神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十九年 七月 2007.7)お名前の敬称は省略しています。

[8404] Re[8403]: 違う部族??  神奈備 2007/07/31(Tue) 14:27 [Reply]
> 阿麻=(海人)で火明=ホアカリ=海部集団を意味しているのでしょうか。

 入れ墨をしているようですから、安曇族かなと思っていますが・・・。


> オロチは大蛇でしょう、水神でしょうか。

 このオロチ族は素盞嗚尊が退治した八岐大蛇と同じオロチでしょうから、毎年の斐伊川の氾濫をオロチになぞらえるような説がありますが、ここでは天叢雲剣が出たと言うことから鉄穴流しを行って鉄製の武器などを持っていた一族と見た方が隠岐島まで侵略・支配したとされていますので、似合いそうです。


> 紀伊、貴志線にイタキソ駅ががあり。出雲の西に五十猛駅があります。何か関係があるのでしょうか。

 石見の磯竹村のJRの駅が五十猛駅、五十猛神社が鎮座しています。創建は江戸時代のようです。近くには韓神新羅神社や大屋姫命神社も鎮座していますが、殆ど近世の創建のようです。
 「村おこし」の一環として、名もなき社に地域に語られている伝承の神々を祀ったのかも知れません。

[8403] 違う部族??  縁MADOKA [Url] 2007/07/31(Tue) 01:17 [Reply]
神奈備さん おかえりなさい(*^0^*)
木の葉族 まとめていただいてありがとうございます!

とみたさん
>これは面白い。対馬と壱岐は仲が悪い?月神と日神の仲が悪いのでしょうか。隠岐本島と西の浦島でも仲が悪い。どういうことでしょうか。オモシロイ!>

対馬と壱岐の話は司馬遼太郎の紀行文より、対馬のタクシーの運転手が壱岐のもんは、山ばかりの対馬におるものは馬鹿やと笑っているという話から。。
対馬は行きましたが、卑弥呼の話に出てくるように、本当に山また山 島なのに、車で移動中 海を見る確立が少ない!たぶん、対馬は耕作にあまり適地でなく、壱岐の方が豊かなようです。観光案内を調べても、壱岐は解放的!観光客いらっしゃい!!てな感じ?対馬はあまり上手じゃない。。。
壱岐は解放的で豊かで社交的?
対馬は無骨で素朴な感じ?でしょうか?
たぶん、生活そのものが違うんじゃないのかなあ。。
族が違うのでは?と壱岐は行ってないんで。。。
対馬はシャーマニックな感じはビンビン!
天神多久頭魂神社は凄かった!!
石で築いた塔に獅子? 土壇しかないんですが、ここは確かに!神社だとハッキリ感じる空間!
天道山を遥拝しているらしいです。。鏡と丸い石をお供えするのが祈願の方法らしく、小さい祠?に百金ショップにあるような鏡と丸い石が一杯収められていました。天道信仰は私も注目!姫神が鏡(日)を抱いた神像あり、私の追う あかるひめの本来の出自は対馬と睨んでいます。根拠は薄いですが、比売許曽神社にある大小橋命の先祖が対馬に繋がる!
『比売許曽神社』
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/himekoso.htm
『仁徳天皇皇居大宮跡周辺 探索』
http://www.isemonogatari.com/geo/oldmap/nintoku.htm
『味原池から細工谷 - 「猫間川源流探検記」』
http://www.eonet.ne.jp/~ringo-do/tanken_ajiharaike.htm

西の浦島と隠岐本島の件は
西の浦島へいったとき、私は西の浦は亡ぼされた木の葉族で本島は亡ぼした出雲族だとおもい、現地の人に本島と仲いい?と聞くと、昔話にわらじを投げて、境界線を争った話があるくらいだから、あんまり、好かんなあ島外の人間にはいわないが。。ということでした。対馬壱岐と同じように、族違いと生活習慣がちがうのかも???

ちなみに焼火神社の元宮は、文覚窟!
どの本にも載ってませんが。。
私はここだとメボシをつけ西の浦島へ!知り合った現地の兄さんにそこへ私が行くというと、船ださな行けない!島の人間も行かない!なんとしても行く!わかった俺は漁師や船だしたるで!行きつきました。途中で乗ったバスの運転手に 島外からきたこの女が文覚窟へ行くから案内するという、バスの運転手は吃驚!島外の人間がなんで??文覚窟へ行ったさいその兄さんは俺も初めてだし島の人間だれも来たことない!(実は一軒だけ、文覚上人ゆかりの家だけが年に一度行くことを私は知っていたのです)焼火神社とここは関係ある!ナイ!宮司は!そういやー年に一回ここに宮司が来る。間違いナイ!ちょうど一番文覚窟二近い波止場から焼火神社の旧参道、荒れてましたが登りました、ちょうど焼火神社本殿修復中 数億円が集まったそうです。 三つの御神火はいまでも出るらしい。後日、その兄さんから、『あんたの言ってた通りのことが、記事になって載って 吃驚した』という連絡あり、確実だと思います。ちなみにこの兄さんはずっと私を離れず どうしてかなあ??酒をおごって話せば。。どうも私が自殺志願者だとおもったようです(><)妙なとこばかり一人で行こうとするし、怪しいといえばほんとに怪しい。。。(=0=)
古代史探索には注意が必要なようです。
つうことで、たぶん、いまでも、島外から、文覚窟へいった変な女できっと語りつがれていることでしょう。
島の人々にはホントにお世話になりました。。。
宿屋も世話してもらったし。。。ここに多謝!
でも、それも前日、宿が取れず、境港の駅で野宿したのがキッカケでその兄さんに出会えて行けて。。。
ほんとに不思議な体験でしたねえ。。
たくひの神の御導き。。。。。。

[8402] Re[8400]: 木の葉族と紀伊  とみた 2007/07/30(Mon) 18:58 [Reply]
神奈備さん お帰りなさい。飛行機で10数時間搭乗はお疲れでしょう。

また、師匠のご指南がいただけます。

>  『伊未自由来記』による隠岐の古代の概観。
> 1.隠岐の島に最初に住み着いた人間が木の葉比等で、獣皮の衣に木の葉を塩水に浸して乾かしたものを纏っていた。
>
> 2.次ぎに全身に入れ墨をした阿麻(海人)と称した人間がやって来て、隠岐全島の支配をするようになった。

アマテルも対馬の阿麻(海人)氐留神社が始まりですね。阿麻=(海人)で火明=ホアカリ=海部集団を意味しているのでしょうか。対馬の天道山そこにソト(蘇塗)という聖域があり天道信仰がある。ここは天道=天神、太陽神=日神を祭る。

ツキヨミ神は壱岐島とゆかりが深い。阿閉臣が朝鮮半島南部の伽耶地方に遣わされた時、月神が乗り移って民の地を月神に奉れとのたまったので山背国の地(京都市宇多野)を月神に奉り壱岐県主の先祖である押見宿禰という人物が月神の祠に仕えた。


>
> 3.大山祇の神の族が来島したが、人数は少なかった。
>
> 4.出雲の於漏智(オロチ)族が侵入し、が隠岐の主要三島を支配したので、小斯凝呂(オシコロ)島に逃避。

オロチは大蛇でしょう、水神でしょうか。ヤマタノオロチ神話と似た神話が、中国南部(ハニ族など)の神話に多いようです。竜蛇を信ずる巴族も苗族の一種。

君島久子氏は、斬龍伝説が中国長江沿いにたくさん残っているとしています。

湘西苗族(ミャオ族)には悪龍に酒を飲ませて斬り殺す話があります。

龍は南方では蛇と同一視されています。

>
> 5.流宮の大海祇神の子の六代目大人が於漏智を排除した。
>
> 6.息長足姫の征韓後、武内宿禰が津麻の地に来て、その祖神である木の国健名草三柱の神を祀った。これが式内社の天健金草神社。
>
>  後半の事についてはよく判らない所がありますが、武内宿禰、木の国健名草三柱、奈賀命(中言)、大屋津媛命、抓津媛命と紀の国に関わる名前が登場、もう少し調べて見たい所です。

紀の国は木の国、木の葉も木ですね。木を植えた五十猛命と大屋津媛。紀伊、貴志線にイタキソ駅ががあり。出雲の西に五十猛駅があります。何か関係があるのでしょうか。

> 最後は木の葉族は出雲族に負けたと思われる。
なぜなら、隠岐本島は出雲式古墳ばかり&西の浦島島民と隠岐本島島民は仲が悪いらしい。対馬と壱岐が仲が悪いと同じように。。


縁MADOKAさん
これは面白い。対馬と壱岐は仲が悪い?月神と日神の仲が悪いのでしょうか。

隠岐本島と西の浦島でも仲が悪い。

どういうことでしょうか。オモシロイ!

