神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十九年 三月 2007.3)お名前の敬称は省略しています。

[8236] そーーか!  MADOKA [Url] 2007/03/25(Sun) 00:04 [Reply]
サン グリーンさん
>青草でMADOKAちゃんが下記のように書き込んでおられた自然現象を見たくて
「朝日が昇とき、奈良盆地に太陽の光で白い道が現れそれは二上山の麓にたどりつく。」
22日に二上山からの朝日を拝みました。

そーかーーこの情報を得るのに最適なのは
サングリーンさんですね!!
ラッキー!! 期待してます!!

たぶん私が思うになにかの気候現象がそろったときか夏至冬至か? 非常に短い時間におきる現象であろうとおもいます!
ただ どの地点から見たか? が不安ですが
三輪山方面からか?
目撃したという話ですから 起きることは事実でしょう
目撃または 目撃した人の談話 ゲットできたら
報告まってまーーーす(*^0^*)

[8235] 血圧!  サン・グリーン 2007/03/24(Sat) 07:26 [Reply]
神奈備さま、血圧の方は収まりましたでしょうか?
私達の大先達・神奈備さまをどうか虐めないでくださいね。
なんかこの後、少し書きつらいですが…、二上山からの太陽観測報告を
それにしても春分前後の二日間暗いうちに起きて山登りは還暦を過ぎるときついですね。

 青草で玄松子さんが指摘されている通り、探せば該当する”整地”らしい場所は出てきます。
1 PL女子短大
2 通法寺跡

玄松子さま、ありがとうございます。
この現場検証はまた、秋の彼岸にまわすことにいたします。

青草でMADOKAちゃんが下記のように書き込んでおられた自然現象を見たくて
「朝日が昇とき、奈良盆地に太陽の光で白い道が現れそれは二上山の麓にたどりつく。」
22日に二上山からの朝日を拝みました。
当日は春霞がたなびいて奈良盆地はまるで、太古の湖を彷彿とされるような景色で、目の前に畝傍山、耳成山、うっすらと香具山が霞みの上に浮かんで幻想的でしたよ。
しかし、肝心の太陽は雲が厚く、かなり時間が立ってから顔を出したので、光の道は見れませんでした。10年間毎日登っているというご老人やほら貝を持って獣道を駆け上がるように登る若者にも出会いました。道は整備されているとはいえ、フタカミ山は今もただならぬ気配を感じさせてくれる神の山のようです。

[8234] Re[8233]: RE [8232] ガーーン!!    神奈備 2007/03/22(Thu) 17:12 [Reply]
ワープさん、あなたは何が言いたいの!

これも単にHPの紹介に過ぎないですね。こういう投稿はやめてほしいと申しあげているのです。おわかりですか?

7かまどさんの美具久留御魂神社の紹介ページですね。うまくまとめられていますので、このページには何も問題はないと思います。
 しかし出来が悪いとは言え神奈備も美具久留御魂神社の紹介をしています。一応四基の古墳にも触れています。
 この掲示板は神奈備が主宰しています。そこへ主宰者のページを無視して他のページを紹介される神経が判りません。
 辱めですか?
 おじょくりですか?

 あまりの無礼さに血圧があがりそうです。今後両掲示板への投稿は一切禁止します。

[8233] RE [8232] ガーーン!!    ワープ 2007/03/22(Thu) 00:36 [Reply]
神奈備さま 異星からのワープですので 以前のような攻撃 ご辞退申し上げます。

. PL学園女子短期大学. 富田林市 喜志・・・「きし」と読むのでしょうか?
PL学園女子短期大学から「お亀石古墳」 「美具久留御魂神社」への30度角のラインが気になります。
美具久留御魂神社の本殿の裏山には4基からなる古墳群があり、神体山となっている。 ..
http://www.7kamado.net/miguku.html
通法寺裏山古墳つうほうじうらやまこふん

歴史散歩 南河内・富田林 新堂廃寺と寺内町を歩く
神社裏山の古墳
 美具久留御魂神社の西側には裏山があり、それを「神奈備山」と言って祭られています。この山は、羽曳野丘陵の一部で、周辺の山は住宅地として開発されていますが、神社周辺は緑がよく残っています。そしてこの神社の裏山周辺には古墳時代前期の古墳が数基あり、その中の「真名井古墳」では、三角縁神獣鏡という貴重な鏡も見つかっています。
 神社の見学が終わり、東に向かって歩き出すと、鳥居を挟んで西側に二上山が正面にあります。はっきりしたことは分かりませんが、二上山を意識して建てられた?考えてしまいたくなるくらい真正面にきれに二上山が見えました。南河内のミステリー?とか想像しながら、次の目的地「お亀石古墳」に向かいました。
http://osaka.cool.ne.jp/racco/topic/rekisnpo.htm
http://osaka.cool.ne.jp/racco/topic/rekisnp2.htm

[8232] Re[8231][8230][8226][8225]: ガーーン!!  神奈備 2007/03/21(Wed) 20:04 [Reply]
> 春、秋分に鞍部からの日の出を見れるのはもしかしたら応神天皇陵あたりなのでしょうか?

 青草で玄松子さんが指摘されている通り、探せば該当する”整地”らしい場所は出てきます。
1 PL女子短大
2 通法寺跡


[8231] Re[8230][8226][8225]: ガーーン!!  サン・グリーン 2007/03/21(Wed) 17:34 [Reply]
神奈簿さま
>
> ミグクル神社からの二上山は真東より7度ほど北に寄っているようです。
> 現在日の出は一日0.5度程度北へよpりつつあります。
> 4月7〜8日の6時頃あたりがよろしいようですが・・・

おっしゃる通りでした。(~_~;)
鳥居の真正面の二上山の鞍部からの日の出を期待して六時前には神社にいたのですが…
春分の太陽が向かって右手側から顔を出したので、がっくり。
その足で、二上山に登りました。
二上山の雌岳からの早朝の眺めは最高でした。(*^_^*)
春、秋分に鞍部からの日の出を見れるのはもしかしたら応神天皇陵あたりなのでしょうか?
明日、六時前にもう一度二上山に登って山上からの奈良側の朝日を見る予定です。

「最初の倭国王は誰か」の講演、満員の為、会場外で感度の悪いスピーカのみで聴講。
かなりの部分が聞き取れず理解不能でした。

[8230] Re[8226][8225]: ガーーン!!  神奈備 2007/03/20(Tue) 18:20 [Reply]
サン・グリーンさん、ご無沙汰です。
面白そうな講演会ですね。

ミグクル神社からの二上山は真東より7度ほど北に寄っているようです。
現在日の出は一日0.5度程度北へよpりつつあります。
4月7〜8日の6時頃あたりがよろしいようですが・・・

> 近つ飛鳥に転居以来、すっかり河内王朝の謎に嵌っています。
河内王朝の終焉で継体天皇が登場しました。今年度の豊中歴史同好会のテーマは継体天皇です。
予定はここ。
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2007.html

[8229] Re[8227]: 北緯37度線問題より重要なのは北緯36度線問題!  神奈備 2007/03/20(Tue) 18:20 [Reply]
ニセモノさん、何をおっしゃりたいのか、小生には理解不能です。

> 地球は球体。
> 球の表面において、直角正三角形を考えれば

球体上でもこれは赤道と極点を結ぶスケールのお話ですか?
だからエジプトまで登場するのですか?

> ちょっと長すぎましたか?処理能力完全にオーバー?

おっしゃる通りです。こらえて下さいね。

[8228] がせねたばかりで申し訳ありません。  にせもの幾何神? 2007/03/20(Tue) 17:36 [Reply]
がせねたばかりで申し訳ありません。
タイプミス連発で申し訳ありません。
それにしても歴史っていうものは・・・・・・・・・

龍にこだわる?中華思想?
下克上禁止が中山国の常識だった?
唯一の中心を奪い合うな!
無駄な争いは周辺部だけにしろ!
まさかそのルーツが埼玉県だったとは!!!!
埼玉県は外国人向けに観光重視政策発表。
しかし、明らかに朝鮮半島を意識。
そりゃそうだ、本物は外国人向けではなく地元民(日本人)向け!

本物中山の真北が「村上地方」の粟島。
泡のように浮いているちっぽけな島?
大昔から「私たちの島」だからOUR島?
本物中山・粟島の緯度差が・・・・・・!!!!!

真東が鹿島。要石が侵略者達には絶対に動かせない位置の基準?
真南は・・・・・新島でいいですか?
真西・・・・・
同じ緯度がカヤなのですが何か?
和館や日本支配が世界の常識のはずですが何か?
カヤが選ばれた理由は本物中山から1000kmですが何か?
浦島伝説多発のカヤ地域??焚書坑儒が当たり前?????
本物中津国に帰りたかったのに・・・・
南北に長い地形を頼りに、星の位置を頼りに北緯36度付近にやっと戻ってきたのに・・・・
死滅回遊魚状態だった先祖達に追悼。

ちなみに、野付半島の延長とと国後島のケラムイ崎の延長の交点は
本物中山からの距離が1000kmですが何か?
ちなみに与那国海底遺跡・本物中山ラインにあるのが屋久島ですが何か?
「愛子」岳が整った形なのも当然ですが何か?
中心の島→種・島→種子島????
まさか・・卵の中心が黄色だから太和殿の人々は黄色重視だったのですか?

アブシンベル神殿までは地球一周の4分の一ですが何か?
カルナック列石までも地球一周の4分の一ですが何か?

