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掲示板のログ(平成二十年 四月 2008.6)お名前の敬称は省略しています。

[9136] 倭人伝の決め手は【 水行 】  倭人 [Url] 2008/06/29(Sun) 20:05 [Reply]
【 南至投馬國水行二十日 】
【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】

【 不彌國 】以降の記述に【 水行 】とあります。

【 海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 】
【 始度一海 千餘里至對馬國 】
【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】
【 又渡一海千餘里 至末盧國 】

韓陸行説では【 水行 】の文字に【 海岸水行 】あるいは【 渡一海 】も含まれるとしています。
これは誤りです。
【 大和説 】【 大分説 】【 四国説 】【 鹿児島説 】についても、同様です。

【 水行 】とは、河川を船で移動する事です。
つまり【 水行 】では、朝鮮半島から九州に渡る事はできません。

従って女王國は北九州に、それも熊本に比定されます。
倭人伝の正しい訳を下記のホームページに置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/tamuo128

〜〜┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜┣━━━━━━━━━━━━━┫〜〜
〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜┌←←←▲帯方郡庁∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
〜┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛〜〜
〜↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃〜〜〜
〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛〜〜〜
〜↓┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛〜〜〜〜〜〜
〜↓┃∵┏━━━┛┌┤〜┏┓〜〜〜〜〜
〜↓┗━┛┌→→→┘↓〜┃┃〜〜〜〜〜
〜└→→→┘〜〜〜〜↓┏┛┃〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜對馬國├@┏┛〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜一大國├A┛壱岐〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜┏━┓〜┏━━
〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓↓┏┛∵┗━┛E∵
〜〜〜〜┏━━━┛∵↓∵∵∵∵∵/↓∵
〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵B→→C→D∵不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊∵奴∵彌∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都∵國∵國∵
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓∵
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南∵
∵┏┛〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵至∵
┏┛〜〜〜┗┓∵∵┌←←投馬國F←┘∵
┃〜〜〜〜〜┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜有明〜〜┃山∵至∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃▲∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵∵G∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵邪馬壹國∵∵∵∵∵∵∵

[9135] Re[9133]: 柱状図にはないがどうしてでしょう。  佐々木高久 2008/06/28(Sat) 22:25 [Reply]
 素人さん
 腐植土層=ピート=泥炭層では?
> 泥炭層で湖沼起因とすればもっと登場してもいいのではと思うのですが、ボウリング場所が悪いのでしょうか。柱状図の作成者が悪いのでしょうか。
 泥炭層つまりピートは、どうゆう場所に堆積するのでしょうか。湿地ですか。浅い池、深い湖ですか。粘土は?、砂は?
 田渕洋編「自然環境のおいたち」朝倉書店、安田喜憲「環境考古学事始」などを読んで勉強してください。


[9134] 勉強いたします。  素人 2008/06/28(Sat) 22:11 [Reply]
佐々木高久 様
>  古代史とほとんど関係ない記事になったことをお詫びします。せめてもの罪ほろぼしです。
>  神奈備さんが天武の足取云々との記事を受けて少し、万葉集をランダムにひらってみました。古代史の詳細を記憶する能力がないので、見やすいものを選びました。
万葉仮名も忘れているわけではありません。
紹介いただいた文献で勉強いたします。
いつも考えるのですが、半島では漢字漢文を理想として、できれば自国語をなくしたいなどと考えていたのでしょうか。まさか日常会話も中国語になど考えていたかも知れません。なぜなら、平仮名であるハングルが登場するのが異常に遅く、歴代王朝がハングルの使用を邪魔していたように思われます。朝鮮語を卑しい言語として抹殺したいとの願望はあっても、一般大衆には根強く支持され上手くいかなかったのかも知れません。ハングルでなくても漢字を当てればいいわけでが、古代から日本のように自国語を漢字で書かずに、漢字漢文に拘ったのは小中華思想のなせる技でしょうか。私のような乱暴な考え方をするものは、多数の中国人が支配者層だったので古代では朝鮮語は邪魔ものだったなどと考えてしまいます。だから、日本のような万葉仮名は発展しなかったなどと考えてしまいます。曲がりなりにも日本人が支配者であった日本は幸せであったと考えるこの頃です。
李朝末期まで漢字漢文に拘っていたそうですから驚くべき国です。
とんでもない事ばかり考えておりますが、青草お許しください。
勉強すれば変わるかもしれません。

[9133] 柱状図にはないがどうしてでしょう。  素人 2008/06/28(Sat) 21:24 [Reply]
佐々木高久様
ご指導ありがとうございました。
>発掘調査などご専門の様ですから地表まで地山である場所はどこにでも有るのか、どの>ような場所かご指導ください。
>専門ではありませんが、要するに地表まで人の手が入っていない場所ということでしょ>うか、まず日本では考えにくいでしょう。露岩地区、溶岩が流れたあとなど?
>まあそんなところで。
話が少し戻ってしまいますがお許しください。
ハンドオーガは地盤支持力の大きい踏み固められた地表では、先の交換式のチャチナものではすぐに壊れてしまうと思います。接続部のない一体式のネジ状の先端を持つものでも歯が立たなくてバール状のものを打ち込まなくては入っていかないようです。浅い場合はダブルスコップなどを使用して掘るようです。(土壌調査関連の場合の採取)地表部は人や車に踏み固められたりして硬かったりするようです。軟弱地盤など固くない場合などは簡易な採取器で採取できるのでしょう。ご紹介いただいた、ハンドオーガでの天理付近での柱状図をみると表土は薄くコアの抜けるタイプの先端で採取できているので、固い地表部は殆どなかったものと推定されます。(地山は表面近く。?)この柱状図から推定すると80-6では5mの柱状図で1m位の所に.450mmぐらいの泥炭層、5mぐらいの所に200mm位と5.4mに300mm位の泥炭層があります。表層は300mm位。
80-7では6mの柱状図で4.5mに820mmの主たる泥炭層があります。表層は200mm位。
78-4では8mの柱状図で表土は300mmぐらいで地表は前の2個より2m低く2.5mに350mm、4.5mに200mm、5.5mに350mm泥炭層がある。接近している割には泥炭層の形状が異なる。かなりハッキリした地層と思われます。
同じ天理付近のボウリング柱状図が載っているがどう言うわけか泥炭層は載っていない。
場所は兵庫町(標高62m)、三島町(68m位)、富堂町(63m)、田井庄町(61m位)、杉本町57m位)二階堂上ノ庄町(標高50m)である。
  これより低い川西町(43m、2本)、三宅町(44m,45m)でも泥炭層は載っておらず川西町の一本で3mに1000mm程の腐植土層があるだけである。田原本町(標高50m)5mに1000mm位、(標高49m)4mに1000mm位、5.5mに1400mm位の腐植土層がある。
しかし、橿原市膳夫町(標高75m位)1.5mに1700mmの腐植土層があり、泥炭層ではないようである。
どのような訳で、ボーリング柱状図に登場しないかご説明いただけると助かります。はっきりした泥炭層で湖沼起因とすればもっと登場してもいいのではと思うのですが、ボウリング場所が悪いのでしょうか。柱状図の作成者が悪いのでしょうか。
 初めの質問に戻ってしまいました。
古代史とは関係なくても地質的事実は古代史を考えるのには大変に役立つ素材と考えています。文献など素材は少ないのですから。
内陸では塩水の井戸などは馬を飼うのに役立つかもしれません。
青草失礼しました。

[9132] お詫びの代わりに  佐々木高久 2008/06/28(Sat) 20:30 [Reply]
 古代史とほとんど関係ない記事になったことをお詫びします。せめてもの罪ほろぼしです。
 神奈備さんが天武の足取云々との記事を受けて少し、万葉集をランダムにひらってみました。古代史の詳細を記憶する能力がないので、見やすいものを選びました。
額田王
007金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
宇治の兎道まで大海人皇子が護送されたてきた。五百ほどの手勢を借りたと思う
008熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞
にぎわってきた、付き従うものもできた。今はそれを待つのみ。
0017味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
酒が旨い。大海人勢の奈良を守った山際の伊隠萬代と東漢の伊積流萬代尓、委曲毛の武勇は見過ごすことはできない。これは八万の軍隊に相当する。ああ無情、雲(天皇?)も隠れたい。
大海人皇子
0025いらいらいら(前回の書き込み)
0027淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三
良し好し芳吉、壬申の乱で勝ち、天皇に「よっしゃ、よっしゃ」が見える。
持統天皇が天武崩御に詠んだ歌
0160燃火物 取而L而 福路庭 入澄不言八面 智男雲
0161向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月<矣>離而
解釈不明。火雲南青月などの文字が興味深い。智男雲とは知的な男雲、雲は天皇か。出雲は天皇が出た?となる。
0162明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子
 自ら太陽の子のように言っているあたり豊臣秀吉に似ている。秀吉はこれを模倣したのだろう。神風の伊勢も面白い。伊勢とは東漢の伊積流?のことだろうか。

[9131] Re[9128][9120][9119][9111][9109]: 柱状図にはないが?  佐々木高久 2008/06/28(Sat) 09:25 [Reply]
素人さん
> 深井戸ですね。これプラス中央部で深井戸から自噴などと書いてあるので信じてしまいました。
自噴はあるでしょうが、じわじわ湧いているということで、噴水の印象ではないのです。
> バブルのころ問題になった部分をご指導ください。
まだ係争中と思いますので、産廃、有機塩素、・・・このあたりで推定下さい。
>しかし、化石水かどうかは、同位体比(マス)などでわかると思うのですが載っていないので、少し疑念は持っていました。
 水の分析は、JIS工業用水試験方法、原子吸光+液クロまたはガスクロですか。
奈良は完新世に海が入っていないので、そうゆう解釈になるのですが、温泉などは同位体比で確認する一部研究者が出てきているようです。
> 温泉ブームの井戸は都会の温泉(1000mとか)ほど深くはないのでしょうか。
1000m級が普通です。大阪はなんと100箇所も。「特殊プラント工業」で検索してみて下さい。
> 地質図と同じでしょうか。興味があります。
まずダウンロードして、まずは実行、ご自分で検証して下さい。
> 発掘調査などご専門の様ですから地表まで地山である場所はどこにでも有るのか、どのような場所かご指導ください。
専門ではありませんが、要するに地表まで人の手が入っていない場所ということでしょうか、まず日本では考えにくいでしょう。露岩地区、溶岩が流れたあとなど?
まあそんなところで。


[9130] 小林さん  神奈備 2008/06/28(Sat) 08:53 [Reply]
とみたさん、おはようございます。

> 東アジアの動乱全体を視野に入れてその中で倭国や日本を見るアプローチを試みたこと。
> 私は歴史学者じゃあありません。歴史作家ですとの言葉を述べておられたのが救いでした。

 その認識は立派だと思います。
 彼女の説を殆ど取り入れていながら、一言もそのことに触れず、さらに西アジアと絡めたのが中丸薫さん、明治天皇のお孫さんだとか。

 原田さんをパクッタ小椋一葉さんも、「歴史作家です」と云うところは見習ってほしいものです。

 神奈備は小林恵子さんを初めて読んで、びっくりしたのですが、流石、チェックされているんですね。


佐々木さん、隈毛不落

> 隈(東漢)も味方になってくれない。

 ありがとうございます。この解釈、同感です。歌で政治のメッセージを出すのは、神武記での伊須気余理比売の歌が有名です。読み損なうと「死ぬ」と云う緊張の世界でもあったのでしょう。後世になると出世できないとか失恋程度で済むようになったのでしょう。


とみたさん、青草「3人寄れば」
> 自分に宿題を課す。でもストレスになるほど頑張るのは健康によくない。亀の歩みで、一歩一歩下調べを始めるわけです。

 神奈備も「浪速の古代史研究会」のメンバーの一人で、月に一回のテーマの勉強結果を発表するのを自分のノルマとしてプレッシャーをかけ続けています。なければすぐさぼる体質の人間ですから。

 定年前の閑散とした仕事から考えますと、リタイア後の方が何故か忙しい気分です。体力のあるかぎり、続けて行きたいと思います。ここの掲示板にテーマに関するお話を出させて頂き、多くのヒントを頂けるのは無上の喜びです。

