神奈備掲示板の案内とログ
神奈備掲示板
青草談話室、写真掲示板 過去ログ
掲示板のログ(平成十八年 三月 2006.3)お名前の敬称は省略しています。
[7244] 何を言わんとされているのかよく判りません。私も。 r-r |
2006/03/31(Fri) 21:30 [Reply] |
こんばんわ。わたしもスタンド外から。 理解したくてもよくわからない。できない。皆にわかりやすい書き込みならいいんですが。自慢的な思考の一方的披露や、常識を逸した無神経な疑問の書込みなど、簡単に言えばそれって「おかしいのんとちゃうん?」といえばイイノか。 そんな書込み見ていて疲れますよね。疲れません?。 高速道路の橋脚やシャッター・塀などの書込み?とはいわないまでも、それみたいなものでしょうか。それに近い感じがしましたです。 roさん、悪いですが。失礼だったでしょうか。 不特定多数の人が自由に書き込める掲示板とはいえ。かなりしんどいものがありますね。打てば響くような?、意見の柔軟さが欠如してるんちゃいまっか?。どうされるかは、当然管理人さんの権限でしょうね。
管理人様、この書込みも具合わるければ、どうか削除してくださいませ。 |
[7243] Re[7240]: Q&Aにさえレスを書いていません。 nick [Url]
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2006/03/31(Fri) 19:24 [Reply] |
こんにちわ。私は「外野席」ですが、 実は私も以前福祉介護のサイトへポストした事があります。 日常の事を細部に渡ってね。 そうしたら即削除されました。「刺激が強すぎる」という理由でした。 在宅介護の実情は「オブラートで包む」ような生優しさは無いのですが。 それは、そのサイトの主旨に沿わないと云うことでした。
「掲載・削除」の権限はあくまでもサイト管理者に帰属する。 管理者が不適切と感じたら削除するのは「当然」と認識してから テーマを吟味されご投稿されることを希望します。
いろいろお話されたいこともあるかとは思いますが、 神話伝承に関しては昔から諸説があるわけで、 特に当地鹿児島と宮崎ではその争奪戦で血まなぐさい事件もあったやに 聞いています。 「不明確な時代」だから素人の我々が論じる隙間が生まれる。 のでは?
また、他人を揶揄されるのなら、「データーと根拠、その論点を明確にして」具体的に論じられる方が賢明ですよ。 ネチケットに反する事やサイトのテーマ以外は「管理者の采配」ですから。 それをご承知でポストをされれば宜しいかと。
余談ですが、 パソコン黎明期(昭和50年〜) 、このようなデータベースを検索するのは有料でした。 当時は国内では電電公社のデーモスとドレスがありましたが 法人向けの業務用でそれは高額でした。
パーソナルでは、海外しかありませんでした。 ■データ検索料金:150〜500円/分 ■通信料金:180〜/分
それに月の基本料金、KDDの基本料金等が派生しました。 個人ベースではおいそれと検索も出来ませんでした。
インターネットが普及した現在は、このサイトのような貴重なデーターを 無料でそれも印刷も出来るのですよ。 ありがたいことではないですか。 私はいつも勉強しにお邪魔しています。
老婆心ながら。
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[7239] Re[7238][7237][7235][7232]: 湯笹の森 nick [Url]
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2006/03/31(Fri) 16:29 [Reply] |
> ただし、今は私有地なので侵入禁止かも?
管理人さん見つかって好かったですね。 しかし「私有地」とは残念ですね。
実は私もしばしば同様のケースに出くわしてお叱りを。 妙見神社を探訪して昔の修験道を歩いていたら突然目の前がグリーン芝で。 何と全国に名を馳せた某旅館の私有地へ出た。 露天風呂を覗き見しているのと勘違いされ。。
ある時は、昔の参道が私有地で立派な住宅が塞いで通れない。 当然、田舎の神社は山の上。 しようがないので裏山に登って沢へ降り、また一つ小山を越えて、 やっとの思いで辿りついたら「藪蚊」の大群に囲まれ往生した。。
昔の探訪も体力勝負ですよ。笑。
今日は父の誕生日で、また八幡様へ花見に。 |
[7236] Re[7234][7233][7231][7230]: 筒 神奈備 |
2006/03/31(Fri) 09:01 [Reply] |
PONTAさん、ありがとうございます。 > 水平線から上がってくる順番だったかと。 > 上中底という表現は壷(大甕)のイメージ?
壺はおもしろい発想ですね。天川弁天の鎮座地を「坪中天」に例えますが、「壺の底」は根の国に通じているのかも。 |
[7235] Re[7232]: 湯笹の森 サン・グリーン |
2006/03/31(Fri) 07:10 [Reply] |
> 笠縫邑のように元伊勢と地元で呼んでいる場所が天香具山にあるそうです。この山の登り口の畑の中に「湯笹の森」と呼ばれる場所があるそうです。−谷川健一著作集2− > > この場所を具体的にご存じの方、教えて下さい。
神奈備さま 天の香具山の岩戸神社の参道を出て道ナリに少し行くと建築途中で打ち捨てられた豪邸の廃屋があります。その玄関前庭のあたりです。(私有地の敷地内?)森とは名のみの四方竹の藪に囲まれた小さなボロボロの祠が「湯笹の森」です。 |
[7234] Re[7233][7231][7230]: 筒 PONTA |
2006/03/30(Thu) 20:16 [Reply] |
上中底という表現は壷(大甕)のイメージ? 天津甕星(金星?)が悪い神とされるのは、星の中で1番偉大なのは北極星=天皇だとしたいからかな。 |
[7233] Re[7231][7230]: 筒 PONTA |
2006/03/30(Thu) 19:56 [Reply] |
今、本田総一郎著『知っているようで知らない! 日本神道』(パンドラ新書)を読んでいます。その住吉信仰(139ページ)でも筒という堅木の話に触れています。 オリオンの三ツ星説では、上中底は、確か水平線から上がってくる順番だったかと。 |
[7232] 湯笹の森 神奈備 |
2006/03/30(Thu) 16:07 [Reply] |
笠縫邑のように元伊勢と地元で呼んでいる場所が天香具山にあるそうです。この山の登り口の畑の中に「湯笹の森」と呼ばれる場所があるそうです。−谷川健一著作集2−
この場所を具体的にご存じの方、教えて下さい。
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[7231] Re[7230]: 筒 神奈備 |
2006/03/29(Wed) 21:12 [Reply] |
いこまかんなびさん、筒と船魂、多いに何かあると私も思います。問題はその何かが何かですね。 『住吉大社神代記』に筒の字が出てくるのは住吉三神と鹽筒老人です。この鹽筒老人の筒は塩土翁でもあり、津の霊の意味にとられているようです。 中津と言う地名は各地にあり、上津、下津は若干あるようですが、表津、底津と言う地名はなさそうです。上中底は高低ではなく、南北とか東西とかの水平の位置関係を表しているのかも知れませんね。
また航海の神には、出港の神、航行の神、入港の神と三種の神があったようで、これに相当する上中下かも。
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[7230] 筒 いこまかんなび |
2006/03/29(Wed) 09:22 [Reply] |
海上守護の神、摂津住吉大社にみられる縦列の社殿(住吉造)配置は、神功皇后の船につき沿って三隻の神船が、西方=海を向いて、まるで海上を航行する四隻の軍船団を組んでいるようにいわれる(菊竹氏の)説は、興味深いです。
『住吉神代記』には、神功皇后が、熊襲二国と新羅国を討つ時、大田田命・神田田命が領する山の嶺の樹を伐採して船三艘を造った。 幹の本部分で造った船は皇后と大神臣八腹を乗せ、次に 中腹の赤にて造った船には、日御子等(ひのみこたち)を乗せ、次に 末にて造れる船には御子らと大田田命・神田田命を一緒に乗せて渡り、討つことができたという記載は、これまた三船の神々の順などを考える上で興味ある記載です。
住吉大社の境内には、摂社として、多くの造船と渡海に大きな役割を果たした紀国の紀氏の神や、征還した船(玉か?)を武内宿彌に祀らしめたという志麻神・静火神・伊達神の本社=船舶の霊=住吉大神の荒御霊といわれる船玉神社(猿田彦・天鳥船神)のほか、同じく海神をまつる大海神社(豊玉彦・豊玉姫)や、志賀神社(底津少童命・中津少童命・表津少童命)など、海神や船(魂)玉を祀る神々が取り囲んで祀られています。
この船霊に関してですが、船の帆柱の底部に筒とよぶ堅木があり、そこに穴をあけて船霊を納めることが古くから行なわれてきた事実から、住吉大神の名(上・中・下の筒男)も船霊神にほかならない、とする新説(岡田米夫氏)も、一層の興味がわくところです。
有名な伊勢最大の前方後円墳の松阪宝塚1号墳(5世紀初)から2000年に出土した船形埴輪は、http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index73/photo2.html、今話題の霊柩船ではなく、大海を航海する王者の船を表現したものといわれ、舳先近くにマスト状の剣1、中央には「石見型立物」21、船尾にはキヌガサ1のほか、両立物の間中央にも、帆柱状の痕跡があるようで(森浩一『記紀の考古学』)、徐々に古代の船の姿が明らかになりつつあります。 私としては、当時はすでに風を受ける帆をもった立派な船があり、筒というのは古代船あるいは船霊に大いに関係したものではないかと勝手に想像をめぐらせている今日このごろです。
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[7228] Re[7227]: 掲示板について
神奈備 |
2006/03/28(Tue)
14:45 [Reply] |
nickさん、ありがとうございます。
出雲国造が死ぬと菱根の池(出雲市東南)に、国造の死体を赤い牛に結びつけて沈めたと、江戸時代の『懐橘談』に書いてあるとのこと。(谷川健一著作集2) これは平安初期までで、後には土葬にかわったとのことです。しかしこのことは長く語られ、大社町界隈では重態の病人が回復しがたいと見極めがつくと、「あの人もとうとう赤牛だ」と言うそうです。
この赤牛は、宮古島の神歌には冥府の王の従者として扱われているそうです。竜宮の使いとも言われているとか。
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[7227] 掲示板について nick [Url] |
2006/03/28(Tue)
14:17 [Reply] |
今回の場合、roさんのテーマーが このサイトに不向きなような気がしています。
このサイトは「日本の神社」とそれに「関連した古代」がテーマと 私は認識しています。
また、掲示板で「論陣」を張ること自体 ちょっと場違いな感じがあります。 そもそも掲示板は「Q&A」が出発点ですから。
論陣は「起承転結」と「根拠となる出典」 それに「データの解析や類似性」を掲載されないと繋がりが 判りにくいし掲示板の閲覧には不向きだと考えます。 自局サイトで展開されるのが最良の道かと。 黎明期と違って今では簡単に頁も作成出来ますからお勧めです。
また掲示板は容量に制限があるから、簡潔な表現に徹した方が 閲覧しやすいし理解が深まる。
そのような観点からすると”r”さんの一連のポストも 自局サイトの頁で展開されるべき内容だと理解しています。 |
[7224] 出雲。 ro. |
2006/03/27(Mon)
15:56 [Reply] |
神奈備さん、底と中と上のイメージ。 単純に日本列島にあてはめてみました。 底→沖縄、中→本州(四国含む)、上→北海道。 パっとした言語の連想としては美人局(つつもたせ)とか。 また根の国は琉球も含め、スサノオは葦原中国と同様の生活をしているそうですと 書きましたけど、単純に黄泉の国の死国の四国のように、島根かもしれません。
出雲国風土記にスサノオは殆ど登場しないそうですし、 スサノオと伊勢津彦(イスラエル)とは対照的と書きましたけど、荒ぶるスサノオも出雲ではそうではなかったという記述もあるらしいですし、 また神器にスサノオだけ8という数字がつかないと書きましたけど、八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治して出てきた天叢雲剣だし、 八岐大蛇に食われることになっていたクシナダヒメを妻としてからは八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣をと くどいぐらい言っていますし、よくわかりません。
クシナダヒメ。また伊勢国風土記に出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ã¯ã·ãããã¡
八雲立つ 出雲の神を いかに思う タケハヤスサノオを 人は知らずや 誰の和歌かわかりませんけど、これに関しても何か意味がありそうに思えます。
