神奈備掲示板 平成十三年七月のログ

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掲示板のログ(平成十三年七月)お名前の敬称は省略しています。
更新 H13/7/31


[1560]  邪馬台国はやっぱり …  [靴下カタオ] [Url] 07/31

こんばんは〜。
ボクのサイトの

http://www.KenAshizuka.com/archives/a5.htm

というページで、邪馬台国のことについて調べる必要があったので、ネット徘徊してるうちにここにおじゃました。
邪馬台国は甘木・朝倉地方だったと思ってたんですが、
どうもそんなに簡単じゃないみたいですね。でも甘木・朝倉だったらいいのに、と思います。
また来ま〜す。


[1559]  無題  [マルヤ] 07/30

脱衣婆さんは彼岸の聖母さまでしたか?
さすが神奈備さんのネットのお陰です。ありがとうございます。

波比売神社には金山寺という神宮寺がありました。一方、波宝神社にも神宮寺があって、その宝物や史料は光明寺という里の坊に預けられたそうです。
いずれも公開されていないので、よく分からないのですが歴史的にも重要な史料となるようです。波宝神社の宝物のひとつ、黄金佛(アマルガム渡金?)は神功皇后の念持佛といわれ、新羅産と鑑定されたと聞いています。一度光明寺を訊ねたいと思っています。
波比売神社の古文書は5年程前に、少し見せてもらったことがあるのですが、その時は特に興味も沸かず(内容を読み取る素養も無く)でした。
どちらの宮司さんも、農業をされていて忙しく、正月くらいしか時間が取れないのが現状のようです。


[1558]  Re[1557]: 神名  [Setoh]  07/30

脱衣婆さん 書き込み、ありがとうございます。
脱衣婆さんは三途の川に向こう側の須勢理姫でししたか?

波比売神社のハヒフキメ(灰吹女)の件、ありがとうございます。波寶神社も同時に解けそうですね。
私も[1535]の書き込み以来、ひょっとしたらと思っていましたが、この神は熊本の式内社の疋野神社の祭神で、この神社は神体山・磐境信仰で波比売神社の立地にあいそうで、ここまではいいのですが、疋野神社は日置氏の祀った神社です。
 この吉野に日置氏の足跡が他にないのかを見てから、マルヤさんにお尋ねしようと思っていました。
 マルヤさん、脱衣婆さんの情報、どうでしょうか。


[1557]  神名  [脱衣婆]  07/30

「神名の語源辞典」志賀剛著、思文閣出版に、こう出ていましたのでご参考に。

波比売神社(大和・吉野)
黄金岳宮ともいう。
鉱山の女神ハヒフキメ(灰吹女)の、フとキが落ちるとハヒメ(波比女)となる。
この山に金谷鉱山があるから、製錬の際使用するフイゴの神として、この女神を祀ったのであろう。(原文のまま)


[1556]  Re[1545][1544]: 牛石  [のりちゃん] [Url] 07/30

あ、ありがとうございます。

> 丹生川上神社下社へは何度も行っていますが「牛石」? 気付きませんでした。
> 何ですか、それは?まさか牛頭天王と関係あるというのではないでしょうね。水神(龍神)に捧げたのは馬だったし、分かりません。どなたかお教えください。

牛といえば、思いつくのは、いろいろありますよね。
牛頭馬頭・・・地獄の獄卒。鬼の角は牛の角。「邪」な面の牛ですね。
反対に、天満宮では、「牛」をよく見かけます。なぜか、というのにはいろいろ説があるよ
うですけど・・・。
菅公の「桑原」があったといわれる、泉佐野では、「牛神」信仰があります。
読んで字の如く、「農業に使役される牛の為の神様」のようで、星祭の時の水を、とってお
いて、8月7日に牛にかけると、牛が丈夫になるとか。
私は、ひとつしか、まだ見ていませんが、あちらこちらに「牛神」と刻まれた石があるよう
です。

そこで、丹生川上神社下社の「牛石」に、とても興味を持ってしまったのですが・・・。
多分、こちらの「牛石」は、また違う性質のものなのでしょうね。


[1555]  Re[1550]: 無題  [マルヤ]  07/29

なにがしさん、
> >丹生廣良先生(元笠田高校校長)
> マルヤ様がどうして笠田高校校長とここに書きこみされたのかは分からないのですが、実は私OBです。もしかして知ってました。(^^)v
OBですか、まったく知りませんでした。文字通り先生だったという意味だけでした。

> >天野山金剛寺
> 間違ってたらすみません。そこの御住職は堀さんですか?仁和寺の門跡さんじゃないですか?そうであれば私親戚でございます。多分名前出せば分かると思います。でも、会った事はありません。御子息は私の父のお通夜に来ていただいたので知っているのですが、金剛寺のお父様の方は写真で拝見させて頂いた程度です。ちなみに天野山って地酒がなかったでしたっけ?
ずいぶん以前にご住職らしい方にお茶を戴いたことがあるのですが、お名前もお顔も忘れてしまいました。天野の地酒は河内長野の名物となっている「天野酒」というのがあります。私も飲みますがなかなか美味しい日本酒です。

話は少し変りますが、河内長野に丹生氏は二人おられる事がわかりました。内お一人は丹生廣良先生の遠縁の方で、地元の氏神、小山田住吉神社の宮司さんとも懇意と聞いています。

【1549】は少し訂正したいと思います。
天野山金剛寺鎮守社の、丹生・高野明神社が創られたのは奈良朝ではなく、もう少し時代を経た平安朝ではないかと思い直しました。
「永万元年、阿観僧正が当寺の中興を朝廷に奏上し、後に高野朝臣野憲貞に勅して金堂、多宝
塔、鐘楼・・・外に70余坊を造営せられた」とあるので、このとき(1165〜1170)に高野山(または天野社)から勧請されたとする方が正しいと思います。


[1554]  シコ名  [大三元]  [Url] 07/29

Setohさん、こんにちは。
シコ名ですが、葦原シコヲ、出雲シコ(タリ)、鬱シコ、伊香シコ、
蝦夷の名にも、胆沢公・阿奴志古、宇漢米公・色男、なんてのがあり
アイヌ語 siko (sika) 生まれる(原義は目がつく)で説明がつく
かいな、と思っております。わかりませんがね。。。


[1553]  九頭の八股の半分  [Setoh]  07/29

 四股シコを踏むとは相撲の用語にあり、足腰の鍛錬ですが、土俵をお祓いするような意味があるそうです。
 相撲では能見宿禰が有名ですが、この宿禰さんは、『播磨風土記』では、日下部の里の立野でなくなったそうです。立野は姫路の西の醤油で有名な竜野です。
 大国主命の別名の「葦原志挙乎命(あしはらのしこをのみこと)の名は同じく『播磨風土記』の揖保の郡揖保の里の条に天日槍命との争いのシーンで出てきます。
 『古事記』では伊耶那美の命が「黄泉醜女」に伊耶那岐の命の後を追わせる件があります。
 この醜(シコ)はみにくいのではなく強いと言う意味だろうとされます。
「武士は好んで醜女をめとった」と言われますが、巴御前みたいなイメージでしょうね。
 
 シコ、大和の国には強いをシコと言う方言はなさそうですが、黄泉の国と相撲と言えば出雲、風土記では播磨、この辺りの方言でしょうかね。


[1552]  いいお酒 きこしもとをせ  [焼尻紋次郎]  07/29

 こころさんが「ほにゃらか掲示板」にスバラシいカキコをしてくれて、そこにメザマし
いウタが出ていました。
 このウタ、古代語ですが紋シャンがんばってニャンとか現代まで引きずってきました。
 おいしいお酒ができました……というウタです。きこしもちをせ。
  おいでおいで ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1551]  無題  [なにがし]  07/29

>setoh様
先日教えて頂きました、兄井の諏訪神社の望月氏の件について、遅くなりましたが御報告致します。先週友達の望月君と飲んでいた時に聞いてみたのですが、お墓は兄井にあると言うことでしたが、昔の事は分かりませんでした。恐らく、setoh様が書きこんで頂いた望月氏の御子孫だと思います。


[1550]  無題  [なにがし]  07/29

>マルヤ様
>丹生廣良先生(元笠田高校校長)
マルヤ様がどうして笠田高校校長とここに書きこみされたのかは分からないのですが、実は私OBです。もしかして知ってました。(^^)v
>天野山金剛寺
間違ってたらすみません。そこの御住職は堀さんですか?仁和寺の門跡さんじゃないですか?そうであれば私親戚でございます。多分名前出せば分かると思います。でも、会った事はありません。御子息は私の父のお通夜に来ていただいたので知っているのですが、金剛寺のお父様の方は写真で拝見させて頂いた程度です。ちなみに天野山って地酒がなかったでしたっけ?


[1549]  Re[1548]: 無題  [マルヤ]  07/29

なにがしさん、
> >山上の元宮と思える社は西向き、
> お寺の向いの山は、お寺から見て東にないですか?丹生社はお寺を向いているような気がするのですが。でなければちょっと想像がつきません。

まったくその通り。お寺は東向きで完全に向き合っています。
> この丹生社は高野山が持ってきた神社の可能性が高いような気がします。よってお寺の守護神として山に鎮座させたのであればお寺の方向を向いていると思ったのですが。
お寺は「天平年間(奈良朝)聖武天皇の御願により、行基菩薩の草創」とあるので、鎮守社ですからその時に創られたのでしょうね。


[1548]  無題  [なにがし]  07/29

>マルヤ様
>山上の元宮と思える社は西向き、
お寺の向いの山は、お寺から見て東にないですか?丹生社はお寺を向いているような気がするのですが。でなければちょっと想像がつきません。
この丹生社は高野山が持ってきた神社の可能性が高いような気がします。よってお寺の守護神として山に鎮座させたのであればお寺の方向を向いていると思ったのですが。


[1547]  鎮守社無残  [マルヤ]  07/29

河内長野市内にも丹生神社がありました。丹生廣良先生(元笠田高校校長でもあられた)にお聞きするまで、自分の住んでいる地元にあるとは知らなかったのです。
社は河内長野市天野町、女人高野で有名な「天野山金剛寺」の鎮守社としてありました。
このお寺の境内付近にあるとのことだったので、境内を見て廻ったのですが見つからず(一間社の弁天社、天照社は南の隅にありましたが)寺務所で聞いてもなかなか分からなかったのですが(若い御坊だったからか?)、ようやく鎮守社と言われていることが分かり、お寺の向かいの山に登りました。案内も看板もまったくありません。参道の石の階段は草ぼうぼう、階段から急な地道になって、細く一人通るのがやっとの、まるでケモノミチといった具合で、もう長い間人が通っていないようでした。
棒切れでクモの巣を払いながら登っていくと、拝殿、次に鐘楼とある。
小さな山の頂上付近に目的の社がありました。こじんまりとした社が二つ並んでいる。
それぞれに丹生・高野明神社、水分神社と木札に書かれてありました。
それにしても無残なお姿でした。一人では手の付けようもありません。
なんともいえない気持ちで、もと来た道を降りて国道に出て少し下ると、こじんまりとした鳥居があり、入ってみると石柱に「丹生・高野明神」とあり、少し奥に小さな社がありました。私は「山道を登るのが大変だから下でお祀りしているのか」と少しほっとした気持ちになりましたが、やっぱりこの扱いはあんまりだとの思いは消えません。お寺境内の大きな案内看板の絵図には、お寺のことは何もかも詳しく書かれているにもかかわらず、「鎮守社」とも「丹生・高野明神」とも何もかかれていないのです。
いつか掃除だけでもさせていただこうかと思わずにはいられませんでした。
それと山上の元宮と思える社は西向き、下の小社は北向きに建てられていました。
これもよく分からないことでした。皆さんはどう思われますか。


[1546]  無題  [なにがし]  07/28

マルヤ様
>拝殿左側奥の大欅の根元にあった30センチ位の小さな小さな鳥居位です。
御神木の前の鳥居ですね。写真とりました。V(^^)V


[1545]  Re[1544]: 牛石  [マルヤ]  07/28

なにがしさん、
> マルヤ様
> 丹生川神神社下社に牛石ってあったんですが、あれってなんですか?もしご存知でしたら教えて下さい。
丹生川上神社下社へは何度も行っていますが「牛石」? 気付きませんでした。
何ですか、それは?まさか牛頭天王と関係あるというのではないでしょうね。水神(龍神)に捧げたのは馬だったし、分かりません。どなたかお教えください。
私が自分のHPに書いた以外で見た変ったものといえば、
境内で飼っていた烏骨鶏(うこっけい)と孔雀、天誅組に参加した橋本若狭の碑、それに拝殿左側奥の大欅の根元にあった30センチ位の小さな小さな鳥居位です。


[1544]  牛石  [なにがし]  07/28

マルヤ様
丹生川神神社下社に牛石ってあったんですが、あれってなんですか?もしご存知でしたら教えて下さい。


[1543]  無題  [なにがし]  07/27

setoh様
>何故、丹生の川上なんでしょうか。何故大伴氏なんでしょうか。
この文書は1756年の文書ですので、恐らくは、13世紀に大伴氏が養子になった事により、丹生氏と大伴氏の伝承がごっちゃになったんだと思います。
>大伴氏が丹生の川上辺りで活躍するのは神武紀ですね。
すみません、文章をだいぶ省略したので時代がわかりませんでした。この文章の前に次の文章があります。
「稚日女尊、丹生津姫尊同体異名也、、神武天皇の御宇大和国丹生の川上に化現したまいて、紀伊国伊都郡三谷郷榊山酒殿に降臨したまふ、此所に行宮(カリミヤ)を造り奉崇敬、崇神天皇の御宇天野に鎮座成し奉し、・・・」
13世紀までは竃門神社は大伴氏が神主をしていたようですが、丹生祝氏の養子になってからは丹生酒殿神社、丹生津姫神社、竃門神社の3つの神主および総神主をやっていたようです。その後いつの時代かはっきり分かりませんが、親が丹生津姫神社を見て、子供が丹生酒殿神社を見、さらに後は恐らく弟が丹生津姫神社をみるようになり完全に分かれたのでしょう。
>13世紀には坂上氏や武士の出の佐藤しが幅を利かせていました。
古来丹生氏は丹生津姫を祭祀していたので、そう言う意味では名門として扱われていたかも知れませんが、私の勝手な推測ですが権力はなかったんじゃないのかなあと思います。単に神主と言う職を代々継いだので、空海以後は高野山領ですし、ただ古来から神主であったため、高野山に管理されていた丹生津姫神社もそのまま職を安堵されていたのだと思います。坂上氏はご存知武士です。三谷にご子孫がおられます。高野山と真言密教の研究」と言う本で和田氏は次のように書いています。
「三谷に坂上氏の勢力が著しい・・・。三谷酒殿社の支配は、天野丹生社の信仰圏を掌握することであった。坂上氏の丹生社に対する地位はこのようにして形成されたのであろう。」
私は思うに、丹生氏は神主であって武力を持っていたように感じません。ですから、他の氏族も簡単にこの地に入り込めます。実際いろいろな氏族がこの狭い三谷にいます。空海がきてから高野山近辺が開け、天皇が丹生津姫神社に宿泊するようになってから丹生津姫神社は高野山の管理の元大きくなって行きます。坂上氏としては勢力を伸ばすにはこれを利用する手はありませんから、まず丹生祝氏の本拠地の三谷に住みこのあたりを抑え、さらに丹生津姫神社の氏長者となったのでしょう。氏長者は神馬などの管理をしていたようです。三谷の坂上氏はさらに勢力を伸ばすため高野山執行の職にも入り込みます。そんなこんなで坂上氏の財力と高野山の協力もあり、丹生津姫神社はどんどん大きくなっていきます。13世紀丹生祝氏は丹生津姫神社でも祭祀があまりにも多くなったので子供を三谷に残し、親が天野に引越ししてしまいます。ちなみに酒殿社と丹生津姫神社との距離は徒歩1時間ほどです。
>先に丹生、次に奥津彦姫のように思いませんか?
私もそう思うのですが。恐らくはもともと大伴氏が大和に住んでいて奥津彦奥津姫を祭祀していたところに、丹生津姫を祭祀する丹生氏が入ってきて、大伴氏は丹生氏に従うようになった(その理由はわかりません。丹生氏が水銀を採っていたのであれば天皇の命でそれに大伴氏が従った可能性はありますが)のではと思います。それがほんとに神武の時なのか、もしかしたら神功皇后の時代、播磨に丹生氏がやってきてとどまっていた時に神功皇后に神勅し、その功で丹生川上か伊都の地で働くよう言われたのかもしれませんね。
気になるのは、丹生氏が神主になる時に丹生津姫ではなくまず竃門神社前で儀式を行うことです。普通順序から行けば丹生津姫そのあと竃門神社だと思うのですが。竃門神社での儀式がいつから始まったかですね。もしかしたら13世紀以降かもしれませんし。


[1542]  Re[1540]: 無題  [Setoh]  07/27

焼尻の紋シャン>ご無沙汰、猛暑襲来の中、お互いよくぞ生存していますね。


なにがしシャン > 竃門文書 > 天野総神主先祖道臣命神勅をうけ奉り、丹生の川上にて祭祀

何故、丹生の川上なんでしょうか。何故大伴氏なんでしょうか。
大伴氏が丹生の川上辺りで活躍するのは神武紀ですね。
マルヤさん、それ以降、例えば13世紀頃の大伴氏はこの辺りの神社の神主家をやっていたと言うことでしょうか。何か情報があればよろしくお願いします。
 空海は佐伯氏の出です。大伴氏と同根でしたね。これかな?

 紀の川下流には古代より紀直氏や大伴連がおりましたが、伊都郡は坂上氏、内氏、次ぎに隅田氏、丹生祝氏が大伴常家を嫡男に迎えた13世紀には坂上氏や武士の出の佐藤しが幅を利かせていました。権力は失われているが名門だったと言うことでしょうかね。
 大伴家持の異母妹は坂上上郎女ですから、坂上氏とつながりがあったのかも。

なにがしさん > 奥津彦奥津姫
 この神々もわかりにくいですね。竈の神とされる場合が多いですね。奥津城に祀られている命ということも考えられますね。
丹生姫を丹砂を採る人々の守護神とすると、竈の神は水銀にする蒸留工程の神になります。順序としては、先に丹生、次に奥津彦姫のように思いませんか?

 現在の和歌山北部の奥津彦奥津姫を祀る神社は以下の通り。
長谷丹生神社摂社秋葉神社 海草郡美里町長谷宮238
東田中神社 那賀郡打田町打田577
西田中神社 那賀郡打田町中井坂357
丹生神社 那賀郡貴志川町北918
山崎神社 那賀郡岩出町赤垣内108
城山神社 伊都郡かつらぎ町中飯降461
八幡神社 伊都郡高野町西郷569

 余談ですが、これを探している最中に小生にとっての重大発見をいたしました。
1.海部郡加太荘大川浦に福神社が鎮座しており、「神功皇后、伊太天の神像あり」と記され、注に伊太天は伊達、即ち五十猛也とありました。
2.五箇荘出島村(名草山の東)に九頭明神社が鎮座、伊太祁曽神社の末社を勧請とありました。
いずれも、『続風土記』です。


[1541]   「さか」の意味と語源  [焼尻紋次郎]  07/27

 ナツイなも。ミナシャンさかしいへ(豊後弁 ; お元気ですけぇ)?
 おらはいま、「ネパール語 / 日本語・アイヌ語」の類似語彙の“総一覧表”つくりに
ケッケむくり……『かむなび・夏休み』ちゅうなり。

 先日出て来て「なにかあった、なにかあった」で思い出せなかった「さか」でしたが、
ネパール語に CAKKAR(町外れ、町と町の境)……再確認できましたので報告します。
 これは CAK がパーリ語的開音(母音づけ)を受けたものと判断できます。KAR がまわ
りを意味しています。
 「たまきはる」もそうですし、サイの神もそうでした。「出外れ・境界」という考え方
には古代人特有の(現代人の考え付かない)ナニモノかが、まだ潜んでいるようですね。

 この作業……あと2ヶ月ぐらいかかりそう。
 『ほにゃらか』もサボりがちなり。MAPHI(お許し)RA(強調末尾辞)。
  ポレポレよ http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi ポレポレ


[1540]  >無題  [なにがし]  [Url] 07/26

出張より戻りました。
[1539]の続きです。
1)かつらぎ町史(の竃門文書)より
●・・・天野総神主先祖道臣命神勅をうけ奉り、丹生の川上にて祭祀いたし、三谷へも相倶に降臨・・・
●竃殿社(奥津彦奥津姫)は丹生大明神酒殿社に降臨したまふ時守護之御神也、・・・
2)真言密教と古代金属文化(の竃門文書)より
●従道臣命於此竃神殿敷地神職相続・・・三谷者御榊山地主神之号取用而竃門氏ト申也
3)丹生神社と丹生氏の研究(丹生廣良氏著)より
●竃門家の古文書には、尊一族(丹生津姫)が当初この三谷の地へ降臨されたとき、ここには奥津彦、奥津姫両命の子孫が、古くから住んでいて、この人達が所有していた土地を尊に献じ、尊の守護者として、且つ尊への服従者として、御酒を献じ、食物を調理して献じたと言うのである。そしてこの神社を丹生酒殿神社と言うのである。
●又、竃門家には古くから家例として、6月晦日まで瓜を食べないと言う習慣があった、と。これも竃門家の先祖が、丹生津姫尊初めて降臨した時神酒を献じた他にも瓜を献じたから、・・・。

「神奈備へようこそ」初めての方のため、上記に関し今までの書きこみを復習!
●丹生祝氏=竃門氏。よって丹生氏の古文書も竃門氏の古文書も出所は同じ。
●丹生祝氏の古文書解読の注意点。丹生祝氏は800年ごろ宣化天皇の末裔丹治氏より養子をもらっており800年以後の文書については丹治氏の影響も考えないといけない。1270年ごろ丹生祝氏は大伴常家を嫡男にする事によりそれ以後の文書については大伴氏の影響を考えないといけない。
●丹生廣良氏(丹生直氏当主)の初期の著書は、丹生祝氏=竃門氏である事を知らずに書いたようである。最近の改訂版からは丹生祝氏=竃門氏である事を読み取れる。

以上の点を注意して初めの文書に戻りますと。
まず、どの文書も出所は竃門氏の文書である。また、竃門氏の古い文書は丹生津姫神社の火災の時にほとんど丹生津姫神社に持って行った事を考えると、この文書は1270年以降の文書と思われる。よって大伴氏の影響を考慮して読まないとい事になります。
つまり、大伴氏としての痕跡を残そうとした文書なのか、それとも大伴氏の祖先を登場させるべく作った話なのか吟味は必要。
ただし、現状ではその吟味は情報不足にて難しいので、とりあえず上記文書がほぼ正しいとして進みますと。
丹生津姫が伊都郡にくる前にはこの伊都の地には奥津彦奥津姫を祭祀する一族がいた。丹生川上から大伴氏が伊都の地にきた。奥津彦奥津姫は三谷の地主神である。その地に丹生津姫を祭祀する一族が入ってくる。この時の家例として竃門氏は丹生祝氏でありながら丹生津姫がきた時ごちそうした伝承が残る(つまり、大伴氏がもと居て、その大伴氏としての伝承が丹生祝氏を継いだ後も竃門家には残っているという事である)。
また、setoh様よりの情報として、丹生祝氏が祭祀する竃門神社は和歌山にはなく、九州に多いことがわかりました。つまり、大伴や隼人との関係を調べる必要があります。

以上より、少なくともこのあたり(紀伊国伊都郡と大和国丹生川上)には丹生津姫がくる前(応神以前)は大伴氏あるいは隼人の人がいたと思われる。
ただし、最終的にはもう少し裏づけが必要なんですが。つまり丹生氏や竃門氏の文書だけでなく、他の文書からの同様な記述がないと断言はむずかしいと思います。
ながながとすいませんでした。


[1539]  応神以前の伊都  [なにがし]  07/25

>setoh様
>物部、海部、大伴などの氏族は応神以前の大和の先住豪族と言えるのでしょう。
今ちょっと考えている事ですが、伊都の天野あたりの地は応神以前?大伴氏が居た
のではと。伝承よりその後丹生津姫(丹生氏?)が来てこの地を譲った。その理由
についてはこれから出張ですので、詳しくは帰ってきたらまた書きこみ致します。


[1538]  Re[1536][1535][1530][1519]: 無題  [Setoh]  07/25

マルヤさん。ご謙遜を。一般論としても、各宮司さんのおっしゃっていることは、知られていない資料によっていることも考えられますから、真剣に受け止めなければと思います。

[1124] setoh> 福井県武生市池泉町に、式内社須波阿須疑神社が鎮座、由緒に大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座とあります。

と書いたのですが、ある消息筋の方から「梅田紀寿宮司の話では、最も古い記録で「阿須疑大神」となっているということで、これを大野手比売命と解釈したのは明治以後であるとのこと。ここに流れる「足羽川」ですが、この地名は足羽郡足羽神社に由来します。「足羽」とは「アスキ・スワ」の転化です。つまり上流に「スワ・アスキ神社」があり、下流に「アスキ・スワ(アスワ)神社」があるわけです。」
とのメールを頂きました。こちらの説のほうが信用できそうなので、[1124]は取り消します。


[1537]  山浜さん どういたしまして  [あかがね]  07/25

> やはり、登られておられたのですね。貴重な情報助かります。10月でも大丈夫なのですね。ちょっと安心しました。有り難うございます。

 「やはり」、と言われると面映いです。小生神社参りを趣味としてせいぜい2年足らずのとんでもない弱輩者です。登山もほとんどしたことないんですよ。

 10月でもアルペンルートは結構込み合っていましたが、室堂平の宿をとる時には「何しに来るの?」的なことを言われてしまいました。思うに去年は異常気象で紅葉の時期がずれていたような気がします。

 立山は富士山・白山とならんで、日本の三霊山だそうですが、山頂には小祠があるのみです。富士山や鳥海山には山頂にも神職さんが常駐していてご朱印を頂いたり出来るのですが、そういう意味では、雄山神社の前立社壇にはちゃんといっておけばよかったなぁと、後悔しております。


[1536]  Re[1535][1530][1519]: 無題  [マルヤ]  07/25

Setohさん、
ご意見ありがとうございます。
私自身、もう少し柔軟に考えなければいけないと思います。
勉強不足の上に、ともすれば自分の説に捉われてしまっているようです。
勉強しなおしてみます。


[1535]  Re[1530][1519]: 無題  [Setoh]  07/25

マルヤさん> 古代神社の創建年代とその祭神は、「よく分からない」というしかない。
そうですね。そこを色々考えてみるのが面白い所でもありますね。

真言宗> 「玉川峡の近くに丹生都比売の滝」
是非誘って下さい。

 さて波比売神社と言う名前からは、水波比売、波布比売、伊波比売、阿波比売などが想定されますが、ここでは水波比売神を祭神としており、それが今日まで継続しているように見えますね。
 創建年代の天平三(730)年とは聖武天皇の時代で、『続日本紀』によれば、「落雷があったので、幣帛を全国の諸社に奉り、礼拝陳謝させた。」と出ています。
その前年には「諸国の天神地祇は国の長官に祭祀を行わせよ。また従来定められている以外に、祭るべき山川の神があれば祭ることを許せ。云々。」とあります。
 それにしても、創建年代の天平三(730)年をして
マルヤさん> 無理のない年代を適当に書いた
と一蹴されておられるのは、『続日本紀』の記事から見て、この頃なら無理がないという意味でしょうか。ひょっとしたら、波比売神社という名前になった時かも知れませんね。

宮司> 以前は鉱山の女神
宮司> 以前の祭神は「丹生都比売神」
 天武天皇の頃(7世紀後半)を持って、「以前」ということですね。
「以前」と理解されるのは、何か吉野の悠久さを思わずにはいられません。
 京都では戦前とは応仁の乱以前をさすようですから、あり得るんですね。

桃色蜥蜴さん、客人社等の情報ありがとうございます。


[1534]  客人社等  [桃色蜥蜴]  07/25

宝飯郡音羽町の宮路山中に客人大明神
同町の宮道天神社は、右座に宮道大明神、中座に緑大明神、左座に上記の客人大明神を祀っていたといわれます。
また、豊川市八幡町の八幡宮末にクシイワマド、トヨイワマドを祭神とする御門社が鎮座します。八幡宮は、三河国分寺の鎮守です。
また、蒲郡の神倉神社の明和9年の棟札には、客人大権現と記載されています。
追伸
なお、額田郡額田町石原の石座神社の分社の祭神は、天照国照日命とされています。


[1533]  Re[1532]: アラハバキ社等  [Setoh]  07/25

> 豊川市長草の素盞嗚神社末に『杏呂子社』なる社が鎮座しております。読みは『ムラクモ』です。
> 何か知ってる人いたら教えてください。

アラハバキ、ありがとうございます。
杏呂子神社については何も知りませんが、神社本庁発行の『平成祭礼データ』によりますと、読みは「むくろ」、祭神は不詳、お祭りは7月第二日曜日で、「むくろいじんじゃさい」と言うそうです。ここでは「むくろい」ですね。


[1532]  アラハバキ社等  [桃色蜥蜴]  07/25

竹生神社は、杉山字行時の『竹生神社』です。
石座神社末の『荒波婆岐社』及び竹生神社末の『荒羽々気社』については、現地に何度も行っております。
豊根村の熊野神社は、上黒川の方で老平の熊野神社です。
豊根の『荒羽々気社』については、現地に行っていませんが、北設楽郡史(1970刊)に記載されています。
豊川市長草の素盞嗚神社末に『杏呂子社』なる社が鎮座しております。読みは『ムラクモ』です。
何か知ってる人いたら教えてください。


[1531]  無題  [なにがし]  07/25

マルヤ様
>「今度その滝をご案内しましょう」とも言ってくださるのですが、どなたか如何ですか。
行ってみたいですね。もし、行かれるときは一声かけてください。タイミングがあえば是非ごいっしょさせて下さい。この僧籍様が丹生津姫様とお話できるのであれば、稲作の神様なのか水銀の神様なのか聞いてもらえないでしょうか?ちょっと聞きにくいですね。

丹生津姫については水銀の神様よりも稲作の神様の方が可能性が高いかなと現じてんでは思うのですが、丹生氏が昇進したり、新年にどうして竃門神社前で儀式を行うのか?また丹生祝氏嫡男相続時に「大堝」(おおるつぼ)を相続するのか。この大堝は何に使うのか?などが現在引っかかってます。いずれにしても決め手がないですね。

setoh様
先日直接和歌山大学の海津教授にメイルし、本日、郵便振替で直接和歌山大学の海津教授の講座に振込み天野の本を発注しました。届くのが楽しみです。ありがとうございました。


[1530]  Re[1519]: 無題  [マルヤ]  07/25

なにがしさん、
> 明神講って丹生明神の明神ですか?それとも狩場明神の明神なんでしょうか?それとも他の明神さん?