[9129] Re[9122][9121][9110][9109]: 柱状図にはないが?  素人 2008/06/28(Sat) 01:04 [Reply]
佐々木高久 様
> 素人さん
> > ハンドオガーでは柱状図は書きにくいんではと思いますが。サンプルが柱状になりません。
> 至って厳密な議論と拝察します。
>  概ね遺跡関係者は、ハンドオーガ、ボーリングステッキ(検土杖)などでミリ単位で土質を観察記録し、柱状図にします。ハンドオーガは、土質によってサンプラーを変更しますが、相手が砂礫の場合よく用いられます。もちろんこれらの道具は未固結の堆積物に対してですが。粘土、シルト、細かい砂は柱状で採取できます。
>  機械式ボーリングには、1:レバー感覚での10cmオーダの土質判定、2:1mおきのサンプリングによる判定、3:オールコアサンプリングによる判定がありますが、ほとんどが1と2の併用タイプか1です。
>  この場合でも砂礫は柱状に採取できません。
>  これ以上はJISの土質調査関連図書でご確認下さいますように。
ネジのように回しながら掘るやつと勘違いしていました。コアが抜けるタイプもあるのですね勉強になりました。
>  産業総合技術研究所(元地調)のことは、よく承知しておりますが、各都市のボーリング柱状図を収集しデータベース化されていますね。
>  たとえばこれは京阪神で数万地点以上集めてつくったものです。大阪の東西南北がよくわかります。
>  http://www.kg-net2005.jp/html/gi_base_02.html
>
よくご存じのことと思いますが、ボウリング柱状図では、大半が表層部が表土・盛土として数メーター位記載されてことが多く、表層の構造は解りません。従来、素人考えで盛り土されていたり、掻き混ぜられていたりして地山でない場合に表層・盛土と記載されていると考えていました。 これを正しいと仮定すると地表まで地山の地質を持つ部分は少ないか、ボーリングマシンを搬入できるような平坦な場所は地表がかく乱されている場合が多いので、表面まで地山でない場合が大半である。地表の地山はない。たまに有っても数センチの微細構造は記載されない。?
大きい木のない草地などで耕作の歴史のない土地などでは地山が地表まで残っておりハンドオーガなどで地表の土壌を採取して精密な構造を調べると地表下に数センチの泥炭層が見られると言うことのようです。
発掘調査などご専門の様ですから地表まで地山である場所はどこにでも有るのか、どのような場所かご指導ください。
何しろ素人ですから専門家に伺うしかありません。
素人の青草でした。
 

[9128] Re[9120][9119][9111][9109]: 柱状図にはないが?  素人 2008/06/28(Sat) 00:17 [Reply]
>  奈良は塩分濃度が高い浅井戸は基本的にないですね。バブルごろに問題になりましたが、別の要因でした。しかし活断層は南北東西にあるので、自噴井はそれなりにあるでしょう。温泉掘削ブームで奈良も山間部、奈良市周辺、三郷町周辺に20箇所ぐらいできました。
地調(現産総研)の発行図に各イオン濃度まで書いてあるので信じてしまいました。深井戸ですね。これプラス中央部で深井戸から自噴などと書いてあるので信じてしまいました。バブルのころ問題になった部分をご指導ください。地元のことでよくご存じのことのようですからよろしくお願いいたします。分析はイオンクロマトなどで簡単です。しかし、化石水かどうかは、同位体比(マス)などでわかると思うのですが載っていないので、少し疑念は持っていました。
温泉ブームの井戸は都会の温泉(1000mとか)ほど深くはないのでしょうか。

>  地調(現産総研)の発行図書は著者、発行年、図幅(奈良とか桜井とか)によって、品質が違います。だからあまり見ない。
>  先般の添付のものは国土庁発行ですべて5万分の1で、全国が無償でダウンロードできるのです。素人さんはご存じでしょうが。
地元ですと特異な井水分析の詳細な報道がなされるのでしょうが、離れていると聞こえてきません聞いてみるものです。買っていました。カラーコピーを買った場合もあります。
結構高いのでとても助かります。結構、細かい部分が大事だったりするのですが、地質図と同じでしょうか。興味があります。

[9127] 万葉集0025の歌  佐々木高久 2008/06/27(Fri) 22:31 [Reply]
 9126の青草解釈は、まとはずれでした。
 これは大海人皇子の詠んだもの。
 壬申の乱の前の春先、吉野で、時間がない、味方がいないと地団駄、あせりまくる皇子。
 雪者?は味方になった。しかし雨者?は味方にだれひとりならない。
 でも雪は忙しくてどうにもならない。雨には仲介者がいない。困った。困った。
 隈(東漢)も味方になってくれない。ああ気が重い。
 という解釈の方に致します。
 額田王との恋歌でも大海人皇子の粘着的性格は、よく見えるのでこちらの方変更致します。但しあとづけなので何とでも言えるとも言えるが。雪とはだれなのか。秦氏?、雨とは息長氏のことなのか。

 

[9126] Re[9124]: 小林恵子の『白虎と青龍』批判  佐々木高久 2008/06/27(Fri) 20:59 [Reply]
 小林さんは、各書物の内容が誠実な研究成果の発表というより「お商売」の感が強く、如何なものかと思います。李さんの解読は、第3者に再現性が困難だと思います。どちらもアマチュアとの間には絶壁があるように思えます。
 万葉集については、政様集といえる部分多々ありと思います。
 人麻呂の歌は、彼の宮廷での立場上、二面性がありと思う。詠み人知らずという歌については、ほんとうに詠み人がわからないのか、単に編集者が匿名で書き加えてのか、詠み人を公表できないのかよくわからない。というのが私見です。
 折角0025の歌を頂いたので少し自由に解釈してみる。
 縦に並べると、時間がないが読める。
 我者無いも読める。従う者がいない。
 雪者落家留 たとえば行き者は落ちてしまった。負けてしまった。
 雨者零計類 数多の者は計略がない。
 以下略します。
 隈毛不落は、たとえば○隈?が落ちない。
 <念>乍叙来其山道乎は、山道は足が重い。
 なんとなく壬申の乱などで、兵たちが逃げていくのを嘆きながら逃げる大友皇子のような。

 三吉野之 耳我嶺尓
 時無曽  雪者落家留
 間無曽  雨者零計類
 其雪乃  時無如
 其雨乃  間無如
 隈毛不落<念>乍叙来
 其山道乎
 みよしのし ,みみがのみねに,
 ときなくそ, ゆきはふりけり,
 まなくそ,  あめはふりける,
 そのゆきの, ときなきがごと,
 そのあめの, まなきがごと,
 くま(も)もおちず,おもひつつぞくる,そのやまみちを

 青草になってしまったような。

[9125] 小林恵子説  とみた 2008/06/27(Fri) 10:03 [Reply]
神奈備さん

一昨年、地元の朝日カルチュアセンターで小林恵子女子の講義を聴いたことがあります。文春の争乱と謀略の平城京と言う本も、頂きましたので読みましたが、チンプンカンプンでした。

天武とか文武とか武がつくのは高句麗人。
聖徳太子は突厥人、蘇我氏はエフタル人とか、前秦に高句麗の美川王がやられますがこれが神武とか。聖武と新聖武とかいろいろ作り出して読みきれませんでした。

でも敢えて肯定できるのは、・・・

藤原氏の出自が依然不明で諸説があり古代史の謎解きに、行き詰まることがありますので、東アジアの動乱全体を視野に入れてその中で倭国や日本を見るアプローチ
を試みたこと。唐が圧倒的な存在で、その動静に振り回されていたという視点は捨てがたいと感じています。

内外の文献を読み通して、その関係性から歴史を見ているようです。

でも最後に、私は歴史学者じゃあありません。歴史作家ですとの言葉を述べておられたのが救いでした。文芸春秋がこの作家の本をたくさん出しています。

李寧熙さんの万葉解読これも、有名ですね。

万葉集は、表の表現の愛憎で見ては駄目。裏に隠された本質は、古朝鮮語を吏読せよとの主張です。大津皇子が持統天皇に暗殺される暗文だとか。

枕詞にも意味があるということですね。

でも4500首全体がこんなおぞおぞしい歌とだとも私には思えません。

白川静先生は、万葉集は呪の歌として読みなさいと仰いました。

和田アツム先生は、古代史に関しては、所謂大家と称する人の見方は、疑ってかかれという仰っています、私もそう思って参考にはするが、まるごと嵌るのは危険だと考えております。常に批判精神が必要でしょう。考古学的発見や木簡などの事実をベースに一歩一歩進む方が早いと考えます。


[9124] 小林恵子の『白虎と青龍』批判  神奈備 2008/06/27(Fri) 09:13 [Reply]
●『書記』は天武の年齢を記さなかった。いかにも天武には謎が多いと思わせるトリック。

 殆どの天皇の生年や没年齢は書かれていない。

継体以降では継体・安閑・宣化のみ。
欽明即位 年若干   32年死 年若干  檜隈坂合陵
敏達 14年 死
用明 2年 死  磐余池上陵
崇峻 5年暗殺  倉梯岡陵
推古 死 75歳
舒明 13年崩御 天智しのびごとを読む 16歳
皇極 4年 大化の改新 退位
孝徳 5年 死  大坂磯長陵
斉明 7年死
天智 10年
天武 14年 死 大内陵


●天武は天智の弟ではない。
 
 14世紀以降の資料で天武の年齢を語り、天武を天智より3歳年上としている。
 『日本書紀』には記載がない。
 『一代要記』鎌倉中期 天武逝去 65歳
 『本朝皇胤紹運録』南北朝期   65歳
 『神皇正統記』南北朝 73歳
 天智の誕生 626年 舒明逝去の年(641)に16歳。→ 641−15=626

 『壬申の乱』遠山美都男著から

 天智の最初の子は大田皇女、妹の持統は645年ゆえ、643−4と推測。この頃の天智の年齢を15−20歳とすれば623−629の生まれ。

 天武の最初の子は大友皇子の妻となった十市皇女か高市皇子。大友皇子は648年生まれだから、大田皇女を650年生まれと推定すれば、650−15=635。650−20=630。天武誕生の年代は
630〜635歳。皇女達から逆算すると、天智と天武の年齢差は1−12歳となり、年下と言える。

●天智の前に多くの天皇がいたが、『紀』では隠されている。

 難波の宮に孝徳天皇を置いてきぼりにし、間人皇后までつれて飛鳥に引き上げた。なぜ、皇后までもが天皇を見捨てたのか?
 