大昔の一里の長さは4.0kmだったはずですが何か?

一時間という基準は、地球一周を一日とみなした場合の日本列島の緯度経度ですが何か?
一分の長さが野付半島に残されているのですが何か?
円周率(パイ)は本物中山近くに残されていましたが何か?

富士山の魅力は関東平野に長く住んでいる人にしかわからないのでしょうか?
見えない山が夕方になるとシルエットとして見える!
冬になると良く見える!
まるで切り絵のようにシャープに整ったシルエット!
一万年前、大噴火の噴煙を目撃し、日本一の山に成長する姿を見ていた先祖達!
富士山の日は2月23日。これがまぎれもない事実。
暗黙の了解、価値観の違い、世界共通の価値観。
物理学者ガリレオ「自然は数学という文字で書かれている」。
ガリレオや弘法大師が解明していたら・・・・・・・・・・・・・・

野付半島にニュートン(万有引力)まで書かれていた???????
書いたのは先祖達でしょ?


[8227] 北緯37度線問題より重要なのは北緯36度線問題!  ニセモノ渡来人 2007/03/20(Tue) 16:57 [Reply]
地元重視で何が悪いの?
中心から外の広がる。その結果、周辺名から中心に集まってくる。
富士山・筑波山・浅間山を頂点とする三角形の中心が中山。
大昔からの常識。
この大きな輪(大きな和!)の中心が中山。
この近くにあったのが中津国?
津国→つ・くに→つくね(母音あいういう)→津久根
津久根という地名が今でも残っている、高麗(こま)領なっていた地域に。

山の整形にこだわった中津国の影響がエジプトまで?
その結果が「ナカダ文化」というエジプトの歴史?
中田→中・田→中心・田→心(芯、真、森?)・田
→しん・田→せん(母音あいういう)田→せんた→センター→Center!

英語の語源が日本語じゃだめですか?
高句麗な人々が英語を理解していなかった?
私たち日本人が間抜けだったに過ぎない??????
コマ→こあ(M省略、むめ、うなぎ参照)→core→核、中心部!
 core→kore→koreあ??????

昔の日本地図に東北がなかったから「日本には測量技術がなかった」とさんざん馬鹿にし続けた人々はみんな渡来の人々ですか?
あまりにも間抜けすぎのように見えたかもしれませんがこれぞ叡智の証明!
富士山・本物中山ラインはすごく重要!与那国海底遺跡まもが????
北にに進むと相馬市が限界。だから相馬市に不自然な地形が残されている。
北の端が相馬市っていうのが大昔からの常識だったに過ぎない。
南に進むと「登呂」って地名がありますよね。
登呂の先にあったのが富士山であり本物中山(本物中津国)。
先・登呂→せん・とろ→centro!イタリア語の中心って言葉じゃねえか!
イタリア語と日本語の母音が似ていうのも当然の結果。

相馬の砂洲が自然の叡智?
野付半島だって設計意図が明白!
緯度経度の長さを調べれば完全一致する地形!
日本列島は龍の形。龍の口が野付半島。糸を口から出す島????
中国の竜口付近の半島の示す方向も本物中山。
嘘だとお思いでしたら、MSのエンカルタのディジタルマップで再試を!


世界各地の人々が北緯36度付近にこだわったのも当然!

地球は球体。
球の表面において、直角正三角形を考えれば、富士山・本物中山ラインを底辺とする直角正三角形の頂点の位置は・・・・・
その他にも、あの山とあの山のラインを底辺とすると・・・・・・
フランスが重要なのは周知の事実。エジプト(ダムで水没)の重要性も周知の事実。
ストーンサークル、本物中山の方向を示している石はどれですか?
みんな知っていることなのでいまさら?
東洋から見れば西洋は北西方向だが、西洋から見ると東洋は北東方向。
それなのに「日本人の方向は基準が90度ずれている」だなんて・・・・・
その結果、魏志倭人伝のような方向間違いが世界中で多発していたなんて・・・・
いまさら・・・・・・とほほ・・・・・・・

関西系の人々は有馬富士が中山でしょ?
一応、当時の日本列島の緯度経度の中心だったはずですから。
播磨地域に有馬。
HARIMA→arima hを発音しないなんてまるでイタリア語ですね!
山の入り口が山戸(やまと)?山の外だから山外?
三田→さん・だ→やま・だぃ→山台→邪馬台?????

ちょっと長すぎましたか?処理能力完全にオーバー?

[8226] Re[8225]: ガーーン!!  サン・グリーン 2007/03/19(Mon) 22:00 [Reply]
> 神奈備さん
> > 産屋の産神即ち箒神・便所神への信仰、これが鵜鵜草葺不合尊を介して住吉大神につながって来ました。河内王朝のルーツ神とは便所神だったと言うことでした。
>
> これこそ 衝撃! 目から爆薬!
> ガーーーーン!(£0£)/

何かのご参考までに無料講演会ご案内
「最初の倭国王は誰か」大阪府立近つ飛鳥博物館館長・白石太一郎
3月21日(祝)大阪府立近つ飛鳥博物館地階ホール、聴講無料
午後2時〜3時半

いよいよ河内王朝のルーツの謎が解けるかも?
私は21日春分の日、二上山からの日の出を確認するためにミククル神社に行く予定です。
神奈備さま
「蟹を箒で掃き出す天忍人命の末裔の方が宮司さんの加守神社が二上山の麓に鎮座!!!!!
河内王朝のルーツ神とは便所神だったと言うことでした。」
これには私もすごいインスピレーションをいただきました。
近つ飛鳥に転居以来、すっかり河内王朝の謎に嵌っています。
またいろいろご教授くださいませ。

[8225] ガーーン!!  MADOKA [Url] 2007/03/19(Mon) 20:50 [Reply]
神奈備さん
> 産屋の産神即ち箒神・便所神への信仰、これが鵜鵜草葺不合尊を介して住吉大神につながって来ました。河内王朝のルーツ神とは便所神だったと言うことでした。

これこそ 衝撃! 目から爆薬!
ガーーーーン!(£0£)/

[8224] 産神  神奈備 2007/03/17(Sat) 20:37 [Reply]
 不合尊と玉依姫(豊玉姫の妹。常世の国から来た。)の子供達が神武天皇四兄弟です。その内の二人は熊野から妣の国(常世の国)に行ってしまいます。素盞嗚尊も妣の国に行きたいと泣きわめきました。
 妣の国への遠い記憶、日本人のはるかな意識である妣の国が日本人の心にかきたてる哀愁は無限、と谷川健一さんはいいます。

 神代から応神天皇の頃までは現世と常世とは協力関係があったように『記紀』は語っています。しかし一言主大神と対峙した雄略天皇の頃から現世の権力が常世の権威より強くなるようです。天皇は常世からおとずれる祖霊神を祀る立場から、祀られる側へ変わります。
 『敏達紀十年』には蝦夷の首魁の綾糟らが三輪山の天皇霊に対して誓いをおこなったと出ています。
 明治初期と戦後には天皇はまさにまれびとの役割を果たしたのです。

 皇位を激しく争ったのは何時の時代でもそうだったのですが、陰湿な争いのあった奈良時代の前後から御霊信仰が徐々に強まってきました。その頃から新天皇は大嘗祭の翌年に難波津に行き、おそらくは八十島祭を行ったのでしょう。怨霊・御霊に対抗するには権力・武力ではどうにもならなかったということ。

 八十島祭の主祭神は大八島之霊で、生国魂神社の祭神とも言えます。この神社は孝徳天皇の頃には鎮座していたようです。配された神々の筆頭が住吉大神です。

 さて、住吉神の筒男神とは対馬の津々浦々の長神のこととした真弓宮司さんは、対馬の古い住吉神社(鶏知とその元社の鴨居瀬:発祥の地)の祭神が彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊であることを下記のように説明されていました。
 『日本書紀』に、神功皇后が大祓えをした時に現れた神として「日向の橘小門の水底に居て、水葉も稚やかに出てくる神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神」と表現しているのは、いかにも海辺の祭祀に現れた若々しい神格を表しており、それが海幸山幸神話の神々の名で称えられたとしています。
 その基層には、南方系の古層の文化のにないてである対馬の海人族が奉じる海神としての母子信仰が海宮の乙女と海童として信仰され、竜神としての海神である豊玉彦とその子の豊玉姫と、その子で小童神である鵜鵜草葺不合尊と言う三人立の神々の信仰としたもののようです。
 
 産屋の産神即ち箒神・便所神への信仰、これが鵜鵜草葺不合尊を介して住吉大神につながって来ました。河内王朝のルーツ神とは便所神だったと言うことでした。

 神武天皇の妃や二代天皇の母親は姫踏鞴五十鈴姫命で、この姫の母神はまさに便所で勢夜多多良姫命が大物主神が丹塗矢に化けて流れてきたので懐妊して出来た姫です。

 貴族の場合便所と言っても現在のものとは違い、川の上に出来た見晴らしのいい舞台のような所で、そこには臭いとか隠れるというような感覚はなかったのでしょう。天真爛漫の時代です。貴人には便や尿を検査する仕組みがあるとのことですが、生まれながらにそういう立場に立つ人間はそれに対する感覚は市井の凡人の恥の感覚とは違うようです。雅子様の苦しみの一因はそのあたりの乖離にあるのかも知れません。

