神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十五年 八月)お名前の敬称は省略しています。

[4489] Re[4488]: 「こしおう」  神奈備 2003/08/31(Sun) 21:39 [Reply]
『平成祭りCD』を玄松子さんの最新バージョンで使ってみるのが楽しみになりました。しばらく遊べそうですね。

○王の名を持つ神社をざーっと見てみますと
山王、風王、蔵王、福王、十王、龍王、産王、四王、医王、皇王、牛王、天王、柏王、宮王、神王、三王
と出てきます。
王の前の山、風などは固有名詞の地名のようには読みとりにくいのですが、断定しにくい所です。
○○王神社と二文字+王となるのはコシオウしか見あたりません。
越王でもなく胡の四王でもないのかも。

なお、掲示板の「森の東屋」さんに、儺負人さんのほぼ同じ内容の投稿を見かけています。
そこの管理人さんは「一つ一つ丹念に調べていく以外ないですよね」と的確な応答をされています。見習わなくては。ヘィ! 

[4488] 「こしおう」  玄松子 2003/08/31(Sun) 20:39 [Reply]
「こしおう」神社数(平成祭データより)。
古四王神社(14社):山形6、秋田7、福島1
高志王神社(4社):新潟2、福島2
胡四王神社(2社):岩手1、福島1
巨四王神社(1社):山形1
小徙王神社(1社):福島1

これらを同じ社とみるか違う社とみるかによりますが、同じだと仮定すると、「胡の四王」は難しいところですね。
古四王・高志王が、胡四王の訛りとする考えもありえますが、調査が必要です。

[4487] Re[4486]: 「こしおう」神社  習志野のてつ [Mail] 2003/08/31(Sun) 14:54 [Reply]
> 儺負人さん こんにちわ
横からのレスですが、「こしおう」の通説について

秋田県には、古四王神社が散見されます。
玄松子さんのHP・秋田市の旧國幣小社、古四王神社
http://www.genbu.net/data/dewa/kosiou_title.htm

社伝によると、…、阿部比羅夫征夷大将軍が下向の時、大彦命を合祀し、
越王(古四王)と称した…

この大彦命を越王(古四王こしおう)とするのが一般的です。
また殆どの古四王神社の祭神は大彦命です。  よろしく

[4486] 「こしおう」神社  儺負人 2003/08/30(Sat) 12:16 [Reply]
儺負人です。レス有難うございました。
蘇民祭については、その複雑な由来もあって、論点が多岐に渡るものと思われます。一つ一つそれを解きほぐすことが肝要と考えています。
レス中に出てきた胡四王神社にしても、越の王と読むのか、胡の四王と読むのか、いずれにしても意味深い名前です。こうしたことにも、せっかく地元のご好意で祭への出場を許された折には、思いを馳せて、調査を進めていきます。
今後とも宜しくお願いいたします。

[4485] Re[4484]: 山北八幡宮について  神奈備 2003/08/30(Sat) 07:33 [Reply]
瀬戸内さん おはようございます。

丸亀ですと、讃岐富士がよく見えるのでしょう。この山の周辺には飯神社とか伊勢神社とかが取り囲むように鎮座していますね。

『平成データ』山北八幡神社の「参拝のしおり」から

 かっては丸亀城の北にあったが、慶長7年国守生駒一正が西讃鎮護のため、亀山に築城の際、麓にあったのを移転すべく遷座地を物色中、柞原郷玉子森の松の上にさん然と輝く光が現われ終夜照らし続けた。
一正はこれこそ八幡宮のお告げとこの地に遷宮した。
光り輝いた松は「神光松」と名付けられ今も境内に残っている。
以上

とあります。柞原郷の地名は、大分市大字上八幡の柞原八幡宮を思い起こします。由緒は創建 天長四年(八二七)、延暦寺の名僧・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り柞原山に勧請したのを、当宮の創建の起原とする。以上

> 時間はたっぷりあるものですから
図書館か香川県神社庁へ行かれたら、『香川県神社誌』のような書籍などがあると思います。
 讃岐のおもしろそうな由緒の神社や五十猛命をお祭りしている神社名を教えて頂ければ幸甚です。

[4484] 山北八幡宮について  瀬戸内 [Mail] 2003/08/29(Fri) 23:06 [Reply]
前略
小生 今年1月に博多での5年の単身生活に区切り(退職)をつけ、田舎の讃岐丸亀に帰っております。
現在 求職中で、お金は有りませんが、時間はたっぷりあるものですから、時々
神社仏閣に詣でております。
博多時代から、八幡宮によく行っておりましたが、当地(丸亀)にも山北(ヤマノキタ)八幡があり、時々 参っております。
田舎の神社ですから、普通の日の午後は、人が少なく 心が落ち着きます。
今の私にとっては、心のオアシスといった場所です。

そこで お願いですが この山北八幡宮について由来等 ご存知の方がおられましたら ご教示の程、お願い申しあげます。
                                  以上

[4483] 別荘の宗像宮から。  神奈備 2003/08/29(Fri) 19:49 [Reply]
 遠賀川流域の地名が『先代旧事本紀』の物部氏族名に合致するのが多いですね。それが河内大和にも多く見られるようです。
鳥越憲三郎氏は遠賀川式土器の河内への移動と期を一にして物部氏東遷、饒速日尊の哮ヶ峰への降臨へと説きおこしています。

 一方、谷川健一氏は九州でも物部氏の本拠を有明海方面に見ておられ、磐井の乱の際に、麁鹿火が帯同した物部氏族が東から九州へ移動して来て、留まったと見ておられます。

 物部氏にはあまり目立った女神が見えないようで、父権の強い民族の流れ、北方系のように見えます。大陸から高句麗経由の民かも知れませんね。そうすると、九州で留まってかた、東へ移動するのと見るのが自然かも。

 秋田山形の県境の鳥海山(これをトミ山と読める)に降臨、とすれば、継体天皇が東国から連れてきた武士団と見ることも可能ですが、やはり九州ルーツの確率が高そうですね。

[4482] Re[4481]: マヤ占い  神奈備 2003/08/29(Fri) 18:36 [Reply]
> マヤ占
アロヒナニさん ありがとうございます。

> ふだんの整理が大切。
神社で頂いた由緒書きは保管はしているのですが、探すとなるとひと騒動。

 皆さんはどのようにして整理されているのかな。

[4481] マヤ占い  アロヒナニ [Url] 2003/08/29(Fri) 11:44 [Reply]
神奈備さん、こんにちわ。
先日、お誕生日をうかがいましたので、マヤ占いをしました。
その結果です。
神奈備さんは「黄色い倍音の種」
★あなたは、知識欲が旺盛な人。活発にさまざまなものを吸収できる。
ただし、ふだんの整理が大切。消化不良を起こさないように、やるべき
ことの優先順位を決めよう。

銀河の音程と、太陽の紋章があるのです。
音程は、真ん中の部分、神奈備さんは「倍音」
倍音のキーワードは「輝きを授ける」「指揮する」
太陽の紋章は、郁子さんは「黄色い種」
黄色いの種のキーワードは「認識」「開花」「目指す」
です。

ちなみに、旅行でご一緒した殿さんは、「黄色い磁気の種」なので、
神奈備さんと「黄色い種」が一緒ですね!
詳しくはこちら
http://www2.voice-system.com/voice/mayan1/user/comment.html