天野明神のことらしいので、丹生明神、狩場明神と同じだと思います。
その明神講の会員で真言宗僧籍のご婦人と話をしたのですが、その方は大変な「丹生都比売」ファンらしく、そのお話の中で「玉川峡の近くに丹生都比売の滝があってそこで行をして開眼した」、「今はよく大事な局面では必ずといっていいほど丹生都比売さまにお目にかかって助言を頂いている」と云われ、「今度その滝をご案内しましょう」とも言ってくださるのですが、どなたか如何ですか。


[1529]  Re[1522][1512][1502]: 丹生川上と丹生都姫  [マルヤ]  07/24

>「波比売神社」については天平三(730)年創立としています。神奈備山信仰のようですね。
>> A事情で「丹生都比売神」を併祀 した。(応神天皇の頃?)
>> B時の事情で水神(龍神)の「水波能売神」を主祭神とした。(天武天皇の頃?)
>祭神を変えていく理由がわかりません。また祭神を変えていったとすると、この神社名は祭>神の名を持ってきており、地名ではなさそうですので、神社名も一緒に変えるのが筋だと思>いますがどうでしょうか。

古代神社の創建年代とその祭神は、一言で応えるとすると、「よく分からない」というしかないと思います。
先の私の考えは「そのように私は思う」ということです。
貞観(859〜877)の神階をみると、丹生川上や紀伊天野よりその時点では上位と思えることや、その立地や社伝などから、応神天皇が創建したという天野社より古いのではないかと私はおもうのです。
ちなみに波比売神社と古代から特別な関係にある波宝神社は創建年不詳です。
●祭神の変遷について
現在の波比売神社の祭神は、水波能売神と応神天皇ですが、神社名は現実に波比売神社のままです。
宮司さんは以前は鉱山の女神だと聞いていると説明しておられます。
ちなみに丹生川上神社下社の宮司さんは、はっきりと以前の祭神は「丹生都比売神」であったと言われます。でも神社名は丹生都比売神社とは言わないし、地名でなくとも社名を、必ずしも一緒に変えるのが筋だとは思われません。
でなければ、波寳神として認知されていた神を祀る波宝神社は、住吉神社または神功神社と変えるのが筋ではないかという論法になってしまいます。

ヒモロギやイワクラ、カムナビを尊崇したと思える時代から、氏上(うじがみ)の墓所を祭った時代を経て、小さな社を建てて特定の先祖を神として斎祀った頃を創建の年代とするなら、この波比売神社は波宝神社と共に、丹生川上や紀伊天野より古いのではないかと私は思ったのです。
神社の由緒書きはことさら古い年代を書いたものもあれば、無理のない年代を適当に書いたのもあると思うからです。
三代実録によると、貞観(859〜877)年代、波寳、波比賣はいつも共に神階が累進して「従三位」なりました。この時点では丹生川上や紀伊天野より上位だったと思われます。
神階がどういう権威と意味があったかどうかは分かりませんが一つの見方ではあると思います。・・・この時代吉野の最上位は「正一位」の大己貴神(大名持神社、吉野町河原屋)でした。【ただし大名持神社の創建は貞観元年とされている】・・・
神階は「社」にではなく、「神」に賜る?ものらしいですが、いずれにしても貞観年代に波寳神、波比賣神として、あたかも一対の夫婦神のように認知されていたようなので、859年以上前の創建であることは確かなようです。
でも、古い時代の事は実際よく分からないので、様々な見方はあると思います。
祭神を変えた理由ですが、証拠もないし、論証もなかなかできませんが、小生のモノ語り「真朱の姫神」のなかで私なりに自分の思うことをかいたつもりです。
まったくの自分勝手な世界ですがねぇ。

>素直に農耕神従って水神も、と考える必要がありそうですね。
これはまったく同感です。吉野郡十津川村(昔は熊野地域?)の玉置氏が勧請した丹生神社が和歌山県には数多くあると聞いたことがあります。この場合なんか素直に考えて水神のケースでしょうね。
>この辺りの考え方についての丹生広良先生はどうお考えなんでしょうかね
このことについては承ってないのでよく分かりません。


[1528]  あかがねさん 有り難うございます  [山浜]  07/24

やはり、登られておられたのですね。貴重な情報助かります。10月でも大丈夫なのですね。ちょっと安心しました。有り難うございます。


[1527]  立山・黒部紀行?  [あかがね]  07/24

> あかがねさんは立山登山のご経験がございますか?
> 近々、立山の雄山神社に参拝する計画を立てておりますが、参拝登山の場合やはり室堂宿泊で午前中登山の方がよいものでしょうか?スケジュール的なところ教えていただければありがたいのですが・・・

 これがあるんですよね。去年の10月という紅葉も終わりかけの辺鄙な時期でした。

 立山も二泊三日で行きました。
 初日に宇奈月へ行ってトロッコに乗って、立山に戻って中宮芦弁寺に参拝後、アルペンルートの始点付近で一泊。(前立社壇は交通の便と時間の都合でパスしてしまいました)
 二日目にアルペンルートに乗って、弥陀ヶ原で散策、昼食後室堂ターミナルへ行って、山頂の本社へ登拝。で、室堂平で一泊。
 三日目は室堂からトンネルをくぐって長野県側へ抜けて、黒四ダムとか見た後、仁科神明宮と穂高神社にお参りして帰りました。

 というわけで、雄山山頂へは室堂平からだとさほどかかりません。当時の行程表を見てみると大体2時間くらい(片道)で行ってますね。午後からでも全然大丈夫ではないでしょうか。私の場合連れが神社に何の興味もなく、立山黒部観光自体が主眼だったので、弥陀ヶ原や地獄谷で大分時間を使っていましたが。(それにしては三日目がかわいそうな事をしたような気がしますが。)

> 今のところ、初日に前立社壇と祈祷殿参拝ののち室堂に行こうかと思いますが、いかがでしょうか?

 朝早く富山に到着するのであれば、大丈夫じゃないでしょうか。
 室堂で一泊して明くる朝から、山頂へ。ということですよね。

 とまれ、私の行き当たりばったりな話では何の参考にもならないと思われますので、

 http://www.fitweb.or.jp/~ike/  とか

 http://www.alpen-route.co.jp/  を

参考にして下さい。


[1526]  勝手な想像ですいません  [なにがし]  07/24

setoh様
酒殿社の御神体は確か稲穂だったかと思います。播磨風土記の爾保都姫の爾保も「丹穂」なのかもしれませんね。丹生は丹を赤っぽい色を表すともし解釈きれば、赤を生むものという事で、赤米や水銀なども全部包括するのかも知れません。吉野は水銀を採っていたと思いますが、伊都はどうでしょう。ただ、修験者にとって水銀は必要ですのでその程度の少量の水銀は採っていたかもしれませんね。どちらかというと銅を採っていた可能性が高いかと思っています。ちなみに四国の丹生神社の1つに「にお」って読むところがあります。
考えるのも面倒くさいので、丹生都姫=丹生氏の姫、その姫の養子となった丹治家信こと狩場明神と両人を空海が密教を守護してもらったお礼に祭ったとして、丹生都姫≠爾保津姫としたらどうでしょう。勝手な想像ですいません。全く根拠はありません。聞き流して下さい。


[1525]  あかがねさんにおたずね  [山浜]  07/24

あかがねさんは立山登山のご経験がございますか?
近々、立山の雄山神社に参拝する計画を立てておりますが、参拝登山の場合やはり室堂宿泊で午前中登山の方がよいものでしょうか?スケジュール的なところ教えていただければありがたいのですが・・・
今のところ、初日に前立社壇と祈祷殿参拝ののち室堂に行こうかと思いますが、いかがでしょうか?


[1524]  無題  [なにがし]  07/24

桃色蜥蜴様 
とかげって読むんですね。勉強になりました。


[1523]  突然ですが、影鳥海  [hin(かよ)]  07/24

友人が 鳥海山近くでして、
hpを開設してます。神社・歴史には無関係ですが、
影鳥海見たい人どうぞ・・・
http://www.ic-net.or.jp/home/konno01/tyoukai3/yama3.htm


[1522]  Re[1512][1502]: 丹生川上と丹生都姫  [Setoh]  07/24

「波比売神社」についての疑問
神奈備は不勉強で大山氏の著作を読んでいませんが、平凡社の『大和・紀伊神社寺院大事典』には「神社明細帳」によると「波比売神社」については天平三(730)年創立としています。神奈備山信仰のようですね。
> A事情で「丹生都比売神」を併祀 した。(応神天皇の頃?)
> B時の事情で水神(龍神)の「水波能売神」を主祭神とした。(天武天皇の頃?)
の仮説ですが、よしんば各天皇の頃に創建されていたとしても、祭神を変えていく理由がわかりません。また祭神を変えていったとすると、この神社名は祭神の名を持ってきており、地名ではなさそうですので、神社名も一緒に変えるのが筋だと思いますがどうでしょうか。
式内社調査報告には、埴安比売神から波比売への仮説も紹介しています。

what's ニウ
 天野の丹生都比売神社の周辺には丹砂採掘の跡はないようで、この神社も一貫してそういう主張をしているようです。高野山で空海がこっそり丹砂を採取、水銀にしていたのかも知れませんが・・。
 所で、京都に新撰組で有名な壬生という所があります。これを丹生(ニブ)からの変化と思っていましたが、宮本常一氏の『日本文化の形成』を見ていましたら、「ニウは壬生と書き、産屋のこと、すなわち、稲の産屋を意味することばであった」とでてきました。「また稲束を積み上げたものをニウ、ニオなどと呼ぶところが多い」としています。高い脚のニウを高倉、秀倉といい、これが祠になったとの説明があります。紀ノ川流域に丹生神社が幾つか鎮座しているのですが、国土開拓神としての丹生都比売が祀られているケースが多いようです。この祀り方は丹砂資源の枯渇後かと思っていましたが、どうもそうではなく、素直に農耕神従って水神も、と考える必要がありそうですね。
この辺りの考え方についての丹生広良先生はどうお考えなんでしょうかね


[1521]  利雁神社の件ありがとうございました。  [桃色蜥蜴]  07/24

ご教授ありがとうございました。
アラハバキ社については、手元に本がないため、確認次第改めて、連絡したいと思います。
三河一宮砥鹿神社の社家にトガリ氏があり、トガリ氏は、明治までの世襲神官・草鹿砥氏(日下部)と同族ということでトガリ-クサカベの関係について調べています。
出雲のツガリ社とクサカベ社が並んであること参考になりました。


[1520]  Re[1517]: はじめまして  [Setoh]  07/24

桃色蜥蜴さん、初めまして。

利雁神社は羽曳野市尺度に鎮座していたとのことです。
祭神については、保食神、品陀別命、天兒屋根命の三柱、依羅氏祖神の饒速日命などの説の他に祭神不詳とする文献もあるようです。

> アラハバキ社
情報ありがとうございます。新城市大宮の石座神社については確認できました。新城市豊栄の竹生神社とは杉山字行時の同神社のことでしょうが、確認できていません。北設楽郡豊根村大字黒川には字老平と字新井に熊野神社が鎮座しておりますが、どちらも確認できていません。どちらの熊野神社でしょうか。

 いずれにしてもこのようなお知らせ、誠にありがとうございます。さっそく一覧表にも反映させていただきます。


[1519]  無題  [なにがし]  07/24

>マルヤ様
明神講って丹生明神の明神ですか?それとも狩場明神の明神なんでしょうか?それとも他の明神さん?

>桃色蜥蜴様
はじめまして。「蜥蜴」ってどう読むんですか?


[1518]  Re[1516]: 無題  [マルヤ]  07/24

なにがしさん、
> >慈尊院から丹生官省符神社の境内の掃除をされていたと思います。
> えっ、そんなこともされているんですか。すごいですね。横浜からこられているのもすごいと思ったのに。ちなみに何人の方がこられていたのですか?その気合、みならわないといけませんね(自己反省)。
<横浜丹生都比売の会、今回は会長ともう一人の2名(急に思い立ったとのこと)、大阪の明神講の方が5名位?だったと思います(実は私は昼から別れたので明神講の方々の総人数はよく分からない)
横浜と大阪の方々、以前から顔なじみなのだそうです。
私、マルヤだけが新参者でした。


[1517]  はじめまして  [桃色蜥蜴]  07/23

豊富な神社資料助かります。
河内の美具久留御玉神社内の利雁神社について、もう少し詳しいこと教えていただきたく、掲示板利用させていただきました。
それと、アラハバキ社、穂國(東三河)には、砥鹿神社のほか、式内・石座神社(新城市大宮)、竹生神社(同豊栄)、豊根村黒川の熊野神社が鎮座しており、砥鹿神社本宮と合わせて五社存在しています。
出典は、北設楽郡誌、千郷村史、設楽郡史だったと思います(書名若干不明、確認願います)。


[1516]  無題  [なにがし]  07/23

マルヤ様
>慈尊院から丹生官省符神社の境内の掃除をされていたと思います。
えっ、そんなこともされているんですか。すごいですね。横浜からこられているのもすごいと思ったのに。ちなみに何人の方がこられていたのですか?その気合、みならわないといけませんね(自己反省)。


[1515]  Re[1511]: 無題  [マルヤ]  07/23

なにがしさん、
> 私が丹生川神神社下社に行ったのは7月20日(金)の朝8時でした。神奈川ナンバーで来られた方は女性3人男性1人でした。もしかして丹生都姫の会の方たちだったのでしょうか?
<その方たちではありません。その日のその時間は「横浜丹生都比売の会」の方らは、慈尊院から丹生官省符神社の境内の掃除をされていたと思います。
> 丹生広良先生の著書を読み返してみましたが、もう一度自分なりに吟味してみようと思いました。
<丹生廣良氏の著書「丹生神社と丹生氏の研究」第三版(平成6年版)を譲ってもらったので私もよく読んでみます。
氏のご長男は稲荷神社宮司、そして稲荷学園副理事長もお勤めとのことです。


[1514]  無題  [なにがし]  07/23

マルヤ様
>水方は五行説では北方と思います。
すいません、水方は北でした。
>「水方」を「水分」の間違いとして「水分」にわざわざ訂正されている学者もおられますが、これはやっぱり「水方」ですよね。
水分と解釈された学者さんの根拠がわからないので言いにくいのですが、大山氏の解釈の方が利にかなっていると思います。
>私は三段階に変遷したのでは?・・・と思っています。・・・
なるほど。そう考えると筋が通りますね。

マルヤ様
すみません、直感的な話ばかりでご迷惑をかけます。ほんとなんとなくなんですが、伊都の丹生よりも吉野の丹生の方が古いと感じずにはいられないんです。理由はないんですけど。丹生とは文化・民俗だと思いますので、丹生都姫から丹生という字が生まれたのではなく、丹生と言う文化などがもともとあって、そこから丹生都姫が生まれたような気がするんですよねえ。丹生の地名の多さからそう感じます。あるいはよそからきた一族が丹生の地に住みつき、後世その一族の神様の名前が丹生というところに祭られている神であることから丹生都姫になったとか(例えば、丹生(地名)に祭られている女神さんはご利益があるんやてなあ。→丹生の姫神さんかいな。→そうや丹生の姫さんや→丹生都姫さんや。な〜んて言う変化があったりして)。


[1513]  追加  [なにがし]  07/23

マニアチックな内容ですいません。
伊賀豆の存在の可能性についてもう一つありました。それは丹生真人の父親でそれも70〜80歳ぐらいまで長生きしておれば、告門を書く事が可能です。でも、普通なら子供も50歳ぐらいになっているので、そんなことは子供にまかせるんじゃないかとは思うのですが。元気なじいちゃんなら自分で書くかもしれませんね。


[1512]  Re[1502]: 丹生川上と丹生都姫  [マルヤ]  07/23

なにがしさん、
>大山氏はおもしろい考察をしています。それは告門の「丹生川上水方乃峯」の「水方」を陰陽五行より南の方角と解釈されています。
水方は五行説では北方と思います。(大山氏の本も<北の方角>としていると思います)
告門の「水方」を「水分」の間違いとして「水分」にわざわざ訂正されている学者もおられますが、これはやっぱり「水方」ですよね。

> さらに丹生川上に上った時にはすでに水銀に携わっている丹生族がいたのではと思います。>・・・・・吉野の鉱山の神は丹生都姫ではなく別にそれもかなり古くからいたのではと思います。  

私は三段階に変遷したのでは?・・・と思っています。
神社によって違うとは思いますが、例えば吉野三山の神社のうち「波比売神社」の場合は、
@元の祭神は山王神、地主神、氏上神(氏神)とも云える祖神の「波比売神」だった。
A事情で「丹生都比売神」を併祀 した。(応神天皇の頃?)
B時の事情で水神(龍神)の「水波能売神」を主祭神とした。(天武天皇の頃?)
・・・と移り変わっていったのではないでしょうか。


[1511]  無題  [なにがし]  07/23

マルヤ様
>87歳の今も現役の神官なのですか?
もう退かれているかも知れません。息子さんが神主を継いでおられると思います。東京で住んでおられると思います。
>全900点もの丹生文書を
そんなにあるんですか!!!もっと少ないと思ってました。
>横浜の「丹生都比売の会」の方ら
私が丹生川神神社下社に行ったのは7月20日(金)の朝8時でした。神奈川ナンバーで来られた方は女性3人男性1人でした。もしかして丹生都姫の会の方たちだったのでしょうか?

丹生広良先生の著書を読み返してみましたが、もう一度自分なりに吟味してみようと思いました。つまり、先生は天野の文書と丹生酒殿神社および竃門家文書との一致を信憑性を上げるための1つにされているようですが、出所が同じ(先生のところは丹生相見(丹生直)、竃門家はもと丹生祝(総神主家))なので多少の違いはあれど一致するのはあたりまえなのです。
根本的な問題は丹生祝本系帳と丹生大明神告門(天野告門)の信憑性です。どこまで信じていいのか。全部が正しいとも思えないのですが、全部がうそでもないと思います。これが書かれた背景は、時代は。この疑問のもとはこれらを書いたとされる丹生祝伊賀豆と言う人、この人は実在したのかと言う事です。天平12年(740年)に伊賀豆に書かれたとされていますが、丹生真人が総神主を相続したのが神亀2年(725年)ですので、伊賀豆は総神主を相続していない。男子1系の伝承であれば総神主でない人が告門を書けるのはおかしいと言うことになります。それでは真人の兄弟だったのでは?それも違います。と言うのは、丹生祝氏の家系図は丹生広良氏の本に載っていますが、丹生直の家系図もそうだと思うのですが、兄弟全部を入れています。つまり先日書いた丹生祝の現当主が80代目だろうと書いたのは、神主を継がなかった兄弟を除くと80代目ぐらいになるのです。そういうふうに見ると丹生広良氏の128代目も実際はもっと少ないかもしれません。以上を考慮するとあと残っている可能性は、伊賀豆が真人の兄で、何かの理由で兄でありながら総神主を継げなかったという事です。しかし、私はどちらかと言うと伊賀豆は存在しない人物であった可能性の方が高いのではと思います。では、だれが本系帳と告門を書いたのか?それも日本書紀といった系統の時代背景や古来の歴史を知っている人でないと書けない内容だと思いますから。
吟味はできても断定はできないと思うので、結局結論は出せないと思うのですが、万に1つでも将来何か古文書なんかが見つかれば結論が出せるかもしれないと言う期待も込めて調べておこうと思っています。


[1510]  Re[1497]: 丹生の祭祀を聞くなら・・・  [マルヤ]  07/23

> 現在丹生祝氏で神主をやっているのは、丹生相見家の丹生広良先生だけです。
!87歳の今も現役の神官なのですか?やはり和歌山県内の丹生系の神社でしょうね。
> >第128代のご当主・・・> すごいですね。天皇家なみでしょう!
ほんとにすごいですね。系図も見せていただきました。
> マルヤ様、丹生広良氏の話はどんな話でしたか。よろしければ教えて下さい。
日前宮、紀氏、伊太祁曾神、住吉神、吉野のことなど話していただいたのですが、断片的に覚えているだけなので、正しい記述が出来ません。丹生都比売神についてはあまり話はされませんでした。
氏は数年前から、県指定文化財を含む古代・中世文書122点を入れて、全900点もの丹生文書を、和歌山県立文書館に寄託しているそうです。
> 下市の図書館も綺麗で郷土資料が充実していましたよ。それよりも大淀の方が大きいのですか。
はるかに大きく綺麗です。是非一度のぞいて見てください。
>私が行ったときには神奈川県からこられている方もおられました
横浜の「丹生都比売の会」の方らは、和歌山に3泊、天川村は1泊の予定との事でした。
和歌山では、木本八幡宮、淡島神社、玉津島神社、塩土神社、杉山神社などを廻られたらしいです。


[1509]  Re[1508][1507][1503][1498]: 波知?  [Setoh]  07/23

> 御簾とわかれば
>  雪戻りせむ。。。。

見過ごした波知神社について

最近式内社調査報告を玄松子さんに教えて貰って格安のN万円で手に入れましたが、見るのを忘れていました。若干引用します。
【社名】当社は出雲風土記に云う「波禰社」に相当すると考えられる。天和三(1686)年の岸崎左久次著『出雲風土記鈔』に「波禰社、式書波知神社是也。健部郷羽根村須多禮大明神也」云々とあります。結論として、当社は出雲国風土記の波禰社で、近世以来簾大明神、須多禮大明神、また八社大明神とも呼ばれていたと考えることができる。
【由緒】正倉院文書天平十一(739)年に「波如(はね)里」とあり、波知神社は波如神社の誤りであろう。
鎮座次第は日向国の宮地伊波禰よりニニギ尊を勧請せしを持って直にこの地の名称となれり。しかるに中古以来伊の字を省き波禰と称しき。以上

 問題は波知神社の名前ではなく、この社(の近辺)に建御名方命が祀られていたという事だったわけですが、社家文書には「往古、当村に七神ありしを寛文二(1662)年当神社改造の時是を合祀し一社とす。」とあります。建御名方命が果たしていつ頃から祀られていたのか、現在の所は「往古」としか云いようがありません。

 それにしても、達筆の筆書きの場合、如、知、加(迦)などは識別しにくいようです。
 また、簾大明神、須多禮大明神と呼んだのは何故でしょうか。


あかがねさん、山浜さん、山形紀行のガイドありがとうございました。聖地は先達に聞いてから行くのがよさそうですね。今年いけるかどうか、という所ですが、参考になります。

マルヤさん、とっておき情報、お待ちしていますよ。書ききれなかったら、大阪丹生都姫会の総会でもやって下さい。


[1508]  Re[1507][1503][1498]: 波知?  [大三元]  07/23

簾越し
 ハチに見えたは
  幻か
御簾とわかれば
 雪戻りせむ。。。。

オソマツ


[1507]  Re[1503][1498]: 波知?  [Setoh]  07/23

> 波知神社:風土記の波禰社(延喜式で波知は波如の誤りと岩波風土記頭注)
> もう一つ式外社に「波如社」あり。異論に「波加」があるよし。
> 両方とも所在地は斐川村「羽根」と来れば、「ハネ」ではなかろうか?

