> 内藤湖南の『卑彌呼考』 > (中略)難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり・・・
ワハハハ (^^)/ 『難升米=田道間』説は拙者も思い浮かべました。誰でも思いつくものですねぇ。漢和辞典を見ると・・・、 難:(呉音)ナン。(漢音)ダン。 升:(呉音・漢音)ショウ。 米:(呉音)マイ。(漢音)ベイ。 ところが、大概の本には「難升米」を「なんしょうまい」とか「なしめ」とかルビを振っています。 ぜんぶ呉音で読むんかいな〜?と疑問に思っていました。三国志の魏志倭人伝は、魏の外交文書の記録を下敷きにしたものでしょうから、呉音的な読み方でいいのか・どうか?(この辺の判断、素人なので判りません) ちなみに漢音で読んでみると、「難升米」=「だんしょうべい」? 西域の地名・人名などを漢字で表現されるときに、元の言葉がかなり省略・変形される例を参考にしても、難しいところです。 が、「なんしょうまい」と「なしめ」と「だんしょうべい」を同時並列に頭の中に入れながら、100回くらい「声に出して」発音を連続していると、なんとなく「たしま」が出力されました。(笑) 「田道間」みたいで嬉しくなったのですが・・・、ここは言語板ではないのでこの辺でオシマイにします。 拙者の妄想する「難升米」の時代と「田道間守命」の時代がかなりかけ離れているので、「=」で結べませんでした。仮に「難升米」がタジマだったとしても、垂仁天皇の臣の田道間守命でなく、卑弥呼の大臣として魏の都まで上った「タジマの守」だったかもしれないと妄想しています。 最近では「古代からの伝言・日本建国編」(八木荘司著・角
[4868] 橘あれこれ 十四 神社と橘 神奈備 |
2004/02/13(Fri) 16:59 [Reply] |
丹後−大和 [4864] で玄松子さんが記されていますように、大和の広瀬大社の創建譚に橘が出てきます。 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。 『丹後国風土記』逸文の天女の物語が思い出されます。真名井に天女八人が舞い降り、水浴びをしており、帰れなくなった天女がおり、当社の祭神の若宇加能売命はこの天女のことと思います。橘が生えるのは真名井をを再現したものといえましょう。
橘−中島 忽那島八幡宮(愛媛県温泉郡中島町大浦)の由緒 遠く上代の昔、吾が祖族、萬里波を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住て、相慕ひ、その母の神稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。 (中略) 夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて祖霊相寄るの聖地、千古斧入らしめぬ森茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき島と栄えて、大和の中の美はしき中島と讃へまつる。
この中島とは、瀬戸内海の中の島の意味でしょうか、または積極的に”中心”と言う意味なのか、良くわかりません。
中島−田道間守 内藤湖南の『卑彌呼考』 橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。
難升米とは中島のこと。田道間守を祭神とする式内社で兵庫県豊岡市三宅に中嶋神社が鎮座、しかしここの由緒書きによれば、「田道間守命の墳墓が垂仁天皇御陵域内 の池中に在りて島をなせるに因りて中島神社と称す。」とあり、眉唾。
橘と偽書 『東日流外三郡誌』の「荒吐族戦乱録」 垂仁帝の壬子年、田道間守使者となりて、荒吐一族との和を謀れども、当世国に荒吐宇止利彦 是を聞き曰さず。景行帝辛未年、田道間守責務成らざるを悔いて、先帝の陵前に自刃せりと曰う。 尾崎神社社伝からの写しと言う
『秀真伝』橘のこと多(サワ)に記載あり。
(完) |
[4867] 橘あれこれ 十三 河内摂津の橘 二 神奈備 |
2004/02/12(Thu) 09:09 [Reply] |
羽曳野市野々上にお染め久松の野中寺があります。聖徳太子の創建と伝えられ、太子縁の河内三太子の一つで「中の太子」と呼ばれています。寺伝によりますと、物部守屋との合戦時、聖徳太子が休憩をしたところにこの寺を建立したとあります。現在は大和川で守屋の本拠の八尾とは遮られていますが、当時は地続きでした。 寺院は旧竹内街道に面しており、かって建っていた塔の塔の心礎が当時の状態で配置されています。 この塔の心礎は大きな円の孔に半円形の支柱孔が三つ(花びら形)と舎利孔あいている珍しいもので、礎石そのものは亀の形に刻まれています。ようは亀に乗っている。 明日香で、酒船石の下で亀石が発見されていますが、道教の影響や神仙世界への憧憬が感じられます。 同じように明日香の橘寺にも同じ花びら形の石礎が残っています。橘寺は聖徳太子誕生の地とも言われています。 これらの心礎の形は橘の花か実と葉のイメージかも知れませんね。
大阪市平野区鎮座の旭神社摂社若宮八幡宮の由緒 天平勝宝六年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛司の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定められ、当時太上天皇も御幸ありしとの伝説あり。爾来雨を祈りて霊験ありければ、雨乞の宮と唱へて崇敬せられ、神前の橘も常磐の色を変えず子葉孫枝繁茂して芳香を放ちしとならん。 櫛と橘、共に神の依り代。この組み合わせは何だろう。 弟橘姫の櫛を祀った神社が相模の走水神社境内の橘神社。 程度しか思いついていない。 |
[4866] Re[4864][4863]: はじめましてー「サ」の神について 神奈備 |
2004/02/12(Thu) 07:59 [Reply] |
> ところで、廣瀬大社の本殿写真を撮りに行って、由緒を再確認しましたが、 > 一夜にして陸ができて、橘が茂ったということです。神紋も橘。 > この話題、出ました?
次の次にでもと思っていました。 『平成データ』由緒検索に「橘」を入れて発見。\(^O^)/\(^O^)/ |
[4865] Re[4860]: はじめましてー「サ」の神について かたばみ [Mail] [Url]
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2004/02/12(Thu) 00:46 [Reply] |
≫以前NHKラジオで、「サ」の神さまという話しを聞いた覚えがあるのですが・・
その放送を聞いていませんが、玄松子さんご紹介の内容のものであれば、考古学、民族学、言語学、人類学、さらには心理学や統計学などが総動員しても容易ではない分野だと思います。 文化とはなにか、ですね。
謎とロマンが多々あって好きですが、以下はその好きだというだけからの私の考えです。
一文字だと「他の一文字」と偶然に重なるチャンスが一気に増えるはずですから、サがあるからだけでうんぬんするのは危険な落とし穴だと思います。 酒の場合は、「ケ」が食べ物に関する言葉というのが定説のようですから、サ・ケに分離できるかも知れませんけれど。
分離できてもサを稲作の神とかサの神といった特定状況に結びつける考え方は私はとりません。 大自然に対して敬い畏れる気持ちを表すのが「サ」だ、と考えています。
食事のときに「いただきます」といいますが、誰にいっているのでしょうか。 「サ」と同様の感覚によるものが根元にあると考えています。 人間が前面にでてくる時代になると薄れてゆく感覚かもしれませんけれど。
≫ポリネシアなど南方的な印象ですが・・
言葉は文化の一部ですから、同様にいろいろな分野からの考察を総合しないと危険だと思います。
≫狛犬の起源を知りたいのですが・・
これもたいへんそうですね。 東南アジアでの犬をトーテムとする人々の存在。狩猟と犬との関連。 隼人の犬声、隼人の武人としての資質(神武の軍事力)、後の朝廷(大王)関連施設の警護者。 中近東〜インド〜中国のライオン像の門衛、仏教など諸文化の渡来。
縄文〜中世におけるこれらの複合、それがライオンのように見えるのに犬と称する日本の狛犬だと思っています。 狛犬を民間が使うことはまずないと思いますが、沖縄のシーサーは民間です。 その違いは「朝廷関連施設の警護者」の流れの違いによるものだろうと思っています。
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[4864] Re[4863]: はじめましてー「サ」の神について 玄松子 |
2004/02/11(Wed) 23:06 [Reply] |
> 玄松子さん ありがとうございます。春日の山々はいかがでしたか。
一般人は山に入ってはいけないそうで、遊歩道をチンタラと歩いただけでした。
ところで、廣瀬大社の本殿写真を撮りに行って、由緒を再確認しましたが、 一夜にして陸ができて、橘が茂ったということです。神紋も橘。 この話題、出ました? |
[4863] Re[4860]: はじめましてー「サ」の神について 神奈備 |
2004/02/11(Wed) 21:07 [Reply] |
玄松子さん ありがとうございます。春日の山々はいかがでしたか。
お稲荷さんは狐です。 狛犬は想像されているほどの古い歴史は持っていないような気がしておりますが、詳細につきましては専門サイトもあるようでそちらでお調べ下さい。 |
[4861] Re[4859]: 有難うございます。 神奈備 |
2004/02/11(Wed) 16:29 [Reply] |
> 山形県の東根に行く途中で見つけたところです。
山形県東根市大字野川1206-1 日月神社「倉稻魂命」 |
[4860] はじめましてー「サ」の神について PIKKI [Url]
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2004/02/11(Wed) 09:04 [Reply] |
いつも楽しく読ませてもらっています。 以前NHKラジオで、「サ」の神さまという話しを聞いた覚えがあるのですが・・ その例として、「酒」「桜」「皐月」「五月雨」「早乙女」などが上げられいました。ほとんど内容は忘れたのですが・・言葉としては、短母音なのでポリネシアなど南方的な印象ですが・・内容としては稲作にともなう農耕の神のような印象でした。 その時は、地名の土佐、薩摩、佐渡なども関係ないのかな・・と思ったのですが。 それと狛犬の起源を知りたいのですが・・狼や犬のトーテムが多い金属加工氏族と関係あるのでしょうか?それとも、それよりもっと古そうな隼人・呉越・チベット・東南アジア・八重山・アイヌの犬先祖や犬重視の文化の方と関係深いのでしょうか?