 天智の天皇就任が遅れに遅れたのは同母妹の間人との関係(古代でもこれはタブー)があった。間人が死んだのでやっと即位できた。と推測される。

 山背・古人・間人が即位していたと云うのは小林氏の根拠のない推測にすぎない。


●檜隈とは天武天皇の意味があること。隈は高句麗だから。
 檜隈は東漢の本拠地であった。高句麗の圧迫を受けて渡来した百済人の村が檜隈。反高句麗の地と見ても良い。

 文武天皇(在任697−707)は草壁皇子の子 草壁は662生まれ 15−20に文武を生むとすれば、文武天皇在位と死亡年齢は 15−20歳 〜 25−30歳 。従って母の元明天皇はまだ老婆ではなく即位した。

 文武天皇についての記載のある『続日本紀』まともな記録文書と思う。
 文武天皇には藤原不比等が補佐、若い天皇ゆえ不比等に任したのか大きい仕事をやっている。さらに不比等の娘を夫人にした。

 高句麗、故国を見捨ててきたような亡命者を日本が天皇として受け入れるはずがない。

 日本にも多くの豪族がいた。彼らの協力なくしては政権はもたない。その彼らを前に他国の王が日本の天皇位に座り、かつ万世一系などと言えるのか。ありえないだろう。


 李寧熙さんの万葉解読

古代の韓国語発音が基本的には不明。さらに百済語、新羅語、高句麗語、それらの古語発音が本当に判っているのか疑問である。中世までではないのかと思われる。

『万葉 巻一』天皇のみよみませる御製歌(おほみうた) 
0025 み吉野の 耳我(みかね)の嶺(たけ)に 時なくそ 雪は降りける
   間無くそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと
   その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

耳我嶺爾 みあめじ 胸がつぶれそうだ
耳 日本語 み
我 韓国語 あ
嶺 訓   だけ
爾 韓国語 い

時無曾 てなじ 出発しよう
時 韓国語訓 て
無 日本訓  な
曾 韓国音  ジュン 古訓 チュン 万葉古代歌謡 ジ(チ) 

大御船
大 日本古訓 おば
御 日本訓  み
船 韓国訓  べ
おぼみべ 父親斬り

 日本語と韓国語と訓を自在に組み合わせて解釈しようとしている。あまりにも恣意的。

以上

[9123] 天武天皇は淵蓋蘇文?  神奈備 2008/06/26(Thu) 21:26 [Reply]
 茶臼山古墳(?)の南側のホテル街の奧に韓国系のお寺の統国寺があります。
 この前、ここでの会合に初めて出席させてもらいました。全国的に茶臼と言う地名と百済寺とは関係があるそうな。

 『李寧熙さんが解いた地名を歩く』と云う自費出版の本の解説がありました。初めて聞くと新鮮な興味を引かれる内容でした。

 次回テーマは、天武天皇・文武天皇の正体ということで、天武天皇は高句麗の将軍であった淵蓋蘇文である、文武天皇は新羅の文武王であると云う小林恵子さんの説を取り上げ、これを李寧熙さんが信じて、その上で万葉集を韓国の吏読(日本の万葉仮名に相当するそうな)で読むと、風景を歌った歌が政治的願望を歌った歌になる等の説が披露されており、それを検証するとのことのようです。

 
 神奈備の天武天皇は淵蓋蘇文説への反駁 統国寺に集う人々(在日が多い)は信じているようだ・・

1.遺言

 淵蓋蘇文の死亡記事が『日本書記』天智三年十月に記載されている。遺言まで記載されている。遺言まで記載されていることがおかしい。死んでいない証拠だ。日本に渡ってきたのだ。

●遺言を記載したから死んでいないと云えるのか?遺言通りに高句麗が滅びたから記載したとも云えるのではないか。

●『日本書紀』は、漢文で書かれており、これは日本国が古い由緒を持ち、文化水準もそこそこだと唐などにアッピールする目的があった。唐の目を意識しなければ『古事記』と同じような仮名表現でいい。

 唐を意識して書いたものだから、朝鮮の有名人である淵蓋蘇文が死亡もしていないのに、死亡したとするだろうか。 死亡記事は『紀』だけではない。死亡したと見るべきで、天武(683年死)にはなりえない。
 『三国史記』666年 死去
 『旧唐書』(高麗伝)には、665年死去。
 『日本書紀』664年


2.仁武
 莫離支仁武と淵蓋蘇文とが同一人であってもいいが、仁武天皇と天武天皇が同じと言うのはおかしい。 伊勢神宮に関する史料に『御気殿本記』があり、その原史料の『往代希有記』には、「仁武天皇御代豊受神宮新立御気殿本記」なる副題がついているそうです。この仁武は天武のことだ、天武は伊勢を皇祖神を祭る神宮とした」とが根拠。

 『往代希有記』が730年に出来たとすれば淡海三船は漢風諡号を天武のかわりに仁武とすればいい。
 天武としたことは仁武でない証とも云えるのでは。

 また、天武は伊勢の大神を初めて拝んだ大王となっているが、持統天皇の代でも皇大神宮の建物はなかった。文武2年、伊勢神宮の言葉が初出。この時期に社殿を建立と見るのが妥当。(筑紫申『アマテラスの誕生』)
 ましてや豊受神宮が新たに立つ頃の天皇が天武であるはずはない。


3.道教
  推古10年に百済の僧 観勒が暦・天 文・地理・遁甲方術を伝えている。天武が道教に詳しくともいっこうにかまわない。

4.水の中から生まれた。

5.反唐派

6.任武の任は大海人
 天武の葬儀に、大海宿禰アラカマがシノビゴトを奉った。故に天武は大海人皇子であった。大海宿禰は摂津の国の人かも。住吉大社に大海神社がある。


9.高向王と斉明の皇子の漢皇子を天武にあてるのは小林氏の推測。『紀』には明確に、天智・間人・天武と記している。いったい天武はどこで生まれたのか?
 日本書紀のどの記事を信じて、どの記事は信じないのか。小林氏はご都合主義。


10.檜隈=天武への疑問 隈=高句麗=天武とする推論
 継体天皇と尾張の目子媛との間の子を檜隈高田皇子と称する。檜隈が天武ではありえない。天照の意味がある。(大三元さんHP)


11.万葉集
 日本の日本人による日本語でかかれた歌集である。


[9122] Re[9121][9110][9109]: 柱状図にはないが?  佐々木高久 2008/06/25(Wed) 09:20 [Reply]
素人さん
> ハンドオガーでは柱状図は書きにくいんではと思いますが。サンプルが柱状になりません。
至って厳密な議論と拝察します。
 概ね遺跡関係者は、ハンドオーガ、ボーリングステッキ(検土杖)などでミリ単位で土質を観察記録し、柱状図にします。ハンドオーガは、土質によってサンプラーを変更しますが、相手が砂礫の場合よく用いられます。もちろんこれらの道具は未固結の堆積物に対してですが。粘土、シルト、細かい砂は柱状で採取できます。
 機械式ボーリングには、1:レバー感覚での10cmオーダの土質判定、2:1mおきのサンプリングによる判定、3:オールコアサンプリングによる判定がありますが、ほとんどが1と2の併用タイプか1です。
 この場合でも砂礫は柱状に採取できません。
 これ以上はJISの土質調査関連図書でご確認下さいますように。
 産業総合技術研究所(元地調)のことは、よく承知しておりますが、各都市のボーリング柱状図を収集しデータベース化されていますね。
 たとえばこれは京阪神で数万地点以上集めてつくったものです。大阪の東西南北がよくわかります。
 http://www.kg-net2005.jp/html/gi_base_02.html



[9121] Re[9110][9109]: 柱状図にはないが?  素人 2008/06/25(Wed) 00:17 [Reply]
佐々木高久 様
> 素人さん
> > 奈良盆地でも葛城川の流域の大和高田市・広陵町・河合村・斑鳩町では塩分濃度が高いそうです。特に斑鳩町の井戸で高い値が出ているようです。内陸でも塩分濃度が高いところはあるようです。
>  被圧する化石塩水のことですね。
>  大阪では高槻の被圧地下水が有名ですね。大阪層群の海成粘土層が搾り出されて残存しているとか。
> > 泥炭層については、
> http://www.cons-ar.co.jp/ha1.pdf
> 表層地質図については
> http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/basis/5-1/F3/data/29f.html
> その他
> http://www.eonet.ne.jp/~yamato100ma/contents.htm
ハンドオガーでは柱状図は書きにくいんではと思いますが。サンプルが柱状になりません。地質図についている地域地質研究報告(経済産業省技術総合研究所 地質調査所、長ったらしい名前です。)はふんだんにボーリング柱状図を使用して解説されています。昔、地質調査所を訪問して技官にお話を伺った事がありますが、細微にわたりご存知で海外の類似地質構造までお教えいただいたことがあります。

>  万葉仮名の資料は綜合または外国語大学の図書館ならすぐに見ることできると思うが。
>
調べてみます。
感謝します。

[9120] Re[9119][9111][9109]: 柱状図にはないが?  佐々木高久 2008/06/25(Wed) 00:16 [Reply]
 奈良は塩分濃度が高い浅井戸は基本的にないですね。バブルごろに問題になりましたが、別の要因でした。しかし活断層は南北東西にあるので、自噴井はそれなりにあるでしょう。温泉掘削ブームで奈良も山間部、奈良市周辺、三郷町周辺に20箇所ぐらいできました。
 地調(現産総研)の発行図書は著者、発行年、図幅(奈良とか桜井とか)によって、品質が違います。だからあまり見ない。
 先般の添付のものは国土庁発行ですべて5万分の1で、全国が無償でダウンロードできるのです。素人さんはご存じでしょうが。

[9119] Re[9111][9109]: 柱状図にはないが?  素人 2008/06/24(Tue) 23:47 [Reply]
> > 手元にこの地域の地域地質研究報告がありましたので、書かせていただきます。
> > この地域のボーリング柱状図がありますが表層部に泥炭層は無いのですがどう言うことでしょうか。一部に腐葉土層はありますが多数の柱状図のほんの一部です
>  ボーリング柱状図の地点のほとんどが低地でなく山地丘陵台地でないですか。
>  なお図幅名称と発行機関、著者名はどうですか。
地質調査所が出しています、地質図についているやつで河川周辺も含め奈良盆地全域の柱状図なども含む資料です。地質調査所って筑波にあるやつですよね。こんな地味なもの出す国の機関は他にはないでしょう。柱状図を知っていて見たことないですか。地質から得ることが多いのでいろいろ買っています。しかし、実はたたらの関係の方から教えていただいたものです。

> > 内陸でも塩分濃度が高いところはあるようです。
> 但し古代において、表流水としてまたは浅井戸であるかどうかですね。現在でも湧水などでは未確認です。おそらくご指摘のものは被圧地下水でしょうから、深井戸の分析結果と思いますが。
>  但し一般に温泉地帯では塩分濃度が高いものが表流水として確認できるようです。
>
地下構造から1960年ごろまで中央部の深井戸は自噴したりしていたとありますから川西町、斑鳩町あたりは微妙かもしれませんね。地元の方に、ご意見を伺いたいところです。

温泉は橿原温泉ではNa+9670mg/Kg、Cl-24000mg/kgと莫大なものもあり、井谷屋温泉、針温泉などが有りほかにも沢山有るようです。
関西の方はもっと詳しいですよね。
素人の青草です。

[9118] 天武の歩いた道  神奈備 2008/06/24(Tue) 22:43 [Reply]
 こんばんは。瀬藤禎祥@神奈備です。

 松浦貞子さん、エッセイ家、古代史旅行企画家さんが天武天皇の歩いた道を歩こうと呼びかけて居られます。
 日程は未定ですが、都合がいけば歩いてもいいよ、と思われる方、連絡下さい。


[9117] Re[9115][9113][9112]: 河内の環濠集落  佐々木高久 2008/06/24(Tue) 21:21 [Reply]
付記ですが。
 平安京では11世紀ごろ一斉に井戸が枯れます。実は鴨川の河床低下が原因です。  源氏物語は宇治十帖がありますが、平安京から時の権力者の道長頼通とともに、水が豊富な宇治に人々が移動してきます。
 宇治が日本の最大都市、首都格になる時期です。最盛期は源三位頼政の宇治川の合戦のころとか。
 同時に北面の武士だった平氏は、平安京の右京やら鴨川河原などの洪水常習地や湿地にいて、水があったのであえて移動しなかった、乾陸化して住みやすくなった。無人に近い平安京で著しく発展をとげ、平安京で「平家でなくては人でない」となったとか。
 鎌倉以降は、平安京での井戸の深堀りが始まって、平安京に人が戻ってきます。同時に宇治はそれまでの居住地が浸水します。
 ゆえに弥生の倭国大乱は、人と自然の関係におけるアンバランスの序章ではないかと思います。最近の活断層のトレンチ調査から、古墳時代に大地震が集中していたというのもあるでしょうけど。

[9116] Re[9115][9113][9112]: 河内の環濠集落  佐々木高久 2008/06/24(Tue) 09:23 [Reply]
とみたさん
> 環濠が倭国の大乱前後で一斉に消滅するとよく言われていますが、最近では土地によって、様相が違うようです。
 大阪は、池上曽根、安満、茨木市?、川西市南で環濠が確認できます。これらの地点は台地の上なのに自由面地下水が豊富つまり浅井戸があります。おおむね上町断層と有馬高槻構造線状の遺跡群なので、水が豊富しかし湿気も多いので、濠を掘って土地の高燥化を考えたかもしれません。地震による破壊もあるでしょう。
> 大和の環濠集落も、消えて纏向きに弥生から古墳時代にかけて、新しい集落が生まれました。消えた原因に、寒冷化説もあります。花粉分析によると200年代は寒冷化が進んでいるようです。倭国の大乱は100年代の後半です。
 大和湖は標高と遺跡の分布から、樋口先生が新たに主張されたことですが、湿地化が一番大きいでしょう。平城京も右京は湿地だったので、結局左京を大幅に拡大しました。
> 河内平野の池島・福万寺遺跡の花粉分析によると・・・河内平野は、弥生時代中期ごろは、乾燥化したものの、再び沼地と水田が拡大したこと、後期に入ると洪水が頻繁に起こり森林が減少したと推定されている。
上中央子さんだったたしか。
> 和泉の池上曽根の弥生博物館は、一昨年訪れています。大阪府の橋下知事がこれを近ツ飛鳥博物館に移設するようで、気になっています。
これは中止へ進んでいるとの府のPT案が出ていました。
地盤に関する全国のデータベースもあります。
http://www.jiban.co.jp/geodas/guest/index.asp
かつて気候変動と治世を調べた研究があったように思いますが、概ね温暖化は乱世(平安後期、室町、戦国、幕末)へ進み、寒冷化は安定した治世(鎌倉江戸)にすすむとか。