大三鳴動、蜂のひとさし。
 波知騒動はどうやら神奈備が簾の向こうから見るような吟味不足でしたね。


[1506]  今日も神奈備は大盛況  [マルヤ]  07/23

夜遊びをしていて、今帰宅したばかりです。
今日も神奈備掲示板は書き込みが一杯で、読むだけで精一杯。

なにがしさん、旧名でスペルまでミスタイプしてすみませんでした。
本日(7月23日)夜にでも書き込みします。


[1505]  Re[1504]: あかがねさんお疲れさまでした  [あかがね]  07/23

> あかがねさん こんにちは

こんにちは。

> 鳥海山はお天気いかがでしたか?無事鳥海山を登られたのはラッキーだったのではないですか?

 お天気よくなかったんです。これが。
 初日高速から降りて、庄内の北方を見渡しても全然山が見えなかったんですよ。雲で。
登ってても、少し上がもう霞の中って感じでした。9合目くらいからは雷雨に見舞われ、
泣きながら登っておりました。当然眺望は最悪。影鳥海を拝もうなどと宿を山頂にとって、
日程に融通を利かなくしたのが完全に裏目に出てしまった形でした。
 次の日下山する前に新山の頂上に上ったのですが、日本海が雲の切れ間にちょこっと
見えた程度でした。かなり残念だったです。下手をすると鳥海湖すら気づかずに通り過ぎ
兼ねないほどの悪天候だったです。

> 出羽三山は1日でまわろうとする場合、バスなどが時間的にぎりぎりなので、

 今回は車だったので結構余裕があったのですが、しんどくて他の二山は諦めてしまいました。
 山寺を切って行くべきだったかもしれませんが、いつか必ずちゃんと登ろうと思います。

> 羽黒山の2446段の石段には33個?のひょうたんが彫ってあると聞いたことがあります

 絵が彫ってあって、全部見つけると願いがかなう。というような話は聞いてました。
 でも、しんどすぎて一つも見つけることが出来ませんでした(爆)
 ずっと下向いてたんですけどねぇ・・・。

> 羽黒山の石段入り口、随神門をくぐって継子坂を下って正面に突き当たった神社が五十猛神社です。そこから右に曲がって祓川を過ぎて国宝五重塔を見られたと思いますが、いかがでしたか?

 摂社群は出来る限り気をつけてた積りですがですが、これは見逃してました。
 結構社号標の見当たらないものも多かったような気がしました。
 あの五重塔は結構凄いですね。荒れていると言うのではなく、神寂びているというか。
普通、塔というとお寺の専売特許で私は正直触れる機会が少ないので(談山神社の十三重の
塔以来でしょうか)漠然とした印象に過ぎませんが、本当にぽつねんと建ってますよね。
 しかし、平将門が建てたというのはどうなんでしょうねぇ。怪しい。

> 合祭殿脇には神社なのに釣り鐘があります。大きいですよ。

 ええ。結構目立ってました。塔といい鐘といい本殿といい完全にお寺さんですね。

>
>ちなみに月山→湯殿山はこんな感じです。

 いつの日か必ず参考にさせていただこうと思います。
 いつの日になるか、今のところ全く検討つきませんが・・・。(案外近い将来かな?)


[1504]  あかがねさんお疲れさまでした  [山浜]  07/22

あかがねさん こんにちは
山形紀行お疲れさまでした。それにしてもかなりハードなツアーですね。
鳥海山はお天気いかがでしたか?無事鳥海山を登られたのはラッキーだったのではないですか?そういえば月山を登ると前日に鳥海山を登ったという人と結構出会います。
出羽三山は1日でまわろうとする場合、バスなどが時間的にぎりぎりなので、私の場合、月山→湯殿山と巡ったあと羽黒山をじっくり参拝するという行程にしております。もちろん月山頂上の山小屋にも泊まれます。羽黒山の方が参拝しがいが有りますからね。羽黒山の2446段の石段には33個?のひょうたんが彫ってあると聞いたことがあります(私も全部見つけておりません)。羽黒山の石段入り口、随神門をくぐって継子坂を下って正面に突き当たった神社が五十猛神社です。そこから右に曲がって祓川を過ぎて国宝五重塔を見られたと思いますが、いかがでしたか?

>普通は三山駆けで、月山と湯殿山に行くのでしょうが、
冬場などは月山・湯殿山を登れないので、出羽三山三神合祭殿で参拝すれば一応三山の神社を拝むことが出来ます。ちなみにほとんどの神事は三神合祭殿でやっております。三神合祭殿は一棟に本殿と内拝殿がある「合祭殿造り」という特殊な建築です。合祭殿脇には神社なのに釣り鐘があります。大きいですよ。

ちなみに月山→湯殿山はこんな感じです。鶴岡駅から月山八合目までは1時間に1本程度バスがありますが、実質8月末までしか運行しておりません。料金は\2000しなかったと思います。八合目から頂上までは2時間くらいでしょうか?お花畑の続くなだらかな登山コースです。途中一カ所、月山大神が役行者に修行不足を告げて追い返したという「行者返し」くらいがきついところでしょうか?
月山から湯殿山に下る場合、右に右に曲がるように降りないと志津側に降りてしまいますのでご注意ください。途中、鉄はしごの有る月光坂(がっこうさか)がありますので、軍手が必須です。月山から湯殿山に下った場合、鶴岡に戻るバスが極めて少ないので時間の確認が必要ですね。4時過ぎのバスが最終です。湯殿山側から登ると長くきついコースになりますのでご用心ください。
出羽三山では修験道の影響なのか、御詠歌のような特殊な短い拝詞を三山の各拝所で唱えます。機会があればご祈祷を受けてみるとそれを聞くことが出来ますよ(そういえば、出羽三山では大祓詞などはあまり聞いたことがありませんね〜)。
私は8月中旬に参拝の予定です。すみません、長くなりました。


[1503]  Re[1498]: 波知? [大三元]  07/22

波知神社:風土記の波禰社(延喜式で波知は波如の誤りと岩波風土記頭注)
もう一つ式外社に「波如社」あり。異論に「波加」があるよし。
両方とも所在地は斐川村「羽根」と来れば、「ハネ」ではなかろうか?


[1502]  丹生川上と丹生都姫  [なにがし]  07/22

大山源吾氏は松田博士の研究を参考に、森口氏は本居内遠氏と栗田寛氏の文献を参考にして、丹生川上神社の主張をされておられます。また、どちらの著書でも天野告門を引用している部分があります。大山氏はおもしろい考察をしています。それは告門の「丹生川上水方乃峯」の「水方」を陰陽五行より南の方角と解釈されています。
私はなぜか両者の著書で天野告門を引用されているのがさみしい気がします。祭神を丹生都姫に想定されているのですが、本当に昔丹生都姫として祭っていたのか、と言うことです。勉強不足で申し訳ないのですがその根拠がわからないのです。丹生広良氏の本には丹生川上神社上中下3社を除けば9社。内訳は
奈良市1社  宇陀郡2社  高市郡2社 高田市1社  宇智郡1社 吉野郡2社
です。
もしかしたら、高野山の僧侶達の活動でできた丹生神社の可能性もあります。実際高野山からもってきて祭った神社があります。和歌山でも高野山の活動でできた丹生神社が多いのではと思っています。大和系の変化と言うのはもともと無いのでは。丹生都姫(丹生氏)が伊都に来て、さらに丹生川上に上った時にはすでに水銀に携わっている丹生族がいたのではと思います。それだけ吉野は古いと感じました。そのため丹生都姫を祭る丹生氏は未開の地伊都郡に落ちついたのでは、と思います。吉野の鉱山の神は丹生都姫ではなく別にそれもかなり古くからいたのではと思います。


[1501]  すいません。失敗しました・・・。 [あかがね]  07/22

 すいません。続きです。

二日目 鶴岡市に出て、由豆佐賣神社、遠賀神社の論社(3社)に参拝後、同市で一泊。

三日目 AM8時半出発、羽黒山へ。2446段の石段を1時間かけて登り、出羽三山三神合祭殿へお参り。
    普通は三山駆けで、月山と湯殿山に行くのでしょうが、体力と時間の都合で割愛。
    午後からは山寺(立石寺)へ(羽黒山から最上川沿いに走ったりして2時間程。)
    こちらは頂上まで30分程だったですが、疲れ果てたのでもう降りたらまっすぐ帰りました。
    アベックばっかりでちょっときつかったです・・・。

 鳥海山は一之宮巡りなどよりは、100名山がらみで来ている人が圧倒的多数のようでした。(多分そのあとは月山に登るのでしょう。)
 式内社は神仏習合のあとがかなり残っていて、お堂を改修した拝殿とか、そもそも拝殿と本殿の区別がないようなところが多かった様に思いました。

 もうちょっと要領よくまわれそうですよね。土門拳記念館とかも行きたかったし。
 参考になるのかどうか、甚だ怪しくて申し訳ありません。それにしても疲れました。


[1500]  >山形紀行?  [あかがね]  07/22

> あかがねさん>  鳥海山、羽黒山
> 山浜さんのショバですね。ルート、時間、等、計画の参考にしたいので、もう少し詳しく教えて頂けませんですか?

 毎度レスを頂きまして、どうもありがとうございます。
 全部で二泊三日だったのですが、

一日目 AM3時につくば市を出発(車です)、
    AM8時に山形県酒田市着、小物忌神社と大物忌神社の両口之宮を参拝後、
    正午に吹浦口より鳥海山にアプローチ。PM5時過ぎに山頂の山小屋に到着。で一泊。

二日目 AM6時に起きて、鳥海山大物忌神社ご本社に参拝後、2236mの頂上に上り、下山。
 AM11時に五合目の鳥海ブルーラインに到着するも上ったときと違う象潟口に降りてしまい、もう三十分歩く羽目に。


[1499]  [Re[1498]: 無題 [玄松子] 07/22

> 賀茂蝦夷朝臣が初代の律令制の国司に任命された時、仁淀川をさかのぼり、石鎚山系を経由して瀬戸内海側に出る官道開削が賀茂族の総力で実行されたそうで、若い賀茂役君小角も参画し、これが石鎚神社の開山となったとのことです。

石鎚山ですか。非常に暑いので熱射病にお気をつけ下さい。
四国といえば、先週、大宜都比売命に逢って来ましたよ。暑さに弱いので、午前中だけの参拝旅行でしたが、どのお宮も良い神社でした。


[1498]  無題  [Setoh]  07/22

香具さん > 『波知国』はヤッシン国
あったんですね。印度から支那への仏教伝来の一つのコース上になるんですね。この波知と出雲の波知神社がつながるのかどうか、また「波迦」も同時に解きたい所ですね。
香具さん > 波知神社と共に掲載されていた波迦神社の『波迦』ですが、『天の香山の波波迦の木』
波迦と波波迦ですか、先ず一波を越したい所ですね。

「いざなぎ流」の老巫が、赤痢にかかっている人の赤痢を、巡査が俺に移し替えろと挑発したそうで、見事に移したそうです。かたやケロット治って、巡査はトイレに駆け込んだとか?

なにがしさん> 吉野の丹生と伊都の丹生は別物のような気がしてきました。
同感です。小生もそのように思っていました。名前は丹生でも、社のイメージ、暖かさ、伝わる雰囲気、今の所、感覚的な所ですが・・。理屈が付くのかな?

なにがしさん> 薬草弁当
コレステロール対策には打って付けですね。これぞ神餞というべき。

あかがねさん>  鳥海山、羽黒山
山浜さんのショバですね。ルート、時間、等、計画の参考にしたいので、もう少し詳しく教えて頂けませんですか?

今週は四国の石槌山登山と石槌神社参詣をしてこようと思っています。
石槌山は熊野権現や賀茂族も多いに関係する神社のようです。
賀茂蝦夷朝臣が初代の律令制の国司に任命された時、仁淀川をさかのぼり、石鎚山系を経由して瀬戸内海側に出る官道開削が賀茂族の総力で実行されたそうで、若い賀茂役君小角も参画し、これが石鎚神社の開山となったとのことです。
 式内社の土佐国の葛城男神社・葛城メ神社は石鎚山の剣嶽(男体山)・彌山(女体山)を神奈備として祭祀した石鎚信仰の原型とされています。


[1497]  丹生の祭祀を聞くなら丹生広良先生!  [なにがし]  07/22

マルヤ様
現在丹生祝氏で神主をやっているのは、丹生相見家の丹生広良先生だけです。ですから次の点も含めて一番祭祀について知っているのは丹生広良先生と言っていいでしょう。
1)総神主家の丹生一麿家は自宅焼失で文献が残っていないはず。
2)竃門家は天野大社の火災によって、文献を天野大社に持って行ったためなく、その後天野大社が再度火災がありこれまた消失。
よって文献が残っているのは実務的役割をしていた丹生相見氏のみです。丹生総神主家にはほとんど残っていないでしょう。また丹生総神主家は丹治や大伴の養子をもらっているので、その文献については吟味が必要ですが、丹生相見氏の文献はそのまま信じてもいいと思っています。
>第128代のご当主
すごいですね。天皇家なみでしょう!丹生広良先生は高野明神の祭祀を担当していた血筋で、その歴史は丹生総神主家と同じです。ちなみに総神主家は丹生祝本系帳で安麿首まで正しかったとして、おそらく現在の丹生一麿家のご当主殿は80〜85代目だと思います。ですから128代まで続いているのはすごいと思います。
マルヤ様、丹生広良氏の話はどんな話でしたか。よろしければ教えて下さい。
>大淀町にびっくりするほど立派な図書館が出来ました。
下市の図書館も綺麗で郷土資料が充実していましたよ。それよりも大淀の方が大きいのですか。今度いってみます。今度は下市あたりをゆっくりと歩いてみたいと思います。丹生川上神社下社あたりもこの季節すがすがしくて気持ちの良い、景色の良いところでした。下市は温泉もあってなかなか観光するにはいいところだと思いました。そういえば、私が行ったときには神奈川県からこられている方もおられました。


[1496]  丹生都比売さま  [マルヤ]  07/22

一昨日、朝から和歌山へ行ってきました。
横浜から「丹生都比売の会」の方々が来られ、大阪の「明神講」の方々も来られて、資料いただいたり、親しくお話させていただいたりと、楽しい時間を持てました。
午後はその方々と別れて、一人で丹生廣良氏をお訪ねしました。
氏は今年87歳におなりいうことでしたが、とてもお元気で「道が分かりにくかろう」と自転車に乗り、表通りまで迎えに出てくださいました。
 氏は、ご存知のとおり丹生都比売神社祝家の第128代のご当主で、現在は丹生一族史研究会会長、丹生都比売神社奉賛会幹事、きのくに古代史研究会代表幹事などをご奉職。その傍ら次の出版のため執筆を続けておられるとのこと。そのようなお忙しい中にもかかわらず、ご自宅で夕方までの長時間、丹生都比売神のこと、丹生一族のことなど、親切にご教示いただき、とても有意義な一日となったことでした。
このことも丹生都比売さまお導きの賜物と感謝申し上げねばなりません。


[1495]  Re[1494]: 丹生川上はどこ?  [マルヤ]  [Url] 07/22

> 丹生川上神社の上、中、下社一体どれが本当の川上神社なんでしょうか?
> 大山源吾氏は下社を押しているようですし、森口奈良吉氏は中社を押しています。上社も遺跡がでたこともあり有力ですので、これは結論でないだろうなと思ってしまいました。

<もちろん「下社」と思います。
上社は吉野川上流の南岸にあって元は丹生神社だったと思われますが、丹生川上神社を名乗る以前は「タカオカミ神社」と呼ばれていました。
中社は吉野川の支流、高見川の北岸にあって元はご存知「蟻通神社」と呼ばれていた神社です。
下社のみが丹生川沿いにあり、この神社こそ天武天皇ゆかりの「丹生川上神社」でしょう。
いずれもこちらが本当の丹生川上神社だと主張(本社争いの歴史がある)していますが、吉野生まれの私は直感的に下社以外にはないと思っています。
「丹生の研究」の松田壽男は下社説ではなかったでしょうか。

kammeerさん、吉野へ行かれたのですね。下市町は吉野川の南岸ですが、北岸は大淀町です。
この大淀町にびっくりするほど立派な図書館が出来ました。
閲覧室は広々として、じっくり本が読め、所蔵本も充実しています。大淀町町舎に隣接。


[1494]  丹生川上はどこ?  [なにがし]  07/21

丹生川上神社の上、中、下社一体どれが本当の川上神社なんでしょうか?
大山源吾氏は下社を押しているようですし、森口奈良吉氏は中社を押しています。上社も遺跡がでたこともあり有力ですので、これは結論でないだろうなと思ってしまいました。


[1493]  出羽の国に行ってきました。  [あかがね]  07/21

 定番お土産みたいなタイトルですみません。
 鳥海山に登って、山形県の式内論社(これが少ない)をまわって、羽黒山と山寺の石段を登りまくってきました。
 さすがに月山と湯殿山に行く体力は残っておりませんでした。
 死ぬまでにもう一度山形を訪れねば・・・。

 ところで皆さん、こういう場合、ご朱印帳のページを開けておいたりしますか?(関係のあるお社の朱印の配列にこだわるとか)
 私はかなり無頓着に時系列にまかせていますが・・・。


[1492]  吉野  [なにがし]  [Url] 07/21

昨日吉野に行って来ました。朝7時00分に和歌山の自宅を車に乗って出発。1時間後には丹生川上神社下社に着いていました。意外と近かったです。途中くねくねと山道を登っていると道間違ってたらどうしよう、というような山の上でした。その後下市図書館へ。始めは図書館が地図上にないなあと思っていたら、観光文化センターが図書館でした。姫路も城郭なんやらセンターが図書館だったんですが、図書館は図書館と名前にもつけてほしいと感じながら、郷土資料のコーナーへ。結構たくさんあって、かつらぎ町の図書館とはケタ違いでした。ここでマルヤ様に教えて頂いた大山源吾氏の「天河への招待」をコピーし、食事に。吉野町の三茶屋煮の茶屋にて薬草弁当を食しました。これがなかなかで、オオバコ、ユキノシタ、朝鮮人参などのてんぷら、赤米のおかゆ、マタタビ、葛餅、くずぶどうなどなど。長芋のとろろは粘りが強くいい芋をつかっていました。都会ではないでしょう。その後急いで丹生川上神社上社へ(中社へ行ったつもりが勘違いで上社に着いてしまいました)。ダム建設のため移転していました。ここでは古代祭祀跡の復元もあり、また丹生川上の神紋は右三巴で丹生都比売神社の三つ巴と反対であることを確認。また、神社の女性の方が、向かいの山頂と下の岩と昔の神社跡地が一直線になるのは何か意味があるようですよ、と教えてくれたのですが、その何かがわからず、いつかもう一度行って見ようと思いました。その後ダム建設の状況も写真にとり、戻って丹生川上神社中社へ行きました。神主さんはなかなかいい方で、いろいろ教えてくれました。ここではお酒「丹生」と「丹生川上神社と森口奈良吉翁」と言う本をget!そして最後に吉野山に登り葛餅と鮎寿司とあまご寿司をget!これでこの日のグルメツアーは完結したのでした。
感想:下社に行ったときはなんでこんな山の上に住んだんやろと思うぐらい山の上で神社の前の川は水量が少なく静かでした。中社はそれとは違いそれほど標高がないように感じました。上社は渓谷のようなところで、水量は一番多いように思いました。三者三様で面白かったです。また各社自分のところが本当の丹生川上神社であると主張していることを知りました。ここでさらに感じたことは、伊都郡もそうですが、後世編纂されて本に書かれた事がのちのちそれが真実かどうかわからないにも関わらず、まるで昔から語られていて真実かのように語られている事です。うわさが真実になるようなもので、その話の真偽を再度検討する必要があると思いました。例えば、伊都では風土記に○○の地が記紀の○○に想定されていると書かれている事が、その地域の人はその記事からその後調べにきた人に、「ここが記紀の○○の地です」とまるで古来から言われていたかの様に話する人が出てきて、おそらく今後そこに行って調べた人はそれを「古老曰く・・・」と理解してしまうのでしょう。人間の言い伝えは非常に大切ですが、その真実かどうかの判断を慎重にする必要があると感じました。昔のサニワのような人がいるといいんですが。あと、吉野の丹生と伊都の丹生は別物のような気がしてきました。丹生都姫の大和系変化と言うのも、実はそんな変化はなく、元から伊都は丹生都姫を祭り、吉野は違う神を祭っていたのでは、ただ同じ水銀(鉱物)の神であったというだけなのではと直感ですが。


[1491]  うるせぇヤツラ  [香具]  07/21

愚拙なアルバムまでリンクして頂いて有難うございます。(T_T)感涙!

whatnew、早速に拝読しました。九頭も奥が深いですね!『波知国』はパキスタン北部あたりになるのでしょうか?よくわかりませんでした。↓にヤッシン国とありました。
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/y-okubo/PakChina0426.htm

波知神社と共に掲載されていた波迦神社の『波迦』ですが、『天の香山の波波迦の木』のことでしょうか?フトマニは・・・知りまへん。

古代の話しではありませんが、四国の『いざなぎ流』の紹介本の中に(結構ミーハーな本読んでます)、山の魔物として『八面王』(ヤツラオウ)という言葉が出てきました。頭が八、尾が八もある大きな蛇の化け物だそうです。そして物部村の山中には八面王の墓なるものがあちこちにあり、それは長さ五間(約9m)もある長い墓とのことです。さらに八面王の墓というのは木地師が持っていた巻物、掛け軸(八面王の絵が描いてある)を埋めたところという伝承です。木地師の守護神みたい。中世に諸信仰が混交したものでしょうか?多頭蛇説話の名残になるのかナ。(新紀元社:いざなぎ流 式王子:斎藤英喜著)

『八面王』を検索していたら『八面大王』に出くわしました。信州・安曇の方はミネラル水しか馴染みがありませんので、詳しくありません。こちらは奈良時代くらいの伝承になりますか?龍蛇とは関係ないみたいですね。盗賊(先住民?)の親分のようで。


[1490]  神社・ちょっといい話  [泊瀬女]  07/21

私が通っている歯医者さんのご夫婦は、結婚して6年こどもに恵まれず、京都の梅宮大社に祈願してめでたく男の子が生まれたのだそうです。その後、女の子も生まれて幸せそうなご家族です。先日、小学校2年生になった男の子と4歳の女の子に会いましたが、とっても可愛いの。特に長男はすごい美少年。「トビタカだね」っていったら、親ばかチャンリンが嬉しそうに笑いました。
知人の息子さんは結婚7年になるのにこどもに恵まれなくて「孫がほしいなあ」との嘆きになにげなく上記の歯医者さんご夫婦の話をしたのが、今年の春先だったと思います。
息子さん夫婦は京都にすっ飛んで行ったそうです。赤ちゃん欲しかったのね。
二・三日前、知人がやってきて「息子夫婦にこどもができたらしい」と嬉しそうに言いました。
泊瀬女は神社大好きだけど、ご利益なんてことあまり考えたことなかったので、私のほうがびっくりしてしまいました。
梅宮大社知ってますか? 松尾大社の前の橋を渡って500メートル位東にあります。
橘氏の氏神様、お酒造りの神様で子授け・安産の神様。普段はひっそりして静かな神社です。橘氏の栄枯を重ねてみても、優しく穏やかな気配が感じられるだけです。
知人は「君に教えてもらった梅宮神社のおかげ」と喜んでいるし、私も嬉しかったのでちょっといい話。


[1489]  何と読むでしょうか?その2  [習志野のてつ]  07/21

1.挨迷   … アメ … 雨
2.阿多多  … オトウト…弟
室町幕府の頃、日明貿易や倭寇対策に、当時の中国で
作られた日本単語集のようなものに書かれていた。では
3.伏陀革一潔は?


フトカイケ つまり 大きい池=湖のこと
倭寇はやはり、九州人が多かったのでしょう。
 ―森浩一対談集「古代技術の復権」
  小学館ライブラリー61  p98― から


[1488]  波知と九頭  [Setoh]  07/20

 神奈備のwhatnewからどうぞ。


[1487]  Re[1486]こりゃ タマヌケ た  [大三元]  07/20

>  「頭」の音読みは一般的には「ズ」ですね。

ありゃありゃ。頭、豆、などは「ヅ」ですよ。


[1486]  Reこりゃ タマヌケ た  [kokoro]  07/20

大三元さん> 「頭」の音は「ヅ」ですので「九頭」は「クヅ」だろう、と読んだのですが。(「葛」は「クス、クズ」ですが)

 「頭」の音読みは一般的には「ズ」ですね。あるいは、何か語の表記と音韻に齟齬があるといった特殊な理由があるのでしょうか。そうした点について、もう少し補足をお願いします。

紋次郎さん> のっけから東西南北の方向を何度かズラして、古代の道路を想定していましたよ。地軸の移動は地方によっても異なるのでは?

 地磁気が変化すると磁北が移動するので、これに着目して条里制の方向からその築造時期を割り出そうとした研究があります。鏡山教授もそうしたことをされようとなさったのでしょうか。そうだとしますと47年前は随分、早いですね。大した方です。

紋次郎さん> そんなことよか、「魂」を抜いてみたら 「ta-クズ(クズ神)」が出てるじゃないすか。

 対馬にはもう一つ、下県郡に多久頭タクツノ神社という式内社もあります。実は、この二つの神社とクズ神社との関連について最初に指摘したのは玄松子さんです。まだ今年の寒い頃のカキコでだったと思います。ただ、僕はこの2っの神社が、クズ族と関係あると言い切る自信はまだありません。
 なお、『玄松子の記憶』にある下記の分析は、たいへん優れたものだと思います。両神社や『対州神社誌』の天道関係の記事も載っていて、ご一読を勧めたいです。
http://www.genbu.net/zatu/zatu003.htm

香具さん> 生田神社と一宮〜四宮神社まで載せました。

 拝見しました。生田神社はすごくいい神社ですね。

setohさん> 『阿遅速雄神社』

 最近、道行と草薙剣について興味を持っていたので、夢中で拝読しました。仲嶋様のコメントで、阿遅速雄神社を介して、土佐大神と草薙剣が結びつけられているのには、思わず唸ってしまいました。すごく深いですね。


[1485]  Re[1483][1482][1477][1476]: クズでも葛は愛された  [Setoh]  07/19

倭投げで天女がひっかかった

羽衣伝説とか天女伝説はインド中国琉球などにもあるようです。
日本では、丹後と近江、駿河、常陸、吉野などの天女伝説が有名です。

八人の天女伝説のあるのは、丹後(と近江、丹後から伝わったとか)、吉野です。他はどうやら一人の天女のようです。(「羽衣伝説の探求」水野祐著より 
www.town.mineyama.kyoto.jp/c_001.htm

式内社の倭文神社の鎮座地と羽衣伝説
丹後  京都府与謝郡野田川町、舞鶴市今田津ノ上
常陸  茨城県那珂郡瓜連町 静神社
駿河  静岡県富士宮市星山
大和  奈良県北葛城郡当麻町
後は
丹波、因幡、伯耆、伊勢、甲斐、上野、但馬

羽衣は絹の紗、倭文や七夕なんかに関係しているのでしょう。
河内の交野にも少年が仙女の羽衣を奪って三年も同棲したとの伝承があります。また此処には機物神社や星田妙見宮が鎮座、七夕祭りにはおおいに賑わいます。

 天つ風 雲のかよひぢ 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとゞめん


[1484]  雷電池  [習志野のてつ]  07/18

地下鉄構内ににポスターがあり調べました。
「雷電池」:何と読むでしょうか?