出雲の隠岐に海士町があります。海部とか海士という名前は全国各地にあります。

豊後海部郡、阿波海部郡、愛知県の海部郡、高知県海部、福岡県海部郷などです。海人の本拠なんでしょう。

出雲隠岐の海士町の竹田遺跡で、弥生時代の青銅器=銅剣と土器(九重式土器と甕)が出ています。多分荒神谷遺跡の銅剣と同じ時期だとすると紀元後一世紀のものでしょうか。




[8400] 木の葉族と紀伊  神奈備 2007/07/30(Mon) 13:00 [Reply]
 木の葉族については、『スサノオの来た道』朴炳植著 毎日新聞社)にいささか紹介されています。それによりますと、『伊未自由来記』(エジミユライキ)なる600年ほど前の文書に出ているそうです。隠岐島の五箇村の老人が都万村の人に持ってきたそうです。隠岐の島での五十猛兄妹神を祀る神社の鎮座地です。杵取歌にモクノシと言う言葉があり、これは「木の種」と言う意味、また男一人女二人が渡ってきて焚火山の火をその子孫が守っているとの話しや、天健金草神社(式内社)に大屋津媛命、抓津媛命、譽田別命が祭られていますが、大屋彦命がいつの間にか譽田別命に置き換わったのかも知れません。

 『伊未自由来記』による隠岐の古代の概観。
1.隠岐の島に最初に住み着いた人間が木の葉比等で、獣皮の衣に木の葉を塩水に浸して乾かしたものを纏っていた。

2.次ぎに全身に入れ墨をした阿麻(海人)と称した人間がやって来て、隠岐全島の支配をするようになった。

3.大山祇の神の族が来島したが、人数は少なかった。

4.出雲の於漏智(オロチ)族が侵入し、が隠岐の主要三島を支配したので、小斯凝呂(オシコロ)島に逃避。

5.流宮の大海祇神の子の六代目大人が於漏智を排除した。

6.息長足姫の征韓後、武内宿禰が津麻の地に来て、その祖神である木の国健名草三柱の神を祀った。これが式内社の天健金草神社。

7.『国造本紀』に隠岐国造に十挨命の名があります。伊未自姫が妻のようです。後に宇津志奈賀命が国造になり、祖神の奈賀命(中言)の神霊を奉じたとあります。

 後半の事についてはよく判らない所がありますが、武内宿禰、木の国健名草三柱、奈賀命(中言)、大屋津媛命、抓津媛命と紀の国に関わる名前が登場、もう少し調べて見たい所です。

[8399] 巴人 海神族  縁MADOKA [Url] 2007/07/30(Mon) 04:28 [Reply]
巴蛙さん はじめまして
>クエビコ は、紀氏(姫氏 季氏)>
この根拠はいかなるものでしょうか?
御教授ください
>蛙 は、楚人>
トーテムですか??? とみたさんのには鼈霊(すっぽん)族になってますが?その因果関係は 水利技術ですか?
楚人は知識がまったくないんで。。よろしく

とみたさん
>少しは共鳴いただけると励みになります。>
とみたさんの書き込みはレス少ないですけど、相当な人が注目して読んでいるとおもいますよ!!たぶん私と同じでフーンで終わるというか、自分の調べることに絡んでこないとレスできないんだとおもいます。バンバン書き込んでください 期待しています。

>大和川、淀川は古代史によく登場しますが、猪名川は名前を辛うじて知っている程度です。>

猪名川 旧大和川が 縄文弥生にとって重要な河川だとおもいます。
 猪名川上流は播州に繋がる 大和建国前?に日本で一番人口が多いのは播州という話がある!なぜなら、日本で一番 たくさんの小さい盆地密集地!古い小さな神社多し!
淀川河口は暴れ川ではっきりわからない。。
神崎川は中世、川を掘削し、神崎の遊女で名高い、平家の一門が淀川を下ってたどりついたのは大物の港!ただここもまた埋まっていく、神崎川はもともと淀川の河口で埋まっていたところを中世に掘削して神崎川になったとみています。

>私は今、朝鮮南部に大変な興味を持っています>
朝鮮南部は面白い!ウガヤ アラカヤ がありますからね!私が読んだ本 古代朝鮮語の本の中で巴型青銅器と太陽信仰で九州と朝鮮半島をつなぎ、古代朝鮮半島南部がエジプトナイル川流域と似ているという説でしたが。。。私はその古代朝鮮南部を見て吃驚!!古代難波津とソックリだったんです!それで、私は難波津ののめりこんだ!私の興味は渡来系海神族!!難波津は古代から現代にいたるまで、アジアの玄関!外航的港が特徴!難波津文化はヨソモノ文化!のゴッタマゼ!つうのが気にいっている。持論は三代以上つづく、難波っ子が増えると難波津文化はダメになる!とマジでおもっている。。村化するのよねえ。。。。

>隠岐島には牛も入っている>
いつかはしりませんが、妙な話があります。近世ですがヨーロッパのある放牧法がヨーロッパで広まる時期とほぼ同時期に隠岐でその放牧法がひろまっていて、その同時性が謎とされている。イギリス人が論文発表(私はかなり、古代?からヨーロッパに関係のある放牧民が隠岐にいたのでは?とみています)

>木の葉族は初見です。>
木の葉族に関係あるのは隠岐の西の浦島
木の葉族の伝承では古代 大戦が三度あった。
たぶん、最後は出雲族に負けたと思われる。
なぜなら、隠岐本島は出雲式古墳ばかり&西の浦島島民と隠岐本島島民は仲が悪いらしい。対馬と壱岐が仲が悪いと同じように。。

>余命、幾ばくぞ>
残念ながら、最近の予測データーでは、あと十数年で寿命は倍になるらしい!
現代人が信長の人生五十年の倍であるように。。
還暦の人に送る 私の祝い言葉、『おめでとうございます 60還暦は0歳に戻るので赤子(赤いチャンチャンコ)本日よりOOさんは私の年下!これからOOちゃんと呼ばせて頂きます!(*^0^*)/ 
毎回 大好評デス!

風連人さん
>「風恋人」と表記しようかと思ったのですが、イヤミを感じてやめました>
シャイな方ですね。。また自説 書き込みくださいね

[8398] 巴人  他  巳蛙 2007/07/29(Sun) 01:43 [Reply]
氐人(巴人=姫姓)は不死で、死ねばその体の半分は魚

クエビコ は、紀氏(姫氏 季氏)

蛙 は、楚人

 参考になれば いいですね。

[8395] Re[8394]: 巴人  とみた 2007/07/27(Fri) 11:51 [Reply]
素人さん おひさしぶりです。水銀と鉄については、すばらしい報告をいつも承っております。

> いつも興味深い書き込み読ませていただいております。

うれしいですね。
少しは共鳴いただけると励みになります。

> 巴人>
> 巴人(はじん)には興味を持っております。
> 新石器時代から巴蜀区としてこの地域は独特の文化を持っていたようです。
> 地名の巴は現在の四川省重慶市付近のようです。

> 巴蜀文字などと言う独特の文字があったようです。
そうですね。
蜀は四川省成都で巴は四川省重慶ですね。巴は蛇を表わす文字で、蜀は蚕を表わす文字だそうです。楚は長江中流域の荊の地に住む、龞霊(スッポン)族であった。

楚のスッポン族は治水に長けた族で、西の巴に侵入し、やがてさらに西の蜀の治水に成功して、それまでの杜宇政権を倒し、開明王朝を開く。これも秦の恵文王に紀元前316年に滅ぼされます。楚も長江に船で下ってきた秦始皇帝軍に紀元前223年に滅ぼされます。

> 紋でも巴の紋はいろんなバリエーションがあります。
> 常識的な知識ですが、個人的には前からたびたび書いている水銀地帯が重慶市周辺部です。
> 揚子江支流の鳥江、柄杓の流路など大変に興味の有る地域です。
> お隣の楚は戦国期には鉄の産地でした。500年古くなった弥生の鉄の供給地として興味を持っています。弥生が古くなったので、中国も春秋戦国期を通して考えなくてはならないのかと夢想しています。始皇帝以前の中国との関係でしょうか。

私も大変興味を持っています。
従来は中国は燕の鉄に関心がありました。中国の鋳鉄は春秋時代に始まり戦国時代に盛んでした。

朝鮮半島の楽浪郡を経て、倭国に入ってきた鉄もあったのではないかと考えています。古墳時代は伽耶の鉄材(鉄てい)が中心でしょうが、弥生時代にも入っていたのではなかろうかと。

しかし、長江流域の楚は、春秋時代、燕よりも前に先進的な冶金技術を誇っていたようです。

長沙市で発掘した春秋時代晩期の楚墓から、〔高温液体還元法〕によって鋳造された鉄製の鼎、剣刀が出土しています。

インドの方が古代の鉄については中国より先進国だとされています。南のほうから長江に伝わったのでしょうか。

秦によって蜀が負けると紀元前300年代以降、趙や山東半島から、蜀の臨キョウに鉄を求めて入植し、鉄の生産と交易により財をなします。

>> 最近、奈良に行ってきました。

> 三輪山から大和三山を歩いてきました。

私も、三輪山、大和三山、二上山など大好きです。毎年出かけては、明日香の民宿に泊って歩き回っております。やはり日本人の故郷みたいに感じますね。

穴師兵主神社は蚩尤を祀る。巻向山と巻向川(穴師川)で穴は鉄堀の穴ではないか、鉄一族がやってきたのかな?。纏向に10の集落があります。豆越、東田・・・みんなこの兵主神社を祀るようです。三輪山は水垣集落の氏神だそうです。

