、同じような感じになると思います。薄っぺらいって怒らないでくださいね。

玄松子様
>別名だったら、まず、「別の神様」と見るべきではないでしょうか。
まず、「別の神様」という視点から考えてみないといけないということですね。(そのまんま繰り返してるだけの私。)確かに、人気にある神様は、別名がたくさんあるので、その別名の神様全てが同じ神様であると考えるのは、無理があるように感じます。
今日訪問した「中井神社」は、もともとは、「牛頭天王社」。祭神は、スサノオノミコトですが、牛頭天王を祀られてた・・・と考えるべきなんでしょうね。

Setoh様
解説ありがとうございました。
ところで、天八衢命は、塞の神様なのですね。ということは、「衢」は衝立の意味があるんでしょうか。塞の神様については、非常に興味があるので、ちょっと勉強してみたいと思います。


[875] hin(かよ) クバ HP  H13.4.10

さて、アジマサは ビロウだと。ところが、沖縄のメル友にさっそく聞くと、かあちゃんに聞き、『あ〜、クバだね』となります。
泡盛の壺の蓋に巻いたり、出来上がった泡盛の瓶をつつんだりと、クバは沖縄でかかせない植物みたいですね。↓泡盛のサイトから。
>>「クバ」とは、 ビロウのことでヤシ科の常緑高木。葉はクバ笠に、葉柄の基部の繊維は網、若い葉は物を包むのに利用する。街路樹・庭園樹に適し、緑化木として広く植栽される。
さらに クバの葉で作った団扇が扇子として中国に渡ったと言う話しも検索されました。
また、民話にも クバ傘を唐へ売りに行ったものまでありました。 http://www.okinawa.isp.ntt-west.co.jp/original/minwa/
では、何故クバと発音されず、アジマサになってしまったのでしょう???
どなたか教えて下さい^0^


[874] Re[872]: けっこう、ミーハーです setoh 2001/04/10

香具さん> 両社とも1〜2ヶ月に1回は出没するようになりました。みなさんのように多くの神社を廻りたいのですが、なかなか奥が深くて次の神社に進めません。

 素晴らしい神社探訪のお姿ですね。伊太祁曽神社にはそのようにして食らいついて、そこから少し芋蔓的に他の神社をみるようになりましたが、やはり原点は食いつくことですね。忘れかけていました。よいお話を頂きました。感謝。

 と言いながら、連休前半は出雲の山奥を手配しました。ついでに熊野大社、須佐、物部神社・・と、駈けめぐりたい衝動に駆られています・・。
 あのお方はどうしておられるのかな。


[873]  大黒天を産んだアジマサのくに 焼尻紋次郎 2001/04/10

ミナシャァ〜〜ン てぇへんだ てぇへんだ 
 てぇへんのあまり上手に喋れなくなっちまった。サリセッセ“黒”の出番でっせ、オタスケアマカ〜ネ。

* あっと驚け。ビンロウジュの木は黒いまっすぐな柱です。
  果して奄美、ウルマ、八重山に柱への宗教偏執はホント−になかったのか。ないなら、西都原が起源地。
  ここでオオナムチの「13の別名」のなかに組み込まれていない「ダイコク・大黒」が再浮上しますね。

* ビンロウジュは江戸期ではお歯ぐろ染めに使われましたが、その前は毛染めに使われていた筈。ビンロウジュの「ビン」とは第一義的には「髪」のことで、サツマイモのネチッと黄色いのを「びんつけ」というのはこれ。黄色いのは椿油のことをいうらしい。ビンロウジュの実で作った毛染めはどんな色だったでしょう。
 熊本市の黒髪町はやっぱり黒い「髪」ではなかっちゃろか。

* 浦島太郎や長良川の鵜飼いでお馴染みの漁師の腰巻はビンロウジュの皮製で、南国では蓑はもっぱらこれを用いています。これは神の「毛」だった筈。ホトケの語形を決定づけたのはこの「毛」では??
 「ケ」の奥に bir , bhir の「ヒル、ヒレ」が用意されてある……のでは?

 その他ビックリがいっぱい。河岸ィ変えやしょう 。http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


[872]  けっこう、ミーハーです [香具] 2001/04/10

ワァ!「美人妻」さんとニアミスしていたんですか。
今度どこかの神社でお会いできたら御朱印帳にサインを下さいね。
石上神宮では、回廊の隅で「石上」誌のバックナンバーをメモしていたり、奥のイチイガシの巨樹がある曲がり角でフィトンチッド・ジャンキーになっています。
三輪山ではゼーゼーいってバテているか、社前の「森正」と「福神堂」と「万直し」のにゅうめんをハシゴして食べ比べています。(麺は山本の「土蔵囲い」でんな、休憩所の売店にあります)
ただし「ムクツケキ」あんちゃんです。紋次郎親分から頂いた「香具」というペンネームとは似ても似つきませんです、ハイ。両社とも1〜2ヶ月に1回は出没するようになりました。みなさんのように多くの神社を廻りたいのですが、なかなか奥が深くて次の神社に進めません。
18日は狭井神社で鎮花祭ですね。薬神講の方々が集まりますので、大手製薬会社の名誉職のお歴々が揃います。平日なのが残念ですが、去年は休みを取って見学にいきました。お祭りというより、かなり真剣な神事と感じました。伝染病の阻止というシビアな願いを込めているためでしょうか。忍冬酒という薬酒もこの日から出されます、とても甘い。
地酒にお強い「美人妻」さんには、11月14日の活日神社酒まつりがいいかも、樽酒が振る舞われますし。たしかサントリーの社名も三輪の三つ鳥居からでしたよね。

setohさん、いつも「フミナガタラシヒコ」ですみません。
できるだけ「ハヤカキコミコト」をめざします。
>弟子を三輪明神の神官に送り込んで・・・情報を収集
凄いお話しですねー。ばれたときの仕置きなんて生け贄にされるのでしょうか。二重スパイや抜け忍の末路も妄想を掻き立てます。都祁や名張など伊賀・甲賀にも繋がるルートがあるだけに土地柄ですね。紀州は根来忍者でしたっけ?雑賀?うろ覚えだ?
>奈良大学の先生・・・・
まさか『宗像教授』だったりして。


[871] Re[866]: 文章が切れてしまいました・・・。 玄松子 2001/04/10

> 大国主命は、別名がたくさんありますが、本当は違う神様が同一視されたのかも知れない
> ですもんね・・・。自然にそういうものだと思えるのには時間がかかりますね。

別名だったら、まず、「別の神様」と見るべきではないでしょうか。
伝承等に共通点があれば、「流用」「転用」と解するべきですよね。
確かな根拠が提示されて、はじめて「同一」と判断できると思います。

以前、瀬藤さんが書かれていたような気がしますが、
中央の神々の権威を借りて、地方の神を、「実はXXXの妹」とか
「○○○と同神」と捏造された伝承も多いようです。


[870] Re[855]: 杉山神社の不思議  習志野のてつ 2001/04/09

> 杉山神社は神奈川県北部つまり旧武蔵の国に多いようですが・・・
 ☆ 直接のお答えではないのですが ☆
「まつろわぬ東夷」の言葉通り、東国は異質なものが残り易いと思います。
杉山神社もそのひとつかと。いま人気のある網野さんに『大和政権と東国は別物』説があります。大和周辺以西が弥生時代に突入したに後、100年近く東国は縄文時代の生活様式のままでいたそうです。

私の住む習志野市のすぐ隣、両親の住む八千代市に、あの菅原道真さんを大宰府に左遷した、藤原時平さんを祭った『時平神社』があります。また成田市には『麻賀多神社』も、その末社に『青麻神社』もあります。
『時平神社』は八千代市に2社、『麻賀多神社』は、印旛沼周辺に18社、『青麻神社』は仙台中心に30数社もあります。『麻賀多神社』について、神奈備過去ログ・99年7月に、なんと今ではお目にかかれない、骨董的値打の【瀬藤禎祥】さん名でのカキコがあります。
『・・・麻賀神社という神社は、当社を始めとしてこの佐倉市内に十一社、隣接する酒々井町二社、富里町二社、八千代市一社、の計十八社をかぞえます。
一見多く存在するようですが、これを全国的に見ますと他の地方には見られない珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地方にのみ存在する神社です。・・・』
http://members.tripod.co.jp/itakeru/yumvttj.htm
全国区の選挙なら、たぶん全員落選。時平さんだけが、かろうじて名前だけ知られている嫌われ者といったところですかね。『杉山神社』も含め、調べがいありそうですね。


[869]  アジマサ と ビンロウ樹  焼尻紋次郎 2001/04/09

 びんろう樹……「樹」と連なっているので、これシナ語みたい。
 たしか、ビンロウジュの別名はアジマサと言った筈。この「ビンロウ・アジマサ」には古代のミョウチクリンな思い入れが明示されている……と、断言してもいい。