かみなりでんち・…× カンダチガイケ です。
脚折雨乞神事(すねおりあまごい)、「3tもあり、角もある龍蛇」
アリナミンのポスターですが、大迫力です。
                  
詳しくは下記HPへ(尚文中・今年とあるのは昨年です。)
龍蛇を作成する拠点・白鬚神社の神職の方作成です。
http://www.st.rim.or.jp/~lisa814/


[1483]  Re[1482][1477][1476]: クズでも葛は愛された [大三元]  07/18

> 天吉葛についての大三元さんから、匏(ヨサ)、与謝へに倭をかけてみました。

ははは。与謝ぬか、なんちゃって・・・(^^;)
> 【天羽槌雄命】
が出てくるとは予想しませんでした。 ここで
>(葛下)北葛城郡当麻町 葛木倭文坐天羽雷命神社「天羽雷命」倭文神社の根本社との説あり
> (丹後)舞鶴市今田津 倭文神社
> (丹後)与謝郡野田川町 倭文神社
ということは、天羽槌雄 と 建葉槌(など)が同じ、という意識があるのですね。

シトリ、タケハヅチ、がここ(吉野〜丹後)にもあるのかぁ。有難う御座いました。


[1482]  Re[1477][1476]: クズでも葛は愛された  [Setoh]  07/18

天吉葛についての大三元さんから、匏(ヨサ)、与謝へに倭をかけてみました。

大和の吉野・葛下と丹後

【天羽槌雄命】
(吉野)吉野郡大淀町畑屋 天水分神社「天羽槌雄命」畑屋九龍神宮、八大竜王宮
(葛下)北葛城郡当麻町 葛木倭文坐天羽雷命神社「天羽雷命」倭文神社の根本社との説あり
(丹後)舞鶴市今田津 倭文神社
(丹後)与謝郡野田川町 倭文神社

【井氷神】
(吉野)吉野郡川上村井光 井光神社「井氷神」
(葛下)北葛城郡當麻町長尾 長尾神社「水光姫命、白雲別命(父神)」
(丹後)丹後風土記残欠 http://www.dai3gen.net/tango.htm

【その他】
(丹後)宮津市文殊字宮ノ谷 吉野神社「吉野大神」式内吾野神社の論社


[1479]  言い訳   [香具]  07/17

HP作るまでの・・・と云いながら、gooのフォトアルバムでさぼります。
『神戸市中央区周辺の神社』ひとまず、生田神社と一宮〜四宮神社まで載せました。
http://photo.goo.ne.jp/user/ixtlan
(写真だけですけどネ。)各社とも小さな摂社や背後の山などもありますので、いつかキチンと報告したくは思います。(言うだけで失礼してます)


[1478]  古代太陽の道でつまづいた知られざる人々  [kokoro]  07/17

皆さん、北緯34度32分って何のことかご存じですか? そうです、例の太陽の道のことです。さて、このラインをずっと西にのばすと対馬の真ん中からやや北寄りを通過します。そこでフト、対馬には天道という太陽信仰がある。このライン上に何か天道と関係のある古社はないだろうか≠ニ思い着きました。さっそく調べてみると、式内、天神多久頭魂アマノタクツタマノ神社が対馬の上県郡における天道信仰の中心らしいです。とりあえず、大きな縮尺の日本地図でみたら、ななななななななななななんと! 当社のある佐護の近くをこのラインが通過している感じではあ〜りませんか!! 興奮にふるえる手で、ただちにもっと縮尺の小さな地図を出して調べると、
   ハ・ズ・レ・タ…
世の中、そんな甘くねーんだよ、という感じで神社は10q以上、北にずれていました。うーん、残念。それにしてもこれまで何人もの人たちが同じことを思い付いて、同じことを試みて、同じように悔しがった、という知られざる歴史があったような気がします。妙に感慨深かったのでカキコします。


[1477]  Re[1476]: クズでも葛は愛された  [大三元]  07/16

ヨサツラ:丹後風土記残欠に出てきて意外だったことがあります。
「与佐郡(以下可有脱文)亦、傍に天吉葛が生えている。その匏(ヨサ)を以て、
真名井の水を盛り神饌を調度して進めた。長く大神を奉る。それで、真名井の原、
ヨサの宮と称する也。」
http://www.dai3gen.net/tango.htm

他にも吉野と強い関連のある人名群があり、吉野と丹後の関わりを知りたいと思ってました。


[1476]  クズでも葛は愛された  [Setoh]  07/16

 大阪天満宮に詣りました。本殿真後ろに十二神を祀る摂社群が鎮座、その中に天吉葛神の名を見つけました。この神は南宮大社の摂社とか備前の早瀧比メ神社、松山市の河内神社等に祀られています。
 天吉葛神は、『日本書紀一書(第三)』に「イザナミの命の神退の際に、水神のミツハノメ、土神のハニヤスヒメ、又 天吉葛(アマノヨサツラ)を生む。阿摩能与佐図羅と云う。」と出てきます。岩波文庫の解説によりますと、「ツラは蔓、ここでは葛(カズラ)の意。農耕以前の澱粉採取の重要な材料。」とあります。
 神名の「天」は天津神の意、吉野葛は格上げされた模様です。
 今のところは、それがどうした、と云うお話でした。


[1475]  Re[1470]: 大相撲を見ていて。 [Setoh]  07/16

>  やっぱり相撲って神事なんですね。
法楽、法楽
熊野詣での際に、王子社、とくに大きい五大王子社では、和歌、相撲、素拍子の踊りなどが奉納されました。神仏を楽しませながら歩くのが法楽です。これは神事(かみごと)です。神事とは神様を喜ばす催しです。自分たちが楽しむのではないそうです。また神事の中には色事もあります。神になりかわって楽しむんでしょうね。


[1474]  Re[1471][1466]: クズとクリル  [大三元]  07/16

kokoroさん、色々ご教示有難う御座います。

>  「国津神社は九頭神社・葛神社の文字が示すとおり、クズと読むのが本来的なのである(『名張の歴史』P19)」

「頭」の音は「ヅ」ですので「九頭」は「クヅ」だろう、と読んだのですが。
(「葛」は「クス、クズ」ですが)

>クズという言葉には蔑称のニュアンスが感じられるのです。したがって、その人は、クズ神社という名称を改める必要を強く感じていたのではなかったでしょうか。

調べてみようと思っているのですが、それは「クズ」が「屑」を意味するのは何時頃からなのだろう、ということなんです。「クス」「クズ」という音は「葛」と「楠」と、は古代から意味していますが、他に何を意味していたであろうか、と。クズを屑の意味に使うのが「ナントナク」新しい語感のように思えるものですから。


[1473]  しこふんじゃった  [hin(かよ)]  07/16

野見宿禰の話しは 有名すぎるので、やめまして、
以前書いた、『ダダ』を偉そうにあっぷ。↓
http://homepage2.nifty.com/island2/dada.htm


[1472]   虞や虞や汝はこうしよう  [焼尻紋次郎]  07/16

 きのふの『ほにゃらか』の続きをここにカキコします。「クズ」を音だけで辿ると……です。

 人間の行動半径というものは、長い年をかけると地球の果てまでたどりつく。言語に限らず、文化
一般は地球規模で興っていますので、コトは地球規模でみないと「つばめの子安貝」みたいにウンコ
掴むことになります。
 間宮林蔵が千島アイヌにズバリ「おめぇさんら、なに人か」と、訊いたところ、返ってきた返事は
「おいらシュメレンクルだ」だったのです。だれがどう考えてもこれはシュメールでしょう。「エン
クル」は樺太アイヌの自称「エンチュ−(人間)」をご参照あれ。これ、ほかでは「ウンクル」へ。
 
 高文化の言語風俗が地球規模で拡散されている……は川崎真治さんの論法でしたが、そこへ大きな
波があったので時代区分が可能になるという提示が『ニロ噴文化史観(KB1320)』でした。
 われらは当分のあいだ、ネパール語周辺に釘づけされてもいいのであります。
 で、そのネパール語では KU という音に二つの相反した内意があったのです。一つは日本語でいえ
ばクソやクサレのように「悪い」意味です。SAR は「うごく」ですので KU-SAR とは「悪くなる」
という意味です。また SANG は嗅ぐです。ネパール語 KUTAU は「悪い場所」です。

 ところが、KUMAR(少年神)にも KU がついてら。こりゃクマッタ、クマッタ。
 だが、サラセッセが提示してくれたペルシャ語 KHWUSK(美)がおらの尻をつっ突いた。
 日本語がどのようにしてこの日本列島に統一言語としての座を克ちえたか……は各地に散った金属
精錬士たちの活躍にあったわけですが、この件についてはまた別途項を設けて説明しましょう。
 ネパール語には日本語になった「屑」もありましたが、「愛・賞」の KHWも同居していたので
す。「屑」と言われても、たいしてアタマに来ないだけの神経のネリができていたのではないでしょ
うか。しかも、二千年の時間をかけて……。それはカースト制度に裏打ちされた神経だと言っても良
いのではないでしょうか。

 やっぱ、長くなら。続きは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi でほにゃらか。


[1471]  Re[1466]: クズとクリル  [kokoro]  07/16

 僕の7月4日のカキコ、『国津とクズ2』について、大三元さんにはやや誤解があると思うので、これに答え少し自分のカキコを補足します。

> クズと読むように書かれる国栖とかクヅと読むべきと思われる国津が日本語では異なる音韻なのが「外来語」を写したもの、と理解することで矛盾しなくなるように思われます。

 ここではまず、国栖はクズ、国津はクヅと訓むと思われるが、その音韻上の違いが無視されているというご指摘があり、続いてその矛盾は、国栖と国津は、 kur という「外来語」を写したもの、と理解することで矛盾しなくなる≠ニ理論的な解決方法まで示唆いただいております。クズと kur との関連については、興味深い説だとは感じますが、知識がないので何も言えません。ただ、国津はクヅと訓むと思われる≠フ部分については誤解だと思います。僕も中貞夫氏(『名張の歴史』の著者)も国津をクヅと訓むとは言っておりません。

 「国津神社は九頭神社・葛神社の文字が示すとおり、クズと読むのが本来的なのである(『名張の歴史』P19)」

 国津の訓みはクズなのです。
 その証明として中氏は、御杖神社の古い棟札の表記に、九頭明神≠ニ国津明神≠フ2種類がみられることを指摘しています。僕自身も、都祁村の南之庄と甲岡にある国津神社や紀伊国名草郡の式内社、刺田比古神社と志摩神社の棟札や石灯籠に、やはりこの2種類の表記が見られることを補足しました。これだけの例を揚げることができれば、国津≠ヘ本来、クズと訓んでいたことは明らかです。また、国津神社の現在の訓みはすべてクニツ$_社ですが、これはもちろん、当て字した国津≠ゥら生じたことは説明を待たないでしょう。いずれにせよ国津の訓みはクズかクニツだけです。クヅはありません。また、以上の内容は『国津とクズ2』と完全に重複しています。詳細はそちらをどうぞ。
 ただここで、なぜクズ神社に国津神社≠ニ当て字したのか僕の考えを新たに補足します。クズ→国津という当て字は確かにやや無理があります。大三元さんが問題を感じられたのも、この不自然さに対してだったと推察します。これに対しては、一つの回答は音だけにとらわれてはならない、だと思います。つまりクズという音だけを考えて国津という当て字をみると、クニツや(実際にはなかったものの)クヅという訓みと勘違いされやすく、あまり上手な当て字とはいえません。しかし意味についても注目する必要があるわけです。クズ族の神は国津神だという観念があったのは確実です。したがって、クズ神社のクズに、国津≠ニ当て字するのは意味的には正解となり、音的にやや不自然でも、やはり上手な当て字なのです。しかしながらそのために、国津神社の国津を、クズではなくクニツと勘違いした後世が、祭神もクズ神ではなく大国主命や大国魂神とする混乱が生じました。
 ただ僕はここで、クズに国津と当て字した先人について、いくぶん弁護の必要を感じます。たぶん深読みのしすぎでしょうが、その人はクズに国津と当て字して、初めからクニツ$_社と訓ませる気だったのかも知れません。なぜ彼がそうしたかったかといえば、昨日のカキコでも書きましたが、クズという言葉には蔑称のニュアンスが感じられるのです。したがって、その人は、クズ神社という名称を改める必要を強く感じていたのではなかったでしょうか。
 蛇足ですが、setohさんはよくご存じだと思いますが、宇陀郡大宇陀町嬉河原に屑神社という神社があります。クズ神社のクズ≠ヘさまざまな表記がありますが、これは最もひどい例と思われます。しかも郷土史等をいくら調べても、どうしてこの字を当てたかまったく記事がないのです。そうしたことの解釈は皆さんにお任せしますが、とにかく、クズ族の文化が何らかの暴力にさらされていたことは間違いないと思います。


[1470]  大相撲を見ていて。   [あかがね]  07/15

 しょうもないことですが、土俵の上に屋根がつってますよね。
 あれに千木と鰹木がのっていることに初めて気がつきました。

 やっぱり相撲って神事なんですね。


[1469]  Re[1467]:アイヌとは「挨拶する」が語源 [大三元]  07/15

あなたのなさってるアプローチとはお付き合いできません、ということを柔らかく申し上げてきたのですがね。
また、人の住所氏名をこんなところに書いてしまう料簡がわかりません。ご機嫌よう。さようなら。


[1468]  Re[1465][1422][1406]:国津とクズ2  [Setoh]  07/15

kokoroさん[1465]のカキコの中には神祭りの根源に関するポイントが幾つかあります。
1.クズ神社という神社は祭神に統一性がありません。
2.クズ族の神を祀る神社がクズ神社と呼ばれることもなかった。
3.その祭祀を執り行っていたのは、非常に古い時代を除くと、クズ族とは直接、関係のない人たちだった。クズ族を征服した人たちが、祟りを恐れ、地主神としてクズ神を祀ったのがクズ神社。

 これを受けての印象を述べてみたいと思います。
(1)クズ神社を原始信仰の後裔と考えると、この神社の発生の理由としては、清水のわき出る泉、水源となっている山々や雨をもたらす雷、雷光、これらへの畏敬の念を表すために、それらのアンテナとしての巨木、磐、池の前での祀り、これが神社に発展してきたものととらえるのが素直でしょう。
 要するに、人格神的な祭神があって神社ができたのではなく、その地域の大切な場所で、地域の畏きものを祀ったので、強いて名前を付けるのであれば、「ここに坐す神」。現在の祭神名は後からそれらしい神名を持ってきたと考えることができます。古い神社にのみ言えることです。

(2)従って神社名は元々はその地域に坐す神社だったと考えられます。熊野坐神社、飛鳥坐神社などが延喜式内社の頃まで残っています。もうひとつは、祀る氏族名をつけた場合があろうかと思います。物部神社などですが、氏族名と地域名は鶏と卵の関係もあろうかと思います。
 クズ神社の名前ですが、分布している地域の広さから考えて、王権からクズと呼ばれた人々が祀っていた神社だからそう呼ばれたと見るべきでしょう。おそらくそれ以前には、クズ族の人々は彼らなりの地名で呼んでいたのでしょうが、王権はいちいち区別する必要を認めなかったのでしょう。

(3)一般論ですが、国津神を追いやり、かつ国津神の庇護を受けようとするのが天津神のやりかたで、このケースの典型は出雲国造神賀詞にでてくる「大穴持命が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓う」ことに出てきます。
一体、誰が大神神社を祀ったのかということですが、やはり、神の子孫のオオタタネコを持ってこなくてはおさまっていません。
 同じようにクズ神はクズ民が引き続き祀ったと考えるのがいいのかなと思っています。そうして、地域の繁栄なりを祈らせたのでしょう。それを条件に和解したのかも知れません。

 kokoroさんの緻密なお考えへ、のとりあえずの感想でした。中味が大きいのでまた後日に。


[1467]   アイヌとは「挨拶する」が語源  [焼尻紋次郎]  07/15

 大元帥ニシパ、アイヌ語ばっかし見てたら、そんなふうにならぁな。おら、3年前から、そうならんようにご忠告もうしあげていたはずだがなぁ。

 アイヌ語の“U”は「お互いに」或いは「共に」という意味。AINU が人間としたら「お互い人間」の U-AINU という語形からどうして「尊敬」という意味が出らいしょ。
 クルド語; AYIN(儀礼)ネパール語; AYN(法律)を知れば アイヌ語の U-AINU-AN-NO(恭しく)もおのずと理解できやしょう。

 ところで大元帥ニシパは、いずれにしろ、言語研究のうえでは得難い人物だと思い、20日ほど前に キッタネェ使い古しだが、ネパール語辞典を郵便で発送しました。
 宛先は3年前の記帳で「********** ****様:神奈備が**と修正しました」にしたつもりですが、まだつかないカネ。おらほうに舞い戻った様子もねぇんだがのし。
 着いてなかったら『かむなび』さんには悪いんだが、ここを利用させてもらってその旨報せてください。着いていたんなら、にゃんとかゴエエサツこれあるべし。おたげぇ人間じゃモンネェ〜。
 ウンジュはおエメはちっともくれないし、「『ほにゃらか』においでんせぇ」とほかのご仁からも声がかかっても、ちっとも応答してくれないので、斯かるインフォメとはなりにけり。
 あの本、絶版になりました。ひと目見せたい人は、ほかにもいっぱいいます。


[1466]  クズとクリル  [大三元]  07/15

クズに関してですが、千島列島のことをクリル諸島とも言います。この語源を村山七郎著「アイヌ語の起源」(三一書房)p90-によると、カムチャダルの人たちは、この島々をクシン(クジン)と呼んでいたことから、アイヌ語の kur-sin (人々)であろうと説いています。「アイヌ」という語自体もアイヌ語で「人」の意味で、ainu moshir (アイヌの島/国)という風にも使われます。そこで、クズも kur との関連がないかなぁ、と思ってます。そうすると、クズと読むように書かれる国栖とかクヅと読むべきと思われる国津が日本語では異なる音韻なのが「外来語」を写したもの、と理解することで矛盾しなくなるように思われますが、どんなもんでしょ?


[1465]  Re[1422][1406]: 国津とクズ2   [kokoro]  07/15

setohさん> この意味が分かりにくいんです。和歌山の例でいきますと、『志摩神社の場合、不明となっていた式内社の所在を元和年間(1,615-24年)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志摩神社に定めたと言う。』とあり、クズ神社が志摩神社とされてはいますが、さりとて式内志摩神社の名前が創建時にクズ神社であったとは考えにくいという理解でよろしいのでしょうか?

 スルドイ質問ですね。これはそういう意味です。もっとつっこんで書くべきでした。そこでクズ神社とクズ族について、これまでの調査で受けた感じをもとに、手前味噌ながら少し僕の考えをカキコしてみます。

 総じて僕はクズという言葉が蔑称か、あるいはそれに近いことばであったと考えています。だから、クズ神社をクズ神社≠ニ呼んだのもクズの人たち自身ではなく、彼らの文化に共感のない別系統の人たちだったと思うのです(もちろんクズの人たち℃ゥ身も自分たちをクズと呼んだことはなかったでしょう)。また、3月10日の僕のカキコに載っているクズ神社リストを見れば分かるとおり、クズ神社という神社は祭神に統一性がありません。そこでも書いたことですが、祈雨神らしいとか岩石と関係があるらしいという観念は保たれていたものの、早い時代にクズ神社で祀られている神がどういう神なのか、誰にも分からなくなっていた感じがします。それに、これは調査したときの実感なのですが、郷土史等でクズ神社の沿革を調べていても、ほとんどのものが由緒不明で伝承等が不十分なのです(都祁村南之庄の国津神社は例外です)。
 こうしたことから、僕はクズ神社は地主神として信仰されていたものの、その祭祀を執り行っていたのは、非常に古い時代を除くと、クズ族とは直接、関係のない人たちだった、という気がしてならないのです。つまり、クズ神社はクズ族の末裔の人たちがずっと祀ってきたのではなく、断絶があり、結構、早くから彼らとは違う文化を持つ人たちが祀ってきた、と思うのです。そして、その断絶によりクズ族の文化はかなり昔に失われたという気がします。
 森林について原始林を一次林、一次林が消滅した後に生えたものを二次林と呼ぶようですが、これに習って最初にクズ族がクズ神を祀った信仰を一次信仰とすると、こうしたクズ族とは違う文化を持つ人たちによるクズ信仰は二次信仰となります。ではどうして一次信仰によるクズ族の信仰が廃れ、二次信仰によるクズ神社が生じたのでしょうか? そう考えると僕はどうしてもクズ族を征服した人たちが、祟りを恐れ、地主神としてクズ神を祀ったのがクズ神社なのだ、というストーリーを連想してしまいます。例えば、長野県にある戸隠神社の奥社には九頭龍社という摂社がありますが、そこの祭神の九頭龍は沼地に住んでいた地主神で、戸隠神社の祭神、手力男神が降臨した際、その住地を明け渡したと伝えられています。この伝承は、当該ストーリーによってよく解釈できるでしょう。また武力による征服ほど強い契機でなかったとしても、文化的帰順、人口の激減、混血、忘却等の原因もありえます。
 最初の問題に戻ると、僕は式内社の多くが創祀が古墳時代にさかのぼると考えています。そしてそれくらいさかのぼればクズ族の一次信仰はまだ生きていたと思うのです。したがって、クズ族の神を祀る神社がクズ神社と呼ばれることもなかった、と考えたわけです。現に吉野の国樔の本拠地に鎮座する式内社で、その氏神とされる川上鹿鹽カハカミノカシホノ神社(現在、吉野町南国樔と樫尾に論社2社が鎮座しています)は、クズ神社という名前ではありません。
 ただし、式内社で創祀の頃からクズ神社≠ニ呼ばれた神社はないと思いますが、クズ族が祭祀に関わっていた式内社は、川上鹿塩神社以外にももっとある気がします。例えば7月4日のカキコで紹介した式内社、名居神社と御杖神社は六箇山郷に鎮座し、かって国津神社と呼ばれたことが判明しているので、こうした神社であった可能性があります。特に名居神社は、名張市下比奈知にあった国津神社(現在は名居神社に合祀されています。7月4日の僕のカキコ、『無題』では御杖神社に合祀されていることになっていますが、これは間違えです。スミマセン)を奥の院とする伝承があり、そこには神聖視された岩があることは注目して良いでしょう。また、御杖神社は何となく倭姫命のイメージが強いですが、由緒については意外と分かっていない感じがします。これもクズ族による祭祀が、その源流だったのではないでしょうか。それから全国的にフセ神社という式内社が8社ありますが、これもクズ→クゼ→クセ→フセとの音韻転訛でクズ族と関係がある可能性があります。

 以上、僕がクズ神社についてこれまで調査して感じた早い時代にクズ族の文化は滅んでおり、この神社の信仰は二次信仰ではないか≠ニいう印象を伝えたかったのですが、うまくいったかやや不安です。意見等があれば歓迎します。
 ただし、クズ族の中でも吉野の国樔はここで言っていることが当てはまらないのでやや別の扱いが必要な気がします。というのも、古事記の応神天皇条にある記事から、彼らが大嘗祭の時、服属儀礼で祭儀に参加していたことが分かり、少なくとも八世紀まで自分たちの文化の独立性を保っていたことが判明するからです。
 とはいえそれは大和王権に服属したなかにおける相対的な独立にすぎません。逆に言うと、吉野の国樔は大和王権に服属したから、その文化が滅ぼされないで済んだと思われます。クズ神社の分布をみると現在の奈良県の吉野町だけではなく、宇陀郡の各市町村、天理市、都祁村、桜井市、三重県の美杉村等にまで広く分布しています。つまり、これからいって吉野の国樔は、クズ族の中の一部族にすぎないのです。このうち宇陀郡は神武東征の際、天皇がこの地域の在地勢力から抵抗を受けた物語が記紀にありますから、この地域のクズ族は大和王権に対し従順ではなかったのかもしれません(別に神武東征が史実であったと考えているわけではないですが、物語のもとになった何らかの事実があったと思われます)。いずれにせよ、結局、クズ族で正史に名を残したのは大和王権に帰順した吉野の国樔だけでした。このため、クズ族といえば吉野の国樔が本家本元であるというのが決まり事みたいになっていますが、それは記紀の大和王権中心史観がねつ造したイメージなのです。したがって、その先入観は捨てる必要があります。

 六箇山郷について補足すると、ここは外からの情報が入りづらい地域で、古い文化が残りやすいそうです。ここに数年前、行ったことがあります。名居神社やいくつかの国津神社を見て、赤岩尾神社という柱状節理の奇岩を御神体とした、拝殿だけで本殿のないものすごい神社を見てから、帰る前に比奈知ダムの湛水池にかかる赤岩大橋という橋から、遠く神末の方を望んだ時のことです。そのころはまだ、クズ族のこととかは何も知らなかったのですが、何かほのぼのとした感じと悲哀感が入り交じったような独特な雰囲気を感じて印象的でした。


[1464]  沼沢のめぐみ  [焼尻紋次郎]  07/14

 またミノ・モンチャンの受け売りです。レンコンを大根おろしみたいにして、最低量大さじ一
杯を食べると胃腸が活発に動きだし、夏負け便秘に卓効あり……と。

 つまり、泥濘に生える植物は、乾燥ぎみの土壌に生えるものよりも、はるかにいろんな成分を
豊富にもっているってぇことでしょう。
 じゅんさいなどもナニカに効くと、聞いたことがあります。ヒシの実は九州にしかないので
しょうか? 福島さんち周辺が有名になりました。これはガンに卓効ありと。

 ミズナは滝の飛沫がかかるところに生えています。秋田の人は、本人はミズと言っているつも
りなんだが、なんべん聞き直しても「ミンズ」ときこえる発音をします。
 秋田の阿仁町マタギのシカリ(頭領)が言ってました。「毎年皇室にミズナの実を収めている
んダァ」と。紋次郎旅籠連名にあり。
 
 そうすると、陸稲よりも田んぼで育てるイネのほうが、格段豊富な栄養分を持っているのか
な? そいつを銀シャリにして食っているのだから……、まぁ、しゃぁねぇか。
 ネパール語 ; kamal(蓮)、タミル語,ネパール語 ; camal(米) カマルに足がカマルカネ
/ 遠賀川支流嘉麻(カマ)川。ここはおらのふる里。むかし、海賊の巣窟。

 これからは、稗、黍、粟を結実のまえに田んぼで育てるといいのら。3日間水につけたあと、
5日間水を抜く……。and 品種改良ぞな。

 茅萱の成分は肌や鼻孔からも吸収されていたことにしょうや。だから天然痘にもかからない。
ネパール語; chir- は「くぐる、通り抜ける」……ワッカルカナ?


