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[5453] 伊太祁曽神社参詣記 神奈備 |
2004/07/31(Sat) 20:09 [Reply] |
前の宮司さん。 戴きますの時。 たなつもの 百の千草も 天照らす 日の大神の 恵み 得てこそ
ごちそう様の時 あさよいに ものくうごとに 豊受の 神の恵みを 想え世の人
モノノチグサモ |
[5452] Re[5451]: 鋤、鍬の神格化について・・・。re1 神奈備 |
2004/07/31(Sat) 14:03 [Reply] |
> 「農機具を神格化して祀る事の意味」ですよね。
素直に考えますと、御鍬神社に御鍬大神が祀られている、このような事を指しているのですが、そもそもの発端は、阿治須岐託彦根命のスキとは、農機具の鋤の神格化された神名としての阿治須岐であって、神鍬とでも云う神ではなかったか、と云う問題提起でした。 国土開拓の神である大国主命の御子神とされた由縁だろうと想像しておりました。
原野や山地の開拓に従事された方は今や殆どおられないでしょうが、大きい木の根っ子やまた数多くある普通の木の根などは大変やっかいな代物で、これを切れ味のいい農具で分断できれば、その作業の進捗は目を見はるばかりです。
往古、ある村に持ち込まれた最初の鉄製の鋤・鍬、これを使用することのよる作業性の向上等、それが磨耗して来てついには使えなくなる時が来ます。 鉄材料として再利用をする場合もあったでしょうし、その必要がない(多くの鉄製の農器具が来た場合など)場合には、開拓の記念碑的存在となり、祠に納めて祀る、と云うことはあったのでしょう。これが神格化の姿です。そのような鋤・鍬に依り憑く神霊は何か、それは大国主命でもいいし、阿治須岐託彦根命でも稲荷神でも気鎮神でもいいのでしょ
う。
時代が下がって、御鍬神社などが登場してきます。これは往古にまで引っ張れるのかどうか、と云うことは確かに難しいことでしょう。 往古からこの様な神が鎮座されていたのならそれでいいし、もし後世のものとすれば鉄製の農機具が豊富になった時点でもあり、そのような時にでも農機具を神として祀る、ましてや希少価値のあるときに、と言えますね。
山の神の祭祀や農耕の祭祀は、政治性の高い祭祀(例えば酋長の交代、戦勝祈願など)の後塵をはいしたようで、さてどこまで遡って確認できるのでしょうか。また、飢饉などで村が途絶え、人々が入れ替わってしまうこともあり、このような状態での伝承されている祭りの起源、保存の状態、貴重な情報なのでしょうが、実際どうなんでしょうね。
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[5451] 鋤、鍬の神格化について・・・。re1 吉田 [Mail] |
2004/07/31(Sat) 10:28 [Reply] |
こんにちは、神奈備さん、かたばみさん、吉田です。 すぐに本題に入らせて頂きます。(笑)
前述のように、 「農機具の神格化は有り得ない。」といっている訳ではありませんが、 単なる神社名称や、 現在神躰として伝えられている忌鋤や忌鍬を祀る神社があるからといって、 その事だけで、即、農機具の神格化があったと断定するにはいたらない。 ・・・と言っている訳です。
神奈備さんが、「御鍬社」という名称の社があるという実例を数例揚げてくれましたが、これらの社ではどのような内容の祭祀が行われているのでしょうか。? このような名称が、 「鋤、鍬等の農機具を神格化した。」ということに結び付くならば、 これらの社では、「鋤、鍬等の農機具を神格化して祀る。」と言う事にふさわしい祭祀の形が執られ、そのような祀りの形式が存在するはずです。
例えば、御田植え神事などの場合、 鋤鍬や、杁(いり)と呼ばれる田均しの農具などが用いられ、 早乙女による御田植えの前に、 鍬役によって"田おこし"、"田ならし"の儀礼が執られます。 地域ごと、各社各様の定められた所作に違いはありますが、 概ね、"田に神霊を斎い込める。"ということを目的とする祭祀だと言い得ます。
こういう、祭祀儀礼にも、鋤や鍬などの農具が登場しますが、 この場合、祀っているのは"田"であり、或は、"田に宿った神霊です。" こういう場合の、農具は、「祭祀に用いる特別の・・・。」という意味で、 忌鍬というように、"忌"をつけた名称で呼ばれる祭具という概念で、 捉えられますが、 ここでは、本来的には、農具を神格化して扱っている訳ではありません。
時代が下って、この祭祀に用いられる特別な農具を納めておく意味で作られた、 御鍬社のようなものが作られたとしても、本来的にはあくまでも祭具です。
神奈備さんがいう、"御鍬社"問題は、こういう社がどのように成立したのか。 何時成立したのか。また、どのような祭祀が営まれているのか。など、 様々な周辺事情を検討してみないと、 「鋤鍬などの農具を神格化して祀っている事例」として、 言い難い、判断し難い、と言っている訳です。
一概に言えませんが、 御田代、御田、御田植えなどの、田の神事、 或は、田を祀った社と関係するものならば、 副次的に成立したと言う判断が妥当だと思います。
何故なら、これも前述の書き込みでふれたように、 本来的には、このような祭具は、祭祀の度ごとに作り替えられるべきもの。という理解があるからですが、 これは、常なる場所と、神の場所とを分けて、 常でない、神の場所に帰属するものを、常の場へ持ち込む事を忌んだ。というような、生活場と、神の場とを分けて考える空間感覚によって生じた習俗です。
しかし、このような習俗や感じ方も、 時代が下って平安期の中期後期に至りますと、 例えば、大嘗祭に用いられる、大忌衣も、 その場で廃棄されず、幾度か用いられるようになります。
話題になっている、 「御鍬社」や、「忌鍬などを神躰として祀っている社」の場合ですよ、 このような、祭祀に対する緊張感の変容によって成立した形なのか、 或は、そういう祭祀の形が本来的なあったものなのか。という点が気にかかる訳です。 このような、本来は作り替えられるべき祭具がその場で廃棄されず、 幾度か再利用される例を、どう捉え評価するのかによるのですが、 僕はこういう変化は、祭祀に対する緊張感や質の鈍りとして捉えますが、 ある意味では、社会の価値観が合理的になって来た変化とも捉えられます。
些細な事にこだわるようですが、 神奈備さんは、「鋤鍬などの農機具を神格化して祀る。」ということを、 どのように捉えられているのかというところが疑問なのです。
つまり、「農機具を神格化して祀る事の意味」ですよね。 そういうことをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。?
例えばですよ、 前述のような副次的に発生したものではなくて、 鋤鍬等の農具が神格化して祀られる場合を想定すれば、 一般に知られていないものであるから神格化される可能性がある訳です。 そうなると、農耕起源にまでさかのぼって考えなきゃいけない訳ですよね。
また、鋤鍬というものを製作する技術集団があったのか。?という面も、 一応考えてみなければならなくなります。
現代でもそうですし、上代古代に於いては、 他の追従を許さない、また、模倣できない技術は、即ち、"権力"です。 そのような、現実的な力や関係があった上で、 "神格化して祀られる。"と、いうような事が成立すると捉えた方が妥当でしょう。
ですから、そのような力関係が成立可能なポイントは、 一般に製作技術が広く知れら、また模倣しやすい、 木製具や石器応用に依る鋤鍬以前という時点の所が最も古い事になります。 と、すれば、前述のように、 わが国の農耕起源の問題まで遡って考えなければいけなくなります。
また、このような農耕が成立し、 木製具や、石器応用に依る鋤鍬などの農具が成立し定着した以降のもの。 と、いうようなポイントで考えますと、 そのような他を凌駕するような技術に依る鋤鍬などの農具という事なら、 金属利用の鋤鍬というようになると思われます。 で、このような場合の問題点は、 このような事情で成立した「御鍬社」というもの性質をどう捉えるのか。 と、いう点ですね。
祀っているものが、鋤鍬というような農具であっても、 金属神のクループで捉えるのか、或は、農耕神とするのか。 そういう判断は微妙ですよね。
こういう場合は、最初に祀った側が誰なのか。?を特定しなければなりません。 つまり、鋤鍬を作る鍛冶職に依って本来は祀られたものなのか。 最初から、農耕に従事する側に依って祀られていたのか。という点ですよね。
そして、古式の祭祀形式や祭祀の実際では、それに応じた形が執られていたのか。 ・・・というような点が重要です。
例えば、近世資料からですが、"鍛冶屋、金貸し"と言う事があります。 呼称自体は、ある地方で言われる呼称ですので、全国的なものではありませんが、 一般の集落に於ける鍛冶職の立場、鍛冶職と農耕民の関係を言い表したものです。 内容的には、単純に、鍛冶屋が金貸しをしている。と言う事ではなく、 鍋、釜、鎌、鍬などの農具などの金属器を、 現在で言うレンタルリースのような形で、集落の多くのメンバーに貸し与え、 その対価を得ている。ということを指したものです。 そして、また集落の分限者(お金持ち)以外の家では、 鍋、釜、鎌、鍬などの金属器は簡単には買えなかった。という事を示すものです。 またこれは、お金が無いから買えなかった。と言う単純な理由からではなく、 逆に、鍛冶屋の側が、力のある家以外には、売る事を避けたと言う事例です。 こう言う事から、集落の鍛冶職と一般の農耕民との関係が推し量れますが、 このような、事情から考えると、可能性としての問題ですが、 「御鍬社」の祭祀権は、鍛冶職に依り、 また鍛冶職によって祀られるべきもの考えられますし、 もし実際がそうなら、これは金属神か、農耕神か、何れなのか。? ・・・という神の性質を判断しなければなりません。
また、このように鍛冶職と農耕の側の両者を橋渡しする、 つまり、機能と利得の互助的な交換関係ですが、 このような関係に依って祀られたのなら、 両者の性質が混在する稲荷社として祀られいるような状態の方が、 妥当ではないのか。とも思う訳ですが、・・・。
ですから、神社名称や縁起などの言語情報、文字情報からだけでは、 神社で祀られている神の実際は特定しづらい。と言っている訳です。
これ以上の議論は、一般論としてやるより、 具体的に、地域や、社を特定して意見交換した方がよさそうですね。
また、鋤山、鍬山の問題は、 上記の事柄とは、問題や系統を別にして捉えるべき事柄だと思います。
前述の書き込みでも触れた所ですが、 鍬山、鋤山と言う場合、鋤や鍬という農機具が、何故、"山"と関連付けられて伝えられるのか、という所に、 僕の場合、興味がありますし、疑問に思う所なんですよ。 そして、この疑問というのは、 「そういう関係性がある事が納得できない。」という疑問ではなくて、 きれいにジグソーパズルが完成できるピース(理由)は何が妥当なのだろうか。 ・・・というような性質の疑問です。
さて、僕が疑問に感じた、 「鋤山」、「鍬山」、と表記され、呼称される場所や、 「鋤や鍬を神躰として祀る社」が、即ち、農具を神格化して祀っているとは言い難いのではないか。という点に、 神奈備さんから、それでは何を祀っていると考えるのか。という問いかけがありましたので、それに触れますと、・・・。
まず、「鋤や鍬を神躰年て祀っている場合」については、前述の如く、 様々な要素を検討してみないと、断定できない。という事が僕の理解点です。
また、「鋤山」、「鍬山」というような場の問題では、 日前宮の事例として触れましたが、 このような場で、なんらかの祭祀が執られていた事は確からしいのですが、 では、ここで実際どのような内容の祭祀が執られていたのかと言う事です。 この処を明らかにしないと、「農具が神格化された事に通じる事例」とは、 認められ難いと考えます。
この日前宮の事は複雑です。 神奈備さんも御存じのように、 まず、伊太祈曽社と場所を交代したという伝承があります。 であるならば、この鋤山の祀りは、 本来的には、どちらの社に属する祀りなんなのだろうか。という事を考えなければなりませんし、 現在の日前宮の境内外の場所、つまり、今のバイパス道路を挟んだ北側の場所に、 専女(とうめ)社が祀られ、斎瓦(かわらけ)を焼き、 豊明の祭祀を執ったという伝承などから、想起すると、 現在の二社の社殿を、ユキ、スキの社殿に見立てた祭祀が執られていた事さえ、 想像させ得る類似性が認められますが、 残念な事に、同社は、現在、中世の館跡と思しき遺構上に位置しています。 この社地が、伊太祈曽社と交換した地のままなのか、 或は、移動しているのかについても、興味深いのですが、・・・。
先ずは、この専女社の祭祀と、鍬山と言うものが関連してくるのかどうかと言う点ですね。 この事例については、これを整理しないとなんとも言えない。 ・・・という所が現状でしょうか。
また社地を交代した伊太祈曽社には、 亥の森(薮)といったと記憶していますが、 元の社地と伝える森というか薮のような場所があり、 今はどうなっているのか判りませんが、湖南域の山ノ神の森と良く似た処です。 亥の森と言うからには、現社地からみて、亥の方向にあればピッタリですが、 実際は、大体、東南か、東の方向でしょうか。 ここを訪ねたのは、もう20年以上前の事ですが、 当時は特別の祭祀習俗は認められないと言う状態だったので、 それ以上の聞き取り調査は行わず、そのままになっています。 亥の森と呼ばれる音から、井の森、泉の森と解する事もできますが・・・、 やはり、 この場合は、実際に、山ノ神の森を有する大屋神社の事例がありますから、 この、亥の森?は、山ノ神の森か、森神と理解したい所です。
また、日前宮という紀国造家が祀る社に関連したものならば、 象徴的な意味で、鍬初めのような儀礼が執られたと考えても無理はないのですが、 実際にそう言う事があったのか。という所も、紀家の社家文書などから、 式次第などを拾い出してみないと何とも言えません。
鍬山である高積山山頂付近には、 高積社があり、高積比古命、高積比賣命の二柱の神が祀られていますが、 この神の性格はどうなんでしょうね。 鍬を祀ったものなんでしょうか。