[9115] Re[9113][9112]: 河内の環濠集落  とみた 2008/06/24(Tue) 06:06 [Reply]
佐々木さん いつも貴重なご意見をありがとうございます。

環濠集落の研究も一つの緒口かと考えておりましたので、北河内や中河内にお詳しい佐々木さんにお伺いしました。それほど見るほどの環濠集落がないということも、情報です。

環濠が倭国の大乱前後で一斉に消滅するとよく言われていますが、最近では土地によって、様相が違うようです。

大和の環濠集落も、消えて纏向きに弥生から古墳時代にかけて、新しい集落が生まれました。

消えた原因に、寒冷化説もあります。花粉分析によると200年代は寒冷化が進んでいるようです。倭国の大乱は100年代の後半です。

河内平野の池島・福万寺遺跡の花粉分析によると・・・河内平野は、弥生時代中期ごろは、乾燥化したものの、再び沼地と水田が拡大したこと、後期に入ると洪水が頻繁に起こり森林が減少したと推定されている。

和泉の池上曽根の弥生博物館は、一昨年訪れています。大阪府の橋下知事がこれを近ツ飛鳥博物館に移設するようで、気になっています。

>  以下に国際日本文化研究センターのデータベースを紹介致しますが、京都南部については、縄文から古墳までの遺跡の核が移動するのがわかります。古墳時代には核が集約されます。ここに権力の集中があると見て疑いのないところと思います。河内でもこのようなデータベースがあればいいのですが。
> http://www.nichibun.ac.jp/iseki/gis/all.html

これは、すばらしいデーターベースですね、初めてこの存在を知りました。各地の風景が手に取るようです。

ありがとうございました。

[9114] Re[9112]: 河内の環濠集落  佐々木高久 2008/06/23(Mon) 13:26 [Reply]
 河内では、弥生の環濠集落はわかりません。摂津和泉ではあるようですが、古墳時代以降は途絶えます。河内ではその間も集落遺跡は連続するようですね。交野市の上ノ山遺跡で、祭殿?掘立柱式の建造物が出ているようです。製鉄遺跡も付近にありますので、最低北河内の首長級の遺構かもしれません。

[9113] Re[9112]: 河内の環濠集落  佐々木高久 2008/06/23(Mon) 11:13 [Reply]
とみたさん
 鍵・唐子遺跡⇒唐古・鍵??
> 湿地帯の微高地に集落を成し氾濫原には稲を植えたかも知れません。
 氾濫原というよりかは後背湿地ですね。これは神宮皇學館大学の外山秀一さんの研究がありますね。
> 丘陵にも、環濠集落を作って暮らしたのだと考えています。
 丘陵台地では倭国大乱期に見られますね。V字溝遺構として。
 平野で環濠を掘るのは、防御もあるでしょうが、掘った土を客土(盛土)して、生活面を上げることが大きいと思いますね。
> 河内でも、弥生期の環濠集落が、たくさんあると思いますが、私は生駒山系の西麓のの大県は鉄鍛治のいた集落だと考えております。
 石神社の付近には清浄水など湧水、河内松原あたりも豊富です。
> 八尾の方にも有名な弥生遺跡があり稲作を行っていたのでしょう。その後に5世紀には渡来民が増えて干拓を進め、稲作を広げたのは申すまでもありません。
 池島福万寺遺跡(弥生前期)のことですね。大阪は讃良郡条里(寝屋川市東部)が縄文晩期の稲作で有名ですね。稲作は若干北河内摂津が早いです。
> 質問です。弥生期の環濠集落は北・南河内にもありましょうか。それは何時頃消滅したとなっておりますか。消えた原因と考えられるのは、なんでしょうか。ご存知なら教えていただくとありがたいと思います。
 有名な遺跡は弥生文化博物館のある池上曽根遺跡と高槻の安満遺跡ですが、あまりは詳しくありません。池上曽根遺跡付近では、弥生中期から古墳時代ごろの土石流堆積物が頻繁に見られるようです。これは上流地区の土器づくり、焼畑農業などで、荒廃した山地丘陵からの鉄砲水によって、生活の場が破壊されたようです。
 低地の遺跡は古墳時代の降水量増加と高海面期によって、水没による居住面積減少または河川の性質の変化(常時水がない網状河川から蛇行河川など)によって移動した。
 以下に国際日本文化研究センターのデータベースを紹介致しますが、京都南部については、縄文から古墳までの遺跡の核が移動するのがわかります。古墳時代には核が集約されます。ここに権力の集中があると見て疑いのないところと思います。河内でもこのようなデータベースがあればいいのですが。
http://www.nichibun.ac.jp/iseki/gis/all.html

 
 

[9112] 河内の環濠集落  とみた 2008/06/23(Mon) 10:07 [Reply]
佐々木さん

いろいろとご面倒をおかけします。

私は、河内湖の北の北河内や南の中河内のことを、お尋ねしました。

大和川が大和盆地から流れてきます。

堺への付け替え工事は1704年として、氾濫がしばしば発生したようです。

古代に、思いを致すとき、大和盆地は氾濫河川が自然堤防で覆われた湿地帯ではなかったかと考えています。

田原本は”低いところ”と言う意味だそうです。あのあたりに弥生時代の鍵・唐子遺跡があります。
清水風遺跡もあります。

湿地帯の微高地に集落を成し氾濫原には稲を植えたかも知れません。
丘陵にも、環濠集落を作って暮らしたのだと考えています。

集落の族長は、呪術で神と交信出来るシャーマンがなっていた。

倭国の大乱のあった弥生時代後期に、環濠集落が消えます。

弥生から古墳時代に入って、纏向集落も、微高地に水路を作って都としたのでしょう。

古墳時代に入り、蘇我氏は、東漢氏や今来の渡来人を利用して大和盆地の湿地帯を開墾して行ったのではなかろうかというのが私の基本認識です。

河内でも、弥生期の環濠集落が、たくさんあると思いますが、私は生駒山系の西麓のの大県は鉄鍛治のいた集落だと考えております。

八尾の方にも有名な弥生遺跡があり稲作を行っていたのでしょう。その後に5世紀には渡来民が増えて干拓を進め、稲作を広げたのは申すまでもありません。

質問です。弥生期の環濠集落は北・南河内にもありましょうか。それは何時頃消滅したとなっておりますか。消えた原因と考えられるのは、なんでしょうか。ご存知なら教えていただくとありがたいと思います。




[9111] Re[9109]: 柱状図にはないが?  佐々木高久 2008/06/22(Sun) 22:37 [Reply]
> 手元にこの地域の地域地質研究報告がありましたので、書かせていただきます。
> この地域のボーリング柱状図がありますが表層部に泥炭層は無いのですがどう言うことでしょうか。一部に腐葉土層はありますが多数の柱状図のほんの一部です
 ボーリング柱状図の地点のほとんどが低地でなく山地丘陵台地でないですか。
 なお図幅名称と発行機関、著者名はどうですか。
> 内陸でも塩分濃度が高いところはあるようです。
但し古代において、表流水としてまたは浅井戸であるかどうかですね。現在でも湧水などでは未確認です。おそらくご指摘のものは被圧地下水でしょうから、深井戸の分析結果と思いますが。
 但し一般に温泉地帯では塩分濃度が高いものが表流水として確認できるようです。




[9110] Re[9109]: 柱状図にはないが?  佐々木高久 2008/06/22(Sun) 21:15 [Reply]
素人さん
> 奈良盆地でも葛城川の流域の大和高田市・広陵町・河合村・斑鳩町では塩分濃度が高いそうです。特に斑鳩町の井戸で高い値が出ているようです。内陸でも塩分濃度が高いところはあるようです。
 被圧する化石塩水のことですね。
 大阪では高槻の被圧地下水が有名ですね。大阪層群の海成粘土層が搾り出されて残存しているとか。
> 泥炭層については、
http://www.cons-ar.co.jp/ha1.pdf
表層地質図については
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/basis/5-1/F3/data/29f.html
その他
http://www.eonet.ne.jp/~yamato100ma/contents.html

 万葉仮名の資料は綜合または外国語大学の図書館ならすぐに見ることできると思うが。


[9109] 柱状図にはないが?  素人 2008/06/22(Sun) 20:44 [Reply]
佐々木高久 様
しばらくでございます。
ご紹介いただいた万葉仮名の資料、希少な資料のため難航していますが、入手して勉強させていただきます。あまり引用されていないようなので心配ですが。
>  大和に最後に海が入ったのは100万年前です。
>  奈良盆地は3万年前以降は泥炭ばかりなので、還元性が高く金属遺物の保存性が高いのもあるかと思います。
手元にこの地域の地域地質研究報告がありましたので、書かせていただきます。
この地域のボーリング柱状図がありますが表層部に泥炭層は無いのですがどう言うことでしょうか。一部に腐葉土層はありますが多数の柱状図のほんの一部です。
>  また簡単に奈良は淡水が手に入り利便性から、製鉄が普及しやすかったのかもしれません。河内では塩分が混じるでしょうし。ただ馬の飼育には塩分が必要でしょうから。
奈良盆地でも葛城川の流域の大和高田市・広陵町・河合村・斑鳩町では塩分濃度が高いそうです。特に斑鳩町の井戸で高い値が出ているようです。
内陸でも塩分濃度が高いところはあるようです。
今後ともご指導よろしくお願いします。

[9108] Re[9107]: 中河内  佐々木高久 2008/06/22(Sun) 10:23 [Reply]
とみたさん
> 大和湖論争が以前ありました。
 非常に古い話です。これは国学院の樋口先生でなく、藤岡謙二郎先生のころには虚構になりかけていました。吉田敬市先生か。
 大和に最後に海が入ったのは100万年前です。
 奈良盆地は3万年前以降は泥炭ばかりなので、還元性が高く金属遺物の保存性が高いのもあるかと思います。
 また簡単に奈良は淡水が手に入り利便性から、製鉄が普及しやすかったのかもしれません。河内では塩分が混じるでしょうし。ただ馬の飼育には塩分が必要でしょうから。
> 玉手は安宿郡で、ご指摘の4世紀の古墳が大和川に注ぐ石川沿いにありまして、ここでは太陽祭祀が行われていました(今は中小企業団地に変じています)。
概ね日の出の方角、東の縁に多いですね。こちらは大阪府から地すべり地区の指定を受けまして遺跡の保存が悪いですね。
> 柏原あたりは大和川の川港があったと問いう説もあり、交通の要衝かと思います。
難波津から玉造江に入り、河内湖から長瀬川や平野川や、玉串川などを遡ったかと考えています。そして大和川に入るわけです。大和川は300m程度の幅の大きな川であったようです。
 これは下記pdfの藤野さんの図が見やすいかと。
> 河内湖周辺が干拓され、渡来人が馬を飼い始めるのは、5世紀初めとしてその以前には、その前代の部族がいた。これが物部ではなかろかと、勝手に推量しているところです。
 干拓というよりも流入河川の中洲ですね。馬との関係も重要ですが、稲作波及過程とあわせてみてはどうでしょうか。
 このpdfをごらん頂ければ。http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/16/index.html
 古い本ですが、藤岡謙二郎「先史地域の変遷史的研究」柳原書店、1970

[9107] 中河内  とみた 2008/06/22(Sun) 06:17 [Reply]
神奈備さん、額田神社のこと、ご教授ありがとうございます。
佐々木さんとの対話は、ものすごく深い議論で、大変参考になります。

ご両方の、青草コーナーの対話も興味をそそられます

> 河内国大県郡に宮を置いていたとする説の補強。
 安寧期前後に降水量が増加した(千田稔さんの奈良盆地の花粉分析学的研究)。
 奈良盆地は、大和川が唯一の排水集約河川で、三郷町と柏原市間の「亀の瀬地すべり」によって大和川がせき止められ、浸水する(内水災害)ことがしばしば発生している。
 亀の瀬地すべりは最古の活動が3万年前であるらしい。それ以降はしばしば動いている。また奈良盆地の表層は、ほとんどが3万年前以降泥炭層ばかりで、概ね湿地帯である(西田史朗さん)。
 たとえば平城宮の第1次大極殿も湿地に一部基礎があり、その基礎を忠実に復元すると回廊が傾いてしまう。
 ゆえに降水量の増加によって内水災害が多発し、柏原に宮を移した。それ以前にも湿地を埋め立てて宮を作ったところもあるとは思うが、安定した土地ではなかった。
 補強になるのだろうか?