また簡潔に書くと、三種の神器には8という字が入ります。 八雲は出雲を象徴するそうです。ということは出雲からのものということになる。 では出雲のどこからということになる。登場人物は3系統です。 1人で来たのではなくて民族で来てるという意味です。
クシナダヒメ、伊勢津彦、伊のイスラエルです。 次にスサノオです。しかしこの人は後から来ています。 クシナダヒメとは違うとこから来た。八岐大蛇に食われることになっていたクシナダヒメを妻としてから 出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。しかしユダヤは他民族と血を交えません。 クシナダヒメを妻として貰い受けるこを条件にヤマタノオロチの退治を請け負ったそうですけど、 これもちょっと疑問です。少なくても大国主命(スサノオの六、七世の孫)はイスラエルとどこかの国のハーフということになるのかな。 逆に系統もいろいろあるけど、名前の一例として鈴木さんと藤系では同属で他民族ということにはならない。 上辺の国以外に秦さんがアフガニスタンに住んでいて日本人とでもです。わかりずらい説明だけど。 次に省けないのがこのヤマタノオロチです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ã¤ãã¿ããªããéæ²»
漢字で八岐大蛇。ここで象徴されているのは8と蛇です。 ただクシナダヒメの串蛇(くしなだ)とする説や8人のうちの1人だったことから、 それがどちらから来ているのかわかりません。しかしオロチのやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘のクシナダヒメも 食べられてしまうのでということからあまりいい印象はありません。それから書くのを差し控えますが、8つの頭と8本も比喩です。
また大国主には多くの兄弟(八十神)がいたそうですけど、大国主には比較的やさしいところが見られます。 ウサギが誰かによって解釈もかわるのですけど。 http://ja.wikipedia.org/wiki/å 幡ã®ç½å
日本の歴史を理解するのに出雲の頃を省いて考えても新約聖書に関してもパレスチナ問題にしてもそうです。 おおもとを見ないと不十分かもしれません。
出雲大社は誰が建てたのか。
出雲大社(wikipedia)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/åºé²å¤§ç¤¾
しかし日ユ論で見るときに石で作ることが重要です(石大工、建築集団)。 伊勢津彦さんの記述にもそれらが見られます。なので関わりはあるのだろうけど違うんじゃないかな(かなり省きます)と思います。 |
[7223] 偶像を祀りません。 ro. |
2006/03/27(Mon) 08:46 [Reply] |
こちらのホームページの主張や要旨とは殆ど関係のない内容かもしれませんね。 まだ調べてないことがあり、何とも言えません。ただ日本史全体に関わることでもあり、 あえてフラットな感じで箇条書きにするのであと少し追加させてください。
単純な疑問
カゴメ紋は隠すのに菊花紋はなぜ隠さないのか。 イスラエルの特性が見えるのになぜこんな反するような事柄は何か。 ダビデの社紋の伊雑宮と伊勢の伊は何か関係があるのか、御田植え祭の女装や竹を取り合う 行事は何を意味するのか、カゴメ紋といわれることもあり、ではカゴメの童謡は何を意味するのか。 同様にダビデ紋のある真奈井の井は伊ではないか(真の名は伊)、羽衣伝説は絹以外なぜ天女は8人なのか。 稲荷の稲は伊ではないか、総本社の伏見稲荷大社を創建した秦公伊呂具にも伊が入っている。 出雲とは何か、8の数字(三種の神器の八咫鏡、八尺瓊勾玉)に関係あるのか、伊勢津彦とは誰か。 秦氏と聖徳太子は同一人物ではないのか。なぜ時代劇しか放送しないのか。 日本とヨルダンだけというこの男系のy染色体はどこから来たのか、天照ならミトコンドリアではないか。
鳥居の形を丹に似てるなぁとか(丹は朱色を現す)、おかしいなとか そういうことから調べた方が上辺以外のとこが垣間見れるかもしれません。 混じったかのような記述やもっともらしい説明もあり、一般的な常識での意見も大事なことですけど、 普通に調べていたのではわからないというか、2重3重というか、ある意味日常の歴史の方がバーチャルの部分もあると思います。
また伊勢津彦を侵略した物部氏との関係も、 ひどい争いがあれば責めてきた者がその相手の名を残すでしょうかと書きましたけど、 この考え以外に仮に伊勢津彦を大事にしなければその後引き継ぐことは到底できなかったという解釈もできますね。 この人たちなしにというか、あるいはないがしろにして、敬わずに繁栄することは決してないからです。 曽我氏との対立で物部氏らが言った我々の国神というのが誰なのかにもよるし、分家等にもよるのかもしれないですけど。
物部氏に関してもスサノオに関しても調べてないことが多々あるのでわかりませんけど、 いずれにしても伊勢津彦はどの文献を見てもどれとも違うように見えます。 イスラエルから来たのだと思います。 どの経路から来たのかわかりませんけど、ものすごく昔から日本にいた原住民?(日本人)であるわけで。
PONTAさん。 リンク先拝見しました。 一部恐ろしいことが書いている箇所がありました。 >いわゆる〜(中略)〜キリストの〜(中略)したがって皇軍はパレスチナに〜(中略)といった主張を展開した。 やはり菊紋はパレスチナ側という見解は間違ってないのかな。 また八咫鏡の後ろにヘブライが書かれてるかどうかはわからないけど、少なくても日ユ論で今回日本史に沿って調べています。 逆にものすごく調べているので批判的な意見さえ新たに調べることのきっかけなるというか。 ホントに来てます。あえて断言。(笑)現にダビデの伊雑宮から出雲時代まで足どりを見つけました。
太秦の蚕の社の三鳥居ですね。かいこというと絹ですね。 絹がうずたかく積まれることからうずまさだそうです。 また秦氏の名前そのものにもそういう意味があると聞いたことがあります。 漢字のキリストに由来してか三に人を重ねたり(まだあるけど忘れました)するそうです。 船という字もノアの箱舟にちなんで8人乗っているから舟に八だとかいうのもあります。 単純に蚕の漢字を見てもあながち否定できないですね。 秦氏が始皇帝の子孫で雅楽や演劇にも関わっていたそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
日本には徐福伝説もありますね。 どちらかといえば秦氏は陸路のシルクロード経由で、キリスト教的なイメージです。 伊勢津彦は海路か陸路か、ユダヤ教的なイメージです。 同系(どちらもユダヤ)じゃないでしょうか。 |
[7222] Re[7219] 説さんざん QUBO |
2006/03/26(Sun) 16:35 [Reply] |
神奈備さん、こんにちは。ご無沙汰です。 『古代日本の航海術』茂在寅男 ―― 確かにそんな説もありましたね。 しかし、遠い先祖が「赤道に近い海」から来たとしても、 その記憶はいつまで維持できるのでしょう? 三ツ星。これだけを何故尊い神とするのか不明ですな。 もっとも光る星でも、天津甕星(アマツミカボシ)と否定的なのにね。 |
[7220] 雉鯉鮒が馬場 r [Url]
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2006/03/26(Sun) 12:25 [Reply] |
かくて參河の國に至りぬ。雉鯉鮒が馬場をすぎて數里の野原を分くれば、一兩の橋を名づけて八橋といふ
引馬野が、御津町は、ありえないのでは?????????????? |
[7219] Re[7218]: 説さんざん 神奈備 |
2006/03/26(Sun) 11:52 [Reply] |
QUBOさん、こんにちは。
日本の近海では北極星が良い目印になるでしょうが、赤道に近い海では北極星が見えず、そのかわりに使うのは頭の真上を通る星が何であるかで判断するそうです。(『古代日本の航海術』茂在寅男 p.239) 例えば、シリウスは南緯16度半では頭上を通るそうです。シリウスを見つけるのはそれほど難しいことではないでしょうが、目が見えすぎる人にとっては天空にいっぱいの星が見えてかえって迷うのかも知れません。小生のごとく、近視乱視老眼白内障気味でも富士山頂上の星は満天の輝きでした。 シリウスを見つける方法は、「オリオン座の巨人の尻の方にあるシリウス」として、一応、オリオン座も役に立っている訳です。オリオン座を見つける方法が四角と三ツ星です。 風が吹けば桶屋が儲かるお話でした。 |
[7218] 説さんざん QUBO |
2006/03/26(Sun)
00:58 [Reply] |
[オリオン座の三ツ星]こんなものが何の目印になるんだろう? 動くものを目印にするには、自分の現在位置、時間が正確に 把握できていなければ無理だ。コレを逆に規定しようとは! 夜中に「海」では無く陸上(目印が多い)でも、どうしたら 目印にできるか教えて欲しい。海を知らないものの戯言とし か思えない。そう書いてあるのは確かに時々見かけるが自分 の頭で考え、体感しているとはとても思えない。 月は潮の満ち干の目安にはなり、北極星はきちんとした目印だ。 だが動く星が、どうしたら目印にできるのかなぁ? |
[7217] Re[7216][7215]: さんざん
神奈備 |
2006/03/25(Sat)
20:01 [Reply] |
>
「筒」は「星」の意味だったかと。で、上筒男、中筒男、底筒男は、船乗りが航海の目印としたオリオン座の三ツ星の神格化だとする説がありますね。
PONTAさん、早速ありがとうございます。 筒には色んな説があり、これまた興味深い所です。塩土爺の土で、彼が三分裂して住吉三神に化生したとか。 星でも土でも船魂でもいいのですが、上(表)、中、底の三区分には何らかの意味があるのだろうと思っているのです。よしんば、オリオン座の三星にその名をつけたとしても、そこに意味がありそうな・・・。 とんでも説に近いのかも知れませんが、『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。「底筒男」は物部氏の遠祖の饒速日尊だと言うのです。住吉大社を祀った津守氏は物部系だとか、そうするとそーっと置き換えたのかも。 住吉大社の社殿の並び方 左を西にして三殿が一列に並び、神功皇后とされている社殿が西側の社殿に並んでいます。 □□□ □ これから、上の並びを、仲哀天皇、成務天皇、景行天皇の三代と見ますと、仲哀天皇と神功皇后とが夫婦で並ぶと解説した史家がおられました。成務さんや景行さんにも皇后はいたのでしょうが、何故祀られないのでしょうね。
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[7216] Re[7215]: さんざん PONTA |
2006/03/25(Sat) 01:23 [Reply] |
「筒」は「星」の意味だったかと。で、上筒男、中筒男、底筒男は、船乗りが航海の目印としたオリオン座の三ツ星の神格化だとする説がありますね。
*ここで、「ギザの三大ピラミッドもオリオンの三ツ星を表している」「『3』で1セットなのはキリスト教の父と子と聖霊が起源」と書いてしまうと青草ですね。
*引用 http://www.loops.jp/~asukaclub/kami/kami_123.html 筒はツチと同じで、ツが助詞、チは美称である。一説には、ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ、宵の明星金星や夕方の月などをいうツツで、星のことを指すといわれ、星は航海の針路を決定するものである事から考えられた海神であるといわれている。他にも帆柱を受ける凹型の柱で船霊を祀る所でもある「筒」の事であるとするものや、対馬にある地名「豆酘(つつ)」に由来するというもの、ツチノコの「ツツ」に通じる語である等諸説ある。 |
[7215] さんざん 神奈備 |
2006/03/24(Fri) 21:02 [Reply] |
3は安定した数ですが、普通の鳥居では倒れやすいのですが、蚕の社のような三つ鳥居は安定しているのは、ご承知の通りです。
神々でも、三貴子など、三柱の神がワンセットと言うのが多いようで、住吉三神、安曇三神、宗像三神、猿田彦が手をはさまれた時の三神、五十猛三兄妹神、応神天皇の皇子、宇遅和紀郎子、大雀命、大山守など。
この内、例えば住吉三神については上筒男、中筒男、底筒男と名がついています。この神々にはどのような区分、役割があるのでしょうか。三神全部がそろっていない神社の例示をしてみます。
表筒男なし 大阪府八尾市東山本町 住吉神社(主祭神 底筒男) 中筒男のみ 大阪府茨木市大字忍頂寺 八所神社 大阪府豊能郡能勢町 岐尼神社 大阪府南河内郡千早赤阪村水分 建水分神社 大阪府大阪市平野区平野宮町 十柱神社 底筒男のみ 大阪府河内長野市市町 菅原神社 底筒男なし 大阪府堺市栄橋町 神明神社
祭神のお札が失われたとか、記入漏れとかもあるのかも知れませんが、特定の神を祀るにはそれだけの理由もあるのかも知れませんね。
「底」のイメージ、暗い、冷たい、 → 根の国 「中」のイメージ、雨、風、地上 → 食国 「上」のイメージ 太陽、明るい → 高天原
各位のご感想はいかがでしょう。
