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掲示板のログ(平成十九年 一月 2007.1)お名前の敬称は省略しています。

[8146] 遮光式土偶?  PONTA 2007/01/31(Wed) 23:28 [Reply]
> > 目が大きくギラギラ輝いてるのが特長
>  縄文時代の呪物で遮光式土偶と呼ばれるものがありますが、まさにこれに相当するのかも。

遮光器土偶のことでしょうか?
だとしたら、目は大きいけど、ギラギラ輝いてはいません。目は閉じてますよ(笑)。
閉じていないのだとしたら、「遮光器」をかけているんでしょうね。

[8145] Re[8144]:春日神社&皮留久佐  神奈備 2007/01/30(Tue) 09:36 [Reply]
> 皮留久佐  奈津久佐? 谷川健一「白鳥伝説」の出発点、大阪の日下(くさか)。
> 皮留久佐大社→春久佐大社→春日大社→春草大社→若草山山焼き→焼き畑農業、(^_^)

 面白い。思いつきませんでした。柔らか頭ですね。うらやましい。

 日下、春日、飛鳥、万葉仮名から一歩前進の漢字の使い方です。「○○か」となっているのが特長。

[8144] Re:[8131][8136][8143] 春日神社&皮留久佐  縄文まほろば展  東沢美史 2007/01/30(Tue) 02:27 [Reply]
神奈備さん

>2月11日から18日までの一週間(13日火曜日は休み)、あおもり縄文まほろば展が開催されます。600円。私は開会式のセレモニーの枯れ木の一人として潜り込む予定です。
>縄文土器は弥生土器に比べて迫力があり、一見の価値がありそうです。

大阪歴史博物館で開催される「あおもり縄文まほろば展」楽しそうです。
青森県八戸市、風張遺跡出土の縄文後期らしい合掌土偶!!とか。

>  奈良豆比古神社は春日大社のパワーの根元の神のようで、その奈良豆比古神社の根元の神が摂社としてひっそりたたずむ石瓶神社の石神のような気がしました。
>  草木と会話しながら生活をしていた縄文系と言うのか非農耕民たちが祈ったのが草木などの自然神で、彼らを最初に支配したのはひとつには土から食物を得るために国土開拓に汗を流した大国主神などの国津神達であり・・・・

皮留久佐  奈津久佐? 谷川健一「白鳥伝説」の出発点、大阪の日下(くさか)。

皮留久佐大社→春久佐大社→春日大社→春草大社→若草山山焼き→焼き畑農業、(^_^)

> > 目が大きくギラギラ輝いてるのが特長
>  縄文時代の呪物で遮光式土偶と呼ばれるものがありますが、まさにこれに相当するのかも。

遮光式土偶は隣町で出土したのに身近すぎて結び付きませんでした。

>  謎めいているアラハバキの神なんかも縄文神なのかも知れませんね。

宮城県の旧玉造郡岩出山の荒脛巾神社は城、舘のある町場からかなり離れた田んぼの中にあり、近くの神社で治らなかった病気を治すときに決意も新たに拝みにいく神社として今でも近郷の人々によく参拝されてます。脇には小さな丸い穴のある石がたくさんありました。
多賀城のほうはきれいな服着た観光客が多かったです。
こんなに注目されるとは意外でした。荒神、釜神の一種かなというくらいで。
奥州の『後戸の神、後堂の神』ということでしょう、きっと。

>私は分類された神々の特長として、国津神は働く神、天津神はそれに乗っかっている神、要は天津神は働かない神と思っています。
>  天津罪ですが、現在では社会や経済に対する罪、ホリエモン、村上ファンドなど。
>  国津罪 ひき逃げ、イジメ、ペコチャン、バラバラ殺人など。

席亭さんが普段、どのように社会を見ておられるのか、すこしわかったような気がします。



[8143] 縄文まほろば展  神奈備 2007/01/29(Mon) 11:27 [Reply]
昨年の11月に難波宮跡から楼閣風の建物跡が発掘されています。回廊を巡らして大規模な門もあることからの推定のようです。

柱穴は直径50cmです。穴があってそれが柱穴だと判るのは、柱を立てるために穴の周辺に別の大きい穴があり、また穴に柱を斜めに入れて立てるのですが、柱が立った跡で、周辺を掘った跡を土で固めているのが検出されるからです。

柱穴が幾つかの時代に重なっていてもそれらの状況から年代順が判るようですね。

前期難波宮は孝徳天皇の宮で、楼閣の上から生駒山に映える夕陽、河内湖に写る満月、難波津を出入りする船の松明など、雄大な景色を見ながらの宴会だったのでしょう。

難波宮跡の倉庫群の上に大阪歴史博物館が出来ています。

2月11日から18日までの一週間(13日火曜日は休み)、あおもり縄文まほろば展が開催されます。600円。私は開会式のセレモニーの枯れ木の一人として潜り込む予定です。

縄文土器は弥生土器に比べて迫力があり、一見の価値がありそうです。


[8142] Re[8140]『8132』オシラサマに  PONTA 2007/01/28(Sun) 03:48 [Reply]
> 信仰心が薄くなに考えてるかわからないと明治生まれの世代からかつて認識されてた戦後生まれの私らの世代でも、オシラサマを見るなどとんでもない話しで、見たら目が潰れて見えなくなってしまうとついおもってしまいます(もちろん科学的見地からは有り得ません)。

信仰心ですか・・・私達が知りたいのは古代史、古代の謎の答えであって、“生きてる古墳”と呼ばれる神社を利用しているんです。神社考古学というそうなんですが・・・もちろん、調査の前には「今から境内を調べさせてください」と拝んで(お願いして)いますが、「この神社の祭神は案内板には「大物主命」と書いてあるけど、そうじゃない、「ニギハヤヒ命」だ。美和氏の土地だったんだ!」と明らかにすることをその神社の祭神が本当に望んでいるか疑問になることがあります。「別に私が誰でもいいでしょ。名前なんて関係ない。私を信仰してくれれば、望みを叶えてあげますよ」と言われている気がいつもします。祭神名も神徳も知らない神社に初詣に行って「今年こそはいい年に」と一生懸命拝んでいる友達を見て「祭神名も神徳も知らないくせによく願えるものだ。今隣にいる全く知らない参拝者に「お金下さい」と頼んでいるのうなものだ」と思ってましたが、考えてみると私よりも信仰心、神様にすがろうとする気持ちはずっと強いわけで、祭神名と神徳を言えたって・・・と思います。『ロミオとジュリエット』では「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香る」と言うから、名前なんて・・・。(この台詞のネタは「初めより薔薇はその名とともにあり、されど残るはその名のみ」なんですけどね。)

*「祭神」「神徳」と言うと先輩に怒られます。「ご祭神」「ご神徳」ですね。信仰心が厚い人は自然と「ご」が付くと思います。神社を神社考古学という学問の対象と考えている私はよく忘れます。

*PONTAで「スサノオ」「アマテラス」と呼び捨てにしているのは、シュリーマンではないですが、実在の人物(アマテラス=卑弥呼)と考えて、どう生きたかを調査・研究しているからです。「菅原道真」「徳川家康」と歴史の教科書に敬称無しで記載されているのと同じです。天神様、権現様というのは亡くなって神様になられてからの名前ですからね。亡くなって神様になられてからを論じる時は「命」とか「尊」を付けますけどね。

[8141] 高之御前神社  PONTA 2007/01/28(Sun) 03:10 [Reply]
「アラハバキ神」、書き直しました。
石座神社のことを書きながら気づいたのですが、社頭の掲示板に

須波南宮社 鍵南方刀自命 従四位下
児御前社 石鞍若御子天神 従五位上

と書かれているのですが・・・『三河国内神明帳』に「従四位下 須波南宮明神」「従五位上 石按若御子天神」があって、この2社のことかなと思っていたのですが、この2行を見比べると、石鞍若御子天神って社名というより祭神名ですよね。で、ぴ〜んと来たのが、「児御前社」!!!

三河の郷土史研究家の間で「謎」と言われるものがたくさんあるんですが、その謎の1つが「高之御前神社の祭神の謎」です。三河には高之御前神社という神社が複数あるのですが、その祭神は誰だか分からないのです。有名な郷土史家の方が「足利氏の中で「高」がつく人物」という仮説を立てて、それが広まってるのですが、最近、その方が「力寿姫かな。国府(こう)に住んでいたから」と新聞に載せました。なるほどと思ったのですが、もしかしたら、高之御前神社=児御前社で、祭神は石鞍若御子命じゃあないでしょうか? だとしたら大発見です! と言っても、三河レベルの話ですけどね。「こう(の)」=「こ」とするのはきついかな。

ところで、石鞍若御子命ってどなたでしょう? 石鞍=石座神社、若=御子=石座神社の祭神の御子でしょうか? 石座神社の祭神は天御中主命ですが、その御子って・・・???