またこの山頂には、 この地方の平野部の御田植え神事や、鍬初めの習俗によって、 田に斎い込められるべき、神霊が座す山と考えられていたのでしょうか。 或は、象徴する、池なり、沼なり、自然田なりがあって、 稲霊として認識されていたのか、 また或は、前述のような儀礼が執られた場所なのか、
他の鍬山などの場合でも、そういう事に関わる事情を明らかにしてゆかないと、 農耕に関連するものという事さえ言い得ませんし、 ましてや、農具を神格化して祀った証拠とは言い難いと思うのですが、 如何でしょうか。
"鍬初め"という民俗儀礼や、 籾蒔きの時点から始まる苗代の水口祀りなどの稲作儀礼と"山"が関係するのは、 そのような時に用いられる、数本の木の枝や、柴を採取する場としてです。 このような儀礼の際に、御幣のようにして、田や水口に挿される枝や柴は、 無論、神の依り代としての意味合いでしょう。 「鍬山」というものを、 このような儀礼の場合に神の依り代としての木の枝や柴を採ってくる山というように、定められた山と理解しても、 「農具を神格化して祀った。」と判断できる要素は見出せません。 この場合祀られているのは、広い意味での"山ノ神"です。
また、具体的な農具としての鋤や鍬と、山を関連づける要素は、 前述の書き込みのように、股木利用に関連するもの。 ・・・という可能性しか思いつく事ができません。 ですから、 この場合も祀られている神は、山ノ神の要素が強い神だと考えられます。
まとめるとですよ。
「鋤鍬などの農具に神格を与え祀る事など有り得ない。」とは思いませんが、 実際にそのような祭祀が行われた可能性という面を考えると、 農耕稲作に関わる祭祀に於いて、 鋤、鍬を用いて行われる儀礼的な所作を執り行なう局面で重視されるのは、 「田おこしと言われる所作のもつ、田に神霊を宿らせる。という意味合いです。」 この場合の鋤や鍬は、 冬の間眠っていた田に息吹を吹き込み、 文字どおり、"田を起こす事に他なりません。"
そして、何故、田が起きるか。というと、 この神事の場合では、鋤、鍬での農作業による。というよりも、 こういう作業に依って、「田に神霊が宿るから・・・」という意味合いで理解している事が、祭祀の構造により解ります。
もし、鋤鍬の農具や、その農具を使う側に、重点を置くならば、・・・
何らかの形で選び出された、「依りマシ」たる神を宿られせた作男が、 神器の鋤や鍬を持って、集落の田を儀礼的の耕して廻る。
・・・というような構造の祭祀儀礼になると思われます。
田に神霊を宿らす。というような祭祀上の理解は、 農耕の実務の作業上でも、 田おこしは、土壌に空気を通すようにすると言いますから、 祭祀上の意味合いと、実務上の意味合いが合致している例です。 逆にいえば、 実務上の理解が、祭祀の形の反映されている。というような一致がある訳です。
そうすると、こう言う場合は、 鋤鍬の農具が祀る対象として捉えられる事は本来的には考えられない。 ・・・という事になります。 ですから、やはり、このような祭祀に関わる位置で、 鋤鍬などの農具に関わる社名を冠した社があったとしても、 時代が下ってから、何らかの都合で、 副次的に成立したものとして判断していいと思います。
稲作農耕儀礼に関わる社として、 このように後年、副次的に成立して来たものをも含めてしまって、 「農具を神格付けて祀った例があるか、ないか。」を議論しているので、 ややこしいのですし、 どのような祭祀でも、時代が下るにつれて、 それに付随するモノやコトに、祀る対象が広げられてしまう。 と、いう事例が見られる場合があります。 このような事も、その時代時代の習俗を考える時には、 それはそれで面白いのですし、 単純に、時代をマゼコチャにして、あるか、ないか、という所から言えば、 あったのでしょう。
が、しかし、本来の形の稲作農耕の祭祀の中で、あるかないかと言えば、 今の所では、一般に「なかった。と考えて差し支えない。」と言い得ます。
次に、前述の、もし、鋤鍬のような農具を神格化して祀る場合があるならば、 わが国の農耕の稲作起源に位置する時代のものか、 或は、金属器の渡来や生産が始まった時代に起源するものである場合であろう。 ・・・という仮説についてですが、
先ず最初に揚げた、わが国の稲作起源にまで遡る場合、 これは古代過ぎて、祭祀の実態から見てどうなのかと言う事が特定できません。 このようなことに関わる祭祀の場の遺跡から、 木製の鋤鍬が発掘されたとしても、単なる祭具なのか、 そう言うものに神格を感じて祀ったものなのかというところが判断できませんし、 よほど特殊な状態で発見されない限り、なんともいい難い。 と言う所が実際的な判断でしょう。
またこう言う場合は、今日いわれるような、縄文の稲作を起源として観るのか、 ある程度の規模で広がりを持つ、弥生の稲作を起源とするのかという点や、 また、田と言うものの捉え方ですね、これを見直さなければなりません。 今日の我々が"田"というと、即、稲ですが、 本来的な田の耕作物は、"イモ"ですから、 古い形の田に対応する、農耕儀礼は、イモ正月のようなものだと思われます。 こう言う事まで含めてしまうと、 鍬初めなどの習俗で祀られる神は、 稲霊のような神だと、決めてしまい難くなります。 これらは一部分ですが、様々な問題が含まれてしまいます。
次の、金属の渡来や生産に伴って、金属神的な性質の神として、 鋤鍬等の農具が神格化されて祀られた場合。についてですが、 神奈備さんがいうように、 農具が神格化されて祀られる事がある(あった)とすれば、 この場合が一番可能性が高いと僕は思います。
しかし、この場合、「鋤山」や「鍬山」などと、直接関係しないと思われます。 関係するとしたら、ちょっと、記憶にありませんが、 鉱石産する山を、鋤鍬の素材の山という意味で鋤山、鍬山と呼んだ場合も考えられますが、ここまで来ると、やはり、農耕や農具から切り離して、 金属神や鍛冶神のグループとして捉えた方がよさそうですね。 もっと踏み込んでいうならば、 金属神、鍛冶神的な山ノ神という事ですが、・・・。 そういう鍛冶神的な山ノ神が、 農耕神的な山ノ神などと接点を持って重なりあった姿が、 所謂、多義的な要素を持つ稲荷のような神の原像だと思うのです。 祭祀のなかで具体的に示す事例は、能登の鎌の宮といわれるような祭祀ですが、 稲穂の実りの時期の風を鎮める為に、 神木タブの木に集落の鍛冶職によって鍛えられた鎌が打ち込まれますが、 この鎌には、稲穂がつけて飾られます。 このような祭祀の場では、もっと様々な要素が見出せますから、 鍛冶職と農耕民だけではなく、 漁労民が祀る山ノ神などの要素も考慮に入れる事ができます。
如何でしょうか。? この場合の農具は鍬ではなく鎌ですが、 鎌の霊力によって、秋の嵐を鎮めることと、刈り取り収穫する目的で、 特別な形状の鎌が鍛冶職によって作られ、 そして神木に打ち込まれ祀られます。 この神木は毎年毎年鎌が打ち込まれる事により、 ある特殊な形状を示す姿になりますが、 このことが、鎌と神木が融合して祀られている一端を示しています。
この場合は、あった。と捉えていいと思いますが、 鍛冶職が介在して祭祀が成立しているという所に留意すべきですから、 神奈備さんが、「あった。」とする処の論拠とは、 全く重なりあいませんし異質です。
結論的には「あった。」いう事になりますが、 神奈備さんのいう所のものとは、違うようですね。
・・・・・・・・・・・・・・・
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[5450] 鋤・鍬 福島雅彦 [Mail] [Url]
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2004/07/31(Sat) 00:16 [Reply] |
※「鋤(すき)」⇒漢字の音は「しょ・ジョ」。語源としては“쇠기(soe-gi)”=鉄器か。※「鍬(くわ)」⇒同義の別字「钁(クワク)」の借音?か。 即ち、鉄器、鉄製をして、神格化したのでは…。 |
[5448] Re[5445]: 「鋤・鍬」の神格化について かたばみ [Mail] [Url]
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2004/07/30(Fri) 01:18 [Reply] |
吉田さん、こんにちは
≫何故、農耕作業の収穫の豊饒や、農耕道具に、"山ノ神"が関わってくるのか。という事について
大綿津見神に対応する大山津見神、大山祇見神などの山は山岳ではなく陸(大地)の意だと考えています。 海山の対比から山の文字が使われ、後に山の文字から木花開耶姫のごとくに山岳のイメージが強まっていったもの。
山ノ神も同じく山岳の神じゃない、大地全般の自然神だと思います。 しかし、田ノ神はまったく違う、こちらは農耕の神、人の技によって生じた神です。 人の行為があることによって存在し得る神です(接点にあるのが焼き畑だと思います)。
最初に自然神ありき、田ノ神は山ノ神に従属する。 農耕の豊饒や道具が山ノ神の下にあったとしても当然だと思います。
≫ですから、「鋤山」や「鍬山」「現在、鋤や鍬を御神躰としている場合」なども、 ≫そう簡単に「農機具を神格化して祀ったもの。」とは断定できないのではないでしょうか。
あいまいな概念あるいは複雑な理念であれば、だれもがそれを理解するのは困難。 そこで登場するのが象徴だと思います(偶像化される場合もあるでしょう)。 大木や滝や巨岩がまずはそうなると思います。 今あの磐座にいらっしゃるのだ・・依代ヨリシロですね。
目前に現物があるゆえにわかりやすく、場合によってはそれ自体が神格化もされてもゆく。 民心の統一にも都合がよい・・この旗の下に団結せよ、支配者はそういう扱いもしたと思います。
人の作りだした道具であっても、それに命を預けるといった感覚が強ければ道具そのものへの「願い」も強まるだろうと思います。 船霊などはその代表と思います。
しかし、それも結局は大綿津見神の掌中にあります。 田ノ神も同じです、なんらかの形で象徴化されても、やはりそれは山ノ神の掌中にあります。
儀式に使われた象徴(依代)をその辺に捨てるわけにはゆかなければ保存もするでしょう。 うんと古いそういうものが発見されれば容易にそれが神格化もされると思います。 戦の時代であれば剣や弓が登場し、農耕であれば鋤、鍬、井戸などが対象になるはず。
銅鐸の紋様と絵もそういう象徴化、依代のひとつだろうと思っています。 絵にトンボや動物が含まれますから田畑だけには特化していない状態でしょう、大自然全般と人の関わりの象徴です。
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[5447] Re[5445]:
「鋤・鍬」の神格化について 神奈備 |
2004/07/29(Thu)
18:26 [Reply] |
> 吉田と申しますが、 >
面白そうな議論なので、飛び入り参加させて頂きます。
吉田さん ありがとうございます。大歓迎です。読み応えがありますね。 農機具の神格化はないとのお話には異論がありますが、又木"の利用、山の神の意味など大いに参考になります。大屋毘古神は大穴牟遅神を木の俣より逃がして素尊の元にやるお話も『古事記』にありますように、神霊の依りつく処だったのですね。
さて、「農機具」についての結論ですが
農業の歴史、農機具の歴史は大変に長いものです。 >
この問題は、変容の過程や祭祀の形について、明確にでき難い現時点に於いて、名称などの言語化された情報のみから結論付けるのは如何なものでしょうか。 と云う所にあるようですね。 鋤や鍬を神格化したと「結論付ける」のは如何なものとおっしゃりたい訳ですね。
>
鋤山や鍬山というような呼称から、「農機具」を神としたというように読み解くのは如何なものでしょうか。? ■伝承として残るものは言葉です。呼称です。伝承を使用するなと云うことですか。
>
「鋤山」や「鍬山」に祀られた神や、「御神躰として伝えられた忌鋤や忌鍬があるという事実がある社の神」が即ち、農機具を神格化したり祀ったものである。とは言い難いのではないでしょうか。 ■それでは何を祀っていると理解されるのでしょうか。
>
このような祭具を用いる事が即ち、「鋤や鍬を神格化して祀っている訳ではない訳です。 ■祭具があるから神格化していると申してはいませんが。。。。
>
ですから、「鋤山」や「鍬山」「現在、鋤や鍬を御神躰としている場合」なども、そう簡単に「農機具を神格化して祀ったもの。」とは断定できないのではないでしょうか。 ■農具に神霊を認めることまでは否定できないのではないでしょうか。
長い歴史の中で農具を祀った神社もいくつか登場している事を例示いたします。
岐阜県吉城郡神岡町 神明神社摂社お鍬神祠「お鍬神」 岐阜県各務原市蘇原柿沢町 稲荷神社「倉稻魂神、御鍬大神」 静岡県浜松市天神町 天神社摂社御鍬神社「御鍬大神」 |
[5446] 銅鐸・「甘南備」・神の「ミ」
わーぷ |
2004/07/29(Thu)
16:33 [Reply] |
こんにちは、突然失礼します。
>銅鐸の絵にも農具があるようで、やはり祭祀につながっていたのでしょう。 トンボ(蜻蛉)は「秋津」=測量士 イモリ=鋳る(鋳物師) カマキリ=下草刈り・クモ=縄での距離の計測 魚(景教徒)をくわえた二羽の鳥(測量士)=ツイナトリ=角足(角度を測る) 魚(景教徒)をくわえた亀(規・六角形)=マナカミ=真神 「鮎」ナマズ・アユは魚(景教徒)ナマズ(髯の長いユダヤ人) 中国古代の吊るして叩く楽器「石ケイ」の形は60度・30度の角度が使われています。 銅鑼や太鼓などは、連絡用の合図にも使われたそうです。 馬車に付けられた鈴 「ラン」は目標に照準をあわせる器具でした。
>
いや、神奈備さん、「甘南備」という用字がどこまで遡れるのか、もうちょっと調べましょうよ。 甘(カン)の字は酒甕(カメ)を夏(カ)の禹(ウ)が土中より掘り起こした時に、あまい香りに感じた古事から。 甘(カン)から蜜(ミツ)蜂 蜜や密(カバラ) 甘南をカナンと読み、南備をナビゲーター(指示をあたえる者)・・・青草デスネ! (皆様の研究の発展のためにも、私の青草「国造りは景教徒」を心の隅に置いて下さい。) 「世」の文字は十字架が三つ(三位一体から)出来ています。 大乗仏教・仏像崇拝は、回教徒のカニシカ王が仏教に帰依し発展した。
>神の「ミ」は乙類というのが仮名違い、で説明が要るところ、と思う。 「ミ」は巳・蛇に通じ「カ」は華・夏に通じると考えられませんでしょうか? ミ 蛙(月) ミカエル・・・青草デスネ!