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[7214] Re[7213]: 補足。 神奈備 |
2006/03/24(Fri) 21:01 [Reply] |
ro. さんのカキコの内容は神奈備掲示板向きではないですね。なぜなら当HPの主張や要旨とは殆ど関係のない内容ですから。 以降のカキコは青草へお移り願えれば幸甚です。 |
[7213] 補足。 ro. |
2006/03/24(Fri) 20:33 [Reply] |
天皇の系図に関してはわからないので(そこまで詳しくないので)、 百済と公言されたことはありますけど、それがどこの地域かもわからないし、 すべてはそうではないので断言しません。 |
[7211] Re[7209]: 神社の創建年代 nick [Url]
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2006/03/24(Fri) 09:49 [Reply] |
ちょうど今から10年位前、鹿児島で集中豪雨があって、鹿児島市の天文館は冠水 また竜ヶ水では鉄砲水と土石流で電車が流され 当地では民家や神社も流されてしまいました。 この後、鎮めるために勧請された神々が幾つかおられました。
現在のテリトリーは所持している「諸古記」の寺社ですが、ここでも天災の度に 鎮座地や勧請が繰り返されていたようです。
時代は変われど、「天変地異」には打つ手無し。のようです。 |
[7210] Re[7209]: 神社の創建年代 PONTA |
2006/03/24(Fri) 00:51 [Reply] |
神社というと、古いものだと思いがちですよね。 たとえば、伊勢神宮のダビデの星の石灯籠は確か昭和15年に作られたものですよね。(うろ覚えですみません。)
<日ユ同祖論について引用> http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/jud.html 例えば、「カゴメ紋はダビデの星」だといわれることがある。だが、六芒星が「ダビデの星」と呼ばれてユダヤのシンボルとなったのは、17世紀のヨーロッパにおいてである。「へロデ王宮の遺跡には菊文様が刻まれており、これは<失われた十支族>が古代日本に渡来して在来人を征服したという皇室のルーツを表している」などといわれることもある。しかし、「菊の御紋」が皇室のシンボルになったのは鎌倉時代以降のことである。「日本人の先祖はイスラエルの失われた十支族」とする説は、こうした歴史的経緯をあえて無視して、見た目の類似性から相関関係を紡ぎ出した空想の産物である。 |
[7209] 神社の創建年代 神奈備 |
2006/03/23(Thu) 21:01 [Reply] |
先日、古書店で『神なる王/巫女/神話』高橋統一著(岩田書院)を手に入れました。と言うのは第4章に「神話と神社をつなぐものー石見と紀伊−」と言うのがあって、素盞嗚尊の御子神の五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の神社のことが述べられていたからです。 びっくりしたのは、島根県大田市に鎮座の五十猛神社、大屋姫神社の創建年代が載っていたことです。昭和35年に島根県宗教連盟発行の『宗教法人名簿』によりますと、五十猛神社が享保二十年(西暦1735)、大屋姫神社はなんと明治七年(1874)となっているそうです。 もっと古代に遡るものとイメージしていましたが、なんと近世ではないですか!! どうやら、この時代にも村興し的な活動があり、素盞嗚尊の神話に基づいて神社が創建されているようです。そのかわりと言うか、式内社の国分寺霹靂神社はかえりみられなくなり、今では痕跡もないとか。
五十猛命はマイナーな神だから近世になってからの創建はなかろうなどと思っていてはだめで、その地域では重要な神であり、時代を問わず、勧請されているのですね。そういえば、宇陀の春日神社に五十猛命が伊太祁曽神社から勧請されたのは平成五年のことでした。
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[7208] 日本。 ro. |
2006/03/21(Tue) 15:24 [Reply] |
>物部守屋に関しては同でしょう。 物部守屋に関してはどうでしょう。
伊勢津彦命は都美恵神社にも祀られているそうです。 http://www.iga-younet.co.jp/news/synthesis/2004/12/041202.html
穴師族の山金属鉱採取、機織技術に長じた集団はというのは伊勢津彦にも 関わりがありそうですね。石上神宮との関連も指摘されているそうです。
伊和大神も調べてみます。
日本の歴史は謎、何だかトリックというか隠しているとこがあるのではないでしょうか。 卑弥呼にしてもわからないというよりわかっても公表できるのか(出版)、 あるいは偽書扱いされても一般の人はそこまで調べれなかったのではないか。 物部氏の家紋に関しても弓矢以外に分家か菊紋(ヘロデ)もありますね。
以前こちらの掲示板に(ログ参照)、男系の継承をしているのは日本とヨルダンだけと書きました。 しかし外国から日ユ論で見たときに注意深く歴史を見るでしょうか。 うわべだけではわからないかもしれません、ひとくぐりではありません。
このy染色体はどこから来たのか。天照ではないですね。 ではこのシステムはどこから来たのか。 伊勢に祭祀されているのは伊勢大神であって、天照大神ではない。 伊勢大神を大和朝廷の守護神として(神話も含め混ぜようとした)組み入れた。
だから伊雑宮の御田植え祭には女装の行事がある。 そして丹生都姫神の姉である天照大神もです。 稲荷は狐です。これは化かすという解釈もできます。 それとも狛犬→獅子(スフィンクス)、狐→細長い犬(ジャッカル)、エジプトをルーツ。 それかジャッカルなら狼(オオカミ)で大神、男神を意味しているのかもしれません。
というか。。。
よくやった、世界一。
日本優勝おめでとう!! |
[7207] 伊勢津彦。 ro. |
2006/03/21(Tue) 11:37 [Reply] |
>@『伊勢国風土記』によりますと、神武天皇の派遣した天日別命(度会氏の祖)によって、国を追われた 地主神であった伊勢津彦に因んで伊勢の国と名付けたとあります。
やはり伊勢は伊に由来してたのですね。 調べてみるとどちらかといえば民を思って伊勢津彦が譲ったという解釈ですね。 よくわかりませんけど、ひどい争いがあれば責めてきた者がその相手の名を残すでしょうか。
>伊勢津彦は、夜ふけに大風が四方に起こり、大波を打ち上げ、 太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなって、国を去っていった ようです。伊勢津彦は信濃の国に住まわれたそうです。
神々しい表現ですね。船で行かれたのでしょうか。 長野県(信濃)の風間神社の祭神にもその名が見られるようです。 また伊勢国風土記に出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、 またの名は天の櫛玉命である。この神は昔、石をもって城を造ってここにおいでになったと書かれているそうです。 もしかしてこれって出雲の国譲りのことでしょうか。
海路の船(帆があれば機織や絹と関係するかもしれません)、石大工、建築集団。 秦氏は陸路でしょうか。エジプトのピラミッドを作ったのはイスラエル人です。 検索で調べられることと、物部氏との関係がいまいちわかりませんけど。
>A『日本書紀』、物部目なる者が伊勢の朝日郎を討伐する話が載っています。 物部目も朝日郎もどちらも調べましたが、わかりませんでした。 朝日郎は違うんじゃないでしょうか。
>B『日本書紀』の崇峻天皇の時代、物部守屋が討たれ、物部の本家は滅びます。 ところが、義経伝承と同じなのでしょうか、物部守屋が近江などを経由して信濃に落ち延びたとの伝承が残っているそうです。 諏訪大社の裏山を守屋山と言い、守屋を祀る祠もあるとか。
これは曽我氏と仏教での対立のことでしょうか。 物部氏らはこのとき我々の国神がいると言っているんですよね。 ここで気になるのがこの国神というのは何を意味しているかということです。 それによって解釈も変わります。物部守屋の妹は曽我氏(馬子)のとこにいっていますね。 この後物部守屋が信濃に落ち延びるというのは伊勢津彦を頼っていったのでしょうか。 実際物部を繁栄させたのは伊香色謎命で伊が入っているのでわかりません。 ちなみに諏訪大社も日ユ論で出されることもあります。
>さて、伊勢津彦は物部守屋の投影なのか、朝日郎と同じ敵だったのか、さて、どのように考えればいいのでしょうかね。 わからないので断言できませんけれど、違うと思います。 朝日郎を討伐する話だけで伊勢津彦のような描写で書かれていませんよね。 それに討たれたのであれば信濃での記述もないはずではないでしょうか。 伊勢津彦の信濃への経路は文献にも尾張、三河、遠江、浜松あたりから天竜川に沿い、 伊那谷から東筑摩へさらに善光寺平へ、佐久平へと詳しく載っているそうです。 物部守屋に関しては同でしょう。同一人物や投影とは思いませんが、何か関わりがあるかもしれませんね。 |
[7206] レスありがとうございます。 ro. |
2006/03/21(Tue) 07:58 [Reply] |
参考になります。 >何故この疑問をもたれたのか〜。 明確です。イスラエル十支族について調べているからです。 それまでどちらかといえば日本史にはそれほど興味がありませんでした。
しかし同祖論に関しても日本人全員がそうであるとは思えなかった。 (ユダヤの特性や共通点等に関してはここでは書きません) そこでまずイスラエルの象徴であるダビデ紋を調べたわけです。 そうすると伊雑宮(社紋は六芒星)です。日本ではカゴメ紋と言われていることや、 偽書扱いの文献などでトンデモ論なのかと思ったりもしました。 逆に日本史にはトリックというか隠されている事柄もあるのではないでしょうか。 菊花紋は隠さないのになぜカゴメ紋は隠すのか(どちらもイスラエルにあるのに)。 旧約聖書ではどのような関係なのか。六芒星はダビデで菊花紋はヘロデです。 ダビデはイスラエル人(ユダヤ)で、ヘロデはパレスチナ人です。
伊雑宮の伊は伊勢の伊、もしくはそれらの伊の系統に由来するのではないだろうか。 竹取神事(竹を取り合う)、女装の行事、カゴメの童謡は何かを暗示しているのではないだろうか。 ちなみに日本三大御田植え祭の祭神にどれも伊が出てきます。 伊勢に参らば伊雑も(伊雑宮を省いては伊勢に参ったとはいえない)、 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ(伊勢津彦のことかな)など、 さらに日本神話のイザナギとイザナミもイを始めに伊と書きます。 日本書紀や古事記等で漢字や読み方が微妙に変わったり、 まったく同一人物とわからないような例も多々ありますが、この象徴だけは違います。 イザナミ神が亡くなったときに怒ったイザナギ神が持っている十拳剣の伊都之尾羽張も、 天之尾羽張と伊を天と同義語として書いていることなど、断片とはいえどれも強烈で、 パラドックスというか何が何だかわからなくなりながらもとにかく調べました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 イスラエル十支族や日ユ同祖論を調べるときに、決して省けないのがこの伊だからです。
その他に六芒星のあるとこを調べました。 籠神社の真名井神社です。平城京もそうらしいです(データがないのでわかりませんけど伊雑宮との関わりもあるそうです)。 籠ということで竹かな、マナの壷ともいわれますけど、真の名(本当の名)の井は伊かなとか。 真名を魚でも読めることから磯や海、磯部さんといわれていた伊雑宮のこと、 またここには羽衣伝説があり、天女八人や竹野の郡(京都竹野郡)、お酒、羽衣というと絹でしょうか。 志摩郡に天之真名井もあります。
神奈備さんのサイトもそれらを調べていて知りました。 伊太祁曽神社のことも調べてみようと思います。 |
[7205] 安城の御影は、親鸞聖人 r [Url]
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2006/03/20(Mon) 17:52 [Reply] |
親鸞聖人の肖像画も、安城なんですよ。(この当時は、安静という呼称)
三河国における浄土真宗の総本山の本証寺が、安城にあったわけですよ。
本証寺は、三河一向一揆の総本山になった場所です。 |
[7204] 参河州碧海郡有一道場。曰薬王寺…有茶園
r [Url] |
2006/03/20(Mon)
17:34 [Reply] |
平安時代 寛和2 986
慶滋保胤(よししげやすたね)が三河の国府に愛弟子である三河守大江定基を訪ねた際の「晩秋過参州薬王寺有感」の中に 「参河州碧海郡有一道場。曰薬王寺…有茶園。…」とある。 この薬王寺は愛知県安城市別郷町にあった別郷廃寺ともいわれる。(『本朝文粋』巻十)
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[7203] 三河国府の正体続報! r |
2006/03/20(Mon)
17:28 [Reply] |
国(中は、王)というのは、室町時代以降に使用されたようです。
國は、鎌倉時代まで使われていました。
豊川市の三河国府出土品の国厨の墨書土器は、室町時代のものでは???