纏向遺跡は邪馬台国論争のポイントでもあります。

何時までもロマンです。

昨日、男性平均寿命79歳、女性は85・8歳と発表されました。余命、幾ばくぞ

よろしくお願いします。





[8394] 巴人  素人 2007/07/27(Fri) 00:34 [Reply]
とみた様
いつも興味深い書き込み読ませていただいております。
私の手前味噌に都合のいい内容でしたので一言。
> > >巴人>
> > というのは?九州や朝鮮南部で出土した巴型青銅器??(名称は忘れた 太陽のような)に関係あるんでしょうか?
>
巴人(はじん)には興味を持っております。
新石器時代から巴蜀区としてこの地域は独特の文化を持っていたようです。
地名の巴は現在の四川省重慶市付近のようです。
巴蜀文字などと言う独特の文字があったようです。
紋でも巴の紋はいろんなバリエーションがあります。
常識的な知識ですが、個人的には前からたびたび書いている水銀地帯が重慶市周辺部です。
揚子江支流の鳥江、柄杓の流路など大変に興味の有る地域です。
お隣の楚は戦国期には鉄の産地でした。500年古くなった弥生の鉄の供給地として興味を持っています。弥生が古くなったので、中国も春秋戦国期を通して考えなくてはならないのかと夢想しています。始皇帝以前の中国との関係でしょうか。
関係の無い文章ですみません。

最近、奈良に行ってきました。
三輪山から大和三山を歩いてきました。
巻向山から湧いた黒雲が巻向から明日香村の方に流れ、三輪山の上で雷に火がつき激しい雷雨が明日香村のほうに流れていきました。この辺から二上山を見ますと非常に小さいのに驚かされます。天乃香久山も見てきましたが、自分に都合よく見ますと山の方が凹んでいて山の上から流れたようにも見えました。たぶん手前味噌です。
奈良の自然を満喫できました。
とても素晴らしい所でした。

[8392] Re[8390][8385] Re[8383]聖水信仰と中国南方神話  とみた 2007/07/26(Thu) 10:14 [Reply]
縁MADOKAさん 皆さん
神奈備さんが海外出張(エジプト・ギリシャ)なので少し出しゃばります。ご容赦の程を
> >佃の人は漁民だったんですね。家康が冬の陣・夏の陣で海の隠密として利用した
>
> &神崎川は猪名川につながり田能遺跡
> 『田能遺跡』
> http://inoues.net/ruins/tanou.html
> へここに舟詰神社があり、田能から木を切り船をつくり、河口へ運ばれた可能性は高い! 

大和川、淀川は古代史によく登場しますが、猪名川は名前を辛うじて知っている程度です。
猪のボタン鍋の産地ですか??(冗談)神崎川は神崎製紙なんか連想します。

>  徳川方についた伝承を持つ場所がもう一カ所ある。平野郷!ここも古代河内湖の重要な港であり、住吉大社総代は平野七名家(坂上田村麿末裔)から代々でる。

これは、すごい情報です。河内湖・生駒は古代史の舞台ですね。JR関西線でめぐると平野という駅名があり、物部ゆかりの地だと思っています。神奈備さんが紹介されたランドサットの摂津河内古代図を見ると佃島、姫島、百済島、新羅島ががあり安曇江も見えます。安曇族は瀬戸内に入っていることは有名ですから納得が出来ますね。

海人はネットワークを張ります。住吉=住之江も海神の根拠でしょうね。

このあたりは、MADOKAさんや、神奈備さんはとてもお詳しいので、これからも教えてください。

> >巴人>
> というのは?九州や朝鮮南部で出土した巴型青銅器??(名称は忘れた 太陽のような)に関係あるんでしょうか?


巴人の謂れは知りません。竜蛇と白虎を信仰する民。巴が二つ並んだ板盾(隼人の盾と似ている)を用いた板盾族も巴人の一族です。

巴紋までは関係がないかと思うのですが、朝鮮南部に巴型青銅器があるんですか。私は今、朝鮮南部に大変な興味を持っています。

これは真面目な考古学的なお話です。
実は今年出雲・因幡に一人旅をしました。

出雲の佐太神社の近くの日本海海岸に古浦という場所があります。ここには弥生人の骨と卜骨が出ています。シャーマンがいたんです。この近くに朝日山という神名火山があり、麓の志谷奥で銅鐸が見つかっています。日本海を東に進み因幡に入ると青谷上寺地遺跡があります。ここは弥生時代には潟湖周辺の微高地で、卜骨が出ています。シャーマンがここにもいたんです。この卜骨がなんと朝鮮半島の南部の勒島の卜骨と同じだといわれています。

この勒島は弥生時代は交易拠点で、いろんな部族が往来していたらしい。

その後、対馬や壱岐が交易の拠点になりやがて玄界灘が拠点に変わるのです。

宗像族や安曇族などの海人は交易の民であったのでしょう。

青谷上寺地遺跡では、木の盾に朱を塗り巴紋を描いたもの、木の琴なども出ています。祭祀呪具だったのでしょう。


> 私は隠岐の島(西の浦島)の始祖伝説?木の葉族が気になっています。伝承では大陸から来たようです。
> 木の葉を着衣となっていますが、言葉という意味でべェーダーのことではないかと??

隠岐島は、やはり海人族とゆかりがあるでしょうね。
木の葉族は初見です。

隠岐島には牛も入っている。これは何時の時代でしょうか。
闘牛の風習も気になりますね。

[8391] Re[8390][8385] Re[8383]聖水信仰と中国南方神話  風連人 2007/07/26(Thu) 06:09 [Reply]
> ひょっとしたら?フレンド?ですか?

はい、フレンドのつもりです。よろしく。
「風恋人」と表記しようかと思ったのですが、イヤミを感じてやめました。

[8390] Re[8385] Re[8383]聖水信仰と中国南方神話  縁MADOKA 2007/07/26(Thu) 04:56 [Reply]
風連人さん はじめまして
ひょっとしたら?フレンド?ですか?
なんか洒落た喫茶店の屋号に使えそうな?
素敵なお名前ですね(*^0^*)/
>江=水あるいは海。戸=家または人々という解釈です。水戸も同様の意味かと。たとえば、神戸の場合は神に仕える人々、 神人の家々、神人の集落の意と解釈しますが如何でしょう>

こういう当たり前の言葉ってふと考えるとわかってないもんですね。。。
>戸=家または人々という解釈です。>
これってけっこう面白い!
荒川戸畔の戸も人々??で酋長なのかなあ???

わたしはちとこういう方面は弱いんで。。。
水戸 江戸 神戸
を解説できる方! どなたかいらっしゃませんか?
書き込みお願いします。

とみたさん
>佃の人は漁民だったんですね。家康が冬の陣・夏の陣で海の隠密として利用した

&神崎川は猪名川につながり田能遺跡
『田能遺跡』
http://inoues.net/ruins/tanou.html
へここに舟詰神社があり、田能から木を切り船をつくり、河口へ運ばれた可能性は高い! 
私がぎゃーぎゃーわめいている、古代の難波八十嶋 熊川尻!河口で小さい島の集まる嶋影が古代船の停泊地に最良!
大和田住吉神社は大和田泊といわれる
http://www13.ocn.ne.jp/~kiyoshi/salon.2html.html
つまり、船に関わる知識を古代からこのあたりの民はもっていて そういうネットワーク情報を持つ漁民として佃漁民が認知されていた可能性はある。
おもしろいことに大阪市内で 徳川方についた伝承を持つ場所がもう一カ所ある。平野郷!ここも古代河内湖の重要な港であり、住吉大社総代は平野七名家(坂上田村麿末裔)から代々でる。
『長原遺跡』
http://inoues.net/ruins2/nagaharaiseki.html
神崎川河口 平野 どちらも、古い住吉伝説と根深い住吉とのつながり、アカルヒメを祭り、渡来人の伝承の濃い場所である。&住吉の津より古い古代の津!
徳川が天下をとった影に、古代からの住吉ネットワークの援護があった!!!なーーんてね!
とみたさんへのレスで突然おもいついたけど、結構私は、いいできと自己満足(*^0^*)

>巴人>
というのは?九州や朝鮮南部で出土した巴型青銅器??(名称は忘れた 太陽のような)に関係あるんでしょうか?


>ガガイモはつる草性多年草で山野の植物、蛾も山の産物です。(蛾の皮:山桑を食べる山蚕でそれから取れた絹?私の勝手な推測です)

当たりじゃないでしょうか?
たしか スクナヒコナの衣服はキラキラとキラメイタという記述があったようにおもいますが?それで、これは宇宙服でスクナヒコナは宇宙人という宇宙人一派の説がありますからねえ ハッハッハ
絹なら、確かにその時代の人からすれば、キラメク衣装では???