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[4859] 有難うございます。 ライ [Mail] |
2004/02/10(Tue) 22:11 [Reply] |
宮城県の大倉ダムの近くにあるところと、山形県の東根に行く途中で見つけたところです。気ままに車で遠出したり旅行先で目的していた神社だけでなく偶然の出会いの神社をこれも縁かなと思い調べたりなどをしていて、日月神社は偶然の出会いだったので詳しい住所はもう一度行って見ないと正式な場所の地名がわからないもので今度調べてご報告させていただきます。本当に有難うございます。以前かなり前にも諏訪神社へ行った時にモレヤの神様のことなど教えていただいたことがあり、本当に感謝しております。またお知恵をお借りさせていただきたい時は宜しくお願いいたします。 |
[4858] 橘あれこれ 十二 再び河内の橘 一 神奈備 |
2004/02/10(Tue) 20:42 [Reply] |
記紀万葉
(1)雄略天皇一三年三月条に「天皇、歯田根命をして、資財を露に餌香市辺の橘の本の土に置かしむ。遂に餌香の長野邑を以て、物部目大連に賜ふ」 (2)顛宗天皇即位前紀に「旨酒餌香の市に直以て買はぬ」 (3)崇峻天皇即位前紀は蘇我氏が物部守屋を攻めた時の記事中に「餌香川原に、斬されたる人有り。計ふるに将に数首なり」と記す。 (4)天武天皇元年(六七二)七月条の壬申の乱の戦を記すなかに「 財等、高安城より降りて衛我河を渡りて、韓国と河の西に戦ふ」とある。
衛我河とは石川の下流(大和川への合流付近)のようで、餌香市は、餌香川左岸の国府にあったとする説が有力です。 国府とは、藤井寺市惣社にあたり、ここには志紀県主神社が鎮座。 かの雄略天皇が生駒山日下越えの道から「志畿の大県主」の大邸宅の屋根上の飾り木を見て焼き払えと命令したと伝えられている所。日下とは直線距離で10km以上。
巨大な伝応神天皇陵を延喜式では恵我藻伏崗陵と言います。そのほかにこの古市古墳群は恵我XX陵と呼ばれる物が多いようで、古市というのも古来よりの”市”と言うことで、餌香市だったのでしょう。
志紀県主神社鎮座地の東を藤井寺市船橋と言います。石川(衛我河)が流れ、対岸の竜田道につながっています。
万葉集巻一 一二五 作者は新婚の病人 橘の 蔭踏む路の 八衢(やちまた)に 物をそ思ふ 妹に逢はずて やはり橘の木や実には病魔退散の効能があったのかも知れません。
藤井寺と柏原とは、船で対岸を行き来していたのでしょう。それを船橋と称したのかも。『続日本後紀』には恵賀川借橋とあります。次の万葉歌の河内大橋も、ここでしょう。 万葉集巻九 一七四二 見河内大橋獨去娘子歌一首 しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍も ち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく 訳:河内大橋を一人で渡っている赤い着物の娘さん、独り者かいな と聞きたいね どこに住んでんの。 |
[4857] Re[4855][4840][4839]: ぜんぜん脱線 神奈備 |
2004/02/10(Tue) 15:37 [Reply] |
> 広辞林に万葉に「小夜」があるようなことが書いてあったけどみつからないなあ? > 小さい春みーつけた、小さい夜もみーつけた・・どっちもかわいらしい名になりそうですね。
訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』 hp 1224 大葉山(おほはやま)霞たなびき小夜更けて吾(あ)が船泊てむ泊知らずも 1732 大葉山(おほはやま)霞たなびきさ夜更けて吾(あ)が舟泊てむ泊知らずも
巻七 一二二四 [題詞](覊旅作) [原文]大葉山 霞蒙 狭夜深而 吾船将泊 停不知文 [訓読]大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
巻九 一七三二 [題詞]碁師歌二首 [原文]<祖>母山 霞棚引 左夜深而 吾舟将泊 等万里不知母 [訓読]大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
おっしゃる通り小夜はなさそうですね。ほなさよなら。 |
[4856] ....ネパール語.... 道化の紋次郎 [Url]
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2004/02/10(Tue) 15:25 [Reply] |
ネパール語 saj , saha:j(夕方、晩)。 saber(早朝) 〃 sajib(元気がある、力がある) → 田の神(早乙女)? 〃 sano(小さな) これをうけてか 朝鮮語 *sasa(細)
be- は「わるい」 *luk(隠す、隠れる)…… おおまがとき。 誰(た)そ彼(がれ)
また luk ばい。
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[4855] Re[4840][4839]: ぜんぜん脱線 かたばみ [Mail] [Url]
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2004/02/10(Tue) 14:37 [Reply] |
≫小野妹子が中国に行ったときに蘇因高と呼ばれていたことを
小さい野原があって紫蘇がたくさん生えているんです、なんて自己紹介したんだろうと思ってます。 日本だと小野とか大野とか、これこれのあれこれという姓が多いけど、中国で姓に2文字を使うのを見た記憶がありません。 因高は妹子に賛成。
≫さ」という言葉に「小さい」というイメージは含まれてないでしょうか
手持ちの漢和辞典によると、早乙女の早には小さいとか若いという意、などとあります。 しかし、まるっきり同意できないです。
乙(弟)女だけで若いとか小さいの意のはずで、苗もまた同じ。 同じ意味の言葉を重ねるのは不自然。 漢字の早は時間の早さの意で、小さいとか若いの意味はない。
サ・ツキ=五月(陰暦)=皐月=早月、田植えの季節。
古事記での狭の用法。
淡道之穂之狭別島(淡路島) 天之狭手依比売(対馬) 天之狭土神 以下4神は大山津見神と野椎神の子、同族に櫛名田姫、木花佐久夜比賣など 国之狭土神 〃 天之狭霧神 〃 国之狭霧神 〃 狭霧(天照大神と素盞鳴尊の誓約) 狭蝿(騒がしい神のたむろする地)
狭依毘売命(三女神、宗像)この狭が接頭語かどうかは? 鰭広物・鰭狭物(猿女の君)鰭広物と対ですからこれは具象としての用法。
以降は地名が若干登場だけなので略。 書紀では地名と一般人名以外に「狭」は登場しません。 (佐田などの佐については音への当て字も含めてやっかいなのでとりあえず棚上げです)
これらの「狭」をサと読むのであれば、狭いの意を知って使われているはずです。 そうでないと漢字の「狭」にサの発音はみえませんからどんな漢字を使ってもよかったことになってしまいます。 <br> サを冠するのは自然神への畏敬を含む場合ではないかとみていますが、それはおいて、伝承に狭い土地のイメージがあり、その意を発音に優先させて「狭」を用い、サの当て字としたのだろうと思います。
古事記の前例から「狭」=サの読みが定着した。 そして、狭の文字が使われた瞬間にその文字だけを見れば、恋川亭さんと同様に小ショウの連想も生じると思います。 本来の発音でのサの意味がどうであろうと。 そんな推定ができると思います。
万葉集では佐宵、佐夜、左夜、狭夜、作夜など。 こちらは文学的なリズムのためのサで意味はないと思います。
広辞林に万葉に「小夜」があるようなことが書いてあったけどみつからないなあ? 小さい春みーつけた、小さい夜もみーつけた・・どっちもかわいらしい名になりそうですね。
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[4854] Re[4852]: 教えていただけますか 神奈備 |
2004/02/10(Tue) 08:07 [Reply] |
平成祭礼データCDで56社の日月神社(含む三日月神社)があり、北は青森から皆には大分まで。 そのうち、由緒がインプットされているのは茨城県猿島郡総和町東牛が谷915鎮座の日月神社 その由緒 天慶の乱鎮定の勅命を奉じた下野国住俵藤太、藤原秀郷諸将と熟議をこらし軍を進めここに本陣を定め、錦旗をたて天神地祇をまつって戦勝を祈願したところ、神明のお加護をたまわり遂に平将門誅伐の大任を果たすことができた。これを記念して錦旗の日月をとって社名とし創建した。 です。 で、ライさん、貴殿が行かれた日月神社って、いったいどこですか。 > 日月神社を二ヶ所行ったのですが、祭神さまが全然わかりませんでした。 ?? 一般的には天照大神と月讀神が多そうですね。 |
[4853] たびたび失礼いたします。 ライ [Mail] |
2004/02/10(Tue) 01:11 [Reply] |