國厨と書かれていないとおかしいのだが。 千葉県や袋井市で出土したものは、國厨だ。
国府ではなく、國府でないとおかしいし、木簡も國だ。
>>>>>>>>>>>>>> 西三河側に守護が置かれ、早くから国衙領の解体が行われたため、東三河側に国衙領が残存した。鎌倉末期から室町時代に普及した曹洞宗が東三河で縄張りしているのもうなづける。
国府というのは、室町時代まで存続したので、武家社会が台頭した西三河では居場所がなくなったので、東三河側に移された。
和名抄の国府記載郡の正体も、室町時代以降に平安時代の原本に追加されたと思われる。版の改訂の際のいわゆる増補にあたる。
國と国の違いから、三河国府の正体も氷解しました。
飛鳥時代から奈良時代・平安初頭までは、西三河側の安城(碧海郡)に、国府(三川国の中心)があった、木簡が三河で唯一出土している、古代寺院や最古の古墳群から。
薬王寺有感の記述からも明らか。国司の大江氏の後裔の酒井氏も碧海郡出身だし。
で、荘園制度や武家社会の台頭でいちはやく西三河では、律令国府制度は瓦解した。熱田大宮司家の源頼朝、足利一族、藤原氏の動向からも明らか。
東三河全土をあんだけ掘り返しても、役所の証拠である木簡が1枚も出土しないんだからな。 |
[7202] Re[7199]: 質問 神奈備 |
2006/03/19(Sun)
20:12 [Reply] |
> ○物部氏と伊勢津彦はどういう関係なのでしょう。
ro.
さんが、何故この疑問をもたれたのかよくわかりませんが、次のようなことが考えられるのかも。
@『伊勢国風土記』によりますと、神武天皇の派遣した天日別命(度会氏の祖)によって、国を追われた地主神であった伊勢津彦に因んで伊勢の国と名付けたとあります。伊勢津彦は、夜ふけに大風が四方に起こり、大波を打ち上げ、太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなって、国を去っていったようです。伊勢津彦は信濃の国に住まわれたそうです。
Aまた、『日本書紀』雄略天皇十八年、物部目なる者が伊勢の朝日郎を討伐する話が載っています。
Bもうひとつ、『日本書紀』の崇峻天皇の時代、物部守屋が討たれ、物部の本家は滅びます。ところが、義経伝承と同じなのでしょうか、物部守屋が近江などを経由して信濃に落ち延びたとの伝承が残っているそうです。諏訪大社の裏山を守屋山と言い、守屋を祀る祠もあるとか。
さて、この三代話と、ご質問の伊勢津彦と物部との関係を考えますと、@では追われて信濃でと、Bの守屋さんと似た境遇。Aでは光輝いて波の上を飛んでいったイメージで、それは朝日郎の名前を思わずにはいられません。物部にやられたとなります。
さて、伊勢津彦は物部守屋の投影なのか、朝日郎と同じ敵だったのか、さて、どのように考えればいいのでしょうかね。
|
[7202] Re[7199]: 質問 神奈備 |
2006/03/19(Sun) 20:12 [Reply] |
> ○物部氏と伊勢津彦はどういう関係なのでしょう。
ro. さんが、何故この疑問をもたれたのかよくわかりませんが、次のようなことが考えられるのかも。
@『伊勢国風土記』によりますと、神武天皇の派遣した天日別命(度会氏の祖)によって、国を追われた地主神であった伊勢津彦に因んで伊勢の国と名付けたとあります。伊勢津彦は、夜ふけに大風が四方に起こり、大波を打ち上げ、太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなって、国を去っていったようです。伊勢津彦は信濃の国に住まわれたそうです。
Aまた、『日本書紀』雄略天皇十八年、物部目なる者が伊勢の朝日郎を討伐する話が載っています。
Bもうひとつ、『日本書紀』の崇峻天皇の時代、物部守屋が討たれ、物部の本家は滅びます。ところが、義経伝承と同じなのでしょうか、物部守屋が近江などを経由して信濃に落ち延びたとの伝承が残っているそうです。諏訪大社の裏山を守屋山と言い、守屋を祀る祠もあるとか。
さて、この三代話と、ご質問の伊勢津彦と物部との関係を考えますと、@では追われて信濃でと、Bの守屋さんと似た境遇。Aでは光輝いて波の上を飛んでいったイメージで、それは朝日郎の名前を思わずにはいられません。物部にやられたとなります。
さて、伊勢津彦は物部守屋の投影なのか、朝日郎と同じ敵だったのか、さて、どのように考えればいいのでしょうかね。
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[7201] Re[7200]: 無題 神奈備 |
2006/03/19(Sun) 20:12 [Reply] |
> よろしければ、ブログから神奈備様のHPにリンクを貼らせていただきたいのですが、 > いかがでしょうか?
公開HPはリンクは自由です。よろしくお願いします。 |
[7200] 無題 MAI [Url]
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2006/03/19(Sun) 16:32 [Reply] |
神奈備 様
名草戸畔(なぐさとべ)について、調べている者です。 先日は、ブログにコメントをいただき、ありがとうございました。 よろしければ、ブログから神奈備様のHPにリンクを貼らせていただきたいのですが、 いかがでしょうか? よろしくお願いします。 |
[7199] 質問 ro. |
2006/03/18(Sat) 19:05 [Reply] |
○物部氏と伊勢津彦はどういう関係なのでしょう。 ○伊雑宮を建てたのは伊勢津彦ですか、物部氏ですか。 ○伊勢津彦は伊和大神のことですか。伊雑大神とは誰ですか。
前回質問しました。神奈備さん、ご存知でしたら教えてください。
鳥居の起源について調べていて、鳥居の形って漢字の丹に似てるなぁと 丹の由来を検索してみると、朱色を現すこと、水銀やそしてそこから 丹生族や丹生都姫神について知りました。 たまたまかもしれませんけど、稲荷の鳥居は朱色ですね。
それでさらに神奈備さんのサイトのこのページを見ました。
http://www.kamnavi.net/ny/tamayori.htm 丹生都姫神は天照大神の妹神ということでいいのでしょうか。 同一人物ではない、2人いるということでいいのでしょうかという意味です。
またこの姉妹は太伯から来られたそうで、中国周族の呉の祖とされる人物。 姓は姫(き)、泰伯とも言うそうです。 姫ということから卑弥呼や昼(日)巫女、秦から秦氏を連想したりしています。 秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布しているということで、 丹生都姫神も機織と関係ありそう(またこの呉という漢字も呉服屋など)で、 丹生都姫神に協力された高野山の空海と秦さん(金毘羅さん)、徐福など。 また呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるらしいです。 丹は舟にも見えるし(こじつけ?)、海を渡ってきた、絹、朱色、中国などから こちらもイスラエル十支族で考慮してみようと思います。
播磨風土記に丹生都姫神の記述があるそうで、 伊勢津彦と関係あるのかなぁと。伊について調べていたときにお米や稲作に関わりが深く(日本三大御田植え祭やお酒など)、 稲荷のイは伊だったんじゃないかと思っていたので、その稲荷神社の総本社の 伏見稲荷大社を創建したのが秦公伊呂具と伊が入っているのも興味深いです。 丹生都姫神の家紋がわかればいいのですけど。
またこちらのページなのですけど、 http://www.kamnavi.net/ny/minzoku.htm
朱の意味 キリスト教の項目です。 >古代エジプトでは赤は一般に禍いの色とされ〜、 と書かれていますが、そうなのでしょうか。 ピラミッドの本来は全体にどの方向から見ても赤色で装飾されていたそうです。 現在でも先の方にその塗料が見られるそうです。
ちょっと文が前後して読みづらいかもしれません。 教えてください。よろしくお願いします。 |
[7198] Re[7196]: 名草戸畔 神奈備 |
2006/03/17(Fri) 16:05 [Reply] |
ブログにコメントを入れたのですが、入ったのか入らなかったのか、よくわかりませんので・・・
名草戸畔についてのご研究、多いに期待いたします。頑張って下さい。 数年前に読んだ記憶があるのですが、和歌山市川辺に鎮座の力侍神社と名草戸畔との関連を調べると言っておられた元大学の先生だった女性研究者がおられたのですが、文献名が手元に残っていませんので、具体的なことは判っていません。何かヒントになればいいのですが。
さて、ブログの字は小さくて、小生には読みづらい所もあって、誤読をしていれば、失礼なことになりますがご容赦いただいて、質問をさせて下さい。
名草戸畔(姫)を祀る神社が和歌山で500社あるように読みとれるのですが、この数は現在和歌山県にある神社と摂社を合わせた数の半分以上です。どの祭神を名草戸畔と見られたのでしょうか。すべての姫神を名草戸畔とされたのでしょうか。興味ある所ですので、見解をお示し下さい。 |
[7197] Re[7193] [7192]: 昔話に秘められた何かを探り出してください。 倭亜布 |
2006/03/17(Fri) 14:35 [Reply] |
* 猪名部 ふつうはイナベと読みますが、当て字はさまざまです。この「猪(伊 ・員・印...)」は、犬族の、犬の転訛ではないかという説があります。 イヌベ→インベ→イナベ。また、牛族の一派だというのもあります。 宮大工もいれば、船大工もいたはずですから、フェニキア−マレー・ ポリネシア−華南経由の潅奴部の分かれかもしれません。タルシシ船 の最上の船材は、もちろんレバノン杉です。
オンライン文集 オリエント幻想 (5) より
|
[7196] 名草戸畔 HARU [Url]
|
2006/03/17(Fri) 13:39 [Reply] |
名草戸畔について調べています。歴史の中に封印されたにもかかわらず和歌山では愛されている彼女についてくわしいことを知るためにはどうしたらよいでしょうか。ブログの方のアドレスを書いておきます。もしよろしければブログの方にコメントをください。一度、神奈備さんにもお話が聞きたいです。 |
[7195] 大田大工 神奈備 |
2006/03/17(Fri) 11:20 [Reply] |
琵琶湖西岸に流れる安曇川は湖口で分岐して輪之内と呼ばれるデルタを形成そています。安曇川の南流れの南側を南船木と言い、北側を北船木と言います。南は湖上水運と川の筏流しに、北は漁業と藻草の採集を中心としていたそうです。木材を扱ったのは南側でした。 安曇の字はいかにも安曇海人を思わせるのですが、高島市には住吉神は祀られていますが海津見神を祭る神社はありません。 『日本の神々5』でも、高島では安曇をアヅミ、アズミと訓するのは見えず、アドとなっているとのこと。阿刀としますと物部系にもあり、饒速日尊の天降りにお供をした中に、梶取阿刀造等の祖がいます。物部系の神社は南船木の南西に布留神社が鎮座。 琵琶湖の安曇川は安曇海人と関係がないようです。 万葉 1718 あどもひて 漕ぎ去(い)にし船は 高島の阿渡(あど)の水門に 泊てにけむかも 北船木には本殿が重要文化財になっている若宮神社があり、北船木に隣接して、太田と言う地名があり、ここには大田神社も鎮座しています。この本殿も良質の木材を使い、保存状態はきわめていいようです。太田には大工がいて、近年まで栄えていたそうで、この辺りの神社の社殿はさすがに大田大工の手になる壮麗で丈夫なようです。 |
[7194] 無題 倭亜布 |
2006/03/16(Thu) 09:16 [Reply] |
お隣の大陸に孫さん猪さんなどの姓があり、西遊記を思い浮かべます。 河童のサゴジョウは判りませんがカッパのヘヤァースタイルから僧侶(カラス・クルス)を思い浮かべます。(カッパの音からカッパーラやカバラ・夏薔薇・薔薇騎士団?) 玄奘三蔵がたどり着いたインドの仏教が衰退していたらしいです、また持ち帰った経典は翻訳の段階で景教の影響をだいぶ受けたと考えています。 記紀の内容に旧約聖書・・ISSN 1880-9449「渡来人研究」下枝広明 著 参照 最澄の弟子円仁などは景教の影響をかなり受けていたと考えられ、帰国ご主に東北地方で布教活動で展開(東北にキリストの匂い)しています。
「天照大神の霊の体現者と言うか顕神 ( アキツカミ )と言えるのでしょう。」 アキツカミが「秋津」 神 でしたらば、私的には「秋津=とんぼ=三角=銅鐸の文様」となりますし他の文様も渡来した犬 鳥 鹿 蛙 臼 ・・・・も渡来人との夢想を擁きます。 相変わらずまとまりませんが宜しくお願い致します。
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[7193] Re[7192]: 昔話に秘められた何かを探り出してください。 神奈備 |
2006/03/15(Wed) 19:59 [Reply] |
これはこれは一般的なご質問でしたか。 それでは「Re[7188]苗族と隼人」のタイトルはおかしいですね。小生はてっきりnickさんの文章の中の「境界線として猿や猪も認識していた」と思っていましたので、nickさんがお答えになるものと静観していました。 顔を見ながらでない電子的な交流の手段である掲示板の文章にはそれだけの注意をして記述して下さい。
> 日本の昔話に登場する、鬼や蛇 犬 雉 猿 蟹 臼 栗 蜂 鼠 雀 鶴 亀 猪 河童・などなどには モデルとなる氏族や渡来人がいるのではと常ずね考えておりました。
ご質問の趣旨はよくわかりましたが、「考えすぎ」の「考え」についての披露はなされていませんね。具体例をあげて「昔話−動物−氏族か渡来人 その理由」をいくつかあげていただけないでしょうか。小生は寡聞にして思いつかないのですが・・・。 |
[7192] 昔話に秘められた何かを探り出してください。 倭亜布 |
2006/03/15(Wed)
12:26 [Reply] |
突然に御じゃま致しますことをお詫び申し上げます。 日本の昔話に登場する、鬼や蛇 犬 雉 猿 蟹 臼 栗 蜂 鼠 雀 鶴 亀 猪 河童・などなどには モデルとなる氏族や渡来人がいるのではと常ずね考えておりました。 日本史に御堪能な神奈備掲示板の常連の皆々様方なら古代日本の見えなかった部分を日本の昔話に秘められた何かを見出せると思っていました。 俄か古代史マニアの小生には知識不足なので 皆様方のお知恵をお借りしたくメールいたしました。宜しくお願い申し上げます。 |
[7191] Re[7190][7188] 苗族と隼人
神奈備 |
2006/03/14(Tue)
22:01 [Reply] |
>
今日は、楽しみに拝見させて下ります、ささやかな疑問ですが「猿や猪」とは秦氏や多氏?の事ではと?考えすぎでしょうか?