私は隠岐の島(西の浦島)の始祖伝説?木の葉族が気になっています。伝承では大陸から来たようです。
木の葉を着衣となっていますが、言葉という意味でべェーダーのことではないかと??
大陸のなんらかの部族との関連を探しています。もし おもいつくところがあれば御教授ください。
隠岐の島は地質的に実は大陸の一部、阿蘇山のカルデラのように噴火でカルデラに海水が入って島になってます。(2000年前の祭祀の遺跡があります)
私は いざなみ いざなぎ がいた おのころ島は隠岐だとおもってます。船玉信仰も住吉より古いだろうと。。。すくなくとも平安時代、たくひの神は船難よけの神として全国的に有名であったようで、歌にも読まれ、どこにあるかは知らなかったようですが、たくひの神を念ずれば、三つの御神火があがり、その真ん中を通れば、助かるという信仰があった(現 隠岐汽船マーク 前に紹介しましたが)
『焼火神社』
http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/
このHPの論文 参考文献はおもしろい!
海神人フリークは必読!
(現地も行きましたが 神サビタ パワースポットでしたなあ)

>ミャオ族に詳しい学者として、金丸良子さんがおられます。

いい情報ありがとうございます。

[8387] Re[8386]: 中国南方神話(訂正)  とみた 2007/07/24(Tue) 13:44 [Reply]
相次ぐミス操作で済みません。

>銅鐸は雲南から紅河デルタで2400年前に発生したといわれています。

 銅鐸でなく、銅鼓です。

 銅鼓は雲南から紅河デルタで(正)

 紅河を東に進むとベトナムのハノイに出ます

[8386] 中国南方神話  とみた 2007/07/24(Tue) 13:35 [Reply]
>銅鐸は雲南から紅河デルタで2400年前に発生したといわれています。


[8385] Re[8383]聖水信仰と中国南方神話  とみた 2007/07/24(Tue) 13:24 [Reply]
縁MADOKAさん、風連人さん

> >東京でも、住吉神社があるんですよ。
> 今年の七福神詣で住吉神社をお参りしました。由緒には、天正年間、大阪佃の人々が徳川家康に呼ばれ故郷の住吉神社の分神霊とともに江戸に移住。東京の佃島は江戸湊の入り口に位置するとありました。何か開拓技術を持っていたのでしょうか。
>
> 西淀川区 佃島の田蓑神社のことです!
> 『田蓑神社』
> http://kamnavi.jp/en/settu/tamino.htm
> 『佃の歴史』
> http://www.tenmasamatsushita.co.jp/tukudajimahistry.htm

ありがとうございます。

こちらこそ勉強になりました。なんでも聞いてるものですね。
佃の人は漁民だったんですね。家康が冬の陣・夏の陣で海の隠密として利用した。なるほど、なるほど。
>
> >元々江戸というのも江=荒川 戸=河口という意味です。

> ほーそうなんですかーー

ちょっと知ったかぶりして小耳に挟んだことを申し上げました。風連人さんに、云われると自信がありません。軽く受け流してください。

島根県と鳥取県の境に淀江という日本海沿いの潟湖の跡がありこの角吉遺跡からも弥生時代の絵画土器が出ています。
>
> >これには、丸木舟に乗った羽人=シャーマンと高床式神殿か高床式倉庫と木に吊るした二つの銅鐸か銅鼓風のものが描かれ、太陽もあります。
>

> NHK BSで『天空の棺』という番組で長江上流で川沿いの岸壁に杭を刺して並べその上に棺をおく部族 この洞窟の壁画に書かれていた絵はまさしくこれです! 太陽と鳥と羽飾りのシャーマン 銅鼓でした。
> たしかボウ族???だったとおもいますが。。。銅鼓をいくつもってるかが権威であったようで、最後の酋長は銅鼓を泣きながら勇壮に叩いてしんだようです

私も調べていますので披露します。
長江は長いので上流つまり西から蜀、中流の巴、中下流の楚、最下流つまり東に越があります。東南は越、東北は呉と云うべきでしょうか。戦争の勝負の結果で支配地が動きます。

私の注目しているのが、楚と巴です。巴人は紀元前14?世紀ごろ殷(商)の武丁と婦好(ジャンヌダルク?見たいにすごい女大将)に攻められたほどの古族です。武漢から北に流れる漢江流域には蛇龍を信ずる伏義族、長江流域の三峡(最近出来た三峡ダム)では白虎を神聖視する廩君族がいます。

巴人は東隣の楚人に攻められます。
巴人の2大特徴は、ロ于(ジュンウ)という青銅器の楽器と、船棺葬です。

青銅器のロ于は、楚人によって作られ巴人に伝わります。虎の鈕をもち、羽人が太鼓と丸木舟を打つ姿と連雲紋様が彫られています。なんとなく銅鐸や銅鼓と関係があるのではと思っています。

ちなみにこの打楽器は中国の春秋時代にはじまり戦国時代から前漢時代に盛んに使われたらしい。

日本の銅鐸も、小さい聞く銅鐸から始まります。銅鐸は楚で作られ始めた。

銅鐸は雲南から紅河デルタで2400年前に発生したといわれています。

ボウは棘の下に人と書きます。巴人は水上生活者が多く、長江流域の崖には舟棺を懸けて死後も川を眺めていたかも知れません。


司馬遼太郎さんの街道を行くー閩(ビン)の道で、閩越は百越の一つの越人にして福建省の武威山の山崖に楠の船形木棺がたくさん懸けてあると述べ、この民は太平洋を縦横無尽に駈けた海洋民としています。ボウ族ともつながっていると思います。

ボウ族は、17世紀に明によって滅ぼされました。

私は巴人が隼人のルーツかもと想像しています。探求はまだ道半ばで進んでいません。

早大名誉教授の古賀登先生は、その説を著作《四川と長江文明》で論じておられます。



> >
> >長江の民族が北方系の黄河の民族に追われて、さらに奥地の雲南・貴州に逃げています。たくさんの少数民族がいるんです。>
>
> >諏訪春雄著 〔日本王権神話と中国南方神話〕角川選書377をお奨めします。
>
 ヤオ族はシャーマンの呪具の一つとして今も銅鐸を使っています。

青草掲示板のスクナヒコの話、オオクニヌシの国造りを助けにガガイモの小舟で海の彼方から渡ってきた話で、諏訪さんは、ガガイモの実で作った舟であり衣装はヒモムシつまり蛾の皮でつくられたとされています。ガガイモはつる草性多年草で山野の植物、蛾も山の産物です。(蛾の皮:山桑を食べる山蚕でそれから取れた絹?私の勝手な推測です)。沖縄の八重山のアカタマ・クロタマの仮面来訪神とも無縁ではない常世神ではなかろうかとも仰っています。

> ミャオ族に興味

ミャオ族に詳しい学者として、金丸良子さんがおられます。

中国雲南貴州の高原のミャオ族・ヤオ族を対象としたフィールド調査をされています。

本も多数出しておれれます。





[8384] Re[8381][8380]: 聖水信仰 中国南方神話  風連人 2007/07/24(Tue) 08:52 [Reply]
> 元々江戸というのも江=荒川 戸=河口という意味です。
>
そんな説があるんですか?
私は海人族の住む地域という意味だと思っています。
つまり、
江=水あるいは海。戸=家または人々という解釈です。水戸も同様の意味かと。
たとえば、神戸の場合は―――
神に仕える人々、 神人の家々、神人の集落の意と解釈しますが如何でしょう>

[8383] Re聖水信仰と中国南方神話  縁MADOKA 2007/07/24(Tue) 02:11 [Reply]
とみたさん ありがとうございます
>上町台地って、大阪環状線の天王寺ー玉造ー大阪城・・・のあたりなんですね。

核はそのあたり、黒川史郎氏作 古代難波津地図の
ニョキッと突き出た部分ですね、砂州で長く伸びてますが。。。。
(大阪の古代史がイマイチメジャーになれないのは地形の変貌が著しいこと、みんなここで挫折(><) 黒川氏の作図が好評なのは現代地図と重ねていることなかなかこれが手に入らない)

>東京でも、住吉神社があるんですよ。
今年の七福神詣で住吉神社をお参りしました。由緒には、天正年間、大阪佃の人々が徳川家康に呼ばれ故郷の住吉神社の分神霊とともに江戸に移住。東京の佃島は江戸湊の入り口に位置するとありました。何か開拓技術を持っていたのでしょうか。

西淀川区 佃島の田蓑神社のことです!
『田蓑神社』
http://kamnavi.jp/en/settu/tamino.htm
『佃の歴史』
http://www.tenmasamatsushita.co.jp/tukudajimahistry.htm

>元々江戸というのも江=荒川 戸=河口という意味です。

ほーそうなんですかーー
なんか和歌山の荒川戸畔みたいな名前ですねえ。。
荒川戸畔は紀の川の流れを変える呪力をもった女酋長 崇神天皇妃:遠津年魚眼妙媛【とおつあゆめまくわしひめ】の母!父説?もあるみたいですが。。。


>日本の古代史を知るには、中国と朝鮮の古代史を知る必要がある

おっしゃるとおりですなあ
私も一時結構調べたんですが、あまりの中華思想、リトル中華思想の強さに辟易!(><)
長らく距離をおいていました。

>中国は広いので、北方の黄河沿いの文明と、南方の長江沿いの文明を分けてみることも必要でしょう。

ふむふむ

>一つ面白いテーマがあるんです。
奈良県の鍵・唐子・清水谷遺跡には弥生時代の絵画土器が出ていますね。これには羽根をつけたシャーマンが姿が描かれています。島根県と鳥取県の境に淀江という日本海沿いの潟湖の跡がありこの角吉遺跡からも弥生時代の絵画土器が出ています。

>これには、丸木舟に乗った羽人=シャーマンと高床式神殿か高床式倉庫と木に吊るした二つの銅鐸か銅鼓風のものが描かれ、太陽もあります。

前に書いたかもしれませんが
NHK BSで『天空の棺』という番組で長江上流で川沿いの岸壁に杭を刺して並べその上に棺をおく部族 この洞窟の壁画に書かれていた絵はまさしくこれです! 太陽と鳥と羽飾りのシャーマン 銅鼓でした。
たしかボウ族???だったとおもいますが。。。銅鼓をいくつもってるかが権威であったようで、最後の酋長は銅鼓を泣きながら勇壮に叩いてしんだようです


>長江の民族が北方系の黄河の民族に追われて、さらに奥地の雲南・貴州に逃げています。たくさんの少数民族がいるんです。イ族、ペー族、トン族、ミャオ族、ヤオ族、チワン族等々です。これらの多くは棚田の稲作で暮らしています。鳥居や注連縄みたいなものをたて村境を守っている部族もいます。米を食べ太陽神を祭り聖樹を信仰しています。新嘗祭のルーツ見たいな吃新祭を行います。シャーマンが呪いで病を治す風習が今もあります。そして万葉集に出てくる歌垣の習俗が残っています。このあたりからお入りになると面白いかもしれません。日本神話との類似性も窺がわれます。