[1463]  風土記  [なにがし]  [Url] 07/13

1500円なら購入します。15万はやっぱり高いですね。和歌山に帰ったときでも図書館にいってこつこつコピーします。
>setoh様
地元の友達に望月君っていますので、来週会うので聞いてみます。でも兄井じゃなくて川向の妙寺っていうところなんで、諏訪から変わった望月ではないかもしれません。ダメもとで聞いてみます。


[1462]  弁慶伝説  [hin(かよ)]  07/13

日本には 海外からやってきた鉄人伝説が多いですが、
それらは 金属に主題を持ったものが多いです。
そして 一か所、弱点があるというもの。
アキレスやジークフリート、弁慶の泣きどころ。
日本の場合、漂白の徒の鍛冶屋や鋳物師、鉱山を発見する
山伏や修験の徒が伝播に関与したようです。

一番ポピュラーなのが 弁慶伝説で、
全国に分布してますが、
島根県八束郡の伝承には
「弁慶の母は身ごもり、つわりに鉄を好み、
鍬(くわ)を食べた。十丁目の鍬を半分食べたところで
男の子が生まれた。髪はながくたれ、歯は二重に生え、
総身鉄であるが、鍬をすこし食べ残したために、
体の四寸四方だけが人間の膚である」

また、ご承知のとおり、茅の根元から褐鉄鉱は得られますので
小規模製鉄が 茅のある所では 存在したと思っております。
鉄は銅より、熔融点は 高いけれども、叩いて、製品が作れます。
一方、銅は 熔解しなければならないので 意外にも
銅の方が 製品とする場合、大変なのです。


[1461]  無題  [焼尻紋次郎]  07/13

おらが唱えたニロフンはご承引いただけたやろか? 『ニロ噴文化史観(KB1320)』。
 祭りのとき神官さんは洋服ぬいで平安時代の着物に着替えます。神社が建てられた時代の着物がそ
うだったんでしょう。
 世界中の祭り行事には茅萱を着た未開人が出現します。二万年前の人類の衣装は茅萱の束を身に巻
き付けただけだったのです。
 二万年前の人類は山犬を *syuli と呼んでいました。こう呼んでいる対象は大略山犬……ですが、
氏族によってはそれがキツネだったりオオカミだったり、出入りが激しいのです。

 シュマリ(アイヌ語 ; キツネ)の語源へは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で


[1460]  ほにゃなう 2  夏越しの祓い   [Setoh]  07/13

 茅の輪くぐりの起源として有名なのは『備後国風土記』逸文にある蘇民将来の伝説で、北の国の武塔(むとう)の神(素盞嗚尊とされる)が南の海神の娘のところに行く途中、日が暮れた。
そこに二人の兄弟がいた。兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富んでいた。武塔神は先ず弟の所へ行って宿を借りようとしたが断られた。そこで兄の所へ行くと、粟柄で座をつくり、粟飯を食べさせた。
その後、神はお礼にやってきて、子供に茅の輪を腰の上につけておくようにと伝えた。その夜、蘇民将来はの娘一人を残して、みな滅ぼした。
 だから疫病が流行りそうな時には蘇民将来の子孫と言って、茅の輪を腰につけておくと免れる。
 茅の輪を腰につける代わりに茅の輪をくぐって同じ効果を得られるとして、大祓、六月祓の茅の輪の夏越しの神事となったとされている。

 茅萱(ちがや)が何故使われるのか?
 茅萱の根茎は茅根(ぼうこん)、白茅根と言われて、チャイナでは古くから利尿、消炎、止血に使われた仙薬である。エテコがなんぼ歯が強くてもほうれん草代わりに鉄を喰うこたないべぇ。
 大陸江南に「茅山(ぼうざん)}という聖地があるそうだ。『抱牧子』によると、山中で幽霊に出会ったら、茅萱を投げつけると即死するとある。(『日本を彩る道教の謎』高橋徹、千田稔 から)


[1459]  Re[1456]: 無題 風土記  [Setoh]  07/13

まぎらわしいのですが、「平凡社ライブラリー 吉野裕 訳」の『風土記』は古風土記と謂われるもので、和銅六(713)年に撰進の命令があったようです。その後20年後の天平五年に『出雲国風土記』が完成しています。

 『続風土記』とは江戸時代に幕府の命令で編纂されたもので、『紀伊続風土記』は天保十(1839)年に完成しています。
 京都の臨川書店( http://www.rinsen.com/ )から平成2年に復刻版が出ていますが、既に品切れでした。15万円程度。

 紀の国志学館や和歌山市立図書館にはありますが貸し出し禁止になっています。ポチポチとコピーでもとるしかないですね。

諏訪次郎右衛門は建御名方命の生まれ変わりなら面白い!! 
江戸時代の兄井の代々の神官で、元和六(1620)年の火事で記録がなくなったそうです。後に、望月姓に変わっています。


[1458]  だからシロートはこわい  [焼尻紋次郎]  07/13

ならよっちゃん、任国はなんと読むのカネ。和訓があったはず。「マケぐに」とか「マキつくに」の
呼称は見られないかね。/ 福岡県田川郡大任町・和歌山県大塔町。

おらのやぶにらみ「つくば= RUKH・神」のひが目でみると「都賀、ツ毛」の TSU は助詞にあらずし
て、体言の一部……rukh の RU に相当することになる。このへんの感触をほにゃらかアマカネ。
なんで「ケ」「ガ」に野の字をアテたか……も、できたら記入アマカネ。

兄……秋田県阿仁町(マタギの里)・アニアイの地名あり。/ 青森県大鰐町はコンピラでねべし。
神社でトレースできねぇだべか。花岡鉱山・小坂町……金属精錬士が入って古い。 / 秋田物部

あれ、分祀ちゅうのかカンジョウちゅうのか、白木の箱みたいなのを首から下げたら最後、その箱が
予定地に辿りつくまで、誰かが足踏みを続けねばならんのやろ? これインドとまったく変らんよ。
上国、都賀、秋田を見ると昔日の近畿が出る。日本をみると古代インドがみえる。

諏訪〜秩父はどえらい山道だよ。今でもクラッチ盤ひとつがパ〜になる。むかしは5日はかかって、
要員の半分はオオカミから喰いコロされていたはずだ。

風土記なら酔っぱらいのボケ爺ィも少ないだろう。おらも見るべ。中央役人ほどウソつきなのら。

 ことばもが記 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1457]  Re[1456]:「風土記」+親王任国  [習志野のてつ]  07/13

> >諏訪次郎右衛門 > なんか意味ありげな名前ですね。
 いかにもですね。やはり太郎は事代主ですかね?

>「風土記」にはかなりな情報が詰まっているのですね。購入してみたい気
>もしますが高いんでしょうね。
 「風土記」は、私二冊持ってます。一冊は通勤で読みい易い様に分解しま
  した。「平凡社ライブラリー 吉野裕 訳」1500円です。これは
  立読みよりも、買われることをお勧めします。 


『古代、全国に六十数カ所設置された「国」は大国、上国、中国、下国と
等級が分かれた。大国の中でも上総・常陸・上野の3ヶ国は親王(皇族)
の任国とされる。』
自分自身の遺骨を粉砕して散じさせた淳和天皇が、この親王任国を定めた
ことを知りました。

何故この3ヶ国?と考えましたが、よく判りません。
確かに鹿島、香取の両神宮の存在は特殊ですが、上野は?
防人や、蝦夷地への遠征の為の軍事力養成地でしょうか?


[1456]  無題  [なにがし]  07/12

>setoh様
>建御名方命と丹保都姫命が一緒に祀られていると言う発見は興味津々ですが、関連性については一層の詰めが要りますね。ましてや稲荷神との関係などは通り抜けられない迷路に入りこみそうですね。
そうですね。秩父の件はつながりは薄そうですね。いろいろ情報はありそうですがどれも決め手にかけるかもしれませんね。この件はペンディングにしておきます。
>諏訪次郎右衛門
なんか意味ありげな名前ですね。「風土記」にはかなりな情報が詰まっているのですね。購入してみたい気もしますが高いんでしょうね。


[1455]  Re[1451]: お稲荷さん  [Setoh]  07/12

なにがしさん>埼玉県の丹生神社
秩父市寺尾1907に諏訪神社が鎮座、主祭神は建御名方命、八坂刀賣命、事代主命ですが、倉稻魂命、丹保都姫命、四柱の建御名方命などが合祀されています。
 寺尾は共通の地名ですが、地図を見ただけですが、三谷、兄井を思わすような地名は今のところ見あたっていません。
 武蔵丹党が丹保都姫命を祭祀していたと考えていいのでしょう。
 秩父の諏訪神ですが、埼玉県は長野県にも隣接しており、諏訪神の分祀数としては四番目に多い県です。秩父市には23座の神社、このうち諏訪神社が4座あります。他に摂社になっている諏訪神社3座が鎮座しています。
 建御名方命と丹保都姫命が一緒に祀られていると言う発見は興味津々ですが、関連性については一層の詰めが要りますね。ましてや稲荷神との関係などは通り抜けられない迷路に入りこみそうですね。

 丹生酒殿神社の建御名方命ですが、『紀伊続風土記』には、この神名が見えません。逆に明治末期に兄井の諏訪明神を合祀しています。これにより誉田別命、健御名方命が祀られるようになったのでしょう。
 『紀伊続風土記』によりますと、兄井の諏訪次郎右衛門と言う者が諏訪明神境内に仮殿を作り八幡宮と称したとあります。一体何者でしょうね。諏訪氏の流れをくむ人で、諏訪明神の勧請に関係したのかも。
 別に鎌八幡は空海の産土神ゆえ讃岐から高野山から兄井を経由して酒殿にやって来たと『和歌山県神社誌』には記載されています。複騒気味ですね。



日下倭人さん>豊国の旅。岩倉八幡のケベス祭
豊の国には古代史のロマンを感じますね。
ケベスをトウバ、起源や由来は一切不明の火祭り、これもまたロマンをかき立てますね。
ケベスは「蹴火子」または「恵比須」が転訛したとも言われているそうです。
語源を探る人々にご参考まで。
http://www.oec-net.or.jp/~kunimi/kebesu.html
http://www2.pref.oita.jp/14003/yolozu/feature/000620/kunimi/kunimi.html


[1454]  香具さんの洞察力に舌まいた  [焼尻紋次郎]  07/12

 いつも漢字の読み方を質問しているおらだが、ミナシャンに質問してみる。「頷る」を
どう発音しますか? スコブルとちゃうよ。
 これは現代国語辞書、古語辞典、方言辞典、語源辞典(講談社)のどこにも書いてない
よ。だが、おらシッチョル。エライじゃろ? 

 「八つの股を持ってるンならアタマは九つに決まってるじゃないか」と、あれほど言わ
れたのに香具さんはオノレの洞察力と直感に忠実で、ガンとしてがえんじなかった。
 けふ、『竜と蛇』みていたら、次の記述に遭ってアゼンとなりました。
 それは現代のネパールで、クマリ選考のとき、32の条件をクリアーして残った2〜3人
のクマリ候補の女の子は、こんどはシヴァ神を祀るタレジュ寺院の奥へつれてゆかれ、夜
の闇のなかで僧侶たちが行う多くの脅かしに耐えなくてはならない‥‥。『恐ろしい九頭の
竜の頭を持つ椅子に躊躇なく坐ることも要求される』……ってんですよ。

 これで起源探しの場所は、完全にインドかシナへ移ったようでんな。
 香具さん、責任感じて(?)インドなんかへ行ったらあかんよ。
 ガエンジル……語源もわかるでよォ〜。
  来てガエンジンしゃい ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
 
 狩場、犬山、奥津、寺尾、ケベス、などはダボラ含みで海援隊タイ


[1453]  鉱脈は重なる^0^  [hin(かよ)]  07/12

金(かね)があるところには・・の格言のように
鉱脈が重なって分布しているところは多いようで、
京都の賀茂社付近は 各種の鉱脈有り。水晶もあり。

現在の野洲付近も採算はとれないが、
金も埋蔵してるらしい。

私は留学費用、辰砂→空海と思っています。

◆三峯神社・・・『御眷属様(ごけんぞくさま)』
山口民弥氏によると、
・・江戸時代の庶民は、「狼」というような整然とした呼び方はせず、
「山犬(ヤマイヌ)」とよんでいたよう。これが、
俗に言う、山犬信仰であり、・・お犬様信仰。・・正しくはウルフ。
・・・三峯神社は、その昔は農耕の神としての霊験が庶民から
高く評価され、信じられていた。一年間丹精込めて作った田・畑の作物を
収穫時期に一晩で猪や鹿に食い荒されてしまうのは死活問題。
そこで、番犬として守り神として三峯神社の神のお使いの
お犬様ー御眷属様は絶対の守護神だったわけである。

<山岳修験 第24号>

◆海外でも ゾーリンゲンの狼印、
チンギスカンの蒼き狼など
鉄と狼は切っても切れない縁でごぜえます^0^


[1452]  豊国の旅  [日下倭人] [Url] 07/12

 Setohさん、豊国の旅、行って来ました。神社の所在についてはご教示を頂き有難うございました。
 刑事捜査ではありませんが、やはり現場というのはあるものです。五輪塔の変形と思われる国東塔とか、鳥居は笠木のすぐ下にネズミ返しを思わせる丸い石のある宇佐系のものなど、はじめて知ったものでした。

 訪ねた中で良かったのは、薦神社・香春神社・柞原八幡宮など。岩倉八幡のケベス祭の「ケベス」とは何?どなたか教えていただけませんでしょうか。


[1451]  お稲荷さん  [なにがし]  07/12

setoh様の丹生神社一覧の中でお稲荷さんを合祀しているのはざっとみて6社ありました。
話は変わりますが埼玉県秩父市寺尾の丹生神社の祭神の1つに建御名方命を見つけました。丹生酒殿神社で祭られているのですが、寺尾の地名も気になります。酒殿社のある三谷から西に兄井、寺尾とつづき地名が同じ。秩父と言えば丹治。丹治と建御名方と何か関係があるのか?ちょっと気になります。


[1450]  狐  [なにがし]  [Url] 07/12

hin様
>高野山を開くにあたって、許可を得たのが 狩猟の神の狩場明神。眷属(けんぞく)が
山犬です。=狼。いつの間にか、狼が 里に住む狐に置き換えられたのでは?としています。
この件については私見を。空海が許可を得たのは天皇で、狩場明神とは丹生祝氏家系図より、高野山あたりを管理していた丹生家信が空海を高野山に導き密教を「守護」した事により空海から頂いた号です。家信の出は丹治家で、犬山師です。この犬山師が動物の犬を言っているのか、それとも鉱山師を表している犬なのかが問題なのですが、今のところわかりません。動物の犬であるなら犬→狐の変化があるかもしれませんね。数ある丹生神社でお稲荷さんが合祀されているところがどれだけあるか調べる必要があるかも(setoh様の丹生神社一覧へGo)。
ちなみに五来氏は『「銅鉱山」を「お狩場」と言う』と書かれています。ですから狩場明神は銅の神。丹治氏は空海の時代家信の子供武信が武蔵国秩父に配流されています。秩父と言えば銅。つまり、丹治から丹生に養子に来た家信であることを考慮すると狩場明神と銅山とがつながります。この当たりは銅山が多いんですよ。だから、空海は水銀ではなく銅山を求めてきたのではと思っております。もっとも最大の目的は修行の場に最も適したところと言うことになるのでしょうが。即身成仏を考えると水銀も必要なので、高野山に来た目的の1つとは思いますが。ちなみに、丹生都姫神社および丹生酒殿神社ではお稲荷さんは祭っていません。ただし、丹生祝氏自宅にはこの2社で祭られていないお稲荷さんと奥津彦奥津姫が祭られているのがどうしてなのか疑問があるのですが。
以上すべて私のHPの「狩場明神物語」のあらすじになり、物語書く前に結果がばれてしまいますので、このへんでやめときます。さらに詳しくは狩場明神物語にて(すみません宣伝になってしまいました)。


[1449]  いつも偉そうに書いてごめんなさい^0^  [hin(かよ)]  [Url] 07/11

皆さんの方がお詳しくて、声だかに言う事ではありませんが、秦系集団の分布地と水銀鉱床には すべてでは無いにしろかなり深い関係があるようですね。

※注:丹生氏は施朱風習期における朱砂採掘氏族であったが、6世紀中葉に施朱風習が衰退すると、丹生氏の手をはなれ朝廷の直接支配下におかれた。
以後 アマルガム鍍金法が移入され、ここに秦系集団が浮かびあがる。 

ご承知の古代における 鍍金法(めっき)に、水銀を使った、アマルガム鍍金法があります。

東大寺盧遮那仏には、黄金10,436両にたいして水銀58,620両を要したと言われています。

水銀に 金・もしくは銀の薄板小片を入れると、白銀色の化合金・銀アマルガムができ、これを青銅製品に塗布し、摂氏350度以上に加熱すると水銀が気化蒸発。金・銀の薄い被膜が器物に残るというものです。

水銀は硫化第二水銀で、辰砂(朱砂)から生産されました。
この朱砂の採掘や水銀の精錬及び交易に秦系集団が関与していたようです。
横山健一氏は、伊勢水銀の位置や『今昔物語集』が巻二十九に、伊勢国に通い巨富を得た京の水銀商の話しを記すことから、秦大津父が伊勢で商った品目は水銀ではなかったかという見解を発表しているそうです。

さて、深草の富豪、秦大津父が出たので、ついでにお稲荷さんについて 一般向けに偉そうに書いてまとめたものを↓に載せます。
暇だったら 笑ってご覧下さい^0^
http://homepage2.nifty.com/island2/fusimi.htm


[1448]  酢酸  [なにがし]  07/11

焼尻紋次郎様
ご存知のように酸は金属を溶かします。でも、弱酸に分類される酢酸ではそこまでは難しい。ところが、化学反応は温度を上げると促進されますので、恐らくは熱して酢酸で岩を溶かす、あるいはもろくする、ではないでしょうか。もう一つ熱いものを急激に冷やすと割れるのでそれも1つの要因では。
ちなみに鉄が酸化されてサビが発生します。そうなると固い鉄ももろくなります。酢酸はカルボン酸といい、酸素原子を2個もっていますので、高温だと酸化作用が強くなり、岩も酢酸がかかったところはもろくなるのかもしれませんね。


[1447]  カナサゴ の語源と 酢酸  [焼尻紋次郎]  07/11

 アイヌ出身でアイヌ語学者の知里真志保博士は、服部四郎さんから朝鮮語の共同研究を申しこまれて、これを快諾しましたが、心臓病が悪化して果たせないままになりました。
 その知里真志保はアイヌ語の pira(崖)解説にあたって、「朝鮮語のピラ(崖)に関係あるか」と書くところまで来ていたのでした。
 おらが文通していたKさんは、想定されるプロト・アイヌ語で「コンピラとは komke(曲った)pira(崖)だ」と言っていました。komke はネパール語の *ghum(循環・回転)と同根です。
 きのふのカキコで bhir(ネパール語 ; 崖)が bhjir になっていました。訂正です。
 金比羅山には「ご身体は kunbhira というワニの化身である」との言い伝えが残っていて、これが周辺の衆から「海の神様」と崇められているという説がつよいですね。それに従って考えますとbhira はエデン語のビラ(川)でしょうし、kun はシナ語の「くん(君 < 王・神)と同根でしょう。長江にもワニがいるそうですね。
 司馬遼太郎さんの本には、「日本歴史のなかで、いつどのような形で金比羅山みたいな神社が出現したのかは分っていない」とありました。諏訪や成田、神田、秋葉、荒ハバキの成立なども、柱とからめて膨大な楽しみを与えてくれます。

 福島さん、日田にもコンピラさんがあったとは、あがあが。
 小生は日田の語源を考えるとき、「ヒ(干る)tta(処)」とか「フィー(江南語で“魚”)ta(人)」にものすごく惹かれます。やっぱ、天瀬(アマガセ)の嶮の岩が流れを押しとめていて、かなり大きな内陸湖ができていたのではないでしょうか。むかし、湖底だった農地はほかと較べてものすごい収穫があるので、これが階級を生むもとになる……この原理は奈良盆地でも同じです。
 日田が天領に指定された理由のひとつは、これではないでしょうか。日田は紀伊構造線の延長上にあります。そのもちょっと上流がおらの血(両親)のふるさとたい。

 そこでですが……、BC218年ローマを攻めたハンニバルは、案内人から騙されて標高のいちばん高い雪道に入りこみ、崩落したアルプスの道を300mにわたって岩を爆破して道を造りながら進軍
したそうです。
 それは集められるだけの材木を燃やして、岩が十分に熱せられたころ合いにビネガー(食用酢)をかけるというのです。岩に亀裂ができて砕き易くなるそうです。
 そこで山浜さん、酢をかけるというのは、普通の水の場合とは効果はどう違うのでしょうか?
 日本列島で国を造った支配階級は、この「酢をかける技術」を知っていたような気がしてなりません。ヒガナサクとかカナサゴの sak は「裂く」でもありましょうが、酢酸のサクみたいな気がします。
 ハンニバルやフェニキアあたりの記述周辺にはヒルミコ、シラクサ、アエガタなど古代倭人の音韻そっくりな語彙がきらめいています。烈風はシロッコだそうです。
 この関係でのネパール語 sak(できる・可能)suk(乾く)は無視したほうがいいみたいです。


[1446]  『平沼田』 [福島雅彦]  [Url] 07/11

 kammer改め「なにがし」さん!
>…朝鮮語にも通じているのですか。
※貴殿の、古代水稲の立地条件の考え方は、私と完全に一致します!。
朝鮮語は古代史の謎解明に必要欠くべからざるものと考えで、長年勉強していますが、会話は決まり文句が解かる程度です。辞書を検索して、古代倭語の臍の緒を探すうち、何かが見えて来ました。
 
※琴平神社≪金毘羅宮≫は、神社辞典の記載には「ことひら」との検索でしか乗っていません。「社号は金刀比羅神社・琴平神社…大国主神の和魂で大和國の大神神社の祭神でもある大物主神を祀る」…。
※私は、『こんぴら』が、古い呼称で実態を反映したものではないかと、疑っています。
“큰-비탈”(keun-bi-tal)⇒『大きな斜面・急な坂』です。
この地にも隣りの日田市にも『金毘羅宮』は在りますが、どちらも山の北斜面で、冬の積雪と腐葉土の保水力で谷沢には、稲作の期間に必要な給水の立地条件を満たしています。
このような土地を押さえることが、古代の勢力には必要不可欠であった、と容易に想像できます。この『こんぴら』の『ぴら』が『ひらンた』の『ひら』に反映していないか、と思っています。


[1445]  無題  [kammer]  [Url] 07/10

焼尻紋次郎様
ご理解頂きありがとうございます。ところで焼尻紋次郎様はもしかして全国の方言が使えるとか?


[1444]  だべり……「なんかなし」という方言  [焼尻紋次郎] 07/10

 九州々々いうても広ろうござんして、こりゃあっしのカンにござんすが、主にこれを喋
るところは、北九州にござんしょう。なんかなし「なんかなし」をよく遣います。
 意味は「なんとなしに」に似いちゅうが、ちょとちがう。「理由などどうでも、とにか
く(どっとんどっとん)」ということです。
 「どっとんどっとん」という擬音擬態語もこれまた方言で「精力的に」という表現でよ
かろうかと……。

KAMMAR さん……これも精鋭を率いるヒンメル将軍がハンマー持って采配してる印象
を受けて、なかなかサワヤカァ〜〜にござんしたヨ。
 でも「空からぬ〜っと自らの姿を顕わす」たぁ気にいった。「イノチ・からだ」たぁそ
もそもそんなもんで、神社番組にピッタシざんすぜ。


[1443]  Re[1441]: 舎利美術を一堂に  [kammer]  07/10

>習志野のてつ様
> 「某」kammer さん、敢えて 訓読み・ひらがなにされる理由は?
> 改名襲名披露、ひとつお聞かせ下せ〜。(ト書き:ベランメイ調)
kammerは昔使用していたネームで、実はこちらの掲示板にはパソコンを買った当初からこさせて頂いてた関係で使用しておりました。しかし、現在の心境?からすると「なにがし」
の方がピッタリだという事で、こちら以外では「なにがし」を名乗っておりました。
でなぜ「なにがし」かと言いますと、新しいネームを考えても出てこなかったと言うのもありますが、名もなく形無く、存在がありそうでない、「空(くう)」もイメージできるかな、なんて言うことで「なにがし」にしました。訓読みにしたのは漢字で音読みではさみしいので、字数が多くひらがなの方がしっくりくるかなと。まあ、大した理由はないのですが。
なにがしって結構つかわれてるかな、と言う心配はあったのですが、無いようなので安心して使用しております。


[1442]  Re[1436][1434][1431]: 平沼田  [Setoh]  07/10

 那賀の平沼田は江戸時代にもその地名は見えませんが、経度緯度から見ると現在の麻生津大橋の近辺だと思われます。
 麻生津中には九頭神社が鎮座。
ここから東南2kmほどの所に赤沼田(あかぬた)と言う所があります。『紀伊続風土記』によりますと「村中の田地の字に赤田といふあり又黒沼田の森といふあり村名も赤土の沼田の義なり」とありますね。
 実際には狭隘の地のようです。


[1441]  舎利美術を一堂に  [習志野のてつ]  07/10

もうだいぶ前の話題ですが、お釈迦さまの骨:仏舎利が博物館に!

奈良国立博物館の特別展
平成13年7月14日(土)〜9月2日(日)
奈良国立博物館 東・西新館
詳しくは下記
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2001toku/shari/shari-1.htm

「某」kammer さん、敢えて 訓読み・ひらがなにされる理由は?
改名襲名披露、ひとつお聞かせ下せ〜。(ト書き:ベランメイ調)
もちろん「さしつかえなければ」です。
ギリシャ神話の一つ目大男の目に串をさしたNobody(ノーボディー)さん
みたいなイメージでしょうか?


[1440]  垂直と水平…… なにがしか これあらむや [焼尻紋次郎] 07/10

 KAMMER 将軍、さらば、こんにち WA !

