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[4206] Re[4205][4203][4201]: 吉野町入野  kokoro [Mail] 2003/05/31(Sat) 21:17 [Reply]
> 「えらい神様」のお話は『吉野町史』からです。

 ありがとうございます。ソースの明示はできるだけしたほうがいいかも…。それだけで、信憑性がぜんぜん違ってきます。
 ただ今回、ソースにこだわったのは、対馬の古い信仰のことを考えたからです。他意はありません。


> 合祀の件は、地元の郵便局員と地元の方お二人からです。最近のことのようです。

 ダムで下宮だけが、水没したのかもしれませんね。


>  話は変わりますが、窪垣内の上流付近の国栖庄は、『一乗院家御領』には稲淵庄在末庄国栖庄とあり、国栖庄は南淵寺の領地だったそうで、kokoroさん[4152] の氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社について、泊瀬女さん[4153] の飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上の三つの祠が信憑性がどんどん増してきているような気がします。

 お、さすがですね。これは、山上の祠を考証する素晴らしい根拠になりますよ。

[4205] Re[4203][4201]: 吉野町入野  神奈備 2003/05/31(Sat) 08:52 [Reply]
kokoroさん、おはようございます。
> > 面白いのはともに石穗押別命を祀るが、下宮の神様は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのこと。
> このソースを教えて下さい。ちなみに『奈良県史5 神社』によれば、国樔神社(下宮)は、入野字宮ノキクに鎮座しています。

「えらい神様」のお話は『吉野町史』からです。
合祀の件は、地元の郵便局員と地元の方お二人からです。最近のことのようです。

> 女神が似合う
 水の神で有名なのが彌都波能賣命やひょっとしたら丹生都比賣神、ここらからの単純な連想です。
 尤も、少名彦名神も水神の要素がありそうで、九頭神と久須斯神をつなぐのはこの神かもなどと思っていますが・・。

 話は変わりますが、窪垣内の上流付近の国栖庄は、『一乗院家御領』には稲淵庄在末庄国栖庄とあり、国栖庄は南淵寺の領地だったそうで、kokoroさん[4152] の氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社について、泊瀬女さん[4153] の飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上の三つの祠が信憑性がどんどん増してきているような気がします。
 どなたが三つの祠を発見するのでしょうかね。

[4204] Re[4202][4197][4196][4195][4193][4190]: 無題  神奈備 2003/05/31(Sat) 08:51 [Reply]
のりちゃん、おはようございます。

田原本の大網村がありました。今のアザ大網。
この大網は大依網の二文字化したものだそうです。『奈良県歴史地名辞典』
大依網と云えば、大依羅神社が住吉区庭井町に鎮座、住吉っさんと深いつながりがあり、かつ途中で衰亡しているようです。
摂津の国から大和へ移住した大依羅一族がお参りに行っていたが、衰亡したので住吉っさんに切り替えたのかも。

[4203] Re[4201]: 吉野町入野  kokoro [Mail] 2003/05/30(Fri) 23:57 [Reply]
 神奈備先生、こんばんは。

>  面白いのはともに石穗押別命を祀るが、下宮の神様は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのこと。

 このソースを教えて下さい。ちなみに『奈良県史5 神社』によれば、国樔神社(下宮)は、入野字宮ノキクに鎮座しています。


>  クズの神はどうやら水神でもあり、女神が似合うようで、

 くず神の神格に、水神としてのそれがあったのは、分かりやすいですね。けれど、女神が似合う≠ニ考えたのは、どういう理由からでしょうか(べつに、否定したいわけじゃないんですよ)。

[4202] Re[4197][4196][4195][4193][4190]: 無題  のりちゃん 2003/05/30(Fri) 23:42 [Reply]
> > > 田原本は桃太郎の故郷でもあるとか。

田原本町といえば、鏡作神社が三社あることも思い出されますね。

また、住吉大社さんについてですが、
畝火山口神社の境内案内板によれば、「二月祈年祭と、十一月の新嘗祭」に用いる土器を作るための埴土は、畝火山の山頂で採取するのだそうですし、
また、柏原市史によれば、河内鑑名所記の「白坂(宿奈川田)神社」の章には、「此社の前の大河にて、住吉の社務代十一日か間水こりをかきたまひ、塩こり温こりは住吉にてかき、冠を着たまふよし、里人のかたりき。」
とあるのだそうです。

お祭のごとに、いろんな神社さんと関わりを持たれているのかもしれません。

それがなぜかは知りませんが、かなり「外交的」な神社であるような印象があります。

[4201] 吉野町入野  神奈備 2003/05/30(Fri) 22:08 [Reply]
 吉野町に入野という隠里のような山間の集落がある。津風呂湖の東側にあたる。
かって入野には二座の神社が鎮座していた。共に石穗押別命を祀り、國樔神社と上宮神社と云う。立地上から上宮神社は國樔神社より高地に鎮座していたのでそう呼ばれていたようだ。國樔神社は下宮と云う。
 面白いのはともに石穗押別命を祀るが、下宮の神様は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのこと。
 クズの神はどうやら水神でもあり、女神が似合うようで、それでもってえらいとされたのであろうか。
 なお入野の下宮は上宮に合祀されているようだ。

 出雲の日御崎神社も上宮には素盞嗚尊、下宮は天照大神とされている。どちらが偉い神様?、現在ではどうやら天照大神で女神でえらい方となる。

[4200] Re[4197][4199]  日雲ん 2003/05/30(Fri) 07:17 [Reply]
ソース> http://www.norichan.jp/bbs/new/bbs321-340.htm
……あ……あっれえ〜〜〜〜……!?(ナイアガラ汗

生田様>日本列島内部での文化(偏執)とはかぎらないと思います。
限らない……とは思いますが……
語源説としては、「宿にいたからシュク」とか、「守宮=シュグウの転訛」とか、
色々あるようですが、何にせよもはや「これが正解である」とは出し難いんじゃないか、
という気がしています。
「私的にはこの説を採る」としか出来ないんじゃないかと。
古代に遡り得る言葉かどうかも解りませんし。
ただ、念頭に置かせては頂きますね。
「シュク」が先か、「シュクジン」が先か、も良く解りませんから。

[4199]    宿     生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/29(Thu) 18:35 [Reply]
 日雲さん、シュクを「木」または「柱」とおいて(方法仮説)、すこしのあいだ
睨みつけていただけませんか?
 きっと、成果のこれありなむと、おれ憶うヨ。
 ネパール語 rukh(木)。
 日本列島内部での文化(偏執)とはかぎらないと思います。

[4198] 桃太郎 と サイタロ節    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/29(Thu) 18:22 [Reply]
 「tar(若い男)→ ← 童神」が噛んでらいしょ。
 momo は五十・五十で(おチャの子)サイサイ。「いい(良)」はまもなく披露します。

 宮城県松島の「サイタロ」にはキャラクターを露出させる伝説がナァーンもないです。
 この現象に関して、おれフシギに思っていたのですが、サイタロとはただの「民謡」という
タジク語でした。
 だれか松島に行って、「座敷きワラ(童神)シ(人)」で味つけして、民話をデッチ
あげんカネ。これ、紀記よか罪は軽い??

[4197] Re[4196][4195][4193][4190]: 無題  神奈備 2003/05/29(Thu) 15:17 [Reply]
> > 田原本は桃太郎の故郷でもあるとか。
> えっ……そうなんですか? 何か文献とか、見られるソースはありますでしょうか。
http://www.norichan.jp/bbs/new/bbs321-340.htm
> それは……へえ〜……!?

[4196] Re[4195][4193][4190]: 無題  日雲 2003/05/29(Thu) 13:43 [Reply]
> 田原本は桃太郎の故郷でもあるとか。
えっ……そうなんですか? 何か文献とか、見られるソースはありますでしょうか。
それは……へえ〜……!?

> 住吉大社の奥宮が開口神社(堺市宿院 開口の頓宮)で、「宿」の言葉でおやおやと思っていましたが、御輿がやどる仮の宮居を宿院というようで、空振り。
「シュク」は「どういう意味のシュクなのか」を、いちいち個別に調べないと解らないので面倒ですよね。
香川県でしたか、宿神社というのがありまして、通りがかりに見に行きましたら、
ここなどは「神功皇后が仮宿をこの地に築いたから」とか言うことで(;^^
近世になってから出来たこじつけ語源も多そうですし、微妙な問題もはらみますので、
なかなか実際のところの調べがつかず――そのくせ数が多いので、お手上げ状態です。
何か全国何処でも使えるような問答無用の政治力でも持ってないと、難しいですね。

> 海人系のクズみたいなものでしょうかね。
いや、正直、さっぱり解りませんです(;−−

[4195] Re[4193][4190]: 無題  神奈備 2003/05/29(Thu) 08:14 [Reply]
田原本は桃太郎の故郷でもあるとか。

日雲さん [3622] では傀儡子と住吉をご披露、執念のテーマのようですね。
住吉大社の奥宮が開口神社(堺市宿院 開口の頓宮)で、「宿」の言葉でおやおやと思っていましたが、御輿がやどる仮の宮居を宿院というようで、空振り。

海人系のクズみたいなものでしょうかね。

[4194] 読んでくださった方々、ありがとうございます。  kokoro [Mail] 2003/05/28(Wed) 23:57 [Reply]
 お返事、遅くなりまして申し訳ないです。m(__)m

 伝承地の民 改め 山のくず民様、はじめまして。

> kokoro様、三輪山とくずの第7回を拝見し、遡って、読ませていただきました。
> それというのも、私の生まれ育った場所、奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志が、登場していたからです。

 長文の拙稿を読んでくださり、ありがとうございました。地元の方から反応があると格別に嬉しいです。

> 地元民として、このようなことを考えたことはなく、私としては大きな衝撃でした。また、入墨の民であったとも記されており、「私は何の末裔だろう。私はダレ?」の状態です。

 フフフ、実は、中国大陸の江南地方で、前4世紀に滅びた越の王族が、わが国に渡来して残した子孫の末裔かもしれないですよ。というのは冗談ですが、宇賀志の付近にはくず神社の分布があり、青蓮寺にゆかりある中将姫の伝説には、古い水神系の女神の要素が混入しているため、宇賀志の土豪だったウカシ兄弟はくず民の首長だったのではないか、と考えた次第です。というわけで、仮説であります。


 福島さん、お久しぶりです。拙稿を読んでくださり、ありがとうございました。

> 『十月に国の東の川の辺の隧穴に隧神を祭り…』秋の収穫に感謝し、翌年の多産を祈る。

 ここに見られる祭祀の空間は、わが国の室生龍穴神社や貴船神社のことを連想させます。こうした水神や洞穴にまつわる古い信仰のルーツが、海の向こうの半島各地にもあった、というのは興味深いです。

> ・隧穴⇒“?”(gul);【窟】洞窟、洞穴、女神の象徴。

 隧穴が女神の象徴だったとして、しかし、そこに祈られたのが翌年の多産だったとすれば、それは女陰ではなく、子宮のメタファになると思います。
 なんとなくですが、女性原理に対する原始信仰には、女陰的なものと子宮的なものがあり、これもまたなんとなくですが、女陰的なものは南方系、子宮的なものは東シナ海沿海系であり、住み分けがなされている感じがします。
 詳説は省きますが、この分類でいくと、くず民の信仰には子宮的なものを感じさせる場合が多いのです。

[4193] Re[4190]: 無題  日雲 2003/05/28(Wed) 14:33 [Reply]
こんにちはー。
> 何故、田原本なのか、と言うことも疑問です。住吉さんとどう言う関係があったのか、ここです。
――そこですね。私も非常に気になります。

> 田原本から連想するのは金春流の能、秦氏とか天日槍、和歌、織物
金春善竹「明宿集」の「第一に住吉明神」といった、この金春流の方々の住吉への思い入れの源は何?
というのが、どう〜も前々から解りません。
まあ、下手に別の文脈にこじつけるよりは、「何はともあれそうなのだ」という事実をそのまま受け止めるのが先なのでしょうが。

> 住吉さんを対応させると住吉踊り
――恥ずかしながら、この住吉踊りというのを、私、知りませんでした。
慌てて検索してみたところ、なるほど。こういうものもあったのですか。
勉強になりました(;w

ところで、
http://homepage1.nifty.com/manekinekoclub/kenkyu/kaibo/sumiyoshi/sumiyoshi.html
――に、種貸さんとともに「裸雛」というものが出ておりますが、
どこからどう出発したものかは解りませんが、住吉大社への信仰自体に「夫婦和合」の御利益があったんじゃないでしょうか。
私は「睦み犬」という犬が交尾してる非常に珍しい人形を買って来ましたが、これも「夫婦和合」「子授け」のものかと思います。
「明宿集」を読むと、シュクジン信仰にも「陰陽和合」の性格が濃厚にありますし……
って、そうすると、「シュクジン信仰と住吉大社の関係とは?」ということになるのですが。
(個人的には、「喜々猿」というものも何気に気になりますけれども)

どうなってるんでしょうね、本当に?

[4192]  下 ↓ 訂正  生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/28(Wed) 09:51 [Reply]
 現地音の田原はどう発音されていましょうか? タワラなら「ta(神)war(つわりの
war……芽がでる、いのちが芽吹く)」とすべきでした。
 どっちみち、たいして変わらんですがネ。

 tawar がタワラになるのは、パーリ語的開音(母音A-づけ)によるもの。

 先日の sik-o の sik はアイヌ語(眼)と解すよりも、クルド語に露頭している
sik(子宮)を採用すべきかと……。sik-o のO-は 眼のなかにゴミがO(入る)などの
O- で宜しいかと。

[4191]  田原本町 と うみ(すみよし・多賀)  生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/28(Wed) 09:27 [Reply]
 ta-bala は童神と分析でけま。「本町」はやっぱ「本町」でしょうね。

 「すみよし」は何ベンも挑戦しましたが、100%の胃の腑落ちには至りませんでした。
 今回も掴めないでしょうが、今回は「S-(強調接頭辞)+ ウミ(産み・海)」が強烈に
感じとられます。

 フィリピン・タガログ語 dagat(海)。/ .多賀神社は産み(安産)の神さま。
 むかしは、子供が子宮に O(くっつく?)しても、なかなかにスンナリとは育たなか
ったんですよネ〜〜。
 でも、子供の成長はこの世最高のショーです。
 こんな素晴らしいショーを一人じめして見られるなんち、おなご衆にはもっと苦労させても
ちょうどいい‥‥このごろ、オレ、そう思いはじめました。
 

[4190] 無題  神奈備 2003/05/28(Wed) 07:58 [Reply]
大物主の氏子さん ありがとうございます。
> 『種貸社』こちらは商売の元手を貸していただくという神社なのですが、子授けの神でもあります。
もしかして こちらのほうにお参りするのでは?

住吉っさんと言うことで伝わっているようで、子授けの神へのお参り、考えられますね。お田植神事なども有名です。

何故、田原本なのか、と言うことも疑問です。住吉さんとどう言う関係があったのか、ここです。
田原本から連想するのは金春流の能、秦氏とか天日槍、和歌、織物
住吉さんを対応させると住吉踊り、赤留比賣を天日槍から守った、衣通姫(和歌と織物)
などと妄想しておりました。

[4189] Re[4168]: 離婚封じ?  大物主の氏子 2003/05/27(Tue) 23:21 [Reply]
はじめまして。
ふらふらと潜り込んでまいりました。

> こんな話を聞いたことがあります。
>
> 奈良の田原本の一部の地域の人は結婚すると、摂津の住吉大社へ挨拶と云うかお参りに行く風習があるそうです。住吉大社さんでもその理由が判らないそうです。


住吉さんに
『種貸社』
というのがあります。
こちらは商売の元手を貸していただくという神社なのですが、子授けの神でもあります。
もしかして こちらのほうにお参りするのでは?

ふとそんな気がしたのでカキコさせていただきました。

[4188] Re[4186][4183][4181]: 抵抗と恭順  香具 2003/05/27(Tue) 23:21 [Reply]
> 侵攻者が一つの部族を攻略するのに、謀略で弟を引っ張り込むようなことがよくなされたのでは。そうすると後で支配するのにもスムースにいったとかありませんかね。

 ドラマチックにするために、『あえて』というか『わざと』というか、骨肉の争そいの裏面を妄想したのですが。実際には、様々ないきさつがあったことでしょうネ。
 ただ、まったくの謀略主体でしたら、征服後にそれこそ謀殺されていたかもしれません。肉親、一族を敵にしてまでも、迎え入れたのであるゾ!ということで、その後の立場を有利に築く策略も考えられます。
 謀略で寝返りさせるには、高度な情勢の判断ができる背景、たとえば戦国時代の頃のように、お互いが相手のことをある程度把握できる情報というか、土俵がないと難しいような気がします。が、これも妄想のし過ぎかな?

[4187]  産 み た く な い サ チ ヒ コ     生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/27(Tue) 20:34 [Reply]
 われわれの目から見れば、わずか700〜900年の伝統でも、紀記が書かれ
た当時の人びとの目には、その言い伝えは「遥か太古のむかしから‥‥」と写っ
たことでしょう。
 伝えられていることばの内意がわからなくなった時点で紀記が書かれてま。

 ですから、遺されている固有名詞のなかにこそ真実が眠っているとの偏見をお
許しあれ。

 瀬藤ドンから質問あったとき「サチは交換だと思うよ」ぐらいのことでやめて
いましたが、やっぱ「“交換”である!!」と断定すべきだった。
 もっと詳しく言えます。 sati の sa が交換で、-ti は -ni , -ya とともに
「事柄」を表す末尾辞です。ネパール語 sati(交換)。
大さん、 アイヌ語の ita sa re (交換する)の sa が「交換」だったんでは?

