神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十四年 一月)お名前の敬称は省略しています。

更新 H14.1.31
[2493] ありがとうございます  AKITO 2002/01/31(Thu) 22:01 [Reply]
玄松子様 ありがとうございます。
実際のところまだ「これ」に興味があるといえるところにいません。
「古代史」というのも、「何時代から前をいうのかな?」というレベルです。
「民俗」や「信仰」には今のところ興味があまりないので、
「まずは、近くの神社などから調べてみる」というアドバイスがピッタリとはまるようです。土日にでも奥さんと行ってみようかと思っています。
また、早速「日本の神々」松前 健氏著及び谷川健一氏著を購入しました。
通勤中はこの2冊を読んでみます。
リンク集中の「小出し日本書紀」も全部見てみたいと思っています。
あぁ・・・時間がない・・・

[2492] Re[2489]: 初めまして  玄松子 2002/01/31(Thu) 18:18 [Reply]
> いろいろ知りたい事がありますが、まずは記紀からがいいのでしょうか?
> さいわい通勤途中で本を読む時間が多少とれますので、歴史・神社などの入門書がありましたらご紹介いただけないでしょうか?

古代史なのか、信仰なのか、民俗なのか、神社や歴史の、どのような点に興味を持っているかによって、違ってくると思いますよ。
まずは、好きな神社や祭神について調べてみてはいかがでしょうか。

[2491] ありがとうございます  AKITO 2002/01/31(Thu) 12:30 [Reply]
Setoh様、早速のアドバイスをありがとうございます。
まずは、中公新書 『日本の神々』松前 健氏著 から読んでみようと思います。
初心者なもので、こちらのHPをいろいろ拝見させていただいたのですが、
わからない(というか読めない漢字も多いですし・・・)事がたくさんあります。
本と一緒にゆっくり見てきたいと思っています。
しかし、こちらのHPには本当に感心させられました。


[2490] Re[2489]: 初めまして  Setoh 2002/01/31(Thu) 10:53 [Reply]
 AKITOさん いらっしゃい。
最初に読んだ本って,後々まで印象が強く、引っ張られる気がします。
この機会に皆さんの印象に残っている本を紹介していただければいいですね。
席亭からは神々関係では
中公新書 『日本の神々』松前 健氏著
岩波新書 『日本神話』上田正昭氏著
最近面白かったのは
岩波新書 『日本の神々』谷川健一氏著 でした。
古代史では
中央公論社 『日本の古代』シリーズ 文庫にもなっていますね。

[2489] 初めまして  AKITO 2002/01/31(Thu) 09:52 [Reply]
初めて書き込みします。
下関在住の30代半ば男性です。
いろいろと議論されてあるところに、お邪魔して申し訳ございません。
今まで特に興味もなかったのですが、最近になって歴史・神社などに興味が出てきています。
実際には初詣などでしか神社に行く事はありませんが、時間をつくっていろいろ訪れてみたいと思っています。
いろいろ知りたい事がありますが、まずは記紀からがいいのでしょうか?
さいわい通勤途中で本を読む時間が多少とれますので、歴史・神社などの入門書がありましたらご紹介いただけないでしょうか?

[2487] Re[2479]: 無題 弁才天  Setoh 2002/01/30(Wed) 18:41 [Reply]
 弁才天とは難しいお話ですね。
 インドの河川に梵語で sarasvati と言うのがあるそうで,この河を神格化したものだそうです。
 昔の日本では水神が重視されて蛇の姿に観念されたようで,それは仏教側で弁才天に,所によってはクズ・九頭竜としてとらえられました。弁才天が著しくなったのは平安中期以降だそうです。江ノ島の場合には源頼朝が藤原秀衡調伏のための勧請です。

市杵島比売神の本地仏(室町時代)
丹生都比売神社 弁才天
宗像大社 薬師如来
厳島神社 大日如来 
竹生島 弁才天(鎌倉) 釈迦(室町) この島の祭神は浅井姫だったのですが,本地仏から市杵島比売神が祀られるようになったとかで,逆転の発想ですね。

[2486] Re[2485][2482]: 賀茂神社  Setoh 2002/01/30(Wed) 14:00 [Reply]
 玄松子さんアドバイスありがとうございます。ある方はこの掲示板を見てメールをくれているのではなく,小生がアドバイスがほしい問題(大抵の問題はそうですが・・)の内、そう言う方がおられる際に掲示板の内容の概略を添えて問い合わせをさせて頂いています。
 ご質問がございましたら,取り次がせて頂きます。

[2485] Re[2482]: 賀茂神社  玄松子 2002/01/30(Wed) 12:06 [Reply]
> 高鴨神社ゆかりの方から次の趣旨のメールをいただきました。(第二報)

メールが使用できる環境にあって、掲示板への投稿ができない(しない)というのはどういうことなのでしょうか。これだと、質問もやりにくいですね。

また、「高鴨神社ゆかりの方」という紹介のしかたは誤解をまねくかもしれません。ある方」で良いのではないでしょうか。

[2484] Re[2482][2477][2458]: 賀茂神社  香具 [Mail] 2002/01/30(Wed) 09:09 [Reply]
そうだったのですか! 『高鴨神社ゆかりの方』様、setoh様、有難うございます。
たいへん勉強になりました。何の予備知識もなくフラフラと歩き回った処でしたが、こうして皆さんからご教示いただきますと、掲示板に投稿してよかったナァ〜と思います。ひとりきりでは、ここまで目が開かないものですね。

[2483] Re[2481]: 丹生祝本系帳も  Setoh 2002/01/30(Wed) 08:44 [Reply]
 マルヤさんの「やさか掲示板」に記します。
 http://www.journey-k.com/cgi-bin/mbs/mbspro-2/bbs.cgi?room=maruya88


[2482] Re[2477][2458]: 賀茂神社  Setoh 2002/01/30(Wed) 08:06 [Reply]
高鴨神社ゆかりの方から次の趣旨のメールをいただきました。(第二報)

京都北区大森は地形的に見ると、平安京遷都直後に開かれた高尾の神護寺の上流に小野朝臣家が開拓した別業の小野郷あり。その上流というところですから、全国の式内社がほぼ確定した平安初期にはあてはまらないという感じです。
位置関係から見ると、賀茂禰宜・賀茂県主も高鴨神社の祭祀に使節を派遣していた中世までに、風水などの知識のある者が神聖視して賀茂社領に入れたのでしょう。

したがって、式内社(墜川御上神社)は小野郷(ここには岩戸落葉神社の論社あり)か、そこから笠峠を経て、桂川上流に開けた山国地区に所在を求めるべきでしょう。
ちなみに式内社はむやみにあるわけではなくて、公地公民制度の建て前で国家が豪族から土地を取り上げたので、地域の祭祀を維持する経緯から生まれた代償制度なのです。したがって式内社は元豪族の領地だった国衙領にあるのが普通で、中世の荘園付近にあるものは本宮の位置から遷移したものや分祀社が多いはずです。

 (  )は神奈備の注。

[2481] 丹生祝本系帳も  なにがし [Url] 2002/01/29(Tue) 19:46 [Reply]
setoh様
>同時代の記録と思われる文書に一切出てこないのが実に不思議です。・・・
もし違ったら申し訳ないのですが、「空海自身と狩場明神(高野明神)との関係」について、これ私は「狩場明神の伝説にあるような空海と狩場明神の出会いなど」と思って書かせて頂いてたのですが、setoh様は「狩場明神が地主神になるほど空海と関係があったのか」という意味の関係ですか?

私見で言いますと、前者は証明不能。ただし、地元の神主ですから、村長的な立場だったのではと思われます。ですから、地元の協力を得るために空海と丹生氏との間で画策し伝説のような巫祝に丹生明神が神がかって神託すると言った一大イベントをしたのではと思っています。これに近い事は他にもありますし。
後者については、私は狩場明神という名は先日カキコしましたように称号であり、戒名みたいなものだと思っています。ですから狩場明神の名前で空海の生きている時代に高野山に祭られた可能性はないとは言いませんが、かなり低いのではと思います。どうして、高野山の僧が丹生都姫よりよく祭っているのか気になるところですが。

偽書について、丹生祝本系帳はどこまで本当かと言う疑問はありますが、後半の部分はほぼ偽作と思います。なぜなら、丹生総神主家の家系図とは符合しにくいところがあるからです。ただ後世の作であれば実在の人物の名前を書くと思うのですが、そうではないところが、もしかしたら800年ごろの作というのは正しいのかもと思わせる所です。信用できにくい古文書だと思います。
しかし、丹生氏の家系図が公になった今でも、堂々と家系図大辞典のような本に、丹生氏の家系図とはかけ離れた家系図を書かれておられる方もおられますが。丹生総神主家の家系図について調べておられるのは五来氏(2488の書き込みにより中田法寿氏のこと:神奈備挿入)だけだと思います。丹生総神主家の家系図は火災でなくなり、若尾五雄氏が同族の竃門氏を調べた時には家系を示すものはなかったと著書で書かれておりますので、もしかしたら今となっては丹生総神主家家系図の原本は存在しないのかも知れませんね。それが偽書だったのかどうかは今となっては分からないのかも知れません。

[2480] 無題  雄一 2002/01/29(Tue) 19:21 [Reply]
推測ですが、参考までに載せておきます。
九頭龍神はイザナミ命であり、女神で月神(水神)だと推測されます。
黒竜(不動明王別名は倶梨伽羅竜王)はイザナギ命であり、男神で日神(火神)です。
神明宮に祀られていたのは、本来は上記の二神であつたと思っています。
ひふみさんの参考になるでしょうか?
五間伽羅倶神社は(ごけんどうからくじんじゃ)と呼びます。間違っていたので訂正
します。すいません

[2479] 無題  ひふみ 2002/01/29(Tue) 18:31 [Reply]
April様、ありがとうございます。色々な見方、参考になります。

ところで、あれからやはり気になって、琵琶湖の近江八幡にある「沖島」に関して調べてみました。(調べたといっても、電話で聞いただけなのですが。。)
沖島は、ちょうど淡路島でいえば、イザナギ神宮のあたりになります。
祭神で考えると、多賀大社がぴったりなのですが、地理的に見た場合の位置があまりに合致するので、気になっていたのです。
結果、沖島にも、神社がありました。「奥津島神社」といいます。祭神は、もちろん奥津島比売命です。
今、地図上で記載されているのは、対岸の「宮の浜」の裏にある山上にある奥津島神社だけなのですが、そこは里宮のようなもので、沖島の方に奥津島神社の元宮にあたる岩屋があるそうです。
古代には、近江八幡の集落より山を越え、宮の浜より対岸の岩屋、奥津島神社を拝んだのだろうという事です。宮の浜のあたりには湖底遺跡があるとかで、和同開珎等、古代貨幣もたくさん見つかっているそうです。
問合せた方(たまたま、奥津島神社の宮司様でした)が、教えてくださるには、三女神の内、沖島より琵琶湖を隔てての対岸にある高島町にある白鬚神社(琵琶湖の厳島と言われているそうで、サルタヒコ神が祭られていますよね。伊勢を天照大神に譲られた後、晩年ここで過ごされたとか。)に、末の多岐都比売命が、竹生島には市寸島比売命が、それぞれ降臨し、祭られたという事です。
位置関係はぴんと来ないのですが、白鬚神社の鳥居が湖中にあるのを考えると、古代にはなにかそのあたりにあったのかなと、勘繰ったりして。
今の沖島の住民は、源氏の落人の末裔だそうです。
琵琶湖は、まだ行った事がないので、いつか行くのが楽しみです。

そういえば、淡路島をアワチ、琵琶湖近江をアワミとしてみると、面白いですね。
ちなみに、沖島とイザナギ神宮を結ぶと、その中間には、役の行者が祭った日本最古の弁財天がある箕面滝があり、又、竹生島のあたりに淡路島ではオノゴロ神社があったりで、関係があるようなないような。
江ノ島の弁財天縁起によると、海中の火山爆発と共に弁才天が出現したらしいですし、それはまるでカグツチ命を産んだ時のイザナミ命のようでもあり、興味深いです。
江ノ島も、その元宮は岩屋でした。
又、密教における、八本の手を持ち、戦と呪詛の女神の一面も持つ弁財天像も、黄泉の国で八雷神に守られているイザナミ命の姿と重なるのも、考えすぎでしょうか。
日本における弁財天とは、いったい何を表わしたものなのか。水の神としてのみ、あるのでしょうか。(深読みしすぎ?)
戸隠の九頭龍神も、九頭龍弁才天です。去年、表に出された中社の弁財天はそうではないのですが、奥社に本来祭られていた立像の九頭龍弁才天は、憤怒の相をしていた覚えがあります。


[2478] Re[2473]: 丹生と爾保  Setoh 2002/01/29(Tue) 12:40 [Reply]
> 丹生都姫と爾保都姫が同じと見れるのか?という疑問があります。これについては手がかりがなく、全く分かりません。
小生は素直に『風土記』『住吉大社神代紀』を手がかりと思っています。神社の祭神名については変転が多そうで、確信をする材料にはしにくい所ですね。

> 丹生都姫は本当に水銀の神様なの?
日本国中の土壌から水銀が検出されるのかどうかは知りませんが、古くからの産地とされる阿波や宇陀の水銀鉱床群の地に丹生神社が鎮座していることは,丹生と水銀とを結びつけて考えてもいいように思います。尤も、稲荷社や八幡社も探せばあるかもしれませんが,丹生社の希少性で推測している訳です。
一般論で何ですが,日本の神々のテリトリィはいささかあいまい,幾つかの神格を持っているように感じます。武神、縁結び、開拓,祭る人々の心や願いが神格を形成するのかも知れません。
土壌に金属分が多いと米がうまいと言います。丹生神が稲の豊作神でもあって何ら不都合はないのでしょう。

> >これらから素直に考えると、空海自身と狩場明神(高野明神)との関係にも疑問符がつく。なかったと言える。
これは難しい所です。同時代の記録と思われる文書に一切出てこないのが実に不思議です。特に空海が紀の国の有力者に出した書面にも出ていませんのが,疑問符以上のものを感じます。

[2477] Re[2458]: 賀茂神社  Setoh 2002/01/29(Tue) 09:20 [Reply]
 高鴨神社ゆかりの方から次の趣旨のメールをいただきました。
 松尾山のことですが、賀茂との関係はあるようです。
簡単に言えば、金剛山から六甲山が見えるように、葛城山・生駒山から松尾が見えます。
またあのあたりで一番重要な甘南備山は亀山で、松尾大社が鎮座しているのは、それが理由です。
松尾の神様は、御神体を持って、出雲街道(愛宕山の分かれ道から明智光秀が向きを変えたところ)を通って、福知山方向に旅出をする奇祭があります。
これは出雲の《神在月神事》に対応するもので、松尾の神様が出雲に出かける習慣があったことを省略・伝統化して続けていると言うことです。これは騎馬民族の年次部族集会《クリールタイ》と同じものと言えます。
それから狂言《福の神》でも、福の神が「別しては松尾の大明神」と発言します。
そこで太郎冠者が「どうしたわけでござる」と申しますが、「松尾の神は酒神じゃによって」と応答するのですが、この「酒神」は「逆神」とも聞こえる表現で、三輪の酒と松尾の酒が対応関係にあることを示します。
松尾の酒は雄略天皇の時代に秦氏がこの地で酒造りをはじめ、ここから伏見六甲と名水を求めて、帰化人コロニーを発展させていったわけですが、その場は賀茂族のものであったことは事実です。
 と言う内容です。

 平凡社『寺院神社大事典』によりますと、中世大森の地は賀茂社の社領だったそうで、この関係からのネーミングの様に書いてありますね。

[2476] 伊勢内宮の位置  April [Mail] 2002/01/29(Tue) 02:40 [Reply]
神社の位置関係について、他に今の段階で気付いている事を書きます。
割と有名な話かもしれないのですが・・・。
伊勢内宮を中心に円を書きます。
まず、滋賀県の多賀大社を通る円を書くと奈良県の橿原神宮を通過します。
また、熊野本宮を通る円を書くと高野山、長岡京のすぐ側、桂離宮あたりを通ります。
(驚いたことに私の家のすぐ側も通ってました(^^;)
もっと楽しいのは白山、淡路島の伊弉諾神宮を通る円でこれは大江山の皇大神宮の側も通ります。
皇大神宮よりも豊受神社の方が近いですね。

また、伊弉諾神宮と熊野本宮、伊勢内宮を通る円も作ってみました。今までの逆のパターンです。
この円の中心は奈良平城京の北側3kmの右京1丁目のあたり。
そしてこの円も大江山の皇大神宮を通ります。
大江山の皇大神宮は結構重要なポイントのようです。
また橿原神宮も無視できないポイントだと考えています。
そう言えば、橿原神宮は地下にトンネルを通す工事が決まったらしい。
ちょっと心配です。

こうやって線を引いていくと伊勢内宮の場所は最初から地図を見て決めたとしか思えません。
これは古代に白山から淡路島までの精密な地図が古代にあったということになるのかもしれません。

[2475] 琵琶湖と淡路島の中間点  April [Mail] 2002/01/29(Tue) 02:38 [Reply]
Setoh様、ひふみ様
琵琶湖と淡路島の中間地点をどこにするかは私も色々と迷った覚えがあります。
竹生島と沼島を結んでみたりもしたんですが、最近は多賀大社と伊弉諾神宮で結んでいます。
そこで結んで見ると、中間地点は継体天皇陵付近になります。

香具さん
以前、別の場所で吹田の伊射奈岐神社の話をした時に確か垂水神社と伊射奈岐神社を線で結ぶと言うことをしたと思います。
鳥頭の私はどうして垂水神社と伊射奈岐神社を結んだのか忘れてしまったのですけど(^^;
香具さんはその時の事を覚えてますか?
ちなみに、垂水神社−伊射奈岐神社の延長線には綺麗に上賀茂神社が乗ったことだけは覚えています。

[2474] 訂正  なにがし [Url] 2002/01/28(Mon) 16:32 [Reply]
大仁保神社の祭神は仁徳天皇でした。すいません。

[2473] 丹生と爾保  なにがし [Url] 2002/01/28(Mon) 16:25 [Reply]
丹生都姫と爾保都姫が同じと見れるのか?という疑問があります。これについては手がかりがなく、全く分かりません。朱での繋がりぐらいでしょうか。でも丹生都姫は本当に水銀の神様なの?というのもあります。違えば繋がりはなくなるかも知れませんね。
ちなみに、のりちゃん様のHPで奈良の大仁保神社で丹生明神を見かけた気がします。この近くには丹穂山があったと思います。また、広島市の爾保姫神社の祭神は丹生都姫で、地名に仁保があります。いづれも成立年を詳しく調べないといけないと思いますが、これからすると丹生=爾保の可能性もなきにしもあらずかと。ちなみに、丹生酒殿神社の御神体は稲穂だとか。丹生都姫神社の御神体はどうも鏡のようです(さらに確認要)。米なら水銀とは関わりないですから、赤米を考慮すれば、「に」は赤を意味するのかもしれません。

setoh様
狩場明神について
>これらから素直に考えると、空海自身と狩場明神(高野明神)との関係にも疑問符がつく。なかったと言える。
とありますが、「疑問符がつくという」のは分かるのですが、「なかったと言える」と断言できる裏づけは?
実はこの裏づけは結構むずかしいと感じます。ないという人の裏づけはsetoh様も書かれているように、文書に残っていないから。ところが、あったと思われている方の裏づけは伝承や古文書からなのです。しかし、古文書といっても家系図ですからどこまで信用していいのか判定しにくい。ただ高野山大学の教授が調べておられますから、それなりに信用できるものなのかも知れません。私も実物は見たことありませんのでなんとも言えませんが。
伝説のような空海との関係はあったか、どうかは分かりません。伝説もいくつかあるようですし、一般に知られている「2匹の犬を連れた犬飼の神と丹生明神の出てくる伝説」は疑問も多いのですが、「空海が、天野の丹生明神の社にて、巫女に神懸りした丹生明神から高野山を譲られる」という伝説の方が実際的であるように思えます。そこに行くまでに猟人とあっているかもしれませんが。丹生総神主家系図には伝説に残っているような話は残っていないようです。ただ、「密教を守護すると約束し、空海上人はその人物を死後狩場明神という称号をつけて百合野に祭った」とあるだけです。ですから、あくまでも狩場明神は称号で、高野山に祭られるほどであたのかどうかは分かりません。本当に空海と密接な関係があったのかも知れませんし、後世地元民の協力を得るため、狩場明神をかつぎ出したのかも知れません。

[2472] 「ええじゃないか,はやり神」  Setoh 2002/01/28(Mon) 15:36 [Reply]
 もう3年前になるのでしょうか、横浜の佐々木投手の剛腕ぶりを祀った大魔神社(?)と言う神社らしきものが出来たことを記憶されている方もおられるでしょう。
 こう言うのを「ハヤリ神」と言うのでしょう。
 江戸時代の亨保十二年(1727)に大杉明神がはやり神になったそうです。
茨城県稲敷郡桜川村阿波958に鎮座する大杉神社「倭大物主櫛甕玉大神」が元の社でした。
この神社の由緒は
江戸時代になると徳川家康公の信望篤い、天海大僧正が別当安穏寺の住職となり当神社を江戸城の鬼門守護社と定め、加えて利根川の改修による舟運の発達等により、海河守護、交通安全、悪魔はらえ(疫病退散、厄除、星除)、方災消除(鬼門除、八方除)を中心とした「あんば信仰」は、悪魔ばらえ、海河守護を中心とした歌謡「あんばばやし」(大杉ばやし)とともに、利根川、鬼怒川、小貝川、荒川、江戸川流域、さらには東京湾、千葉県館山市以北の太平洋沿岸地域から内陸部に伝播し、盛時には西は愛知県、北は千島列島、裏日本は新潟県佐渡に及ぶ広大な信仰圏を誇っておりました。
とあります。
「あんばさま」と呼ばれたのは,阿波と言う所に鎮座していたからでしょう。茨木県には大杉神社はほかにも幾つかあるのですが「あんばさま」と呼ばれているのはこの神社のみのようです。
 
 江戸は亀戸天神の近くの江東区亀戸の香取神社の森に「光物」が飛来し,その後大地振動、神木の松がおれ,その枝に白い御幣がついていたとて,誰言うこおなく常陸の安馬大杉大明神がこの地に降臨したとなり,江戸市中が神田明神のお祭り騒ぎのようになったそうです。社会不安と関係しているとか。
 それにしても,社会不安時のハヤリ神の精神は脈々と我々に流れているようです。

[2471] 無題  雄一 2002/01/27(Sun) 16:12 [Reply]
石川県神社誌 P181下段 石川県神社庁編より 
五間堂伽羅倶(ごけんどうきゃらく)神社 主祭神 天照大神 創立年月不詳
元神明宮と称した。当区より神功皇后三韓征伐に従軍した勇士が武功をたて、伽羅を賜り
これを氏神に奉納したので伽羅神社と改称した。・・・以下省略・・・(根上町に在り)
大辞泉 小学館 P560
から[加羅・伽羅]−>加耶かや とあります。
(古代朝鮮半島にあった国をカラ国と呼ぶ理由かもしれません。)
この神社は伊勢神宮からみて北に在ります。(平安時代宮内省で北に韓神、南に園神を
祀っていたようですが・・・・・・?)
最初の神社名が神明宮と呼ばれたのも変だな・・・まるで伊勢神宮と陰陽の関係にある
ようで・・・。

[2470] Re[2464]ありがとうございました。  ひふみ 2002/01/27(Sun) 14:44 [Reply]
Setoh様、ありがとうございました。改めて、神奈備のありがたさを実感です。
早速、吹田の伊射奈岐神社を地図で探してみると、万博公園のすぐ側なのですね。
妙に、納得してしまいました。日本の戦後の復興のキーイベントとも思えるものは、やはりそういう大事な場所で行われているのでしょうね。
そういえば、かのアメリカから来たおもちゃ屋トイザラスも、第一号店は多神社のすぐ側、古代太陽の道上にあります。何故、奈良で一号店が出来、しかも時の大統領クリントンさんがわざわざ視察にいらしたのかというのも、さもありなんという感じでした。
(こじつけかも、しれませんが。)


[2469] 丹生川上神社  マルヤ [Mail] [Url] 2002/01/27(Sun) 12:40 [Reply]
「神奈備掲示板」過去ログを拝見していて、小生の書き込みに間違いを見つけましたので訂正します。
平成12年12月書き込みの内より、丹生川上神社下社宮司さんのお名前を間違えて書いています。
「下社」の宮司さんは、その時点も現在も 上杉留蔵様です。ちなみに
「上社」の宮司さんは、4年前御遷座の時点では、三苫重格様でしたが、現在は平田貴教様です。
「中社」の宮司さんは存じませんが、若い留守居役の神官が居られて、この方はインターネットをよく利用されるということでしたので、たぶんこの神奈備さんの頁へは何度も来られているはずです。

[2468] Re[2452]:   中核概念 と 派生した“ハナシ”    Setoh 2002/01/26(Sat) 18:02 [Reply]
> それから、文字がよく似ているからと言って「ニウ」と「ニホツ」とをいっしょくたにしちゃァ どこまで行っても「アバウト」と「アバウト」の並列しか出て来ない。

 たしかに,「文字がよく似ている」,だからと言って「いっしょくたに」にしている訳ではない。この様な決めつけは,決めつける方は楽しいだろうな。正確に楽しむなら「ニフ」と「ニホ」だが。
 「いっしょくたに」に見る訳を整理しておこう。
○『播磨国風土記逸文』に爾保都比売神が赤土を出して,例えば兵士の着衣を染めたとある。丹沙のことと思われる。
○『播磨国風土記逸文』に紀伊国筒川の藤代の峰に爾保都比売神を鎮めることがある。ここは丹生都比売神の本場とも言えるゾーン。水銀土壌の地である。
○爾保都比売神は播磨のおそらくは美嚢郡に祀られていたと推定されている。ここは水銀土壌の地であること。
○『豊後国風土記』海部郡丹生郷のところに,昔時の人、此の山の沙を取りて「朱沙」に該てたり よりて丹生郷と曰いふ。とある。丹生と朱沙とを同義にしている。
 これを状況証拠を積み上げるという。

[2467] Re[2466][2456][2455]: 見えないページ  nick [Url] 2002/01/26(Sat) 10:27 [Reply]
> > > > > 開聞岳山頂のお宮に詣でました。
> > > これは、枚聞の奥宮か何かでしょうか。
> > そうです。看板には「御岳」とありました。
> 別の掲示板へ写真張り付けましょう。
> > > nick さんは、linuxでしたね。そんなことしてませんよね。
> 現在、RedHat_ver7.2でnetscape_v6.2 を利用しています。
> 使いやすくなりましたね〜。。。
> 昔、しこしこインストールしていたのが今ではバンドルセット。
> 画像もファイルもサムネイルでリスト表示ができますから、、、
> いちいちファイル開かなくても確認できる。。。
> ページ作成に活躍しています。(~_~)

今、別荘の方へアップしました。
サイズが大きくて、、xvも開いて縮小変更して、、、
バックグラウンドで作業ができるから、こんな時重宝です。

[2466] Re[2456][2455]: 見えないページ  nick [Url] 2002/01/26(Sat) 10:13 [Reply]

> > > 開聞岳山頂のお宮に詣でました。
> > これは、枚聞の奥宮か何かでしょうか。

そうです。看板には「御岳」とありました。
別の掲示板へ写真張り付けましょう。

> nick さんは、linuxでしたね。そんなことしてませんよね。
現在、RedHat_ver7.2でnetscape_v6.2 を利用しています。
使いやすくなりましたね〜。。。
昔、しこしこインストールしていたのが今ではバンドルセット。
画像もファイルもサムネイルでリスト表示ができますから、、、
いちいちファイル開かなくても確認できる。。。
ページ作成に活躍しています。(~_~)
>

[2465] Re[2463][2460]: 見てきたような・・・  Setoh 2002/01/26(Sat) 09:37 [Reply]
> 南京街酩酊酔仙人紀行のおもてなしができなくて残念です。
オフ会では幹事役が先に酔っぱらうので、すまんことです。

神奈備>>久多中の町には式内の思古淵神社・・・
>地図の大川神社が式内社思古淵神社なのですね。
思古淵神社は式内社ではありません。お詫びして訂正いたします。 m(_ _)m
大川神社が式内社思古淵神社,並んでいるのでしょうね。361番地と362番地です。

[2464] Re[2462]: 質問です。  Setoh 2002/01/26(Sat) 09:35 [Reply]
> 琵琶湖と淡路島を陰陽として見るという話を聞いた事があるのですが、そうすると、その中心軸はどこだろうという事です。調べてみると、何となく箕面のあたりのような気がします。
ヒフミさん,今年もよろしく。上記テーマについては http://www.kamnavi.net/inari/awajisima.html にも記載しております。
この二つの「淡」の真ん中は摂津の東部に当たります。吹田に式内社の伊射奈岐神社二座(並大。月次新甞。)がやはり鎮座しています。

 神奈備で検索してみましたら、残念ながら、ページが表示されませんでした。
http://www.kamnavi.net/ichiranosaka.htm の上から二番目、物部の神々の所に置いてあります。
> 大麻山と弥山をつないでみましたら、ちょうど中間地点にイタキソ神社がありました。
面白いですね。紀州志略によると五十猛命を「大峰釈迦嶽科戸明神」と記してあるんですが,吉野とのつながりがあるんですね。是非お詣りに!