私も、長江に縁のある少数部族が日本に非常にかかわりがあるとみています
とくにミャオ族! この部族が稲作や宇佐とかかわりがあるとみています、たしか、姫神信仰と宇佐の御元山のような聖山信仰を持っているはずです。


>諏訪春雄著 〔日本王権神話と中国南方神話〕角川選書377をお奨めします。

これはぜひ読ませていただきます。

[8381] Re[8380]: 聖水信仰 中国南方神話  とみた 2007/07/23(Mon) 13:39 [Reply]
縁MADOKAさん コメント サンキュウーです。神奈備さんはエジプト・ギリシャの古代ロマン旅行にお出かけです。

ピンチヒッターで話題テンコモリお願いしますね。

> >四天王寺・住吉大社図屏風
> 住吉大社の神奈備山が生駒山という符号もおもしろいなあと。。。

上町台地と地下水脈のこと以前、話されていたでしょう。なんとなく覚えていたし、
住吉津、難波津のことも語られていましたので神聖な場所と聖水を思い出したんです。

上町台地って、大阪環状線の天王寺ー玉造ー大阪城・・・のあたりなんですね。
東京でも、住吉神社があるんですよ。

今年の七福神詣で住吉神社をお参りしました。由緒には、天正年間、大阪佃
の人々が徳川家康に呼ばれ故郷の住吉神社の分神霊とともに江戸に移住。東京の佃島は江戸湊の入り口に位置するとありました。何か開拓技術を持っていたのでしょうか。

元々江戸というのも江=荒川 戸=河口という意味です。

歩いていると、オヤと思うことに時々遭遇します。

> 追伸 とみたさんの中国の話いつも興味深く読ませていただてます、ふーーんで終わってレスできませんが(><)

日本の古代史を知るには、中国と朝鮮の古代史を知る必要があると思って、暇つぶしを兼ねてかなり入りこんでいます。

中国は広いので、北方の黄河沿いの文明と、南方の長江沿いの文明を分けてみることも必要でしょう。

一つ面白いテーマがあるんです。
奈良県の鍵・唐子・清水谷遺跡には弥生時代の絵画土器が出ていますね。これには羽根をつけたシャーマンが姿が描かれています。島根県と鳥取県の境に淀江という日本海沿いの潟湖の跡がありこの角吉遺跡からも弥生時代の絵画土器が出ています。

これには、丸木舟に乗った羽人=シャーマンと高床式神殿か高床式倉庫と木に吊るした二つの銅鐸か銅鼓風のものが描かれ、太陽もあります。

このシャーマンはどこから来たか。たとえば中国東北方のシャーマンは衣装に子安貝と金属鏡をたくさんぶら下げてこれ揺らして呪術を用います。卑弥呼の鬼道は何か。南方系のシャーマン?という説があります。神仙思想や道教も絡んでいるよないないような・・・??

長江の民族が北方系の黄河の民族に追われて、さらに奥地の雲南・貴州に逃げています。たくさんの少数民族がいるんです。イ族、ペー族、トン族、ミャオ族、ヤオ族、チワン族等々です。

これらの多くは棚田の稲作で暮らしています。鳥居や注連縄みたいなものをたて村境を守っている部族もいます。

米を食べ太陽神を祭り聖樹を信仰しています。新嘗祭のルーツ見たいな吃新祭を行います。

シャーマンが呪いで病を治す風習が今もあります。そして万葉集に出てくる歌垣の習俗が残っています。

このあたりからお入りになると面白いかもしれません。

日本神話との類似性も窺がわれます。

諏訪春雄著 〔日本王権神話と中国南方神話〕角川選書377をお奨めします。



[8380] 聖水信仰  縁MADOKA 2007/07/23(Mon) 03:32 [Reply]
とみたさん お久しぶりです。
>四天王寺・住吉大社図屏風
いいものをみられましたね。。。
私も再度調べてみたいとおもいます。

古代から上町台地のみが海&河内湖の中にあった。
基本的に飲み水が少なく、
江戸時代も七名水の水と売り水で庶民は暮らしたようです。
大阪で七名水はやはり不思議であったようです。
七名水は生駒山の伏流水であるようで、いったん地下に入って台地で湧き上がっているらしい。
住吉大社の神奈備山が生駒山という符号もおもしろいなあと。。。
(ある学者が上町台地をボーリングして、まるで水をコスような地層になっている、上町台地は人工だという説を発表!学会で凹凹にされたらしい(><)
この聖水信仰の根拠をずいぶん探しましたが、依然にも紹介しましたが
下記の記念館にある『三都水物語』のビデオ以外見つけることはできませんでした。
このビデオの中に四天王寺(青龍池)の下と玉造稲荷神社(白龍池)の下に地底湖があることがでてきます。
大阪市水道記念館
http://www11.ocn.ne.jp/~kinenkan/

天の橋立以外にこのように、海の中に突き出た場所で真水が湧く場所 全国のどこかにあるんでしょうかねえ???
これ随分私さがしてるんです!!
御存じの方書き込み願います!!

私はこれは非常に珍しいことで、
八十嶋祭りがイザナギ、イザナミの国生み神話を模倣した祭りという一説がありますが。。
上町台地を天の浮橋という見立て?信仰が根源にあるのではないか?と見ています。

追伸 とみたさんの中国の話いつも興味深く読ませていただてます、ふーーんで終わってレスできませんが(><)

私もそろそろ、中国史をちと勉強したく
なんか良書 御紹介願いませんかね?

中国古代史通史??
と中国海人族にかかわる歴史?
で??? ありませんか???

[8379] 燃焼により暖められた空気  素人 2007/07/23(Mon) 00:27 [Reply]
ご無沙汰しております。
素人のたわごとですが一言。
> 上昇気流によって気圧が変化し、大気の循環が発生するのでしょう。
当たり前ですが、草の燃焼により地表の空気が暖められて空気比重が小さくなり比重差のために、上昇を始めます。
上昇気流が風のエンジンです。
次に無風の水平面で考えます。
上昇した空気の分だけ燃焼帯の前後から空気が供給されます。
燃焼面の前後から風が吹くことになります。
燃焼面の前面は草が生えており地表風は草の抵抗でゆっくりとした風になるのではないでしょうか。燃焼面の後ろは草は燃え尽きて障害物が少ないので風の勢いは強いと考えられます。このために燃え広がる方向に風が吹くのではと夢想します。
たまにたわごとを書き込ませていただきますのでよろしくお願いいたします。

[8378] Re[8376][8375]: 住吉大社の海水と四天王子の清水  たんかんさ〜 [Url] 2007/07/21(Sat) 17:59 [Reply]
>  私は、明日の20日から10日ほど、古代文明の探索ツアーとしてエジプトとギリシャに行ってこようと思っています。猛暑だそうです。不在者投票というのを始めてやってみました。意外と簡単でした。
>
それは、お気をつけて愉しんで下さい。お帰りを首を長くして。。
若い頃アルジェのオランに行ってましたが、暑さは半端じゃないですから
水分補給にはご留意を。砂塵はどうでしょうか。

[8377] Re[8374][8372][8371][8370]: 草薙剣  玄松子 2007/07/20(Fri) 01:56 [Reply]

> 火が地面を水平方向に移動するのはなぜだと玄松子さんはお考えですか? まさか上昇気流だとお考えではないと思いますが。垂直方向ではなく、水平方向に火は移動してるんですよ。風が生じたためにね。

上昇気流によって気圧が変化し、大気の循環が発生するのでしょう。
向火は上昇気流を起して循環させることが目的なので「要するに風」という表現は「誤解を与えるようです」と記させていただきました。
なにか間違えてますか?

[8376] Re[8375]: 住吉大社の海水と四天王子の清水  神奈備 2007/07/19(Thu) 19:47 [Reply]
 とみたさん、こんばんは。

 上町台地の根元の住吉さん、途中の四天王寺、台地の北端にも湧き水があったようです。北端は標高27mで、上町台地では最も高い場所です。そこから西に僅かに下った場所から清水が湧きだしていました。現在のNHKの北西角の下です。

 台地の上にも雨が降るのですが、その程度ではたいした水量はえられないようです。眉に唾の気もあるのですが、生駒山系に降った雨が台地の東側の河内湖の底を通って水が湧きだしているようですね。大阪駅付近も地下水の量がただならぬことになっているそうです。

 私は、明日の20日から10日ほど、古代文明の探索ツアーとしてエジプトとギリシャに行ってこようと思っています。猛暑だそうです。不在者投票というのを始めてやってみました。意外と簡単でした。

[8375] 住吉大社の海水と四天王子の清水  とみた 2007/07/19(Thu) 14:22 [Reply]
先日、東京港区の六本木のサントリー美術館で、四天王寺・住吉大社図屏風を観ました。この作品は江戸時代の17世紀の作品です。

関西の皆さんには馴染みの地で、時々掲示板の話題に上りますが、関東在住の者にとっては、古代の水の聖地に不思議な思いをしました。説明書きを記します。

住吉大社の夏越大祓は旧暦6月晦日に行われ、大御輿が太鼓橋を渡り堺の宿院へ渡御、住吉の神は海の神で、また穢れを海水で清める禊祓=聖性の神でもある。航海の無事を祈る海の神で、イザナギ命が黄泉の国の穢れを海で洗い清めたときに生まれた禊祓の神。

