神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十六年 三月)お名前の敬称は省略しています。

[5009] 春うらら  てふてふ 2004/03/31(Wed) 13:59 [Reply]
 島根県安来市にある足立美術館が米国「ザ・ジャーナル・
オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」誌のコンテストで、桂
離宮を抜いて日本庭園世界一に選ばれました。
 同美術館には横山大観の名作「白砂青松」の持つ雰囲気を
表現した白砂青松庭、枯山水、苔(こけ)庭、池庭が美術館
を囲むように造られている。床の間の壁をくりぬき、庭をあ
たかも絵画のように見せる仕掛けも。広さ四・三ヘクタール
の庭園を常駐の庭師七人がきめ細かくメンテナンスしている
とのこと。
また、同市には日本刀の原料で、古代製鉄法たたらにより
できる和鋼に関する日本一の総合博物館である和鋼博物館や、
山陰最大の天台宗の古刹、清水寺など和のもつ美しさを堪能
できる場所になっている。
 西日本にお住まいの方などは、ゴールデンウィークあたり
に、ちょっとした小旅行を楽しまれてはいかがでしょうか。

[5008] Re[5007][5006]: 空想、列島と半島5  神奈備 2004/03/30(Tue) 16:28 [Reply]
> 畑=ハタ・ケ=舶来の農耕技術などなど。

この畑と言う字は漢字ではなく、和字ですから、舶来の農耕技術としましても、漢字圏(大陸、半島)ではなさそうで、南方からの焼き畑の伝達と。


> 海運者

と言えば、安曇族、この祖は綿津見神でもあり、一方では塩土老翁、そうして住吉三神の筒。
信憑性があるのかないのか、住吉大社の社殿(第二本宮)で踊っていた巫女さんが床が抜けて地中に落っこちたことがあるとか。そこは巨大な筒があったのかも。

[5007] Re[5006]: 空想、列島と半島5  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/28(Sun) 18:56 [Reply]

弥生系ハタ氏は海外とのつてによって貿易に携わり、渡来系の人々を配下に組み込んでいたと考えています。
商いを糧にするなら各地のハタ氏は強いつながりをもっていたはずです。

各地の「商人」には情報交換が必須、暦や文字の共通化も必要になり自然に組織化が生じ、その統括者は強い力を持つようになる。
これが日本で最初の漢字の登場ともなる、墨書土器はその流れにあるものと推定。

これと同様の状況をもつのが海運者です。
流通の要でもあり商いのハタ氏族と密接な関係になるでしょう。
これが物部氏(の祖)の登場。
(こちらも文字を使い始める、自前の文字(暗号)を工夫したと推定)

神武時代の珍彦も商業の系譜にある人物で、海人と結びついていたものと思います。
おそらくは神魂尊流で、天之忍穂耳や素盞鳴尊よりはるかに古い渡来者(持論の初期開拓者)。
その海人側伝承が椎根津彦だと思う、さらに遡れば塩土老翁でもあります。

出雲勢力の中にも同様の系譜が含まれているはずで、鴨氏あたりが商業をメインにしていたかもしれません。
で、出雲側の海運者が大己貴命系譜だろうとみています。
弱体だった素盞鳴尊が「婿入り」させて海運を強化したのが大己貴命ではないか。
(船材確保のための植林も行う必要もあります)

大己貴命の出自は東シナ海あたりか、ひょっとしてひょっとするとはるかなるインドの船長(^^;
味耜高彦根命も海運者かもしれない。
天之稚彦の友人で容姿が似ているということから天孫降臨時代の山東半島あたりの出自か。
大国主命の子ともされるのは、記紀が出雲のありようをいじくっているために生じた混乱でしょう。

太平洋沿岸と瀬戸内をメインに活動していたのが物部氏の祖となる九州系海運者。
日本海沿岸と瀬戸内をメインに活動していたのが大己貴命など出雲系の海運者。

瀬戸内は両者が混じり合う海です。
後に登場する住吉三神、上筒之男神。中筒之男神、底筒之男神は、太平洋、瀬戸内、日本海を拠点にする海運者のそれぞれの神を意味すると考えています。
海面とか海底の神などではない・・その源は星神だと思う。


日本海側の流通拠点が島根半島と若狭でしょう。
こちらには天穂日命が先着(漂着)しています。
国譲りのとき、書紀一書に大国主命を祀るのは天穂日(出雲臣)とあります。
国譲り以前の島根には天穂日があったことを示すものでしょう。
考古学的にも抗争と見える遺跡がでていますが、初期の出雲神族と出雲臣族の接触とみることができます。

島根〜若狭は流通の拠点としては絶好ですが、土地の生産力にはとぼしく大勢力の中枢にはなりえません。
で、天穂日の後裔は若狭方面から琵琶湖東岸へ展開。
その流通を握ったのが出雲系の海運者、両者は結合していった。


日本海、瀬戸内、太平洋の流通を結ぶ拠点は宇佐〜大分、ここ以上の場所はないと思います。
出雲にとっても後の天孫にとってもこれは同じ。
出雲時代、神武時代、崇神時代、応神時代、支配者が変わってもその重要性は不変です。
十市などの「市場」も宇佐〜大分にまず登場したと考えています。

で、出雲臣が琵琶湖から南下して大和へ出て出雲神族の瀬戸内航路とジョイントした場所、それが大和の十市。
大和の十市はあとからできた支店であります(^^;
環状流通路の完成です。

太平洋岸にも拠点があったはずですが、太平洋航路は商業化時代では航海の安全性に問題があって次第にすたれていったと考えています。
それが熊野や伊勢志摩。
(ただし、九州天孫と天火明後裔が接触する秘密基地となる(^^;)


宇佐周辺、渡来者との関係の深い地域、これが後の八幡神登場へのベースにもなります。
神八井耳命の後裔、多臣氏族の拠点でもあって、葛城国造(葛城直)もこの地の出自か。
神武以降では葛城直(男系祭祀者とみる)がハタ氏等の商業者を統括していたとみています。
(母系祭祀では父系であろう渡来者を統括はできない)

記紀は商業についてほとんどふれていませんが、古墳時代ではこれが重要な要素だと考えています。

続く


[5006] 空想、列島と半島4  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/28(Sun) 18:43 [Reply]

仲哀、応神時代では伽耶の鉄はもはや時代遅れの技術、倭国もまた最新の製鉄技術導入を計画したはずです。
しかしその手づるもルートもなかった。

功満王が仲哀時代(356-360)に渡来とあります。
融通王が27縣の百姓をつれて応神時代(386-402)にも渡来。

新羅本紀407に倭人が100人を奪い掠めたという記事があります。
掠奪なら普通ですが人を奪うというのはいささか奇妙、この記事が融通王の27縣に付合するのかもしれません。
346の新羅攻撃の後に新羅から人材を引き抜いたものと推定。
まずは手づるの確保です。

西晋は316に滅びて中国北部は五胡十六国時代となり西域人の往来が活発化しています。
この頃、高句麗には五胡十六国の抗争からの亡命者が多数やってきており、西域、中国の文化が大量に流入。
高句麗への仏教渡来もこの頃です。
397に応神朝は百済と国交樹立、西域ルートを確保した。

手づるとルートの確保に成功した応神朝は本格的な鉄生産技術を導入する。
それが弓月君の「己が国の人夫、百二十県をひきつれて」でしょう。
北宋の資治通鑑シジツガン1084 に弓月国の記載があり、バルハシ湖南部のようです(原文未確認)。


さて、新羅から引き抜いたであろう功満王や融通王の出自はなにか。

韓国の秦姓の人はその祖先を秦の始皇帝としているそうです。
魏志韓伝にいう「秦の役からの避難民が韓の国にやってきた、馬韓の東を割いて与え、今は秦韓ともいう」、この関連でしょう。
そういう伝承があるならその子孫が秦の始皇帝の末裔を称するのは自然です。
このあたりは新井白石説が最初のようですが、平々凡々かつそれで十分と思います。

新羅の味鄒王262が招請した西域人を管轄するには多少でも西域につながりのある秦氏系譜が適任、数世代を経れば西域人と秦氏の縁戚関係も生じるでしょう。
功満王や融通王は新羅の始皇帝系譜をもつ「秦氏」。
この時点では、弓月氏とは無関係です。


なぜ「秦」をハタと読むのか。
ごく単純に、ハタは端、外側の意。外からやってきた文化、舶来文化の意にもなるでしょう。
ハタ織り=舶来の織り、畑=ハタ・ケ=舶来の農耕技術などなど。
列島でワタ、半島でパタ、海から、渡来者といったところです。
これも平々凡々、こねくりまわす必要なし(^^;


ハタの人々、これは弥生あたりですでにそう呼んでいたと考えています。
弥生のハタ氏のメインは天孫降臨時の高魂尊流にある人々。
天孫降臨の親の渡来では始皇帝系譜の人々もいた可能性大→持論:呉楚七国の乱の関係者。
天之忍穂耳の妃である萬旛豊秋津師比賣は高魂尊流、やはりハタ氏族だと思います。

http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shiragi_ou.png
赫居世系(朴系)も同じくでその祖は、秦からの避難民である秦氏後裔と天孫降臨時代の半島への渡来者がドッキングした人々と考えています。
すなわち辰韓(新羅)の初期の王は天孫と縁戚か少なくとも仲間、となります。

初期の新羅王が渡来系であるなら、脱解といった「仲間の渡来者」を王に迎えてもおかしくはありません。
天孫系譜であろう卑弥呼が仲間である国(赫居世系譜の最後の王)へ使者を送る(新羅本紀173)ことも自然な流れになります。
下って脱解系であろう天日矛が列島へ亡命するのも自然。
(むろん出雲側ではなく天孫側へ)

続く

[5005] Re[4992]: オオタタネコ・短甲短考  恋川亭 2004/03/28(Sun) 02:33 [Reply]
> 「おたたさま」
あ、久々に聞いた・・・。この響き。
博物館や特別展で、「短甲」を何度か(いえ何度もしつこく)見ました。機会があれば、また見に行きます。初期の革紐で小さな札状の鉄板を縫い留めたものよりも、(5世紀頃とされる)数枚の大きな鉄板を組み合わせた鎧、後期の大量生産型に目がいきます。

> あれもコルセットのように胴がしまって、胸板だけは扇型に広げていますね。

 たしかに、そうですね。そしてそのシルエット、ラインが一番印象的に目に映ります。胸・腹・脇・背中をしっかりとガードしながら、肩の部分が大きく開いて開放的なので手を動かし易いようになっていました。大量生産タイプと解説がありましたが、あの『胴がしまって、胸板だけは扇型』の鉄板パーツを造るには、鍛金や板金的な加工技術を持った職人さんが必要ですね。実際に着用したとすると、汗と空気の逃げ場が少ないので、長時間はきつかったでしょうね。

 何よりも気になったのが、それら「短甲」のサイズです。目の前(ガラス越しですが)で見ると、とても小さい。今の中学生ぐらいの体格用サイズです、現代の高校生ではもう無理でしょう。カブトも小さく感じました、子供用のヘルメットみたいに。複数の博物館でいくつも見てのことですから、特別に小さい物を見たわけではないと思いますが・・・意外でした。シルエット・ラインは格好イイけど、トランジスタ・ボデイだったのかな?

「オホタタネコ」、若宮さまのタタは・・・、「直に」のタタだと思っていたのですが、『オホの直系の禰子(司祭)』では面白くもなんともないですね。(^^;)

[5004] Re[5000]: 百襲姫青草話  恋川亭 2004/03/28(Sun) 01:08 [Reply]
皆様ありがとうございます。留守で返信が遅れました。m(__)m

> 賀茂朝臣さま(Re[5000]: 百襲姫青草話)
 閣下・・・というよりバロン先生ですよね?素人相手に、親切なご指導賜り有難く光栄に存じます。感激!

> 学者風を吹かせるつもりはないんですが・・・

 ぜひともお願いします。直接ご指導頂ける機会なんて、滅多にありませんし。

> 「言葉」というものは地域の民団に普及してこそ、地名や人名に残っているわけですよ。
> 民団(コミュニティ)の移動は、相当痕跡が残るんです。ふってわいたような言語の痕跡を学術的に確証することは、まず不可能なことです。

 太文字・下線・赤色・大型フォントで強調しておきたいご教示です。深くて、とても厚いです。専門家が述べる一つひとつの所見、そこに至る道程に裏打ちされた重みと受けとめました。今後とも宜しくお願い申し上げます。キリのいい5000番!の投稿でしたね。
(余談):神戸には『ジェームス山の大将』とかが結構居ます。地域の民団に普及している地名ですので。(^^)/


> 大三元さん(Re[5001]:百襲)
ハイ、気をつけます。母母と百の関係はもっと慎重に扱うべきですね。

> 100を意味する「ホ」に関して『時代別国語大辞典上代編』では「単独にはモモというが、何百というときにホという。」と記しています。

 なかなか興味深い記述ですよね。序数的な意味合いでしょうか。『秀と書く「ホ」』なども思い出しました。火・穂・保・祝・浦・・・ホッとする系の音かな?(^^)v
欧米系の人に聞いたら、ホラーのホが思いついて怖い音とか言ってました。文化の違いは大きい。

> アイヌ語の unukar は、互いに見る=>結婚する という意味です。

 逆に互いに目も合わさなくなったら=>・・・、意味深長な語ですねぇ。オノコロ島の話しのあたりも、声に出して語りで読んでみると、音が面白いですね。


> 福島先生(Re[5003] 百襲)
 私は伝奇屋の図面引きでして、福島雅彦さんは建築の先生ですから・・・仕事柄、勝手に先生とさせて頂いてます。m(__)m

 九州に、そこまで遡る説があったとは!・・・絶句。私は、薩摩・大隅・日向・肥前・肥後・豊前・豊後・・・と数えていって、それから何だっけ???と知らなかったもので。四国が四つのクニみたいに、てっきり九州も九つあるのかと思っていました。阿倍仲麻呂が出てきますか、ムムム・・・、なかなかの変化球ですね!でも(まったくの趣味で行う)比定ってアレコレと面白い作業だと思います。

[5003] Re[4991][4988][4987] 百襲  福島雅彦 [Mail] 2004/03/26(Fri) 00:47 [Reply]
> > 福島先生
> > 『朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語』
>
> いつも思うのですが、なんだか最適な表現!半島・大陸への渡来倭人の痕跡ですね。交易・交流というのは双方向が現実ですから。古代朝鮮語が金石文等のみに、わずかしか判明していない状況では、中世から現代の朝鮮語に留まる『臍の緒』のような残存倭語という視点は興味深いですね。
> > ※阿蘇=東西の意の古代倭語。
> 阿蘇に東西の意味が含まれていたなんて!気づきませんでした。Ah,So!
> 『福島雅彦説。引用明記の上ならば、宣伝おおいに結構!』ですね。(^o^)/
> 浅茅湾と阿蘇海は東西分割って感じですが、阿蘇山は南北も含めて九州島の中央みたいに思っていましたので、チト苦しい気が・・・(^^;)