[2463] Re[2460]: 見てきたような・・・  香具 [Mail] 2002/01/26(Sat) 00:58 [Reply]
>Setohさん
ご来神のこと、気づかずに失礼致しました。
南京街酩酊酔仙人紀行のおもてなしができなくて残念です。

>Aprilさん
壮大な位置関係ですね!神社配置という地理だけでなく、氏族の歴史も考慮していくと、やがて『神社位相論』に発展するかもしれません。

>紋次郎親分
久多町の中に久多川が流れています。内でも外でもないヨ。久多と谷くぐつ、チト苦しい。蛙は谷グクだったのでは? しかし蛙は縄文土器でも重要なモチーフですね!注目しています。

 さて、行ってもいない土地を地図だけで語ることを許してください。瓦を放って玉を引き寄せる魂胆でもあります。
 京都市左京区の地図を見ると、出町柳から北上して、鞍馬、大原、花脊と越えると久多とあります。京都から見るとかなり山奥の印象ですが、滋賀県との県境に近いので、比良山の西方の大津市葛川(カツラガワ)からは山系をひとつ越えた隣りに位置します。
 久多の中を流れる久多川は、東の滋賀県に注ぎ安曇川水系になります。安曇川沿いは敦賀街道ですが、久多には小浜街道のひとつが通っています(小浜街道は他に2ルート)。現在、この久多に入るルートとして、大津市梅の木町から久多川沿いに遡る道があります。

 まずこの梅の木町で安曇川岸に『志子渕神社』があります。そして西へ行き京都市左京区久多川合町で久多川と針畑川が合流、この川合いの地に『山の神神社』。さらに久多川を遡ると久多中の町に『大川神社』、久多上の町に『上の宮神社』と記載されています。

 ここで先の川合町へ戻って針畑川を遡ると、滋賀県高島郡朽木村の小川の地に『思子渕神社』、もっと上流の平良(ヘラ)の地にも『思子渕神社』。この針畑川はさらに桑原の『蛭子神社』、生杉の『日吉神社』(大宮神社?)と遡り小入谷へと入っていきます。もうすぐ福井県名田庄村ですね。それでどうやら『思子渕神社・志子渕神社』は久多川より針畑川沿いの神社のように思えます。

 久多に目を戻すと、久多上の町を遡る久多川は北方の三国岳(959m)に水源をもつようです。この三国岳には『一の岩屋、二の岩屋、三の岩屋』と呼ばれる洞穴がありそれぞれに不動明王と役の行者の像が祀られているそうです。
 机上の妄想はこれぐらいで・・・。

>久多中の町には式内の思古淵神社・・・

地図の大川神社が式内社思古淵神社なのですね。

>久多上ノ町には上ノ宮神社「祭神不詳」が鎮座・・・

 なんか怖そうで、あやしい感じですね。三国岳を意識しているのでしょうか。あと、久多宮の町に宮の記号が見当たらないのも気になります。しかし現地に何があるかは行ってみなければ判りません。
 バスは梅の木町まで、ここから久多までは徒歩2時間以上、三国岳に登るには1泊の予定になるでしょう。今の季節の道は積雪か凍結かな。春以降ですね。現地をご存知の方がいらっしゃいましたら、アドバイスを仰ぎたく御願い致します。

[2462] 質問です。  ひふみ 2002/01/25(Fri) 22:42 [Reply]
今年、初めての投稿ですので、一応、「明けましておめでとうございます。」でしょうか。今年も、皆様の活躍、楽しみに拝見させて頂きます。
ところで、April様の投稿を見て、だいぶ前から懸案だった事を思い出しました。
俗に、琵琶湖と淡路島を陰陽として見るという話を聞いた事があるのですが、そうすると、その中心軸はどこだろうという事です。調べてみると、何となく箕面のあたりのような気がします。
箕面といえば、やはり瀧という事で、瀧安寺の縁起を調べると、「役行者が作った日本最古の弁才天像」が祭られているという事です。(そういえば昔、淡路島の傍にある沼島へ行った時に、海辺の神社に弁才天が祭られていたのを、思い出しました。)
他に、箕面に神社はないかと探した所、「阿比太神社」と「為那都比古神社」がある事を知りました。どんな所だろうと知りたく、神奈備で検索してみましたら、残念ながら、ページが表示されませんでした。
もし、祭神や由緒等、御存知でしたら、教えて頂きたいのですが。
よろしくお願いします。

余談になりますが、私の産土神社の大麻比古神社の大麻山と、今ここに住むきっかけになった山の弥山をつないでみましたら、ちょうど中間地点にイタキソ神社がありました。
昔、雑賀崎あたりに住んでいたので、よけいに懐かしく感じます。
又、ゆっくりお参りに行けたらと思います。

[2461]   谷くぐつ と くた     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/25(Fri) 13:18 [Reply]
 蛙は金属精錬士にとっては重要な食糧であり、尾を切った修行(僧)でもありました。
 傀儡師の「くぐつ」の語源を追い求めたとき、そこには海藻とか篭などの考察が見られ
ましたものの、やはり世界的に広く探してゆくと KU も KUT-U も「人形」という祖形に
行き着きます。
 蛙は、古くは「谷くぐつ」といわれました。原意は「谷にいる“ひと形”」でしょう。

 ちょうど今、『ほにゃらか掲示板』で、ネパール語の「bhyaguto ビャグト(蛙)」を
とりあげているところです。bhyaguto の bhya の部分は擬音らしいです。すると、日本
には guto(祖形に近い語形‥‥ごとびき)以前の Kut が流入していて、これが開音化さ
れた(A を付けること)ことが十分に考察できます。

 久多の地は川の湾曲の内側でしょうか。でないとしたら、上の意味が濃厚に感じられます。
 こんなの「状況証拠」にはならんやろカネ。

 まっぴら『『ほにゃらか.掲示板』;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2460] 無題  Setoh 2002/01/25(Fri) 08:30 [Reply]
 前にこの掲示板で,神様や物事・事象などの名前は地域や時代によって変わっているとの意見があり,至極当然なことと受け入れられました。揺れていると言うことです。
 その中で遠く離れた三河の砥鹿神社と伊豆三宅の富賀神社の名前が同じとすれば,何か関連があるのかも知れませんね。ただトとカの二文字しかありませんので,これでどうこうとは言いにくいことですね。何を言っても「証明できない」領域にはいりますから,状況証拠を積み上げるしかないですね。
 例えば両方の神社を結ぶ線上に清水市原の砥鹿神社がのってくる(未確認)砥賀。

 
 aprilさん 初めまして。
 京都市左京区の久多中の町には式内の思古淵神社,言われておられる久多上ノ町には上ノ宮神社「祭神不詳」が鎮座していますね。安曇川の水源地域だそうですね。探検譚をお待ちしています。

[2459] 久多  April [Mail] 2002/01/25(Fri) 03:53 [Reply]
京都の山奥ではもう一点非常に気になるところがあります。
花背のさらに北にある久多上の町のあたりです。
地図で見る限り、何も無い山奥の村という印象なのですが、地形的にはここは凄いところだと
思っています。

少し話が変わりますが、淡路島の伊弉諾神宮と伊勢内宮はほぼ同じ緯度にあります。
つまり東西に一直線です。そして白山と伊勢内宮は同じ経度でこちらは南北の一直線です。
さらに伊勢内宮からは伊弉諾神宮、白山ともにほぼ等距離で直角二等辺三角形を形成しています。
久多上の町は伊弉諾神宮−白山ラインの中間に位置し、直角二等辺三角形の中点にあたる場所
です。また久多上の町は熊野本宮の北に位置します。
熊野本宮からは伊弉諾神宮、伊勢内宮が等距離にあり、二等辺三角形を形成。
また、熊野本宮の北のラインには伏見、八坂、下鴨などが存在しその延長線上に久多上の町が
あるわけです。

地図で見る限り、伊勢や伊弉諾神宮、白山に匹敵する物どころか、観光名所すらなさそうなところ
ですが、地図には載っていない隠れ磐座等の何かがあるのではと考えています。

このあたりの情報を何かご存じの方はいらっしゃらないでしょうか

[2458] 賀茂神社  April [Mail] 2002/01/25(Fri) 03:47 [Reply]
Aprilと言います。初めてこちらに書き込みます。
ここへは香具さんの紹介で来ました。これからもよろしくお願いします。

香具さんとは別の場所で何度か話をしたことがあるのですが、そこで私
の見つけた神社のラインについて話を聞いていただいた事があります。
私は加門七海氏の魔法陣シリーズを読んでから地図ソフトを使って神社
のラインを引く事にすっかりはまってしまっています。
香具さんが見つけた加茂神社についても、神社のライン的に面白い話が
ありますので報告します。
香具さんの話では、加茂神社は上賀茂−下鴨ラインの上にあるというこ
とですが、あの神社は実は松尾大社−葛城山の南北ライン上にも乗って
います。
実は昔に松尾大社が葛城山の真北にあることを知人から教えられました。
その後、松尾大社−葛城ラインが賀茂家絡みのラインであることに気付
き、なんとなく上賀茂−下鴨ラインと松尾大社−葛城ラインの交わる点
を見てみたのです。
そうすると、やっぱりというべきか、さすがというべきか、そこに賀茂
神社が存在していたのです。

改めて葛城山−加茂神社の縦のラインを見ると、途中に二上山、龍田大
社、生駒山、交野の妙見や磐船神社を通り、長岡天満宮、松尾大社と乗
ることが分かります。
さらに加茂神社の北側には常照皇寺という凄い名前の寺もある。
どこまでが賀茂家ゆかりのものかわかりませんが、このラインはかなり
賀茂にとっては大事なものだったんじゃないかと思われます。
そこで賀茂神社を作って上賀茂−下鴨ラインと関連づけたのではないか
と思っています。
もしかすると加茂神社は賀茂家にとって上賀茂神社、下鴨神社に匹敵す
る重要な神社だったのではなかろうか・・・と思ってしまいます。

[2457] 三島とトガ補足  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/24(Thu) 20:27 [Reply]
三宅島に伊豆三島神社の発祥の地とされる富賀神社があるんですね。

[2456] Re[2455]: 見えないページ  玄松子 2002/01/24(Thu) 17:48 [Reply]
> 追記:今年の初詣登山は霧島と開聞岳

初詣は、一箇所のはず。ダイダラボッチなら、一度に可能。なんてことは、どうでも良いのですが。

> 開聞岳山頂のお宮に詣でました。

これは、枚聞の奥宮か何かでしょうか。


> 早速のご返事ありがとうございます。
> 一応、同じ内容をメールにてお送り致します。
> ありがとうございました。

僕も見てみましたが、特に見難いとは思いませんでしたよ。
背景色が白設定なので、背景画像を表示させない場合、非常に見難くはなりますが。
nick さんは、linuxでしたね。そんなことしてませんよね。

[2455] Re[2454][2453]: 見えないページ  nick [Url] 2002/01/24(Thu) 17:34 [Reply]
早速のご返事ありがとうございます。
一応、同じ内容をメールにてお送り致します。
ありがとうございました。

地元の神社の探訪、掲載も多少増えました。
内容が伴いませんが、、、

今後とも宜しくお願い致します。

追記:今年の初詣登山は霧島と開聞岳
開聞岳山頂のお宮に詣でました。
最高のお天気でした。(~_~)

[2454] Re[2453]: 見えないページ  Setoh 2002/01/24(Thu) 16:17 [Reply]
> 最近、徐福協会という団体があるのを知ってそのページへアクセスしましたが、、
> 掲示板もメールもなさそうなので

 灰茶色をバックに黄色の字で一応読めますが・・・
 メールアドレスは  info@jofuku.or.jp  ですね。

 自分のPCに記憶させてから編集ソフトで字などを大きくすれば読みやすくなります。

[2453] 見えないページ  nick [Url] 2002/01/24(Thu) 15:16 [Reply]
最近、徐福協会という団体があるのを知って
そのページへアクセスしましたが、、
私のように目の悪い者にとっては難解なページです。。
というよりか「一体何が書いてあるのか見えない」のです。
たぶん、バックカラーとテキストカラーが同系なのではと
思います。。
昔、道路に敷設された「点字ブロック」がこれまた似たような色で
不評をかった、、、なんてこともありましたが。

せっかく立派な労作を公開されても弱視者や障害者が
閲覧できないのでは。。。。
ご配慮をお願いしたいものです。
掲示板もメールもなさそうなので
こちらへポスト致しました。

http://www.jofuku.or.jp/

[2452]   中核概念 と 派生した“ハナシ”    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/24(Thu) 08:12 [Reply]
 ここはユーラシア大陸のはずれの日本だよな。そして5世紀ごろから大陸の各種
偏執(文化)がいろんな氏族の手によって運ばれ蓄積習合されたんだよな。
 ここを見落として字づらーハナシばかりを追いかけたら堂々めぐりにしかなるめえ。
まして字の読みかたも床ガタガタの状況なんだろ(QUESTION MARK)

 たとえば九頭龍‥‥。
 クマル神えらびのとき、テストを受ける少女たちが坐らせられる椅子には、九頭の
龍が彫ってある。すでに このこと半年以上も前に、おらはミナシャンに紹介したヨ。

 それから、文字がよく似ているからと言って「ニウ」と「ニホツ」とをいっしょく
たにしちゃァ どこまで行っても「アバウト」と「アバウト」の並列しか出て来ない。
 Ni とか Nir は「低」「土地」が中核概念なり。
 「ニホ」……うれしいネ、χo ぞな。 大地のホ‥‥蛇の精を謂ってるじゃん。

 こいこい『ほにゃらか』へ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2451] Re[2450]: 無題  玄松子 2002/01/24(Thu) 02:43 [Reply]
> 伊勢神宮までの道の両脇に立っている灯篭に彫ってある六芳星の由来は何ですか?

神奈備掲示板過去ログにありましたね。
http://www.kamnavi.net/log/yumv0010.htm
このページで、「A.I.  H12.10.25」の記述を探してください。
このA.I.さんは、今の泊瀬女さん。

[2450] 無題  質問者1 2002/01/24(Thu) 01:30 [Reply]
伊勢神宮までの道の両脇に立っている灯篭に彫ってある六芳星の由来は何ですか?


[2448] Re[2447]: 九頭龍  Setoh 2002/01/23(Wed) 20:38 [Reply]
和歌森太郎氏んの「戸隠の修験道」という文章に,「加賀白山に九頭の竜が現われたとの話、戸隠に九頭竜がすんだとの話に共通する点と考えればよい。つまり、修験道の起こる山においてそれがいわれたということである。」と出てきます。

また同文の中で池田源太氏の論文を引用されて,「『延喜式』神名帳にも載る氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神とも通じている。それは、気吹雷、響雷という名を冠したように神名帳にみえる。すなわち、雷神としてのクズ神なのである。池田式は気吹雷に風雨を伴う雷電と、響雷にすさまじしい「鳴神」の雷を区別していた古代人の思惟を認めている。前者はただ、人を驚かすだけの雷でなしに、雨をもたらして農耕をたすける生産的た力を包蔵する雷とみられたのだろうといわれる。」と記されています。

更にそれを受けて,和歌森太郎氏は「中世以前に戸隠山の主が「九頭竜」とみられたことは事実であろう。すなわちその主は雷電霹靂、たちまちに豪雨をよぶ神怪とされたのである。このイメージが大陸伝来の竜神、竜王などの信仰が受容されてからいよいよ強調されたろうとは考えられる。おそらく密教徒のうち出したイメージであろう。」とされています。

 で,大和のタカオカミのクズ神も上記の密教徒のイメージなのかどうかが問題で,『古事記』の神武記や仁徳記に吉野の国巣(クズ)の祖(オヤ)とか吉野の国主(クズ)等(ドモ)と言う言葉が出てくるのが気にはかかります。クズと九頭竜,偶然だっしゃろか。

[2447] 九頭龍  玄松子 2002/01/23(Wed) 19:53 [Reply]
>  中庸のミチ‥‥(以下略)

何を言っているのか理解できないので、ムシ無視虫。

ところで、九頭龍について。
多頭龍を、英雄が退治するという話は、中国だけではなく、ヨーロッパでも広く分布しているようですね。
日本の九頭信仰と、大陸のそれらは関連あるのでしょうか。
関連があるとすれば、九頭信仰の人々は、日本固有・先住民ではなく、先に渡来した、「先来人」ということだろうか。
素盞嗚尊や大己貴命を頂点とする国津神は、「先来人」の神ということではないだろうか。などと、最近考えているんですが。

[2446]   ♪√ もう 呆け キョ      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/23(Wed) 19:11 [Reply]
 中庸のミチ‥‥ソビエートロシアが解体したら、どっかさんの方々がぐぐぐ〜〜っと右に
ずれこんだりしちゃってサァ〜〜。こんな云いまわし慣れチャッチャいまひたでっひゃろか。

 右翼化‥‥少しでもありゃ救われそーなんだが。森総理の「神の国発言」‥‥結局、押さ
れたままで利用できんやった紋ネエ〜〜。
 神主諸氏もサラリーマンあるか。   ああ、そーですか、ふ〜〜ン。

 ところで 上野のウメも見頃のようで‥‥。

[2445] Re[2444]:   ♪√ ほう ぼけ キョ    玄松子 2002/01/23(Wed) 18:09 [Reply]
>  思考方法論も局端に考えるとワカリが早いたァ、云‥‥わなかった カ 。

真黒の紙に、灰色の文字を書けば、それは白い文字だが、真白の紙に書けば、黒い字に見える。状況によって変わるけれど、灰色は灰色。それを、黒、あるいは白と言い切ることは、確かに「ワカリが早い」が、正確ではない。局端に考えた結果は、「局端」という限られた状況においてのみ、「正しい」。と思う。局端では、「ミドリの黒髪」は伝わらない。とも思う。

[2444]   ♪√ ほう ぼけ キョ    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/23(Wed) 17:12 [Reply]
 蜂みつ漬けにした誠実食べて身体つくり、今は乾操誠実でこしらえた背広着て闊歩しておられる
玄象師師、アマカネ

 思考方法論も局端に考えるとワカリが早いたァ、云‥‥わなかった カ 。迷路は2本のエンピツ
持ってヒーガラ目にして同時に二つの出口を見るべし。取得要領‥‥の逆カネ。

 ところで、諏訪と周防と関係あると思うカネ、思わぬと思うカネ。

[2443] Re[2439]:   ムシムシ 蒸しかえし    玄松子 2002/01/23(Wed) 11:49 [Reply]
>  ミナシャァはイザナギとかイタキソなどは、発音のことは記憶の助けとしてのみ考慮に入れおいて、その神が始源的にどういう意味で人間から命名されたかは、一切考慮に入れないで、そこに宛てられた漢字の字づらのみを、先ず最優先的にメルクマールとしたわけだ。

「一切考慮に入れない」というわけではないと思いますよ。
発音・表記・意味・伝承・記述のすべてに、虚実混沌。だから面白いのでしょう。
「虚」もあるけど「実」もある。「実」ばかり、「虚」ばかりではないと考えているということです。

[2442]   おがみ いっ辺倒 ぞな     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/23(Wed) 11:33 [Reply]
 瀬藤ドンも人類愛カネ
 おらに教えておけば、総ての人類に教えたことにならいしょ。
 古代人(の一部)もなんでカエルをヒキとかビキと云うたかがワカランごつなったらしい。
  HIK(土 どろ)I(神 者)。HIK-O(神 男)。
 O(しり 男根)を切って貰った生き物……蛇も同じ。「GO(神)TO(不明)ヒキ岩」カネ。
 アイヌもカエルをビッキいうだ。同系統金属精錬士ならむ。
 川崎真治さんは、「船曳き」のガニマタに起源を求めたことがあった。

  やりまくり最前線;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2441] Re[2440]: 桃尾と排尾  Setoh 2002/01/23(Wed) 11:07 [Reply]
>  アマカネ
>  磐排別‥‥これ現代日本人がなんと発音しているかオラシラン。 尻たい。
いわをしわく  

ついでに 排尾の山を ひきのやま と訓む。

[2440]   発音 教えてもらわんでもヨカ  一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/23(Wed) 10:46 [Reply]
 アマカネ
 磐排別‥‥これ現代日本人がなんと発音しているかオラシラン。 尻たい。
 だが、教えてくれへんやろ。
 だが、教えてあげたいことこれあり。排は HAY ‥‥岩のこっちゃ。

 おら、おひとよしやろカネ。人類愛に溢れていることはタシカ。
 おっちゃんーーアサモヨシかね

[2439]   ムシムシ 蒸しかえし    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/23(Wed) 10:30 [Reply]
 玄象師師あが。お蔭で 少しわかってきたぞ。

 ミナシャァはイザナギとかイタキソなどは、発音のことは記憶の助けとしてのみ考慮に入
れおいて、その神が始源的にどういう意味で人間から命名されたかは、一切考慮に入れない
で、そこに宛てられた漢字の字づらのみを、先ず最優先的にメルクマールとしたわけだ。
 そしてそのあと、神事のあとの酔っぱらい語りにふくまれているウソとホントの選り分け
作業がオモロくってたまらねェのら(おらの採るヘテロ方法論は、なんべんも叙べた)。

 ここはなにがしさァのご偏執にあやかって、丹仁〜丹生周辺のことで叙べてみて、おらの
偏執もやっぱ正しかった一面もあった‥‥を、証拠立てたいと思った。が、コレはァ〜……
長くなる。恐竜時代の恐怖心、沖縄のニライカナイ、大地神、柱と男根などなど意識の根源
まで遡る。すべての意識は単細胞生物の偏執にまで遡るのら。
 「言葉だけの記述」が続くので、『ほにゃらか.掲示板』でおっぱじめやす。

 それにしても瀬藤ドン、「イタキソ」という発音から抽出される内意‥‥やっぱ関心ある
んやろ(QUESTION MARK……キーぶッ壊れで出ない)。

[2438] Re[2434]: 空海と丹生・狩場明神  その1  Setoh 2002/01/23(Wed) 09:38 [Reply]
 なにがしさん ありがとうございます。
 「播磨風土記を知ったものが三谷に丹生神を持ってきた」のは我ながら苦しいところです。逆に地名の富貴とか筒川と言う名は後からの命名かもしれませんね。
 住吉大社神代記の天手力男意気続々流住吉大神ですが,この神名以外の部類神は存在しているようなので,一応この神も紀の国の名草郡に祀られたこととして考えてみました。名草郡がおかしいのですが,玉津島から日前国懸神宮経由で紀の川を上記の神を遡上せしめたのは紀氏だと考えています。庵田で上陸,落ち着き先は天野,遥拝所は酒殿ということでしょう。 
 天手力男とは岩戸を開く神であり,磐排別命とも言えます。ひとつには水神としての九頭龍神と同じでしょうが,もう一つには井氷鹿と同じような採掘に関わる神と考えてることができます。これは神格として丹生神が水神であり朱沙神でもあることに通じるのでしょう。
 もう一つは,昨年末に那賀郡の竜門山の北側に点在する九頭神社へ参詣いたしましたが,この神が点々と紀の川の南側の山沿いに伊都郡まで祀られていたのだろうと推定しております。これは天手力男神や丹生神を受け入れる素地が紀の川沿いにあった痕跡と思われます。

[2437] Re[2433]:   溺死寸前 タシュケテクタシャ〜イ!!    玄松子 2002/01/22(Tue) 23:08 [Reply]
> おらはこれまで、「神ごとでの寄り合いの後には、必ずお神酒がふるまわれるので、ここで伝承された偏執(文化)は、みんな酒酔っぱらっているので信用することができない」と踏んできた。
> しかし、そこに顔だしている神様の名前だきゃァ信じてきた。だが、それも信用できないのだろうか。
>  アンタ‥‥、これどう思うカネ。玄象師どん どな。

何を聞かれているのか良くわからないのですが。
たとえば、外来・渡来の神なら、伝播の過程や日本語化の段階、時間の経過によって呼ばれ方は変化するでしょう。
国産の神なら、地方の方言や、民俗語彙の違いによって、異なる呼び方があるはずです。
時間や場所(空間)によって、言葉が変化するのは、神名だけじゃありませんね。

ある時代に、ある場所にいる、特定の人が、それを文字に置き換えるだけで、それがどの時代の、どんな場所でも普遍であるほうが奇跡だと思います。

って、そういうこと聞いているわけでしょうか?