絵には海水を浴びて浜で夏越の祓いに合わせてお祓いする人々が描かれています。

四天王寺の聖霊会は旧暦2月22日に行われる。

当日は四天王寺の舞台で聖徳大子の聖霊を慰める舞楽が舞われ、後ろの六時堂で法要が営まれる。大坂の低地の井戸は飲料に適さなかったが

四天王寺近辺の台地では多くの清水が湧く。

これを天王寺の七名水と称した。その一つは、四天王寺金堂基壇下の青龍池に湧くと伝えられる白石玉出の水で境内の亀井堂に引かれている。

もう一つは逢坂の水です。絵には逢坂の水を桶に汲んで運ぶ人が描かれていました。

古来、二つの社寺は海の水と清水の聖地でした。






[8374] Re[8372][8371][8370]: 草薙剣  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/19(Thu) 03:42 [Reply]
> 「風」と表現すると誤解を与えるようです。
> わざわざ言い換えずに「上昇気流」としておきましょう。

わざわざ言い換えたんですけど。

> 「ウィキペディア 風」
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8

に「風(かぜ)とは、地球上の大気の水平方向の流れである。大気の垂直方向の流れは、上昇気流または下降気流という」とあります。火が地面を水平方向に移動するのはなぜだと玄松子さんはお考えですか? まさか上昇気流だとお考えではないと思いますが。垂直方向ではなく、水平方向に火は移動してるんですよ。風が生じたためにね。

[8373] 新潟県中越沖地震情報  神奈備 2007/07/18(Wed) 13:43 [Reply]
http://niigata-jinjacho.blog.ocn.ne.jp/chuetsuoki/

[8372] Re[8371][8370]: 草薙剣  玄松子 2007/07/17(Tue) 19:26 [Reply]
> > > 迎え火
> > 火を導く方法のようです。火が着くと気流が上がり、そこへ火が寄ってくる現象。
>
> 要するに、風が生まれるんですよね。

「風」と表現すると誤解を与えるようです。
わざわざ言い換えずに「上昇気流」としておきましょう。

「ウィキペディア 風」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8

[8371] Re[8370]: 草薙剣  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/17(Tue) 18:03 [Reply]
> > 迎え火
> 火を導く方法のようです。火が着くと気流が上がり、そこへ火が寄ってくる現象。

要するに、風が生まれるんですよね。

>> 日本武尊が現地の人に焼畑農耕の仕方を教える
>焼畑はおそらくは縄文時代にも行われていたのかな、っと思っています。

焼津がどこにあるか分かりません。(『古事記』には「相模国」とあります。)もし、静岡県焼津市だとすると、山を越えて(日本武尊が通った道を「日本坂」と言います。(「峠」は江戸時代に出来た言葉で、以前は「A坂」とか「A坂越え」と言いました。)現在は日本坂トンネルでこの山を通過します。)、安倍川を渡ると登呂遺跡です。ですから、農耕の方法は日本武尊が来る前に、登呂の人に聞いていたかも。(日本武尊を襲った国造は、登呂に住んでいたとする説もあります。)

>杉鉾別命
>小鳥の大群がやってきて、濡れている羽から水滴をたらしていった。
>実際には「地元の子供達が土器に水を入れて運んだ」とかってことでしょうけど。

自分で書いて「しまった!」って感じです。「土器で運んだ」というよりも、「服を着たまま川か海に入って、濡れた服を脱いで水を絞り出して鎮火した」でしょうね。

[8370] 草薙剣  神奈備 2007/07/17(Tue) 12:33 [Reply]
大三元さん、玄松子さん、ありがとうございます。

> 草薙剣の語源を示したいへたな作り話。

これは『古事記』の焼津の項をさしたのですが、すっかり忘れていました「焼き畑を草(薙ぎ)と言うこと」であれば、こちらも素直なお話かも。


> 『山人の生業』日本の古代10 122ページ
> 燒退 
 火退け「ホソケ」と読み、延焼を防止するための防火帯のことで、草を刈ったり、土を掘り起こしたりするようです。草を刈ったのが日本武尊、土を掘ったのが大国主命。

> 迎え火

 火を導く方法のようです。火が着くと気流が上がり、そこへ火が寄ってくる現象。

[8369] 向火  玄松子 2007/07/17(Tue) 00:32 [Reply]
神奈備掲示板 過去ログより
http://kamnavi.jp/log/yumv0206.htm
[3029] Re[3028]: 焼畑農耕 倭建命は焼畑普及員?  Setoh
以下,『山人の生業』日本の古代10 から
○ 北陸では焼畑を「ナギ」というそうで,これは「薙ぐ」の名詞。
○ 焼畑は上の方2/3程焼いてから、下から火をかけ,火と火を合わせて火を止める。
○ 焼畑の大敵は猪、猪の毛を焦がして猪除けをしたそうで,これを「ヤイジモ」などと呼んだ。(静岡大井川上流)

[8368] Re[8363][8362][8361]: 野火  大三元 2007/07/17(Tue) 00:30 [Reply]
神奈備さん

まぁ、神社の伝承だから、その古さはなかなか判明しないのだろうな、江戸時代とかの「へたな作り話」かな、とも思うのですが、一方あまりに純朴に感じられて、またアイヌ語で考えるとアイヌ語伝承の特徴が出てきたりするので、もしかしたら記紀神話の原型だったりするんか、なんて思ってみてます。

[8367] Re[8366][8364][8363][8362][8361]: 野火  大三元 2007/07/17(Tue) 00:24 [Reply]
神奈備さん

> 変わるのかどうか良くわかりません。半分以上神話のお話のようですね。

野焼きのとき、迎え火、というテクニックがあるそうですよ
http://homepage2.nifty.com/teruo3/fujikikou/fuji047.pdf

[8366] Re[8364][8363][8362][8361]: 野火  神奈備 2007/07/16(Mon) 22:39 [Reply]
> 『古事記』には、「爾其國造火著其野。故知見欺而。解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者。火打有其嚢。於是先以其御刀苅撥草。以其火打而打出火。著向火而燒退。還出皆切滅其國造等。即著火燒。故其地者於今謂燒遣也。」とあり、「向火」を、「火をつけると、風向きが変わり、倭建命の周りに燃えていた火は、反対方向へ燃え広がっていった」と訳してはいけないってことですね。

失礼しました。訂正です。
先に引用した文献は角川文庫の『古事記』でした。
岩波文庫は「向かい火」として、注は「向こうから燃えてくる火に対してこちらからつけた火」とあり、意味が「反対方向へ燃え広がっていった」ともとれますね。風向きが変わるのかどうか良くわかりません。半分以上神話のお話のようですね。


[8365] Re[8363][8362][8361]: 野火  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/16(Mon) 19:55 [Reply]
>そうしますと草薙剣の語源を示したいへたな作り話。

『古事記』には、地名の由来を示す話がよく出てきますね。この野火の話も「草薙剣」の名の由来と共に「故其地者於今謂燒遣也」と「燒遣(焼津)」の地名の由来を示す話になっていますね。

[8364] Re[8363][8362][8361]: 野火  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/16(Mon) 19:49 [Reply]
>風向きを変えたのではありません。近い場所の草を刈り取って一箇所にまとめて燃やしてしまえば、そこには火が着きません。燃えるものはないのですから。(岩波文庫『古事記』の注)

自分の回りの草を刈って火をつけて、自分の周りは燃えないようにして、野火がおさまるのを待った、ということですね。野火に襲われて、ネズミがヒントをくれた穴の中で鎮火を待った大国主命のような作戦ですね。

『古事記』には、「爾其國造火著其野。故知見欺而。解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者。火打有其嚢。於是先以其御刀苅撥草。以其火打而打出火。著向火而燒退。還出皆切滅其國造等。即著火燒。故其地者於今謂燒遣也。」とあり、「向火」を、「火をつけると、風向きが変わり、倭建命の周りに燃えていた火は、反対方向へ燃え広がっていった」と訳してはいけないってことですね。

>杉鉾別命
>小鳥の大群がやってきて、濡れている羽から水滴をたらしていった。

これは不思議な話ですね。鳥は羽が濡れるのを極端に嫌う動物で、雨の日は空を飛ばないと聞いたことがありますが・・・もちろん、実際には「地元の子供達が土器に水を入れて運んだ」とかってことでしょうけど。

>蛇が鎌首を持ち上げている感じが
>「ナギ」が「蛇」の意

蛇が鎌首を持ち上げている姿を想像したら、「薙刀(ナギナタ)」が頭に浮かびました。

[8363] Re[8362][8361]: 野火  神奈備 2007/07/16(Mon) 10:57 [Reply]
> 記紀を読むと、剣で周囲の草をなぎ払い、向かい火をつけて難を逃れたとあるわけで、向かってくる燃え盛る勢いのある巨大な炎に対して、近くの草を切って火をつけたくらいで風向きが変わるのでしょうか? 