[4480] Re[4479]: こんにちわ〜  神奈備 2003/08/28(Thu) 12:25 [Reply]
アロヒナニさん いらっしゃい。
創世神話から。
カネ……創造の神。ポー(暗黙)から生まれた。森羅万象の神。
クー……戦いの神。山、森の神。
ロノ……豊穣の神。雨、収穫、平和の神。
カナロア……死後の世界の神。海の神と伝えられることもあります。

日の神に相当しそうな神様はいないのですね。ハワイでは当たり前すぎる存在なのでしょうね。
カナロアに月夜見神や素盞嗚尊の姿が見えるようですね。

[4479] こんにちわ〜  アロヒナニ [Url] 2003/08/28(Thu) 11:13 [Reply]
神奈備さま、先日はお世話になりました。
それにしても、このHPの情報量はすごいですね!
ボチボチ拝見したいと思っています。
ハワイ神話も面白いですよ〜。

[4478] Re[4477]: はじめまして・・・  神奈備 2003/08/28(Thu) 10:44 [Reply]
悪路王、阿具呂王、蝦夷の英雄なんでしょうね。王権側からが、とんでもない疫病神だった。
儺負人さん こんにちは。
蘇民将来とのつながり、意表をつかれたおもいです。
で、祭礼名に「蘇民」がある神社を調べて見ました。
この調査は、神社本庁の『平成祭礼データCD』と玄松子さんの作成になるWin版検索ソフトを活用いたしております。

早池峯神社 3月17日 春祭 岩手県稗貫郡大迫町内川目1-1
胡四王神社 1月 2日 蘇民祭 岩手県花巻市矢沢第3地割160
熊野神社  1月14日 蘇民祭 岩手県江刺市伊手字角屋138番イ号
興田神社  1月 7日 蘇民祭 岩手県東磐井郡大東町鳥海字小山38番地
菅原神社  3月春分 蘇民将来子孫門 9月秋分 蘇民将来子孫門 秋田県鹿角市八幡平字天神館32
篠束神社摂社蘇民神社 1月11日 蘇民神社例祭 4月 1日 蘇民神社祭 愛知県宝飯郡小坂井町大字篠束字西宮28
舟城神社摂社蘓民神社 9月中旬 蘇民まつり 兵庫県氷上郡春日町長王字ハチマン山1288-1

由緒に「悪路王」と言う文字の入っている神社 同上で検索 この機能は凄い。

長嶺神社「猿田彦命 」岩手県岩手郡松尾村大字松尾第4地割60
長嶺神社は長者屋敷とも呼ばれ、奈良朝の時代、高丸悪路の子、登鬼盛の居城にして世に登鬼盛長者屋敷とも呼ばれる。登鬼盛は掠め集めたる財宝の取締役であった。名家神子田多賀康の姫岩花、家宝お釜と共に幽閉せられし場所にして、御釜屋敷とも呼ぶ。天朝の命による坂上田村麻呂征夷大将軍の節刀を受け、悪運つきここに亡落す。かたわらに湧きいづる霊泉清水にて将軍が血染めの太刀を洗い清めたるが故に太刀清水ともいう。境内の岩場から湧きいづる神秘的な清水は「岩手の名水20選」にも認められる程である。水不足の際、お釜の水をかきまわすや降雨疑いなしと言い伝えあり、春の花見、8月の長嶺神社例祭、秋の紅葉たけなわなる頃はもとより、長者屋敷清水の御利益を願う人々の絶える事はない。

八幡神社 宮城県栗原郡金成町末野字若宮25
一.鎮座地 金成町末野字若宮二五
二.御祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇
三.祭礼日 九月十三日
四.創 祀 奈良時代延暦十年(七九一)坂上田村麿の建立と伝えられている。悪路王大嶽丸を討伐のためこの地に滞陣中祭壇を設けて誉田別尊を祀り武運長久を祈願した所であるという。(口碑)
五.社 殿 拝殿三間社瓦葺入母屋造、一間向拝、本殿一間社流造
六.境内社 金比羅神社、一間社瓦葺流造
七.社 宝 大嶽丸の口骨、その大嶽丸が射とめた龍の牙、また源義家の陣太刀(前九年の役に祈願奉納)、伊達吉村(五代藩主)の詠歌、仏像画、冠(家臣による祈願奉納)等が古文書と共に現存されている。

[4477] はじめまして・・・  儺負人 2003/08/28(Thu) 00:23 [Reply]
 はじめまして、儺負人(なおいにん)と申します。宜しくお願いします。
 プロフは以下の通りです。
生年月日 昭和4X年7月20日
生まれ  愛知県 稲沢市      現住所  横浜市
職業   3年前サラリーマン卒業後 有資格自営業
趣味   アメリカンフットボール・ラグビー・オージーボール
      →前2つは体育会等で部員歴有
     ダイビング・ライフセービング(海水浴場監視救助員)
     全国の(裸)祭への出場
 裸祭への出場は本当に多いです。もともと生まれが稲沢なので、小さい頃から国府宮はだか祭に有無を言わさず参加させられました。最初はいやいやでしたが、中学以降打ち込んだラグビー等のスポーツに似ていることと、酒が飲める年頃になったので、今や国府宮のみならず北は岩手(花巻・胡四王神社蘇民祭)から西は熊本(長洲・四王子神社的ばかい)まで年十箇所程度出向いています。↓は今年の筥崎宮玉せせりに出場したときの写真で、肩車されている人の2人後ろの全身映っている男が私です。
http://mfeed.asahi.com/newsphoto/0110/2003011006.html

 祭には自ら出場して体ごとぶつかって楽しむほかに、その祭の由来とか祖形についても興味を持っています。もとよりこのサイトに投稿されておられる皆様程の専門知識は持ち合わせていませんので、本当に素朴な疑問レベルなことばかりです。目下興味を抱いているのは、以下の裸祭についてです。
・岩手・水沢黒石寺蘇民祭
 ・この祭の主題の一つは悪路王(蝦夷の酋長?)との争いと言われているが、奈 良末期から平安初期のこの地(奥六郡地方)の大和朝廷と蝦夷との抗争の実態は どのようなものだったのか
 ・蘇民祭は北上川一体にいくつか行われているが、蘇民信仰の全体像はどの様な ものだったのか
 ・悪路王と蘇民将来伝説とは全く関係ないが、どの様にして習合したのか
・国府宮はだか祭
 ・本当にこの祭の主題は人身御供なのか 地元を生まれ故郷とする私としては、 感情的にはよそ者の学者先生にそんな風に決め付けて欲しくない たとえそう  だとしても、それゆえに野蛮視されるのは我慢ならない 特に今年は出場者に  死亡事故まで起こしてしまい、しかもそれが私の目の前だったので(私も骨折  した)尚更分かっていない一般の人から非難の投書が多く、嘆かわしい
 ・この祭が現在のような裸祭になったのは江戸末期から明治時代にかけてのこと だそうだが、特にこの祭の起こった8世紀ごろの祖形はどの様なものだったのか またなぜ裸祭になったのか
こうしたことに興味を持ち、私なりに本を読みながらまったりと調べています。いつか愚考を発表できれば・・・と思っています。もちろん祭の起源を知ることは、その主催する寺社自体の起源や歴史を抜きには不可能と考えます。以下の本を主に読んでいます。
・「まつり伝承論」 茂木 栄著 大明堂
・「黒石寺蘇民祭」 末武 保政著 文化総合出版 
初投稿なのに長々書き込み申し訳ありません。こんな風にデリカシーに欠ける私ですが、今後とも宜しくお願いします。      