[2436] 追加  なにがし [Url] 2002/01/22(Tue) 21:12 [Reply]
>日野西氏は2001年の論文で「他の史料からも家信は狩場明神、後の高野明神で在る事は明らかである」と書かれています。

これについては、五来氏の記述(丹生総神主家の系図)と狩場明神の墓がある宮本というところの神社の縁起と伝承と民族風習からのようですが、他に根拠となる史料はないのか?家系図、縁起、伝承は証明できにくく偽作とされやすいので若干証拠不足の気がするのですが。

>水源地としての天野の沢には水神が祀られており、里宮が三谷に鎮座していた。河内の王権が航海神の住吉大神の神威を高め、筒川の水銀地域を確保するべく、部類神の天手力男意気続々流住吉大神を送り込み三谷に祀った。同時に、『播磨国風土記』を知った者が、筒川から丹生神を勧請し、三谷の神と習合させた。山宮の天野の沢神は有力な水(銀)神として丹生都比売神となり、天野祝は丹生氏とも呼ばれていく。

すいません、各事象の時代が分からないのでハチャメチャなことをいいますが、天手力男は三谷に祭られた形跡がありますか?私の記憶では本に書かれている伝承では奥津彦奥津姫がもともと三谷の神だったかと思います。その後は丹生都姫が入ってきて、紀氏の影響もあったようです(紀氏が国造新任時酒殿神社に詣でる風習あり)。紀氏が関わる時代であれば天手力男が三谷に入ってくるのはむずかしいかと。
また、播磨風土記を知ったものが三谷に丹生神を持ってきたとすると、それを持ってきた時代は?播磨風土記の成立の年代の後で、かつその書を知ることができるかなりな方?が持ちこんだということでしょうか。播磨風土記はどんな人が見れたのでしょうか?当時結構メジャー?爾保=丹生なのか?  一般には(?)そう見られているようですが、爾保がどう変わって丹生になるのかという疑問もあります。

[2435] Re[2429]: びっくりした1月17日  かたばみ [Mail] [Url] 2002/01/22(Tue) 21:10 [Reply]
>  山神の信仰について調べていましたら,猟師は正月17日を祭日として深い畏敬の念を

1月16日は藪入りですね。
奉公にでていた里人がかえってきたときに神事を行う、といったことがどっかにあるかなあ。

島根県浜田市の「大祭天石門彦神社」オオマツリアメノイワトヒコの現在の「贄狩祭」は1月25日のみですが、かっては近隣の40村が集まって旧暦の11月末〜12月25日の1ヶ月にわたった祭りのようで、17日には桑の木で作った弓と矢を持たせた紙の人形を榊に結びつけて供えたそうです。
(畑作の民族/雄山閣より)
西へゆくと狩猟(漁労含む)と焼き畑が切り離せなくなるように感じています。

かたばみ

[2434] 空海と丹生・狩場明神  なにがし [Url] 2002/01/22(Tue) 19:46 [Reply]
主題の件拝見致しました。
なかなかの力作ですね。
ちなみに、私見を言いますと、丹生都姫については爾保都姫とイコールかどうかという疑問もありますが、空海の当時丹生都姫が鎮座していたかどうかは断定はできないかなと。なぜなら、存在していたという証拠もなければ、存在していなかったという証拠もないと言うことです。狩場明神についても同じです。狩場明神については学者様達の間でも実在人物であったとされる方、伝説上の人物であるとされる方おり、賛否両論でこれは永遠に結論はでないんじゃないかと思います。
ちなみに、狩場明神について思いつくまま書きますと、
●学者さんにとってはあまり興味のない神様で、全国的な伝承と照らし合わせて伝説とされる方が多いようですね。
●私としては、丹生総神主家の家系図に家信が狩場明神と出てくることおよび丹治氏に関する記述に注目しております。丹生総神主家系図ついて書かれているのは多分五来氏のみ。というかそこまでフィールドワークされた方がおらず、みなさん五来氏の論文からの引用のようですね。今となってはこの家系図は火災で灰となっていますが。また、多くの方が丹生総神主家系図にはあえて触れていないのか、五来氏の論文を見ていないのか、書かれている文献のほとんどは丹生氏家系図のことについて書かれていません。ひどいのはsetoh様の紹介にもありましたが、「丹生の姓は神主以外に出てこない」という記事。系図を見ておればこんな事は書かないと思います。なぜなら、丹生総神主家はほぼ一子総伝(北斗の拳みたいでしょ)。たまたまなんですけどね。1200年以前は男の子は一人で子一人です。その後兄弟のできた時代もありますが、早死にするか、坊さんになるか、紀氏に養子にいくかですね。つまり、文献に出てくるのは総神主のみで、それも兄弟がいませんから神主以外になりようがない。ちなみに、1280年ぐらいまでは仁和寺が人事権も持っていました。その後は神主の人事権は高野山がもつようになります。ただ、総神主については代々不思議と丹生氏が継いでいますね。空海当時坂上氏は神主というより社人で、氏長者であり神馬の世話役ですね。丹生氏はあくまでも神主で武力はもってませんから、この地域に勢力を伸ばすのは簡単だったと思います。坂上氏は本拠はおとなり(車で30分)の橋本市で、坂上田村麻呂が有名。光三宝荒神社では坂上氏の豊田麿?が狩場明神だとされています。理由は巫女にお告げがあったからとか。
●日野西氏は2001年の論文で「他の史料からも家信は狩場明神、後の高野明神で在る事は明らかである」と書かれています。ちなみに、日野西先生は元高野山大学教授で、現維那(高野山の坊様に聞くと高野山のトップらしい。ちょっと疑問符。丹生についてはこの先生が一番しっているとの話でした)。高野山の関連の本でちょくちょく見かけます。民族的な探求もされており、他の文献のみで論文を書かれている方とは見方がちょっと違います。
●狩場明神が丹生氏の家系図どおりだとした場合、狩場明神と言う名は家信の死後で、かつ空海がつけた号である。ただ、称号のようなものだったんだと思います。狩場明神を空海の時代に高野山に祭ったかどうかは分かりません。協力してくれた者へのたむけの名前程度だったのではと私は見ています。後世それをかつぎだした人がいたのかも知れません。ただ、丹生都姫にしても、狩場明神にしても高野山であれだけ大切に祭られる理由が分かりませんが。
●setoh様は丹生・高野・狩場明神の記載無しといろいろとりあげられておられましたが、その昔の文献で丹生に触れそうな流れがあったにもかかわらず、丹生が出てきていないと言うことなのでしょうか?例えばある人に協力を依頼するのに、関係のない丹生は出てこないでしょうし、また、天皇への上奏文にしても、丹生氏のいる三谷と高野山は近いといってもかなり距離があります。私も歩いたことがありますが、今の舗装された道で夜中ずっとあるきっぱなしですから、多分空海が吉野から高野山に入ったのであれば、帰りも吉野の修験者の通る道を帰ったと思います。ですから高野山では丹生都姫や丹生の名前は聞かなかったのではと思います。だから上奏文にも出てこないし、もし知ってても高野山あたりに丹生の地名がなければ上奏文には書かれないと思います。
丹生都姫について言えば、名前が文献に出た時代がその神が登場した始まりであるなら、田舎で都とは程遠いところのマイナーな神様はなかなか存在自体見とめられない、かわいそうな神様となってしまいます。
●私が気になっているのは、だれも書かれないのですが、丹生総神主家の家系図と丹治氏の家系図との奇妙な一致。それをどう見るかです。親戚だから話を合わしたにしては不一致もあるし。といって、どちらも偽作ともとりにくそうですし。
●丹生大明神告門については事実はわかりません。ただ、口伝を後世書いた可能性もあり、偽作の可能性もあり、だれも断定はできないと思います。ただ、口伝だから偽作、後世の策だから偽作であると言うのは言えませんね。それなら、古事記も日本書記も偽作になってしまう気がします。あと、この田舎に文字がいつ入ってきたかも気になります。
●丹生都姫と狩場明神を空海の守護神にまでした動機がわかりませんね。地元の協力を得るためなのか、空海との関係があったのか、後世そこまで作り上げたのか?都に対しては何の効果もないし。そこまでしなくても空海の名前だけで影響力があったわけで。やはり地元民に対してなのか。地元の人でお坊さんになった方々がそこまで尽力をしたのか。でも守護神にするには簡単にはできないわけで。でもそこまでされる神様であれば昔から地元の地主神でなければされないわけで。

まあ要は、丹生都姫および狩場明神の存在と空海との関係については断定はできないと言う事です。あくまでも推測でしか書けない。と言うことは、文献から推測できることは可能性があればなんでも書けると言うことです。私は学者ではないのですべての文献を見ている訳ではないのでHPを作るときのスタンスはそう考えています。それを信じるかどうかは、その人が判断すれば良いと思っています。ただし、論文で断言する場合はそれなりの証拠が提示されていると思います。ちなみに、書店で売られている本は論文ではないので、いいかげな事を書いている人もいますけど。あまり喜ばしくないのですが。

[2433]   溺死寸前 タシュケテクタシャ〜イ!!    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/22(Tue) 19:33 [Reply]
 ミナシャン アマカネ
 おらが席亭になっちょる『ほにャらか掲示板』を注意深くみてくたしゃってるご仁には
すでに感知ずみのことかと思いやすが、不動とバッカス思うてきた神様の名前の発音が、実
は不安定だった‥‥ということで、『ほにゃらか』は今、溺死寸前アップアップしていると
ころにござんす。
 このことに就いて、ここの席亭瀬藤ドンにお E メールで問い合わせちゅうざんすが、慎重
な言葉えらびとか、他のことで多忙の真っ最中なのか、目下ムシさされ中にござんす。
 ミナシャンも知っていたほうがいいし、ミナシャンからもお智恵借りたい。

 神様の名前にはムヅカしい漢字が使われていて、おらがドンに何度も何度も質紋し、終い
にはドンが「愚紋だ、愚答せず」と云いだした裏には「古代の発音は漢字に書かれていたと
ころで、それは確定したものではない」という大原則が秘んでいた……らしい……くさい。
 福島さんは「シュアイ シェング」みたいな発音が「スサノオ」の原音だと本気で思って
いるようだし、H 氏は「ほとんどの神名の発音は不確定だ」という。

 おらはこれまで、「神ごとでの寄り合いの後には、必ずお神酒がふるまわれるので、ここ
で伝承された偏執(文化)は、みんな酒酔っぱらっているので信用することができない」と
踏んできた。
 しかし、そこに顔だしている神様の名前だきゃァ信じてきた。だが、それも信用できない
のだろうか。
 アンタ‥‥、これどう思うカネ。玄象師どん どな。

※ 同じ発音でも、ふた柱(別神格)の神があり得る‥‥そういうこともあるらしい。

 S O S の『ほにゃらか』;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2432] 山の講  榎本 [Mail] 2002/01/22(Tue) 19:17 [Reply]
setohさん、1月17日がこんなに大事なひだったとは・・・・
いやーびっくり、ちなみに家の村にも「山神」の社[とはいってもお不動さんだっりしますが]があったり「山の講」の習慣ものこっています。
山の講はだいたい林業関係者がおおいけど、いつも12月のだいに日曜ふるくは16日に
おこなっていました。
場所は滋賀の日吉大社に参拝です、12月の15.16というと秋葉寺の火渡りをおもいだします。


[2431] Re[2430]: ムーチーの日  習志野のてつ [Mail] 2002/01/22(Tue) 09:34 [Reply]
> 1月20日は旧暦の12月8日で、
> 沖縄の行事『ムーチーの日』だそうですが、
この民族?? のこともっと教えてください。

突然に:そう云えば(云わなくても)沖縄・久米島に
「ムーチーグー」と名付けられたポイントがあります。
水深5M程の砂浜に、数個の岩が点在し、南洋性のカラ
フルな魚が乱舞、ダイビングの初心者向けのスポット
です。昔『私が水着に着替えたら』と云う映画のロケ
にも使われたところです。岩が6個あるので
「ムーチーグー」=六個岩だと勝手解釈してました。

海の言葉は一種の業界用語なので、古い言葉が残り易い
『ガンガゼ』と云う棘の長いウニ様の生物がいますが、
ガンとは贋作の贋=にせ
ガゼまたはカゼ とは三陸地方で、ウニのことだそうです。

[2430] ムーチーの日  hin [Url] 2002/01/21(Mon) 19:02 [Reply]
1月20日は旧暦の12月8日で、
沖縄の行事『ムーチーの日』だそうですが、この民族のこと
もっと教えてください。ほにゃらか先生^0^<見たことないのです。

[2429] びっくりした1月17日  Setoh 2002/01/21(Mon) 15:18 [Reply]
 山神の信仰について調べていましたら,猟師は正月17日を祭日として深い畏敬の念を持って山神祭祀の風習が今もあるとのことです。尤も神社の祭礼日で調べて見ても関西の方はあまり出てきませんが・・。
 神奈川県足柄下郡箱根町 山神神社
 長野県堀金村 山神社
 山梨県富士吉田市 山神社
 山梨県都留市 山神社
 静岡県三島市松本,三島市塚原新田,笹原新田,戸田村,伊東市,御殿場市,長泉町,沼津市 富士市などのいずれも山神社
 滋賀県竜王町 大山咋神社
などが1月17日が祭礼日です。

[2426] かつらぎ町宮本丹生・狩場神社の縁起  なにがし [Url] 2002/01/19(Sat) 12:36 [Reply]
本日、日本宗教民族学研究会(岩田書院発行)の「宗教民族研究第11号」が早速届きました。早々に日野西眞定氏のページを読んでビックリ。予想では狩場明神は伝説上の人で片付けられると思っていたのですが。狩場明神に関する部分だけ抜粋紹介致します。ちなみにこの本、良く行く大きな本屋さんに置かれています。紀伊国屋や旭屋やジュンク堂なんかでも置かれていると思います。
宮本の丹生狩場神社については、こちらの神奈備さんのHPでお探し下さい。

●高野山の僧は、狩場明神、後には高野明神と称されるが、この明神を丹生明神以上に良く祀っている。
●他の史料からも家信が狩場明神、後の高野明神であることは明らかである。百合草野がその墓で百合野神社が建立されている。
●「葛城先達峯中勤式廻行記」によると・・・狩場明神社、ここで柴燈護摩を焚き、・・教良寺地区の峠に祀られている金剛童子に参り、これを入峯の最後の行事として、天野の脇の宿に馳け入る。
●(社名は)1社名で呼ぶときは狩場明神(1635年)、狩場大明神(1759年)とあるがその後宝暦10年からは皮張大明神と呼ばれ、明治時代に入ると、丹生・高野両神社となっている。
●(竃門氏の家系図の中の)「丹治家義」については「天野総神主家の系図」に「宮内太郎ト号スハ、丹治家義ノ次男ナリ、是レ(丹生祝)照元ノ又甥ナリ、親脉(親戚)タルヲ以テ此ノ家(丹生祝氏)ヲ継グ」とある。

( )内は前後の文より私が捕捉致しました。
上記の竃門氏家系図の家信に関する部分は当方のHPの狩場明神の考を御参照下さい。予想とは違い、私がHPで書いた内容と同じような見解でした。新発見は、
1)竃門氏の家系図では家信は「丹治家義之男」と出ており、また丹治氏の家系図でも家景−家義−家信となっていたので、私は家義の嫡男だと思っていたのですが、天野総神主家系図では次男となっている事。
2)家信は丹生照元の甥であった事。
です。照元の甥であったと言うことで、どうして丹生に養子にきたのかが分かりました。

ここで発展させますと、丹治氏と丹生氏は700年以前より親戚であったと言うことです。私は家信が養子に来て初めて親戚になったと思っておりましたが、実はその繋がりは紀氏や大伴氏との関係に匹敵するほどの古い繋がりであったと言うことです。また、丹治氏が銅と関わりが深いことを考えると、丹生氏も鉱山師であった可能性が少し出てきたかなと感じました。

[2425] Re[2423]: 謎の人面達  sugata [Mail] [Url] 2002/01/19(Sat) 12:14 [Reply]
> 私の思考かを確認したく、この掲示板に投稿しました。
> 多くの投稿を、期待しています.
URLが、間違っていました.
こちらで,お願いします

[2424] Re[2423]: 謎の人面達  Setoh 2002/01/19(Sat) 12:09 [Reply]
> 私の思考かを確認したく、この掲示板に投稿しました。
> 多くの投稿を、期待しています.

せっかくの御投稿ですが、URLアドレス、おかしくありませんか?

[2423] 謎の人面達  sugata [Mail] [Url] 2002/01/19(Sat) 11:49 [Reply]
私の思考かを確認したく、この掲示板に投稿しました。
多くの投稿を、期待しています.

[2422] 九頭竜について  雄一 2002/01/19(Sat) 11:49 [Reply]
石川県の地名  日本歴史地名大系17  平凡社  P33下段からP34上段より
「泰澄和尚伝記」によると、養老元年泰澄は白山に登拝する。九頭龍川に沿って登り、林
泉(平泉寺)で同所が白山神の遊所で仲居であること、白山神がイザナミで妙理大菩薩であることを悟る。天嶺禅定に達し翠ヶ池畔で白山神を拝み祈ると、神は初め九頭竜の形で現れたが、真身である十一面観音の姿を示す。(以下省略)
日本書記に出てくるイザナミも、先に書いたように九頭竜になるのでこの話と一致します

長野県の地名  日本歴史地名大系  平凡社より  P959下段
戸隠神社奥社には九頭竜神を祀る社が奥社と並んでいるが、これが地主神であって、戸隠
神社の発祥はこの九頭竜信仰に発したものであろうとする説が有力。(以下省略)
P962下段からP963  日ノ御子社
戸隠神社の神楽はかつてこの日ノ御子社で行われた。神楽10種すべて行うのを大神楽
・・(省略)/・・九番目の岩戸開きの舞は天照大神が天の岩屋へ隠れたことに際して、
中社祭神の天意思兼命の計画でその子宝光社祭神の天表春命を従え、日の御子社の祭神の天宇受女命が岩屋前で舞い、機をみて奥社祭神の天手力雄命が岩戸を開くというもの。
以上が、九頭竜について関係のある話です。
それから、Setohさん返事をありがとう。また、調べてみます。

[2421] Re[2418][2415]: 無題  Setoh 2002/01/18(Fri) 21:08 [Reply]
> 後XX天皇が続いたのは、復古(昔の栄光)の願いの
そうかも知れませんね。あの頃はよかったらしい・・・。

他の神社の例は天皇家とどの程度関連があったのでしょうか。

  式年造替     初例     断絶
賀茂御祖神社(下鴨) 784?   1348−1437
住吉大社       812    1434−1517
香取神宮       812    1293→
鹿島神宮       812    1321〜47→
宇佐神宮       982以前  1307→

812年とは弘仁三年ですが,この頃に鳥海山の噴火など,また為救疫旱也で伊勢に奉幣しています。
律令制最後の城柵である徳丹城が征夷大将軍文室綿麻呂によって作られたり,何かと不安な時期だったようですね。

[2420] 発見!!火の谷  Setoh 2002/01/18(Fri) 18:47 [Reply]
大和のアマチュア考古学者さんから,以下の事を教えてもらいました。

天理市乙木の夜都岐神社から南東に十二柱神社というのがあってその北側一帯を「火谷」というそうです。天理市史の別冊(資料編)に掲載されていましたから間違いないと思います。

奈良県内の小字を調べられるのでしたら、橿考研附属博物館の資料コーナに「奈良県条理復元図」(だったと思います)と云う分厚い本がおいてあります。

と云うことです。

地図も添付して頂いています。十二神社のページに入れておきました。
http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/juuni.htm

[2419] Re[2417][2407][2413]: 鎮魂の一時  香具 [Mail] 2002/01/18(Fri) 00:01 [Reply]
 実は生田神社本殿の裏手にある戸隠神社と恵比寿神社の後ろに、幕末の大地震で倒壊した石鳥居が置いてあります。後世に伝えるため云々・・・という墨がかすれた立て札もありました。神社を遊び場としていた子供達以外には知らない、目立たないものです。震災まで神戸市民は『神戸は地震が無いところだから』というのが口癖で、防災も六甲山の砂防のほうに重点が置かれていました。この街は明治以降に発展した都市だったからです。
 たとえ新興都市といえども、バトンを受け継ぐように、古来からの伝承を残すことは大切ですね。できれば活きた形で。(昔からある学校や寺院、神社、教会の近所に引っ越してきて、礼拝や祭りの騒音がうるさいと訴える大馬鹿者を、逆に処罰できないものですかね?)

> そういった意味で、神社というのは歴史的事実を伝える貴重な存在だと思います。

伝えるのは物でなく、人なのですね。・・・聴いて受け継ぐのも人。
吾は如何、倒壊した石鳥居を残した方々の思いをどこまで汲めたのだろうか・・・。

南海地震については、どうですか?

[2418] Re[2415]: 無題  玄松子 2002/01/17(Thu) 23:42 [Reply]
>  伊勢神宮の遷宮は持統四年690年が初例、途中1462〜1585年は中断している。

ちょっと面白そうだったので、学研の「天皇の本」で、この時期の天皇を見てみました。
1428〜1464 後花園天皇:応仁の乱勃発。
1464〜1500 後土御門天皇:帝の崩御の時、朝廷は葬儀費用が捻出できず、44日間御所内に安置された。
1500〜1526 後柏原天皇:朝廷貧窮のため、即位の大礼は、即位から22年後。
1526〜1557 後奈良天皇:貧窮により大嘗祭を断念。
1557〜1586 正親町天皇:即位式は毛利元就の献金により行う。つまり戦国武将が朝廷を利用する時代へ。

伊勢遷宮どころではなかった時代ですね。後XX天皇が続いたのは、復古(昔の栄光)の願いの表れでしょうか。

[2417] Re[2407][2413]: 鎮魂の一時  神社研究部 [Mail] [Url] 2002/01/17(Thu) 23:09 [Reply]
はじめまして。
2年前ひょんなことから私は神社に興味を持って明石市の神社を調べてまわっています。
7年前の震災は私も明石で経験し、恐ろしい思いをしましたが、明石でも、震災の傷あとがいまもそのまま残っている神社や、震災後鳥居が新調された神社など、今なお震災のものすごさを伝るものが残っています。
そういった意味で、神社というのは歴史的事実を伝える貴重な存在だと思います。



[2416] 無題  榎本 [Mail] 2002/01/17(Thu) 19:17 [Reply]
え^^どこにいたの
いや。。。わたしは春日大社の知人のところいって遅刻しました。
さすがお答えのとうりです
わたしもこれを機会に見聞をひろめねばいかん・・・・

[2415] Re[2375]: 無題  Setoh 2002/01/17(Thu) 18:52 [Reply]
> 今日「つくられた伝統ー神社建築の変容をめぐってー」の講演会にいってきた[けっこうこのサイトの面々がいたかも]

 榎本さんの行かれた「つくられた伝統」,神奈備も拝聴してきました。

 色々お話があったのですが,記憶に残った所を少し。

 文献的のは4.5丈の高さまでは信用できる。柱が太いから高いはずと思いこんでは駄目。

 前に発見さTVでの話題になった金輪で3本を纏めた柱は,13世紀のもの。かつここままで高い建物にするのは技術的に困難で,台座(構築物)に使われたのであろうとの見方。

 出雲大社の倒壊については何度かはウソがあり,1031年に倒れたと申告した国司はウソがばれて佐渡へ流罪。

 センターラインには宇豆柱−心の御柱−宇豆柱とならぶ。宇豆柱は左右の柱より前後に出ている。この宇豆柱が何故このように呼ばれたのか知らない。これら中世のネーミングについては復古的にそのように名前が付けられたことも要考慮。

 伊勢神宮の遷宮は持統四年690年が初例、途中1462〜1585年は中断している。
 
 古い建築様式は伝えられたものなのか,復古的に作られたものなのか,要吟味。

 榎本さん,補足訂正あればよろしくお願いします。


[2414] 新年会のお知らせ  Setoh 2002/01/17(Thu) 13:50 [Reply]
 新年会のお知らせ。各位のご参加お待ちしています。

 日時 1月22日(火)18時30分〜21時30分
 場所 おきん(神奈備の表紙下段の大阪本町絶品昼飯参照)
 06ー6271ー1590
 地図 http://www.kamnavi.net/link/okin.htm
 テーマ 物部の技術と呪術
 講師 女性古神道行者,物部系男神主
 幹事 神奈備

[2413] Re[2407]: 鎮魂の一時  峰 小雪 2002/01/17(Thu) 09:34 [Reply]
瀬戸内さまへ

峰小雪@神戸市東灘区 です。七年目の朝ですね。
丁度今頃は余震の中埋まった人を掘り起こしていました。
天災の前に人の命は儚いし、生きていくことは苦しいけれど、あの日救えなかった人々の事を思うとこれからも頑張って生きていきたいなと思いをあらたにしています。
私の家の近くの神社で、あの時救助に訪れた自衛隊員の方が宮司になられた神社があります。
いまだ本殿の再建もかなわぬ神社もありますが、それぞれの速度で頑張っています。ゆっくりと少しずつかも知れないけれど、再生への道を、この街と共に歩んでいきたいですね。

[2412] Re[2411]: 山の村の山の神  香具 [Mail] 2002/01/17(Thu) 09:10 [Reply]
『北山百山』−大森ノモリ−によると、
大森の東町には、「サワダのモリ」、「ムクのモリ」、「ワダのモリ」、「オサのモリ」。
大森の中町には、「タンバウジのモリ」、「シマダのモリ」、「イナリのモリ」。
大森の西町には、「秋定大明神」、「秋吉大明神」、「猿田彦大神」、「八王子神社」。
と、記載されています。いずれも見た目には、よく道沿いにある道祖神の祠や、お地蔵さんの小堂のようなサイズのコンパクトなものでした。
 しかし、それぞれ各モリとも同姓の家々により大切に祀り続けられている様子で、まるで親族共同の神棚を屋外に作ったのかな?と思った数でした。持ち山に入る小道の登り口にあるので『山の神』かもしれません。拙アルバム中の崖にある『稲荷社』が中町の「イナリのモリ」だと思います(他はもっと低い処)。

[2411] Re[2402]: 温い日  Setoh 2002/01/17(Thu) 07:46 [Reply]
> 『大森の加茂神社とは何か?なぜ加茂か?』
大森考
 『奥羽観跡聞老志』には、刈田郡では「黒峯銀窟」の「黒峯」がクロモリ、「大峯山」をオオモリヤマなどと訓まれているそうで,今でも東北では山峯をモリと云うことがあるそうです。
要するに「こんもり」したとか「もり」あがった所はモリだったそうです。神の宿るところがモリで,神奈備と同義ですね。そう云えば社もモリと訓まれますね。
万葉集 巻七 一三七八 木綿懸けて斎ふこの社(もり)越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに


[2410] Re[2409][2402]: はよはよ  香具 [Mail] 2002/01/17(Thu) 01:29 [Reply]
現地に行かなくても面白い本ですが、ご参考まで(図書館でどうぞ)、

北山クラブ(著)『北山百山』ナカニシヤ出版/平成元年 (ISBN4-88848-122-9)
  91ページ「大森ノモリ」の項。

澤潔(著)『京都北山を歩く(2)』ナカニシヤ出版/平成2年 (ISBN4-88848-116-4)
  60ページ「供御飯峠から小野郷大森みち」の項。

地図は、昭文社;山と高原地図49『京都北山(1)』です。(調査執筆は北山クラブ)

上記の本によると、惟喬親王の遺跡(赤い屋根)は『安楽寺』。『堕川御上神社』は岩屋山山系『薬師峠西麓』にかつてあった、そうです。小野郷から大森までは殆ど起伏のない平坦な車道です。JRバスの時間さえ抑えておけば、比較的に訪問しやすい処といえます。
しかし季節柄、天候には十分ご注意下さい。

[2409] Re[2402]: いやはや  kokoro [Mail] 2002/01/17(Thu) 00:52 [Reply]
 香具さん、行きたくてしょうがなくなってきましたよ。大森加茂神社の佇まい、全く素晴らしいです。

[2408] Re[2406]: 葦原志許男大神  香具 [Mail] 2002/01/17(Thu) 00:46 [Reply]
> 近々伊和神社へ参詣しようと・・・

おそれながら、県民のビーフンとしては、もう一足伸ばして頂いて、『御形神社』へのご参詣はいかがなものでしょうかと、かしこみかしこみ申し上げます。

[2407] 鎮魂の一時  瀬戸内 2002/01/16(Wed) 22:43 [Reply]
前略 瀬戸内です。
7年前 西宮に住んでいました。
そう かの阪神大震災を体験いたしました。
家族の命は無事でしたが、大変 ショックを受けました。
なくなられた方のご冥福を
遺族の方に生きる希望を
神様の光が 充分あたることを 祈ります。
人生 生きること 生かされていることを切に感じます。

[2406] 濡れ落ち葉  Setoh 2002/01/16(Wed) 21:08 [Reply]
 古風土記が残っていてまたそれが面白いと云うのは播磨の魅力の一つですね。近々伊和神社へ参詣しようと思っていますが,見所をご存じの方、ひとつ教えて下さいな。
 
 滝の垂直落ちは重力の法則に則っているんですが,磐がは山中で垂直にそそりたっているのを見ました。有田郡吉備町の白山という山です。この辺りにも国津神社国主神社が多いような気がする地域です。ひょっとしたら古い神社の大半はクズ神だったのかも知れません。縄文だっしゃろか。

 新年会,古神道行者さんからの連絡を待っている所です。そのうち日程をお知らせできるでしょう。

[2405]    キ の く に     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/16(Wed) 20:26 [Reply]
 『あさ(希望)も(くに)よ(弥)し(の)』へ出したほうがよかったかな?