 で、山サチヒコとは「山(の産物の)交易土地男」、海サチヒコ とは「海(の
産物の)交易土地男」へと還元できますので「山幸彦と海幸彦とは兄弟」とは限
らないのでアリマス。

 徳川家康と全面対決を余儀無くされた真田さんたちも、「生き残る組か死ぬ組
か」と「生き残る組か死ぬ組か」の二様にわかれましたよナァ〜。
 でも、こんな気持は「子供産みたくない」とほざく現代ッ個にゃワカランやろなぁ。

 ※ 梅酢はよくよく捜したら、どこの地域でも販売されてるそうな。
   そこで、先日の提案はヤ〜〜メタッ。
   でも、あれ、ほんま若がえるんでっせ。おまはんもやってみなはれ。

[4186] Re[4183][4181]: 抵抗と恭順  神奈備 2003/05/27(Tue) 17:03 [Reply]

> 紅組に兄妹があり、白組に兄妹がいる。
> 紅組の兄に白組の妹がなびき、
> 白組の兄に紅組の妹がなびく

ありがとうございます。紅組と白組の男はあかの他人ではないと言うことが肝心。よく判りました。
恋と喧嘩、古代でも現在でも物語の華です。
素盞嗚尊  →x← 大穴持+須勢理比賣
天智天皇(大友皇子) →x← 天武天皇+菟野皇女
これらもよく似たパターンかも。

>  海幸、山幸の場合は、兄弟のような感じが強いようですが、海幸は海女であっても差し支えはなさそう。
>> そうですね。ここで、面白いのは、山幸と海側の女性(豊玉姫)がくっつく、ということですね。そうしてみると、私流の視点からは、海幸(男)と豊玉姫は兄妹だったか、と推論になります。

火遠理の命=山幸彦
火照の命=海幸彦
と置き換えているので、両幸彦を兄弟としていることが作為的なのかも。具体的な神話譚の少ない天津神の後裔の物語としては出来過ぎのような話。
海の幸と山の幸とでは『常陸国風土記』の多珂の郡の所に、倭武天皇と橘皇后とが野の祥福(土地の言葉でサチと言う)と海のサチの獲得競争する物語があります。海のサチが沢山とれたが、野のサチはとれなかったとの物語で、橘皇后これは弟橘姫のことか、海の女神のようですね。天皇は海人族の娘を嫁にしています。

> タケミナカタは反逆、弟のコトシロヌシは恭順
結局ともに恭順、事代主命はやはり海に隠れたので、
> 初期の后妃の出自が書紀本文ではコトシロヌシ
と言うのも海人族からの出自と言えますね。

> 兄弟で一族を分けて率い、生き残りを図った哀しい知略だった
香具さん こんばんは。
兄シキ・弟シキ、兄ウカシ・弟ウカシの場合は弟が兄のたくらみを言いつけるという風に物語られています。のっけから勝負にならないようで、それなら二人とも降伏すればと思わないではありません。侵攻者が一つの部族を攻略するのに、謀略で弟を引っ張り込むようなことがよくなされたのでは。そうすると後で支配するのにもスムースにいったとかありませんかね。

[4185] Re[4182][4180][4179][4177][4174][4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  大三元 [Url] 2003/05/27(Tue) 16:51 [Reply]
「タケミナカタの妹とされるヌナカハ姫」は、私の誤解(というか、妄想)でした。
ヌナカハ姫の子がタケミナカタ(先代旧事本紀)でした。

[4184] Re[4183][4181]: 抵抗と恭順  サン・グリーン [Url] 2003/05/27(Tue) 14:00 [Reply]
> >  侵攻勢力を前にして、兄弟で敵味方に分かれて争そう話しの中には、一族全滅を回避するための手段として、抵抗側と恭順側になったものもあったのでは?と妄想しています。
>
ごく最近、青森の弘前城に行ったのですが、初代藩主・津軽為信は関が原の戦いの時に自分自身と三男は東軍に長男を西軍に分けて戦い、その後明治の廃藩置県まで260年間津軽藩を死守したと知りました。何時の時代も英雄たちは一族全滅を回避する策を練っていたのですね。

[4183] Re[4181]: 抵抗と恭順  大三元 [Url] 2003/05/27(Tue) 09:45 [Reply]
香具さん、

>  侵攻勢力を前にして、兄弟で敵味方に分かれて争そう話しの中には、一族全滅を回避するための手段として、抵抗側と恭順側になったものもあったのでは?と妄想しています。

面白い見方ですね。参考にさせて頂きます。

[4182] Re[4180][4179][4177][4174][4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  大三元 [Url] 2003/05/27(Tue) 09:44 [Reply]
神奈備さん、
誤解されてしまったようです。
紅組に兄妹があり、白組に兄妹がいる。
紅組の兄に白組の妹がなびき、
白組の兄に紅組の妹がなびく、ということです。

>  確かに、天照大神と素盞嗚尊も兄弟姉妹の関係に書かれていますが、戦いの時のシーンなど天照大神を女神と見る必要はないようです。男ー男の争いでも読めますね。

天照とスサノヲが元来兄妹で、兄が悪なので、妹が善側について争った、という観念があるのかも。(このケースでは、どうも紅組内部の兄妹の抗争であり、白組が見えてこないので、ハズレかも。)

>  海幸、山幸の場合は、兄弟のような感じが強いようですが、海幸は海女であっても差し支えはなさそう。

そうですね。ここで、面白いのは、山幸と海側の女性(豊玉姫)がくっつく、ということですね。そうしてみると、私流の視点からは、海幸(男)と豊玉姫は兄妹だったか、と推論になります。豊玉姫の兄とは・・・安曇連の祖 穂高見命で長野県の穂高神社に祭られている。

となると、穂高見命とタケミナカタがパラレルになる。タケミナカタの妹とされるヌナカハ姫と豊玉姫がパラレルになる・・・面白いこと(一つの類型的な筋書きが、異なった名前(登場人物)で語られている)発展します。

> > ちょっと外れそうなのが、タケミナカタとコトシロヌシの兄弟だ。両方とも男性と考えて来たけど、上の論法で行けば、タケミナカタが男、コトシロヌシが女、か。
>
> タケミナカタとコトシロヌシ、二神で争ったわけではないので外れと言うことですね。

いえ。体制側から見た場合、タケミナカタは反逆、弟のコトシロヌシは恭順、という別れになるので、その意味では上のモチーフに合うけど、どうも二人とも男性らしい、ということでハズレかと思ったのです。コトシロヌシを女性と考えてみるキッカケだけは提供してくれますね。

[4181] 抵抗と恭順  香具 2003/05/27(Tue) 01:48 [Reply]
ちょっと便乗します。
 侵攻勢力を前にして、兄弟で敵味方に分かれて争そう話しの中には、一族全滅を回避するための手段として、抵抗側と恭順側になったものもあったのでは?と妄想しています。
 弱小の相手ならともかく、勝負の行方が不明の相手を前にしては、大いに悩んだことでしょう。負ければ全滅、一方に賭けるわけにはいきません。
 たとえ逃げても、今度は逃げた方が他所の土地の侵略をしなければなりませんから、そこでも、その土地の者を相手の戦いになります。確実に一族の血が残る方法を検討したのでしょう。
 侵略する側も、大陸の歴史にあるような膨大な戦力による一方的殲滅戦ではなく、負けて帰るところの無い、背水の陣ような戦いであった印象を受けます。
 兄弟で一族を分けて率い、生き残りを図った哀しい知略だったと解釈したい、『妄想』です。今さら検証できないのですから小説の守備範囲ですけどね。

 以前、他にも同様なご意見を述べられていた方がありました。私も同感という表明です。

[4180] Re[4179][4177][4174][4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  神奈備 2003/05/26(Mon) 22:31 [Reply]
大三元さん こんばんは。

> アイヌのユーカラには、兄妹が敵味方に分かれる
戦いの主なものは兄弟でそれにそれぞれ妹二人が分かれて味方すると言うことでしょうか。
この場合、男兄弟は争いやすいが、兄妹が仲がよい、姉妹は兄弟の争いに巻き込まれたと言うお話かも。

> 同様に、兄シキ・弟シキ、兄ウカシ・弟ウカシも、男兄・女弟が原型かも知れない。

 確かに、天照大神と素盞嗚尊も兄弟姉妹の関係に書かれていますが、戦いの時のシーンなど天照大神を女神と見る必要はないようです。男ー男の争いでも読めますね。

 海幸、山幸の場合は、兄弟のような感じが強いようですが、海幸は海女であっても差し支えはなさそう。

> ちょっと外れそうなのが、タケミナカタとコトシロヌシの兄弟だ。両方とも男性と考えて来たけど、上の論法で行けば、タケミナカタが男、コトシロヌシが女、か。

タケミナカタとコトシロヌシ、二神で争ったわけではないので外れと言うことですね。

[4179] Re[4177][4174][4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  大三元 [Url] 2003/05/26(Mon) 09:47 [Reply]
神奈備さん

> > エウカシ、オトウカシ
>  兄弟とするのは親分と副親分との注釈が角川文庫古事記にはありますが、古事記神話での兄弟争い(当初は兄が優勢、美女の助けもあって、最後弟が勝利)のパターンとは異なった物語になっていますね。地元には記紀以外の伝承が伝わっているのでしょうか。あれば是非ご紹介下さい。

横から失礼しますが、アイヌのユーカラには、兄妹が敵味方に分かれる、というモチーフが沢山出てきます。一方の兄と他方の兄が戦う:一方の妹は他方の兄と仲良くなる:他方の妹は一方の兄と連合する。

ニギハヤヒ、ナガスネヒコ、ミカシキヤ姫、の関係も、ニギハヤヒとナガスネヒコが戦う(史料からは出てこないが)、ミカシキヤ姫が兄を裏切りニギハヤヒとくっつく、という筋が原型ではないか、と妄想してます。

同様に、兄シキ・弟シキ、兄ウカシ・弟ウカシも、男兄・女弟が原型かも知れない。
弟ウカシが箕で老女に扮して天香山の土を取りに行く、というのも、もともと弟ウカシは女性だったのかも知れない。
弟シキ黒速とハエは同一人物で、女性が原型ではなかろうか。

ちょっと外れそうなのが、タケミナカタとコトシロヌシの兄弟だ。両方とも男性と考えて来たけど、上の論法で行けば、タケミナカタが男、コトシロヌシが女、か。

初期の后妃の出自が書紀本文ではコトシロヌシ、一書ではハエ、となっているのは、コトシロヌシとハエが同一人物、または、夫婦であれば矛盾がなくなる。

などなど、「兄弟」という文字を見て、男性の兄弟だと思いこまない方が良さそうです。


[4178] Re[4176]: 無題  神奈備 2003/05/26(Mon) 08:43 [Reply]
福島さん こんにちは。

 福島さんが稲作と山の斜面(北面)について一貫して述べられておられましたが、遅まきながら判って来たような気がしています。
 大きい河川から適度な水を確保することは大変な難事であった。湿地帯ではいつ洪水があるかも判らず根こそぎ流されてしまう可能性は大きく、古墳を造営する程の土木技術がなければ安定はしなかった。
 一方、山の斜面(特に北面)では水が殆ど絶えることなく流れており、必要な時に簡単に確保でき、また水の誘導などのコントロールが容易などが考えられます。ただこの場合、渓谷沿いは往々にして風が強く、赤米の背丈を1.2〜1.3m程度とすれば、受粉時などに倒される可能性は残りますね。

 また昨日たまたま聞いた話の受け売りですが、葦が生えている原に種蒔きを行うと、背丈がのびて来ても風でたおされることがない。当初はそのような場所で稲作をおこなったのではないか、との見解でした。この経験が国名として豊葦原千五百瑞穂国かと。

[4177] Re[4174][4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  神奈備 2003/05/26(Mon) 08:08 [Reply]
くずの民さん おはようございます。

> 宇賀志
宇賀神社が鎮座しています。祭神は宇迦斯神魂。この神は倉稻魂命と同神と見なされていますが宇賀志の地主神ともとれますね。
所でエウカシが仕掛け屋を建てた所は、岩波文庫の日本書紀の注ではお隣の室生村田口となっていますが、少し離れているように感じますが、地元の方はどう見ておられるのしょうか。

> エウカシ、オトウカシ
 兄弟とするのは親分と副親分との注釈が角川文庫古事記にはありますが、古事記神話での兄弟争い(当初は兄が優勢、美女の助けもあって、最後弟が勝利)のパターンとは異なった物語になっていますね。地元には記紀以外の伝承が伝わっているのでしょうか。あれば是非ご紹介下さい。

[4176] 無題  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/05/26(Mon) 00:15 [Reply]
 ご無沙汰しています。が、皆様のご投稿は拝読していました。
kokoroさんの『三輪山とくず』シリーズを拝読していて、ふと感じたのですが…。

※『高オカミ』、朱塗りの矢、西流する川の源流(東)、祠(穴?)、立岩…
※『高倉』に就いて、以前に席亭からお尋ね戴いていて、答えられなかった件…

※三国志(東夷伝高句麗)の祭祀の説明に似ている、と。
『十月に国の東の川の辺の隧穴に隧神を祭り…』秋の収穫に感謝し、翌年の多産を祈る。
・隧穴⇒“굴”(gul);【窟】洞窟、洞穴、女神の象徴。
・隧神⇒木製に象る男根=朱塗りの矢、立岩か?と。
※隧穴は春には稲作用水を後ろの山から伏流させ、秋の収穫期には涸れる⇒祠(穴?)。
※ハングルの隧穴(gul)語頭清音、子音語尾に母音(a)を付して⇒『倉』の当て字。
※高は『集る』の当て字⇒稲作用水を湧き出させる祠(穴)が、沢山在る=高(こ)倉⇒小倉もあるか。⇒『高オカミ』と繋がらないでしょうか。
※『くず』は高句麗まで繋がるか?。
 取り止めの無い妄想でした。

[4175] 日本の未来の為に・・・  いっこう [Url] 2003/05/25(Sun) 14:51 [Reply]
現代日本に問題提起し、意見交換するサイトを創りました。まだまだ出来上がったば
かりのサイトですが、意志を持った者同士で討論し合い、明日の日本を良くする為に
頑張っています!ぜひ、お立ち寄りの際は書き込みをして帰ってください。当サイト
には様々な問題、アンケート等を取り上げており、みなさんからの熱い想いを待って
おります。お願いします。

http://www.reformers.jp

みなさんの意志が作り上げる参加型のサイトです。

宣伝書き込みで申し訳ありません。

[4174] Re[4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  伝承地の民 改め 山のくず民 [Mail] 2003/05/25(Sun) 00:46 [Reply]
突然のお邪魔をお許しください。
4016で登場した伝承地の民です。神奈備様はじめ専門家の皆様お久しぶりです。

>  わーい。みなさん、読んでください、読んでください、読んでください、
読んでください、読んでください、読んでください、読んでください、
そうしたら私は喜びます(笑)。
kokoro様、三輪山とくずの第7回を拝見し、遡って、読ませていただきました。
それというのも、私の生まれ育った場所、奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志が、登場していた
からです。
(ちなみに >彼等の名に含まれたうかし≠ヘ、地名であり、宇陀郡大宇陀町の宇賀志に
比定されています。 は、正しくは「宇陀郡菟田野町の宇賀志」です。菟田野町は、明治の
大合併で宇賀志村と宇太町が合併してできた町で、現在他の宇陀郡の2町3村と合併して市
になろうとしています。)

>宇賀志一帯はくず神社の分布圏であり、かって、くず民のコロニーがあったと推測され
ます。とすれば、この地域の土豪であったエウカシ・オトウカシとは、くず民の首長では
なかったでしょうか。
地元民として、このようなことを考えたことはなく、私としては大きな衝撃でした。
また、入墨の民であったとも記されており、「私は何の末裔だろう。私はダレ?」の状態
です。でも、改めて、この地のことをもっと知りたいと思う気持ちになりました。

ところで、前からこの掲示板を見ていて思ったのですが、皆さんは、どうしてこんなに
詳しいのですか?何を読み、どこへ行って研究すればそんなに物知りになれるのですか?
興味だけあって手段のわからない、素人の私には書いていることさえ難しいこともあります。
でも、めげずに一所懸命読ませていただいています。
とりあえず、遅ればせながら、読書感想文をダラダラと書きました。

[4172] 九日神社  神奈備 2003/05/23(Fri) 08:59 [Reply]
 箸墓古墳の南側に九日神社が鎮座していることを「ななかまど」のみえこさんに教えて頂き、今年の2月にお参り方々見学してきました。
 九日神社の本名は国津神社であること、三輪山と二上山を結ぶライン上に鎮座、また春分の日には三輪山の南側に見える台地から太陽が顔を出すことをZOUさんが発見されて山のクズ、里のクズの宴会場所との発想を香具さんの掲示板に披露されたりしてkokoroさんの心の琴線に触れたようです。

 最近読んでいる嶋田義仁『稲作文化の世界観』と云う本に、真弓常忠氏の論文が引用されており、ここに「おくんち(お九日、お供日)と云う言葉があって、これも考慮しておかないと九日=旭などと云っていたのでは誤解したままになるのかと。

引用論文の主旨は以下の通り。
 生命の糧である稲は、春にはその年の豊穣を祈って祈年祭、田植え時にはお田植え祭、旱には祈雨の祭り等、五風十雨の順調を祈って秋の収穫を待った。そして秋には収穫祭が行われる。神のコトヨサシ(委任)によりこの通り収穫できました。まず神に新穀を捧げてお祭をする。それが供日というものである。

 重陽の節句、九月九日がその祭りの日でしたが、新暦になって乱れているようですし、天武天皇の命日に当たるとかで、日を変えている所もあるようです。西日本特に九州長崎では龍踊りなどが催される著名なお祭のようです。
http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/fukuda/soturon97/kikari/okunchi/okunchi.htm

 住吉神社のルーツと云われる福岡県筑紫郡那珂川町の現人神社、群馬県前橋市古市町の赤烏神社、新潟県などにも残っているようです。

 箸墓の九日神社についてはその謂われは調べてはいないのですが、陽石陰石が祭られている所から見ますと、稲作との関連を無視はできないのかな・・・。

[4171]  筑紫太郎さん、見てくれるかナァ〜    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/22(Thu) 19:06 [Reply]
 筑紫太郎さん、またこの掲示板にふたたび訪ねてこらるるとでっしょうか?