 ネパール語 bhjir(崖) / アイヌ語 pir(崖) 日本語 hira(平) / アイヌ語 piru(均す)

 「バカ」と言って、その直後「あれはお利口という意味だよ」と言い添えると、シランもんは本気
になって、そう思い込む。こっちの利口がウイルタ語で阿呆になっていたりして……。
 そこでお利口な人種は垂直と水平の中間をとって「傾斜地」にしてみたり。

 いぶり さや かせだ あにい ごせ にう とーげ むかそい おうご ごもう おおがの
 たるい わからんモノだらけ(尻スギちゃったのネ)ですが、下記でほにゃらかァ〜あるよ。

  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1439]  Re[1437]: 平沼田は続く〜よど〜こま〜で〜も♪ [マルヤ] 07/10

> >福島様
> >『平沼田』⇒「ひらンた」とは、全く九州弁的ですネ!。
> >朝鮮語系統ならば、逆に『坂の多い地形の田』と成るのですが…。
>そう言う意味からするとかつらぎ町の平沼田は朝鮮語に近いのかも。
西吉野村の平沼田も傾斜地です。白銀岳の北斜面にあり、日本語の文字でいう「平沼田」とは程遠く、平地ではなく、沼地でなく、田んぼも棚田が少しだけで、斜面では柿や梨などの果樹が栽培されています。


[1438]  ご報告 [kammer] 07/09

私事都合で名前をkammerより「なにがし」に改名させていただきやす。
今度ともお見知りおきを(清水の次郎長調で)。


[1437]  平沼田は続く〜よど〜こま〜で〜も♪ [kammer] 07/09

>福島様
>『平沼田』⇒「ひらンた」とは、全く九州弁的ですネ!。
そうなんですか!この地は丹生祝氏の本拠地であるとともに、九州にもある竃門神社もあります(大伴氏が神主;祭神は奥津彦奥津姫)。九州との関わりがあるのかも。ちなみに丹生広良氏の本には、丹生氏は九州から来たと推測されておられました。
>朝鮮語系統ならば、逆に『坂の多い地形の田』と成るのですが…。
福島様は朝鮮語にも通じているのですか。ちなみにご存知な地名の真田幸村の住んでいた九度山から西に三谷、兄井、寺尾、平沼田、渋田と続きます。このうち、三谷、兄井、寺尾、平沼田は平地が少なく紀ノ川を渡るとすぐ山という感じです。ご存知の通り用水路なるものが登場するまでは、谷川の水を引かないとなかなか田んぼは作り難い。田なたはそれに適しています。大きい川からは水は引けないのです。そう言う意味からするとかつらぎ町の平沼田は朝鮮語に近いのかも。
>setoh様
>秦氏の行くところ、焼き畑これあり。また稲荷神これあり。
そう言えばかつらぎ町(丹生氏のいたあたり)には焼畑をしていた痕跡があると言う話を聞いた事があります。また、丹生祝氏には稲荷神も祭っていたとか(近代になって祭ったのか、昔から祭っていたのかは分かりませんが、参考程度という事で)。
>大三元様
粉河は粉河寺があり、確か大伴氏が創建した寺だったと思います。かつらぎ町は前述の通り、大伴とも関わりがありそう。西吉野については、丹生酒殿神社縁起に道臣命が丹生川上から来たとの記述があることから、これも大伴氏に関わりがあるかも知れません。問題は山口県美祢市や山陽町のあたり。秋吉台秋芳洞があるように石灰岩などの鉱山?もありますが、この当たりに大伴氏の痕跡があるかですね。運良く私山口県に住んでおりますので調べてみます。


[1436]  Re[1434][1431]: 平沼田 [大三元] 07/09

相変わらず話の流れは掴んでませんが、ひらN_た、という地名のデータです。

読み 地名 都道府県名 市町村名 経度 緯度
ひらにた 平仁田 佐賀 鹿島市 1300600 330100
ひらにた 平似田 長崎 千綿村 1295700 330000
ひらぬた 平沼田 山口 美祢市 1310600 340700
ひらぬた 平沼田 山口 山陽町 1311200 340500
ひらぬまた 平沼田 奈良 西吉野村 1354500 341900
ひらぬまた 平沼田 和歌山 粉河 1352700 341600
ひらのした 平ノ下 秋田 五城目町 1401000 395400
ひらのした 平野下 秋田 矢島町 1400900 391200
ひらのした 平の下 大分 豊後高田 1312800 333200
ひらのた 平ノ田 大分 八坂村 1313300 332500
ひらんた 平田 静岡 本川根町 1381000 350900
ひらんた 平沼田 和歌山 かつらぎ 1352900 341600
ひらんた 平牟田 鹿児島 内之浦村 1310400 311700


[1435]  Re[1430][1427][1424]: 吉野と紀伊 [福島雅彦] [Url] 07/09

> > マルヤ様
> > そうですね。面白いところでは、かつらぎ町の「平沼田」という地名は西吉野村にもあり、地元では「ヒランタ」とよんでいました。
> かつらぎ町の平沼田も「ひらんた」と呼びます。吉野で気になるのは丹治と言う地名。あとマルヤ様のHPで3つの川が合流すると言う記載なっかたですかね。勘違いだったらごめんなさい。三谷は3つの谷があります。2つは合流するが、もう一つは用水路に流れ込んでいます。昔は3つが合流していたかも知れませんね。まるで小吉野といった感じでしょうか。
> 伊都郡には古代朝鮮語と思われる地名が多いと日根輝己著「謎の画像鏡と紀氏」(燃焼社)に書かれています。例えば、いぶり、さや、かせだ、あにい、ごせ、にう、とうげ、むかそい、おうご、ごもう、おおがの、たるいなど。私は朝鮮語を知りませんので、これらの地名が古代朝鮮語に近いかどうかは分かりません。古代といっても何年の話なのか、朝鮮半島の人がこのあたりにいたのか、これだけではなんとも言えません。ただ、朝鮮との交流があった有力な情報と思えます。もしかしたら「ひらんた」も朝鮮語にあるかも知れませんね。

 『平沼田』⇒「ひらンた」とは、全く九州弁的ですネ!。
「ン」とは、九州弁の格助詞「ノ」ではないかと、思いますが…。
其の地名の地形はどのような特徴が在るか、お分かりでしょうか?。
漢字の字面通りなら、『平沼田』⇒山の棚田でなく、平地の田圃。
朝鮮語系統ならば、逆に『坂の多い地形の田』と成るのですが…。


[1431]  平沼田  [大三元] [Url] 07/09

話の流れは掴んでませんが、平沼田、という地名のデータです。

読み   都道府県名 市町村名 経度 緯度
ひらぬた  山口 美祢市     1310600 340700
ひらぬた  山口 山陽町     1311200 340500
ひらぬまた 奈良 西吉野村 1354500 341900
ひらぬまた 和歌山 粉河     1352700 341600
ひらんた  和歌山 かつらぎ 1352900 341600


[1430]  Re[1427][1424]: 吉野と紀伊 [kammer] [Url] 07/08

> マルヤ様
> そうですね。面白いところでは、かつらぎ町の「平沼田」という地名は西吉野村にもあり、地元では「ヒランタ」とよんでいました。
かつらぎ町の平沼田も「ひらんた」と呼びます。吉野で気になるのは丹治と言う地名。あとマルヤ様のHPで3つの川が合流すると言う記載なっかたですかね。勘違いだったらごめんなさい。三谷は3つの谷があります。2つは合流するが、もう一つは用水路に流れ込んでいます。昔は3つが合流していたかも知れませんね。まるで小吉野といった感じでしょうか。
伊都郡には古代朝鮮語と思われる地名が多いと日根輝己著「謎の画像鏡と紀氏」(燃焼社)に書かれています。例えば、いぶり、さや、かせだ、あにい、ごせ、にう、とうげ、むかそい、おうご、ごもう、おおがの、たるいなど。私は朝鮮語を知りませんので、これらの地名が古代朝鮮語に近いかどうかは分かりません。古代といっても何年の話なのか、朝鮮半島の人がこのあたりにいたのか、これだけではなんとも言えません。ただ、朝鮮との交流があった有力な情報と思えます。もしかしたら「ひらんた」も朝鮮語にあるかも知れませんね。


[1429]  Re[1428]:名草戸畔……阿寒湖畔 なんと読むのカネ  [Setoh] 07/08

青春の紋> 名草戸畔
とべ。刀自、主人である婦人のこと。請勿呼ohema

青春の紋> 金剛峰寺は「ぶじ」と発音するんじゃったカネ
然。


[1428]  名草戸畔……阿寒湖畔 なんと読むのカネ  [焼尻紋次郎] [Url] 07/08

 NARKAT は葦という意味で、豊後の中津の語源であり、トよ芦原中津の語源でもありましょう。
 酒よっぱらったボケじじぃのアタマのなかでは、トヨ芦原はちんめぇ葦という柱のなかにあったようです。
 ナ草とは「NARKAT」ならまし。そこへ”酔っ払いじじぃの妄想が“足(葦)切った。
 重要なところです。戸畔はアイヌ語じゃあんめぇし、何と発音してどういう意味か教えて下さい。
 
 ついでに、ウケヒという神事(?)の解説も請け負ってくねんカネ。
 なお金剛峰寺は「ぶじ」と発音するんじゃったカネ、これも教えていたぁ〜(香川方言)。


[1427]  Re[1424]: 吉野と紀伊 [マルヤ] [Url] 07/08

kammerさん
> HP見させて頂いたのですが、吉野付近と伊都郡近辺の地名で似ているところが多いように思えてきました。龍門、長谷、妹山、背山。
そうですね。面白いところでは、かつらぎ町の「平沼田」という地名は西吉野村にもあり、地元では「ヒランタ」とよんでいました。

> ちなみに、吉野って水銀の鉱山より銅山が多くないですか。伊都郡は銅山が多く感じます。空海は水銀ではなく、銅山を目的に高野山に来たのかも知れません。
「丹生の研究」松田壽男著にも出ていたと思いますが、吉野で昭和20年代頃まで操業していたのは水銀鉱山が一箇所のみで、その他はほとんどが銅山のようですね。
白銀岳の銅山は昭和30年位まで細々と操業していたと思います。
黄金岳には古い坑道跡あって、波比売神社の宮司さんによると、昔は金が採れたと聞いているということでした。
櫃ヶ岳では鉱山跡があったという話は知りませんが、頂上付近は今でもいたるところで赤色の土が露出し、赤茶色の石が転がっています。


[1426]  Re[1423]: 真言宗鎌八幡 [Setoh]  07/08

kammerさん>真言宗鎌八幡
鎌八幡の円珠庵は天王寺区玉造本町14番の三光神社の御旅所で、摂社の仁徳天皇社が鎮座しているとのこと。三光神社は昔は姫山神社といったそうです。由緒は「反正天皇の御宇創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。」とあり、紀の国との関係をうかがわせます。
 紀の国との関連では、真田の抜け穴跡とされる史蹟があるように真田山の関係が深く、九度山にいた幸村が武神として建御名方を鎌八幡として勧請していったのかも知れません。

kammerさん>空海は水銀ではなく、銅山を目的に高野山
 高野山の奥の院の摩尼山・[女古]射山(こやさん)などの聖地一帯は、金銀銅水銀その他の鉱石が埋蔵されているそうです。一鉱山師の出した試掘願いが許可されたことがあり、金剛峯寺がその権利を大枚を払って買い戻したそうです。(『山岳宗教史研究叢書 近畿霊山』)から


[1425]  Re[1420]: ♪この〜○ なんの○ きになる○♪  [Setoh]  07/08

習てつちゃん>上棟祭
上棟祭とは「神々に着工以来の神助を感謝し(a、b)無事な竣工(d)と新家屋の永久の繁栄(c)の祈願」と想定して、五神の役割を適当に当てはめてみると
a 産土神
b 屋船久久遅命
c 屋船豊宇気姫命
d 手置帆負命、彦狭知命
となりますね。

習てつちゃん>屋形船を造る技術で、家も造った
こともあるのでしょうが、海を渡ってきた連中は、何が出てくるかわからないので、当面は船で寝泊まりをした名残ではないのでしょうか。今でも香港や大陸の大河にそういう住処があるんでしょう。
青春の紋ちゃんの倭蚤民のライフスタイルではなかったのかね。
蒙古が玄界灘のモズクとなったのも、夜には船に戻ったからだそうですね。

習てつちゃん>久久遅命は草野姫と一緒に、五十猛命と名草に比定される。
名草郡の南に野上と言う処これなり。野神、草野姫に由来かと。千種神社(旧名は百草神社)の祭神は草野姫、また切り刻まれた名草戸畔の足を祀っているとも伝わります。人間の足も斬られればそれが神として祀られるという伝承です。


[1424]   吉野と紀伊  [kammer] [Url] 07/08

マルヤ様
HP見させて頂いたのですが、吉野付近と伊都郡近辺の地名で似ているところが多いように思えてきました。龍門、長谷、妹山、背山。
ちなみに、吉野って水銀の鉱山より銅山が多くないですか。伊都郡は銅山が多く感じます。空海は水銀ではなく、銅山を目的に高野山に来たのかも知れません。


[1423]  真言宗鎌八幡  [kammer]  07/08

setoh様
教えて頂きました天王寺の真言宗鎌八幡に行って来ました。会社の会議が終り、環状線で玉造駅下車徒歩5分でした。小雨ふる中行って来ましたが、なにせ仕事帰りで着いたのが5時過ぎ。すでに門は閉められていました。よって門から覗くと小さな祠があり、その横に鎌がたくさん刺さった木がありました。結構新しいのもありましたので、今でも鎌を打っているようです。門のそばの電柱に寺の紹介の看板があり、江戸時代の創建でした。高野山の巡寺八幡講と関わりがあるかどうかは分かりませんが、今回は下見(時間が遅かったので)だったのでデジカメも持っていきませんでしたので、次回はお昼に行って住職さんに話でも聞こうと思います。


[1422]  Re[1406]: 国津とクズ2  [Setoh] 07/08

 よく言われる南宮三社は以下の通り。
南宮の本山    信濃の諏訪下社
南宮の中の宮   不破の南宮大社(平安時代には仲山金山彦神社)
南宮の稚き児の宮 伊賀の敢国神社(平安時代には敢国津神社とも、末期には南宮、江戸時代には一宮諏方社)
 さて、敢国津神社は伊賀の一宮で、近くの大石明神が祭祀跡と推定されるように、クズ神を祀る上に豪族阿閉臣が祀る、もしくは阿閉の地の、クズ神と言えると思います。阿閉は「アツチ」とも訓まれ、安曇とも言われます。またこの敢国神社は柘植川などの川が合流して木津川となる地点の南側に鎮座しています。木津川もクズ川かも。
 都祁村は木津川沿いではありませんが、都祁村南之庄の国津神社は阿閉郡の国津大明神が遷座してきたと社伝にあるように、【伊賀】→【都祁】の流れが読みとれます。氏神の移動とすれば、クズ族の移動と考えることが出来ます。壬申の乱以後、天武側に付いた総じて東に追われつつあったクズ族が旧地の回復に西へ戻ったのかも知れません。
 また伊賀の敢国神社は、南宮との関連では諏訪神との関連があり、『青銅の神の足跡』にありますようにそれぞれの近くにあると言う青墓から多氏との関連が見えます。【信濃】と【伊賀】は多、安曇ともにつながっており、紀ノ川から櫛田川で出る中央構造線の一つの執着駅が諏訪でもあり、金属を巡る同族のネットワークが出来ていたのでしょう。
 都祁の建御名方神もそのネットワークにのって【信濃】→【都祁】→【布留】と降りてきたのかも。

青春の紋>重層の総称
建御名方神とクズの禎五郎の重層論でやんした。

kokoroさん[1406]>興味深く興奮する内容、ありがとうございます。
>刺田比古神社、志摩神社及びOPQは式内社なので、創祀の頃から国津神社あるいはクズ神社と称していたとは考えにくく、いくぶん保留が必要と思われます。
この意味が分かりにくいんです。和歌山の例でいきますと、『志摩神社の場合、不明となっていた式内社の所在を元和年間(1,615-24年)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志摩神社に定めたと言う。』とあり、クズ神社が志摩神社とされてはいますが、さりとて式内志摩神社の名前が創建時にクズ神社であったとは考えにくいという理解でよろしいのでしょうか?


[1421]  ブミ と フネ のハチャメチャ  [焼尻紋次郎]  07/08

 信濃上田市の駅は「踏み入れ」という字(アザ)に属するのかな? 
 けさからこの地名……とくに「入れ」がワカランで困っていたのですが、習てっチャンがまたまたスバラシイこと書いてくれました。
  BHUMI は土地を意味する BHU と MI(MO MU とも)の二つの合成語だった……までは解っていたのでした。BHUMI の意味がわからなくなったとき、MI に NE(土地)を代入したのでしょう。
 上田駅は川が作った入り江があって、そこが船だまりだった……ことが、わかる。
 これで解釈してみたら、そんな名前の神様が出てくる意味……ワカランやろかね。


[1420]   ♪この〜○ なんの○ きになる○♪  [習志野のてつ]  07/08

上棟祭の時に関わる建築の神さま、五柱の神様の名前を記します。

産土神(うぶすなかみ) 屋船久久遅命(やぶねくくのちみこと)
屋船豊宇気姫命(やぶねとようけびめのみこと) 
手置帆負命(たおきほおひのみこと) 彦狭知命(ひこさしりのみこと)

手置帆負命は「讃岐忌部」の祖と云われる。
彦狭知命は「紀伊の忌部」の祖と云われる。
「忌部」の祖は「天太玉」なら、両柱は兄弟か?また阿波忌部は、
アメリカで云えば海兵隊=上陸用戦闘部隊だと、徳島にいた時古老
から聞いた。一族に舟造りがいてもおかしくはない。

久久遅命は草野姫と一緒に、五十猛命と名草に比定される。
名前の通り、屋形船(やかたぶね)を造る技術で、家も造った?

まあ木の神様なら、上棟式には居てもらった方がいい。
屋船豊宇気姫命は?豊宇気姫で思い付くのは、伊勢外宮。
何故家の神様だか良く判らない。

…墨田川の花火大会、屋形船からは意外と見にくい。…
舟でご馳走でも作ってくれたか?実は久久遅命の嫁さんか?


[1419]  便利で恐ろしい言葉 ; 重層の総称  [焼尻紋次郎]  07/07

 きのふ、サラセッセから教えてもらった諏訪の御柱を巡ってのH.P.を見ていましたら、そのなかに「重層の総称」ということばが書いてありました。
 重層の総称……じつにべんりなことばですね。一種の快刀乱麻……。とくに官僚さんたちには特効薬でしょう。
 だがしかし、諏訪の HP を作った官僚さんも、内心でニカーッと片頬崩しながらこの言葉の使用で“諾”の断を下したのなら、まだしも救われようもありましょうが……、これが10代も20代も続いて官僚の依拠基準とされたと仮想したとき、慄然とした恐怖を覚えます。

 重層の総称とは、あっちの顔も、こっちの顔もたてようとした妥協の集積のことでしょう。
 われわれ現代人は普通約2万の語彙を使いわけながら暮らしています。そしてその一つひとつの概念は2〜3の核となる概念をとり囲むようにして、さながらほうき星のような膨大な概念の
集積体から成っています。
 そのような状況で会議や会話(その場での共通概念の決定作業)がとり行われるとき、へたをしたら(価値観での持ってゆき先を決めてなかったら)最終判断主体は“集団形成(3)の場”に準拠した結論へと無意識裡に流されるのです。
 この『かむなび』の住みごこちがいいのは、席亭・禎五郎が「ここはロマン展開の場だ」と宣言したことにありましょう。
 3での物言いはすぐに個やその個が所属するグループの立場を構築し、人々は言質を取ったり揚げ足をとられたりする関係に追い込まれます。人々の身体は牢屋には入っていないかもしれませんが、意識はハタ目には牢屋入りとおなじ目に遭っているわけです。

 以上は言語の面だけではありませんが、言語面でのケッサクをひとつお目にかけましょう。
 印欧祖語探しが始まったとき、西洋の言語学者は4という数詞を *kwetuor としたのでした。
こんな長い数詞がなんで“祖語”でありえますか。あっちの顔も立てよう、こっちの顔も立てようとして、おしまいにはケツ割った姿でなくってナンでありましょう。
 イザナギ・イザナミの国生み神話では、最初にできた子供はヒルコ(意味は太陽の子)ですが、虚弱かたわ者でした。なんでこんなことをレッキとした国のカキコに残さねばならなかったのでしょう。ここに疑問を持たないご仁はいない筈です。答えは KAMJOR 。

 KAMJOR の続きは ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi にほにゃらか。


[1418]  幾山河でん超えちゃろージャン [焼尻紋次郎]  07/06

 ノコの件、あがあが。おらのボケ記憶だったんかなぁ。たしか、西洋にニワトリのアタマがあったと……、これもボケの勝手思い込みやろか。青年老い易くへへ成り難し。

* ばってん、紋チャン誠実なオトコやろ? クルスといっしょにモンダイになっていたのは、アレ、ミナカタだったっけ? 薙ぎ鎌……「薙ぐ」という動詞の母体なるべし。
  次ぎのおねらはナグサヒメ、草薙でいいんやろか? 所用期間は半年やね。
* 氏族の分割支配に利用されたんやろけどなぁ。やりにくい。
* KHWUSK に美。あが。沖縄のグスクのグは美称といわれてきた。くわし、うるはし。
  印欧祖語には kw- の語形多し。やっぱ、ペルシャ方面ばい、こりゃ。
  まもなくソグド語辞典が着くころかな?

 とまれ、勝利だ! 乾杯!! ……チェッ アラッキ(ショーチュ−のエデン語)だ。


[1417]  Re[1416]: たちまち「だぼらふ記」の威力 アマカネぞな [Setoh]  07/06

紋青年>和歌山県にはなんぼ kurusu
H12.12.13の禎五郎の書き込みから再掲
 紀伊半島では、大小字名で熊野川流域44、紀ノ川15、日置川4など特定地域に集中している。姓は和歌山市93、新宮43、田辺40、白浜30、上富田・本宮18、吉備15と原郷からの人の移動を指摘している。中辺路、大塔、熊野川、那智勝浦、北山などがクルス地名を伝承する町村としている。

「クス」「クズ」「クルス」と名のつく所は美しい景色の所が多い。ついでだがペルシャ語のkhwuskって「美しさ」という意味があるんだとか。
 土蜘蛛、山奥、竪穴、漢字の屑に引っ張られて、「クズ」を変なイメージでとらえないようにしないっと間違いそうだね。

紋青年>最初に木に打ち込むのはノコでした
下記に絵を入れましたのでごらんあれ。諏訪神の遣いは鷺だそうな。右側が鷺の頭、左は蛇。
http://www.kamnavi.net/log/nagigama.jpg (諏訪神社 謎の古代史 清川理一郎)から。
こんなんもあるね。
ホームページ http://www4.ocn.ne.jp/~nakaya24/sikinenkama/sikinennagigama.html


[1416]   たちまち「だぼらふ記」の威力 アマカネぞな  [焼尻紋次郎]  07/06

 神社に限らず……ですが、古いことばは意味がワカランのがフツーです。しかし、ワカランよかワカッたほうがいいに決まってる。そんでもってガムシャラに食らいついていくとき、そのときそのときの良心100%で分析するのですが、やっぱ「ウソついちゃならね」という意
識がかなり判断に作用して、自由奔放な発想の蛇口を狭めていました。

 きのふ、これ以上“クズ”を放っておくわけにも行かず、さりとて自信はない……。そこでテンカンの発想で『だぼらふ記』を構えて書いてみました……ら、アアラふしぎ、あれほど困っていた解釈が、今朝はもう解けているじゃア〜〜リマせんか。
 ミナシャァ〜〜ン、胸貸してくれてあがあが。きのふはキッタネェわらじで踏みまくりやしたが、今朝はああた、天龍の水に晴れ姿ですばい。

 へたでいい。ウソがらみでいい。「書いてみること」です。なも、大ゲンスイ・ニシパ。
それが I.T.掲示板による意識革命のはじめの一歩ならいしょ。
 ミナシャンも「ウソがらみかな?」と思ったときは、「禎五郎だぼらふ記」みてぇにやりなせぇ。翌朝、便秘解消ウケアヒあるね。

 ところでサラセッセ、あのとき、和歌山県にはなんぼ kurusu があったんやったカネ。

  自称クルス、他称クヅ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1415]  Re[1414][1412][1406]: 国津とクズ2  [大三元]  07/06

>書店に届くのを待ちかまえているところです。

ありがとうございます。

>  縄文時代の土偶は指が6本あるようです。指と指の間の線を5本描くと、指が6本になってしまうことを知らなかったのでしょう。

・クズをヤマタと翻案したとして、それが縄文人である必要もない
 記紀編纂までの何時かなんでしょうが。
・縄文人全員が算数ができなかった、と十把一からげもどんなもんか
 発掘されたものだけしか見えてない、という謙虚さを忘れまい
・ピカソの絵なんか、目が顔から外れているけど・・・(笑)
・クズとクヅの音の違いは古くから混乱の例があって、無視してよいのか

なんてことを思いながら拝読してました。


[1414]  Re[1412][1406]: 国津とクズ2  [kokoro]  07/06

大三元さん、始めまして!! 愚カキコに興味を持っていただき光栄です。それからご本の出版おめでとうございます。取るものも取りあえず注文し、現在、書店に届くのを待ちかまえているところです。

> 九頭なら八俣???
 縄文時代の土偶は指が6本あるようです。指と指の間の線を5本描くと、指が6本になってしまうことを知らなかったのでしょう。とすれば、クズの人たちは先住の縄文的生活者≠ニかかなりの後進性≠ニか、僕のカキコで散々に扱われていますが、「九頭=八俣」を理解していたことになり、ご説に従えば、縄文人より算数が得意であったと思われます。

 これからもよろしくお願いします。


[1413]  Re[1409]:続・ピロリ菌  [マルヤ]  [Url] 07/05

> マルヤさん、その後胃の調子はどないだっしゃろ。
紋の伯父貴、ご親切にありがとうさんでござんす。

先の内視鏡と超音波などの検査の結果は、「内臓には特に悪いところは見当たらない」という診断でしたが、さすがに先生を前にして
「こんなん、ピロリ菌のいたずらやァおまへんかァ?」とは聞けませんでした。
胃の調子は相変わらず良くはないのですが、検査や薬で悪くなることも考えられますので、もう気にしないで放っておくことにしました。
でもいいことを教わりました。
「ココア療法」 これはいい。
珈琲代わりに毎日飲むことにします。砂糖やミルクを入れないほうが続けて飲めそうですね。

kammerさん、小生の「モノ語り」 昨夜飲んで帰って(胃がわるいのに?)、半分居眠りしながらアップロードをしかけたものの、途中でやめて寝ました。そんなことで中途半端で変になっていたと思います。今朝改めてやり直しました。
ところでkammerさんの方も、もうすぐですね。楽しみです。

先週の休みは木津川から、敦賀まで北上したかったのですが、湖北で折り返して淡海を一周しました。
「琵琶湖はごっついなあ!」これ実感です。


[1412]  Re[1406]: 国津とクズ2  [大三元]  07/05

kokoroさん、はじめまして。

大変興味深く拝読しております。
九頭なら八俣??? なんか、イイガカリがつけられそうな気がしますね。


[1411]  ああ、ゆで蛸ドタマに風うけて……  [焼尻紋次郎]  07/05

 そーゆーわけで、熱血漢・紋ちゃんはゆで蛸アタマに冷やし風うけながら『ぐだま記』に続けて『ほらふ記』を創設、『クズ』の語源に肉迫しました。

 サラへへ(へへは下北半島方言; 先生)、ネワ−ルの風俗有り難うございます。ア−リア人たちが柱強執を持っていたことはたしかですが、ドラビダ人たちはどないでっしゃろ。
 それから……諏訪湖の御柱まつりのとき、最初に木に打ち込むのはノコでしたぜ。おらテレビで、ハッキリとこの目でみた。ノコの背にオンドリが刻まれていた。
 鎌……とするなら、幕府開設のカマクラへモロにかかわってくる。馬を「メ」と呼んだ連中だ。

 だぼらふ記 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1410]  4拍手について  [山浜Mail]  07/05

摂津国一の宮、住吉大社では、参拝者が、2礼して、素早く2拍手、一礼してさらに素早く2拍手するのを見た覚えがあります。2拍手が連続すると4拍手になることはないでしょうか?