日本列島には古代より多く流民が住み着きました。特に中国の夏王「禹」の子孫は家柄を重んじる 先住中華系渡来の人々(農耕海洋民)は日本でも高い地位に有ったと思われます。 後に渡来した秦の始皇帝系(遊牧・騎馬民族)は、技術・戦闘・商才能力での地位についたのでしょう。
青草ですが的外れで無いと思います。 失礼しました。
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[5445] 「鋤・鍬」の神格化について 吉田 [Mail] |
2004/07/29(Thu) 15:13 [Reply] |
はじめまして、・・・。 吉田と申しますが、 面白そうな議論なので、飛び入り参加させて頂きます。
"「鋤」の神格化、そんな信仰、風俗があったのか。?妄想の世界ではないのか。" ・・・という疑問について、 神奈備さんがいうように、「鋤山」といわれる山は各地に見られる事例です。 皆さんが話題になさっている物部氏に関わる社、 和歌山市の日前宮にも鋤山の祭祀があった事が記されています。 この鋤山とは、現在の高積山にあたる山です。
ただ、鋤山や鍬山というような呼称から、 「農機具」を神としたというように読み解くのは如何なものでしょうか。? 確かに、このような場合の祭祀には、祭具として、忌鋤や忌鍬というような、 祭祀の為に象徴的につくられた鋤や鍬が用いられたでしょうし、 また、本来祭祀の度ごとに、新たに作り替えられるべき、 その祭具が、どういう訳かは解りませんが、 永続的に"御神躰"のように扱われ、祀られる。という事例もあるでしょうが、 このような祭具は、 「祭祀を執り行なう度ごとに新たに作り替えられるべきものだ。」 ・・・という事を、神道の祭式のスタンダードなかたちだと考えますと、 「鋤山」や「鍬山」に祀られた神や、 「御神躰として伝えられた忌鋤や忌鍬があるという事実がある社の神」が即ち、 農機具を神格化したり祀ったものである。とは言い難いのではないでしょうか。
何故ならば、この場合の忌鋤や忌鍬は祭具であるからです。 例えば、身近な例では、 現在でも、地鎮祭に忌鋤や忌鍬と同様の木製の鋤鍬を用い、 象徴的に土を掘るという所作を行いますが、 このような祭具を用いる事が即ち、 「鋤や鍬を神格化して祀っている訳ではない訳です。」
ですから、「鋤山」や「鍬山」「現在、鋤や鍬を御神躰としている場合」なども、 そう簡単に「農機具を神格化して祀ったもの。」とは断定できないのではないでしょうか。
では、このような場合について、それ以外の読み解きができ得るのか。ということについてですが、
ひとつ考えられる事は、「鋤」や「鍬」を何故、山で祀るのか。? ・・・というような疑問から考えると、 鋤も鍬も、古いかたちは、"又木の利用"によって作られています。 "又木"、つまり、二股に分かれた木の枝の部分を加工して得ているのです。 現在や中世の出土物にみられるような、 板と柄の部分、或は、金属片と板と柄の部分、 というようなパーツで構成される構造物が、 一般的になったのは、新しい出来事である訳です。
鋤や鍬以外にも、"又木"の利用は、家屋の構造柱等、様々な生活道具の中に、 その利用が見いだせます。
また、又木は、山ノ神のとまり木、或は、山ノ神の木として、 "伐ってはいけない木"として扱われ、山仕事の人たちの禁忌とされていた。 という事を御存じの方も多いと思いますが、 又木(股木)の全部がそのように扱われたのではなく、 特別に大きい又木や、何らかの霊威を感じさせる木が、神木のようにして、 「山ノ神の木」として扱われ、祀られたと言う事です。
「山ノ神」は一般に、 "山仕事の人たちが祀る神"というイメージで理解されていますので、 このような説明からだけでは、 何故、農耕作業の収穫の豊饒や、農耕道具に、"山ノ神"が関わってくるのか。という事について、納得し難い。という感想をもたれるやも知れませんが、
"又木(股木)"という木の二股に分かれた部分が、 家屋や様々な生活道具を作る為に利用され、 逆に言えば、又木(股木)の利用の発見が, 我々に豊かさと様々な生活文化を与えてくれたといっても過言ではありません。
そのような、又木(股木)の象徴的な存在が"山ノ神"である。と考えれば、 民俗学の分野でよく言われるような、 「山ノ神と田の神の、神の役割の変換や機能の変換」というような、読み解きを採用せずとも、山の仕事であろうが、里の農耕であろうが、 そのような営みのあり方に関わらず、 「生活に豊かさをもたらす存在としての山ノ神の姿」が考えられますし、 山で鋤や鍬の祭具を用い、農耕に関わると思われる祭祀が執り行なわれる意味合いを、無理なく理解する事ができるのではないでしょうか。?
また、 木が二股に分かれた大木が山ノ神の木とされる事が多い理由も、 無理なく理解できます。
全国の個々の事例がこのような内容にピッタリと当てはまるかどうか。については、調査し検討してみないと断言できない事ですが、 例えば、近江の湖南地方によく見られるような、 明らかに農耕米作地帯である集落でも、"山ノ神"が祀られ、 小正月のドント焼きや道祖神祀りで用いられるような、 男女一対の人形道祖神のような"山ノ神の神躰"がつくられ祀られる事例などからすれば、本来は旧正月に、男女一対の神躰を実際に和合させる所作を象徴的な呪術として行い、 その事によって、豊かな実りや豊かな生活、 また、子孫の繁栄など集落にもたらす事を目的としているような、 つまり、 一言で言えば、これらの行為は集落に豊饒を産み出す呪術を行っている。・・・とも理解でき得ることなどから、 "山ノ神の祀りには、かなり広い意味合いが含まれている事もある。" ・・・という事が理解して頂けると思います。
また、上記の事例の場合、 実際に男女一対の山ノ神の神躰(木偶)として作られるオブジェは、 男躰のものは、棒状のもの、或は、先が三本に分かれた木の枝でできたもの。 女躰のものは、二股に枝分かれした木の枝でできたもの(丁度人の字状のもの)。 ・・・です。
ここで、注目して頂きたいのは、 これらもまた、又木(股木)を利用して作られている。という点です。
そして、その地域の近辺には、 鍵(鉤)かけ型、或いは、鍵(鉤)引き型の神事といわれるようなタイプの、 山ノ神祀りもあります、 これにいう"鍵(鉤)"とは、「レ」の字状の形に加工された、又木(股木)です。
"鋤""鍬"というような表記されたものを、 言語化して表現された言葉の意味に囚われずに、 鋤や鍬の原像や、何故そのような祭祀が山で行われるのか。?という点から考えれば、必ずしも、御鋤祀りが行われた鋤山や鍬山が、農具や農耕に直接的に関係するものとして、その祭祀上の役割や機能を、特定し意味を固定してしまわなくてもいい訳だと思います。
鋤や鍬、鉤、木偶によって祀られる対象が、同じものだと仮定する事も、 それぞれが、股木によって作られていると言う点を重要視すれば、 その共通する要素により可能です。 祭祀の形態が違っているのも、集落や地域性による股木利用の形態の差異や、 祭祀によって表現する様式的な問題の差異として考えれば それぞれの違いは吸収する事ができますが、 これはあくまでも仮説による可能性の演繹上の問題でしかありません。 しかし、 ここでは仮説上はそう言う捉え方も可能だという点を指摘するに留めます。
また、忌鋤や忌鍬のような道具を象徴的に作って祀る例は、 東吉野村や川上村の事例など、鉄砲やヨギ(斧)など、 生活上必要な道具の"つくりもの(木でつくったミニチュア)"を山ノ神に供えた例などあるように、忌鋤や忌鍬をつくって祀ったからといって、 鋤や鍬を神格化したもの。と言う事や、 そう言う祀り方が即ち農耕神を祀る祭祀である。というように、 イメージから予見的に決めてしまうのもどうかと思います。 つまり前述のように仮説としてなら様々な展開を試みられる可能性があり、 また、現在判り得ている断片的な事柄からだけでは、 一つの意味に特定してしまう事はできないし、 さらに、本来の形が、そのように一つの意味に特定してしまうようなかたちの祭祀であったのかどうかさえも判りません。
前述の事例としてあげた、湖南地域では、 男女一対の木偶を祀る所、 男女一対の木偶と鉤引き神事を同時に行う所、 田の風景のなかにポツンと小島のように残された森や木を祀る所、 また、その森や木がある場所で、木偶を用いたり、鉤引き神事を行う所、など、 複数のタイプの山ノ神の祀り方が一か所で重なって行われていたりする興味深いエリアですが、・・・。 このような地域で、 実際の祭祀の場の運営や祭祀を執り行なっている集落の人達の側には、 「祭祀に特定の意味を言語化してゆく。」というような意識が稀薄です。 どちらかと言えば、様々な多くの意味が含まれたものとして理解しているのではないでしょうか。
ただ誤解して頂きたくないのは、 神奈備さんが言うような、忌鋤や忌鍬や鋤山や鍬山というものに、 「農耕神的な性格を見いだせない。」といって否定している訳ではありません。 そう言う事も、その祭祀の意味全体の一部であろうと考えている訳です。
このような祭祀は、生活環境などの地域性や時代性によって、中心になる意味合いが変化しますし、形式も変容します。
僕なんかの場合は、「又木(股木)」というものが、この問題に共通して存在するものとして、感じられますが、 他の方からすると、 あまり説得力を持たない事柄として感じられるのかも知れません。
また、僕も含めて現代人の感性や価値観として一般に、「又木(股木)」という物の利便性や、用途の可塑性を実感できないと言うのも理解できますが、 民具をみてゆくと、又木(股木)の利用から発展して出来上がった器具が多い事に驚かされます。 実際に使ってみると、股木を利用する事によって、かなりの器具が作れます。 つまり、家屋から織具まで、生活民具のほとんどが、何らかの形で股木を利用しているといっても過言ではありません。
山などの生活場に近いフィールドから、手軽に手に入る素材から、 自分の手で道具や物を作り出さなくなった我々からは想像できない意味や世界が、 このような祭祀の意味を読み解く時に関わってくる事は事実です。 ですから、 その祭祀の本来的な意味合いや形は、なかなか現代の感覚や価値観から想像し難いし、意味も汲み取り難いので、多くの場合観念的な意味付けが行われます。 つまり、神が豊かさをもたらしてくれる。という実感や事実から離れ、 観念的な信仰や感謝などの、ある意味でいう宗教的な信仰の方向性を強く帯びてくるようになるのだと感じられます。 その意味では、我々現代人的な感性から見て、 「鋤の神格化というような、信仰や風習があったのか、妄想ではないのか。」と感じる感性も妥当だと思いますし、 そのような用具を神格化して捉えたものとする考え方も、同時に、すこぶる現代的な論理性からいう意味付けだと感じます。
タイ北部の山岳少数民族の場合などを例にするとよく解るのですが、 このような少数民族の人達のシャーマニスム的な知性と言うのは、 生活経験の蓄積によるものですので、 そのフィールドで生活を営む限りに於いては、 かなり合理的にシステム化された知性、或は生活文化としてスキルのかたちになっています。 ただ、そう言う場合の理由付けが、神話や、シャーマンの感性によって神託されたというような権威によりますので、 我々のような言語中心の論理性による感性からすると、 「迷信的」と感じてしまいますが、 現実的な結果を得る事が論的な思考の目的とする所だというように考えれば、 他者に対して説明する為に用いられる言語による論理的な説明は、 この際どうでも良く、 要は、「いい結果に恵まれる為のルーティンやスキル」としてなら、 十分、我々がいう科学的な論理性に比して勝るとも劣らない側面が見て取れるという訳です。