京都の石座神社でしたら、山住神社ですから、祭神は大山祇神で、御子(児御前)は木花開耶姫かなと思ったら、本殿が2つあって、「右本殿=天照大神以下8柱を祀り、八所明神といわれる」「左本殿=天御中主神以下12柱を祀り、十二所明神といわれる」とさらに複雑・・・。どちらの神社もご神体は巨岩(磐座)なんですけどね。

[8140] Re『8132』オシラサマに  東沢美史 2007/01/27(Sat) 23:30 [Reply]
> オシンメイサマというと、福島でしょうか? 

オシンメイサマは茨城県、福島県、宮城県に何体かあるとおもいます。
オシラサマは陸奥国の頭領の女が朝廷軍を迎え撃つときの守り神としてたのではとされてます。こちらの発音で「すらぎ」と発音する朴(ほう)の白木(しらき)製の山神さま、あるときは男女の御神体にもなる「木杓子」が特産品で有名であることから、この言葉も残ったのではと考えています。桑であることが多いというのは民俗学調査の大成果ではありますが、地域や行事や職種によって違い私の所は竹も多いそうです。
見るつもりはなかったのですが知らずに入った博物館の「オシラサマ展」では気が動揺し視線が泳いだようになってしまい今は見たこと後悔してます。ただし神社や民家でちゃんと保管してる本物は見たことがありません。

信仰心が薄くなに考えてるかわからないと明治生まれの世代からかつて認識されてた戦後生まれの私らの世代でも、オシラサマを見るなどとんでもない話しで、見たら目が潰れて見えなくなってしまうとついおもってしまいます(もちろん科学的見地からは有り得ません)。それいぜんに御神体を見るためには櫃や行李のフタを開けて何重にも包まった衣装をハガしていくわけだろうけど、数年前に民俗学の調査でやむなく見てしまった氏子総代の人から調査が終って脱がしたのと逆に包み直し、ていねいに閉まったとことをヒソヒソ話しで語ってくれたのを聞いたことがあります。その後その方が仕事中、大怪我をされ長治療になってしまいました。21世紀に祟りなど有り得ませんが、ご近所の方なのでいつもそのことが気の毒だし実際のところやっぱり気になってしまいます。

私の地域ではそういうもので、それを岩手県の学芸員さんや教育委員会の方々ががわざわざ来られて展示会用に求められたからと農家や漁師の家のみなさんはそれぞれお払いしたり拝んだりして博物館へと供出されたようですが、それはもうその時点で信仰心が薄れた、消えた証しと言えます。ただ時代的には仕方ないものなのかもしれません。貧しい農村の観光客を呼ぶための村おこし事業の側面もありますし。
しかし宮城や福島ではあまりオシラサマに類する御神体の展示会は開催されてません。佐々木喜善のような有名で有能な語り部が出なかったことが逆に幸いしたみたいです。

オシラサマは赤ちゃんや子供を貧しさや様々の事情から生まれてすぐ命を奪わなくてはならなかった、口減らししなくてはならなかった母親たちに、おそらく生まれ変わりを約束させる替わりに守れよ拝めよと口寄せ巫女らから預けられた御神体なのだと明治生まれの人々のはなしから私は推測しています。産婦人科など医学の恩恵の無かった時代のことです。
ここでは度の過ぎる想像は慎まなければなりませんし、また公刊されたものを盲信するわけではありませんが、昭和30年代に編纂された「宮城縣史・民俗編」で確か藤原勉氏が実父・藤原相之助の調査から「新羅」説を記していますので「お雛様・おひなさま」の原形とも言われるオシラサマは新羅の王様と王妃との見解は許される、あってもいいのだなとおもってます。てっきり白木のこととおもってた「すらぎ」という発音。
北朝鮮や韓国の女性が普段の長話の中で盛り上がって夢中になってくると感嘆の言葉のメロディーのような発音で話中の人物を可哀想におもいやることがありますが、そのときの発音が花巻や遠野の年配の女性達が同じ様な場面で万感を込めるとき発するセリフの発音に酷似してるので、まんざらデタラメな説でもないなあと捉えています。

蚕の説話以外にも、まだ幼い少年との恋愛に怒った少女の父親が我娘を殺して山に埋めたら黒駒に乗った少年が川を渡って山の上のほうに消えて行ったという「向いヶ丘」というようなオシラサマに結び付きそうな民話もまだまだあります。引き続きご関心を持ち続けていただきたいです。

[8139] Re[8138]: 両面宿禰  恋川亭 2007/01/27(Sat) 23:05 [Reply]
> 和歌山県の大日山35号古墳から両面宿禰のような埴輪が出土しました。
> バラバラだったのをそれぞれつないでいた人がたまたま顔の裏を合わせて見るとドンピシャリだったそうです。

これ↑、去年でしたかTVのニュースで見たとき、「あ、両面宿禰そのものやん!」と思わず声に出しました。そのニュースの解説でも、次の日の新聞(だったかな?)でも「両面宿禰」という言葉が出てなくて不満でした。ちょっと齧ったことのある人ならば、誰でもそう思うだろうに、メディアではうかつに発言できないのでしょうね。もっと騒いで楽しもうヨという気持ちです。
それで、この埴輪。たしか、後ろ向きの顔と正面向きの顔の表情が異なっていましたね。この「顔の表情が異なる」ところに「両面宿禰」の鍵がと香具が嗅ぎつけたのですが。守る者達へ向ける慰撫の顔、攻めてくる者達へ向ける威嚇の顔、両面宿禰伝説に悲劇のヒーローを思い浮かべています。

[8138] 両面宿禰  神奈備 2007/01/27(Sat) 20:05 [Reply]
和歌山県の大日山35号古墳から両面宿禰のような埴輪が出土しました。
バラバラだったのをそれぞれつないでいた人がたまたま顔の裏を合わせて見るとドンピシャリだったそうです。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is61202a.htm

橘寺には180度ではなく90度の顔の像があります。二面石とよばれています。
http://kamnavi.jp/as/asuka/tatibana.htm

吉備姫の墓の猿石にも両面に顔のあるものがあるとか。この前に行った時には片面しか見えなかった。
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAISI/saruisi.html

[8137] アラハバキ神  PONTA 2007/01/27(Sat) 06:09 [Reply]
遠江・三河国のアラハバキ神についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「アラハバキ神」からお入り下さい。

[8136] 皮留久佐  神奈備 2007/01/26(Fri) 20:48 [Reply]
 難波の宮跡から万葉仮名らしい木簡が出土したのは、昨年の10月でした。
 解読すると、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯・・」とあり、春草の初めの年と読まれているようです。年代は640年頃とされ、大化の改新の5年前頃です。孝徳天皇が難波に宮を置いたころと見ていいのでしょう。

 万葉集は奈良時代の759年以降の編集ですから、木簡の時代から約100年の時の経過があります。この頃の我が国は、東大寺大仏の建立等急ピッチで進歩していた時代なのでしょう。

 実は『万葉集』には、春草はありますが、これを皮留久佐と書いたものはないと思います。

春草の出ている万葉歌

239  やすみしし 我が大王(おほきみ) 高光る 我が日の皇子の・・・真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大王かも
239 万葉仮名  春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞

988  春草は後は散り易し巌なす常盤にいませ貴き吾君(あきみ)
988 春草者 後<波>落易 巌成 常磐尓座 貴吾君

1708 春草を馬咋山(うまくひやま)よ越え来(く)なる雁が使は宿(やどり)過ぐなり
1708 春草 馬咋山自 越来奈流 鴈使者 宿過奈利

1920 春草の繁き吾(あ)が恋大海の辺による波の千重に積もりぬ
1920 春草之 繁吾戀 大海 方徃浪之 千重積

はるくさは皮留久から春草へと脱万葉仮名を果たしています。万葉仮名と言う呼び方がそのそもおかしいのでしょう。


『日本書紀』巻十九欽明天皇十四年(五五三)八月丁西《七》
八月辛卯朔丁酉。百濟遺上部奈率科野新羅。下部固徳■休帶山等上表曰。去年臣等同議、遣内臣徳率次酒。任那大夫等。奏海表諸彌移居之事。伏待恩詔如春草之仰甘雨也。

訳 恩詔を待つことは春草の甘雨を仰ぐようであります。

本書紀の春草です。これは漢文調だからそうでしょうが。


古事記では皮留はなく、「其身皮悉風見吹析」我が身悉に傷はえつ。「は」。
内剥鵝皮剥  ここでは皮は「かわ」です。

[8135] Re[8134]: 無題  PONTA 2007/01/24(Wed) 17:20 [Reply]
折口信夫が言いたいのは、スサノオがやったことを天津罪としたのではなく、天津罪(雨障)というのが先にあって、その具体的な項目をスサノオが高天原でやったことを参考に考えたということでしょうね。

[8134] 無題  PONTA 2007/01/24(Wed) 17:12 [Reply]
>でも少し解らないこともあります。「新嘗祭の本義」の中で折口信夫は「天津罪」はスサノヲの冒した罪というようなことを確か・・・┌(・。・)┘?・・・述べていました。かなり大暴れして悪ふざけしたそうですがスサノヲは国津神っぽい性格を持ってる神様なのにナゼ?なにゆえに「天津罪」になるのだろう?。

記紀は「スサノオは高天原にいた時は天津神で、高天原を追放されて国津神の祖になった」と読めばいいのでしょうか? 高天原にいた時に犯した罪は天津罪でいいのではないでしょか?

