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掲示板のログ(平成二十年 四月 2008.4)お名前の敬称は省略しています。

[8908] 渋河路は  佐々木高久 2008/04/30(Wed) 12:06 [Reply]
渋河路という太子道があったと思うのですが、今はどの付近が比定されているのでしょうか。たしか柏原から難波宮までの直線古道とか、長瀬川の堤防とか聞いたことがあるのですが。
 鉄は青銅のように塩水に対する腐食耐性にかなり劣るので、海岸近くには長期保管しないだろうと聞きました。また鉄は実はよく燃える物質なのですと先日米村伝次郎先生が説明されていました。半島の鉄は丹後王国の加悦にまず納めさせて、丹後王国の収益源にしたのでしたか。いろいろと深謝。

[8907] Re[8906][8904]: 難波大津  神奈備 2008/04/30(Wed) 10:03 [Reply]
 『神功紀』52年、七枝刀と谷那の鉄山から出た鉄が奉じられています。
 『応神記』に、「文化の渡来」の項があります。「もし賢し人あらば貢上れ」との百済王への命令に対して、手人韓鍛名は卓素(たくそ)や秦の造の祖、漢の直の祖などがやって来ています。

 鉄素材の半島からの持ち込みは、鉄技術者の渡来と同様に王権に必要なことだったのでしょう。

 神功応神あたりのお話も神話に近いのでしょうが、神代では素盞嗚尊が「韓郷の島には金銀がある・・」と云っています。五十猛らを率いて出雲に来るのですが、真弓常忠さんが五十猛神を韓鍛冶としていますが、五十猛神を祀る伊太祁曽神社のイタキソと韓鍛の卓素の名が似ているのが気にかかっています。

 難波大津の近くの倉庫群に蓄えられた物は何だったのかですが、孝徳帝の頃の並び倉の跡から小さい金の粒が出土していますが、それ以外にには何も見つかっていません。火災で燃えたとすれば、須恵器などがおかれていれば、欠片ぐらいは出るのでしょうが、出ていません。鉄艇(金扁に廷)ネリガネなら、持って行かれたのか、錆びて消えたのか、よくわかりません。

 王権を支える基礎となるのは武器、これは鉄が不可欠、当然最優先で確保したのでしょうが。

[8906] Re[8904]: 難波大津  素人 2008/04/30(Wed) 00:43 [Reply]
神奈備 さま
佐々木高久さま
とみた 様
ご指導有難うございました。
茨田堤・難波の堀江などだいぶ様子が見えてきました。
> 難波津  上町台地の東北西岸にあった幾つかの津の総称。例えば、高津、猪甘津など。
>
> 難波大津 中心的な津で、難波御津と同義と思われる。
> 1.中国・朝鮮諸国と交換した使節の発着港
> 2.西国へ赴任する官人や防人の発着の港
> 3.調庸など諸国から貢進される公的な物資・商品の集散地。
>
この頃ですと重要な輸入品としますと伽耶からの鉄蹄ではないかと思います。
当時の船ですと安定のためのバラストとして船底に鉄蹄を積載して、日本に向かい難波大津などで陸揚げして倉庫に貯蔵したのでしょうか。良質の鉄は輸入されていたのでしょう。代わりのバラストとして石材・鉱物などを積んで伽耶に向かったのでしょうか。
中国・伽耶との貿易はこちらで行われていたのでしょうか。

神功皇后・雄略天皇が登場しますが、半島との軍事的な関係もこの地域は深かったのでしょうか。半島で功績のあった軍人たちの凱旋式典などこの辺であっても可笑しくないように思われるのですが記録はないのでしょうか。
主題からそれますが、ご指導いただけないでしょうか。

[8905] Re[8904]: 難波大津  佐々木高久 2008/04/29(Tue) 21:05 [Reply]
日下説を氏の最新の図書(平野は語る:大巧社)で確認すると、難波津は高麗橋1丁目の東横堀川西岸になっていました。またその図書のP21の図を見ると、難波潟は通称河内湖に比定していました。葦はかつての蒲生村(京橋付近) にあったのでしょうか。天満砂堆付近は常に南から北へ強い沿岸流があったので、難波江口で難波堀江に入るときに沿岸流の影響で堀江に入れない事態もあったのでしょう。沿岸流の影響で江口は常に砂が溜まって浚渫が必要だった可能性もあります。だから早瀬に乗り上げた。坐摩神社元大神坐と阿斗氏の宅が新たな根拠というわけですね。面白いです。

[8904] 難波大津  神奈備 2008/04/29(Tue) 19:22 [Reply]
難波津  上町台地の東北西岸にあった幾つかの津の総称。例えば、高津、猪甘津など。

難波大津 中心的な津で、難波御津と同義と思われる。
1.中国・朝鮮諸国と交換した使節の発着港
2.西国へ赴任する官人や防人の発着の港
3.調庸など諸国から貢進される公的な物資・商品の集散地。

難波大津に関する資料
1.仁徳は磐之媛を難波の大津で待つが、大津に泊まらず、引き返して、川から遡って山城に行った。
2.推古十六年 大唐の使人裴世清らのために、新しい館を難波の高麗館の近くに造った。六月十六日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船で、客人を江口に迎え、新館に入れた。
3.舒明四年 唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。大伴馬養を遣わして江口に迎えさせた。
4.(万葉4331)若草の 妻をも巻かず あらたまの 月日数みつつ 葦が散る 難波の御津に 大船に
5.(万葉1453)大王の 命畏み 夕されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
6.(続日本紀) 天平勝宝五年753 御津村 南風大吹 潮水暴溢 懐損慮舎 没百姓五百六拾人
7.(行基年譜) 聖武二十一年744、大福院 御津 尼院巳上在 摂津西成郡御津村
8.朱鳥元年(686) 阿斗蓮薬の家から失火、難波の宮室はことごく焼けた。
9.天平宝字六年(762)遣唐使用船が難波江口の早瀬に乗り上げた。

難波大津(御津)はどこか?

千田稔説(埋もれた港)
 御堂筋三津寺付近
 三津寺は天平年間(729-)からこの地にあると云う伝承
 三津寺の北に津村、南に難波(なんば)、湊町がある
 資料7は三津寺を大福院としているが、現在もそうである。
 堂島川の玉江橋の北に「字江之口」があった。堀江口だろう。福島駅の南
 これで、資料2,3の 難波津 → 江口 → 客館 のコースが合理的になる

日下説 高麗橋(天神橋南付近)
 資料2の記事で、難波津に泊まったのは全体の話。行路は江口から高麗新館
 資料6の記事で、そのような被害が出る場所に重要な湊を置くはずがない。
 資料7の地名は移動することがあるので拘泥されない。
 資料9では、難波堀江に入ろうとしている。

神奈備 日下説を延長させて、大川から谷町筋に入った場所
 大川沿いは時には流れが急になりがちだから、谷筋に少し入る。難波宮の中の港だから大津であり御津である。
 資料1で大津に寄らず、引き返しているのは、谷町筋(元は谷)を北上して向かった様
 資料4、5で、「葦か散る」、「鶴が妻呼ぶ難波潟」とあり、淡水の潟に位置した
 古墳時代、飛鳥時代の巨大倉庫群が真東に出来ている
 船乗りの頭領であった阿斗氏の宅が、難波大蔵の北東すぐ(谷町筋)にあった。
 石町に住吉神を祭っていた。(坐摩神社は元大神坐)まさに港を見守っている。

http://kamnavi.jp/log/naniwatu.jpg

[8903] Re[8902]: 土木工事と秦氏  神奈備 2008/04/28(Mon) 19:42 [Reply]
 『住吉大社神代記』の「天平甍を奉る本記」から
 猪加志利乃神、二前、一名為婆天利神(元、大神居坐して、唐飯所聞食しける地なり。)
 右大神は、難波の高津宮に御宇しし天皇の御世、天皇の子、波多毘若郎女の御夢に喩覚し奉らく、「吾は住吉大神の御魂ぞ。」と『為婆天利神、亦は猪加志利之神と号す。』託り給ひき。

 これは要するに住吉大神はかっては坐摩神社の場所に鎮座していたことを云っています。その後で、現在地の住吉へ遷座したのでしょう。また。『社伝』によれば、雄略天皇の時代に、住吉大社に神功皇后を合祀しています。

 三筒男神々を奉斎した場所について、『住吉大社神代記』は以下のように出ています。

310行目 大御栄 大津 渟中倉之 長岡峡 國
5行目   玉野國 渟名椋 長岡 玉出峡 墨江御峡

5行目は『神代記』が書かれた頃の鎮座地ですから、現在地のことで、これは「墨江御峡」で判ります。

 さて、310行は最初に鎮座したいとの希望した場所です。特徴は「大津」がついていることです。古代の大阪の湊で「大津」の冠をかぶせられているのは難波大津だけです。住吉大津とは表現されていません。難波大津とは上町台地の北方の湊のことです。310行目を解読すると、りっぱな大王の湊の聖地で上町台地の岬とでも云う意味でしょう。

 『記紀』に「大津」が出てくるのは、最初は神功皇后が三筒男神を祀った場所のお話、次は応神天皇
が兄媛が吉備に帰るのを見送ったお話で、天皇は高殿から見送ったとのお話。
 次は仁徳天皇の皇后で嫉妬深いので有名な磐之媛が怒って三つ柏を海に投げ入れて、天皇の待っている大津に泊まらずに、引き返し江から遡って山城方面に行ったとの記事です。

 このあたりに出てくる大津は難波大津のことであり、住吉津ではありえません。

 5世紀半ばに法円坂から古墳時代の高床式倉庫跡が出土しています。16棟の建物群ですが、おそらくは6群と10群とに分かれるのでしょうが、時代はつながっているように思われます。掘っ建て柱倉庫ですから建てても寿命は20年程度、合計40年程度でしょう。倉庫群がなくなった跡地に竪穴式住居が出来ています。放置され、民衆の住処になったのでしょう。民衆の住処の時代は住吉津が繁栄した時代でしょう。5世紀末から6世紀前半ではないでしょうか。

 雄略天皇の時代に、身狭村主青が呉から織媛等を伴い、住吉の津に泊まったお話がでてきます。さらに前述したように、この時代に神功皇后を住吉大社に合祀しています。住吉津が主力の時期だったのです。