 海幸山幸神話は隼人のルーツも示している神話で、そこに五島列島や対馬が絡んでいます。五島列島には知訶島も含まれており、ここの白水郎は隼人と似ていて、言葉も俗人と違うと言うことですから、隼人が移住していたと言うことでしょう。『肥前国風土記』では、安曇連百足が視察に行っています。大耳と言う土蜘蛛がいたようで、大耳は江南の息吹を伝えているようです。

 この神話群から江南−隼人−安曇−住吉−対馬とつながっているように思えます。海幸山幸から神武東征までは塩筒老翁が働いています。この神は住吉神のルーツと見なされています。

 小童神(わたつみの神)は本来は綿津見の神でしょうが、ここから住吉神を切り分けたのは何故でしょうか。
 仁徳天皇の跡の皇位は履中天皇ですが、ここで皇位継承の争いがあり、住吉仲皇子についた安曇連浜子は履中天皇を殺そうと追いかけています。皇位継承の戦いで敗れたことで安曇連は海人のまとめやくの地位を失ったのでしょう。津守氏が浮上してきたのでしょう。
 一説には住吉神を航海神、安曇神を漁猟神と見る向きもあるようですが、これは後付の説明ではないかと思います。

[8223] 産屋  神奈備 2007/03/16(Fri) 17:15 [Reply]
 昔、地域によってはお産は産屋で行う風習があったようです。海岸や水辺に産屋がこしらえられ、やがて山中に移動したり、家屋の土間や物置になったりしていったようです。

 海辺とは、現世と他界(海)との境界であり、渚とも言います。産屋は茅(カヤ)などの草で壁も屋根も葺かれていました。砂の上に藁と筵を敷いて床としたのです。

 産砂はウブスナと読まれ、産土とも書かれます。産土さんの愛称を持つ神社やずばり産土神社と云う神社は80社以上全国にあるようです。地域の魂を祀る神社。

 死ぬことのは常世へ行くことで割合簡単なことです。ウジ虫にまかしておけばいいと云われます。
 所が、出産とは再生であり、産婦は命の創造と云う大事業を行うのです。自分の命をかけた事業です。柳沢大臣が「産む機械」と暴言を吐いたのは、全くそこの所を理解できていない人間失格者なのです。
 
 海岸の産屋は窓を海に向けて開けます。外部との接触をしないため、特に外部の男とのやりとりは御法度だったようです。葛葉の森の狐も正体を見られたので去っていきました。

  豊玉姫は山幸彦(火遠理命)と常世の国の海神の宮で結ばれ、出産をするために海辺に来ます。そこで鵜の羽を葺草として産殿をつくります。まだ出来ないうちに陣痛があり、産屋に入ります。子を産む時には元の国の姿になるので、覗かないように云いますが、山幸彦は覗いてしまいました。八尋鰐の姿、哀れ豊玉姫は赤児を置いて海神の宮に帰って行きます。
 渚で葺草がまだ葺かれていない間に生まれたので、彦渚建鵜葺草不合尊と名付けられました。
 
『古語拾遺』には、その産屋に掃守の連の遠祖天忍人命がつかえ、箒を作って蟹を掃ったとあります。

 ここに蟹が出てきます。箒も出てきます。出産は命の再生で蝦・蛇・蟹の脱皮に相当すると考えられていました。海岸の産屋にどんどん蟹が入ってきたのかどうか分かりませんが、蛇に来られたら具合が悪い訳で、蝦は来ないから、来るなら蟹だったのでしょう。海岸でなくとも蟹は溝の中を歩いていました。祝福かも知れません。

 蟹を箒で掃き出すのが、天忍人命です。この末裔の方が宮司さんである加守神社が二上山の麓に鎮座しています。ここは当麻峠にも面しており、大和と河内の境界です。箒は境界を清めるのです。

 産屋も現世と常世との境界に置かれ、出産もまた境界を渡る作業なのです。産屋に産神が祀られますが、これは敷いていた藁を束にして立てかけます。まさに箒なのです。

 天忍人命は五島列島の別名ですが、これらの伝承が五島列島の海人の伝承だったことを示しているのでしょう。

 釈迦は悟りを得るために吉祥草の束を持って菩提樹の下に行きました。高天原では天宇豆女は竹葉を手草に結んだものを持って踊りました。清める意味があったのでしょう。

 赤児が始めてする糞は胎便ですが、これを蟹糞と書いてカニババと読むのです。(岩波『古語辞典』)

 蟹とは赤児の意味があるのでしょう。従って蟹守とは出産全体を滞りなく無事に行われる産婆のような技能者のまとめ役だったのでしょう。掃守の司とは、宮廷で貴人の娘の産屋を整えるとあります。

[8222] 「火」  神奈備 2007/03/15(Thu) 09:27 [Reply]
この前、大阪歴博で青森県の縄文展がありました。その中に壷のような器があり、上部の四方に人面が付いていました。多分煮物をつくるとか蒸すために使った土器と思ったのですが、何故、顔がついているのかですが、これは女性の顔ではないか、また煮物・蒸し器としたのは「火」は女性の体内にあって、産道から火を取り出すお話は広くメラネシア、ポリネシア、南アなどに分布しています。
この地域にはハイヌウェレ神話という、女性の死体から芋などが生えてくるお話と結びついています。『記紀』では火はイザナミのカグツチ、芋はウケモチの神などに出てきますが、おそらくは地母神としては縄文時代からの伝承があったのでしょう。

女神と火と云えば山姥の出産も火に焼かれながらの物語があります。御神体は山姥の頭骸骨と云う神社が高知県にあり、山姥が子供を産んでいる最中に焼き畑で焼かれてしまうと云うお話です。火の中の出産と云えば木花咲耶姫や垂仁天皇の妃の沙本比売命があります。木花咲耶姫は妊娠のし易い体質であったようで、一夜で懐妊したとして疑われているほどです。山姥も同じで袖が触れるとと云うほどのお話もあります。

木花咲耶姫の子供達や沙本比売命が産んだ子の名前には「ホ」が頭についていますが、これは「火」です。始祖王の誕生譚に多いのでしょう。

[8221] 無題  和歌山 2007/03/11(Sun) 16:05 [Reply]
 『ごぜ』は巫女やイタコとの類似性も指摘されていますし、民間信仰の対象にもなっていたようです。なぜ『ごぜ』と呼ばれるようになったのかは分かりませんが『ごぜ』が来ると喜ばれたようです。『ごぜ』という言葉について、もう少し調べてみます。

[8220] ニセモノ!に告ぐ!  MADOKA [Url] 2007/03/10(Sat) 21:16 [Reply]
玄松子さん 神奈備さん
ありがとうございますm(==)m
泡くって ウイルススキャンしましたが 無事でした!

ニセモノに告ぐ!
この掲示板をなんと心得る!神社サイトよ!!

MADOKAさんをナメタラあかんぜよ!
姫神伝来の 呪そ!!えーーーい!バシン!!
喪にふくさな しらねえよ(=0=) 罰あたりメが!

松原右樹 情報は 本物です!
信用してね 皆さん! (*^0^*)

[8219] Re[8218][8217]: ニセモノ 発生!!  神奈備 2007/03/10(Sat) 07:09 [Reply]
> 神奈備さんしか対処できないのです。

遅ればせながら削除いたしました。
MADOKAさん、
> にせものでーーーす!!
偽物が出たとは、何たる名誉!!

玄松子さん、警告ありがとうございます。
> 下記の関連リンクに行くと、ワームウェアが侵入してきますので、
そういえばウイルス検出ソフトがよく動いていました。

[8218] Re[8217]: ニセモノ 発生!!  玄松子 2007/03/10(Sat) 01:47 [Reply]
> 玄松士さん!! 対処よろしく!!(±0±)/

神奈備さんしか対処できないのです。

が、下記の関連リンクに行くと、ワームウェアが侵入してきますので、
絶対に、リンクをクリックしないで下さい。!!!危険です!!!

[8217] ニセモノ 発生!!  MADOKA [Url] 2007/03/10(Sat) 00:07 [Reply]
なんやこりゃ!!!
下記のカキコ わたしじゃない!!
にせものでーーーす!!