 アジは按司……。沖縄でいつごろか現れたかシカとしない支配階級の名前……が漢字で書かれたのが按司。
 マサは起源が古い。エジプトのファラオ(王)の行列に立てた旗をマサといったが、そのマサとはネパール語のサガルマタ(エベレスト)の“マサ”(山の額部分)から発している、……が今のあっしの睨みつけざんす。

 応神天皇は若いときの想い出として「アジマサが見える島々がなつかしい」と洩らしたそうな。
 こうなると、コリャ、狂執である。

 アジマサも、ビンロウジュも、これ殆ど意味がワカラン。ワカランながらも超古代性を匂わせている。

 binrou は、N を発音の助語……infix(介入子音)とみると、bir-au となる。-au はネパール語の「……になる」ということで意味はない。
 ならば、語幹は“bir”または“bhir”となるじゃんけ。-au がつくので、bhir , bir は動詞としての語彙である。

 モンちゃん必死カネ。「 bir 」……これが日本語化されると「ヒル・ヒレ」なんだゾォ〜〜。
 神シャマ・ホトケシャマ タシュケテクタシャァ〜〜イ。

  神様からのお手電・あて先 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[868]  Re[865]: 石上神宮の看板にも布留大名神と書かれてありました Setoh 2001/04/09

>須賀八耳命 前八坂刀米命 大八橋命 天八衢命

須賀八耳命 足名椎命、手名椎命のこと
前八坂刀米命 八坂刀米命のこと 建御名方神の妃神
大八橋命  岐阜県高山市 飛騨総社の主祭神の大八橋大神は成務天皇の時代に飛騨の初代国造で、遠祖は天火明命とされます。
天八衢命 塞の神の一。

> 他の神様は、「約束の上」だけのような・・・。
そうですね。石上神宮は延喜式神名帳によりますと奉斎を受けるのは一座のみですから・・。


[867] 地歴探訪の頁を作っております。 [内田 美由紀] [伊勢物語] 2001/04/09

ご無沙汰しております。
サイト伊勢物語では、地歴探訪の頁を作って、(大阪市)東区史の口絵に載せられている古地図について調べています。
四天王寺の南に川が描かれているため偽書だといわれている古地図ですが、神社の場所など、秀吉以前の位置を示しているのではないかと思われます。
一度ご覧下さい。


[865] 石上神宮の看板にも布留大名神と書かれてありました [のりちゃん] [Url] 2001/04/09

 香具さん、私も、同じ日に石上神宮と大神神社に行ってきました。
お祭りですごい人でしたね。

> (石上神宮の)瑞籬には「布留御霊」私は、石上神宮への案内看板(というのでしょうか。直方体の看板の上に赤い矢印がついているものです)に、石上神宮と書かれた横に、「布留大名神」と書かれていたのを見ました。
頂いた栞には、祭神が、布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神となっていますので、これでいいのかも知れませんが・・・。

また、つくばいのところにも、「布留」の字が刻まれた石(これを瑞籬と呼ぶのでしょうか)がありました。

 大神神社の裏にあると言う石は、これと同じようなものなのでしょうか・・・?

石神神宮の三祭神の中で、「布留御魂大神」が一番大きく扱われているのは、地名からしても、納得がいかないわけでもないのですが、境内をうろうろしてみても、「布留」以外の御魂大神の名前が掘られた石を見つけることができなかったので、少し、腑に落ちませんでした。なんだか、他の神様は、「約束の上」だけのような・・・。

Setohさん、
>須賀八耳命 前八坂刀米命 大八橋命 天八衢命の4神が、どうしても、分かりません。教えていただければ、嬉しいです。

玄松子さん、
>大神では、別神、あるいは大己貴神の「幸魂・奇魂」とされていますね。

神社によって扱いが違う・・・ってことに、やっと、なんとなく慣れてきました。
大国主命は、別名がたくさんありますが、本当は違う神様が同一視されたのかも知れないですもんね・・・。自然にそういうものだと思えるのには時間がかかりますね。
皆さんの書き込みも、1度目に読んで理解できたことは、3度目に読んで理解できたことと食い違ったりします。自分でも、とほほ。


[864] Re:[860] 布留=尾根? setoh 2001/04/09

 アイヌ語の表示にFは使わない?HUR、HURUかな。

> 香具さん『「サカ」は一般的には、「栄」や「境・坂」
 磐境のサカは、境界ですね。聖と俗の区分を示すと考えられます。布留の高庭なんかもそのような意味で、区切られた聖地中の聖地ととえられますね。
 黄泉の国との境界の伊賦夜坂は揖夜神社の辺りとすれば、さほどの坂道がある場所にも思えません。(実は行ったことがありません。参詣された方の印象はどうでしょうか?)
 サカには、聖俗を分ける尾根、坂、境があり、聖俗を分ける木々が榊ということになるのでしょうか。無理筋かな。

> (石上神宮の)瑞籬には「布留御霊」
 現時点では、素朴な疑問への返事はありません。石屋さんが間違って納品したのかも。
 奈良大学の先生に聞いたのですが。弟子を三輪明神の神官に送り込んで、いろいろと禁足地の情報を収集したりもするそうです。


[863] Re:[856] ビロウ(ヤシ科)setoh 2001/04/09

 吉野祐子さんによりますと、宇麻志摩治命とは南方産の蛇を象徴する檳榔[ビンロウ]からでた名前・・
 H12.11.20の瀬藤と玄松子さんの書き込みで少々この話題を取り上げたのですが、栗栖=クルス=丸に十字=薩摩=南方などの論議で、立ち消えになっていました。

> 物部氏は、そうすると、マレー系
 物部氏という氏族は物部連家を頂点とする大きい集団で、全てが血縁関係があったとは思われません。物部連家も一系とではなく、時の勢力によって変わっていったのでしょう。
 さて、宇麻志摩治命を南方系と考えると、それまでの物部氏に南方系の氏族が合流した際、共通の祖先として生み出された祖先名が宇麻志摩治命と考えることができますね。南方からやってきたと伝わる神武東征の時に登場する名前ですから、その先発隊と長髄彦集団との合体での誕生したかもしれませんね。

 南方の木々、照葉樹でしょうが、エネルギィを感じますね。榊、椿、神祀りには向いているのでしょう。


[862] Re:[855] 杉山神社の不思議 setoh 2001/04/09

 年に一度か二度の五十猛命がらみの書き込み、佐藤さんありがとうございます。X印しは魔よけのお呪いでしょうか。この掲示板は魔物だらけと見られましたか?神様ばっかですよ。

 武蔵の杉山神社は七十数社を数えたようです。概ね、鶴見川とその支流の早淵川以南で、矢上川、恩田川、雉子川沿いに点々と鎮座し、大岡川以北の地域となりますね。
> この理由ですが、到底御満足できる情報を提供する資料は持ち合わせていません。以下、思いつくまま。
 杉山大神を奉斎した人々がどこからこの地へ入植したかも定かではありません。出雲説、紀伊熊野説、伊豆説とあるようです。いずれにしろ、先に入植して豊穣の地であることが出身地に伝わり、次々とやってきたのでしょう。
 蝦夷や他部族からの襲撃 なんかにそなえるためにも、ある程度の集団を形成したと考えられますね。
 多くの杉山神社の鎮座地は小高い山上で、川筋と周辺の平地を見渡せるような立地です。しかし高地性集落と見なされているのかどうかは承知はしておりません。


[861] 有翼神獣のフリュ−が翔んだ かむなびの庭 [焼尻紋次郎] [Url] 2001/04/09

 おらは神様オンチで言葉オンチなれども、書くだよ。
* kokoroさん、l ⇒ y の音転お教えあが。おらは語頭音ばかりに目をやりすぎていたようです。丸 ⇒ 繭、
  軽 ⇒ 粥(おもゆへ)がありますが、例は僅少ですね。やはりここは次の「フリュ−」にらみでの懸詞。

* huru(丘)はエデン語です。英語 hill カネ。慣用によってアイヌ語では「坂」の派生があったとみれる。
  神様用語のヒル、ヒレとはちゃうヨ、これ。
  sa , sya に「傾斜」。これもかなりエデン語的。 ⇒ さ(斜め)ka(倭人語 ; 場)。
  こんなこと、おら言うのをジッとガマンすべきじゃと思う人、おエメくだせぇ。
  ……ヤケクソ。p○l、p△r には「丘、青、赤」が集っています。
* 一般形の「サカ」はネパール語 sakha(部門)。派生もあるでしょう。クサカの江カネ。
  
