神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十九年 六月 2007.12)お名前の敬称は省略しています。

[8617] 宮古島        焼尻紋次郎 2007/12/29(Sat) 12:20 [Reply]
 お帰りなさい!
 宮古島とはゴーギなもんですなァ。
 あそこは陸地が海の下にもぐったり、上にあがったりしたためか、両生類に奇妙な習癖がでましたよね。
 いちばん目立つのが、海へびがオカにあがって卵を産む習癖があることです。
 「海と陸を支配するへび……!!」。出雲の神事は流れてきた海へびを祭ることから始まるとか。

[8616] Re[8615][8614]: 御嶽めぐり  神奈備 2007/12/28(Fri) 17:31 [Reply]
>  宮古島では新城定吉さんのお家を訪ね、庭の巨石郡を見せて頂きました。地中から掘り出したようです。宮古島は珊瑚礁の化石が造った島です。石を掘り出すかわりに表面の土を取り去ったらそれでも石の庭ができそうです。

http://www.workshopland.com/kako/031125.html

[8615] Re[8614]: 御嶽めぐり  神奈備 2007/12/28(Fri) 17:28 [Reply]
 沖縄旅行から帰りました。

 名護博先生にお目にかかれました。下記のサイト。
http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/index.html
 先生のご案内で、ミントン城跡、玉城城跡、珍々洞を回ることができました。ゴボウラ貝の形と玉城城跡の御嶽のお話など興味深いものでした。
 なお、上記サイトの掲示板に琉球松さんの名が見えます。

 宮古島では新城定吉さんのお家を訪ね、庭の巨石郡を見せて頂きました。地中から掘り出したようです。宮古島は珊瑚礁の化石が造った島です。石を掘り出すかわりに表面の土を取り去ったらそれでも石の庭ができそうです。
 最高地点の標高は100M程度で、また樹林率は20%もなく、本土の1/3程度にも関わらず、地下水が豊富なようで、地下にダムを造っているそうです。

 言葉はわかりにくい。何を言っているのか良くわからないことがありました。それでも神女さんがお祭りをしている現場に偶然にも二度ばかり遭遇。一度は宮古島の北にある小さい大神島の山頂の巨石の横での儀式でした。神女さんは多くの神々の名を読み上げて呼び寄せていたようです。その中には不動明王の名もありました。おそらく航海安全の神への願いだったのでしょう。

 言葉では、ジャコウネズミ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%83%9F)のことをフィリッピンでは「ダガ」、予那国島でも「ダガ」と言うようです。タガログ語が人と共に伝わって来たのかも。

[8614] 御嶽めぐり  神奈備 2007/12/22(Sat) 14:20 [Reply]
立ち入りのできないところが多いようですが、せめて雰囲気でも感じて来たいもの。
本島・久高島と宮古島。
27日に帰阪予定。

[8613] Re[8612]: 太龍寺は・・・  神奈備 2007/12/21(Fri) 08:06 [Reply]
> 21番太龍寺は桓武天皇勅願により弘法大師が創建と伝えており神武天皇ではありません。調べたサイトが間違ってると思います。太龍寺で検索するとそのサイトがヒットしました。

やはりそうでしたか。ありがとう。

[8612] 太龍寺は・・・  橋本 2007/12/20(Thu) 22:33 [Reply]
21番太龍寺は桓武天皇勅願により弘法大師が創建と伝えており神武天皇ではありません。調べたサイトが間違ってると思います。太龍寺で検索するとそのサイトがヒットしました。
 

[8611] へび と 龍     焼尻紋次郎 2007/12/20(Thu) 06:14 [Reply]
 二匹のへびは世界的傾向の強執。
 中期朝鮮語 ; tur(h)、アイヌ語 ; tup ……いずれも 2 、日本語 ; つい(対)によって、極東古代語 *tu(2)がいえる。nag(へび)・ 綱、繋ぐ。

那覇は族際語の nag(へび)ではなかろうか(g = x )。  
 フィリピン・タがログ語には固有の龍がなく、dragon を使っている。
 第四代新羅王の脱解は龍のくにから漂着したという。この場合の龍の国を沖縄にもってきたいは人情だろうが、沖縄の龍文化はどこまで古いのだろうか。

[8609] Re[8607][8608]: お二人に感謝   2007/12/20(Thu) 03:05 [Reply]
>くずさん
再びありがとうございます。島根の長浜神社のことは全然知らなかったので、非常に助かりました。感謝感激です!

長浜神社の磐座は、一応「要石」と「夫婦石」に分かれているようですが、形態としては明らかに三石信仰ですね。岡山や熊本の例と合わせて、少なくとも西日本では三石と妙見が結びついているとみてよさそうです。

乳海攪拌と大元神というのも、興味深い御指摘です。たしかヴァースキが巻きつけられたのはメール山(須弥山)ですよね? メール山の頂点には北極星があるはずですから、妙見と無縁ではありません。

>個人的には知っていたと思っています。あるいは感じていたか^^

実は私も知っててほしいと思っていたりします(笑)。みなさん引くんじゃないかと思って内緒にしてました。

>神奈備さん
長浜神社の調査をされ、サイトで公開して下さった神奈備さんにも感謝します。ありがとうございました!

>妙見三体はやはり「天地の初発の時、高天原に成った三神、天御中主、高御産巣日、神御産巣日の神々になぞらえているのかも。

旧妙見社は明治以降、この三神を祀るところが多いみたいですね。ところによっては「天御中主・天御柱命・国御柱命」だったり、宗像三女神だったりするようです。道教の北極星神――「鎮宅霊符神」の左右には「抱卦童子・示卦童郎」が侍るそうですから、これも関係あるかも知れません(『日本の石仏』80号)。

>三神は住吉、和多津見、宗像、など神様の定番の数ですね。

そう言えばどれも海の神ですね。海洋民にとって星は重要だったはずですし、特に住吉神などは、本当に星神(オリオン三星)なんじゃないでしょうか。

[8608] Re[8607][8606]: 諏訪の蛇神  神奈備 2007/12/19(Wed) 18:06 [Reply]
> 国引きの綱より成れる・・とありますが、蛇を綱にして引き合い攪拌して陸地を生み出す神話(乳海攪拌)がヒンズーにあって、藁蛇の大元神とはなにやら繋がりを感じます^^

 巻かれた蛇の名はヴァースキ、火をおこす棒を回すように蛇を左右から順に引っ張ったのでしょう。
 前にも書きましたが、このヴァースキが徳島県の鷲敷町和食(ワジキチョウワジキ)の地名になっているとするのが、『偽装されたインドの神』(佐藤任著)です。
 ここの蛭子神社の由緒に、御創建時は古く不詳であるが太龍寺縁起によれば「天長2年空海遷宮ス」とあります。

 太龍寺は21番札所。
 その由緒は、寺の草創は神武天皇で、その後弘法大師が修行、嵯峨天皇の勅命で国司が伽藍を創建。
 お寺を神武さんが開いたとは面白い、那智の滝の発見者も神武さんだとか、この月曜日の住吉セミナーでは権宮司さんの神武さんが宝物についてお話があり、重文の舞楽面数点を見せて頂きました。


> 出雲の長浜神社の鎮座する妙見山に鎮座し、三つ石(要石と夫婦石)があるようです。

 ご指摘ありがとうございます。アップした本人は忘れていました。
 妙見三体はやはり「天地の初発の時、高天原に成った三神、天御中主、高御産巣日、神御産巣日の神々になぞらえているのかも。
 三神は住吉、和多津見、宗像、など神様の定番の数ですね。