わたしの書き込みコピーして
サイト情報流してるーーー!!
誰や!! 私じゃねえーーー
ゆるせーーーーねえ(+0+)/
玄松士さん!! 対処よろしく!!(±0±)/

[8215] 松原右樹 和歌山文化協会 年間計画  MADOKA [Url] 2007/03/09(Fri) 13:05 [Reply]
和歌山文化協会(郷土研究部)主催「講演会」「見学会」「研修旅行」
平成19年度(2007〜8年):年間行事計画表 
和歌山県教育委員会:きのくに県民カレッジ単位認定講座
  総合テーマ「世界遺産をめぐる民俗伝承」
2004年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され今年で3年目を迎えます。それを記念しまして、高野・熊野の世界遺産をめぐる伝承文芸、・文化・歴史・芸能の深層にひそむ民衆文化の鉱脈に触れ、「見えなかった事実」「知らなかった事実」を掘り起こしながら、基層にひそむ根源的な文化、伝統的な感性を明らかにしようとする市民講座です。どなたでも自由に参加し、発言も気軽に出来るユニークな市民学習講演会です。
講演会会場:和歌山県立図書館2階講義室 講師:松原 右樹(まれき)先生
問合せ先:小弓場(こゆば)弘文  TEL/FAX 073-445-6660
日    時 主      題
第1回 4月8日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承1 
 高野聖・西行の歌とその足跡
第2回 5月13日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承2(バス見学会)
天野街道・世界遺産の風景を行く
第3回 7月 日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承3 
和歌ノ浦、有間皇子処刑地の伝承
第4回 9月 日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承4 
 ヤタガラスの呪術と民俗的世界
第5回 10月 日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承5 
黄泉ノ国・熊野の民俗伝承
第6回 11月 日〜
日( ) 世界遺産をめぐる民俗伝承6(1泊2日バス旅行)
補陀落渡海祭り見学(那智勝浦町)
第7回 12月 日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承7 
熊野へ向かう小栗判官の鎮魂賦
第8回 
平成20年1月 日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承8 
熊野比丘尼さすらいの足跡
第9回 
平成20年3月 日(日) 世界遺産をめぐる民俗伝承9
 紀州神々のケガレと呪力

[8214] 松原右樹 ご案内  MADOKA [Url] 2007/03/09(Fri) 13:02 [Reply]
現在 この講座は毎回150名満席。質疑応答も活発らしいです。

和歌山文化協会(郷土研究会部・史遊会)主催
和歌山県教育委員会:きのくに県民カレッジ単位認定講座
4月公開講演会のご案内(一般の方々のご参加歓迎。事前申込みは不要です。)
 総合テーマ…「世界遺産をめぐる民俗伝承1」
「高野聖・西行の歌とその足跡」 
高野聖で平安後期の歌人として活躍した西行(1118〜1190)は、出家前の俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、田仲庄(現:紀の川市打田町南半部)預所(あずかりどころ)・領主である佐藤家の出身であった。紀ノ川に突き出た川岸段丘に建つ「龍藏院」には西行生誕以前(43年前)から佐藤一族の信仰深い「愛染明王」が祀られ、その傍らに佐藤氏の居館、産土神(うぶすながみ)で「龍藏院」の守護神・「一ノ宮」(現:東田中神社に合祀)が鎮座していた。その風景は、辻邦生の名著『西行花伝』にも活写されている。
なぜ、西行は突然出家して高野山に入ったのか。高野山での長い隠遁(32、3年間)と回国・勧進の生活の意味するところとはいったい何か。生きながらにしてすでに虚構と伝説に包まれていた「西行」という人物を、地元の民間伝承の視点から考えます。
                記
日 時: 平成19年4月8日(日) 午後1:30〜4:30
主  題: 「高野山聖・西行の歌とその足跡」
(世界遺産をめぐる民俗伝承第1回)
講  師: 松原 右樹(民俗学者)
会   場: 和歌山県立図書館(きのくに志学館)2階講義室
    和歌山市西高松1-7-38  073−436-9500  436-9530  
交通:バス停「車庫前」か「高松」下車、徒歩約5分。
当日会費: 500円
問合せ先: 和歌山文化協会・郷土研究会部
小弓場(こゆば)弘文  TEL/FAX 073-445-6660
〒641−0052和歌山市東高松4丁目1−21
次回予告:5/13(日)「天野街道・世界遺産の風景を行く」(1日バス見学会・事前申し込み必要・定員45名・申し込み多数の場合は抽選いたします)
   和歌山文化協会 TEL 073-436-3580   FAX 073-436-8747
    〒640-8268 和歌山市広道20 第2田中ビル1

[8213] Re[8212][8205]: リベンジではないけれど  大三元 2007/03/09(Fri) 10:15 [Reply]
恋川亭さん

> 「つれ」でいいですか? とても好きな言葉で。
tureの発音は、強いて仮名で書くと「つれ」ではなく「とぅれ」ですね。"tu"の部分は、英語の"to"の発音と(まず)同じです。(アイヌ語には「つ tsu」 という音がありません。日本語には「とぅ tu」と言う音がないことと補完的になってます。

> 「 turen kamuy 」が仮にツレンカムィと呼ぶならば、「連れの神」として「憑き神」よりももっと日本語的に感じます。

村山七郎著『アイヌ語の研究』P41では、アイヌ語数詞に関する金田一京助の見解を紹介しています。そこから抜粋:
-------------------------------------------
tu 「2」については tura 連れる、 tunano 連れて、 turen 憑く、 tur-pak 及ぶ、 u-tur 二者の間 の tur と関係ありそうだとみる。
-------------------------------------------
と書いています。

日本語でも似たような音で同じような意味の語があるわけで、興味を惹かれますが、他の数詞ではそのようなことがないので偶然なのかもしれません。

[8212] Re[8205]: リベンジではないけれど  恋川亭 2007/03/09(Fri) 01:46 [Reply]
> 大三元さん
> 「憑き神」のアイヌ語は turen kamuy なのですが、turen に音が近い tures(i)は妹(和語と同様、兄妹の場合と妻を呼ぶ場合がある)、妹が「をなり神」として兄を守る、という琉球の考え方と通底するのか、とか

「つれ」でいいですか? とても好きな言葉で。
「 turen kamuy 」が仮にツレンカムィと呼ぶならば、「連れの神」として「憑き神」よりももっと日本語的に感じます。
「妹(イモ:sisterではない)」と「連れ添って」過ごした日々は追憶のかなたです。「妹」を独りにさせてしまった罪を今味わっているだと。

[8211] Re[8210]: Re丹生都姫の妹  かまど [Url] 2007/03/07(Wed) 07:21 [Reply]
MADOKAさん

> たぶん??かまどさんの御心配になっていることではないと思います。三谷です。

そうですか。心配ないですね。すいません。
どんどん調べて是非発表してください。


> 内容も村外に漏れてまずいというようなことではないとおもいます。普通の人間の災難です。村の外にあまり言いたくないのは 神としての丹生都姫の妹であることでしょう。私がはっきり書かないのは 現地を見て松原さんに発表してほしいからです。

私もまずい内容ではないと思います。松原先生の発表を楽しみにしています!(^^)/


>松原さんから聞いたことをまったく調べてない。書いてあってもそれは意味がまったく違う。・・・&薬師堂ではないか?と現地で突っ込んで聞いた際 かなりきつく薬師堂と薬師の間は違う!!間違っているのが多い!と否定されたので、この情報は本で流れているのとはあきらかに違うことを松原さんは持っていると思ったからです。


私もそう思います。フィールドワークは大切だと。薬師の間も松原先生の中には、それだけ言える確たるものがあるのでしょう。となるとどんなものなのか気になるところですが。いつか発表してほしいですね。


MADOKAさん、いろいろと私の訳のわからない質問を嫌がらずお答え頂きありがとうございました。また、今後もご教授宜しくお願い致します。

[8210] Re丹生都姫の妹  MADOKA [Url] 2007/03/07(Wed) 00:22 [Reply]
かまどさん
たぶん??かまどさんの御心配になっていることではないと思います。三谷です。語ってくれた方は竃門家の親類筋の方『この間も村のもんが参ったと聞いて、ご苦労さんよう参ってくれたというたところだ』
御両親もかまどさんも見知っていると思います。丹生都姫の妹の話が他の俗信信仰になっているかもしれませんが。。ちょっと変わった地蔵がソレです。
その特徴で たぶん かまどさんにはわかるでしょう。
内容も村外に漏れてまずいというようなことではないとおもいます。普通の人間の災難です。村の外にあまり言いたくないのは 神としての丹生都姫の妹であることでしょう。私がはっきり書かないのは 現地を見て松原さんに発表してほしいからです。

松原右樹さんをかまどさんが疑っているとはおもっていません。松原右樹さんを私は絶対視しているわけでもありませんが、松原さんは地元の伝承を意味がわかろうがわかろまいが、伝える人です。それの意味は10年後に聞くときもあります。わからないことはわからないという人です。以外とこういう研究者は少ない。文献だけで現地調査もせず頭の中だけで整合して結論をだした論文を書く研究者が多い。そのほうがスゴイみたいに思う。昔私はそうでした。松原さんと昔御一緒したときは、なーんかわけのわからん話を結論のないまま ぐだぐだシャベル面白い人としかおもわなかった!それが熊野ブームがきていろんな書物が出版されたとき読んで私は驚いた!どれほど松原右樹さんから聞いた内容がすごかったか。出版されているのは 松原さんから聞いたことをまったく調べてない。書いてあってもそれは意味がまったく違う。ほんとは怖いグリム童話じゃないけれど、中世の残忍な世界の中で展開される御伽草子がおとぎばなしに変わってしまったくらいの違いがあった。私はほんとに後悔した。どうもこれは私だけじゃなく、皆異口同音に、そんなたいした人はおもわずにうっかり聞いてたわーあんとき録音しとくべきだった。。こういう人が今講演会になんとしてでもやってくる。こんかいフィールドワークに同行して、松原さんがトップダウンで物を調べないことがよくわかった。下から調べて情報を積み重ねる。学歴とか地位とかある人から聞くのではなく、まず地元の素朴で実直な人から聞きこみが開始する。曰く、そういう人の方が頑強に地元の伝承を正しく守っているとのこと。今回の妹君の話を話た人もそうでした。えらいさんというのは、頭の良さで話を無意識につくりかえたり、地元の伝承を以外と知らない人が多いと。最終そこもあたるし、文献もよまれますが。。私はその姿勢をかっています。どうでもいいような話もありますが、まずは松原さんの話をきいてみようと。判断はあとでと。かまどさんがどういう筋で情報を集めているのかわからなかったので、書物で情報を集めているようであれば、現地を知る松原さんの話を一旦聞いた方がいいということを言いたかった。&薬師堂ではないか?と現地で突っ込んで聞いた際 かなりきつく薬師堂と薬師の間は違う!!間違っているのが多い!と否定されたので、この情報は本で流れているのとはあきらかに違うことを松原さんは持っていると思ったからです。
正邪はわかりません。ただそういう伝承が事実あることは確かだと思います。
またそういう在野の優れた民族学者が和歌山にいることを皆さんに知らせる意味でカキコしたのです。