何をどう考えて、そのような疑問に行き当たったのでしょうか? 質問をされる前に、まずそれを披露して下さいな。 nickさんも答えようがないでしょう。
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[7190] Re[7188][7187][7186][7184][7183][7182][7179][7176] [7189] 苗族と隼人 倭亜布 |
2006/03/14(Tue) 13:41 [Reply] |
今日は、楽しみに拝見させて下ります、ささやかな疑問ですが「猿や猪」とは秦氏や多氏?の事ではと?考えすぎでしょうか? |
[7189] Re[7188][7187][7186][7184][7183][7182][7179][7176]: 苗族と隼人 nick [Url]
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2006/03/14(Tue) 13:08 [Reply] |
ちょっと本流とそれたので。。
今滋賀県の琵琶湖では、「猿が横行して大変」らしい。 比叡山の日吉大社では「神猿(まさる)」は神様のお使い「魔去る」とのこと。
『猿は神様のお使い」 これは一種の警鐘ですね。当地にもたまに猿が出没します。 以前は、麓の上部に棚田風の田んぼや畑があって耕地され またその近辺の山林や竹林はしいたけ等の栽培で下草も綺麗に 刈り取られ整備されていた。 そこが一つの境界線として猿や猪も認識していたのだが 高齢化し耕地を手放し荒れ放題となってその境目が麓へ下りてきた。 その結果、住宅地へ出没しどこでも手に入る「餌場」と化してしまったのだろう。
また、神話伝承の『海幸彦・山幸彦』も 我々に一つの示唆を掲示しているのではないだろうか。
三陸海岸では一時期「不漁」が続き漁業が成り立たなくなった。 宮城県の唐桑町でもホタテやカキの養殖をしていたが昭和40年代から 出荷がストップしてしまった。 フランスの貝養殖を視察した畠山さんが、「森は海のこいびと」 のスローガンを掲げ森・川と漁場の調和を唱え活動を始めた。 そこで活路を見出すために大元である 岩手県室根村の森林の保全に努め漁場を再生したと聞いた。
それ以前に釧路でもあの美味しい昆布が消えた。 その時漁民が山に入り荒廃した山林に植林し長年の蓄積で昆布が戻った。
栃木県の足尾銅山の跡地である渡良瀬川上流の山林が枯れ木となって裸の山が続出し 下流域に氾濫し洪水被害を出した。 ここも山林への植林によって被害を抑えることに成功している。
「森は海のこいびと」
神話伝承も視点を変えて読み直すのもいい。 |
[7188] Re[7187][7186][7184][7183][7182][7179][7176]: 苗族と隼人 nick [Url]
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2006/03/14(Tue) 10:00 [Reply] |
>皇室の存在は自然を守ると言う役割をも果たしていることになります。
確かにおっしゃる通りです。 日本の自然保護運動の先駆者「南方熊楠」によって守られた神奈備:熊野。 それが一時期の日本列島改造計画で山は裸になり土砂崩れ災害を誘発し過疎地は荒れ放題です。 今や田舎に於いても神社の廻りの緑地は唯一の憩いの場になりつつあります。 何か一抹の寂しさは禁じえませんが。。 そう云えば、あの明治神宮の森は人工林だそうですね。 武蔵野の面影を残しつつ計画されたやに聞いています。 子々孫々までの長期ビジョンで自然と付き合うことが肝要なようです。
余談ですが、当地、山川に「南方神社」があります。 ここの成川神舞は3年毎に舞われる夜神楽ですが、 当初、あれ「南方熊楠」関連の神社かなと思いましたが どうも諏訪系でした。 建御名方命(タケミナカタノミコト)(諏訪大社)が主祭神。 |
[7187] Re[7186][7184][7183][7182][7179][7176]: 苗族と隼人 神奈備 |
2006/03/14(Tue) 08:54 [Reply] |
長良川の鵜匠は宮内庁所属の役人だそうです。世襲制。女系もあるのかな。吉野川はありそうです。 長良川は金華山(岐阜城のある山)の北側を流れていますが、その上流に皇室の御漁場があり、庶民はそこで釣りなどを行えないのです。尤も、左翼系の釣り人などは敢えてそこで釣るようです。 観光用の鵜飼もそこでは鵜を船にあげて通り過ぎます。しかしこのおかげでしょうか、上流には土建屋の好きなダムがありません。河口に堰は作られていますが、岐阜にまで悪影響はないようです。皇室の存在は自然を守ると言う役割をも果たしていることになります。
長良川はどこかの野生の海鵜を飼い慣らして、訓練をしたものだそうで、nickさんが言われるように卵からではないようですね。何故なんだろう。伝統なのかな。
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[7186] Re[7184][7183][7182][7179][7176]: 苗族と隼人 nick |
2006/03/13(Mon) 21:37 [Reply] |
> 琵琶湖の西に白鬚湖岸があり、猿田彦神を祀る白鬚神社が鎮座しています。この前参詣して来ました。この神社の南方に鵜川集落があり、鵜川と言う川が流れています。鵜飼が行われていたでしょうから、ここに南方系の人々がやってきたのでしょう。
東南アジアや中国の鵜飼は日本と異なって「卵」から育てるようで、 くくりつけなくても親の所へ運んでくるようです。
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[7185] Re[7184][7183][7182][7179][7176]: 苗族と隼人 nick |
2006/03/13(Mon) 21:33 [Reply] |
縄文遺跡は大体各公民館毎2箇所見当でしょうか。 中学生の頃は「遺跡」と云えば「登呂遺跡」でした。 足元に眠っていようとは努努。。。
鹿児島大学の新田先生が中国から南方(ベトナム辺り)への渡航や 日本への渡来を調査されて何度も東南アジアへ出かけておられるようです。 今度いろいろお伺いしてみます。 |
[7184] Re[7183][7182][7179][7176]: 苗族と隼人 神奈備 |
2006/03/13(Mon) 17:43 [Reply] |
> 埋蔵文化財情報 > > 縄文時代で検索したら「31291」ヒットしました。 > いや〜驚きです。
凄い件数ですね。充実したデータベースですね。
琵琶湖の西に白鬚湖岸があり、猿田彦神を祀る白鬚神社が鎮座しています。この前参詣して来ました。この神社の南方に鵜川集落があり、鵜川と言う川が流れています。鵜飼が行われていたでしょうから、ここに南方系の人々がやってきたのでしょう。
さて、『南島文学発生論』で滝川政次郎氏は、「漢の武帝が南越を征した際、百越の民は、黒潮に乗って九州の南北に渡来した。」と言っています。黒潮が二つにわかれており、そうなったのでしょう。北九州についたのが安曇族、南に着いたのが隼人族、この時に稲作、金属、入れ墨、鵜飼、なれ鮨などを伝えたのでしょう。近江は鮒寿司が有名、紀州のなれ鮨も絶品です。
白鬚神社の北側に安曇町がある所から見ますと、どうやらこの辺りに南方文化を伝えたのは安曇族なのでしょう。若狭か越前あたりから琵琶湖にたどり着いたのでしょう。
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[7183] Re[7182][7179][7176]: 苗族と隼人 nick [Url]
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2006/03/13(Mon) 10:54 [Reply] |
自己レスですが、参考ついでに当地の縄文時代を。
鹿児島県上野原縄文の森
http://www.jomon-no-mori.jp/
メニュー しらべる 埋蔵文化財情報
縄文時代で検索したら「31291」ヒットしました。 いや〜驚きです。
これを徐福渡来の年代と符合させれば、当時の生活様式が 垣間見える訳ですが。。
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[7182] Re[7179][7176]: 苗族と隼人 nick [Url]
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2006/03/13(Mon) 10:42 [Reply] |
9500年前集合生活を営んでいた当時の人々(縄文人とも)は どこへ消えたのでしょうか。 ま、確かにその後の6000年前にも大噴火がありましたが。。 もし天災が無かったらどのような繁栄を極めていたのか。。
案外、中国大陸へ移住したのではとか、、 そうすると、苗族のルーツは日本人。。
だと面白いですね。 |
[7181] Re[7180][7170]: >琉球の古代への興味 nick [Url]
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2006/03/13(Mon) 10:37 [Reply] |
恋川亭さん>阪神大震災は、僕もド真ン中!で被災しました。ええ、しっかりと(笑泣)
おはようございます。お互い当時は大変でした。 だから余計人生を粗末に出来ないなと。。 挫けた度に奮い立たせて。。ま、ボチボチですが。
「隼人」のテーマで盛り上げて頂いて、、、泣けてきます。
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[7180] Re[7170]: >琉球の古代への興味 恋川亭 |
2006/03/12(Sun) 22:28 [Reply] |
nickさん、くも膜下出血からのご快復、素晴らしいですね。ご自身のご努力と周囲の方々のご支援の賜物なのでしょう。 そして大神様方の見守りも。ひょっとして、「お勤め」を託されてのご生還かもしれません(笑)。それが・・・
> 史跡探訪に出かけられ幸せです。 > 益々今記録しておかなければと鞭打って励んでいます。
・・・につながっていらっしゃるのなら大切なお仕事ですね。nickさんならではの視点、そういったご研究を神々が期待されているのかも。ゆっくりと、がんばってください。
阪神大震災は、僕もド真ン中!で被災しました。ええ、しっかりと(笑泣) あれから、もう11年がたちます。土曜日の神戸はポカポカ天気だったのに、一転して日曜は冷たい霧雨。イカナゴ漁は解禁ですが、まだまだサイズが小さいのでクギ煮にする大きさには1週間ほどかかる見込みです。この海の幸の佃煮とお握りとワンカップ酒を携えて、山のイワクラを尋ねるのが愉しみ。ここ1〜2年満足に行けなかったので、この春からはリベンジのつもりです。 |
[7179] Re[7176]: 苗族と隼人 神奈備 |
2006/03/12(Sun) 10:09 [Reply] |
この苗族などのお話は、日本人、稲作、銅器、祭祀のルーツに関わり、興味津々の所ですね。
> ヤタカラスは熊野神社の祭神。 この表現は好ましくない思います。熊野三山の各神社の摂社に祀られている、と云うべきでしょう。新潟県の熊野社一社に配祀はされています。 尤も、三本足の烏は熊野の神の使いとは云われます。 従って、ヤタガラスの足が3本でもいいのです。2本とは書かれていませんから。
> 宇陀のヤタカラス神社 ここの神社の絵様は三本足の烏で、尊いものとされていたのでしょう。
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[7176] 苗族と隼人 とみた |