[8607] Re[8606]: 諏訪の蛇神  くず 2007/12/19(Wed) 03:52 [Reply]
>豺さん、

>諏訪は中央構造線と糸魚川-静岡構造線がぶつかる地点なので、ここに要石を置くのは合理的ではあります(昔の人にはそんなこと、知ったことじゃないでしょうが)。

個人的には知っていたと思っています。あるいは感じていたか^^

> そう言えば諏訪には「大元尊社」といって、北極星神を祀った社もありましたね。島根県では藁蛇を「大元神」と呼ぶそうですから、北極星を蛇神とする信仰もあったのかも知れません。いかんせん、島根と諏訪では遠いですが。

神奈備さんお調べの出雲の長浜神社 http://kamnavi.jp/it/izumo/nagahama.htm
妙見山に鎮座し、三つ石(要石と夫婦石)があるようです。
国引きの綱より成れる・・とありますが、蛇を綱にして引き合い攪拌して陸地を生み出す神話(乳海攪拌)がヒンズーにあって、藁蛇の大元神とはなにやら繋がりを感じます^^

[8606] 諏訪の蛇神   2007/12/18(Tue) 00:15 [Reply]
>くずさん
情報ありがとうございます。

中国・四国地方には、昔「三体妙見」と呼ばれていた神社が無数にあるようです。ただ、それらの神社と三石信仰との関係がはっきりせず、往生しています。

やはりあるんですね、諏訪の要石。諏訪は中央構造線と糸魚川-静岡構造線がぶつかる地点なので、ここに要石を置くのは合理的ではあります(昔の人にはそんなこと、知ったことじゃないでしょうが)。

そう言えば諏訪には「大元尊社」といって、北極星神を祀った社もありましたね。島根県では藁蛇を「大元神」と呼ぶそうですから、北極星を蛇神とする信仰もあったのかも知れません。いかんせん、島根と諏訪では遠いですが。

[8605] Re[8603]:  どした、どした      恋川亭 2007/12/17(Mon) 20:24 [Reply]
じっちゃん、ありがとう。
また、さっそくご連絡をいただいた皆様にも御礼申し上げます。

[8604] Re[8602]: 久志呂(くに・地方)    恋川亭 2007/12/17(Mon) 20:22 [Reply]
 資料の在り処に這っていったのですが、いくつものダンボール箱の底に、Oh!Noと懊悩、今の私には動かせませんでした。ごめんなさい。
 南西諸島(に限りませんが)の御嶽や聖地は、本州的感覚で言えば『原則プライベートなエリア』と捉えたほうが良いようです。誰にでもオープンという場所ではないので、管理者の許可のもとに参拝することが無難です。つまり、その地に移住して開墾をはじめた遠祖の居住跡だったり、始祖の墓所跡だったりするので、良識と遠慮が要求されます。(スピリチュアル系、オカルト系の人たちが、何を勘違いしてか勝手に踊ったりしてますが。)
 もともと御嶽や聖地は、王国の祭祀系の行政機関であるノロ(祝女)組織により管理されていた公的な場でもあったのですが、今はそれぞれの事情で私的に祭祀されています。依然として、ノロを名乗る(またはその代行者)が継続している御嶽は十分な配慮が必要でしょう。
 久高島の大里家の祭壇には、外来一般の方のための大きな香炉があります。良識さえ守れば、受け入れてくださいます。島内をオフィシャルに案内して下さる方もいらっしゃいます。

『イザイホー復活にお力をください。』とお願いしたのは、伝統祭祀の継続に必要な『島の経済的自立』を成功させる活性化アイデアを求めてのことです。人々が多く島で暮していけるならば、伝統は復活するでしょう。祈りや踊りはノロにお任せで。

○ 久志呂: フトマニ・クシロってありませんでしたっけ?何だったかな??

[8603]  どした、どした      焼尻紋次郎 2007/12/17(Mon) 19:52 [Reply]
 「どした、どした !」といいたいとこだが、文面みるかぎり、どうも我が家までは歩いて帰りついたらしい。そうするとストレスとその開放感と極度な冷えが事態をわるくしている原因では?
 冷えはへんなところに出るよ。オレの息子は痔にでて、大手術だった。

 すこし動けるようになったら、長時間かけて腰湯と深呼吸。
 腰にきてるんだったら、うつ伏せになって、20 〜30分、男の人から背骨両側を、掌のひらで、下から上に擦りあげてもらうがいい。掌の下部に力がはいる。男の人でなく、女性にやらせたんではくたくたになる。
 

 きっとよくなる病です。じぶんで治そうとする姿勢がイッチだいじですヨ。

[8602] Re[8597]: 久志呂(くに・地方)    恋川亭 2007/12/17(Mon) 15:31 [Reply]
蝦夷地にて設備運用成功するも負傷、大和しうるわし・・・と帰ってきたらそのままダウンで寝たきり生活3週間目に入りました。起き上がれないのですが、PCを床まで運んでもらって久々のアクセスです。ご連絡がとれなかった方々、ごめんなさい。

○ 久高:行っても何もないと見るか、こんなに沢山濃厚な聖地と観るか、難しいでしょうね。だから、現地では○○さん(別途)を尋ねてください。
○ やぶさつ:島の対岸、個人の敷地内。資料を取りだしにすぐ動けないのが情け無いです。もう少しお待ちください。
○ 3つの尖り石:ヒヌカン?
○ ユタとノロの違い:歴史的背景があって、プライド感情的問題もあるようで、島では慎重に使い分ける配慮が必要です。全く違う職なのです、ヤマトでは混同し過ぎ。久高はノロです。

神奈備先生、イザイホー復活にお力をください。よろしくお願いします。

[8601] Re[8594][8600]木槨積石墳の謎  くず 2007/12/17(Mon) 00:48 [Reply]
とみたさん、
阿蘇ピンク石についてもう少し。
日本ではごく稀な馬甲出土の古墳(紀伊、近江)に2ヶ所も阿蘇の石が使われているのは、
なんらかのかかわりがあったろうと、思いました。
関連氏族で言えば武内宿禰の系譜が浮かぶのではないかと思ってます。今のところ。

もうひとつは吉備の弥生後期に見られる古墳、祭祀形態が、大和の出現期古墳へ影響を与えている事が気になってますね。埴輪などに残る遺物だけでなく、行われた祭祀そのものも取り入れられていたと思うのです。
竃神の性格を持つ温羅と阿曾女の関係が琉球の兄弟(イーリ、イエリ、エナリ)を霊的に守護する姉妹(ウナリ)と繋がりをもつのではないか。
温羅を討った彦五十狭芹彦命(吉備津彦)と倭迹迹日百襲姫は姉、弟の関係になるのも興味深いと思っています^^

>木槨積石墓について不思議に思っております。

カザフの北東、アルタイの古墳は見られました?記述から同様の古墳と思われますが、パジリクの古墳に見られる乗馬する男の絵は、およそアジア系らしからぬ人物が乗馬しています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B8%E3%83%AA%E3%82%AF%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

クルガン文化に属するものとし印欧語族の起源を唱える説もあるようです。
新羅から同様の古墳が出ている。ホノケ山にも…
これは気になりますね^^

海での船と同様に大陸内部の人類にとって馬の家畜化は大きな転換期となったでしょうから、
彼らが西と東へ文化を運ぶ担い手であってもおかしな話ではないと思います。
朝鮮半島の始祖神話には、南方系の卵生神話と北方系といわれる獣生(あるいは天降り)神話が混在してますんで、それらをアジア大陸の東における文化の断層と言っていいのかも。