松原さんのことは別にして
今回のかまどさんの書き込みで私はあっ!と思うことがありました。
思わぬことで 東沢さんヨーカンさんともリンクして私の追っている問題とも絡んだことがみえました。
天野大社、丹生都姫は私はあまり調べてないので少し時間をください。

[8209] 丹生都姫の妹  かまど [Url] 2007/03/06(Tue) 21:19 [Reply]
MADOKAさん

>妹君ゆかりの地に参られるのは村民です。
>竃家にかぎったことではない。

ちょっと、いやな予感がよぎりましたので、ちょっと書きます。
これ、竃門家も参られていますか?村民だけじゃないですか?
村民とは、三谷の村民ではなく、違うところの村民ではないですか?
丹生都姫の妹ではないですが、そう取りそうな場所が脳裏に浮かびましたもので。

もし、私の思うところであれば、論文で発表される時は、その方々に了承・納得頂いた上で発表され、講演されるなら、了承得て、講演に招待するぐらいの配慮が必要だと思います。

以前、村外の方に、「公表しないでほしい」と言う事で話した事が論文で出ました。

地元の郷土史家の方でも、知ってても公表しない人もいます。

その事を公表することが、その村の方々にいい事なのかは、その村の方々が判断することなので、くれぐれも自分達でそれを判断しない事を祈っております。

失礼があったらごめんなさいね。いやな予感が当たってなければいいのですが、と言うか当たってないことを祈っております。


それと、余談ですが、私はある件で、竃門家へは出入り禁止となっております。それだけに、松原先生の今後の新しい発見を楽しみにしております。

[8207] Re[8201]: 薬師の間 松原右樹  かまど 2007/03/06(Tue) 12:21 [Reply]
MADOKAさん

> 松原右樹さんは徹底したフィールドワークで地元の伝承を丹念に集めている。
> 残念なことに 松原右樹さんの書く記事は負の部分に触れるので出版されると、それをこころよく思わない団体が書物を買い集めて市場に出回らなくされたりする。また松原右樹の論文のパクリが多い。
> こういう形でないと松原右樹ワールドはわからない。

松原先生のお人柄は、知人からも聞いており、いい人であり、変な解釈をされない方であるとも聞いております。私は好感を持っています。
竃門家にも多分何回も足を運ばれているでしょうから、MADOKAさんが答えて下さった話も、真実だと思います。

ただ、フィールドワークの大変さは、私もいつも感じますが、

@どのような人に話を聞くか。
A話してくれた人がどこまで話をしてくれるか。

です。@については、さすがと感じています。竃門家の最長老は、恐らく松原先生の記事の中で書かれていた方(現在御年95歳ぐらいでしょうか)でしょう。

Aについては、松原先生が私の書いた内容まで竃門家から聞かれていれば、話を聞かれた方は隠すことなく、話されていると思います。

こう書かせて頂いたのも、MADOKAさんのカキコを読んで、多分私の書き方も悪かったと思うのですが、私が松原先生を怪しまれているように思われてませんか?私は怪しんではおりません。松原先生の記述は真実であると思っています。ただ、竃門家の人がどこまで話してくれたんだろうと思ったのです。元の情報が断片的であれば、自ずと解釈も変わってきます。それでいろいろとご質問をさせて頂いた次第です。

一応私の話も、情報源は竃門家からです。

[8205] Re[8204]: リベンジではないけれど  大三元 2007/03/06(Tue) 08:54 [Reply]
恋川亭さん

> とてもフレンドリーですね。この関係、距離感がいいですね。原点だと思います。ただ私の場合、日頃の不摂生に「憑き神」も、情け無い思いでみてるかも。

「憑き神」のアイヌ語は turen kamuy なのですが、turen に音が近い tures(i)は妹(和語と同様、兄妹の場合と妻を呼ぶ場合がある)、妹が「をなり神」として兄を守る、という琉球の考え方と通底するのか、とか

tu*re = 2*3 =6 アイヌの聖数6 という関係を意識した表現がユーカラに使われている、という面白そうな要素があります。

どれかが原点にあって、他が語呂合わせ的にせよ派生したもののようにも見えますが、整理がついていません。

「妹」をお大切に。

[8204] Re: リベンジではないけれど  恋川亭 2007/03/05(Mon) 23:41 [Reply]
> Re[8196]:大三元さん

ありがとうございます。フィールドに出れない月日が続き、身体がすっかりなまっています。おはずかしいことです。

> アイヌの場合は、ご自分の「憑き神」に対して「なんでちゃんと私のことを注意深く見張っていてくれないのだ、しっかりしないと祭ってやらないぞ」といって文句つけるのが流儀かと承知しております。

とてもフレンドリーですね。この関係、距離感がいいですね。原点だと思います。ただ私の場合、日頃の不摂生に「憑き神」も、情け無い思いでみてるかも。

> Re[8197]:神奈備先生
> 伊勢津彦様のパワーを別雷神様に吸い取って頂くのもいいのかも。

ありがとうございます。ノサップ岬では、すごい風力で暴風が吹き荒れていました。稚内の裏山には、たくさんの巨人が立ち並びブンブン風車を回しています。身近でみると壮観でしたよ!風力発電も本当に神様からのパワーと実感できます。

天罰が下るべき理由をいくつも抱えている我が身ですが、布留御魂大神様には頭があがりません。高庭のご神前には、いつ行っても優しく迎えてくださり、神主様、禰宜様のお口を通して暖かいお言葉を戴いてきます。拝殿でジ〜ンと胸を熱くしている若輩です。まだまだ、やらなければならないことがあるのでしょう。日々の勤務を「地球へのお勤め」として頑張ります。

> Re[8198]:玄松子さん

ありがとうございます。聖地をけがすつもりはないのですが、自分のつもりと相手の気分が同調しないと難しいですね。スピリチュアル・ハラスメント→スピ・ハラ、なんて!(笑)

> 嬉しければ酒を、辛ければ塩をまく、というのは?

原点ですね!「誠意を示せ」、「まずは御一献」。今度は灘の清酒を持参します。
みなさま、ご教示、有り難うございます。

[8203] Re[8201]: 薬師の間 松原右樹  かまど [Url] 2007/03/05(Mon) 22:19 [Reply]
MADOKAさん

> 薬師の間 
> 再度考えてみましたが、竃家の、薬師の間と薬師堂は別で、半分残っている旧宅内に薬師の間は現存しているとみるのが筋であるようにおもいます。
> または同じ屋敷内のことであり薬師の間の意味は薬師堂に集約された??

ふと思ったのは、薬師の間と部対殿(神の間;丹生都姫)と勘違いされていないかと思ったのです。でも、それだけ調べられているのであれば、勘違いされていると言う訳ではないのでしょう。
もし部対殿がなくなっているのであれば、私が竃門家の一族のものであれば、怒りに満ちるでしょうね。
外から見た感じでは部対殿はなさそうなのでちょっと心配しています。


> 薬師堂と薬師の間の話は、かまどさんが確かな筋から確認したのでなく、書物で確認したのであれば、
> 松原右樹さんの方があっているとおもいます。
> というか
> 薬師堂と薬師の間の二つの伝承があり、同じ屋敷内であるため混在して伝承記述があるとみたほうが良いのでは?

薬師の間については初耳。書物では確認できないと思いますよ。竃門氏古文書に薬師堂については詳しく書かれています。もちろん部対殿についても。



> 大事なことは竃家内に狩り場明神誕生と丹生津ひめが一時滞在したという伝承があるということでしょう。

恐らく、これはつぎの話のことではないでしょうか。

「丹生家信が空海上人に密教守護を約束し、家信死後空海は彼を狩場明神と崇めた」
(竃門氏家系図、丹生氏家系図より)
つまり、竃門家の屋敷=丹生総神主の屋敷であり、丹生家信が空海により狩場明神と呼ばれた瞬間は、この竃門屋敷に住んでいましたから、狩場明神誕生はこの竃門家と言えるのかも知れません。
また、家信は丹治氏からの養子(竃門家系図より)で、その当時丹生総神主は男子がいなかったためです。家信は丹生氏と親戚であるから養子にした(丹生氏家系図より)との事。つまり、丹治氏に丹生氏から嫁を出して、その女性が家信を産み、その当時出産は実家でするのが通常であれば、家信は竃門屋敷で生まれたという事になります。仮定が多いですが。

丹生都姫が滞在したと言うのは、恐らく次ぎの話でしょう。
丹生都姫がこの地に来た折、竃門家先祖は、お出しする料理がなかった。そこで時期のすぎた瓜をしょうがなくお出しした。丹生都姫はこれをおいしいおいしいと食べてくださった。それ以来、竃門家では六月晦日の神事が済むまで瓜を食べないと言う慣習があった(竃門氏伝承)
つまり、滞在したという事ではないでしょうか?