* アイヌの伝説にフリュウという有翼神獣これあり。風の神だが竜が翼をもった姿。フリュ−の「フ」は鳥
  で、きのふ、けふの「フ」(鳥がはばたいて日が変る)。
  リュ−はシナ音で lon .この lo の同列語に lu があった。これが朝鮮では urφと訛っている。
  沖縄の方言だったか、竜を「ツ」ともいう。フツヌシ=フルヌシ。
  有翼神獣偏執はナナ枝偏執文化と同じころに吹きまくったんでしょう。
  くどいかもしれませんが、七支刀は七偏執という大きな風のなかの一つにしかすぎません。

* まあまあの大きな枝に珠、鏡、剣などを飾った祭壇を「so 」といったらしい。伊太祁曾さまの「曾」。
  朝鮮語 sonu(目上の人)が見落とされているみたい。狗奴のヌ。「クズ、クルの展開」に乞う御期待カネ。

* >サリセッセ、『最初の神に名前があるんだろうか』
  「あった」とおもいやっせ。ただし、この日本列島でのこと。世界規模では最初はそんなもんあらへんがな。
  モーゼさんなんかに取り憑いたエホバさんなんかは、初めのうち、さかんに「おらの名前は……」とうるさ
  いぐらいに名乗っています。あの学者さんが謂う「日本列島の最初の神」は早くて3世紀ごろでっしゃろ。
  
  ほにゃポレ掲示板 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[860] [kokoro] 布留=尾根? H13.4.9

 setohさん、お世話になっています。いつも長いカキコで申し訳ありません。

> アイヌ語のfuruには坂の意味や丘もあるようで、要は高い所を指すのでしょう。なだらかに登っていく高い所に坐す御魂即ち神を祀っているということになりますね。

 これまで神社関係の書籍で各地の神体山のことが書かれる場合、秀麗な対称形をした≠ニか笠を伏せたような%凾フ表現が多いです。そして、これは正面から見たフォルムのことを言っている訳ですよね。けれど僕はもっとプロフィール(横顔)に注目するべきだと思うんです。近鉄電車の朝倉駅辺りから眺めると三輪山の横顔が拝めます。そして、この神体山が大神神社のある西麓から始まって、極めてなだらかに、かつ長大に山頂まで続いているのが分かり、それがすごく印象的です。この三輪山のなだらかさ≠ノついて、言及した人は僕の知っている限り、和田萃先生を除くとsetohさんだけです。やっばり見ている人は見ていますね。

 僕は神体山として選ばれる山は、正面から見たフォルムの秀麗さだけでなく、こうしたプロフィールのなだらかさ、長大さも大切な条件だと思います。それから神体山をお祀りしている神社は、その神体山で一番発達した、山頂から途切れずに続いている尾根の先端にある場合が多いようです。この「なだらかさ」+「山頂から途切れずに続いている長大な尾根」からは抜きがたい持続の印象を受けます。というところで「布留=アイヌ語のfuru坂、丘」というsetohさんのお考えを聞いたときに、フト思いついたんですが、この持続の印象は偶然のものではなく意図的にそうした山が選ばれた結果ではないでしょうか。つまり、龍脈を伝って気≠ェもたらされるという風水の信仰の影響を受けて、山の気≠ェ麓の里の宮にこうした尾根を伝ってもたらされると言うような信仰があった、とか。そしてそのイメージを支えるためになだらかに山頂から持続するこうした尾根が選ばれる必要があったのでは。もしもこうした信仰があったとすれば、神体山は山それ自体よりも、むしろこうしたなだらかな坂、具体的にいえば尾根(尾根もアイヌ語のfuruに入ると思うので)、すなわちフルにイメージウェイトがあったと思われ、布留=坂説にかなうように思われます。

 紋次郎さん、折口信夫によれば、「古の人々はや″sとら″sとが近い音である為に、同じ様な音に感じたのである」『剣と玉と』P234なんだそうです。


[859] [香具] 布留の高庭の裏のウラ H13.4.9

しばらくPCの調子が悪かったのですが(バチが当ったんヤ)、復旧しましましたので、懲りずに書き込ませて頂きます。今後とも宜しく御願いします。みなさん、いつもスゴイヒントばかり、有難うございます。3〜4日の間、読めないでいると浦島太郎状態です。

Re:[853] [854]
>記紀以前の祭神名は、布留御霊と書かれていたようです
>その証拠は拝殿の裏山に布留と書かれた石盤が三、四枚立ててあります。
・・・このお話しは、「大神神社」のことの記述ですよね。
>拝殿の裏山・・・
というのは、末社・神宝社の柵の横からチラチラと覗ける拝殿の裏側のことでしょうか、
それとも、拝殿が拝んでいる三輪山頂南麓のコブのような岡の裏ということでしょうか、
関係者でないので立入りが適わず、よくわかりません。それに・・・、
>石盤が三、四枚立てて・・・
仮に「記紀以前の」石盤として、立てて置いてある設置方法で「布留御霊」と読めるような状態にあるならスゴイですね。それとも「記紀以前の祭神名」を記録しておくために、後年作成した石盤を一般参拝者に判らないようなところへ設置したのでしょうか。・・・気になる情報ではあります。(これが「石上神宮」の記述なら事情が変るのですが)
ちょっと脱線。今日の石上神宮・大神神社は初宮参りの赤ちゃんで一杯でした。が、
石上神宮の拝殿の奥にある本殿は、1.5m程の石垣の上に禁足地を築き、そこを1m高・20cm幅ぐらいの石の瑞籬でぐるりと囲ってあります。南方を拝殿、他の三方をこの石の瑞籬で囲む範囲が本来の禁足地となります。川にせり出した「布留の高庭」はこの禁足地を含み、さらに5〜6倍ほどの面積があるでしょうか。3つの池と1つの水場、道に落ち込む2mの段差で区切られています。「布留の高庭」は杉や松などの樹木に覆われていたのですが、平成9年の台風による倒木でかなりの被害があり、瑞籬や石垣も破損したようです。現在では修復も終わり、倒木を処分した跡地に植樹した苗木が1mぐらいになっています。そのため、高庭に踏み入らずとも、畑の畦道から本殿や神庫の裏側や瑞籬を遠くに望むことができます。植樹した苗木が大きくなると、また見れなくなりますね。
この「石の瑞籬」の角々にある瑞籬には「布留御霊」とあります。途中の瑞籬には氏子さん達、寄進された方々の名がみえます。(高庭は立入禁止)と云いながら、高庭の中をウロウロしているのですが、瑞籬をさらに囲む幅2mの道の外側には鉄柵と上部に有刺鉄線があり、しっかりとガードされて入れません。

それにしても、この「布留の高庭」は、kokoroさんがご指摘されたように、古代の豪族や高官たちを集めて居並ぶ中で、荘厳な神事を催行するのに築かれたのではないかという推定を首肯させるに足るスペースです。本殿裏の「布留の高庭」に立ち、北東の山並みを見れば、大国見山頂が120度角のきれいなシルエットで浮かんでいます。山頂には累々とした磐群があり、中腹には竜福寺跡大親寺、桃尾の滝、石上神社がある山です。この大国見山頂から見れば、「布留の高庭」は布留山から布留川にせり出した舞台のように見ることができます。高庭と山頂で火を焚いた神事行うと演出効果抜群ですね。また、田井庄の八剣神社から山之辺を見ても、この大国見山頂が印象的に望めます。大国見山頂や竜王山頂が「烽ぶ火」の中継点だったとしても不思議ではありませんね。都祁と国中を繋いでいたとすれば、田井庄の八剣神社を祭祀し始めたのが都祁の有力者であったことも思いだされます。いよいよ都祁村の出雲建雄神社やクズ関係の神社も現地調査が必要かな?

さて、『サカ』について、こんな記述を見かけました。
 佐野大和著『呪術世界と考古学』より勝手な意訳抜粋、
『「サカ」は一般的には、「栄」や「境・坂」とされているが、ニワトリの鶏冠(トサカ)の言葉にあるように、『サカ:一種の突起物を意味する。』ことも考えられる。サカトリ(冠鳥)。 賢木は榊など(枝振り広がりのよい神聖な木) 。サカホコ:逆鉾は、さかさまの鉾でなく、七支刀のような枝条の突起物のある鉾ではなかったか? 八尺瓊(ヤサカニ)は、突起物のある勾玉=『子持ち勾玉』のことを表現している可能性があるかもしれない。』と、ありました。ここで「賢木」を押さえておいて、さらに。フツも、フルも、十種神宝も話題に出ていますので、
 横田健一著『日本古代神話と氏族伝承』より抜粋要約、
『およそ、賢木に鏡・剣・玉をとりつけることは、天岩屋神話にも見られる神祭の様式である。・・・・・・
 景行紀十ニ年条、天皇が熊襲征伐のため筑紫行幸の際、女酋神夏機姫が、磯津山の賢木を抜きとって、上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊をかけ、素幡を船の舳に樹て、帰服した。
 仲哀紀八年条、天皇が熊襲征伐のため筑紫行幸の際、岡県主祖熊鰐が五百枝の賢木を抜きり、九尋の船の舳に立て、上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊をとりかけて参迎え、魚塩の地を献った。
 また、伊覩県主祖五十迹手が同じく五百枝を賢木を船の舳艫に立て、上中下枝に各八尺瓊・白銅鏡・十握剣をとりかけ、参迎えて献り、この瓊・鏡・剣になぞらえて寿詞を奉った。』
この記述を見たときに、数年前公開された中国三星堆出土の長江文明の青銅製神樹や、クリスマスツリー、七夕飾りを思い浮かべました。
七支刀は賢木の属性をも持った剣だったのでしょうか。
経津主神は、大国主命の広鉾を、どのような使い方をして国内平定したのでしょうか。
フル・フツの件も残っていますが、時間ばかりが過ぎて往く・・・・。