豺さん、
以下サイト見つけました参考になりますか?
http://www.geocities.jp/jihyoutei/k010519-1.htm

諏訪の要石は上社前宮にあります。
前宮で行われていた古い信仰(御室神事)では土中に掘られた竪穴内に、茅でトグロ巻状(おそらく)に造られた三体の蛇体を納めたようです。
お姿は3つの山のようであったでしょう^^


[8600] 要石   2007/12/16(Sun) 14:13 [Reply]
>焼尻さん
情報ありがとうございます。

てっぺんだけ出ている巨岩というと、要石ですか? たしか諏訪湖の近くにもありますよね(妙見とは関係なさそうですが)。

ちなみに中国・四国地方ではありませんが、熊本県では三つ石と妙見がたしかに結びついているようです(佐野賢治『星の信仰』)。

[8599] 沖縄とは豪気やなぁ    焼尻紋次郎 2007/12/16(Sun) 06:35 [Reply]
 ダンナ、沖縄とはゴーギやなあ。
 パック・ツアーらしいが、もうゼニは払いこんだんやろか? 金券ショップに手配すれば、半額は容易に入手でけま。
 せっつかれて動きまわるよか、来年の春あたりまでホーム・ステイやらんかね。
件の高橋稔の後家さん(レッキとしたユタ)がニライちゃんといっしょに、歓迎すると思うよ。電線ひっぱって行くべし。
 
 豺さん、これ参考にもならぬことかもしれませんが……。
 料亭なんかで、夕方、開店のまえに玄関口に塩を盛りますよね。あれは何個でしょうか。
 津軽の岩木山では 1m ぐらいの高さで土を盛りますが、これも何個だったかはしりません。なにか関連があるのではないでしょうか。
 タジク語で kox が山、 koma は堆積、積み重ね、(○○の)山 です。これ、高野山の kox だと思えます。

 茨城・鹿島と香取神社にはてっぺんだけを覗かせた巨大な岩が御神体。これに加えて麻布の旧毛利家上屋敷跡から、てっぺん部分が露出した巨岩が出ています。関東に三つだけだったとはいえませんが、いまのところ三つです。

[8598] 3つの石と妙見神   2007/12/16(Sun) 01:11 [Reply]
初めまして、豺(やまいぬ)と言います。

唐突ですが、この掲示板で何年か前、日雲さんという方が
「中国・四国地方には三体妙見といって、3つの尖り石を神体とする信仰がある」
という意味のことを言っておられたと思います。

この三体妙見について、くわしい情報を御存じの方はおられませんか? 私も興味をもって調べてみたのですが、岡山県にいくつかそれらしい神社(3つの石を祀る妙見神社)があるということしかわかりませんでした。

[8597] Re[8596]: 久志呂(くに・地方)    神奈備 2007/12/15(Sat) 14:59 [Reply]
年末にばたばたと沖縄へ行くことになりました。
沖縄と紀の国は海でつながっているようで、前に聞得大君が紀の国に流れ着いたお話を披露いただきました。逆に熊野信仰などが持ち込まれているようです。
その聞得大君は紀の国から帰国して与那原の浜の御殿に隠棲したのです。身重になったことを恥じたとか。紀の国で聞得大君を助けた山賤があやしいようです。

久高島では2〜3時間程度の滞在が可能の日程ですが、それならば手前の知念村や玉城村を歩いたほうが面白いのかも。

藪薩御嶽の名を書物では目にするのですが、一体どこに有るのでしょうか?


> 汝の国名は何ぞと問い給うに「佐古久志呂宇遅(ウチ)之国と申す」と大田命が答えたとあります。

『倭姫命世記』によりますと、度会大幡主命(磯部神社の祭神の一)が現在の内宮の鎮座地を形容した言葉のようです。
また大田命は大田田根子(大物主命の子神)ではなくて、猿田彦神の末裔の神のようです。

[8596] 久志呂(くに・地方)    焼尻紋次郎 2007/12/15(Sat) 13:27 [Reply]
 先日から探していた久志呂(くに・地方)が半分わかりました。
 『皇大神宮儀式帳』、『神宮大綱』に出ているらしい。
 (ある天皇が)汝の国名は何ぞと問い給うに「佐古久志呂宇遅(ウチ)之国と申す」と大田命が答えたとあります。
 下に・を入れての qutr がアラビヤ語の「くに、地方」です。
 その土地とは度会群の五十鈴川上流一帯で、そのときあたりから大宮地となったらしい。
 isar はアラビヤ語で台風(・ 伊勢)。
 すると、オオタタネコはアラビヤ人系らしい。

 なんという天皇でしょうか。由々しき問題を提起すると思います。
 北海道の釧路はアイヌ語で分析すると、オカシなことになりま。

[8595] Re(8589) 古代の伝説  とみた 2007/12/14(Fri) 13:35 [Reply]
くずさん 

>伝説的には吉備の温羅。播磨の伊和大神、石を積んで城を作った伊和大神の子、伊勢津彦。
彼の逃亡先?美濃、長野、群馬でも積石塚古墳が作られます。

吉備の温羅は伽耶か百済から船でやってきたとされていますね。鬼は温羅、桃太郎が吉備津彦。

吉備津神社の宮司に訊ねると、あれは室町時代?(失念)に勧進のために、吉備津神社がいかに立派な神社であるかを知らせるために作ったつくり話かもねと冗談半分で言っておられました。

伊和は岩=硬い=鉄だとか、アメノヒボコと鉄争いという説が、谷川健一郎説でしたか

イセツ彦の話。阿波忌部氏の足跡(徳島研吉野川市鴨島公民館発行)によりますと、

度会氏の先祖は天日別命。天日別命と天日鷲命とは同じ(鳥越憲三郎、田中卓氏)

天日鷲命は、阿波の忌部氏のルーツです。黒潮に乗って伊勢に着きます。それがイセツ彦なんです。

イセツ彦は神武天皇に伊勢を平定させられた後、追放されて黒潮に乗って東海へ行き天竜川を遡ります。信濃に行きました。また一部は、黒潮に乗って千葉の房総に着きます。忌部氏は安曇の海民もつれて黒潮を北上しました。

関東に上陸して麻を広げました。

関東には相馬があります。これの元の名は倉麻だそうです。つまり麻の倉庫を作った拠点でしょう。





[8594] Re[8590][8589]: 阿蘇のピンク石から。ー木槨積石墳の謎  とみた 2007/12/14(Fri) 12:09 [Reply]
くずさん 何時も発表を参考にさせていただいております。

> 柳沢遺跡からその後、同時代の地層から礫床木棺墓の集団墓所が見つかっています。
> 日本海系統の伝播経路が浮かびます。
> 讃岐の長崎鼻古墳、同上と積石塚の石清尾山古墳群。
> 吉備の楯塚遺跡は石清尾山古墳群に属す猫塚古墳に先行する双方中円墳です。吉備からは造山古墳前方部の石棺が阿蘇灰色石。
> 紀伊も積石塚があります。立石を持ち積石のある大阪の松岳山古墳、双方中円では天理市の櫛山古墳などが関係してくるのではないか。
>
> それらの地域では時代的に、扶余系の馬鉄文化が入っていて、繋がりで百済か伽耶諸国を経由しての文化の上塗りがされていったのではないか。が一つの考え。