> さて先生、九州島の『九州』って、どこどこのクニ(州)を数えて9になるのですか?九州純血種なのに知らずにこの歳になってしまいました。

※先生とは、嬉し恥ずかしで面映ゆいですが…、貴殿の「この歳?」より、先に生まれてたりして…。扨て、以下に『九州』に就いて、福島説を開陳致します。
※※『九州』とは、古代中国の皇帝の直轄領?的地域九カ国を指したが、後に中国全土の意になった、とか。
 我が国の「九州島」を九州と称する原初は、多分「阿倍仲麻呂」が中国で栄達して、帰国を決意し、部下の「王維(漢詩で有名)」が送別に詠んだ歌の中ではないか、と。
 王維をして阿倍仲麻呂の帰国先を「九州」と謂わしめた物は何か?。
時の中国皇帝の公式文書課の様な部署に居た関係で、後漢書、三国志(魏志倭人伝)の倭國三十カ国が話題に成ったが…。阿倍仲麻呂は答へに窮した、筈です。何故なら、邪馬臺國も邪馬壹國も知らなかった、から…。其れは、倭人が女王卑彌呼の居所を問われての説明文言の切れ端だったのですから…、実在しないのです。九州弁で「邪馬臺國⇒邪馬・邪靡たィ(強調の終止形語尾=邪馬・邪靡ですョ!)」と「邪馬壹國⇒邪馬・邪靡ん(格助詞)ウヰ(上)」と云った、だけ。記・紀に登場しない(中国正史にしか登場しない)、倭國関連の卑彌呼、阿毎多利思比孤、和歌彌多弗利、も知らなかったかも…。
 其処で、阿倍仲麻呂は三国志(魏志倭人伝)記載の三十カ国の内、最初の九カ国の詳細記述國(他の二十一カ国は詳らかでない)を、女王直轄領と言ったのではないか、と。
即ち、「狗邪韓國(九倭韓國)」、「對海國(双山國)」、「一大國(一帯が國邑)」、「末盧國(出入国の無事を祈り奉る國)」、「伊都國(伊奘諾尊の王都だった國)」、「奴國(田の國)」、「不彌國(後の秦王國?=不在・彌(尊))」、「投馬國(筑肥山地と水縄連山(耳納山地)に包まれた=詰まった國)=上・下妻郡(倭名類聚鈔=八女郡)」、「邪馬壹國(女王の居所)」です。もう、お解りかと存じますが、国名の悉くが、倭人の国情説明文言の切れ端ばかりです。古代中国正史の書記官は、国名と勘違いして記載している。
 以上が、福島雅彦説です。無断転載禁、喧伝は大いに結構!です。

[5002] 違う話題で恐縮です。  klarin 2004/03/25(Thu) 13:55 [Reply]
tamil語に、tayy-an(豊)という語があり、日本語taと対応します(-yy-の脱落)。またciv-am(命)と言う語があり、これは日本語sim-aと対応します。
これに「守り」を続けると、タジマモリ=「豊かな命の守り」となります。

トキジク(常つ木)はタチバナと言う、と文献にあります。
このタチバナもciv-amを開音化させるとm/n交替でtiban-aとなり、ta・tibanaとなりますが、九州朝倉の地名「橘田(たちばんだ)」を考慮すると、タチバナは本来はタチバタといっていたようにも思えます。

そうだとすると、このタチバンダというのはタミル語cacuvat-am[perpetuity(不滅), eternity(永久)]ではないかと考えられます。c/t対応、u/i交替しますのでcacuvat-amはtatibat-aとなり、このタチバタが後に「タチバの田」と解釈されて、タチバンダとなったと推定され、他方t/n交替でtatibanaとなったもののように思われます。

とすると、タチバナのヲドのアハキ原は以下のようになります。

●タ ant-am  sky(空), visible heavens(天空);
○日 wod-o   ヲド。ant-amの古形はyant-amで、このyとwは易交替性があるため        wod-oとなる。

阿波岐原(*甘木原)のアハキ(afaki>amaki)に対応するタミル語があります。

●タ apak-ai   river(川), stream the Ganges (ガンジス川);
○日 afak-i  アハキ。
○日 amak-i  アマキ。唇音同士のf/m交替。

以上とすると、橘の小門の阿波岐原は「不滅の天の川」となります。
ヤスの河原のヤスも以下だと思われます。

●タ  mac-u the milky way(天の川);
○日  yas-u  「天の安の河原」の「やす」。macu>wasu対応。wasu>yasu交          替。

とすると、天照大神はこの「不滅の天の川」で誕生した事になります。それは現在の
甘木や夜須一帯、つまり筑後川沿岸ということにならざるを得ない・・・。
以上、楊貴妃にキツネ化けたり春の宵、でした。

 
大三元様、ご無沙汰しております。

[5001] Re[4991][4988][4987] 百襲  大三元 2004/03/25(Thu) 10:22 [Reply]
恋川亭さん

> > そうですか!当時のモモに「100」という意味合いは、まだなかったのですね。

気を付けて下さいね、母は乙類のモで、母母(モモ乙)には「100」の意味はない(というか、『時代別国語大辞典上代編』には「モモ乙」なる語が掲載されていない)ということです。「まだ・・・」というのがちょっと気になりました。

一つの推理は、『古事記』(母母曽)は『日本書紀』の「百襲」の原義・本義を誤解して「モモソ」と書いた(或いは、誤解されてきた伝承を書いた)。{または、『古事記』がモを甲乙弁別しているのは虚構で、モに甲乙別はなく「母母」も100の意味なのだ、という仮説も可能かも。}

「百襲」を「ホソ」と読めば、
・彼女の異名とされる「倭迹速神浅茅原目妙姫」の「妙」とも整合する。
・母親「クニアレヒメ」は実は「細姫」と同一人だという推定をしている(両者の父が「大日彦」「大目」と伝えられていることが「日」と「目」の混同を導入することにより同一人とみる)
・こうすれば、初めて「クニアレヒメ」と「クニクル」が母子となる。(通常はクニクルの母は細ヒメであり、クニアレヒメとは別人とされている)

なお、私も「クニアレ」を「国生み」としているが、「あれ」は自動詞のごとくであり「くにあれ」を「国を生む」と他動詞に使うことには実はいささかの疑義がある。

> クハシ、細姫・・・スレンダー・ママだったのだろうか?(^^;)

多分、「目細」が一つのかたまりだと思う。遠津年魚目目微ヒメなんて名前もある。
(細と微は共にクハシとも読まれる)

> > 「百襲姫」「細姫」「ホソ姫」「クハシ」、五百をイホと読みましたね〜。今でも五百城、イオキなんて地名が残っていました。百襲=ホソ、なるほど!面白いですね。
> モモに100の意味はなかったとして、ホには100の意味があった・・・のでしょうネ。

100を意味する「ホ」に関して『時代別国語大辞典上代編』では「単独にはモモというが、何百というときにホという。」と記しています。

> また、ホノニニギなどのホと、百襲(ホソ)のホとは甲乙が違う「類」でしょうか???

「ホ」には甲乙別がありません。

> アホな質問ですみません。ある地方で『ホの無か〜ッ!』と叱られたことがあり、『そのホって何?』と聞くと『稲穂のホ、中身の無いことッ!』と言われました(蛇足)。

穂、保、火、などと書かれているものが果たして稲穂、保つこと、火炎を意味しているのか、なかなか判りませんよね。上記のような「俗解」も百回言われれば本当になる、みたいにして「伝承」されて記録に残ったもの、記紀など、を有り難く読んでいるわけです。

>  目を細める「目細し」マクハシ、喜びの表情もいいですね。ヨバイが「夜這い」でなく、「呼び合い」から変化した語であるように、マクハシも「目交わし」と離れたところから周囲に悟られないように見つめ合うことから始った語なら、また趣きがあります。

アイヌ語の unukar は、互いに見る=>結婚する という意味です。オノコロ島はこれじゃないか、と思ってます。

[5000] Re[4997]: 百襲姫青草話  賀茂朝臣 [Mail] 2004/03/25(Thu) 08:40 [Reply]
> > モモに100の意味はなかったとして、ホには100の意味があった・・・のでしょうネ。
>
学者風を吹かせるつもりはないんですが、「言葉」というものは地域の民団に普及してこそ、地名や人名に残っているわけですよ。今日でも日本人なのに、「ジェームス」なんて自分の子供に聞いた風な外国人の名前をつけるのは、要するに極端に宗教熱心か、奇人変人ですよ。
秦氏は朝鮮から来たわけですが、それでも始皇帝の封禅儀式につながる星祭・方位除けの習慣を持ち込んだしね。
秦氏の古墳から、金属製や石製の半球型円盤が出土していて、「これは何だ」ということなんだけど、始皇帝は度量衡を統一した時、「権」という統一の重量基準を使うことが文字通り「権力の象徴」だったんです。
それから青草じゃなくて、法隆寺金堂四天王の顔は、始皇帝の兵馬ヨウの数体と非常に酷似していて、「これは漢人じゃなくて、秦人に間違いない」と中国の考古学会でも驚きなんです。
隋書でも「華夏と同じ」という秦氏の言語は、古代朝鮮語じゃなくて、古代秦語でしょう。詳しく言うと、古代河南語です。
だから、民団(コミュニティ)の移動は、相当痕跡が残るんです。ふってわいたような言語の痕跡を学術的に確証することは、まず不可能なことです。

[4999] Re[4996]: 教えてください。  神奈備 2004/03/25(Thu) 08:22 [Reply]
> 神道でいうところの禊ぎとは滝行のことですよね?どなたか詳しい方がいらっしゃったら是非教えて下さい。
> また神様にお仕えするとはどのようなことでしょうか?

神道につきましては、下記の伊太祁曽神社の神職さん等に質問して下さい。
http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/fudbbs.cgi

[4998] 古墳  賀茂朝臣 [Mail] 2004/03/25(Thu) 08:19 [Reply]
「猪飼野」の一件も、まことに不思議な御縁で、本当に説明がつかないことがあるものです。
もし私がたまたま立ち寄った渋谷の古本屋の雑誌で「中臣英勝」の記事を読まなかったら。
私が鈴鹿宮司さんと、たまたま今回会う予定が取れなかったら。
どれか条件が欠けても、鈴鹿宮司さんと、英勝の子孫の明内宮司は、食事で隣り合わせただけ一期一会のすれ違いだったというわけです。
どう考えても説明がつかない話です。しかし、運命なんですね。
話題にしたら、たまたま偶然に三人そろっていたわけです。

内裏塚古墳
http://hokuso.net.dhis.org/DAIRIT~1.HTM
大塚原古墳
http://hokuso.net.dhis.org/OTUKAH~1.HTM

[4997] 百襲姫青草話  神奈備 2004/03/25(Thu) 08:19 [Reply]
> モモに100の意味はなかったとして、ホには100の意味があった・・・のでしょうネ。

> 。【襲封】封土を受け継ぐ。親の代からの諸侯の領地、その支配権を受け継ぐ。

『漢書地理志』 楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国をなす。

これを組み合わせると、百襲姫は卑弥呼でもいいね。

[4996] 教えてください。  ひとみ [Mail] 2004/03/25(Thu) 08:17 [Reply]
はじめまして、私は東北に在住するものですが、どうしても禊ぎをしなくてはならない事情がありまして、私は神道にくわしくないので初歩的な質問で申し訳ありませんが、教えて下さい。豊受の神様を信仰しております。やはり伊勢のほうまで行ったほうがいいのでしょうか?私は福島稲荷神社にはお参りにいくのですが、神道でいうところの禊ぎとは滝行のことですよね?どなたか詳しい方がいらっしゃったら是非教えて下さい。また神様にお仕えするとはどのようなことでしょうか?

[4995] Re[4994]: ところで  神奈備 2004/03/25(Thu) 08:11 [Reply]
> やはり古代は生きているんですね。

神社は生きている古代なんですね。
大塚原古墳の近くに内裏神社(だいりじんじゃ)旭市泉川
が鎮座、祭神は弘文天皇(大友皇子)、耳面刀自命となっています。
内裏塚古墳とも関連があるようですね。
耳面刀自命は大友皇子の妃です。
http://hokuso.net.dhis.org/OTUKAH~1.HTM

[4994] ところで  賀茂朝臣 [Mail] 2004/03/25(Thu) 04:54 [Reply]
神奈備さん
今日は高鴨の鈴鹿宮司さんが神社本庁の式内社復興のプロジェクトのため、上京しましたので、さっそく新宿の高層ホテルで祝杯を挙げたところです。
鈴鹿家は京都の神楽岡に料地を持ち、吉田神道家の家老職でしたが、大友皇子にしたがって斬死した右大臣・中臣連金の子孫です。
以前、歴史雑誌の古本をながめていたら、この金右大臣の子・英勝の墓誌が千葉県旭市の古墳で出土していたということを知りまして、びっくりして話題にしましたが、たまたま宮司さんが本庁の食事で隣り合わせた人が、その英勝の子孫で、その古墳と神社を代々守っている人だったんです。
そんなわけで、明日は鈴鹿宮司さんと一緒に特急で旭市の古墳を同行訪問することになりました。やはり古代は生きているんですね。

[4993] クニアレ  賀茂朝臣 [Mail] 2004/03/25(Thu) 04:23 [Reply]
「クニアレ」の解釈ですが、「アレ」は「産む」の古語です。
「クル」は「タクル」「糸編み」の意味で、「作る」の古語でしょう。
だから「クニアレ」は「国生み」、「クニクル」は「国つくり」というかけ合わせの母子名なんですね。

[4992] オオタタネコ  賀茂朝臣 [Mail] 2004/03/25(Thu) 04:08 [Reply]
「モモソ」とか「タタ」の議論、拝見しました。
ところで皇室は母親の呼称を「おたたさま」といいます。
このときの「たた」というのは「乳・胸」を意味しています。
出雲の神様は、古事記に「胸分けの広き我が妹」いわゆる巨乳好きだったので、男女ともに胸板の厚い子孫ができたのではないかと思っています。
ギリシャ語で「胸板が厚い男」というのが「プラトーン」あの哲学者の名前です。
古墳などから出土する鎧甲に「短甲」というのがありますが、あれもコルセットのように胴がしまって、胸板だけは扇型に広げていますね。
男性戦士の理想的なシルエットがシュワ知事のような「オホタタネコ」だったんじゃないかと想像しています。
「モモソ」もできるかぎり万葉語以前の語彙をキチッとあたってみるべきで、一足飛びに他民族語を参照しないほうが説得力がありますよね。