[858] 玄松子 Re[857]: 桜井へ行ってきました H13.4.9

> 通常、「大物主大神」と「大己貴神」は同じ神様を指すと思っていたのですが・・・。

大神では、別神、あるいは大己貴神の「幸魂・奇魂」とされていますね。

http://www.oomiwa.or.jp/c02/c02_02.html


[857] のりちゃん 桜井へ行ってきました [Url] H13.4.9

話題になっている石上神宮と大神神宮へ、今日行ってきたところです。
大神神宮の以前の祭神が「布留」(石上神宮のある地名ですよね。)であるってのは、全く知りませんでしたが、大神神宮の主祭神が、「大物主大神」配祀が、「大己貴神」「少彦名神」なんですね。
通常、「大物主大神」と「大己貴神」は同じ神様を指すと思っていたのですが・・・。
どういう区別があるんでしょう?


[856] hin(かよ) ビロウ(ヤシ科) HP  H13.4.8

倭名『アジマサ』が、大嘗祭の禊ぎの百子帳を葺いていた。とか、
1309年の『春日権現記』に熱田神宮の土用殿社頭の神木図
に同じくシュロかビロウが描かれていると、本にありましたが、
物部氏と南方系のビロウはかなり関係が深いようですね。
それにしても 神木にしては、非常に南方系の植物が選ばれたものですね。
物部氏は、そうすると、マレー系なんでしょうか???


[855] X佐藤 杉山神社の不思議 H13.4.8

杉山神社は神奈川県北部つまり旧武蔵の国に多いようですが、参考
http://www.ne.jp/asahi/kam/navi/ichiran.htm
理由については情報がありません。
お教えいただけると大変うれしいのですが。


[854] 玄松子  素朴な疑問 H13.4.8

>  記紀以前の祭神名は、布留御霊と書かれていたようです、その証拠は拝殿の裏山に布留と書かれた石盤が三、四枚立ててあります。

拝殿の裏といえば、禁足地ですよね。どうして知ってるんだろう。
有名なんだろうか。何かに記載されているんだろうか。
なぜ、一枚じゃなく「三、四枚」も立ててるんだろうか。
そもそも、古代の神に、名前があるんだろうか。


Setoh 羽振り いいかね H13.4.8

99年12月に一瞬、この掲示板に書き込みして頂いた市原昭雄様が http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/kodaishi.htm
「古代史を神社の祭神から探る」に次のような書き込みをされています。
タイトル 日本最古の神社大神神社
 記紀以前の祭神名は、布留御霊と書かれていたようです、その証拠は拝殿の裏山に布留と書かれた石盤が三、四枚立ててあります。以上

 延喜式神名帳の吉田本には石上坐布留御魂神社とあり、石上振神社との表現や、石上がフルの枕詞になっている所から、「フル」がより古い名前、即ち本名と見ていいでしょう。
玄松子さん>「坂=フル」もあながち的外れとは言えないかもしれません。
 ありがとうございます。アイヌ語のfuruには坂の意味や丘もあるようで、要は高い所を指すのでしょう。フルの高庭、フルの高橋と云う表現もありますね。

 市原様の大神神社の布留御霊も合わせて考えると、なだらかに登っていく高い所に坐す御魂即ち神を祀っているということになりますね。剱を御神体にする以前の、即ち、原始には国栖と呼ばれた人々の磐座信仰や水神信仰の時代からの聖地であって、これに剱や鏡を奉じる氏族が関与したり、更に祖神化、人格神化して来た祭祀の歴史を語っていると言えないでしょうか。

>kokoroさん 布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社
 十種神宝ですね。楯原神社です。  http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/tatehara.htm


焼尻紋次郎 国語では100点もらえるクル・クズ民族  HP  H13.4.8

 おらも言語オンチやけど、感じたこと書いてもよかっぺか。kokoro さんのカキコはいつも刺激的です。
 今回、報せてくれた『品陀(ホムタ)の 日の御子 大雀(オオサザキ) 大雀 佩(ハ)かせる大刀 本剣 末ふゆ
ふゆ木の すからが下樹の さや さや』についてですが、これ懸詞だらけですね。

* 品陀(ホムタ)…… 1 赤人, 2 hiーo ・mut(地上のヒの神) 3 hi-o mu(武)ta(神・人)
 赤人というのは、キトラ(恐ろしい土地神)古墳での朱雀(スザク)の赤。

* この当時、「アメガシタシラス」ということばは既にあったのではないでしょうか。品陀(ホムタ)の日の御子に「すがらが下樹」の下が呼応している。

* sasak(支配者)を末尾の「さや・さや」に呼応させている。

* はく……ウシハク(領有・支配)。ここはこの歌の作者が意識したところではないが……。 

* すがら……1 (クニ)スのやから  2 スガル(役職名)  3 スガル(蜂)/下樹に懸かる 4  ス(鉄)kar(刃・造り)

* 下樹…… (○○の)下の ki(土地)。    

* 「さやさや」はささら(茶筅楽器)とサイの神との懸詞でしょう。吉兆(sait)をおしまいに出して締めくくったのではないでしょうか。さや = sait・ya(サイの神)。
  刀身がささら状に分かれている鉄剣(すから)では鞘は物理的に作れなかったでしょう。

※ 学者さんが示した“末ふゆ ふゆ木の「ふゆ」と「タマフル」の解釈”‥‥隔靴掻痒カネ。
  この発音はまちがいないのでしょうか。ほかにも類例があるのでしょうか?
  tama(銅)=tama(魂) = tam(雷 ⇒ 刀) = tama(珠玉)
  イフキ=イブリ(胆振……ブルは燃やす)/フクロウのブル(カニシ神) の二者の慣用による造語では?
  刀を数えるとき「ひとふり・ふたふり」というは「燃やし(てえ)た i(もの)」。ショーチュ−をアラッキと言うが如し。

 クル、クズ民族……、これだけの懸詞を組み合わせるとは、日本語のヌシみたい。
ほにゃけば http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


kokoro 石上神宮とクズ H13.4.8

以前、香具さんの調査で石上神宮の東部、布留川上流域に九頭神社が3社鎮座しているというご指摘がありました。それに対し僕は、クズ(国津クニツの転訛でしょうか?)は石フェチだった等の珍説をここにカキコした次第です。けれども、クズと石上神宮の祭祀がどう関係するかは結局、分からずじまい。その後、setohさんから静岡県小笠郡大須賀町にフルとクスの合体神社、古楠神社「布留楠天王」があると親切なメールをもらったこともあり、ずっと気にかかっていたところです。そこでもう一度、これを考えてみます。

 『古事記 上』応神天皇の条で、吉野の国栖(クズ)たちが、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のような歌を歌います。
 「品陀(ホムタ)の 日の御子 大雀(オオサザキ) 大雀 佩(ハ)かせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」
 講談社学術文庫版の同書P222の次田真幸先生による現代語訳は次の通りです。
 「ホムタノ(応神天皇)日の御子であるオホサザキノ命の帯びておられる大刀は、本の方は鋭い剣で、末の方には霊威がゆれ動いている。冬の枯木の下に生えた木のように、さやさやと揺れていることよ」
 はっきり言って、これでは意味が分かりません。それは訳者自身も意識しているらしく、注のなかでふゆ≠ェ呪的な観念の濃厚な難解語であるとし、訳出が難しい原因がこの語にあることをそれとなく示唆しています。そこで、ふゆ≠ニこの歌について、もっと説得的な折口信夫の解釈を紹介します(ここで引用した折口論文は全て中公文庫『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』に収録されてます。以下、ページ数は同書のそれです。≠ナ表記したのは原著では傍線あるいは傍点となってます)。