韓国の墓制を少し調べています。出来るだけ確かな情報だけを論文や、博物館資料で探っています。

筑波大の博士論文から参照。

3世紀末に伽耶に、北方遊牧民の扶余族がが朝鮮の東海岸(リマン海流がある)を経由してやってきた。これは木槨墓制です。

韓国の博物館資料によると、
400年にはまた高句麗が新羅の要請で伽耶を征伐にやってきた。

木槨墓には楽浪=漢のタイプもありますがこれは板材を使いのに対して、北方遊牧民族は丸太材を使います。

平成15年のアジア考古学研究論文で、積石塚は高句麗のものが有名ですが、紀元前3世紀には、鴨緑江中流域の慈江道で河原石を使った円形積石墓=直径3.6mのものがあるそうです。

草原考古学研究論文で、モンゴルでもウランバートルの北西600kmの地点で積石塚が発見されています。

私は、上の木槨墓と積石塚が合成されたような木槨積石墓について不思議に思っております。

これの有名なのが、カザフスタンの東部、バルハシ湖に注ぐイリ川の流域にある、イッシク古墳です。丸太木の槨の周囲に石を積んでいます。これは騎馬民族スキタイの枝族のサカ人の古墳群といわれています。

あるいは匈奴の墓かもしれません。

韓国では新羅に木槨積石墓があります。天王塚が有名です。
日本では大和のホケノ山古墳が石囲い木槨墓といわれますが、その前身は阿波の萩原古墳だとされています。

阿波や讃岐や西播磨は積石塚古墳群が多いですね。
これは、5世紀ごろには終焉している。信濃の積石塚も有名ですが6-7世紀のものが多いのでしょう。

王冠も研究対象として面白そうですが如何でしょうか。

たとえば、信州の桜ヶ丘古墳や福井の二本松古墳から出た金銅の王冠は、高霊=大伽耶のものと似ているらしい。

信州には須須木氏、田沼氏などの高句麗系の人が多いそうです。

このあたりもあわせて調べてみるのも面白いと思っています。






[8593] 台 湾 の 磯 焼 け    焼尻紋次郎 2007/12/13(Thu) 20:02 [Reply]
 ミナシャン、磯焼けってぇことば、聴いたことあ〜るゥ?
 海底がいちめん白くなって、昆布もイソギンチャクも貝も棲みつかなくなる現象です。
 台湾の中央線から以北というか「以北日西」といいたいとこですが、とにかくシナ寄りの一体に磯焼けみたいなものを感じます。そこにいた氏族名をとっての「○○語」、そしてそのテリトリーまでが判るのに、そのことばはもう永久に知られることはありません。

 ということは……?? 江南の呉も越も、渭水(いすい)発の軍隊のことばに巻き込まれ、アイデンティティーを喪失したっちゅうこってしょう。

 とみたさん、ザァ〜ンネン! アイヌ語には「 ran =山」は登録されていません。その逆でアイヌ語として登録されている近似音は「*ra , *ran =降、下、低」です。
 もし、そういうことでの「近い場」があるとしたら、アイヌ語設定に関与できなかった末端氏族の言語でしょう。
 蘭越は「ran(戦争)・ko(の、胡) si(人)」で、コシャマインのランか骨嵬戦争のときに名付けられた地名だと、小生は考えてま。

[8592] Re[8588]: 台湾先史時代  くず 2007/12/13(Thu) 11:56 [Reply]
>とみたさん、神奈備さん、

台湾の先住部族について以下のサイトから抜粋引用してみました。
http://meihuaart.googlepages.com/workoutline
特徴として、
●民族宗教は、一般にアニミズムである。
●殆どの部族が祖先崇拝や豊饒儀礼的要素の見られる祭りを大々的に行う。
●粟や雑穀、イモ類を中心とした焼き畑農業を生業とする他、狩猟、採集、漁労などによって生活の糧を得ているため、農耕儀礼などが発達している。
●特に粟に関する儀礼は、どの種族でも重要な儀礼として発達している。
●粟の種蒔きの作業中は、互いに話しをしたり、魚や青物を食べたりすることがタブーであり、種蒔き期間中は、物の貸し借りや性交などが禁じられる。

※かつての首狩習俗も粟の豊穣祈願と結びついたものであったようです。ミサタロアンと呼ばれ旧暦2月末から3月にかけて行われたという。(姫田忠義氏)

日本の縄文的な生活が浮かびます。それと阿波の大宜都比売の記神話に関連するかと思います。

抜粋引用続き。
●占いも盛んに行われ、首狩り、狩猟、農耕儀礼の日取りなど・・・
●各部族にほぼ共通して見られるのが、鳥占いと夢占いである。
●シャーマンは、女性である場合が多い。
●シャーマンになるきっかけは殆どの場合病気病弱な者とされている。

このあたり、琉球の地域の祭祀を取りしきり、御嶽を管理する女司祭ノロ(ヌール・ヌル)とも重なりそうです。ウナリ神。
徳之島にも兄イーリと妹ウナリの伝承があるそうです。
http://www16.ocn.ne.jp/~shiokaze/unariiiri2.html

[8592] Re[8588]: 台湾先史時代  くず 2007/12/13(Thu) 11:56 [Reply]
>とみたさん、神奈備さん、

台湾の先住部族について以下のサイトから抜粋引用してみました。
http://meihuaart.googlepages.com/workoutline
特徴として、
●民族宗教は、一般にアニミズムである。
●殆どの部族が祖先崇拝や豊饒儀礼的要素の見られる祭りを大々的に行う。
●粟や雑穀、イモ類を中心とした焼き畑農業を生業とする他、狩猟、採集、漁労などによって生活の糧を得ているため、農耕儀礼などが発達している。
●特に粟に関する儀礼は、どの種族でも重要な儀礼として発達している。
●粟の種蒔きの作業中は、互いに話しをしたり、魚や青物を食べたりすることがタブーであり、種蒔き期間中は、物の貸し借りや性交などが禁じられる。

※かつての首狩習俗も粟の豊穣祈願と結びついたものであったようです。ミサタロアンと呼ばれ旧暦2月末から3月にかけて行われたという。(姫田忠義氏)

日本の縄文的な生活が浮かびます。それと阿波の大宜都比売の記神話に関連するかと思います。

抜粋引用続き。
●占いも盛んに行われ、首狩り、狩猟、農耕儀礼の日取りなど・・・
●各部族にほぼ共通して見られるのが、鳥占いと夢占いである。
●シャーマンは、女性である場合が多い。
●シャーマンになるきっかけは殆どの場合病気病弱な者とされている。

このあたり、琉球の地域の祭祀を取りしきり、御嶽を管理する女司祭ノロ(ヌール・ヌル)とも重なりそうです。ウナリ神。
徳之島にも兄イーリと妹ウナリの伝承があるそうです。
http://www16.ocn.ne.jp/~shiokaze/unariiiri2.html

[8591] カムナプロジェクト  神奈備 2007/12/13(Thu) 09:39 [Reply]
どんたくさん くずさん
> 『大王のひつぎ海をゆく』

 余談ですが、「浪花の古代史研究会」のメンバーがやっている葦の「カムナプロジェクト」の幾人かは、葦舟に乗ってピンク石を積んできた船を大阪港に迎えたそうです。2005.8.
 カムナプロジェクトの詳細についてはサイトを参照下さい。
http://eowish.jp/kamuna/

 ひつぎには棺と日嗣の二つの意味がありますが、どっかで通底しているのかも。


 20年以上前のことですが、台湾のアミ族などの先住民は日本語をよく話していました。日本人の観光客も多いのですが、戦前の教育がきいているようです。台湾人(昔大陸から来た中国人=本省人)と先住民の会話は日本語だったようです。中にはタガロク語のできる台湾人がいて、かれらはそれで会話ができていました。