 継体天皇は淀川・木津川沿いに宮をおきますが。この頃には難波津の重要性は再確認されてきたのでしょう。九州のきな臭い動きなどで。
 欽明元年に難波祝津宮に天皇以下の重臣達が行きます。この時に任那割譲の失敗の件で大伴連金村が住吉宅に引きこもります。かわって物部氏や蘇我氏が難波津に宅を設けます。住吉津から難波大津への王権の湊の移動があったのでしょう。

 大化の改新の後、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を新しい宮とします。この時にも幾つかの倉庫群が設けられます。古墳時代の倉庫と一部重なっています。この近くに難波大津があったと見るべきでしょう。

 難波大津の後裔が渡辺津であり八軒屋の湊だと思われます。丁度、谷町筋が大川に突き当たる所です。大川付近の東西方向の上下は西から登ってきて高い場所になり、それから若干下っています。そうして最後に大坂城方面に登っています。谷町筋は谷であり、後世に埋め立てられたと云われますが、まさにそのことを物語っているようです。谷に流れ込んだ水が大川方面に流れるので、難波の堀江は運河は運河でしょうが、そのには川かあったので浚渫して河内湖から大阪湾へ水が流れやすいようにしたのが、大形の土木工事と見なされているのでしょう。茨田堤を造るよりはやさしかったのではと思います。なぜなら、人柱などのエピソードが語られていないからです。

[8902] 土木工事と秦氏  とみた 2008/04/28(Mon) 11:42 [Reply]
大阪湾沿岸を眺める。北から難波津のある西成郡、百済郡、住吉郡の住吉津。

住吉津が栄えたのは、4-5世紀、難波津も5世紀に港として栄えたであろうが、住吉津を圧倒するには5世紀後半以降。

秦氏は新羅からの渡来民として、淀川の茨田堤の土木工事(淀川が河内平野に流入するのを防いだ)に入ったのは5世紀としましょう。

茨田郡幡多(ハタ)郷は現在の寝屋川市です。記紀・仁徳紀に茨田勝が秦氏と協力して茨田堤を築いたとある。

(後に、茨田秦氏が長岡京の造営に関与しています。)秦氏にはいろいろなタイプがあります。養蚕、機織、開拓、銅鉄鋳造、など中でも治水に長けていたという伝承があります。

堰堤を作って水利の便を計った。古事記には秦人が茨田堤と茨田三宅の造営に従事したとなっています。

茨田から難波の堀江までは10数キロです。茨田の秦人が西成に移住し、難波の堀江工事を担当したのでしょう。

難波津堀江が整備されて、船はそのまま大和川・淀川に入ることが出来、住吉津より有利になり、航海に習熟した吉士系統の渡来人が入り、難波津の管理運営に関係したようです。

秦・三宅・吉士は新羅系の渡来人と見るのが妥当のようです。

百済郡には663年白村江で敗れた民が入植した。
住吉津は渡来人が少ないようです。津守連などが運営したとされています。

河内湖の北の淀川が秦氏が担当なら新羅人で韓半島の東側の人。河内湖の南の亀井遺跡の築堤・水田開発の担当は、大阪府教委の小山内さんは、韓国の西海岸の全羅北道の技術者を想定されています。5世紀末から6世紀初めです。

しかも、この技術は中国江南の長江河口域や太湖周辺の低湿地開発技術に由来する可能性を検討されています。


[8901] Re[8900][8897][8893]: 巨大土木工事  佐々木高久 2008/04/28(Mon) 11:39 [Reply]
 素人さん
 古墳の建設には、まず地盤の知識、そして古墳の盛り立てる材料としての土質の知識、盛り立てた後の材料の適正な締固め特性(突き固める度合い、含水率、斜面の安息角など)をチェックする。いわゆる試験盛土を行ってからです。また盛り立て時に地山の地下水位が上がって、地すべりを起こすことも頻繁、場所選びも結構難しい。
 堤防建設や開削工事は、場所はある程度特定されていて、堤防の盛り立て部分の工事は盛土の知識がないと失敗しますのでこれは困難な工事ですが、遊水池は河川氾濫で自然に出来た三日月湖(たとえば茨田池)などを利用する。ほとんどの堤防は自然にできた自然堤防や浜堤を利用する。
 開削は地盤条件(とくに湧水による落盤)さえよければ、まだやさしい方かもしれません。また開削箇所に堆積した土は当時も毎年浚っていたようです。

[8900] Re[8897][8893]: 巨大土木工事  素人 2008/04/27(Sun) 23:28 [Reply]
>  3世紀末頃、牛の涎のごとく移民があったとか。
>
>  大規模な土木工事は、大和では箸墓古墳の造営などのように3世紀中には行われていましたので、新たに大陸からの技術者が来なくとも行えたのでしょう。
>
>  茨田堤・難波の堀江の開削などの治水関係の工事ですが、5世紀後半から6世紀に入ってから完成したのではと云われています。5世紀ですが、倭の五王の時代ですから、大いに人的な交流があったのでしょう。

お墓を作るのと運河開削や堤防の構築はちょっと違うように思います。運河は砂で埋まりますし、堤防は決壊します。埋まりにくいように流速を管理したり、決壊しやすい場所に遊水池をつけたり、流路を改修したりなどかなりの水理の知恵がいるように思われます。やはり大陸で河川改修や運河の開削をやってノウハウを持っていないと上手くいかないように思います。素人の推測ですが。

>  仁徳朝以来、土木国家であることはこの国の伝統になったようで、現在でも道路工事用のお金は最優先に確保されているようですね。
>
同感です。

青草失礼しました。

[8899] Re[8896][8894]: 韓半島と倭国の交流  素人 2008/04/27(Sun) 23:10 [Reply]
とみた様
> これも渡来の技術者です。柏原の大県には、鐸ヒコ神社がありますがここは、フィゴを用いた鍛治が行われています。鉄の技術の古さが窺がわれます。鉄素材を輸入し、リサイクル品を使って鉄の道具を作っていたと考えています。
ノロの出ない、直接還元法を調べています。800℃〜1000℃位で海綿鉄を作り前にこちらで出ていたように一部を燃やせばウスタイトの中に軟鉄を作れるようです。たいした、装置がなくても鉄は出来るのではと調べています。鍛冶炉で鉄を作った話は聞きますので弥生時代に製鉄されていた可能性はあるのではと考えるこの頃です。
もちろんリサイクルは当然です。


>
> 660-668年に新羅ー唐の連合軍に倭ー百済連合軍が敗れ、さらに高句麗も滅亡すると渡来人は増えるのでしょう。
>
> 時の権力者は彼等も上手く利用した筈です。
>
中国人以外ですと蛮族となり、かなり長期間監視下に置かれたりして大変だったのでしょう。
最近は中国王朝が滅びると中国の息のあまりかかっていない日本などに逃げて来たのではと考えるようになりました。百済の王族以外はあまり記載がないようですが中国の侵略の口実になるので、翡翠と同じように秘されてきたのでしょうか。これら文化人、高級技術者など脛に傷を持つ者を上手く使って国造りを進めたのでしょうか。
半島だけでなく中国大陸からも流れてきた人はいるのではと考えるこの頃です。

[8898] 傭兵  素人 2008/04/27(Sun) 22:36 [Reply]
とみた様
しばらくで御座います。
> ところが3世紀後半から末期にかけて、北方のツングース系の扶余族が韓半島の東海岸をリーマン海流に乗って金官伽耶にやってきて、遊牧民の特徴のある木槨墓と副葬品(蒙古鉢型冑や銅鍑など)があることが証拠とされています。
>
> 一部の学者は扶余族でなく鮮卑族がやってきたという考えもあるようです。
> その後先ほど触れたように400年に金官伽耶は高句麗に攻め落とされました。
>
北方騎馬民族が居ましたか。
当初、日本も新羅との国境線警護の為に洛東江、東岸地域に配置されたようですから警護兵として騎馬民族の弓射騎兵に対抗できる強力な騎馬民族を傭兵として導入しても可笑しくはないように思います。日本の場合は中国の属国として命令に従った可能性も高いようですが。
青草でした。

[8897] Re[8893]: 巨大土木工事  神奈備 2008/04/27(Sun) 22:14 [Reply]
> 大規模な土木工事が出来るようになっていますが、数理に明るい専門技術者が必要と思うのですが、この時期5世紀前半に大陸または半島から大量に渡来したのでしょうか。
 
 3世紀末頃、牛の涎のごとく移民があったとか。

 大規模な土木工事は、大和では箸墓古墳の造営などのように3世紀中には行われていましたので、新たに大陸からの技術者が来なくとも行えたのでしょう。

 茨田堤・難波の堀江の開削などの治水関係の工事ですが、5世紀後半から6世紀に入ってから完成したのではと云われています。5世紀ですが、倭の五王の時代ですから、大いに人的な交流があったのでしょう。


> 普通の人は海峡をなかなか渡れませんが、支配層や高級技術者などは日本に来れたのでしょうか。

 白村江の後には百済の王族・貴族が退去して逃げてきますが、普段でも食い詰めた者や犯罪人などはボートピープルとして渡来してきたのでないでしょうか。

 仁徳朝以来、土木国家であることはこの国の伝統になったようで、現在でも道路工事用のお金は最優先に確保されているようですね。


[8896] Re[8894]: 韓半島と倭国の交流  とみた 2008/04/27(Sun) 21:33 [Reply]

>大伽耶は高麗です。5世紀半ばには栄えました。

高麗(誤)→高霊(正)です。

>支配層や高級技術者が流れてきた
313年に楽浪郡が314年に帯方軍が滅びて漢人が流浪することもあったのでしょう。
彼等は漢文化を持っているし技術も知っているので、重宝がられたところもあったかと思います。

たとえば、葛城南郷あたりは工人も多いはずですね。鍛治や陶器造りなどの技術者がいて親方衆と工人労働者は住み分けています。

楽浪漢人が親方で、労働者が伽耶の人ということもあるかもしれません。これも5-6世紀のことでしょうか。住居と墓が階層別に分かれています。

河内湖の南には、弥生時代から人が住んでいたようですが、5世紀には渡来人が増えるそうです。5世紀の終りから6世紀にかけて東除川の亀井に築堤し水田を開発した亀井遺跡があります。これは大阪教委の小山内さんが報告されています。

これも渡来の技術者です。柏原の大県には、鐸ヒコ神社がありますがここは、フィゴを用いた鍛治が行われています。鉄の技術の古さが窺がわれます。鉄素材を輸入し、リサイクル品を使って鉄の道具を作っていたと考えています。