 まずふゆ≠フ前にふる≠ゥら。
「昔から鎮魂に二通りの意義がある。遊離したたましい≠しずめる≠ニ言う内存的なるものと、外来魂が来触して密着せるものを身体に固く着けて置くことがそれである。これ(※後者)を古くはたまふり*狽ヘみたまふり≠ニ言った<後略>」『劒と玉と』P232〜233。
「それぞれの威霊をつけることを、古語ではふる≠ニ言った。その魂を身に鎮定せしめる方法をたまふり≠ニ言う。鎮魂の第一義である。」『日本古代の國民思想』P166
 そうして、ふる≠ヘふゆ≠ノ転訛するとしながら以下のように説きます。
「ふる≠ネる語もら″sからや″sへ発音が転じてふゆ≠ニなると共に、意義にも分化を起こして増殖の意味を持つようになった。すなわち、内在魂の分割を意味するようになってきたのである。」『剣と玉と』P231

 続いて、「たまふり≠フ際に用いる道具<中略>には数多くのものが用いられていたものと思う。その中で我々の忘れてならないものは剣である」『同』P233とした上で、この国栖の歌を引き、
「この歌はまず、大雀(オオサザキノ)尊に刀身の幾枝にも岐れたまじっく≠フ剣を捧げ、それに託して国栖族の守霊を附着せしめて奉ると言った意味のものであるらしい。
 剣には石上神社神宝の七枝剣のごとき変形の剣があるが、これは刀身が分かれて七っになっており、それに鞘をはめるようになっている。
 かように大雀尊を祝福せる剣は、七さや≠ナあるか九さや≠ナあるか分からないが、ともかくその歌詞によって、股のあった剣で股になった鞘を有していたに相違ない。そしてこの剣をもって大雀尊を祝福し、大雀尊に剣を佩かせる言義を附けながら鎮魂をおこなったのである。」『同』233〜234としています。
 吉野の国栖がこの歌を天皇に奏上するのは、大和王権に対する服属儀礼なのですが、それについてはここで深入りしません(興味のある方は講談社学術文庫『古事記 中』P223〜224の解説、折口『原始信仰』P208をご参照下さい)。いずれにしても、遅くとも7世紀の後半以前に、吉野の国栖が「七枝剣」のような股になった剣を用いてたまふり≠行ったらしいことがここから伺えます。

 もう一つ付け加えると、石上神宮のある天理市に八剣神社という神社があります(田井庄町西浦)。この神社のご祭神である八剣神について、『石上振神宮略抄』という本に興味深い記事があります。「夜都留伎(ヤツルギ=八剣)の神はヤマタノオロチの変身であり、そのご神体は八っの比礼(ヒレ)がある小刀子である。そのため八剣の神という。神代の昔、出雲のヤマタノオロチは胴体が一つで頭は八つあった。スサノオが剣を抜いて八段に切断したところ、八っの身に八つの頭が取り付き、小蛇となり天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上流の日の谷に降臨して鎮まったのが当社の八剣神だと伝える」というものです。

 以上のうち僕が強調したいのは、@吉野の国栖が、七枝剣のように刀身が股になった剣を用いてたまふり≠行っていたこと、A布留川上流域には九頭神社が3社も鎮座しており(天理市下仁興町垣内、同市苣原町山内、同市長滝町長滝)、上代にクズ民族のコロニーがあったと推定されること、B八剣神の降臨した日の谷も布留川の上流域であり、しかもそのご神体は八つの比礼のある小刀子≠ナ、刀身が股になったフォルムをしていたらしいこと。したがって吉野の国栖が奉斎していたような形をした剣であること、C八剣神は水雷神であり、祈雨神である九頭神社と類縁性を感じること、D刀身が股になった剣として七枝剣が実際に石上神宮に伝世していること、等です。
 さらに補足すれば、石上神宮では古来、布留川上流域を聖域として観念していました。古代の布留郷の範囲も考えあわせると、3っの九頭神社のある布留川上流の全域が、古代において石上神宮の神域だったのではないでしょうか。この地域に鎮座している神社のうち、古いものは、石上神宮と祭祀面で連続性を感じさせることが多いからです。

 ここからどういう結論を導くかはまだ整理が必要でしょうけど、僕は奈良県東南部の山地に多いクズ神社(九頭神社、九頭竜神社、国樔神社等)を奉斎していたのは、大和王権からクズと呼ばれていた人々であり、クズは何も吉野の国栖の専売特許ではなく、もっと勢力に広がりがあってクズ神社はその痕跡と考えています。したがって以上の@〜Dから少なくとも刀身が股になった剣によるたまふり≠介して石上神宮の祭祀にクズ民族の人たちが関与していた可能性が高いと思うのです。

 ところで、石上神宮の第二相殿のご祭神である布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社にあって、石上神宮が返還を請求しているという話をこのホームページのどこかで読んだ気がするのですが、setohさんご存じでしたら神社の名前等を教えて下さい。


あかがね Re[845]: ななとはち H13.4.7

> もし、人の指が7本指だったら、14進法がふつ〜の数の数え方だったかも・・・。
> ところで、八のつく神社関係の言葉(?)で、もひとつ、
> 「八幡」ってのがありますね。応神天皇をお祀りしてる神社ですが・・・。
> 確かに、ここらへんでは、「八」は人気の数字らしい・・・ですね。

 昔、「ムー」で人類に先立つ巨人の文明があって、その巨人族が六本指であったために十二進法の文化がおこった。(ダースとか)という話が載ってました…。そして、それを五本指の人類が受け継いだせいで最小公倍数の60進法が生まれたとか。(時間とか角度とかでしょうか)まぁ、出典が出典ですが。
 また、日本人(北方騎馬民族も)が八を聖数とする理由として、古代日本人が八かその半分の四までしか数えられず、その数が無限大を意味したため。という説を読んだことがあります。で、ギリシャ人は三までだったとか。いわゆる未開民族にそういう例があるそうだとか。


玄松子  Re[848]: ハレ、フル、ヒレ H13.4.7

> 玄>『フル』だけをとって、坂と解した場合、この呪文の意味は何なんだろう。
> アイヌ語辞書から適当に見つけた『フル』=坂、で、呪文の『フル』には当たらないようですね。
> 素人はこう云うのを見つけるとつい嬉しくて、正解にしたい気分でしたが・・

僕も「言語音痴」なので、判断は任せますが、「坂」が、低から高へのエネルギーの変化と解釈すれば、「奮起」の「フル」と同じ印象を受けますね。
それが、『ケ』から『ハレ』への変化を意味するものかもしれません。
「坂=フル」もあながち的外れとは言えないかもしれません。
「ふるべ」は、現代語に直すと、「立て」とか「がんばれ」なのかもしれませんよね。


Setoh Re[846][844]: ハレ、フル、ヒレ H13.4.7

玄>『フル』だけをとって、坂と解した場合、この呪文の意味は何なんだろう。
アイヌ語辞書から適当に見つけた『フル』=坂、で、呪文の『フル』には当たらないようですね。
素人はこう云うのを見つけるとつい嬉しくて、正解にしたい気分でしたが・・
ちはやぶる は ち(神霊の威力)はや(強猛)ぶる(発する)、また、ちはやには巫女の使うタスキ、衣服の意味があり、ここの『ぶる』には「揺する」と云う意味でしょうね。

の>「八幡」ってのがありますね。
 そうです。この「幡」は神の依代との説があります。これも含めて「八」の後にくる言葉が往々にして「神」である可能性はありそうですね。
他の例(全部「神」とは断定しにくい所ですが、他の例をあげますので感じを見て下さい。
八上姫 八咫蛇 八咫烏命 櫛八玉命 神八井耳命 須賀八耳命 前八坂刀米命 大八橋命 天之子八根命 天八衢命
 これらの神格、読みはご質問があってから調べて報告しますよ。


焼尻紋次郎  HP  H13.4.7

対新羅や対瀬戸内をにらんで出雲がポリス国家の体裁を整えてゆくうちには、新しい局面を迎えるたびに新しい語彙が作られたとみて良いでしょう。
 おらは、モノノベとは寄せ集め集団とみています。だから、ここではかなり言語のちがった集団があった筈ですので、各種の語彙が新しく創られた場合が多かったと踏めます。熊野集団も同様の傾向を持つものだったでしょう。

 ハル、ハレ、ヒル、ヒレ、フル、フツなど、語頭の h 音は中東〜エジプトの偏執です。
 日本語や極東語だけではハナシにならんでしょう。根は深い。河岸(↓)を換えたがいいようで……。
 ほにゃける掲示板 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi ほれぼれ


玄松子 Re[844]: ハレ、フル、ヒレ H13.4.7

> 天日槍(あめのひぼこ)の宝に、浪振る比礼、浪切る比礼があります。
> 『フル』とは『ユル』(=揺さぶる)ことと同じだと思ってましたが。

物部系の伝承では、『フル』のは、ヒレだけでなく、剣も玉も振っちゃいますね。
布留御魂は、やはり「ふるべゆらゆらとふるべ」の布留の言を意味しているのでしょう。
『フル』だけをとって、坂と解した場合、この呪文の意味は何なんだろう。

ヤマタノオロチの頭が、フォーク状に生えているなら、7マタですが、花びらのように放射状に生えているなら、8マタですね。


のりちゃん ななとはち HP H13.4.7

もし、人の指が7本指だったら、14進法がふつ〜の数の数え方だったかも・・・。
ところで、八のつく神社関係の言葉(?)で、もひとつ、「八幡」ってのがありますね。応神天皇をお祀りしてる神社ですが・・・。
確かに、ここらへんでは、「八」は人気の数字らしい・・・ですね。


習志野のてつ ハレ、フル、ヒレ H13.4.6

天日槍(あめのひぼこ)の宝に、浪振る比礼、浪切る比礼があります。 やはり通説の如く、ヒレとは『飛天』の周りの薄絹様のもの(=羽衣のようなもの)ではないでしょうか。魂をゆり動かし、『ケ』から『ハレ』の状態に変える呪術ではないでしょうか?
『フル』とは『ユル』(=揺さぶる)ことと同じだと思ってましたが。


Setoh 逆ら王 H13.4.6

玄> 八剣神社と八柱神社と八王子
「剣」・「柱」は神
言>八坂神社
「坂」はアイヌ語で furu 、ついに布留御魂神が出てきました。
フルを火とすると火=日で神、もしくは拝火教?