つまり、こう言う場合の説明的に用いられている言語的な論理性にのみ注目していると、「それは妄想ではないのか。」と感じられるような、 よくいえば神話的な、悪くいえば文学的な空想による世界しか感じられないので、 意味不明なものとして捉えてしまいがちですし、 また、それらを言語的な意味論によって、あえて解釈を加えようとすると、 観念的な理解に陥ってしまい、実際のフィールドで実用的に使われている(いた)知識体系という部分がどうしても稀薄になってしまいます。 そこを現代な知性に立って冷静に見ている側からすると、 「そんなことは妄想ではないのか」と、感じられるような疑問が出てくる要素となります。
今回飛び入り的な参加による意見で申し訳ないのですが、 議論されている問題のような古代の祭祀を扱う時には、 現代の我々からすると、もう切実な意味を見出せなくなった、 論理性や意味体系による思考によって執り行なわれ成立していたのではないかという点を、 股木の利用や、シャーマニスムを用い生活を営んでいる少数民族などの事例から、改めて見直す必要があるであろうと言う所。
またそれらは言語的な意味論からだけでは捉えきれない点が多く、 実際に、実用的に利用するというような、経験的な意味を共有しなければ、 意味不明な事として判断してしまい、そこからあえて意味を見出す為に、 精神論のような観念的な誤読を行ってしまいがちであると言う事。
以上のような点から私見を述べさせて頂きますと、 直接的に「農具を神格化して捉えた。」と言う見解にはやはり疑問を感じます。 この場合は、やはり、鋤や鍬を得る為の用材として、 人工的な加工による物ではなかなか得難い強度と利便性をもつ股木というものを、 降し与えてくれる山ノ神、或は木の神などを祀ったものとして理解する方が、順当だと思われます。
また股木だけでなく、水神や天候の安定に対する祈願など、 もっと多くの意味合いが含まれていたのかもしれません。
もし、神奈備さんが指摘するような、 「農具を神格化して祀った事例」というものが初めからあって、・・・。と、 考えるよりは、このような祭祀があったとしてもそれは 時代がかなり下った後の、祭祀形態の変容であると考えられます。 何故ならば、前述のように、祭祀に用いられる物は、 その祭祀の度ごとの新しく作り替えられる事が普通だと考えられるからであり、 指摘される事例のように「神宝」というようなかたちで、 「ある物のプロトタイプ」を、霊力として感じ、 その後に製作される同様の物の機能や力の源を成す。と言うような捉え方をして、 それそのもの自体を神躰として祀るような事例は、 それを製作する技術を簡単に模倣できないような場合の、 その技術が、他より伝わった特殊なものとしての理解がその裏側に控えていると考えられます。
ですから、 一般に使われるようなもの、一般に作れるようなものを神躰として祀る場合は、 全く有り得ない事ではありませんが、どうなんでしょうか。
僕は、鋤や鍬などの、生活に用いられる汎用技術については、 鏡や剣や玉などとは、一線を画した捉え方があってもいいと思いますが、 如何でしょうか。?
また、民俗的な事例でも、正月に農具などを手入れし、休めて祀った。 ・・・というような事例が一般に広く行われていた。という事がありますが、 そう言う事例と同じように捉えていいのか、 また、そう言う習俗が成立してきたのがいったい何時頃の事なのか。
鋤や鍬のような道具が広く使われ出して現代までに、かなりの時間を経ています。 鋤や鍬のような耕作道具が使われ出したのは、 農耕の起源と同時期に考案されてできたものかもしれませんので、 日本という場に限っても、その歴史は数千年ある訳ですから、 その間に、そう言う事に関わる祭祀がどのような形で成立し、変容して来たのかについては、なかなか実態や、その変容過程を明確することは、できづらい事柄だと思われます。
ですから、この問題は、変容の過程や祭祀の形について、 明確にでき難い現時点に於いて、 名称などの言語化された情報のみから結論付けるのは如何なものでしょうか。
全く理解できかねる。と言う訳ではありませんが、 鋤鍬を神格化して祀ったものと言うように特定してしまう事には、 やはり、懐疑的に感じます。
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[5444] Re[5438]: 葛城の古代 5 タク
神奈備 |
2004/07/29(Thu)
11:36 [Reply] |
アヂスキさんを『延喜式』では高鴨阿治須岐「託」彦根命と表しています。平安時代もだいぶ経ってから何故「託」なのでしょう。神託の神の事代主神と同じ神と見なされていた意識での「託」かも知れません。 古事記、日本書紀や風土記ではおっしゃる通り「高」の字です。
「託」の字を持つ式内社他に一座あります。尾張国丹羽郡に託美神社が鎮座、伊勢の工人、匠に関係するようです。
高鴨阿治須岐託彦根命も金属に関係する神ともされる所から見れば、匠−切れ味のいい鋤を作る−のタクとも言えるのかも。よく判らない所。
『出雲国風土記』楯縫郡の条に「阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命、多久村に来坐して、多伎都比古命を産み給ひき。」とあり、アヂシキさんはタクに縁がありそうです。
タクについての御託でした。 |
[5443] 甘南備 大三元 |
2004/07/29(Thu) 08:52 [Reply] |
甘南備、万葉集にありましたね。確認しました。 先代旧事本紀にはあるのだけど、これ自体の成立時期に疑義もつ人もいるので、根拠としては使いにくいな、と思ってました。 甘茂、でカモ、というのもあり、甘を神にあてる事例が奈良時代からある、ということに基づいて、カモという語にも神の概念がある、ないしはあると解せられていた、なんて言えてのでしょうね。
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[5442] Re[5441]: 甘南備 神奈備 |
2004/07/29(Thu) 08:07 [Reply] |
玄松子さん、ありがとうございます。
西本願寺本 万葉集巻十三 三二二七
[原文]葦原笶 水穂之國丹 手向為跡 天降座兼 五百万 千万神之 神代従 云續来在 甘南備乃 三諸山者 春去者 春霞立 秋徃者 紅丹穂經 <甘>甞備乃 三諸乃神之 帶為 明日香之河之 水尾速 生多米難 石枕 蘿生左右二 新夜乃 好去通牟 事計 夢尓令見社 劔刀 齊祭 神二師座者
[訓読]葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ 五百万 千万神の 神代より 言ひ継ぎ来る 神なびの みもろの山は 春されば 春霞立つ 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき 石枕 苔生すまでに 新夜の 幸く通はむ 事計り 夢に見せこそ 剣太刀 斎ひ祭れる 神にしませば
同じ西本願寺本を底本としている中西進『万葉集』(講談社文庫)では「甘南備」は「神南備」となっています。
とりあえず奈良時代にまで遡ると見ていいんでしょう。
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[5441] 甘南備 玄松子 |
2004/07/28(Wed) 22:34 [Reply] |
横から。
> > > ここはこだわりません。単なる受け売りで撤回します。 > > いや、神奈備さん、「甘南備」という用字がどこまで遡れるのか、もうちょっと調べましょうよ。
延喜式神名帳 山城国綴喜郡 甘南備神社 三代実録 肥前 貞観十二年 甘南備神 従五位下
ということで、九世紀後半から十世紀までは遡れそう。 |
[5440] Re[5437][5434][5433]: 葛城の古代 5 大三元 |
2004/07/28(Wed) 21:22 [Reply] |
> > ここはこだわりません。単なる受け売りで撤回します。
いや、神奈備さん、「甘南備」という用字がどこまで遡れるのか、もうちょっと調べましょうよ。
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[5439] Re[5436][5434][5433]: 葛城の古代 5 大三元 |
2004/07/28(Wed) 21:20 [Reply] |
神奈備さん > > 上記の例は神社創建以来のお話なのか、妄想的な後世の付会なのかは定かではありませんが、妄想と断言する根拠はないのでは・・
仰るとおり神社の伝承はいつ頃からのものなのか、依拠するのに不安が大きいことが多いです。なお、妄想だ、と断言はしてないツモリなのであしからず。
> > 銅鐸の絵にも農具があるようで、やはり祭祀につながっていたのでしょう。
とんぼ、かまきり、すっぽん(?)などもつながっていた、と考えるのか、それらは違って農具だけだ、とするのか。どうなんでしょうね。
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[5438] Re[5435][5434][5433]: 葛城の古代 5 大三元 |
2004/07/28(Wed) 21:15 [Reply] |
神奈備さん
> >「託」の字は意味があるから「託」を使ったのかも知れません。
この神名には「託:まかせる、ひと所にゆだねる。ひと所にあずけておく。たよりにする。かこつける」(学研・漢和大字典)という意味合いがあった、という想定でしょうか。圧倒的に用例の多い「高」を使った人々はこの神を何か(神格とか)が「高い」彦だと捉えた、と云うことでしょうか。どうも釈然としませんが。
やはり「タカ〜タク」という音に対して漢字を宛てたのである、と考えるのではないでしょうか。
> >確かアイヌ語の itak にものを言うと云うような意味がありましたね。http://www.dai3gen.net/itate.htm
はい、その通りですが、託 の字とは無関係です。アイヌ語を万葉仮名風に書けば使える字ではあろうかとは思いますが・・・
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[5437] Re[5434][5433]: 葛城の古代 5 神奈備 |
2004/07/28(Wed) 21:07 [Reply] |
問題イロイロ。その三。
> 「甘美」を「カンビ」あたりに読んで「カミ」に近いと論ずるのは現代人の語呂(というより、字呂?)合わせではないのか。甘美を「アマミ」とでも読むのはまだあり得ると思う。しかしこの場合の「ミ」は甲類、神の「ミ」は乙類というのが仮名違い、で説明が要るところ、と思う。
ここはこだわりません。単なる受け売りで撤回します。 要は阿遅志貴託日子根神とは合成神ではなかろうか、との提起をしたかったのです。「神鋤」であろうが「切れ味のよい鋤」であろうが、阿遅志貴としての農具神の想定です。
のこりは、高天彦神社の祭神名かも。 |
[5436] Re[5434][5433]:
葛城の古代 5 神奈備 |
2004/07/28(Wed)
20:14 [Reply] |
問題イロイロ。その二から。
>
「鋤」の神格化、そんな信仰、風俗があったのか。妄想の世界ではないのか。
農機具を神とする、または御神体とする、事例は幾つか存在いたします。
青森県弘前市鬼沢の鬼神社「高照比女神」の御神体は農具だそうです。偶然かも知れませんが、鬼神社の祭神は阿遅志貴託日子根神の妹神です。http://www.genbu.net/data/tugaru/oni_title.htm