 三浦半島方面とか伊豆あたりでは、滝のことは「ダル」というそうです。「タル」という地方
があるかどうかが、次の課題です。東條操の方言辞典には出ていません。
 DHAR(水流)がダル(滝)として定着しかけたところへ、どのような偏執を持った氏族がやっ
たのかは分りませんが、それに「神・水」を意味する MI を添えて、垂直に落ちる瀑流を、タル
ミと造語したのでした。

 何で垂直に落ちる瀑流が神かというと、それは瀬藤ドンが去年ナチの滝をみて「水の柱だ」と
感じたとおり、滝は瀑流に姿を借りた神だったワケです。
 あ、説明の順序がハチャメチャになって、ついつい「タキ」が先にでてしまいました。
 タルミだけなら整然とするのですが、さきに揚げた DHAR(水流)に、天に昇るべく立上がっ
た竜の姿を意味する KI を添えて「タキ(滝)」としたイタズラ一派がいたのです。
 お忘れではなかろうが、水はいのち……、色は青です。

 その立上がった竜の「キ」は、シナ文字で‥‥‥草冠の下に、左から「止」「自」「巳」を三
つ並べて、その下へ「変」の下を書きます。
 大地を意味する KI も古くて広範囲に散らばったことばです。その大地(エデン語 MAT ……女・
蛇)のエネルギーが上昇するのが「木」……これ、KOKORO さんのつい最近の御教えカネ。

 『かむなび』」のミナシャン、あがあがネ。今回はとりわけ KOKORO シャンあがあがあるよ。
 「紀のくに』とは酒(キ)でも木でも、大地(キ)でもねぇ。シナの「立上がった竜」をこと
のほか信奉する渡来民系豪族のくにだったのデシタ。

 和歌山県知事さんよ、褒美はヒコーキ 一機でいいよ。灘のキ一本なら毎晩のんでらァ〜。
 ※ DHAR(水流)……ネパール語です、

[2404] Re[2403][2402]: 温い日  香具 [Mail] 2002/01/16(Wed) 12:02 [Reply]
ただ行きっぱなしの無責任報告に、ご解説をいただき有難うございます。
いつもの反省ですが、事前に下調べが大切ですね。
『落葉』『堕川』『大柴』、オチバ、オチガワ、オオシバ・・・
漢字にとらわれずに示したい元の言葉があったのでしょうね。

『堕川神社』・・・現『落葉岩戸神社』
『堕川御上神社』・・・現『大森加茂神社』またはさらに上流の『堕川社』
と、いうことでしょうか。上流の『堕川社』を見つけてくれば実りが・・・。
折り畳み自転車を持って行きたいところです。

[2403] Re[2402]: 温い日  玄松子 2002/01/16(Wed) 01:55 [Reply]
式内社調査報告によると、

> まずは小野郷のバス亭からすぐに『落葉岩戸神社』があります。

これが、堕川神社や大柴神社では、とされています。


> 山中にしては広々と開けた大森の集落の中程、清滝川のほとりに『加茂神社』の杉林がみつかります。
> 『遥拝所』、『元式内社 堕川御上神社』という2本の石柱があり、社も祠も無し、まさに遥拝施設のみ。

こちらは、堕川御上社の論社とされていますね。


> 霧滝まで来る途中で岩尾方面への道に曲がると『堕川社』があるように書いてあります。

こちらも、多分、堕川御上社の論社です。
http://www.kamnavi.net/en/yamasiro.htm
このページの「明神祠 未確認」ってやつです、多分。

なんとも羨ましい行程ですよね。
多分、間違いなく、ちかじか、神奈備出動がありそうですね。

[2402] 温い日  香具 [Mail] 2002/01/16(Wed) 00:55 [Reply]
ぜんぜん脈絡がないのですが、この日曜日にですね・・・、
 京都市の地図で下鴨神社(賀茂御祖神社)から上賀茂神社(賀茂別雷神社)へ引いた線を延長して北山の山中を眺めていたら、清滝川上流にある大森の地に『加茂神社』を見つけました。そこで新春にしては、我が頭の如く茫と霞んだ温い一日、京都へ行ってきました。京都駅からJR西日本バス:高尾経由周山方面行きに乗り小野郷で下車(約1時間、880円)。
 まずは小野郷のバス亭からすぐに『落葉岩戸神社』があります。岩戸川と清滝川の合流する処、この裏山も味のある形。頭上にせり出した岩山の懐に本殿があり、正面に2つの社が並びます。右側に『御霊社 落葉姫命』。左側の社は『稚日女神 彌都波能賣神/瀬織津比メ神』。摂社は、『山神社 大山祇神/大山咋神』、『八幡社』、『天神社』、『太田社』、『神明社』。小野篁ゆかりの神社だそうですが、ごめんなさい、よく知りません。取り敢えず歩く!ここから徒歩約1時間で大森の山里へ(立派な車道なので車なら10分程度)。途中には、川床から巨岩がせり上がっている『化岩』とか、崖の中程に鎮座している『稲荷』の小祠などがありました。

 山中にしては広々と開けた大森の集落の中程、清滝川のほとりに『加茂神社』の杉林がみつかります。 瑞垣はなく北山杉の叢林に囲まれています。道から川端に降る位置、禊の社の印象。本殿の向きは西南西。清滝川の流れと周囲の谷の開け具合に素直に従った様子ですが、背後の遠景には岩茸山の山頂が見えます。そのさらに向こうは芹生や花背の地。上賀茂神社や下鴨神社を意識させるものは見つかりません。そばを流れる清滝川すらやがて桂川に連なる水系で、鴨川には繋がらない。境内にも本殿にもご由緒やご祭神が判明するものは見当たりませんでした。
『大森の加茂神社とは何か?なぜ加茂か?』・・・現地では手掛かり不明のまま。
 摂社と思われるひとつは、『遥拝所』、『元式内社 堕川御上神社』という2本の石柱があり、社も祠も無し、まさに遥拝施設のみ。さらにもうひとつは背丈より高い中程度の祠で、本殿のように建物の中に鎮座されて直接の風雨を受けないよう手厚く祭られていました。本殿にも、この摂社にも文字で書かれた物はありませんでした。まったくもって『村社』そのもの!という感じです。

 加茂神社から徒歩5分程の東に『惟喬親王の旧跡』がありました。赤い屋根の古びたお堂のような建物があるだけで、案内も説明板も何もありません。偶然に立ちより、側にある3本の小碑でそれと判りました。鍵のかかった格子戸から暗い内部を覗くと、中央に金箔の残る仏像(座像)が、右には高僧『××上人』風の座像が、左には背丈程のしっかりした祠が見えます。由緒ありそうな仏像や祠ですが『あからさまには公開したくない』といった感じの管理状況でしたので、さすがにフラッシュを焚いてまで撮影はしませんでした。

 ここからさらに30分ほど山に入り『霧滝竜王不動尊』を目指して、霧滝まで辿り着きました(しかし不動尊は判らずじまい)。北山クラブ編集の『京都北山百山』にある略図によると、霧滝まで来る途中で岩尾方面への道に曲がると『堕川社』があるように書いてあります。今回、帰りの時間が迫っていたので『堕川社』には寄らずに戻りましたが、帰宅して資料を見ると『堕川社・・・所在不明』とあります。
 あれま!『堕川社』を探してきたらよかったですねぇ。
やはり冬場は陽の傾き具合が早いので行動時間が制限されてしまいます。残念。

 京都の鳴滝は世界最高品質の砥石を産出するところ。その奥にあたる高尾や北山は同様な地質のせいか、街道沿いに見える岩や崖に独特の趣きがあります。奈良の山中とは異なる岩の質ですね。あたりは北山杉が整然と植林された風景がどこまでも続きます。(花粉発生の時期は避けたほうが無難?) 結局、大森加茂社と有名な上下の両賀茂社の関係は現地では判りませんでした。ここからは資料が頼りのようです。ただ路傍にある警察の『非行を防ごう』というようなキャンペーン看板に太秦警察署とあったので、このあたりまでエリアに入るのかと、妙に納得させられました。
 『大森』は名のとおり、あちこちに森、杜、守の神々を祀る小さなミニ社がたくさんある集落です。もう一度、ゆっくり取材できれば、その世界を覗けるかもしれません。

画像は拙アルバム後半に;
http://photo.goo.ne.jp/user/ixtlan

[2401] 丹生狩場  なにがし [Url] 2002/01/15(Tue) 21:20 [Reply]
先日インターネットで日野西氏で検索していたところ下記の項目に衝突しました。確か「宗教民族研究」という本のある章だったと思います。届きましたらまた報告致します。
ちなみに、この先生は高野山奥の院の維那で元高野山大学教授です。どのようなことが書かれているか楽しみです。ただ夜に出回っている文献は限られているので結論はだいたい予想はつくのですが・・・。

『かつらぎ町宮本丹生・狩場神社の縁起について 日野西眞定』

[2400]   伝統のアナ       一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/15(Tue) 19:11 [Reply]
 さきほど逗子の斉藤守弘さんから電話があって20分ばかり話しました。
 そのなかで、同氏は岩に彫られた直系5cmぐらいの孔が超古代・世界中の遺跡にみられる現象
について、その意味がわかって識者に訴えたところ、支持をえて各地を講演して廻っているそう
です。
 この偏執の神を極孔神と呼んでいるそうですが、どうもこれ XO KRA に通じるようです。
 極とは頭のてっぺんという意味だとか。
 『かむなび』さん。ほんとにほんとにあがあが。とりわけ神庫教えてくれた玄象師あがあが。

 KHOKRA をもういっぺん撫でなでしようと基礎ネパール語事典をみた……ら、KHOP-に、「突き
刺す」、「石に彫る」、「彫刻する」……に続いて「地面に孔をあける」があるじゃあ〜りませ
んか!
 斉藤守弘さんは「この偏執はネアンデルタールまで遡ること必定」と言っていましたが、地面
にナニしてナンとやらの「オナンの紀」までイケることはタシカさんで……。
 向学心のハケ路(バクチ)やむなく、ミナシャンに訊きたい。誰ぞムステル(バチオン)の語
源知らんカネ。
 KHOP-の -P は動詞形成末尾辞。

 斉藤守弘さんのハナシに、“茅野市の国宝”があった。土偶だが、頭の皿に渦巻き紋が認めら
れる……と。カッパでんな。その胸のところがぐっと押し付けられて、へっこんでいる。これも
「極孔神」の連続。

 斉藤守弘氏;、超歴史学研究会 理事長 ……ドタマとハートが超一級。パソコンやらんのが
        タマに瑕。

[2399] 伝統の火  Setoh 2002/01/15(Tue) 17:57 [Reply]
  伊太祁曽神社で卯杖祭と粥占いが14日20時から行われ、15日早朝に豊作となる稲の銘柄順が発表されました。管の中の粥の多い順に豊作と云う神事です。
 昔は同時に裸参りがあり,遠くは那賀郡辺りからも早朝に男子が褌一つで神社までかけてくる祭りで多くの青年が参加していたようです。この時は家族の誰かが着物を持って後から追いかけてきたそうです。到着してそろった後卯杖としてさした木の枝が投げられ、それを拾った者に幸運が訪れるというものでした。
 戦後途絶えましたが、最近では上半身裸のジョギング大会などで復活しているようです。
 昔の神職の行事職の後裔の方ー大河内さんーと云うお年寄りは一人で裸祭りの伝統を絶やさぬように今日の早朝に神社に走ってこられました。ごく近いんですが。

[2398]   それれ いいのら      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/15(Tue) 09:09 [Reply]
 学者は学者でも、民俗学者が言語(……とくに語源)にクチバシいれてくる姿勢
にはドタマにくるぜ。「学者意識」が鼻につく。

 紀記などのウソ発見作業もダイジな視角です。だが、あっしのここんとこの説明
とは、言語開発に伴う方法論だす。歴史に使われている名詞を中心とした語源へア
プローチするに課せられるキビシさ、アマカネ。

 軸足を置くヤリクチからの規制カネ。

[2397] Re[2396]:  あ、スマン 英語だったか    玄松子 2002/01/15(Tue) 01:43 [Reply]
>  とにかく、社会一般へ威張ってきた学者の ♪√ あんなになって こんなになってあんなになったのヨ〜〜 は、オラキカン。
>  神とか天皇様とかの、そういう名前があったこと、おらはスナオに信じるばい。

僕も、記紀の虚構が好きなので、「神とか天皇様とかの」名前は素直に信じているほうですが、学者に威張られた記憶はありません。「調べたらわかった」と言い放つ素人は知っています。
「坊主憎けりゃ袈裟まで」って風に聞こえます。
「学者」が悪いのではなく、「悪い学者」が悪いのです。また、「悪い学者の説」が必ず間違っているのではなく、「間違った説」のみが間違っているのです。と思う。

[2396]  あ、スマン 英語だったか    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 21:54 [Reply]
 AUTHOR と AUTO とが同根かどうか、そこまではオラシランが、玄象師のおっしゃる
権威たぁ、いずれにしろ「自分の内部へのとりこみ作業」のことあったかネ。
 そういう意味では、おらは AUTO だす。アウト・ローやろかね。
 言うほう、聞くほう、やっぱおたげぇに語源シランと始らんばい。

 とにかく、社会一般へ威張ってきた学者の ♪√ あんなになって こんなになって
あんなになったのヨ〜〜 は、オラキカン。
 神とか天皇様とかの、そういう名前があったこと、おらはスナオに信じるばい。

 カキコみボタンぶっ叩くまえ、チラとみた。内陸へのとっつきの“阿波”は どな
 アハは睨みつけたばかり、カキコ済み(「ほにゃらか」だったか)。

[2395] レッパクの気迫だよ  Setoh 2002/01/14(Mon) 21:24 [Reply]
> 神武天皇が案山子だとすると、カラスが先導するのは、どうなんでしょう。
死と再生の通り一遍で言えば,熊野では日の御子ですから,カラスが案内したとか。
ヤタガラスは三本足ではないのでしょうが,カカシを背負ったヤタガラスは三本足に見えたとか。お粗末の一席でした。 m(_ _)m

> ・宗像系の勢力の移動 
> ・神功系の勢力の移動
> ・陸から少し離れた(なぜか)重要な小島
シャッポがとんでまう凄い着想だと思います。神功系とは天日槍命系とか風土記的には安曇族辺りでしょうか。アジム,アヅム,何かを示しているのかも。
それよりも陸から少し離れた小島,これは英国の植民地確保策でもありました。侵入者にはいい手段だったのかも。難波では島ではなくて失敗、紀の国では名草山はかっては島だったようです。
 

> 九頭龍神はイザナミ命でしょう?
雄一さん,ご指摘ありがとうございます。これで白山の神がイザナミ命で流れ出る川が九頭川と云う事が素直になりますね。

> 伽羅神社
この字の神社はお目にかかっていませんが,カラの字を「辛・韓」としているのでは
上野国多胡郡 辛科神社
河内国志紀郡 辛国神社
出雲国盾縫郡 韓竈神社
石見国邇摩郡 韓神新羅神社
などが記憶にあります。

> オレのどこに権威にすがる OR  みずから“権威”RIZEあらいしょ。
どこで誰がそんなことゆうてる? 俺には読めないよ。

[2394]   アイデンティティー     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 20:05 [Reply]
  エノミヤ・タケリあがあが。

>「権威」「既成」であるからという理由だけで排斥するのも、「権威主義」の一つの
  現れ。玄人の意見も、素人の意見も同列・同質に扱えばよいだけです。
★ ちゃう ちゃう いまはまだまだアイデンティティーが固まる TERM でんがな。
  拒絶反応の連続じゃねぇとアイデンティティーはカタマラン。
  ザマねぇことの連続ばい。
  ばってん……、どっからでもいい。水源がほしいとき、松戸のナマゴミからにじみ
  出てくるクサレ水でも、それを水源として夢想したくなる。
  ハツオンだけは枯渇のなかで渇望しやす。

  「玄人の意見も、素人の意見も」とおっしぇぇやすが、クロートちゃぁ、ネクタイ
  はめてムダメシ食っただけのバカタンの群じゃんか。その証拠が現実いまのワカラン
  状況やろが。
  紋チャンレッパクの気迫ぞな。オレのどこに権威にすがる OR  みずから“権威”RIZE
  あらいしょ。静かにききますきにアマカネ。

[2393] Re[2391]:   新しい先生がアガってきんしゃった    玄松子 2002/01/14(Mon) 18:13 [Reply]
> ★ 天一根、埃宮のハツオン、アマカネ

天一根:「アメヒトツネ」あるいは「アマノヒトツネ」かも。
埃宮:「エノミヤ」。古事記では「多祁理宮(タケリノミヤ)」。



> >  地名辞書では
> ★ 唯我独尊的ではありますが、ポット出の言語考古学はまだ ♪√なにが なにして なんとやらぁ〜〜 の領域にはつきあいきれんし、既成の権威スジとは方法論でガラ変わりしちょる紋で、既成解釈は極力排斥せなイカンとです。

「権威」「既成」であるからという理由だけで排斥するのも、「権威主義」の一つの現れ。玄人の意見も、素人の意見も同列・同質に扱えばよいだけです。

[2392] 神明宮から伽羅神社  雄一 2002/01/14(Mon) 17:56 [Reply]
神功皇后の三韓征伐後に伽羅(きゃら:香木)が奉納され、神明宮から伽羅神社(から)に名前を変えた神社があります。他に粟島宮があり(祭神は少彦名)神社の神紋は花菱です。宮内省座神韓神は元は、伽羅神社に祭られていたのではないかと思い、調査しましたがはっきりとわかりません。どなたか、伽羅神社について知らないでしょうか?
追記 伽羅国(からくに)は古代朝鮮半島にあつた国。
   易においては太極は神明の宿る所です。
   宮内省では北に韓神(大貴己、少彦名)、南に園神(大物主)を祭り園韓神祭りを
   していました。
   尚、現在の神社名には伽羅の文字はありますが、伽羅神社ではありません。

[2391]   新しい先生がアガってきんしゃった    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 17:55 [Reply]
 なんぼ祓いの儀式とはいえ、紳士を煮詰めて作ったダンゴが高々と毛ぇ生やしたような気
高き玄象師をヨッパライ呼ばわりして、スンマッシェンでした。

> 「アヂン」って何ですか?
★ 2388 の最後に書いちょりますが、ネパール語の ADHIN(支配)です。
  古代語は発音はそんなには変わりません。しかし、その概念(内意)がいろいろと変化
  するとです。例えば英語 BAT と PAT / ばちまわす(ぶんなぐる)。ワッカルよな。
 それ故、安心院は「支配」という概念周辺の「ナニモノカ」でんがな。
  ADHIN は沖縄で按司へと化けこんでいますきに、日本列島には全面的に「アジ」として
  流入しているのかもしれません。
  それ故、あるとき、お寺を建てて、その名前をつけるとき、この按司をもってきて、そ
  れに「院」を続けて命名した……のかもしれません。

 われわれは21世紀初頭人であることを、まず自覚する必要これあらむか。まして言語学
者がドサボりまくって、言語考古学は『かむなび』の庭に始って、まだ3年しか経たんとで
す。「今すぐ100%正しい解釈でないとイヤじゃ・イヤじゃ」は、駄々こねの部類カネ。
 
>  地名辞書では
★ 唯我独尊的ではありますが、ポット出の言語考古学はまだ ♪√なにが なにして な
  んとやらぁ〜〜 の領域にはつきあいきれんし、既成の権威スジとは方法論でガラ変わ
  りしちょる紋で、既成解釈は極力排斥せなイカンとです。

>  玄松子さんによると,安心院(あじむ)の妻垣神社や三女神社にその伝承が伝わってい
> るとのこと。
☆ 三女神社の方は、自信はありません。
★ うんにゃ、ああた、ウサのムナカタの三祭神な足きりの名前がついてござったろうが。
  ヒメ・ヒメちゅうち神様が後世の“姫”だらけになったつは、ひとつには足を切って男
  が宦官みたくにチンポのうならかしんしゃったきやろばい。

★ 天一根、埃宮のハツオン、アマカネ
 筑紫岡田、建日方…… XO >O  KARTAは指揮者。
 「日」と「氷・簸・簸川」は同音じゃなかったつでっしょうネ。日はエジプトの HIR(太
 陽)系、「氷・簸・簸川」は XO 起源のインド・カラッポ系でっしゃろ。
 ばってん、現実にはこげなんとはすぐに、コンドーさんカネ。日前ともなったらもう両方
 睨んぢょく必要これあらむか。

 白状しますが、おら、アヒアガリは「太陽・やってきた」の意味だと思っています。
 A は「人称冠詞……わが」と「大」の懸け言葉。足とか一は柱偏執での当て文字。
 新学期になったら生徒や先生が降りて行きなったが「あがって」きんさったやろが。
 アガルは基本的には姿を顕わすの AKAR やろばってん、もちっと近い語彙が『インド語
 総覧』にあらへんやろか……ち、今からさがし(S・AKAR)してみます。

[2390] 戸隠神社について  雄一 2002/01/14(Mon) 15:50 [Reply]
結論から先に書くと、九頭龍神はイザナミ命でしょう?黄泉のイザナミ命の体には、雷神(龍神)が八神いると日本書記にあります。よつて、イザナミ命自身が龍神だとすると、黄泉でのイザナミ命は九の頭を持つ龍と推測されます。戸隠神社の九頭龍神は天の岩戸とともに空から落ちてきたともいわれていますし、九頭龍神に梨を供える風習もあるようです。(イザナミ命が九頭龍だとすると、戸隠の岩戸は閉じている別の岩戸になりますが)

[2389] Re[2388]:   やっぱ『かむなび』のドン    玄松子 2002/01/14(Mon) 13:09 [Reply]
>  安心院(アジム)は音だけから言うとアヂンからの音転だと考えられます。

「アヂン」って何ですか?
地名辞書では「古の倉院の置かれし時の遺名」とあり、
他の説では、葦の生い茂ったところ、葦生ともあります。
「アジム」という発音は、渡来系の人々が多かったなどの理由で変化・音訛とも考えられますが。

> 玄松子さんによると,安心院(あじむ)の妻垣神社や三女神社にその伝承が伝わっているとのこと。

三女神社の方は、自信はありません。
ところで、足一騰宮が、その形状・状況を説明した宮でないと仮定した場合、
古事記・日本書紀ともに「アシヒトツアガリ」と訓めるところから、
その命名は、記紀編纂者ではなく、宇佐周辺の旧事記によるものでしょう。
さらに、仮定を重ね、これをいずれかの神名・人名と関連させるならば、
その視野には、姫島の「天一根」や息長足姫も入れるべきだと思います。

原始八幡信仰の祭神は姫神とされています。宗像三女神と同神とされています。
神武様御一行の次の滞在地は、筑紫岡田宮ですね。宗像の近くじゃないでしょうか(自信ない)。
その次は安芸の埃宮。宮島が近いですね。
そして吉備の高島宮。児島あたりだとされています。児島は小さな島(今は半島)なのですが、建日方別と、姫島同様、古事記・島生みに書かれているのは不思議です。

ということで、以下の要素は考えられないでしょうか。
・宗像系の勢力の移動
・神功系の勢力の移動
・陸から少し離れた(なぜか)重要な小島

[2388]   やっぱ『かむなび』のドン    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 09:50 [Reply]
 「アヒ」一語なら、なぁ〜〜んも連想しないが……なも。
 なにがしさん、出張続きの身にはミミの毒、たまらんのう〜。
 そのうち、纏めてあがあがいうので、ナンのことか憶出しておくれ。

 安心院(アジム)は音だけから言うとアヂンからの音転だと考えられます。
 終わりは「院」で IN じゃもんな。そこへ朝鮮系の人々が入ってきたと惟ふ。
 ナァ〜〜ンデカというと、キッチョムさんみちおくれ。一般の日本人はキッチョ
ンさんち、言うとばい。朝鮮系は「 M 」が好きなっちゃ。また、倭人は N 終わりが
嫌いなっちゃ。沖縄など古い地名は N 終わりになっちょる。ネパール語 ADHIN(支配)。

[2387] アヒ アヒ  Setoh 2002/01/14(Mon) 08:30 [Reply]
おはようございます。生駒山系の南端の高尾山の磐座の写真を下記に掲載しました。
香具さんのようなよい写真ではありませんが,鐸比古鐸比売神の降臨する磐の写真です。
http://photo.goo.ne.jp/user/kamnavi/

 さて足一騰宮の址として枕鼻神社を推定したのですが,ハズレのようで,玄松子さんによると,安心院(あじむ)の妻垣神社や三女神社にその伝承が伝わっているとのこと。ありがとうございます。
 安心院は奥の方で,駅館川を遡ったとしても,ここまで船で行くとも思えませんね。
 宇佐神宮家の出の宇佐公康氏によると,安心院より少し下流の宇佐市拝田に足一騰宮の跡地を求めておられます。