神奈備検索で調べさせていただきましたが,もう少しご存知で有れば教えて頂けないでしょうか。私が行ったところは小さい神社で社務所も無く由来が書かれているところもありませんでした。そして馬頭観音さまの石はあったのですが神道系統のが無く社殿の作りも神社の一般の形式のもので無かったと言うか私が知っている範囲のもので無かったので気になり、お手数であれば日月神社の大きな所を教えていただけたら自分で努力いたしますので、お知恵を御貸しください。お願いいたします。
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[4852] 教えていただけますか ライ [Mail] |
2004/02/10(Tue) 00:45 [Reply] |
私は神社めぐりが好きで自分の足で行って祭神や由来系列などを知るのが好きなのですが 日月神社を二ヶ所行ったのですが、祭神さまが全然わかりませんでした。もし宜しければ教えてください。お願いいたします。
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[4851] ご無沙汰しておりました 仙道 |
2004/02/09(Mon) 23:10 [Reply] |
以前質問させていただいてから、パソコンが壊れてしまい身動きが取れない状態でした。 やっと回復してきてボチボチ出歩き始めました。 今日はとりあえずご挨拶に上がりました。 |
[4849] Re[4847]: 年たけて〜 恋川亭 |
2004/02/09(Mon) 22:26 [Reply] |
大三元さん、ご教示ありがとうございます。 流れの中での思いつきでしたので、よく練り込んでいませんでした。m(__)m 意味のない接頭語でしたか〜。発音の調子をとるようなものですね。 |
[4848] 橘あれこれ 十一 植物としての橘 神奈備 |
2004/02/09(Mon) 21:08 [Reply] |
(1)左近の梅から桜へ 『古事談』と云う書籍に「南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也」とあり、左近の桜は元は梅であったと記しています。 何故、梅から桜に変更したのでしょうか。吉野の桜が使われたそうですが、神仙境吉野を象徴する木であることが重要だったものと思われますが、その頃に吉野と云えば桜が確立していたのかどうかは疑問。 しかしこれで、右近の橘、左近の桜と共に国産種になりました。
(2)橘の機能一 香りの木 「時を翔る少女」と云う物語。ラベンダーの香りで時間を超える少女のお話です。かくの如く、匂いは人間の脳を刺激し、時には攪乱し、神懸かりにします。 また、橘の香りは遥か昔、祖先が生まれ育った土地の香りでもあるように錯覚をもたらし、なつかしい思いをもたらします。常世への憧憬。 魚が生まれた所に帰る、これは嗅覚の仕業、言ってみれば原初の状態に戻る−神祭りの原点−は匂いですし、日本人の故郷は橘の匂う所だったといえるかも。 神道の禊ぎも原初に戻る為におこなわれます。従ってイザナギの命は橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓へを行ったのです。 『古今集』夏歌 139 五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする 説明抜きで理解できる歌。母性にも繋がる。乾燥橘の実を濯ぎの時に洗濯機に入れて下さい。 また、現在の真榊は無臭ですが、往古には樒、タブ(イヌグス)、黒モジ、そうして橘などの香木が祭事に使用されたとか。 |
[4847] Re[4844][4843]: 年たけて〜 大三元 |
2004/02/09(Mon) 20:07 [Reply] |
恋川亭さん
> 「小夜の中山」なんてどうでしょう? > 和歌に詠まれるほど古来から有名な峠だったとか。『命なりわずかの笠の下涼み』
西行法師(1118-1190)ですか。それ以前にはあった地名なのでしょうが、どこまで遡れるのか。それにしても、この場合の「小夜」はどう解されているのでしょう。
また、「小」の字に何を見ようとなさっているのでしょうか?「小さい?、神聖な?」
『時代別国語大辞典上代編』にお伺い立ててみると 「さよ」夜。サは接頭語。 「さよ」五月夜。五月の夜。 だそうです。 万葉集を見てみたけど、「さよ」の「さ」を積極的に解しているものは見あたりませんでした。単なる「夜」と解している。意味のない接頭語、という立場なのでしょう。
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[4846] Re[4845][4833][4829]:
非時香果 神奈備 |
2004/02/09(Mon)
18:36 [Reply] |
>
道教ではありませんが、屈原の『楚辞』から橘の詩を写しました。既出でしたっけ? 恋川亭さん ありがとうございます。皇后陛下の紋章が橘ですが、これに依るのかも。 以下、ご紹介の詞の翻訳しているものを発見。↓ http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book7.html 橘頌 橘(密柑の類)の香ばしい花実を賛美して、その徳になぞらえて、自分の身を持していこうと歌ったものである。
皇天后土の生じためでたい樹、橘がこの地に来て風土に適し、 天の命を受けて他国に移らず、南国に生ずる。 根は深くて移し難く、その上その志は専一で動かない。 緑の葉に白い花、数多く入り乱れて誠に可愛らしい。 重なる枝、するどい棘、円い果実はころころとしている。 青と黄とが交じり合って、色取りが輝いている。 外皮はすぐれた色で、内部は白く、才は美わしく心は潔白で、正道を行うに堪える君子に似ている。 その実は香り高く宜しく、美しくて醜くない。 ああ、お前の幼時の志は、他のものと異なっていた。 何物にもたよらず、独立してうつらない。なんと好もしいではないか。 志が深く固くて移し難く、心はむなしくて何も求めない。 世俗の中で目醒めて、ひとりで立って、行いにかど目を失わない。 心を閉じて自ら用心して、終に過失を犯さない。 天性の得性をしっかりと取り守って私心なく、天地の徳に参加する。 どうか年歳がすべて過ぎ去るまで、お前と末長く友達になろう。 淑やかで俗を離れて、みだらな行いもなく、固いようでも条理があり、 年は若くても、師とも目上とも仰ぐことができる。 その行いは伯夷にも比べられる。お前を立てて手本にしよう。 翻訳引用以上
橘の木々 http://www.kamnavi.net/en/mie/kuwana.htm http://www.kamnavi.net/as/asuka/tatibana.htm 興福寺南円堂前の橘は写真掲示板へ
※4〔ナラビ〕併の人扁を取り旁だけの部分。ATOKに在。 并 ヘイ あわせる ならぶ |
[4845] Re[4833][4829]: 非時香果 恋川亭 |
2004/02/09(Mon) 17:02 [Reply] |
道教ではありませんが、屈原の『楚辞』から橘の詩を写しました。既出でしたっけ?
『 橘 頌 』(きつしょう)
后皇の嘉樹、橘来り服す。 命を受けて遷らず、南国に生ず。 深固にして徙し難く、更に志しを壹にす。 緑葉素栄、紛として其れ喜ぶ可し。 曾枝〔エン〕棘、圓果摶たり。 ※1 青黄雑糅して、文章爛たり。 精色内は白く、道に任ふるに類す。 紛〔ウン〕として宜脩にして、〔クワ〕にして醜からず。 ※2、※3
嗟、爾の幼志、以って異なる有り。 独立して遷らず、豈喜ぶ可からざらんや。 深固にして徙し難く、廓として其れ求むる無し。 世に蘇して独立し、横にして流れず。 心を閉じ自ら慎み、終に失過せず。 徳を秉りて私無く、天地に参はる。 願はくは歳の〔ナラ〕び謝するまで、與に長しく友たらん。 ※4 淑離にして淫ならず。梗くして其れ理有り。 年歳は少しと雖も、師長とす可し。 行は伯夷に比す。置いて以って像と爲さん。
漢字変換できなかったもの。 ※1〔エン〕炎扁に、りっとう旁。エンキョク:するどいトゲ。 ※2〔ウン〕蘊の草冠がないもの。フンウン:橘の果実の香気が盛んなこと。 ※3〔クワ〕女扁に夸の旁。色よく美しいこと。 ※4〔ナラビ〕併の人扁を取り旁だけの部分。並と同様な意味。
明治書院・新釈漢文大系『楚辞』星川清孝著より抜粋。ただし漢字は新しい字体にしています。 橘は、スクッとまっすぐ清々しいイメージなんですね。 |
[4844] Re[4843]: 年たけて〜 恋川亭 |
2004/02/09(Mon) 15:41 [Reply] |
「小夜の中山」なんてどうでしょう? 和歌に詠まれるほど古来から有名な峠だったとか。『命なりわずかの笠の下涼み』 |
[4843] Re[4842][4841][4840][4839]: ぜんぜん脱線 大三元 |
2004/02/09(Mon) 12:03 [Reply] |
> そういえば、(ちょっと昔の)ファッション・モデル「山口小夜子さん」は、サヨコでしたね。「小さい ⊇ サ」の1例になるでしょうか?