 またまた余談ですが、台湾人と満州人とが会話をするのも日本語だったようです。二人が出会って突然日本語で会話を始めてビックリしたことがありました。聞くと満州人は北京語を解せず、二人の共通言語は日本語だったと判ったからだそうです。


とみたさん
> 東南アジアから3000年前1000年間でモンゴロイドがハワイ、ニュージーランドポリネシアなど太平洋に広がりアフリカをスタートした新人の旅は終わったとされています。

 長期に渡る雄大な人類の旅ですね。本当に終わるのでしょうか。温暖化で島に住めなくなって、高地を求めて動かざるを得なくなってくるように思もわれます。

[8590] Re[8589]: 阿蘇のピンク石から。  くず 2007/12/13(Thu) 05:34 [Reply]
おはようございます^^

>どんたくさん、
ペギラさんのところでも少し書かせてもらったのですが、長野で発見された銅鐸、銅戈、ここからの関心事で進んできました。
柳沢遺跡からその後、同時代の地層から礫床木棺墓の集団墓所が見つかっています。
中央に族長と思われる大きさを持つ墓がありました。この形式は西日本には見られない形です。そして同遺跡からの出土土器は北陸の小松式と地元の栗林式。
日本海系統の伝播経路が浮かびます。
神奈備さんのお話から、能登の伊夜比口羊神社と越後の弥彦神、佐渡、度津神社の五十猛命の関係が頭にありました。能登、七尾には3世紀末からの巨大倉庫、万行遺跡があります。
能登を西との窓口にした交易が浮かびました。
今のウトへのこだわりは、この弥彦神への興味から生まれています^^


で、教えていただいた阿蘇ピンク石石棺の古墳、遺構から気がついた点なのですが、
肥後国宇土半島、馬門が阿蘇石とともに馬の生産出荷拠点だったのではないか?この点。
●四天王寺は聖徳太子のゆかりですが、彼は厩戸皇子。
●植山古墳は蘇我馬子の姪、推古天皇とその子竹田皇子の合葬墳である可能性が高い。
●近江、野洲の甲山古墳からは馬甲の出土。
●ピンクではないですが、阿蘇灰色石の紀伊国大谷古墳の馬甲も有名。
●ピンク石石棺出土古墳ではほぼ全て他にも馬具、武具を出土し、被葬者の武人的性格を示す。
今城塚古墳[金銅製の馬具、刀装具、鉄製甲高等]・峰ヶ塚古墳[鉄大刀15本、馬具等]・長持山古墳[挂甲(騎馬戦に適す甲)刀鏃等]・野神古墳[鉄刀・馬具類]・東乗鞍古墳[馬具・甲冑]・兜塚古墳[鉄鏃、金銅装馬具片]・築山古墳[馬具、剣、刀等の武具]

もう一点は古い時代(弥生後期から古墳前期)の積石塚古墳との関係。
播磨の朝臣1号墳、阿蘇黒石製舟形石棺、同町には弥生末期からの積石塚、岩見北山古墳群。
讃岐の長崎鼻古墳、同上と積石塚の石清尾山古墳群。
吉備の楯塚遺跡は石清尾山古墳群に属す猫塚古墳に先行する双方中円墳です。吉備からは造山古墳前方部の石棺が阿蘇灰色石。
紀伊も積石塚があります。立石を持ち積石のある大阪の松岳山古墳、双方中円では天理市の櫛山古墳などが関係してくるのではないか。

それらの地域では時代的に、扶余系の馬鉄文化が入っていて、繋がりで百済か伽耶諸国を経由しての文化の上塗りがされていったのではないか。が一つの考え。

伝説的には吉備の温羅。播磨の伊和大神、石を積んで城を作った伊和大神の子、伊勢津彦。
彼の逃亡先?美濃、長野、群馬でも積石塚古墳が作られます。
大神と鍛冶屋の母伝承を共有する土佐と越後の弥彦も興味深いと思っています。谷川健一著「鍛冶屋の母」
そしてそれらと阿蘇の繋がりですね。吉備の阿曾、播磨の朝臣。四国の阿讃。
吉備津神社の鳴釜神事に関わる阿曾女と阿蘇国造神社、おんだ祭りのウナリ。
ウナリ→采女(ウネメ)では?
阿蘇噴火口の神を鎮める贄の姫が原義ではないでしょうか。

[8589] 阿蘇のピンク石  どんたく 2007/12/12(Wed) 21:13 [Reply]
くずさん、神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

くず さん(07/12/10 01:16:00) wrote:
> 以下のサイト読んできました。全部読むと長いですが阿蘇石について良くまとめられているようです。
> http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/004/da_004_04091601.htm

実はこのサイトは、下記の一連のサイトの中にあります。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/001/index.htm
から
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/008/index.htm
まで

ここで、まず
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/001/index.htm
を開くと、最初に宇土(ウト)の石切場の写真が出ています。

神奈備さん(07/12/10 09:48:00) wrote:
> 阿蘇山ピンクが出た主な古墳をネットで探してみました。
>
> 1.岡山県築山古墳    5世紀後半の前方後円墳です
> ・・・・・・・・・・・・・・・・
> 13.奈良県植山古墳   6世紀末頃〜7世紀前半頃

確かに阿蘇のピンク石で作られた石棺が出た古墳は以上の13箇所ですが、この他にも石棺ではありませんが大阪・四天王寺に阿蘇のピンク石で作られた礼拝石があります。
下記のサイトを見て戴くと、この礼拝石を見ることができます。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/006/index.htm

なお、
読売新聞西部本社編『大王のひつぎ海をゆく』海鳥社 2006.6.1. \2;000 + TAX
は、上記の一連のサイトに書かれていることを纏め直したような本です。
この本に所載の、高木恭二「石棺夢想論」は、宇土のピンク石の問題を永年手がけてこられた高木氏の書かれたもので、大変面白いです。

[8588] 台湾先史時代  とみた 2007/12/12(Wed) 11:09 [Reply]
昨日、東京の中央官庁街霞ヶ関の近くで無料の縄文特別セミナーがありましたので行ってきました。台湾の歴史時代は明や清の統治下でそれ以前の先史時代には高砂族や阿美族がいたんでしょう。遡ると三内丸山時代相当の時代に東海岸には卑南、麒麟、円山文化が存在していたようです。6500〜5000年前の文化がありました。さらに遡ることも出来るようです。長浜文化、大トウ(分の下に土)文化というそうです。

原オーストロネシア語族は、約7千年以上前には中国の東南部に住み、ヤマイモ、タロイモ、パンノキ、バナナなどの農耕を営んでいた。
この語族は妬く千年前を境に、台湾へ移住。ついで5千年前にはフィリッピンへ拡散。その後さらにニ方向への移動が起き、スラウェシ→モルッカ→オセアニアへ広がった人々はオセニア語派を形成。東インドネシア方面へ広がった人々はインドネシア語派を形成。台湾には九族に分類された台湾先住民のうち、原オーストロネシア語族の言語を色濃く残すのは高地に分布する、ツォウ族とアタヤル族。主なこれらのニ族の言語研究からオセアニア語派(メラネシア。ミクロネシア、ポリネシア人)の出自を台湾に求める説が提起されている。これが海のモンゴロイドといわれる人でしょう。