 来なすったら、http://www.you-i.org/treebbs/1/index.html をちょっと見ちくれんですか。
 下で示しなった Url は Not Found ち出たばい。
 あたきな? あたきゃ飯塚んタンコタロですたい。別名をシェイシュンの紋次郎ちいいますと。

[4170] 誤った年代推定  筑紫太郎 [Url] 2003/05/21(Wed) 21:53 [Reply]
発表された年代法は大きな誤りを侵そうとしています。それは測定の基準となる機械の人間による読み取り法そのものに矛盾が生じているとしか思われません。この遺跡の土器類は板付式と呼ばれるものでして、稲作との関わりがあることは以前から指摘されている。さらに同時に出土の爵はこの時期のものであることを認識されていないと大変な結末を迎えることになるでしょう。邪馬台国夜須の発表を控えていますので、お知らせまで。

[4169] まとめ  ヴェトナムの風 [Mail] 2003/05/21(Wed) 21:49 [Reply]
神奈備さん、高野の素浪人さん、お返事やご意見をありがとうございました。

>>神奈備掲示板ログ特集にクズ神のように纏めるという要望は聞いております。
>>この纏めることを氏はイタキソ神に奉納と表現されておられるようです。

はあはあそうですか、安心いたしました。
「イタキソ神に奉納」とあったので一瞬「神聖ニシテオカスベカラズ」扱い指定かとも思ったのでありますが、単純に後でログをまとめるということですか。そうすると掲示板上において特別扱いする必要もなく、
>>オレのカキコはあとで席亭どんがまとめてイタキソ神に奉納してくれることになっちょり
>>まんのや。そこまで言わんとアカンかったのかなぁ。

この書き込みは何の意味もないようですな。

RE:
『オーライッ!』と手を上げて  高野の素浪人さん
岡目八目と申しますが、当事者よりも傍で見ている方の方が状況がよく見えるという見本のようなご意見です。
>> 掲示板でも、投稿された以上は、『議論のたたき台として提供≠ウれたも
>>の』となって当然だと思います。提供者が質問や批判を受付けないとしても、
>>読者が質問や批判のレスをつけるのは自由でしょう?提供者本人からの返答が、
>>有ろうが無かろうが、遠慮せずにどんどんレスつけて下さいヨ。他の読者は
>>それに対する質問や批判も読んでいますので。

大変参考になりました。
これからは(も)そのようなスタンスで大好きな神奈備掲示板をウォッチしていく予定です。

皆様お騒がせいたしました。しかし「ALL LIE!」とは言いえて妙。

[4168] 離婚封じ?  神奈備 2003/05/21(Wed) 16:18 [Reply]
こんな話を聞いたことがあります。

奈良の田原本の一部の地域の人は結婚すると、摂津の住吉大社へ挨拶と云うかお参りに行く風習があるそうです。住吉大社さんでもその理由が判らないそうです。

[4166] Re[4158]: 『オーライッ!』と手を上げて  高野の素浪人 2003/05/21(Wed) 00:39 [Reply]
> 唐突な発言と感じられるかもしれませんが、わたくしはかなり前からこの神奈備掲示板のファンであり、毎日皆様のご意見を楽しく拝見しています。わたくし自身は書きこむような知識を持ち合わせない「自然ロム」、しかし時々明らかに大きな誤りであると認められる場合のみ書き込むことにしています。

 『明らかに大きな誤りであると認められる場合』書き込むことは、他のロム者にとってもたいへん有り難く参考になることだと思います。おおいにお願い致します。私自身は、自分の言葉を持つほどの頭が無いので書物からの引用を。<(__)>

埴原和郎先生の著書『日本人の骨とルーツ』(角川文庫)より、(引用始め)

第二章 日本人のルーツ   説≠ニモデル=@(p.47)
『 本章で紹介したのは、私が1990年に提出した日本人の「二重構造モデル」の概要である。あえて「二重構造説」といわずモデル≠ニいう言葉を使ったのは、これが一つの考え方、つまり仮説に過ぎないという意味で、この意識は今も変わっていない。
 仮説といものは、いわば批判にさらされ、修正されることを前提としている。だから二重構造モデルは私の研究の成果というよりは、今後の議論のたたき台として学界に提供≠ウれたものである。
 幸いにして私の意図は多くの研究者に理解されたらしく、その後いろいろな批判や修正が提案されている。また二重構造モデルの批判を主なテーマとする国際会議が開かれたこともある。
 研究者の最大の喜びは、自分の仕事を他の研究者が批判の対象にしてくれることにほかならない。それは自分の仕事を洗練するための、ある意味ではもっとも楽で効果的な方法だからである。逆に、研究者にとってもっともつらいこと・・・それは自分の仕事が批判の対象にもならずに無視されてしまうことである。』(引用終わり)

 埴原先生は、人類学からの日本人形成史において、日本人集団の主な構成要素を縄文系と渡来系の二つと考える「二重構造モデル」を提唱された方で、一般向けの著作も多く有名な学者ですね。このような大家でさえも不遜に陥ることなく、情熱と謙虚さを持ち合わす姿勢に真の気高さを覚えます。

 アマチュアの多い掲示板で、プロの姿勢を云々・・・と言っても無意味かもしれませんが、be gentle とはどういうことかと考えるときの参考になるかも知れません。
 掲示板でも、投稿された以上は、『議論のたたき台として提供≠ウれたもの』となって当然だと思います。提供者が質問や批判を受付けないとしても、読者が質問や批判のレスをつけるのは自由でしょう?提供者本人からの返答が、有ろうが無かろうが、遠慮せずにどんどんレスつけて下さいヨ。他の読者はそれに対する質問や批判も読んでいますので。

 何か新しい内容の投稿があっても、自分が判らない知らない分野については、コメントの仕方がないので、『フ〜ン、そんなものか。』という程度の認識になってしまいます。
 しかし、その分野に詳しい別の方からのレスがつくと、他の一般読者としては『な〜るほど』と参考になるのです。それぞれ得意な分野の守備範囲に来たボールを受けて、投げ返して頂くと、とても有意義な掲示板になるでしょうね。
 そういう意味で、『投稿内容に批判』することに遠慮は無用だと思います。質問や批判もまた、たたき台となって発展するのですから。しかし、裏番組や密室で展開されても、多くの読者にはわけが判らなくなるので困りますネ。長くなりました。m(__)m

[4165] Re[4164]: Be gentle!  神奈備 2003/05/20(Tue) 23:26 [Reply]
ヴェトナムの風さん  こんばんは。
> >>オレのカキコはあとで席亭どんがまとめてイタキソ神に奉納してくれることになっちょりまんのや。そこまで言わんとアカンかったのかなぁ。
>
> 神奈備さんにお聞きします。
> この話は事実でしょうか。

神奈備掲示板ログ特集にクズ神のように纏めるという要望は聞いております。この纏めることを氏はイタキソ神に奉納と表現されておられるようです。

この掲示板上でベトナム誤を論議して頂いてもよろしいですよ。席亭はコメントする能力はありませんのでノーコメントでででよろしければ。

[4164] Be gentle!  ヴェトナムの風 [Mail] 2003/05/20(Tue) 23:06 [Reply]
神奈備さん、習志野のてつさん、それに思いがけず生田淳一郎さんからもそれぞれに貴重なご意見をいただき、感謝にたえません。
Be gentle! とはまた実に含蓄のある言葉で、習志野のてつさんの「少し気負っているのかな?」とともに自戒といたします。
生田淳一郎さんが「会話はしない」という宣言を都合よく曲げて議論に参加されたことに驚きを禁じえません。本質とは関係ない言葉の「あや」の議論ですが一応ご質問ですから、ごく簡単にお答えします。
>>★ 一方的かどうかは席亭どんが知ってござる。ハナシのスジを通しての復帰ぞな。
>>  「一方的に“書き込んだ”」と決めたのはどういう理由からですか?

普通は自分の意見を書き込んでから掲示板読者の反応を待つものです。それをしないで立て続けに長文の書き込みをアップされたことを指しています。10行やそこらの単発書き込みならわたくしは何も申しません。

>>オレのカキコはあとで席亭どんがまとめてイタキソ神に奉納してくれることになっちょり
>>まんのや。そこまで言わんとアカンかったのかなぁ。

神奈備さんにお聞きします。
この話は事実でしょうか。

[4163] 吉野の祭祀か  神奈備 2003/05/20(Tue) 18:03 [Reply]
> 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上に、3つの祠が並んでいて、一つは神武天皇を祀り、一つは明治天皇を祀り、真中の祠は何が祀ってあるか分からないけど、水に関係する神様らしい

思い出しました。神武天皇と明治天皇の遙拝所は吉野川沿いに多くあります。

式内川上鹿塩神社の論社の一つである大蔵神社
吉野町新子の磐座祭祀の嚴島神社
吉野町窪垣内の國樔乃翁を祀り、国栖奏発祥の地とされる御靈神社

これらの境内には 神武天皇明治天皇遙拝所の石碑が建っています。北の方角を拝むように建てられているので、神武天皇は橿原神宮としても明治天皇はその方向にはなさそうですが。
 ちなみに奈良県で明治天皇を祀っているのは波比賣神社の境内神社の明治神宮しか『平成CD』には見えません。

 両天皇の遙拝石碑は大正時代以降、おそらくは紀元2600年(昭和十五年)頃の建立かも知れませんね。これが吉野特有の風習だったのか、大和国中にも目立つのかですが、橿原神宮伊勢神宮の遙拝碑は記憶にあるのですが、神武・明治天皇遙拝碑は気づいておりません。
吉野の風習とすれば、泊瀬女さんご指摘の稲淵山(南淵山)山頂の祭祀は吉野の人々によるものと考えることができますね。氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社の吉野は生きていると云うことですね。

 弥生土器が500年遡ると炭素測定で出たとか。紀元前800年弥生時代と稲作とすれば、またまた神武実在説東征説が賑やかになるのでしょうね。

[4162] Re[4158]: 掲示板のあり方を考える  神奈備 2003/05/20(Tue) 06:39 [Reply]
ヴェトナムの風さん、習志野のてつ さん、ありがとうございます。

> しかし掲示板というものは「意見の発表、交換、議論の発展」の場と心得ておりますので、他人の掲> 示板に一方的に書き込んでおいて
>>> あっしのここでの発言は「ただの論文調喋り」にとどめ、ここでは質議
>>> 感想・応答の“会話”はしませんのでアマカネ。

 おっしゃる通り本来の掲示板の姿はKJ法板で、この上での論議が望ましいのです。ただ言語上の論議の場合、特に席亭は音痴であって詳しい所はかいもく判らないことを生田氏はご承知であり、論議は別途されるとのご配慮に be gentle と感謝申し上げました。
恐らくその論議や指摘などで大黒様物語の論述に修正が必要になった際は、それは次項の物語の中で手直しされて反映されるのでしょう。

神奈備掲示板はお書きになる方々の戸籍調べは行っておりません。

ヴェトナムの風さん、あなたの能力は生田氏に高く評価されています。その意思表示が書かれておられるような表現になったのでしょう。

[4161]  また、1日ぶん書けない    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/20(Tue) 04:21 [Reply]
 掲示板の在りようは、席亭がきめることであって『掲示板というものは「意見の発表、
交換、議論の発展」の場と心得ておりますので……』などと“掲示板の上で”自分勝手
な見識を押しつけるスジのものではないでしょう。

> 「他人の掲示板に一方的に書き込んでおいて」
★ 一方的かどうかは席亭どんが知ってござる。ハナシのスジを通しての復帰ぞな。
  「一方的に“書き込んだ”」と決めたのはどういう理由からですか?

 キミョウなことには、それだけのナリユキや理由があります。その理由をオレに訊くに
も、オレは最低の「住所・本名・……」を知ることが先決だと、オレの掲示板で謳ってる
のです。
 「覆面(ハンドル・ネーム)使用」は、のアメリカ訴訟社会のわるい習慣を写したもの
であり、日本社会には受入れたくないと心得るからです。

 1日につき、1ワクを記述するつもりでしたが、ミョウなことで進捗しねぇ。
 オレのカキコはあとで席亭どんがまとめてイタキソ神に奉納してくれることになっちょり
 まんのや。そこまで言わんとアカンかったのかなぁ。

[4160] Re[4158]: 掲示板のあり方を考える  習志野のてつ [Mail] 2003/05/20(Tue) 00:47 [Reply]
ヴェトナムの風さん、お久し振りです。
半年ほど前の書き込み、思い出しました。貴書き込みに対する私の意見は、
「正論を書かれているな。」でした。今回も同様ですが、今回は特に、
「少し気負っているのかな?」がプラスされています。

> 他の皆様はどうお考えになりますか、ご意見をお聞かせください。
とのことですので、僭越ですが、思い付きを書き込みます。

神社とお寺
神社へお参りする場合、それが夜であろうと可能です。お寺は門を閉めて、
お参りできません。近くに行けないときは遥拝と云う方法もあります
(泊瀬女さんのカキコで思い出し)。
仏教には有りません。(イスラム教にはありますね。)

神社へのお賽銭は自由意志ですが、お寺への拝観料は定額(またはそれ以上)です。
神社の拝殿前で「手を合わせて願い事をする」仏式の参詣は時々みかけますが、特に
注意をしてもいない。お寺で「拍手を打つ」神式の参詣をする人はまず見かけません。

常々思っているのですが、日本の神様はとても寛容なのではないでしょうか。
天照大神でさえ、弟である素盞嗚尊の乱暴に対し、最初は言い訳をしてあげ、
いよいよ我慢できない時は、我が身を退かれているのです。
こんな神話、最高神を持つ宗教は、知る限り世界に類例が有りません。

多少の気に入らないことは、放置または無視されるほうが良いのではないでしょうか。

神奈備様、ご亭主の言葉も待たず、勝手に失礼しました。

[4159] Re[4157]: 水の山  泊瀬女 2003/05/19(Mon) 22:22 [Reply]
>  ああ、これは本当にこの神社なのかもしれないです。

この件はネ、自分で確かめてから・・・と思っていたのですが、kokoroさんの吉野大国栖御魂神社のお話で、ついつい書いてしまいました。
もし、この情報が間違っていたらごめんなさいね。

[4158] 掲示板のあり方を考える  ヴェトナムの風 [Mail] 2003/05/19(Mon) 22:18 [Reply]
神奈備の皆様 こんにちは。

不本意ながら掲示板をお騒がせし、申し訳なく思っている次第です。
唐突な発言と感じられるかもしれませんが、わたくしはかなり前からこの神奈備掲示板のファンであり、毎日皆様のご意見を楽しく拝見しています。わたくし自身は書きこむような知識を持ち合わせない「自然ロム」、しかし時々明らかに大きな誤りであると認められる場合のみ書き込むことにしています。
一例をあげれば、半年ほど前にベトナム語のローマ字表記を「カタカナ読み」にして、「マチガヒなし!」というお方があらわれたので、見るに見かねてご注意申し上げたことがあります。ご本人からはその後何の反応もなく、無視を決め込まれたようですが。
無視ならそれはそれで結構なのですが、今回の「大黒様ものがたり」は少し引っかかります。よく読んでもどうしても納得できない疑問を提出すると、
>>あっしのここでの発言は「ただの論文調喋り」にとどめ、ここでは質議
>>感想・応答の“会話”はしませんのでアマカネ。

というお返事があり、「神奈備エコー」という掲示板で受け答えします、ともお書きになっていたのでそちらにお願いすると、今度は「神奈備さんが昔メールアドレスを表示しない書き込みは無視してよいみたいなことを仰っていた」といわれました。それならばとメールアドレスをお知らせしたら、今度はメールで「住所、本名、電話番号を知らせなければ話をしない」というお返事がきました。また、「わたくしが”精神障害者”なら隠さずに言うように」とも書いてありました。
最初からけんか腰のこのような状況では恐ろしくてとても住所、本名などを明かす気にはなれない(女性は特に)ことはご理解いただけると思います。
結局は事実上の回答拒否であります。別に「回答」は強制的な義務でもありませんから、わたくしとしてもこれ以上追求はせずあきらめることにしました。
しかし掲示板というものは「意見の発表、交換、議論の発展」の場と心得ておりますので、他人の掲示板に一方的に書き込んでおいて
>>あっしのここでの発言は「ただの論文調喋り」にとどめ、ここでは質議
>>感想・応答の“会話”はしませんのでアマカネ。

というやり方には大いに疑問があります。批判どころか疑問さえも受け付けず、生田淳一郎さんの書き込みだけが無批判に伝統ある神奈備掲示板ログに残されていく、というこの状況を他の皆様はどうお考えになりますか、ご意見をお聞かせください。
掲示板のあり方に対するわたくしの思い違いがあれば、併せてお聞かせ願えればさいわいであります。