 アヒ 阿比岐神、阿比良比売神,吾平津毘売神。

[2386] Re[2381]: ほにゃらかNOW 足一騰宮  玄松子 2002/01/14(Mon) 02:02 [Reply]
>  『記紀』が編纂されて,それを読んだ地元の人はビックリ,いそいで伝承の地付近に神社をこしらえ,神武天皇一族を祭神にしたことでしょう。
>  宇佐市大字和気の枕鼻神社の祭神が神武天皇、彦五瀬命、不合尊の三柱になっています。此処以外には小生は見つけて居ません。和気の地名はご承知の清麻呂が託宣を受けるべく上陸した所で,昔から宇佐へ上陸するには寄藻川が使われたのでしょうね。

宇佐の川上の「足一騰宮」の址として、妻垣神社や三女神社があったと思います。いずれも安心院(あじむ)ですよね。「アジム」ってのも意味ありげな地名ですね。

[2385]   泣 き を 入 れ る      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/13(Sun) 22:11 [Reply]
 ミナシャマ、酔い潰れていらっしゃるところを恐れいりますが、「あひ」がつく神名とか、
えらい人の名前あったら教えてくんろ。「アイ」「アエ」じゃなかとばい。

足一‥‥アヒと読んでみる。A(足・大) HI(例の簸川、氷川、斐川のヒ)。
 A(足・大) XO(空虚の神)はありえないよなぁ。あーー赤穂があった! オラシランぞ。
 尚、教えてくれてもあがあが言わんので、ゲロ吐くな。ここは神域だ。

 KOKORO さん、髭撫でさん、だいぶスカートまくりせなならんごつなったバッテン、ほにゃ
しちょりますきに。
 

[2384] Re[2380]: しまった!  習志野のてつ [Mail] 2002/01/13(Sun) 20:51 [Reply]
> 日本書紀景行四〇年七月条です。
しまった!不勉強がばれたか。有難うございます。

> 日本武尊東征は、実は、東国追放であったということです。
『斧と鉞』は中国で軍事の全権委任を表わします。「追放」
との表現はむりでは?
似たようなものに節刀(読み不明:せっとう?)と云う文字があります。
遣唐使を調べていた時出てきましたが、一行を指揮する大使に与えられた、
生殺与奪を含む全権委任の象徴です。
征夷大将軍坂上田村麻呂も節刀を賜って、蝦夷征伐に出ました。

矛は土地を治める象徴です。そもそも矛から滴れた滴からできた地ですから。

[2383]   虫 か え し      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/13(Sun) 20:17 [Reply]
 ミナシャァ〜〜ン・アマカネ
 イタキソ様からのドデカイお歳まえ待っていたところへ、エホヴァの神さんご来訪カネ。
 日本人が考えてワカラン語彙のほとんどは外来語で、まんずインド諸語をみるとその6割
は意味がわかる……という仕組みがいよいよ明瞭となってきました。

 ここ『かむなび』では「斧とはなんだろ、マサカリとはなんだろ」と、ことばの原義に迫
る切実なギ紋が続いていやす。
 だがね、もういっぺん虫返す。下記 「インド語総覧」をみてくんろ。
http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/dictionary/0000LANG.HTM
 するといろんな言語種が記号で出てくるのでその割り出し調べは
http://www.worldlanguage.com/Japanese/ProductTypes/Dictionaries.htm 
 で、やんなされ。ワカランときは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
へほにゃらっしゃい。
 紙に印刷した本を買うと37万円は支払わねばならんのだぞ。いい時代になったね。

 “「ほにゃらか」で決まりそうでないので『かむなび』で引き継ぐがよかっぺ”との援助
交際の申し出あがあがなれど、♪√ なにが なにして なんとやらぁ〜〜あ の領域は酒
のんで酔っぱらったヂヂィ・アンチャンのゲロ吐きの集積じゃんか。
 ここ『かむなび掲示板』にカキコしてるニィちゃんオッチャンも、これまた酒に飲まれて
へべれけになっとんとちゃうんカネ。神さま、お神酒あがらっしゃるモンね。
 
 ありゃぁなぁ、発音さえわかればタチドコロに一足あがり〜なんですら。権威スジがつけ
たフリガナがあてにならん紋で足ふみしよるとです。
 これからも、漢字の発音教えてつかぁ〜さい。

[2382] Re[2381]: ほにゃらかNOW 足一騰宮  玄松子 2002/01/13(Sun) 17:50 [Reply]
>  そうすると神武天皇は足が一本だったとは書いていませんので,知恵者であり,田の神から連想いたしますと,習志野のてつさんの言葉を借りますと「農業指導員」もしくは「稲作普及員」の要素もあると云う事になりますね。

神武天皇が案山子だとすると、カラスが先導するのは、どうなんでしょう。

豊後半島の沖にあるヒメシマの別名「天一根」と関連して考えたいのですが、どうも話が発散・分散しているようですね。言語に固執せず、こちらで引き継いだ方が良いかもしれません。

[2381] ほにゃらかNOW 足一騰宮  Setoh 2002/01/13(Sun) 16:59 [Reply]
足一騰宮(記)一柱騰宮(紀)読みは記紀共「あしひとつあがりのみや」
 神武天皇が東征途中に宇佐に立ち寄った際、宇佐の長が作って出迎えた宮の事ですが,この意味について
一足で上がれる宮
水の中に支えの柱が一本でている宮
テントの如く中央に一本の柱がある宮
さっさと作った宮
 等々の解釈が披露されており、興味津々です。
 史実として論議されている訳ではないのでしょうが,神武東征中の出来事ですから,宇佐の長としては本気で歓迎したはずもなく,ねじ伏せられてやもうえず作った宮でしょうから,海辺か川辺に作って,早々に立ち去ることを期待したのでしょう。本居宣長の「水の中の柱」説が有望な気がしますが・・。

 『記紀』が編纂されて,それを読んだ地元の人はビックリ,いそいで伝承の地付近に神社をこしらえ,神武天皇一族を祭神にしたことでしょう。
 宇佐市大字和気の枕鼻神社の祭神が神武天皇、彦五瀬命、不合尊の三柱になっています。此処以外には小生は見つけて居ません。和気の地名はご承知の清麻呂が託宣を受けるべく上陸した所で,昔から宇佐へ上陸するには寄藻川が使われたのでしょうね。

 で、某氏が足一騰宮の「足一騰」を八幡宮の八幡と同じように神様の名前と記載されており,これに某氏が疑問を出されていまして,それに対しては,目下扁桃腺で,別の話をしているようです。扁桃腺はピンク色にはれかかっているのかも。

 さて,足一騰が神様とすれば,一本足ですからカカシをイメージします。吉野祐子さんによりますと,カカシは当然のごとく一本足では歩けないゆえ「蛇」,またZOUさんによりますと知恵の神のクエヒコでもあるとのこと,そうして現在は田の守り神です。
 そうすると神武天皇は足が一本だったとは書いていませんので,知恵者であり,田の神から連想いたしますと,習志野のてつさんの言葉を借りますと「農業指導員」もしくは「稲作普及員」の要素もあると云う事になりますね。

[2380] 無題   pin☆(^。-)ノ蜥蜴 [Mail] [Url] 2002/01/13(Sun) 15:45 [Reply]
習志野さん
日本書紀景行四〇年七月条です。
ここで重要なことは、日本武尊(及び兄の大碓)が景行の子ではないということです。
特に兄の大碓は、系図的に見ても近江の三上祝と関係が深いことです。
詳しくは、弊サイトhttp://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/参照してください。
日本武尊東征は、実は、東国追放であったということです。
榎本さん
白山神社は、東光寺(薬師如来)とセットで祭られることが多いですね。

[2379] [2369] 彦狭島東漸…  習志野のてつ [Mail] 2002/01/13(Sun) 10:40 [Reply]
長い文章は苦手なので、ある一部について質問。
〉景行は、日本武尊に斧と鉞を授けている。
 古事記では、景行から「柊(ヒヒラギ)の八尋矛(ヤヒロホコ)」を授かり、
 伊勢で倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から、「草那芸剣(クサナギノツル
 ギ)と御嚢(ミフクロ)」を賜…わった。
 Q1・斧(オノ)と鉞(マサカリ)は何に出ているのですか?
   また、その二つの違いは何でしょうか。
 Q2・八尋矛はその土地を治める武力の象徴と思います。斧・
   鉞は、木を切り倒すイメージは有りますが、焼畑の時は
   不用だと思うのですが。
 *嵯峨天皇の時、流行り病が有り、広矛を66本作って全国に
 各一本ずつ配ったことがありました。(←出典不明・記憶のみ)
 
〉東征というより開墾のイメージである  ←部分的に賛成
 倭建命は「灌漑=土木作業を含む稲作」を普及する農業指導員と云うのが、
 私の立場(←思い付き程度)です。最初の稲作は、川の上流=水源地辺り
 で行われ、徐々に川下方面に普及していったと思っています。ただし陸稲
 については別。  『開墾』とは、どの辺をお考えでしょう?

[2378] 本地佛ですか  榎本 [Mail] 2002/01/13(Sun) 10:16 [Reply]
権現思想に関係してくるけど白山は「菊理媛神」ですね
[こっちのが専門だったりして]
信仰の山によってことなるけど・・・・
白山妙理権現・本地、十一面観音
小白山別山大行事・本地、聖観音菩薩
大汝峰の大己貴神・本地、阿弥陀如来
あわせて白山三所権現という




[2377] 松の旦那  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/13(Sun) 00:54 [Reply]
ところで
千手観音を本地佛とする神って何でしたっけ?

[2376] 榎本さん  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/13(Sun) 00:44 [Reply]
桜井寺は、額田町の桜井寺ですよね。
弘法大師の
あれですよね。
その件につきましては、
風琳堂さんちで書き込みしてます。
風琳堂
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/
参考までに

[2375] 無題  榎本 [Mail] 2002/01/12(Sat) 22:36 [Reply]
今日「つくられた伝統ー神社建築の変容をめぐってー」の講演会にいってきた[けっこうこのサイトの面々がいたかも]
はっきりいってよくわからんでも神社の勉強にはなった、うーん出雲は神秘的だ発掘された遺跡は国が予算をだして復元してほしものだ。
そういえば白山の九頭龍に関連してくるけど「戸隠」もたしか九頭龍信仰だったよな、
むかし買った本で「戸隠物語」というのがあったけど[戸隠観光協会 販売]
これにそんなことがのっていた。
白山のはなしになると中世白山修験主導権をあらそってた「桜井寺」と「財賀寺」のはなしをおもいだします。


[2374] 十一面観音  玄松子 2002/01/12(Sat) 10:38 [Reply]
観音には、多くの変化がありますが、一番多い変化像は十一面観音です。奈良時代から多くの像が作られ、平安時代以降日本全国に普及しています。難しいです。

長谷寺の十一面観音は、地蔵のよな異形像ですね。そのあたり、何か見えてくるかもしれませんが。

[2373] 新年会と九龍  Setoh 2002/01/12(Sat) 10:16 [Reply]
[2411] Re[2402]: 温い日  Setoh 2002/01/17(Thu) 07:46 [Reply]
> 『大森の加茂神社とは何か?なぜ加茂か?』
大森考
 『奥羽観跡聞老志』には、刈田郡では「黒峯銀窟」の「黒峯」がクロモリ、「大峯山」をオオモリヤマなどと訓まれているそうで,今でも東北では山峯をモリと云うことがあるそうです。
要するに「こんもり」したとか「もり」あがった所はモリだったそうです。神の宿るところがモリで,神奈備と同義ですね。そう云えば社もモリと訓まれますね。
万葉集 巻七 一三七八 木綿懸けて斎ふこの社(もり)越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに


[2410] Re[2409][2402]: はよはよ  香具 [Mail] 2002/01/17(Thu) 01:29 [Reply]
現地に行かなくても面白い本ですが、ご参考まで(図書館でどうぞ)、

北山クラブ(著)『北山百山』ナカニシヤ出版/平成元年 (ISBN4-88848-122-9)
  91ページ「大森ノモリ」の項。

澤潔(著)『京都北山を歩く(2)』ナカニシヤ出版/平成2年 (ISBN4-88848-116-4)
  60ページ「供御飯峠から小野郷大森みち」の項。

地図は、昭文社;山と高原地図49『京都北山(1)』です。(調査執筆は北山クラブ)

上記の本によると、惟喬親王の遺跡(赤い屋根)は『安楽寺』。『堕川御上神社』は岩屋山山系『薬師峠西麓』にかつてあった、そうです。小野郷から大森までは殆ど起伏のない平坦な車道です。JRバスの時間さえ抑えておけば、比較的に訪問しやすい処といえます。
しかし季節柄、天候には十分ご注意下さい。

[2409] Re[2402]: いやはや  kokoro [Mail] 2002/01/17(Thu) 00:52 [Reply]
 香具さん、行きたくてしょうがなくなってきましたよ。大森加茂神社の佇まい、全く素晴らしいです。

[2408] Re[2406]: 葦原志許男大神  香具 [Mail] 2002/01/17(Thu) 00:46 [Reply]
> 近々伊和神社へ参詣しようと・・・

おそれながら、県民のビーフンとしては、もう一足伸ばして頂いて、『御形神社』へのご参詣はいかがなものでしょうかと、かしこみかしこみ申し上げます。

[2406] 濡れ落ち葉  Setoh 2002/01/16(Wed) 21:08 [Reply]
 古風土記が残っていてまたそれが面白いと云うのは播磨の魅力の一つですね。近々伊和神社へ参詣しようと思っていますが,見所をご存じの方、ひとつ教えて下さいな。
 
 滝の垂直落ちは重力の法則に則っているんですが,磐がは山中で垂直にそそりたっているのを見ました。有田郡吉備町の白山という山です。この辺りにも国津神社国主神社が多いような気がする地域です。ひょっとしたら古い神社の大半はクズ神だったのかも知れません。縄文だっしゃろか。

 新年会,古神道行者さんからの連絡を待っている所です。そのうち日程をお知らせできるでしょう。

[2405]    キ の く に     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/16(Wed) 20:26 [Reply]
 『あさ(希望)も(くに)よ(弥)し(の)』へ出したほうがよかったかな?

 三浦半島方面とか伊豆あたりでは、滝のことは「ダル」というそうです。「タル」という地方
があるかどうかが、次の課題です。東條操の方言辞典には出ていません。
 DHAR(水流)がダル(滝)として定着しかけたところへ、どのような偏執を持った氏族がやっ
たのかは分りませんが、それに「神・水」を意味する MI を添えて、垂直に落ちる瀑流を、タル
ミと造語したのでした。

 何で垂直に落ちる瀑流が神かというと、それは瀬藤ドンが去年ナチの滝をみて「水の柱だ」と
感じたとおり、滝は瀑流に姿を借りた神だったワケです。
 あ、説明の順序がハチャメチャになって、ついつい「タキ」が先にでてしまいました。
 タルミだけなら整然とするのですが、さきに揚げた DHAR(水流)に、天に昇るべく立上がっ
た竜の姿を意味する KI を添えて「タキ(滝)」としたイタズラ一派がいたのです。
 お忘れではなかろうが、水はいのち……、色は青です。

 その立上がった竜の「キ」は、シナ文字で‥‥‥草冠の下に、左から「止」「自」「巳」を三
つ並べて、その下へ「変」の下を書きます。
 大地を意味する KI も古くて広範囲に散らばったことばです。その大地(エデン語 MAT ……女・
蛇)のエネルギーが上昇するのが「木」……これ、KOKORO さんのつい最近の御教えカネ。

 『かむなび』」のミナシャン、あがあがネ。今回はとりわけ KOKORO シャンあがあがあるよ。
 「紀のくに』とは酒(キ)でも木でも、大地(キ)でもねぇ。シナの「立上がった竜」をこと
のほか信奉する渡来民系豪族のくにだったのデシタ。

 和歌山県知事さんよ、褒美はヒコーキ 一機でいいよ。灘のキ一本なら毎晩のんでらァ〜。
 ※ DHAR(水流)……ネパール語です、

[2404] Re[2403][2402]: 温い日  香具 [Mail] 2002/01/16(Wed) 12:02 [Reply]
ただ行きっぱなしの無責任報告に、ご解説をいただき有難うございます。
いつもの反省ですが、事前に下調べが大切ですね。
『落葉』『堕川』『大柴』、オチバ、オチガワ、オオシバ・・・
漢字にとらわれずに示したい元の言葉があったのでしょうね。

『堕川神社』・・・現『落葉岩戸神社』
『堕川御上神社』・・・現『大森加茂神社』またはさらに上流の『堕川社』
と、いうことでしょうか。上流の『堕川社』を見つけてくれば実りが・・・。
折り畳み自転車を持って行きたいところです。

[2403] Re[2402]: 温い日  玄松子 2002/01/16(Wed) 01:55 [Reply]
式内社調査報告によると、

> まずは小野郷のバス亭からすぐに『落葉岩戸神社』があります。

これが、堕川神社や大柴神社では、とされています。


> 山中にしては広々と開けた大森の集落の中程、清滝川のほとりに『加茂神社』の杉林がみつかります。
> 『遥拝所』、『元式内社 堕川御上神社』という2本の石柱があり、社も祠も無し、まさに遥拝施設のみ。

こちらは、堕川御上社の論社とされていますね。


> 霧滝まで来る途中で岩尾方面への道に曲がると『堕川社』があるように書いてあります。

こちらも、多分、堕川御上社の論社です。
http://www.kamnavi.net/en/yamasiro.htm
このページの「明神祠 未確認」ってやつです、多分。

なんとも羨ましい行程ですよね。
多分、間違いなく、ちかじか、神奈備出動がありそうですね。

[2402] 温い日  香具 [Mail] 2002/01/16(Wed) 00:55 [Reply]
ぜんぜん脈絡がないのですが、この日曜日にですね・・・、
 京都市の地図で下鴨神社(賀茂御祖神社)から上賀茂神社(賀茂別雷神社)へ引いた線を延長して北山の山中を眺めていたら、清滝川上流にある大森の地に『加茂神社』を見つけました。そこで新春にしては、我が頭の如く茫と霞んだ温い一日、京都へ行ってきました。京都駅からJR西日本バス:高尾経由周山方面行きに乗り小野郷で下車(約1時間、880円)。
 まずは小野郷のバス亭からすぐに『落葉岩戸神社』があります。岩戸川と清滝川の合流する処、この裏山も味のある形。頭上にせり出した岩山の懐に本殿があり、正面に2つの社が並びます。右側に『御霊社 落葉姫命』。左側の社は『稚日女神 彌都波能賣神/瀬織津比メ神』。摂社は、『山神社 大山祇神/大山咋神』、『八幡社』、『天神社』、『太田社』、『神明社』。小野篁ゆかりの神社だそうですが、ごめんなさい、よく知りません。取り敢えず歩く!ここから徒歩約1時間で大森の山里へ(立派な車道なので車なら10分程度)。途中には、川床から巨岩がせり上がっている『化岩』とか、崖の中程に鎮座している『稲荷』の小祠などがありました。

 山中にしては広々と開けた大森の集落の中程、清滝川のほとりに『加茂神社』の杉林がみつかります。 瑞垣はなく北山杉の叢林に囲まれています。道から川端に降る位置、禊の社の印象。本殿の向きは西南西。清滝川の流れと周囲の谷の開け具合に素直に従った様子ですが、背後の遠景には岩茸山の山頂が見えます。そのさらに向こうは芹生や花背の地。上賀茂神社や下鴨神社を意識させるものは見つかりません。そばを流れる清滝川すらやがて桂川に連なる水系で、鴨川には繋がらない。境内にも本殿にもご由緒やご祭神が判明するものは見当たりませんでした。
『大森の加茂神社とは何か?なぜ加茂か?』・・・現地では手掛かり不明のまま。
 摂社と思われるひとつは、『遥拝所』、『元式内社 堕川御上神社』という2本の石柱があり、社も祠も無し、まさに遥拝施設のみ。さらにもうひとつは背丈より高い中程度の祠で、本殿のように建物の中に鎮座されて直接の風雨を受けないよう手厚く祭られていました。本殿にも、この摂社にも文字で書かれた物はありませんでした。まったくもって『村社』そのもの!という感じです。

 加茂神社から徒歩5分程の東に『惟喬親王の旧跡』がありました。赤い屋根の古びたお堂のような建物があるだけで、案内も説明板も何もありません。偶然に立ちより、側にある3本の小碑でそれと判りました。鍵のかかった格子戸から暗い内部を覗くと、中央に金箔の残る仏像(座像)が、右には高僧『××上人』風の座像が、左には背丈程のしっかりした祠が見えます。由緒ありそうな仏像や祠ですが『あからさまには公開したくない』といった感じの管理状況でしたので、さすがにフラッシュを焚いてまで撮影はしませんでした。

 ここからさらに30分ほど山に入り『霧滝竜王不動尊』を目指して、霧滝まで辿り着きました(しかし不動尊は判らずじまい)。北山クラブ編集の『京都北山百山』にある略図によると、霧滝まで来る途中で岩尾方面への道に曲がると『堕川社』があるように書いてあります。今回、帰りの時間が迫っていたので『堕川社』には寄らずに戻りましたが、帰宅して資料を見ると『堕川社・・・所在不明』とあります。
 あれま!『堕川社』を探してきたらよかったですねぇ。
やはり冬場は陽の傾き具合が早いので行動時間が制限されてしまいます。残念。

 京都の鳴滝は世界最高品質の砥石を産出するところ。その奥にあたる高尾や北山は同様な地質のせいか、街道沿いに見える岩や崖に独特の趣きがあります。奈良の山中とは異なる岩の質ですね。あたりは北山杉が整然と植林された風景がどこまでも続きます。(花粉発生の時期は避けたほうが無難?) 結局、大森加茂社と有名な上下の両賀茂社の関係は現地では判りませんでした。ここからは資料が頼りのようです。ただ路傍にある警察の『非行を防ごう』というようなキャンペーン看板に太秦警察署とあったので、このあたりまでエリアに入るのかと、妙に納得させられました。
 『大森』は名のとおり、あちこちに森、杜、守の神々を祀る小さなミニ社がたくさんある集落です。もう一度、ゆっくり取材できれば、その世界を覗けるかもしれません。

画像は拙アルバム後半に;
http://photo.goo.ne.jp/user/ixtlan

[2401] 丹生狩場  なにがし [Url] 2002/01/15(Tue) 21:20 [Reply]
先日インターネットで日野西氏で検索していたところ下記の項目に衝突しました。確か「宗教民族研究」という本のある章だったと思います。届きましたらまた報告致します。
ちなみに、この先生は高野山奥の院の維那で元高野山大学教授です。どのようなことが書かれているか楽しみです。ただ夜に出回っている文献は限られているので結論はだいたい予想はつくのですが・・・。

『かつらぎ町宮本丹生・狩場神社の縁起について 日野西眞定』

[2400]   伝統のアナ       一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/15(Tue) 19:11 [Reply]
 さきほど逗子の斉藤守弘さんから電話があって20分ばかり話しました。
 そのなかで、同氏は岩に彫られた直系5cmぐらいの孔が超古代・世界中の遺跡にみられる現象
について、その意味がわかって識者に訴えたところ、支持をえて各地を講演して廻っているそう
です。
 この偏執の神を極孔神と呼んでいるそうですが、どうもこれ XO KRA に通じるようです。
 極とは頭のてっぺんという意味だとか。
 『かむなび』さん。ほんとにほんとにあがあが。とりわけ神庫教えてくれた玄象師あがあが。

 KHOKRA をもういっぺん撫でなでしようと基礎ネパール語事典をみた……ら、KHOP-に、「突き
刺す」、「石に彫る」、「彫刻する」……に続いて「地面に孔をあける」があるじゃあ〜りませ
んか!
 斉藤守弘さんは「この偏執はネアンデルタールまで遡ること必定」と言っていましたが、地面
にナニしてナンとやらの「オナンの紀」までイケることはタシカさんで……。
 向学心のハケ路(バクチ)やむなく、ミナシャンに訊きたい。誰ぞムステル(バチオン)の語
源知らんカネ。
 KHOP-の -P は動詞形成末尾辞。

 斉藤守弘さんのハナシに、“茅野市の国宝”があった。土偶だが、頭の皿に渦巻き紋が認めら
れる……と。カッパでんな。その胸のところがぐっと押し付けられて、へっこんでいる。これも
「極孔神」の連続。

 斉藤守弘氏;、超歴史学研究会 理事長 ……ドタマとハートが超一級。パソコンやらんのが
        タマに瑕。

[2399] 伝統の火  Setoh 2002/01/15(Tue) 17:57 [Reply]
  伊太祁曽神社で卯杖祭と粥占いが14日20時から行われ、15日早朝に豊作となる稲の銘柄順が発表されました。管の中の粥の多い順に豊作と云う神事です。
 昔は同時に裸参りがあり,遠くは那賀郡辺りからも早朝に男子が褌一つで神社までかけてくる祭りで多くの青年が参加していたようです。この時は家族の誰かが着物を持って後から追いかけてきたそうです。到着してそろった後卯杖としてさした木の枝が投げられ、それを拾った者に幸運が訪れるというものでした。
 戦後途絶えましたが、最近では上半身裸のジョギング大会などで復活しているようです。
 昔の神職の行事職の後裔の方ー大河内さんーと云うお年寄りは一人で裸祭りの伝統を絶やさぬように今日の早朝に神社に走ってこられました。ごく近いんですが。

[2398]   それれ いいのら      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/15(Tue) 09:09 [Reply]
 学者は学者でも、民俗学者が言語(……とくに語源)にクチバシいれてくる姿勢
にはドタマにくるぜ。「学者意識」が鼻につく。

 紀記などのウソ発見作業もダイジな視角です。だが、あっしのここんとこの説明
とは、言語開発に伴う方法論だす。歴史に使われている名詞を中心とした語源へア
プローチするに課せられるキビシさ、アマカネ。

 軸足を置くヤリクチからの規制カネ。

[2397] Re[2396]:  あ、スマン 英語だったか    玄松子 2002/01/15(Tue) 01:43 [Reply]
>  とにかく、社会一般へ威張ってきた学者の ♪√ あんなになって こんなになってあんなになったのヨ〜〜 は、オラキカン。
>  神とか天皇様とかの、そういう名前があったこと、おらはスナオに信じるばい。

僕も、記紀の虚構が好きなので、「神とか天皇様とかの」名前は素直に信じているほうですが、学者に威張られた記憶はありません。「調べたらわかった」と言い放つ素人は知っています。
「坊主憎けりゃ袈裟まで」って風に聞こえます。
「学者」が悪いのではなく、「悪い学者」が悪いのです。また、「悪い学者の説」が必ず間違っているのではなく、「間違った説」のみが間違っているのです。と思う。

[2396]  あ、スマン 英語だったか    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 21:54 [Reply]
 AUTHOR と AUTO とが同根かどうか、そこまではオラシランが、玄象師のおっしゃる
権威たぁ、いずれにしろ「自分の内部へのとりこみ作業」のことあったかネ。
 そういう意味では、おらは AUTO だす。アウト・ローやろかね。
 言うほう、聞くほう、やっぱおたげぇに語源シランと始らんばい。

 とにかく、社会一般へ威張ってきた学者の ♪√ あんなになって こんなになって
あんなになったのヨ〜〜 は、オラキカン。
 神とか天皇様とかの、そういう名前があったこと、おらはスナオに信じるばい。