長浜文化初期5万年前の洞穴住人はスンダランド(マレー半島、ジャワ、スマトラ、カリマンタン)から陸路で移動してきた人々?かも知れない。台湾海峡も完全に陸化していた。

琉球列島も氷河末期ごろまでは、長大な陸島を形成していた可能性がある。

昨日の話しとは別に、海のモンゴロイド集団としていろいろな説があり、研究が深まっております。
●ミトコンドリアDNAで人類の起源を追っておられる国立科学博の篠田謙一先生は、東南アジアから3000年前1000年間でモンゴロイドがハワイ、ニュージーランドポリネシアなど太平洋に広がりアフリカをスタートした新人の旅は終わったとされています。

●太平洋に広がった民であるラピタ人はインドネシアのビスマルク諸島に姿を表わし、ポリネシアに移動してゆくという説。中国南部から3000年前、タヒチに移動、ハワイやイースター島には紀元前後に、紀元後1000年ニュージーランドへ、という説です。


*日本の神話を、松前健先生のようにポリネシアに求める人、日本語の言語のルーツをポリネシア語に求める方もおられます。

アイヌ人と沖縄人、沖縄港川人のルーツ、縄文人と海のモンゴロイドとの関係など
謎が一杯です。

講師(歴史ジャーナリスト)は、言葉でふと面白いことを語りました。
卑南は巨石で有名ですが、その月形石の方向はツラン山を向いている。
ツランの”ラン”は、アイヌ語ではないか。

因みに、日本では室蘭のラン、知覧のラン、沖縄のちゅらんのランがあります。

ランはアイヌ語で、山とか斜面を意味する。

アルタイ語が入る前にアイヌ語があった証拠ではなかろうかといってました。

[8587] Re[8578]:  台湾語をやりなっしェぇ     福島雅彦 [Url] 2007/12/11(Tue) 14:00 [Reply]
>  福島しゃん、もう、朝鮮語はいちど離れたがヨカちオレおもうばい。
>  お育ちは台湾でしたよね。
>  台湾には三つのグループ、いちおう 18 の言語に分けた研究が進んでいます。
>  この言語群はマレー系といわれ、シロートに近づきにくいのは語頭語幹にある音節の意味を掴むのがネックになっているからです。
>
>  でも、これらはマラヨ・ポリネシア語群ですので、まずインドネシア語を当り、次にフィリピン・タがログ語をさわれば、掴み易いのではないかと思います。
>  オレ、 2週間ほどまえ、インドネシア語辞書を読んでみましたが、語頭接頭語幹はわずかしかありません。
>  タガログ語には端倪すべからざる諸資料を掴めそうです。目下ボツボツやっちょります。
>  台湾語を知るにいい本があります。3ヶ月間ほどお貸ししまっしょうか? 

※返信遅れて済みません。
精力的な発展・展開に驚愕しています。台湾語の一括りの書籍があるのでしょうか。
書籍名をお知らせ下されば、図書館で調べたく存じます。
ご配慮に、多謝 謝々!

[8585] Re[8581]:  宇土  神奈備 2007/12/10(Mon) 09:52 [Reply]
> > 熊本県に宇土市があります。最近市になったのでしょう。
>  ここは宇土市と宇土郡がセットで、広域です。

在日韓国人がかってに住みついていたので追い出されそうになっていた問題がある地域があります。京都府宇治市伊勢田町の川沿いの地域のことです。ウトロ51番地の地区のことです。
 ウトロ地区のウトロとは宇土口なる地名であったのを間違ってウトロとしたことによるそうです。

 ウトとは疎いの意であって、湿地帯であるとか、人が住むような地域ではなかったのかも知れません。

 なおウトロ地域問題は朝鮮人差別の民族問題ではなく、地域を代表していた許昌九なる者の詐欺的行為で発生した問題です。

[8584] Re[8582][8580][8579]: 宇土  神奈備 2007/12/10(Mon) 09:48 [Reply]
> 力を付けてきた諸国に対し、武力で中央権力の強化を図ったのがワカタケル大王(雄略帝)
> その後中央の危機的状況に対し、周辺諸国の勢力が連携して擁立したのが継体帝であり、ピンク石> はその象徴でもあったでしょうか。


阿蘇山ピンクが出た主な古墳をネットで探してみました。

1.岡山県築山古墳    5世紀後半の前方後円墳です
2.奈良県野神古墳    5世紀末〜6世紀初頭
3.奈良県金谷ミロク谷   (舟形 古墳不明)
4.奈良県兜塚古墳    5世紀末から6世紀初頭頃 
5.奈良県鑵子塚古墳   6世紀後半頃
6.大阪府峰ヶ塚古墳   河内王朝の成立の証としてのこの古墳群を築造
7.大阪府長持山古墳   5世紀後半
8.奈良県慶雲寺石棺   ?
9.奈良県東乗鞍古墳   古墳時代後期〜6世紀中葉
10.滋賀県甲山古墳   6世紀前半
11.滋賀県円山古墳   6世紀初頭
12.今城塚古墳     6世紀央 継体陵?
13.奈良県植山古墳   6世紀末頃〜7世紀前半頃

 継体帝を擁立した勢力は大和の大伴・物部氏や河内の茨田氏・中臣氏などと近江・北陸・東海の勢力だったのでしょう。これに抗したのが、大和の一部の勢力や筑紫の君磐井など。阿蘇ピンク石は磐井の配下にあったとすれば、今城塚古墳を継体陵とすれば、果たしてピンク石を使うのかどうかですね。

 ピンク石がはるばる運ばれて来ているのが、政治の思惑と言うよりはビジネスと考えられないでしょうか。いずれにしても、遠路はるばる運んできてくれますと、例え王権といえども、十分な謝礼をしたはずで、謝礼目当てに石を運んでいたとすれば、これは立派なビジネス。

[8583]  樽 の 語 源     焼尻紋次郎 2007/12/10(Mon) 06:26 [Reply]
宇土はいちおう東っ側です。陽が昇る(ud-)東っ側の聖地=宇土 は成り立たないでしょうか。

 天草島の西海岸に、愛宕山を持つ天草町があります。ここから北上すると崖っぷちに加工しやすい陶板焼き用の石を採る現場があります。
 「昔はそうとうに注文が来ていたのですがねえ」と、人夫のオッサンがいっていました。

 これから先は紋流「樽の起源」についての講釈。
 くだんのアマカネを連発するニューギニア高地石器時代人ですが、本多勝一さんのレポートによりますと、石斧は鉄斧にも負けない早さで立ち木を伐れるそうです。臼ぐらいの高さの幹の中央で火を焚きつづければ、1ヶ月ぐらいで中央部がヘッこみ、tar(樽)や臼ができます。ヘッこんだ凹部のうえに陶板をおけば、遠赤外線が放射されるので、現代のスキヤキ以上の美味に恵まれます。

 あ、ウヅメの命のウヅには「陽が昇る」のほか、いろいろな意味があって、定まりません。中でも udho(下の方……ウツ伏せ)があるので、これがストリップ演技を呼びこんだとおもわれるのですが……。
 だれぞ、ネパール語辞書を読んでくれんかナァ〜。

[8582] Re[8580][8579]: 宇土  くず 2007/12/10(Mon) 01:16 [Reply]
>ウド情報ありがとうございます^^

>有明海の海運勢力と瀬戸内の吉備水運勢力と紀州水運勢力が連帯して運んだのでしょうか。
>宇土は阿蘇石の出荷地。

以下のサイト読んできました。全部読むと長いですが阿蘇石について良くまとめられているようです。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/004/da_004_04091601.htm