[4157] 水の山  kokoro [Mail] 2003/05/19(Mon) 22:02 [Reply]
 泊瀬女さん、こんばんは。

> 真中の祠は何が祀ってあるか分からないけど、水に関係する神様らしい・・・それも非常に格の高い神様らしいという話を聞いたことがあります。

 ああ、これは本当にこの神社なのかもしれないです。こんなに早く重要なレスがあるとは思わなかったので、おどろいています。貴重な情報を、ありがとうございます。

 宇須多岐比売命神社の横から登った山とは、南淵ナンブチ山でしょう。稲淵は、この山の南麓にあたります。また北麓には、飛鳥稲淵宮跡があります。このように、稲淵という地名は、南淵山をとりまくかたちで残るため、『五郡神社記』に「波多郷稲淵山々上」とある稲淵山≠ヘ、南淵山のことのように思われます。
 注目すべきことに、天武天皇5年5月、細川山とともに、この山の草木の伐採を禁じる勅がだされました。これは、飛鳥川の水源保護を目的にしたと思われ、この山は水との関わりがあると見なされていたようです。水に関係する神様らしい∞非常に格の高い神様らしい=E・・、すべて吉野大国栖御魂神社に附合するように思います。

 これに対し、当社を、明日香村の大字雷字初王子に比定する『大和志』の記事は、「雷」という地名に附会しただけではないでしょうか。

 また、稲淵の前をながれる南淵ミナブチ川をさかのぼると栢森という集落があり、ここに式内小社、加夜奈留美神社が鎮座します。当社は、明治初年まで当地にある龍福寺の鎮守として、葛神社とよばれていましたが、このように、飛鳥川上流域には、くず神の信仰があったことも留意すべきでしょう。またこの道をそのままさかのぼり、芋ケ峠を越せば吉野です。おそらく、持統も度重なる吉野巡行に、この道を通ったのです。こういう地誌的なことがらも無視できません。

[4156] Re[4153][4152]: 水神に近づくだけで大雨が降る  神奈備 2003/05/19(Mon) 21:01 [Reply]
> 神社の横から登った山の上に、3つの祠が並んでいて、一つは神武天皇を祀り、一つは明治天皇を祀り、真中の祠は何が祀ってあるか分からないけど、水に関係する神様らしい泊瀬女さん、興味津々のお話ありがとうございます。

『式内社調査報告』では神社の拝殿横には神功皇后、応神天皇を祭る八幡社がおかれているようです。
更に境内社として、仁徳社、武内社を祀るとあります。境内は四柱。
 更に『式内社調査報告』では境内社として、八幡神社、神功皇后社、仁徳天皇社、武内社、明治天皇社としています。明治天皇社がはみ出ています。

 一方、泊瀬女さんがきかれたお話では明治天皇社がたまたまか共通で、神武天皇と水神とがあるとのこと、宇須多岐比売神社とは関係がないのかも。

 そうすると水神は雷神でもあり、氣吹雷響吉野大国栖御魂神社のなれの果てとすれば稲淵の山上に鎮座と符合しますね。
 この水神が宇須多岐比売神というのもありかな。現在の神社も確たる証拠があって宇須多岐比売神社に比定されているわけでもなさそうです。
 山の上の三の祠が宇須多岐比売神社かもしれないし、氣吹雷響吉野大国栖御魂神社かも知れませんね。

 関西の人間とすれば、東国の泊瀬女さんにおまかせでは済みませんね。

[4155]  大黒様ものがたり 4  я音で出雲が開けた    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/19(Mon) 19:14 [Reply]
 神社やそれにまつわる神名、人名、地名などの古代語を当りつづけて行くにつれ、奇妙
な音(オン)が転がって点在していることに気がつきました。
 前々から不審だったのが、 出雲には「日、陽」を避けて「氷、簸、簸」と書く偏執が
あることです。富山県の氷見など、考えれば実にオッカシな地名ですよね。

 そしてある種の音に行きあたると、パッタリと関連がなくなる領域があって、それを何
ベンも何ベンもくりかすうちに、バカにできているノーミソにも整理機能が加わるのか、
「そういえば、そいつは「ヨとユ」だな」……までにたどり着くことができました。

 ヨとユ……タジク語の я に他なりません。
 たとえばカシマといえば「カ」という音には奥行きを感じるので、これから先の頭脳活
動に期待するところまあまあです。しかし「湯島天神」の「ユ」からナニが湧きでましょ
うや。まさか風呂屋の護り神が‥‥。
 だが、この「ユ」を「イ」と置き換えてみると、ここに脱落し易い「 r , k 」を添えて
みて、「Ir」「Ik」という代替原音が得られるのです。湯島とは「生島・足島」の生島神
ではなかったろうか……。まちがっているかもしれませんが、ここに足踏みではなく、と
にかく“前進”が恵まれるのです。

 今となってしまった日本語感覚では、とてもじゃないがマシャクに合わない母音があっ
た‥‥と、敢えてこのようなテーゼを据えることの重要さを訴えたいです。

 けふのココロさんの記述にも「気吹」を「イブキ」と読ませている古代の強引なヒッパ
リがあります。「イ」が「 ki < hi < я 」‥‥ここのテンションは大きいです。

 ひるがえって思えば 朝鮮語には φ という母音がありました。
 ローマ字感覚では Yu でしょうに、わざわざ独立した発音記号の φ を、いまだに据え
置いてるんです。
 Yu だけならいいのですが、日本人は坂本竜馬も、そのヨメさんの「お竜」も「リョ
ウ」と発音してたんです。

[4153] Re[4152]: くずのみたま  泊瀬女 2003/05/19(Mon) 16:45 [Reply]
>高市郡の式内社、氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社(いぶきいかつちのよしのおおくずみたま)

以前、耳にしたのですが、飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上に、3つの祠が並んでいて、一つは神武天皇を祀り、一つは明治天皇を祀り、真中の祠は何が祀ってあるか分からないけど、水に関係する神様らしい・・・それも非常に格の高い神様らしいという話を聞いたことがあります。
山の途中には昭和天皇が遥拝されたという場所もあるとか。

この話が本当かどうか、確かめに行こうと何度か計画したのですが、大雨が降ったり急用で呼び返されたり時間が取れなくなったりで、まだこの地を訪れることができないでいます。

昭和天皇が遥拝された(本当ならネ)ほどの神様は???
水の神→九頭龍→クズ
青草どころかアホクサのガセネタかもしれませんが、ずっと気になっているのですよ。

[4152] くずのみたま  kokoro [Mail] 2003/05/19(Mon) 00:03 [Reply]
 神奈備先生、拙文の『三輪山とくず』も別途、アップしてくれていたのですね。さっき、気がつきました。ありがとうございます。
 それから、ZOUさん。お手数おかけしました。ありがとうございます。加賀の潜戸と少彦名命は、ちょっと気に入ってたので、嬉しいです。

ZOUさん> これはダンノダイラのこと?またはそれに係わる場所でしょうか。

 うーん、わかりません。ただ、その可能性はありますね。両者は距離的に近いらしいですから。昔、たしか香具さんが書いたダンノダイラ探検記に、ダンノダイラ近くの斜面を南に降りれば、曳田神社に行そうだというような箇所があって、印象に残っています。
 それと曳田神社は、巻向山と関係がありそうな立地ですよね。巻向山が神体山だったとしてもおかしくはない。そして、巻向という地名は、箸中の北にもあるわけです。こっちは平野部です。したがって、巻向という地名を介して、ここでも山と里が通底するのが面白いと思います。
 箸中から巻向あたりが、『和名鈔』にある大市で、かって市があったようです。ここは発掘によって、幾筋もの流水の痕跡が確認されてますね。箸墓古墳の北側の池は、そうした水の流れの一部だったらしいです。この大市で、古い時代の三輪山の神妻が、そうした水辺で、巻向山から巻向川を流下した箸に感精し、少毘古那神の原型となるような子供を産み落とした──そんな神話が、モモソ姫の物語の、ほんらいの姿だったかもしれません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 先日来、吉野の国栖のことが話題になっておりますが、彼等のことを考える場合、注目すべき神社があります。高市郡の式内社、氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社(いぶきいかつちのよしのおおくずみたま)です。社名に氣吹雷響雷≠ニあるので、祭神には雷神・風神の神格があったことがうかがえますが、つづいて、吉野大国栖御魂≠ニあるため、吉野のくず民が祭祀した、何らかの霊威でもあったと思われます。ちなみに、吉野以下の社名は、ほんらい、注だった文が地の文に混ざったとも言われます。

 当社は現在、廃社となり、所在がはっきりしません。享保の頃の『大和志』は、明日香村の大字雷字初王子とし、『五郡神社記』は「波多郷稲淵山々上」としております。前者の大字雷は、雷岡あたりですね。後者の稲淵は、現在、飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社が鎮座するあたりです。
 それにしても、吉野の国栖の御魂が祀る神社が、なぜ高市郡にあったのでしょうか。非常に不思議に思われます。それからまた、この神社は社格がすごく高いのです。二座で並明神大社、月次・新嘗の奉幣にもあずかっており、吉野の国栖が、本場の吉野で石押分之子を祀った川上鹿塩神社よりも、はるかに社格が高い、まったく謎の神社です。

[4151] 早速のお答えありがとうございます  八幡太郎義家 [Mail] 2003/05/18(Sun) 20:13 [Reply]
ありがとうございます。
適切なお答えありがとうございました。

射矢頭八幡神社は以前山の上にあったのですが。
戦もなくなり、今の平地に持ってきたようです。

ではまた

[4150] Re[4146]-[4149]  神奈備 2003/05/18(Sun) 18:45 [Reply]
ひふみさん こんばんは。
> 「龍神祝詞」というものがあります。その中で、「・・・一二三四五六七八九十の 十種の御寶を己がすがたと変じ給いて・・・」という箇所があるのですが、龍神様が出ていらっしゃるのは、やはり物部系が多いのでしょうか?

人によってはタカオカミの神をして饒速日命とする方がおられます。天祖神が饒速日命に教えたとする一二三祝詞と龍神祝詞はく似ています。この辺りを根拠にしているのかも。

尤も、十種の瑞寶の考え方は真言密教の影響があり、徐々に増加して十になったのであるとか、だから饒速日命は十種の瑞寶も一二三祝詞も知らなかったのではないかとも。


生田淳一郎さんのご配慮とヴェトナムの風さんの快諾に席亭としては感謝いたします。
クラーク博士が札幌農学校の校訓を be gentle の一言にしたことを思い出します。


八幡太郎義家さん 同郷の方のようですね。
射箭頭八幡神社は平地に鎮座ですね。お城だったとの伝承は知りませんでした。川の側ですから出城のようなものだったのかな。

> 昔の神社というものは、城と言う考えもあるのでしょうか。
 弥生後半にあたる倭国乱るの頃に各地に高地性集落が作られました。それを城と考えれば、六甲の保久良神社などはその跡地に造営されているそうです。
 その後は、城の守りとして神社が勧請された例は多いようですね。また戦闘中には寺社が格好の砦となったのは小説などにも見えますね。

> 昔からの神社に突然浅野家の家臣が神主となり、そこを治めるということがあるのでしょうか。
伊太祁曽神社の宮司家の奥氏は毛利家の家臣だったとの話があるそうです。


[4149] 質問です  八幡太郎義家 [Mail] 2003/05/18(Sun) 16:32 [Reply]
私の近くに射矢頭八幡神社があります。
その昔、関が原の合戦前に、浅野家の家臣であるものが、石高500石で領地を治めたと聞きますが
昔の神社というものは、城と言う考えもあるのでしょうか。
昔からの神社に突然浅野家の家臣が神主となり、そこを治めるということが
あるのでしょうか。

[4148] ではとりあえず  ヴェトナムの風 2003/05/18(Sun) 12:50 [Reply]
生田淳一郎さん、こんにちは。

それではご指定の
http://www.you-i.org/treebbs/1/index.html
にこの件ご回答をよろしくお願いいたします。

[4147]  ベトナムの風さんへ  生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/18(Sun) 03:04 [Reply]
 ベトナムの風さん、
 この4つ下で
 『なお、あっしのここでの発言は「ただの論文調喋り」にとどめ、ここでは質議
感想・応答の“会話”はしませんのでアマカネ。』と書いたばかりなんですが‥‥。

 あっしがここで会話調の喋りをやらかすとヒッチャカメッチャカになるとです。
 席亭ほかミナシャンにはおおいに苦労迷惑かけた実績があるとです、
  http://www.you-i.org/treebbs/1/index.html
で、受け答えします。
 あっしが行きづまっているベトナム語も是非お教えください。

                  ※ 夜中に指を蚊に咬まれて目が覚めた 

[4146] ついでの龍神話  ひふみ 2003/05/17(Sat) 23:31 [Reply]
ふと不思議に思ったのですが。

「龍神祝詞」というものがあります。
その中で、「・・・一二三四五六七八九十の 十種の御寶を己がすがたと変じ給いて・・・」という箇所があるのですが、龍神様が出ていらっしゃるのは、やはり物部系が多いのでしょうか?
(龍神様が出てくる祝詞は、他にもあるのでしょうか?)

又、宇賀神(ウカノミタマ)のルーツは何なのでしょう。
エウカシ(兄ウカシ)、オトウカシ(弟ウカシ)の一族等の縄文系に関係があったりすると面白いのですが。
ちょっと、青草でした。


[4145] 大黒天について  ヴェトナムの風 2003/05/17(Sat) 22:41 [Reply]
生田淳一郎さん、こんにちは。
「大黒様ものがたり」を拝読しましたが、どうにも解せないところが多々あり困っております。
もちろん細かいことを申すつもりはありません、ただ次の2点だけは貴論の大前提となる部分でありますから、是非ご解説をお願いいたします。

>>でもでも、真実を希求するの情念やみがたく、さらなる追求をしたところ、
>>やっぱ、サンスクリット語系の解釈がオカシイと なり……、

「大黒」はサンスクリット語のMahakalaのほぼ直訳であり、シヴァ神の化身で軍神、戦闘神他などとされる。と、大体この解釈で異論はないと思いますが、その「オカシイ」といわれる理由をお聞かせください。

>>「国」はシナ語では kwo であり、朝鮮語での読みは kuk です。そこを日本語
>>だけが「kok-u」としたのは、出雲の巨大柱の発音のなかに kok があったから
>>としかなりません。

中国語の「国」は呉音漢音とも「コク」のはずです。詳しく言うと上古、中古音は「kuek」、中世音「kuo」で現代音が「guo」でありますから、わざわざ現代音を取り出してきて「日本だけがkok-u」と主張される理由も是非お願いいたします。

#誤解のないように申し上げておきますが、わたくしは決して批判をしているのではなく、疑問点を教えていただいて是非このユニークな「大黒様ものがたり」を理解したいと思っているだけであります。

[4144] 薄曇りの土曜日の朝  神奈備 2003/05/17(Sat) 09:20 [Reply]
日雲さん こんにちは。
> この界隈以外に、建御名方をクスシ神と称する地域があるかどうか、御存知でしょうか?
>(私は聞いたことないのですが)

 小生も聞いたこと見たことがありません。地域地域での伝承があるのかも知れません。大宇陀町牧の九頭神社に一度参詣して由緒の確認などしてみたいと思っていますが、行きようがないほどの場所ですね。八咫烏にならなくては。

> 古〜い時代に何かつながりがあったのでしょうかね?