 カキコみボタンぶっ叩くまえ、チラとみた。内陸へのとっつきの“阿波”は どな
 アハは睨みつけたばかり、カキコ済み(「ほにゃらか」だったか)。

[2395] レッパクの気迫だよ  Setoh 2002/01/14(Mon) 21:24 [Reply]
> 神武天皇が案山子だとすると、カラスが先導するのは、どうなんでしょう。
死と再生の通り一遍で言えば,熊野では日の御子ですから,カラスが案内したとか。
ヤタガラスは三本足ではないのでしょうが,カカシを背負ったヤタガラスは三本足に見えたとか。お粗末の一席でした。 m(_ _)m

> ・宗像系の勢力の移動 
> ・神功系の勢力の移動
> ・陸から少し離れた(なぜか)重要な小島
シャッポがとんでまう凄い着想だと思います。神功系とは天日槍命系とか風土記的には安曇族辺りでしょうか。アジム,アヅム,何かを示しているのかも。
それよりも陸から少し離れた小島,これは英国の植民地確保策でもありました。侵入者にはいい手段だったのかも。難波では島ではなくて失敗、紀の国では名草山はかっては島だったようです。
 

> 九頭龍神はイザナミ命でしょう?
雄一さん,ご指摘ありがとうございます。これで白山の神がイザナミ命で流れ出る川が九頭川と云う事が素直になりますね。

> 伽羅神社
この字の神社はお目にかかっていませんが,カラの字を「辛・韓」としているのでは
上野国多胡郡 辛科神社
河内国志紀郡 辛国神社
出雲国盾縫郡 韓竈神社
石見国邇摩郡 韓神新羅神社
などが記憶にあります。

> オレのどこに権威にすがる OR  みずから“権威”RIZEあらいしょ。
どこで誰がそんなことゆうてる? 俺には読めないよ。

[2394]   アイデンティティー     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 20:05 [Reply]
  エノミヤ・タケリあがあが。

>「権威」「既成」であるからという理由だけで排斥するのも、「権威主義」の一つの
  現れ。玄人の意見も、素人の意見も同列・同質に扱えばよいだけです。
★ ちゃう ちゃう いまはまだまだアイデンティティーが固まる TERM でんがな。
  拒絶反応の連続じゃねぇとアイデンティティーはカタマラン。
  ザマねぇことの連続ばい。
  ばってん……、どっからでもいい。水源がほしいとき、松戸のナマゴミからにじみ
  出てくるクサレ水でも、それを水源として夢想したくなる。
  ハツオンだけは枯渇のなかで渇望しやす。

  「玄人の意見も、素人の意見も」とおっしぇぇやすが、クロートちゃぁ、ネクタイ
  はめてムダメシ食っただけのバカタンの群じゃんか。その証拠が現実いまのワカラン
  状況やろが。
  紋チャンレッパクの気迫ぞな。オレのどこに権威にすがる OR  みずから“権威”RIZE
  あらいしょ。静かにききますきにアマカネ。

[2393] Re[2391]:   新しい先生がアガってきんしゃった    玄松子 2002/01/14(Mon) 18:13 [Reply]
> ★ 天一根、埃宮のハツオン、アマカネ

天一根:「アメヒトツネ」あるいは「アマノヒトツネ」かも。
埃宮:「エノミヤ」。古事記では「多祁理宮(タケリノミヤ)」。



> >  地名辞書では
> ★ 唯我独尊的ではありますが、ポット出の言語考古学はまだ ♪√なにが なにして なんとやらぁ〜〜 の領域にはつきあいきれんし、既成の権威スジとは方法論でガラ変わりしちょる紋で、既成解釈は極力排斥せなイカンとです。

「権威」「既成」であるからという理由だけで排斥するのも、「権威主義」の一つの現れ。玄人の意見も、素人の意見も同列・同質に扱えばよいだけです。

[2392] 神明宮から伽羅神社  雄一 2002/01/14(Mon) 17:56 [Reply]
神功皇后の三韓征伐後に伽羅(きゃら:香木)が奉納され、神明宮から伽羅神社(から)に名前を変えた神社があります。他に粟島宮があり(祭神は少彦名)神社の神紋は花菱です。宮内省座神韓神は元は、伽羅神社に祭られていたのではないかと思い、調査しましたがはっきりとわかりません。どなたか、伽羅神社について知らないでしょうか?
追記 伽羅国(からくに)は古代朝鮮半島にあつた国。
   易においては太極は神明の宿る所です。
   宮内省では北に韓神(大貴己、少彦名)、南に園神(大物主)を祭り園韓神祭りを
   していました。
   尚、現在の神社名には伽羅の文字はありますが、伽羅神社ではありません。

[2391]   新しい先生がアガってきんしゃった    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 17:55 [Reply]
 なんぼ祓いの儀式とはいえ、紳士を煮詰めて作ったダンゴが高々と毛ぇ生やしたような気
高き玄象師をヨッパライ呼ばわりして、スンマッシェンでした。

> 「アヂン」って何ですか?
★ 2388 の最後に書いちょりますが、ネパール語の ADHIN(支配)です。
  古代語は発音はそんなには変わりません。しかし、その概念(内意)がいろいろと変化
  するとです。例えば英語 BAT と PAT / ばちまわす(ぶんなぐる)。ワッカルよな。
 それ故、安心院は「支配」という概念周辺の「ナニモノカ」でんがな。
  ADHIN は沖縄で按司へと化けこんでいますきに、日本列島には全面的に「アジ」として
  流入しているのかもしれません。
  それ故、あるとき、お寺を建てて、その名前をつけるとき、この按司をもってきて、そ
  れに「院」を続けて命名した……のかもしれません。

 われわれは21世紀初頭人であることを、まず自覚する必要これあらむか。まして言語学
者がドサボりまくって、言語考古学は『かむなび』の庭に始って、まだ3年しか経たんとで
す。「今すぐ100%正しい解釈でないとイヤじゃ・イヤじゃ」は、駄々こねの部類カネ。
 
>  地名辞書では
★ 唯我独尊的ではありますが、ポット出の言語考古学はまだ ♪√なにが なにして な
  んとやらぁ〜〜 の領域にはつきあいきれんし、既成の権威スジとは方法論でガラ変わ
  りしちょる紋で、既成解釈は極力排斥せなイカンとです。

>  玄松子さんによると,安心院(あじむ)の妻垣神社や三女神社にその伝承が伝わってい
> るとのこと。
☆ 三女神社の方は、自信はありません。
★ うんにゃ、ああた、ウサのムナカタの三祭神な足きりの名前がついてござったろうが。
  ヒメ・ヒメちゅうち神様が後世の“姫”だらけになったつは、ひとつには足を切って男
  が宦官みたくにチンポのうならかしんしゃったきやろばい。

★ 天一根、埃宮のハツオン、アマカネ
 筑紫岡田、建日方…… XO >O  KARTAは指揮者。
 「日」と「氷・簸・簸川」は同音じゃなかったつでっしょうネ。日はエジプトの HIR(太
 陽)系、「氷・簸・簸川」は XO 起源のインド・カラッポ系でっしゃろ。
 ばってん、現実にはこげなんとはすぐに、コンドーさんカネ。日前ともなったらもう両方
 睨んぢょく必要これあらむか。

 白状しますが、おら、アヒアガリは「太陽・やってきた」の意味だと思っています。
 A は「人称冠詞……わが」と「大」の懸け言葉。足とか一は柱偏執での当て文字。
 新学期になったら生徒や先生が降りて行きなったが「あがって」きんさったやろが。
 アガルは基本的には姿を顕わすの AKAR やろばってん、もちっと近い語彙が『インド語
 総覧』にあらへんやろか……ち、今からさがし(S・AKAR)してみます。

[2390] 戸隠神社について  雄一 2002/01/14(Mon) 15:50 [Reply]
結論から先に書くと、九頭龍神はイザナミ命でしょう?黄泉のイザナミ命の体には、雷神(龍神)が八神いると日本書記にあります。よつて、イザナミ命自身が龍神だとすると、黄泉でのイザナミ命は九の頭を持つ龍と推測されます。戸隠神社の九頭龍神は天の岩戸とともに空から落ちてきたともいわれていますし、九頭龍神に梨を供える風習もあるようです。(イザナミ命が九頭龍だとすると、戸隠の岩戸は閉じている別の岩戸になりますが)

[2389] Re[2388]:   やっぱ『かむなび』のドン    玄松子 2002/01/14(Mon) 13:09 [Reply]
>  安心院(アジム)は音だけから言うとアヂンからの音転だと考えられます。

「アヂン」って何ですか?
地名辞書では「古の倉院の置かれし時の遺名」とあり、
他の説では、葦の生い茂ったところ、葦生ともあります。
「アジム」という発音は、渡来系の人々が多かったなどの理由で変化・音訛とも考えられますが。

> 玄松子さんによると,安心院(あじむ)の妻垣神社や三女神社にその伝承が伝わっているとのこと。

三女神社の方は、自信はありません。
ところで、足一騰宮が、その形状・状況を説明した宮でないと仮定した場合、
古事記・日本書紀ともに「アシヒトツアガリ」と訓めるところから、
その命名は、記紀編纂者ではなく、宇佐周辺の旧事記によるものでしょう。
さらに、仮定を重ね、これをいずれかの神名・人名と関連させるならば、
その視野には、姫島の「天一根」や息長足姫も入れるべきだと思います。

原始八幡信仰の祭神は姫神とされています。宗像三女神と同神とされています。
神武様御一行の次の滞在地は、筑紫岡田宮ですね。宗像の近くじゃないでしょうか(自信ない)。
その次は安芸の埃宮。宮島が近いですね。
そして吉備の高島宮。児島あたりだとされています。児島は小さな島(今は半島)なのですが、建日方別と、姫島同様、古事記・島生みに書かれているのは不思議です。

ということで、以下の要素は考えられないでしょうか。
・宗像系の勢力の移動
・神功系の勢力の移動
・陸から少し離れた(なぜか)重要な小島

[2388]   やっぱ『かむなび』のドン    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/14(Mon) 09:50 [Reply]
 「アヒ」一語なら、なぁ〜〜んも連想しないが……なも。
 なにがしさん、出張続きの身にはミミの毒、たまらんのう〜。
 そのうち、纏めてあがあがいうので、ナンのことか憶出しておくれ。

 安心院(アジム)は音だけから言うとアヂンからの音転だと考えられます。
 終わりは「院」で IN じゃもんな。そこへ朝鮮系の人々が入ってきたと惟ふ。
 ナァ〜〜ンデカというと、キッチョムさんみちおくれ。一般の日本人はキッチョ
ンさんち、言うとばい。朝鮮系は「 M 」が好きなっちゃ。また、倭人は N 終わりが
嫌いなっちゃ。沖縄など古い地名は N 終わりになっちょる。ネパール語 ADHIN(支配)。

[2387] アヒ アヒ  Setoh 2002/01/14(Mon) 08:30 [Reply]
おはようございます。生駒山系の南端の高尾山の磐座の写真を下記に掲載しました。
香具さんのようなよい写真ではありませんが,鐸比古鐸比売神の降臨する磐の写真です。
http://photo.goo.ne.jp/user/kamnavi/

 さて足一騰宮の址として枕鼻神社を推定したのですが,ハズレのようで,玄松子さんによると,安心院(あじむ)の妻垣神社や三女神社にその伝承が伝わっているとのこと。ありがとうございます。
 安心院は奥の方で,駅館川を遡ったとしても,ここまで船で行くとも思えませんね。
 宇佐神宮家の出の宇佐公康氏によると,安心院より少し下流の宇佐市拝田に足一騰宮の跡地を求めておられます。

 アヒ 阿比岐神、阿比良比売神,吾平津毘売神。

[2386] Re[2381]: ほにゃらかNOW 足一騰宮  玄松子 2002/01/14(Mon) 02:02 [Reply]
>  『記紀』が編纂されて,それを読んだ地元の人はビックリ,いそいで伝承の地付近に神社をこしらえ,神武天皇一族を祭神にしたことでしょう。
>  宇佐市大字和気の枕鼻神社の祭神が神武天皇、彦五瀬命、不合尊の三柱になっています。此処以外には小生は見つけて居ません。和気の地名はご承知の清麻呂が託宣を受けるべく上陸した所で,昔から宇佐へ上陸するには寄藻川が使われたのでしょうね。

宇佐の川上の「足一騰宮」の址として、妻垣神社や三女神社があったと思います。いずれも安心院(あじむ)ですよね。「アジム」ってのも意味ありげな地名ですね。

[2385]   泣 き を 入 れ る      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/13(Sun) 22:11 [Reply]
 ミナシャマ、酔い潰れていらっしゃるところを恐れいりますが、「あひ」がつく神名とか、
えらい人の名前あったら教えてくんろ。「アイ」「アエ」じゃなかとばい。

足一‥‥アヒと読んでみる。A(足・大) HI(例の簸川、氷川、斐川のヒ)。
 A(足・大) XO(空虚の神)はありえないよなぁ。あーー赤穂があった! オラシランぞ。
 尚、教えてくれてもあがあが言わんので、ゲロ吐くな。ここは神域だ。

 KOKORO さん、髭撫でさん、だいぶスカートまくりせなならんごつなったバッテン、ほにゃ
しちょりますきに。
 

[2384] Re[2380]: しまった!  習志野のてつ [Mail] 2002/01/13(Sun) 20:51 [Reply]
> 日本書紀景行四〇年七月条です。
しまった!不勉強がばれたか。有難うございます。

> 日本武尊東征は、実は、東国追放であったということです。
『斧と鉞』は中国で軍事の全権委任を表わします。「追放」
との表現はむりでは?
似たようなものに節刀(読み不明:せっとう?)と云う文字があります。
遣唐使を調べていた時出てきましたが、一行を指揮する大使に与えられた、
生殺与奪を含む全権委任の象徴です。
征夷大将軍坂上田村麻呂も節刀を賜って、蝦夷征伐に出ました。

矛は土地を治める象徴です。そもそも矛から滴れた滴からできた地ですから。

[2383]   虫 か え し      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/13(Sun) 20:17 [Reply]
 ミナシャァ〜〜ン・アマカネ
 イタキソ様からのドデカイお歳まえ待っていたところへ、エホヴァの神さんご来訪カネ。
 日本人が考えてワカラン語彙のほとんどは外来語で、まんずインド諸語をみるとその6割
は意味がわかる……という仕組みがいよいよ明瞭となってきました。

 ここ『かむなび』では「斧とはなんだろ、マサカリとはなんだろ」と、ことばの原義に迫
る切実なギ紋が続いていやす。
 だがね、もういっぺん虫返す。下記 「インド語総覧」をみてくんろ。
http://www.hindunet.org/hindu_history/sarasvati/dictionary/0000LANG.HTM
 するといろんな言語種が記号で出てくるのでその割り出し調べは
http://www.worldlanguage.com/Japanese/ProductTypes/Dictionaries.htm 
 で、やんなされ。ワカランときは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
へほにゃらっしゃい。
 紙に印刷した本を買うと37万円は支払わねばならんのだぞ。いい時代になったね。

 “「ほにゃらか」で決まりそうでないので『かむなび』で引き継ぐがよかっぺ”との援助
交際の申し出あがあがなれど、♪√ なにが なにして なんとやらぁ〜〜あ の領域は酒
のんで酔っぱらったヂヂィ・アンチャンのゲロ吐きの集積じゃんか。
 ここ『かむなび掲示板』にカキコしてるニィちゃんオッチャンも、これまた酒に飲まれて
へべれけになっとんとちゃうんカネ。神さま、お神酒あがらっしゃるモンね。
 
 ありゃぁなぁ、発音さえわかればタチドコロに一足あがり〜なんですら。権威スジがつけ
たフリガナがあてにならん紋で足ふみしよるとです。
 これからも、漢字の発音教えてつかぁ〜さい。

[2382] Re[2381]: ほにゃらかNOW 足一騰宮  玄松子 2002/01/13(Sun) 17:50 [Reply]
>  そうすると神武天皇は足が一本だったとは書いていませんので,知恵者であり,田の神から連想いたしますと,習志野のてつさんの言葉を借りますと「農業指導員」もしくは「稲作普及員」の要素もあると云う事になりますね。

神武天皇が案山子だとすると、カラスが先導するのは、どうなんでしょう。

豊後半島の沖にあるヒメシマの別名「天一根」と関連して考えたいのですが、どうも話が発散・分散しているようですね。言語に固執せず、こちらで引き継いだ方が良いかもしれません。

[2381] ほにゃらかNOW 足一騰宮  Setoh 2002/01/13(Sun) 16:59 [Reply]
足一騰宮(記)一柱騰宮(紀)読みは記紀共「あしひとつあがりのみや」
 神武天皇が東征途中に宇佐に立ち寄った際、宇佐の長が作って出迎えた宮の事ですが,この意味について
一足で上がれる宮
水の中に支えの柱が一本でている宮
テントの如く中央に一本の柱がある宮
さっさと作った宮
 等々の解釈が披露されており、興味津々です。
 史実として論議されている訳ではないのでしょうが,神武東征中の出来事ですから,宇佐の長としては本気で歓迎したはずもなく,ねじ伏せられてやもうえず作った宮でしょうから,海辺か川辺に作って,早々に立ち去ることを期待したのでしょう。本居宣長の「水の中の柱」説が有望な気がしますが・・。

 『記紀』が編纂されて,それを読んだ地元の人はビックリ,いそいで伝承の地付近に神社をこしらえ,神武天皇一族を祭神にしたことでしょう。
 宇佐市大字和気の枕鼻神社の祭神が神武天皇、彦五瀬命、不合尊の三柱になっています。此処以外には小生は見つけて居ません。和気の地名はご承知の清麻呂が託宣を受けるべく上陸した所で,昔から宇佐へ上陸するには寄藻川が使われたのでしょうね。

 で、某氏が足一騰宮の「足一騰」を八幡宮の八幡と同じように神様の名前と記載されており,これに某氏が疑問を出されていまして,それに対しては,目下扁桃腺で,別の話をしているようです。扁桃腺はピンク色にはれかかっているのかも。

 さて,足一騰が神様とすれば,一本足ですからカカシをイメージします。吉野祐子さんによりますと,カカシは当然のごとく一本足では歩けないゆえ「蛇」,またZOUさんによりますと知恵の神のクエヒコでもあるとのこと,そうして現在は田の守り神です。
 そうすると神武天皇は足が一本だったとは書いていませんので,知恵者であり,田の神から連想いたしますと,習志野のてつさんの言葉を借りますと「農業指導員」もしくは「稲作普及員」の要素もあると云う事になりますね。

[2380] 無題   pin☆(^。-)ノ蜥蜴 [Mail] [Url] 2002/01/13(Sun) 15:45 [Reply]
習志野さん
日本書紀景行四〇年七月条です。
ここで重要なことは、日本武尊(及び兄の大碓)が景行の子ではないということです。
特に兄の大碓は、系図的に見ても近江の三上祝と関係が深いことです。
詳しくは、弊サイトhttp://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/参照してください。
日本武尊東征は、実は、東国追放であったということです。
榎本さん
白山神社は、東光寺(薬師如来)とセットで祭られることが多いですね。

[2379] [2369] 彦狭島東漸…  習志野のてつ [Mail] 2002/01/13(Sun) 10:40 [Reply]
長い文章は苦手なので、ある一部について質問。
〉景行は、日本武尊に斧と鉞を授けている。
 古事記では、景行から「柊(ヒヒラギ)の八尋矛(ヤヒロホコ)」を授かり、
 伊勢で倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から、「草那芸剣(クサナギノツル
 ギ)と御嚢(ミフクロ)」を賜…わった。
 Q1・斧(オノ)と鉞(マサカリ)は何に出ているのですか?
   また、その二つの違いは何でしょうか。
 Q2・八尋矛はその土地を治める武力の象徴と思います。斧・
   鉞は、木を切り倒すイメージは有りますが、焼畑の時は
   不用だと思うのですが。
 *嵯峨天皇の時、流行り病が有り、広矛を66本作って全国に
 各一本ずつ配ったことがありました。(←出典不明・記憶のみ)
 
〉東征というより開墾のイメージである  ←部分的に賛成
 倭建命は「灌漑=土木作業を含む稲作」を普及する農業指導員と云うのが、
 私の立場(←思い付き程度)です。最初の稲作は、川の上流=水源地辺り
 で行われ、徐々に川下方面に普及していったと思っています。ただし陸稲
 については別。  『開墾』とは、どの辺をお考えでしょう?

[2378] 本地佛ですか  榎本 [Mail] 2002/01/13(Sun) 10:16 [Reply]
権現思想に関係してくるけど白山は「菊理媛神」ですね
[こっちのが専門だったりして]
信仰の山によってことなるけど・・・・
白山妙理権現・本地、十一面観音
小白山別山大行事・本地、聖観音菩薩
大汝峰の大己貴神・本地、阿弥陀如来
あわせて白山三所権現という




[2377] 松の旦那  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/13(Sun) 00:54 [Reply]
ところで
千手観音を本地佛とする神って何でしたっけ?

[2376] 榎本さん  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/13(Sun) 00:44 [Reply]
桜井寺は、額田町の桜井寺ですよね。
弘法大師の
あれですよね。
その件につきましては、
風琳堂さんちで書き込みしてます。
風琳堂
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/
参考までに

[2375] 無題  榎本 [Mail] 2002/01/12(Sat) 22:36 [Reply]
今日「つくられた伝統ー神社建築の変容をめぐってー」の講演会にいってきた[けっこうこのサイトの面々がいたかも]
はっきりいってよくわからんでも神社の勉強にはなった、うーん出雲は神秘的だ発掘された遺跡は国が予算をだして復元してほしものだ。
そういえば白山の九頭龍に関連してくるけど「戸隠」もたしか九頭龍信仰だったよな、
むかし買った本で「戸隠物語」というのがあったけど[戸隠観光協会 販売]
これにそんなことがのっていた。
白山のはなしになると中世白山修験主導権をあらそってた「桜井寺」と「財賀寺」のはなしをおもいだします。


[2374] 十一面観音  玄松子 2002/01/12(Sat) 10:38 [Reply]
観音には、多くの変化がありますが、一番多い変化像は十一面観音です。奈良時代から多くの像が作られ、平安時代以降日本全国に普及しています。難しいです。

長谷寺の十一面観音は、地蔵のよな異形像ですね。そのあたり、何か見えてくるかもしれませんが。

[2373] 新年会と九龍  Setoh 2002/01/12(Sat) 10:16 [Reply]
 新年会を計画しています。
 日時 1月21日(月)〜23日(水)の頃(未定)
 時間 18時30分〜21時30分
 場所 おきん(神奈備の表紙下段の大阪本町絶品昼飯参照)
 テーマ 物部の技術と呪術
 講師 女性古神道行者,物部系男神主(交渉中)2名
 幹事 記紀の虚構にはまって出られない神奈備
 

 龍神と観音

 六甲の磐座に白山神が祀られているそうです。(香具さん:神奈備別荘1月7日)。また石上神宮の東の山中の九龍神社にも摂社として白山神社が散見されます。
 白山大神の本源は石川、福井,岐阜の県境の白山で,九頭龍川などの水源となっています。白い山と青い湖が御神体のようで,高句麗の白好み、モンゴルの青好みの影響を感じるとの指摘もあるのですが,これらは開山し平泉寺の建立にいたった秦澄のルーツによるものかも知れません。
 白山の神としてはイザナミ命とか菊理姫命(=妙理大菩薩?)、九頭龍神が登場し,次に秦澄によって十一面観音へと重層しているようです。この十一面観音信仰はインドのバラモン教の十一荒神だそうで,白山の神へ垂迹したところを見ますと,女神,水神、インド周辺からの渡来神とかの共通する部分があったようです。
 白山から岐阜側へは長良川が流れだし、岐阜県白鳥町には長滝寺が出来ました。
 長滝の名前から天理市へ短絡してみますと,滝本町の桃尾の滝の北側にあった龍福寺の本尊は十一面観音,また東の都祁村は寺は観音寺,神社はクズ神社と言える村ようです。
 そうしてかの有名な長谷寺の本尊が十一面観音であることは広く知られています。
 ここまで書いたのですが,だからどうだと云う事にはなりませんね。

[2372] 甘い  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/12(Sat) 01:11 [Reply]
席亭まだまだ
記紀の虚構にはまってます。
それでは丹生津姫見えませんよ。

[2371] 無題  Setoh 2002/01/11(Fri) 21:21 [Reply]
 日本武尊の化した白鳥は,尊の辞世の句にも相当する「倭は 国のまほろば,たたなづく青垣、山隠れる 倭し うるわし」の倭国を通り過ぎて、和泉の国に出てしまいました。どうやら更に西へ飛んでいったようで,讃岐にも白鳥伝承があるようです。やはり尊の魂は九州にまで戻ったのでしょうかね。

クズ,九龍,豊玉姫命,これは慧眼だと思います。
都祁村藺生(いう)の葛神社の境外摂社に龍王神社があり,まさに豐玉姫命を祭神としています。鰐も同じような認識かも。要勉強ですね。

[2370] Re[2361]: クズと龍  kokoro [Mail] 2002/01/10(Thu) 23:31 [Reply]
> 出雲や諏訪の伝承、九頭のオリジナルは中国(あるいはインド)にあるような気がします。

 ありがとうございます。とても参考になりました。八伎大蛇についてはまたカキコします。

 さて、6月頃からsetohさんや香具さんが注目していたように、クズ族には龍への偏執がみられます。この線でいくつか考察してみました。

その1)なぜ、この二つは結びつくのでしょう?
 クズ族が初めて歴史に登場するのは、神武天皇が東征で吉野に入った際、尾のある国津神、石押分之子イワオシワクノコが岩を押し分けて地中から出迎えるくだりで、記紀によれば、彼は吉野の国栖の祖です。
 森浩一先生は、『日本の神話の考古学』で次のように述べています。

「『後漢書』西南夷伝によると、今日のチベット自治区の東部に哀牢夷アイロウイという集団が住んでいた。その集団の伝説では、「一人の女が水中で沈木に触れて妊娠し、十人の子供を産んだ。すると、沈木が龍となって姿をあらわしたので、九人の兄たちは逃げた。逃げなかった末子が龍に背中を舐められ、やがてその集団の王となり、他の兄たちも栄えた」という。それにちなんで、この集団は龍の入れ墨をし、衣服に尾をつけているという。
 「尾のある人」、言い換えれば龍を意識した仮装をすることは、中国西南の住民の一習俗を示しているのである。このことは吉野を理解する基本資料といってよかろう(文庫本の方でP234)」

 じつは森先生のこの論考は、やはり吉野で神武天皇が出会った井光イヒカという尾のある人について書かれたもので、石押分之子について述べたものではありません。しかし、井光も石押分之子も同じ吉野の住民であり、尾のある人(神)であったためこの一節をそのまま石押分之子にも当てはめても問題にはならないでしょう。むしろ、クズ族と龍神との関係深さを考えると、よりあてはまるような感じがします。
 彼らが中国西南部から日本に移住してきたとすれば、八伎大蛇の伝承を中国から伝えたのは彼らだったかもしれません。また、以前紋次郎さんは、『古事記』応神条で吉野の国栖が大雀オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)に奏上した先がササけた剣を褒める♂フを、懸け言葉が多いとして注目されていました。素人考えですが、チベットとネパールに言語的な繋がりがあるとすれば、これも興味深いことです。