660-668年に新羅ー唐の連合軍に倭ー百済連合軍が敗れ、さらに高句麗も滅亡すると渡来人は増えるのでしょう。

時の権力者は彼等も上手く利用した筈です。






[8895] Re[8894]: 韓半島と倭国の交流  佐々木高久 2008/04/27(Sun) 21:11 [Reply]
とみたさん 教えて下さい。
ほんの少し加悦町(与謝野町)の仕事をして疑問に思ったことですが、山の斜面にはでんぼのような円墳が多数ありました。和歌山の岩瀬千塚と似ていたような感じでしたが、何か関係あるのでしょうか。
 それと余談ですが、加悦では遺跡で結構鉄さいが出ていました。山陰の花崗岩は、製鉄に向いているらしいです。

[8894] 韓半島と倭国の交流  とみた 2008/04/27(Sun) 17:56 [Reply]
素人さんも幅広くやっておられますね。少し齧った知識を提供させていただきます。

韓半島の情勢は、高句麗は紀元前37年建国です。一番最初の国でしょう。

百済や新羅は実際上は4世紀半ばに建国。斯羅→新羅に、伯済→百済へ、馬韓は統一されず西南部にあり、弁韓は小国がばらっばらのままで国に統一されずに残った。

金官伽耶、大伽耶、小伽耶、安羅伽耶、多羅、などの部族でしょう。原三国時代です。

新羅は4世紀には振るわず、高句麗に圧倒されその属国みたいですね。

金海や釜山などの金官伽耶は、栄えていました。

ところが、高句麗に400年に攻められて、滅亡の危機だったのでしょう。倭国へ

或いは、北の大伽耶に、逃げました。大伽耶は高麗です。5世紀半ばには栄えました。

金官伽耶の歴史に限れば、楽浪郡に本拠を置く楽浪漢人の文化が伝わり、紀元前一世紀後半には楽浪漢人タイプの木槨墓が出てきます。紀元後一世紀後半から2世紀中葉までは、

木槨墓が大きくなるとともに副葬品の鉄器が充実します。

ところが3世紀後半から末期にかけて、北方のツングース系の扶余族が韓半島の東海岸をリーマン海流に乗って金官伽耶にやってきて、遊牧民の特徴のある木槨墓と副葬品(蒙古鉢型冑や銅鍑など)があることが証拠とされています。

一部の学者は扶余族でなく鮮卑族がやってきたという考えもあるようです。
その後先ほど触れたように400年に金官伽耶は高句麗に攻め落とされました。

倭国には、弁韓(伽耶の前身)から、九州北部に漢式遺物(漢鏡)や非漢式遺物(鉄矛、や鉄短剣)が伝わり、鉄素材も受けています。

丹後などは韓半島と直接日本海を渡るルートもあったのではという説を唱える学者もおられるようです。

丹後王国は3世紀初めまで交易で栄えていました。鉄を輸入したり、自国で取れたかわかりませんが、東海地方と鉄の交易をしていたという説もあるぐらいです。

以上、考古学的な最近の発表を踏まえて私の考えている姿です。


[8893] 巨大土木工事  素人 2008/04/27(Sun) 00:15 [Reply]
土建屋さんが活躍した時期なので質問をお願いします。
この頃、茨田堤・難波の堀江・大仙陵古墳など巨大土木工事が実施されていますが(岡山でも)、仁徳天皇と関係ありそうです。秦氏に命じたとかありますが、大規模な土木工事が出来るようになっていますが、数理に明るい専門技術者が必要と思うのですが、この時期5世紀前半に大陸または半島から大量に渡来したのでしょうか。
いつも書きますが、西暦400年に金海伽耶や任那伽耶などに新羅から高句麗が侵入して大量に難民が出て、かなりの難民が日本にも流れたようですがこれと関係有るのでしょうか。新羅に高句麗軍が居座り、困った日本は、陽動作戦を仕掛けて海路ソウル付近まで侵攻して上陸作戦を実施してこの地域を荒らしまわり、新羅の高句麗軍を追っ払っています。金海伽耶は中国人街と思われますが、この頃に支配層の移動があったように聞きます。普通の人は海峡をなかなか渡れませんが、支配層や高級技術者などは日本に来れたのでしょうか。
日本で大きな技術的変化が有った時、どうしても大陸での軍事的異変と結びつけたくなります。夢想では製鉄技術者は鉱山も有ったのでか、平静になってから帰国したようですが、土木技術者は残ったのでしょうか。
いつもながらの青草で失礼しました。

[8892] Re[8890]: クスノキのタネの発芽  佐々木高久 2008/04/26(Sat) 09:10 [Reply]
素人さま
乾かして発芽するとはすごい。暖流にのって中国台湾から漂着発芽するんでしょう。京都の藤森神社には、なぜかナギの木が、速玉大社ではナギの実生を売っていました。しかしとなりの学校の入口のクスはりっぱでした。
クスノキが減った理由、戦国時代の水軍ブーム、秀吉の四国征伐九州征伐文禄慶長の役での異常な造船ブーム、太閤堤の工事など大規模な木材調達もあったと思います。

[8891] Re[8889]: 茨田郡のクスノキの消滅  佐々木高久 2008/04/26(Sat) 00:43 [Reply]
素人さま
>この地域で自生していたのなら、根強く残っていると思うのですが現在のように一部しか残っていないのは、幕末から明治期にセルロイドの可塑剤として樟脳がヨーロッパに輸出され莫大な量のクスノキが消滅したようですが近世と考えていいのでしょうか。楠の大木は船の船底材として江戸期まで使われたようですが、莫大な量の消滅は樟脳輸出と思われます。茨田郡でもクスノキの消滅は新しいことでしょうか。ご指導ください。
おそらく最初の大打撃は平安期の海面上昇や高潮による枯死、海面低下後の水田開発(条里制)、近世以前の河内木綿作りで漸減し、近代の住宅工場開発にて著減した。
なにぶんにも明治以前には楠地名密度が高いので、近代以降と思います。

[8890] クスノキのタネの発芽  素人 2008/04/25(Fri) 23:35 [Reply]
佐々木高久さま
クスノキは日本の船の船底材ですからとても興味があります。
>> 楠の葉にはガラス質の細胞がありまして、それが縄文時代以降大量に出てくるようです。河内もおそらく楠の森だったのでしょう。だから堤体を盛り立てたときに土壌混じった種子が発芽したものと思います。それが神社境内なので偶然開発から免れた。
クスノキの苗を買って、枝を選定しながら真っ直ぐなクスノキが出来るかやっています。すぐに大きくなるので困っていますが、真っすぐになるかは、まだはっきりしません。(京都のクスノキ)
近くのクスの並木に紫色の実がたくさん付きますので、拾って乾かして春先に5粒ほど蒔いてみましたが全部発芽して育っています、簡単に発芽してあまり手入れをしなくても育つようです。この育った株を見ますとまっすぐ育つ株と枝分かれする株があるようで、選抜も大事と思われます。(近くのクスノキ)
ご指導のようにクスノキは簡単に発芽して育つようです。
つまらないクスノキの話でした。

[8889] 茨田郡のクスノキの消滅  素人 2008/04/25(Fri) 23:00 [Reply]
佐々木高久 様
専門家にお答えいただき恐縮です。
> 素人さま
> 茨田堤の楠ですが、堤防補強というのはどうも間違いのようです。
> 楠の葉にはガラス質の細胞がありまして、それが縄文時代以降大量に出てくるようです。河内もおそらく楠の森だったのでしょう。だから堤体を盛り立てたときに土壌混じった種子が発芽したものと思います。それが神社境内なので偶然開発から免れた。
> ということがわかりました。いつごろから伐られたのかは、おそらく条里制以降つまり茨田郡では10世紀以降は確実ですが。
神社の名前がそれらしい名前に聞こえましたので、早とちりかもしれません。
この地域で自生していたのなら、根強く残っていると思うのですが現在のように一部しか残っていないのは、幕末から明治期にセルロイドの可塑剤として樟脳がヨーロッパに輸出され莫大な量のクスノキが消滅したようですが近世と考えていいのでしょうか。楠の大木は船の船底材として江戸期まで使われたようですが、莫大な量の消滅は樟脳輸出と思われます。茨田郡でもクスノキの消滅は新しいことでしょうか。
ご指導ください。

[8888] 琉球松さーーーーん  縁MADOKA [Url] 2008/04/25(Fri) 04:04 [Reply]
御久しぶりでーーす 皆さんお無沙汰しております<(_ _)>
ブログで手一杯でなかなか・・・(−−〆)
楠で盛り上がっているようですが・・・(*^_^*)

琉球松さーーーーん(^◇^)
なんか 神武天皇のほんとの御陵 
旧生魂神社跡探索の書き込みのときに樫の木ないか? 
とお尋ねではなかったでしょうか???
たしか 神武ゆかりの地はカシワラという地名がつくということで・・
柏の木?でしたかしら?

住吉の埴土神事 畝傍山山頂
で イチイカシの木が重要な役割があったことがわかったんですがーーーーー
もう知ってますか???