山口県柳井市南町の諏訪神社の御神体は鎌、鎌は武器にもなります。
亀岡市に鍬山神社(くわやま)と云う神社が鎮座。出雲大神が盆地を開拓した鍬が山を成したので、鍬山神社と名付けてこれを祀ったとの伝承があります。白水社『日本の神々』では、「農具に神霊を認めるのはそれほど特異なことではない。」とあり、同じ亀岡市内の事例をあげています。
上記の例は神社創建以来のお話なのか、妄想的な後世の付会なのかは定かではありませんが、妄想と断言する根拠はないのでは・・
銅鐸の絵にも農具があるようで、やはり祭祀につながっていたのでしょう。 |
[5435] Re[5434][5433]: 葛城の古代 5 神奈備 |
2004/07/28(Wed) 13:48 [Reply] |
大三元さん、ありがとうございます。問題イロイロ。その一から。
> 「託」の字を見て託宣につなげたってしょうがあるまい、と思うのですが。託宣なんて漢語が当時の日本で認知、使用されていたのか。タク〜タカという音で考えねばなるまい、と。
延喜式神名帳には高鴨阿治須岐託彦根命神社四座と「託」の字が入っています。「託」の字は意味があるから「託」を使ったのかも知れません。確かアイヌ語の itak にものを言うと云うような意味がありましたね。http://www.dai3gen.net/itate.htm 漢語の託宣を引っぱり出さずにこの託は説明ができそうです。
で、鴨の祖神に阿治志貴高日子根神と事代主神が並びたっています。他に一言主神も坐す。鴨の祖神が沢山いてもかまわないでしょうが、絞りこんで一柱とすれば、同じ神のこととなります。なお、文献名はメモっていませんが、先行する同一神説があり、神奈備のオリジナルではありませんが責任転嫁でえもありません。
> タク〜タカ 高間山はタカマ山、これがタカモ山、タカカモ山と揺れ動いたとしますと、高天彦神と高鴨彦神とは同じこと、高天彦神社も要注意神社かも。 |
[5434] Re[5433]: 葛城の古代 5 大三元 |
2004/07/28(Wed) 09:33 [Reply] |
神奈備さん
> > 葛城と云えば阿遅志貴託日子根神、御所市の高鴨神社の祭神で、葛城の鴨氏の祖神とされています。葛城には託宣の神として事代主神、一言主神も鎮座され、託日子根神の異名との説があります。この神と渡来人が持ち込んだであろう農耕の為の「鋤」の神格化とが合体されて阿遅志貴託日子根神となった可能性はどうなんだろう。この神の名に阿須岐神や高彦根神があげられており、ない話ではなさそうです。神鋤→甘美鋤→味鋤→阿遅志貴とカミからアヂへの変化は畑井弘氏の『物部氏の伝承』の説。
原文を見ないで上だけでコメントするのも気がひけますが、下記三点がいい加減だと思います。 ・「託」の字を見て託宣につなげたってしょうがあるまい、と思うのですが。託宣なんて漢語が当時の日本で認知、使用されていたのか。タク〜タカという音で考えねばなるまい、と。 ・「鋤」の神格化、そんな信仰、風俗があったのか。妄想の世界ではないのか。 ・「甘美」を「カンビ」あたりに読んで「カミ」に近いと論ずるのは現代人の語呂(というより、字呂?)合わせではないのか。甘美を「アマミ」とでも読むのはまだあり得ると思う。しかしこの場合の「ミ」は甲類、神の「ミ」は乙類というのが仮名違い、で説明が要るところ、と思う。
しかし、まてよ;甘南備、と書くのはいつ頃からなのか、これが奈良時代から、ということにでもなれば、上の3つ目の私の論点はちょいと危うくなる。
タイトルが「葛城の古代」でしたね、(^o^;) 剣根はタカミムスビの五世孫、というと天忍日も同じですね。ここから何か引っ張り出せないかと調べてみたことがありますが発展できませんでした。ひょっとして、何か考えて居られることでもありましたら教えて下さい。
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[5433] 葛城の古代 5 神奈備 |
2004/07/28(Wed)
08:37 [Reply] |
大三元さん 励ましのお言葉、ありがとうございます。ぼちぼち青草へ引っ越したいのですが・・ 「面」は未だ「白い」のです。皆さん、お知恵拝借。
基肄郡の姫社神社 1
葛城と云えば阿遅志貴託日子根神、御所市の高鴨神社の祭神で、葛城の鴨氏の祖神とされています。葛城には託宣の神として事代主神、一言主神も鎮座され、託日子根神の異名との説があります。この神と渡来人が持ち込んだであろう農耕の為の「鋤」の神格化とが合体されて阿遅志貴託日子根神となった可能性はどうなんだろう。この神の名に阿須岐神や高彦根神があげられており、ない話ではなさそうです。神鋤→甘美鋤→味鋤→阿遅志貴とカミからアヂへの変化は畑井弘氏の『物部氏の伝承』の説。
後述しますが、葛城での実在人物第一号と見なされている葛城襲津彦が連れ還った渡来人達は高鴨神社のある鴨神を挟むように佐味と高宮とに配置されています。(他に忍海、桑原。)要するに、鴨族が祀っていた高彦根神を渡来人達も祀るようになって、神鋤が冠のようについたと云うこと。高鴨神が坐したということ。
神話では、阿遅志貴託日子根神は大国主神と宗像の田心姫との間に生まれた御子神であり、この宗像大社には織物にまつわる伝承があります。一つは応神紀四一年、呉からの織工女を胸形大神の求めで奉献したとあります。 更にこれよりは、より神話的なお話があります。『肥前国風土記』基肄郡の姫社神社の創祀譚です。
昔、姫社郡を流れる山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合。「筑前の宗像の郡の珂是古に祭らせよ。さすれば凶暴な心はおこすまい」との託宣があった。珂是古は幡を高くあげて風のまにまに放した。その幡は姫社の杜に落ち、夜珂是古の夢に織機類が出てきたので、女神であることを知った。社を建てて神を祭ったところ、災いがおさまった。」と云うお話。 |
[5432] 古代神話の謎 未来 |
2004/07/28(Wed)
00:22 [Reply] |
宮崎県日向市美々津に神武天皇船出のおり、腰掛けられた岩があります。 また、鹿児島県福山に奈良に東征される、船出の地があります、愛媛県大三島にその際の海上交通を平穏に保つための、大山住の神の神社があります。 奈良県五條市に吉野川に入り、休憩された皇座位岩があります、そのとき天皇に漁師が鮎を進呈した地も同じ吉野川です。そのさずけたにえもつは、事前に配備した隼人といわれています。 神武天皇の露払い役は賀茂健角身命です。そして隼人の将です。 隼人の将は体に入れ墨をしていたといわれています、それは海人としてサメに襲われないためです。それが後に魔よけとして使用されています。 日本神話のスタートはニニギの命が高千穂に降臨され、無空(韓国)をへて笠沙の岬にいたり、ここで、山の神大山ぞみの娘コノハナサクヤヒメと出会い、生まれた 子供が海幸、山幸であると言う、この山幸彦が豊玉姫と出会い、さらに神武天皇初代は2代後となる。 点を線で結ぶとき、日本人の文化はそこにあります。それはまぎれもなくアジアの文化です。 |
[5430] 葛城の古代 4 神奈備 |
2004/07/27(Tue) 08:19 [Reply] |
葛木出石姫と伊加里姫
天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。 「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。http://www.kamnavi.net/ny/ikari.htm
では何故この神が當麻の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。ここでは違う説を建てます。イカリの神は丹後ににに鎮座していました。これは、大三元さんのサイトで分析されている『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。http://www.dai3gen.net/tango.htm 現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。
天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。
ここに葛城の勢力と丹後、但馬の勢力との連携の姿が見えるようです。系譜の中に倭宿禰命の名も見えます。椎根津彦のこと。長尾市は倭直の祖でもあり、伊加里姫の子に倭宿禰命がいるのもそう云うこと。
『日本書紀』の倭国造の珍彦、葛城国造の剣根の揃い踏み。やりすぎではないですか。 |
[5429] Re[5428]: 唐笠山 神奈備 |
2004/07/26(Mon) 17:39 [Reply] |
> 生きてるうちに、一度は登ってみたいです。(笑) それほど大げさな所ではありません。是非お越し下さい。
> 古代の人はどうやって大穴持神社に行ったのでしょうか? 東側に水泥古墳があり、地名に奉膳、こちら側に下りることができます。 多分こちらから登ったのでしょう。近鉄の駅の薬水あたりがきれいにみえるのかも。 |
[5428] 唐笠山 ペギラ |
2004/07/26(Mon) 16:24 [Reply] |
生きてるうちに、一度は登ってみたいです。(笑)
曽我川と朝町川の合流地点(水田や集落)が見える神体山・聖地、 そんな場所に夢を膨らませております。
銅鐸たちが見ていたものは、山ではなく、里や河だと。
>この辺りですが。古代には道ではなかったようですので・・・
古代の人はどうやって大穴持神社に行ったのでしょうか?
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[5427] 葛城の古代 3 神奈備 |
2004/07/26(Mon)
07:48 [Reply] |
土神剣根命 2
剣根命については、『天孫本紀』に土神葛木剣根命の女賀奈良知姫が火明命の三世孫の天忍人命の子の天忍男命と婚姻していることが記載されています。 [5420]
でペギラさんもご指摘されています。
ここを系譜に表してみます。
天村雲命−天忍人命
| |−−−−−−−天忍男命 | | |−−−−世襲足姫
|−−角屋姫(葛木出石姫) |−−−−澳津世襲命(尾張連祖) |−−倭宿禰命(天御蔭命) |
伊加里姫 | 土神剣根命−−−−−−−−−−賀奈良知姫
ここに葛木出石姫と云う名が見えます。これについては後述。丹後の天火明命の家系と葛木の剣根命との間から尾張連が出ていることになります。高尾張邑に居た賀奈良知姫の子孫が尾張国へ移住したものということでしょう。
土神剣根命の「土神」とは葛木に棲む国栖の民、土蜘蛛の民の頭領を云う雰囲気です。
「土」は朝鮮語で「ヒキ」らしい。日置という地が御所市に残るのも示唆的。
とにかくも、彼は相当な勢力を持っていたようだ。葛城の大国主のような存在感を示しているように見えます。 |
[5425] Re[5424][5418][5417][5416]: 京奈和自動車道 ペギラ |
2004/07/25(Sun) 16:53 [Reply] |
> どうも大穴持神社の鎮座する山はどこから見れば > ビューティフルなんでしょうかね。 > よくわからない。 > ここだ!と思われた方、教えて下さい。 >
http://www.kamnavi.net/as/katuragi/oonamoti.htm >標高322mの唐笠山中腹に鎮座。この山の頂上に磐座があるとの事である。鎮座する山は三輪山に似た神体山である
????(?_?)?