[4083] Re[4073][4072][4071][4069]: 宮 in 難波  神奈備 2008/06/21> 安寧天皇は第三代の天皇。

 河内国大県郡に宮を置いていたとする説の補強。

 安寧天皇は磯城津彦玉手看天皇と云います。
 玉手地名は柏原市に玉手村があり、昔の安宿郡にあたります。
 玉手古墳群は4世紀半ばのもの。

 磯城はお隣が志紀郡。


今春の、河内の旅も、もちろん柏原と亀瀬と玉手は訪れました。

そこで初歩的な質問です。

大和湖論争が以前ありました。崖から今も岩石が崩れやすいところです。亀の瀬が、地質的に鍵を握っていると思っておりました。嘗て大和平野には、巨大な湖が存在した。コレハ樋口清之先生の説です。この方は、糸魚川のヒスイの件で、有名な発見をなされています。

大県は、生駒山の西麓です。鉄の工房で有名かと思います。鐸日子神社があります。

フィゴも発見されていますので、鉄鍛治が渡来人によって行われた地かと思っています。一番関心のあるのは、付近から小銅鐸と多鈕細文鏡が出ています。

これは、弥生時代の3世紀のものと考えられています。族長が呪術で、集落を治めたところかと思います。日本では確か11個出ていまして、葛城の名柄も有名です。

いずれも古代の鉄などのハイテクタウンです。

玉手は安宿郡で、ご指摘の4世紀の古墳が大和川に注ぐ石川沿いにありまして、ここでは太陽祭祀が行われていました(今は中小企業団地に変じています)。メンバーのMADOKAさんとやり取りしたことがあります。

論文も読んでおります。柱を立て、太陽の昇る方向に煙をたなびかせる儀式があったとされています。

柏原あたりは大和川の川港があったと問いう説もあり、交通の要衝かと思います。

難波津から玉造り江に入り、河内湖から長瀬川や平野川や、玉串川などを遡ったかと考えています。そして大和川に入るわけです。大和川は300m程度の幅の大きな川であったようです。

河内湖周辺が干拓され、渡来人が馬が飼い始めるのは、5世紀初めとしてその以前には、その前代の部族がいた。これが物部ではなかろかと、勝手に推量しているところです。

ニギハヤヒが物部の祖として、弥生時代にすでにおり、その後5世紀になって入植した渡来人が(神武ではなくとも)いたとか、いろいろな連想も可能かとも思っています。

それが、欠史八代とも関係があるかと思い、御両方の対話を楽しんでおります。







[9106] 額田神社  神奈備 2008/06/20(Fri) 18:02 [Reply]
 額田村に額田神社が鎮座していましたが、明治末期に周辺の多数の神社と共に枚岡神社に合祀されて天神地祇社としてまとめられて、その名前も消えてしまいました。
 『大阪府全志』による額田神社の由緒は以下の通り。

 額田大仲日子命を祀る。応神天皇の第一皇子で、母は品田真若王の女高木之入日売命。継体天皇の時代、夏 雨降らず大いに旱したので、大臣巨勢男人に詔して、当社を創建して五穀の豊穣を祈らせた。
 後、桓武天皇の延暦七年夏 また雨が降らず、征夷大将軍紀古佐美朝臣 勅を奉じて諸社に祈雨させる際、当地を通った時、当社の鎮座を見て、その由縁を聞き、天皇に奏して更に神戸・神地を定め、永く宝祚の無窮・風雨の順時・五穀の豊穣を祈ったと云う。爾来舊社として崇信されてきたが、漸次荒廃して一小祠に過ぎなくなっていた。

[9105] Re[9103][9100]: 日置氏から  とみた 2008/06/20(Fri) 11:59 [Reply]
> とみたさん
> 瓢箪から、駒。うまく書きますね。座布団一枚。
> 枚岡の手前には瓢箪山があるのですね。関西通のとみたさんらしい。


ハハハ。私は自分の足で歩く主義です。

この春先は、生駒トンネルを越えて、石切に向かい、その足で枚岡神社に向いました。名前だけ承知してました。宮司さんに厚かましくもお訊ねしたら子文書を見せてくれましたよ。

寝屋川の井戸堰?見たいな地図です。ふと電信柱をみたら出雲井と地名がなっていました。

そして石切から、坂を降りていって安宿に泊りました。そしたら前の道をバスが瓢箪山駅とと四条畷を繋ぐ路線で走っていました。夜、居酒屋に行こうと歩いてたら日下の場所でした。神武とナガスネヒコの戦いの場です。そこで店で隣のおじさんに、この辺は河内湖が昔は合った様だけれど・・・・みんあ怪訝な顔をしている。
そういえば貝が生駒山にはたくさんあるようだ。

翌日、四条畷の市役所でこの辺は馬で有名らしいけれど・・・と話していたら、資料館に野島さんと言う大家がおられる。今日は休みの筈だけれど。で電話をしていただいた。

今日は、棚卸しかなんかでおられます。市役者の人に車で案内いただきました。野島先生は懇切丁寧に教えていただきました。今でも感謝していまして、古代史ファンに先生の存在を吹聴しています。

明日香は、専ら民宿です。

こんな調子です。佐々木さん、こんな紅顔ならざる厚顔の輩です。

自分の足で、自分の目で確かめることの大切さを感じています。中国でも山東半島は乾燥地で、南へ進み蘇州あたりは緑が多く日本みたいに湿度が高い。

韓国も日本の風景ととても似ています。






[9104] Re[9097][9096]: 日置氏から  佐々木高久 2008/06/20(Fri) 11:42 [Reply]
> また枚岡神社の北には額田(生駒山の斜面なのでぬかるんだ土地でなく、額田王関係?ここに若宮がある)、あと若草など、平城京にある地名が散在する。

 額田の「額」はぬかるみの印象もありますが、スクモとも読みます。藍染の原料です。藍染といえば、阿波の「すくも」、ここでまた「阿波」が出てきます。
 また阿波水軍の田口氏(後の三河牧野氏)の家紋は、忌部の家紋が3枚です。
 とみたさん、額田は茨城市那珂市にもありますね。尼崎市、夜久野町にも。しかしとみたさんはAMS年代測定のことやら、幅広く強かに(いい意味で)勉強していますね。
 
  

[9103] Re[9100]: 日置氏から  佐々木高久 2008/06/20(Fri) 10:11 [Reply]
とみたさん
瓢箪から、駒。うまく書きますね。座布団一枚。
枚岡の手前には瓢箪山があるのですね。関西通のとみたさんらしい。
東大阪の額田地名については、以下に詳しく書いてあります。周辺地名もご確認下さい。
 http://www17.ocn.ne.jp/~minami55/timei.html
 旧春日神社の場所を真東に見ると、奈良市藤原町にぶつかります。

>国造本紀に拠れば、額田国造の祖は和邇臣とされ、欽明朝に春日氏に改められる。
 滋賀県の湖西に「和邇」がありますね。その西には「伊香」があります。
参考までに 
 近江高島 日置 日置神社 若狭高浜 日置 岐阜市 日置江 夜久野町 八木町 宮津市 篠山市 日置 日置は丹の国周辺にありますね。丹は赤だから?
>和邇氏は飛騨や美濃に関係します。大海人皇子は壬申の乱で、美濃の湯沐邑から応援をもらいます。この地には鉄生山があって、美濃赤坂があります。赤坂は赤鉄鉱山が取れたようです。
 近江側斜面は息長氏の拠点ですね。湯沐邑は岸和田でも確認できますね
 http://www.city.kishiwada.osaka.jp/hp/50/mukasi_banasi/chimei.html


注記)籠神社の神紋に冠する[9098] の佐々木高久の書き込みは、[9102]の玄松子の書き込みのとおりに「公式な紋ではないこと」を付記しておきます。


[9102] Re[9101][9099][9098][9096]: 日置氏から  玄松子 2008/06/20(Fri) 09:23 [Reply]
> > 籠神社の神紋が、桔梗紋に似ているということでしょうか?
> 玄松子さま
>  以前問題なりましたが、この紋です。

籠目紋ですね。以前、そのような紋を刻んだ石碑があったようですが
これを「籠神社の紋」と断ずるには検証が必要かと思います。

秘された紋である可能性もあるでしょうが、単なる「籠」つながりということも。
少なくとも公式な紋ではないことを付記しておく方が良いかもしれません。
どこかの誰かが、先の書き込みを「事実」として引用・コピーするかもしれませんし。

[9101] Re[9099][9098][9096]: 日置氏から  佐々木高久 2008/06/20(Fri) 09:02 [Reply]
> 籠神社の神紋が、桔梗紋に似ているということでしょうか?
玄松子さま
 以前問題なりましたが、この紋です。
 兵法の蔵六の陣に似た。。。頂点をつなぐと亀の甲になるもので。

 http://kammuri.com/s1/motoise2/manai/index.htm

[9100] 日置氏から  とみた 2008/06/20(Fri) 06:48 [Reply]
>また枚岡神社の北には額田(生駒山の斜面なのでぬかるんだ土地でなく、額田王関係?ここに若宮がある)、あと若草など、平城京にある地名が散在する。

瓢箪から駒です。生駒山の西麓に額田の影。

額田部の本拠は、初瀬川と佐保川と布留川が大和川に合流する地点でしょう。

国造本紀に拠れば、額田国造の祖は和邇臣とされ、欽明朝に春日氏に改められる。

春日大社はそこから名がとられたのでしょう。

和邇氏が謎ですね。日本海から丹後あたりに上陸しているかも。鉄と太陽信仰の民らしい。日置氏も連想しますし、丹波の将軍、日子坐王も繫がるかも。

和邇氏は飛騨や美濃に関係します。大海人皇子は壬申の乱で、美濃の湯沐邑から応援をもらいます。この地には鉄生山があって、美濃赤坂があります。赤坂は赤鉄鉱山が取れたようです。日子坐王は美濃の伊波之西神社の隣に墓がありまして、その息子の大根王が美濃国造の祖です。

なんとなく、日子坐王と和邇が関係してしていそうに思えますね。
湯沐邑は、前漢を開いた高祖、劉邦が決戦に立上がった地名でもあります。

何がなんだか、この謎解きにお知恵をどうぞ






[9099] Re[9098][9096]: 日置氏から  玄松子 2008/06/20(Fri) 00:47 [Reply]
> > では、籠神社の性格や如何に?
>  紋が陰陽師の安倍晴明紋と似ていますね。

籠神社の神紋が、桔梗紋に似ているということでしょうか?
http://www.motoise.jp/

[9098] Re[9096]: 日置氏から  佐々木高久 2008/06/19(Thu) 23:46 [Reply]
また途切れました。
> では、籠神社の性格や如何に?
 紋が陰陽師の安倍晴明紋と似ていますね。また田口神社がありますが、これは平安時代に阿波水軍と呼ばれる田口氏と関係がありそうですね。枚方の田口氏とは?ですが。