たしかに、天津罪は、畔放、溝埋、樋放・・・とスサノオが高天原でやったことばかりですね。折口信夫は、天津罪は元は「雨障(あまつつみ)」で、梅雨の時期に農民が忌み蘢ることを指していたが、それが「天つ罪」とされて日本神話でスサノオが犯した行為と解釈され、それに対応するものとして国つ罪が作られたという説を唱えています。

[8133] Re[8130]:[8123] 国津神と天津神の別れる理由  PONTA 2007/01/24(Wed) 16:59 [Reply]
>サルタヒコは国津神なのに敵対するかもしれない天孫族を道案内してるのもよく考えるとわからない。

天孫降臨は国譲りの後の話ですから、国譲り後は「俺は国津神だ。反天孫族だ」と言うよりも勝者である天孫族に少しでも早く、できれば降臨の前の、降臨の途中から取り入った方がお得かと。伊勢の猿田彦の子孫が天皇家に取り入って、目の上のたんこぶの伊勢津彦を追い出して、神宮を伊勢に建てたことの暗示かな。

[8132] Re[8130]:[8123] 国津神と天津神の別れる理由  PONTA 2007/01/24(Wed) 16:41 [Reply]
> PONTAさん 
> 民間信仰に区分される「オシンメイサマ」の敷地に住んでるものです。ご紹介されてるサイトは何度か見させていただいております。

サイトを見て下さってるそうでありがとうございます。ただ、私達は三遠南信の東三河・西遠の研究しかしていませんので、他地域のことは分かりません。(東三河・西遠ですらよく分かっていません。)

オシンメイサマというと、福島でしょうか? 東三河・西遠でオシンメイサマと言うと、お神明様=神明宮の意味になります。で、あえてオシラサマと呼ばせていただきますが、オシラサマは菊池展明『エミシの国の女神』(風淋堂)によれば、「伊勢神宮・神明宮の祭神である天照大神の荒魂とされた瀬織津姫が伊勢から矢作川沿いに岡崎市に移り天白神社の祭神となり、その天白神と三河の養蚕技術がセットで東北に伝えられてオシラサマになった」ということですから、三河と東北はちょっと関係あるかもしれませんね。湖西古窯や渥美古窯の製品が東東北(東北の東半分。太平洋側)で使われていた時代もありますから、物の交流だけでなく、神々の交流もあったのかもしれません。

PONTAのサイトの特徴は「起源」「語源」といった単語がたくさん出てくることです。オシラサマについては、民俗学者が名称の分布だとか神徳の分布だとかをフィールドワークで作成していて、PONTAが「オシラサマは養蚕神である」と言うと「それだけじゃない。もっと広い。農業神だ」と反論されるわけです。私達が言いたいのは、農業神というのは現状であって、根源では無いってことです。(全国にはサッカーの神様とか交通安全の神様とか飛行機の神様が祀られていますが、その神社ができた時にはサッカーも自動車も飛行機もなかったわけです。蹴鞠の神様だからサッカーの神様にもなったわけで、PONTAが「この神社の祭神は蹴鞠の神だ」と言うと「サッカーの神でもあるから、もっと広く、足で物体を蹴る神である」と反論するようなものです。)PONTAでは、オシラサマは桑の木で作った蚕であり、養蚕神で、着物のことを天白羽神にちなんで白羽といいますが、「お白羽さま」→「オシラサマ」かなと。(もっと単純に「お白様」→「オシラサマ」かも。)で、ご神徳が拡大解釈されて農業神になったのかなと。こう結論付けるためには、「東北に養蚕を伝えたのは誰がいつ」「オシラサマを最初に祀ったのはいつで、その目的は?」という過去の研究が必要だと思います。そこまでは東三河・西遠の研究で手一杯なので出来ません。
柳田国男『遠野物語』には、娘が馬と結婚して、それを親が怒って馬を殺して桑の木に吊るし、その桑の木で作ったのが最初のオシラサマとあり、男女一対で、男は馬の頭だというのですが、昔の女性って、馬と結婚してもいいと思っていたのでしょうか? ちょっと考えられませんね。考えられないとなると、どここから輸入された話だってことになって、オシラサマの原型はミノタウロスの話で、日本に牛がいなかったから馬の話になった。スサノオが織殿に投げ入れたのも馬ではなく、原型では牛だった。青草・・・・。

神々の分類は、細かくやればきりが無いので、PONTAでは、造化三神(キリスト教等の宗教でいうところの神)、天津神(天照大神=卑弥呼とその周辺)、国津神(スサノオとその周辺)、民俗神の4つとしていて、天津神と国津神の区別がつきにくくなったのは、天津神と国津神(卑弥呼とスサノオ)が結婚したからで、その結婚後の神々はどちらともいえるとしています。国譲り後は国津神は天津神の傘下に入るのですから、国津神だけど、天津神グループの1員(実際には子会社で働いている社員だけど、形式的には親会社の1員)でもあると言えるってことかな。

[8131] Re[8130]:[8123] 国津神と天津神の別れる理由  神奈備 2007/01/24(Wed) 11:55 [Reply]
東沢美史さん、鋭い着眼のお話、ありがとうございます。


> 目が大きくギラギラ輝いてるのが特長

 縄文時代の呪物で遮光式土偶と呼ばれるものがありますが、まさにこれに相当するのかも。他にも豊穣を祈るとされています裸の妊婦らしい土偶などもあり、天鈿女命の姿を彷彿とさせます。


> 珍彦はサルタヒコの性格の反映なのではと短絡的に考えました。

 猿田彦も案内の神で、陸だけではなく海も守備範囲ですから、珍彦もおっしゃる通りですね。ウズメ、ウズヒコ、面白い対比です。もう少し考えて見たいもの。


> 村の入り口で敵や病気を入れないよう立派な劔を持ち、デンと佇む「おかしまさま」みたいな民俗神なんかが「国津神」で、エバッてるわりには先神の存在をビクビクと絶えず気にかけてるようなのが「天津神」かなと私の場合、大ザッパに分けています。

 これは面白い表現です。言いえて妙ですね。
 私は分類された神々の特長として、国津神は働く神、天津神はそれに乗っかっている神、要は天津神は働かない神と思っています。
 本当に祈る人々の声を聞いてくれる神は後戸の神、後堂の神で、それは国津神やもっと古い神のように思います。
 奈良豆比古神社は春日大社のパワーの根元の神のようで、その奈良豆比古神社の根元の神が摂社としてひっそりたたずむ石瓶神社の石神のような気がしました。国津神なのかより古い神なのか、全く無関係な神なのか、実際の所よく判りませんが。 

 『日本書紀』巻二
 葦原中國者、磐根木株草葉、猶能言語。夜者若[火票]火而喧響之。晝者如五月蝿而沸騰之

 草木と会話しながら生活をしていた縄文系と言うのか非農耕民たちが祈ったのが草木などの自然神で、彼らを最初に支配したのはひとつには土から食物を得るために国土開拓に汗を流した大国主神などの国津神達であり、さらに原始神と国津神をまとめてその国土は元々我々が支配すると天降った天津神達がいると言う図式が思い浮かびます。

 東国には天津神、国津神以外の原始の神々が生き生きとしている地域だったのでしょう。名もなき神々ですから、有名な「おかしまさま」などと呼ばれたのでしょうね。
 謎めいているアラハバキの神なんかも縄文神なのかも知れませんね。

 天津罪ですが、現在では社会や経済に対する罪、ホリエモン、村上ファンドなど。
 国津罪 ひき逃げ、イジメ、ペコチャン、バラバラ殺人など。

[8130] Re:[8123] 国津神と天津神の別れる理由  東沢美史 2007/01/24(Wed) 00:12 [Reply]
国津神と天津神とを正確に分けるということは、神々の性格に多義性があるものも多いのでなかなか難しいというところでしょうか。

吉本隆明は近親婚や見た目の悪い身体の子を産むことを罪とする「国つ罪」と田畑を荒らす罪などの「天つ罪」とに言及し、そこに仏教や儒教に出会った太古の日本人の世界観や思想の変化を読み取ろうと何度か挑戦しておりました。
しかしそのことは古い神様を分ける場合にも大いに参考になるはずで、田畑を耕す農耕民族の移動とともにやってきた神様を「天津神」系とし、農耕の影のあまりない縄文期からいる神様を「国津神」系と分けて(たまにはインテリっぽく)考えることもできるとおもいます。