[1409]  続・ピロリ菌 [焼尻紋次郎]  07/05

マルヤさん、その後胃の調子はどないだっしゃろ。
 明治乳業だったか……の、ピロリ菌やっつけるヨーグルトには抗生物質が入っているそうで、「あんましよくねぇなあ」と思っていたのでした。ところがきのふ、ミノ・モンちゃんがテレビで「ココアにピロリ菌をやっつける威力がある」と教えてくれましたので、通報します。
 おらが、こーゆー身体になったは、抗生物質の連用だったのです。
 こーゆー身体……このクソ・アツィにぃ、寝るときゃ電気毛布を上下に焚きこみ、ベッド横でキー叩くときゃ尻の下に電気座ぶとん、そしてコタツに入ってまんのや。

 いま、悪い風邪が流行ってま。おらのガール・フレンドの京子ちゃんは、22日間も風邪グスリのんだので、肝臓やられて入院しました。
 「飽食で運動不足の現代人は高血圧になって、クスリのんで肝臓やられて、肝臓がガンの発生を小さなうちに抑えきれなくなって、ガンになって死ぬの……これが現代人の“もって行かれ”のコースなのヨ」……が、京子ちゃんのくちぐせでした。

 昔はよかった。クスリがなかった。おらっちみてぇなバカはすぐ死んだ。 ケツ・アヂアヂ。


[1408]  Re[1388]: 出雲と宇佐の拍手(四拍)  [習志野のてつMail]  07/05

> 宇佐と出雲は何故 四拍なのでしょうか。
> 四-----死につながるとか 博識の方から聞いた事があります。
 
たまたま出張に持って行って読んでいた本に有りましたので、ご参考まで。

拍手は、「魏誌倭人伝」にもかかれ、古く倭人の風習とされています。また「続日本紀」にも称徳天皇神護景雲元年、八月八日の条に僧侶の拍手が出てくおり、『手を拍(うち)て歓喜すること一に俗人に同じ』と出ています。そもそも饗宴をうたげと呼ぶのは、「拍(うち)上げ」のつづまったもので、列座のものがいっせいに拍手をするからだそうです。「貞観儀式」の践祚大嘗祭・辰の日の条に「物を献ずるに、手を拍つこと四段、段別八度、所謂、八開手(やひらで)なり」とあります。つまり八度拍つのを正式とし、伊勢神宮には今も残るそうです。
   平凡社ライブラリー「神道の成立」高取正男の全くの受け売りでした。
以下は私見です。
物事を略す時、八→四、四→二と半分になり易い。出雲大社の高さもこの例でしょう。拍手(はくしゅ)が誤記されて柏手(かしわで)になり、本来八度打つものが、略されて四度、更に略され二度になったのでしょう。
四=死と云うのは、井沢元彦さんが「週刊ポスト」に書いた「逆説の日本史」で有名になりましたが、私はまちがいだと思ってます。

何かの本に、今通常である『「二礼二拍手一礼」の作法は、明治時代に確立された』と書いたのを見ました。戦後すぐだったか?定かでは有りません。いずれにしても、現在の作法は、古来のものと違うのでしょう。相撲取りが土俵の上で、仕切りのときに打つ拍手が、古来のものに近いのでは?と思ってます。


[1407]  無題  [kammer]  07/05

マルヤ様
気の短い私は早速HPの小説拝見させていただきました。今回は神功皇后、応神天皇の時代なんですね。次回どう展開していくのか楽しみです。


[1406]  国津とクズ2  [kokoro]  07/04

 昨日のカキコ『国津とクズ』の続きです(『無題』になっていますが、名前を入れ忘れました)。中貞夫氏の著書『名張の歴史』にあるクズ族についての記事を紹介します。

 まず筆者は、クズ族について次の『大和志料』にある記事を引用した上で、その生態の説明から説き起こしています。
「国樔。一に国巣・国栖に作る。古、国樔と称する土人ここに居る。因て地名となし、その方面を国樔庄と称す。 <中略> 土石をうがち穴居せるものなり。故に土籠(つちごもり・ツチグモと略称し土蜘蛛の字を用う)、また土巣(くにす・クズと略称し国樔の字を用う)とも称せり(『大和志料』)」
 「これによると、まだ穴居生活の遺習をのこしていたようで、クズの語源も土巣(くにす)という穴居の有様から出ているらしい。とにかく文化的にかなりな後進性がうかがえる(『名張の歴史』上巻P16)」

 続いて『日本書紀』で神武天皇が東征の途次、吉野に巡幸したとき井光イヒカ(吉野の首部の始祖)、磐押分イワオシワクの子(吉野の国樔の始祖)、苞苴担ニエモツの子(阿太の養鵜部の始祖)に出会った条を引用し、「ここには三っのグループが出ているが、そのうち国樔と称するものだけがクズ族ではなく、同じクズ族が吉野地方のあちこちにそれぞれ別の部落をつくり、独自の首長をいだいて割拠していたとみるべきである(同書P16)」とした上で、六箇山郷のクズ族について次のように説いています。
 「このクズ族の一部が、なんらかの事情で東に向かって移動をはじめ、後世の中街道沿いに曽爾村の南端を通って御杖村に出で、神末の地に一応の本拠を定めた。そしてここから更に太郎生川・比奈知川(※これは同じ川のことで、名張盆地に下るとさらに名張川になります)に沿うて下向し、沿岸の太郎生・国津・比奈知の線まで進出して、ここにクズ部落を確立するにいたった。 <中略> そしてこの場合、私たちの想定のもととなっている根拠の一つは他でもない、国津神社の分布なのである(同書P17)」
 なかなか魅力のある仮説です。

 だが何故、国津神社の分布がクズ族の遺跡と考えられるでしょうか?
 「神末の御杖神社も古い棟札には、「国津大明神」の銘があり、またこれはきわめて重大なことなのだが、「上之宮九頭大明神」の銘もあって、国津明神が九頭明神とよばれたことを示している。『大和志料』も「御杖神社。御杖村神末にあり、俗に九頭明神と称す」と、はっきり書いている。だから国津神社イコール九頭神社ということになる(同書P17)」
 補足すると、かって国津神社とも九頭神社とも呼ばれていた、という神社は御杖神社だけではありません。例えば、都祁村の南之庄と甲岡にある二つの国津神社は、江戸期の棟札や記録から、かって九頭大明神と呼ばれたことが判明します。また、紀伊国名草郡の刺田比古神社と志摩神社にも、九頭大明神と国津大明神の棟札や石灯籠が残っているようです(『玄松子の記憶』のそれぞれの神社の項を参照させていただきました)。このような例はもっと調査すれば出てきそうです。ただし、刺田比古神社、志摩神社及びOPQは式内社なので、創祀の頃から国津神社あるいはクズ神社と称していたとは考えにくく、いくぶん保留が必要と思われます。

 続いて筆者は、「敏感な読者なら九頭神社の名称からして早くもクズ族との間に何らかの関係を連想されるに違いない。 <中略> しかし、その結論にたどりつくまで、もうすこし歴史的推理の道を追うことにしよう(同書P17)」として、P19でイズモ族と辺境(クズ)族という概念を用いて、これを論証していますが、やや循環論法に陥っているキライがあり、紹介は省きます。いずれにせよ、クズ神社がクズ族の遺跡である、というのは春からのこの掲示板の流れで了解が得られていると思われるので、ここであらためて論証する必要はないでしょう。

 さらに続いて、@〜Qのもとになった国津神社リストが掲載され、これらの神社の鎮座範囲が、そのまま前述の六箇山郷に該当している点を指摘した上で、このように「六箇山郷が後に一体のものとして把握せられたその背景には、共通の文化・信仰・慣習・風俗等によって結ばれた生活共同体が相当期間つづいたという事実が推論される。そして、この事実を裏面から立証するのが、前述のような、国津神社の特殊な分布である(同書P19)」として、この地域がもともとクズ族の居住地域であり、その伝統が長く残っていた可能性を示唆しています。

 ではどうしてクズ神社は国津神社になってしまったのでしょうか?
 「国津神社の祭神は前述のようにオオナムチノミコト=大国主命となっている。さすれば、これは国つ神≠フ代表であって、もともとイズモ族の始祖神だ。 <中略> だが、私たちの想察によれば、国津神社の祭神をオオナムチノミコトとしたのは後世の付会であって起源的には、クズ族が始祖神として信仰するクズ神をまつったのが初まりなのだ。 <中略> 国津神社は九頭神社・葛神社の文字が示すとおり、クズと読むのが本来的なのである。 <中略> クズ神社に国津の漢字があてられたのが、そもそもまちがいのもとだった。国津と書けばクニツと読むのがしぜんであり、クニツと読む以上、国つ神を連想するのがこれまたしぜんで、すでに国つ神が設定された以上、その代表オオナムチノミコトが登場してくるのは当然だろう(同書P19)」
 つまり、クズ → クニツは音韻転訛なのではなく、クズに国津≠当て字した結果、そのような訓みが生じた、という訳です。それはそれで説得力のある意見に違いないと思いますが、それだけではなく、以下のような文化心理学的問題も考慮すべきでしょう。すなわち、どんな文化も生命力が失われてくると、当然のことながら安易で紋切り型なものへと堕落します。中氏のいうクズ神も江戸期ぐらいになり、クズ族の文化がほとんど摩耗してしまうと、ポピュラーで誰でも知っている国津神の大己貴命=大国主命へと一元化されてしまったのではないでしょうか。

 中氏の本の論旨はだいたい以上のとおりです。下手な紹介で著者のユニークな語り口や情熱が伝わらなかったおそれが強いですから、機会があればご一読をすすめます。

紋次郎さん> 国津はコウヅと発音されたことはありませんか?地元の人々のくちの端に残ってないでしょうか。
 都祁村史、都介野村史、名張市史、名張の歴史、桜井市史等を調べてみましたが、国津神社はクニツ神社としかなっていませんでした。しかしながら、こういう文献資料でクニツと訓がふってあったとしても、実際に現地で地元の方々が声を出しているのを聞くまで断定は控えねばならないでしょう。国津神社がコウズと発音されるのは、僕の直感では、かなりあり得る気がするのです。以前、『常世論』かなにかで谷川健一先生が、三重県上野市の御墓山オハカヤマ古墳について、「現地住民はオーハカヤマと発音している。オウの墓。つまり多氏の遺跡なのだ」と仰っているのを読んで、目からウロコ状態になったことがありました。活字文献上は必ずオハカヤマになっている古墳です。
>発音こそいのちたらめ、諾々です。


[1405]  無題  [kammer]  [Url] 07/04

鎌八幡宮については五来重著「空海の足跡」に結構詳しく書かれています。
五来氏は空海は法体神となり八幡として祭られ、それを高野山の行人達が巡寺八幡講と言う形で30箇所の寺を回していたと言うことです。その宮の2つがが兄井と三谷の鎌八幡宮です。setoh様の天王寺の鎌八幡宮はその1つかもしれません。残りはどこにあるかは私も知らないのですが、非常に興味があります。なにか傾向がでてくるのではと思っています。ちなみに、御神体の熊手は高野山にあったそうですが、神仏分離で高野山に置けなくなり兄井の鎌八幡宮に移され、現在は丹生酒殿神社にあるそうです。
ちなみに、酒殿社の祭神に健御名方命と誉田別命が祭られています(「神奈備にようこそ」の丹生酒殿社を参照)が何か諏訪とつながりがないですかね?勉強不足で神様の名前にはうとくて健御名方命がどんな神様でどこで祭られているかわからないのですが、ただつながりがありそうな気がするんですよね〜。


[1404]  構造線と丹生  [kammer]  07/04

>構造線の片側にクズ神、もう方側に丹生の神社が分布しているのでは、
>筒香、富貴、天野と名だたる丹生神社は南側、
天野について。地元には次の言い伝えがあります。
「丹生都姫は昔紀ノ川沿いの南側の三谷(ご存知丹生酒殿神社のあるところ。奄田村)にいたが、ここでは敵が攻めてきた時に困るので、南側の山頂に登った。そこからは紀ノ川を挟んだ両側が良く見えるので、ここなら攻められても登って来るまでに南に逃げられると言うことでそこに鎮座した。その地が今の天野の地なんやで」
との事でした。古老曰く、なのでどこまで信憑性があるかはわかりませんが、そんな話もあるという事で。ちなみにこの話が本当とすれば紀ノ川の北から敵が攻めてくる事を想定しています。でも敵って誰の事なんでしょう。南は山また山ですから攻めてくる者がないとして、西は親戚筋の紀氏、東は吉野で丹生族がいますから、たしかに攻めてこられるとしたら北側なんですけど。誰が攻めてくる事を想定しているのか気になるところです。誰と特定してないのかもしれませんが。


[1403]  Re[1402]:カタカムナ・レイライン 遺魂12年  [Setoh]  07/04

「紋爺先生」も暗示にかかって、世代交替と来たかね。
ネパールにネワール族がいる。バラモンの英雄神インドラの祭があるそうな。これに柱立て祭りがある。沙羅双樹の柱に幡がつけられる。三日後の祭りの最終日には柱は川に引きずられていく。
現在、神木の伐採前に鎌打ちはしないようだが、往古はやっていたかも知れない。
 諏訪大社の御柱祭りでは選定した木に薙鎌を打ち込みます。これは諏訪神の御神体だそうで、鎌を打ち込むことで木に神を宿させるとのこと。巨木が神木になるそうです。

 和歌山の伊都郡の三谷の西に兄井という所があります。紀伊続風土記には諏訪明神の敷地に鎌八幡が鎮座しているとする神社があります。高野山からこの鎌八幡に供物が来ています。この神社の木にも鎌が打ち込まれています。これが諏訪神故なのか、鎌八幡独自のものなのか、要調査ですが、大阪の天王寺区に契沖旧庵の円珠庵と言うお寺があり、真言宗鎌八幡と名乗っています。ここの木にも鎌が打ち込まれているそうです。諏訪の薙鎌の打ち込みが高野山の麓に伝播して、鎌八幡で流れ出たとも考えることができます。

 巨木は斬られて柱になることで神になるか?
 それとも、御神体を打ち込んで神が宿るのか?
 諏訪の御柱祭りと似たような祭りは出雲、阿波などにあるのか?
 ネワール族のバラモンと真言との関係は如何?

 などなど、どやどや。


[1402]  カタカムナ・レイライン 遺魂12年  [焼尻紋次郎]  07/04

* ここんとこ『YOU-I掲示板』でワンサカ・ワンサカやらかしている α は、K という男のこころの軌跡が参考〜傍証に役立っています。この K はまもなく仲間に加わってくるかと思いますがおらの12歳とし下で、そのいとこが「古墳や遺跡に直線をひっぱった」先覚者です。
* 国津はコウヅと発音されたことはありませんか? 地元の人々のくちの端に残ってないでしょうか。甲斐の国鉄・甲府駅は戦争中、「かふふ」と表記されていました。発音こそいのちたらめ。
* 「命令」とはシナで使い古されたことばだろうか。“令”とはなにか、漢字オンチにアマカネ。
* サラセッセ様、疫病追っぱらう牛頭が活躍する横には馬頭はいないのカネ。このへん GUESS のカンぐりぐりたのんま。
  紋爺まもなく67歳、世代交替ちょと考えるネ。
 マイネ(出雲・津軽弁; ダメ)とマナイなど; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1401]  ミスター・アバウト  [香具]  07/04

石上神宮の東西ライン・・・厳密にいうと、広瀬神社と竜田大社は共に、石上ラインより500mほど南に、住吉大社は1500mほど北になります。大雑把でした。

kokoroさん、国津神社、有難うございます。私も下記のHPを見て、行きたい病が出ています。(まだ手が廻りませんが。働いてる場合ぢゃ無いです?)
三重県名張市国津地区
http://www.e-net.or.jp/user/kunitsu/main.htm
三重県一志郡美杉村太郎生字下切 国津神社
http://www.ztv.ne.jp/maruhati/taro/kunitu.html
http://www.vill.misugi.mie.jp/


[1400]  Re[1397]: 無題  クズ神、構造線、丹生  [Setoh]  07/04

 ハンドル名を「テェタレ」さんと言う構造線にお詳しい方が、構造線の片側にクズ神、もう方側に丹生の神社が分布しているのでは、との指摘をされていました。名張の辺りは北側に当たります。また川上の若宮八幡から丹生大師、吉野方面は南側に当たります。言われてみれば、その通りで、これが紀ノ川へ出ますと、丹生が勧請されて紀ノ川の両岸に分布しているのですが、筒香、富貴、天野と名だたる丹生神社は南側、クズはどっちかと言うと北側か南側か微妙な所ですがね。要細部調査ですね。
構造線についての「テェタレ」さんのメモが下記にありました。
http://www16.u-page.so-net.ne.jp/wb4/tehtale/majour_fault.htm


[1399]  Re[1396]: ちょいと寄り道  [Setoh]  07/04

香具さん>地元の方の御意見

他元の者ですが横から一言主かね。香具さん眼力お見事。

大和郡山市椎木町「素盞嗚命」鎌倉文永年間創建
生駒市安堵町窪田2「素盞嗚命」牛頭天王と呼ばれていたそうな。
生駒市安堵町窪田24「素盞嗚命」1178年創建
大和郡山市小林町「素盞嗚命」
大和郡山市今国府町「素盞嗚命」
橿原市東坊城町「素盞嗚命」
香芝市狐井「素盞嗚命」
香芝市平野「須佐男命、大国主命」
大和高田市蔵之宮町「素盞嗚命」創建不詳、300年前には存在。
大和高田市東中「素盞嗚命」
重複もありますが、他にもありました。

【愚見1】由緒のあるのはわかっている杵築神社から考えると平安末期以降、江戸時代までの勧請のようです。生駒市の一つは牛頭天王であったとあり、厄疫退散の神として勧請されたのでしょう。普通は八坂神社がその役割を担うのですが、杵築神社の目立つ生駒市、天理市などには逆に八坂神社が見あたりませんネ。
【愚見2】出雲大社の呼称は謡曲狂言では出雲の大社として例外的に見えるそうですが、明治になってから出雲大社と正式呼称が決まったそうです。また平安初期から江戸時代には祭神は素盞嗚尊であり、大国主命ではなかったと言います。(以上『日本の神々』7から)
 で、祭神が「素盞嗚命」、呼称が延喜式の『杵築』神社となっているのではないでしょうかネ。
【愚見3】何故、八坂神社から勧請しなかったか、これは下司の勘ぐりですが、都をかっさらっていった京都に鎮座(アンチ東京の心境)、遠い出雲への憧憬(ネパールへ懐く神秘感)、とこじつけられませんでしょうか?。


[1398]  泊瀬女 コマッチャ〜ウ なも  [焼尻紋次郎]  07/04

 ココロさん、どえれぇものみつけはった。秩父に行かれたついでに、群馬県草津温泉ちかくの六合村探訪は不可避になったみてぇ。六合と書いて「くに」と読ませます。
 郷はネパール語 ; ガウ〜(村)がそのまま行政単位に使われていやした。「村」は江戸期から。
 LOK は「この世、地上」の謂い。ミロクは仏教流入以前から入ってきていた。北海道陸別町。ういルタ語、ミルクは沖縄のミルクを写してバケモノ。
 ムコの KO は「○○の」かな? MUK はワカラン。MULUK は「国」ざんす。L は T になり易い。

 ミナシャァ〜ン、泊瀬女ちゃんは「(本気になって)考えてみようかナ」とおっしゃった。
 まだ、「やる」じゃござらんばい。
 泊瀬女ちゃんが二十歳になるまでは、そっとしてあげてくだせぇ。


[1397]  無題  [kokoro]  07/04

 setohさんと香具さんによる都祁村の神社レポを読んだ方なら、都祁村には国津神社という神社がいくつか鎮座していることに気が付いたでしょう。例によって最初に指摘したのはsetohさんでしたが、この国津神社という神社は、クズ族や九頭神社と関係があると思われます。そして、この国津神社について語る際、言い落とすことのできないのが三重県名張市南部から伊那郡美杉村西部及び奈良県宇陀郡御杖村東部にかけての地域です。というのも、setohさんが作成された『クズの神を祀る神社(さらサイト今年の3月にご鎮座)』によれば、全国の国津神社の約半数がこの地域に集中しているからなのです。合祀されたもの等も拾うとそのリストは以下の通りとなります(ただし、AKLOは後述する六箇山郷からはやや外れています)。
(神奈備ホームページの『クズの神を祀る神社』、『名張の歴史』等により作成)。

【現存するもの】
 @國津神社「大己貴命」 名張市滝之原
 A國津神社「大名牟遲神」名張市青蓮寺
 B國津神社「大己貴命、事代主命、蛭子命」名張市上比奈知
 C國津神社「大國主命」 名張市奈垣
 D國津神社「大國主神」 名張市布生
 E國津神社「大己貴命」 名張市長瀬
 F上長瀬國津神社「建速須盞男命」名張市上長瀬
 G國津神社「大國主大神」一志郡美杉村太郎生
【合祀されたもの】
 住所は合祀前のものです。
 H國津神社「不明」名張市下比奈知 ※Qに合祀
 I國津神社「不明」名張市神屋 ※Cに合祀
 J國津神社「不明」名張市布生 ※Dに合祀
 K國津神社「不明」名張市美旗中村 ※美波田神社(名張市新田)に合祀
 L九頭神社「不明」名張市東田原  ※美波田神社(名張市新田)に合祀
【今はないが記録に残るもの】
 M國津神社「不明」名張市上長瀬
 N國津神社「不明」名張市中知山
【以前、国津神社の名前で呼ばれたことのあるもの】
 O乎美祢オミネ神社「素戔嗚尊など諸説あり」名張市桂
 P名居ナイノ神社「大己貴命、少彦名命、天児屋根命」名張市下比奈知
 Q御杖ミツエ神社「久那斗神、八衢比古神、八衢比売神衢」御杖村神末
※ OPQは式内社です。Oは記録により、かって九頭明神という名前だったことが判明。Pは江戸期の棟札により国津大明神≠ニ呼ばれていたことが判明。同じ理由でQは國津大明神≠るいは九頭大明神%凾ニ呼ばれていたことが判明。なお、Hは古来よりPの奥の院として崇敬されており、祭祀面で連続性があったもよう。

 これらの国津神社が分布する地域(名張市下比奈知シモヒナチ、上比奈知、滝之原、奈垣ナガキ、布生フノ、長瀬、美杉村太郎生タロウ、御杖村神末コウズエ等)は、現在では2県3市町村に分かれているものの、中世以前は六箇山ムコヤマ郷と呼ばれ、一つの地域でした(伊賀国で伊勢神宮領)。
 さて、この六箇山郷の国津神社について調査していたところ、国津神社とクズ族について次の示唆的な本を見つけました。
・『名張の歴史』中貞夫著(上巻は昭和35年、下巻は同36年刊)
 国津神社とクズ族のことは上巻の第一編第三章「先住種族」に出てきます。アウトラインを述べると、弥生文化を起こした渡来人にテンソン族、イズモ族、辺境族があり、辺境族とはエゾ、ツチグモ、クズ等のことである。辺境族はイズモ族の亜流で、山で生活しているうちに生活様式が本家のイズモ族と異なってきてしまった一族である。弥生時代の名張地方には盆地部にイズモ族が、六箇山郷には辺境族が居住していた。同郷に鎮座する国津神社郡はクズ族の遺跡である。クズ族とは本拠地である奈良県吉野郡から御杖村の神末越しに侵入してきた辺境族なのだ、というのがその説の骨子です。テンソン族・イズモ族という言葉はいささか観念的ですし、辺境族はイズモ族の亜流と見なすより、先住の縄文的生活者と見なす方が自然な気もしますが、とにかく無類のおもしろさです。以下、本書の記述の順番通りにその内容を紹介します(以下、後日のカキコに続く)。

香具さん> この布留街道沿いでは東を向けば、石上神宮に遥拝することになるのですが、山麓の神宮よりも長滝町の山頂付近が印象的に目に映ります。ちょうど3つの九頭神社が鎮座する山間部です。その向こう側は都祁の高原地帯となります。
 いや〜、いいですね。この感覚。こういうの大好きです。足を運んで同じ光景を目撃しなければ人生を損する、という気持ちになりますよ(笑)。

泊瀬女さん> イイネ、イイネ!
 泊瀬女さんのものであると同時に僕たちのものでもある、そのような願望が実現したとすれば、神社への愛が無媒介的に溢れた奇跡のような書物になってしまうのではないでしょうか。そしてそれを手にしたとき、僕たちはその僥倖への感謝を、筆者達にささげればよいのか、それとも神社そのものにささげればよいのか、きっと迷うことなるでしょう。
 個人的にはフィールドワーク向きにポケットサイズで、ビニール製の丈夫なソフトカバーの付いた本だと嬉しいです。『式内社調査報告』や『日本の神々』は重すぎてしばしば旅行を拷問に変えます。また、新潮文庫に付いているような紐製のブックマークを2〜3本付けるようお願いします。それだけで資料価値倍増です。それから、後ろの方に何ページか白紙ページが付いていて御朱印帳になる、というのもいいかもしれません(←勝手に決めるんじゃねーよ)。
 内容については、setohさんと玄松子さんが筆を執る以上、神の恩寵が約束されているも同然です。しかし、適宜、紋次郎さんの語源分析コーナーの開設、また出雲大社のような縁結びの神様の項での、泊瀬女さんによる恋愛講座コーナーの開設を断固要求します。


[1396]  ちょいと寄り道  [香具]  07/04

紋次郎親分。長滝町の滝、まだ見てないです。次の冬場にトライ予定。
二階堂地区の広さ? 地蔵堂を中心に1km四方でしょうか。佐保川と大和川の合流点まで溯上してきた船から陸に上がり、下ツ道を南北に行くか、山之辺に向い布留街道を東進するか、といった土地だったのではないでしょうか。

  石上神宮の神剣渡御祭で、神田神社にお渡りになる神剣は、六尺程の柄の先に錦の袋に包まれた広鉾のようなスタイルでの行列でした。三国志演義で関羽が振り回しているタイプです。本当の御神宝の神剣がお出ましになるわけでは無かった様です。祭り自体は、早乙女が田植えの所作を行う農耕のお祭りでした。
  石上神宮から西へ歩いたのは、布留町堂之垣内にある厳島神社について、『良因寺の鎮守として勧請されたものであろう』としか判らなかったので、他に徘徊先を求めたのでした。その途中、二階堂地区で気付きましたのは、盆地中央に『杵築神社』という名前の神社が多いナということです。もっとも数でいえば、春日社や天満宮の方が圧倒的に多いのですが。

天理市周辺の杵築神社(たぶん村社クラス?)
   ・大和郡山市 山田町
   ・大和郡山市 馬司町
   ・生駒郡安堵町 窪田(2箇所)
   ・天理市 南六条町 コモイケ
   ・天理市 中町 宮西
   ・天理市 二階堂上ノ庄町 ババワキ
   ・磯城郡 川西町 吐田
   ・磯城郡 三宅町 屏風
   ・磯城郡 三宅町 但馬
   ・磯城郡 田原本町 今里
   ・磯城郡 田原本町 矢部(杵都岐神社)
   ・高市郡 明日香村 小山
地図を眼ン玉スキャンしただけなので、漏れは有ると思います。
杵築といえば出雲大社でしょうか?なぜ『出雲神社』にしなかったのだろう。
地元の方の御意見を伺いたく投稿致します。


[1395]  Re[1392]: 本気で考えてみようか  [Setoh]  07/03

面白い香具東西線>よくワンセットで祭られていた広瀬神社と竜田大社が東西のラインにのっているのは始めて気が付きました。皆さんご存じでしたか?