[4476] Re[4475]: 古表&古要社の傀儡子神名について  神奈備 2003/08/26(Tue) 22:39 [Reply]
 日雲さんの調査旅行、凄いですね、2週間にはびっくり。
> 現在伝わる傀儡子の神名から古代史を読み解こうとするのは、やはり困難
神々から古代史を解きほぐす、確かに難しいようで、逆に古代史から神社の歴史を探っていくことの方が多いのかも。
 
> 「おんくろう」
お人形さんがあって、やはり顔も黒いとか。黒男神社の件、だいぶ前に話題になりました。
北九州から築後川を遡って日田から宇佐に到るコースと玄松子さんが見極めたルートに黒男神社が鎮座、祭神を建内宿禰命としています。
 土地柄から最強の神であっても不思議ではなさそうですね。イコール住吉大神と言うのも面白い。醜男神があるように黒男神があるのかも。
 日雲さんは「にポチポチ読んで行きます」 とのこと、その白星的成果を楽しみに致しております。

[4475] 古表&古要社の傀儡子神名について  日雲 2003/08/26(Tue) 17:12 [Reply]
こんにちは。
えー、先日北九州界隈に2週間ほど行ってきましたが、予定の一つであった「大分市の丹生と阿蘇の関係」につきましては、タイムアップで全く調べることが出来ませんでした。
それで随分昔のことになりますが、例の古表社の傀儡の神名について、ようやくある程度の調べがつきましたので、これについてご報告致します。
最初に言い訳しておきますと、ここまで遅れましたのは、「傀儡に付けられた神名はそう古いものではないのではないか」ということについて、結局、「神道民俗芸能の源流」以外の何で読んだのかを全く思い出せず、仕方がないので、その見解の拠りどころとなっているらしき「福岡県文化財調査報告書第十八輯」を入手しようと思ったものの、国会図書館でも所蔵しておらず、ならば福岡県立図書館はどうかと調べてみても貸し出し禁止になっており、これは向こうに飛ぶしかない、ということになりまして、今までそのまとまった時間が取れなかったためで御座います。

で、結論から申し上げますと――かの神名はいつからあったのか、ということについては、どうやら決定的な証拠となるものはないようです。
「福岡県文化財調査報告書第十八輯」(筑紫豊著)には、まず、
『浜田博士によれば、古表社の傀儡子に一々神名がついているのは俗説で、後の仕業であろうということになっているが、他面半田氏は、古要社の方に住吉・祇園二大神以外の神名がないことについて、これを記憶の喪失に帰しておられる』
――と両説あることを断った上で、続けて、
『しかるに、熊谷宮司の談話によれば、古要社の住吉・祇園二大神の神名は、古表社に見倣って付けたものであるということである。私は、今直ちに浜田博士の高説に盲従するものではないが、例の衣装箱蓋裏の墨書に、
(……その内容を引用。長いので中略……)
とあるのによって、元和の頃は、どうも傀儡子のそれぞれに神名を附していた様子はなかったようである』
――としています。
大分県中津市の古要社の方では、本殿や摂末社に住吉神が祀られている様子もないので、『古表社に見倣って〜』というのは、案外正確な伝えであるのかも知れません(境内の隅に「諸神合祀」という札の掲げられた積み石のようなものがあり、この中に住吉も混じっていたのか? と思えなくもないですが、いずれにせよそれでは扱いが小さすぎます)。

一方、その執筆された年代は解りませんが、京都界隈にあるのであろう離宮八幡の方を見てみますと、「山城名勝志」に引用されているらしき「八幡離宮遷座記」には(「山城名勝志」は宝永2年=1705年に刊行されたもののようです)、
『此祭に細男と云う両人形あり、是則武内明神高良明神也』
――とあるそうです。これについて浜田耕作博士は、
『固より格別注意を払うべき伝説ではあるまい』
としていますが、ともあれこうした伝説もあったようで、言葉は悪いですが、神名の命名はやはり結構いい加減なものだったのではなかろうか、という印象があります。

また、これは古要社側の氏子さんの言い分ですが、
『古表社の方の神相撲は演劇的になっている。ウチの方が古い形を保っている』
――とのことでした。筑紫氏も前記報告書で『平井氏が実見された昭和六年度の古表社の細男舞は御舞も神相撲も、すでにその番組、演技の手振りともに古式そのままでは興行され得なかった』と書いており、私はビデオで見ただけですが、なるほど笑いの取れそうなところは、半ばクドイほど積極的に笑いを取りにいっていたりして、結構エンターティンメントな演出が散見されるように思われました。
で、これはあくまで私の個人的な印象・推測ですが、どうも個々の神名というのは、「××対○○」といった相撲の取り組みを面白くするために、「境内に住吉社を祭る古表社側から出来上がっていったものではないか、それが古要社に伝わったのではないか」、という気が致しましたが――まぁこれはただのいい加減な推測ですね。
古表社に伺った時、丁度宮司さんがお留守でお話を伺えなかったので、古表社における住吉社が、昔からあんなに大きな扱いであったかどうかも確認出来ませんでしたし(古表社は現在、本殿の向かって右に傀儡子を祀る社、向かって左に住吉社、という「山」の字的シンメトリー状態になっています)。
ここの傀儡子の神名が後世(近代以降)に付けられたものであるにしても、
『元からあれだけ大きな社であったから、最強の神に住吉という名が付けられた』
――ような状況だったのか、それとも、
『最強の神に住吉という名が付けられてから、古表社で住吉社がよりクローズアップされ、あれほど大きな社で祀られるようになった』
のか、という二つの流れが基本的に考えられるかと思いますが、いつ頃から境内が現在のような形になったのか――ここのところが調べられなかったので、推測をするにしても、
甚だいい加減な形に終わらざるを得ない次第です。
が、しかし、往時の境内の配置のようなものが解ったところで、やはり神名の命名については推測の域は出ない訳で、かつ命名についての決定的な記録がある訳でもないという状況である以上、現在伝わる傀儡子の神名から古代史を読み解こうとするのは、やはり困難――というか、よしんば結果的にイイ感じに迫り得たとしても、それは『学術的な意味での有力な典拠とはし難いもの』ではないかという風に思われます。

しかし、古表&古要、その他にも謎は色々ありました。私的なネタとしては、
「『おいろかし』という傀儡子の衣装の虫干し神事を七夕の日に行うのは何故か」とか(これは同時に豊作祈願の神事でもあるそうですが)、
「『細男舞』や『神相撲』が始まる前、『御祓神』『獅子頭』に続いて登場して舞台の東西に控える『小豆童子』を『明けの明星』『宵の明星』というのは何故か」とか。
ツツノオ=星の男、というような海洋系の星信仰が、ここには色濃くあったのだろうか?
それが故の「住吉=おんくろう最強!」であったのなら、個人的にはなかなかオモロいのですが、そうやすやすと夢は見させてもらえませんね。『小豆童子』や『明けの明星』の名義がいつ頃からのものなのか、どちらの呼び名が先であったのか、などサッパリ解りませんし……。