 風土記編纂の時代以前には神名などは遡及しにくい所がありますね。

maruyaさん こんにちは。
> この西川は例の“素盞鳴尊を吉野郡西川峰より勧請した…云々”のニシカワと関係あるのでしょうか。

紀伊国在田郡の式内社の須佐神社の社記に「此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠・・」とある西川峯のことですね。
 吉野は神仙境として天武・持統天皇あたりから重視されていましたので、吉野宮近辺に素盞嗚尊がどんと鎮座していては目障りと追い払われたのかも。
 吉野町や黒滝村には素盞嗚尊を祭る神社が鎮座していますが、川上村には見あたりません。(『平成CD』)根こそぎ追い払われたのかも。
 マルヤさん、いいヒントを頂きました。小生は西河でそこまで気が回っていませんでした。ありがとうございます。

> 「洗濯する少女」
久米仙人を思い出しました。・・。

[4143]  掲示板 『神奈備のエコー』開設のお報せ    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/17(Sat) 06:29 [Reply]
 ミナシャン・アマカネ
 前回あっしがケツ割ったなぁ、ここに目覚ましい古代語が出てくるたびに、
あっしが“ここで”コメントつけたからにござんしょう。
 いまの段階では、神社関係が含んでいる各種語彙へ言語比較の視野から照射す
るヤリクチは、現実の常識とはまだまだ乖離がありすぎるのでアリマス。

 そこで
 『ユー・アイ掲示板 1 ---神奈備のエコー--- 』
 http://www.you-i.org/treebbs/1/index.html
 
 を開設し、ミナシャンがたの更なる追求へ参考ヨスガとしたく存じます。

 神奈備・掲示板に書かれた語彙をユーラシア規模での語彙内意に沿って分析し
ます。御感想、質問をお書きください。

 なお、あっしのここでの発言は「ただの論文調喋り」にとどめ、ここでは質議
感想・応答の“会話”はしませんのでアマカネ。

[4142] 「三輪山とくず」番外の妄想  ZOU 2003/05/17(Sat) 01:28 [Reply]
なんかクズで盛り上がってますね(^-^)

先日UPしましたKokoroさんの論考のページ、アドレスを変更しました。
Kokoroさんや皆様にはご迷惑をおかけしますが、以後は下記のアドレスにてご覧くださいますようお願いいたしますm(__)m
http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/shikinokuni/kokoro/index.html


★三輪山とくず1「洗濯する少女」から

なんで「洗濯する少女」なのかなあと思っていたんですが、これって禊なんですね。服を脱ぐ>ミソギ>身削ぎ>脱皮  吉野裕子氏流にいえば、蛇への変化となりますね。生贄の意味もあるのでしょうが、古態の蛇神の記憶が残るように思います。

先日、御所市蛇穴(さらぎ)の蛇綱祭りを見てきましたが、これは女性が蛇に変化したとの言い伝えがもとになっているそうです。安珍清姫の物語も同様ですね。女性が蛇神化して神の妻になる・・・蛇と蛇の結婚でしょうか、竜と蛇の結婚でしょうか・・・

★三輪山とくず3「曳田神社」から

Kokorosさん>地元の伝承では、現在の曳田神社はもとから今の所にあったわけではなく、昔は谷ひとつへだてた西の丘上にあって、

これはダンノダイラのこと? またはそれに係わる場所でしょうか。
http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/juunisha.htm
岩フェチ・三輪・出雲・クズとつながるような気がします。

[4141] 国栖の神々  マルヤ 2003/05/16(Fri) 23:50 [Reply]
神奈備さん、こんばんは。
拝見しました、神奈備神社名鑑最新版の「川上鹿塩神社」。
以前、私がすぐ近くまで行きながら五社峠への登り口が分からず、参詣できなかった神社ですが、お蔭様でいながらにして参拝できました。ありがとうございます。

この川上鹿塩神社といい、大蔵神社といい、本当に興味深い神社ですね。
先日来、この神奈備掲示板で話題になっていた「くず族」の祖神を祀る神社の一つには違いないと思えます。それと吉野の古代部族「石押分」との関わりも濃厚な感じがします。

ところでこの神社の「由緒」説明記事のなかに「西河」とありますが、この西川は例の“素盞鳴尊を吉野郡西川峰より勧請した…云々”のニシカワと関係あるのでしょうか。

[4140] Re[4139]久須斯神  日雲 2003/05/16(Fri) 22:03 [Reply]
>九頭大神とは由緒書きによれば建御名方神(久須斯神)とのことです。
九頭大神=建御名方については前から「?」と気になっていたのですが、
この界隈以外に、建御名方をクスシ神と称する地域があるかどうか、御存知でしょうか?
(私は聞いたことないのですが)
「諏訪」「クスシ」と言えば、建御名方よりもむしろ、「諏訪薬」の調合法を伝世していた、
前宮守矢氏のミシャグジ方面が想起されるのですけれども……?

常陸の話からは、
ミシャグジと同一視もされている春日大社本殿裏にある佐軍神のことを、
「常陸風土記に出てくる夜刀神の事だ」
としている伝承?を思い出しました。

古〜い時代に何かつながりがあったのでしょうかね?

[4139] Re[4133][4121]: 三輪山とくず7「三輪山とくず」最終回  神奈備 2003/05/16(Fri) 15:24 [Reply]
> (お久しぶりです。)
こんにちは、よこから
> 「クズ」と「クス」、関係はないのでしょうか。クズ一族が山の民の性格をもつとしたら、まず思うのが薬師(クスシ)です。

 宇陀郡大宇陀町牧の九頭神社の祭神の九頭大神とは由緒書きによれば建御名方神(久須斯神)とのことです。陸奥や武蔵には大己貴神、少彦名神を祭神とする久須志神社が多く鎮座しているのも示唆的です。なおこれらの神社は常陸國鹿嶋郡の式内社の大洗礒前薬師菩薩明神社からの勧請かもしれませんが、この明神社には荒吐神の気配もあるようで、何か九頭かそれより古い縄文的雰囲気をも感じますね。

> 葛根湯で良く知られるように、葛はもともと薬の性格を持ちます。
 薬草は数々あるようで、ユキノシタ、ハッカ、金ミズヒキ、ウイキョウ、コンフリー、ドクダミ、自生の三ツ葉、アシタバ……。
上記は http://www.naraken.co.jp/column/column14.html から引用。
 
 天理市の奈良健康ランドには薬草風呂があるそうです。
 

[4138] 大黒様ものがたり 3  я 音で出雲が開けた 1    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/05/16(Fri) 12:29 [Reply]
 申しおくれました。
 bin・oc・u・lar はラテン語で「双眼の、両目の」という意味です。
 「bin がラテン語起源で「二つの」を意味する」んだそうです。で、ここでは
クルド語の bin-(見る)には関係ないことになります。
 ラテン語の oculus は英語のeye、目のこと。

 序でですが、この bin(見る)は日本語の「見る」と同根のようです。凡ア−
リア系言語の b , bh が、日本語の m である場合が多く、語彙中の r 音は n に
なり易いのです。原音 *bir だったのが、クルド語で bin 、日本語で mir-u と
なったことは十分にありえます。

 bin ok が両眼なら、ひとつ目は ik ok ですよね、ではこの ik は何語かという
と、これはもうエデン語だとしか言いようもないのです。全インド〜オセアニア
で ik といえば「1」という意味なんです。
 ところが、「1」はシナ語では「イー」、朝鮮語では「ハナ」、日本語では
「ヒ」です。これらが、どういう原因でそのように変わったのでしょうか? こ
のへんにも超古代が解けるキーが潜んでいるようです。

 じつは、その鍵はタジク語が握っていました。
 凡ア−リア系言語の ik に対して、タジク語だけが яk なんです。この я は
一見すると子音のようですよネ。でもこれは子音と母音の中間みたいなところが
あるのです。解説によりますと 「ヤ」「ヨ」の子音部に該当するのですが、タジ
ク語には別に j や y もあります。

 そして似たような“シナ語「イ」、日本語「ヒ」”の中間に朝鮮語「ハナ」が
毛色のちがいを見せているようですが、ま、安心してください。朝鮮語ハナがあ
まりに有名なので掲出したまでで、朝鮮語は「一」を il(イル)と発音している
のです。
 そして hana の ha とは、日本語感覚では「始める、端」の ha です。hana
の na は、世界的現象ですが、ずべてに後置されて名詞となります。ヒンディー
語は「○○する」と、動詞を作ります。

 ではタジク語の яk はシナ語から影響されて ik から яk となったのでしょう
か? いや、それは言えません。数詞は文化語です。小生は、ヒッタイトあたり
の敗戦組が金属精錬の技術をもって渭水(いすい)に入って王朝を建てたと思っ
ているからです。

 福岡県東にある「行橋(ユクハシ)市」……もう、この意味がピ〜ンとお解り
の方もいらっしゃるのではないでしょうか(難解地名だったんですよ)。 

[4136]  大黒様ものがたり 2 諏訪神社の神官教授    生田淳一郎 [Mail] 2003/05/16(Fri) 10:02 [Reply]
ネパール語 dad(幹、柱)があり、これに易国間の「ik・ok(一つ目)」が
ついたのがダイコクという発音で、この発音ができたあとに「国」をコクという
風習が定着した……のでアリマス。ダイコクとは「一つ目柱」という意味です。

「国」はシナ語では kwo であり、朝鮮語での読みは kuk です。そこを日本語
だけが「kok-u」としたのは、出雲の巨大柱の発音のなかに kok があったから
としかなりません。
そして「da-ik-ok」が大きい国となったあとで、神官がゴロ合わせをしてイ
ンドの「黒い神」をひっぱりだし、あがり(てめえらのみいり)がいいように
計って成功したのが“大黒様”だったんです。

「ちょい待ち、dad-ik-ok ならハナシはわかるが……、なんで dad 末尾の d
が外れたのか?」という質問の声がきこえてきそうですので、これにお答えまし
ょう。
ア−リア系言語でもいろんな“柱”がありますが、一般的には dar が基本で
す(棟木のタルキはここ)。その dar が「第二子音濁化のクセ」で、dad となって
パール語の dad になったのです。
一般形の dar は出雲に入るとき、末尾の r を落とし、ただの da となったの
です。これで Q・E・D 。
 
ですから、小生がここで鋭意のべる大黒様とは、神官や坊主(ボーズとは知識
という意味)が囃したてた豊作の神ではなく、大国、大黒の中心を流れる一つ目
とか「黒い神」さまのことです。

10年前、小生は長野の諏訪神社にいらっしゃるエラ〜い神官教授に「簡単な
サンスクリット語辞典を教えてください」と手紙をだし、3000円ほどの簡潔
な辞典を知ることができました。
掲載されている語彙が多すぎると語彙の比較作業がすすまないのです。
 
でも、そのメモを「謎の4平米空間(ベッド周辺)」で紛失したんです。
フシギな現象ですよね。ひょっとしたら後背霊とか指導霊といわれている霊は
ホントーにいるのかもしれませんねェ〜〜。
あのとき、紛失事件が起きなければ、ここでこうしてウンジュ(沖縄語;あな
た様)と遭うこともなかったし、○×さんのお力ぞえがあったとしても、大黒様
は闇に葬られたままで、復活することはなかったんですから……。

[4135]  大黒様ものがたり 1 復活の足音    生田淳一郎(紋次郎) [Mail] 2003/05/16(Fri) 09:57 [Reply]
ナニから書き始めたらいいのやら……、書き始めたらこんどこそは書き洩らし
ちゃいけねぇ……あっしゃ今、そんな気分に浸ってキンチョ〜ルよ
大黒様がかかってんじゃモンネーー。

書き洩らしはシャ〜ねぇよ。とにかく、binocular がなぜ、どういうふうに
key だったのかを拙く表現するよかテはない。

それは下北半島東海岸、風間浦にある易国間川という地名でのヒッカカリから
述べざぁなんねぇ。
このイコクマをどう解釈すればいいのか……、結論からいうと(ガハハ)
これは「一つ目」にしかならない。「ik(1)ok(目)ma(印欧系の水・川)」。
ここに初めて文明らしき風が吹いたとき、一つ目の文化に曝されていた。

ところが、○×さんの分析に恵まれるまでのあっしは、ホロロ・ホロロと考え
あぐねていやした。
bin とはクルド語で「見る」です。アイヌ語 nukan < nukar(見る)の nu
〜num には「目玉」が認められる。
英語の eye を尋ねると、ドイツ語の Aug(目)への推移を示し、すぐに *ok
(目)が出てくる。また、瓶は日本語に限ってガラスという意味が浮上する。
「ガラス・目+△△(ular)」でも双眼鏡周辺の意味が出てくるのです。
ネパール語その他では bi- が「二つ」の意味で、bin に」「二つ」の意味が
あろうなどとは想像もできなかったのでした。

片やサンスクリット語……。サンスクリット語から流入したと言われて“訳
語”と処理されている語彙の一群がこれまたクセモノなんです。
たしかにシッダルタさん出現のあと、サンスクリット語は周辺言語にハバを利
かして「強い言語」でした。それはイッパシの文明を誇るシナを押し潰して、こ
の日本列島まで攻め寄せてきていたのでした。

[4134]  ここに復活します     生田淳一郎(紋次郎) [Mail] 2003/05/16(Fri) 09:51 [Reply]
 太っ肚・瀬藤どんのお計らいにより、『大黒様ものがたり』を、神奈備の本筋
を辿って、ここに復活させて頂くことができるはこびとなりました。 
 「臭くて穢いことば遣いがないのでオモシロクない」などとのご意見などござ
いましたら、遠慮なくお申し出ください。

     ……………………

歪められ、いびられていた大黒様がニグラッとほほえみながら復活しました。

 「ニグラッと笑う」とは津軽の方言ですが、それは、いつか投稿したように
“安寧”の寧で、当時はやりのことばだったのです。
 安寧は天皇の名前にも見え、ニギ蝦夷、ににぎの命などの中にも遣われていま
す。朝鮮語のコンニチwa のアンニョンハシムニカ や アイヌ語の annno anna
, anne ,annu(健康な)、ネパール語anand(元気・喜び)など、極東〜凡ア−
リア系言語に同根がびっしりです。 

あっしゃ神奈備・掲示板で、かなり長い尻ズで大黒様を追いかけまわしたんで
す。
ところが、途中で“ダイコク・大黒”は「大国」の発音上の「ただの府会」で
あるという、サンスクリット語 〜仏教の権威スジの主張がホントーだろうとなっ
て、タァジタジになってやめてしまったんです。
でもでも、真実を希求するの情念やみがたく、さらなる追求をしたところ、
やっぱ、サンスクリット語系の解釈がオカシイと なり……、そのネックが
binocular(双眼鏡) の語源分析に懸かっていたことを発見した次第です。

[4133] Re[4121]: 三輪山とくず7「三輪山とくず」最終回  ひふみ 2003/05/16(Fri) 03:56 [Reply]
(お久しぶりです。)
kokoro様、いつもながら素晴らしい論文でした。
半年前からの仕事で廻っている土地が、やはり「クズ」と関係があるので、とても興味深く読ませて頂きました。

ところで青草話になりますが、「クズ」と「クス」、関係はないのでしょうか。
クズ一族が山の民の性格をもつとしたら、まず思うのが薬師(クスシ)です。
葛根湯で良く知られるように、葛はもともと薬の性格を持ちます。
山の民であれば、当然薬草には詳しかったはず。
ここで、スクナヒコナの神との関連性も出てくるかもしれません。
楠木正成なども、ルーツをたどると面白いかもしれませんね。

又、九つの頭を持つ龍神と八つの頭を持つ龍神や大蛇、その変遷等関連があるのか。
九(三の三倍)を聖数とした民と八を聖数とした民、又は時代。
八というのがどうしても仏教色の香りがするのに比べ、九というのは三×三として考えた場合、古代の幾何学的感覚が感じられるのは気のせいでしょうか。
三角形というのは、円形に続く神聖な形のような気がします。(三つの輪とかね。)
奈良時代,母音が五個ではなく八個だったという話もあるし、「ん」の一音を加え九個の基本形だったのかもしれません。




[4132] Re[4130][4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  kokoro [Mail] 2003/05/16(Fri) 01:11 [Reply]
 泊瀬女さん、こんばんは。

> もちろん、読みま〜す。

 拙文を読んで下さってありがとうございます。筆者として、これほど嬉しいことはないです。(^^)

[4131] 無題  なにがし 2003/05/15(Thu) 21:35 [Reply]
>ついでに祝詞岩も見つけておきたいものです
すいません。もしかしたら祝詞岩と勘違いしてるかも?毛原から長谷方向に進んでいくと、左手の川の中にあります。道からだと頭の部分しか見えませんでした。あのあたりは渓谷だったと思うので、想像するにかなりでかいと思うのですが。
もし、写真とられたら神奈備別荘にアップしてください。よろしくお願い致します。

[4130] Re[4128][4125]: 「三輪山とくず」番外  泊瀬女 2003/05/15(Thu) 17:30 [Reply]
>  わーい。みなさん、読んでください、

もちろん、読みま〜す。
神奈備さんのさらサイト「三輪山とくず」をプリントアウトしたら、A4判にビッシリ書かれた論文が11枚、ZOUさんのHPに掲載された「佐太の大神」「少彦名命」は3枚。
紙に書かれた活字のほうが理解しやすい泊瀬女にはありがたい特集です。

[4129] Re[4124]: 立岩  神奈備 2003/05/15(Thu) 08:35 [Reply]
> 帰りに立岩でしたっけ、狩場明神が大きな猪を倒した時に呪文で岩を大きくしたという伝説の岩
なにがしさん こんにちは。長谷と毛原の間をサイクリングしているのですが、残念ながら発見していません。
> いつか絶対もう一度行って写真をとろうと思いました。
同感です。ついでに祝詞岩も見つけておきたいものです。
なお、貴志川物語 http://www2.odn.ne.jp/~cac52360/creek/kisi/980101.html
に写真が掲載されていますね。とりあえず、この写真で鑑賞しております。

[4128] Re[4125]: 「三輪山とくず」番外  kokoro [Mail] 2003/05/14(Wed) 23:06 [Reply]
 ZOUさん、お手数おかけしました。ありがとうございます。(^o^)/

> 合わせてお読みいただくと、『三輪山とくず』に対してよりいっそう理解が深まるかと思います。http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/shikinokuni/kokoro.html

 わーい。みなさん、読んでください、読んでください、読んでください、読んでください、読んでください、読んでください、読んでください、そうしたら私は喜びます(笑)。

[4126] 『新・大黒様ものがたり』発足の報せ    生田淳一郎(紋次郎) [Mail] 2003/05/14(Wed) 06:46 [Reply]
 神奈備でケツぅ割って、追っぱらわれてもう1年あまりになりやしょうけぇ。
 あっしゃその後恋いねぐら求め捜してさまよいやしたが、今んとこ下記ビッキ
しゃんのとこでトグロォ巻えちいやす。

 わざわざまた臭ぇ匂いをミナシャンに届けるなぁ、ワケこれあり。
 このほど、神奈備で行きづまっていた『大黒様ものがたり』を、双眼鏡を手
がかりにして、権威スジの解釈のほうがオカシイ‥‥と、こうなったような次第
にござんす。
 そこで、これから『新・大黒様ものがたり』 始まりはじまりィ〜〜。
 言語考古学; http://6828.teacup.com/bikki/bbs

 なお、大さん、アイヌ語 sik-o などは
 言語篇; http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html
 で蹴っとばしやしたはんで、ご参考まで。
 おらハァ、ずっと前から、いつでもハナシの窓口オープンあるぜヨ。