[4991] Re[4988][4987] 百襲  恋川亭 2004/03/25(Thu) 01:29 [Reply]
怖い曹操でなく、仲達・孔明なる両先生のご教示ありがとうございます。

> 大三元さん
> 古事記が「母母曾」と表記した時に「母母」の部分に関しては「100」という意味合いではなかった

そうですか!当時のモモに「100」という意味合いは、まだなかったのですね。でも「母母曾」はママだった〜?・・・ドテッ!(どこかで誰かのコケル音が)
クハシ、細姫・・・スレンダー・ママだったのだろうか?(^^;)

「百襲姫」「細姫」「ホソ姫」「クハシ」、五百をイホと読みましたね〜。今でも五百城、イオキなんて地名が残っていました。百襲=ホソ、なるほど!面白いですね。
モモに100の意味はなかったとして、ホには100の意味があった・・・のでしょうネ。また、ホノニニギなどのホと、百襲(ホソ)のホとは甲乙が違う「類」でしょうか???
アホな質問ですみません。ある地方で『ホの無か〜ッ!』と叱られたことがあり、『そのホって何?』と聞くと『稲穂のホ、中身の無いことッ!』と言われました(蛇足)。
 目を細める「目細し」マクハシ、喜びの表情もいいですね。ヨバイが「夜這い」でなく、「呼び合い」から変化した語であるように、マクハシも「目交わし」と離れたところから周囲に悟られないように見つめ合うことから始った語なら、また趣きがあります。

> 福島先生
“soe”ですかー!地名には添・沿・副って多いですね(でも地図を見ていると、真・副・控と周辺に脱線することも多いので効率が悪いです)。最近、副田(ソエダ)という住所の方が福田で手紙が来る、と怒っていたことに出くわしました。(笑)

> 『朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語』

いつも思うのですが、なんだか最適な表現!半島・大陸への渡来倭人の痕跡ですね。交易・交流というのは双方向が現実ですから。古代朝鮮語が金石文等のみに、わずかしか判明していない状況では、中世から現代の朝鮮語に留まる『臍の緒』のような残存倭語という視点は興味深いですね。

> ※阿蘇=東西の意の古代倭語。

阿蘇に東西の意味が含まれていたなんて!気づきませんでした。Ah,So!
『福島雅彦説。引用明記の上ならば、宣伝おおいに結構!』ですね。(^o^)/
浅茅湾と阿蘇海は東西分割って感じですが、阿蘇山は南北も含めて九州島の中央みたいに思っていましたので、チト苦しい気が・・・(^^;)

> 「百襲」とは、全製鐵?か、西方聖地視の出自強調か?。

出自強調ならば、その出自をもっと詳しく誇り高く明確に伝えると思います。ぢつはコレ、他の渡来人説の数々にも疑問に思っていたのですが・・・。この件は嵐を呼びそうなので後日別件として。<(__)>
さて先生、九州島の『九州』って、どこどこのクニ(州)を数えて9になるのですか?九州純血種なのに知らずにこの歳になってしまいました。

[4990] Re[4989]: 対馬航路  福島雅彦 [Mail] 2004/03/25(Thu) 00:30 [Reply]
> 下図は長崎大学の柴田恵司教授と高山久明講師による対馬海峡横断シミュレーションです。

※かたばみ さん、貴重な資料を有難う御座います。

> 巨済島と浅茅湾を結ぶ航路が往復共に妥当なようで、おおよそ2昼夜必要。
> 船の定常速度が2ノットであれば1昼夜で航海できるそうです。

> 潮流が1日2回切り替わるので4回のジグザグの航路になるわけで、潮流に合わせて操船する腕がないとどっかへ流されてしまいます。
> (素盞鳴尊や天穂日がそうだったと推定)

※私は、ペーロン競争の様に全力で短時間(払暁〜薄暮)で渡り切るのではないかと、想定していました。

> 対馬の中央部東岸に大船越とか小船越という地名があり、船をいったん陸にあげて反対側へでる場所だそうで納得です(今は運河になっている)。
> 対馬は設計して作ったみたいに絶妙の渡海拠点、対馬がもしなかったら歴史はずいぶん違っていただろうなあ。

※全く、同感です。

> 壱岐の中央部、石田町湯岳射手吉触の角上神社(標高115m)から唐津湾と対馬、対馬から半島の遠望です。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/3d_tushima.jpg
> 巨済島は鎮海の左手前あたり。
> 50mmレンズ相当の作画ですからイメージは肉眼でみるのとほぼ同じはずです(カシミール3D使用)。
>
> 魏の使者はこの風景はみてないのだろうな。
> お天気がよければ海は見通しが利くから10m先がわからない陸よりずっと安全かも。
>
> 壱岐は小さな島ですが神社はいっぱい。海人系が多くついで出雲系、天之忍穂耳で神功系(八幡社)は少数。
>
> おまけ
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/3d_tushima2.jpg
> それぞれの島でかがり火を焚いていれば星が読めない夜でもなんとかなりそう。

※私も、このアングルの撮影チャンスを狙ったのですが(壱岐だけしか行っていませんが)滞在が短く、果たせませんでした。有難う御座います。
 これなら、漕ぎ手がバテないか、交代要員が居れば月明かりでも航行可能の様ですね。

[4989] 対馬航路  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/24(Wed) 23:34 [Reply]
下図は長崎大学の柴田恵司教授と高山久明講師による対馬海峡横断シミュレーションです。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/tushima_kouro.png

巨済島と浅茅湾を結ぶ航路が往復共に妥当なようで、おおよそ2昼夜必要。
船の定常速度が2ノットであれば1昼夜で航海できるそうです。

潮流が1日2回切り替わるので4回のジグザグの航路になるわけで、潮流に合わせて操船する腕がないとどっかへ流されてしまいます。
(素盞鳴尊や天穂日がそうだったと推定)

対馬の中央部東岸に大船越とか小船越という地名があり、船をいったん陸にあげて反対側へでる場所だそうで納得です(今は運河になっている)。
対馬は設計して作ったみたいに絶妙の渡海拠点、対馬がもしなかったら歴史はずいぶん違っていただろうなあ。

新羅本紀ではたびたび倭人が侵入してきたという小規模抗争がでてきますが、半島南岸の巨済島などの多島海に住む海人達のことだろうとみています。
295年条に倭人の根拠地を攻撃しようとしたが海上戦闘不慣れのために中止したという記事があります。


壱岐の中央部、石田町湯岳射手吉触の角上神社(標高115m)から唐津湾と対馬、対馬から半島の遠望です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/3d_tushima.jpg
巨済島は鎮海の左手前あたり。
50mmレンズ相当の作画ですからイメージは肉眼でみるのとほぼ同じはずです(カシミール3D使用)。

魏の使者はこの風景はみてないのだろうな。
お天気がよければ海は見通しが利くから10m先がわからない陸よりずっと安全かも。

壱岐は小さな島ですが神社はいっぱい。海人系が多くついで出雲系、天之忍穂耳で神功系(八幡社)は少数。

おまけ
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/3d_tushima2.jpg
それぞれの島でかがり火を焚いていれば星が読めない夜でもなんとかなりそう。


[4988] Re[4986][4985][4981][4961][4959][4960] 百襲  福島雅彦 [Mail] 2004/03/24(Wed) 12:46 [Reply]
>  『曹操の話しをすると曹操がやって来る』という恐ろしいものの話題を戒める諺があったそうです。言葉の話題も嵐を呼びやすいので、できるだけ避けたいのですが・・・といい訳を言いながらの投稿です。
>  まったく感覚的な印象なのですが、『そ』に地方やクニの意味があったような気が?していたものですから、何か手掛かりがないかナと探しているところです。

> 何か該当しそうな地名がありましたら、お教え下さい。

※「さ」「し」「す」「せ」「そ」、の音価は“soe”(真金、鐵、地金、金属の総称=民衆書林・韓日辞典)の転化(訛り)が謂えます。「須恵器・陶器(すゑき)」の(すゑ=一音節)も、鐵の様に堅い器の意⇒従って、朝鮮語に臍の緒を留める古代倭語。
※筑紫の日向の「蘇」の高千穂の櫛触嶽の「蘇」は、“seo”(西=民衆…⇒古代倭語)。
 現に、福岡県浮羽郡浮羽町の妹川地区に「日向」が現存し、其の西に連なる「水縄連山(耳納山地)」が、山頂は千の穂が集(たか)っていて「高(集る)千穂」、山腹は千本の櫛の歯が触れた様相を呈している。
※阿蘇=東西の意の古代倭語。
・阿蘇山⇒九州島の東西の真中?。
・浅茅湾⇒対馬の東西に抜けられる湾?。
・阿蘇海⇒天橋立の砂洲で日本海と東西に切られた内海?。
※※「百襲」とは、全製鐵?か、西方聖地視の出自強調か?。
 長くなりますので、此の辺で…。

[4987] Re[4986][4985][4981][4961][4959][4960] 百襲  大三元 2004/03/24(Wed) 11:46 [Reply]
百襲ヒメの名義に関して
http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm
をあげております(また、『縄文伝承』P176〜)

1,2抜き書きしてみますと:
・古事記で「100」の意味を表す場合の「モモ」は「毛毛」と書かれています。「毛」は甲類です。そして「母」が乙類に使われています。従って、古事記が「母母曾」と表記した時に「母母」の部分に関しては「100」という意味合いではなかったことになります。
・「細姫」の「細」は「ホソ」と読むのか「クハシ」と読むのか定まっていないようですが、「百襲姫」周辺に「細姫」が伝えられていることと、「百襲姫」に「ホソ姫」と云う読みが有り得ることは注意しておいて良いと思われます。

[4986] Re[4985][4981][4961][4959][4960] 百襲  恋川亭 2004/03/24(Wed) 01:39 [Reply]
 『曹操の話しをすると曹操がやって来る』という恐ろしいものの話題を戒める諺があったそうです。言葉の話題も嵐を呼びやすいので、できるだけ避けたいのですが・・・といい訳を言いながらの投稿です。
 まったく感覚的な印象なのですが、『そ』に地方やクニの意味があったような気が?していたものですから、何か手掛かりがないかナと探しているところです。もっとも、所・処・社の音がソになっただけかもしれません。襲・曽・蘇・楚などの音は微妙に異なるのでしょうね。しかし、襲に一地方のクニのイメージはないのかな〜?ちょっと辞書を散見すると、

(漢和辞典・学研大漢和から抜粋)【襲】
@(動詞)かさねる:衣服を重ねて着る。物事をかさねる。
A(単位)かさね:上下がそろった衣服を1セットとして数えるときのことば。
B(動詞)おそう、つぐ:今までのやり方やポストの上にかさなる。転じて、従来の方法や地位をそのまま引き継ぐ。世襲、沿襲、襲封。
C(動詞)おそう:不意に攻める。
【襲用】これまでどおりそのまま用いること。【襲因】受け継いで従う。従来どおりに行うこと。【襲吉】かさねてめでたいことがあること。【襲沿】以前の例に従って行うこと。【襲承】あとを受け継ぐ。【襲跡】あとを継ぐ。【襲継】あとを受け継ぐ。【襲爵】父祖の爵位を受け継ぐ。【襲封】封土を受け継ぐ。親の代からの諸侯の領地、その支配権を受け継ぐ。

(国語辞典・広辞苑から抜粋)【襲ふ】
@着物を重ねて着る。A不意に攻めかかる。Bおびやかす。C官禄・家系・地位などを受け継ぐ。

 圧倒的に継承する意味。『ドラゴンの衣装』ですから皇帝の象徴ですものね。これから見るに『百襲』なんて『代々世襲してきた総本家・家元やでぇ〜』という意味にもとれそうですね。私はモモソを『多くの地方地域や氏族群』的意味にとりたいのですが。(そうするとソツヒコとかも面白くなってネ)。
 漢字でなくとも、言葉の『そ』に今来の渡来人の流行り言葉に左右されないような伝統語がないものか?とも思います。しかし、『そ』の国々試案を試みるも惨敗↓

あそ(阿蘇)、いそ(五十、磯、石、イタキソ)、うそ、えそ(蒲鉾)、おそ(大沢)、かそ(過疎)、きそ(木曾)、くそ、くまそ(熊襲)、けそ(懸想)、こそ(許曽、社)、さそ(左曽)、しそ、すそ、せそ、そそ、たそ、ちそ、つそ、てそ、とそ、なそ、にそ、ぬそ、ねそ、のそ、はそ、ひそ(比曽)、ふそ、へそ、ほそ(を噛む)、まそ、みそ、むそ、めそ、もそッ、やそ(八十)、ゐそ、ゆそ、ゑそ、よそ(余所)、らそ、りそ、るそ、れそ、ろそ、わそ、ヰそ、をそ、んそ?、

そあ、そい、そう、そえ、そお(曽於)、そか(蘇我)、そき(曽木)、そく、そけ、そこ(其処)、そた(曽田)、そち、そつ、そて、そと、そな、そに(曽爾)、そぬ、そね(曽根)、その(園)、そは、そひ、そふ、そへ(添、副、沿)、そほ、そま(杣)、そみ、そむ、そめ、そも、そや、そゐ、そゆ、そゑ、そよ、そら、そり、そる、それ、そろ〜、そわ、そヰ、そを、そん(村)

『苦し紛れに冗談の方が多くなった〜、青草にいくべきじゃった〜』(百襲三太夫・談)
何か該当しそうな地名がありましたら、お教え下さい。

[4985] Re[4981][4961][4959][4960] 百襲  大三元 2004/03/23(Tue) 23:14 [Reply]
かたばみさん、ども・・
> ≫この名は凄いですよね。大和国の出現ですから
> > 意富夜麻登玖邇阿禮比賣命がどういう出自なのか知りたいところですが、倭迹々日百襲姫の母以上はわからないのだろうなあ。
> 先代旧事本紀では倭国香媛とありますが、ヤマトがまずはどこに出現したかですね。

倭国香媛の祖は「大日彦」(十市系図)
細媛の祖は「十市県主祖大目」

これを統合すると、倭国香媛=細媛=意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
要するに同一人物に関して春日族(?)や磯城族(?)などが異なった伝承を持っていたに過ぎない、という仮説を持っています。

それを容認すると、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の子が国玖琉。大変な、国生み・国引きの母子となります。

『初期天皇后妃の謎』P169〜 ご参照

[4984] Re[4983][4977][4963][4956][4955]: 倭の極南界  福島雅彦 [Mail] 2004/03/23(Tue) 22:38 [Reply]
※かたばみ さん、貴重な資料をご紹介下さり有難う御座います。