[9097] Re[9096]: 日置氏から  佐々木高久 2008/06/19(Thu) 23:28 [Reply]
とみたさん
 回答になるかどうかはあれですが、
> 生駒の枚岡神社=元春日=中臣氏の本拠が、何故、出雲井という地にあるのでしょう?
 枚岡神社は元春日社として有名ですが、地図で見ると旧春日神社(こちらが当時の元春日社では?)が出ていて、それは上四条町にあります。
 地形的には、生駒断層沿いで、生駒山の鳴川の開析谷にも位置し、土石流災害が懸念される場所です。まず神社の場所としてよくありません。ちなみに枚岡神社は尾根筋です。ゆえに出雲井の枚岡神社へ遷座し、母屋を奪った可能性はありそうです。
 また枚岡神社の北には額田(生駒山の斜面なのでぬかるんだ土地でなく、額田王関係?ここに若宮がある)、あと若草など、平城京にある地名が散在する。
 あとはバラバラで失礼します。
 浦島太郎に近い伝説は葛葉や京都の久御山にもありました。
 天津香香背男、天津甕星、これはまさか日置天神社や交野天神社とは関係ないと思いますが。このへんは私はわからない。

[9096] 日置氏から  とみた 2008/06/19(Thu) 22:10 [Reply]
佐々木さん 

そうなんです。日置氏には三輪の引田と阿倍の引田がいます。天武に仕えた陰陽寮には阿倍氏がいた。その後裔が平安期の陰陽師の晴明となる。も一つ解決できることがあります。

天武は申すまでもなく、大海人皇子です。これは幼いとき丹後の汎海氏に養育された地名からとったんです。つまり海人族です。

浦島子つまり浦島太郎の地です。沓島と冠島は汎海氏のゆかりです。

道教では、仙人になるとき、沓と冠を捨てます。この名前が島の名についています。

天武は旧神道と陰陽道という道教を習合させました。

伊勢神宮の謎で、吉野裕子さんは、道教=太一信仰に古神道=太陽信仰を習合させたとしか考えられないと、

仰いました。これも解決できそうです。

浦島神社の宮司さんは、浦島伝説は道教だと明確に云われたそうです。丹後は与謝郡に日置里あり。

では、籠神社の性格や如何に?火明命の海部氏の謎がやはり本命なんでしょう。

出雲の語り部、冨氏と出雲井神社。出雲で反抗した星の神、天津香香背男、天津甕星。これは一体何か。

奈良時代の大和朝廷は、すごく嫌った星神。

生駒の枚岡神社=元春日=中臣氏の本拠が、何故、出雲井という地にあるのでしょう?

などの謎がやはり気になるが、迷宮入り?



[9095] Re[9094]: 日置氏は東漢氏の支族なら  佐々木高久 2008/06/19(Thu) 13:44 [Reply]
 よそで暖簾になんとか、豆腐になんとかで、心配致しておりました。
 日置と東漢、非常にいい感じではないでしょうか。かなりいい線を行っていると思います。
 これで枚方の山田郷犬田野に安倍清明が陰陽修業に来たのも理解できます。しかし奈良以降、犬田野は廃村になり、春日村が発展します。
 興福寺付近も興福寺建立以前は安倍山と呼んでいたそうです。それからはご指摘のとおりです。
 数理算術に明るい部族とのことから、算額が奉納されている神社も見るべきものがあろうかと思います。
 下記に弥生時代に由来する琉球諸島の神歌の論文を案内いたしますが。右のpdfクリックで読めますが、琉球から河内まで、勾玉を買いに行く唄ですが、泥海(おそらく河内潟のことでしょう?)、地名は安倍の、ヤヲ・ヤウ(八尾)、ウワ(池上福万寺?)などが読めます。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004087017/

[9094] 日置氏は東漢氏の支族なら  とみた 2008/06/19(Thu) 12:57 [Reply]
白旗は揚げても、諦めていません。別に古代史は仕事ではないから暢気なもんです。でも佐々木さんのお助けは励みになりますね。

日置氏で少し有力な手がかりを得ました。ツキヨミの本、戸矢学さんの著作です。国学院大の出ですから、古代史を相当、研究されているようです。

日本書紀の天武天皇の巻きの巻頭に、天武が天文遁甲に能しとあります。

推古朝の602年年に百済の僧侶の勧勒が、倭国に風水や陰陽師を導入していることは木簡に書かれている事実です。

天武は陰陽寮を作り星占台を設けています。

平安時代の日本書紀の後続の続日本紀に、東漢氏の祖先が中国の霊帝の時代(後漢緒の180年ごろの黄巾の乱の時代)の戦乱を逃れて高句麗を経て朝鮮を経て日本の聖王のことを聞いて渡来したことになっています。東漢氏は霊帝の三世孫と言うのです。

東漢氏は七姓漢人ですから、いろいろな技術者がいたのでしょう。

高氏も含まれますので高句麗との接点も頷けます。

製鉄、数理算術に明るい部族もいたようです。いずれも明日香の高市郡の桧隈神社(ご先祖は阿智使主を祀る)辺りを本拠としたのでしょう。

日置氏は、東漢氏の支族と見做せば、解決です。日を置くとすれば陰陽とか風水で太陽の道に沿って施設を建てたのでしょう、数理に明るい東漢です。。火を置くとしても製鉄の技術を持っている東漢です。

三輪には日置の引田氏がいます。

天武は風水を得意にし、藤原京を設計して奥さんの持統が
造営しました。

一応尤も考えになります。如何でしょうか。

[9093] 両部鳥居  神奈備 2008/06/19(Thu) 11:16 [Reply]
川崎氏による全国神社鳥居調査結果一覧 両部鳥居
両部鳥居は明神系の鳥居のみです。

     総数  調査   明神系  比率% 明神系のうち両部鳥居 %
北海道  807   182    70    38.5    9   12.9±7.8
東北
 青森  892   181   152     82.6    65   42.8± 9.9
 秋田  1150    65   44.5   68.5   25   56.2±22.1
 山形  1755    73   56   76.7   22   39.3±15.5
 岩手  873    69   59   85.5     6   10.2± 7.2
 宮城  950   120   96     80.0   3   3.1± 2.9
 福島  3074    61   43     70.5   7   16.5±11.9
関東
 茨城  2486   107   57.5    57.3    13   22.6±13.0
 栃木  1922  132   65.5   86.5   9   10.4± 6.5
 群馬  1220  137   98.5   71.9   15   15.2± 5.5
 埼玉  2029  166   114   68.7   18    15.8± 6.9
 千葉  3201  297   216   72.7   47   21.8± 5.8
 神奈川 1158   282   190   67.4   6    3.2
 東京  1465   436 273     65.4   9   3.3
東海
 静岡  2852    203  156     76.8    9   5.8
 愛知  3360   226  150   66.4   5   3.3± 2.7
 岐阜  3280   107   74   69.2   7   9.5± 6.7
 三重  847   223   56.5   25.3   7   12.3± 8.5
北陸甲信
 新潟  4789   214  173   80.8   56   32.4± 7.6
 富山  2293   156  130   83.3   4   3.1± 2.6
 石川  1897   124  113     91.1   8   7.8
 福井  1718    136 132.5   97.4   10    7.5
 山梨  1293   117  112     95.7   40   35.7± 8.3
 長野  2477    144  131     91.0   45   34.1± 8.3
近畿
 滋賀  1143   160 151.5   94.7    5    3.3
 奈良  1386  207  196.5   94.9   8   4.1
 京都  1753    256 233.5   91.2   9   3.9± 2.7
 大阪  726  154 144   93.5     4    2.8
 兵庫  3862   325  297.5   91.5   10    3.4
 和歌山 442   94   91    75.5   10    14.1± 7.4
中国
 岡山  1660    71   67     94.4   4    3.1
 広島  2685    79   72   91.1   7   9.7± 6.3
 山口  745   89   84   94.4   1   1.2± 1.9
 鳥取  825   58   57   98.3   5    8.8± 6.1
 島根  1171   107 101   94.4   4    4.0
四国
 香川  806    71 68   95.8    0    0
 愛媛  1253   198 189   95.5   12   6.3± 2.9
 徳島  1317   102   97   95.1   1    1.0
 高知  2180   105 101.5    96.7   4   3.9
九州
 福岡  3419   203 199   98.0   1    0.5
 大分  2136   64   62   96.9   1    1.6± 2.6
 佐賀  1103   49   47   95.9   1    2.1
 長崎  1327  103  101   98.1   0   0
 熊本  1398   54 48   88.9   2    4.2
 宮崎  676   43 33.5   77.9   1   17.9±13.4
 鹿児島 1135   51   41.5    81.4   4   9.6
(全国)80934 6604  5291.5   80.1   542    10.2

調査方法
 東京神奈川は200社現地調査
 HP玄松子神社参拝記憶等
 ± は 信頼度90%の範囲です。記載のないのは未計算。

両部鳥居は神明系鳥居の多い東日本に多く、神明系の少ない西日本では少ない。そのような意味では神明系/明神系の分布と重なるが、甲信・東海・東京・神奈川で大きい違いが見える。

神明系鳥居の多い東日本でも
1.東京・神奈川・東海が少ない。
2.神明系鳥居と違い、長野・山梨は東日本に含まれる。
3.宮城県が少ない。

川崎氏の指摘
 東西日本で大きい格差がある。川崎氏は両部鳥居は木造が多く、木材の産地との関連を見ておられる。また伊賀・佐渡に集中して分布することから住民の好み職人の有無を要素として取り上げられている。

 神奈備としては、豪雪地帯に多いようにも感じています。

[9092] Re[9091][9081]: 白旗  佐々木高久 2008/06/19(Thu) 11:14 [Reply]
切れました。すいません。
姜斗興「吏読と古事記の仮名(字音仮名)との関係」立命館文學(1972/01/00) (通号 319) pp. 24〜64

[9091] Re[9081]: 白旗  佐々木高久 2008/06/19(Thu) 11:13 [Reply]
とみたさん
白旗をあげられましたが、まあ情報です。古いかもしれませんが。

> 桓武は、いろいろ操作したのではないか。ツキヨミを消した。古事記は712年に表わされたことになっているが、平安時代のある時期まで宮中の秘で外部に出さなかった。桓武が隠していたのではなかろうかとされています。

下記文献を取り寄せてみました。白川先生門下だと思いますが。
古事記の仮名使いについて、日本書記、推古期遺文や金石文、いわゆる古事記成立時などの書誌、時期について詳細に検討されています。
 これを見ると712年以前の仮名使いがほとんどらしいですが、それ以降だろうと思われるものもあります。本文では言及されていません。
トミタさんのご指摘の月読が消されたという仮定、つまり古事記の改ざんも考えることができると思います。また先般ご両所が月読神についてお調べになったことから、つく物吹き出物に関わる瘡神社も見え隠れしておりました。
 ある理由のもとに月読からすり変えられたように思います。
 私は桓武さんはほとんど調べたことがないのです。素人考えですが。

[9090] Re[9086]: 地域別の鳥居の様式  神奈備 2008/06/18(Wed) 16:47 [Reply]
川崎氏による全国神社鳥居調査結果一覧 

     総数  調査 神明鳥居 比率%
北海道  807   177   107   60.5
東北
 青森  892   181    32  17.7
 秋田  1150    61   18.5  30.3
 山形  1755    69   17   24.6
 岩手  873    66   10  15.2
 宮城  950   110    22   20.0
 福島  3074    58   18   31.0
関東
 茨城  2486   105   47.5  45.2
 栃木  1922  130    44.5  34.2
 群馬  1220  131   37.5  28.6
 埼玉  2029  118    32.5  27.5
 千葉  3201  109    36.5  33.5
 神奈川 1158   229    75.5  33.0
 東京  1465   338   117   34.6
東海
 静岡  2852    190    44   23.2
 愛知  3360   206    65   31.6
 岐阜  3280    99    32   32.3
 三重  847   208   157   75.6
北陸
新潟  4789   202    40  19.8
 富山  2293   149    26  17.4
 石川  1897   117   11   9.4
福井  1718   120    3.5  2.9
甲信
 山梨  1293    97    5    5.2
 長野  2477   140   13    9.3
近畿
 和歌山 442   76   16  21.1
 滋賀  1143  155    8.5  5,5
 奈良  1386  190    9.5  5.0
 京都  1753   233   19.6  8.4
 大阪  726  137   10   7.3
 兵庫  3862   312   26.5  8.5
中国
 岡山  1660    67    4   6.0
 広島  2685   75    6.5  8.7
 山口  745   87    5   5.7
 鳥取  825   55   1  1.8
 島根  1171   91   6   6.7
四国
 香川  806   68    3   4.4
 愛媛  1253  185    9   4.9
徳島  1317   98    5   5.1
 高知  2180    77    3.5  4.5
九州
 福岡  3419  189    4   2.1
 大分  2136   62    2   3.2
 佐賀  1103   44    2  4.5
 長崎  1327  100    2   2.0
 熊本  1398   44    4   9.1
 宮崎  676   42    9.5  22.6
 鹿児島 1135   44    7.5 17.0
(全国)81249  5841  1175  20.1