では、最強の「御くろう」とは何ぞや? 
これだけは元から名前があった可能性はあるのではないか?
これと「黒男」は関係あるのかどうか、いやそもそも「黒男」とは何ぞや?
――ということについてですが、どうもこれはもっと深い藪の中のようです。
現在、「黒男神社」になっているものの中には、かつて「九郎(九郎天神というのも)」という表記であったものなどもあるようで、では、「九郎」というのは他に結構見られるのか、と調べてみると、これはこれで現在もチョイチョイあったりするようです。
じゃあ、黒男と九郎はどっちが古い表記なのか? というか、黒男と九郎は本当に元々同じものだったのか? というと、これがまたどうもよく解らないっぽい。その一方で「さぶろう天神」などというものもあるため、「黒男」と「九郎」は本来別のものであり、「九郎」が「黒男」にあやかって「黒男」化したものも中にはある、といった可能性もあります。
そうして「黒男」や「九郎」が「おんくろう」と関係あるか、また「黒男」と「九郎」が別物であった場合、「おんくろう」はどっちと関係があるのか、或いは両方ともと関係ないのか、となると、これはもう……?
宇佐神宮で武内宿禰を黒男という名称で祀るのは、「顔が黒かったからだと伝えられている」そうですが……これも……どうなのか……?
それが事実であるとするなら、当人が「ワシは自分が黒いことに誇りを持っておる。死んだら、黒男という名で祀ってくれ……!」といった遺言でも残してない限り、何か末代までのイジメに近い気が(;==

この辺りのことは謎々だらけのようです。
黒男界隈のことは、後日、改めてカキコしますが――いかんせん、コピーを無闇に取って来たはいいが、どうにかザッと整理が終わった程度のところで、まだまるでちゃんと読んでおりませんで。これから徐々にポチポチ読んで行きますので、しばらくお待ち下さい。

[4474] 月讀命=建速須佐之男命+大市姫命  神奈備 2003/08/22(Fri) 21:59 [Reply]
出羽三山神社の出羽の神はどうやらお稲荷さんと思われていたようだ。

現在の出羽神社の祭神は月讀命、伊テ波神、稻倉魂命、大己貴命。
一方、お膝元の鶴岡市に稲荷神社が幾つか鎮座、祭神は
一柱の場合、宇賀之御魂命、保食神など
三柱の場合、上記に素盞嗚尊と大市比売神、これは親神に当たる。
五柱の場合、更に五十猛命、大己貴命が加わるようだ。

鶴岡市内の稲荷神社が出羽神社から勧請されたもの(とは何処にも書いていないようだが)とすれば、次の式が成り立つ。

(出羽)月讀命、伊テ波神、稻倉魂命、大己貴命 
=(鶴岡)建速須佐之男命、大市姫命、五十猛命、稻倉魂命、大己貴命

この内、伊テ波神と五十猛命(伊太テ神)を似ているとして同一とすれば
月讀命=建速須佐之男命+大市姫命
となる。
稻倉魂命と大年神の親神と言うことになる。共に豊穣の実りの神、『日本書紀』で月夜見命が保食神を撃ち殺して、牛馬や穀類を生じさせているのは、理にかなった物語とも言えるのでは。

[4473] 越後出羽雨でした。  神奈備 2003/08/20(Wed) 20:41 [Reply]
月山には登れず、予定外の湯殿山神社を参拝。まさに玄松子さんの絵のようでした。
おそれ多くも御神体に裸足で登れるんです。その日はズート足が気持ちよく、鶴岡から弥彦まで汽車の旅も快適でした。
詳しい報告はそのうちHPで。

[4472] 通知  神奈備 2003/08/16(Sat) 07:26 [Reply]
38's SPECIALに通告します。貴殿にはいっさいの書き込みを禁止いたします。
38's SPECIAL、この人、メールアドレスも書かず、いつでも逃げるスタンスで卑怯なののしりを続けている。最低の部類の人間のようだ。マナーが守れない。
その人の大量のゴミ落書きがありました。今後も徹底的に消去いたします。

[4471] Re[4469]: 復活  神奈備 2003/08/14(Thu) 12:55 [Reply]
>  来週、出羽の月山へ予定しております。
>  月山神社の摂社に五十猛神社、大屋津姫神社、抓津姫神社があるようです。

月山神社様ならびに山濱様からメールを頂きました。ありがとうございます。

月山神社の末社(摂社ではありません)
五十猛神社・大屋津姫神社・抓津姫神社の3社は、
月山神社の御室の中(月山神社を石垣で囲んであります)に鎮座しております。

神社名の漢字ですが”つま”「抓」は「てへん」ではなく「きへん」を用いてるよう
です。

[4470] 邪馬台国には色々謎が  児島 [Mail] [Url] 2003/08/14(Thu) 08:57 [Reply]
8月11日に書き込みされました、邪馬台国ですけど、あなたの云われるのに
一理あると思います。
たしかに邪馬台国には神社もおおきく関わっています、祝詞が其中の一つ
他には祭神等の由来でどうしてここに祀られたかが、ヒントでしょう。
邪馬台国を知る為には約100以上は知っておかなくては見えてきません、
たとえば日本の時期による人物との関わり、万葉集、天皇、神様、言霊、
文献、遺跡、と沢山知らなければ判りません、考古学会が判らなかった
のもその為です、100以上の謎が解決してこそ邪馬台国に行き着けます
学者さんや、教育委員会文化財がこれまで邪馬台国に行き着かなかった
のはその根拠まで到達せず、考古学文献によって憶測や推測で語られて
いたから、一因に過ぎなかった訳です。考古学協会が発表をマスコミで
しないから、と云う理由で非難する方も見受けられますが、著作権と言
うものがありますので、素人の氏名を上げると名誉傷に関わり、邪馬
台国直前までを発表されたと言う事で皆さんに理解していただきたい。
怖いですよ考古学協会は、何か起こると責任とらされますからね。
ちょっといらないこと書きましたけど、神社も邪馬台国すなわち日本
の歴史の基本ですから調べる事は大切な事ですね。頑張って下さい。
立秋も過ぎて、秋の気配がちらほら見えて来る頃の,神社めぐりも、
また楽しみが、待っているかも。

[4469] 復活  神奈備 2003/08/13(Wed) 18:00 [Reply]
 来週、出羽の月山へ予定しております。
 月山神社の摂社に五十猛神社、大屋津姫神社、抓津姫神社があるようです。
 さて、月山のどの辺りに鎮座しているのかいなと思っています。
 何か情報をお持ちでしたら、ひとつ教えてやって下さい。

[4468] 見るだけよ  神奈備 2003/08/12(Tue) 11:52 [Reply]
8's SPECIALのハンドルネームの掲示板荒しが出ております。

38's SPECIALに通告します。貴殿にはいっさいの書き込みを禁止いたします。

なお、暫時、この掲示板は「見るだけ」にしております。

カキコ希望の方は、内容を席亭までメールして下さい。

[4467] Re[4464]: こんな神社があるよ  神奈備 2003/08/12(Tue) 09:13 [Reply]
御陵神社。祝川沿い鎮座のようですね。御陵、葬る、ハフリつながりでしょうか。
瀬織津比賣神、激しい流れに坐る祓いの神、または三途川のほとりの奪衣婆と見なされていますね。

> 病気平癒ほか、その力の凄さに圧倒されます。

逆説的で面白い。祟り神をして守り神にしてしまう人間の知恵を感じます。


エジプトがらみでしょうか、同一ネームで意味不明の書き込みが連続していましたので、お盆で暇な人の掲示板荒しとみて、全部消去いたしました。

[4466] Re[4460]: ささおどり  神奈備 2003/08/11(Mon) 19:11 [Reply]
なにがしさん お久しぶりです。漢字辞書の調子が悪いのですね。マルヤさん掲示板で拝見しております。