しかし、私はここで言うこの地と言うのは、三谷なのか丹生川上なのか迷っています。竃門家古文書には、竃門家の先祖である道臣命は丹生川上より丹生都姫にともなって三谷にやってきた事がかかれています。つまり、この竃門氏の古文書を信じれば先の話は丹生川上での話である可能性が高いという事です。

ちなみに、松原先生の記述ではこの話を、竃門家から、「丹生都姫は瓜が好き」と聞かれたようです。
私は、瓜が好きで丹生都姫に瓜を供えているというよりも、竃門家先祖は何もご馳走を出せず、申し訳なく出した瓜を、姫様がおいしいと言って食べてくださった。そのやさしさ、慈悲に対して、竃門家はその故事を忘れないように、神事を行ったと考えています。ちなみに、このことを紀伊続風土記では誰に聞いたのか訳の分からないことを書いていますね。

> このことを知っていた空海が薬師堂を建て、丹生津姫が地主神である高野山の大門が竃家前で組み立てられたのでは?。(このリアル感は松原右樹さんの知る伝承の方が本来に近いのではとおもわれる)

簡単に言いますと、薬師堂は空海が丹生氏(竃門氏)の屋敷の家相を見て建てさせた(竃門氏伝承)。薬師は目の神様。狩場明神の本地は金剛界の大日如来が知られているところですが、竃門家では丹生家信=狩場明神の本地はこの薬師とみています。鉱山師との関わりを思わせますね。
ちなみに高野山の大門は初めは普通の鳥居です。今のような大きな大門になったのは後世の話だったと記憶しております。


> 妹君ゆかりの地に参られるのは村民です。
> 竃家にかぎったことではない。

ごめんなさい、私も三谷で生まれ育ちまして、母も三谷で住んで30年、父は三谷で生まれて60年ですが、その話は初めてです。参ったことありません。
という事は、それよりももっと前(大正、明治時代)の人たちは何か参られていたのかも知れませんね。でも、丹生都姫の妹の話はほんと初耳です。(それだけに楽しみです!)


松原先生もすごいですが、MADOKAさんも、私の質問に回答できるほど松原先生のお話を覚えていると言うのはまさに超人的と感じています。

[8202] 無題  MADOKA [Url] 2007/03/05(Mon) 21:08 [Reply]
>私の一番の関心は部対殿(丹生明神影向のところ)がまだあるかないか。竃門家で知りたいのはこの一点のみ。

部対殿は、建屋が別になっていて一間四面の猪垣だったそうです。

三谷街道をまた行くときでも。。聞いてみましょう
いつになるかは不明。。



[8201] 薬師の間 松原右樹  MADOKA [Url] 2007/03/05(Mon) 21:01 [Reply]
かまどさん
薬師の間 
再度考えてみましたが、竃家の、薬師の間と薬師堂は別で、半分残っている旧宅内に薬師の間は現存しているとみるのが筋であるようにおもいます。
または同じ屋敷内のことであり薬師の間の意味は薬師堂に集約された??

壊されたのは社務所?という事務所ではないかと。
推測ですが。駐車場ていうのはそう考えるしかない
若水を村人がとりにきたり、氏神としての機能を竃家はもっていたのですから、屋敷内とはいえ参拝者はあったとおもいますがね。参拝者がなくとも社務所のある神社というのはありますからね。。。

竃神社の裏はありえるでしょう。
竃家の前といえば前です 確かに
重要なことは キヤバ という地名が高野山の大門組み立てに関連することでしょうねえ

薬師堂と薬師の間の話は、かまどさんが確かな筋から確認したのでなく、書物で確認したのであれば、
松原右樹さんの方があっているとおもいます。
というか
薬師堂と薬師の間の二つの伝承があり、同じ屋敷内であるため混在して伝承記述があるとみたほうが良いのでは?

大事なことは竃家内に狩り場明神誕生と丹生津ひめが一時滞在したという伝承があるということでしょう。
このことを知っていた空海が薬師堂を建て、丹生津姫が地主神である高野山の大門が竃家前で組み立てられたのでは?。(このリアル感は松原右樹さんの知る伝承の方が本来に近いのではとおもわれる)

『瓜』の話は私はしらない。
ただ経験じょう、祭神に供える供物は祭神の性質や由来を本来示しているのが、供物そのものを祭神が好むというふうなすり替えはよくある。
例 龍神様はリンゴがお好き
たぶんこれは龍神の持っている赤い玉が本来でしょう

妹君ゆかりの地に参られるのは村民です。
竃家にかぎったことではない。

松原右樹さんは徹底したフィールドワークで地元の伝承を丹念に集めている。
伊勢神道のみで神社を語ることに義憤をもっている。
死やケガレは忌み嫌われたことでは無く、神聖なことであった それを見ないと熊野はみえてこない。
私が松原右樹さんのキャッチコピーを書くと
『国津神の再生!
土蜘蛛ソウルを叫びつづける民族学者!』ですね
残念なことに 松原右樹さんの書く記事は負の部分に触れるので出版されると、それをこころよく思わない団体が書物を買い集めて市場に出回らなくされたりする。また松原右樹の論文のパクリが多い。
であるがゆえに、講演会。ツアーをご案内するのです
こういう形でないと松原右樹ワールドはわからない。
負の部分のようでそれが非常に地元にとって大事なことは、講演会にいくとわかる。有名な著作があるわけでもないのに、あれほど熱心な人を多く集める民族学者は他にいないとおもいます。満席!!(松原右樹さんのためならば!という自腹をきっての応援おばちゃん多し。。)

再度 様 は ヤメテネ!!!!!!

[8200] 薬師の間  かまど [Url] 2007/03/05(Mon) 20:26 [Reply]
MADOKAさん

部対殿については聞かれたことないですか?まだあるかなど。

可能なら松原先生に一度聞いてみてもらえませんか?

私の一番の関心は部対殿(丹生明神影向のところ)がまだあるかないか。竃門家で知りたいのはこの一点のみ。

部対殿は、建屋が別になっていて一間四面の猪垣だったそうです。

[8199] 海童命  神奈備 2007/03/05(Mon) 18:26 [Reply]
 元祖住吉三神を塩筒老翁とする説があったような気がします。そうしますと隼人の南方系のにおいがしないでもありません。ただ、「海の底に居て、水葉も稚やかに出る神」がそれぞれの筒男の神であって老翁とされる塩爺では具合が悪いのかも。

 『記紀』ともども、北九州の香椎宮に居た時の神功皇后の物語に住吉三神が現れていますが、さりとて博多に鎮座の住吉神社が最古の住吉三神を祀る神社とは断定できない所です。『古事記』では、先ず船の上に祀っています。『日本書紀』では肥前国松浦県に神祇を祀ったとあり、それが最初の住吉神社だったかも知れません。

 朝鮮半島に攻め込んだ倭の軍がいたことは、「高句麗好太王碑」にまさに神功皇后の時代(4世紀末頃)に史実として明かで、その伝承が神功皇后伝承に反映されていると見ていいのでしょう。

 半島の新羅の国王の門に杖を突き立てて、『古事記』ではこれを墨江の大神の荒御魂としています。半島から凱旋した後、『日本書紀』では、住吉三神が皇后に教えて穴門の山田邑に荒魂を祀る社を建てたとあります。山口県下関市一の宮に鎮座する住吉坐荒御魂神社三座です。


 摂津の国にも本住吉神社が鎮座、住吉大社の建立地の「大津渟中倉之長峡」とは神戸市東灘区住吉宮町の方だとの主張、一理ありそうなのは紀香陣内の生田神社の鎮座地を活田長峡国と表現しており、「長峡」が共通で、これを上町台地と言い切ることは出来ません。六甲山が海に迫った狭く長い平地を指したのかも知れません。

 摂津が最古の住吉ではなさそうです。
 注目すべきは対馬の住吉神社です。式内社は鶏知に鎮座の住吉神社とされていますが、これは鴨居瀬の住吉神社を移祭したものと伝わっているそうです。この鶏知の祭神は「彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊 配祀 豐玉姫命、玉依姫命」、鴨居瀬は「彦波瀲武鵜鵜草葺不合命、三筒男命」となっています。それ以外の対馬の住吉神社や壱岐の住吉神社は筒男神を祀っています。

 神功皇后が祀ったかもしれない肥前国松浦郡の住吉神社の祭神は海童命となっています。

 筒男神を祭神としない住吉神社の存在は極めて興味深いものがあります。それが現住吉大社の真弓宮司さんが発祥の地と言う対馬の古い住吉神社であり、海神の娘の豊玉姫神の子である
鵜鵜草葺不合命と言う海童を祀っているのは本家らしいこだわりのように思えます。
 この海童の誕生に塩筒老翁がかかわっており、生まれ変わりかも知れませんね。

[8198] Re[8192]: リベンジではないけれど  玄松子 2007/03/05(Mon) 15:30 [Reply]
> さりながら、北の大地をしろしめす大神さまへのご挨拶と、許しとご助力を請う祈り方が判りません。

アイヌの聖地を汚すのでなければ「蝦夷地」のやり方に拘る必要はないように思います。
嬉しければ酒を、辛ければ塩をまく、というのは?