2006/03/11(Sat) 15:14 [Reply] |
隼人のルーツは長江中流域の民の苗族と深いつながりありと考えています。
神武東征軍の大和入りに協力する吉野の阿田の、鵜飼民。 鵜飼は長江中流域の巴蜀(巴は重慶あたり、蜀は成都あたり)がその起源。
隼人と犬の関係は・・・海幸が死んだ宮崎県の潮岳神社地方に子供が額に犬と書く儀式あり。
中国のバン伝説では・・・黄帝は犬戎と戦って勝てなかったが、黄帝の番犬が敵将の首をとって勝利したので娘を娶らせた。その子の子孫が苗族。 苗族の始祖神は黄帝の飼い犬。(これは少し深読み過ぎかも)
苗族は日本人のルーツである倭人と風習が似ている。 断髪、辮髪?、入墨、高床式建物(倉)、鳥信仰、鳥の羽飾りを着けた羽人の踊りや船漕ぎ(鳥取の淀江町角田遺跡の壷絵)。 洞庭湖の沼沢地域で船に乗った羽人(苗族)の描かれた銅鼓が出土している。 苗族は黄河民族=漢民族に圧迫されて雲南省の少数民族(テン王国)になったりミャオ族になったり或いは日本へ逃れた。
苗族は紀元前に長江下流の江南地区の呉越人とも交わっている。呉越人はもぐって魚貝をとる風習も持っているのは隼人と同様。
時代はいつか、これが問題。呉越戦争の紀元前5世紀。越が楚に敗れた紀元前4世紀。秦始皇帝の徐福伝説では、紀元前3世紀、前漢武帝の紀元前2世紀。いずれにせよ、沖縄のイモ貝、ゴホウラ貝も運んでいるので弥生時代からでしょう。
もっと下って、中国の三国時代の前後、五とう米道という道教が流行ったのは長江と黄河の間の漢中、そこに巴(今の重慶)の民が魏に味方してうごめく。そこから鬼道や神仙思想も入ってきたのではないか。
吉野は神仙思想の山でもある。日本海の宮津に近い伊根には新井崎神社があり、徐福が入っていて蓬莱の匂い、浦島伝説もある。
ヤタカラスは、やはり蜀がルーツ。扶桑の木に10個の太陽=カラスが止まっている(山海経)という話。ヤタカラスは熊野神社の祭神。宇陀のヤタカラス神社はもともとは地元勢力の神社であったものが8世紀に葛城建角身命に祭神になった。
そして、崇神天皇の御世、四道道将軍の一人、大彦命が北陸へ派遣されたとき、武埴輪安彦と吾田媛の謀反に気付きこれを奏上して成敗した。隼人の反抗と成敗。 河内政権の仁徳天皇には二人の妻。葛城系の磐之媛と日向隼人系の髪長媛ここからは大草香皇子・・・・
自信はありませんが、一つの推理です。
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[7175] 神社の縁起 PONTA [Url]
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2006/03/10(Fri) 21:36 [Reply] |
神社の縁起は、失礼な言い方をすれば神社のコマーシャルです。 宣伝文句が思い浮かばない場合は吉田家に頼めば考えてくれたと聞いています。 PONTAでは「三河と遠州にはそれぞれ熊野三山と呼ばれる神社がありますよ」と紹介しているだけであって、それらの神社が本当に熊野三山として建てられた神社かというと疑問です。「藤原鎌足の孫(藤原不比等の娘)宮子は、幼少の頃より熊野三社を深く信仰し、1日も礼拝を怠ったことがなかった」と縁起にありますが、すぐには信じられない内容です。 |
[7174] Re[7173][7172]: 最近のこと PONTA [Url]
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2006/03/10(Fri) 20:26 [Reply] |
> 三河の神社と熊野との対比はよく話題になりますね。
そうなんですか。それは知りませんでした。 三河の神社と熊野の神社と似てるんですか? それとも三河と熊野が似てるんですか? 「三河の神社」と「熊野」(地名)では対比できないように思われます。
> 足助八幡宮縁起↓では、砥鹿神社、猿投神社、足助八幡宮が熊野三山と対比できそうですね。
三河で有名なのは、一宮の砥鹿神社(本宮山)、二宮の知立神社(平野部)、三宮の猿投神社(猿投山)です。「足助八幡宮縁起」は、関係者には失礼ですが、この知立神社を足助八幡宮に入れ替えて、「足助八幡宮はすごい神社だ、有名な砥鹿神社や猿投神社とも関係が深い」と主張するために作られた縁起のように思われます。ちょっと出来すぎていて、創作っぽいです。「天智天皇ノ御宇」にというところからもう無理がありますね。砥鹿神社や猿投神社の起源は「天智天皇ノ御宇」ではないですし。
熊野から三河に来た人たちは、海岸沿いに住んで船による交易をしているわけで、熊野神社も海岸部に多い気がします(ちゃんとした分布図は作っていませんが)。熊野から修験者が三河へやって来て山を開いたというイメージは私は今のところ持っていません。 |
[7171] 古代への興味 とみた |
2006/03/10(Fri) 11:34 [Reply] |
nickさん 恋川亭さん とみたです。
今は鹿児島の人ですね。みなさん、それぞれご苦労なさって、それがゆえに今の幸せを噛み締めておられるのでしょう。
このサイトもそんな雰囲気で交流出来ればうれしいですね。私は半分棺桶に足をつ込んで居りますが、古代史なんて酔狂な世界に嵌り始めて、右脳刺激で呆け予防という効用と皆さんとの触れ合いが楽しいです。
鹿児島の人といえば、大学時代、志布志高校、出水高校、加治木高校、ラサール高校の人と接点がありましたね。なんとなく懐かしくなりました。
隼人、長江の民、苗族と倭人、シルクロードの民のトカラ人(斉明朝に飛鳥に来た)を追っかけているうちにトカラ人=アーリア人を追っかける破目になりました。これらの糸がどこかでつながって歴史はドンドン面白くなります。
神社に関しても、いろいろな神社が勢力争いしていたり、習合したり歴史の糸がなかなかほぐれません。
皆様、お力添えの程、お願いします。
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[7170] Re[7169][7159]: >琉球の古代への興味 nick [Url]
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2006/03/10(Fri) 09:52 [Reply] |
恋川亭 さんおはようございます。 昨日は一日中雨でしたが今朝はいいお天気です。 これから父をいつもの河川敷の公園へ連れ出そうかなと。 流れる雲を見ながら食べる「たかなを巻いたおにぎり」は格別。
私は逆に、出稼ぎで上京して疾病でリターンの組です。 阪神大震災の時は意識不明(くも膜下出血)で、現在こんなに元気で 史跡探訪に出かけられ幸せです。 ま、昔のようには行きませんがそれなりに体調と相談しながらの日々好日。
田舎でも失われる原風景が余りにも多い。。 たった100年前の西南戦争の記憶はもうすっかり過去の遺産になりつつあり 一抹の哀愁を。 益々今記録しておかなければと鞭打って励んでいます。 ここのサイトは私の師匠でありカンフル剤。笑。 これからも楽しくお付き合いを。 |
[7169] Re[7159]: >琉球の古代への興味 恋川亭 |
2006/03/09(Thu) 23:59 [Reply] |
> お!恋川亭 も鹿児島在住がおありでしたか。
125軒を焼失した昭和41年の「羽島大火」はまさに渦中で被災しました。消そうとも消せない猛火の記憶ですが、それよりも燃えて消え去る前の、古き村のたたずまいや生活の様子を憶えていることが、歴史・古代史に想像を働かせるためのジャンプ台になっていると思います。列島が改造される前に持っていた「匂い」は貴重な記憶ですね。 僕のみ関西で育っただけで、血統のほうは父母両家とも代々薩摩、まじりっけなしの純血種です(笑)。なぜか『はんや節』も唄って踊れるので、かたばみさんが言うところの『海人族』(爆)。 関西から南国、南島を行き来するとね。奈良・京都から宮古・石垣まで、言葉や習俗がみごとなグラディエーションを形成しているように見えます。その中に居ると、ぜんぜん連続していないように感じるでしょうが、続けて見ていると連なっているの。当然のことなんですが、面白いです。ロマンチックな思い込みよりも、人々の実生活の方がやはり活き活きしてるんですね。歴史妄想も負けずに練り込んで、練り込んで仕上げていきたいと思いまっせ。 |
[7169] Re[7159]: >琉球の古代への興味 恋川亭 |
2006/03/09(Thu) 23:59 [Reply] |
> お!恋川亭 も鹿児島在住がおありでしたか。
125軒を焼失した昭和41年の「羽島大火」はまさに渦中で被災しました。消そうとも消せない猛火の記憶ですが、それよりも燃えて消え去る前の、古き村のたたずまいや生活の様子を憶えていることが、歴史・古代史に想像を働かせるためのジャンプ台になっていると思います。列島が改造される前に持っていた「匂い」は貴重な記憶ですね。 僕のみ関西で育っただけで、血統のほうは父母両家とも代々薩摩、まじりっけなしの純血種です(笑)。なぜか『はんや節』も唄って踊れるので、かたばみさんが言うところの『海人族』(爆)。 関西から南国、南島を行き来するとね。奈良・京都から宮古・石垣まで、言葉や習俗がみごとなグラディエーションを形成しているように見えます。その中に居ると、ぜんぜん連続していないように感じるでしょうが、続けて見ていると連なっているの。当然のことなんですが、面白いです。ロマンチックな思い込みよりも、人々の実生活の方がやはり活き活きしてるんですね。歴史妄想も負けずに練り込んで、練り込んで仕上げていきたいと思いまっせ。 |
[7168] Re[7165][7162]: オフ会 nick |
2006/03/09(Thu) 14:33 [Reply] |
さっき図書館の帰途、八幡様横にある(桜の写真)歴史資料館へ立ち寄ったら 何でも「隼人史談会」は旅行らしい。大宰府とか見学のご様子。 私は加入していないので仔細は判りませんが。。 私は最年少になるのでは。大半は70台、中には80台の方も。。 皆ご壮健で熊襲の山城などを探訪されます。
秦氏と徐福の接点が掴めたかとぬか喜びしたが。。 ちょっとデーター不足で、、確証がありません。 廃仏毀釈は痛手です。 |
[7165] Re[7162]: オフ会 神奈備 |
2006/03/07(Tue) 21:36 [Reply] |
> 休みと云えば「オフ会」ですが、関西方面の方々はどこかご予定でしょうか。
神奈備のオフ会は飲んで語り合うと言う不健康的な催しのみ。従って平日。 本当は神社巡りなどがよろしいのでしょうが、これは他の方の企画にのせて頂くのが楽。 いずれにしろ後の納会が目的。
某神社さん主催のダンノダイラ磐座と小夫天神社と磐舟山の笛吹大明神に参詣のツアーが3月18日の土曜日にあるそうなので、楽しみにしています。納会をどうするのかが問題。
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[7164] 科野国 r [Url]
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2006/03/07(Tue) 18:50 [Reply] |
◆ ◆ ◆ 中津川市 スレッド パート17 ◆ ◆ ◆ 155 名前: 信州人 投稿日: 2006/03/07(火) 18:36:47 ID:Z75tGwlY [ p6253-ipbffx02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp ]
おまえら美濃人は泥棒や、我々信州の固有の領土である山口村を中津川市に 併合した!おかげで、南木曽町も中津川市への編入合併を希望するようにな ってしまったし、王滝村も下呂市への編入合併を希望するようになってしま った。美濃人や飛騨人は隣の信州を溶かそうとしてるのか!?