うう、、古語ではどうだろうか、ということでしょうから、ねぇ アタマ硬いかしら???
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[4842] Re[4841][4840][4839]: ぜんぜん脱線 恋川亭 |
2004/02/09(Mon) 10:01 [Reply] |
そういえば、(ちょっと昔の)ファッション・モデル「山口小夜子さん」は、サヨコでしたね。「小さい ⊇ サ」の1例になるでしょうか? |
[4841] Re[4840][4839]: ぜんぜん脱線 大三元 |
2004/02/09(Mon) 09:26 [Reply] |
>小野はサノってことはないだろうかと青草発想!
そうですね。それとか、「ショウ・の」とか。。。 『ボブと呼んでくれ』という感覚、いいですね。 言葉(漢字)遊びが感じられますね。
> 「さ」という言葉に「小さい」というイメージは含まれてないでしょうか?(自信なし)
「狭い」という意味があるから、敷衍、展開して「小」の意味合いも考えられますよね。ただ、辞書には出てこないので、安全運転としては距離を置いている、って感じです。
出雲国引き物語で:狭布の稚国 神武天皇の幼名:狭野命 あたりもご参考、、、ったって、どう参考にするか、、ですが。
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[4840] Re[4839]: ぜんぜん脱線 恋川亭 |
2004/02/09(Mon) 00:07 [Reply] |
青草話ですが・・・、小野妹子が中国に行ったときに蘇因高と呼ばれていたことを、どうしてそうなるのかツラツラ駄考していまして。オノノイモコ→ソインコウ。 イモコとインコウが近いので、IMoKO→IMKO、だろうとは思いました。ところが、オノ→ソ、見当がつかなかったのです。サクラのお話しを読んでいて、ひょっとして、小野は サノってことはないだろうかと青草発想!『サノ・イモコ→ソ・イムコウ』強引な曲解ですけどネ。(小野妹子自身は『ボブと呼んでくれ』という感覚で蘇因高のニックネームだったかもしれませんので) 「さ」という言葉に「小さい」というイメージは含まれてないでしょうか?(自信なし)
『この花、咲くや〜?』/『咲くら〜』 (ウウ、なかなかできやん。紀州様、ニセ和歌山弁お許しを〜。) |
[4839] Re[4836][4828]: や、ら、やか、らか 大三元 |
2004/02/08(Sun) 21:03 [Reply] |
> > サク・ラと分けるかサ・クラとわけるか。 > 言葉を考えるときのやっかいな部分だと思っています。
そうですね。やっかいです。
この関連の私の投稿で、サクラ、の語源そのものを論じるつもりではなく、 コノハナサクヤの属性というか意味合いとして桜が意識されている、というのが面白いと思ったものです。つまり古代の人の語源感覚、というものに興味があります。
古代の人がサクラという語の構成をサ・クラと理解して文章や、名前や、伝承を作ったことがあるかもしれない。これを否定するものではありません。 同様に、別の局面では、サク・ラという構成を意識した言語活動があったかもしれない。コノハナサクヤの場合はこっち、だったのではないか、という話ですね。 サ・クラと意識していたに違いない、という例があると面白いと思います。
微妙かもしれませんが、何が本当の語源か、というのにはあんまり興味がなくって、なんでこんなことが書いてあるのか、という視角に関心があります。ですから、
> > なぜ、早乙女や早苗の表現が生じたのか・・ここだと思います。
そうです、そうです。これらが平安時代に造語されたとして、その時代の人たちが「さ」をなんと心得ていたか、ということですね。
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[4838] レレレのおじさん 神奈備 |
2004/02/08(Sun) 17:56 [Reply] |
> 『古代の大陸の習俗・信仰と、列島のそれを付き合わせるときに、ヤットコで持つような方法よりも、ピンセットで扱うような繊細さが要求されるかもしれない、と思うのですが大袈裟でしょうか?』
発掘作業と同じ。「列島のそれ」をどう発見し、定義するのかが大袈裟ではなく難しい。例えば神社の祠とか人格化された祭神などは、縄文の息吹の残る(少なくとも言語では)アイヌの習俗にはないのでは。
> 葛洪著「神仙伝」 このHP読んだ記憶あり。「橘中楽」も面白いですね。
> 弥生頃の原始道教 > 五斗米道 五斗米道って米を五斗寄進したんでその名前になったとか。張魯の母が卑弥呼のような役割だったようです。鬼道? 徐福はそれより400年前の道士、道教と云う大河はいくつかの水源があった総集編のような所がありますね。
唐古・鍵遺跡出土の高殿の絵の土器片がありましたが、大陸風の建物のイメージで、道観のように見えます。
> 褐鉄鉱の固まり http://www.kamnavi.net/en/izumi/fuke.htm 国玉神社の項に泉南の瓜谷石をアップしてあります。多分褐鉄鉱。
> 大陸の天子様は非時香果をどうしていたのでしょうか 隣の芝生と云うか、道士の徐福に命じて探させたのですね。要は身近には存在しないから値打ちあり。
三輪明神の若宮社の奈良時代の柱五本使用されている本殿(寺院のお堂)の前に、「飛鳥からの右近の橘、吉野からの左近の桜」との内容が記されて植えられています。 飛鳥の橘 多分、橘寺(門前に若木が数本植えられている。) 吉野の桜 神仙境吉野を象徴する木ですが、役小角が植えたのは伝説で、実際には、マルヤさんの「吉野の桜」 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/sakura.htm によりますと、「吉野の桜が登場するのは10世紀初頭の「古今和歌集」が始め」と云うことで、神仙境吉野と桜との関係は想像するしかありません。 で、縄文遺跡があるように古代から開発されていること、段々畑で稲作を行い、所々に桜木が植えられていたのでしょう。 吉野に桜木神社 日本では18社、うち2社は木花開耶姫命が祭神。 神仙境の象徴の丹生、その色は桜?。
春が待ち遠しいですね。 |
[4837] Re: 非時香果 恋川亭 |
2004/02/08(Sun) 16:17 [Reply] |
夜中にヘベレケで投稿するとナマイキな文になりました。反省<(__)> で、シラフの今の疑問、大陸の天子様は非時香果をどうしていたのでしょうか? 独占非公開?それとも興味無し? |
[4836] Re[4828]: や、ら、やか、らか
かたばみ [Mail] [Url] |
2004/02/08(Sun)
13:53 [Reply] |
サク・ラと分けるかサ・クラとわけるか。 言葉を考えるときのやっかいな部分だと思っています。 極端にはサ・ク・ラとも分解できるはずですが、ここまで短くすると多数の類似パターンが生じてなんでもありになりそう。
分解の判断ひとつであとの解釈がまるで違ったものになると思います。 サク・ラと分解するのは咲くという言葉が含まれるとみなしているからだと思います。
ヤマザクラは緑山の斜面をぽつぽつとピンクに染めて、遠くからみて美しい木と感じます。 神の降りる場所を彩る木、そんな情景を重視するとサ・クラに分解することもできると思っています。 斎場(斎庭)サニハ、鐸(鉄鈴)サナキ、などもサ・ニハ、サ・ナキじゃないかなあ。
なお、白川静氏の字訓では農耕とからめた「サ・座」の説ありを紹介していますが、サク・ラが簡明であろうとしています。 私は神の降りる場所とからめた「サ・座」のほうがもっと簡明だと思うんだけど(^^;) サナキについては語源不明とし、サニハでは語源にふれていません。
ps. ≫さなへ、さをとめ、という語が『時代別国語大辞典上代編』には出てないので、上代語ではない、と思うのですが
早乙女は1092頃までの宮廷を描いた栄華物語にでてくるようです(読んだことなし) 早苗は古今和歌集(913)ですからおそらくはどちらも平安期での登場でしょうね。
なぜ、早乙女や早苗の表現が生じたのか・・ここだと思います。
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[4835] Re[4830][4829]: 非時香果
かたばみ [Mail] [Url] |
2004/02/08(Sun)
13:51 [Reply] |
≫記紀などには道士の来日の記録はなさそうですね
持統天皇の藤原宮出土の木簡に「本草集注」という記述があり、道教の指導者陶弘景(456‐536)が書いた本だそうです。 道教は仏教と違って現世での実用性を含む、秘密兵器は公開しなかった(^^;
持統天皇が何度も吉野へいっているのは吉野川や紀ノ川の水銀(最高位の仙薬)による不老長寿を求めて、という論がありますが賛成です。 転じてこの一帯を仙郷とみるようにもなっていったのではないでしょうか。
弥生頃の原始道教?も日本にやってきていると思ってます。 http://www.town.tawaramoto.nara.jp/1.news/part/03_topics_4.html (田原本町教育委員会保管) 抱朴子(317)では褐鉄鉱の固まりの土を禹餘粮ウヨリョウといって不老長寿の仙薬としています。 禹餘粮は光明皇后が東大寺に奉納しており、正倉院の御物にもあるそうです。
縄文の森と密着した生活と、道教発祥とみられる中国南部の環境の類似性が、最初から多くの共通項をもって違和感なく融合していったと考えています。 これが弥生時代あたりでの原始道教?で、出雲に多大の影響を与えたとみています。 (縄文と深く接していたのが出雲だと思います)