[8197] Re[8192]: リベンジではないけれど  神奈備 2007/03/05(Mon) 10:10 [Reply]
 稚内の北端の岬に行った際、すごい音量で演歌が流されていたことを思い出します。おそらくは太古樺太からこの大地に渡って来た大祖先の記念すべき上陸の地でしょうから、東アジアの魂を揺さぶる演歌なのでしょう。

 ここで太陽光発電をやるのも面白いでしょうが、伊勢津彦様のパワーを別雷神様に吸い取って頂くのもいいのかも。

 いずれにしても自然の摂理に適った仕事をしている人間様にどのような理由で天罰が下ったのか、いや、黒い車から救い出し白い車に乗れるように計らってくれた神様がいたのかも。

 ご無沙汰していても手をさしのべてくれた布留御魂様に感謝ですね。お守りを持参です。

[8196] Re[8192]: リベンジではないけれど  大三元 2007/03/05(Mon) 08:41 [Reply]
恋川亭さん、なんか大変だったようですね。

> さりながら、北の大地をしろしめす大神さまへのご挨拶と、許しとご助力を請う祈り方が判りません。

アイヌの場合は、ご自分の「憑き神」に対して「なんでちゃんと私のことを注意深く見張っていてくれないのだ、しっかりしないと祭ってやらないぞ」といって文句つけるのが流儀かと承知しております。


[8195] Re[8194]: おせっかい  かまど [Url] 2007/03/05(Mon) 08:07 [Reply]
MADOKAさん

> 薬師堂の件は 私も薬師堂がそうではないか?と現地で松原さんに聞いたんですが。。
> 松原右樹曰く、『薬師堂と薬師の間は違う!そのことを間違って書いているのが多い!』とのこと。

そうですか・・・。他に薬師の間があったんですかね。私は聞いた事がありませんでしたもので。


> 竃家には入ってないですが。薬師の間といわれたであろう場所は 今駐車場。で地元の人に松原さんがここに薬師の間がありましたね?と問うと『社務所があったね』という答えだった。。

部対殿は、建屋が別になっていて一間四面の猪垣だったそうです。(かつらぎ町史の竃門家古文書より)
社務所ねえ〜・・・。敷地内で誰も参拝なんかこないのに?う〜ん???


>神?が生まれた場所を駐車場で罰あたらねえのかあ??御霊はうつしたんでしょうが。。。

この件については、これ以上突っ込んで書くとプライベートな話なので、ちょっとやめときます。


> キヤバ は裏
> 裏は無いと思うよ。。たぶん崖?道ないし。。。

いえいえ、竃門神社の裏ですよ。
竃門家から言えば、東隣。

> 道路拡張でかなり竃家は変わっていると思う。半分?新築してたし。松原さんが迷ったぐらいだもの。 向かいに薬師堂は現存してましたが。。(去年秋にいきました。御滝は行けませんでした。酒殿神社の裏山はけっこう上りましたが 無念)

榊山の上には弁天様が祭られているぐらいですからね。
鎌八幡もみられたんでしょうね。鎌八幡について書かれてた記事を見ましたから。そこに、竃門家の人の名前が出ていて、多分その方からの情報なんでしょうね。
そこの記事には瓜の話が出てましたが、「丹生都姫は瓜が好き」って竃門家の人がほんとに言われてたら、だいぶ省略されてますね。と言うかその竃門家の人が、元の話を聞いて丹生都姫は瓜が好きなのかな、って思ったんでしょうね。元の話がなく、その人の感想を聞いてしまったって感じです。


> 松原情報は竃家の最長老の方と松原さんがジッコンなのでその筋による。その人の記憶が家の前で大門を組み立てです。

最長老ですか・・・。、多分MADOKA様は最近私のブログは読んだことないですよね。まあ、そこから先は私は断念してしまったのですが。


> このときの収穫は 
> 丹生都姫に妹の話でしょう。
> これは村外の人に村の人があまり語りたくないとのこと。松原さんが現地調査ののち発表するとおもいますが。。。
> この妹の話は普通の人間!の災難話。
> 内容よりも重要なことは、地元の人がソコへ現代でもお参りにいっているという事実であろうとおもう。
> 私が思うにココを治めていた媛のご親族に対する思いを地元の人が今もって持っているととるのが自然な発想かとおもうが。。(これはMADOKA論)

おおっ、そんな話が!受難!なんかすごい話が聞けそうですね。私も地元ですが、そんな話聞いたことないので、楽しみ。竃門家だけがお参りしてるんでしょうかね?
松原先生の発表を楽しみにしてます。発表したらどこで入手(購入)できるか教えて下さいね。

でも、松原先生ってすごい行動力があるんですね。私にはできないなあ〜。すごい!

[8194] おせっかい  MADOKA [Url] 2007/03/05(Mon) 03:43 [Reply]
東沢さん 
写真別荘の方にヨーカンさんから巴紋の右左で東沢さんに質問がきてますよ!

恋川亭さん
御巡業修業の旅ご苦労様m(==)m
御身大切に!怪我大丈夫?
痛みなら! 温めてよいのなら。。。
風呂屋湯ミソギ修業をお加えになることをお勧めします!(*0*) 北海道は湯もいいみたいやし。大地の羊水効果で運気改善!気分転換!発想無尽?の効験あり!北海道は霊的にスゲーとこだと聞いてことあるんで。。。きいつけてね! 

かまどさん
見てます! ちょっとグロッキー気味
薬師堂の件は 私も薬師堂がそうではないか?と現地で松原さんに聞いたんですが。。
松原右樹曰く、『薬師堂と薬師の間は違う!そのことを間違って書いているのが多い!』とのこと。
が私自身は釈然とはしていない。なぜか
竃家には入ってないですが。薬師の間といわれたであろう場所は 今駐車場。神?が生まれた場所を駐車場で罰あたらねえのかあ??御霊はうつしたんでしょうが。。。で地元の人に松原さんがここに薬師の間がありましたね?と問うと『社務所があったね』という答えだった。。かまどさんのいう部対殿のことではねえか?とこの件はかまどさんに一票とうじよう。
ただ。。薬師堂。空海建立では。。変とは思うが。。その前に存在しないと生まれた場所としておかしいとおもいますが。。松原さんはそのことを言っておるんでないか??内部にはいってないので現存するかもしれんが。。。。。

キヤバ は裏
裏は無いと思うよ。。たぶん崖?道ないし。。。
道路拡張でかなり竃家は変わっていると思う。半分?新築してたし。松原さんが迷ったぐらいだもの。 向かいに薬師堂は現存してましたが。。(去年秋にいきました。御滝は行けませんでした。酒殿神社の裏山はけっこう上りましたが 無念)

『丹生大明神告門』は50部コピーが出回っている。
その関係の話をする人は何人かいるようです。
松原さんも所有。
松原情報は竃家の最長老の方と松原さんがジッコンなのでその筋による。その人の記憶が家の前で大門を組み立てです。
薬師の間の情報もそこからだろうとおもう。。
なので 一票とうじても真偽は私にはわからない。
竃家のことは松原さんがもっとも知っている人だとおもう。 

このときの収穫は 
丹生都姫に妹の話でしょう。
これは村外の人に村の人があまり語りたくないとのこと。松原さんが現地調査ののち発表するとおもいますが。。。
この妹の話は普通の人間!の災難話。
内容よりも重要なことは、地元の人がソコへ現代でもお参りにいっているという事実であろうとおもう。
私が思うにココを治めていた媛のご親族に対する思いを地元の人が今もって持っているととるのが自然な発想かとおもうが。。(これはMADOKA論)

様はやめてね!敬称きらいなんで!で名字もやめて公私ともにMADOKAにしてるんで。。。

[8193] MADOKA様  かまど [Url] 2007/03/04(Sun) 23:17 [Reply]
訂正!

>>竃門家内に「薬師の間」という薬師如来を祀った部屋で「狩場明神」(犬黒神キ犬飼の神)が生まれたと伝えていた。

>違います。屋敷内にあったのは部対殿で、薬師は道を挟んで反対側に薬師堂があり、これですね。
>これは松原先生の記事でも勘違いされてましたね。

すいません。厳密に言うと、薬師堂の位置は変わりませんが、昭和初期に竃門家から三谷地区のものに変わっています(いろいろと複雑な経緯がありまして)。
つまり、現在は屋敷外ですが、大正以前は屋敷内です。

もし、薬師堂の建った経緯まで聞き取りされていたらすごいです。私の出る幕はありません。

って、MADOKA様見てるかな。

[8192] リベンジではないけれど  恋川亭 2007/03/04(Sun) 22:43 [Reply]
ご無沙汰しています。とある御方にはご報告いたしましたが。
さいはての町で救急車で運ばれる悲惨を味わいました(それが霊柩車にならなかったことが幸い)。稚内市のみなさまの、迅速な処置と的確な手配により助かりました。厚く感謝申し上げます、有り難うございました。

とはいえ、まだ怪我も快復せず痛みに耐えているのですが、1週間後また稚内に行ってきます。仕事ですから。北の大地に、天照大神さまの御魂のふゆを、石凝トメ神さまの奇しき板で受けて建御雷神さまのお働きに換える大からくりを杵築あげるところです。

さりながら、北の大地をしろしめす大神さまへのご挨拶と、許しとご助力を請う祈り方が判りません。ヤマトの人間が(素人なりに)、蝦夷地の神々に捧げる祈りについて、ご助言を賜りたく投稿しました。素人なりにですよ(マニアックじゃなくて)宜しくお願い致します。

[8191] Re[8190][8183]「五瀬命」と「伊勢」 宮城の方言「ごせぐ」と「いせる」について  神奈備 2007/03/03(Sat) 10:08 [Reply]
> 風や雷が襲来してさんざん突風や雷鳴で家を揺らしバタバタ音を立てたり大きな音たてて落ちたりして、一瞬止んだかとおもったらまたバタバタ、ドスンときたときなど「はー(感嘆)、いせっこだ!」、「ごせいだな」などと自然現象に対しても使います。これが「いせる」、「ごせぐ」です。

 伊勢津彦が伊勢国を立ち去る時に、大風を起こし、海水を吹き上げて、退却の証拠としたと『伊勢国風土記逸文』にあります。
 「イセ」には風が強いことを示す意味があるのでしょうね。威勢がいいも同類かも。

 精を出す。御精が出ますね。→「ごせぐ」??