> もっとも対馬〜壱岐が1千余里はいいとして、壱岐〜松浦?も1千余里で2倍も誤差がある。
> 半島と違って列島情報がはるかに少なかったからだと思います。

※↑此れも、解釈の仕方だと存じます。
狗邪韓國〜對海國〜一大國の間は対馬暖流が比較的速く(三ノット?)横断に全力を傾注する。「澣海」の謂れは、流速を強調した「川ン海(川の如き)」との倭人の説明と観ています。
この横断で死力を尽した漕ぎ手は、一大國〜末盧國への短い距離でも、所要時間に差が無かった、と。一大國、末盧國間は、五島列島と九州島の抵抗で流速が弱まっている、にも拘わらず、です。
※局所(狭い範囲)の地図は、略正確に描けますが、地球の球面体(三次元)の地形を平面(二次元)に描いています。広範囲の地図は、西瓜の切り分け状態がある程度忠実な描写になるのに…。従って、球面体の知識が無かった古代人作成の地図が方位・配置が整合しないのは
当然の帰結だ、と。距離は、実測不能ですから、移動所要日(時)数比例となるのも必定か、と。

[4983] Re[4977][4963][4956][4955]: 倭の極南界  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/23(Tue) 19:32 [Reply]
≫不正確な地図で資料価値が無い、とのご見解ですね

あはは、どうも1か0かになってしまうなあ(^^;
地図の使い方が違うのだと思います。
古代の地図は概要を知るための図絵だと思います。

フビライは世界地図をながめて世界制覇の構想を練ったのでしょう。
バスコ・ダ・ガマも世界地図をながめてロマンと冒険の航海にでたのでしょう。

下記は蘆田文庫古地図コレクション。
http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/exhibit-2001/contents.html

地図をながめる、それが楽しいという方も少なくないと思います。
現代地図をながめる場合も距離や方位を調べるために見ているのではないはずです。

日本の地図にはじめて経緯線が書かれるのが江戸時代末期のようで、この頃に地図上で距離や方位を知ることができるようになったとみえます(これも1か0かじゃない、中間状態があるはず)。


南を東に読み替えるなど「文献の誤り」を持ち出す、やってはならないです。
魏志韓伝では南を東に読み替える必要がある・・
倭人伝でも南を東に読み替えないとつじつまが合わない・・
魏志韓伝での「里」と倭人伝での「里」は長さが違う・・(^^;
そういった理由がないかぎりは。

ただし、遠方国の方位はイメージにすぎず、あいまいであることも確実と思います。
私は東京ですが、九州はどっちの方角かと聞かれたら、えーととなって地図を思い浮かべてようやく西となります。
九州→暖かい→南のイメージが強いのでイメージでは九州は東京の南にあるんです。


距離の換算も魏時代から1500年も後の清時代の換算法でやるわけにはいかないですね。
お隣の魏志韓伝によい指標があるわけで、韓は東西は海で、南は倭に接して4千里四方とあります。
(AD250頃の半島南部の沿岸部には倭人が住んでいたことがうかがえる、いかなる倭人か・・)
魏志の半島での距離情報は列島のそれよりずっと正確なはずです。

これを清時代の換算でやったら半島が大陸になっちゃう。
魏志がいう1里が75m程度を基準にしているのは確実と思います。
もっとも対馬〜壱岐が1千余里はいいとして、壱岐〜松浦?も1千余里で2倍も誤差がある。
半島と違って列島情報がはるかに少なかったからだと思います。


大海原を航海する人々なら方位は正確だったと思います。目印が太陽や星(恒星)だから。
(距離はあいまいだと思う)
沿岸航海の場合は山など沿岸地形が目印ですから方位を知る必要はありません。
(江戸時代の沿岸航海者は星を読めない、沖へ流されたらもうだめ(^^;)
記紀で星神が消されてしまうのは大海原を航海する人々が消えたからだと考えています。
(南西諸島を除く)


[4982] Re[4971]: 宇津・宇都地名  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/23(Tue) 19:28 [Reply]

ウヅ彦の地名検索やったことないですが、おほほっこりゃ面白いですね(^^)
これだけ偏ってるとなにかありそうだなあ。


[4981] Re[4961][4959][4960] 百襲  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/23(Tue) 19:26 [Reply]
≫この名は凄いですよね。大和国の出現ですから

意富夜麻登玖邇阿禮比賣命がどういう出自なのか知りたいところですが、倭迹々日百襲姫の母以上はわからないのだろうなあ。
先代旧事本紀では倭国香媛とありますが、ヤマトがまずはどこに出現したかですね。

倭国造である椎根津彦(珍彦)を祀る社の分布を平成祭りCDで調べてみましたが、数が少なく倭国造にしては海人系としての分布だけしかみえない。
大三元さんの地名分布を合わせるとなにかありそうです。

書紀の神武東征説話で椎根津彦が登場する状況とナガスネヒコが登場する状況の切り替わり部分、これが「合成」ポイントじゃないかとにらんでいます。
遠賀川流域の山に囲まれた盆地、注目してます。

信じるかどうかはおいて、宇佐家伝承/木耳社によれば、
宇佐に進出した神武軍と宇佐津彦が戦ったとき珍彦が仲裁にはいって、神武軍の進駐を認めるが食糧供給はおこなわず、屯田兵(自分で畑を耕す)とすることで宇佐津彦が神武に帰順する話があります。


[4980] Re[4938][4937]: 知っている方いらっしゃいませんか?  三碧星 2004/03/22(Mon) 16:46 [Reply]
お久しぶりです、仕事を辞めて時間が取れるようになって、ようやく過去ログを読み返すことができるようになりました。本当に皆さんの知識の深さには驚かされるばかりです。私は全く勉強が足りません。反省することしきりです。

> > こだま薬師

 すみません、全く分からないです。私もぜひ知りたいので、付随の情報があれば提供などお願いします。

> > 薬師如来は「神」では誰
> 祇園さん(八坂神社)の牛頭天王のは本地仏は薬師。今は素盞嗚尊のことですね。
素盞嗚尊も牛頭天王も、疫病よけの神様ですから(というか疫神そのもの)、薬師如来が充当するのでしょうね。

> 三輪の大神神社は大日又聖観音。

 物の怪の神様であることと、煩悩の純化された世界が物の怪の世界であるなら、地獄の聖観音はふさわしいと思います。

[4979] Re[4978][4971]: 宇津・宇都地名  大三元 2004/03/22(Mon) 12:25 [Reply]
> > ところで、五十瓊敷命の菟砥は、宇土墓古墳の宇土なんでしょうが、この宇土には古墳を現すような意味があったのではと。

日本語の音に漢字の音を宛てたもの、という理解から、日本語の「ト」(甲類)がどんな意味を持っているかと調べると、外、門、戸、砥、処、が出てきました。
「ウ」には、鵜、居、座、得、などがありました。私は「ウ」に「大きい」という意味があった、という仮説を持っております(大人=ウシ。海=大水?)
この仮説を使って「ウト」という日本語の音は「大処」の意味を持ちうるかもしれません。墳墓を「大処」と書いたり、「ウト、オホト」などと読める字があると証明〜保証になるのでしょうが、はたして???

[4978] Re[4971]: 宇津・宇都地名  神奈備 2004/03/22(Mon) 08:43 [Reply]
> 宇津・宇都には興味もっていたので、資料として・・・
> http://www.dai3gen.net/utsu.htm
>
出雲大社の正面の柱は宇豆柱と云い、棟持ち柱だそうです。
> ウヅには「貴重な」と
この使い方かも知れませんね。

ところで、五十瓊敷命の菟砥は、宇土墓古墳の宇土なんでしょうが、この宇土には古墳を現すような意味があったのではと。

熊本の宇土半島は南九州で最早に前方後円墳が造られたこと。
阿蘇山の凝灰岩を石棺として、瀬戸内海周辺から畿内へ輸送。
日田郡天瀬町の宇土にも古墳。
鵜戸神宮の上の方にも社家の墓が並ぶようです。

ついでですが、銚子、茶臼、これも塚で古墳そのものの意味がありそうです。

[4977] Re[4963][4956][4955]: 倭の極南界  福島雅彦 [Mail] 2004/03/22(Mon) 00:13 [Reply]
 かたばみ さん、返信ありがとう御座います。
解釈論は繰り返しても、平行線になりそうですが、解釈の仕方の例として…

> TVで見ただけですが、元時代の世界地図が日本の寺(名前忘れた)で発見(中国にも残っていない地図)。
> 日本や東南アジアの形は部分だけ見たらこれはどこ?です。
> アフリカまで航海している800年後の元時代でもそんな程度です。

※上記は、かたばみ さんは、不正確な地図で資料価値が無い、とのご見解ですね。
 測量地図ではないのですから、地形や実際距離を表してはいませんが…。
当時としては役に立つ、立派な地図であった可能性を頭から否定しても良いのでしょうか?。
 私は、潮流や海流や季節風に従って、区間所要日数比例表記地図と見ます。
例へば、日本列島が南北に描かれていて、当時の地図が不正確だとか、東と南を取り違えている、と主張する人がいますが…。
 此れも、黒潮の奔流に乗った場合の到達所要日数比例で距離を採った、極めて有効な地図と見ます。帰途は、黒潮に逆行せずに更に黒潮に乗って右舵反転流に乗って大回りすれば、短時間に帰着します。日本海側へは、対馬暖流は太平洋側より比較的緩流だから、やはり到達時間比例に余り大きな狂いは無い、と。
 物の同じ現象についても、着眼点が異なれば、正しい判断には到達できないと存じます。
様々な同じ資料・史料を検討しても、解釈が分かれるのは、見方に偏狭や先入観が禍していると存じます。

[4976] Re[4974][4973][4972]: 談合会社にご注意ください  玄松子 2004/03/21(Sun) 23:23 [Reply]
>  ここはどのような場所ですか教えてください

「皆様から神社や古代のお考えのご紹介やご意見などを頂きたく思います。」
と、ページの先頭に書かれています。

[4975] Re[4974][4973][4972]: 談合会社にご注意ください  あのお 2004/03/21(Sun) 20:14 [Reply]
>  ここはどのような場所ですか教えてください

過去の書き込みを読んでくるのがエチケットです

[4974] Re[4973][4972]: 談合会社にご注意ください  オンブズマン03-3452-4446 2004/03/21(Sun) 20:07 [Reply]
> > 公益上有用です 消さないで下さい
>
> 有用であっても、ここはそのような場所ではありません。
> 二度と書き込まないで下さい。
>
 ここはどのような場所ですか教えてください

[4973] Re[4972]: 談合会社にご注意ください  神奈備 2004/03/21(Sun) 19:02 [Reply]
> 公益上有用です 消さないで下さい

有用であっても、ここはそのような場所ではありません。
二度と書き込まないで下さい。

[4971] 宇津・宇都地名  大三元 2004/03/21(Sun) 17:20 [Reply]
宇津・宇都には興味もっていたので、資料として・・・
http://www.dai3gen.net/utsu.htm


[4969] Re[4959][4955]: 倭の極南界  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/21(Sun) 00:17 [Reply]

≫国分市重久の小字「剣の宇都」という所は鍛冶屋が軒を連ねていたとか

平家の落人伝承があるそうですが、鍛冶屋はそれとも関係するかもしれないですね。
「宇都」の地名由来がなんであるか、なにかみえないでしょうか。

珍彦(椎根津彦)・・はるか後の太秦ウヅマサ。
ウヅには「貴重な」といった意味があるように思っています。
舶来品も貴重、最新技術も貴重・・海から・・海神族。

≫また、霧島川、天降川は鉱物資源の宝庫です。金、水銀、硫黄、、、等

霧島周辺でいろいろな金属資源が採れるんですね。
一般金属資源も貴重、これらも「ウヅ」じゃないかな。
これらの資源にも最新技術をもつ人々が集まってきそうです。

「ネットで百科」によれば「日本では第四紀火山地帯の温泉水から沈殿した褐鉄鉱鉱床が所々に知られ」
とあります。
で、霧島も第四紀火山(200〜170万年前以降の火山)。むろん温泉も多数。
(阿蘇や別府も第四紀火山のようです)

下図は鬼板と呼ばれる褐鉄鉱から製鉄に成功した伊奈史学会の実証実験です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/seitetu01.jpg
下記は長野県黒姫山の褐鉄鉱鉱床。
http://www.janis.or.jp/users/gann/100sen/tikasigen/kaiwabara_kouzan.htm

褐鉄鉱(水酸化鉄)は湖沼や河川の水中で生成される鉄原料で砂鉄より桁違いに鉄分が多い。
唐古・鍵遺跡から出土の禹餘粮も褐鉄鉱。
弥生で製鉄があったとすれば褐鉄鉱じゃないかと思っています。
技術があればですが。
で、伽耶の製鉄技術(炉)がどんなものだったのかに注目しています。


[4968] Re[4966]&[4967]: アモーレ・ミオ  恋川亭 2004/03/20(Sat) 22:52 [Reply]
ZOUさん
> >  PHP新書、萩野貞樹・著、『歪められた日本神話』680円
> http://www.skysoft.co.jp/Newskysoft/GetTitleDetail.asp?UserID=16820628&C=9&ISBN=4569634753

そうです。ふざけたような紹介で失礼しました。現在ご活躍中で大御所とされている先生方の問題点をバッタバッタとなぎ倒している内容なので、詳しい紹介は『嵐を呼ぶ』かな?と、鷹揚に笑い愉しむパターンで投稿しました。・・・でも、とても大切なことを指摘している本だと思います。(なぜか、言いたくても言えない立場の方が多い世間みたいですし〜?)