関帝廟>たまたま訪問し、内部の写真もとれましたので紹介してみました。ただでさえ、霞の中でうごめいている状況、タオの広大・深遠な霞の中は、表面を拾い読みする程度です。
ましてや、書籍出版などまだまだ先のその先のことでありんす。


[1394]  無題  [大三元]  07/03

式内社総数 3132
大だけでも 492
こりゃぁ、ライフワークになりますね>お二人


[1393]  Re[1392]: 本気で考えてみようか  [大三元]  07/03

わお!!! 予約ページのURLを教えてください!!!

気が早すぎる・・・


[1392]   本気で考えてみようか  [泊瀬女]  07/03

香具さんのタワ言、妄想が空想になり。夢は空想しているだけじゃ夢のままだから、実現可能かどうか本気で考えてみようかしらね。
泊瀬女は出版関係の仕事をしているけど、出版のプロデュースや編集実務は無理です。
でもあらゆるコネを利用して・・・努力してみる価値はある。
B5版で右ページに神奈備さんの分かりやすい文章、左ページに玄松子さんの写真とコメント。1社あたり2ページ使って、写真はカラーで1社5〜6枚は掲載する。イイネ、イイネ!
まあ、夢が実現するかどうかちょっと考えてみますワ。
著者2名の承諾も得ずブッ飛び泊瀬女、舞い上がっております。


[1391]   古都の風をニヘ−デービル(あがあが) [焼尻紋次郎」 07/03

 香具さん古都の風をニヘーデービル((沖縄方言 ; ありがと)。だが、わりぃがひねくれ者は別のことを考えたがる。

* このへん一帯がニカイドウらしい。あんがい広域なのだろうか。そして四ツ辻に二階堂地
 蔵たぁめんような。ここは昔日の交通の要衝の地で、通行人を「おまえ、手形持っちょるか、どこんモンか」などと検問した場所でねーだろーか。
  サイの神をおら「吉兆の神」として誤解してきたような気がしてきた。詳しい分析は
 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi に譲るも、ニカイド−は「おおまがとき(夕方)」のダイマナク(大きい目)と解したほうが実情の沿ってるみたい。
 ニカイドーは「 nikay(とても⇒巨大)ド−(瞠目のドー)」で、サイの神は土地を守護する神や親分の権勢(ミ・イツ)がチョン切れる境界線(S・akir ・ 先)におかれて、邪悪の侵入を dos(咎めだて)する神とみるのが本筋だと惟ふ。
  ついつい、童神 ・ 仏教地蔵さんの柔和な顔に騙されかけていた……みたいなような。
  
* 長滝町には滝はないのでしょう? この場合のナガは山らしい。

* 瀬戸内っつぁん、香椎の宮には日本で一番目か二番目に古い楠の巨木があるとききました。
  古いのは何本ありますか? それらはみんな空洞ができていましょうか?
  kas(神 or 材木) i(坐)……かな?


[1390]  Re[1388]: 出雲と宇佐の拍手(四拍)  [玄松子]  07/03

> 宇佐と出雲は何故 四拍なのでしょうか。
> 本当のところはいかがなものでしょう。

宇佐神宮の案内では、「史料がなく、起源は不詳」となっています。
「わからない」というのが本当のところではないでしょうか。


[1389]  布留街道  [香具]  07/03

泊瀬女さま、ちょっと間が開いてしまいました。神社ガイドブックのプロデュースをされてはどうでしょうか、ご検討下さい。(出版に無知なファン、読者Aのタワ言ですが)

さて、仕事の都合で、のりちゃんのオフ会に参加できないストレスを溜めたまま、前日の土曜日に石上神宮の神剣渡御祭を(前半だけ)見学に行きました。その帰りに・・・。

 天理市の石上神宮から真西へ約2.5kmに富堂町村社『岩上神社』があります。ご祭神は「建布都神」、境内社は本殿の両脇に厳島神社、稲荷神社の小祠が。さらに側のミニ小祠は祓戸社かな?本殿地の横に木に囲まれるように春日大明神の石碑がありました。例祭は十月十五日。由緒書には『人皇第八十八代後深草天皇の康元年中(鎌倉時代)に勅あり。布留社を岩上大明神と改書せしめられたり。富堂に大いなる寺院ありて、その鎮守をして布留大明神を勧請せられたるものなり』と書いてあります。拝殿は西向きのため、参拝者は本殿とその延長上にある石上神宮を遥拝できる形になっています。この岩上神社から北東300mほどに例の八剣神社があります。

 さらに当地から西へ約2.5km(石上神宮東西線上)の二階堂南菅田町に『石神神社』と地図に載っていましたので行ってきました。
 その途中に荒蒔町『勝手神社』、二階堂上ノ庄町『杵築神社』があります。勝手神社のご祭神は、天理市史によると『受鬘命(ウズ)で、本殿に籠神社を合祀し、境内社として石上神社、葛神社がある。布留社記録には、九頭大明神・石上大明神・勝手大明神・子守大明神となっている』そうです。境内には石上神宮に向った遥拝所の石碑がありました。その隣りの石灯篭に『龍○講』と彫られていたのですが、真中の字が判明しませんでした。崩し字の書体なのですが『恩』の字に似た漢字だと見えました。『神』では無いのです。興味の湧く信仰跡ではあるのですが。

 二階堂南菅田町の『石神神社』ですが、昭文社の天理市地図にはこの名前で載っていますが、天理市史には見えません。鳥居や石碑などにも神社名がないので、たまたま境内を清掃されていたご夫婦に訊ねたところ、春日さんと厳島さんを祭っているとのこと。神社名は『さあ〜?』と思いだせない様子。天理市史には二階堂北菅田町『春日神社』と記載されているのが、おそらくここだろうと思いました。南北の菅田町の境にあるからです(他に社は見えないし)。本殿のすぐ横に『石上神宮遥拝所』と彫った石碑がありました。この石碑から真東の向き約5kmに石上神宮があることになります。さきの管理人のご好意で本殿地の施錠を開けて中に入れてもらいました。小祠がふたつ並んでいます。春日神社と厳島神社のようでした。

 石神神社(春日神社)から100mほど東に戻ると四辻に『二階堂地蔵堂』があります。昔、この付近に膳夫寺があり、その堂が二階造りに似ていることから二階堂と名付けられたと伝わる、聖徳太子と膳夫姫ゆかりの地だそうです。この地蔵堂の前を通る南北の細い道が、古代の『下ツ道』で今の国道24号線の1ブロック西側です。ここから、東へ延びる道が『布留街道』、今の市道1号線(国道25線より300m北)ということです。地蔵堂から布留街道を東に100m程のところに石上神宮の一の鳥居があったそうです。約5kmの参道!古代は東西線上に乗った、真っ直ぐな街道だったのでしょうが、現在では2km程でコースは曲がってしまいます。

 この布留街道沿いでは東を向けば、石上神宮に遥拝することになるのですが、山麓の神宮よりも長滝町の山頂付近が印象的に目に映ります。ちょうど3つの九頭神社が鎮座する山間部です。その向こう側は都祁の高原地帯となります。

 反対に、この下ツ道からの布留街道をさらに西へ仮想の延長線を伸ばすと、佐保川と大和川の合流点、広瀬神社、JR王寺駅、竜田大社、柏原市高尾山、八尾空港、住吉大社、そして淡路島の岩屋港と想像できます。大神神社の東西線の二番煎じでした。


[1388]  出雲と宇佐の拍手(四拍)  [瀬戸内]  07/03

前略 瀬戸内です。神社に詳しい諸兄におかれては既にご存知の事ですが宇佐と出雲は何故 四拍なのでしょうか。
四-----死につばがるとか 博識の方から聞いた事があります。
 
本当のところはいかがなものでしょう。
ご存知の方 いましたらご教示の程 お願い申し上げます。


[1387]  関帝廟  [玄松子]  07/03

関帝廟が出てきましたね。守備範囲拡大ですか。
道教もなかなか面白い領域ですが、広大・深遠な霞の中ですから大変だ。


[1386]  古事記の神号ですが  [胡蝶]  07/03

Setohさん>
Setohさんどうもありがとうございます。追加ですが、古事記の中でイザナキは「神」「命」「神命」「大神」(この神命がよくわからないんですよ)「大御神」とありアマテラスは基本が「大御神」ですが、全巻の中に三ヶ所「大神」で登場します。そのうち上巻の一つは脱字ではないかと考えられていますが。
後、大神は上巻中に計二十ヶ所。九神に対して使われています。統一性があるかと思って探してはいるんですけどね。なかなかうまくいかないですね。


[1385]  こんばんは〜  [hin(かよ)]  [Url] 07/02

狭手彦さん、鍛冶屋さんて  白鷹幸伯氏ですか?
生意気ですが、紹介ページを自分のHPにアップしています。
よかったら、覗いてね^0^ ただの 写しですけんど・・・

土佐鍛冶、白鷹幸伯氏の自伝、
『鉄、千年のいのち』
http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/honhon.htm


[1384] Re[1382]: はじめまして。  [Setoh]  07/02

胡蝶さん>神様の名前の最後の尊称
胡蝶さん、初めまして。
「尊」、「命」はともに「ミコト」と読みます。これを神号と言います。また高貴な人名にも用いられます。
『日本書紀』では「尊」と「命」を区別しており、皇族の直系上に連なる至貴の神を「尊」、それ以外の神を「命」としています。
『古事記』ではイザナギイザナミは神、命、大御神の三種類の呼び方があります。天照大御神はこの呼び方のみだと思われます。

狭手彦さん>土木技術面、造船技術史面
少し古い本ですが中央公論社の『日本の古代』シリーズにでています。


[1383]  ゴロツキあわせ  [焼尻紋次郎]  07/02

 いま、言語学者たちの、言語周辺事をめぐっての関心事は言語という現象がどのようにして成立しているかの思惟や検証です。日本には古い文献のなかにいろんな意味不明のことばが記載されているのですから、語源解明は言語学者たちの責務だと思えるのですが、いまの言語学者のあいだでは、「語源を研究するなんて時代おくれだと云って嗤われるよ」が常識となっているのです。「時代おくれ」とは“歴史ゼロ”から出発したアメリカの学者が、関心すら持てないということです。
 
 また言語はおらのように、シロートがくちばしを介入し易い領域です。そして語彙を広く世界的に拾うときには、どうしても「語呂合わせ」が不可欠です。これを嗤って「ちはやぶる」などの落語が出現し、「語呂合わせするヤツ = 悪質犯人」みたいな常識がこの社会の底辺に張りめぐらされました。

 しかし、考えてもみてください。われらは語呂合わせしなかったら、一日たりとも生きてゆくことはできないのです。病院などでは名前を呼ばれたひとだけが、みごとに然るべき反応〜対応をやります。われらは目が醒めているときには、常時数十万の語彙群が臨戦体制をとってスタンバイしているのです。その意識はものすごい速さで語呂合わせをやっているのです。

 ところで福島さん「調 > 月 > うさぎ」の割り出しは福島さんなればこそです。オミゴト。
 堀井令以知さんによりますと、ウサギの古語は「ウ・ウサザ」とありますね。パーリ語で兎は sasa です。sait sait (吉兆々々)です。
 オオナムチさんが兎を助けた……も「宇佐の応仁勢(秦氏)をそうさせたのはおいらだぜ」という主張が語呂合わせになっていることでしょう。同じ発音には言霊があるもんねぇ〜。

  ゲゲ・言語 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1382]  はじめまして。   [胡蝶]  07/02

はじめまして、胡蝶と申します。
皆さんにお聞きしたいのですが『古事記』の中で「命」、「神」、「大神」、「大御神」と神様の名前の最後の尊称が色々あって違うのですが、何か決まりがあるのですかね。
もしご存知の方がおられましたら教えてください。


[1381]  Re[1347]: 雲太 NHKスペシャル出雲大社  [狭手彦] 07/02

NHKスペシャル「巨大神殿は実在したのか。古代出雲大社の謎」01/06/23 21:00-21:50を私も見ました。創建の意図や礼拝対象といった人文的面でなく、建築技術工学面からの視点が、私には新鮮でした。登場人物の一人のしら..何とかさんという鍛冶屋さんの顔は、先年台風で損壊した室生寺再建作業の映像でも見た記憶があります。
それにしても48mの高さを希求した意図は何だったのでしょうか。それも丘陵頂でなく沿岸の低地に。宗像とも気比とも気多とも違う拝礼背景があったのでしょうが。
古墳を採用土木技術面から研究している人もいるのでしょうか。
騎馬民族征服王朝説等の朝鮮半島からの移住往来検証を、造船技術史面から考証している人もいるのでしょうか。


[1380] 『狛兎』?  [福島雅彦] [Url] 07/01

 横合いから失礼します。
調(ツキ・ツキノミヤ⇒月)で、兎の狛犬?でしょうか?。
福岡県朝倉郡杷木町の『杷木神社⇒和名鈔=把技郷』にも、『狛兎』が在ります。
 祭神⇒伊弉那諾尊、伊弉冉尊、大己貴命、武甕槌命、由緒 不詳(福岡県神社庁)。
因みに、伊弉那諾尊の禊祓いの地『阿波岐原』⇒『阿・把技原』=杷木町、です。
兎の狛犬は何でしょうかネ?。御存知でしたら、ご教示下さい、お願いします。


[1379]  Re[1376][1375]: どうもすみません、ありがとうございます。 [あかがね]  07/01

> 日吉系の神社では、狛猿、狛鶏がありますよ。生きてるのは珍しいですが。

 そうでしたか。世間は広いですねぇ・・・。
 ところで、今日行ってきた二荒山神社(宇都宮市)には唐獅子ではなく本当に狛“犬”がいるそうです。神宝とのことでお蔵入りのようでしたが。


[1378]  真昼岳の語源が割れました  [焼尻紋次郎]  [Mail] [Url] 07/01

 おらにとって、永年の懸案だった真昼岳の語源がきのふ割れました。
 真昼岳は岩手県花巻市の西40キロ・沢内村役場の西8キロ地点にあります。
 さっそく元沢内村々長の太田祖電先生の『碧祥寺・掲示板(Google)』へ通報しました。

* サラセッセ、旅に出たかとおもうた、いたんカネ。ゴズメズしらんかね。
* 狛犬……コマといえば朝鮮……には短絡を感じます。その奥に童神の komar(a)や、そ
  れから派生した“こまい(小さな)”が咬んでいて、折からのライオン・ブームに吹か
  れたのでは?
* あかがねさん、さいたま市には霊験あらたかな「あなし神社」があります。
  調(この一字でツキノミヤと読ませる)には鳥居がなかったでしょう。租雇調の調(つ
  き < dhuk-)での倉庫が始まりではないか……は「あなし神社」の言い分です。
  
  ことばで国土開発 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1377]  Re[1375]: どうもすみません、ありがとうございます。 [Setoh] 06/30

>  すいません。何気ないひとこと

とんでもございません。発見されたことを調べていくのは勉強になります。
前に、神無月のことで、天照大神も出雲へ赴くのかなと福島さんになにげなく尋ねたことがあります。氏は伊勢神宮にまで問い合わせて下さいましたことがありました。

神社、謎解きおもしろ情報、あつまれば本当に面白いですね。


[1376]  Re[1375]: どうもすみません、ありがとうございます。 [玄松子] 06/30

>  ところでこの間参詣したさいたま市の調(つき)神社は名前からの連想で、狛兎が
> 鎮座していましたが、狛鶏はさすがに珍しいですよね。

日吉系の神社では、狛猿、狛鶏がありますよ。生きてるのは珍しいですが。


[1375]  どうもすみません、ありがとうございます。 [あかがね] 06/30

 すいません。何気ないひとことにそこまでして下さって大変恐縮です。
 そのうち再訪して、運がよければ尋ねてみようと思ってました・・・。
 
 ま、あんまり何事も考えすぎてありがたがったりせずに、聞いてみるほうがよい。
ということもありますね・・・。

 ところでこの間参詣したさいたま市の調(つき)神社は名前からの連想で、狛兎が鎮座していましたが、狛鶏はさすがに珍しいですよね。


[1374]  Re[1346]: 狛犬? [Setoh] 06/30

>  こんなんありなんですかね・・・。

ある方から大井神社について、以下の情報を頂きました。
*大井神社の狛犬ですが、茨城県神社誌なる本を見ましたが、乗っていません。ですのでテレ番を記載しますので、お手数でもご自身でテレして下さい。尚、宮司様は、昼間は多分私立高校へお勤めですので悪しからず、029-229-8206大井神社
狛犬とは、高麗犬とも書いて、字の如く朝鮮より渡来したという説もあり.始め宮殿の装飾調度品の鎮子(おもし)と呼ばれたものが神社に移って変化したものとの説有り。岩手県遠野市常堅寺には河童狛犬があります。以上

大井神社の松本宮司様に電話で問いあわせました。以下報告。
 犬は迷い犬で神社に住み着いたので、狛犬としてそれらしき場所に飼うことにした。
 鶏は犬を飼ってからおいた。神殿の扉を開けるときに出す声は鶏の声、古くからか神祭りと縁があるので置いてみた。さほど深い意味があってのことではない。とのとりあえずのお返事でした。
信じる者は救われ・・・


[1373]  牛のあたま・ゴヅメヅ  [焼尻紋次郎]  06/30

 シッダルタさんのニューメツ(死)はB.C.383 年だそうです。 
 シッダルタさんの骨はモリヤ族の手で 10 ヶに分けられて埋められていたのですが、その 150年後のアショカ王のとき、王の名においてシッダルタさんの骨を掘りおこし、こまかく砕いて、その一片づつをインド全域(数百ヶ所)に建てた“塔”に収めました。

* 日本の国分寺発想の原点はインドのモリヤさんたちにあったようです。この骨分寺建立の風に煽られて、シッダルタさん以前のヨギ修行を中心とした(日本の!)神道勢力も「お宮」を建て始めたのでしょうか。もともと神道の御神体は岩や山や川であって、建築物や植木はなかったはずなんですが……。
* 諏訪のモリヤや物部モリヤとは直結しているはずです。ユダヤにもモリヤがありました。
* 初期では出雲にみるように「お寺・神社」ではなく、インドのように“塔”のスタイルなのが注目されます。その前はただの柱でしょう。

 古い仏教のお経はパーリ語で書いてあるそうです。
 そのあとにはサンスクリット語で書かかれているそうですから、前3世紀ごろにはサンスクリット語という人造語が急ピッチで造成されていたのでしょう。
 小生がけたたましく喋って訴えているネパール語はヒンディー語そっくりで、古い時代のヒンディー語を今に伝えていると言ってよいでしょう。ネパール語とパーリ語はかなり共通語彙をもっています。
 古い文化は隔絶された島嶼や山脈の山ひだに包まれて残る……この現象を「文化のドーナツ化現象」と呼んでいます。
 さて、そこでサリセッセ、お教えアマカネ。
 「ゴズメズ(ゴヅメヅかな?)」ということばを聞いたことがあるのですが、これナンですか。
 「牛頭天王」とは、ちょっとやそっとでは表現できない難しい神様だと『日本の神様読み解き事典』(柏書房)にありました。
 なんで「頭」がこんなにウロチョロするのか。メヅ(梅津さん!)とはナンぞや……。この2点にあがき悶えカネ。「頭」に就いては少し腹案これあり。


[1372]   よか名前 ; 酔っぱらう安房 [焼尻紋次郎]  06/29

 「酔っぱらう安房」……『かむなび』姉妹掲示板に使っているアワヨッチャンの名前です。
 これを最初にみたときには、おらも正直いうて少しふざけがきついかなと、思いました。
 本人も「名前変えようか」とここにも書いたことがあります。

 だが、けふ、判った。こんなフシギな空間に漂うこれまたフシギないのちづら。
 「どうなってんだ、どうなってんだ」のもがきこそ、酔っぱらいじゃんか。真摯じゃんか。
 このもがきがなくなったら、人生おしまいよ。
 だが、もがきのたの人生であってはならぬ。
 ほんま、これでサケのむやつは…… ……ナモ。


[1371]  Re[1368][1363]: 読者A(これから) [大三元]  [Url] 06/29

泊瀬女さん、香具さん、

拙著へのご関心ありがとうございます。
自分の地元の本屋にもないのですが、紀伊国屋とか西武池袋では平積みになっているという知らせが友人からありました。

出版社へ注文されますと送料(\380)が追加になりますので、お近くの書店に注文されるのがよろしいかと。。

今日の朝日夕刊に広告と書評が出るそうです。ご参考に。


[1370]  Re[1368][1363]: 読者A(これから)  [Setoh]  06/29

> setohさんと玄松子さんが共著で本を出したら、すばらしいものができますよ。

玄松子さんはカバー付きの本格的なものができるでしょう。
馬鹿殿様のsetohには過分なお言葉、ありがとうございます。昨日をもって某社の非常識閑散役になりました。ビジネスマンとしては失格、神社巡りではそうならぬように、皆さんについて行きたいと改めて決意しております。

言語双璧>伊豆・出雲
ソシモリの「モ」とイズモの「モ」
「モ」が国なら斎の国などは?子守歌の五木も?・・言語音痴的。


[1369]  Re[1366]: 神奈備は、どこまで発展するのでしょう  [習志野のてつ]  06/29

> 当サイト管理者の瀬藤さんは、勤務形態が変わって、
> 殿様のような生活に入られるそうで、… おめでとうございます。

瀬藤さん、膨大な自由時間の獲得、おめでとうございます。
来日したフランス人小話、窓際族を見て「あの方は会社にどれ程すごい貢献をされたのですか?」働かなくてもいい身分の獲得は、彼らにとって素晴らしいことでした。まあ、今の厳しい景気情勢の日本では、首切りに遭わず残れるのは、やはり素晴らしいことになっ
ているかもしれませんね。
月間の出社日数2日となると、従来の約20日の十分の一。単位時間当りで考えれば、10倍。時間当たり超高額サラリーをセッセと
獲得したことに、再度、おめでとうございます。
とき正に夏越しの大祓い、永年の勤務で知らぬ間に身についた諸々
の罪穢れを禊祓われて、更なる飛躍をされることを祈念いたします。
関東方面の神社にも是非お参り下さい。手始めに上野一宮・貫前神社辺りいかがですか?そばに丹生神社もありますよ。


[1368]  Re[1363]: 読者A(これから) [泊瀬女]  06/28

> 大三元さんのご著書『古代日本史と縄文語の謎に迫る』。

今週はこのご本を探しに毎日本屋さんに通ってしまいました。まだ見つかりません。
明日、本屋さんに出ていなかったら、注文しなくちゃ。
私は本を買うのが(読むのがじゃなくて)趣味なので、めざす本がないと、ついつい別の本を買ってしまいます。今日は「鎮守の森は泣いている」という本を買いました。

> > 紋次郎親分も2作目の出版をめざしてネ。また、setohさんと玄松子さんとの共著で神社のガイドブックが出版されないかナ〜と、妄想もしているこの頃です。

ダイサンセ−イ!。神社関係の本は少ないし、あっても難しいのばかり。分かりやすくて楽しいガイドブックはぜひ欲しいですね。妄想じゃなくて、実現してほしいと切望します。
setohさんと玄松子さんが共著で本を出したら、すばらしいものができますよ。
本を出す時は、香具さんも1項書いてくださいね。


[1367]  感謝  [山浜]  06/28

hin(かよ)さん はじめまして
さっそく、のぞいてみました。
雅楽にはまって間もないため、どんなことでもためになります。ここにも秦氏の影が見え隠れしますね。


[1366]  神奈備は、どこまで発展するのでしょう  [玄松子]  06/28

当サイト管理者の瀬藤さんは、勤務形態が変わって、
殿様のような生活に入られるそうで、
これまで以上に時間を自由にできるようです。
更なる発展が期待できますね。おめでとうございます。


[1365]  でしゃばって、雅楽  [hin(かよ)] [Url] 06/28

たまたま、自分の所属するMLで雅楽と秦氏に関する事をしらべて書いたものがありますので、櫃まぶしじゃなくて、暇つぶしにどうぞ↓
と言っても 本の写しです^0^ なんちゃんて〜〜

http://homepage2.nifty.com/island2/gagaku.htm

それと、雅楽のhpもありますよ→http://www.gagaku.net/


[1364]  なんぞ・なんぞ、なぞなぞ  [焼尻紋次郎]  06/28

 売られたクイズは買わざぁなるめぇ。下へカシぃ換えやしょうぜ。

 ところでサラセッセは明日から足のある身分のまま、大きな大ヒマだとのこってすが、イカガシコヲのミコトかね。
 このごろの日本人は何を聞かせてもビックリしねぇ。だが、岩槻加倉のアレがほんま古墳やったら、ま、ミナシャンでんぐり返るんじゃねーだろーか。おらっちをキャンプ・ベースにしてでんぐりがえしやらんカネ。
 chakura……チャクラなんちゅう音は倭人はキライです。そういえばサクラもさることながらカクラにもなりうる。

 人相は立派な遺跡です。
 おなじ筑豊でも田川郡には美人はいねぇ。しかし、おらがミシンの外交(セールス)やっていたときに、田川郡の「つの村」から来ていた加来(カク)という事務員は美人だった。
 -ra は強調末尾辞なのでカクラのラを脱落させたのかもしれない。

  クイズ問答 の土俵; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1363]  読者A(これから)  [香具]  06/28

大三元さんのご著書『古代日本史と縄文語の謎に迫る』。
神戸の本屋では今日から棚に並びました。さっそく購入、これから読みます。

紋次郎親分も2作目の出版をめざしてネ。また、setohさんと玄松子さんとの共著で神社のガイドブックが出版されないかナ〜と、妄想もしているこの頃です。


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