和歌山県伊都郡の丹生酒殿神社境内で行われる笹踊りが関西の某TV局が放映するかも知れないと言う事ですね。注意しておきます。できればビデオ。これは盆踊りの一種になっているようです。

[4465] Re[4462][4461]: 邪馬台国は奈良か?  神奈備 2003/08/11(Mon) 18:57 [Reply]
> 考古学・史学ではなく、神社学をもとに考察するのも面白いかも。
>
> でも、人に聞く前に、まず自分の考えを、先に述べるのが筋じゃないだろうか。

そう、お願いしたい所ですね。

神社で邪馬台国探し。 サンプル
登場人物が神として祀られたとして。

難升米 那足尼 那宿禰  ?
都市牛利  角凝命(和泉国日根郡 波太神社)  
伊支馬 伊古麻(大和国 平群郡 往馬坐伊古麻都比古神社)
弥馬獲支 御真木入彦(崇神天皇の名) (大和国式上郡 大神神社摂社天皇社) 
弥馬升 孝昭天皇の観松彦香殖稲 (近江国滋賀郡 神田神社摂社棋神社)

地名かも
奴佳て 額田 枚岡神社の南
邪馬台 大和神社

[4464] こんな神社があるよ  セオリツ 2003/08/11(Mon) 16:40 [Reply]
はじめまして、宮崎県の延岡市、大門(おおかど)町に、
御陵神社(ごりょうじんじゃ)という小さいですが、ご利益の大きい
神社があります。瀬織津比賣(せおりつひめ)がご祭神です。
今も、参拝者の方々にその力の凄さを見せられます。ここでは、
病気平癒ほか、その力の凄さに圧倒されます。
すごいですよ。

[4462] Re[4461]: 邪馬台国は奈良か?  玄松子 2003/08/11(Mon) 10:09 [Reply]
> 神奈備さんは邪馬台国は奈良とされていますけど、今もそうお思いですか?

邪馬台論争がはじまるのだろうか。
考古学・史学ではなく、神社学をもとに考察するのも面白いかも。

でも、人に聞く前に、まず自分の考えを、先に述べるのが筋じゃないだろうか。
「ホームページ作りは初心者」であっても、それが筋だと思うけどなぁ。

[4461] 邪馬台国は奈良か?  児島 [Mail] [Url] 2003/08/11(Mon) 09:09 [Reply]
神奈備さんは邪馬台国は奈良とされていますけど、今もそうお思いですか?
お尋ねします。
邪馬台国の時期はいつ頃と考えておられますか、
邪馬台国の王の名前は?邪馬台国は何時ごろまであったんでしょうかね?
神武東征はなかった事になっていますが、いかかお考えですか?

[4460] ささおどり  なにがし 2003/08/11(Mon) 00:30 [Reply]
ごぶさたしております。
8/16(ひる)わかやまけんいとぐんの「にゅうさかとのじんじゃ」にて「ささおどり」がほうのうされるんですけど、ことしは”おおさか”のTVきょくがくるらしい。どこのTVやろ。こっちではみられないとおもうのでさみしいです。

[4459] 御礼☆  ユアン [Mail] 2003/08/10(Sun) 01:53 [Reply]
kanetomoさん、神奈備さん、
空間神社に関する情報ありがとうございました。
地元のコトなのに勉強不足で恥ずかしいです。
空閑→空間で、くがと読むのですね。

[4459] 御礼☆  ユアン [Mail] 2003/08/10(Sun) 01:53 [Reply]
kanetomoさん、神奈備さん、
空間神社に関する情報ありがとうございました。
地元のコトなのに勉強不足で恥ずかしいです。
空閑→空間で、くがと読むのですね。

[4458] Re[4457]: 無題  神奈備 2003/08/09(Sat) 11:46 [Reply]
ありがとうございます。正鵠を得ているように思います。

肥後国に古閑の名を持つ神社が18社も鎮座、どうやら「こが」と訓む。
ここは昔は句奴国だったかも。クナ、クド。 → → コガ まで揺れて変わる ?
大和の久度神社の古開神、これが平野神社で古開神、クドから見れば古閑神の誤植もあり得ます。
埼玉県南埼玉郡菖蒲町の小林神社には今木神、久度神、古關神、比賣神が祀られていますが、この古關神は古開か古閑の変形。
空閑を空間と書いてしまうのは、あり得ることでしょうね。

[4457] 無題  kanetomo 2003/08/09(Sat) 10:43 [Reply]
http://members.jcom.home.ne.jp/1614661501/jinja/tanboo/tuyazaki/kuga.htm

上記URLでは、「福岡県宗像郡津屋崎町大字勝浦」の御鎮座で、やはり「空閑神社」と紹介されています。元々は「空閑神社」であり、それが「空間神社」とも記されるようになったのではと推測します。

見当違いな投稿なら恐縮です。

[4456] Re[4453] 空間神社  習志野のてつ [Mail] 2003/08/09(Sat) 08:51 [Reply]
> それでも空間神社…この漢字をあてた理由が謎というか、 うーん、やっぱり不思議。

 同感です。「空間」て言葉、「真空」なんかと同じで明治の物理学・書生言葉ってな感じです。
地図で見ると、古賀市(町?)との間には宮地嶽神社が聳えているようです。古賀とは必ずしも
結びつかないかもしれません。一度その空間神社近くの図書館で、調べてみては如何ですか。
神社の位置も祭神も変化しているかもしれません。
宗像大社の側に立派な図書館があったような…かすかな記憶が…

〔4454〕kanetomoさん、こんにちわ。 兼友?兼倶? 珍しい御名前ですね。

[4454] {  kanetomo 2003/08/08(Fri) 19:32 [Reply]
地名辞典には、『こが・くが』には、古賀、古閑、古河、古川、呉我、久我、高賀、古家、許我、久賀、久里、五賀、空閑、小賀などが存在すると記載されていますが、「空間」で『くが』とは珍しいですね。上掲では、「空閑」が近いでしょうか。

[4453] Re[4452][4451]: 空間神社  ユアン [Mail] 2003/08/08(Fri) 12:49 [Reply]
空間神社。海の神様系でしたか。
このご祭神をまつってなんでその名前なんだ?
って気がしますね(笑)
> 和名抄には渡来ッポイ地名が頻出という感じではなさそうですので、平安以降の地名かも知れませんね。
そうなんですか。ま、考えてみれば、
変わった地名くらいどこにでもありますよね。
勝浦という地名も神功皇后伝説系でしょうね。
だとしたら海の神がまつってあるのも道理ですし。
それでも空間神社…この漢字をあてた理由が謎というか、
うーん、やっぱり不思議。

[4452] Re[4451]: 空間神社  神奈備 2003/08/08(Fri) 06:30 [Reply]
神道の本質をネーミングしたような神社ですね、と思いきや・・・。

空間神社(くがじんじゃ)福岡県宗像郡津屋崎町大字勝浦2996
志賀三柱神 住吉三柱神 鹽土翁

近くに古賀町がありますね。
在自 金比羅さん、米多比は須賀神社と菅原神社、神社的には変わり映えのなさそうな・・
お寺に何かあるのかも。または関帝廟のようなものがあるにかも。
和名抄には渡来ッポイ地名が頻出という感じではなさそうですので、平安以降の地名かも知れませんね。

[4451] 空間神社  ユアン [Mail] 2003/08/07(Thu) 21:06 [Reply]
不思議な名前の神社を見つけました。
そして行ってみました。
空間神社。
土地の人に尋ねると、「くうかんじんじゃ」と
読むそうです。
御祭神とか、由来とかも聞いてみたんですが分かりませんでした。
福岡の津屋崎のあたりの神社なのですが、だれかご存知ないですか?