大三元さん
> 天降 というと琉球方面では天女(羽衣)伝説が不随してるよなぁ、
・・・毎度スルドイ!ご参考までに文献紹介させて頂きます。

『巫女の文化』 平凡社ライブラリー
 倉塚曄子 著、平凡社 刊、1994年
   第一章 琉球の天人女房
   第二章 オナリ神覚書
   第三章 聞得大君論
   第四章 兄と妹の物語
   第五章 采女論
   第六章 斎宮論
この本の中にも『琉球方面の天女伝説』が紹介されていましたね。馬天祝女の紀州漂着の話しも載っていました。他、興味深い論が展開されているのですが・・・もう既に絶版です!?こんな良い本が入手できません、図書館が頼りなの。しかも、著者の倉塚曄子先生もお亡くなりでして・・・いい人達は、みんな逝ってしまうンだなァ、(T_T)シクシク

[4967] Re[4961][4959][4960] 百襲  大三元 2004/03/20(Sat) 17:51 [Reply]
> > また、霧島川、天降川は鉱物資源の宝庫です。金、水銀、硫黄、、、等
> 天降の地名には注目ですね。

天降 というと琉球方面では天女(羽衣)伝説が不随してるよなぁ、と思って検索かけてみましたら、こんなんがみつかりました。ご参考まで。

http://www1.odn.ne.jp/n-unasaka/amorionagu.htm


[4966] Re[4962]: 神話は神話に  ZOU 2004/03/20(Sat) 10:32 [Reply]
>  PHP新書、萩野貞樹・著、『歪められた日本神話』680円

これですね。
http://www.skysoft.co.jp/Newskysoft/GetTitleDetail.asp?UserID=16820628&C=9&ISBN=4569634753

内容紹介文を見ると面白そうなので注文しました。
手元に来るのが楽しみです。

[4965] 無題  北のくま [Mail] [Url] 2004/03/20(Sat) 00:14 [Reply]
[三国志」は、漢から帝位を禅譲された(事実は簒奪)
“魏”を正当王朝とする中国の正史(25史の一つ)である。
魏は“遠交近攻の策”とし、倭國(ヰこく)の位置を“南”に改竄。

三国志は「魏略」(魚カン・著)を基礎資料とし重要文献とした。

三国志の編纂者・陳寿(AD233年生)は、
魏・呉・蜀の三国鼎立時代の冶乱興亡を目撃してきている。




[4964] どうしようもない菅谷  金屋代 2004/03/20(Sat) 00:02 [Reply]
 仁多郡横田のものですが、菅谷スパイが色々玉鋼の
ことに誤解を与えているので困ります。玉鋼は安来
の和鋼博物館が昔から言っているように、和鋼の等級
の一種ですが、この等級を製造できるのが横田のたた
らです。和鋼を作ることはできないし、できたといっ
ても日刀保や安来が今までの粗暴な態度のせいで認め
ないでしょう。とにかく日鉄-菅谷は嫌われています。

[4963] Re[4956][4955]: 倭の極南界  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/19(Fri) 23:24 [Reply]
福島さん、こんにちは。
むふふ、異論がないようでは大変なことになりそうです(^^;

≫即ち、中国正史の記述は正しいとしていながら、解釈が…。

情報がそれしかないなら、まずは信じるからスタートなのですが、私の信じ方には序列があります。
前にも書きましたが、年号などの定まっていない時代の時間情報(いつ)は確度がもっとも低い。
最も確度の高いのがなにがあったかという事象の情報です。
その中間が、どこでという場所情報とだれがという人物情報です。

魏志倭人伝情報なら時代は正確です。
入れ墨をしているとか、弓を上を長く下を短く持つといった情報は事象ですからこれも確度は高い。
これこれの国があるなど場所や人物情報のうち、使者が実際に見聞した地域のことならこれも確度は高い。

で、魏志倭人伝中でもっとも確度が低いのが距離情報だとみています。
(1日行程などごく短距離の場合を除きます)
もし書かれている距離が正確であり晋時代の地図が残っているなら、現代の地図と大差のない物になっているはずです。

TVで見ただけですが、元時代の世界地図が日本の寺(名前忘れた)で発見(中国にも残っていない地図)。
日本や東南アジアの形は部分だけ見たらこれはどこ?です。
アフリカまで航海している800年後の元時代でもそんな程度です。

数字がでてくると一見正確そうにみえますが、実際にはおおざっぱかつ聞き伝え情報を数字化しただけなら数字といえど信用できない。
魏志倭人伝の距離の場合も同様で、だから距離うんぬんでは結論がでないのだと思っています。


そういうアプローチではない考え方が必要だと思っています。
そこで、持論のごとき周辺情報と前後関係の仮定を行うと、魏志倭人伝のふたつの奴国(AD250頃の状態)の記述も、後漢書の極南界(AD50頃の状態)も説明ができるぞ、となるわけです。


ある推論の流れがより多くの事象をより少ない仮定で包含できるなら、その推論の流れは正しい可能性が高くなる。
ある事象の情報だけでなく、それらの周辺情報の重ね合わせと前後関係をフィードバックさせながらいろいろを考えています。

ついでなので、もう少し。
卑弥呼と仲の悪い狗奴国、大隅半島とみています。
神武時代では神武の最初の妃が隼人の娘で、その子が手研耳命と岐須耳命。
次の妃が出雲の媛踏鞴五十鈴媛で、その子が神八井耳命と淳名川耳尊(綏靖)です。

書紀では神武の死去時に手研耳命が政務についていた、とあります。
が、淳名川耳尊に殺されてしまう。その状況は謀反とみえますが、勝った方が正義となるでしょう。
で、隼人側に恨みが生じて当然です。

これが卑弥呼と狗奴国の仲の悪い遠因だとみています。
(卑弥呼に出雲系の流れ、すなわち綏靖か神八井耳命の流れがあるならなおさらです)

卑弥呼と狗奴国は仲が悪いと記されている。ではなぜ仲が悪いのか。
そういうことも説明できるなら可能性はより高くなる、なのです。


[4962] 神話は神話に  恋川亭 2004/03/19(Fri) 00:32 [Reply]
 私は「ビール片手にナイター放送観戦派」でして、球場に行くこともなく、日曜に草野球をすることもありません。しかし、TVを観て愉しんでヤイヤイ言ってます。
 そしてそれは、古代史・古伝承・神話なども同様に、です。そういうスタンスかな。真剣に取組んでいらっしゃる方々には、門外漢なんて迷惑でありましょうけどもネ。(^-^)
 さて、最近は多忙ゆえ書肆もユックリ徘徊できませんが、そくさくと手にした1冊がホームランを放ってました。

 PHP新書、萩野貞樹・著、『歪められた日本神話』680円

 随所に嫌みタップリの表現を折り込んで、(少なくとも私には)会心の爆笑的新書でした。著者の萩野先生!応援します、イケイケです。中高生の皆さんには、今後の免疫剤・解毒剤として上記の本を活用できます。アレ、私もイヤミを言ってしまったかな?まあ、気にしないで。愉しむためにしてることですから。お勧めです。m(__)m

[4961] Re[4959][4960] 百襲  神奈備 2004/03/18(Thu) 22:10 [Reply]
> また、霧島川、天降川は鉱物資源の宝庫です。金、水銀、硫黄、、、等
天降の地名には注目ですね。
天降神社の数
筑前 10社
讃岐、備前、伊豆、豊前、肥前 等 各1社
  
> 意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
この名は凄いですよね。大和国の出現ですから。


伊邪那岐尊、伊邪那美尊とは
伊都国
邪馬台国
那国(奴国)
の王様、王妃様だってさ。
『忘れられた上代の都 伊都国日向の宮』石井好氏著

 この書は実に独走的。また、祭神別の神社数の分布や、天降神社、天津神社の分布の変化など、安本説を一歩前への好著だと思います。郁朋社1500円

[4960] Re[4953][4952]: 書紀年代の復元を改訂  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/18(Thu) 19:13 [Reply]
≫文中の別図1、2は切れていますが
ありゃりゃ、直しました。
これらの文面は4,5年前のもので若干の修正が必要ですが、まいいか(^^;

≫卑弥呼と百襲姫の年代が重なっているようですね。\(^O^)/

ぴったりと。孝霊大王には3人の女子がいて、そのひとりが倭迹々日百襲姫。

孝霊大王の孫が大彦命と開化大王と彦太忍信命。
彦太忍信命が武内宿禰の父系の祖ですね。
開化大王の叔父さんが大吉備津彦命、叔母さんが倭迹々日百襲姫。

で、神奈備さんとは周辺状況の見解が違うはずで、その後の解釈も違ってくるはずですが、以下持論を。
毎度ちょい長くなります。


倭国の出雲への総攻撃開始であります(^^;
開化は大和へ、大彦命は日本海へ、吉備津彦命は瀬戸内へ。
(開化の大和攻撃、これが記紀の神武東征説話に重ねられているとみる)

それぞれの男王(武将)には巫女ないし神官が随伴しているはずです。
開化大王に随伴したのが叔母さんである倭迹々日百襲姫とみています。

記紀が書いている系譜は後に有力となった氏族か大王に直結する系譜だけだと思います。
卑弥呼は開化と親戚ではあるが直系ではないうちのひとりだろうとみてます。
倭迹々日百襲姫とも親戚だけど別人。
記紀は、孝昭、孝安、倭国争乱、孝霊、孝元、そして開化をそっくり削除です。
相手が出雲だから・・いろいろ楽しめる部分ですが略。


箸墓が百襲姫の墓であるのはまず間違いないだろうなあ。
このあたりの周辺状況判断は、百襲姫と大物主の結婚説話の解釈によるかな。
崇神時代の三輪山に大物主という出雲の主であろう人物(神)がどうして存在しているのか。
記紀が大昔の出雲神を登場させたのか、当時実在だった人物を大昔の出雲神のごとくに書いたのか・・

崇神はなぜ神々の祭祀に腐心しているのか。
古事記崇神天皇に大昆古が高志の制圧にむかったとあるのも、この頃は天孫が大和を制圧はしたものの、各地で出雲との抗争がまだ続いていることを示すとみています。
播磨国風土記の天日矛とアシハラノシコヲの争いもこれと同じ(天日矛は天孫の一員として戦った)。


古事記で倭迹々日百襲姫の母は「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」とあります。
意富オホ(オブ)に注目しています。
多臣族で、意富、大、太、飫富、於保、などいろいろな文字が当てられるようです。
開化の兄の大彦命(大昆古)、これも意富彦だろうとみています。

多臣族オオ:神武の子であり媛踏鞴五十鈴媛の子でもある神八井耳命の後裔氏族。
綏靖大王との説話からみて神八井耳命は武人ではなく神官と推定。
出雲は男系祭祀にみえますが、神八井耳命もその流れを汲み、後々の祭祀のありように重要な役割を果たしたとみています。

すなわち、孝昭〜開化系譜の巫女(母系祭祀?)とは縁戚ながらも異なる流れ、「出雲との関係の濃い天孫族」で、倭国争乱の鍵を握る人物群だと考えています。
このあたり、たいへんに楽しめそうなところですが略。

古事記崇神天皇で大物主が夢に現れて推挙するのは「意富多多泥古」。
これも神八井耳命の後裔で、出雲祭祀の流れを持つ人物だからだと考えています。


余談
千葉県船橋市に意富比神社があります。
江戸名所図会ではこの社を詳細に紹介しており、伊勢太神宮を朝日の宮、当社を夕日の宮と称して景行大王の第五皇子の五百城入彦命がここに下向し、神官の富氏はその子孫とあります。
(五百城入彦命は日本武尊の支援部隊と推定)

平安以降あるいは明治以降であるならば、伊勢神宮と比肩する呼称をもつなどはやらないしできないと思います。
しかし、当時の大王が祀っていた神を大王の拠点に祀るなら普通のこと。
その当時の大王の祭祀・・記紀で体系化される前の姿がここにあるとみています。

加えて意富比の名は当時の関東に勢力を残す出雲への政治的配慮があったためと妄想(^^;


[4959] Re[4955]: 倭の極南界  nick [Url] 2004/03/18(Thu) 01:14 [Reply]

> > 加羅、伽耶・・鉄。
> 霧島周辺に鉄原料を産出した可能性ありやなしや?? 南九州沿岸は砂鉄の産地らしいけれど。
> 種子島はなぜ鉄の先進地になりえたのだろうか??
> >
興味深いテーマで、勉強になります。
当地、国分市重久の小字「剣の宇都」という所は鍛冶屋が軒を連ねていたとか。
また、霧島川、天降川は鉱物資源の宝庫です。金、水銀、硫黄、、、等

狭野神社辺り(宮崎、高原町)の調査はこれからです。
(単に私が知らないだけですが、春になったら再度訪問をと)

[4958] Re[4957][4922][4918]: 無題  玄松子 2004/03/17(Wed) 23:07 [Reply]
> アレックスさんの指摘された、卑弥呼が公孫氏であるとの認識は、誤解が
> あります。これは解読の時点での誤解が生じた。

アレックスさんの指摘は、「卑彌呼は公孫氏だ!!」ではなく、
「卑彌呼は公孫氏だ!!という珍説があるが、ンなわきゃねーだろ!!」 です。

古文献を意図的に読み換え、組み替えて導き出す珍説への戒めとして書かれています。
児島さんの説が、このように導き出されたもので無いことを祈ります。

[4957] Re[4922][4918]: 無題  児島 [Url] 2004/03/17(Wed) 21:57 [Reply]
> 児島さんへ
> 神奈備さんの掲示板では私の書き込みのタイトル部分のurlとある部分をクリックすれば、書き込み者が登録したHPにジャンプします。
>
>
> ははーん、晋書列伝の以下の一文による「発展的空想」と晋書帝紀の1行が入り混じっているみたいですね。
> 「宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不?。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢」
>
> この文はその筋では有名なようですが、こういうご意見があることを指摘しておきます。
> http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/netu-menu.html
> ここの、卑弥呼は公孫氏だ、をご覧ください。
>
> 児島です
アレックスさんの指摘された、卑弥呼が公孫氏であるとの認識は、誤解が
あります。これは解読の時点での誤解が生じた。
宣帝の時と読み(之)平(たいらげと読み)公孫也とは平らげてのが公孫と
してある。それでその後貢献はなかつたと記録してある。
公孫は滅ぼされたので又倭国から貢献の再開となったとある。
男王の貢献がこれである。

[4956] Re[4955]: 倭の極南界  福島雅彦 [Mail] 2004/03/17(Wed) 21:30 [Reply]
> 奴国は神武の生まれ故郷の霧島と北九州の拠点福岡、南北2カ所にあった。
> 後漢書の記述も魏志倭人伝の記述も、どちらも事実を正しく伝えているわけです。

※他の空想の部分も異論はありますが置いといて、上記の記述には一家言あります。
即ち、中国正史の記述は正しいとしていながら、解釈が…。
・最初の「奴國」は伊都國の東南百里、最後の「奴國」は、此女王境界所盡(郡庁より萬二千餘里)で、伊都國の南千五百里です。「奴國」“non國”(田の國⇒古代倭語・朝鮮語に臍の緒の語彙)の語源解釈と重ねて、最初の「奴國」は、背振山北麓、現筑紫郡那珂川町(裂田の伝承地)で、最後の「奴國」は水縄連山(耳納山地)北麓の何れも棚田最適地です。
 水縄連山(耳納山地)=「邪靡堆」の在る、浮羽郡の範囲は明治の郡制定時には、現・星野村まででした。古代の勢力範囲を反映した物と。現・八女郡(上・下妻郡=倭名類聚鈔)が投馬國で、所謂邪馬臺國、邪馬壹國と南限揃いで、『倭の極南界』に整合しています。


> 種子島はなぜ鉄の先進地になりえたのだろうか??
※元・部下の種子島出身者の言に拠ると、海岸の砂浜は砂鉄が豊富、とか。
・日田市(元・出雲)の三隈川、浮羽郡の筑後川(三隈川の下流=同一河川)の川砂も砂鉄で真っ黒け、です。

[4955] 倭の極南界  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/17(Wed) 18:27 [Reply]

北の倭国とか南の倭国、あるいは九州がふたつとのどちらの話も考えたことがないですが、そういう話の源にもなりそうな、後漢書で奴国の使者が「奴国は倭の極南界にあり」といっていることについての持論をひとつ。