 風向きを変えたのではありません。近い場所の草を刈り取って一箇所にまとめて燃やしてしまえば、そこには火が着きません。燃えるものはないのですから。(岩波文庫『古事記』の注)


> 日本武尊が現地の人に焼畑農耕の仕方を教える

 焼畑はおそらくは縄文時代にも行われていたのかな、っと思っています。
 伊弉冉尊が生んだ軻遇突智(火の神)が埴山姫(土の神)を娶って稚産霊(五穀の神)を生んでいます。まさに焼き畑の説明かと。伊弉冉尊は死ぬのですが、女神の死体から五穀の種が生じると言うお話も混ざっているようです。

> 大三元さん、サジェッション、ありがとうございます。

 日本武尊も白鳥となるので、鳥の神でしょうから杉鉾別命と同じように、鳥たちが水を運んできて火を消したのかも。そうしますと草薙剣の語源を示したいへたな作り話。

[8362] Re[8361]: 野火  大三元 2007/07/16(Mon) 08:53 [Reply]
> 日本武尊の野火の話もよく分からないです。

神奈備さんのサイトにもある 杉鉾命の伝承 との関連も興味のあるところです
http://kamnavi.jp/it/izu/sugihoko.htm

私論は:
http://www.dai3gen.net//ainubun.htm

[8361] 野火  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/15(Sun) 19:21 [Reply]
日本武尊の野火の話もよく分からないです。
・「くさなぎ」だから、剣で自分の周りの草をなぎ倒して、自分の周囲に燃えるものをなくして(燃焼の3条件=1.燃えるものがあること、2.それが発火点以上に加熱されること、3.酸素があること=の燃えるものを無くして)助かった。
・草薙剣は、この話の前までは、天叢雲剣と呼ばれていたので、雨雲を呼んで雨で火を消した。
というのならありだと思うのですが、記紀を読むと、剣で周囲の草をなぎ払い、向かい火をつけて難を逃れたとあるわけで、向かってくる燃え盛る勢いのある巨大な炎に対して、近くの草を切って火をつけたくらいで風向きが変わるのでしょうか? それに、一方向から火で攻めても反対方向に逃げればいいのだから、日本武尊を取り囲むように火をつけたはずですし。(もっとも、日本武尊が現地の人に焼畑農耕の仕方を教える場面を「東征」の苦難のシーンにすり替えたとする説もあるようですが。)

*草薙剣は「草を薙いだ剣」ではなく、「ナギ」が「蛇」の意で、原義は「蛇の剣」であるとする説がありますね。「ヤマタノオロチから出てきた剣」という意味かな。「ナギ」は、インド神話の「ナーガ」(蛇の精霊、蛇神)に関係あるのかな?

[8360] Re[8359][8358][8355][8350]: 火焔土器  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/15(Sun) 01:08 [Reply]
>野火は野をジグザグに動くように見えます。あたかも蛇の動きの如しです。

野火は見たことが無いので分かりません。
想像では、草原で火をつけると、無風なら同心円状に火が広まっていく、風があれば、風下に横一線に火が広まっていくってイメージです。「ジグザグ」というのは、油をジグザグにまいて、そこに火がついていくというイメージしか浮かばないです。

[8359] Re[8358][8355][8350]: 火焔土器  神奈備 2007/07/14(Sat) 18:10 [Reply]
> 蛇は蛇行する川であり、水神だと思ってましたが、火と同体ですか。

 炎が燃え立つ感じと蛇が鎌首を持ち上げている感じが似ていること。
 野火は野をジグザグに動くように見えます。あたかも蛇の動きの如しです。


[8358] Re[8355][8350]: 火焔土器  SAKI(PONTA) [Url] 2007/07/14(Sat) 16:52 [Reply]
>火と蛇とは同体なのです。

蛇は蛇行する川であり、水神だと思ってましたが、火と同体ですか。
秋葉神社のご祭神(火の神)が火防(水)の神であることと似てますね。
(秋葉山が火神で、光明山が水神とも聞いていますか。)

>蛇の異名に山カガシがあるそうです。

ヤマカガシという名前の蛇もいますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%82%B7

[8357] Re[8356]: 台風4号進路  神奈備 2007/07/14(Sat) 09:26 [Reply]
> おひさです。
KAGさん、こんにちは。

台風と神様のつながり、中央構造線横断ルートなら丹生都比売を祀る神社が多いようです。熊本、大分、愛媛、徳島、和歌山、奈良、三重と最悪のコース。

平成8年台風12号のコースは五十猛神でした。
http://kamnavi.jp/it/itake2.htm

[8356] 台風4号進路  KAG 2007/07/14(Sat) 01:15 [Reply]
おひさです。
今度の台風のコース、いつぞやの中央構造線横断ルートになるのでしょうか?
御山の巨木が薙ぎ倒された記憶が・・・聖地にお勤めの方々のご無事をお祈りいたします。

[8355] Re[8350]: 火焔土器  神奈備 2007/07/11(Wed) 14:54 [Reply]
> 蛇の古語がハハでありカカであるのは、女性と無関係ではないと思います。

 この前出雲に行った時に加賀の潜戸を見てきました。神話の頃の潜戸は崩れていて、向こう側は見えないのですが、よく似た別の潜戸もあり、十分楽しめます。この加賀ですが、「日光の象徴である矢が光り輝き、故、加加と云う。」の加かが加賀になったものだそうです。
 カカは光り輝くもの、日も火もカカなのです。ここには甲乙はあってなきが如しです。
 カカセオの神は星神ですから、星の光もカカと言うのでしょう。

 昔、女は太陽であった。女は日であり、火を生んだのです。また女は蛇と一体であるのは、縄文時代の傑作である火焔土器に見ることができます。野火は地をはいずり回ります。火と蛇とは同体なのです。
 光と蛇、海原を照らして来る神は三諸山に鎮座する神、大物主の神、この神も蛇体であると言うことは光と蛇とはつながっていると言えるようです。もう一つの海原を照らしては肥長比売が本牟智別皇子を追いかけたシーンに出てきます。どうも蛇の目が光ると言うことのようです。

 吉野祐子さんによれば、蛇の異名に山カガシがあるそうです。案山子はカカシで一本足と言うか、棒状のものだから蛇とも言えるようです。(講談社学術文庫 蛇 p.88)


[8354] Re[8352][8351]: 神坂神社について  ユリ 2007/07/10(Tue) 09:12 [Reply]
神奈備さん。お返事ありがとうございました。機会があれば、神坂神社へ足を運んでみたいと思いました。

[8353] 火と水の祭り  神奈備 2007/07/10(Tue) 09:00 [Reply]
 大阪天満宮の天神祭は表題のように火と水の祭りと呼ばれます。

 火は船渡御の船の篝火かも知れませんが、火雷天神でもあり、修験のように祓えの火と言う意味があるのかも知れません。

 水は大川で船渡御をすると言うような単純なものではなさそうです。

 その昔は天神祭りは7月7日−七夕の祭りの日に行われていました。星辰信仰が関わっていたようです。天満宮の近くに七夕池があって七夕神社が鎮座していました。神社は豊国大明神に合祀され、今は大坂城内に鎮座しています。天満宮の地主神は大将軍社です。この神社は天満宮鎮座以前に当地に鎮座していました。

 孝徳天皇の時代、飛鳥から難波に宮が移されました。難波長柄豊碕宮と言います。都の四隅で疫神や悪神を祓う道響祭が行われました。大将軍社は豊碕宮の西北に当たります。その頃に大将軍社の卵ができていたと考えていいのかも。

 天満宮が大将軍社の地に鎮座したのは、菅公が道明寺に立ち寄った後で、大将軍社で航海の無事を祈ったからとの説があります。そう簡単なことではなく、当地即ち難波堀江の地に関係するものがあったのです。蘇我と物部の仏教を巡る争いの中に仏像を難波の堀江に捨てたとの話が『舒明紀』にあるように、穢れを流し遠く韓半島にまで帰れとの場所が難波堀江だったのです。異文化が持ち込まれる港があったのです。難波堀江については『景行紀』では日本武尊が害する柏の渡りの神を退治した話もあり、八十島祭りも行われた所でもあり、なによりも都すなわち平城京・長岡京、平安京の排水が流れ下る場所でした。穢れを流す場所だったのです。

 疫神は瀬織津姫命、速秋津姫命、氣吹戸主命、速佐須良姫命などの神々によって処理されます。これらの神々は全て水の中に坐る神のようです。大海原に押放事(おしはなつこと)が祓いです。
 管公は祟り神・雷神・疫神・疱瘡神として平安京で恐れられました。疫神の究極の処理場は難波堀江だったようです。そう言う意味で天満宮が大将軍社内に創建されたのでしょう。疱瘡がはやった正暦年間(10世紀末)の頃でしょう。

 水が穢れを流すのは、疫神・疱瘡神である京の八坂神社の本殿下にも池があるそうです。

[8352] Re[8351]: 神坂神社について  神奈備 2007/07/09(Mon) 22:55 [Reply]
ゆりさん こんばんは。

神坂神社(みさか)  標高の高い所に鎮座する古社のようですね。神坂峠。

地域の名ー地名ーと神社名は多いに関連しているようです。一字だけ字を変えるとか。例えば伊太祈曽に鎮座する伊太祁曽神社のように。

個人のお名前と地域の名も関係するはずですから、結果として神社名との関連は考えることができると思います。

[8351] 神坂神社について  ユリ 2007/07/09(Mon) 22:35 [Reply]
私の母の旧姓が神坂で、出身は大阪ですが、祖父が、生前、昔のルーツが長野県だったという話を聞いていました。従姉は巫女さんをしていたり、神道を宗教としているので、何か、ご縁があるのでは、と思いました。ちなみに、伯母は生前、神坂神社へ行ったそうです。姓と、神社の関係はあるのかどうか、少し気になりました。