[4450] Re[4448]: 甕信仰  大三元 2003/08/07(Thu) 08:45 [Reply]
> 東国では、境界に甕(カメ)をうめるようです。

播磨風土記託賀郡法太里条にも、こんな記事がありますね。
 昔、丹波と播磨と国堺をしたとき、大甕をこの(国境?)上に堀り埋めて、国境と為した。それで、甕坂という。


[4449] Re[4448]: 甕信仰  神奈備 2003/08/07(Thu) 08:12 [Reply]
王権が祀ったとされる石上神宮の鳥居の近くから甕が出土しています。お神酒の醸造に使用されたものと見られています。

> 境界に甕(カメ)をうめるようです
境に甕を埋めたと云うことは、甕にお神酒を入れたものを埋めてお祭のための祭壇を設けたことをさしているのでしょうね。

 櫛は蛇の入れ物だったのは箸墓由緒で出てきますし、甕が蛇のゆりかごであったのは常陸風土記にありますね。蛇には櫛や甕がつきもの、甕に見放された蛇は天にも昇れない。

 三輪の神も王権が祀った神ですが、大田田根子に祀らせています。
大物主ー櫛御方ー飯肩巣見ー建甕槌ー意富多多泥古 ぞ。と名乗ります。祭祀集団の大神、鴨の祖です。
大物主櫛甕玉と名を称えて・・。櫛と甕で飾るのですね。青櫛甕?

[4448] 甕信仰  習志野のてつ [Mail] 2003/08/06(Wed) 11:24 [Reply]
東国では、境界に甕(カメ)をうめるようです。
で調べたところ、こんな記載があるHPがありました。

『朝廷で一般的だった「甕信仰」を東国へ持ち込んだとされる。古代社会でかめは、
ひつぎとして用いたり、食料や水を入れておいたりと、霊力ある存在として、信仰
の対象だった。かめが神の使いである蛇を封じ込めるというのは、大和朝廷が自ら
の信仰を持ち込み民を従わせ支配する、という構図に重なる。』
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/kikaku/018/14.htm

朝廷で一般的だった「甕信仰」ってどんなものでしょうか?
『…かめは、ひつぎとして用いたり…』って弥生時代の話だったと思うのですが。

[4447] Re[4446]: 重浪神社  神奈備 2003/08/04(Mon) 15:47 [Reply]
> 重浪神社についての、由来などを教えてくださいm(_ _)m

http://www.kamnavi.net/en/tajima.htm

に、簡単ですがありますよ。

[4446] 重浪神社  岡田 2003/08/04(Mon) 14:39 [Reply]
重浪神社についての、由来などを教えてくださいm(_ _)m
(早めにしていただければありがたいのですが)

[4444] Re[4442][4441][4440]: 都味の積か水鳥の味波か  神奈備 2003/08/03(Sun) 15:44 [Reply]
> だめ?


出雲国造神賀詞奏上は霊亀二年(716年)が文献上の初見。
この頃に鴨都波八重事代主命神社が鎮座していましたら、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せではなく、葛城の鴨の水端に坐せ、とでもやっていても不思議ではないですね。

高鴨の神と葛城の一言主神との混乱が土佐の方に見られ、と云う事は帰還した神も託宣の神で鴨氏に縁として事代主神が鴨の水端に祭られたとこも考えられますね。

高鴨味耜高彦根命 あぢすき  
鴨都味波八重事代主命  あぢなみ 水神、水鳥にふさわしい神名かも。

八咫烏命は賀茂建角身、こちらは大賀茂都美、元祖と本家?

[4443] 無題  大三元 2003/08/03(Sun) 11:51 [Reply]
実は、ここら辺の神名を
 鴨祇葉江事代主
という概念に統合出来ないものか、と思ったのですが、
前述のような言語的な障害があって、控えてきました。

ところが、この機会に「つみ」に相当する部分をもう少し調べてみると
「積羽」の「積」を四段活用の連用形「つみ」と解するなら、その「み」は甲類。
一方「都味」とも書かれるは乙類。 あれれ。
「積」が古形を正しく反映していて「都味」は甲乙弁別が無くなってから(平安中期あたり以降)の用字なのかしら。
「鴨祇ハエ(葉江)事代主」仮説が復活できるのかも。

再検討の機会を頂き感謝。


[4442] Re[4441][4440]: 鴨都味波に意味はありや  大三元 2003/08/03(Sun) 11:32 [Reply]
半ば書いてあるようなものだけど、だめ押し?しておくと:

 三輪・美和の「三・美」は甲類。「味」は乙類。

普通、古語(奈良時代を中心として)を考えるときには、甲乙が異なっていれば別語と捉えるのがデフォルトでしょう。にも関わらず、同語と考える場合には、特殊事情の解明、仮説、説明が欲しい所、だと思います。

[4441] Re[4440]: 鴨都味波に意味はありや  ペギラ [Mail] 2003/08/03(Sun) 10:58 [Reply]
> ・波(は)を輪(わ)に当てること:
>   は が わ と発音されるよう(ハ行転呼音)になったのは平安時代から。
> ということを考えると、平安以前に ミハ を ミワ は別語であった「はず」
> 逆に、もし、ミハ は ミワ だ、ということだと、その読み・用字は平安以降のもの、ということになりそう。
>

そうなんです。このあたりの話なんです。
鴨都味波という名前が延喜式以前に存在していたのか?
新抄格勅符抄(806)では鴨神という表記
大三元さんの本に書かれているように、通称は 葛城鴨神社
延喜式からの記述なら、平安中期。可能性は無いと言えないのでは。
古くから八重事代主を祀っていたのなら、鴨神=事代主ということになる。
鴨神が事代主で、鴨大神が阿遅須枳高日子命なのか?
鴨神が事代主なら、どうして熊鰐になっちゃうの?
はははっ、これは全く別次元の話か。

大賀茂都美から変な妄想。
賀茂都美は、八重事代主=鴨都美波八重事代主。

石の飛んでくる音が、、、(^o^;

[4440] Re[4439][4436][4435][4434][4433][4431]: 鴨都味波に意味はありや  大三元 2003/08/03(Sun) 08:12 [Reply]
> 鴨都波は鴨都三輪で、7世紀後半から8世紀に、鴨族が大賀茂都美命を祀った。

について言語的に少し考えてみました。

・波(は)を輪(わ)に当てること:
  は が わ と発音されるよう(ハ行転呼音)になったのは平安時代から。
ということを考えると、平安以前に ミハ を ミワ は別語であった「はず」
逆に、もし、ミハ は ミワ だ、ということだと、その読み・用字は平安以降のもの、ということになりそう。

・都美:
 私も、都味歯、を 都味・歯 と切って前半を「祇」と捉えようとしたのですが、「味」は乙類のミ。 一方、大山祇を大山津見と書く。「見」は甲類のミ。「美」も甲類。というわけで、不可、と考えて、この途は、捨ててきました。