神奈備さんは、どこから三輪山に似た神体山としたのですか? |
[5424] Re[5418][5417][5416]: 京奈和自動車道 神奈備 |
2004/07/25(Sun) 10:04 [Reply] |
> 大穴持神社あたりなんか、銅鐸出そうな雰囲気。
由緒のありそうな神社が神奈備山に鎮座しており、 その神奈備山がきれいに見える場所、こういう所に 遺跡があるとか、銅鐸が出土するとか、井上香都羅著 『古代遺跡と神山紀行』に例示されていましたが、 どうも大穴持神社の鎮座する山はどこから見れば ビューティフルなんでしょうかね。 よくわからない。 ここだ!と思われた方、教えて下さい。
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[5423] Re[5422][5421]: 山住神社 大三元 |
2004/07/25(Sun) 08:11 [Reply] |
玄松子さん、ありがとうございます。 神社伝承、祭神など、どこまで古いものが伝わっているのか、 いつも気になりますものね。
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[5422] Re[5421]: 山住神社 玄松子 |
2004/07/24(Sat) 22:52 [Reply] |
> キの神(一本足)を山樔のように理解しているようです。大山祗との習合があるのかな、と思って検索していたら、玄松子さんの所で山住神社の記事を見つけました。
山住神社で一本足的なものには気づきませんでした。
この社は、式内社・芽原川内神社の論社ですが、もし式内社なら、10世紀には山住とは呼ばれていなかったのではないでしょうか。三代実録にも芽原河内神と記載されていますからね。 祭神の大山祇神も、近世以降のようですし、山住からの付会と見るべきかもしれません。(参照『式内社調査報告』) |
[5421] 山住神社 大三元 |
2004/07/24(Sat) 21:05 [Reply] |
玄松子さん、 越語というのを見ているのですが、キの神(一本足)を山樔のように理解しているようです。大山祗との習合があるのかな、と思って検索していたら、玄松子さんの所で山住神社の記事を見つけました。ここでは狼、と考えられるような伝承があるようですが、ひょっとして一本足の伝承はお気づきになりませんでしたでしょうか。山梨県の岡神社にはキの神が祭られているそうな。 http://www.dai3gen.net/etsu_go.htm の#30をご参照ください。一部引用させて頂いております。
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[5420] Re[5419]: 葛城の古代 2 ペギラ |
2004/07/24(Sat) 17:41 [Reply] |
> 葛城の鴨の祖である太田田根子と剣根とはいとこ同士となる。剣根は鴨族の親戚。プロト葛城氏かも。
さらに、 火明命三世孫天忍男命の妻は葛木土神剣根命女 賀奈良知姫 尾張族とも親戚となる。 |
[5419] 葛城の古代 2 神奈備 |
2004/07/24(Sat) 08:58 [Reply] |
3 土神剣根命 1
剣根命の後裔として現れる氏族を『新撰姓氏録』から。 大和国神別 葛木忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也 河内国神別 葛木直 高御魂命五世孫剣根命之後也 和泉国神別 荒田直 高御魂命五世孫剣根命之後也 未定雑姓左京右京 大辛 天押立命四世孫劒根命之後也 (未定雑姓摂津国 葛城直 天神立命之後也)
『古代豪族系図集覧』によれば、剣根命の系譜は以下の通り。
高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命−剣根命−夜麻都俾命−久多美命(葛城直祖)
また陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。
+−玉依彦命−−−剣根命 陶津耳命−活玉依比売 |−−−太田田根子 大物主神−○・○
陶津耳命の二世孫に剣根命と太田田根子がいるのだが、『日本書紀』では、神武紀に剣根命が登場、かたや太田田根子は崇神紀に出てくる。神の子だから時代を超越しているのだ。八坂神社の氏子なら、何時の世でも素盞嗚尊の御子ということか。
葛城の鴨の祖である太田田根子と剣根とはいとこ同士となる。剣根は鴨族の親戚。プロト葛城氏かも。 |
[5418] Re[5417][5416]: 京奈和自動車道 ペギラ |
2004/07/23(Fri) 17:47 [Reply] |
> 未だのようですね。金剛葛城の麓の道も中途半端のようで・・。
そうなんですか。
でも巨勢山古墳群を無事通過できるのだろうか? ぼこぼこ出てくるんじゃないの?
大穴持神社あたりなんか、銅鐸出そうな雰囲気。 |
[5415] はじめまして 町田八右衛門廣正 [Mail] [Url]
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2004/07/23(Fri) 14:30 [Reply] |
町田孫七の子孫ということで、ちょっと気になったので覗いてみました。 よろしくねっ
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[5414] 葛城の古代 1 神奈備 |
2004/07/22(Thu) 19:56 [Reply] |
夏休みの課題として「葛城の古代」を考えてみました。なにせ、猛暑の中、どう纏まるのか、先が見えないまま、Go−!。
シリーズですが、途中で他の話題は大歓迎です。
1.葛城の地域とは http://www.kamnavi.net/log/krgmap.jpg
二上山、葛城山(鴨山、戒那山)、金剛山(高間山)の麓の北側、東側 曽我川の西側 現在の地名では、當麻町、新庄町、大和高田市、河合町、広陵町、王子町、上牧町、香芝町、御所市の範囲となる。上記の地図では緑の枠の中。
地名説話 『神武紀』高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。
要するに、高木と葛のつるで覆い尽くされたような原野が広がっていたのです。
2.神と人の間の葛城
『神武紀』磯城邑に磯城の八十梟師がいます。葛城邑に赤銅の八十梟師がいます。 『神武紀』の言葉の対応から見ると、葛城=赤銅と。それほどの銅を産出したのだろうか。
『神武紀』 椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。
『神武紀』から見える事は、葛城は銅が産出する地であること。銅鐸の製造の痕跡は出ていないようですが、銅鐸祭祀の氏族が住んでいたのかも知れません。銅鐸は長柄から出土しています。 銅鐸祭祀氏族を鴨氏の源流と云ってもいいのかも知れません。朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家付近には銅を採取した痕跡が残っているそうです。明治以前は幕府直轄領。現在、山は堺屋太一氏の実家の所有と聞きました。
剣根を葛城国造とした記事がありますが、国造の制度はもっと後世のものであり、要は葛城のボスを追認したと云う意味であって、記紀を作成した王権の見栄と云うことでしょう。 次回は、剣根について。 |
[5413] Re[5412][5411]: 猿田彦と椿 神奈備 |
2004/07/19(Mon) 16:44 [Reply] |
サン・グリーン さん、ありがとうございます。 海の中から上の椿油の虹を見る、面白い発想ですね。 猿田彦が貝にかまれて、底どく御魂、つぶ立つ御魂、咲く御魂の三神になるのですが、海女が潜っていく姿を彷彿させます。
> [5380] > この伊勢国壹志郡阿耶訶郷に、式内名神大社阿射加神社が鎮座します。 > 当社の主祭神猿田毘古大神は、比良明神とも謂われる
阿射加はアサカの訓で、例えば陸奥国に安積郡[アサカ]と云う名の郡があり、隠津嶋神社などの式内社が鎮座、安曇族の造った郡なのでしょう。猿田彦神を噛んだ比羅夫貝、またまた安曇比羅夫との関係が出てきそうで、気持ちの悪い所。 |
[5412] Re[5411]: 猿田彦と椿 サン・グリーン [Mail] [Url]
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2004/07/19(Mon) 10:19 [Reply] |
> 伊勢の一の宮は椿大神社だそうな。椿?
以前に古神道の先生から教えて頂いたことがあるのですが… 昔は伊勢の海女たちが潜るとき、船の上から夫が椿の油を桶の周りに一滴垂らしたそうです。 その油が桶の周りに広がって海のなかから見ると虹のように広がり、その虹が消えた時が潜水時間の限界と目安をつけていたそうです。だから伊勢では椿は海女の命を守る木として大切にされていたとのことです。伊勢を治めていたサルタヒコと海女の命を守る木、椿の関係がなにか想像できないでしょうか?
また、古代の鉱物探索家たちは植生を見て地下の埋蔵されている鉱物を判断したようですが、椿は金脈をさがす時の目安の木だったと聞いたようなきがしています。学術的な根拠は曖昧ですみません。でも、古代に市の始った海柘榴市の場所での物々交換の最大の目的の品だった(辰砂)と(金)の関係がなにか浮かび上がってこないでしょうか?
いま、奈良の桜井、海柘榴市で、持ち山に日本中の椿を植えて花の時期には公開してくださっている方がいますよ。 |
[5411] 猿田彦と椿 神奈備 |
2004/07/17(Sat) 19:08 [Reply] |
伊勢の一の宮は椿大神社だそうな。椿? 猿田彦神が鎮座。猿田彦、賽の神、境、市、海柘榴市などと発想するのですが、何も市の木は椿とは限りません。槻もあれば橘もあります。
椿大神社へは参詣したことはありませんが、玄松子さんのサイトの夜明けの椿大神社の風景には感動していますが、別に椿の木が多いようには見えません。 http://www.genbu.net/data/ise/tubakioo_title.htm 椿は照葉樹で、榊として使用されてきました。聞くところによりますと、重要なお祭りに使われてきたそうです。重要な神を祭るのに椿と云うことでしょうか。
さて、万葉集からの情報ですから、奈良時代でしょうか、神奈備山の頂上には椿が多く生えていたようです。これは万葉集の三二二二 [原文]三諸者 人之守山 本邊者 馬酔木花開 末邊方 椿花開 浦妙 山曽 泣兒守山 [訓読]みもろは 人の守る山 本辺は 馬酔木花咲き 末辺は 椿花咲く うらぐはし 山ぞ 泣く子守る山 に見えます。中西進『万葉集』では、この三諸とは雷の丘と推定されています。
三輪山の頂上には現在椿が多いのかどうか、そのような事は記憶には出てきませんが、実際の所、多かったのかも知れません。何せ、麓が海柘榴市で、実に有用な木だし、天と地との境界だしと云った所。 |
[5409] Re[5408]: 生駒山北嶺-饒速日山にあった「底無しの井戸?」 神奈備 |
2004/07/15(Thu) 19:34 [Reply] |
いこまかんなびさん お知らせありがとうございます。 「底無しの井戸」かも知れない水の溜まった所は見た事があるのですが、饒速日山がどれか不明で、何ともはやでした。 今回の探索は、饒速日山の頂上と言える場所にあるのなら、勝井純氏の報告の井戸と言えますね。 |
[5408] 生駒山北嶺-饒速日山にあった「底無しの井戸?」 いこまかんなび [Url]
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2004/07/14(Wed) 22:36 [Reply] |
神奈備さまへ 生駒山北嶺にあったという例の「底無しの井戸」らしい2ケ所の池の写真をアップしました。灯籠ゲートの少し西側、日下直越道沿いにある国見山の東山裾奥、その南北にある湿地〜池の写真です。左は国見山下の池、右は低い尾根筋をはさんで北の谷間奥に存在する池です。共に地形的になぜ水がわき出しているのか不思議です。周辺にはまだ数カ所の候補池があります。とりあえずご紹介をいたします。
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/sub7.html#31 |
[5407] Re[5406][5405][5396]: 猿 玄松子 |
2004/07/13(Tue) 10:03 [Reply] |
自己レス、および反省。
検索すべき語句が間違っておりました。訂正してお詫びします。
> グーグルで「ハヌマーン 孫悟空」を検索すると240件出てきます。 > 「ハヌマーン 金絲猴」では5件、「ハヌマーン キンシコウ」では6件。 > 何を通説と定義するかは問題ですが。
「孫悟空 キンシコウ」では796件。「孫悟空 金絲猴」では151件。
> 孫悟空的伝承・神のあり方のモデルが話題となっております。
この点は同じ。 |
[5404] Re[5396]: 猿 神奈備 |
2004/07/12(Mon) 18:42 [Reply] |
> 猿田彦=インド起源説もあり?
インドの西のアラビアあたり? サダムと云う名前は多いようです。伎楽面も見ようによっては猿田彦の面。
猿田彦の特徴をまとめますと:− 1.天と地との境界に居て、上は天を照らし、下は葦原の中心の国を照らす神 2.口の端が明るく光り 3.目は八咫鏡や赤酸漿のように輝いている 4.背の高さ七尺、七尋 5.海にでヒラブ貝に噛まれ、三神になる
これは天津甕星神に似ているように思います。 1.星神は天と地との間の”天”の神 2.光る。 3.赤星とも称されている。 4.巨石となる。 5.巨石は石神、石塚、石井に分かれて飛んだ。
そうしますと、天宇受賈命と倭文神とは似てほしい所です。織姫と云うような共通項があるんだろうか。 |
[5403] Re[5402]: 無題 玄松子 |
2004/07/12(Mon) 14:15 [Reply] |
> 玄松子さんのなぜ思われたかとの質問ですが、 > 先日、調べているうちに【託宣集】という本に下記の文章がありましたので何か関係があるのかと思った次第です。
なるほど。以前の書き込みでは、「神武」を鍵とする繋がりを示唆しているように見えたものですから、質問させていただきました。
ところで、その【託宣集】記述の「大隅に天降っ」たのはどなたでしょうか。八幡? |
[5402] 無題 MAIGO [Mail] |
2004/07/12(Mon) 13:42 [Reply] |
入力ミスをしました。不慣れですみません。 <続き> また、2〜3KMの所に唐仁(トウジン)という地名に5世紀頃の古墳が沢山あります。そこは国見山から一望できます。
玄松子さんのなぜ思われたかとの質問ですが、 先日、調べているうちに【託宣集】という本に下記の文章がありましたので何か関係があるのかと思った次第です。 第3巻は序文に始まるが、常識的には際めて珍しい。大隅に天降って大和九州宇佐周辺を遊行、託宣が次々とみられる。第4巻は大隅に顕現の八幡が小倉やまに定着、1〜3殿の祭神の事,神事行幸会(ぎょうこうえ)を詳細に記す、
たまたま、調べていましたらヒットしただけで、私自身は歴史は好きですが詳しくありません。豊前国から2000人が入植しています。とのことですが神奈備さんはよくご存知ですね。 大隈と宇佐宮がおおいに関係があるとのことですので、これから色々と関係を勉強しようと思います。有難うございました。(乱文で失礼しました) |
[5401] Re[5399][5397]: 【真乗坊】とは? MAIGO [Mail] |
2004/07/12(Mon) 13:09 [Reply] |
> > 宇佐宮と大隅は関係があるんか? > > おおいにあると思います。 > 宇佐八幡に王権が力を入れていくのは、丁度薩摩の隼人を服属させていくのと軌を一にしています。702年に隼人の反乱が起こり征隼人軍が派遣され、713年には日向国から大隅国が分離され、宇佐八幡の鎮座する豊前国から2000人が入植しています。それでも720年に大隅隼人の大 反乱が起こっています。このような段階で、鹿児島神宮や韓国宇豆峰神社などが創建されていったのではと考えられています。パレスチナにユダヤ人が入植し、ユダヤ教の教会を建てていったのと似ているのかも。 > 宇佐八幡の放生会は殺戮された隼人の霊を鎮めるための祭りが起源とか。
神奈備さん、ご回答、有難うございます。 ご回答を頂き、とても有難くうれしく思いました。 私の故郷は東串良町という所です。 柏原という地名があり、そこに【神武天皇御発航記念碑】が立っています。 また、2〜3KMの所に唐仁(トウジン)という地名に5世紀頃n |
[5400] Re[5397]: 【真乗坊】とは? 玄松子 |
2004/07/12(Mon) 00:01 [Reply] |
> 話はかわりますが、私の住んでいる鹿児島の大隅には【神武天皇御発航記念碑】と > 隣町に【初代天皇神武天皇の御父君の「鵜草葺不合命」と御母君「玉依姫」の御陵】があります。 > 宇佐宮と大隅は関係があるんか?