光武帝から「漢委奴国王」の金印をもらったのはだれか。
先の年代復元図に重ねれば、神武の時代でございます(^^;
(ちょい年代がずれて綏靖でも大差なし)

神武誕生の伝承地は鹿児島以外にはみあたらないですね。
神武の妃のひとりは阿多小椅吾平津媛、アタも吾平アイラも鹿児島、隼人出自の妃。

魏志倭人伝には北九州の奴国と位置不明の奴国のふたつの奴国が登場します。
これを理由もなく誤りだなどとしては著者に失礼であります(^^;
さて、空想をぴんぴんとはじけさせると・・

神武の生まれたのは鹿児島の霧島山麓の狭い野原(佐野、狭野)、水利的にも鹿児島で唯一稲作可能な地とみえます。
隼人勢力のどまんなかでその王になったのが神武、これが最初の奴国です。

神武のつぎの妃が媛踏鞴五十鈴媛、大国主の孫とみられる娘。
系譜は連続しているので改竄しにくい、すなわち神武と大国主命は同時代の人物である可能性大。
大国主命がBC30あたりの誕生だとすると6世代ほど遡って素盞鳴尊の子等の時代はBC170あたりで、素盞鳴尊出自の空想とも一致してきます。

神武誕生がAD1頃とみて、4世代ほど遡るとBC100あたり、これが天孫降臨の時代。
神武の年代がマーカーとなって神話が歴史の上に姿をみせてきます。

すると国譲りとは・・
大国主命が神武に北九州(豊前豊後と推定)を譲って島根に引退した、これが神話化されている可能性大。
これについては略。

媛踏鞴五十鈴媛の子が綏靖、孫の安寧の母も妃も出雲娘。
北九州における天孫勢力と出雲勢力の合体です、拠点は北九州でしょう。
これが第2の奴国。
王朝と呼べるなら神武王朝、国譲りとは神武の九州統一のことだと考えています。
倭国の前身です。

光武帝の金印はそのお墨付き、もらったのは神武。
書紀に登場する「磯城」とは金印出土の志賀島の最寄り、福岡市香椎あたりではないかと・・

奴国は神武の生まれ故郷の霧島と北九州の拠点福岡、南北2カ所にあった。
後漢書の記述も魏志倭人伝の記述も、どちらも事実を正しく伝えているわけです。

魏志倭人伝には「なになに奴国」というのがたくさん登場します。
神武が九州を北上(西岸沿いに)したときの通過国あるいは関連国が後に「なになに奴国」と称されたと考えています。



桜島の地名はいつから? 桜の名所とは思えないんだけど。
古代人にとって桜島はあまりに強大な荒ぶる神であったはずです。現在も。
サクラ島、サ・クラの島じゃなかろうか。

霧島の高千穂は神話モードとの合体で生じた後世での地名だろうなあ。
写真でしかみたことはありませんが、雲海の中に浮かぶ島のイメージ、神話モードならいい感じだと思います。
しかし、歴史モードでは空から人が降りてくるはずはなし。

霧島の韓国岳、この地名はいつできたのだろう。
もし古来からのものであれば、神武時代に登場する可能性あり。
神武と出雲との合体が倭国の前身であるならば、神武の生誕地に出雲との関係が生じて不思議はありません。

魏志韓伝における箕子朝鮮崩壊時に南へ脱出した人々は韓を名乗っています。
半島南岸の多くは出雲と縁戚、素盞鳴尊の半島側での後裔の国→大年神か。
韓の文字がある場合は出雲との関連があるとみなしていいんじゃないかと思っています。

加羅、伽耶・・鉄。
霧島周辺に鉄原料を産出した可能性ありやなしや?? 南九州沿岸は砂鉄の産地らしいけれど。
種子島はなぜ鉄の先進地になりえたのだろうか??


[4954] Re[4945][4943]: 倭國は南北二つある  なにがし 2004/03/16(Tue) 22:49 [Reply]
> 「九州二島」という言葉があります。平家物語にも出てきます。
すみません平家物語を読んでいない私がかきこするのはどうかと思いましたが。
ちなみに壇ノ浦の反対側の北九州市の若松区には二島と言う地名があります。すいません検討違いかもしれません。

[4953] Re[4952]: 書紀年代の復元を改訂  神奈備 2004/03/16(Tue) 14:00 [Reply]
> HPの6章
> それらの考え方で作図したのが別図1です。
> 別図2は奈忽王即位=仲哀即位の場合の開化〜仁徳付近の参考拡大図です。
文中の別図1、2は切れていますが、左枠ので見ることができます。

卑弥呼と百襲姫の年代が重なっているようですね。\(^O^)/

[4952] 書紀年代の復元を改訂  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/15(Mon) 19:27 [Reply]

ふーっ、税金の書類だしてきました。
毎度ぎりぎりでもってゆくからなあ(^^;

書紀年代の補正(復元)を改訂しました。
「古事記年代は正しい」をベースに作っていますが、補正の考え方も補正結果も従来の補正年代とほとんど同じになります。
しかし、マイナーブランドでやるより古事記ブランド使うほうが重みがありそう(^^;
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/kojiki_shoki.pdf

HPの6章の最後に若干の説明を追加してありますが、今回の図の書き方なら図だけで一目瞭然と思います。
自分の歴史観のすべてはこの年代観から生じています。
神代もこの延長線上にあるわけですが、そこまで書くとまたうさんくさくなるので省略(^^;


[4951] 砂の器・・・  倭心 2004/03/15(Mon) 18:06 [Reply]
 最近「砂の器」が好評みたいですね。
亀嵩というズーズー弁が東北弁でなく
出雲弁であるというのが、なぞを解く
鍵になるのですが、正確には雲伯方言
というんだそうです。ハンセン氏病の
社会的差別が原因の悲劇を、美しい
山陰の風景を背景に描くお気に入り
の映画です。
 ところで、この雲伯と聞くと日本刀
愛好家もある私は「童子斬りの安綱」
で有名な刀工安綱や、安来鋼、和鋼、
たたら吹きなどの刀に関することな
どが思い出されます。
 最近の若者には「もののけ姫」の
舞台になったところとでも説明すれ
ばよいのでしょうか。

[4950] Re[4945][4943]: 倭國は南北二つある  玄松子 2004/03/15(Mon) 10:41 [Reply]
> 「九州二島」という言葉があります。平家物語にも出てきます。

平家物語は詳しくありませんが、「九州二島」をどう読むかによって意味が違うのではないでしょうか。

1.「九州は二島」、つまり、九州=二島
2.「九州の二島」、つまり、九州⊇二島
3.「九州と二島」、つまり、九州+二島

1.であると考えるのが通説でしょうか?

[4948] 九州二島  北のくま [Mail] [Url] 2004/03/14(Sun) 23:03 [Reply]
> 「九州二島」という言葉があります。平家物語にも出てきます。

クラリンさん、ご教授いただきありがとうございます。

私の想像ですが、火の神山“阿蘇山”を境界として、
北は、邪馬台・連合国の勢力圏(新羅系)。
南は、後の大和国勢力圏(百済系)では?と考えます。

同じように“魏志”や“旧唐書”には、本土の山外(富士山)を境界とし、
その以北を「狗奴國」こと毛人国と記載されています。

[4947] Re[4946]: アチチッ!  恋川亭 2004/03/14(Sun) 22:54 [Reply]
 『マスカレード』(歌手:庄野真代、作詞:竜真知子、作曲:筒美京平)という歌謡曲を思い出しました。庄野真代さん・・・って出たところで、年代がバレバレ。やはり、踊れなければ、サロメでも猿女でも天宇豆女でも、ないのでしょうね。歌って踊れる神様?!
 子供も旦那も村へ置いて去っていく「雪女」を、実は「行き女」・・・というオチもあるように。「猿女」は踊りながら「去る女」ということは・・・ないですカカカ。(^^ゞ
 さて、真面目な話し。猿女の君から由来とかの『ア〜チ〜メ〜・オ〜〜〜』って、どういう意味なんでしょうか? 以前から気になったままの『アチメ』でした。

[4946] Re[4944]: 猿女とソロモン  神奈備 2004/03/14(Sun) 20:45 [Reply]
天宇豆女が猿田彦を送っていったので猿女と命名との訳の判らない話があります。
今日、隣人から、猿女とソロモンとは言語として関係しているそうだとの話を聞きました。
サロメ、ヘロデ王の後妻ヘロヂアの娘、ヨハネの首を所望したとか。
なんだろうね。

[4945] Re[4943]: 倭國は南北二つある  クラリン 2004/03/14(Sun) 20:10 [Reply]
> “倭國は南北二つある”を読ませてもらいました。

これについてはよく分かりませんが、ちょっと似たものに
「九州二島」という言葉があります。平家物語にも出てきます。
私は、なぜ九州二島というのか、未だに分かりません。
どなたかご存じでしょうか。

[4943] 倭國は南北二つある  北のくま [Mail] [Url] 2004/03/14(Sun) 08:41 [Reply]
「かたばみ」さん、はじめまして。
“倭國は南北二つある”を読ませてもらいました。
かたばみ説が理解できそうです。

古代・南九州についての記録が無く、
モヤモヤしておりましたが、その謎が見えてきました。
今後ともよろしくお願い致します。




[4942] アンバと大杉、鞍馬と常陸  神奈備 2004/03/12(Fri) 20:32 [Reply]
nickさん ありがとうございます。質問された方はどこの掲示板に質問したか忘れちゃったんでしょうね。

享保年間(1716〜)の江戸で流行神となった神として大杉明神が有名です。元社は茨城県稲敷郡桜川村に鎮座する大杉神社と言う名社で、これが東京都葛飾区の香取神社に突如として飛来、爆発的に信仰を集めたとか。
『民族神道論』宮田登著によりますと、『月見堂見聞集』には、「安葉大杉大明神、悪魔払いふてよいさ、世がよいさよいさ」との踊り歌が歌われたとか。
 この安葉は常陸国安馬大杉大明神と称されていた安馬で、別に阿波とも記されており、『常陸国風土記』に安婆島との記載があるので古い名前。
 鞍馬山でもらったガイドブックに『鞍馬蓋寺縁起』の訓を「あんばがいじえんぎ」と訓をうっています。則ち、鞍馬はアンバ。鞍馬山の奥宮は大杉大明神。
 アンバと大杉、鞍馬と常陸。なんでだろう。

 小生は今のところ、鞍馬と常陸を結ぶのには源義経につくした天狗の様相の常陸坊海尊の力を借りざるをえません。文治年間(1185〜)海尊は社僧として稲敷郡桜川村阿波の安穏寺と隣接する安馬大杉大明神に仕えていたそうな。
 神社の名が名でありそれで海尊が仕える気になったのか、仕えてから大杉大明神を持ち込んだのか、どうなんでしょうね。

[4941] Re[4938][4937]: 知っている方いらっしゃいませんか?  nick [Url] 2004/03/11(Thu) 15:34 [Reply]
当地(鹿児島、国分市)にも江戸時代初期、
中国渡来の商人薫玉峯(薫十八官)が
建立した「門倉薬師」というのが
ありましたが、現在は「医師(くすし)神社」で
医薬を司る「神少彦命」が主祭神です。
他に保食、天御中主(妙見)、若宮、堅富、秋葉 を
合祀されてます。

当地は天変地異の多発地帯、よって神さまも多数です。(~_~)
あまりこだわらないようです。
しかし廃仏棄釈は貴重な文化遺産を壊滅しました。残念です。

寺社探訪 からどうぞ。

[4940] Re[4916]: 出雲と高天原  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/08(Mon) 20:34 [Reply]
だいぶ遅くなりましたが、4916母系と父系  賀茂朝臣さんへのコメントです。

≫出雲は騎馬民族、高天原(火の国)は魚業と貿易の海洋民族。

私の場合は、出雲文化は民衆の文化、天孫文化?は支配者の文化、おおざっぱにはそんなイメージを持っています。
縄文の西日本の人口は東国の1/10〜1/20とされます。
これが弥生の短期間で西日本の人口が10倍以上に激増。

その激増の流れの中で出雲と天孫が葛藤し、半島や中国との関連が揺れ動く。
出雲や天孫の解釈を含めてなかなかむずかしそうですね。

以下はBC700〜500頃の大陸側の状況。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/yayoi_tairiku.png

神魂尊流の文化はBC2000に遡る長江系の文化だと考えています。
九州の縄文はまずは南方系文化(神魂尊流)によって衣替えした。
運んだのはむろん海の民(神話上の海神族)で海の文化も運ばれます。
半島の温暖な沿岸部にも運ばれた。


温暖化がはじまる時代では文化(人々)は南から北へ動く、が基本と考えています。
BC2000頃に長江流域で大洪水が起こり、中流〜下流域の文化が崩壊しています。
河口域の良渚文化は洪水の泥土に埋まって出土しています。

ここからの避難民が周辺に散っていったはずで、長江文化の拡散を一気に押し進めたとみています。
中国の尭舜禹神話の禹の時代に登場する三苗と呼ばれる人々です。


BC2000頃の長江系文化で衣替えした九州縄文、これが持論でいう「初期開拓者」です。
各地で取り込まれる文化は環境に合わせて取捨選択されたはずで、例えば東国では焼き畑は採用されなかった。
東の縄文では落葉樹こそが生活の糧であり、照葉樹文化とは折り合わない。

BC2000頃、寒冷化で西へ移動していた縄文、これが伊弉諾伊弉冉神話での最初の部分。
そして温暖化のはじまりと同時に初期開拓者の文化と混合してゆく。
穀物登場神話や多くの神々が生まれる部分、これが弥生文化の登場をしめす神話とみています。
最近話題の「弥生500年遡る」、その人々の登場です。

ここまでが列島での第一段階(半島南部含む)。


その後に北九州はスサノオの後裔(出雲)と天孫の抗争の場となり、出雲は九州から撤退。これが国譲り・・とりあず略(^^;
出雲は近畿方面へ拡大してゆく。
この頃にはいってくるのが高魂尊流の文化(秦〜前漢)で、天孫が主役ですが出雲にもはいってくる。

高天原の本来は神魂尊流の地(長江流域〜チベット東部)が具体的な地だと考えています。
そして、記紀編纂時代に神々の体系化が行われたときに天孫の親の主体となった高魂尊流がここに組み込まれ、て理念上の神々の世界である高天原が作られたとみています。


九州以東が出雲文化と接していた期間はおおよそ300年といったところか。
西日本一般ではまだ人口の少ない時代ですからこの影響は大きい。
秦と前漢時代の山東半島文化、これが初期の出雲の最先端文化で、近畿以西に浸透していった。