じゃぁ何よ、という訳ですが、
上鴨社:高鴨神社:アヂスキタカヒコ
中鴨社:御歳神:御歳神
下鴨社:鴨都波神社:積羽八重事代主
   (同社古記によると:鴨都味波八重事代主)
をツラツラ眺めて、
鴨都波神社と「ミ」が抜けていることもあり「ミ」は美称(御、など)として実質的意味がない、と想定。
中鴨に関して、歳 のアイヌ語は pa であることを思うと、ミハ は 御pa つまり 御歳 なのじゃぁないのか、、、あたりを考えています。
(参考:『初期天皇后妃の謎』P104-106)
 

[4439] Re[4436][4435][4434][4433][4431]: 鴨都味波に意味はありや  神奈備 2003/08/02(Sat) 18:34 [Reply]
> くどい!って怒らないで下さいねm(_ _)m
鴨のペギラさんらしい。

『葛城と古代国家』門脇禎二氏の中に紹介されている池田末則氏の論述。
高鴨神社 6世紀 出雲から来た渡来人が祀った。高鴨神は土佐から来た神とか。
以下,神奈備推測、祀られた神は阿遅須枳高日子根命。
鴨都波は鴨都三輪で、7世紀後半から8世紀に、鴨族が大賀茂都美命を祀った。
以下,神奈備推測、延喜式で二座とありますので、もう一座は事代主命だったのでしょうが、創祀の頃は大賀茂都美命を祀った頃も二座とすると、それは例えば大田々禰古命あたりだったのかも知れませんね。
この神社、本当に鴨族に関係の神社だったのかなと内心いささか疑念これありですが、漠然疑問で・・。
通説では下照比売の祭神説は疑問視されていたように記憶しています。

> 土佐神社の創建。
遠く神代と云うよりはリアリティがありますが、夏休みなもので。先生はよろしいですね。

[4438] Re[4437]: 特に意味はありません  ペギラ [Mail] 2003/08/02(Sat) 17:11 [Reply]
> 少ーし、気になってること。
>

こんばんわ、玄松子さん。(^_^;

> > 「三島鴨神社鎮座記」中の「社前古石標」項
> > 以下抜粋
> > 正面鳥居横に元禄年中のものと伝えられる古石標が残っていますが、
> > なんでも明智光秀を討つために出陣した秀吉勢が
>
> 年代が錯綜していますね。伝承・伝説ではよくあることですが。
>

ファジイだと言うことですね。
正確じゃないのが、伝承らしくて良いですよね。(笑)

>
> > 大同元年(806)牒 新抄格勅符抄では
> > 鴨神  八十四戸 大和三十戸伯耆十八戸出雲二十八戸
>
> 大和三十八戸ですね。でないと八十四戸になりませんから。

おおお!打ち込みミスです。ご指摘ありがとうございます。m(_ _)m
これは間違いなく私のミスですが、
「新抄格勅符抄」の中にも、足し算ミスがちょこちょこあります。
写した人たちの姿が、見えそうで、これまた面白い。

[4437] 特に意味はありません  玄松子 2003/08/02(Sat) 15:31 [Reply]
少ーし、気になってること。

> 「三島鴨神社鎮座記」中の「社前古石標」項
> 以下抜粋
> 正面鳥居横に元禄年中のものと伝えられる古石標が残っていますが、
> なんでも明智光秀を討つために出陣した秀吉勢が

年代が錯綜していますね。伝承・伝説ではよくあることですが。


> 大同元年(806)牒 新抄格勅符抄では
> 鴨神  八十四戸 大和三十戸伯耆十八戸出雲二十八戸

大和三十八戸ですね。でないと八十四戸になりませんから。

[4436] Re[4435][4434][4433][4431]: 鴨都味波  ペギラ [Mail] 2003/08/02(Sat) 13:00 [Reply]
こんにちは、(^_^;
くどい!って怒らないで下さいねm(_ _)m

> 所で、鴨都波に阿遅須枳高日子命が祭られたとする根拠は如何。
>
根拠が希薄なので、妄想なんですが、
祭神に下照姫がいること。(それがどうした。ですが。)

>  土佐に高鴨の神が流されたのは、橘奈良麻呂の乱で鴨朝臣角足が獄中死した天平宝字年(757年)に、高鴨神社にあった神宝類を一時、土佐に赴任する国守の賀茂朝臣の手で避難して安置されたことを云うようです。(男爵@中央大学氏)
>

男爵先生が言われることを否定できるほど知識はありませんが、
土佐国司赴任は、761年賀茂朝臣塩管(しおつつ)
角足が亡くなってから4年も後です。
橘奈良麻呂の陰謀に参加したのも、鴨からは角足のみのようだし。
賀茂朝臣一族が処罰されているとは思えない。
土佐から大和葛上郡に復祀したのが764年
こんな短期間のことで、わざわざ復祀したという記事になるのでしょうか?

>  土佐から高鴨の神宝が帰ってきたのは、恵美押勝追討の戦功で朝廷に賀茂朝臣家が復権し、賀茂朝臣田守が764年、勅許を申し出て葛城高鴨に復帰したことを指しているようです。
> この辺の事情は続日本紀に見えるようです。賀茂朝臣年表から。 http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamonen2.html
>
>  要するに、神宝はそれほど長く土佐に坐たわけではなさそうです。但し、土佐坐神社の創建は、壬申の乱で功績のあった鴨朝臣蝦夷が初代の律令制の国司に任命され、国府を定め高鴨神社の分祠を勧請したのが創祀です。
>

土佐神社の創建。
以前男爵先生が言っておられましたね。
これについての、根拠がぜひ知りたい!!

[4435] Re[4434][4433][4431]: 鴨都味波八重事代主  神奈備 2003/08/01(Fri) 20:37 [Reply]
> 神奈備さんを、銅鐸物部説から銅鐸鴨説へと引き込もうと画策しているペギラです。(笑)
銅鐸鴨説をすっぱりと否定する理屈が見つからず、困っています。

> 鴨都波は、鴨に入った大田田根古の事代主の流れが阿遅須枳高日子命を祀った所。
日本語として難解で解読できていません。
所で、鴨都波に阿遅須枳高日子命が祭られたとする根拠は如何。

> 土佐から高鴨神が帰ってきたことで、阿遅須枳高日子命の名前を高鴨に返し、祖神の事代主としたのが、延喜式あたりからなのではないか?

 土佐に高鴨の神が流されたのは、橘奈良麻呂の乱で鴨朝臣角足が獄中死した天平宝字年(757年)に、高鴨神社にあった神宝類を一時、土佐に赴任する国守の賀茂朝臣の手で避難して安置されたことを云うようです。(男爵@中央大学氏)

 土佐から高鴨の神宝が帰ってきたのは、恵美押勝追討の戦功で朝廷に賀茂朝臣家が復権し、賀茂朝臣田守が764年、勅許を申し出て葛城高鴨に復帰したことを指しているようです。
この辺の事情は続日本紀に見えるようです。賀茂朝臣年表から。 http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamonen2.html

 要するに、神宝はそれほど長く土佐に坐たわけではなさそうです。但し、土佐坐神社の創建は、壬申の乱で功績のあった鴨朝臣蝦夷が初代の律令制の国司に任命され、国府を定め高鴨神社の分祠を勧請したのが創祀です。

[4434] Re[4433][4431]: 鴨都味波八重事代主  ペギラ [Mail] 2003/08/01(Fri) 18:32 [Reply]
神奈備さんを、銅鐸物部説から銅鐸鴨説へと引き込もうと画策しているペギラです。(笑)