でも少し解らないこともあります。「新嘗祭の本義」の中で折口信夫は「天津罪」はスサノヲの冒した罪というようなことを確か・・・┌(・。・)┘?・・・述べていました。かなり大暴れして悪ふざけしたそうですがスサノヲは国津神っぽい性格を持ってる神様なのにナゼ?なにゆえに「天津罪」になるのだろう?。そもそも高天原から来た「天津神」というのが定説だから矛盾がない、ゆえに、あまり難しく深刻に考えないほうがいいのだろうか。
サルタヒコは国津神なのに敵対するかもしれない天孫族を道案内してるのもよく考えるとわからない。宮城の民俗学者は昔「おかしまさま」の女を標準語っぽく「ウズメ」と呼んでた。「アメノ」は付けなかった。私の住む宮城の旧栗原郡では「アメノウズメ」の場合は「天鈿女命」と「螺鈿細工(らでんざいく)」の「螺鈿」の素材でもあるところの、つまり貝殻の内側がキラキラ光る「鮑、アワビ」の貝殻を意味する漢字を当てています。民俗神「釜神、かまがみさま」の輝く大きな目にも使用されてる貝殻でもあります。目が大きくギラギラ輝いてるのが特長の時代や民族といえば・・・。
氏族はわかりませんが珍彦はサルタヒコの性格の反映なのではと短絡的に考えました。

さらに天津神=天神はいいとして、その天神は菅原天神、天満宮などと同じ意味なのか。もし同じだとして、よく一般に天神=雷神とされてるようですが、それは関西や関西から分霊した神社の場合(亀戸天神など)はそれでいいかもしれないけど、関東から東北にかけての雷神(織れんつぁま・織れ様※)や雷神社・雷神神社の本来の御祭神はどうも全く違う性格の自然神で、それこそもしや国津神系ではないのか?と疑ったりしてしまいます。

まあ普段は難しいことは抜きで、いつも堂々としていてその地域で一番偉い神様、東国だと村の入り口で敵や病気を入れないよう立派な劔を持ち、デンと佇む「おかしまさま」みたいな民俗神なんかが「国津神」で、エバッてるわりには先神の存在をビクビクと絶えず気にかけてるようなのが「天津神」かなと私の場合、大ザッパに分けています。藁人形で作られる東北の「おかしまさま」は性格的にはスサノヲやサルタヒコに似てる。

柳田の「イタコ」の解説ありがとうございました。東北では他に舟底の下を地獄「イ−タコ」といいますし、仙台藩の武家では「イ=胆沢・伊達の胆・伊=雷神=三光(さんこ)」と子供に教えたのではとおもっています。方言「タコ=猫」です。「さんこ」は船霊、死んだとき必ず食べる「しょう油汁」、まだら三毛猫の意味。
『令義解』など書物ではなく、神奈備さんご自身はふだんどんな理由でもって「国津神」と「天津神」とを識別されてるのだろうか。

PONTAさん 
民間信仰に区分される「オシンメイサマ」の敷地に住んでるものです。ご紹介されてるサイトは何度か見させていただいております。
庶民の深刻な悩み、就職とか難病やキツネ憑きなど精神病を完全に治す、死なせてしまった赤ちゃんや軍人を生き返らせるとかの依頼を神社庁の神職さんはなかなか受けないとおもいます。しかし、民間の祈祷師であるカミサマや巫女は願いを必ずかなえてあげました。低級と見られておりました、かつて。もちろん科学的には有り得ないことですで。サイトの引き続きのご健闘を祈ります。

※「雷神」。東北の発音は「おれんつぁま、おれさま」当て漢字は東沢

[8128] 百余国  神奈備 2007/01/21(Sun) 17:20 [Reply]
 『漢書地理誌』に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなし・・」の記事があります。
 昨日「考古学から見た百余国の都」渡邊昌宏)と言う講演会があり、この頃の国とは後の郡のサイズ程度であり、都は環濠集落だろうとの見方をしていました。

 壱岐の原(はる)の辻遺跡はほぼ百余国の都だと確定できるものだとか。後は吉野ヶ里や三雲、近畿では池上曽根遺跡や唐古鍵遺跡などが有力な都の候補だとか。
 その中で、近々に発表される新遺跡の話がでていました。大阪の松原市の池内遺跡で、弥生初期(前5〜6世紀)の環濠集落や水田跡が出ているようです。

 関東以西では縄文時代から弥生早期(前10世紀)には環濠遺跡がないようで、平和な時代だったようです。

 九州では環濠集落は北九州に多く、宮崎、鹿児島には殆どないようです。近畿では大阪、奈良、和歌山の海岸部に多いようです。全国で500箇所。

 九州は吉野ヶ里に見るように首長霊・祖霊を中心に集落が組み立てられ、近畿では倉庫のような建物を中心にしているようです。倉庫のような建物で祭祀がなされていた可能性もあるようです。

 2月4日には池上曽根遺跡の近くの博物館で「南九州の弥生文化」についての講演があるそうです。東和幸さん、鹿児島県歴史資料センター黎明館の方などが講師です。

[8127] ようやく出来ました。  PONTA 2007/01/20(Sat) 20:51 [Reply]
『遠江國濱名郡輸租帳』についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「遠江輸祖帳」からお入り下さい。
↓の書きかけ
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yuso.htm
は消しました。

[8126] 天津神か国津神それとも  SUGADA [Url] 2007/01/20(Sat) 17:01 [Reply]
真の神は
年にいちどの書き込みに来ましたSUGADAです。
私の研究物、発掘、出土品、天津神か国津神それとも
少しまとまりつつありますので見に来てください。

[8125] Re[8124][8123]: 天津神と国津神  神奈備 2007/01/20(Sat) 09:18 [Reply]
>  『日本の神々4大和』から。
>  多神社の祭神は珍子と天祖だそうです。
やはり八井は水のこと
『日本の神々4』からの引用は上記の部分です。

珍子はウツノミコと訓。


[8124] Re[8123]: 天津神と国津神  神奈備 2007/01/19(Fri) 21:03 [Reply]
 笠水の笠とは笠縫の笠とすれば、日神を祀る笠の意味があり、日と水とがここでつながると言えるのかも。

 香具山の赤土は倭の物実でこれで水とか酒を入れる甕を作り天神を祀ったり、朝日を祀ったりしたのです。物実はモノシロと訓。シロは知るの意で統治の意があります。珍彦が取りに行った所に意味があるのかも。

 『日本の神々4大和』から。
 多神社の祭神は珍子と天祖だそうです。珍子はチンコではありません。珍彦のことです。従って神知津彦の名がついて多坐弥志理津比古神社と言うのです。それが神八井耳命とされたのは、やはり八井は水のことで、甕につながっていると言うことのようです。

[8123] 天津神と国津神  神奈備 2007/01/19(Fri) 13:50 [Reply]
 天津神の定義は『令義解』によれば、高天原に出現した原初の神々の系譜に属する神です。
 一方、高天原を追放された素盞嗚尊の系統の神は国津神です。他に素盞嗚尊の系統でない猿田彦や高い山低い山の重なる地上の山中や雲や霧のなかに鎮まる神々を国津神と言います。

 具体例としては天神は伊勢・山城鴨・住吉・出雲国造斎神(熊野大社)、地祇は大神(三輪)・大倭(倭大国魂)・葛木鴨・出雲大汝神。

 さて、丹後の籠神社の国宝の『海部氏の系図』によれば、海部氏の始祖は火明命で、天津神です。その子が天香語山命、さらにその子が天村雲命と順次天津神の系統が続きます。

 次の子の名前が倭宿禰命となっています。別名を珍彦、宇豆彦、神知津彦といい、椎根津彦の名をもらったりします。さて、天津神の子であるこの人はやはり天津神なのでしょうか?

 物部の遠祖の饒速日尊は天津神です。これは神武さんの言葉にも「天神の子は多くいる。」と言って饒速日尊を天神と認めています。その子孫の神々も天津神です。
 
 さて、『記紀』では共にこの珍彦の登場のシーンで、珍彦は「自分は国神である。」と名乗っているのです。何故に国津神なのでしょうか?