[8887] Re[8885][8882][8881]: 茨田堤のクスノキ  佐々木高久 2008/04/23(Wed) 23:38 [Reply]
素人さま
茨田堤の楠ですが、堤防補強というのはどうも間違いのようです。
楠の葉にはガラス質の細胞がありまして、それが縄文時代以降大量に出てくるようです。河内もおそらく楠の森だったのでしょう。だから堤体を盛り立てたときに土壌混じった種子が発芽したものと思います。それが神社境内なので偶然開発から免れた。
ということがわかりました。いつごろから伐られたのかは、おそらく条里制以降つまり茨田郡では10世紀以降は確実ですが。

[8886] 感謝 神奈備様  佐々木高久 2008/04/23(Wed) 23:16 [Reply]
神奈備さま
 海岸の湧水情報ありがとうございました。今さらですが偽書椿井家古文書(国立歴史民俗博物館蔵)で畿内の各所の神社の由緒が近世後期に改ざんされていることを知りました。
 河内交野郡の三ノ宮神社の由緒を事例として、由緒の改ざんによって争論を優位にしたとか、それを椿井何某が関与していたとか。
 継体天皇が即位した??交野天神社の由緒もその可能性ありと聞きました。
 NHKの古事記は、梅原先生が出てくるかと思いましたが。

[8885] Re[8882][8881]: 茨田堤のクスノキ  素人 2008/04/23(Wed) 22:15 [Reply]
神奈備さま
ご指導有難うございます。
> > 堤根神社が出ていまして茨田堤に生えている楠の巨木が御神木と書かれていました。
>
>  正しくは、「茨田堤に生えている楠の巨木が御神体のように見える。」です。木は神社境内にはなく、背後の堤防の跡に楠が植えられています。従って、お書きの「堤の補強のための植林」と云う方が事実に近いのではないでしょうか。
私の当てずっぽうが、まぐれで当たりかもしれないようです。
Googel マップで見てみますと堤根神社の後ろ側に東西に100mぐらい樹林帯が有りますがこれがそうでしょうか。もしそうだとしたら茨田堤遺跡は意外と大きいのに驚かされました。古墳前期のこととしますと延喜式のころはかなりの巨木となっていたと考えられますが、重要な堤防上の巨木のクスノキですと災いがあるなどと言われて簡単に伐られないと思うのですがいつ頃から伐られるようになったのでしょうか。
つまらない疑問ですがご指導ください。

[8884] 寒椿の赤い花  神奈備 2008/04/23(Wed) 21:14 [Reply]
阿波の国の神社巡りに行きました。お目当ては天岩戸別八倉比売神社の神陵です。鳥居のある場所から阿波史跡公園の横を通って延々と約500mの登り、ようやく到着しました。社殿は前方後円墳の前方部に建てられていて、後円部の頂上に五角形の磐座と云うのか、積み石の上に祠が載っていました。

 いささかびっくりしたのが、その五角形の周辺と上に寒椿の赤い花びらが一面に敷かれていたことです。何とも女神を祀るのに相応しい美しさでした。某女流漫画家さんが椿の花について時折とんでもない所に現れると云うようなことをおっしゃっていましたが、今回の椿の花は、椿三十郎の映画に出てくるようにどっさりというのが、彼女のイメージとは違うのかも知れませんが、これまた大いに神秘さを醸し出していました。写真掲示板参照下さい。

 今日水曜日NHKで22時からその時歴史で、古事記だそうです。

[8883] Re[8881]: 茨田堤のクスノキ  佐々木高久 2008/04/20(Sun) 12:58 [Reply]
 寝屋川市駅前東の八坂神社と萱島駅内のクスノキは御神体のような扱いになっていました。
 製鉄とは直接関係がないかもしれませんが、寝屋川には平安時代の秦刀鍛冶屋敷跡や枚方には田中家鋳物工場、現在は藤阪の枚方市文化財協会敷地内に移転して工場敷地にあったムクノキのみがが枚方市駅南方から見えています。

[8882] Re[8881]: 茨田堤のクスノキ  神奈備 2008/04/20(Sun) 08:03 [Reply]
> 堤根神社が出ていまして茨田堤に生えている楠の巨木が御神木と書かれていました。

 正しくは、「茨田堤に生えている楠の巨木が御神体のように見える。」です。木は神社境内にはなく、背後の堤防の跡に楠が植えられています。従って、お書きの「堤の補強のための植林」と云う方が事実に近いのではないでしょうか。

[8881] 茨田堤のクスノキ  素人 2008/04/20(Sun) 02:28 [Reply]
神奈備さまのWebを読んでいましたら 堤根神社が出ていまして茨田堤に生えている楠の巨木が御神木と書かれていました。以前、クスノキの本を紹介して、堤の補強のための植林などと蛇足を書いてしまい恐縮してしまいました。
http://kamnavi.jp/en/kawati/tutumine.htm
この周辺のことが話題となっていますので書かせていただきました。
この辺は鉱物・製鉄などと関係ないのであまり知りませんでしたが、勉強させていただきます。

[8880] 古代を偲ぶ会 イワクラフォーラム  神奈備 2008/04/18(Fri) 19:36 [Reply]
野島 稔 さんは、四条畷市教委に居られるようです。
今年の7月19日の「古代を偲ぶ会」で「河内の土器」なる講演をされるようです。
http://kamnavi.jp/link/sinobu08.htm

ついでに「イワクラフォーラム」のお知らせ

5.31(土) 13時30分〜16時30分 大阪歴博4階
講演 植島啓司 山田英寿
フォーラム  1,500〜2,000.− 

懇親会 ¥5,000.−

6. 1(日) 10時〜16時 大阪キャッスルホテル1階
 「聖地大阪の探訪会」 3,300.−

[8879] Re[8878][8877][8876][8875][8873]: 磐船神社そして河内  佐々木高久 2008/04/17(Thu) 21:38 [Reply]
とみたさんはよく記憶されています。野島さんはたしか寝屋川市の歴史資料館であったように思ったが。
 それでまちがいないのですが、年代測定技術が大幅に革新しました。それと実際に当時調査されていたところが非常に限られているにもかかわらず、河内全域を年代あわせて述べてしまって、40年以上だれも検証しないままそれを参考にした本が出て、文化財関係者では定説化してしまったのです。
 さて河内湖が大阪湾と分離された理由は、土砂によって水みちが埋まったのもありますが、単純に気候の寒冷化によって海面が下がったために分離独立したのだろうと思います。そして平安時代また海面が上がってきて太くつながって薄く海水が入ってきた。塩を作るには薄い濃度と思います。
 ちなみに枚方は、白潟村と云われ、その北は渚村と呼ばれていました。結構さんずいの付く古い地名が出てくるのです。
 

[8878] Re[8877][8876][8875][8873]: 磐船神社そして河内  とみた 2008/04/17(Thu) 20:43 [Reply]
佐々木さん、お手数を掛けております。

寝屋川の茨田堤で先般、詳しくお書きになられていましたので、河内湖もお詳しいとは思います。

> 塩水になる可能性はあるのでしょうが、逆に海水が充分に遡って来るだけの水路がなかったのも事実。
>  大阪湾では、平安時代の温暖期に現在より平均海水面が1mぐらい高かったと最近の研究では解明されています。だから平安の河内湖にも海水溯上があったと思います。

先般の河内の旅で、四条畷市歴史資料棺の野島主管に尋ねた時の回答を、書き添えます。

7000年前までは枚方までは海であった。弥生終末から古墳時代初期までは、門真まで海であったが、淡水になっていた。(大阪湾に淀川からの土砂が堆積して閉じたのでしょうか?これは聞き忘れました。淀川などの支流が水を河内湖に注ぎ込んだからでしょう)

生駒山から川が幾筋も、河内湖に流れ込んでいて、川と川に挟まれ,生駒山と河内湖に挟まれた領域が自然の柵となって、馬を放牧できた。馬は塩を必要とするので、河内湖が淡水につき大阪湾外から製塩土器を運び入れて調達した。河内湖には5世紀初めには準構造船で馬を一匹運んでは湖岸に接岸して放牧した。今の四条畷は中野という地名であった。

佐々木さんは、最近の別見解をお持ちかも知れません。その節は悪しからず。

枚岡神社の宮司さんは、〜5000年前までは湖で、3000年以降は潟になった。

それ以上不確かだ。との仰せでした。






[8877] Re[8876][8875][8873]: 磐船神社そして河内  佐々木高久 2008/04/17(Thu) 17:50 [Reply]
> 塩水になる可能性はあるのでしょうが、逆に海水が充分に遡って来るだけの水路がなかったのも事実。
 大阪湾では、平安時代の温暖期に現在より平均海水面が1mぐらい高かったと最近の研究では解明されています。だから平安の河内湖にも海水溯上があったと思います。またシジミは淡水から汽水に棲んでいるのでなんとも言えないのです。淀川では長柄あたりまで、カキやチヌもあわせて確認できます。厳密にはいつからいつとなると河内湖の名残である門真市東部の弁天池ようなところを調べることでしょうか。
 

[8876] Re[8875][8873]: 磐船神社そして河内  神奈備 2008/04/17(Thu) 08:57 [Reply]
> 当時の技術では、河内湖は内海で海水なので

 森ノ宮の遺跡では下層部分が海の魚、浅い部分はシジミなどの淡水魚が出ています。

 一般論ですが、河内湖の水量のバランスですが、潮汐の関係で水位が下がっても、それを補うだけの水は淀川・大和川を合わせても補給できませんので、塩水になる可能性はあるのでしょうが、逆に海水が充分に遡って来るだけの水路がなかったのも事実。

 河内湖と云われる古墳時代以降は淡水湖、弥生時代の頃は河内潟で塩水か汽水、縄文時代は河内湾で塩水と見られています。

[8875] Re[8873]: 磐船神社そして河内  佐々木高久 2008/04/16(Wed) 23:58 [Reply]
とみたさま
少し調べてみました。
七夕伝説はどうも江戸後期以降らしいです。
天の河は交野郡の川を総称しているのか、天の河と来れば、かたのとか白のどちらかかが出てくるので掛詞かもしれません。
交野柏原の郊祀壇付近には江戸時代には龍神が祀られていました。現存不明ですが、付近は渡来人系の横穴が多く分布しており、府立高校や第2京阪国道の建設時に発掘されました。
舟ですが、淡水は海水に比べてかなり浮力が弱いので、当時の技術では、河内湖は内海で海水なので舟は非常によい移動手段かもしれませんが、川での大胆な移動は少し厳しいかもしれません。
まあこの程度しかわかりません。あしからず。

[8874] Re[8871][8870][8869]: 磐船神社の洞窟について  佐々木高久 2008/04/16(Wed) 16:00 [Reply]
>平安初期に出来た『伊勢物語』に、「桜さくかた野やいづこ白雲の中に流るる天の河なみ(東歌)」との記載があるようですから、ここまではさかのぼれそうです。

なるほど、これは白雲の中の河をイメージしていたのだが。

>早期の稲作がこの湿地で行われ、豊かな実りがあったので、甘田、またそれを支える川を甘野川と称したと言う。 甘野の里の田の神が甘田神社、川の神であり山の神が磐船神社であったとの考え方がある。
日本最古の米作地とか??と地元の郷土史会の方が言ってました。

>長岡京の真南が交野山です。きれいな神奈備山です。但し、長岡京の大極殿からは見ようとしますと、だいぶ高層でないと無理ですが。
桓武天皇の星祭りは長岡京の時代でしたか。交野山は地元の人はコウノセンと言ってました。

そういえば星田はもともとは乾村の乾田(ほしだ)だったようです。貝原益軒以降、天の川、星田とセットになったような感じですが、如何でしょうか。

[8873] 磐船神社そして河内  とみた 2008/04/16(Wed) 12:59 [Reply]
神奈備さん、佐々木さん ありがとうございます。師匠に、大体保証していただいて勇気百倍。