山東半島文化は長江文化の影響が大きいようです。
例えば、斉の「瑯邪八主」は天、地、日、月、陰、陽、四季、軍神の8主(神)で、軍神(兵主)を例外として自然崇拝のようにみえ、縄文あるいは先着の神魂尊流の文化と違和感なく混合したと考えています。

出雲の「主」の呼称は瑯邪八主からきているのではないか。
長江流域のBC1500頃の洞庭湖には青銅器を埋納する風習があり山東半島でも行われていたようで、銅鐸埋納はこれを継承する、とも考えています。

さて、新羅は騎馬民族ではないと考えています。
これについては後日また。


[4939]   √♪ 遠きわかれに 耐えかねて この高殿に 登るかな ♪   焼尻紋次郎 2004/03/08(Mon) 19:38 [Reply]
☆  こだま薬師
★ kox ……堆積、山 *dam(こころ)= 高野山。
  薬師……ya(陸地・神) qutr(アラビヤ語;地方、国)
  すなわち、「三国」などと同列の「その地方で最も秀麗な山」。qutr の t の下に
  “・”マークあり。∫ に似た発音。→ くしろ。

☆ 三重のことでしたら……
★ mie にはタジク語で「中間」の意味あり。

☆ 丹生川上神
★ *ni(大地) *um〜*ub(産む) ka(の) wa(ひと) kam (仕事)i(ひと・
  神)。

☆  熊野早玉神
★ *ku(神)ma(強調末尾辞) hay(朝鮮語;岩)
 これが造語された時点では、すでに「tama =魂」があったことでしょう。

☆  祇園さん(八坂神社)の牛頭天王のは本地仏は薬師。今は素盞嗚尊のことですね。
★ ほんdh = bodh(ネパール語;知識 > 坊主) 名僧知識というワイナ。

☆ 胎蔵界
★ 童神がうまれるフシギな空間。解剖してみても「なぁ〜んにもない」。
  オッ こりゃ xo(聖なる虚空)だんべ。蔵 = kura(座)。

☆ 大日如来。金剛界
★ hir(太陽)、hir(宗教上の指導者) → 日本語として落ち着いた先は hi 。
  如来……オラシラン。nyo ./.ryo / ……surye(ネパール語;太陽)??
  金剛……ダイヤモンド。ネパール語;hira 。

☆ 『神道史』などをひもといて下さい。
★ ひもときゃ大脳意識に反映されて、ズバ〜〜ッとわかる紋じゃなかとやろが。
  だからっちゅうて「アホクサ」に逃げるあるか?


※ 宗像の市杵島姫もわかりまへん(ほんとうは、半分わかっちょる)。
※ オレ、これから冬眠にへぇりやす。
※ めったなことで、他人の I.D だのパス・ワード尋くもんじゃねぇぞ。
  いやさ、ゼッタイにきいちゃオエンぞ。

[4938] Re[4937]: 知っている方いらっしゃいませんか?  神奈備 2004/03/07(Sun) 09:48 [Reply]
> こだま薬師
三重のことでしたら
http://www.h2.dion.ne.jp/~isenokun/index.htm
にお尋ね下さい。神奈備は詳しくありません。

> 薬師如来は「神」では誰
祇園さん(八坂神社)の牛頭天王のは本地仏は薬師。今は素盞嗚尊のことですね。
丹生川上神
熊野早玉神
宗像の市杵島姫

> 他にたくさんの神がいますが、「仏」では誰になるのか教えてください。
『神道史』などをひもといて下さい。八百万神の内三神のみ紹介いたします。なお、時代によって変化しています。
伊勢の内宮の神は胎蔵界大日如来。
伊勢の外宮は金剛界大日如来。
三輪の大神神社は大日又聖観音。

[4937] 知っている方いらっしゃいませんか?  さくら 2004/03/07(Sun) 02:50 [Reply]
始めまして。
三重県の方で「こだま薬師」と呼ばれているところ知っておられましたら、
教えてください。
そして、神仏融合で薬師如来は「神」では誰になるのですか?
また、他にたくさんの神がいますが、「仏」では誰になるのか教えてください。

[4936] 原則的な希望  恋川亭 2004/03/07(Sun) 02:42 [Reply]
やはりここは、神社や聖地、神話とか伝承、古代遺跡や旧跡、現代に伝わる伝統的な民俗、古代人の生活や信仰などへの想像、考え、思い、そして紹介や案内。そういった情報を発信していただければ楽しいですね。確証は取れていないけど・・・といった少し遠慮気味だけど趣味としては面白い話しなら、青草掲示板も用意して頂いていることですし。
読者にとって、もどかしい表現や思わせぶりや、煽るような記述は気になって仕方がありません(笑)。個人的文体だなどと嘯かずに、きちんと記述して下さいね。
いつも脱線、掻き混ぜ、言い出しっぺで逃げ口上専門ばかりで失礼していますが、以上をささやかに希望まで。

[4934] Re[4933][4932]: 橘あれこれ 十三 河内摂津の橘 二  クラリン 2004/03/06(Sat) 21:53 [Reply]
得るものはありません。話題を変えられた方がいいでしょう。

[4933] Re[4932]: 橘あれこれ 十三 河内摂津の橘 二  玄松子 2004/03/06(Sat) 21:37 [Reply]
相変わらず意味がよくわかりませんが、これが最後なのですね。

> 橘とは(ほめる)の意味ですが、貴殿は私に日本語がわから無いと
> 笑うとしておられますけど、おかしいのではなくて、
> 玄松子さんに対しそうお返ししたのでして、尋ねる時は
> 答えてもらえませんかでは、書き方がいかにも答えろと
> いっているようで、ついそうなります、ご指摘も同じくですね。

児島さんが、僕の質問に対し、
「玄松子さんもおかしな事を云われる」と、一点のみ答えていただいたので、
「その他の質問にも答えてもらえませんか」という言葉になったわけで、いきなり
「答えろ」としているわけではありませんよね。

また、僕は貴方の文章が分からないから質問しただけで、
漢文を読んで意味を問うているわけではありませんから、
貴方の「読み方間違えておられませんかね(笑い)中国の漢文を。」
という返答もおかしなことをおっしゃっているわけですよ。

かたばみさんへの「見本に採用されると思います。」という文章は
翻訳ソフトを使っているのでは、と思わせる表現ですね。
(何の)見本に(どなたが)採用するのか・・・
僕には意味の分からない文章です。


> 井上さんのページではこれくらいでは怒りませんけど。
> かたばみさんとは気があいそうでしたが残念です。

井上さんが何処のどなたか存じませんが、このあたりの文章も蛇足。
一言多く、三言足りない。そんな印象を持たせる文章ですよね。

[4932] Re[4931][4930][4878][4877][4875][4867]: 橘あれこれ 十三 河内摂津の橘 二  児島 [Url] 2004/03/06(Sat) 21:05 [Reply]
> 児島さん 
> > [4923] 読み方間違えておられませんかね(笑い)中国の漢文を。
>
> 貴殿は日本人でしょうか?
> 大抵の日本人は中国の漢文は苦手ですよ。貴殿はそれを「笑う」のですか。それは嘲笑といいます。
> 日本人は貴殿の幼稚な日本語を笑ってはいません。努力をして理解しようと努めています。
> [4930] について質問いたします。
> 小生はタチバナの引用と秦の一族のことがつながって理解できていません。もう少しわかりやすく書いて下さい。
>  もし、タチバナと秦の一族とが無関係の場合、もしくは回答がない場合、以後、貴殿がこの掲示板に書き込みをされる事は禁止いたします。


> 違うかもしれない?
実にきつい指摘ですね、書かないと掲示板に書き込みを禁止とは
ではお別れに少し質問に答えておきます。
かたばみさんが教えてくれた、〔中国古代文献〕の中に秦の事を記した
『さんごくやく』、秦この項を見られたら良いでしょう。
この中に秦の軽重、末可知也、秦欲知、国情、公不如遂見秦王、
聞東方処、
そして
〔秦王曰〕・
今先生不遺千里庭教也と載せる。
もうこの意味お判りですね。
なお秦と橘は関係していますとお答えしておきます。
橘とは(ほめる)の意味ですが、貴殿は私に日本語がわから無いと
笑うとしておられますけど、おかしいのではなくて、
玄松子さんに対しそうお返ししたのでして、尋ねる時は
答えてもらえませんかでは、書き方がいかにも答えろと
いっているようで、ついそうなります、ご指摘も同じくですね。
井上さんのページではこれくらいでは怒りませんけど。
かたばみさんとは気があいそうでしたが残念です。

[4931] Re[4930][4878][4877][4875][4867]: 橘あれこれ 十三 河内摂津の橘 二  神奈備 2004/03/06(Sat) 20:17 [Reply]
児島さん 
> [4923] 読み方間違えておられませんかね(笑い)中国の漢文を。

貴殿は日本人でしょうか?
大抵の日本人は中国の漢文は苦手ですよ。貴殿はそれを「笑う」のですか。それは嘲笑といいます。
日本人は貴殿の幼稚な日本語を笑ってはいません。努力をして理解しようと努めています。
[4930] について質問いたします。
小生はタチバナの引用と秦の一族のことがつながって理解できていません。もう少しわかりやすく書いて下さい。
 もし、タチバナと秦の一族とが無関係の場合、もしくは回答がない場合、以後、貴殿がこの掲示板に書き込みをされる事は禁止いたします。

[4930] Re[4878][4877][4875][4867]: 橘あれこれ 十三 河内摂津の橘 二  児島 [Url] 2004/03/06(Sat) 19:04 [Reply]
> > > 大三元さん> 田道間は「タチマ」と読んで語義探索すべきものなり。
> > 橘の語源としては、但馬の花、の可能性が出てきたのではないでしょうか。
>
> タチマ、タニハ、ナニハ、なんかが同源でそれぞれの方言だったりしないか、とは思ってるのですが、これが妄想の域を脱することが出来てません。タチハナはその後に、ということになります。あしからず。

拝見しました、後で仕事が終わり次第書きます。
その前の戦国巻きから秦の一族の事が判りました。
一部上げますと、秦王曰く
今先生不異(日本語で)千里庭で教えるとあり、倭国の奴国からの意
[一]神農炎帝の号也、少典之子也としていました。

[4928] Re[4927]: 無題  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/06(Sat) 13:36 [Reply]
大量の中国古文献が以下に収納されています。
http://www.chinapage.com/big5/big5.html
(ブラウザで中国語を読める設定にする必要があります)
中国文献引用の原文のほとんどがここでチェックできると思います。

晋書も全文を読むことができます。
『晋書』巻 九十七 四夷伝 倭人になにが書かれているかのぞいてみてください。
400文字ほどですから文字を追うだけでも、なんとなくわかると思います。
(私の読み方がそれです(^^;)

Alexさんが書かれているのは、漢文の読み方ひとつで珍説奇説が登場し、原文を知らない方はそれを真に受けることがあるから注意しなさい、ということでしょう。
しかし、珍説奇説は楽しいです。珍説奇説として読むかぎりは。
私のHPも空想を楽しむことがメインですから、そのおつもりでどうぞ。

余談
村や町の紹介HPがたくさんありますが、地図のないことが多いです。
その住人でない他人が見たとき、そこがどこなのかさっぱりわからないんです。


[4927] 無題  児島 [Url] 2004/03/06(Sat) 10:50 [Reply]
かたばみさんへ
昨日夜大風により書き込みしましたが、突然の停電で
無駄になり遅く返事がなりすみませんでした。
ご紹介のページを見ました、それと貴方のページも拝見
しました。
実に良く色も綺麗に仕上げてあり、神々の事もよく
研究されていました。このページを紹介してもいいで
しょうか?見本に採用されると思います。
神様の系統の判断は難しいけどホントに私の持っている神と
人との区域はこの図で見るのがいいとします。
アレックスさんの漢書書斉は以前に見ていました、
ご推薦に感謝します。
ゆっくり貴方のページを読んでみます、昨日夜に開いて
みました、それで貴方も知る事が出来、安心して会話され
るのです。反論するには自分の考えを先に述べてから反論
ならいいのですが、いずれにしても指摘の見えない人の
反論は無意味になりますね、只違うでは成り立ちませんね。
これからもよろしくお願いします。

[4926] Re[4925]: URL  児島 [Url] 2004/03/06(Sat) 10:30 [Reply]
> http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/
>
> これでしょう。

はいこれは私のホームページでして、邪馬台国のお宮児島の
公開です。
夜須町掲示板に行けないのですね、どうしてかなあー?
インターネットに詳しくないのです、私は
それと右手が悪いので書き込みに小文字が大文字でいったり
してしまいます。何かいい方法があればいいのですが。
私のページでは夜須町教育委員会文化財報告書を入れたり
自分で撮ったデジカメの物を入れたりしています。
クラリンさん有難う御座いました。

[4925] URL  クラリン 2004/03/06(Sat) 09:27 [Reply]
http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/

これでしょう。

[4924] Re[4923]: 青草そのものですが  玄松子 2004/03/05(Fri) 20:11 [Reply]
> 玄松子さんもおかしな事を云われる、使いが何を書いたのか、
> ではありませんよ、皇帝に述べたと言っているのですよ、
> それを書き記したのです、『晋書』に。

なるほど、ここは素直に読めばよかったのですね。
他の箇所が素直に読むだけでは意味が通らなかったので、
なにか意味があると思っていました。

> 邪馬台国掲示板をクリックしてと述べただけ。

で、これは何処にあるんですか?
その他の質問にも答えてもらえませんか。

> 只のカラカイだけなのでしょうか?クラリンさんもね。
> もっと真剣かと思いましたがね?(笑い)

貴方をからかっても、仕方が無いこと。
わからないから、わからない点をお聞きしているだけですよ。
(からかうほどの方でもないでしょう)

アレックスさんのページに関しては誤解されているようですが、
これは、かたばみさんから何か指摘があるでしょう。

それから、児島さんのURLはクリックしても「探索」できません。
大文字小文字の入力ミスだと思われます。

[4923] Re[4871][4870][4869][4868]: 青草そのものですが  児島 [Url] 2004/03/05(Fri) 19:44 [Reply]
> > > > (中略)難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」
>
> ※横レス失礼します。
> 青草…とありますが、かなり真剣だったりして…
> ・「帥升」⇒“shuai-sheng”(何れも位置音節)⇒素盞(嗚尊)=쇠 상(soe-sang=製鐵王)の自説を踏まえて…。
> ・「難升米」⇒奴ン(奴國の)sheng-mi=奴ン(格助詞・連体形語尾)三位(官位名?)、
>  即ち、「奴國の三位」では?。
>  済みません、田道守から離れました。

かたばみさんへ
探索とはページに行くにはどうしたらよいのかです。
アレックスさんの漢書を見ました。
これでは書かれた筋がよく判りませんでした?
卑弥呼が公孫なりと云う事なのですか?
でしたら読み違いをなされていますね、せんてい之(時の意味)平らぐ
(たいらぐる)それは公孫氏の事を云うとありました。その女王(卑弥呼)
は使いをいたるとあり、やり帯方郡の公孫に使いを出しての意味で
そのご、献ずは不となると書かれており、されなかつた。
これは公孫が滅びたから出来なかったと書かれていますね。
及び文帝の時作ると載せあいそうろうとありますね。
秦始初めと載せ、遺使がおもきと見て貢(こうず)とだけ載せて
いますが。何を仰せられているのか至極むつかしいのですが。
玄松子さんもおかしな事を云われる、使いが何を書いたのか、
ではありませんよ、皇帝に述べたと言っているのですよ、
それを書き記したのです、『晋書』に。

邪馬台国掲示板をクリックしてと述べただけ。
只のカラカイだけなのでしょうか?クラリンさんもね。
もっと真剣かと思いましたがね?(笑い)
読み方間違えておられませんかね(笑い)中国の漢文を。

[4922] Re[4918]: 無題  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/05(Fri) 13:40 [Reply]
児島さんへ
神奈備さんの掲示板では私の書き込みのタイトル部分のurlとある部分をクリックすれば、書き込み者が登録したHPにジャンプします。


ははーん、晋書列伝の以下の一文による「発展的空想」と晋書帝紀の1行が入り混じっているみたいですね。
「宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不?。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢」

この文はその筋では有名なようですが、こういうご意見があることを指摘しておきます。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/netu-menu.html
ここの、卑弥呼は公孫氏だ、をご覧ください。


[4921] Re[4918]: 無題 と [4919] 『晋書』の中に  玄松子 2004/03/05(Fri) 00:50 [Reply]
ほとんど意味がわからないのですが、

> 『晋書』の意味がお解かりになっていないのではとも、思われますが
> これは桓武天皇の使いが述べて書かれたとか、

「使いが」何を書いたのですか?