 別に追放されたと言った話は残っていません。何代か過ぎると国津神になると言うことでしょうか。そうでもなさそうです。天神の中の天孫は現在まで天孫としてつながっているのですから。

 そうすると国津神と名乗った珍彦は天神の系統ではなかった。天村雲命の子ではなかったのではないかということが考えられます。

 珍彦は国津神の子であったのです。誰の子だったのでしょうか。母親は伊加利姫(井光姫)となっており、これは国津神です。井光姫が吉野連の祖で、唯一女性の祖神の氏族です。母系制で考えますと、母親は国津神ですから、珍彦が国津神とされた可能性はあります。
 天村雲命の子であっても、懐妊後母神が吉野に行き、ここで子を産み、そのまま国津神となったのかも。

 倭宿禰は海人族の青海首の祖神となっています。日本海側での有力な海人族です。『海部氏の系図』ではこの青海首を海部氏の末裔にしておきたかったので、天村雲命の子として宇豆彦を取り込んだのかも知れません。

 多坐弥志理都比古神社の祭神は志理都比古神であり、珍彦のことですが、多神社は三輪山頂から登る日神を祭っているとされています。鎮座地は笠縫の伝承地であります。『多神社注進状』には、珍子と天祖を祭神としています。珍子は「うつのみこ」であり、珍彦であり、日神であり、神武であると言えるのでしょう。


[8122] 訂正  PONTA 2007/01/19(Fri) 00:53 [Reply]
下の『遠江國濱名郡輸租帳』の記述は間違っていました。
まず、部民の数が違ってます。あと「土師部が・・・」とまさに恥を書いてます。恥部じゃなくて、土師部は津築郷の話ですから関係ないですね。湖西古窯は新居郷の神直支配下の工人達が陶器を作っていたのでしょう。つまり、三輪氏の支配下の工人でしょう。
↓時間がなくて書きかけ(書き欠け?)ですが、
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yuso.htm

[8121] Re[8120][8119]: 雑ですが  PONTA 2007/01/18(Thu) 17:52 [Reply]
サイトに博物館の一覧を加えてみました。

[8120] Re[8119]: 雑ですが  PONTA 2007/01/17(Wed) 23:30 [Reply]
皿焼古窯館はまだ行ったことが無いので、行きたいです。
今、渥美半島では菜の花が満開ですので。

[8119] 雑ですが  PONTA 2007/01/17(Wed) 23:02 [Reply]
古窯群についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「古窯群」からお入り下さい。

とみた様には悪いけど、三輪氏と須恵器は関係あるのかなぁと書いておきました。

[8118] Re8109: 須恵器とミワ氏  どんたく 2007/01/17(Wed) 21:00 [Reply]
#8115 神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

>神様ですからX線で見て、物は放物線をえがいて・・・

なるほど、なるほど。
三輪山の頂上でビューンと上に跳び上がれば、向こうの方まで見えますね。(^_^)

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[8117] 無題  kanjisin [Url] 2007/01/17(Wed) 20:48 [Reply]
はじめまして。こんにちは。最近、神仏に興味がでてきて訪ね歩き始めました。いろいろとご教示いただきたく、URLに拙ブログの「神」関係のところを示しましたのでよろしくお願いいたします。先日は女川の大六天山に登り、女川では意外にも漁師の神とのことでこの神の性格と変遷について注目しております。皆様のご教示をいただければ幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。

[8115] Re[8114]8108: 須恵器とミワ氏  神奈備 2007/01/17(Wed) 17:23 [Reply]
どんたくさん、精密に調べて頂いてありがとうございます。
画像掲示板に入れさせて頂きました。
神様ですからX線で見て、物は放物線をえがいて・・・

[8114] Re8108: 須恵器とミワ氏  どんたく 2007/01/17(Wed) 13:48 [Reply]
#8108 神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

>> 陶荒田神社と美努山
> 三輪山から眺めますと、二上山と葛城山の間から美努山が見えるかも。

「カシミール3D」を使って、 検討してみました。
三輪山頂から岩屋峠(二上山と葛城山間の鞍部)の方向を眺めますと、確かに平面地図上ではその延長線上に近い所に陶荒田神社があります。

しかし、これを断面図で見ますと、三輪山と陶荒田神社/見野山の辺りとの間には岩屋峠がたちはだかっていて、見通しがききません。

この図面を別途メールでお送りしますので、ご覧下さい。

どんたく
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[8112] Re[8111][8109][8107]: 須恵器とミワ氏  PONTA 2007/01/16(Tue) 22:39 [Reply]
>『三河國内神明帳』に「土師天神」という不明社があります。この神社が渥美郡ではなく宝飯郡にあるので悩んでいるのですが・・・とにかく見つかっていません。国分寺とかの瓦は赤塚山麓で焼いたそうなので、そこに土師部の集落があって、土師天神があったのかなと想像しています。

赤塚山の近くにあるのが、『三河國内神明帳』の凍明神こと伊知多神社です。
http://www.ooyasiro-jinjya.com/jinjya/ichida/ichida.html
伊知多神社の境内社の氷明神が『三河國内神明帳』の凍明神で、伊知多神社が土師天神かなと。あと、形原神社の旧社地の神社が埴安神を祀る土師天神かもしれません。『延喜式』も『三河國内神明帳』も神社の所在地が郡名までしか書いてないので特定できなくて困ります。

[8111] Re[8109][8107]: 須恵器とミワ氏  PONTA 2007/01/16(Tue) 22:27 [Reply]
> 『遠江国浜名郡輸租帳』の品部は
> 語部 11
> 三使部 3
> 麻績部 4
> 爪工部 3
> 漆部 2
> 山部 8
> 土師部 1
> と土師部がなぜか少ない・・・・。

『遠江国浜名郡輸租帳』は740年のものですから、もう湖西窯から二川窯に移った直後ですから、土師部がなぜか少ないのでしょうね。『三河國内神明帳』に「土師天神」という不明社があります。この神社が渥美郡ではなく宝飯郡にあるので悩んでいるのですが・・・とにかく見つかっていません。国分寺とかの瓦は赤塚山麓で焼いたそうなので、そこに土師部の集落があって、土師天神があったのかなと想像しています。

[8110] Re[8109][8107]: 須恵器とミワ氏  PONTA 2007/01/16(Tue) 22:13 [Reply]
>ミワ氏が大阪和泉の陶邑だけでなく地方の須恵器生産に重要な役割を果たした。(菱田哲郎先生)

は不勉強で存じ上げません。
阿部武彦『日本古代の氏族と祭祀』では、古代の東国平定に三輪大神が大きな役割を演じ、その結果、東国諸国の各地に美和郷・大神神社、あるいは神氏を称する豪族が存在するに至ったとあります。

奈良盆地には三輪氏が三輪山に神を祀っている土地だった。そこに神武天皇がやってきて、そこにいた人たちは東国へ分散して住んだ・・・敏達天皇10年、大和王権の勢力圏に進攻した蝦夷の長の綾糟が大和に呼び寄せられ、泊瀬川に入って三輪山に向かい王権に服属する誓いを立てたとありますから、東国(蝦夷)には三輪信仰が浸透していたのかな。

[8109] Re[8107]: 須恵器とミワ氏  PONTA 2007/01/16(Tue) 21:57 [Reply]
> 5世紀後半になると全国に須恵器の窯が広がり生産地が各地にできます。6世紀後葉から7世紀前葉にも新しい生産地が確立されます。浜名湖の新居郷の住民を租帳から調べてみると神直(ミワアタイ)神神(ミワヒト)とミワ系氏族がおり、とくに敢石部(イソベ=海浜の漁撈民)が目立ちます。神直は直で地方豪族です。

『遠江国浜名郡輸租帳』ですね。
部曲では、
物部部 2
蘇我部 6
敢石部 42
津守部 1
ですから、敢石部が目立ちます。
あとは、
神直 4
神人 5
神人部 9
和爾神人 4
和爾神人部 1
神麻績部 1
です。

浜名郡は山と浜名湖に挟まれた狭い土地ですから、農業は細々としか出来ません。やるなら漁業(敢石部)とか製塩業になります。また、弥和山神社、英多神社、猪鼻湖神社、大神々社、角避比古神社と式内社があり、角避比古神社は遠江国に2社しかない名神大社のうちの1社ですから、ご神職の数も多いのでしょう。

> ミワ部は三輪山の祭祀を行う三輪氏に率いられる部民であり、大三輪神が各地に分布しています。浜名湖の西の須恵器の窯跡群の近くには弥和山神社と大神神社があり、神直の祀ったのは大神神社と想定されます。

須恵器の窯跡群は湖西窯ですね。
http://www.kosai-city.net/kosaiyaki/yosekif/index.html
この後、二川窯→渥美窯と移動し、渥美半島で東大寺の瓦を焼いたことは有名ですね。で、鎌倉時代に入ると瀬戸窯と常滑窯の台頭により衰退と。

『遠江国浜名郡輸租帳』の品部は
語部 11
三使部 3
麻績部 4
爪工部 3
漆部 2
山部 8
土師部 1
と土師部がなぜか少ない・・・・。

あと、湖西連峰(弓張山脈)を越えた石巻山周辺の美和郷にも三輪氏はたくさん住んでました。

[8108] Re[8107]: 須恵器とミワ氏  神奈備 2007/01/16(Tue) 20:15 [Reply]
> 陶荒田神社と美努山

 三輪山から眺めますと、二上山と葛城山の間から美努山が見えるかも。
 大物主は長距離砲で活玉依毘売を懐妊させたのかも。


> 娘のオオタタネコ

『古事記』では意富多多泥古です。自己紹介で「僕は大物主の大神、陶津耳の命が女、活玉依毘売に娶ひて生みませる子、名は櫛御方の命の子、飯肩巣見の命の子、建甕槌の命の子、僕意富多多泥古」と言っています。