宇土産出の阿蘇石から大陸をのぞむ瀬戸内、大阪湾周辺の諸国(クニゝ)の経営戦略が見えてきそうですね。
力を付けてきた諸国に対し、武力で中央権力の強化を図ったのがワカタケル大王(雄略帝)
その後中央の危機的状況に対し、周辺諸国の勢力が連携して擁立したのが継体帝であり、ピンク石はその象徴でもあったでしょうか。

[8581]  宇土  焼尻紋次郎 2007/12/08(Sat) 07:43 [Reply]
> 熊本県に宇土市があります。最近市になったのでしょう。
 ここは宇土市と宇土郡がセットで、広域です。

[8580] Re[8579]: 宇土  とみた 2007/12/07(Fri) 15:04 [Reply]
> > 日本書紀に垂仁天皇の皇子、五十瓊敷命が茅渟の菟砥(うと)の川上宮に行って、剣一千口を造らせた。とあります

石上神宮に納めた。一説には皇子が茅淳にいて河上という名の鍛治に一千口の太刀を造らせ、それを忍坂邑に納めた後に石上神宮に運んで収蔵したとある。
>
>  泉南郡岬町の鍛冶屋谷では今でもスズ(水酸化鉄)が発掘されますように、菟砥(うと)の川上宮はこの辺りにあったものと思われます。

茅淳といえば泉南。古道の茅淳道は竹内峠から日置荘を通り和泉に到るとされている。

日置荘は、興福寺領河内国狭山郷日置庄と見えるが、丹南郡日置荘とも考えられる。

日置氏の日置は日を置くつまり太陽祭祀に関わるという説では、伊勢湾の神島から上る太陽の道(レーライン)は日置荘を通過して淡路島に落ちる。日置西村には日祀宮という江戸時代の名所がある。

日置氏は火を置くつまり鍛治に関わるという説では、丹南郡日置荘では鋳物師の住まいがあったとする文書がある。



>  宇土と言う地名は熊本県に宇土市があります。最近市になったのでしょう。ここから阿蘇ピンク石と言う加工がし易い石が出荷されています。関西の古墳にも相当使用されているヒット商品だったようです。本当の?継体陵とされる今城塚古墳にも使用されています。
>
石の考古学によれば、阿蘇石でも黒灰色阿蘇石とピンク阿蘇石がある。いずれも凝灰岩で加工はしやすい。

古墳前期〜中期の石棺には、黒灰色石を使う、讃岐の高崎鼻古墳、京都の八幡市の八幡茶臼山古墳、和歌山の大谷古墳はその代表である。

古墳中期末〜後期の石棺にはピンク石で家型石棺を造る。
今城塚古墳、桜井市の兜塚古墳などが代表である。

有明海岸特有の縄掛突起のある組合せ家型石棺を用いるものが多い。
有明海の海運勢力と瀬戸内の吉備水運勢力と紀州水運勢力が連帯して運んだのでしょうか。
宇土は阿蘇石の出荷地。

有明海は、中国や朝鮮への交易運搬人である隼人の本拠かも。

淀川辺の継体陵・今城塚や岩清水八幡宮。淀川と宇治川と木津川が合流する岩清水神宮は紀氏が代々神官を勤めるとか。

交通の要衝であったのでしょう。

八幡茶臼山古墳には継体よりずっと昔の古墳ですが、熊本県竜北町の氷川流域の石棺が出ている。

淀川の水運を利用して遠く九州それも肥後との交易があった。有明の隼人勢力や紀州勢力の匂いがなんとなくします。

肥後は朝鮮と深いつながりがあります。



[8579] 宇土  神奈備 2007/12/07(Fri) 09:20 [Reply]
 和泉に男之宇刀神社(おのうと)が鎮座、五瀬命と神武天皇が祭神です。男之は兄之、宇刀は弟との解説が『式内社調査報告』にありました。

 この近くと言える同じ泉州に全長170mの宇土古墳があります。紀小弓宿禰の古墳とされていましたが、明治維新後は五十瓊敷入彦命の古墳とされており、宮内庁管轄。

 さきに、青草[3388] : 地域文化の断層で、くずさんが以下のように書かれました。
> 日本書紀に垂仁天皇の皇子、五十瓊敷命が茅渟の菟砥(うと)の川上宮に行って、剣一千口を造らせた。とあります

 泉南郡岬町の鍛冶屋谷では今でもスズ(水酸化鉄)が発掘されますように、菟砥(うと)の川上宮はこの辺りにあったものと思われます。

 宇土と言う地名は熊本県に宇土市があります。最近市になったのでしょう。ここから阿蘇ピンク石と言う加工がし易い石が出荷されています。関西の古墳にも相当使用されているヒット商品だったようです。本当の?継体陵とされる今城塚古墳にも使用されています。

 宇土古墳の中はどうなんでしょうね。ピンク石の展示室だったのかも。

[8578]  台湾語をやりなっしェぇ     焼尻紋次郎 2007/12/04(Tue) 08:09 [Reply]
 福島しゃん、もう、朝鮮語はいちど離れたがヨカちオレおもうばい。
 お育ちは台湾でしたよね。
 台湾には三つのグループ、いちおう 18 の言語に分けた研究が進んでいます。
 この言語群はマレー系といわれ、シロートに近づきにくいのは語頭語幹にある音節の意味を掴むのがネックになっているからです。

 でも、これらはマラヨ・ポリネシア語群ですので、まずインドネシア語を当り、次にフィリピン・タがログ語をさわれば、掴み易いのではないかと思います。
 オレ、 2週間ほどまえ、インドネシア語辞書を読んでみましたが、語頭接頭語幹はわずかしかありません。
 タガログ語には端倪すべからざる諸資料を掴めそうです。目下ボツボツやっちょります。
 台湾語を知るにいい本があります。3ヶ月間ほどお貸ししまっしょうか? 

[8577] Re[8576]:  シュシャン(杜撰)は族際古語    福島雅彦 [Url] 2007/12/02(Sun) 11:52 [Reply]
>  福島しゃん、オシター、アッ!
>  あんたがたン板な書き込み欄がこ〜まいもんき、ついつい投稿ば遠慮するごつなっちょりますと。おれのパソコンは皿で text 仕上げてぶち込むとがでけんとですたい。
>  まんず
> > “?”“?-”“?-?”“??”“???”
>  の意味ば教えちゃんない。

※文字化けしますか。
 “?”の部分はハングル文字です。私が命名した古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)を強調しています。
*何時ぞや、お送りしたレジメに掲載していると思いますが…。
*最新改訂版をお送りします。


[8576]  シュシャン(杜撰)は族際古語    焼尻紋次郎 2007/12/02(Sun) 06:33 [Reply]
 福島しゃん、オシター、アッ!
 あんたがたン板な書き込み欄がこ〜まいもんき、ついつい投稿ば遠慮するごつなっちょりますと。おれのパソコンは皿で text 仕上げてぶち込むとがでけんとですたい。
 まんず
> “?”“?-”“?-?”“??”“???”
 の意味ば教えちゃんない。

 ソシモリが牛の頭という解釈は伝統的なものですが、あまりにも“曽(社禝の社”に近い意味がでたので、オレ、書きだしました。
 いずれにせよ、国家形成当時「神官たちのひねくりまわし」が関与している領域なので、ここの迷妄を払拭する必要を感じます。

 メソポタミアのスーサ−市と素盞鳴が関係ないと置けば、進歩は恵まれません。あると思って睨みつけていると、将来、ひょんなところから思考での発展に恵まれるというメカになっていることでしょう。