[8350] 火焔土器  神奈備 2007/07/09(Mon) 13:18 [Reply]
 伊弉諾・伊弉冉の神のモデルでもあったろう大陸の伏犠・女媧の男女祖先神はお互いに尻尾を絡ませた蛇神として登場しています。と言うことは諾冉両神にも蛇神の要素があったからなののでしょう。

 伊弉冉神はホトを焼かれて黄泉の国に行きます。これを伊弉諾神が迎えに行きます。諾神の見ない言う約束破りで、醜くなった遺体となった自分の姿を見られた冉神は恨み骨髄、また諾神も百年の恋が醒めたようになりました。「恨み晴らでおくものか!とり殺す!」と眷属を連れて追いかけました。この冉神のエネルギー・執念は蛇神を、縄文の蛇神を思わせます。

 縄文時代は母系制の社会のようで、女性の墓からは身につけていたであろう多くの玉と多量の貝輪が出土しており、女性がシャーマン的首長だったようです。この風習は卑弥呼のように弥生時代や、各地の風土記に出てくる女酋の時代にまで持ち越されているようです。

 縄文土器の人面付深鉢などは、食物の調理などの用途に使われたものです。人面は女性のように見えます。鉢は妊婦のような形であり、容器としての女を現しているようです。また土器の取っ手や柄に蛇がイメージされています。蛇が神として崇められるのは幾つかの理由があったのでしょうが、その生命力と脱皮を繰り返して命をつないでいく不死性が理由の一だったのでしょう。

 女性は子供を産みます。女性が女性を産む、すなわち永遠の命の連鎖です。女神が蛇神とされる深い理由があったのです。蛇を男神と見なすのは単に形からですが、女神に見なされるのは深遠な思考からでした。

 火焔土器や遮光式土偶の姿は縄文の女神のたくましいエロス・エネッルギーを顕わしているように見えます。蛇の古語がハハでありカカであるのは、女性と無関係ではないと思います。

[8349] 炎の中の出産  神奈備 2007/07/07(Sat) 10:50 [Reply]

 炎の出産

 大きくなるまで物を  何故言わないのか?何故言うように     母神    妃
 言わない。      なったか?

 阿遅須伎高彦     大穴持大神が夢知らせを聞く(出雲風土記) 田霧姫   天御梶日女

 本牟智和気      阿麻乃弥加都比女の祟り(尾張風土記)   沙本姫   肥長比売
            出雲の大神の御心(古事記)

 大きくなるまで泣いてばかりは素盞嗚尊もそうですが、尊は物を言わなかったと言うことはなさそうです。神話的世界では上記二柱が物を言わなかったのです。

 二柱には面白い共通点と言うか、共通の要素があります。それは『尾張国風土記』(吾縵の郷)に出ている祟っている女神の阿麻乃弥加都比女です。「私は多具の国の神、私はまだ祭ってくれる祝を持っていない。私を祭ってくれる人を宛ってくれたら皇子は物を言い、寿命も長くなるだろう。」と言っています。

 多具の国とは出雲国の楯縫の郡の多久の社のある所を示しているようです。『出雲国風土記』に、「阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が多久の村までおいでになり、多伎都比古命をお生みになった。比古の御魂は石神。」とあるのです。

 阿遅須枳高日子命は鴨の大神と称えられ、大和の葛城に祭られていますが、后神のこの女神は大和には姿を見せていません。美濃の国に流浪していたようです。美濃の国の花鹿の山から縵を投げた場所に女神は居られるとして、尾張国丹羽郡の延喜式内社の阿豆良神社に祭らることになったのです。

 何故、本牟智和気に天御梶日女が祟ったのか、これは阿遅須伎高彦が后を連れずに葛城の鴨に来てしまったことへの怨念だったのかも。似た境遇の本牟智和気に祟った。その境遇とは何か?

 一つの推測は阿遅須枳高日子命は本牟智和気と同じく火中出産の御子ではなかったかということ
 阿遅須枳高日子命は大穴持神が宗像の絶海の孤島に祭られていた田霧姫命を娶って生まれた御子です。火中出産の例は木花咲耶姫が瓊々杵命から自分の子ではないと疑われたので恥と恨みの復讐劇をやってのけたのでありました。縄文の流れを汲む凄ましいスピリット。一方、血筋しか頼るべきものがない瓊々杵命の疑ったり、岩長姫を返したり、何というくだらない人物像、これをよく皇室の祖として描いたものだ。
 話がそれましたが、阿遅須枳高日子命は鉄製の鋤の神格化されたものの要素を持ちます。鋤そのものは熱した鉄を鍛えてできあがるものです。まさに火中で出産したと見なされていいでしょう。

 もう一つの推測は阿遅須枳高日子命母神は蛇神ではなかったかということ。
 本牟智和気の母は沙本毘売です。彼女は兄から紐小刀を持たされます。これを膝枕に寝ている垂仁天皇の首にあてます。天皇は錦色の蛇が首に巻き付いた夢を見て目を覚ましました。蛇との関連がイメージされます。更に兄の陣営で火のついた稲城の中で出産し死ぬと言う女の執念の凄ましさは縄文女神を思わせ、沙本毘売まさに蛇神と見ていいと思います。

 では、阿遅須枳高日子命母神は田霧姫命です。宗像三女神の一で、沖津宮に祭られています。素盞嗚尊の十拳剣から化成しています。剣は蛇です。三女神に市杵島姫神がいて、インドの弁才天すなわち河の神サラスヴァティーに習合しています。河の神は蛇神。

 こういう理屈で本牟智和気と阿遅須枳高日子命とは似た境遇を持っています。天御梶日女が愛する阿遅須枳高日子命には祟れず、遙か後の時代の本牟智和気に祟る。この執念はまさに蛇を思わせます。さらに言語を取り戻した本牟智和気は肥長比売と言う美人と一夜婚をしました。
 所が肥長比売をこっそり見ると蛇でした。皇子は遁走します。肥長比売は患へて海原を照らして追っかけてきます。患へとは憎んでの意。海原を照らすとは、大国主が少名毘古那の神を失った後に、御諸の山の神大物主が海を照らして依り来ると形容されるように蛇神に遣われる言葉です。本牟智和気はどうにか逃げ切ったようです。

 蛇神である女神はエロスに浸った時、その本性を顕わしやすい。蛇神である肥長比売は何故本牟智和気に娶とられたのでしょうか。天御梶日女が肥長比売に化成して思いを遂げたのかも。これも縄文の執念と言うか生命力のなせる業かも。
 
 『尾張国風土記』では、本牟智和気は言葉を取り戻し、寿命も長くなるとの託宣があったのですが、肥長比売と出会った後の消息は杳として知れません。

 火中誕生は始祖王の象徴とも思われます。
 欽明天皇の頃に記された原帝記や推古天皇の頃に出来たとされる『上宮記』にヶ異端天皇の系図が載っています。男子の直系。

  凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)
  若野毛二俣王
  意富富等王
  乎非王
彦主人王
乎富等大公王(=継体天皇)

 筆頭の凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ)を応神天皇としていますが、応神天皇はホムタワケで、ホムツワケではありません。おつむがたわけの人の訓でしょう。どちらかと言えば本牟智和気ホムチワケに近いのではないでしょうか。
 ここに本牟智和気が新王朝である継体朝の始祖王であった片鱗がでています。

[8347] Re: 古代ランドサット大阪  どんたく 2007/07/05(Thu) 01:21 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。

>黒川史明さん(葦船プロジェクトリーダー)さん作成の古墳時代の地図です。

これは、大変な労作ですね。
早速ダウンロードしてプリントアウトしました。

「お預かり有効期限 2007年07月07日 18:12」とありますから、この日時までにダウンロードしなければならないのでしょうね。

WindowsXP(Home Edition) SP2
CMN v0.50eβ + YosPad 1.42

[8346] 古代ランドサット大阪  神奈備 2007/07/04(Wed) 20:10 [Reply]
黒川史明さん(葦船プロジェクトリーダー)さん作成の古墳時代の地図です。

https://www.datadeliver.net/receiver/fileBox.do?fb=72a564327d8b4067ac0e6624f60ff7fd&rc=af067c5db8534d1d8201ceaf31cc1882&lang=ja

[8345] 対馬の神社巡りのお誘い。  神奈備 2007/07/02(Mon) 08:22 [Reply]
対馬空港に13時半集合。翌日16時対馬空港で解散。

タクシーで回ります。8時間 47000円 時間の余裕はあります。

 日程 A  9月16日
    B 10月 7日
    C 11月 3日 

 参拝する神社の予定 他にご希望があれば、おっしゃって下さい。

峰町大字志多賀字中原290番地 那須加美乃金子神社
上対馬町大字子鹿字大浜520   那須加美乃金子神社
上対馬町大字五根緒字平山188  曾根崎神社
上対馬町大字唐舟志字在所381  曾根崎神社
上対馬町大字豊字大多1337   那祖師神社
上対馬町大字河内字藤内ケ内43  岩立神社
上県町大字佐護字洲崎西里2864番地 天神多久頭魂神社
上県町大字女連85  地主神社
峰町大字木坂タガイノロ247番地 海神神社
豊玉町大字仁位字和宮55番地 和多都美神社
美津島町大字小船越宇河岸川352番地 阿麻氏留神社(あまてるじんじゃ)
美津島町大字鴨居瀬字住吉491番地 住吉神社
美津島町大字鶏知字甲1281番地 住吉神社
厳原町大字曲16番地 山住神社
厳原町大字小浦308番地 志々伎神社
          以上


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