「坂」も神だな、だから小枝なんかを手向けるのだね。


焼尻紋次郎 蛸の八っつぁん HP  H13.4.6

 「デボン紀かカンボジア紀かは知らぬが、目ん玉がふたつと決まったら、ず〜っとふたつになりっぱなしだ」……これは価値観を深か掘りした高橋稔のくちグセです。
 掌を机にピタっとつけて、親指とひと指しゆびのつけねをまさぐると凸起があることがわかります。
 これはむかし……といってもわれわれが魚だった頃の遺跡で、指はもともと7本でした。

 高句麗のなな(7)……その他はわすれましたが7も交易用語です。
 一戸(いちのへ)から始まって九戸で終わる一連の“戸”は七戸で折り返しをやります。フェリーで北海道に行くと、七重浜に上陸します。渡島の方言ではばいたを「ななくび」といいました。
 インドの「シ・バ・神」というのはどっちが3かは訊いてないが、「3・4」で交易用語だそうです。
 共に同じ名前の「暮らしに影響するモノ」……むかしは、これが神様でもよかったわけだか?

 7の風が去ったあと「8」の風が極東に吹いたのでしょう。日本人はタコを平気で食うよになった。
 さきの戦争が始まる直前に、大タコをアメリカ領事館に贈ったという。イヤミにとられたそうです。
 詳しいことはおら、今日もワカラン。


習志野のてつ 刀 の 縦と横 H13.4.6

〉知ッ得情報 ; むかし、「七つ枝偏執」が世界を駈けぬけたことがありました。
〉資料(漫画「日出処の天子」わはは)によると、6つの枝がでています

これって百済からもらった七枝刀(七支刀)のことですかね?
考えてみると、ヤマタノオロチは頭も尻尾も八本のはず。
股は七か十四ではなかろうか  手の平の股は四だと思うが

横刀と書いてタチと読ませますが、べつに縦刀(タチ)があるのやら
縦にして、柄をつけると矛=槍(ホコ)になったやら  今日も判らん


福島雅彦 “줄기”(jul-gi)ですか? HP  H13.4.5

@(木の)幹。A(水などの)流れ、筋。B(山の)分れた部分、山脈。……と(民衆書林・韓日辞典)にあります。

 『木の幹』は、柱の材料ですから、同義に使っても間違いではないでしょう。
最近のこのBBSの書き込みには、一段と興味をそそられています。何方かが言われたと思いますが、神様を数える単位が『〜柱』ですから、柱=神 も合理性が有りますね。

 『八柱』、『八剣』の「八」が、素盞嗚尊の五男三女神の数も説得力がありますが、『倭』の当て字説(李寧熈)もあります。
『柱』⇒パッチム=“받침”(bad-chim)=支え(⇒柱)の意、(李寧熈説)がありますが、私は倭語が語源かもしれないと思っています。
驚きの連続で、書き込みが出来ないくらいです。お名指しに拠り出て来ました。


焼尻紋次郎 剣 と 柱 HP  H13.4.5

鏡が法のシンボル。珠玉が霊(*dam =こころ)のシンボル。 剣が柱のシンボル?

 仮にネパール語から入った発音が朝鮮語“チュルギ”に落ち着いたのなら、原音は dar または dur だろう。
 巨岩を曳くふた股のシュラ。dhuri は棟木、dhura は車輪の心棒。darban は門番。
 dalin は太い幹、darma は宗教。dhal- は打倒す。

 「ではチュルギとば何だ?」と訊かれたら、いまんとこ「dhar(刃)kui」としか言えない。「kuiとは何ぞ」と訊かれたら、「耳です」しか言えない。

 知ッ得情報 ; むかし、「七つ枝偏執」が世界を駈けぬけたことがありました。


のりちゃん ヤマトタケルの剣は HP H13.4.5

八又の大蛇の首から出てきたものを素箋鳴尊が、天照大神に献上したものでしたよね。(誓約)
どういう経緯で、それがヤマトタケルに渡ったのかは知らないんですが・・・。それにしても、代々引き継がれてきた重要な剣なんでしょうね。
天理市にある石上神宮にあるのは、布津御魂の剣じゃなかったでしたっけ?
布津御魂の剣は、資料(漫画「日出処の天子」わはは)によると、6つの枝がでていますので、全体では、八又になるわけで、全く無縁ではないんでしょうね。
Setohさん、ご訪問および、ご推薦ありがとうございます。 「美人妻リング」は、あくまでも、「自称美人妻リング」ですので・・・。お許しくださいマセ。


玄松子 八剣神社と八柱神社と八王子 H13.4.4

> 剣の語源であろう朝鮮語の t∫ulgi とは 柱と言う意味があるそうで、

八柱と呼ばれる神々は、素盞嗚尊の御子神か、誓約の時の五男三女神ですね。
八剣神社の祭神は、日本武尊が多いようです。
草薙がオロチ退治の成果だとすると、素盞嗚尊の「子」という発想はありかもしれない。
とすると、八柱も八剣も素盞嗚尊の子。


Setoh Re[833]: 剣って言えば H13.4.4

のりちゃんのHP、「美人妻」が目に飛び込んできます。お!と思います。次ぎに「地酒」と来ます。おじさんはコロリですね。トドメが「河内の神社」、これはいいですね。皆さんも是非御訪問を。

> 素箋鳴命が祭神になっている
八尾市内には現在27座の神社がありますが、主祭神に素盞嗚尊がはいっているのは8座、他に摂社に2座ですから、比率としては多いですね。
この地は物部守屋終焉の地で、饒速日命が多くてもいいのですが、たった3座ですね。
大阪では、織田信長に焼かれるのを避けるべく、信長の信仰した素盞嗚尊を祭神に切り替えた神社も多いことの影響かもしれません。なにせ、「善悪」よりも「損得」を重視する府民性ですから。
また蘇我氏の追求をかわすべく饒速日命を隠して、素盞嗚尊にしたのかも。

> この「御剣」は、「草薙の剣」
素盞嗚尊と関連させれば、kokoroさんの石上布留御魂神社が「大蛇を斬った剣」を祭神にしていたのを素盞嗚尊にしていますので、草薙の剣とはしにくい所でしょうね。


マルヤ ご神体としての剣、降剱神社 HP H13.4.4

吉野郡下市町の【降剱神社】フリケンジンジャも剣がご神体といわれています。
ご神体の剣は私も見たことはないのですが、拝殿の扁額には二本の剣が掲げられています。
堀毛神社ともいい地元では最も古い神社といわれています。
小生のH・P http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro2_003.htm をご覧ください。


のりちゃん 剣って言えば HP H13.4.4

大阪の八尾には、「御剣神社」が2つあります。
そのうち1つは訪問したのですが、祭神が、素箋鳴命でした。
ということは(この辺りは、やたらめったら素箋鳴命が祭神になっているのでアテにはなりませんが)、この「御剣」は、「草薙の剣」でしょうか?
剣=柱だとしたら・・・。あ、こんがらがってきた・・・。


マルヤ 梨木香歩の丹生都比売 HP H13.4.4

この神奈備掲示板で教えていただいた「丹生都比売(におつひめ)」梨木香歩(原生林)、図書館にはなく書店より取り寄せて、やっと読みました。飛鳥時代の丹生族少女の物語。児童小説といった感じですがこれは面白い。能舞台のような幽玄の世界ですね。