>弥生時代の集落遺跡も多く立地しているので5世紀以前から居住場所として認識されていたことはわかります

柏原の本郷に小銅鐸が、大県の鐸比古神社の裏手に多鈕細文鏡が出ています。大県は鉄の鍛治の場所でしょう。
これは朝鮮系の呪具(祭器)で族長がシャーマンで村の祭りを行っていたと思っています。弥生時代の2-3世紀の集落がありました。


>桓武天皇が交野で星祭をしたのでしょう。
祭りの内容がどんなものかに興味があります。
天武持統は吉野の宮滝で山川祭祀をしました。
桓武は交野で郊祀をやったのでしょうか。交野柏原に郊祀壇を作った。
この祀りは都の南でやることに前漢時代から決まっています。

祭りには牛を殺して焼いて煙が天に通じ、地には血を撒いて地と通ずる儀礼です。桓武は牛殺しといわれます。

山は交野山。川は天野川かその支流。新羅など韓半島には殺牛儀礼が多いようです。桓武は百済系でしょうから、牛は殺し、韓神を祀るのが よくあったのでしょう。
雨乞いや祟り封じのための殺牛儀礼が多いのですが、桓武は帝位に付いたことの儀式として利用した。唐の儀礼を真似したのかも知れません。
星は天帝のいる北極星なのでしょうね。この星が彦星となり七夕に化け天の川につながるのが不思議です。


>色々なルートがあったのでしょうが、この暗峠

 madokaさんの説も面白いですね。

 ルート上の枚岡神社は元春日社で中臣氏ゆかりの神社ですね。

 なぜここに中臣氏を祀ってあるのでしょう?

 なにを中臣=藤原の不比等は記紀で隠しているのでしょう。興味津々です。

>高井田の古墳の壁画に、ゴンドラたいぷの小型船をこぐ人が描かれています。こ こは亀の瀬の少し下流です。

柏原は大和川と石川の合流点。川港があって、船木氏の墓誌が安宿郡の松岳(岡)山古墳にありますね。津氏、白猪(後の藤井)氏など船の出入りに関係がありそうですが。いずれも河内の中南部の石川あたりに住んでいたようです。安宿郡には住吉津から?発して竹内街道が安宿郡を通り二上山を通って大和に入れます。
住吉津は津守氏が運営したとか。

古市古墳群の中の岡古墳にも構造船の埴輪があります。

[8872] Re[8870][8869][8868][8867][8865]: 磐船神社の洞窟について  佐々木高久 2008/04/16(Wed) 10:36 [Reply]
>平安期にはあった名ではないのでしょうか。サイトの地図には天の川がありますね。
それは読み手に位置関係を理解させるためのものと思います。正式には天野川というようです。今は天井川になっています。いつごろからの地名なのでしょう。これは大阪府の地名辞典などで確認できるかもしれません。
>そうですか。星田という名が交野線にあるのでてっきり星祭ゆかりの地かと思っていました。天の川沿いに磐船街道があって、途中に磐船神社がありそれを延長すると生駒山に達すると思っていましたが違うのでしょうか。
 たしか星田は干田だった記憶していますが。先ほどのサイトにも七夕祭りのことが少し書かれていますが、星祭については?と感じました。
>どうも河内湖の北側の淀川沿いに継体天皇の今城塚古墳があるし、若狭から琵琶湖ルートで淀川に入れるので5世紀以降発展した地なのでしょうか。河内湖北辺の馬飼首荒籠が継体天皇を擁立するので5−6世紀ごろ牧場は発達した所と思えますが。河内湖の南側の八尾あたりは5世紀頃に渡来人が増えますね。亀井遺跡は5世紀に築堤を造って水田開発したとされています。難波津から堀江を通り河内湖畔の玉造から長瀬川や平野川を遡って、大和川に入り柏原の川津で停泊してその近くの難所の亀瀬で船を乗り換えて上流の宮都に上ったらしい。陸路は玉造から暗峠ルートで生駒山を越えて平城京に行ったのでしょうか。先般の古代河内湖周辺を巡ってそんな感じで見ているんですが間違っておりましょうか。??
 最近の史実についてはわかりませんが、概ねそうだったように思います。
 但し弥生時代の集落遺跡も多く立地しているので5世紀以前から居住場所として認識されていたことはわかります。

[8871] Re[8870][8869]: 磐船神社の洞窟について  神奈備 2008/04/16(Wed) 10:36 [Reply]
> 現在も天野川がありますが、あれはいつ頃ついた名前でしょうか。
> 平安期にはあった名ではないのでしょうか。サイトの地図には天の川がありますね。

 平安初期に出来た『伊勢物語』に、「桜さくかた野やいづこ白雲の中に流るる天の河なみ(東歌)」との記載があるようですから、ここまではさかのぼれそうです。

 また、『万葉集』に、山上憶良が七夕を歌ったのがあります。
1518 天の川相向き立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな
     右、養老八年七月七日、令ニ応ヘテ作メリ。 724年
1519 久かたの天の川瀬に船浮けて今夜か君が我許(あがり)来まさむ
     右、神亀元年七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ。724年

 これは具体的な川ではなく、漢河で、唐から来た天の川のイメージかも。

 交野に天田神社が鎮座しています。ここの由緒は以下の通り。
http://kamnavi.jp/mn/osaka/amata.htm
古代この地方は地味肥えた沃野であった。 当地では標高30mの地に弥生後期の遺跡遺物が出土する。甑瓶、高杯などである。これは天野川の淀みがあり、当社の地はその南端に当たり、郡津神社付近が北端に当たると言う。 早期の稲作がこの湿地で行われ、豊かな実りがあったので、甘田、またそれを支える川を甘野川と称したと言う。 甘野の里の田の神が甘田神社、川の神であり山の神が磐船神社であったとの考え方がある。

> 桓武天皇が交野で星祭をしたのでしょう。

 長岡京の真南が交野山です。きれいな神奈備山です。但し、長岡京の大極殿からは見ようとしますと、だいぶ高層でないと無理ですが。


> 難波津から堀江を通り河内湖畔の玉造から長瀬川や平野川を遡って、大和川に入り柏原の川津で停泊してその近くの難所の亀瀬で船を乗り換えて上流の宮都に上ったらしい。

 文献上には大和川を遡上したことはどこにも出ていません。唐の遣いの裴世清さんは難波宮から都(飛鳥)に入ったのですが、経路はなく突然海石榴市の路上に登場しています。
 大和川を遡れば、飛鳥川にはいれば飛鳥に速いのですが、巻向川を来ていると海石榴市で降りるのが便利です。この場合には淀川を遡って木津川に入ったとも理解できます。

 しかし、水運のルートをわざわざ記載しないのは、例えば九州から瀬戸内海を東に向いなどと書かないのと同じで、常識だったのでしょう。または海石榴市は外交使節を出迎える装置(館とか祓いの場所とか)があったのかも知れません。市は境にあるものですから。

 聖徳太子が法隆寺を造った場所は主要交通ルートをおさえる意味があったとの指摘もあり、大和川ににらみのきく場所でっす。また、5世紀の古墳と思われる高井田の古墳の壁画に、ゴンドラたいぷの小型船をこぐ人が描かれています。ここは亀の瀬の少し下流ですから、大和川遡上が描かれた可能性があります。


> 陸路は玉造から暗峠ルートで生駒山を越えて平城京に行ったのでしょうか。

色々なルートがあったのでしょうが、この暗峠について縁MADOKAさんが、面白いことを云ってました。「暗」は神の宿る場所を云うので、この急な峠をわざわざ越えて大和に入るのが祓の行為となるとの見解でした。

[8870] Re[8869][8868][8867][8865]: 磐船神社の洞窟について  とみた 2008/04/16(Wed) 01:00 [Reply]
佐々木さん お付き合いいただいてありがとうございます

> >肩野=交野にニギハヤヒが船で来れたのは河内湖からでしょうか。
> 下記のサイトにも書かれていますが、交野とはかなり広い地域なのです。なんともわかりません。天の川は、さい河と記されています。 
> http://www.geocities.jp/katanogahara/3.html

現在も天野川がありますが、あれはいつ頃ついた名前でしょうか。

平安期にはあった名ではないのでしょうか。サイトの地図には天の川がありますね。

> >桓武天皇が交野で星祭をしたのでしょう。或いは都の南に当たるこの地に、天壇をおいて天神を祀ったのでしょう。牛を殺して犠牲としました。
> この星祭をしたのが、松井天神社の旧地(交野柏原:京田辺市松井柏原)であるとか。まさに都の南ですね。

そうですか。星田という名が交野線にあるのでてっきり星祭ゆかりの地かと思っていました。天の川沿いに磐船街道があって、途中に磐船神社がありそれを延長すると生駒山に達すると思っていましたが違うのでしょうか。

どうも河内湖の北側の淀川沿いに継体天皇の今城塚古墳があるし、若狭から琵琶湖ルートで淀川に入れるので5世紀以降発展した地なのでしょうか。河内湖北辺の馬飼首荒籠が継体天皇を擁立するので5−6世紀ごろ牧場は発達した所と思えますが。

河内湖の南側の八尾あたりは5世紀頃に渡来人が増えますね。亀井遺跡は5世紀に築堤を造って水田開発したとされています。

難波津から堀江を通り河内湖畔の玉造から長瀬川や平野川を遡って、大和川に入り柏原の川津で停泊してその近くの難所の亀瀬で船を乗り換えて上流の宮都に上ったらしい。

陸路は玉造から暗峠ルートで生駒山を越えて平城京に行ったのでしょうか。

先般の古代河内湖周辺を巡ってそんな感じで見ているんですが

間違っておりましょうか。??
>
>

[8869] Re[8868][8867][8865]: 磐船神社の洞窟について  佐々木高久 2008/04/15(Tue) 20:34 [Reply]
>肩野=交野にニギハヤヒが船で来れたのは河内湖からでしょうか。
下記のサイトにも書かれていますが、交野とはかなり広い地域なのです。なんともわかりません。天の川は、さい河と記されています。 
http://www.geocities.jp/katanogahara/3.html
>桓武天皇が交野で星祭をしたのでしょう。或いは都の南に当たるこの地に、天壇をおいて天神を祀ったのでしょう。牛を殺して犠牲としました。
この星祭をしたのが、松井天神社の旧地(交野柏原:京田辺市松井柏原)であるとか。まさに都の南ですね。