[4125] 「三輪山とくず」番外  ZOU 2003/05/14(Wed) 00:12 [Reply]
kokoroさん、『三輪山とくず』、たいへん興味深く読ませていただきました。

さて、

>(三輪山と母子神信仰については、ZOUさんの掲示板で、4月2日に『少彦名命』という題で書いたことがあります。)

ということで、該当するkokoroさんの論考『少彦名命』、およびその前段にあたる『佐太の大神』を、下記アドレスにUPさせていただきました。合わせてお読みいただくと、『三輪山とくず』に対してよりいっそう理解が深まるかと思います。

http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/shikinokuni/kokoro.html

[4124] 立岩  なにがし 2003/05/14(Wed) 00:06 [Reply]
竜穴といえば確か高野山にもあったと思います。

さて先日、和歌山県の長谷宮に旅行で行って参りました。プライベートではなかったので、近辺を調べる時間がなかったのですが、帰りに立岩でしたっけ、狩場明神が大きな猪を倒した時に呪文で岩を大きくしたという伝説の岩というやつ。通りすがりにみただけだったんですが、予想以上にでかかったので、とても引き付けられるものがありました。上には橋もかかっており、一番上にはほこらまでありました。長い間台風にも負けず、増水にもまけずあそこに立っていたと思うとすごいと思います。いつか絶対もう一度行って写真をとろうと思いました。

長谷宮は空海が修行したと言われる長谷の地であると言われる方もいるような土地です。もちろん龍門の比定地には龍門山もあってここには磁石岩なる岩もあって、遠くからこれをもとめてハイキングにこられる方もおられるとか。長谷と言う土地は丹生氏にとっては結構重要な地であったようで、紀氏が豊臣軍に敗れて逃げ延びてきた地が確かこの長谷宮だったと思います。丹生氏より紀氏に女の子が嫁いでいたこともあってこの地に逃げてきたのかも知れませんね。
くずの話題で龍門と長谷が出てきたから書いた訳ではありませんよ〜。

[4123] Re[4121]: 三輪山とくず7「三輪山とくず」最終回  神奈備 2003/05/13(Tue) 18:47 [Reply]
kokoroさん、実に説得力があり興味深い労作、ありがとうございました。

> こうしたくず族と龍神の関係は何を意味するのでしょう。
> 彼等が『魏志倭人伝』に見える倭人と呼ばれる人たちの末裔で、もともとは紀ノ川を遡って吉野から宇陀、都祁、名張方面等々へと住み着いたことを示唆しているように思われます。
> そして、くず神社の分布圏に、しばしば龍神の伝承が濃厚に伝わっているのは、彼等が龍神をトーテムとしていたことの名残だと思うのです。

日本での竜神信仰は一体いつ頃まで遡ることができるのか、上記の論述では『魏志倭人伝』に見える倭に見えるとの仮説ですから、3世紀以前となります。
弥生土器には池上曽根遺跡出土の壺に竜の姿の絵があるそうですし、卑弥呼が与えられたもののなかに、濃い赤地に交竜を刺繍した布があったようです。倭人は理解できたようです。

 倭人の末裔であるクズ族は非征服の民のようですから、大和国中を支配した王権は邪馬台国の後裔ではなく、と云って句奴国とは限らず、新しい渡来王権だったのかも知れません。その間は隠れ竜神信仰だったのかも。尤も古墳時代後期には四方を守る四神の中に青龍が登場してきます。青龍は東を守るようで、どちらかと云えば国中の東に九頭神社が多く残っているのも、この頃からは隠れ九頭ではなくなったのかも。
 天武天皇は彼らの助力をも請けて王権を簒奪したのですが、もう堂々と竜神信仰を掲げたのでしょう


>  善女龍王は、空海が唐からもたらした東密系の龍神です。
 竜穴神社からスセリヒメを白岩神社に遷座せしめたのが延暦九年(790年)とされ、奈良時代末から平安時代には竜神信仰が本格化して来たと云うことがいえそうです。
 九頭神社鎮座域には、大和の三龍寺とされる桃尾山龍福寺や龍蓋寺(岡寺)、龍門寺(吉野町)などが建立されています。長谷寺と同じく本尊は仏教での水を司る十一面観音を安置していたとのこと。お寺の分布については詳しくは承知していませんが、国中の東や南の方角に多いと面白いですね。

  最近刊行された『岩波新書 龍の棲む日本』では、諏訪大明神(だけではないのですが)が龍体を現して蒙古軍と戦ったとのこと、九頭神社の祭神に建御名方神が見えるのは案外こんな所か。鎌倉以降。

> もともとは紀ノ川を遡って吉野から宇陀・・・
岩波新書> 南山(普通は高野山だが、ここでは吉野)に龍穴あり、九頭一尾の龍が棲息。
 クズ神社と丹生神社が交差しながら紀の川から吉野川、宇陀へ分布しているのも面白いですね。丹生からは朱、赤、赤猪子、閼伽井、つながってくるのかも知れません。

[4122] 三輪山とくず6「山のくず・里のくず」  kokoro [Mail] 2003/05/13(Tue) 02:11 [Reply]
 「布留の地名のはじまり」では、乙女が洗濯する布留川のほとりの布の中に、鉄具である剣が流下してきました。金関丈夫氏による「箸・櫛・つるぎ」の一節を引用します。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  Kroef,J.M.van derによればジャワの双分制社会では、鉄具が川上の男性シンボル社会の、そして布が川下の女性シンボル社会の産物である。ヤマトヒメを祖とする伊勢の斎女は、川上から流れ寄る龍蛇神すなわちミアレ木を待つとき、水辺の棚で機織りをする。いわゆる棚機女である。双分社会の両集団の、共同の祭事に伴う集団婚の際に、山の産物の鉄具と、里の産物の布とは、このとき行われる原始的な定期市で交易される。
・岩波文庫版『木馬と石牛』所収P71

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 この「箸・櫛・つるぎ」は、スサノオ命による八俣大蛇退治が、川上から流れてくる箸によって始まることに着目し、「スサノオのオロチ退治の話は、外婚的双分制社会における通婚形式の───少なくともその記憶上の伝承の───まだ遺っている時代における、農耕民に一般的だった神婚の祭事から起こり、後世にいたって、それがいろいろと変化した結果、<中略>一つの神話となって残された物語だ」との仮説を提出したものです。オロチ退治の考察とはいっても、丹塗り矢型神話の包括的な論考として通用します。
 丹塗り矢型の神話を、外婚制の双分制社会(共同の一集団が二支に分かれて生活しているが、両者は互いに通婚しあう関係にある、という社会)の記憶を伝えるものとする基本的な解釈以外にも、ここには幾多の優れた洞察があります。

 その一つとして、例えば、丹塗り矢型の神話と市とに、深い関連のあったことが示唆されていることをあげられるでしょう。「共同の祭事に伴う集団婚の際に、山の産物の鉄具と、里の産物の布とは、このとき行われる原始的な定期市で交易される。」という部分がそうですが、赤猪子が雄略天皇に見初められたのは、美和河のほとりで衣を洗っていたときであり、その近辺には有名な海石榴市があるのです。海石榴市は三輪山南麓を流れる初瀬川のほとりにあり、古代の物物交換の市場であるだけでなく、『万葉集』に残された歌によってわかるとおり、男女公会による歌垣の行事の場でもありました。歌垣については、後で述べます。
 また、紀には、ヤマトトトイモモソ姫が箸でほとを撞いて死亡したとありますが、箸は丹塗り矢型の神話にあって、ミアレ木≠ニしてよく登場するもので、この物語もほんらい、このタイプのそれであったことを思わせます。
 モモソ姫を葬った箸墓≠ヘ、土師墓≠フ転訛といわれますが、もともと丹塗り矢型神話であった伝承が、箸墓の地名起源説話として改変を受ける際に、「箸による感精」→「姫の死因」というぐあいに、話根のすり替えがあったのではないでしょうか。そのばあい、なぜ丹塗り矢型の神話が、この地名起源説話に附会されたのか、という疑問が生じますが、このタイプの神話が三輪山の祭祀と関係深かったとともに、『紀』が姫を、「大市に葬った」とし、箸墓古墳近辺に市があったことも看過できません。
 それからまた、「布留の地名のはじまり」の舞台となった布留地方には、山辺郡の式内小社、石上市神社があり、古代に市があったようです。当社の鎮座地は、布留川から離れていますが、例祭日には石上神宮近くの布留川で禊ぎをする神事があり、布留川の川辺と祭祀面でつながりのあったことがわかります(現在は川の汚染により、桃尾滝に場所が変更)。

 さらに、「箸・櫛・つるぎ」から引用します。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 川上、川下の双分制社会は、世界的な現象だが、日本ではこれがフタアラ山、イモセヤマ、すなわち男山と女山とに双分することもある。筑波の雄峰と雌峰、肥前杵島のヒコ神の山とヒメ神の山。これらにはそれぞれにカガイ(歌垣)、すなわち定期的集団婚の伝説が伴っている。
・P76

 台湾福老系漢族の採茶歌に、若い男女が郊外に会い、互いに相手を揶揄する二句の片歌を応酬して、四句の唱和をなす形のものが、いくつもある。連句形式ではないが、ヤマトタケルがミヤズヒメに逢うとき、相手の不浄をひやかす歌をとなえる。ミヤズヒメがこれをやりかえす。これなども、和合の前にこうした皮肉なやりとりを必要とした例である。
・同書P74

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 川上の男性社会と川下の女性社会で、集団婚が行われる古代社会においては、集団婚の際に歌垣が行われる風習があった、そこでは男女二句づつによる歌の応酬があり、つごう四句の連句となったと論考されています。こういう歌垣というのは、世界でも普遍的に存在した文化ですね。カントルーヴが曲をつけた『オーヴェルニュの歌』などにも、それを思わせる設定のものがいくつかあった気がします。
 それはともかく、雄略天皇と赤猪子の間にも、歌のやりとりがでてきますが、それは二句づつで、まさに四句の連句形式をとっているのです。この説話がほんらい、丹塗り矢型の神話であったとすれば、この部分は、かつて歌垣でおこなわれた男女の歌の応酬のイメージを留めているのかもしれません。そのばあい、その歌垣は、海石榴市でおこなわれた可能性が高いように思われます。

 『古事記』赤猪子条で、脱落をおこしたと私の想定する部分では、丹塗り矢が、引田部の居住する上之郷地区から流下したと思われました。さて、上之郷地区には高オカミ神社=くず神社の分布が顕著にみられます。また、「布留の地名のはじまり」で、洗濯の乙女のところに剣が流れてきた布留川も、さかのぼると苣原町他に3社の九頭神社があり、さらにさかのぼれば、都祁野にでて、国津神社=くず神社の分布圏があるのです。
 こうしてみると、大和に残る丹塗り矢型の伝承で、丹塗り矢や剣が流下した川をさかのぼると、そこにはくず神社の鎮座しているケースが多いことになります。川上から流下してくるミアレ木は、竜蛇神です。そして、くず神の信仰には、龍神信仰がきわめて強く感じられました。金関氏の仮説にのっとり、このタイプの神話を外婚的双分制社会における通婚形式の記憶を伝えるもの≠ニ解釈すれば、くず民の集団には、山のくず・里のくずという二支があり、両者には通婚があったことになるでしょう。すなわち、奈良県東部の山地にある、あれらのくず神社たちは、山のくず民が残したものであり、その一方で、里のくず民が奈良盆地の平野部に居住していたのではなかったでしょうか。「赤猪子条」や「布留の地名のはじまり」は、そうしたくず民の社会のありようを記憶したものなのです。

☆ 「山のくず・里のくず」というフレーズは、ZOUさんが最初に思いついたものです。この論考全体のきっかけになりました。

[4121] 三輪山とくず7「三輪山とくず」最終回  kokoro [Mail] 2003/05/13(Tue) 02:10 [Reply]
記紀の神武東征条には、天皇家がやってくる前から生活していた、大和の先住民らしき者たちのことが出てきます。ナガスネヒコ等がそうです。神武天皇が実在したかどうかはともかく、彼等のような人たちがいたことは十分考えられるでしょう。

 このうち、天皇が宇陀に入ってから出会ったのは、宇陀の土豪らしきエウカシ・オトウカシです。彼等の名に含まれたうかし≠ヘ、地名であり、宇陀郡大宇陀町の宇賀志に比定されています。
 宇賀志を含む一帯は、くず神社の分布圏のひとつで、西からいくと、宇賀志の西方、5〜6qのところに、九頭神社(同町牧字宮ノ尾)と岩神社(同町栗野フロノ谷)があり、後者は社殿背後に顕著な岩の露頭があって、国栖部の祖、磐押開命(石押分之子)を祀っています。古伝に「上古国樔部の居住区域なりしならむ云々」とあります。
 宇賀志の西方、2〜3qのところには、戸隠神社(上片岡字峯阪)と戸隠神社(大熊)があります。奈良県下の戸隠神社≠ヘ、かって、くず神社であったケースがあります(たとえば、桜井市横柿字宮ノ谷の戸隠神社がそうです)。また、くず神社の鎮座する地域の中に、戸隠神社が複数あるというケースも多く、こうした戸隠神社も、かってはくず神を祀っていたように思われます(たとえば、奈良市の東里地区に分布する戸隠神社群などはそうでしょう)。おそらく、信州の戸隠神社の摂社で祀る地主神が、九頭龍神だったことや、戸隠神社の祭神、手力雄命が、岩を押し開いて出てきた石押分之子を連想させることによるのでしょうが、原初のくず神の信仰が風化する中で、信州の戸隠信仰が附会されて、そうなったのでしょう。したがって、上片岡と大熊の戸隠神社も、かってはくず神を祀っていたように思われるのです。
 それから、宇賀志の東方、2〜3qのところには、宇陀郡菟田野町上芳野ホウノの九頭神社があります。

 したがって、宇賀志一帯はくず神社の分布圏であり、かって、くず民のコロニーがあったと推測されます。とすれば、この地域の土豪であったエウカシ・オトウカシとは、くず民の首長ではなかったでしょうか。

 余談ですが、宇賀志から川をさかのぼって1〜2qのところに、中将姫の事跡で有名な青蓮寺があります。ごちゃごちゃした説明は省きますが、この辺りに、中将姫の伝説がいくつか残されていおり、その中には上代にまでさかのぼる、非常に古い女神の神話が紛れ込んでいるように思われます。もともとそれらは、くず民のものであったかもしれません。

 神武東征に登場する先住の者たちとしては、天皇が奈良盆地の東辺へ入ってから登場する、エシキ・オトシキもいます。彼等の名に含まれるシキもまた地名なので、三輪山の西麓にエプロンのように広がる磯城地域が、彼等の本拠地だったと思われます。
 『紀』の述べるところによれば、シキ兄弟もウカシ兄弟も、ともに兄は神武に抵抗し、弟は天皇に帰順します。『紀』の記述だけからは、両兄弟につながりがあったかどうかまではうかがえませんが、少なくとも『紀』の筆者に、両者がセットであるとの観念があったことは確かだと思います。結論を言ってしまえば、私はウカシ兄弟は山のくず、シキ兄弟は里のくずに該当し、両者によって双分制の社会がなりたっていたと考えます。むろん彼等のような者たちが、本当に実在したかどうかは分かりませんし、神武が実在かどうかさえも大いに怪しいでしょうが、しかし、赤猪子の伝承と同じく、かって宇陀と磯城をそれぞれ一支とした、くず民の双分社会があった記憶の断片が、ここにあると思うのです。

 その場合、磯城にくず民の双分社会の片割れ、里のくずがいた徴表として、箸中の国津神社と芝の九日社の存在があげられるでしょうか。また、『古事記』の神武は、忍坂で、尾のはえた大勢の土雲が、岩屋の中でうなり声をあげているのに出くわしますが、彼等のようすは、石押分之子のそれにそっくりです。忍坂にも、くず民の一派がいたとすれば、忍坂と磯城はそんなに離れていません。
 だが、そうはいっても、宇陀・都祁・吉野等に比較すると、磯城地域にはくず神社の顕著な分布が見られず、この地域にくず民が住み着いていた、との仮説は、荒唐無稽な妄説にしか思えないかも知れません。しかしながら、平野部で暮らしていたくず民は、山地部で生活していたそれと比較し、侵略者による侵略・征服を受ける機会が多かったと思われ、シキ兄弟が里のくずだったばあい、『古事記』にもあるように、彼等はやがて王権を築き上げる侵入者勢力によって、攻め滅ぼされたのかもしれません。かろうじて山地部に居住した山のくず民だけは生き残り、しかし、その彼等も王権の部民へと零落したのではなかったでしょうか(たとえば宇陀の水取りなどへと)。

 以下、里のくず民が、3世紀以前に磯城地域で勢力をもっていた、として話を進めます。

 『山城国風土記』逸文「賀茂社」条を思い出して欲しいのですが、石川の瀬見の小川で川遊びをしていた玉依日売が、丹塗り矢との神婚で生んだ子は、賀茂別雷命でした。この神の子を祀った神社が、賀茂別雷神社ですが、当社は約2q北方にある神山コウヤマを神体山としています。
 赤猪子条を丹塗り矢型神話として捉えれば、賀茂別雷神社→大神神社、神山→三輪山という類推が可能かと思われます。そして、赤猪子条がほんらい、山のくずと里のくずの通婚を伝えた神話だったとすれば、崇神以前に、最初に三輪山を信仰した人たちは、磯城にいたこうしたくず民ではなかったでしょうか。
 そのばあい、こうした平野部に居住していた里のくず民は、王権によって攻め滅ぼされ、その一方で、三輪山の祭祀だけは、大和の地主神の祭祀として、王権に引き継がれたように思われます。崇神紀等にみられる、まつろわぬ祟り神としての三輪山の神の神格は、こうした征服された者たちの祀る地主神だった、という来歴に起因するのでしょう。