> 阿遅須伎高比古根神を祭りて、此神は事代主神と同神にて、大神第一の御子なり。
> との興味深い応答が記載されています。『出雲国風土記』に一向に出てこない事代主神の位置づけ論でしょうが、阿遅須伎高比古根神の託宣を事代主神が発したととれば、意外に正鵠を得ているのかもしれません。
>
>  
出雲では阿遅須枳高日子命・大和では事代主という同体の可能性を感じます。
出雲国風土記にいて、国譲りにいない阿遅須枳高日子命
出雲国風土記にいなくて、国譲りにいる事代主

どうしてそんなことになったのか?
私は大田田根古の事代主・三輪系のせいだと思っています。

延喜式以前の神階の記事からでは、
事代主として出てくるのは、高市御県坐鴨八重事代主神。
鴨都波なんて出てこない。
あるのは、4431で上げた
高鴨阿治須岐宅比古尼神
高鴨神
どちらかが、鴨都波と思われる。

屁理屈をまとめた妄想を述べますと、
鴨都波は、鴨に入った大田田根古の事代主の流れが阿遅須枳高日子命を祀った所。
土佐から高鴨神が帰ってきたことで、阿遅須枳高日子命の名前を高鴨に返し、
祖神の事代主としたのが、延喜式あたりからなのではないか?

推定480年あたりから765年あたりまで、高鴨神は土佐。
日本書紀が出来たころには、高鴨神は葛城にいない。

神奈備さんの言われる
>> 出雲国から迎えまつった新来の神と解している。
>出雲にルーツのある阿遅須伎高比古根神を奉じる鴨族が入植して祖神として祭ったと云うことですね。
とは、なんとなく微妙に違うような気がする。

どこがどう違うのか頭の中で、整理できませんが。m(_ _)m

[4433] Re[4431]: 鴨都味波八重事代主  神奈備 2003/08/01(Fri) 15:19 [Reply]
「鴨のペギラかペギラの鴨か」のペギラさん こんにちは。

 天穂日も天稚彦とよく似た行動の神ですのに、天穂日の末裔が天稚彦の喪屋をけっ飛ばした阿遅須伎高孫根の命を葛木の鴨の神奈備に坐せとやっているのは、奇妙と云うか誓約で誕生した素性のなせる業なのでしょうか。

 神武天皇の后の父神の伝承に『古事記』は美和の大物主の神、『日本書紀』は事代主神、『旧事本紀』は三輪の大神となっています。どれもが事実ではないのでしょうが、所謂事実誤認なのでしょうか、それとも事代主神とは大物主神の別名だったのでしょうか。
 通説では事代主神とは託宣の神であり、某大神がヨリマシを通じて返事をしたことの神話的表現を事代主神の仕業としているようで、溝杭の娘を孕ます朱塗矢のような具体化した神をも事代主神と称したに過ぎないのでしょう。
 またご存じのことでしょうが、別に出雲の事代主神について面白い話があります。
 出雲大社松山分祠のHPに出雲問答(明治十二年九月五日 初版発行)
http://www.remus.dti.ne.jp/~n-makoto/izushinto/mondoutitle.html
が掲載されています。この中で、

阿須伎神社は如何。

阿遅須伎高比古根神を祭りて、此神は事代主神と同神にて、大神第一の御子なり。
との興味深い応答が記載されています。『出雲国風土記』に一向に出てこない事代主神の位置づけ論でしょうが、阿遅須伎高比古根神の託宣を事代主神が発したととれば、意外に正鵠を得ているのかもしれません。

 神が坐すと託宣がありうる、要はどこにでも坐る神、蝿声なす邪しき神だったのかもしれません。だから海岸では土左衛門毎に事代主神として祭られたのかも。

> この葛木の鴨の社というのが、下鴨社のことではないだろうか?
『出雲国造神賀詞』の「己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ」ですが、神奈備に坐せか単に坐せかで立地が区分されているように思います。
神奈備に坐せ、この神奈備には何となく”山”のイメージを感じます。何故なら、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せの雲梯は平地の中で、山は見えますが、どうも無関係のようです。そうしますと、高鴨神社は問題なしの立地でしょう。現在の鴨都波八重事代主命神社を鴨の水ギワノ神とする考えも存在する程に、川の三角洲に鎮座、山々との関連が薄いように感じます。
感じでものを云うのは申し訳ないのですが、神奈備としましては「神奈備に坐せ」にこだわりたい所。

> 出雲国から迎えまつった新来の神と解している。
 出雲にルーツのある阿遅須伎高比古根神を奉じる鴨族が入植して祖神として祭ったと云うことですね。

[4432] 文化財報告書公開  児島 [Mail] [Url] 2003/08/01(Fri) 15:03 [Reply]
はーい夜須です。7月26日のお尋ねですが、ホームページ作りは初心者で失敗しました。トップページの画像の左下の目次の文字をクリックすると次にうつり、画像の太陽かカエルをクリックすると五ページほど出ますが、後は7.8.ページ目次
にあります様に作成し、転送していますがリンクの失敗となりもうあきらめています。頭がおかしくなりそうで、投稿でやりとりした方が私にはいいと締めました。

頭の整理が落ち着きましたら又の機会によろしくお願いします。
一言ご挨拶がわりに、夜須の情報をお知らせします。夜須町文化財報告書が、昨日図書館で公開されました。これ見て驚きの連続で、夜須町の遺跡の全体像が見え、
特徴なのは、弥生中期から、後期にかけての遺跡でして、すべて竈の時期と言うくらい、ほとんどの遺跡がそうでした。それと石包丁の数の多さが九州県内一でした。まだ特徴は沢山あります、唐枕が木製ですけど惣利遺跡から出たり、石棺の多さも、特長で中に骨がそのままあったりと、初めて知りました。これまで文化財は
秘密主義でしたので今回がはじめてと云う事になります。ではまたおじゃまします

[4431] 鴨都味波八重事代主  ペギラ [Mail] 2003/08/01(Fri) 11:43 [Reply]
神奈備さんの鴨話につられて、最近、私が疑問に思っていること。

鴨都味波八重事代主神
鴨都波八重事代主命神社
この神様、いわゆる下鴨社ですが、一体いつからそう呼ばれるようになったのか?
そう、鴨都波八重事代主命と。

鳥越憲三郎さんの「神々と天皇の間」を読んで、いろいろと考えさせられた。

延喜式以前の古記録のどこに鴨都波八重事代主命いるのでしょうか?

大同元年(806)牒 新抄格勅符抄では
鴨神  八十四戸 大和三十戸伯耆十八戸出雲二十八戸
高鴨神 五十三戸 大和二戸伊与三十戸土佐二十戸

貞観元年(859) 三代実録の正月条の神階
従二位勲八等 高鴨阿治須岐宅比古尼神
従三位    高鴨神
が、従一位に叙せられた。

「神々と天皇の間」に引用されている「御所市史」の内容について
後者の高鴨神を土佐国からかえったこの地の最初からの土着神とみ、
前者をその間に出雲国から迎えまつった新来の神と解している。

鳥越さんの見解は、貞観の時の高鴨神は記録の誤りではないか?としているが、
自分は御所市史の見解に賛同します。

出雲国造神賀詞では阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、
事代主命の御魂を宇奈提に坐させ。

この葛木の鴨の社というのが、下鴨社のことではないだろうか?
鴨都波八重事代主命神社二座 祭神 積羽八重事代主命、下照姫命

貞観の高鴨阿治須岐宅比古尼神とこの祭神積羽八重事代主命は、
どこかで、何かの理由で入れ替えされたのでは、ないだろうか。


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