【810】>丹生(にふ にぶ)の変化形
 壬生(みぶ)、遠敷(おにふ)、仁布(にふ)、爾保(にほ)、爾比(にひ)、迩幣(にへ)
はひふへほ全部とすると丹羽(には)もそうですか・・

setohさん、いつもヒントを戴きありがとうございます。
丹生に興味を持つ私ですが 「は・ひ・ふ・へ・ほ」といわれて、はっとするものがあります。日本語はいいですね。母音と子音の完全とも言えるマトリックス構造のなかに意味も組み込まれているのかも知れませんね。
「さ・し・す・せ・そ」は鉄関連との説は真弓常忠氏だったと思いますが、鉄といえば「新羅」をイメージします。源氏の源頼義の子は新羅三郎といわれる義光ですが、光源氏のモデル?藤原道長の先祖はやはり新羅系の渡来人なのでしょうか。


山浜 剣がご神体 H13.4.4

>多くの神社で御神体として剣があったはず
そういえば、月山山頂の月山神社の御室(おむろ)にある摂末社はほとんど剣がご神体になっていたように思います。


Setoh 御太刀神社 H13.4.4

言語音痴> 御太刀神社(みたちじんじゃ)
その昔、太刀は神(の依代)であった。石上神宮の神々も大半は太刀、剣ですね。
これは福島さんに解説を頂きたい所ですが、剣の語源であろう朝鮮語の t∫ulgi とは 柱と言う意味があるそうで、これは足斬紋次郎さんの主張の 柱=神 に通じますね。

 富山からよく見える、カイラース山に山容が似ていなくはない立山連峰に剣岳がありますが、これも神様の山でしょうね。

 多くの神社で御神体として剣があったはず。それぞれの神社に、それぞれの剣にまつわる固有伝承が残っていたのが、各地の剣などを石上神宮にかき集めたようなことがあって、伝承も記紀の物語に取って代わられていったように感じます。


Setoh アスクル神社情報便 H13.4.3

鹿野山の近くに東西の粟倉(アワグラ)という地名が見えますね。
てつ氏曰わく> 『久留が住んでいた里が久留里 』はいけると思います。
言語音痴曰わく「くるチャンの住まいを栗栖とか久留里、いいですね。いけるとおもいますねぇ。」

君津市皿引221 御太刀神社みたちじんじゃ
由緒
社伝口碑に依ると、大和国家草創の頃、鹿野山に阿久留王、別名六手王という土着の豪族が在って小糸川流域を支配していた。
第十二代景行天皇の御代(三世紀初頭頃)、日本武尊は東国開拓の先駆として、吉備武彦、大伴武日連、七掬脛、等を伴なって相模から海路房総に上陸し遂に阿久留王と鬼泪山で対戦することゝなった。
阿久留の軍勢は勇敢で尊は苦戦したが、山頂に諸神が現れ激戦の未漸く勝利を収めるが、この時阿久留王は多くの手下を失い、自らも深手を負って故郷の六手へ敗走することゝなる。
皿引の地はこの時阿久留王が血塩を引きながら通過したという事から、始め「血引村」と言っていたものを「血」を改め「皿」に変えたものと伝える。
君津地方一帯には今も尊と王に関係した伝説や地名が数多く遺されているが、これ等の伝承は大和国家の権勢が東国に及んだ様子と土着豪族の抵抗ぶりを示すものと言える。
後世皿引開拓の祖宗等は、皇化の及んだ時勢を感謝し、村の鎮めとして東国平定の勇者日本武尊の霊代をこの地に遷して奉斎したものという。以上

君津市六手59 ムテ  八幡神社
由緒
古代房総に於ける土着の豪族「悪縷王」は、又の名を「六手王」と言い、本社の在る六手から発祥したと伝えている。
大和朝廷の勢力が東国に及んだ古墳時代の初期には六手集落も既に形成され、此の地方の開拓が進められていたことであろう。
国家建設の犠牲となった悪縷王の霊魂を鎮める為に鹿野山に霊場が出来、やがて神野寺が創建され、此の寺院の本尊として祀る「軍茶利明王」は悪縷王の化身であるとして信仰をあつめる等、当地方には数々の開拓発祥の伝承が遺されている。
当八幡神社は上古に於ける須恵国(後の上総国周恵郡)六手集落草創の祖神を祀ると伝え小糸川に接する台地上の古墳遺跡郡の中に鎮座されている。
本社の背後には四基の円墳を始め周辺には多くの古墳や土器の出土地が存在する。
鎌倉時代に至って、此の地方に八幡信仰が伝播すると、第十五代応神天皇、御母神功皇后を主神として祀り、社号を「鶴舞八幡」と命名した。 以上

悪縷王ってガンジーみたいな聖人だったかも。武器を手にしない?


習志野のてつ 続・日本武尊・走水物語 H13.4.2

阿久留王(アクル)
蝦夷の悪路王と似た名前です。( 伝説―出所不明― )
―☆―以下未確認伝聞ですが―☆―
木更津に上陸した日本武尊は、その地で住民と戦った。相手は阿久留王。
阿久留王は6本の手があったと伝えられ(両面宿禰に似てる=手が4本)、日本武尊に敗れ、木更津北方の六手(むて)の地で、八つ裂きにされた。
近くに在る「八つが塚」方墳は、八つにされた阿久留王墓と伝えられる。
君津市南部の鹿野山に阿久留坂や阿久留塚 という地名が残っている。

以下推定私説
● 日本武尊は小碓尊時代に、兄の大碓尊を八つ裂きにして、手口が一緒 。
● 大和勢力に逆らうと一般人と違う形にする。(土蜘蛛も同じ)
● 木更津から久留里線と言う単線電車が出ています。終点は久留里。
木更津〜久留里間 運賃400円 約1時間の小旅行です。
(久留里城があり、築城以来不落の城と地元では言われています。
本当は、一度も攻められたことが無い城です。)

言語ダメオですが、 阿は 現代中国では、『阿Q正伝』にみられるように、Qチャンですか?久留チャンの意味で阿久留だと迫力不足ですが、『久留が住んでいた里が久留里 』はいけると思います。

ユーアイ掲示板 又は ほにゃらか・掲示板 に近い話ですかね。
一応『日本武尊・走水(はしりみず)物語』の続きです。


Setoh 大隅のnickさん H13.4.2

 三つ鳥居の坐摩神社の元の鎮座地で、御旅所には、「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石があります。この辺りは大阪城の前が石山本願寺があって、磐座信仰の地であったようです。ここは大隅宮と呼ばれていました。
 何故、大隅であるのか、大隅地方では大隅を「うずん」と発音することもあるとnickさんに教えてもらいました。
 また、出雲大社の正面の柱を「宇豆柱」というそうで、この「うず」には祭祀に関係する言葉なのでしょうか。
 「うず」、「大隅」には、椎根津彦(珍彦)、紀氏の祖の宇豆彦など、おそらく海人にまつわる古代の謎が隠されているのかもしれませんね。
 nickさんのHP、最近繋がりません。引っ越しかな?


のりちゃん 始めまして。 HP H13.4.2

始めまして、いろいろと参考にさせていただいております。
個人的に神社めぐりを趣味にしているもので・・・。
でも、調べれば調べるほど、複雑になっていく古代の人間関係。
吉備津彦命と、ヤマトタケルの関係なんて、全く知りませんでした。
いろいろ教えてください。


焼尻紋次郎 櫻満開 ミナシャァ〜〜ン 見ておくれ ほにゃらか  H13.4.1

 ミナシャ〜〜ン 4月バカではありまシェ〜〜ン。

 『かむなび』の暴れ別社(KK)のユーアイが大規模新装開店で〜す! 
 ウソだと思ったら http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi を叩いてみなはれ。またまたサラセッセがキカイ・オンチの紋次郎を哀れんで『かむなび流れ』の流露をドブさらえ旁々サッパリ身綺麗にしてくれたヨ。

 これによって、これまでの『きょうび・かむ流れの語源』が然るべき場所をえました。
 ことばとは何ぞや。ことばで暮らしをしているご仁、ぜんいん覗いてみてください。


kokoro 石上神社と石上神宮2 H13.3.31

 いや〜、戸外へ行くと本当に気持ちいいですね(グシュン、グシュン、花粉症の人は本当にお気の毒ですけど)。僕は岡山から帰って以来、何だか頭の中まで春になってしまいました。その上、その痴呆症の頭をさらに送別会だ何だとアルコール漬けにされたせいでやれゲンゴだ、コユーメーシだなどとユーアイ掲示板に訳の分からんカキコをしてしまって…噺家が言うとおり、「酒は気狂い水とも申しまして」ですね(あの時、酔ってました)。気をつけなくっちゃ。<(_ _)>