秦時代以降の道教は神仙思想化し(徐福など不老長寿指向)、唐時代以降では仏教や儒教とも融合して変化しているようです。 道教といっても時代ごとに考える必要があると思います。
光明皇后の禹餘粮は不老長寿の仙薬だが、唐古・鍵遺跡の禹餘粮はもっと根元的な感覚によると思うのです。 だから最大級の大型勾玉を中に納めているのではなかろうか。
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[4834] Re[4827][4826][4825]:
橘あれこれ 十 常世と高天原 二 かたばみ [Mail] [Url] |
2004/02/08(Sun)
13:48 [Reply] |
≫ひょっとしたら、種子島の種とは米のことか
種子島は鉄でも先進地ですね。漂着した鉄砲の見よう見まねだけでコピーできるものじゃないと思います。 古来から重要な貿易拠点(情報拠点)になっていて、それが「種」の意なのかも。 ま、柿の種に形が似てるけど(^^; 高空からみないとそのイメージにはならないだろうなあ。
天火明は書紀では1書にちょいとしかでてきませんが、先代旧事本紀で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として書かれる人物と同じだろうなあ。 旧事本紀ではこの系譜を天孫本紀とし、瓊々杵系譜は皇孫本紀(天孫でもある)として別系で書いていますが、天孫に2系譜が存在することを示すのが旧事本紀の主眼だと考えています。
以下青草 天火明は河内国に降臨となっていますが、天火明の後裔勢力は出雲と抗争と和平を繰り返しながら熊野〜濃尾〜浜松に展開していたとみています。 愛知の朝日遺跡や浜松の伊場遺跡の大環壕が抗争を示し、三遠式銅鐸が和平(支配下)を示す。
以前だしたけど神武時代の推定図(持論、神武
36- 66) http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif この状況が後に孝昭天皇が尾張系の妃を入れる理由になって倭国争乱へ(持論、孝昭105-137)。
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[4833] Re[4829]: 非時香果 ペギラ [Mail] |
2004/02/08(Sun) 09:53 [Reply] |
> > 今までのところ、道教説話に「橘」が出てくる物が見つけられません。 > だれか、ご存じの方、教えてください!! > 自力で見つけてしまった(笑)
葛洪著「神仙伝」 http://www.h3.dion.ne.jp/~china/sinsenden.html
内容はこちら http://members.jcom.home.ne.jp/tink/botan/flower1/hana3tagyou.htm
・・・抜粋・・・ 蘇仙公(そせんこう)は早くに父を亡くし、母と二人で暮らしていました。蘇仙公が得道して数年後、仙人の仲間たちが蘇仙公を迎えにやってきました。蘇仙公は嘆く母親に箱を渡して言いました。 「来年、疫病が流行るでしょう。庭の井戸水1升と軒端の橘の木の葉1枚で一人の病人を治すことができます。何か必要な物ができた時には封じた箱を叩けば出てきます。ただし、決して箱を開いてはいけません。」 そして、蘇仙公は雲の中に昇っていきました。 翌年、疫病が流行すると、蘇仙公の母親は井戸水と橘の葉で病人を治療してあげました。また、不足の物があると箱を叩いて出しました。しかし、3年もたった頃、母親は箱を開けてしまいました。すると二羽の白鶴が箱の中から飛び去り、それ以後は箱を叩いても何も出てこなくなりました。 母親が百余歳で亡くなると、村人達が葬りました。すると、東北の山を紫色の雲が覆い、蘇仙公が号泣する声が聞こえました。 ・・・・以上・・・・
橘三千代説話の「杯に浮かべた橘」ってやつのネタもとかな?
不老長寿か?う〜ん、微妙。(-_-;)
「橘」の存在、あった! まず一歩前進。 |
[4832] Re[4826][4825]: 橘あれこれ 十 常世と高天原 二 大三元 |
2004/02/08(Sun) 00:59 [Reply] |
> > 早苗、早乙女はそのまま田苗、田乙女に置き換えできますね。
さなへ、さをとめ、という語が『時代別国語大辞典上代編』には出てないので、上代語ではない、と思うのですが、どっかにありますか? さ と た を入れ替えてみるという試みは上代語の限定仕様だろうと思いますが。
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[4831] Re[4830][4829]: 非時香果 恋川亭 |
2004/02/08(Sun) 00:55 [Reply] |
半可通が横からお邪魔しま〜す!
〔公開の掲示板で、詳細な説明はできないのですが。『○○○・コネクション』的、さまざまな国籍の方々との赤裸々な(プライベート下の)お付き合いを経てしまうと現実に難しい面が多いことをご了解頂きたく思います。〕 若い頃、なぜか偶然?道観で拝師の入門式を受けてしまった経験がありまして(Pの入会式ほどの恐ろしさはありませんが)。
少なくとも、一般的な日本の中(マスコミや教育関係)では、 『道教に対して誤解があるのではないか?』 (もちろん中国に対しても)と感じています。これは特に、色々出版されている「古代日本での道教の影響」に対して、ですネ。 私個人の経験なんてタカが痴れていますが、どこか肌身で感じてきたことと違和感があります。
しかし、その中でも違和感を感ずることなく納得できた本は、岡田英弘先生の一連の著作でした。 ・『倭国』(東アジア世界の中で)/中公新書版 ・『この厄介な国、中国』/ワック(株)版 ・『やはり奇妙な中国の常識』/ワック(株)版 等、一見ミギー的主張のように読めますが「戦前からのカマー(1世)の人達」にさえこれぐらいは常識で、ソサエティを維持する為に実際は(以下略)。
さて、岡田先生は道教の起源を五斗米道に求めています。レフトな方もぜひ上記図書をご参考下さい。 「易姓革命的運動」を推進するために、種々の民間習俗を集めたり教義・儀式を作りあげていったわけです。起源そのものが一種の政治活動的な宗教なのですね(それは孔子後の儒教も同様か)。 私が古代史において「道教」を単に「道教という宗教」があったが如く取り上げることに違和感を感じるのは、その来歴の検討が十分であるか?といったところです。 決して「老子云々」の宗教では無いようです。では、何が言いたいか・・・? 『古代の大陸の習俗・信仰と、列島のそれを付き合わせるときに、ヤットコで持つような方法よりも、ピンセットで扱うような繊細さが要求されるかもしれない、と思うのですが大袈裟でしょうか?』 ということです。年代や内容の検証など、丁寧に扱うと意外なルーツが確定できるかもしれない、という期待もこめて。 今の流れの橘のことを言っているのではないですヨ。煮詰めると古代史が面白くなるかもしれないからです。m(__)m |
[4830] Re[4829]: 非時香果 神奈備 |
2004/02/07(Sat) 21:08 [Reply] |
> 日本独自の発想ではないかと、思えてきた。 漢方薬に橘皮は遣われているようです。 http://www.ekanpou.com/china/H-1.htm これをもって『道教説話に「橘」が出てくる』とはしにくいところですが・・。
『魏志倭人伝』に、「生姜、橘、山椒、茗荷が 自生しているが 倭人その滋味を知らず。」とあります。橘はこの国自生ですが、『日本書紀』の編纂者は『魏志倭人伝を』知っていたはずですが、卑弥呼=神功皇后と考えていたのなら、景行天皇の代に橘が渡来しても矛盾はなさそう。
植物としての橘の特長
(一)橘の再生と母性原理 多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出すそうです。母植物そのものを再現するのです。最先端技術ですね。古代の母系社会の象徴的植物。
(二)橘の実の代々のつならり 橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっているものもあるそうです。昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じになっているとのことで、これは代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ています。福嶋さんご指摘。 なお、田道間守が持ち帰ったのは橘ではなく橙との説もあるとか。
いずれにしろ、常世を象徴するにふさわしい植物との認識はあったのでしょう。
記紀などには道士の来日の記録はなさそうですね。 仮説。 (一)彼らが都市の地図に通じており、海外への出張は認められていなかった。 (二)史記に記された徐福のことが知られており、皇帝は出張を認めなかった。 (三)渡来人は道教の知識を持っており、彼らがこの国に伝達したので、強いて道士を招聘する必要はなかった。
道観らしいものを作ったのかもい知れませんが、道観と云う表現もありませんね。
一体、この国の固有信仰って切り出せるものでしょうか。 |
[4829] 非時香果 ペギラ [Mail] |
2004/02/07(Sat) 19:08 [Reply] |
神奈備さんの問題提起から、道教の世界まで漂っていましたが、 どうしてもわからない!
橘が常世の国に存在しているのか?
今までのところ、道教説話に「橘」が出てくる物が見つけられません。 だれか、ご存じの方、教えてください!!