> かたばみさんのホームページものぞいて見たいので、探索は?

「探索は?」ってどういう意味ですか?

> それからの討論しか出来ませんのであしからず。
> ヤフー探索邪馬台国掲示板の中の夜須町掲示板にもありました。

その掲示板は何処(URL)にあるのですか?
その掲示板に何があったのですか?

> 『晋書』巻 九十七 四夷伝 倭人
> に載せております。

何を載せているのですか?
何処に載せているのですか?

[4920] Re[4919]: 『晋書』の中に  クラリン [Mail] 2004/03/04(Thu) 21:53 [Reply]
ちょっといい加減過ぎませんか。

[4919] 『晋書』の中に  児島 [Url] 2004/03/04(Thu) 20:21 [Reply]
阿部仲麻呂が詠んだ歌
天の原ふりさけみれば、春日なる、三笠の山に、
           いでし月かも
この歌は仲麻呂が春日ばる(福岡県春日原)でたちより詠んだ
歌でして、これはその使いとして渡る時に詠んだ歌です。
三笠とは筑紫野市三笠郡の事、 三笠臣の生誕地、奴国、
ここで三笠山とは宝満山の事、
天の原とは夜須邪馬台国の意味なのです。万葉集より

『晋書』巻 九十七 四夷伝 倭人
に載せております。

[4918] 無題  児島 [Url] 2004/03/04(Thu) 20:03 [Reply]
『晋書』の意味がお解かりになっていないのではとも、思われますが
これは桓武天皇の使いが述べて書かれたとか、
かたばみさんのホームページものぞいて見たいので、探索は?
それからの討論しか出来ませんのであしからず。
ヤフー探索邪馬台国掲示板の中の夜須町掲示板にもありました。

[4917] Re[4915]: 質問  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/04(Thu) 19:35 [Reply]
≫4913で『古事記』○神崩御は258年は神武以後の事ではないかと?

ちょっと意味がわからないのですが、児島さんがお持ちの年代観との違いということかなあ。
私の年代観は私のHPの日本書紀の年代復元に書いてあります。
今書いているのは、こういう年代観によれば、こういう事象がこういうように解釈できるぞ、ということです。

≫男王ウガヤが伊都で爵を拝受した266年と記し(晋書)

晋書の帝紀266には「倭人来献方物A圜丘方丘」、これしか書かれていないはずです。
(Aは丼みたいな文字、意味知らず(^^;)

「倭人が山谷をめぐって朝貢しにきた」
この1行だけでこれ以上に空想するとなると、いささか問題がありそうです。

≫中国内では西晋が魏国を滅ぼした。

魏の家臣であった司馬氏が王位を簒奪して司馬炎 (武帝)が帝位について名を改めたのが晋で、後にこれを西晋と称しました。

元情報を確認していない場合は、うのみにはできないですね。
これは私の書いてる文についても同じであります(^^;


[4916] 母系と父系  賀茂朝臣 [Mail] 2004/03/03(Wed) 23:53 [Reply]
かたばみさん
ドイツのバーデンバーデン温泉で国際学会があって、ちょいと洋行帰りで失礼。

古事記は母系(婿入り)と父系(嫁入り)の異文化交流が重要なテーマになっています。
海幸彦の妻が一旦嫁入りして、実家に戻ってしまい、妹を代わりに嫁に出すとかね。
出雲の大国主は天之穂日尊と天之若日子尊を婿取りしますよね。それで嫁取り婚が常識だった高天原はあわてちゃうわけ。

出雲は騎馬民族、高天原(火の国)は魚業と貿易の海洋民族。
新羅も、モンゴルも騎馬民族は母系社会なんだけど、中国の王族社会は父系絶対だから、歴史家の記述の段階で母系社会を父系史観でスクリーニングしちゃうわけ。
だから、わかりにくい記述になってしまうんですよ。原典を改変するんで。

神武天皇が最初は三輪山に婿入りして、その後で畝傍山の本拠地に、神伊助依姫尊を嫁入りさせると。日本は深刻な異文化対立を結構素朴に描いているんですよ。
源氏物語の時代も、皇室は嫁入り、公家は婿入り。共存しちゃうんですよ。

でも原始の天皇は雄略天皇の恋歌のように、出雲の習慣を利用して、積極的に各地の土豪に婿入りすることで勢力圏を拡大していったんです。その後で、自分の宮殿に土豪の娘を嫁取りすると、いわば「人質」になるんでね。これがうまく機能したんです。織田信長の父親、信秀も同じでね。

余談ですが、賀茂朝臣家は天之若日子尊の義兄が祖先の神様、そして神武天皇の皇后の実家です。

[4915] 質問  児島 [Url] 2004/03/03(Wed) 08:55 [Reply]
かたばみさんのご高説楽しみに拝見さしていただいております。
少し質問があります。
4913で『古事記』○神崩御は258年は
    神武以後の事ではないかと?
思われますが、男王ウガヤが伊都で爵を拝受した
    266年と記し(晋書)
中国内では西晋が魏国を滅ぼした。
こう載せていますが?

[4914] Re[4913][4897]: 空想、列島と半島3  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/02(Tue) 20:45 [Reply]
新羅は半島東岸の小国、外交で生き延びてきた国だと思います。
倭国にも半ば従っていた。

新羅における製鉄遺跡の登場は慶州でAD300頃とされます。
ローマ帝国系の宝剣やローマングラスが登場するのは味鄒王262とされる古墳以降からです。
百済からも高句麗からも出土しない遺物が新羅からだけでる。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shiragi_houken.jpg

味鄒王262が独自の鉄生産の人材を西域に求めたのだろうと考えています。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shiragi_rome.png
この頃の中国は西晋(魏の後裔)で、現在の北朝鮮は西晋領土です。
新羅は西晋と国交がありませんから西晋領土の通過は困難でしょう。

しかし、騎馬民族の道、草原回廊、キルギスロードを使えば西域と交流可能。
この頃は鮮卑が最大版図となっておりバルハシ湖以東を支配しています。
鮮卑との友好が確保できればバルハシ湖まで馬で飛ばせば半年の距離です。
ローマングラスとともに遊牧系の角盃などが出土しているのもそれを裏付けると考えています。
(新羅側はなにをもって交易品としたのか、いまのところ不明)

味鄒王から80年ほどを経て自前の鉄生産を確保して新羅の国力は大幅アップ。
国力増大と独立機運の高まりが344の倭国の花嫁要求拒否の背景とみています。
そして伽耶の鉄鉱石へも触手が伸びる(^^;

対して倭国は古来からの伽耶の鉄に頼るのみ。
これを失えば国家存亡にかかわる、その危機感、それが346の新羅攻撃。

百済の製鉄遺跡の登場も新羅と同時期です。
西晋が崩壊して通行フリーとなる320以降だと思います。
百済が国家の形をなすのもこの頃からでしょう。
そして369、百済から七支刀が送られてきます。

「・・倭王が帯びるにふさわしき・・倭王「旨」のために作った」
宣伝サンプルですね。わが国と同盟すればこういう鉄をいくらでも供給いたすぞよ。

倭王旨、それが古事記の息長帯日賣命部分に書かれる「故・カレ」だと考えています。
大王系譜図での倭王Zがそれです。ひょっとすると最初の新羅攻撃も倭王Zかもしれません。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/daiou.png

仲哀大王の「新羅なんて国は知らないぞ」は、近畿大王が情報拠点である九州から離れたために海外の情勢変化への対応が不十分になっていたことを示すとみます。
半島情勢に敏感なのは北九州と日本海沿岸。

九州と日本海が同盟をむすんで意見の合わない近畿大王の失脚を計る可能性あり。
仲哀大王の死因など細かい部分はいろいろな空想が楽しめるところですが、倭王旨と戦って戦死したとしておきます(^^;

で、状況は九州と日本海勢力の思惑通りとなって、新大王が登場。
御子(応神)がだれの子であってもかまいません。
狭い日本、だれが大王になってもみんなどこかでつながってもいます。
赤ん坊のうちに既成事実をいくらでも作れますし(^^;

書紀では、神武東征以降は大和の王が大王でなければならず、血もつながっていなければならない。
神功紀はそのために書かれたもの。

日本武尊が熊襲(熊曽、日向〜宮崎)を討ったとき、熊襲から名をもらっています。
熊襲が日本武尊の下位にあるなら名を与えることも受けることもない。
熊襲が本家の子孫であり、日本武尊が分家の子孫だったからに他ならないと考えています。

熊襲とは九州の旧倭国勢力のこと。
仲哀紀の熊襲も実は九州倭国の造反に対する出兵かもしれません。
(邪馬壹国のその後≒熊襲です)

近畿大王の本家である九州の旧倭国勢力が復活した。
それが後に中国史書に書かれる倭王五代となる勢力だと考えています。

神功皇后関連終わり

続く

[4913] Re[4897]: 空想、列島と半島2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/02(Tue) 19:23 [Reply]
天日矛の「天」に注目しています。
書紀編纂者がつけた呼称でしょうけれど天を冠するのは天孫と血縁関係が明確な場合とみています。
狭い日本ではいろいろな血縁が混じり合っていてだれが祖先でもいいようなものですが、だれそれ系譜というのはそのうちのだれを重視するかの意識の問題が大部分だと思います。
その意識の表れが例えば「天」というわけです。

戸籍謄本のない時代に出生を示すには物証を持つほかはありません。
天日矛に宝物を提出させているのは身元確認であると同時に、新羅王族であることを捨てて従属せよの意味でしょう。
崇神紀の出雲振根の「天から持ってきた宝」の献上もまったく同じで、出雲臣が天孫(天穂日)の後裔であることの確認と同時に出雲勢力であることを捨てて従属せよ、だと思います。


天日矛が天孫流であるなら新羅系譜からみて脱解も天孫の同族と考えることができます。
新羅本紀によれば脱解は倭国の東北1千里の多婆那国出自の外国人。
三国遺事では竜城国の出自とあります。
脱解の出自は九州北岸を倭国とみて山口県〜対馬といったところか。

以降天日矛は大勢に影響なくなるのでお役ご免です。
神功皇后の空想を片づけておきます(^^;

以下、出典記載のないのは新羅本紀。
新羅本紀の年代は周辺国との関連から少なくともこの時代で偽とする理由はないとみています。

(垂仁273-311)(古事記崇神崩御258)
298 基臨王即位(脱解系)
300 倭国と国使を交換
307 国号を新羅に戻す
310 訖解王即位(脱解系)
(景行311-333)(古事記記載なし)
312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
(成務333-356)(古事記崩御355)
344 倭国が花嫁を求めたが拒否
345 倭王が国交断絶の書を送る
346 倭軍が金城を攻撃(金城は新羅の首都)

(仲哀356-360)(古事記崩御362)
356 奈忽王即位(閼智系)
(神功360-386)
364 倭兵が大挙して侵入
369 七支刀銘文:百済の七支刀、倭王旨

(応神386-402)(古事記崩御394)
393 倭軍が金城を包囲
397 百済本紀:倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
399 広開土王碑:百済と倭が同盟
400 広開土王碑:高句麗が新羅伽耶を救援し倭軍を撃退

(仁徳402-434−−応神と並立、内乱時代とみる)(古事記崩御427)
402 新羅、実聖王即位 倭国と国交樹立
404 広開土王碑:倭軍と戦う


景行大王は多数の氏族の娘を妃にいれており、312の花嫁の記事も景行大王の状況に付合します。
ところがその30年後に倭国側から国交断絶。翌年に首都が攻撃されています。
(倭人侵入記事は何度も登場しますが半島南岸の倭人との小競り合いでしょう)

倭国の新羅への全面攻撃開始は346で、持論でも古事記年代でも成務大王の時代です。
したがって新羅攻撃と神功皇后は無関係となります。
成務紀は国家運営の体制造りをしたとみえ即位期間も長いですが、記される内容はずいぶん簡素。
事跡が移動されたか削除されているんじゃないかなあ。

神功紀に疑惑の多いことは衆目一致だと思います。
古事記では息長帯日賣命に関する記述は僅かですが、これさえも原文で「故」で示される人物が息長帯日賣命を示すとは限らないことに注目です(岩波文庫本で「かれ」としている部分)。
(これと同様の状況に出雲風土記の「天の下造らしし大神」があります)

息長帯日賣命の名で書かれているのは、喪船で御子を乗せて大和に帰る場面と、大和に帰る途中で武内宿禰と祝酒を酌み交わす場面だけです。
古事記はこの表現を使って人物をあいまい化して神功紀との矛盾を回避したとみています。

続く

[4912] 鞍馬寺  Neo [Mail] [Url] 2004/03/01(Mon) 01:18 [Reply]
リンクのご快諾ありがとうございます。

鞍馬寺は、僕も好きなお寺です。以前に数回お参りしたことがあるのですが、魔王尊降臨の縁起も魅力的ですね。義経忌を、平泉で死んだとされる日ではなくて、ジンギスカンの命日にやっているのも、いいですね。33観音霊場が一段落したら、再訪したいと思っています。


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