 さて、岡山県の石上布都之魂神社ですが(以下、今回も「石上神社」とし、奈良県天理市の石上神宮は「石上神宮」にします)、上代この神社に「スサノオがヤマタノオロチを斬った剣」が鎮座しており、その後石上神宮に遷座したと説く文献は非常に多いものの、それらのうちで江戸中期以前にさかのぼるものがないようなのです。
 無論、『日本書紀』ヤマタノオロチ退治の一書には「素戔嗚尊がオロチを斬った剣は、今、吉備の神部のところにあり」とあるわけですが、これも「石上神社にあり」とあるわけではありません。また、その「スサノオがヤマタノオロチを斬った剣」は現在、石上神宮の第三相殿の御神体で、社伝によると「初めは吉備神社にあって、布都斯魂(フツシミタマ)と申す」訳ですが、setohさんのご指摘の通り石上神社の御祭神は本来フツノミタマであり(明治以後は素戔嗚尊)、フツノミタマは記紀によれば「神武天皇がタカクラジから奉られた剣」あるいは「タケミカツチが平国(クニムケ)した剣」であって、「スサノオがヤマタノオロチを斬った剣」であるフツシミタマでは齟齬をきたします。そもそも、これもまたsetohさんのご指摘の通り、石上神社は名前からして「石上布都之魂(イソノカミフツノミタマ)神社」なのですから、かってそこに鎮座していた剣がフツノミタマ以外の剣であると具合が悪いのです。ところがこの齟齬は、僕が読んだ範囲では、これまでのどの文献でも指摘されたことがありません。いずれにせよ、石上神社にかって「スサノオがヤマタノオロチを斬った剣」があったというのは、『書紀』の一書、石上神宮の社伝、『延喜式神名帳』(同じ名前の神社が大和と吉備にある)等から、この神社が江戸中期に再興されたときに附会された可能性は否定できないようです(だとすればものすごくツヤ消しなので残念ですが…)。
 しかしながら、『赤磐郡史』によれば以上の文献以外にも、スサノオとその剣に関係する伝説がいくつか旧赤磐郡に伝わっています。そしてこれらの伝承が、江戸中期以前からあった可能性も否定できないと思われます。また、796[石上神社と石上神宮]で紹介したやはり『赤磐郡史』にある、石成神社の考察も非常に秀逸で無視できません。そこで『赤磐郡史』からこうした伝説等をご紹介します(前置きが長くなってゴメンナサイ)。

 まず、第八章神社のP445劒抜(ツルギヌキ)神社の項の記事「これは山方村劒山の、備・作国境に近くに祀ってあった社で素戔嗚尊を祀っておった。この社前に多くの石の積み重ったものがある。伝えいう、昔文化の頃、是里村(※現在の赤磐郡吉井町字是里)の一人がここを掘って、長三尺六寸強の、片刃直刀の一口を得て、素神佩せの太刀なりと喜んでいた。これを聞きつけた岡山藩では、かかる尊き物を、土民の家に置くはよろしからずと、郡方まで取り上げた。<中略>なお、ここには、土器の破片があったという。これらを総合すると古墳があったように思われる。」
 筆者が古墳と推定している石積みですが、ここはかなり山深いところなのでそれほど古墳がある場所とは思えません。むしろ、明治七年に管政友が石上神宮の禁足地を発掘し、伝承どおりの石櫃から剣一振りや勾玉、管玉等が出土したことを連想させます。

 同じく吉井町字是里に血洗渓という景勝地があり、ここのクライマックスは血洗瀧という瀧です。石上神社の北北東約12qのところです。同書、第十一章名勝のP1185血洗瀧の記事、「伝説によると、昔素戔嗚尊が大蛇を切らせられ、この瀧水にて身を洗い、お佩せの十握劒を清められた、そこで血洗いの瀧というのだと。これは先にも述べたように、是里本村の上の峰を布津ノ峯といい、尊を祀った天王社の跡があり、その傍らには弓場?という地名を残し、また劒山には劒抜神社があったなど、尊に関係する神社や地名・伝説等の残るを見ると、地方人士の信仰の度が窺われて、はなはだ床しい。」
 布津ノ峯という地名は物部の臭いがしますね。ゾクゾクします。なお、同書には、この瀧と血洗渓を訪れたときの紀行文のようなものも載っていて、神気のこもる森厳にして幽邃な雰囲気がよく伝わってきます。

 同書同章P1186日室の瀧の記事、「同じ石上で布都魂神社より下の谷川に、手洗淵・雄淵・雌淵の名称がある(字常滑)。いずれも小さな淵であるが中に雄淵は稍々大に、上は小さな瀧をなし、西側には自然に浸食されてできた岩穴があって、種々の伝説を生んでいる。また瀧の東側の岩には、梵字の水すなわちバンを刻し、続いて神魂(カモス)淵の三字を草書している。思うにこの彫刻は、仏式による水神を意味するもので、夏の昊天のその時は、乾くことを知らぬ雄淵に集い、村人が雨乞いの祈祷をなす目標のために、勧請した水神であろう。」
 赤磐郡は大部分は山間部なので瀧や清流の景勝地に恵まれているらしいですが、『赤磐郡史』をみると、全域で水神や龍神信仰の濃厚なことが分かります。これは石上神宮において、布留川上流に九頭神社や龍神のような祈雨神が多く、また、桃尾滝、竜王山のような神聖視されている場所があって、さらに八剣神のような剣に関わる伝承があることを連想させます。また、草薙剣が出てきたヤマタノオロチは出雲の簸の川の水霊にして蛇神であるというのは定説になってますね。
 また、石上神社の南西1qほどのところには日室という集落があり、ここから山に入ると日室の瀧もあるようですが、「日の谷」「日室の瀧」それから「簸の川」と、よくぶつかるヒ≠ヘ偶然なのでしょうか。

 『赤磐郡史』は昭和十五年刊で、太平洋戦争直前の刊行物です(引用した部分は、固有名詞以外、現代仮名遣いに直してあります)。したがって当時の社会情勢による軍国主義的な内容が散見するのはしかたがありません。しかし、P228「簸の川は備前の西大川すなわち旭川のことで、昔吉備国のことを寸簸国と書いていた。その寸簸(キビ)の上の一字を略して、簸の川と書いたのであろう」等、発想が面白くて、今読んでも生命力を失っていません。


習志野の てつ ウエストサイドストーリー H13.3.31

訂正―1〔814〕吉備武彦自身の娘がヤマトタケルと結婚、義理の父でした。
後の曽我氏や藤原氏のハシリようなもの、また両道入姫は皇女とな
ってますから、母方が吉備勢力か?
訂正―2〔819〕 法海寺は知多半島の西(東ではない)ウエストサイドの
物語です。また「道行は道行を許す」ではなく、「大和政権は道行を
許す」でした。以上訂正。

◎近鉄「寺本」駅の名称は法海寺からでました。またこの地域の町名は八幡 で尾張八幡神社が徒歩10分程にあり、毎年10月15日のお祭に、神輿渡御 (みこしとぎょ)神事が行われます。行き先は天白社(=地元ではテン パク さん)で、法海寺のすぐ近くです。テンパクさんとは新羅のこと で、法海寺の寺院神社(こんな表現あるとも思えませんが、神宮寺の逆) では?  http://www.city.chita.aichi.jp/syougai/matikado/mati4.htm

 ◇名古屋に天白区天白に天白社や天白川がありました。
 ●神奈備にも有りました。http://www.kamnavi.net/ny/wakahirume.htm
  静岡県袋井市国本964 冨士浅間宮摂社天白社「稚日靈女尊」
 ○ でも何故天白神社と言わないか?疑問は残りました。


習志野の てつ 剣の迷い 偽PartV H13.3.31

「草薙剣」=「天叢雲之剣」が、沙門の道行(どうこう?)に盗まれた話の続き。
知多半島の東、近鉄線で常滑市に行く途中に「寺本」駅があります。駅から徒歩7分程で「法海寺」に着きます。この寺こそあの道行が開いた寺で、聖武天皇以降しばらくの往時は、勅願寺として大変栄えたそうです。「草薙剣」を盗んだのが発覚し、道行は土牢に閉じ込められます。その頃天智天皇は不動明王の怒りの相にうなされます。その原因を調べると、異国の得の高い僧を土牢に閉じ込めているせいと判明、道行はすぐに道行の幽閉を解き、加持祈祷を行わせました。天智天皇はみごと快癒し、道行は許され、薬王山法海寺を開山します。
尚 「尾張国知多郡寺本庄薬王山法海寺略由緒」によれば、法海とは法海童子の名からで春日明神のこと。また道行法師は新羅国明信王(しらぎのくにみいしんのう)の太子。

下記HPはご参考迄。 http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/turugi.htm
日下倭人さん、『古代史倶楽部yokosuka』 から


Setoh ボンジュール H13.3.30

フランスの某私立外国語学校の方が、
「丹生の民俗」のフランス語の訳をつくって、彼らのHPに掲載しました。
 http://perso.wanadoo.fr/ep.japon/infos/rouge.htm
大抵の方は見ても判らないでしょうが、マー、ひとつどうぞ。


神奈備掲示板過去ログ集

神奈備ホームに戻る