[8868] Re[8867][8865]: 磐船神社の洞窟について  とみた 2008/04/15(Tue) 13:51 [Reply]
> > 交野市にあります同神社の洞窟ですが、地震で周辺の岩石が落下してできた地震洞窟らしいのですが、祭神などからそれを裏付ける手がかりはあるのでしょうか。
>
>  巨石が御神体の神社です。岩石は祭神の饒速日尊が乗ってきた磐舟と見られています。石上神宮からもお参りがあったようです。

先般、河内湖周辺を巡りました。河内湖は江戸時代1704年に堺の方に、付け替え工事をするまでは周辺は川が氾濫していたようですね。

交野は肩野物部が農耕地を開拓したのでしょう。

生駒山脈と河内湖の間に何本も川があり牧場として5世紀頃から川と川の間と山と湖が自然の柵となって馬が飼われる。枚方の次々駅が牧野、漸く名前が理解できました。次は樟葉で継体の宮都があります。

肩野=交野にニギハヤヒが船で来れたのは河内湖からでしょうか。或いは日本海ー淀津(木津川、淀川、宇治川合流点)ー淀川経由で天野川を上ったのでしょうか。何れにせよ水域の近くだから船で来れたわけです。天野川は今の三倍以上の広い川であった。

桓武天皇が交野で星祭をしたのでしょう。或いは都の南に当たるこの地に、天壇をおいて天神を祀ったのでしょう。牛を殺して犠牲としました。

天野川の由来がわかりますね。

天野川は生駒山の方から淀川に注いでいます。

七夕と牽牛の機織神社が枚方には多い。




[8867] Re[8865]: 磐船神社の洞窟について  神奈備 2008/04/15(Tue) 09:26 [Reply]
> 交野市にあります同神社の洞窟ですが、地震で周辺の岩石が落下してできた地震洞窟らしいのですが、祭神などからそれを裏付ける手がかりはあるのでしょうか。

 巨石が御神体の神社です。岩石は祭神の饒速日尊が乗ってきた磐舟と見られています。石上神宮からもお参りがあったようです。
 昨年のことですが、宮司宅から失火があり、社務所なども焼失したと聞いています。従ってしばらくは拝観が出来ないのかも。

[8866] Re[8863]: 災害・過疎化・・・  神奈備 2008/04/15(Tue) 09:25 [Reply]
>  自然災害、あるいは山間部での過疎化による影響も多少はあるのではないでしょうか?

 和歌山での神社数の減少は、やはり神社合祀の影響が多いように思います。例えば、伊太祁曽神社ですが、明治末期のこの神社の宮司さんは合祀賛成派でと名誉宮司さんはいささか恥ずかしそうにおっしゃっていました。現に近辺の神社44社中の半分を合祀しています。そうして摂社の恵美須神社に全部まとめてしまっています。
http://kamnavi.jp/itakiso/takara.htm

 それ以外の20社はあまりにも小祠や石だったのか、合祀すらされていません。現在は神社として登録はされておらず、実際には大半は消滅しているのでしょうが、前にその地域を歩いた時には一つの祠を見かけました。
 この地域は過疎化よりは人の心の変化かとも思われます。

 一方、飛騨でたまたま出会った廃絶手続き進行中の神社を見ました。現在は高山市ですが、丹生川村大字池の俣の伊太祁曽神社です。
http://kamnavi.jp/it/hida/hdike.htm

このたび左記のの通り宗教法人(乙)伊太祁曽神社を宗教法人(甲)乗鞍本宮に合併することになりましたので宗教法人法第三十四条第一項(及び第三十六条において準用する第二十六条第二項)の規程によって公告します。
 中略
 氏子崇敬者その他利害関係人各位
 右の件について異議のある債権者は平成二年六月一日までにその旨を申し述べて下さい。
 宗教法人法第三十四条第三項の規程によって催告します。

 債権者各位

との「宗教法人合併公告」が拝殿に貼り付けられていました。

氏子さんがゼロになったのでしょう。またその寸前の神社もありました。材木関係の人数の激減がその背景にあるようで、おっしゃる通り過疎化と言えますね。

[8865] 磐船神社の洞窟について  佐々木高久 2008/04/14(Mon) 23:51 [Reply]
交野市にあります同神社の洞窟ですが、地震で周辺の岩石が落下してできた地震洞窟らしいのですが、祭神などからそれを裏付ける手がかりはあるのでしょうか。
出典 沢勲・鹿島愛彦・大橋健共著『洞窟科学入門 -写真と図解-』大阪経済法科大学出版部

[8864] 難波の宮の水の祭祀跡  神奈備 2008/04/14(Mon) 18:57 [Reply]
 後期難波の宮の水の祭祀跡とされている石組み遺跡がこの連休に公開されます。

 5月5日(月)、6日(火) 10時から15時30分。常時受け付け。多分無料。
               30分おきに15名づつ地下に入ります。

 めったにない機会だと思います。
 
 都合のつかない方は              
http://kamnaviphoto.web.fc2.com/hei20/h2001.htm
2008年 1月22日 を参照下さい。

[8863] 災害・過疎化・・・  和歌山(橋本) 2008/04/13(Sun) 21:40 [Reply]
 自然災害、あるいは山間部での過疎化による影響も多少はあるのではないでしょうか?

[8862] Re[8861][8860]: とくにありませんが  佐々木高久 2008/04/13(Sun) 19:40 [Reply]
 よくわかりました。あまり多いとは言えないですね。兵庫県は、ずばぬけて神社数が多いのですね。和歌山は管理人さまの掲載件数で見ておりました。ホームページの和歌山県の神社美しいですね。

[8861] Re[8860]: とくにありませんが  神奈備 2008/04/13(Sun) 18:00 [Reply]
 和歌山県や三重県は明治末期に行われた神社合祀が盛んだったようです。かの南方熊楠が猛反対の運動を起こして、牢屋に放りこまれました。
http://www.genbu.net/tisiki/jinjya.htm

 人口は明治二十一年(1888年)、神社数は平成七年神社本庁加入の神社で対比した神社一社辺りの氏子数です。

  名    人口     神社  一社当たりの人口
 大阪府  124万人  575社  2157人
 和歌山県  62万   427社  1452人
 京都府   87万人 1600社   544人
 滋賀県   66万人 1443社   457人
 兵庫県  151万人 3847社   393人
 奈良県   49万人 1324社   370人
 三重県   91万人  828社  1099人
 島根県   69万人 1168社   591人


人口は2005年です。神社数は同じ。
 大阪府  882万人  575社 15339人
 和歌山県 103万   427社  2412人
 京都府  264万人 1600社  1650人
 滋賀県  138万人 1443社   956人
 兵庫県  559万人 3847社  1453人
 奈良県  142万人 1324社  1073人
 三重県  186万人  828社  2246人
 島根県   74万人 1168社   634人 

 和歌山県は神社が多いとは言えず、どちらかと云えば少ないような気がします

[8860] とくにありませんが  佐々木高久 2008/04/13(Sun) 16:59 [Reply]
 少し疑問がありまして、和歌山県は人口に対して神社が多いように見えるのですが、何か理由があるのでしょうか。
 あと神社の手水に湧水を利用されているかどうか現地に出向かないである程度知る方法はあるのでしょうか。名水に指定されていればわかるのですが。
 そういえば中世の城郭は新人物往来社の日本城郭大系という本に詳しく書かれています。滋賀県は中世城郭の報告書が完備されていて、集落ごとに城があるようです。

[8859] 山城  和歌山(橋本) 2008/04/12(Sat) 23:12 [Reply]
 以前文化財調査の仕事をしていまして、山城を発掘調査したことがあっんですが、出土品は青磁碗備前焼の破片、常滑焼の破片、土師皿が主で戦いに関するものは殆どありませんでした。この城のことは「明徳記」をいう戦記物に出てきますが、その中でやはり戦わずして脱出する様子が書かれています。
 山城の場合出城が数ヶ所ありますから、本城に迫ってきた時はすでに孤立してしまっており大勢が決している場合が多いようです。出城があれば時間稼ぎにもなります。
 大和であれば南北朝時代は南朝がありましたから山城が多いのでは?大和、河内、紀伊には山城が多いです!

[8858] Re[8856]: 弓月ヶ岳  素人 2008/04/12(Sat) 23:06 [Reply]
> こちらのホームページの写真
> http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/h140211.jpg
> 見事な虹です。
掲載Webが抜けていました。
『泊瀬女さんが以前に発言されていた、「元伊勢伝承地巡りの旅」でご覧になられたのと同じ虹です('01 9 9)。
右から三輪山・巻向山・穴師山・箸墓古墳です。』
http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/h1402.htm
失礼しました。

[8857] Re[8852]: 高地性集落  素人 2008/04/12(Sat) 22:45 [Reply]
和歌山(橋本)様
ご指導有難うございました。
>  弥生時代から平地の集落の周りに堀を廻らす場合もありますし、高地性集落といって丘陵に住居を設ける場合もあります。吉野カ里遺跡なんかがよく知られていますね!
>  山城なんかは大勢が決している時なんかは戦わずして降参する場合もあったようだ!
>  神社のことは神奈備さんよろしく・・・

山城が有利なのは弓の特性からくるもので、下から打ち上げる弓矢の勢いは、重力で威力を失うが、上から射かける弓矢は自重で加速して威力を増すために高低差がある場合は兵器の性能から上方の者が有利となるからとされています。
弓の時代は山城が圧倒的に有利であったようです。丸木弓の時代でも同様と考えられます。特に兵力に差がある場合は、山城の方が時間が稼げたと考えられます。
このような理由から大和高原にも山城などあってもいいかなと考えた次第です。
多勢に攻められた場合、平地では守りにくいのではと考えた次第です。
生意気なこと書きまして失礼しました。