 賀茂別雷神社の祭祀が、賀茂川上流域に鎮座する貴船神社と、つながりを感じさせるのと同じく、三輪山の祭祀と曳田神社のそれにも、つながりのありそうなことは、すでに指摘しております。そして、曳田神社は高オカミ神社=くず神社の分布圏内に鎮座していました。こうしたことを考えるとき、大神神社の祭祀が、意外と宇陀地方の神社とつながりがあり、しかもそうした神社の付近にくず神社が見つかるケースの多いことに気付きます。

 たとえば、これはZOUさんから教えてもらったのですが、大宇陀町麻生田に麻生田大明神という神社があり、当社は三輪明神の母神を祀るといわれ(祭神不詳)、明治初年まで大神神社の拝殿の屋根は、当社の境内で採られた茅で葺いたとも伝わっています。また、当社は老杉を神体としているらしいですが、その杉と大神神社は糸でつながっているとも言われておりました(これは、おだまき型神話が変形・脱落したものかもしれないですね)。当社に近い、同町嬉河原字宮ノ前には、屑(!)神社が鎮座しています。

 また、菟田野町大神字宮ノ下に鎮座する宇陀郡の式内小社、神御子美牟須比女命神社は、鎮座地にも大神オオミワの地名があり、三輪の奥宮とも称されます。当社の現祭神は、社名にある神御子美牟須比女命ですが、『大和志料』は、この祭神をセタヤダタラ姫と考証しており、セタヤダタラ姫は、丹塗り矢と化した大物主神との神婚により、イスケヨリ姫を懐妊した姫神であるため、興味深いです。この付近も、マクロにはくず神社の分布圏に含まれると言えるでしょう。

 こうした伝承等は、三輪山の東に広がる山間部で、三輪山の祭祀と母子神信仰とを結びつける思想のあったことをうかがわせます。ごちゃごちゃした説明は省きますが、私はこうした信仰が、対馬など倭人の活動が活発であった地域に、現在でも濃厚に残されている母子神信仰と同質なものであり、じつは三輪山で大物主神が祀られるよりも古い三輪信仰の名残であると思っています。そうして、こうした信仰をもっていたのはくず民だったと考えられるのです(三輪山と母子神信仰については、ZOUさんの掲示板で、4月2日に『少彦名命』という題で書いたことがあります。)。
 長くなるので、この辺で止めますが、くず民と倭人の関係を考える場合、丹塗り矢型の神話だけでなく、恋山型のそれも重要だと思います。

[4120] Re[4118][4117]: 栗栖氏ご存知ありませんか  ごん太 2003/05/12(Mon) 19:17 [Reply]
 こんにちは。

 突然の書き込みにもかかわらず、早速のコメントをいただき大変嬉しく思っいます。これから教えていただいた情報をありがたく活用させていただきますが、取り急ぎお礼申し上げます。

 「栗栖」なんですが、地名としては常陸、丹波、尾張等にもある様で何か
関係があるかも知れません。なお、広島県北部の一部ではやたらと栗栖姓が
多い村とか有ります。

 ありがとうございました。

[4119] Re[4116]: そのー  kokoro [Mail] 2003/05/11(Sun) 22:15 [Reply]
 ご教示、ありがとうございます。お手間をとらせました。丹生神社があっても、なくても、丹生という地名がある以上、近江の息長丹生氏を考証した論旨は、損なわれないと思います。ご無礼しました。m(__)m

[4118] Re[4117]: 栗栖氏ご存知ありませんか  神奈備 2003/05/11(Sun) 21:29 [Reply]
>  はじめまして(突然の書き込みで恐縮しています)。
こんばんは。

http://www.kamnavi.net/log/kam1301.htm
h13.2.13 に kokoroさんから「紀州海人について」のご投稿を頂いています。
ここに埼玉県の秩父郡大滝村の千島家の件について、紀州の山中からの移住について触れておられます。
猪鼻王子社の付近は栗栖川が流れています。熊野川沿いにも栗栖が多いようです。

 紀州から武蔵への移住は相当な昔から行われていたようで、中世には丹治氏が移住、武蔵七党の一の丹党を形成しているようです。

> 何か両国の栗栖氏を結び付ける情報が有りましたら宜しくお願いします。
直接的に紀州と武蔵の栗栖をつなぐ資料は持ち合わせておりません。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html
のなにがしさんがお詳しいかも。

[4117] 栗栖氏ご存知ありませんか  ごん太 [Mail] 2003/05/11(Sun) 18:56 [Reply]
 はじめまして(突然の書き込みで恐縮しています)。

 私は中世日本史に興味があって、今は鎌倉〜室町時代の安芸国衆「栗栖氏」を調べています。
 インターネットで検索した際に、こちらの過去ログで「栗栖氏」を拝見したので、書き込みをさせていただきました。安芸国衆「栗栖氏」(私の先祖とは関係有りま
せん)を知りたく思っています。以下は私が調べた内容ですが、何か情報をいただ
ければ幸いです。

<安芸国衆「栗栖氏」>

 1429年頃に滅んでいるため、現在文献で確認出来るのは厳島神社に奉納した
記録程度です、口碑によるものを含め概要は…

 1311年頃に栗栖清親(安芸国栗栖氏初代)が安芸国に下向(地頭職を得た時期は
不明)した。安芸国で地頭職を得ていたのは、同国の太田庄13カ村および奥山
庄24カ村。
 安芸国栗栖氏二代目の親命が発坂(ほつさか)城を築く。他にも一族の小坂氏が
小坂(おざか)城を築いたりとか、支城群もあった様である。
 南北朝の頃は栗栖権頭親忠で、隣の安芸吉川氏と共に北朝方だったが、南朝
方の石見国毛原庄(島根県那賀郡・邑智郡)地頭の今市城主福屋木工丞と
「栗福合戦」(1421〜1429年の8年間)を行い、最後は篭城するが破れて栗栖親忠ら8名は自刃し、安芸国栗栖氏滅亡。

 尊卑分脈(?メモをとっていなかったので別の系図だったかも)では藤姓になっていた
様に思いますが、関東から来た武士だと思って調べてみたところ、鎌倉期に下野国
南東部の端に児玉党(武蔵七党)の一族で栗栖氏を発見しました。が、紀伊から下向
して来たとの情報も有り、意外に思っています。
 こちらの掲示板の過去ログ(平成12年末頃)では紀州の栗栖氏につい書き込みが
有りましたので、何か両国の栗栖氏を結び付ける情報が有りましたら宜しくお願いします。

[4116] そのー  神奈備 2003/05/11(Sun) 09:59 [Reply]
 霊仙は近江での最高峰だったか二番目だったか、昔登った記憶があり、丹生なる地名には記憶がありました。神社の鎮座や寺院の跡もあったのかも知れませんが、鱒の料理にしか関心がない頃でした。

> 米原町上丹生には、神明神社
 松田壽男著『古代の朱』からの情報です。
 米原町の丹生神社は東海道醒ヶ井駅から南行する。駅から丹生谷にはいって下丹生を経、上丹生まで3キロ。鈴鹿山脈の北端の霊仙山にとりついた地点である。ここから霊仙山の西腰の山道をとって直進すると多賀町の入谷に出る。これも丹生谷であろう。このへんに丹生氏が居住したことは、醒ヶ井駅の北に息長などの古い名が残っていることからも推測できよう。

 平成データでは、神明神社は検索できるのですが、その由緒はインプットされていません。滋賀県の神社で見せてもらった『神社誌』で確認はいたしました。

> 丹生川上流域にも、その拠点という伝承があるのですね。
直接には承知しておりませんが、霊仙寺に関係があると思われる霊仙三蔵の本名は息長丹生真人長人と云うそうで、丹生川の上流下流に息長が息づいており、一つの拠点だったと見てよろしいかと。

[4115] Re[4114][4112][4110]: あのー  kokoro [Mail] 2003/05/11(Sun) 00:03 [Reply]
> 滋賀県坂田郡米原町上丹生に丹生神社が鎮座、

 米原町上丹生には、神明神社が鎮座していますが、社伝につぎのようにありました。

「一説に越智泰澄の開基した霊山寺の鎮守で、弘仁二年再興の丹生神とは、当社であると伝えられる。(『志賀県神社誌』P458)」

なるほど!これのことですね。恐れ入ります。


> また息長氏の拠点ともされます。

 息長氏の伝承は、現在の行政区分でいうと、近江町や山東町に多い感じがしますが、丹生川上流域にも、その拠点という伝承があるのですね。私は近江の古代史に興味をもっているのですが、出典は『平成祭りデータ』か何かでしょうか。できれば教えて下さい。

[4114] Re[4112][4110]: あのー  神奈備 2003/05/10(Sat) 21:36 [Reply]
>  近江の息長丹生氏≠チて、何なんですか。(^^;

『新撰姓氏録』の 右京皇別 に

息長丹生真人  息長真人と同じ祖 

左京皇別 に

息長真人 誉田天皇の皇子、稚渟毛二俣王の後

とあります。JR醒ヶ井の南に丹生川、これは天野川の上流。
滋賀県坂田郡米原町上丹生に丹生神社が鎮座、また息長氏の拠点ともされます。
息長氏の中で丹砂採掘に従事した氏族の呼称かもしれませんね。

[4113] 我ら一族  kamo 2003/05/10(Sat) 21:04 [Reply]
我ら一族は、鴨族の分流です。

[4112] Re[4110]: あのー  kokoro [Mail] 2003/05/10(Sat) 20:59 [Reply]
 スミマセン

> 近江の息長丹生氏との関連かも知れませんね。

 近江の息長丹生氏≠チて、何なんですか。(^^;

[4111] 歴史観  マルヤ 2003/05/09(Fri) 22:10 [Reply]
神奈備さん、ありがとうございます。
kokoroさん、お久しぶりです。
私は感覚人間ですので、緻密な論理を展開して記述することが苦手です。それでいつも直感や想像で物事を判断する傾向があります。と言うよりも知識の背景が浅薄で、その能力に欠けているのかも知れません。
そのような訳で、いつも皆様の書き込みを拝見して勉強させて頂いているのが実情なんです。

「古代史から日本を読む」という対談集のなかで、
「実証を抜きにして学問は成り立たないので、実証そのものは非常に大切ですけれど、それだけでは歴史は書けない。歴史をどう考えるか、どう見るかと言うこと、それからどう叙述するかということ、そこには歴史するものの洞察力がはいってきます。ですから歴史家とは、歴史分析の方法と、歴史叙述と、そして歴史観、この三つを備えた人でしょうね」…と上田正昭氏は司馬遼太郎氏に語っています。

これは歴史に興味をもつ者にとって、的確な指針になる大事な考え方だと思いますが、自分にあるのは歴史観(と言っても自分勝手な想像)だけです。実証なんてとても、論証も勿論できません。それで私が歴史的な物事を書く場合はアホクサの範疇に入ってしまいます。それでフィクションでも良い「物語り」で、自分の考えを述べて行きたいと思っています。
でもこれは自信のなさの“逃げ”かも知れませんね。

[4110] 南山城  神奈備 2003/05/09(Fri) 09:24 [Reply]
> 「蜘」「蛛」の漢字の虫偏を取り、逆に読めば朱智となります。
着眼ですね。hyhvさんを思い出しました。

> 赤銅八十梟帥(ヤソノタケル)も同様と思うのですが如何でしょう。
近くの城陽市平川に平井神社が鎮座、祭神に八十猛命の名が見えて、五十猛命だろうと思っていましたが、八十梟帥であってもいいですね。

> ツチグモは、まつろわぬ部族として、葛で絡め取られたりして誅されました
葛城地方に墓標がありますが、仁徳皇后の磐之媛はこの辺りに退避しており、葛城とのつながりを思います。 
葛城と筒城、クズとツツ、迦具夜比売命の竹の要素を加味すれば、同根かも。

> 水銀「朱」との関わりから、丹生族とのつながりも考えられそうです。
息長氏の拠点と残照と思われる息長山普賢寺が鎮座、もっと登れば朱智神社です。近江の息長丹生氏との関連かも知れませんね。

> 大和東部に居住した縄文的生活者
山地生活者のイメージでしょうか。生活様式は現在でも違うと云うか、最近までは大きく違っていた生活と言えるでしょうね。武埴安彦の叛乱などの舞台となっている伝承もありますように、「まつろわぬ」気風の地域だったのかも知れませんね。
 それが王権交替の息長帯姫や継体天皇の拠点ともなった素地かも。

 朱智神社から北西の枚方へ行けば縄文遺跡で有名な三宮神社が鎮座、いずれにしろ早期にこの辺りに移り住んだ人々は今の山地しか住めなかったのではと思います。平地は河川の氾濫、湿地帯、危なそうですね。

[4109] Re[4108][4100]: 朱智神社について  kokoro [Mail] 2003/05/09(Fri) 00:02 [Reply]
 マルヤさん、お久しぶりです。

> 朱智神社を奉祭した部族は「土蜘蛛」かも知れません。「蜘」「蛛」の漢字の虫偏を取り、逆に読めば朱智となります。

 面白い意見をご紹介くださいました。ありがとうございます。


> 吉野の古代三部族(苞苴担、井光、石押分)のうち、井光と石押分はツチグモと同族ではないでしょうか。
> 厳密に言えば彼等もまた渡来人で、いわゆる土人(原住民)ではなかったかも知れません。
> 赤銅八十梟帥(ヤソノタケル)も同様と思うのですが如何でしょう。

 こうした見解は、私も同意見です。彼等には、何となく、「大和東部に居住した縄文的生活者」というイメージで語られる傾向がありますが(実は、以前は私も、そのようなことをここに書いたことがあるのですが…)、4月29日の[4083]で書いたとおり、 やはり彼等は、『魏志倭人伝』に記事のある、倭人とよばれた古い渡来人の末裔として捉えるべきと思います。彼等は紀ノ川を遡って、吉野に入り、そこから宇陀や都祁野等へと広がったと思われ、和歌山県にくず神社があるのも、そうしたことによるのではなかったでしょうか。

 ただ、今のところ私は、このことを邪馬台国や神武東征の問題と、性急に結びつける気はありません。

[4108] Re[4100]: 朱智神社について  マルヤ 2003/05/08(Thu) 22:42 [Reply]

> …朱智(ないちんしゅち)と言うとあり、狛人が渡来して綴喜郡の大和山城河内の境界の山岳にたむろしたのかも知れません。彼らが息長氏や秦氏と結びついて、王権の中枢を形成またはくい込んだのかも。
> 朱智神社では白髪の老翁の姿をした神が出現、素盞嗚尊を名乗ったとあります。この神社の鎮座する高ヶ峰からは山背街道がよく見える交通の要所で、要害と言える立地です。

神奈備さん、こんばんは。
朱智神社を奉祭した部族は「土蜘蛛」かも知れません。
「蜘」「蛛」の漢字の虫偏を取り、逆に読めば朱智となります。
この意味のことは小林惠子氏の著作でも読んだような気がします。
ツチグモは、まつろわぬ部族として、葛で絡め取られたりして誅されましたが、穴居生活をしていたか或は採鉱を生業としていたかの先住渡来人ではないかとも思えます。
水銀「朱」との関わりから、丹生族とのつながりも考えられそうです。
吉野の古代三部族(苞苴担、井光、石押分)のうち、井光と石押分はツチグモと同族ではないでしょうか。
厳密に言えば彼等もまた渡来人で、いわゆる土人(原住民)ではなかったかも知れません。
赤銅八十梟帥(ヤソノタケル)も同様と思うのですが如何でしょう。
また、ヤソノタケルは素戔嗚尊ともイメージが重なるように私には思えます。ここまでくるとホントにアホクサですね。

[4107] Re[4106]丹生川上神社    神奈備 2003/05/08(Thu) 21:54 [Reply]
 皆さんのおかげです。社叢がなくなったので見えてきたとも言えますね。

 堤防などがない時代、河川はおおむね蛇行しているように思われます。洪水などがあると曲がり角の外側が一層けずられて蛇行がひどくなります。曲がり角に巨石があると削られるのがとまります。曲がり角の外側には往々にして巨石が現れるのはそのためではないでしょうか。
 山頂の磐座も土の部分が流れてしまい、磐が残り、やがて山頂になる場合が多いのではないでしょうか。

[4106] Re[4099][4098][4097][4096]: 丹生川上神社  マルヤ 2003/05/08(Thu) 21:33 [Reply]
> 丹生川上神社上社の付近が写っているHPを探して見ましたが、聖なるラインが写っているものはないようですね。
> どなたか写真をお持ちではないでしょうか。

やはり「神奈備掲示板」さんには、すぐに情報が寄せて頂けるようですね。
サン・グリーンさん、日出倭さん、バッチリですね。「別荘・写真掲示板」で拝見しました。
今からでも撮影できるかもしれない?行ってみようかと思っていたところです。ありがとうございます。