調査方法
 東京神奈川は200社現地調査
 HP玄松子神社参拝記憶等
神社によっては神明系と明神系の混在がある。0.5社とカウントした。
九州
 北九州(福岡・大分・佐賀・長崎)
     7985  395    10   2.5  
 南九州(熊本・宮崎・鹿児島)
     3209 130 21 16.2

北陸については、福井・石川が西日本型、富山・新潟は東日本型。文化的にも概ね境界と云えよう。

各地域の中では茨城、和歌山、鳥取、甲信が特異。

[9089] 卑下すべきゴロ合わせ?     焼尻紋次郎 2008/06/18(Wed) 16:25 [Reply]
  とみたさんは、ゴロ合わせという態度に卑しむべきえげつなさを感じていらっしゃるのではないでしょうね。
 街を歩いていたら、オイオイと呼び掛けられたので、ふり返ってみたら若い女性だった。女の子にしてはオイオイとは生意気な……と顔をよくみたら台湾あたりの少数民族の顔してた。
 オイはタガログ語でもいいますし、台湾ブヌン語がオイオイ(もしもし)です。

 オイオイと言われてふり返る直前、頭の中でゴロ合わせをやったとは思われませんか?
 西郷隆盛は殿様をも含めての「それら人びと」をジゴロと言ったので島流しになった。両方ともゴロ合わせをしなかったら、お互い、パーの状態が続くだけでしょう。
 言語生活をやっている人びとは、ゴロ合わせから逃れられないと思います。

[9088] 知りたい言葉の謎  とみた 2008/06/18(Wed) 07:32 [Reply]
紋次郎さん 誤解しないでください。
私は、人の意見は出来るだけ聴きますし、参考にしたいと思って投稿しているんです。

やはり何処かに自分が気づかない落穂やヒントが無かろうかとね。

たとえば、先刻、入手した言葉です。

土師氏が秋篠や菅原に変りますよね。高野新笠とか菅原道真なんてそんな血筋の一族でしょう。

秋篠のアキは子供、シノは新羅?という真面目な説が出ました。朝鮮語でしょう。

チュルク民族の太陽神で、ウマイ・エネと言う言葉があります。多分、ソグド語だと思います。チュルク語かもしれません??。チュルク語族は今はカザフスターン、キルギス、ウズベキスタンの連中です。ウマイエネと言う言葉は私は承知していますが、先入観がなく解ければ本物です。言葉の意味を知ってから後付けで解釈するのは、誰でも勝手に出来ます。

ソグド人は、アラブ人に敗れて流浪していますが、タジキスタンなどの山奥に一部暮らしていることは確かです。もしソグド語が分かれば、いろいろ古代史は研究できると思うのです。

本当はこんな言葉を知らないと謎が解けないで困っているんです。

語呂合わせ出なく、まともな論及を望んでおります。



[9087]  ソ リ マ ス     焼尻紋次郎 2008/06/18(Wed) 05:47 [Reply]
 とみたさん、俺の書き込みは、ちょと早やすぎました。
 気があせっていました。反省々々!

> 歴史を見ないで字面だけでは判断し兼ねます。単なる言葉遊びです。
★ そういうことでしょうね。
  小生が訴えたかったは、その「歴史を見る目」になんらかの参考とならないか、とのもがきでした。わ〜るかった、わるかった。

 下 9086 冒頭に「ソリマシ」が出ています。ソリとは、「反り」かもしれませんが、日本語の「トリ」をバスク語の tsori(鳥)と対比させてみると、果たして tori なる発音は太古の昔はら不動のものだったか、が疑問となってきましょう。
 ソリとか、それに近い発音だったのかもしれない。すると野反湖とかウソリ、うそ笛あたりが顔をだす。

 ソリマシの マシは「反りかた」がいよいよ増すという意味かもしれませんが、古代で通用した「坐す(イマス)」は神様用語ですので、神だった鳥に適用されてもおかしくはない。
 ちゃんと、鳥居といっている。やはり鳥が坐したのでは?

 古代のことばはわからないのが普通ですが、現代のわれわれの用語と、なんらかの接点があるのではないか……、そういう言葉あそびは、大きな発見につながるのではないでしょうか。
 あそびが足りない頭脳からはアイディアは出にくい?? 言い過ぎたか。
 そういう視野です。小生は、ここにはあんましで顔を出さないことにしていますので、少し我慢してお許しください。

[9086] 地域別の鳥居の様式  神奈備 2008/06/17(Tue) 21:35 [Reply]
 [9010] で鳥居のことに触れましたが、「地域別の鳥居の様式」をまとめられた方の貴重なレポートを頂き、若干の中身を紹介する許可を頂いたので、追い追い紹介して行きます。
 調査をされたのは川崎昭三さんと言う方で、お名前からも判るように相当高齢の方です。

 彼の結論を端的に言えば以下の通り。
(1)東日本と西日本とでは鳥居の様式の分布に決定的な相違があること。
(2)そのことを不充分ながら統計的に実証していること。


 1.基礎  鳥居の様式の分類

 ポイント 反増(そりまし)があるかないか。
 反増とは鳥居の最上部の笠木が平坦なのかU字型になっているかで区分されます。

明神系鳥居
 U字型(反増がある) 明神、中山、山王、台輪、両部、三輪鳥居 など
 平坦型で笠木がある  春日、八幡鳥居

神明系鳥居
 平坦型で笠木がない  伊勢、鹿島、靖国、素木、黒木、宗忠鳥居 など

 但し、宗忠鳥居には反増のあるものもあり、こちらは明神系に参入。

 これらの見方は写真掲示板を参照下さい。



2.神明系鳥居の分布 (%は 神明鳥居の神社/総神社(5841社)全国平均 20% )

  東日本G(新潟・富山を含む)    サンプル 2936社  神明系 33.4±1.4%
   うち北海道                  807社      60.5±5.4%
        
  西日本G(石川・福井、山梨・長野を含む)  
                    サンプル 2905社  神明系  6.6±0.8% 

 神明系鳥居は三重県(76%)を筆頭に東日本に多く、西日本には少なく、その差は極めて顕著である。
 北陸では新潟・富山が多く、石川・福井・山梨・長野は西日本型で10%以下。
 近畿では和歌山が20%を越し、宮崎・鹿児島も17%以上。

川崎氏
 三重は伊勢神宮の存在が神明系が多い理由であろう。伊賀でも20%弱。
 和歌山も20%を越しているが、三重からの影響で伊勢信仰圏にある。
 宮崎鹿児島は天孫降臨の神話地であること。
 東日本特に北海道に神明鳥居が多いのは、天照大神を祭る神社の割合が多いことにも関係する。同じことに近いが神明神社、皇大神社、天祖神社の割合はやはり東日本に多い。
 北海道に神明系が多いのは、職人不足と経済的な面があったのであろう。
 それにしても、これだけ顕著な差があることは驚くべきことである。その理由を具体的に明らかにしていくことは、興味深くかつ重要なことと考える。

 
 神奈備としては、上記に加えて、三重、和歌山は特に明治末期の神社合祀の嵐が強く吹いた地域であり、まとめられた神社の祭神に天照大神が居られれば神明系鳥居にしたとか、天照大神を祀る神社が生き残る機会が多かったとか、さらに地域の妥協の産物としての神明系鳥居と言うようなことがあったのではと考えています。本社ベースで言えば、天照大神を祭神に取り入れている神社は富山(47%)三重(43%)、秋田(42%)、北海道(37%)、和歌山(29%)と5番目に来ます。

 長野は諏訪信仰圏であることが影響して、西日本型になっているのかも知れません。
 



3.両部鳥居の分布

 両部鳥居とは明神鳥居系の内の鳥居の柱に支えがついているものを言う。安芸の宮島の厳島神社の海中の鳥居が有名。
 
 川崎氏は明神鳥居の中の両部鳥居の割合の傾向と全体の中の両部鳥居の割合の両方を計算されていますが、地域別に見る場合、どちらの数字でも大差はなさそうです。

 両部鳥居の多い地域
 (1)北日本海(青森・秋田・山形・新潟) 31.3±3.2%
 (2)甲信(山梨・長野)         32.6±4.6%
 (3)関東(除く東京・神奈川)      12.2±1.8%
 (4)西日本 和歌山・宮崎の10%超を除けば、他は数%以下で実に少ない。

 川崎氏
 東西日本で大きい格差がある。川崎氏は両部鳥居は木造が多く、木材の産地との関連を見ておられる。また伊賀・佐渡に集中して分布することから住民の好み職人の有無を要素として取り上げられている。

 神奈備としては、豪雪地帯に多いようにも感じている。






4.祭神と鳥居

 熊野の神
  東日本(和歌山を含む)    サンプル 451社  神明系 33.0±3.1%
  西日本(石川・福井を含む)  サンプル 212社  神明系  2.8±1.6%
 川崎氏:熊野神社は東日本中心に分布し、天照大神を併祀しているので神明系が多いのだろう。
 これにたいして、西日本では明神鳥居が基本になっている。

 八幡の神
  東日本(和歌山を含む)    サンプル 245社  神明系 18% 明神系 82%
  西日本(石川・福井・山梨・長野を含む)  
                 サンプル 256社  神明系  0% 明神系100%
 川崎氏は八幡神社においては、西日本ではほぼ100%明神鳥居であり、一般的に神明鳥居が多い東日本でも八幡神社は明神鳥居の傾向が強い。

 伊勢の神
  東日本    サンプル 116社  神明系 78% 明神系 22%
  西日本    サンプル  32社  神明系 63% 明神系 38%

 川崎氏
 伊勢系神社とは神明神社・皇大神社・天祖神社の合計とされています。西日本も中国・四国・九州へ行くと神社数が少なくなる上に神明系鳥居が少なくなり、明神系鳥居が増え70%を越してくると指摘されています。面白いのは神明鳥居でも、愛知・岐阜では伊勢鳥居がよく使われていますが、東京・神奈川では靖国鳥居が多いこと。これは愛知・岐阜には伊勢神宮領が多かった故。
 靖国鳥居とは島木が丸木で貫(鳥居の二番目の横木)は四角の鳥居。

 神奈備の調べでは、伊勢系神社は特に山陽山陰には少ない。古代の出雲の国譲りや吉備国がねじ伏せられたことが神社の数に影響していないはずがないように思う。

 天満の神
 東日本            サンプル 71社  神明系 25% 明神系 75%
 西日本(石川・福井を含む)  サンプル 84社  神明系  2% 明神系 98%

 川崎氏
 明神系鳥居が基本であるが、八幡神社に比べて地域性(東日本では神明鳥居を好む)を受けやすいようだ。
 
 稲荷の神
 東日本(和歌山を含む)  サンプル 256社  神明系 29% 明神系 71%
 西日本(和歌山を除く)  サンプル  83社  神明系  8% 明神系 92%

 川崎氏
 稲荷神社は簡素な神社が多いのは摂社として祀られている場合が多い故であり、神明系が使われるケースがあるからと思われる。しかし東日本と西日本との差はここでも明瞭である。


5.社格と鳥居

 東日本G(新潟・富山を含む)
 (0)全体 社格とは無関係に調査した神社の神明系鳥居の割合
             サンプル 3440/40401社  神明系 33%

 (1)旧官幣国幣社   サンプル   69/   69   神明系 20.3±0.0%
    上記以外     サンプル 3371/        神明系 33.5±1.3%

 (2)諸国一宮     サンプル   44/   44   神明系 26.1±0.0%
    上記以外     サンプル 3396/        神明系 33.4±1.3%