 娘の場合には「陶津耳の命が女、活玉依毘売」と「女」としています。その他の場合には「子」としています。多分意富多多泥古は男でしょう。


> 敢石部(イソベ=海浜の漁撈民)

 石部神社は近江から日本海側に分布し、特に福知山盆地から出石盆地への日子坐王の行軍路とされる道筋に点在しています。
http://www.kamnavi.jp/ym/hiboko/izusisobe.htm
 祭神は奇日方命が多く、大物主神と意富多多泥古とをつなぐ神の櫛御方の命のようです。

 須恵器は半島から持ち込まれた技術のようです。石部神社の分布から見ますと日本海側から琵琶湖経由で畿内に持ち込まれたのかも。

[8107] 須恵器とミワ氏  とみた 2007/01/16(Tue) 12:53 [Reply]
須恵器は、和泉の陶邑で有名です。

5世紀前半に朝鮮から渡って来たとされています。ところが先年、宇治市で須恵器窯跡が発見され、それと同時に出たヒノキの年代を測定したら389年であった。

(宇治市遺跡調査)

日本書紀で崇神の時代に災禍があまりに多いので三輪山の大物主に伺いを立てたら娘のオオタタネコに祀らせろ・・・それで探したらオオタタネコは河内(茅ヌ=和泉)の陶邑にいた。古事記では陶邑の代わりに河内の美努山(今の見野山?)になっている。陶邑窯跡北端のオオタタネコを祀る陶荒田神社と美努山は近い。

オオタタネコの母は、陶津耳の娘。

陶がみんなついています。

陶邑は、須恵器生産の本拠=センターで各地に工人を派遣したり、各地から研修にやってきたのでしょう。

5世紀後半になると全国に須恵器の窯が広がり生産地が各地にできます。6世紀後葉から7世紀前葉にも新しい生産地が確立されます。浜名湖の新居郷の住民を租帳から調べてみると神直(ミワアタイ)神神(ミワヒト)とミワ系氏族がおり、とくに敢石部(イソベ=海浜の漁撈民)が目立ちます。神直は直で地方豪族です。

ミワ部は三輪山の祭祀を行う三輪氏に率いられる部民であり、大三輪神が各地に分布しています。浜名湖の西の須恵器の窯跡群の近くには弥和山神社と大神神社があり、神直の祀ったのは大神神社と想定されます。

美濃にも須恵器の窯跡近くに岐阜市三輪の三輪神社があり、群馬県太田市の金井窯跡群には山田郡美和神社(現桐生市)が対応している。古墳時代の窯跡が存在する地域周辺に、ミワ系氏族が住んでいたと推定される。ミワ氏が大阪和泉の陶邑だけでなく地方の須恵器生産に重要な役割を果たした。(菱田哲郎先生)

大和の土地支配者が、都祁氏から椎根津(珍彦)の後裔の倭氏、そして大三輪氏に移ってゆく(武光誠先生)のと須恵器生産の消長とは関係があるのかないのか。

その後、須恵器の登り窯で須恵器と埴輪を焼き、さらに陶棺を焼くようにもなります。

遡って窯の変遷史を辿れば、中国の紀元前3000年から4000年も前(日本では三内丸山の縄文時代)の仰韶文化時代。長安の近くの反坡(ハンパ)で高温を造りうる登り窯が造られていたそうです。それがドンドン改善され朝鮮半島には、やっと、漢代に龍窯と呼ばれる登り窯が伝わったそうです。5世紀に朝鮮から陶邑に入ってきた。




[8106] Re[8105]: リンクを貼らせて戴きました。  神奈備 2007/01/16(Tue) 08:27 [Reply]
 一条様、書き込みありがとうございます。
 船岡山に巨石があるのですね。磐座なのですか。

 一条で思い出すのは一条天皇の時に今宮神社がここに鎮座したことです。この神社は謎めいた神である設楽神の残祀かも知れませんね。だったら実に面白い。

 設楽神が九州から摂津経由で京にやってきて、天慶八年(945)、長和元年(1012)と二度。最初は石清水八幡へ、二度目は船岡山に祀られたのです。

[8105] リンクを貼らせて戴きました。  一条 [Url] 2007/01/15(Mon) 08:25 [Reply]
はじめまして、こんにちわ
「廻游日記 http://kaiyu.omiki.com/」というサイトを作成中の一条です。

京都に生まれ育ち、京都と歴史が好きでこういうサイトを立ち上げました。
バイクで京都の色々なところを巡りつつ様々に景色を楽しみつつ廻るのが面白い
です。

様々なサイトを拝見させてもらいましたが、貴サイトの緻密さと大胆さには脱帽
し、また参考にさせていただきました。
そこで、寺社仏閣を中心にしたサイトを立ち上げる際に勝手にリンクをさせて頂
きました。ご了承いただければ幸いです。

貴サイトには及ばずながらも、拙サイトの作成も少しづつ進んでいるつもりです。
もし宜しければ、リンクを貼っていただければ幸いだと感じます。

では、お目汚し失礼をします。

一条鷹司

[8104] 今日は  PONTA 2007/01/15(Mon) 00:15 [Reply]
引佐の神社についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「井伊氏・宗良親王」からお入り下さい。

[8103] 分かりにくかったので大幅修正  PONTA 2007/01/12(Fri) 17:58 [Reply]
三河の生糸関連神社
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「三河の生糸」からお入り下さい。

[8101] Re[8100][8099][8097][8096]: 制作途中って感じですが  PONTA 2007/01/11(Thu) 16:50 [Reply]
> 早速ありがとうございます。

どういたしまして。

「三河木綿」についてはこの程度しか調査していないのでお役に立てたかどうか。

生糸については、最大のポイントが分かりにくかったかと思いちょっと書き直しました。最大のポイントは、「犬頭糸」で検索すると豊川の犬頭神社と岡崎の糟目犬頭神社しか出てこないと思いますが、PONTAの調査では白鳥神社こそ犬頭糸の舞台なのです。正確に言えば、白鳥神社に合祀された桑子神社の旧社名が犬頭神社なのです!

[8100] Re[8099][8097][8096]: 制作途中って感じですが  神奈備 2007/01/11(Thu) 09:29 [Reply]
> 簡単で申し訳ないのですが、まとめてみました。
> http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
> のメニュー「三河木綿」からお入り下さい。

早速ありがとうございます。
木綿が入って来たので戦国時代が始まったと言える程、武具の鎧をつないだり、武士の丈夫な着物を作れたとか。
今は平和産業ですが、昔は軍需産業だったのです。

[8099] Re[8097][8096]: 制作途中って感じですが  PONTA 2007/01/10(Wed) 23:07 [Reply]
三河木綿ですか・・・西三河ですし(蒲郡は東三河ですが)、PONTAではあまり調査していないようです。
簡単で申し訳ないのですが、まとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「三河木綿」からお入り下さい。

[8098] 丹生都比売神社  神奈備 2007/01/10(Wed) 21:06 [Reply]
 紀の国の美社としても著名な丹生都比売神社の樹齢160年の杉の木に穴があけられ、農薬らしきものを入れられた件で、丹生晃市宮司様よりお知らせを頂きましたので、報告いたします。
 発見後、ボランティアの方々の協力と幹周りの土壌改良などを行い、この春に新しい芽ぶきが見られるのかどうか、祈る思いだとのことです。

 物言わぬ木にこのようなことをする人がいるのも驚きですが、何とか再生してほしいものです。

[8097] Re[8096]: 制作途中って感じですが  神奈備 2007/01/10(Wed) 08:43 [Reply]
> 三河の生糸関連神社についてまとめてみました。

ありがとうございます。よく収集されていますね。
生糸ではなく、木綿の栽培に関する天竹社も三河に鎮座しています。
http://kamnavi.jp/kumano/osk/kumata.htm

[8096] 制作途中って感じですが  PONTA 2007/01/09(Tue) 23:31 [Reply]
三河の生糸関連神社についてまとめてみました。
古代の神社って工場だったのかな?
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のメニュー「三河の生糸」からお入り下さい。

[8095] 椎根津彦  神奈備 2007/01/09(Tue) 21:12 [Reply]
 神武さんがやっとの思いで手に入れた大和、即ち倭国、この倭国の支配者は椎根津彦、これはおかしいではないだろうか。

 『日本書紀』で、東征の途中、神武が珍彦に「お前は誰か」と尋ねた時、「臣は是国神なり。名は珍彦と曰す。」と答えました。後の椎根津彦。

 また、天皇が吉野に至る時に、井の中より人出たり。天皇問いて「汝は何人ぞ」、「臣は是国神、名は井光といふ。」と答えています。吉野首連の祖。
 磐排別の子や苞苴担の子は国神とは言っていません。

 椎根津彦と井光とは同じ人物ではあるまいか。椎根津彦は伊加里姫命(井光姫)の子。ここには丹後のことは考慮にいれていませんが、丹後と豊国がどう関わるかは残された課題。 

 椎根津彦は実は神武さんのことであり、ひょっとすると吉野で猪を飼っていた一族の出で、ひょんな事から瀬戸内海で一旗あげてから、大和に舞い戻って王様になったの人物かも。

 傍証 長尾神社の祭神は水光姫命と白雲別命、また椎根津彦の子孫に長尾市が出て、天日矛の神宝を召し上げる役割を果たします。長尾市が祖先を祭った神社が長尾神社。

[8094] Re[8093]: 神奈備とは?  神奈備 2007/01/08(Mon) 09:43 [Reply]
> この神奈備とは山のことを指しているのでしょうか?