[4105] Re[4104][4103][4102][4101]: 丹生川上の対岸の石  サン・グリーン [Url] 2003/05/08(Thu) 11:40 [Reply]
>  流体力学的にはどうなんでしょうか。
>
そうなんです、その科学的な見地から物を分析することができない右脳人間なのですみません
でも、その熊本の方は、いまでも緑川を守る会をされていて、コンクリートの護岸工事をしないで自然のままで緑川を保護しようというグループの代表とのことでした。
お話によると、川はまっすぐだと流れが急で洪水の時には危険なので、護岸に大石を置いて流れを蛇行させて緩やかにしているそうです。
水が石にあたって、流れが穏やかになり、カーブするので蛇行が始まる。やがて対岸に砂が積もって舌状台地になっていく、その場所は古代人にとって生活するにも魚を採るにも適した場所となる。
ということなのかも?(あくまで私の想像ですが…)

それから、吉備のお話がでたのでご報告です。
吉備津神社お釜殿にご奉仕されていた阿曽女の中島和子さんが急逝されました。
月刊波動「神の波動を感じて生きる」9月号の取材を受けてくださった次の日でした。
29日お釜殿でお会いしたのが最後でした。かなりショックを受けました。悲しいです。
ご冥福をお祈りするとともに、神奈備一族のみなさまにもご報告申し上げます。

[4104] Re[4103][4102][4101]: 丹生川上の対岸の石  神奈備 2003/05/08(Thu) 08:48 [Reply]
> 丹生川の流れを穏やかにするために縄文人があの石を意図的にあの場所に置いたのではないかと思いました。
 
 流体力学的にはどうなんでしょうか。

 『日本書紀』仁徳天皇紀六七年に、吉備の中津の川嶋河の端に大蛇有りて人を苦しめる。時に路を行く人、其の処に触れて行けば、必ず毒を被りて死んでしまう。これに笠臣の祖、親、縣守、人と為りて勇ましくて力強し。川淵に臨みて三つの瓢を以て水に投げ入れて日わく。汝ら毒を吐きて路を行く旅人を苦しめる。余、汝ら、大蛇を殺さん。汝、この瓢を沈めば、余、避らん。沈むること能はずは、乃ち汝が身を斬さむ。
 同じ仁徳紀に茨田堤でやはり瓢が沈むか否かの占いの物語があります。

 瓢は一つの空間で魂(=神)が宿ることになります。神との戦いの物語です。おそらく磐座も神が宿る場所であって、洪水を起こす神を牽制する役割を見ていたのでしょう。

 余談ですが、丹後半島も瓢の形に見えませんかね。
やっぱり、青草がほしい所。

[4103] Re[4102][4101]: 丹生川上の対岸の石  サン・グリーン [Url] 2003/05/08(Thu) 07:45 [Reply]
> 早速、写真掲示板にアップさせて頂きました。
>
神奈備さま、さっそくアップして頂きありがとうございました。
ところで、この石のことですが、昨年幣立神宮に行ったとき出会った熊本の方から聞いた話なのですが、古代は川を制するために護岸に大きな石を埋めて流れを穏やかにさせる工法があったそうです、加藤清正が熊本の緑川の氾濫を抑えるために巨石を使っていたそうです。

その時、ちょうど丹生川上のことに関わっていたので、丹生川の流れを穏やかにするために縄文人があの石を意図的にあの場所に置いたのではないかと思いました。
実際、石の対岸(休社地)は川の流れがゆるいカーブになり、砂が積もって舌状台地になっているのです。そこにストーンサークルや縄文人のキャンプ地?小さな住居?が発掘されたというわけです。そして丹生川上上社の元社も重なるようにしてその上に建てられていたのです。
(神武天皇が大和に入る前に香具山の土を採って、はに土神事をしたのはこの舌状台地の場所に違いないと一人で思い込んでいます)

私は科学的な検証は苦手なので、その場所にたってふと感じた直感だけで、思い込んでしまうので、はっきりした確証がないのですが、一万年以上前にそこを聖地として暮らしていた人々が、対岸の石を拝み、そのライン上の山に昇る日や月を何かの目安(たぶん季節の)にして生活していたのではないかと想像しています。

また、あの川にはあゆが上ってくるのですが、あゆだけでなくそこに暮らしていた縄文の人々も海との繋がりをすごく感じます。それも熊野を通して琉球まで繋がっているような?龍の気配の濃厚な土地です。以前この掲示板にどなたかが大大和神社のタカオカミ社が丹生川上の元社と書かれていたように思うのですが、私は一万年前からの聖地だったこの地の龍をヌナキイリ姫が大和に勧請したのでは?と思っているのですが?確証がなくてすみません。

[4102] Re[4101]: 丹生川上の対岸の石  神奈備 2003/05/07(Wed) 22:04 [Reply]
> 参考になるかどうか判りませんがよかったら、写真別荘にアップしてください。

サン・グリーンさん ありがとうございます。
早速、写真掲示板にアップさせて頂きました。

[4101] 丹生川上の対岸の石  サン・グリーン [Url] 2003/05/07(Wed) 21:55 [Reply]
こんばんわ神奈備さま
話題に上っている対岸の石の露頭の写真ですが、川は写っていませんが、
縄文遺跡の出たストーンサークル付近から白屋岳山頂を写したものが一枚ありました。
今はダムに沈んでしまったと思うと寂しい限りです。
参考になるかどうか判りませんがよかったら、写真別荘にアップしてください。


[4100] 祇園石段下  神奈備 2003/05/07(Wed) 21:05 [Reply]
京都の八坂神社はかっては祇園社とか八坂郷感神院と言われていました。

朝鮮の江原道春川(ソウルを東に半分程行く)に在住していた狛人(後の八坂造)が渡来、八坂郷を開発。彼らの氏神だったとの由緒があります。
また斉明二年(656年)に高句麗からの使いの伊利之(イリシ)等が来朝、この時をもって創建との説があります。
一方、姫路の広峯神社から勧請したともされており、大阪の難波八坂神社や京都の粟田神社などの由緒ではそのように説明されています。どうやらこれは吉備真備の夢や播磨の陰陽師達の流布させた話だったようです。

最近耳にした話では同じく山城の朱智神社が元社で、ここから貞観二年(869年)祭神の迦爾米雷命を遷したとのことでした。朱智天王とされていたとか。
朱智は『三国史記、地理誌』に高霊加羅の始祖は、伊珍阿鼓(イジナゴ)あるいは、内珍朱智(ないちんしゅち)と言うとあり、狛人が渡来して綴喜郡の大和山城河内の境界の山岳にたむろしたのかも知れません。彼らが息長氏や秦氏と結びついて、王権の中枢を形成またはくい込んだのかも。

朱智神社では白髪の老翁の姿をした神が出現、素盞嗚尊を名乗ったとあります。この神社の鎮座する高ヶ峰からは山背街道がよく見える交通の要所で、要害と言える立地です。

[4099] Re[4098][4097][4096]: 丹生川上神社  神奈備 2003/05/07(Wed) 21:04 [Reply]
マルヤさん、こんばんは。

丹生川上神社上社の付近が写っているHPを探して見ましたが、聖なるラインが写っているものはないようですね。

http://www.y-morimoto.com/jinja22/niu_kami.html

http://thank-water.net/japanese/project/result20020825.htm

http://www.irorimura.com/s/nyuu.htm

どなたか写真をお持ちではないでしょうか。

[4098] Re[4097][4096]: 丹生川上神社  マルヤ [Url] 2003/05/07(Wed) 13:19 [Reply]
こんにちは。横から失礼して書き込ませて頂きます。

> > 「吉野川を隔ててその対岸の山肌には、巨岩の露頭があり、その背後の山は神奈備形を呈している。それらは、本殿・拝殿の中軸線の延長線上に存在し、平面的には拝殿・本殿・吉野川・磐座・神奈備が一直線にならんでおり、古式の信仰形態を今に伝える神社であると考えられる。」

旧・丹生川上神社上社には、ご遷座前二度参拝していますが、本殿背後の対岸の巨岩露頭には気付きませんでした。でも南向きの旧社殿は、背後の河川敷に鬱蒼とした社叢があり、そのうしろに吉野川、さらに後背には神奈備と目される白屋岳(標高:1176m)と、たしか南北の一直線上にあったと思います。
以前「井光の里」を案内していただいた方に電話でお聞きした話では、確かに吉野川対岸には巨岩の露頭が見てとれたと言われます。また川上村図書館で「橿考研」旧社地発掘資料が閲覧できるそうです。
(図書館は169号線川上村道の駅、次のトンネルを抜けてすぐ)
前宮司の三苫重格様にお訊ねすれば、なお詳しいことが分かるかも知れませんが、今は川上村にお住まいではなさそうです。

[4097] Re[4096]: 丹生川上神社  神奈備 2003/05/04(Sun) 20:35 [Reply]
なにがしさん こんばんは。
> 話はそれますがちなみに5月3日は確か狩場明神の命日だったかと。
 そうでしたか、ご先祖様の命日でしたか。
 最近埼玉の方から狩場明神についての問い合わせがあり、なにがしさんの物語を紹介いたしました。大変喜んでおられました。次回更新が楽しみですね。

> 「吉野川を隔ててその対岸の山肌には、巨岩の露頭があり、その背後の山は神奈備形を呈している。それらは、本殿・拝殿の中軸線の延長線上に存在し、平面的には拝殿・本殿・吉野川・磐座・神奈備が一直線にならんでおり、古式の信仰形態を今に伝える神社であると考えられる。」

 やはりこういうことには敏感に注目して神社巡りを行いたいですね。境内からでは逆に見えない事かも知れませんね。
 この前、川上鹿塩神社へ行きましたが、山頂の磐座を見ないままに帰りました。峠の山腹に鎮座してはいるのですが、鎮座の必然性が乏しいと思い、探してみたり、たまたま清掃を行っていた人(まさか神主さんではないと思いますが・・・)に尋ねたりしたのですが、そのような物はないとの事でしたが、文献では磐座信仰のようで、もっと真剣に探さねばと反省しています。

[4096] 丹生川上神社  なにがし 2003/05/04(Sun) 00:38 [Reply]
神奈備様
ごぶさたしております。私も「空海と高野山」展2週間前に行ってきました。それが目的ではなかったのですが、たまたまホテルについて2時間暇な時間が出来たので、ロビーをうろちょろしているとポスター発見。聞いてみると博物館はそのホテルのお隣という事で、丹生津姫のお導きと早速行きました。私もはじめて丹生津姫と狩場明神の絵を見ました。上になんと書いてあるのか読めなかったのが悔しい限りです。狩場明神をみて、あらおやじの顔とにてるねえと思ってしまいました。狩場明神様ごめんなさい。

話はそれますがちなみに5月3日は確か狩場明神の命日だったかと。

さて、本題に。以前こちらで丹生川上神社上社の話題があったかと思ったので、その時書き込めなかったので、時期はずれですがカキコさせて頂きます。
平成13年8月1日に発行されました「式内社のしおり(第64号)」に上社の発掘調査について報告が載っておりました(橋本裕行氏記述)。
それによると、その調査で検出された遺構としては、本殿・拝殿・末社・遥拝所・神饌所・鳥居等であったとのこと。また、奈良時代後半から平安時代前期の頃に祭場として意識されるようになったようです。そしてまた次のような記述もありました。
「吉野川を隔ててその対岸の山肌には、巨岩の露頭があり、その背後の山は神奈備形を呈している。それらは、本殿・拝殿の中軸線の延長線上に存在し、平面的には拝殿・本殿・吉野川・磐座・神奈備が一直線にならんでおり、古式の信仰形態を今に伝える神社であると考えられる。」
ご参考になればと存じます。
個人的には、巨岩の露頭が気になるところ(人々にとって崇拝に値する何かがあるのか?)ですが。
私はダムに沈む前に1度言ったことはありますが、すでにお社は移設されておりました。今はさらに景色が変わっているんでしょうね。なにやらさびしい気がします。

[4095] 丹生明神、狩場明神  神奈備 2003/05/03(Sat) 20:06 [Reply]
 三十三間堂の向かいの京都国立博物館で5月25日まで「空海と高野山」展が開かれています。高野山と言う霊峰の宝物が多く陳列されています。
かねてから一度見てみたいと思っていました丹生明神、狩場明神を描いた絵があり、来たかいがありました。古びていますが、重厚な色つかいの見事なものでした。丹生明神は王朝の女官のような衣装。
 薄暗い場内は満員でしたが、幸いもこの絵の所に立ち止まる人はほとんどいなかったので、ゆっくり拝見できました。

[4094] お答えありがとうございます。  市杵島姫 2003/05/02(Fri) 18:23 [Reply]
大三元さん、さっそくのお答えありがとうございます。
なにぶん、飯盛山という神奈備山にこだわって神社をまわったり山に登ったりしているものですから、質問が片寄っていてすみません。(特定の宗教にかたいれしたりという訳ではありません。私のライフワークです。ひとつの事を貫いて深く見つめていくと、神社とか自然信仰の本質のようなモノが見えてくる事もありますので、こだわっています。おたくパワー?です。)
飯盛を祭祀していた飯族を調べているうちに、「古代地名辞典」に辿り着き、「飯盛はイヒモリ」であり、「イヒ族はヒ族にイがついたものだ」という事と、「イヒ族は、ヒナとも呼ばれた。」という記述に出会いました。この辞典を読む前から、「飯盛はヒモリが変化したものだ」という仮説を私なりに立てていたので、それを裏付けてくれる内容に非常に興味を持ったわけです。この辞書には、「ヒナはシナとも発音された」という記述もありました。
「時代別国語辞典上代編」を読んで見ます。
今日は、出張先でこのサイトを読んでおりますので、もっと落ち着く時に改めて質問をまとめさせていただきます。よろしくお願いします。

[4093] Re[4092][4062][4061]: 倭姫命の歌碑  大三元 [Url] 2003/05/02(Fri) 10:59 [Reply]
市杵島姫さん、こんにちは。リファ、御質問ありがとうございます。

ご意見とご質問が混在しているように思えますが、ご質問が
「古代の接頭語・接尾語と枕詞の法則が解る文献があったら、教えて下さいませ。」
ということでしたら、上代語の文法書、とでも云うものでも探して御覧になれば宜しいのか、と思いますが、何が好いのか私も知りたいです。概説的には前回参照した「時代別国語辞典上代編」の解説、と、具体的な語彙として「い」(接頭語)を参照されるのは如何でしょうか。

ただ、上記の辞典でも、枕詞はかなり「意味、かかり方不明」ということになってるようです。

上記辞典では「シナサカル」が越の枕詞とされています。『初期天皇后妃の謎』でも「シナ、オシ、テル」あたりの語彙を考察した一節がありますので、御覧頂ければ幸いです。

ヒナサカル、シナサカル(越)、シナテル(片岡)、日名照、シナタツ(筑摩)、シナダユフ(楽浪道)、あたりが総合的に理解できる解が欲しいと思っています。(ヒナサカルが、先住民が後発隊に駆逐されたから、という意味づけの適否を問うもの)

また、弥彦神社の伝承と思しきものに、紀伊熊野に居た高倉下が神武天皇の命により越を治めることになった、というものがあり(信頼度は不明)、高倉下が先住民で、後発隊に追い払われたのかどうかは判りませんが、紀伊半島から越への移住、という伝承があるようではあります。

> ヒという音には前にイがつくか、後にナ(ラ)がつくというのを昭和4年に出版された「古語地名辞典」で見つけました。

これはどういう意味でしょうか。
・地名に イヒ ヒナ(ヒラ)が多い、ということに過ぎない?
・前にイがつくのはヒだけ?(そんなこともあるまい)
・後にナ(ラ)が付くのはヒだけ?(そんなこともあるまい)
・接頭語とした見た場合のイの意味は?
・接尾語として見た場合のナ(ラ)の意味は?


[4092] Re[4062][4061]: 倭姫命の歌碑  市杵島姫 [Mail] 2003/05/01(Thu) 02:56 [Reply]
割り込みで、失礼します。遡って大三元さんに質問させて下さい。
> 理由は『時代別国語大辞典・上代編』に「おすひ」の項があり「枕詞 地名飯高に掛かる。かかりかた未詳。」とあり、また、「いすひ」という項目がないからです。
> そうすると「飯高」の意味も(従来は字面から稲、米、メシへの連想が強い訳ですが)「い・日高」という分解が出来ないものか。「い」が接頭辞となるのは動詞に対してではあるが、「斎、忌」などの意味で「い」を冠することもある。>

以前から、「飯=イ・ヒ=ヒ・ナ」だとは思っていたのですが、接頭語と接尾語の成り立ちが門外漢でよく解りませんので、ご教示いただければ幸いです。ヒという音には前にイがつくか、後にナ(ラ)がつくというのを昭和4年に出版された「古語地名辞典」で見つけました。ヒ族の事を書いた文献は殆んどありませんので、私としては、非常に注目した次第です。この古い辞書には、「ヒ族は、紀族に先んじてこの日本に渡来し、もっと先に渡来系していた越族を駆逐した。それ故にコシにかかる枕詞は、ヒナ避かるコシである。コシは、移動して越のクニを作った。」という内容が書いてあったのです。実際、私は全国に300個以上の飯族の祭祀跡を見つけ出していますが、全くそれが存在しない地域が石川・岐阜・福井にまたがる一帯の地域で、代わりに白山がたくさんあります。隣の新潟が越後ってからには、この地域にはコシがいたのではという実感があります。東北も、岩手以北の黒森がある所には、あまり飯森はありません。この「白と黒の領域」には飯族は侵入できなかった模様です。「ヒナ避かるコシ」という枕言葉は、今まで聞いたこともなかったのですが。その辞典にはアマ族と紀族のことも載っていて、それぞれの族が支配権を握った順に枕言葉を形成してました。古代の接頭語・接尾語と枕詞の法則が解る文献があったら、教えて下さいませ。




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