>>>>>>>>>>>>>>> まちBBSに、こんな書きこみがあった。木曽の歴史を知らないようだ!!! >>>>>>>>>>> 平安時代後期の木曽地域は、半数が美濃国に含まれていました。公領や牧は無く、荘園として、大吉祖荘(信濃国:現在の木祖村、日義村、木曽福島町)、小木曽荘(美濃国:上松町、大桑村)、遠山荘(美濃国:南木曽町、山口村)があり、現在の上松町から南が美濃国であることが分かります。 >>>>>>>>>>>> http://www.city.suwa.nagano.jp/scm/dat/nandemo/gojuuon/13_su/~su_64.htm ちなみに、伊那から諏訪までは、昔、諏訪国というのがあったようです。
科野国も元は一枚岩ではなかったのですね。 |
[7163] やべ、朝日まで真に受けてる r [Url]
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2006/03/07(Tue) 18:31 [Reply] |
当時あったとみられる「穂国(ほのくに)」の大首長の墓とされるという。 >>>>>>>>>> 当時あったとみられる >>>>>> 穂国(ほのくに)」 >>>>>>>> 大首長???? >>>>>>>>> されるという。
>>>>>>>>>> 最近、多いな。古代史報道。
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[7162] オフ会 nick [Url]
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2006/03/07(Tue) 16:44 [Reply] |
暖かくなりました、神社境内の桜もちらほら早咲きが。 ま、大半が蕾ですが。 今日、やけに高校生が多いなと思ったらもう春休みですね。 休みと云えば「オフ会」ですが、関西方面の方々はどこかご予定でしょうか。 神社は全国各地にあるから、全国規模であちこち探訪できればいいですね。 |
[7161] Re[7160][7157][7156] > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 nick [Url]
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2006/03/07(Tue) 15:01 [Reply] |
とみたさん 串木野の冠岳の雰囲気ショットは、私の歴史探訪の 石仏photosの冠岳にあります。 ま、年内には冠岳ページ掲載しようと考えていますが。 先ず、修験道のルートを走破しないとと、、 のびのびになってます。笑。 また、冠岳と徐福については、鹿児島の第一人者三善さんの寄稿を掲載中です。 これは神話伝承にあります。 |
[7160] Re[7157][7156] > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 とみた |
2006/03/07(Tue) 10:25 [Reply] |
神奈備さん 明快なご教授ありがとうございます。
浅学につき、教えていただけると、また新しい謎に興味が膨らみます。
> > 牛頭天王ですね。ゴスと読むのはなぜでしょうか。 > > インドの祇園精舎の守護神ですね。仏教由来かヒンズー教でしょうか。
> > 牛は「ギュウ」と「ゴ」と音があります。頭は「トウ」と「ズ」の音です。前者が漢音、後者は呉音です。奈良末期の783年、「呉音を習うな、漢音に習熟せよ。」との命令が出ているそうで、これから見ますと、牛頭天王が伝わったのはそれ以前となりますね。
頭骨はトウコツ (漢音)頭突き ズツキ(呉音)ということですね。 百済人は呉音を使っていた。日本書紀は漢音、万葉仮名は呉音とか唱える人もおりますが・・・
> > 徐福の里、串木野なんて初耳です。 > > 冠岳で封禅の儀や熊野権現の降臨の地として、神話や古代史には重要な土地と思いますが・・・。 > 薩摩国日置郡(鹿児島県串木野市冠嶽)に冠嶽神社三座が鎮座、東「櫛御毛野命」中「予母津事解男命」西「速玉男命」を祭神としています。
封禅ですが、始皇帝の封禅、武帝の封禅、唐の太宗の封禅が有名ですね。
皇帝として磐石になると封禅をします。
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一した後、紀元前219年琅邪に至り斉人徐福に命じて海中の3神山を探求させる。 紀元前110年 前漢武帝が山東半島に至り泰山に封禅し、海中の神山を求めさせる。
山東半島の琅邪は紀元前473年、呉に勝った越の都にもなります。いずれにせよ山東半島の付け根あたりから民が朝鮮経由で倭の国に入ってきたのでしょうね。
冠岳の封禅という話からそんな連想をしました。 熊野権現降誕は全然思いつきません。
高千穂の嶺への降誕やそのルーツの金官加羅の金主露王の亀旨峰への降誕、ニギハヤヒ命の河内磐船神社への降臨ぐらいしか思い浮かびません。
初心者につきお手数をおかけします。
恋川亭さん、また何かありましたら私がごとき素人にヒントをください。
想像を逞しくして、謎を追いたい。
> |
[7159] Re[7158][7156]: >琉球の古代への興味 nick [Url]
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2006/03/07(Tue) 09:51 [Reply] |
お!恋川亭 も鹿児島在住がおありでしたか。 それは心強い。
とみたさん、「徐福」に関してはここのサイトが一番詳細ですよ。 ぜひお暇な時にどうぞ。 ご指示を仰ぎました。感謝しております。 しかし、あれから5年以上経つのに全然進展しない。。 恐縮しています。 |
[7158] Re[7156]: >琉球の古代への興味 恋川亭 |
2006/03/07(Tue) 00:23 [Reply] |
> 徐福の里、串木野なんて初耳です。
徐福関係で串木野が初耳とは?! ま、そんな所ですけどね。いまいち盛り上がりに欠けるのだろうなぁ。『奇しき野』の由来を尋ねても、『さぁ〜?うんだぁしたんどぉ〜』の返事ばかりでしたもの。 僕は幼少の頃を過ごしましたが・・・。そういえば、5日の日曜は串木野市外から少し離れた我がルーツの村では、『たろうたろう祭り』だったはず。「日本の神々」第1巻九州編にも記載されてますが、写真がー古いッ!昭和40年代頃の写真じゃないのかな?これ。 漁村の祭り、農村の祭りはそれぞれ各地にあるのですが、ここでは漁村(ハマ)と農村(ザイ)が揃って行なう祭りという特徴があるのだそうです。5歳の男子の「船持ち祝い」はなかなか豪勢なものです。僕は外に出た次男の息子だったので「お祓い」だけ、子供ながらにけっこう疎外感を感じたな。最近は少子化のため、呼び戻してでも祝うようになったとか。 もう35年ほど前?、NHKの「ふるさとの歌祭り」に爺さん達が揃いで出演して『たろうたろう祭り』を再現してました。アナウンサーの質問にマイクを向けられて一言『ないな(なんですか?)』、『えー、じゃっど(そうです)』・・・僕はTVの前で爆笑してました。 |
[7157] Re[7156] > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 神奈備 |
2006/03/06(Mon) 21:01 [Reply] |
> 牛頭天王ですね。ゴスと読むのはなぜでしょうか。 > インドの祇園精舎の守護神ですね。仏教由来かヒンズー教でしょうか。
牛は「ギュウ」と「ゴ」と音があります。頭は「トウ」と「ズ」の音です。前者が漢音、後者は呉音です。奈良末期の783年、「呉音を習うな、漢音に習熟せよ。」との命令が出ているそうで、これから見ますと、牛頭天王が伝わったのはそれ以前となりますね。 祇園精舎から祇園天神の分神をインドの王舎城出身の法道仙人が孝徳天皇大化元年(645)に日本に漂着し、吉備の海岸から播磨は広峰に法華山一乗寺を創建し、境内に祇園社を建立したとされています。
> 徐福の里、串木野なんて初耳です。
冠岳で封禅の儀や熊野権現の降臨の地として、神話や古代史には重要な土地と思いますが・・・。 薩摩国日置郡(鹿児島県串木野市冠嶽)に冠嶽神社三座が鎮座、東「櫛御毛野命」中「予母津事解男命」西「速玉男命」を祭神としています。
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[7156] Re[7154][7153][7152][7151][7150]: > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 とみた |
2006/03/06(Mon) 19:15 [Reply] |
nickさん、皆さん 時々現れます、とみたです。
ミスが多くって出した後に気が付いて赤恥です。 白村江の戦を壬申の乱と打ってしまったり、先日も百済へ行った紀角宿禰を応神の時代としたり、確か仁徳の時代の筈です (確かめていないので自信なし)。もっとも応神は実在しないとか仁徳と同じとか説はいろいろありますが・・・
お詫びします。
ドメイン通り、当地は鹿児島の隼人です。 > 昨年末、流行の「田舎の過疎化打開策:市町村合併」で > 新生「霧島市」となりました。
霧島市ですか、名前はいいけれど・・・ 昨年南九州の加世田を訪れたとき、町村合併して南薩摩市と名前が変わるとか云ってました。
字名として残るのでしょうか。
それにしても、民族はそのアイデンティティーを失ったら滅びるのではありませんか。
別に民族主義や国粋主義でないけれど、軽々に名前を変えることは疑問ですね。
郷里の穂積町が合併して瑞穂市になるんです。綺麗な縁起のよさそうな名前だけれど昔の名前の由緒を大切にして欲しいものです。少なくとも歴史的な視点も入れて名前をつけてほしいですね。
東海の中部空港をセントラル エアからセントレア?なんて怪しげな名前で町名改正する動きがあった。
マンションの名前とは違いますよね。これにノーを云えないのはやはり文化度の問題ではありませんでしょうか。
少し愚痴りたくなりました。
> > 当初は、「地域の活性化の一助に」とオープンした > サムネイル画像のささやかなサイトでした。 > それも大半が観光ガイドでした。 > 人間欲深なんでしょうか。段々物足りなくなって。。笑。 > 目下、徐々に最近流行の画面掲載でページを更新中です。 > > 歴史探訪の動機は「寺社探訪」辺りにあります。 > また、隼人、放生会 等に関しては「歴史探訪」に。 > > >西都原の古墳群のこと。百済王族の残党がが660年ごろ、 > >壬申の乱で敗れて百済から日向の南郷へ逃げて来たという話。
壬申の乱なんて嘘ですね。もちろん白村江の戦は。663年です。660年に負け663年に朝鮮で大負けした王族が、逃げてきたのでしょう。
> 南郷村と都井岬辺りは、年内の小旅行を予定していますが、 > 体調次第でしょうか。 > (昨年秋の予定でしたが、父の風邪で頓挫でした) > > >笠沙の近く野間岳のロウマ信仰と女+馬祖(マソ) > > 近くて遠い南薩摩です。 > 昨年初夏、開聞岳の麓の野生馬見物に出かけましたが > 6時出発帰宅は午後9時でした。 > 野間地方は、やはり宿泊が必要となるためなかなか足が向きません。 > 徐福の里「串木野」からもお誘いを受けているのですが > なかなかです。
徐福の里、串木野なんて初耳です。 紀の国など各地に徐福の到着伝説はあるようですが、串木野にもあるんですか。
野間岳までそんなに距離があるんですか、道教がそのあたりに福建省から入ってきたかなと想定しているんですが。
いずれにせよ隼人とか山幸・海幸に興味がありますので、地元の貴重な伝承を教えていただければありがたいです。 > > 薩摩半島の祭りや伝承に関してはここがいいですよ。 > > 半島文化 > 鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館 > > http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/index.htm |
[7154] Re[7153][7152][7151][7150]: > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 nick [Url]
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2006/03/06(Mon) 10:13 [Reply] |
ドメイン通り、当地は鹿児島の隼人です。 昨年末、流行の「田舎の過疎化打開策:市町村合併」で 新生「霧島市」となりました。
当初は、「地域の活性化の一助に」とオープンした サムネイル画像のささやかなサイトでした。 それも大半が観光ガイドでした。 人間欲深なんでしょうか。段々物足りなくなって。。笑。 目下、徐々に最近流行の画面掲載でページを更新中です。
歴史探訪の動機は「寺社探訪」辺りにあります。 また、隼人、放生会 等に関しては「歴史探訪」に。
>西都原の古墳群のこと。百済王族の残党がが660年ごろ、 >壬申の乱で敗れて百済から日向の南郷へ逃げて来たという話。
南郷村と都井岬辺りは、年内の小旅行を予定していますが、 体調次第でしょうか。 (昨年秋の予定でしたが、父の風邪で頓挫でした)
>笠沙の近く野間岳のロウマ信仰と女+馬祖(マソ)
近くて遠い南薩摩です。 昨年初夏、開聞岳の麓の野生馬見物に出かけましたが 6時出発帰宅は午後9時でした。 野間地方は、やはり宿泊が必要となるためなかなか足が向きません。 徐福の里「串木野」からもお誘いを受けているのですが なかなかです。
薩摩半島の祭りや伝承に関してはここがいいですよ。
半島文化 鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館
http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/index.htm |
[7153] Re[7152][7151][7150]: > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 とみた |
2006/03/06(Mon) 08:09 [Reply] |
nickさん どうもどうもです。