日本書紀では、「今橘と謂ふは是なり」
神仙の本家では「橘」を重要視している風には思えないのですが、 日本では、常世の果実となっている。
皇極紀に出てくる橘の樹につく常世の虫。 これは道教の世界にも似ているものはある。
「幕府燕閑録」の巫蠱 蚕に似た虫、食錦虫という昆虫を使う金蚕蠱の説話。 ここにも、もちろん「橘」は出てこない。
日本独自の発想ではないかと、思えてきた。
そもそも「橘」なら、わざわざ常世に行かなくても倭国に存在する。
どこかに、なにかトリックが潜んでいる。(-_-;) |
[4828] や、ら、やか、らか 大三元 |
2004/02/07(Sat) 18:29 [Reply] |
や、ら、やか、らか、は『時代別国語大辞典上代編』によると、いずれも「情態性の体言を構成する」とあります。「情態性」・・・どんなことなのでしょうね。今の言葉で言えば「にぎやか、ほがらか」「そや、そら??」のような語感なのでしょうか。
三浦佑之著『古事記講義』では、「繁栄と有限の二つを象徴化したコノハナサクヤビメがサクラでなければならない」としています。(深い考察に基づいているが省略) そして、「咲く+ラ(接辞)」と理解しています。
私は、なるほど、サクヤとサクラか、と言葉の上から納得しました。
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[4827] Re[4826][4825]: 橘あれこれ 十 常世と高天原 二 神奈備 |
2004/02/07(Sat) 17:06 [Reply] |
かたばみざん こんにちは。
> 種子島 種子島と云えば鉄砲伝来、この島には徐福が留まった亶州に比定する方もおられるようで、北方から一度南下して黒潮に乗る船、南方から北上してくる船、それぞれが漂着しやすい島のようですね。 そうしますと、おっしゃるように赤米、白米を携えた人々が流れ着いて、稲作を始めていることは充分考えられます。 ひょっとしたら、種子島の種とは米のことか。
> 雲南のハニ族の慣習 照田苗、科学的な根拠があるのかも知れませんね。山火事があった側の田はだいたい豊作だとか? もしくは焼き畑の記憶? ハニ、秀麗な山の見える所の神の依りつく木を中心に村作りをすると云う民ですね。
> 天火明 籠神社の『海部系図』から 彦火明命の御子の建位起命(タケイタテ)は、海部氏の始祖・火明命の御子神で、かつ瀬戸内海航行の国津神で、後に大和国造となった宇豆彦命(椎根津彦命)の父神。 大三元さんの『初期天皇后妃の謎』(買いました。PUBのママさんに返して貰おうとしますと、そのコストで2冊以上買えると云うことを発見。) P.108綏靖天皇は鵜草葺不合尊だったの節に建位起命と阿蘇の建磐龍命との類似を指摘されています。 http://www.dai3gen.net/hohodemi.htm
> 桜=サ・クラ 桜≠サ・クラ 桜=サク・ラ 田と田との間にこの木を植えて、持ち分を明らかにしつつ、豊穣を祈りました。田と田を裂く木で、裂く田、これがサクラへと転。 |
[4827] Re[4826][4825]:
橘あれこれ 十 常世と高天原 二 神奈備 |
2004/02/07(Sat)
17:06 [Reply] |
かたばみざん こんにちは。
>
種子島 種子島と云えば鉄砲伝来、この島には徐福が留まった亶州に比定する方もおられるようで、北方から一度南下して黒潮に乗る船、南方から北上してくる船、それぞれが漂着しやすい島のようですね。 そうしますと、おっしゃるように赤米、白米を携えた人々が流れ着いて、稲作を始めていることは充分考えられます。 ひょっとしたら、種子島の種とは米のことか。
>
雲南のハニ族の慣習 照田苗、科学的な根拠があるのかも知れませんね。山火事があった側の田はだいたい豊作だとか? もしくは焼き畑の記憶? ハニ、秀麗な山の見える所の神の依りつく木を中心に村作りをすると云う民ですね。
>
天火明 籠神社の『海部系図』から 彦火明命の御子の建位起命(タケイタテ)は、海部氏の始祖・火明命の御子神で、かつ瀬戸内海航行の国津神で、後に大和国造となった宇豆彦命(椎根津彦命)の父神。 大三元さんの『初期天皇后妃の謎』(買いました。PUBのママさんに返して貰おうとしますと、そのコストで2冊以上買えると云うことを発見。) P.108綏靖天皇は鵜草葺不合尊だったの節に建位起命と阿蘇の建磐龍命との類似を指摘されています。 http://www.dai3gen.net/hohodemi.htm
>
桜=サ・クラ 桜≠サ・クラ 桜=サク・ラ 田と田との間にこの木を植えて、持ち分を明らかにしつつ、豊穣を祈りました。田と田を裂く木で、裂く田、これがサクラへと転。 |
[4826] Re[4825]: 橘あれこれ 十 常世と高天原 二 かたばみ [Mail] [Url]
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2004/02/07(Sat) 01:00 [Reply] |
橘とはずれますが、日本財団の自然と文化(1996.53号)に
≫種子島では北端の浦田神社(祭神は玉依姫の夫のウガヤフキアヘズノ命)と南端の宝満神社は一対 ≫になっていて、その縁起書に、浦田神社で栽培の白米が絶えたときは宝満の赤米を持って来て植えると、 ≫赤は白になって捻ると書いてある
とあります。 中国や東南アジアの米は晩生種で、日本の米は赤米は別にして早稲種。 (台風がくる前に収穫できる) いつどこで早稲種が登場したかはおいて、鵜草葺不合尊の白米が早稲種のことではないかと考えています。 赤米は南からの伝播で南の宝満神社、白米目は北の浦田神社でこれは九州側から伝播か?
早乙女とか早苗のサはこの早稲種を愛でる意味じゃないかと思っています。 (桜、サ・クラと同じ)
雲南のハニ族の慣習で ≫人々は鬼払いや疫病を払うために燃やした松明で水田を照らし、燃える松明の炎で稲穂をあぶり、 ≫「稲の火中出産」を促し、「照田苗」と呼ばれる儀礼を盛大に行う
木花開耶姫は室にはいって火をつけ、そのなかから子等が生まれます。 同じ慣習からの神話ではないかとありますが、まったく賛成です。 この儀礼には早乙女と若者の結婚と出産儀礼もからんでいるようです。
しかし、木花開耶姫が海神系とすると・・ 山の上に祀られた木花開耶姫、困ったわあ、高いところは苦手なのよぉ、となりそうです(^^; 瓊々杵尊の妃は吾田鹿葦津姫が本当ではないかと思っています。
彦火瓊々杵尊の火も稲穂と火の慣習からの名じゃないかな。 天火明はなんとなく雰囲気が違うような気もする、こちらは阿蘇火山の火もありか。 天孫降臨神話の源は阿蘇山〜日向へと、九州西岸への2系列があったと考えています。
彦火々出見尊の離婚と鵜草葺不合尊の登場あたりでそれまでの海神族との関係が変化しているとすると、鵜草葺不合尊が白米というのが納得できます。 海神族の文化とは異なる文化を持ち始めたわけです。 (そして2つを統合したのが神武、というのが持論)
大三元さんの ≫サ行とタ行が通用することが知られているからです これは面白いですね。
早苗、早乙女はそのまま田苗、田乙女に置き換えできますね。 ただし、桜=サ・クラだったとしてタ・クラはちと無理。 仮定を重ねないといけないけど、タとサの変化がいつごろからかが推定できれば、サクラの名称の登場がそういう変化の後である、なんて推定もできるかなあ。
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[4825] 橘あれこれ 十 常世と高天原 二
神奈備 |
2004/02/05(Thu)
20:41 [Reply] |
降臨した邇邇芸命は塩筒翁の別名とされる事勝長勝長狭が治めていた国に行ったようです。塩筒翁とは天照大神とは橘仲間の住吉大神。その所。そこには長狭の国とか狭名田が登場します。
高天原で天照大神が水田種子(たなつもの)を植えたのが、天狭田及び長田で、邇邇芸命と稲作との関わりの深さが見えます。 また、今日でも住吉大社の御田植祭は重要な祭典。
さて、前述しましたが、岩長姫は醜いと云うことで、お引き取りを願ったのは邇邇芸命の短慮で、これで天孫の寿命は短くなったとされています。その反動で、海神、海人族の娘への憧憬があり、大王の妃となっていくのです。
天孫降臨に先導した猿田彦神は、高千穂から伊勢の狭長田の五十鈴の川上に行きます。狭長田、吾田の長屋の笠沙碕に似た名前です。 それはともかく、猿田彦神の凄いのは、倭姫が天照大神の鎮座地としてやっと探し求めた所にとっくに先導している事です。流石です。
豊鋤入姫は、吉佐宮、磯城、名草浜宮、名方浜宮と一時的に戻る以外は常世とのつながりの海辺を試みています。判っていたのですね。 一方、倭姫は陸地に迷い込み、もうすぐ伊勢と云う所で琵琶湖方面へと、遠回り。二人とも母は海人族のようですね。育った地が紀の国か、大和かの海へのなじみの差かも。
常世と降臨の図は下記に http://www.kamnavi.net/jm/tatibaj3.jpg これを見ていますと、常世は海の向こうで、その海にこの国は囲まれていること、中世の日本地図が龍がこの国を抱くように描かれていたのがありましたが、そのように守られた良い国のはずだとつくづく思います。 |