『万葉集』の神奈備の歌をご覧いただければわかりますが、神奈備の山、神奈備の淵、神奈備の石瀬の杜、神奈備川という風に、神が隠る(コモル)と言う意味で、山や川に神が居ると言う意味で修飾する言葉だと思います。


> 神那美で比婆の山

この漢字の使い方、比婆の山に隠れた伊邪那美神を思わしますね。

[8093] 神奈備とは?  母里意宇涯 2007/01/07(Sun) 22:53 [Reply]
 島根県安来市ではカンナビとは神那美で比婆の山を指すそうですが
この神奈備とは山のことを指しているのでしょうか?

[8092] Re[8091]: 狛犬  神奈備 2007/01/06(Sat) 20:09 [Reply]
> 盛り土をした畑かとも思ったのですが・・・猪垣ですね。愛知には岡崎市に全長60kmの猪垣がありますが、小豆島の猪垣はなんと全長120kmだそうです!

 PONTAさん、小豆島の猪垣のご紹介ありがとうございます。
 
 小豆島は東西も南北も16km程度の島、でこぼこがあるとしても一周は50km程、ここに120kmの猪垣、これは面白いことです。

 南紀熊野(新宮市を中心に)にも猪垣かどうかは不明ですが、約60kmの不思議な石垣があります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/0481dozyo.html

 丹敷戸畔や神武東征との関連を見る方もおられるようです。潮岬の磐座とあわせて南紀古代の謎が日本の古代の謎につながっているようです。

[8091] 狛犬  PONTA 2007/01/06(Sat) 10:16 [Reply]
昨年は戌としということで、狛犬展が開かれていて・・・お年玉でようやく行って来ました。愛知万博の長久手会場のすぐ北側です。(1/21まで開催)
http://www.pref.aichi.jp/touji/touji4/yotei/2006/koma_k01.html

今年は猪・・・

縄文人の主な狩猟対象は、鹿と猪だったようです。
「しし」は、「肉」「肉を人間に提供する獣」の意味で、鹿は「しか」=「しし(肉)+か(毛皮)」、猪は「い」であり、その肉が「いのしし」です。
鹿は衣食両方の重要な供給源であり、重宝されたようです。これに対し、猪は山の神として神聖視されていました。日本武尊も草薙剣がなかったので負けてしまいました。大国主が負けたのは、猪に見立てた赤い岩でしたが。(近くの神社にあります。きっと赤石山脈(石が赤いのでそう名付けられた)から運んだのでしょうね。)

ところが、弥生時代になると、猪や豚は食肉獣、鹿は神聖な獣と、立場が逆になります。これは、鹿の角が1年で再生するので、1年に1度採れる米と同一視され、「来年も角が生えるように、お米も採れますように」との意味が込められるようになったからのようです。

猪は西日本に多く、人里近いところに住み、雑食で、農作物に大被害を与えます。猪を防ぐ手段が「鹿威し(ししおどし)」であり「猪垣(ししがき)」です。

「鹿威し」とは、農作物などに被害を与える鳥獣を威嚇して追い払うための装置の総称で、かかし、鳴子、添水(そうず)などがあります。日本庭園で静かさを強調するために使う鹿威しは添水です。外国人は「音が無いのが“静か”であって、なぜ音を立てるのか、耳障りだ」と言うそうです。日本人の繊細な心を理解していない! こういう人は、芭蕉の「静けさや岩にしみいる蝉の声」の句についても「蝉の声ってものすごくやかましい。全然静かじゃない」と文句つけるのでしょうね。

 山の中に石垣があることがよくあって、最初は城跡かと思っていたのですが、高さが2mくらいしかなくて、城壁にしては低すぎます。
 盛り土をした畑かとも思ったのですが・・・猪垣ですね。愛知には岡崎市に全長60kmの猪垣がありますが、小豆島の猪垣はなんと全長120kmだそうです!
 万里の長城は敵の侵入を防ぐ壁で、猪垣は猪の侵入を防ぐ壁です。猿の侵入を防ぐためには番犬を飼い、そこから「犬猿の仲」という言葉が生まれたわけです。

http://www.asahi-net.or.jp/~rn2h-dimr/ohanasi/sisigaki.html

さて、和気清麻呂は道鏡事件で大隅国へ流されました。その頃、清麻呂は足腰が萎えていましたが、猪多く来て清麻呂を負って宇佐八幡宮に詣でたとか、復権後に宇佐八幡宮へお礼詣でに行くと、突然300余頭の野猪が現われ、10里余の道を警固してくれたと伝えられています。

http://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub240.html

この話が本当だとしたら、猪とは、(猪や鹿の毛皮のコートを着た)九州の狩猟民族でしょうね。いずれにせよ、猪は清麻呂の守護獣で、京都の護王神社や岡山の和気神社などでは狛犬ではなく、猪が置かれているのです。昔の10円紙幣は、表に清麻呂と護王神社(祭神:和気清麻呂)、裏に猪の絵があり、コレクターの間では「イノシシ札」と呼ばれているそうです。

○10円紙幣
http://www.f4.dion.ne.jp/~na123/book_003.htm

○護王神社(京都)
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/goou-shrine-01.htm

外山晴彦『神社の見方』(小学館)の79ページに神の眷属とその由来の一覧表があって、「愛宕神社-猪-由来不明」となっていますが、愛宕神社は和気清麻呂が建てた神社からでしょ。

○愛宕神社
http://matsu.pos.to/sightseeing/arashiyama/sub/atagoj.html

神様の話ではないですが・・・
大河ドラマ「風林火山」でブレイクしそうな仏様が“拝めば勝負に勝つ”といわれる摩利支天です。(「摩利支」とは、「陽炎」のことで、陽炎は実体がないので捕えられず、傷つかない。この特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があり、山本勘助も25才の時に高野山に登り、武芸上達を願って摩利支天堂に参籠し、弘法大師の作といわれる摩利支天像を授けられたと伝えられています。(摩利支天像は、現在は豊川市牛久保のお寺に安置されています。)また、彼の縦横無尽の活躍、とらえどころのない陽炎のような動きから「摩利支天」というあだ名が付けられたそうです。)摩利支天は猪の背中に乗っているので、摩利支天を祀る禅居庵には、多くの猪像が置かれているそうです。

○禅居庵(京都)
http://blog.goo.ne.jp/kyoshiro2005/e/af36e6dd8e23de2abb06e344f0f3ab15
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/marisi.html





[8090] Re[8087]: 福島浜通り、いわきの庶民信仰について  PONTA 2007/01/06(Sat) 10:06 [Reply]
> これも神社庁が管轄するような高級な神道とはへだたりがある庶民信仰の部類に入るものかもしれませんが、

民間信仰が低級なんでしょうか?
神社でも神社庁に登録していないところもありますよね。
確か伏見稲荷は全国的に有名でも神社庁には登録していなかったと記憶していますが。

[8089] Re[8086]: 不精じゃないのよ  PONTA 2007/01/06(Sat) 10:01 [Reply]
生田神社は去年の人出は120万人で、今年は一気に150万人に増えたとか。

[8088] Re[8087]: 福島浜通り、いわきの庶民信仰について  神奈備 2007/01/05(Fri) 09:26 [Reply]
東沢美史さん、いわきの興味深いお話ありがとうございます。竹細工でしたね。

> これも神社庁が管轄するような高級な神道とはへだたりがある庶民信仰の部類に入る

 神社庁が本当に高級なのかどうかはよく吟味しないといけませんが、オシンメイサマを高級化すれば、伊勢神明、とか熊野神明になるのかも。神明は神と同義でしょうが、標山(しめやま)の神(かみさま)(=偶人「からくり」)が訛ったとするのは飛躍が過ぎるのかも。

 オシラサマと同じとの解説もあるようですね。人形が民間呪術信仰が高じて繰人形になっていったり、不思議な発展をしているのかも。

 柳田国男さんはオシラ神信仰とイタコ(to say)との関連を見ておられるようで、このイタコはイタクであり、託宣につながるようです。イタコも二体の人形を振りながら憑依するようです。
http://www.dai3gen.net/itate.htm