[8856] 弓月ヶ岳  素人 2008/04/12(Sat) 22:25 [Reply]
神奈備さま
ご指導有難うございます。
>  大和の高地集落で思い出すのは、巻向山の”出雲”地域のことが先ず浮かんできます。
>  現在も出雲地名は字名として残っており、かっては野見宿禰の墓標もあったそうです。その北側にどんどん登って行きますと、ダンノダイラと呼ばれるおそらくは古代の集落跡であろう緩やかな斜面と巨石が出てきます。水も湧いていたようで、住むことは出来たのでしょう。
> http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm
>
出雲でとんでもない勘違いをしていたようです。
昨年、奈良に行った時、前にも書きましたが、黒雲が湧き立っていたのが巻向山で、この雲が巻向の川に沿って手前に流れて三輪山の前で飛鳥方面に90度方向をかえて雷に三輪山で火がつきました。雲は山の裏から沸いているように見えましたので、裏の出雲の中腹で沸いた雲かと思っていました。雲が湧くので出雲かと勝手に考えていました。
深い意味があるとは知りませんでした。
こちらのホームページの写真
http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/h140211.jpg
見事な虹です。
手前、味噌かもしれませんが、これでも巻向山頂付近で雲がわいているように見えます。
勝手な妄想で、雲の湧く山頂で考えますと柿本人麻呂の歌が思い出されます。
痛足川 々浪立奴 巻月之 由槻我高仁 雲居立有良志
足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
雲の湧く山、弓月ヶ岳が現在の巻向山頂付近かなどと夢想すると怒られそうです。
とんでも青草で失礼しました。

[8855] 馬場・・・  和歌山(橋本) 2008/04/12(Sat) 07:57 [Reply]
城郭や居館でもよく出てきます。山城でもよくあります。家の近所の山城でも馬場壇とか・・・

[8854] 遥拝所としての baba    紋爺ぃ 2008/04/11(Fri) 20:25 [Reply]
  
 またまた、タイミングが、ずれちゃった。
 同じような二つの山頂をのぞめて、その中央のマド(山と山が作る空間)から春分の朝日が昇る……、そういう地点に「ババとかバンバ」の地名がみられる……というのが、川崎真治さんの主張でした。
 なんだか「扶桑」に似ていますね。

 どうでしょうか。「馬場」がつく地名は全国に「夥しい」ぐらいにあると思いますが、その馬場は具体的・現実的に、そういう地形のもとにいくらでもあるのでしょうか?

 群馬県藤岡市南にある“馬場”では、朝日を拝もうにも、対岸は連なった横山ですし、二つの峰の盛り上がりなども、まったくありません。ここで馬を走らせようにも、馬が 50歩も足を動かすと、すぐに行き止まりになるような狭い場所です。

 タネ明かしをすれば、baba とはネパール語の「修行者・ヨギ」のことだったんです。もちろん、ババには「馬場」もあったことでしょう。川崎真治さんは、このババを「掌を打ち鳴らして拝む、パンパンだろう」と言っていました。
 川崎真治さんは、ちょっとだけ、ヨソ見をすればよかったんです。でも、21 世紀初頭人の意識とか「積み重ね」なんちゅうもんも、そういったクズだと思いますヨ。

 おへまが高校生のときの四月、新任の先生が紹介されました。その先生の名前が「馬場」ときいて、クラスせんいんが爆笑して転げまわったそうです。新潟十日町市ちかくの方言では、ババとはババッチイの○○なんです。
 やっぱ、ここに書いてはマズかったかな?

[8853] Re[8850]: 山の避難場所  神奈備 2008/04/10(Thu) 10:46 [Reply]
 大和の高地集落で思い出すのは、巻向山の”出雲”地域のことが先ず浮かんできます。
 現在も出雲地名は字名として残っており、かっては野見宿禰の墓標もあったそうです。その北側にどんどん登って行きますと、ダンノダイラと呼ばれるおそらくは古代の集落跡であろう緩やかな斜面と巨石が出てきます。水も湧いていたようで、住むことは出来たのでしょう。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm

 もう一つは吉野の奧の国栖にある衣笠山の南面の集落のことです。高地ですが、案外平地が多く水も出たようです。ここでは、初期の稲作などが行われたのだろうと推測しています。 いつの頃か不明ですが、大変な不作となり、食べるものがなくなり、住民の殆どが餓死したと云われています。かろうじて生き残った人々は大蔵を降りて南国栖に移り住みました。草分け六軒。 大和では(多分どこでも)先ず稲作人が住み着いたのは山中の平地だったようです。灌漑と云うほどの工事がなくとも水のコントロ−ルは容易だった。
http://kamnavi.jp/as/yosino/ookura.htm

 布留の東側はまさに大和高原となり、避難地と云うよりは大和が湖の頃にはこちらの方から先に人々が住み始めたのでしょう。今だにクズの神々を祀っている所が多いようです。

[8852] 高地性集落  和歌山(橋本) 2008/04/10(Thu) 07:42 [Reply]
 弥生時代から平地の集落の周りに堀を廻らす場合もありますし、高地性集落といって丘陵に住居を設ける場合もあります。吉野カ里遺跡なんかがよく知られていますね!
 山城なんかは大勢が決している時なんかは戦わずして降参する場合もあったようだ!
 神社のことは神奈備さんよろしく・・・

[8851]  生田の森     紋爺ぃ 2008/04/10(Thu) 07:24 [Reply]
オレのいうことですので、眉にたっぷりとツバつけて読んでください。

 九州に行って同盟軍の援助をとりつけ、都に迫ろうとした足利尊氏軍と楠木正成軍が対決した主戦場は神戸の生田の森だったと記憶しています。
 この生田の森を海から眺めたら、泉の湧出地点から海岸にかけて帯状の森林があったわけで、幕末にはフランスの船が、それをみて勝海舟のところに水をもらいにやってきています。

 小生の本名は生田なので、この生田神社のことは念頭から離れません。が、肝腎の生田の語源はいまだに掴めないでいます。イクシマ・タルシマがキーワードだとは思いますが……。
 モリとは基本的には 蒙古語にみられる mol(へび ⇔ 大地)で、地の利を知っている森林地帯に拠っていつでも決戦しようとした姿勢が、現代まで残っているのではないかと思われます。
 小生の生田の出自は豊後“森”町(現玖珠町)にある切り株山です。
 ここの豊後浄瑠璃は、方言丸出しで、大いにふざけて「渡辺綱鬼退治」を庶民レベルで放言するのですが、そこに、「シロヤマんつじ(上)にいざ参れ」という句があります。シロヤマとは切り株山のことです。なにかコトがあったときには、全員が所定の場に馳せ参じる慣習がこの句にこめられているようです。

 もちろん、モリには森・護りもありましょうが、諸葛孔明の出師の表の師を日本では「モロ」と読ませています。軍隊でもあるわけです。また、馬の mor とも?
 神社のモリには“杜”と、特別な文字も宛てられています。神社には武器が常備されていたと思います。
 もう、言わなくなりましたが、江戸期の鉄砲の時代まで「撃て!」ではなく、「放て!」と号令かけていました。ヒンディー語にも ban(矢)はあるかと思われます。これが番だったり、開音(母音づけ)されたのがタガログ語の Pana(弓・矢)だったり……かと睨んでいます。

[8850] 山の避難場所  素人 2008/04/10(Thu) 00:33 [Reply]
神奈備さま
>  対馬では山中の磐座神籬が本来の神祭の場所ですが、麓の遙拝所は現在では神社になっているのが多いようです。これは対馬に限りませんが。
>  人間が横着になって、神の近くに行くのではなく、神を呼んで来てから祭ると云うようになったのです。神にランク付けをするとか、神を怒らして雨を降らせるとか、神を巨大な力を持った素朴なおじぃさんのように思っていたのでしょう。
>
信仰では山中の磐座、遙拝所や山上の上社 平地の下社などがあります。
弥生、古墳時代はかなり、広い平地の集落での生活は敵の攻撃を受ける危険であったと思われ、丘陵に接する集落では平野の集落と丘陵上の砦または避難場所などが、あったのでしょうか。敵が攻めてくると高地の避難場所に逃げ込むなどあったのでしょうか。これに上社などが利用されたりしたことはあったのでしょうか。
鉄砲が登場するまで山城を弓で攻めるのは困難だったようですから、効果はありそうに思えるのですがいかがでしょうか。纒向や布留も丘陵地帯に接していますが、高地の砦や避難場所はあったのでしょうか。纒向や布留は関係があるようですが、避難場所に共通性があったりするのでしょうか。
素朴な疑問ですご指導ください。

[8849] Re[8848][8847]: 遥拝所  とみた 2008/04/09(Wed) 12:19 [Reply]
妙なインスピレーションに神奈備さんがお付き合いいただき、恐縮至極です。

> > この民はミトコンドリヤDNA分析によりシベリヤのバイカル湖からやってきた。日本人の遺伝子と7%一致する。
>
>  2万年前に別れた親戚に会いに行こうと、一昨年にペルーに行き、地上絵を見ました。
> その時、お書きになっていた事を知っていたら、見方がかわったかも。
>  「おーすごいなー、あっちにもこっちにも描いてある!、わー何だあれは?」小さい飛行機の上から、前と後でゲーゲーを聞きながらの思いでした。

神奈備さんはナスカの地上絵を空から見られたんですね。地上絵の不思議は今までいろんな説がありましたが、先日放映された説は考古学者や科学者の総動員での研究成果のようで、とても説得力がありました。

神官が生き物(鳥や魚など)の精霊と交信し水や豊穣を願ったのです。神官=社会のリーダーです。

乾燥地だからトーモロコシを作るには、水が余ほど大切であった。

地上で放射状に線が丘陵から描かれている。その線の下には地下水が流れ、その上にワカ(遥拝所)が並んで、その上を祭りの時には練り歩くわけです。

地下水の水のライン。水のラインと水のラインで囲まれたところに部族が集落を作り共存していた。丘の上には柱があって太陽の光が柱に当たる具合で、耕作の開始時期を知った。この文明は紀元前100年から紀元後700年のものです。日本の弥生・古墳時代に相当します。