[4824] Re[4823][4822]: 橘あれこれ 九 常世と高天原 一 神奈備 |
2004/02/05(Thu) 07:30 [Reply] |
> ふむ、そうなると、トコヨとソコヨか。何処よ、って? 底世。。。
大三元さん おはようございます。「通用しそうです。」に力を頂いております。 ふっと、思ったのですが、山を巻くようなスプリングの絵があり、これが龍のイメージで説明されたりします。水神。 山の麓の棚田に水をひく、福嶋さん曰わくの北側の積雪の水と合わせて考えると、北側から南側への水路が数本ひかれたととしますと、これは現物としての水神。 |
[4823] Re[4822]: 橘あれこれ 九 常世と高天原 一 大三元 |
2004/02/04(Wed) 21:38 [Reply] |
> > 一書第三では、女神は神餞の田を狭名田と名付けています。
サナダ と タナダ というのは通用しそうです。 サ行とタ行が通用することが知られているからです。(イササとイタサ:トコタチとソコタチ)
ふむ、そうなると、トコヨとソコヨか。何処よ、って? 底世。。。
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[4822] 橘あれこれ 九 常世と高天原 一 神奈備 |
2004/02/04(Wed) 20:38 [Reply] |
『古事記』天岩戸開きのお話 高御産巣日の神の子思金の神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集(つど)へて鳴かしめて云々とあります。常世の長鳴鳥を高天原に連れてきて集めたと云うこと。一体誰が連れてきたのでしょうか。
『古事記』天孫降臨のお供のお話 常世の思金の神、手力男の神、天の石門別の神を副へ賜ひて云々
そう言うことで、上記二文から、高御産巣日の神、思金の神はどうやら常世の神のようで、高天原に常駐していたのではないのかも知れません。それが、皇祖として高御産巣日の神と天照大神の二神が見なされるようになって、高天原も常世とされていったのかも。
さて、常世から降臨する天神の依り代は橘でした。 筑紫日向小戸橘之檍原 すくっと立った薫り高き実のなる常緑樹 小戸橘之檍原で誕生した天照大神は高天原におもむき、その後重波の帰す伊勢の五十鈴川の川上に鎮座、常宮に坐すことになりました。
高天原から降臨の天孫の依り代は高千穂です。 筑紫日向高千穗クシ觸之峯 高く積み上げられた稲穂
邇邇芸命は高千穂の峯から事勝長勝長狭が国主である吾田の笠沙の御碕に行き、そこで秀起つる波穂の上で機経る少女(木花開耶姫)を見そめます。一書第三では、女神は神餞の田を狭名田と名付けています。
波穂の上で機経る少女とは、やはり常世からの神を待つ棚機姫でしょうが、この棚機とは布を織ると云うことでしょうか。稲作には、所謂棚田が水分上でも便利であり、初期には平地ではなく、ゆるやかな山地が稲作の地だったと思われ、棚機姫とは棚陸田姫(たなばた)で早乙女であり、神餞を育てていたとも考えられます。
阿治志貴高日子根神の降臨と下照比売の歌の「天なるや 弟棚機の 」の棚機もやはり神の依り代なのかも知れません。 依り代一覧 タチバナ タカチホ タナバタ 共通する「何か」があるのでしょうね。何だろう。 |
[4821] 遺愛子さま なにがし |
2004/02/03(Tue) 20:26 [Reply] |
>現在も神仏習合している神社 それは神社の中に寺があるもの?それとも寺の中に神社があるもの?並び立っているもの? |
[4820] Re[4819][4818]: 橘あれこれ 八 雄略、河内、志紀、橘 神奈備 |
2004/02/03(Tue) 18:02 [Reply] |
水屋神社のHPが更新されました。 http://www.ma.mctv.ne.jp/~mizuya-s/ 水屋神報 第一六〇号 に「倭姫伝説 姿見の池」が登場。
かたばみさん こんにちは。 > 青草になりますが いえいえ、深草ですね。この方面には、深く分け入っておられる。 > 近畿大王系の氏族が九州大王系の雄略によって滅ぼされあるいは 筑紫の君磐井は雄略天皇の息子か孫であり、当然大和での大王として招聘される所が継体天皇に行ってしまった故の争乱と小生も思っていました。ただ、詳細なことは全然詰めていないので青草もいいところ。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/daiou.png これは面白いと思います。
> 10年はあまりに長すぎる。 目的とする物と場所が特定出来ていて、そこへまっしぐらと云う訳ではなく、「もの」と「所」とを訪ねて探して歩いたのでしょう。
明日香村の橘寺発行の『橘寺と聖徳太子の昔ばなし』から
垂仁天皇から不老長寿の元になるものを探すように命じられた田道間守はあちらこちらの国を訪ねて探し歩きました。どこにも見つかりませんでした。 所が、不思議な光景に出会いました。それは老人が若い娘に叱りつけられて泣いているのです。田道間守が話を聞いてみると、若い娘が母親で、老人はその息子であるというのです。母親は一つの実を示し「この子だけが酸っぱくて嫌だとこれを食べないのです。だからこんなに年を取ってしまったのですよ。」と云いました。 それを聞いた田道間守は、おどりあがって喜び、その不老長寿の実のなる木を数本譲り受けて帰国しました。以下は記紀と似たような内容
『橘あれこれ 八』補遺 餌香市とはどこかとやりましたが、 万葉集の浦島の歌は巻九の一七四〇と一七四一ですが、この次の歌 巻九 一七四二 見河内大橋獨去娘子歌一首 があります。 しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍も ち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく 訳 河内大橋を一人で渡っている赤い着物の娘さん、独り者かいな と聞きたいね どこに住んでんの。
浦島の歌の次に河内大橋の歌、なんでだろう。 雄略天皇の歌が万葉集のトップ、なんでだろう。
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[4819] Re[4818]: 橘あれこれ 八 雄略、河内、志紀、橘 かたばみ [Mail] [Url]
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2004/02/03(Tue) 13:04 [Reply] |
≫一言主神との遭遇も含めてこの天皇は常世的存在と云いたいのかも知れない
雄略天皇は特異なことが多い天皇ですね。 青草になりますが、遡れば親戚ではあるけれど、九州系、近畿系、日本海系の大王が錯綜しており、記紀はそれを1系に合成しているとみています。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/daiou.png
雄略時代に葛城氏が滅びて代わって秦氏系が渡来者を総括する立場に登場する。 近畿大王系の氏族が九州大王系の雄略によって滅ぼされあるいは支配され、雄略が関東まで支配した時代。 そのあたりに雄略の特異性があると考えています。
雄略における武神の象徴は手力雄命で、重要拠点に配祀されたとみています。 信州の戸隠社も同時代の登場で、信州と縁もゆかりもない神様の登場の理由はそこにあると考えています。 (ちなみにタケミカヅチは書紀編纂以降に象徴とされて登場と推定)
東京の湯島社が手力雄命を創祀としていますが、本郷台地の東斜面に立地して眼下には上野台地や浅草台地が広がります。 上野や浅草周辺は日本武尊と出雲系の古社が少なからずあってその伝承も多い地域です。 その一帯を見張るには絶好の位置(^^; 江戸時代では展望の名所だったようです。現在はビルに囲まれてなにもみえないけど。
≫『徐福伝説を探る』で福永光司氏が述べておられます
福永光司氏も少なからぬ影響を受けたおひとりです。 「馬の文化と船の文化」で常世の国がどこかの氏の推定があります。 渤海湾を弱水とみなして済州島。
弱水をどう判断するかがキーだと思いますが・・私はあくまで雲南〜チベット東部(^^; 戦乱にまきこまれない済州島は注目すべき島だと思いますが、弥生の海人にとっては10日の距離ではなかろうか。10年はあまりに長すぎる。
丈夫で軽快な小型帆船なら沖縄の双胴サバニのごとくフィリピンまで漁にでかけます。 弥生の海人からみれば上海であっても船でゆける場所ならそれはみな寄港地だと感じていたのではないでしょうか(日本の沿岸航海に特化した人々を除く)。 秘境、神仙区といったイメージは馬でも船でも容易ではない場所だからこそのイメージだと思います。
そして、時代が下るほど渡海能力(風と星を見る技)が低下して海外情報にうとくなってゆく、九州系の海人達も。 常世の国のイメージも身近で現実的なものに置き換わっていったと考えています。
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[4818] 橘あれこれ 八 雄略、河内、志紀、橘 神奈備 |
2004/02/03(Tue) 09:31 [Reply] |