その2)室生龍穴神社
 奈良県近辺でクズ(九頭、葛、国津等々)神社が分布している地域は、吉野の国栖地方から奈良盆地東部の山間部にかけて、具体的には布留川上流域、都祁地方、初瀬川上流域、宇陀地方、室生村の笠間川流域、名張市から美杉村にかけての名張川流域(六箇山郷)、吉野の国栖地方等です(http://www.kamnavi.net/jm/kuzukami.htm参照)。おそらくこの分布圏はそのまま、かってクズ族が居住した地域と重複するものと思われます。
 龍神を祀る神社というと、奈良県宇陀郡室生村室生の室生龍穴神社があまりにも有名です。そして、この神社がある場所は上記の分布圏に含まれているといえます。龍と繋がりがあると観念されたクズ族の聖地に、後世、龍神の社が祀られるのは自然なことだと思われます。室生龍穴神社の祭祀にはクズ族による何らかの信仰が先行していなかったでしょうか。当社の裏山には持法吉祥龍穴という岩窟があり、龍神の棲む当社の奥宮として信仰の対象になっています。付近は大きな岩盤が露出していて、その上を清流が流れており、参拝者はこの清流を挟んで対岸の龍穴を拝するのです。龍穴と呼ばれ神聖視される岩窟は、この吉祥龍穴も含め室生付近に3っあるらしいですが、こうした岩盤や岩窟、清流に対する信仰は多くのクズ神社に共通するものです。

その3)猿沢池の龍
 都祁村に次のような伝承があります。

「奈良猿沢池の龍昇天して春日山に上り、東進して、神野山の弁天池に降下する。さらに南に飛んで、小倉壇(※都祁村の東南部、室生村に近いところにある山です)の山龍神池に到達した。さらに南にして、向淵に降下した。
 次いで室生の龍穴神社に、この龍は鎮座することになったのである。
 小倉の龍神池は標高610mの山頂にある池であるが四時水を湛えている。その中の島に、法篋印塔一基が建てられている<後略>(『都祁郷土史』都祁郷土会 P141)」

 この伝説には深い意味があると思うのですが、それはまだ分かりません。ただし、龍とクズ族の間に強い繋がりがあることを考えると、彼等の信仰がここに関係していた感じがします。というのも、猿沢池から飛び立った龍神が室生龍穴神社に鎮座するまでのうち、小倉壇→向淵→室生のルート上付近には、クズ神社が集まっているのです。龍神を導いたのはクズ族ではなかったでしょうか。
 なお、ゴチャゴチャした説明は省きますが、室生村近辺で龍神信仰について考える場合、豊玉姫命に注目する必要があると思われます。

その4)クズと龍
 小倉壇がある都祁村において、龍神信仰とクズ神社信仰の重複は著しいものがあります。例えばsetohさんのレポート(http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/tugekuni1.htm)の写真や6月5日にこの掲示板に掲載された香具さんのレポート([1220] 『山遊記その2』)にあるように、都祁村南之庄の国津神社の本殿背面には龍神の彩色浮き彫りがあること等、その例は枚挙にいとまがありません。
 総じて都祁村に限らず、奈良県における龍神信仰の分布は東側山間部に強く感じられます。とすれば、それは奈良盆地の東部から東南部にかけて広がるクズ族の信仰圏に包摂されているように思われます。もっと伝承等を調べれば、両者が重複する地域はさらに広がるのではないでしょうか。安易な敷衍は避けねばなりませんが、その場合、後者は前者に先行した信仰の古層であるという推理が成り立つように思われます。

その5) ちょっと話がそれますが、龍は木気の代表的な象意であり、方角における木気の象意は東です。クズ族は龍と繋がりがあるとみられており、また彼らの多くいた地域は、大和の宮都から見て東方です。このため、7〜8世紀に大和の支配者層間で道教が流行した際、彼らは神聖な民族と見なされていたと思われます。ことに、吉野町南国栖の浄御原神社の由緒などを考えると、天武天皇が彼らを重視したように感じています。

[2369] 彦狭島東漸と砥鹿神社  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/10(Thu) 21:41 [Reply]
三河一宮と同名の砥鹿神社が、栃木県塩谷郡高根沢町、静岡県清水市原及び愛媛県越智郡菊間町に鎮座する。これら三箇所に鎮座する砥鹿神社は、彦狭島命の東漸と関係があると思われる。彦狭島命は、日本武尊東征の後に東国に派遣されている。彦狭島命の東漸を考察する前に日本武尊について考察してみる。
古事記景行条は、景行が、日本武尊の曽孫の迦具漏姫(カグロヒメ)を娶ったと記載する。日本武尊は、景行の子である。景行は、その子・日本武尊の祖孫を娶ったとは信じ難い。さらに、次の記載から日本武尊の出自自体が怪しくなる。古事記景行は、日本武尊が、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を娶り産んだ子を若建王(ワカタケルノミコト)する。一方、書紀景行条では、日本武尊と弟橘姫の子を稚武彦(ワカタケヒコ)とする。古事記の若建王=書紀の稚武彦の等式が成り立つ。また、書紀考霊条は、考霊と蠅伊呂杼の子として、稚武彦を記載する。一方、古事記考霊条は、考霊と蠅伊呂泥の子として、若建吉備津彦(ワカタケキビツヒコ)を記載する。書紀の稚武彦=古事記の若建吉備津彦の等式も成り立つ。古事記景行条は、景行が、若建吉備津彦の娘・播磨稲日大朗姫を娶り、日本武尊を産んだと記載する。古事記の若建吉備津彦=書紀の稚武彦=古事記の若建王の等式が成り立つ。つまり、日本武尊は、自分の子が、自分の祖父ということになる。自分の子が、自分の祖父という関係はありえない。考霊条と景行条では、系図の混乱がある。日本武尊の出自のみならず、その行跡も額面通り受け取れない。
東征にあたって、景行は、日本武尊に斧と鉞を授けている。東征というより開墾のイメージである。そして、日本武尊は、叔母の倭姫のところに寄り、草薙劔を貰い、東へ旅だったとする。書紀は、日本武尊は、伊吹山の神の蛇毒にあたり亡くなったとする。一方、古事記は、伊吹山の神の使いを白猪としている。猪は、貴重な蛋白源であるとともに農作物に多大な被害を与える。開墾の想像は、より強くなってくる。東征というより日本武尊は、東国に追放されたのではないかと考えられる。
日本書紀考霊条は、考霊が、蠅伊呂泥の妹・蠅伊呂杼を娶り、彦狭島命と稚武彦命の二人を産んだと記載し、稚武彦命を吉備の臣の祖とする。この彦狭島命は、古事記考霊条では、彦寤間命と記載され、播磨牛鹿臣祖とされる。彦狭島(彦寤間)の兄弟の稚武彦は、古事記考霊条では、若建吉備津彦を記載され、若建吉備津彦を吉備下道(備後)臣祖の祖とされる。同条は、考霊と蠅伊呂泥の子として、彦寤間、若建吉備津彦のほかに大吉備津彦を記載し、この大吉備津彦を吉備上道(備前)臣の祖とする。一方、日本書紀景行条は、彦狭島を豊城彦の子と記載する。また、国造本紀は、彦狭島を瑞籬朝(崇神の時代)に上毛野(上野)の国造に定めたとし、彦狭島を豊城入彦の孫とする。豊城入彦は、古事記崇神条で崇神と荒川戸弁の娘・遠津鮎目々微姫の子と記載され、上毛野(上野)の君等の祖とされている。日本書紀同条は、豊城入彦の母を遠津鮎目々微姫とする他、一書で大海宿祢の娘・八坂振天色部としている。また、国造本紀は、下毛野(下野)国について、仁徳の時代に毛野国を上下に別けて、豊城命の四世孫の奈良別を下毛野国造に定めたと記載する。さらに、国造本紀は、彦狭島を景行の子・成務の時代に能登国造に定めたとし、彦狭島を大入城の孫としている。大入城は、古事記崇神条で崇神と大海人姫の子とされ、能登臣の祖とされている。彦狭島の祖父とされる豊城入彦あるいは、大入城は、大海宿祢、大海人姫と海部と関係が強く、天皇本紀は、彦狭島を海部直の祖としている。彦狭島は、日本書紀考霊条等から磯城県主家と関係が深いことが、また、景行条等からは、尾張氏等との関係を示唆させる。
国造本紀で彦狭島は、景行の子・成務の時代に能登国造に定められたとしているが、日本書紀景行五五年条で東山道一五国の都督に任じたが、任地に赴く途中に亡くなったとされ、代って、彦狭島の子・御諸別が東国を治めたと記す。考霊条では、播磨の牛鹿臣の祖と記載される彦狭島が崇神条以降では、能登あるいは、上野の国造の祖とされている。磯城県主や海部と関係の深い彦狭島も東山道一五国の都督に任じられたのではなく、東国に追放されたのではないかと考えられる。
古事記考霊条は、彦寤間(彦狭島)を播磨牛鹿臣祖とするが、国造本紀は、成務の時代に上毛野(上野)の君と同祖・御穂別命の子・市入別命を針間鴨国造に定めると記載する。針間鴨国とは、播磨国賀茂郡上鴨郷を指す。播磨と東国毛野の繋がりをうかがわせる記載である。
国造本紀は、上毛野の国造・彦狭島命を豊城入彦命の孫とし、下毛野の国造・奈良別を豊城命の四世孫としている。豊城入彦と豊城命が、同一人物であり、彦狭島命と奈良別が直系だとすれば、奈良別は、彦狭島命の孫ということになる。新撰姓氏録は、豊城入彦命、彦狭島命及び奈良別について「豊城入彦命―八綱田彦―彦狭島―三諸別―奈良別」としている。日本書紀景行五五年条は、彦狭島命を東山道一五国の都督に任じたが、任地に赴く途中に亡くなったため、彦狭島命の子・御諸別が東国を治めたと記す。新撰姓氏録によれば、この御諸別(三諸別)の子が、下野国造に任じられた奈良別ということになる。しかし、彦狭島命は、第七代考霊の子であり、その祖父・豊城入彦命の父が、第一〇代崇神ということはありえない。また、日本書紀崇神四八年条は、崇神が、豊城入彦命か活目(垂仁)のどちらを皇太子にするか決めるにあたって、二人が見た夢で判断するとし、豊城入彦命が、御諸山に登り、東に槍を突く夢を見たことを報告すると、東国を治めるに適わしいとし、活目が御諸山に登り、四方に縄を張った夢を見たことを報告したところ、活目を皇太子にしたと記載する。そして、書紀景行五五年条では、豊城入彦命の孫の彦狭島命に東山道一五国の都督に任じ、その途中になくなったことから、その子の御諸別が、東国を治めている。御諸別の名と御諸山の夢は、関連があるように思える。この御諸山の夢自体が、彦狭島命―御諸別の東国追放の伏線ではないかと考えられる。
新撰姓氏録で毛野氏は、豊城入彦命を祖としていることから毛野氏が豊城入彦命との意識的な連続をもっていることは、疑いないが、記紀が記載するように豊城入彦命が、崇神の子であることは書紀の崇神四八条及び景行五五年条から考え難い。そこで、古事記崇神条で上毛野君の祖とされる豊城入彦と毛野の関係について見ていく。
上野国一宮の貫前(ヌキサシ)神社(群馬県富岡市一之宮)は、祭神を経津主神と姫大神とするが、二宮・赤城神社(群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢)の祭神は、大己貴命と豊城入彦命である。赤城神は、元々は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげた。織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になったとする伝説が残る。これは、古代においては、上野の信仰の中心が、後の上野国一宮・貫前神社ではなく、二宮・赤城神社にあったことを物語るものと考えられる。一方、下野国一宮・二荒山神社(栃木県宇都宮市馬場通)の祭神は、豊城入彦命である。毛野と豊城入彦命が関係の深いことがわかる。下野国一宮・二荒山神社は、一般に下之宮と呼ばれる。中禅寺湖の北岸、男体山(二荒山)にも二荒山神社奥宮、二荒山中宮祠及び二荒山神社本社が鎮座(栃木県日光市山内)するからである。二荒山の開山は、天応二(七八二)年に勝道上人が、二荒山神社奥宮を創建したことにはじまる。この勝道上人について、補陀洛山草創立修行記は、「下野国芳賀郡の人であり、俗姓は、若田氏その先祖は、垂仁の第九子・池速別命が、勅使となって、伊勢大神宮を五十鈴川上に崇奉するが、縁あって東国に下向し、片目を患い下野国八室に住した(後略)」と記載する。日本書紀垂仁一五年条によれば、この垂仁の第九子・池速別命は、丹波五姫の一人・薊瓊入姫(アザミニイリヒメ)と垂仁の子とされる。つまり、池別速命は、天照大神(アマテルノオオカミ)を伊勢の五十鈴川のほとりに奉祀した倭姫命の従姉弟にあたり、勝道上人は、丹波道主家の血を引くことになる。また、群馬県桐生市広沢町に鎮座する賀茂神社(祭神:別雷神)は、崇神の時代に豊城入彦命が東国の鎮護として賀茂神を勧請したとする。賀茂御祖神社(京都市左京区)の由緒によれば、賀茂建角身命は、丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子、玉依日売を産んだとする。丹波国神野の神伊可古夜日売とは、古事記垂仁条で記載される大筒木垂根命の娘の迦香夜姫であり、丹波道主家ゆかりの姫であり、豊城入彦命が、勧請した賀茂別雷命は、玉依日売の子である。以上から毛野の地と丹波道主家が関係あることがわかる。
現在、栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺に三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する(祭神:手力男命。元の鎮座地は、西隣の河内郡河内町下岡本)。三河一宮と同名の砥鹿神社という名の神社は、愛媛県越智郡菊間町田之尻及び静岡県清水市原にも鎮座する。
古事記考霊条によれば、彦寤間命(彦狭島)は、針間牛鹿臣の祖と記載され、弟の彦刺肩別(母の阿礼姫は、彦狭島の母の細姫と同一人物と考えられる。第一話第二節参照)は、五百原君の祖と記載される。五百原は、一般に庵原と記載され、三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する清水市原は、律令以前は、庵原国に属した。
庵原の公(君)について、新撰姓氏録の巻五・右京皇別下は、「笠朝臣と同祖・稚武彦命の後なり、孫の吉備武彦命が、景行の時代に東方に派遣され、毛人(蝦夷=エミシのこと)及び凶鬼神(まがつかみ)を伐って、阿部庵原国に至り、復命の日に庵原国を給わった」旨を記載する。また、国造本紀は、庵原国造について、成務の時代に池田坂井君の祖・吉備建彦の子・意加部彦命を国造に定めると記載する。古事記考霊条は、彦狭島(彦寤間)の兄・若建吉備津彦を笠臣の祖と記載する。この若建吉備津彦は、書紀景行条の稚武彦であるから、新撰姓氏録及び国造本紀の吉備武彦は、彦狭島の兄の孫ということになる。古事記が、彦寤間(彦狭島)の兄弟を三人とし、弟・彦刺肩別を五百原君の祖とし、彦寤間の兄・若建吉備津彦を吉備下道臣及び笠臣祖とし、新撰姓氏録及び国造本紀は、彦狭島の弟の・彦刺肩別でなく、兄・若建吉備津彦の裔を庵原公としている点で異なる。国造本紀の池田坂井君とは、越前坂井を、意加部とは、駿河国志太郡岡部を指すと考えられる。古事記考霊条では、彦狭島(彦寤間)の弟・彦刺肩命を角鹿(敦賀)海直の祖と記していることから、越前坂井もこの関係からと思われる。新撰姓氏録は、景行の時代に東方に派遣され、蝦夷を討ったとするが、景行条の日本武尊の東征自体が、東国追放であったことを考えれば、額面通り受け取れない。また、庵原国鎮座の砥鹿神社は、熊襲梟師を祀るといわれ、九万神社と呼ばれたという。
この庵原について、予章記は、考霊天皇と磯城県主・大目の娘・細姫との間の伊予皇子(彦狭島)が、伊予国伊予郡神崎郷に住し、和気姫を娶り三人の子を産んだ。三人の子は、空船に乗せられ流された。三人の子供は、海童に養われ、吉備の小島に着いた。子供らには、それぞれ宅を造てて、これを三宅と呼んだ。第一子は、吉備の小島留まった。吉備の小島とは、備前国児島のことである。この第一子の子孫が三宅氏である。第二子は、船を作って、八歳にして駿河国清見崎(現清水港)に着く。大宅を造って住したことから、大宅を氏姓とした。子孫が多く、大宅の周囲に庵が建並んだことから、この地を庵原と呼ぶようになった。越智系図では、この大宅氏祖を第一子とし(第二子を三宅氏祖とする)、伊豆三嶋是なり、現三嶋大明神、従一位諸山積大明神というなりと記載する。また、「考霊天皇の第二皇子・伊予王子=彦狭嶋命が、和気姫を娶り三子を産み給う。嫡子の御船、伊豆国に着く(後略)」と記す。古事記、新撰姓氏録及び国造本紀が、彦狭島の兄弟を庵原の君の祖としているのに対し、予章記は、伊予皇子(彦狭島)の子が、庵原に着いて大宅氏を姓としたとする点で異なる。越智系図の現三島大明神とは、祭神を大山祇神・事代主神とする伊豆国賀茂郡に鎮座する伊豆三島神社静岡県(三島市大宮町)のことである。伊豆三島神社は、伊予国越智郡に鎮座する祭神を大山積神とする大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町宮浦)の分社である。伊豆三島神社の鎮座する三島氏の北の駿東郡長泉町には、三河一宮砥鹿神社社家トガリ氏と関連する土狩の地名がある。また、三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する庵原には、大山祇神の娘・木花之佐久夜比賣命を祭神とする豊積神社(庵原郡由比町屋原)が鎮座する。
大山祇神社鎮座する伊予国越智郡にも祭神を大穴牟遅命(大己貴命)他とする砥鹿神社が鎮座する(愛媛県越智郡菊間町田の尻)。現鎮座地の南方の山頂を「古砥鹿」と呼び、往古は、砥鹿山中腹に東面し、鎮座していたと伝えられる。予章記及び越智系図は、伊予皇子(彦狭島)の第三子が、伊予に住したと記載する。予章記によれば、伊予皇子(彦狭島)の第三子・小千御子は、伊予国大浜に着き、小千をもって郡名とし、また小千を氏姓とした。後に小千を越智に改めたと記載する。また、伊予皇子(彦狭島)の一三世孫・u躬を鴨部大神これなりと記載する。伊予皇子(彦狭島)は、鴨(賀茂)氏とも関ってくるのである。
一方、越智系図は、小千御子が着いたのは、伊予国大浜ではなく、伊予国和気郡三津浦としている。日本霊異記上巻一八話は、伊予国別郡の住人・日下部猴(クサカベノサル)の名を記す。伊予国別郡とは、小千御子が着いたという三津浦のある和気郡を指す。三河一宮砥鹿神社の神官は、草鹿砥(日下部)氏である。伊予国鎮座の砥鹿神社が、往古、砥鹿山中に東面していたというのも意味ありげである。そして、小千御子が着いたという和気郡に日下部氏が住している。
伊予国、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社は、いずれも彦狭島の子と縁のある地に鎮座する。また、新撰姓氏録の三諸別(紀は、御諸別)の名自体、予章記及び越智系図が伝える伊予皇子(彦狭島)の三人の子を暗示させる。伊予国、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社は、越智氏の東漸と関係があるのではと考えられる。また、日下部、土狩、賀茂を通じて、三河一宮砥鹿神社との関連もうかがえる。


[2368] ありがとう  榎本 [Mail] 2002/01/10(Thu) 19:58 [Reply]
ピンクのトカゲさんありがとう、やはり神仏習合でしたか、
だんだん自分の専門にちかずいてきた・・・・
薬師信仰とはかなり古い信仰ですね、でも神佛分離以前の砥鹿はいかなるものであったのであろう、きょうみがわいてきました。

[2367] 宝印祭  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/09(Wed) 21:54 [Reply]
宝印祭について
三河国一宮砥鹿神社誌は、
宝印祭の起源については、明治以前の記録がなく、
明らかでないが、
宝印祭が、守見殿神社付属の祭儀であり、
同社は、神仏習合時代
薬師堂と称せられたことから
薬師信仰と結合して
広まったものではないかとしている。

伊予、庵原、下野鎮座の砥鹿神社
色々調べました。
近いうち、長くなると思いますが、
報告します。榎本さん調べてきました。

[2366] 祭神は神秘?  習志野のてつ [Mail] 2002/01/09(Wed) 16:37 [Reply]
馬年にちなんだ話

香取神宮第一の摂社は側高(そばたか)神社です。
「不思議なことに昔から祭神は神秘とされていて…」
http://www.city.sawara.chiba.jp/tizu/frsobataka.htm

◎東国蝦夷征伐の折、側高の神は陸奥から馬2千頭を捕え献上したと
云われます。簡単な話、陸奥から騙し取ったか、盗んできたか?
陸奥の国では指名手配になっているので、祭神名はだせない?
アメリカでは、西部開拓時代、馬泥棒は縛り首。神様の縛り首なんて聞
いたこと無いけれど、当時この辺りでも重罪だったのかも知れません。

明日1月10日毎年恒例の「ひげなで祭」が行われます。
ローカルなネタですが、千葉テレビに出る程度は有名です
奇祭:ひげなで祭とは
 今年と来年の祭当番引継の時、ひげ(多くはつけひげ)をつけた氏子が
2人ずつ7組に分かれて、酒を飲みあいます。「ひげなで」は「酒を飲み
たい」との意思表明です。それまでの当番がひげをなでると1杯、次の当
番がなでると3杯追加されます。 「酒飲んで 『ウマ』かった」ですかね 

[2365] 講演会のお知らせ(写し)日経夕刊から  Setoh 2002/01/09(Wed) 09:35 [Reply]
 1月12日(土)午後2時から4時
 京都府木津町 国際高等研究所レクチャーホール。
 祝園から光台循環バス 京阪奈記念公園下車
 作られた伝統ー神社建築の変容をめぐって
 (出雲大社の神殿建築など)
 京大 山岸助教授
 無料 0774−73−4001 へ事前に連絡要。

[2364] Re[2360]: 無題  ピンクのトカゲ [Url] 2002/01/08(Tue) 21:48 [Reply]
> おしさしぶりです、今年は気合をいれて[とわいっても未熟者のわたしですが]砥鹿大社の本宮山の「宝印祭」にいってきました。
> この神事はいつごろからおこなわれているのでしょうか、いわれについて知っている方がいらしたら教えてください。
> 本宮山はすごい雪でした

三河国一宮砥鹿神社誌に書いてあったと思います。
図書館に行ったついでにまた調べておいて書きます。
少々お待ちを

[2363] そうですね・・・  榎本 [Mail] 2002/01/08(Tue) 21:17 [Reply]
ありがとうございます、砥鹿大社はわたしの専門外なんでともかくデータがない、調べようにうにも図書館が遠い、というわけでちょとこまっておりました。
たしか滋賀県の伊香郡の「オコナイ」の土印は修正会の牛玉宝印
授与からきているそうですが「宝印祭」もこれと関連があるんでしようか。



[2362] 無題  Setoh 2002/01/08(Tue) 20:16 [Reply]
榎本さん こんばんは。小生の手持ちの『日本祭礼風土記』には砥鹿の本宮山の「宝印祭」については一言も記載されていません。また『白水社の日本の神々10』での記載はありません。
砥鹿神社の件につきましては http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/ の掲示板がよろしいようで。


龍の像は新石器時代の黄河、揚子江流域の遺跡からも出ているそうで,そうとう古いそうです。
人間は龍をどのようにして発想したのでしょうか。マンモスを見た記憶、雷光,松の木,茶色の蜥蜴,いろいろな説があるようです。竜巻なんかもそうかも知れませんね。

九龍と龍生九子とは違うのでしょうが、いささかこっけいな感じの龍生九子は明代に民間ではやったお話だそうです。

[2361] 中国民話集  玄松子 2002/01/08(Tue) 08:28 [Reply]
岩波文庫の中国民話集に、二人の男(義兄弟)が、九頭の大蛇のために生贄になる子の身代わりとなり、大蛇を退治する話がでています。ヤマタノオロチの原型ですね。

その後、二人は妖怪にさらわれた王女救出のため地下へ向かいますが、一人が穴の外で待ち、一人が中へ。中に入った男が王女を救出しますが、外で待っていた男の裏切りで、王女のみ外へ出し、閉じ込められます。閉じ込められた男は龍神の助けで無事脱出。甲賀三郎の話に酷似しています。

出雲や諏訪の伝承、九頭のオリジナルは中国(あるいはインド)にあるような気がします。

[2360] 無題  榎本 [Mail] 2002/01/07(Mon) 20:16 [Reply]
おしさしぶりです、今年は気合をいれて[とわいっても未熟者のわたしですが]砥鹿大社の本宮山の「宝印祭」にいってきました。
この神事はいつごろからおこなわれているのでしょうか、いわれについて知っている方がいらしたら教えてください。
本宮山はすごい雪でした

[2358] Re[2354]: 伎楽  Setoh 2002/01/07(Mon) 09:40 [Reply]
 習志野のてつさん こちらこそ今年もよろしくお願いします。
松本清張さんあたりは飛鳥の石造物にペルシャ的な拝火教のにおいをかいだようですが,伎楽面は蘇我氏や姿色端麗な額田部皇女が好んだのではないのでしょうか。
 後に推古天皇とおくり名されたのは,身には酔胡面のみをつけて神降ろし舞でも踊ったのが伝わっていたのかも。

[2357] 磐フェチ  香具 [Mail] 2002/01/07(Mon) 09:34 [Reply]
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
拙アルバムに、六甲山麓桜ヶ丘町神岡の銅鐸出土地(今は何もないです)と、六甲山頂の雲ヶ岩、心経岩などの磐群をアップしました。磐座かどうか判りませんけど・・・『こんなんあります』というお話しです。
http://photo.goo.ne.jp/user/ixtlan

[2356] Re[2354]: 伎楽  福島雅彦 [Mail] 2002/01/06(Sun) 23:52 [Reply]
> *呉女についての「風俗博物館」(←名前が好きです)の資料
>  http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/fukusei/index.htm
> *迦楼羅(カルラ)について
>  http://www.linkclub.or.jp/~enjoji/Karura.html
> 特注)崑崙(こんろん)の所作は「マラフリ」と書かれています。

※習志野のてつ 様。伎樂の詳しい情報を賜り感謝致します。
『巨根を扱う仕草』⇒「マラフリ」を、お蔭様で思い出しました。
『マ』の語源(福島説/HP掲載)との関連に、思いを致しています。
有り難う御座いました。

[2355]   足きり と 男根崇拝    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/06(Sun) 15:54 [Reply]
 玄松っつぁん、重ねがさね、あがあが。
「アシタカ」は示唆的ですね。これならなんとか今年中におらの射程距離内にも入って来そう。