何か日本の古代を髣髴させますよね。

丘陵を2-3百mの小山とすればこれが神奈備山。信仰の山、氏族の守護霊が住む。

川と川の間に集落が出来る。たとえば大神神社の三輪山の周囲には穴師川と大和川が囲み、水垣氏が氏子として三輪山を遥拝する。

古代はご神体として三輪山そのものを或いは山頂の磐座を信仰した。

集落が大きくなると、祭祀場は磐座から麓に降りてきて、さらに後ろに下がって祀られるようになる。

そこには遥拝所が出来る。遥拝所は神社と変わる。

少し高い山の分水嶺には水分神社が出来て、山の裾野には山口神社が部族ごとに出来て水を分け合った。

水の少ないときは祭官=巫師が雨を求めて祈ったのではなかろうか。

こんな原風景は日本も南米ペルーのナスカでも似ている。DNAも似ているので親密感が増す。

何を犠牲として神に捧げるのか。ナスカでは若い男性の首を捧げた。

日本では何でしょうかね。

弥生時代は木の琴を沈めたりしますね。平安期は牛を殺して・・・





>
>
> > 線と線で区画されたところに違う集団が分かれて住んでいた。これが社会維持の管理単位であったらしい。
>
>  地上絵の所は、現在は人が住むような雰囲気ではないようです。木があり森があり畑があったなかの地上絵としますと、よく残ったなーと思います。
>
>
>  対馬では山中の磐座神籬が本来の神祭の場所ですが、麓の遙拝所は現在では神社になっているのが多いようです。これは対馬に限りませんが。
>  人間が横着になって、神の近くに行くのではなく、神を呼んで来てから祭ると云うようになったのです。神にランク付けをするとか、神を怒らして雨を降らせるとか、神を巨大な力を持った素朴なおじぃさんのように思っていたのでしょう。
>

[8848] Re[8847]: 遥拝所  神奈備 2008/04/09(Wed) 09:04 [Reply]
> この民はミトコンドリヤDNA分析によりシベリヤのバイカル湖からやってきた。日本の遺伝子と7%一致する。

 2万年前に別れた親戚に会いに行こうと、一昨年にペルーに行き、地上絵を見ました。
その時、お書きになっていた事を知っていたら、見方がかわったかも。
 「おーすごいなー、あっちにもこっちにも描いてある!、わー何だあれは?」小さい飛行機の上から、前と後でゲーゲーを聞きながらの思いでした。


> 線と線で区画されたところに違う集団が分かれて住んでいた。これが社会維持の管理単位であったらしい。

 地上絵の所は、現在は人が住むような雰囲気ではないようです。木があり森があり畑があったなかの地上絵としますと、よく残ったなーと思います。


 対馬では山中の磐座神籬が本来の神祭の場所ですが、麓の遙拝所は現在では神社になっているのが多いようです。これは対馬に限りませんが。
 人間が横着になって、神の近くに行くのではなく、神を呼んで来てから祭ると云うようになったのです。神にランク付けをするとか、神を怒らして雨を降らせるとか、神を巨大な力を持った素朴なおじぃさんのように思っていたのでしょう。

[8847] 遥拝所  とみた 2008/04/07(Mon) 13:30 [Reply]
昨日ナスカの地上絵の謎解きの特集をテレビで見ました。
地上絵の中はたくさんの動物や幾何学模様が描かれています。

この直線や三角形などの意味です。直線が放射線状に集まっているそうです。ラインセンターが丘陵にあります。
太陽の神殿があり、そこから放射状に想像上の光の線が放射状に延びる。

この光の線をセケといいます。セケの上にワカという聖なる場所=礼拝所が並んでいる。

線と線で区画されたところに違う集団が分かれて住んでいた。これが社会維持の管理単位であったらしい。

ラインセンター単位で水の神や豊穣を願って神官が祈った。

これがアンデスのナスカ文明の仕組みです。時代は日本の弥生時代と古墳時代相当期です。線は下に地下水が流れている上にある。

この民はミトコンドリヤDNA分析によりシベリヤのバイカル湖からやってきた。日本の遺伝子と7%一致する。

こうしてみると、日本の遥拝所も部落単位にあり川筋に同じ神社が並ぶ不思議も理解できる。

この前、葛城の室宮山の古墳を見たとき、下の麓に八幡神社がありここは神武天皇のの礼拝所と書かれていた。祭神は天児屋根命とされていました。

たとえば、三輪山も元々はご神体は三輪山そのもの或いは巨岩(磐座)で遥拝所だけであった。

巨岩信仰と巨木信仰は北方系の遊牧民の信仰であると学者は唱えています。

以上は私オリジナルのインスピレーションです。



[8846] Re[8845]: 公人長者  神奈備 2008/04/06(Sun) 15:50 [Reply]
 書き込みありがとうございます。
 
 明治維新以降の大きな社会変動や太平洋戦争と云う大きい出来事がおこり、歴史的な風景や人々−特に歴史や伝承を語れる方々の存在−が大きく変わりつつあるようです。公人に近い立場の方の掘り起こしに期待しています。

 四天王寺の建立ですが、最初から現在地と云う説と、先に玉造付近に建てられてから現在地に移転したとの説があるようです。

 蘇我・物部戦争は用明天皇二年のことです。587年。『日本書紀』には、守屋大連が射殺された後に、難波の守屋の宅を守っていた捕鳥部万の最後のシーンが書かれています。さらに、「乱が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った。大連の家の奴の半分と、居宅とを分けて、大寺の奴・田荘とした。」とあります。

 四天王寺は、とりあえずは守屋大連の居宅跡に建てられたと思われます。難波の宅となります。物部氏の本拠地は今の八尾市を中心として旧大和川流域となります。河内湖周辺に勢力を張っていたものと思われます。上町台地の北端の難波堀江にも大いに関わりがあったのでしょう。蘇我氏から仏像を取り上げて難波堀江に捨てています。目の届く範囲に捨てたとも見ることができます。守屋の難波の宅とは難波堀江に近い玉造であり、現在の四天王寺付近ではなかったのでしょう。

 物部の難波津、大伴の住吉津との対比がとれます。

 さて、推古天皇元年は593年です。『日本書紀』に、「この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵に造りはじめた。」との記事があります。今まで四天王寺はなかったとして、始めて造り始めたのが593年としますと、聖徳太子が四天王像に戦いに勝てば寺塔を建てましょうとの約束実行としては間が空きすぎのようです。戦争後6年となります。これは玉造から荒陵に移築したとするのか、より本格的な寺院として建立したと云うことでしょう。

[8845] 公人長者  先祖は何人 2008/04/06(Sun) 01:11 [Reply]
はじめてお便りします。
当家は代々天王寺に住まっておりましたが、戦時中の祖父、父の代に同地を離れております。
高祖父は養子であり、その母は公人長者の娘です。父は幼少の頃、その高祖父に連れられて、四天王寺の聖霊会開催の際、真正面の席から見た鮮明な記憶があると申しております。
谷川さんの「四天王寺の鷹」で、初めて公人長者の遠縁とわかりましたが、付き合いは祖父母の代で完全に途絶えております。
四天王寺の奴婢であったものが、なぜ七度半の使いを受けるに到るのか?
続日本紀には、四天王寺の奴婢が爵を賜うなどの記載もあり、祖先がどのような立場で、どのような役割を担っていたのか?
五十路を迎え、ライフワークとして改めて歴史の勉強をしてまいりたいと考えております。また何かご教授いただければ幸いです。

[8843] 宮と倉庫  神奈備 2008/04/04(Fri) 20:07 [Reply]
 上町台地の先端にある大阪歴史博物館の南側に古墳時代の復元した高床式倉庫が建っています。90平米。復元は鏡の絵や出土した模型や南方の高床式の建物を参考にしたそうです。屋根を支える柱が6本、床をささえる柱が36本です。東西に8棟づつ、計16棟が発見されています。

 ほぼよく似た場所に飛鳥時代の倉庫群の跡が8棟と倉庫群の中央部に管理棟らしき建物跡が発見されています。難波大蔵と『日本書記』では呼んでいます。博物館では難波宮内裏西方官衛(かんが)すなわち天皇の居住する西側の官庁街と呼んでいます。

 千田稔著『埋もれた港』の中に、「古代の宮殿の北側に大蔵が配置されるのが原則」と書いてあることについて博物館の学芸員の方とお話をしていたのですが、「倉庫は財物を保管する場所なので宮殿の奧に置くのは当然の事、さらに宮殿は南面しているのが普通なので、宮殿の北側になる。」との解説を受けました。

 古墳時代の倉庫は仁徳天皇の宮である高津宮の北側と考えると、孝徳天皇の難波宮と同じ場所だったと言えそうです。

 難波宮の成務を取ったであろう朝堂院は史跡公園となっていますが、その東側の大阪府立青少年会館の敷地からも高床式倉庫群跡が出土しているようです。これは6世紀から7世紀にかかる遺跡のようです。全てが全て大王の宮と倉庫とは限らないのでしょうが、上町台地の先端部は一貫して先端技術を受け入れる港の役割を果たしていたのでしょう。

[8842] Re[8841][8840][8839]: 遙拝所の色々  佐々木高久 2008/04/03(Thu) 21:16 [Reply]
>大和の吉野川の北岸の神社には神武天皇と明治天皇の遙拝所が同じ北を向いて並んでいるケースが多いのですが、これも畝傍御陵と桃山御陵と考えればいいんですね。神宮を考えていたのでおかしいなと思っていましたョ。

 違うところがあれば御照会下さい。そういえば寝屋川市史第二巻には細かく神社の石造建築物について履歴や平面配置図が出てました。それでも確認できました。

[8841] Re[8840][8839]: 遙拝所の色々  神奈備 2008/04/03(Thu) 16:40 [Reply]
>  遥拝所の石柱裏の碑文や設立時期がわかればいいのですが。概ねその表現は桃山御陵を指していると思います。同じものが枚方市の意賀美神社などをはじめよく見かけます。

 大和の吉野川の北岸の神社には神武天皇と明治天皇の遙拝所が同じ北を向いて並んでいるケースが多いのですが、これも畝傍御陵と桃山御陵と考えればいいんですね。神宮を考えていたのでおかしいなと思っていましたョ。

[8840] Re[8839]: 遙拝所の色々  佐々木高久 2008/04/03(Thu) 11:33 [Reply]
 遥拝所の石柱裏の碑文や設立時期がわかればいいのですが。概ねその表現は桃山御陵を指していると思います。同じものが枚方市の意賀美神社などをはじめよく見かけます。

[8839] 遙拝所の色々  神奈備 2008/04/02(Wed) 20:29 [Reply]
 阪急神戸線で武庫川を渡ると西宮市に入ります。武庫川の西すぐの北側に日野神社が鎮座しています。大きい四角い社叢と小さい鳥居が見えます。ここに三つの遙拝所がありました。

 西北を向いて、出雲大社遙拝所。
 東を向いて、皇陵遙拝所
 南東を向いて、神武天皇遙拝所

です。この皇陵ですが具体的にどの皇陵と云うのではなく、漫然と東の方面(大和、山城、武蔵)を指しているのでしょう。

 この神社の北1kmに厳島神社が鎮座、ここに東向きに右側に遙拝所、左側に御大典記念とある石柱がたっており、正面に楠木。


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