[8087] 福島浜通り、いわきの庶民信仰について  東沢美史 2007/01/04(Thu) 19:51 [Reply]
福島県いわきの信仰ですが私の大おばがかつて市内の四ツ倉に行ってたので「オシンメイサマ」について少しは知ってますが、詳しくは専称寺か信者さんに聞けばなにかわかるかなといつも思っておりました。しかし未だ行けてません。

柳田國男の本を読んでわかったのですが、ロシアから来た門下生のニコライ・ネフスキーがここへ「オシンメイサマ」の調査旅行で訪れたということです。
おそらくこの辺をふまえて折口も東北へ来たのではなかったか。私のところの口寄せ巫女(おがみさま)は阿弥陀様を拝んでおりましたが、肝心のオシンメイサマのご正体はオシラサマと同じく男女2神のペア−神で、男神が「おかしまさま」と古くから言い伝わり真北(丑寅の説もあり)の山に女神さまが祀られてるといいます。

また茨城県鹿島の鹿島神宮を指す可能性があると私はおもうのですが、「おかしまさま」は軍神として真北に進みといわれた言い伝えどうり大正天皇は御巡幸のさいにこの道(海か?)を辿って松島に上陸したなどと年配の方々はいいます。でも実際は現在の地図でみると少し違い、茨城県の鹿島沖を北上して最初に上陸するのは福島県の「いわき市」で、浜道りのたくさんの妙見社を経て相馬あたりから再び太平洋に出て北上するとやがて上陸するのが松島ではなく少し西の塩釜になります。最初の上陸地が重要と考えてます。

これも神社庁が管轄するような高級な神道とはへだたりがある庶民信仰の部類に入るものかもしれませんが、私の仲間が竹細工売りにいわき市東部の集落に門付けしたときの話しによると、久ノ浜という浜辺では昔からの習慣で箕を2枚づつ買うところということです。東北の太平洋側では箕をお月見や「御霊」を祀るお正月行事に使います。そんな集落をいまの東北ではいわき地区以外に知りません。

木杓子は1本だけ買うものでない2本買えと昔の主婦は言ったものです。木杓子彫りは木で出来てる男女2体の山の神さまと関わりがありますが、2枚の箕を同時に買うということにはどんな意味があったのか?。
佐々木喜善は箕にオシラサマが書いてあったと記しています。果たして1枚の箕にか2枚の箕に別々にだったのか。

東京都府中市にもある同名の大国魂神社に行ってみたいとおもってましたが、ほかの神社についてはあまり知らなくてスミません。


[8086] 不精じゃないのよ  恋川亭 2007/01/03(Wed) 23:23 [Reply]
三が日過ぎても、まだ初詣を済ませていません。
生田神社が連日超超満員の参拝客で混雑していまして、私なんぞは中に入れない状態です。入場制限なんて初めてです。いくら毎年混んでいるからといっても、こんな事態は珍しいです。みんなは景気がいいのかな?それともノリカさんにあやかった人気かな?
今はウチの窓から生田の森を見つつ遥拝しています。

[8085] Re[8080][8079]: ときわにかきはに  恋川亭 2007/01/03(Wed) 15:53 [Reply]
> いわき市の恋い神社は佐麻久嶺神社で、五十猛神が祭神です。唯一ここのみ参詣。
> 濃い神社、いわき市には400社近い神社が鎮座、どなたか・・、お願いいたします。

神奈備先生、ご紹介ありがとうございます。いわき市内に400社近い神社!!相当たくさんありますね。東北は比較的少ないと聞いていたので意外な感じです。いわき市そのものが濃いのでしょうね。
神戸からだと列車の移動でかなり時間を取られてしまい、自由時間がカツカツな状況です(泣)。あとは仕事がスムーズに解決できることを望んでいますが・・・難儀だから行かされるわけで(泣々)。貧しくともゆったり優雅に過ごせる日はいつのことやら。

[8084] Re[8083]: あけましておめでとうございます  神奈備 2007/01/03(Wed) 12:27 [Reply]
> わが家は天の岩戸神社と高千穂神社のちょうど中間点くらいなのですぅ!(^^)!!

 町役場の付近ですか。
 阿蘇の外輪山を横目に見ながら、高千穂に到着しました。縄文早期から弥生・古墳時代へと遺跡が連なっている地域なのですね。原始からの古代の文明がとぎれなかったと言う地域のようです。
 今回は二つの神社とその近辺の観光で、天岩戸神社の東本宮はぎりぎりの時間で参拝できたと言うあわただしさでした。

 一度、二子山速日峯あたりの天神社や興味津々の他の神社と史蹟などを回って見たいものです。夜神楽も見てみたいものです。


> 高千穂から応援しています。。。(^-^)

ありがとうございます。紫梨さん、またお越し下さい。高千穂のお話などご紹介下さい。


[8083] あけましておめでとうございます  紫梨(しの) 2007/01/03(Wed) 10:50 [Reply]
あけましておめでとうございます。。。
いつもおじゃまさせて頂いております☆宮崎県高千穂町在住の乙女(^^;)ですっ。
平成17年12月に、まりりんのHNで「四国から九州へ遷座していった神」についてお尋ねしたものです♪
その節は沢山の情報をいただきありがとうございましたm(^^)m

昨夜、某チャットにて「御歳神社」・「神も仏も気分次第?」・「イメージ歴史館」・「古跡覚書」の管理人の方々とごいっしょさせて頂いていたのですが・・・

その時に、神奈備さんが高千穂に行かれましたよぉ〜と教えて頂きました。
え゜〜っ(@_@)!!!
わが家は天の岩戸神社と高千穂神社のちょうど中間点くらいなのですぅ!(^^)!!
(^^)!
車で10分もかからないくらい・・・♪
生♪(*^_^*)神奈備さんにお目にかかりたかったなぁ〜^^;^^;

今年も神奈備さんのいろんなお話を楽しみにしています(^O^)
お体に気をつけられて頑張ってくださいネ♪
高千穂から応援しています。。。(^-^)

[8082] Re[8081]: おはようございます。  神奈備 2007/01/03(Wed) 08:58 [Reply]
PONTAさん、あけましておめでとうございます。お正月にがんばっていますね。

> 記載した内容には私見(PONTA説)が多く含まれているので、取り扱いには注意して下さい。学説・定説だと思い込んで他の方に伝えられるとまずいです。

例えば、以下のように書いてあるところですね。

> (PONTA説では、「公=国府」です。)
> PONTAとしては埴安神は土の神ではなく、土器の神ではないかと考えています。

このように、独自の説と書かれていますので、「学説・定説だと思い込」む方はいないと思います。注意書きをされるのであれば、それぞれのページになされるのがよろしいのでは。

[8081] おはようございます。  PONTA 2007/01/03(Wed) 06:34 [Reply]
西遠の神社についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のMENUの「西遠の主な神社」がそれです。
記載した内容には私見(PONTA説)が多く含まれているので、取り扱いには注意して下さい。学説・定説だと思い込んで他の方に伝えられるとまずいです。

[8080] Re[8079]: ときわにかきはに  神奈備 2007/01/02(Tue) 14:30 [Reply]
皆様、恋川亭様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

いわき市の恋い神社は佐麻久嶺神社で、五十猛神が祭神です。唯一ここのみ参詣。
濃い神社、いわき市には400社近い神社が鎮座、どなたか・・、お願いいたします。

[8079] ときわにかきはに  恋川亭 2007/01/02(Tue) 13:33 [Reply]
新年明けまして御目出度う御座います。謹んで新春の御慶びを申し上げます。
旧年中は大変御世話になりまして有り難う御座いました。厚く御礼申し上げます。
愚生の多忙とはいえ、不躾にもレスが途中で続かなくなったりと失礼致しましたこと、心よりお詫び申し上げます。鋭意努力し改善を心掛ける次第であります。
本年も引き続き、我が身で訪れ見聞きし、我が貧脳で愚考した駄法螺を投稿させていただきます。
皆様の御迷惑を省みず御目汚しの段、平に御容赦、御寛恕を賜りたく宜しく御願い申し上げ、新年の御挨拶とさせて戴きます。


と、いうわけで。4日からいきなり福島県いわき市への出張業務が控えております。仕事での訪問ですから、白川の関も勿来の関も見学する時間的余裕はありませんが、せめてJRいわき駅周辺で「濃〜い神社」に参拝したく思っています。私は関東・東北にまったく不案内ですので、お勧めの神社がありましたら、お教えいただけませんでしょうか?
よろしくお願い致します。

[8078] あけましておめでとうございます。  PONTA 2007/01/02(Tue) 07:22 [Reply]
東三河の神社についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
のMENUの「東三河の主な神社」がそれです。
1ページなので、すぐに作れると思っていたけど、結構時間がかかってしまいました。力がないなぁ・・・。
あと、記載した内容には私見(PONTA説)が多く含まれているので、取り扱いには注意して下さい。学説・定説だと思い込んで他の方に伝えられるとまずいです。


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