> > >スサノオの北方由来は騎馬民族由来との関心から見ております。和歌山大谷古墳か、>和歌山市井辺八幡山古墳の埴輪馬の鞍が騎馬民族と関係が無かろうかということも探>っています。 > > 古代から鎌倉時代、室町時代頃迄は当地日向・薩摩が名馬の産地だったと > 何かで読んだ記憶があります、、、 > また、島津の始祖忠久は、源頼朝のご落胤とか。。 > 現在、放牧場としては、開聞岳フラワーパークと都井岬があります。 > この春は都井岬へ父と出かけようかと。 > 都井岬のことはなんとなく承知しています。鵜戸神宮をさらに南へ。このあたりは嘗てハネムーンで訪れる場所だったですよ(古いなあ)。岬で放牧されている馬は日向の馬ですね。
推古でしたか?記憶が定かでないのですが日向の馬を愛でていますね。
開聞岳もその姿が美しい。一度指宿まで行きましたが、岳の雄姿を見損ないました。麓の池田湖には大鰻がいるそうですね。
nickさんは日向の方か薩摩の方ですね。
いろいろ尋ねたいことがあります。 隼人のことは青草掲示板ででやりましたが、薩摩隼人、大隅隼人、甑島隼人とあるそうですね、隼人の放生会も気になります。西都原の古墳群のこと。百済王族の残党がが660年ごろ、壬申の乱で敗れて百済から日向の南郷へ逃げて来たという話。笠沙の近く野間岳のロウマ信仰と女+馬祖(マソ)など興味があります。題名を変えて紹介いただければうれしいですね
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[7152] Re[7151][7150]: > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 nick [Url]
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2006/03/04(Sat) 12:18 [Reply] |
とみたさん、こんにちわ。今日はいいお天気です。
>スサノオの北方由来は騎馬民族由来との関心から見ております。和歌山大谷古墳か、>和歌山市井辺八幡山古墳の埴輪馬の鞍が騎馬民族と関係が無かろうかということも探>っています。
古代から鎌倉時代、室町時代頃迄は当地日向・薩摩が名馬の産地だったと 何かで読んだ記憶があります、、、 また、島津の始祖忠久は、源頼朝のご落胤とか。。 現在、放牧場としては、開聞岳フラワーパークと都井岬があります。 この春は都井岬へ父と出かけようかと。
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[7151] Re[7150]: > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 とみた |
2006/03/04(Sat) 11:29 [Reply] |
神奈備さま とみたです。
回答をお寄せいただきありがとうございます。いろいろ想像をめぐらせております。
> > 富田林市の竜泉寺という古寺があります。伝承によりますと、推古天皇二年(595)勅命によって、蘇我馬子が創建したとされています。後に牛頭山竜泉寺となりました。境内に咸古神社が鎮座、コムクとの発音といいます。半島のにおいかな。牛頭天王社であったとか。
牛頭山があるのですか。牛頭天王ですね。ゴスと読むのはなぜでしょうか。
インドの祇園精舎の守護神ですね。仏教由来かヒンズー教でしょうか。
インドの民はインド・アーリア語系のアーリア人で牛を大切にします。水牛でなくこぶ牛だそうです。牛の神格化。またシュメール人の牛の信仰とのつながりなど中東とのつながりも気になっています。
> > 大和の入鹿神社のお話は有名で、祭神は素盞嗚尊です > > 蘇我氏と牛頭天王、素盞嗚尊との関わりが気になりました。
祇園の八坂神社だけでなく、蘇我氏とのつながりが謎ですね。 > > > Aスサノオのことも気になっております。スサノオはニライカライのポリネシアから紀州に来たというのが、日本の神々の著者の松前健さんの考え方。 > > 松前健さんは「ポリネシア」とは言っていません。スサノオの持つマレビト神の性格が南方系の信仰文化につながると言っているのです。
マレビト、つまり来訪神ですね。 沖縄でニライカナイは来訪神ですね。
これは地の底という見方と、海の彼方とあるようです。海の彼方から豊穣をもたらす神が来訪する。
ミルク神(弥勒??異説もあるようです)とシャカ(釈迦)神。松前さんはスサノオはポリネシアの冥府王ミルに似ているとも書かれていたようですが > > > スサノオは高句麗や新羅との関係で北方由来を仄めかせておられるのが森浩一先生です。 > > 門脇禎二さんの『出雲の古代史』では、蘇我三代の間に出雲を制圧したの見ています。それゆえにか、須佐大宮の横を流れる川名が素鵝(ソガ)川であることを指摘されています。 > 卓見だと思います。また出雲大社の後戸の祠がやはり素鵞社であること、各地にある須賀社に素盞嗚尊が祀られているとこも蘇我氏と素盞嗚尊との結びつきを暗示しているようです。
蘇我氏の本願がどこにあるかも、迷っています。 お説の曽我川のあたりつまり橿原のあたりを本願とする説。
雄略が葛城襲津彦の孫の玉田宿禰の子である円大臣を滅ぼして、円大臣の占めていた南葛城の地を蘇我氏に譲りそこが蘇我氏の本願になったと云う説もあります。 > > > 素盞嗚尊の神格に三種類ほどが見えます。 > 1.出雲風土記の神 土地に須佐と名付けようとする穏やかな神 > 2.高天原の素尊 暴虐の限りをつくし、追放される。 > 3.出雲で八岐大蛇を退治、稲田姫を娶る。 > > 蘇我氏と素尊との関連が見いだされるのは、2.の暴虐でしょう。武烈天皇の暗殺、乙巳の変による惨殺、ちょっと無理筋かも知れませんが、機場に馬の逆剥ぎを投げ込んだこと、高天原からの追放に符号させることができそうです。 > > 素盞嗚尊の南方系の雰囲気は蘇我氏と親族であったかも知れない紀氏の影響かも知れませんね。
スサノオは蘇民将来とのつながりもあります。茅の輪の行事とどう関係しているのでしょう。
新羅のソシモリに降り立ったという話。ソシモリとは韓国語で牛の頭。 またスサノオは根の国、冥界の神の支配者。
アマテラスの弟、 斐伊川の大蛇退治は鉄との関係。 スサノオとオオナムチ、オオクニヌシなど出雲の神の信仰が各地に伝わっていたという見方と、鉄を通して勢力が全国に広がっていたという見方。 出雲の西と東。西の杵築=神門=振根と東の意宇の勢力争い。
オウナムチは西、荒神谷も西、東の意宇氏が大和朝廷の援助を受けて西を制圧したのでしょうか。6世紀後半には前方後円墳が多くなる。
スサノオの南方由来か北方由来かなど謎めいて楽しいですね。
出雲と紀伊熊野の関係がまた気になっております。どちらが原郷かです。
熊野神社、早(速)玉神社、須佐神社、加太(多)神社、伊達神社など出雲と紀伊では同じ名前の神社がありますね。
出雲は東の意宇に神社が多いようですが西にもありましょうか。
紀伊の方が大きく立派だそうですが大きいことは本源とは限りません。国家神道のために意図的に整備していますから、むしろオンボロで古そうなほうが本物に見えたりします。
ヤタカラス神社なんて明治以降、ほんとに立派に造り直されている。
紀氏は百済を懲らしめに紀の角が(応神)、新羅を懲らしめに紀の小弓が(雄略)、紀の朝臣が対韓交渉に(欽明)に出かけますね。
朝鮮とのつながりがなぜか強いですね
出雲と紀伊は本当に面白い謎だらけの舞台です。
スサノオはそれに深く関わって謎解きを楽しんでいます。
スサノオの北方由来は騎馬民族由来との関心から見ております。和歌山大谷古墳か、和歌山市井辺八幡山古墳の埴輪馬の鞍が騎馬民族と関係が無かろうかということも探っています。
鎧馬と云って高句麗壁画にあるのと同じのが出土しております。
怪しげな説、生煮えの説を提供して恐縮です。またご教授ください。
> > |
[7150] > 青草 [1810] 琉球の古代への興味 神奈備 |
2006/03/03(Fri) 20:37 [Reply] |
とみたさん、こんばんは。
富田林市の竜泉寺という古寺があります。伝承によりますと、推古天皇二年(595)勅命によって、蘇我馬子が創建したとされています。後に牛頭山竜泉寺となりました。境内に咸古神社が鎮座、コムクとの発音といいます。半島のにおいかな。牛頭天王社であったとか。
大和の入鹿神社のお話は有名で、祭神は素盞嗚尊です
蘇我氏と牛頭天王、素盞嗚尊との関わりが気になりました。
> Aスサノオのことも気になっております。スサノオはニライカライのポリネシアから紀州に来たというのが、日本の神々の著者の松前健さんの考え方。
松前健さんは「ポリネシア」とは言っていません。スサノオの持つマレビト神の性格が南方系の信仰文化につながると言っているのです。
> スサノオは高句麗や新羅との関係で北方由来を仄めかせておられるのが森浩一先生です。
門脇禎二さんの『出雲の古代史』では、蘇我三代の間に出雲を制圧したの見ています。それゆえにか、須佐大宮の横を流れる川名が素鵝(ソガ)川であることを指摘されています。 卓見だと思います。また出雲大社の後戸の祠がやはり素鵞社であること、各地にある須賀社に素盞嗚尊が祀られているとこも蘇我氏と素盞嗚尊との結びつきを暗示しているようです。
素盞嗚尊の神格に三種類ほどが見えます。 1.出雲風土記の神 土地に須佐と名付けようとする穏やかな神 2.高天原の素尊 暴虐の限りをつくし、追放される。 3.出雲で八岐大蛇を退治、稲田姫を娶る。
蘇我氏と素尊との関連が見いだされるのは、2.の暴虐でしょう。武烈天皇の暗殺、乙巳の変による惨殺、ちょっと無理筋かも知れませんが、機場に馬の逆剥ぎを投げ込んだこと、高天原からの追放に符号させることができそうです。
素盞嗚尊の南方系の雰囲気は蘇我氏と親族であったかも知れない紀氏の影響かも知れませんね。
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[7149] ひたすら過大評価の自慢が続く r [Url]
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2006/03/01(Wed) 01:21 [Reply] |
馬越長火塚古墳は「穂国の大首長墳」か >>>>>> 後期古墳の副葬品としては東海地方屈指の内容を誇る。 >>>>> 畿内の影響を離れた、 6世紀の首長墳だ >>>>> 岩原学芸員は「愛知県には2800基の古墳があり、豊橋市内にはそのうちの700基が集中している。特に北部に多いことから、豊川流域にかなりの勢力を誇った人がいたことが読み取れる。
>>>>>>>>>> 愛知県内で、第2の大都市とかと同じ手法ですね。25%が豊橋ですか???どういう計算法なんだ?
ハナから、穂の国実在のストーリーがあって、それに当てはめようとする作業でまったく客観的に評価できてないですね?? >>>>>>>>>> で、こちらも穂の国ですか? >>>>>>>>>> 本宮山のふもとから豊川(とよがわ)流域一帯に広がる両市町は穂の国と呼ばれ >>>>> 新豊川市は、旧一宮町を併合合併して人口13万8000人の新市として生まれ変わった。一宮町は、古くは砥鹿神社由来の「穂の国」の中心地と言われる一方、豊川市は国府が置かれ、ともに長い歴史と伝統文化がある。 >>>>> http://www.tonichi.net/search.php?keyword=%B0%EC%B5%DC >>>>>>>>
一宮町、豊川市、豊橋市。どれが穂の国の中心で、大首長だか国造はどこにいたのですか???
全部推測ですよね???唯一の史書が、偽書の旧事紀の穂国造の記述だけなんだから。
古墳時代後期って相当遅いですよ?大豪族でなくても古墳が全国的に造れた時代って言われているのに。
豊川用水のなかった時代にどうやって国力を持ったのですか?? |
[7149] ひたすら過大評価の自慢が続く r [Url]
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2006/03/01(Wed) 01:21 [Reply] |
馬越長火塚古墳は「穂国の大首長墳」か >>>>>> 後期古墳の副葬品としては東海地方屈指の内容を誇る。 >>>>> 畿内の影響を離れた、 6世紀の首長墳だ >>>>> 岩原学芸員は「愛知県には2800基の古墳があり、豊橋市内にはそのうちの700基が集中している。特に北部に多いことから、豊川流域にかなりの勢力を誇った人がいたことが読み取れる。
>>>>>>>>>> 愛知県内で、第2の大都市とかと同じ手法ですね。25%が豊橋ですか???どういう計算法なんだ?
ハナから、穂の国実在のストーリーがあって、それに当てはめようとする作業でまったく客観的に評価できてないですね?? >>>>>>>>>> で、こちらも穂の国ですか? >>>>>>>>>> 本宮山のふもとから豊川(とよがわ)流域一帯に広がる両市町は穂の国と呼ばれ >>>>> 新豊川市は、旧一宮町を併合合併して人口13万8000人の新市として生まれ変わった。一宮町は、古くは砥鹿神社由来の「穂の国」の中心地と言われる一方、豊川市は国府が置かれ、ともに長い歴史と伝統文化がある。 >>>>> http://www.tonichi.net/search.php?keyword=%B0%EC%B5%DC >>>>>>>>
一宮町、豊川市、豊橋市。どれが穂の国の中心で、大首長だか国造はどこにいたのですか???
全部推測ですよね???唯一の史書が、偽書の旧事紀の穂国造の記述だけなんだから。
古墳時代後期って相当遅いですよ?大豪族でなくても古墳が全国的に造れた時代って言われているのに。
豊川用水のなかった時代にどうやって国力を持ったのですか?? |
[7148] 穂国の国造 r [Url]
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2006/03/01(Wed) 00:57 [Reply] |
6世紀後期の穂国の国造(くにのみやっこ)のものと見られ、国指定へ格上げを目指し、さらに確認調査を続ける。
「穂国の大首長墳」ではないかと高い評価を得ており、 >>>>>>>>>>>>> いいかげんにして欲しいね。牛川原人捏造して、今度はあやしげな遺跡が穂の国ですか?
明らかに遺跡と穂の国を無理やり結び付けて、実在していたことにしようという意図ですね?そして、国指定遺跡にして補助金とかプライド満足ですか??
豊橋市の大半は、渥美郡(飽海)と八名郡なんですけど!!!!
石巻本町字紺屋谷は、八名郡だな。八名郡の木簡は8世紀以降にしかない。
相変わらず、律令政府の木簡は出土しないんだな。大化の改新で、国造は郡司に任命されたはずだけど?
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.48.7.318&el=137.26.13.626&la=1&fi=1&sc=5 |
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