浦島伝説は『日本書紀』の雄略天皇の段に記載があるが、「語は別巻にあり」で、詳細は記されていない。別巻とは『丹後国風土記』だろうか。 『万葉集』一七四〇には、水の江の浦島の子を詠めるとして墨吉の岸の物語として歌われている。筒のつながりか。
『古事記』では、雄略天皇と引田部の赤猪子との時を越えた物語が記載されている。即ち天皇は年を取らず、赤猪子だけが老女になってしまうのである。一言主神との遭遇も含めてこの天皇は常世的存在と云いたいのかも知れない。 そう云うこともあって、雄略天皇十二年、「初めて楼閣を起りたまふ。」とある。これも道観か。 『古事記』雄略天皇が河内に行った際、堅魚を上げている家を見つけた。志幾(シキ)の大県主の家であった。「天皇と同じである、不遜。」として其の家を燃やそうとした。大県主は畏みて白い犬に品物を付けて献上して、燃やされるのを免れたとのお話。 『日本書紀』にはこの話しは出ていませんが、河内でやはり品物を献上させた話が出てきます。 十三年、歯田根命が、ひそかに釆女山辺小島子を犯した。天皇はこれを知り、責めた。歯田根命は餌香市辺の橘の木のもとに資財をむき出しで置かしたと云うお話。 河内、罪、品物で償う、と共通点がある。ここに河内の志幾と橘が出てきます。
餌香市とはどこか、と云うことが気にかかります。エガ(恵我)の地名は、松原市、藤井寺市、羽曳野市一帯に広がっており、それだけで特定できるものではありません。
志紀県主神社の鎮座する国府跡付近は、人々の集まりやすい場所のようで、市があったのかも知れません。この東を船橋と云い、大和川と石川の合流する所でもあり、人の行き来も活発、かつ境界でもあり、市の立地にふさわしい所。江戸時代の勧請とする大山咋神社が鎮座、参詣された方、境内に橘の木など生えていなかったでしょうか。 |
[4817] Re[4815][4814]: 神仏習合について 神奈備 |
2004/02/03(Tue) 09:30 [Reply] |
> http://myoue.hp.infoseek.co.jp/ > ひょっとしてこちらのサイト管理者の方でしょうか。 > > > さて今回は表題の通り現在も神仏習合している神社を探しております。 > > なぜ、その情報が必要なのか。 > ご自身では、どのような調査をしたのか > なども書くべきではないでしょうか。
そうですね。情報を頂ければ、探すのに効率がいいですね。 とりあえず、遺愛子さん 英彦山に登拝され、神宮や権現社に参詣下さい。 |
[4816] 橘あれこれ 七 橘・常世・その他 2 神奈備 |
2004/02/02(Mon) 18:26 [Reply] |
徐福伝説と道教 徐福は道教の方士。方士とは祭祀と医薬に通じたプロ。日本各地に徐福の漂着伝承がありますが、明確な物的証拠はありません。 佐賀の金立山へ徐福が行くとされていますが、この時に上陸地を盃を浮かべて占ったと言います。浮杯はより後世のもので、どうも江戸時代頃に作られた伝承のようです。新宮の徐福の墓なども江戸時代に設けられたようです。町民文化が栄え、余裕のあるインテリが登場して来たのでしょうね。 しかし、道教の影響としては、卑弥呼の鬼道や現在の神社祭祀に通じるもろもろのものに現れています。砂や土で円錐形の盛りあげをつくり、御幣を立てるのは、封禅の内の天を祀る封。大地を清掃し祭壇を造り大地を祀るのを禅と云うとか。 縄文時代からの自然信仰に道教が加味されて日本の神祭りのスタイルが出来てきたのでしょうが、徐福が影響を与えたとは限らないということ。
『日本書紀』斉明天皇二年九月 「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。また、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮(あまつみや)と曰ふ。」 これは吉野から来る神仙を待ち受けて不死の仙薬を得ようとしたと、『徐福伝説を探る』で福永光司氏が述べておられます。 酒船石の下の亀石も道観の跡かも。 |
[4815] Re[4814]: 神仏習合について 玄松子 |
2004/02/02(Mon) 17:12 [Reply] |
http://myoue.hp.infoseek.co.jp/ ひょっとしてこちらのサイト管理者の方でしょうか。
> さて今回は表題の通り現在も神仏習合している神社を探しております。
なぜ、その情報が必要なのか。 ご自身では、どのような調査をしたのか なども書くべきではないでしょうか。 |
[4814] 神仏習合について 遺愛子 [Mail] |
2004/02/02(Mon) 16:46 [Reply] |
みなさま。こん**は 先日は三部権現・九所明神についてお教えいただき有難うございました。
さて今回は表題の通り現在も神仏習合している神社を探しております。 特に観音さまを祀る神社を探しております。 (出来れば宮司さまのいるところが良いです) 不躾で申し訳ありませんが宜しくお願い致します。 遺愛子 敬白 |
[4813] Re[4812][4809]: 橘あれこれ 六 神奈備 |
2004/02/01(Sun) 21:53 [Reply] |
サン・グリーンさん こんばんは。 > 石長姫が鎮座しているのは(正確には)九合目から上(と申し上げた) すみませんね。記憶力の退化が甚だしいようで。 富士山頂で御来光の後でラーメンを食べた記憶があります。降りるのは楽でしたね。 > 引退された鈴雄宮司様 第二次ソシモリ探検でも相談してきます。南韓国、鉄の産地の高霊とか高天原もあるそうですから。 |
[4812] Re[4809]: 橘あれこれ 六 サン・グリーン [Url]
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2004/02/01(Sun) 10:45 [Reply] |
神奈備さま
掲示板にて学ばせて頂くばかりで書き込みごぶさたしていましたら、私の名前を見つけてびっくり(*^_^*)というわけで、少し訂正させていただきますね。
> > 『古事記のものがたり』の宮崎みどりさんから聞いた話ですが「富士山の八合目以上は岩のみで木々はない。ここに石長姫が鎮座、七合目以下は木々と樹海、まさに木花咲耶姫の世界。以下略。」
石長姫が鎮座しているのは正確には九合目から上、八号目はまだ這いつくばるように背の低い植物がほんの少し生えていたように記憶しています。 10代の頃に富士山に登ったことがあるので、ついこの間?のことなのに記憶が曖昧ですみません(*^_^*) しかし、山頂は明らかに火山岩がごろごろしているだけの殺伐とした岩石の世界でした。 だから私は、あれではコノハナ姫も手が出せないのではと単純に閃いただけなのですよ。 学術的根拠もなければ霊能やチャネリングなどもできませんので、私だけの個人的見解ですので軽く聞き流してくださいませ。
> > 昨夜姫との楽しい会合、ご出席の方々、ありがとうございました。
わたしもお誘いを受けたのですが、あいにく風邪でセキがひどくて失礼しました。 さぞ賑やかで楽しかったことでしょうね。
そうそう、和歌山のイタキソ神社が見違えるように奇麗になっていました。 引退された鈴雄宮司様が神奈備さまにとても会いたがっておられましたよ。 |
[4811] 橘あれこれ 六 橘・常世・その他 1 神奈備 |
2004/02/01(Sun) 08:25 [Reply] |
浦島伝説 『丹後国風土記逸文』に「与謝の郡の日置の里の筒川村に、浦島の子と云う者がいました。云々。 この物語は、 オンラインマガジン 浦島伝説 丹後国風土記逸文に、全文が掲載されています。ご覧下さい。 http://www.ne.jp/asahi/tokyo/tanken/newpage156.htm 京都府与謝郡伊根町の浦嶋神社(宇良神社)では3月17日に削り掛神事が行われます。梅原猛氏の『京都遊行』(京都新聞)によれば、通称福棒祭で、近くの山のコブシとチシャの木が使われ、コブシの木の皮を取った白い枝でカンナで削掛を作り、これを俵形にしてシャチの木にくくりつけるようです。この木のことを「立花」と云うそうです。何故、立花と云うかと云うと、元々橘が使われていたとのこと。昔は丹後半島でも橘が育ったのでしょう。 ここでは何れにしろ、浦島、常世、橘とセットになっていることを発見。 浦嶋子の居た筒川とは、山幸彦を常世へ案内し、磐余彦(後の神武天皇)に大和を教えた塩筒之翁や住吉大神の筒之男神の筒を思わせます。常世へ通じるパイプ?。
また紀の国は高野山の東の山中に筒香と云う地名があり、『播磨国風土記』(逸文)に、「神功皇后が三韓出兵のとき丹生都比売命の神託で勝利したため、同神を「紀伊国管川藤代之峰」に鎮座した。と書かれている“管川”のこととされ、別の名として『住吉大社神代記』に「丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を祀った。」丹生川上のことと思われます。このことは、産物である丹沙は、水銀で不老不死の仙薬と思われ、またこの地域は熊野への通り道、やはり常世への憧憬が偲ばれるのです。 |
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