なぜ、関係があると思われたんでしょうかねぇ。 |
[5399] Re[5397]: 【真乗坊】とは? 神奈備 |
2004/07/11(Sun) 13:11 [Reply] |
> 宇佐宮と大隅は関係があるんか?
おおいにあると思います。 宇佐八幡に王権が力を入れていくのは、丁度薩摩の隼人を服属させていくのと軌を一にしています。702年に隼人の反乱が起こり征隼人軍が派遣され、713年には日向国から大隅国が分離され、宇佐八幡の鎮座する豊前国から2000人が入植しています。それでも720年に大隅隼人の大反乱が起こっています。このような段階で、鹿児島神宮や韓国宇豆峰神社などが創建されていったのではと考えられています。パレスチナにユダヤ人が入植し、ユダヤ教の教会を建てていったのと似ているのかも。 宇佐八幡の放生会は殺戮された隼人の霊を鎮めるための祭りが起源とか。 |
[5398] Re[5394][5393][5385][5380]:建比良鳥命と鷲 かたばみ [Mail] [Url]
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2004/07/10(Sat) 07:47 [Reply] |
建比良鳥命の変化?の神名はたくさんありますね。 出雲臣、天穂日とその一族とはなにか、出雲解釈のキーワードとみています。 伊勢津彦にもからむからなあ。
神名は長いものが短くなることはあっても短いものが長くなることは少ないのではないでしょうか。 原形に近いのは、建比奈鳥命か建比良鳥命かのどっちかじゃないかなあ。 武夷鳥、武日照、天夷鳥などは欠落と派生による神名じゃないかなあ。 ヒナ←→ヒラ、どっちの方向の変化が起きやすいのかな。
関東では天穂日を祀る社が多い。多くは鷲宮神社で建比良鳥命(あるいは別名)のふたりを祀る。 日本武尊との関連が見えるのは日本武尊が平定しようとしたであろう東国の出雲だったからだと思います。 これらも出雲崩壊時の近畿からの脱出組だとみています。
余談 鷲でも天日鷲命を祀る場合もあって、こちらは忌部系で和紙など繊維に関連するとみえます。 天日鷲はさらによくわからない神様でまぎらわしい。
和紙を鷲にひっかけているだけじゃないだろうなあ(^^; こちらは殖産系で後に酉の市の商売繁盛になるのは自然。 建比良鳥命系では特有の職種はみえない、農耕だと思います。
東京の足立区にある鷲神社(オオトリ)について江戸名所図会の記述では 「縁起と御祭神不明なれどかっては土師大明神であり浅草寺の奥の院とも世俗がいうところから、浅草寺の縁起である土師臣中知との関連の縁起であり、出雲臣の祖天穂日の子であり土師氏の祖である建比良鳥命を祀り、ハジがなまってワシとなったのではないか、という説を書いています。
こちらは出雲系のはずなんだけど、現在は酉の市の本家ともされます。 しかしその源は放生会で鶏を浅草寺で放した、というのが由来らしく、本来は商売繁盛とは違うようです。 どうも江戸時代からして建比良鳥命と天日鷲命が混乱していた気配がみえます。
埼玉には天日鷲命と武夷鳥命の双方を祀ってる社もあるなあ(^^; 関東での忌部系の社は最古神と重なったりしているからこちらの方が古く、ここに出雲脱出組の天穂日が重なっているのだろうと考えています。
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[5397] 【真乗坊】とは? MAIGO [Mail] |
2004/07/09(Fri) 21:32 [Reply] |
始めてメールします。 私の母方の姓が【真乗坊】と言います。子供の頃から気になっていたので今日、 インターネットで検索してみました。宇佐八幡宮でヒットしました。 色々調査していると、弥勒寺の一角に真乗坊という坊があったのと、 【中津尾寺真乗坊】という人名が出てきましたが、ただ坊名を指すのか仏教の位を指すのでしょうか? 話はかわりますが、私の住んでいる鹿児島の大隅には【神武天皇御発航記念碑】と 隣町に【初代天皇神武天皇の御父君の「鵜草葺不合命」と御母君「玉依姫」の御陵】があります。 宇佐宮と大隅は関係があるんか? 以上、2点をご存知の方は教えてください。
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[5396] 猿 玄松子 |
2004/07/08(Thu) 12:49 [Reply] |
猿が道案内する、あるいはお供をするという話は、やはり西遊記じゅなかろうか。 小説・西遊記の成立(13世紀?)以前に、猿が玄奘のお供をする話があったようだ。
http://www.silkroad-art.com/higashi.html 引用 「玄奘は、瓜州で1ヶ月余り読経説法を行った後、同地で案内者(後にこの人物が孫悟空のモデルとなったと考えられている)と馬を手配し、西方へ再出発した。」
もちろん猿が本当にお供をしたわけではないが、唐の頃に、「猿のお供」的説話がすでに存在していた可能性は高い。
また、孫悟空のモデルと考えられているハヌマーン。 http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Hanuman.html 引用 「ハヌマーンは山のように巨大で、彼の顔はルビーの様に紅く輝き、限りなく長い尾を持っていた。その咆哮はまるで雷のようで、地の果てまで届いたという。」 この記述の出展がわからないけど、どこかで見たような・・・。
猿田彦=インド起源説もあり? |
[5395] サルタ私考 QUBO [Mail] |
2004/07/08(Thu) 10:17 [Reply] |
サルタヒコは国土を良く知る国津神です。別にその先祖はアラビアから来たと 考えられない、と言っている訳ではありませんが、考えにくいですね。
サルタヒコ神社の配置からは、天孫系の神(神社)の道案内係のように見えます。 サルタヒコの体の大きさは、一族もしくは従うものの多さでしょう。あるいは信奉す る人々の多さ、勢力の強さでしょう。物理的な大きさと考えない方が良いと思います。
アメリカ大陸に白人が侵略をしたとき。 先住民(昔風に言うとインディアン)の中に協力者と抵抗するものが出ます。 先住民が、騎兵隊に斥候として雇われていたりする映画を昔見たことがあります。 確か故ジョンウェインの映画でも、孫を融解された牧場主(ジョンウェイン)の 道案内兼手助け兼古い友人役を、老齢の先住民がしていたな〜。
江戸時代の終わりに東北地方に薩長連合が攻め込む時も、恭順派と抵抗派に 分かれてるけど、新たな勢力が侵入してきたときの通常の反応でしょう。 神武が大和入りする時、景行が九州侵攻する時等も恭順、抵抗に分かれますね。 |
[5394] Re[5393][5385][5380]: ヒラ 神奈備 |
2004/07/08(Thu) 09:25 [Reply] |
> 「蛇の比礼」 建比良鳥は武夷鳥命とも書くようで、夷は鄙で辺鄙な所、また縁の地域の意があるようで、それはタスキの縁に通じると云うことですかね。
もっと光を 武夷鳥命、鄙を武力解放する。これを天孫族は武日照とも表記して、日を照らすと表現したのでした。 |
[5393] Re[5385][5380]: ヒラ かたばみ [Mail] [Url]
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2004/07/07(Wed) 20:05 [Reply] |
≫金比良、建比良鳥、他に何かヒラめきませんでしょうか?
ヒラめくのは以下です。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/haniwa_miko.jpg
古事記の大穴牟遅神(アシハラノシコヲ)が妻の須勢理姫から「蛇の比礼」を授かる記述があります。 埴輪の巫女は三角模様もあるし、ずばりこれが蛇の比礼だと思います。
字訓に領布ヒレ、女子が首から肩へかけ・・邪悪を払う力があるとされ・・後に禮巾で礼装用になり正倉院にもあるとありますから、ヒラ夫はそれを着用した男の意ではないかなあ。 百足の比礼もあるようですから、鳥の比礼もあったのかも。
なお、金毘羅さんは、インドのクンビーラ、ワニだろうなあ。3文字で一語、似て非なるもの。
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[5392] Re[5391][5390][5389]: サルタヒコ 玄松子 |
2004/07/07(Wed) 15:46 [Reply] |
> こちらの意味をサルタヒコが名乗ったとしても「サルタヒコ=アラブ人」という私の思いがますます強まりました。
・容姿が日本人離れをしていること。 ・サルタと似た言葉が、アラビア語の言葉の「一つ」にあるということ。
この2点のみで、確信するのはどうでしょうか。
たとえば、 猿田彦神は、道案内の神である塩土翁と似た神。 塩は英語でソルト。塩=ソルトという言葉を持つ民族に由来するというのもありでしょ。 ソルティには「船乗りの」というう意味もあり、「星」を見る人でもありますね。 (単なる思いつきの、青草段階の話ですから、信じないでね)
このように、サル・ソル・スルを含む、インドヨーロッパ(周辺)語の中の単語は、他にも沢山ありそうです。 |
[5391] Re[5390][5389]: サルタヒコ リカルド |
2004/07/07(Wed) 15:20 [Reply] |
> > サルタはサルタン(王) > > サルタン(スルタン)を「王」という意味で、いつ頃から用いられているのかが問題だと思います。 なるほどその通りですね。 > Wikipediaでは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3 > 「アッバース朝のカリフにおいて初めて君主の称号として採用された。」とあり、早くても八世紀以後。古事記よりも後になります。 > > 同ページに、「スルタンの語は、クルアーン(コーラン)の中では「神に由来する権威」を意味する語として使われ」とあるので、そちらの方が可能性はあるかもしれません。 こちらの意味をサルタヒコが名乗ったとしても「サルタヒコ=アラブ人」という私の思いがますます強まりました。 |
[5389] サルタヒコ リカルド |
2004/07/07(Wed) 14:10 [Reply] |
初めまして。いつも感心しながら楽しみに読んでいます。 サルタヒコに関しては私も思っていることがあるので述べさせて下さい。 サルタはサルタン(王)それに彦=男で今のトルコあたりから流れてきて(自称かもしれませんが)トルコの王だと名乗ったのではないかと。あの風貌といい、体の大きさといい倭人でないのは確か。「星の人」ということは国旗などからしてもますます中東あたりのアラブ人との思いを強めました。 |
[5388] Re[5387]: サルタヒコ もツツの神様 神奈備 |
2004/07/07(Wed) 11:59 [Reply] |
> サルタヒコを、「星の人」だと言いました。
サルタヒコには、ヒラブ貝に手をはさまれて死んだ時、底どく御魂、つぶ立つ御魂、咲く御魂と三神になっています。綿津見の三神や住吉三神と同じ神格が見えます。何故、三神なんでしょうか。三韓征伐と関係ありや?