 奈良に御所市(ごせ)があります。葛城です。この御所は川瀬(こせ)からの転訛と『奈良県史』は言います。以前[8055] 猪の「ゐ」が日、光、川から水に通じるとの話が出ていましたが、川瀬は「ゐ瀬」から来ているのかも知れません。

 伊勢、五瀬、御所は同義かも。

[8190] Re[8183]「五瀬命」と「伊勢」 宮城の方言「ごせぐ」と「いせる」について  東沢美史 2007/03/02(Fri) 23:31 [Reply]
昔、祖父らの話ししてたところによると私のところの口寄せ巫女が陸奥に北斗七星の形に神社を祀ってあることを伝えてたといいます。
10年ほど前になりますが千葉氏の妙見社を神守してる女性は私にやはりおなじく神社が7つあると長話のにあとに話してくれたことがあります。
それを聞いてまもなく一番端、北斗七星の柄杓の柄先に位置する胆沢・伊澤(いざわ)城真北の陸奥巌谷堂の五十瀬神社に行ったことはありますが、妙見社のほうも含めそのときはもうなにも証拠となる手掛かりは見つけられませんでした。

陸奥胆沢(いさわ)及び全国の五十瀬神社と発音が近い五十鈴神社。
大槻文彦説、鈴=瀬瀬。志摩国の伊雑神社(いさわ)=磯部宮。
吉野裕子によれば「太一」という北極星、北斗七星を表す祭りが伊勢にあるという。

記憶力が悪いので川口謙二さんの柏書房刊「日本の神様事典」を参照させていただきますが、五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いないのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)は鵜葺草葺不合命(うがきやふきあえずのみこと)と玉依毘女命(たまよりひめ)の婚姻によって生まれたという。

これらからは宮城県ですと地名から旧北上川河口の牡鹿郡、桃生郡あたりを連想します。
五瀬命の経路である安芸国の多祀理宮(たけりのみや)、攝津・波速の渡り、紀伊の男之水門(おのみなと)、竃山(かまやま)。
これらの西国の地名は現在の宮城県牡鹿郡や桃生郡の式内社の多い地域にダブります。竹水門(たけのみなと)、石巻市渡波、伊峙(いぢ)の水門(みなと)、計仙麻神社の亀山。
大阪日下で待ちうけてた長髄彦は、日本武尊を迎え撃った陸奥蝦夷の島津神・国津神に比定できるし、日神(ひのかみ)は桃生・日高見神社、また稲氷命は石巻市街北、旧井内(いない)村(現在の稲井)に発音が同じ。
つまり五瀬命の東征は日本武尊の蝦夷征伐になんか似てる。

伊勢(いせ)とともに五瀬命(いつせのみこと)から連想する発音に感情や動作の状態を強く表す動詞の「いせる」、「ごせぐ」という宮城の方言があります。
仲間と一緒に居たい、同じでありたいのに仲間はずれにされたり、差をつけられたりすると腹いせに愚図ったり短気をおこしたり、酷いのになると自爆気味の示威行動をこれ見よがしにします。
台風や雷が襲来してさんざん突風や雷鳴で家を揺らしバタバタ音を立てたり大きな音たてて落ちたりして、一瞬止んだかとおもったらまたバタバタ、ドスンときたときなど「はー(感嘆)、いせっこだ!」、「ごせいだな」などと自然現象に対しても使います。これが「いせる」、「ごせぐ」です。
「伊勢」や「五瀬」が古くに「伊勢る」、「五瀬る」と動詞になったのではないか。
これらは若い世代も知ってるし、年配の人ほど強烈な実体験とともに理解してるし胸奥にある言葉です。

西国には有名な天神、天満宮が多く東国には替わりに無名だけど雷神社や雷神神社が多い。
でも、伊勢や五瀬命の発音にも雷様と同じ様な怒り、祟りの性格を見るのですが。

MADOKAさん、ありがとうございます。一行書くのに何十分とかかる鈍才ですが、日数かけて少しづつ書かせていただきます。



[8189] Re[8188]: 無題  かまど [Url] 2007/03/01(Thu) 23:40 [Reply]
こんばんは、MADOKA様

> かまどさん
> 松原右樹さんと丹生酒殿神社  竃門神社を御一緒した報告!狩り場明神の件わかりました。

松原先生とご一緒に回られたんですね。1月に酒殿神社と鎌八幡について松原先生の記事を読ませて頂いたのですが、回られたのはそのころですかね?

>天野大社の宮司は本来竃門家の下を流れる川でミソギをして竃家で支度をととのえて宮司になる。

下の川とは紀ノ川で、薬師の間(薬師堂)で着替え、竃門神社前で神主に昇進する儀式を行った、だったと思います。ちなみに竃門神社は丹生都姫が来る前の地主の神(大伴氏の祭る神)であり、丹生都姫の守護の神。


>竃門家は近年まで村の若水を提供していた。
若水までは知りませんが、新年のための火をもらいに村の人が来ていたとは聞いた事があります。

>竃門神社(家)の前は キヤバといい高野山大門を造るときの木材はここで組み立てたという。
おおっ、そこまで調べられたんですね。良くご存知で。
性格には竃門神社の裏(後)ですね。

>改築されて無くなったようであるが?
丹生氏は、無くしてはいけないものを無くしてしまったのかも知れません。


>竃門家内に「薬師の間」という薬師如来を祀った部屋で「狩場明神」(犬黒神キ犬飼の神)が生まれたと伝えていた。

違います。屋敷内にあったのは部対殿で、薬師は道を挟んで反対側に薬師堂があり、これですね。
これは松原先生の記事でも勘違いされてましたね。
ついでに、犬黒神は犬黒比(止)とも書きます。 


>紀伊続風土記』は「竃門屋敷に丹生明神の影向(ようごう)の所あり」
これが、部対殿ですね。


> このとき、地元で丹生都比売の妹の伝承を聞く。未調査ゆえに伏しますが妹が実在の人物?であるような伝承。&「薬師の間」に丹生都比売神が一時滞在したとかから

丹生都姫に妹ですか!それは新たな展開ですね。
薬師堂は空海による創始なので、丹生都姫が滞在したと言うのはどうなんでしょう。


ちなみに、丹生都姫降臨の滝や、丹生氏が瓜を供えた滝は見てこられましたか?


[8188] 無題  MADOKA [Url] 2007/03/01(Thu) 21:23 [Reply]
玄松士さん
>すでに締切過ぎてるように見えますが。

ほんまですなあ。。はっはっは(*0*)/
御指摘ありがとうございます。。
まあ行きたい方は一度連絡して見て下さいダメ元で 運が良ければ参加できるでしょう。

こちらは大丈夫です!!
大阪府立泉陽高等学校 泉陽会歴史文化講座
第72回:熊野古道信太山から府中へ
(現地見学会)
日 時……平成19年3月23日(第4金曜日)
12:30~16:00
集合地……JR「信太山」駅改札口
講 師……松原 右樹
連 絡 先 岡本 牧子 ( 072-238-8669)
〒590-0021堺市北三国丘町3-1-40
かまどさん
先に案内のツアーは私は不参加ですが
松原右樹さんと丹生酒殿神社  竃門神社を御一緒した報告!狩り場明神の件わかりました。
まず丹生酒殿神社は「丹生都比売神降臨の旧地」裏山「榊山(さかきやま)または「御榊山(みさかきやま)ここに丹生都比売神が手に榊をもって降臨された(竃門家他 伝)「御滝(みたき)」の水を醸し、丹生都比売神に供えたのが丹生酒殿神社のはじまり。御滝がなまって「三谷」という地名?三谷坂(天野街道 世界遺産)が本来の天野大社参拝道。天野大社の宮司は本来竃門家の下を流れる川でミソギをして竃家で支度をととのえて宮司になる。竃門家は近年まで村の若水を提供していた。竃門神社(家)の前は キヤバといい高野山大門を造るときの木材はここで組み立てたという。改築されて無くなったようであるが?竃門家内に「薬師の間」という薬師如来を祀った部屋で「狩場明神」(犬黒神キ犬飼の神)が生まれたと伝えていた。狩場明神誕生の地という重要な伝承地。紀伊続風土記』は「竃門屋敷に丹生明神の影向(ようごう)の所あり」竃門家の「薬師の間」に丹生都比売神が一時滞在したという伝承もあった。
以上 松原右樹 覚え書き参照

このとき、地元で丹生都比売の妹の伝承を聞く。未調査ゆえに伏しますが妹が実在の人物?であるような伝承。&「薬師の間」に丹生都比売神が一時滞在したとかからすると丹生都比売も実在か??????????MADOKA青草説
東沢美史さん
東北ねた?おもしろいですね!期待しています


神奈備掲示板、青草談話室 写真掲示板 過去ログ集目次




神奈備ホームに戻る