 津軽便にたんのうなご仁はいねぇか。おらは「ふだん記」で津軽弁に慣れたが、そこのカキコに
「子供を理髪店につれて行って『コノケは剃らねでけろ』と言ったあと、顔が真っ赤になった」と
いうのがありやした。その意味……ワカランまま至る現在。
 オンナの子はメノコ……なんとなく自然だ。だが男の子のヘコ帯びを絡めて「ヘノコ」を考える
とき「ノ」がなんとなく浮上するじゃあ〜りませんか。
 アイヌ語で、屹立していない普通のチンポは「ノー」言うだ。

 16世紀ごろ 南シナ海沿岸を中心にして、海難避けのクマリ・「ノー姫」が出て広範囲の漁民の
信仰を集めたことがありました。この娘さんの名前が初めから本当に「ノー」というたのだろうか?
今となっては真偽のほどはわかりません。しかし、日本列島海岸についている「ノー地名」は、と
ても古いものを匂わせます。
 舟はフィリピン・タガログ語のイナ(女)のように、造船所として日本にくっついています。そ
の湊にノーがあることは、素朴な原始宗教を匂わせてるじゃあ〜りませんか。
 
 だがしかし、いろけは眠気、食い気に比べれば意思の力でかなり制御できるものであります。
 肉やアシタ葉など食わねば、乗り越え、切り抜けることができる。
 われらの先祖(の一部)は、ここに目が醒めたつもりになったのではなかろうか。神官やヨギは
喜んでわが真ん中の足を切ったのでしょう。
 シナにも宦官がいて、思索や政治の高官になっています。
 日本人が総じて背が低いのは土地に含まれているカルシュームのせいもありましょうが、徹底し
た「気高さ志向」のせいではないでしょうか。なも瀬藤ドン。
 

[2354] 伎楽  習志野のてつ [Mail] 2002/01/06(Sun) 15:14 [Reply]
正月のテレビで、伎楽(ぎがく)を取り上げていました。伎楽とは
推古天皇20(612)年に、百済の人である味摩之(みまし)が
日本に伝えたといわれる、楽器伴奏を伴う無言の仮面劇です。
後世の日本の芸能に大きな影響を与えたといわれます(ex獅子舞)。
一度滅びた芸能だけれど、この劇で使う仮面:伎楽面は残っていま
す。正倉院等にあるそうですが、私は上野の国立博物館で見ました。
インド、チベット辺りから、シルクロード伝いに日本まで来たそう
です。「酔胡王」、「呉女*」、「迦楼羅(カルラ):ガルーダ)*」
とかの面があります。迦楼羅はまさにカラス天狗の容貌です。
*呉女についての「風俗博物館」(←名前が好きです)の資料
 http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/fukusei/index.htm
*迦楼羅(カルラ)について
 http://www.linkclub.or.jp/~enjoji/Karura.html
特注)崑崙(こんろん)の所作は「マラフリ」と書かれています。

752年の東大寺大仏開眼会には、大規模な伎楽が奉納されました。
唐では、兵馬俑ならぬ伎楽俑(ぎがくよう)も製作されました。当時
伎楽は国際的に流行したことが判ります。
東大寺大仏殿の昭和大修理がなった1980(昭和55)年、その落
慶法要において、考証によって伎楽は再現されました。これがきっか
けにとなり、薬師寺では平成4年以降毎年、玄奘三蔵会に奉納として
伎楽が演じられるようになりました。
http://www.nara-yakushiji.com/nentyu-gyouji/genjou-sanzo/gigaku/
また昨年野村万之丞は「真伎楽」として独自の解釈で再現を試みました。
 http://anmc21.com/pr-shin.htm 
1200年も前の事なので、いずれも推測ですが、仮面は当時のものです。
http://www.nara-yakushiji.com/nentyu-gyouji/genjou-sanzo/gigaku/persona.htm
本年もよろしくお願いします。   習志野のてつ

[2353] Re[2352][2351]: 籠神社?  福島雅彦 [Mail] 2002/01/06(Sun) 13:47 [Reply]
> 大和最古の神の名は大物主神です。
>
> 丹後の籠神社は国史大系での詠みは[コノ]です。コノノカミノヤシロかも。<(_ _)>
> 今の仮名遣いでは「籠もる」で「コ」だけですが・・・。

 早速の御教示に感謝申し上げます。
狂言だったか能だったか伎樂だかの所作に、巨根を扱う仕草があった様に記憶していますが…。神聖な行事にも登場するところを観ると、大物主神と無縁ではないかも知れませんネ。

[2352] Re[2351]: 籠神社?  Setoh 2002/01/06(Sun) 08:50 [Reply]
福島雅彦さん 今年もよろしくお願いいたします。
> 『ピン』と出した物も、巨大だったりして…(不謹慎で済みません!)。
大和最古の神の名は大物主神です。

丹後の籠神社は国史大系での詠みは[コノ]です。コノノカミノヤシロかも。<(_ _)>
今の仮名遣いでは「籠もる」で「コ」だけですが・・・。

[2351] 籠神社?  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/01/06(Sun) 01:41 [Reply]
謹賀新年!。今年も宜しくお願いします。唐突に質問ですが。教えて下さい。
『籠(この)神社』だとばかり思っていましたが…。
『籠(こ)ノ神社』なのでしょうか?。
 実は、丹後半島の『竹野(たかの)郡』が、水縄連山北麓の其れと同じ発音ですので、関連を探りに数年前に参拝しました。その時は『丹後の宮津で♪ピン♯と出した』を覚えて帰りました。
下段だとすると“커”(keo)⇒大き(く)、があります。
『ピン』と出した物も、巨大だったりして…(不謹慎で済みません!)。

[2349]   葦キを祓うて 田ァ売りたまへ デンデン    一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/05(Sat) 10:54 [Reply]
> 境界となる地に「アシ○○]を祀るのも‥‥
★ いヤァ〜、玄松っつぁんの博識。宇宙の果てまでカネ
  きのふ、おらが『倭人集落の中央や境界近くの宿泊所定地には「藁カラ」で作った柱
  (神)が建てられ‥』と書いたのは、まったくのアテズッポウ‥‥空想でしたが、やは
  り『境界となる地に「アシ○○]を祀る』みたいな風俗があったのでしょうか?
  「アシ○○]……は具体的にはナニがありましょうか。
  そういえば、藁は稲作が入ってきた後の素材ですね。藁は葦の代用品だったかもしれま
  せん。
  『境界近くの宿泊所定地』とやった根拠は堀井令以知さんの御教えでした。

 下駄の語源その他は「ほにゃらか」;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2348]  桜左近 2002/01/05(Sat) 04:25 [Reply]
葦(あし)が「悪し」に通じるから、ヨシ(善し)と呼ぶようになった、という話がありますね。いかにも日本人らしいエピソードで笑ってしまいますが、私の何とかの一つ覚えのネワール語では”葦”を”NALA”というのです。

#だから何?と言われても困りますが、ご参考に奈良ないでしょうか?(笑)

[2347] Re[2346]:   ワラジを飾っている神社     玄松子 2002/01/04(Fri) 22:14 [Reply]
>  ところで、「ほにゃらか」で、アシダキという地名を起点にして、ここから「ぞうり、わらじ」を祭る習慣を問題にするところとなりました。

「アシダ」は、足駄と書きますが、足板の訛、つまり下駄です。藁は無関係ですよ。
「アシ○○]と呼ばれる神社には、よく草鞋が奉納されていますが、これは「アシ=足」と解釈した結果じゃないでしょうか。もともとは「葦」じゃないかと思います。
「古事記」を読むと、古代人にとって葦は特別な植物のように感じます。

また、葦の葉や稲の葉、菖蒲の葉のような剣状の植物の葉には、破邪の力があるとする信仰もかなり昔からあるようです。境界となる地に「アシ○○]を祀るのも、そういう効果を期待したものかもしれません。

[2346]   ワラジを飾っている神社     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/04(Fri) 16:38 [Reply]
 玄松っつぁん、暮れにはえろう、いいヒント(ホクラ……神庫)戴き、あがあが。
 お蔭さまで、スッキリ正月ですばい。

 シナ語は単節音が圧倒的です。造語のせめぎあい(懸け言葉)のなかに DAK というコアが生
まれた……のが基本となって、ここから瀧や猛る、竹、高、(或いは獄・岳も)、が新しく日本
語として造語されたんじゃないかなぁ〜と思っています。

 ところで、「ほにゃらか」で、アシダキという地名を起点にして、ここから「ぞうり、わらじ」
を祭る習慣を問題にするところとなりました。
 資料と想像力、創造力でたくましきミナシャン、ここを巡ってナンかないでしょうか。
 
 ワラジの藁はネパール語の PARAL と同根かと思われます。カラムシはギリシャにもあります。
イネ、ムギ草など乾燥した部分の茎はカラで、カラはまた「作る」というエデン語です。
 兼六公園の松は、今頃はぜんいん幹が藁で包まれています。これを虫どもが動き出すまえに藁
ごと焼いて虫送りする……。

 超古代の倭人集落の中央や境界近くの宿泊所定地には「藁カラ」で作った柱(神)が建てられ
たんじゃなかろうか? WARA( BALA ……こども)が大勢カラできることを願って……。
 その藁柱に、旅人が古くなったワラジを掛けたんじゃあるまいか。

 ワラジの di ……これも柱くさい。
おら、またまたワラ・カラんこと言うたやろかネ。

[2345] 今年の目標  なにがし [Url] 2002/01/04(Fri) 00:23 [Reply]
今年は丹生都姫(丹生氏)が伊都郡かつらぎ町天野に鎮座した理由を追い求めたいと思っております。なぜ、今では不便なと思える山の中へ?(丹生氏の住まいは川側なのに)
また、大伴氏についても勉強してみようと思っていますので、いろいろとはちゃめちゃな事をカキコするかもしれませんが、今まで同様御教授頂ければとお願いいたします。

[2344]   ヒップ ポタタモスのみこと     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/03(Thu) 22:05 [Reply]
 イタキソ様に噛みついたらたら、わがマッキントッシュくんが、丸二日間、トラベルになった。
 やっぱ、イタキソ様からバチが当たったンやろかね。

 おらがやってることは「証明」ができんとこです。
 だどもよう、例えば太陽とか水とかの大々基礎語が地域的に塊とかクラスター的結合をみせる。
 そして、関心注意を持続させておいたら、次第しだいに心証にコア(塊)が生じる紋なんだぁ。
 瀬藤ドンも生まれたはじめは神社なんぞ、全くシランカットンテンやったろが。
 わてかて××や。

 籠神社、あがあが。 XO か……はたまた、「牛」やなかろうか。
 ぐぐぐ〜〜っとの大昔には、日本なんざはなかったんだ。世界はひとつ……といいたいところやが、言語の種類は50ぐらいしかなかったんじゃなかろうか。日本にインドの神様がいても、ちっ
ともオカシくはなかんべぇ。

[2343] Re[2337]:   大めでた・イタキソ様の日の出ぞな      Setoh 2002/01/02(Wed) 20:36 [Reply]
 めでためでトンチンカンな伊太祁曽様はいいんですが,単音にまで分解して解読されているのですが,紋覚上人は疑問ないし反論があれば,ピンク色になる方ではないと思うので一言主かね。
 日本語の元は海外から伝わった単音節で構成されているんやろか。それとも人類が進化の過程ではエテコと同じようにキャーとかの単音でやっていたそれこそとんでもない大昔にどっかからご先祖様がやってきたのかね。単音でやれば,キは酒、木もあるんでは?
 小生は単音を否定しようとは思わない。丹後に由緒の固まりのような籠神社(コの神社)が鎮座、これがカゴの籠をコと訓だのかどうかは尻りませんが,コ=XO(年末にでていた)の可能性はあるのかも知れないなど想像はするがね。

 京都市中京区に薬祖神社が鎮座、祭神は少彦名神、神農炎帝、ヒポクラテスの三柱です。江戸時代の蘭学ブームで古代ギリシアの医者が持ち込まれているそうだが,このように古来より海外のものを取り入れることは自然に行っていたようで,何が入ってきていても不思議ではないとは思うがネ。

[2342] Re[2341]: 契沖  Setoh 2002/01/02(Wed) 12:47 [Reply]
 なにがしさん、あけましておめでとうございます。
> 「高野山仰ぐを更に仰ぐかなにふつ姫神ふもとながらに    契 沖」

天王寺区空清町の鎌八幡宮はまた円珠庵と云われ、江戸時代の17世紀末の国学者・契沖の旧庵跡です。。
丹生都比売との関連が判らなかったのですが,糸口になりそうですね。

[2341] 契沖  なにがし [Url] 2002/01/02(Wed) 12:06 [Reply]
setoh様
「高野山仰ぐを更に仰ぐかなにふつ姫神ふもとながらに    契 沖」
これ丹生都姫神社のHPで見つけたんですが、この作者名、天王寺の鎌八幡宮で見ませんでした?見た記憶があるんですが。文人か国学者かなんかって書いてたような。

[2340] あけましておめでとうございます  ZOU [Mail] [Url] 2002/01/02(Wed) 03:03 [Reply]
KAGさんにお導きいただきまして、最近こちらにアクセスさせていただくようになりましたZOUです。
Setohさん、みなさん、本年もよろしくお願い致しますm(__)m
2002年がみなさんにとって良い年になりますように。

Setohさんはイタケルさんをお参りに行かれたんですね。
初詣の行き先はまだ検討中ですが、やっぱ国津神ファンなものでσ(^_^;)

[2339] あけましておめでとうございます  峰 小雪 2002/01/01(Tue) 13:22 [Reply]
皆様 新年あけましておめでとうございます。
先日話題に上っておりました保久良神社の麓より新年のお喜びを申し上げます。

初日の出を見に行き、甘酒などいただこうと思っていたのですが、夢の中で(^^;
明日あたり晴れたら参拝しようかと思っております。
この近辺の小学生、中学生は、なにかといえばこの山に上り、社殿裏の磐座にが
しがしよじ登り、金鳥山(頂上はただ石とベンチがある頂上らしくない場所)あ
たりを歩くのが常です。また、金鳥山の付近はとても綺麗な榊が取れるので、よ
く榊を取りに行きました。
神社が生活に密着し、ごくあたりまえに日々の暮らしと共にあったのが、生活ス
タイルなどの変化で以前のようではなくなりました。しかし、新しい年が幸せで
ありますように、と神前で頭を垂れる人々の願いは今も昔も変わらぬものだと思
います。

新しい年が皆様にとって素晴らしいものとなりますように。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

[2338] 無題  泊瀬女 2002/01/01(Tue) 12:05 [Reply]
あけましておめでとうございます。
今年も、各地の神社を駆け回りたいと思っています。
神奈備のお仲間からのご教示や励ましをいただくと「また行くゾー」って勇気が出ます。
本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

[2337]   大めでた・イタキソ様の日の出ぞな      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/01/01(Tue) 07:57 [Reply]
 ミナシャァ〜〜ン 大めでたぞな 

 うんにゃ、ひと事じゃないんだ。神ごと、イタキソ様のほほえみだァ!!

 ああ、技術がほしい。赤でこの文字の5倍ぐらいに大書したいんだァ〜〜。


 永年、『かむなび』席亭・瀬藤ドンご執心のイタキソ様の意味。
* イ……「ダを言い易くする助音のイ」と「神を示す語頭のイ」の、二つの懸け言葉。
* タ……DA(柱)とDHAR(水の流れ)の懸け言葉。
* キ……立上がった龍(昇竜)
* ソ……神

 「イダキ」だけでも昇竜を柱にみたてた神という意味になっていました。
 そこへ、再び当時流行の SO(神)を添えたのでした。
 大黒様の分析は結果的にはウソになっていたが、そのウソが役にたった。
 解明の大きなキーは『 KUMANO LIFE 掲示板』の「トンチンカン小僧」さんが、キとはシ
ナ語にもある“立上がった龍”だと教えてくれたことでした。
 トンチンカンな発言は宝の泉あるね。こんごもアマカネぞな。

 「水の流れ」とはいのちの流れです。去年、瀬藤ドンが那智の滝をみつめて「こりゃ柱
だ」と直感したのもイタキソ様のお導きだったことか!

 昇竜のオンコ(あららぎ)……焼尻島にある。これもお導きカネ。

 あ、あけまして おめでとさん。 ことしもよしなに。

[2334] 皆様、お世話になりました。  Setoh 2001/12/31(Mon) 10:38 [Reply]
 物部の氏族の名前に鈴木とか穂積とかがあります。
秋の七草の尾花とはススキの穂ですが,ススキとか萱には神が宿ると言います。神の依り代ですから祭祀氏族の後裔にはうってつけの姓です。
 また穂積は稲を献じて穂積姓をもらったとされますが,ススキの穂を積み上げても穂積になり,これまた神の座になります。
 このような古代の姓は言霊の役割が入っていたのですね。

 話は変わりますが、日の谷探索の前日,石上神宮の東側山中の九龍神社を香具さんに案内して頂きましたが,朝,コンビニで弁当を仕入れたのですが,お箸が入ってなく,一本頂いてこれを折って昼食を頂いたのですが,何故,お箸が入っていなかったのでしょうか?

 熊野古道の牛馬童子の峠は箸折峠と言います。熊野詣での人々は箸を持たずに行くのが作法で,刀があれば現地調達は容易ですが荷物になると言うことより,箸には霊が依り憑くと思われていたのです。
 コンビニの店員さんは,それを心配してくれたのですね。おかげで快適な九頭社めぐりが出来ました。ありがとう。
 何事にも穏やかに,感謝の心を持ちたい,常識人の神奈備でした。
 皆様、お世話になりました。平成十四年も皆様にとってすばらしい一年でありますように。

[2333] ありがとうございました  りん [Mail] 2001/12/29(Sat) 22:37 [Reply]
 間人皇后にまつわる話が載っている本は、なかなか無かったから
紹介頂いて大変うれしいです。
 おつきあいありがとうございました。
 よいお年をお迎え下さい。

 

[2332] 無題  なにがし [Url] 2001/12/29(Sat) 21:17 [Reply]
残りあと2日となりました。小生もこれより実家に帰ります。
本年はいろいろとお世話になりました。来年もよろしくお願い致します。
それでは、良いお年を!

[2331] 神社による古代史F 『イメージとしての出雲』  kokoro [Mail] 2001/12/29(Sat) 15:48 [Reply]
 大分間があきましたが、10月16日の『神社による古代史E』の続きです。
 布留川上流域の神社郡についてはこれまで何度も触れてきましたが、その度に必ず、出雲という地名に送り届けられてきました。だが、なぜ出雲なのでしょうか。
 2回目になりますが『石上振神宮略抄』から、出雲とこの地域との繋がりを特に意識させる夜都(留)伎神社の縁起を引用します。

「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり。仍て八剣の神と申す。神代の昔出雲の簸谷の八伎大蛇は一身にて八伎あり尊(素戔男尊)剣を抜きて八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化為て聚雲の神剣に扈従して当国布留河上の日の谷(属都祁郷)に臨幸ありて鎮座す(八龍王八箇石是也)。」

この伝承を読んで僕が最初に感じるのは、出雲と布留川上流域の間にある膨大な距離があっさりと無視されていることです。例えば、大和に入るのに熊野を迂回した神武東征や播磨から出石神社へ行くまでに近江や若狭を経巡った天日槍など、古代における移動には、遠回りと寄り道がたいへん多くみられます。これに対し夜都伎神社の伝承では、退治された八股大蛇が、出雲から布留川上流域までほとんど無媒介的な早さで到達するのです。この距離の廃棄とでもいった事態には、何らかの呪術的な雰囲気が感じられないでしょうか。
 出雲のイメージのひとつに、「根の堅洲の国」のような冥界としてのそれがあります。出雲があるのは大和から見て西の果てですが、このために西=陰、東=陽とする道教的観念からいうと、出雲は強い陰極の象意をもちます。ここでいわれる出雲は、現在の行政区分でおおむね島根県に該当する地域といった実際の土地を指すのではなく、大和の西方にある場所といういたって観念的な存在です。出雲における冥界のイメージが、こうした道教的観念に根ざすものであることはよく指摘を受けますが、その背景には東西軸を陰陽軸とする世界観があるのです。
 さて、これまで述べてきたように、僕は夜都伎神社と出雲建雄神社の祭祀が宮都の守護と関わりがあったと考えています。そこで、布留川上流域に濃密に分布するあれらの出雲の伝承について、この線に沿って考えてみます。易学には、北極星を心霊化した太極とよばれる存在があります。太極は宇宙の中心なので、古代の造都計画では、日本全体の中で宮都が太極、さらにその宮都の中では天皇が政を行う場所が太極、と観念されました。藤原京等で天皇が政を行う建物を太(大)極殿というのは、そこからきているわけです。易学では、この太極は必ず陰と陽の二元を生じるとされます。両者は全く相反する本質をもちながら、完全に互角な存在です。
 太極であり宇宙の中心である大和の宮都、及びその主催者である天皇にとって、世界は陰陽の均衡がとれている状態が理想です。この均衡が崩れると治世が乱れるとされたからです。しかし、ここに深刻な問題が生じます。陰極の象意である金気と陽極の象意である木気は、五行の相剋原理「金剋木」により、金気が一方的に木気に勝るのです。つまり、東西軸を陰陽軸とする世界観では、東に対して金気である西が圧倒的優勢に立ってしまうのです。このため、「金剋木」を覆し、陰陽の均衡を確保するために、呪術を導入する必要が生じます。
 さて、夜都(留)伎神社の縁起には、この「金剋木」を覆す呪術のことが隠されていなかったでしょうか。この縁起で、退治された八伎大蛇が出雲から日の谷に到達するまで、以下の4っの過程を経ます。

  @八伎大蛇  −(切断)→ 八つの小蛇
  A八つの小蛇 −(変容)→ 水雷神
  B水雷神   −(扈従)→ 聚雲の神剣
  C聚雲の神剣 −(降臨)→ 八竜王八箇石

 @〜Cを個別に分析していくと、@で八伎大蛇は素戔嗚尊による分断によって、八つの小蛇となります。この件には、「八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となり」などという文章があり、『神社による古代史』のテーマの1つ、八に対する偏執≠ェ極端な形で現れています。これは僕の勝手な推測ですが、結局、この八≠ニいうのは美称の八=弥≠ナはなく、何か易学の八卦と強く関わっている感じがします。易学における「八」という数詞には、何かしら凡≠ニいうか一なる全て≠ニいうか、一種世界的な感情が感じられます。「金剋木」という事象の理(ことわり)を覆す強力な呪術を行うに当たり、そうした強い感情を呼び起こす必要があったのではないでしょうか。
 Aでは、この八つの小蛇が天に昇ってから水雷神に変容します。雷は八卦の「震」に該当し木気の象意であります。このことは次のBCで強い意味を持つことになります。
 Bでこの水雷神は聚雲の神剣に扈従します。強調したいのは、Aでは八つの小蛇が水雷神に変容≠オたのに対し、水雷神から聚雲の神剣へは扈従≠ニなっていることです。これは金気である剣が、木気である水雷神を「金剋木」の原理によって従えたという意味だと思われます。この伝承全体で、道教の原理がもっとも現れている部分ではなかったでしょうか。なお、ここでは、扈従が起きたのが出雲上空なのか、それとも日の谷上空なのか明記されていませんが、やはり前者であったと思われます。出雲は八千矛の国と呼ばれ、また実際に大量の銅剣が出土している地域です。こうした文脈から見ても、金気である剣は西にある出雲を象徴する存在であると思われます。
 Cがもっとも重要です。そこではこの水雷神を扈従させた神剣が日の谷に降臨し、八竜王八箇石が登場します。縁起では八竜王八箇石とこの神剣の関係を今ひとつはっきりさせていませんが、それらが等価なものとして扱われているのは間違いないでしょう。龍とは木気の代表的な象意です。また、この神剣には水雷神の神格もあるわけですが、これもまたそうです。してみると、この神剣、すなわち日の谷に降臨して八の比礼小刀子となった剣は、金気である剣でありながら、同時に龍や水雷神の神格も備えた木気の存在であるという観念があるように思われます。こうした金気と木気の両立というのは、道教の原理では不可能事であり、それを可能にするには呪術的な作為が必要です。そして、その呪術の本体とは一体どういうものだったかを説明するのが最初に指摘した、出雲から日の谷への無媒介的なこの剣の移動ではなかったでしょうか。つまり、出雲(西)と大和の日の谷(東)の間にある距離を廃棄することにより、金気(西)と木気(東)を両立させる…大略、そんな内容の操作が呪術により行われ、夜都伎神社の伝承はそれを伝えているのではないかと推測します。
 呪術の力で「金剋木」を脱却し、金気(陰)と木気(陽)を両立させる。陰陽の均衡を図り、世界の中心とされる天皇の首都を安定的に支える。これが夜都伎神社における宮都鎮護の祭祀ではなかったでしょうか。また、『神社による古代史E』で書きましたが、僕はこの夜都伎神社の本の宮とみられる日の谷が、宮都の鬼門と見なされていたと考えています。鬼門は東北の方位で、五行でいうと水気から木気に相生する移り目です。そしてそこは、陰陽の切替え地点なので、相生や相剋の運動から解放される一種ニュートラルな場所とも考えられます。したがって、鬼門というのは単に縁起の悪い方角というだけでなく、五行の原理を脱却するような強力な呪術を行うに適する方角だとも考えられます。宝治元年(1247年)5月、執権北条時頼に恨みを抱いていた鎌倉幕府の御家人、三浦光村は、鎌倉の鬼門の方角に五大明王堂を建て、祈祷師や陰陽師に時頼調伏の法会をさせたそうです(『吾妻鏡』第18)。ここで登場する鬼門は今言った文脈で考えた方が理解しやすいと思われます。
 また、この縁起の時代背景も考えさせるものがあります。八伎大蛇が登場するので舞台は神代ですが、夜都伎神社の祭祀と際だった連続性を感じさせる出雲建雄神社の縁起によれば、出雲建雄神が日の谷に降誕したのは天武天皇の最晩年、自分の病が草薙剣の祟りであると占いに出た天皇が、この剣を熱田神宮に返却した翌日です。したがって、この神社の祭祀もまた天皇が闘病生活を送っていたこの時期に関わりがあるかもしれません。『日本書紀』には天皇の重い病が印象的に描いてあります。そうして、古代最大の呪術王として彼が、起死回生の呪術を試みたことは容易に想像されます。この縁起の趣旨が、金気を押さえ込んで木気を生かすというものとすれば、あるいは天武天皇の生命の再生を意図する呪術だったとも考えられます。
 少し補足します。金気(西)と木気(東)の両立とすれば、すなわち土気(中央)であると解釈することも可能です。その場合、かって草薙剣が熱田神宮で土用殿と呼ばれる建物の中に祀られていたこと、土用殿のそばには龍神を祀る竜王社があること、等が示唆的です。

☆ 吉野裕子先生の『陰陽五行と日本の天皇』を参考にしました。
☆ 次回は最終回。最大の謎である熱田神宮と八剣宮の祭祀の二重性について考えてみます。setohさん、皆さん、今年はお世話になりました。よいお年をお迎えください。



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