 ところで、 シュシャンとか syusan という発音は、今でも至るところの言語に共通して「粗末な」とか「杜撰な」の意味があらわれています。
 素盞鳴尊が暴れ神だった……などの風説は、あとで神官たちが酒のみ話でデッチあげたと看るが当をえていると、オレ、惟ふのです。
 日本各地に見られるケンカ神輿などの風俗も、シュシャンということばが作ったゴーストではなかろうかナァ。

 

[8575] Re[8565]: ソシモリ異説  福島雅彦 [Url] 2007/12/01(Sat) 21:40 [Reply]
※某大学での講義レジメの抜粋です。

・天照大神と素盞嗚尊(以降は本題ではないので少し、ストーリーを端折る)
 素盞嗚尊は大暴れする。山を揺り動かす勢いで天照大神に迫る。二人(二神)の間に子を生む。宗像(胸形)三神は素盞嗚尊の、正哉勝吾勝勝歯速日天忍穂耳尊他は天照大神の御子とする。その場所が「天真名井」、「天の安河」で、前述の「高天原」因みの地名である。「天(あま・あめ)…」は前述したので…。
「真名井」とは、筑後弁で「魚→まな」であるから、「魚が棲む泉(出水)」と成る。これが、筑紫の日向の山麓に現存している。名水百選にも成っている「清水寺」に。
「天の安河」は、従来「やすかわ」としているが、「あノかわ」であろう。「あ」は東の端の意で、「天の安河」とは「東の山の更に東の川」の立地からして「小塩川」であろう。この河畔に「岩屋堂」(天照大神の「天の岩屋戸」隠れの?)が現存している。
 何故か、勝ち誇った素盞嗚尊は、更に横暴に振舞う。
神田の畦切り、溝埋め、機織小屋に斑馬の生皮を投げ込む、天照大神の神殿に糞尿を撒き散らす。それで天照大神は件の天の岩屋戸に隠れる。
 この二神の確執は、公害問題である事が、神名の語源からも解かる。
・「天照大神」とは、「天」は前述。「照」とは、古代倭語“딸리다”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い?。
・「素盞嗚尊」とは、古代倭語“쇠상王”(soe-sang)王=[鐵上]王⇒製鐵王であろう。
“쇠”(soe)[鉄;真金<雅>、金属の総称]
“쇠-”(soe)[“牛の”の意]=これは意味深で、建速須佐男命の「建速」は「たてはや」と読んできたが、「牛頭(ごず)」の当て字が疑われる。即ち、素盞嗚尊=牛頭天王とも謂う。これも、職掌名であり何代も何人も襲名し得る。この何代目かは中国正史『後漢書』に登場している。
 日本書紀の一書にいう。素盞嗚尊は乱暴狼藉のために高天原を追放になり、新羅国の「曾尸茂梨」のところに行く。「曾尸=“쇠-씨”(soe-si)=鐵師(直訳?)=牛」、「茂梨=“머리”(meo-ri)=頭」=製鐵の長(おさ)。故に「牛頭」=「曾尸茂梨」と成る。
  
*≪補記≫『後漢書』登場の倭王「帥升」=“shuai-sheng”⇒“soe-sang”=“쇠상”(soe-sang)=[鐵上]⇒製鐵王=素盞嗚尊である。

[8574] 外宮謎の神  長鳴き鳥 2007/12/01(Sat) 18:27 [Reply]
ありがとうございます。

参拝された方のブログがありましたが、宇治山田駅のすぐ近くです。
確かにかなりの祭神が合祀されています。
明日に近くなので確認したいですが、どうも建御名方と対になってるようですね。
建御名方だと伊勢津彦と何らかの関係が有るのですが・・・・
建日丹方だと全くわかりません。

[8573] Re[8572]: 外宮謎の神  神奈備 2007/12/01(Sat) 14:56 [Reply]
長鳴き鳥さん、こんにちは。


建日丹方神は「たけひにかたノかみ」と訓むようです。『平成CD』では、全国で三重県に二社に祭られています。
ひとつはお書きのように海士潜女神社に合祀されているようです。
もうひとつは伊勢市岩渕の箕曲中松原神社で、明治四十二年に近隣の神社41社を合祀しているようで、それらの中に建日丹方神を祀る神社があったようです。

[8572] 外宮謎の神  長鳴き鳥 2007/12/01(Sat) 10:35 [Reply]
こんにちわ、はじめまして。

昔、伊勢外宮の高倉山山麓に二社あり。
高神社に建日丹方、客人社に建御名方が祀られていたが今は残存せず。
鳥羽の海士潜女社に合祀された記録を見ましたが、それ以外は全く見当たらず。
謎の神です。

[8571]  熊野 慰め ナグサ姫 巡礼    焼尻紋次郎 2007/12/01(Sat) 07:52 [Reply]
 きのふは、諸氏の前で醜態曝しました。どもすみませんでした。
 でも、ああいった Max Dev さんが現れてくれるは、掲示板ならばこその愉悦です。Sch は、あの方のおっしゃるとおり、小生の過ちです。そういえばふつう、サンスクリット語は St.と略します。

 複数形のモンゴル辞書というは、ものすごく意味シンです。というのも、モンゴル帝国は占領した土地には図書館を作って、その土地の言葉の辞書を作ったからです。でも、あの広大な占領地のどこかに nagsa があったことはタシカです。

 さて、菩提樹の実で数珠を作ります。小生も「月の雫」なる商品を作りました。
 「鳴らしくるみ」をご存じと思います。あれと同じように菩提樹の実の四つ五つを掌に入れてグシャグシャやると、掌のツボを刺戟して健康にいいんです。

 「菩提樹の実」は「なぐさ・実」ですよネ。今でこそバクチは下品な行為だと考えられていますが、鎌倉時代までは公認されていました。
 津軽では「なんだば?!」といいますが、それは「おれは○○だとばかりに思っていたに、その事態は“あるいは!”」という驚きの表現で、これもネパール語にあります。その bha の寄り合いがバクチ。バクチは古くはカリウチといっていましたが、この kali もバクチです。
 サイ(吉兆)コロを掌にいれ、グシャグシャやるのが「手・なぐさ・み」。このへんから「慰め、慰める」が出てきているようで……。

 熊野の二大御神身体のゴトビキ岩も那智の滝もタジク語発でした。
 ところが、熊野はソグド語発らしいです。中央アジアの xu はネパール語では khuになります。
 これまで、どこの言葉も「クマノ」をビシャッと割り出すことはできなかったのですが、ソグド語に xumar(慰め)があるのです。
 ゾロゾロ・ゾロゾロ蟻の行列よろしく熊野詣でをするは、ある時期からどっと始まったのではなかったでしょうか? ある天皇は一生のうちに 30回も熊野に巡行されたと。また大海王子(皇子?)が身の危険を熊野に避けた。
 それは、熊野がこころの傷を治療してくれるという「ことばでの信仰」があったからではなかったでしょうか。

 こころの痛みとは、身内に死別したことでしょう。原始人はそのこころの痛みを癒すために、じぶんの指を一つひとつ切り落としました。
 吉野川から四国の吉野川へ。今ではヘンロ道が移動していますが、その「癒し」を求める気持は同じことでしょう。

 吉野山は空海の時代には、すでにてっぺんは平らになっていました。ここは超高率の銅が採れる(含有率 3割)そうです。なんだか香春岳みたいですね。
 香取神社ちかくに山田町があり、東北に愛宕をもつ場所の字名は府馬。


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