住吉の筒男のツツは星の意味があるとすれば、サルタヒコは「星の人」でもおかしくはないですね。航海の道しるべの星。 それよりも、「多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。」のキャッチフレーズの国津の神々は、春夏秋冬、川に森に山にそれこそ雲霞の如くうごめき輝く、天孫族から見れば、まさに星々が降臨して来たように思えたことでしょう。「星の国」とは、この列島を超越した国でもあったと云うこと。アイヌ神話でしたか、高天原と地上との間にも国があり、これは星神の国かも。天津甕星の住まいにふさわしい。
> サルタヒコはアメノウズメと結婚し、スクナヒコ(スクナヒコナ)を産みました。
サルタヒコの子にスクナヒコナ、この神は酒を醸す神、酒の入った甕を衢に埋める、衢を守る神の一歩前進の姿を彷彿させます。御子神が親神を祀る、神々の世界の規範みたいですね。 |
[5387] サルタヒコ (あほくさ?) マルヤ |
2004/07/06(Tue) 23:17 [Reply] |
青草談話室は「五十イソ」の話が佳境に入っているようなので、サルタヒコの続きとしてこちらで失礼します。
師の山内光雲(故人)は、サルタヒコを、「星の人」だと言いました。 また、「星の国の人」だともいいます。 この意味は、[星]をシンボルとする国を出自とする人だという意味です。 ほかに[月]をシンボルとする国があります。 [月と星]をシンボルとする国もあります。 そしてもう一つ、[太陽]をシンボルとする国があります。 現代の国旗を見ればだいたい分かりますね。
サン・グリーンさん>猿田彦は謎の神とされていますが、古事記に書かれている彼の風貌はギリシャ神話の巨人伝説をはるかに越える、ものすごいスケールの大きさを感じます。
そうです、サルタヒコは西欧の出自だと山内光雲は言っていました。 少し話がそれるかも知れませんが、師によるとサルタヒコはアメノウズメと結婚し、スクナヒコ(スクナヒコナ)を産みました。 また、アメノウズメはアマテラスとタジカラオの長女だそうです。 こう言う話は荒唐無稽の、それこそ「大アホクサ」でしょうか。
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[5386] Re[5385][5380]: サルタヒコ マルヤ |
2004/07/06(Tue) 21:41 [Reply] |
神奈備さん、こんばんは。
> 「比良」は黄泉比良坂から云えば、境、衢、岐などの意味もあり、猿田毘古神に相応しいようです。 > しかし、比羅夫と云えば、阿倍比羅夫、阿曇比羅夫などの将軍の名前が思い起こされます。対新羅戦、百済救援の将軍です。「比羅夫」には後の征夷大将軍の「征夷」のような意味で、征新羅の意味があったのかも。 > 琵琶湖西岸の比良山は、蝦夷の地との境界の山だったのでしょう。その麓に白髭神社が鎮座、別名は比良明神で祭神は猿田毘古神。 > シラヒゲと比良、比良はシラとは似ており、シラは新羅、新羅を相手にする将軍を比羅夫と云う。青草でした。 > > 金比良、建比良鳥、他に何かヒラめきませんでしょうか? >
白鬚神社=新羅神社、 白鬚明神=新羅明神=比良明神……猿田毘古神。 ヒラめきの悪いマルヤがコンピラで思いだすのは石松の金毘羅代参ぐらい。また金毘羅といえば海の守り神、阿曇といえば海人族ですね。ということは、サルタヒコは新羅系渡来神で、国境を塞ぐ(守る)海部の神とでもいうことでしょうか。
神奈備さん>「比羅夫」には後の征夷大将軍の「征夷」のような意味で、征新羅の意味があったのかも。
…とすれば、「猿田毘古神が伊勢の阿射訶の海で漁をしていて、ヒラブ貝に手をはさまれて溺れ死んだ」 というのはサルタヒコは「征新羅将軍?ヒラブ」に殺されたという意味にも解せられませんか。 ヒラブが普通名詞だとすれば、どんな人物かは分かりませんが、う〜ん、これは「青草」とは言えないかも。
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[5385] Re[5380]: サルタヒコ 神奈備 |
2004/07/06(Tue) 11:19 [Reply] |
> こんにちは。 マルヤさん こんにちは。
> ヒラブ貝に手をはさまれて溺れ死んだとありますね。このヒラブは比良夫(比羅夫)とでも表記するのでしょうか。
「比良」は黄泉比良坂から云えば、境、衢、岐などの意味もあり、猿田毘古神に相応しいようです。 しかし、比羅夫と云えば、阿倍比羅夫、阿曇比羅夫などの将軍の名前が思い起こされます。対新羅戦、百済救援の将軍です。「比羅夫」には後の征夷大将軍の「征夷」のような意味で、征新羅の意味があったのかも。 琵琶湖西岸の比良山は、蝦夷の地との境界の山だったのでしょう。その麓に白髭神社が鎮座、別名は比良明神で祭神は猿田毘古神。 シラヒゲと比良、比良はシラとは似ており、シラは新羅、新羅を相手にする将軍を比羅夫と云う。青草でした。
金比良、建比良鳥、他に何かヒラめきませんでしょうか?
> 片目の大黒天 1年半前でしたね。その後も行き当たっていません。 |
[5384] Re[5382][5378][5376]:伊勢が浜 サン・グリーン [Mail] |
2004/07/06(Tue) 10:27 [Reply] |
> サン・グリーンさん、こんにちは > 神奈備さま、マルヤさま。かたばみさま
お返事ありがとうござます。 > > ある時期以降、日向は歴史の中心からはずれて古伝承や古地名もほとんど消え、記紀による地名や伝承のみが知られ広まったために、猿田彦が遠路はるばる伊勢から出向いたかのごとくになった、そう考えています。 > > だとすれば、伊勢が浜や大御神社が大昔の名残である可能性、あるかもしれないですね。 > >
そっ、そうなんです。 いろいろと考えていると何かワクワクしてきます 過去に九州王朝があって、大きな天災(阿蘇山の大噴火?)のためにダメージを受けた。 そのためニギハヤヒ(天火明?)や後続の神武たちが東に向かった。 神武が出発したという地元では、余りに急な出発のためにアンコをお持ちの中に入れて丸める 間がなかったので、一緒につき混ぜて神武に差し上げたとかいう伝承もあるようです。
地元に行ってその地の地形や風土にふれてようやく見えてくるものがあるようですね。 猿田彦は謎の神とされていますが、古事記に書かれている彼の風貌はギリシャ神話の巨人伝説をはるかに越える、ものすごいスケールの大きさを感じます。 彼が、山だけでなく海流をも知り尽くした部族の長だったとしたら、三重県の伊勢地方だけでなく、もっと広範囲な(紀伊半島〜九州、もしかして沖縄も含む地域の)国つ神のリーダーだったかも?(塩土の翁は住吉大神とも言われているようですが、サルタヒコともいうと誰かに聞いたような気がするのですが、間違っていたらすみません)
夏祭りが始っていますが、高下駄をはいて天狗の面をつけて祭りを先導しているサルタヒコさんを想像すると楽しくなってきますよね。
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[5383] 片目の大黒天 なお |
2004/07/06(Tue) 00:42 [Reply] |
初めてメールします。以前に・・・・ところで「片目を失った大黒天」にゆかりの神社か寺を探しておられる方がいます。 片目になったのか、全盲になったのか、三つの目の内、一つを失ったのか、適当に解釈して一つ教えて下さいな。
という場所が気になっているのですが、その後分かりましたでしょうか???教えて下さい。 |
[5382] Re[5378][5376]:伊勢が浜 かたばみ [Mail] [Url]
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2004/07/05(Mon) 23:54 [Reply] |
サン・グリーンさん、こんにちは
≫日向岬の近くに「伊勢が浜」という美しい海岸があるのを知りました。 ≫後で知ったのですが、地元の人はそこを元伊勢と呼んでいるとのことです
\(^^)/ あくまで考えている、だけのことですけれど。
私は天孫降臨ルートを、筑後川を日田か小国あたりまで舟で遡航、阿蘇東麓から高千穂、高千穂から五ケ瀬川を沢下りで日向、と考えています。 (ただしこれは天火明の降臨、瓊々杵尊の降臨は別ルート別地域とみていますが、略)
日向の五十鈴川は五ケ瀬川のすぐ南側にあって猿田彦がこの流域の先住者なら地理に詳しいのは当然。 猿田彦が天孫を出迎えたのは阿蘇東麓で、高千穂の山越えと五ケ瀬川の沢下りを案内した、これが猿田彦とアメノウズメ伝承の源とみています。
伊勢の五十鈴川と猿田彦伝承は、先代旧事本紀でいう「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の降臨に伴って日向から伊勢に運ばれたものと考えています(天火明勢力のさらなる展開です)。
ある時期以降、日向は歴史の中心からはずれて古伝承や古地名もほとんど消え、記紀による地名や伝承のみが知られ広まったために、猿田彦が遠路はるばる伊勢から出向いたかのごとくになった、そう考えています。
だとすれば、伊勢が浜や大御神社が大昔の名残である可能性、あるかもしれないですね。
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[5381] Re[5380]: サルタヒコ 訂正 マルヤ |
2004/07/05(Mon) 13:43 [Reply] |
> 当社の主祭神猿田毘古大神は、比良明神とも謂われるそうで、賽の神の性格もありそうですね。 上記のうち「賽の神」は「塞の神」の間違いです。 |
[5380] サルタヒコ マルヤ |
2004/07/05(Mon) 12:06 [Reply] |
こんにちは。 久しぶりに横から失礼します。
古事記には、猿田毘古神が伊勢の阿射訶の海で漁をしていて、ヒラブ貝に手をはさまれて溺れ死んだとありますね。このヒラブは比良夫(比羅夫)とでも表記するのでしょうか。 この伊勢国壹志郡阿耶訶郷に、式内名神大社阿射加神社が鎮座します。 当社の主祭神猿田毘古大神は、比良明神とも謂われるそうで、賽の神の性格もありそうですね。 猿田彦神を祭る神社で最も由緒ある神社はこの阿射加神社ではないでしょうか。
以下は「神奈備にようこそ」内、延喜式神名帳 http://www.kamnavi.net/en/ise.htm#itisi より抜粋。 「阿射加神社」 ……猿田彦の大神は我が伊勢の国の国津神であられます。同時に皇大神宮の御宮地に対し ては、地主の神として申し上ぐべき神であります…中略。 我が伊勢に於いて、神宮に亜いで尊い神社とは申せば、それは阿射加神社であったのであります……後略。
阿射加神社 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/azaka.html |
[5378] Re[5376]: 歳々年々 花あい似たり サン・グリーン [Mail] |
2004/07/04(Sun) 10:39 [Reply] |
> 三重県の神島のゲーター祭りは日を迎える元旦の祭事(大年の祭り)ですが、この日輪の象徴のグミの木で作り白い布をまいたようなものを「アワ」と呼ぶようです。 > 要するに、アワとは太陽のこと。 > 6月25日にちょうど神島に行って来たところです。(本当は夏至の日でしたが台風で延期) 八代神社は改築中で、11月に完成とのことでしたが、社殿の横にアワ(グミの輪)が置いてありました。お正月には島中の男たちがアワを竹で刺して持ち上げ落とす(天に二つの日輪なく、地にニ皇あるときは、世に災いを招く。若し日輪二つあるときは、神に誓って偽りの日輪はかくのごとく突き落とす」という南北朝時代の思想を表したもの。とパンフにありました。 港にいた女性に聞いた話では神島も高齢化が進み、いまに女も参加しなければアワを持ち上げられなくなるかも?とのことでしたよ。(人口は740人位) 久高島(沖縄)のイザイホーもそうですが、離島に残る伝統も次々と消え逝く定めかも?
ところで、26日には伊勢の両宮に御垣内参拝したのですが、 神奈備さまならびに見識の高いみなさま方にひとつ質問があります。
5月に仕事で宮崎県に行ったとき、偶然日向岬の近くに「伊勢が浜」という美しい海岸があるのを知りました。後で知ったのですが、地元の人はそこを元伊勢と呼んでいるとのことです(鳥居龍蔵博士が検証した縄文のストーンサークルやイワクラ、古墳もあるそうです)。 もし、ここが太古から伊勢と呼ばれていたのなら、天孫を迎えたサルタヒコが天のウズメと出会って仲良くなり、ニニギの命をうけて「伊勢」まで送ったという話はこの宮崎県の伊勢ヶ浜なら納得(三重県の伊勢は余りに離れているし、唐突すぎるのでは? とかねてから思っていたので…) その近くに大御神社というアマテラスをお祭りする神社があるそうですが、高波や台風で由緒や社宝はなにも残っていないそうです。宮崎県の伊勢のこと、どなたかご存知の方はいませんでしょうか? 宮崎の伊勢と三重の伊勢は黒潮で繋がっているのでしょうか? |
[5377] Re[5376]: 歳々年々 花あい似たり かたばみ [Mail] [Url]
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2004/07/03(Sat) 00:35 [Reply] |
≫崇神天皇だけ御歳になっていますね
ほんとだ。編纂者が謎を隠したのだろうか(^^;
年齢を数える場合は御歳のほうが普通じゃないのかな。
吉川弘文館の国史大系の古事記では、底本((真福寺本)は歳だが前後に合わせて年とする、と注があります。 24種の本を参照していますが、文字の改訂されている部分は無数にあります。
写本時の誤りはむろん、写本した人の判断で書き替えられているのもあるんだろうなあ。
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