 (3)護国神社     サンプル   22/   22   神明系 40.9±0.0%
    上記以外     サンプル 3418/        神明系 33.2±1.3%


 西日本G(石川・福井、山梨・長野を含む)
 (0)全体 社格とは無関係に調査した神社の神明系鳥居の割合        
       サンプル 3164/40533社  神明系  7%

 (1)旧官幣国幣社   サンプル  141/  141   神明系  7.8±0% 
    上記以外     サンプル 3020/        神明系  6.7±0.7%

 (2)諸国一宮     サンプル   63/   63   神明系  8.7±0%
    上記以外     サンプル 3101/        神明系  6.7±0.5%

 (3)護国神社     サンプル   28/   30   神明系 10.7±2.5%
    上記以外     サンプル 3136/        神明系  6.7±0.7%

 川崎氏
 社格の差、東西の差は全て有意。官幣大社は近畿に集中しており、官幣国幣小社は近畿には一社もない。
 東日本Gの旧官幣国幣社や諸国一宮の社格の高い神社の鳥居の神明系の%は、全神社の平均値に比べれば低くなっている。社格の低い神社に簡素な神明鳥居が多いと言えるようだ。逆に言えば社格の高い神社は東日本でも明神系となっていると云える。対して西日本は社格の高い神社に神明系鳥居が多い。これは一部の社格の高い神社が差別化を意識して神明系を採用したためではないか。

 護国神社は靖国神社の府県版だから、神明鳥居が多いのだろう。しかしここでも東日本の41%に対し、西日本は11%と大きい格差があり、この時代における地域性が現れている。東日本では靖国鳥居25社、素木鳥居9社、伊勢鳥居1社。西日本は全て靖国鳥居。


 神奈備としては、官幣国幣社や諸国一宮には天照大神や天孫系の祭神を祀る神社は少なく、地域に根ざした神々や地域の豪族の祀った神々が多いからとも思う。

 国内官幣大社58社中で天照大神や天孫系を祭る神社(20社)は以下の通り。八幡神は除く。
  兵庫 広田神社、和歌山 日前宮・竃山神社、鹿児島 霧島神社・鹿児島神宮、宮崎 鵜戸神宮、東京 明治神宮、滋賀 近江神宮・建部大社、山口 赤間神宮、京都 白峰神宮、奈良 吉野神宮 


6.台輪鳥居の分布について

 台輪鳥居とは明神系鳥居であって、柱と笠木との接点に輪がついているものを言う。両部鳥居の支え柱がないものとも言える。従って分析としては(台輪鳥居+両部鳥居)の(台輪鳥居+両部鳥居+明神鳥居)の割合で行われている。

北海道        サンプル数  70社 割合  33%
東北(除く宮城)   サンプル数 208社 割合  61%
宮城         サンプル数  92社 割合   9%
北陸         サンプル数 549社 割合  71%
東北(除く宮城)   サンプル数 208社 割合  61%
甲信岐        サンプル数 326社 割合  66%
関東(除く東京神奈川)サンプル数 604社 割合  32%
東京神奈川      サンプル数 449社 割合  15%
愛三静        サンプル数 341社 割合  19%
近畿         サンプル数1077社 割合   8%
中国         サンプル数 375社 割合  10%
四国(除く高知)   サンプル数 380社 割合   7%
高知         サンプル数  96社 割合  81%
九州(除く福岡)   サンプル数 342社 割合  23%
福岡         サンプル数 189社 割合   2%

 川崎氏
 地域別の分布が際だっている。北日本では50%以上、南日本では40%以下。但し、宮城と高知が例外的存在。川崎氏は神仏習合の名残等も視野に入れられての今後の解明の必要性を言われている。

 神奈備: 実に面白いデータであるが、よく判らない。

 また、建て替えでの鳥居の様式の変更例がリストアップされている。貴重な資料だと思う。

靖国神社  素木鳥居 → 靖国鳥居
香取神宮  鹿島鳥居 → 明神鳥居
橿原神宮  素木鳥居 → 明神鳥居
丹生川上神社  素木鳥居 → 明神鳥居
夜支布山口神社 伊勢鳥居 → 春日鳥居
熊野本宮大社  靖国鳥居 → 明神鳥居
熊野速玉大社  靖国鳥居 → 両部鳥居

 神奈備:興味深い資料であるが、各神社は本来の様式に戻しているのだろうか。そうであればいいのだが。

以上
――――――――――――――――

[9085] Re[9081]: 白旗  佐々木高久 2008/06/17(Tue) 20:41 [Reply]
 古代史は、真実があってないような存在なので、トライアンドエラーの繰り返しです。高明さんは、最低300回くらいやれば、真実が見えてくるのではと。
 壱岐神社の論文を紹介致します。右のpdfをクリックすれば可読です。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006329174/

[9084] Re[9083]: ありゃまぁ〜 とみたさん     とみた 2008/06/17(Tue) 19:46 [Reply]
>  NO 反応……は、なかっぺぇよう。
>  ブルッス おまえもか。
>
>  でも、ことばのクレバスは深淵 なんですナァ。思い知りまいた! ありがとさん!!
>

ブルータスね。焼尻紋次郎さんの解釈で塩特集は、説得力がありましたが、この地名に関する限り後付解釈で、恣(シ)意的にどうにでもこじつけられます。

参考に出来ません。悪しからず。歴史の地名は、谷川健一先生は参考にしています。

歴史を見ないで字面だけでは判断し兼ねます。単なる言葉遊びです。

日常用語は、紋次郎さんの考察は正鵠を得ることもあろうかと思います。




[9083] ありゃまぁ〜 とみたさん     焼尻紋次郎 2008/06/17(Tue) 18:34 [Reply]
 NO 反応……は、なかっぺぇよう。
 ブルッス おまえもか。

 でも、ことばのクレバスは深淵 なんですナァ。思い知りまいた! ありがとさん!!

[9082] 地名・人名の内意     焼尻紋次郎 2008/06/17(Tue) 09:18 [Reply]
  おおぜいの神奈備のミナシャン、青草掲示板 4051 に当面問題になっている地名、氏族名、神社名の意味を 20ほど書き出しましたので、ご高覧あれかし。
 「アホ臭いことを」と思っていらっしゃる向きもありましょうが、小生はいちどもアホ臭いなどと思ったことありましぇん。同じシャバの風をうけ、同じ D.N.A.様を奉戴する身、「ご参考にならぬわけがない」と思いますよ。

 少し追加。
《 加茂 》 シナ ・ 朝鮮語 蓮(の花の) mo(くに) シナ語の蓮は ka(荷)。
《 榎本 》 e (格上の) mo(小地域)の to(人)
《 若宮 》 若水とり。元気の根源なる水
《 百済 》 ku(いいこと) dar(いっぱい)
《 嘗め 》 ベトナム語 nam(年)。年中行事でも大きいのが大嘗め祭。-ai , -e は強調末尾辞
《 壱岐 》 ek , ik(1)、一番最初にとっつく島
《 宇佐 》 むさ(武士)の音転で、 m 音が落ちた語形だと思える。 musa はむさくるしい。
《 茨城 》 bala(皇子)たちの○○する ki(地帯)。
《 月讀み 》 英語の moon のうごきを見て、chuk(吉兆)の日を yom(計算する) i(ひと)
《 寝屋川》 ne(大地を……這い回る) 枝川

[9081] 白旗  とみた 2008/06/17(Tue) 07:17 [Reply]
白旗を掲げて降参。
本当は五幡でも持って走りたいけど、実力不足。

でもいろいろな謎を同時に追っかけていると見えてくるものがあるかも知れません。

ツキヨミに類する神社は、全国で704社あるそうです。
ツキヨミに秘された神と言う本を戸夜学さんが、河出書房新書から出されています。イザナギ、イザナミの生んだ三貴子のうち

スサノオとアマテラスは大きく取り上げられているのにツキヨミが大きく扱われないのは何故だ。

これを追求されています。

天武は、道教を神道と集合し、大嘗祭で三種の神器に勾玉=ツキヨミを導入した。

桓武は、いろいろ操作したのではないか。ツキヨミを消した。古事記は712年に表わされたことになっているが、平安時代のある時期まで宮中の秘で外部に出さなかった。

桓武が隠していたのではなかろうかとされています。

伊勢神宮の内宮、と外宮の片隅にツキヨミ神をとってつけたように置いたのは、桓武ではと考えていますね。

そういえば、春日大社が創建されたのは、768年。桓武の長岡京の前、井上内親王が藤原氏の陰謀で廃された前です。

こういった歴史の背景を、もっと知らないととても語れない。

例の殺牛儀礼で都の西で唐の真似をして、郊祀をしたのも、桓武が2度で、文武が

一度のようです。短絡で想像するのは危うい。もっと揺るぎない事実を積み上げることにします。


[9080] Re[9079]: 白旗  佐々木高久 2008/06/16(Mon) 22:47 [Reply]
高槻市春日町 日向町 筑紫野神社
枚方市春日町 八幡に和気 京田辺に大住 
寝屋川市春日町 対馬江 豊里町 日之出町
守口市春日町 日向町 
泉大津市春日町 若宮町(大津神社)豊中町 和泉市肥子(肥後)伯太(博多)和気町
大阪市大淀区中津 豊崎 大淀(日向地名)東淀川区大隈
壱岐に中津神社 北に若宮島など、春日や中津の周りには九州の地名がある。
泉大津の大津神社には、なんと粟神社がありました。忌部神社と同じ祭神です。あったのか知らないが河内?忌部は中臣にやられたのかもしれません。
若宮は藤原不比等が建立した興福寺から出たのであれば、春日大社との関係はどうあんでしょう。これが最初からの疑問点でありましたが、おもしろい結果が出た思います。中臣は九州勢力を背景として中央に進出したような。これが阿蘇ピンク石の流通と関わっていると面白い。

[9079] 白旗  とみた 2008/06/16(Mon) 21:42 [Reply]
佐々木さん 中臣探求は、実力不足でとても未だ太刀打ちできません。撤収します。分相応なところから再出発です。ご迷惑をかけました。

私の壱岐説の根拠は、

中臣は人と神を繋ぐシャーマンの意味です。

天児屋根命の末裔が、壱岐の県主。

壱岐の原の辻は、弥生時代の環濠集落で朝鮮と九州を繋ぐ交易拠点であった。

原の辻からはたくさんの卜骨が出ている。

占部氏は壱岐。対馬。伊豆を拠点にする。その延長で黒潮に乗れば鹿島にも辿り着

ける。

古代祭りの鎮魂方法で、春日大社の若宮オンマツリは特有で、物部の石上鎮魂とは異なり、海人の磯良のミタフリマツリ
は亡者の魂をも取り扱うと多摩美大の井戸理恵子講師が説明された。

壱岐島の国造は磐井の乱で、継体側に味方するが、海人族であった。その先祖の真根子は、武内宿禰に嫌疑が持たれたときに救う。
それで海の民の祭りを持っていると考えた。

壱岐の芦辺町の八幡神社が、延喜式の月読神社らしい。天月神命を祭っている。これは秦氏とつながりがあり、壱岐の押尾宿禰が壱岐県主の先祖で、山城の葛野郡の月読神社の神官を務める。

以上の雑駁なネタで探ろうとしたんですが。今の春日大社の摂社の若宮オンマツリの祭は雅楽が主のようで、痕跡をとどめません。藤原氏・中臣氏に乗っ取られすり替えららたかもしれません。

ということでギブアップです。

ご迷惑をかけました。









[9078] 名前そのものに・・・  紋爺ぃ 2008/06/16(Mon) 18:12 [Reply]
 系譜とか関連をたどる前に、名前そのものから匂い立つ内意がこめられていと、小生は直感します。
 i bala aki だの kas ka(の) bhed(部門)だの、半分は割れますヨ。それ知った上で前進なされ。

 末梢を祓って、いちどギャ〜〜ッと、前進して見ましょうか!!

 「青草掲示板」にうごきあり。見損なう事なかれ。

[9077] Re[9075]: 春日大社  佐々木高久 2008/06/16(Mon) 17:01 [Reply]
中津 豊前(ブゼン、トヨサキ)東に宇佐八幡 
中津 茨木市中津町 春日町 春日神社多く立地 北に宮元町、東宮町 東に石清水
なし 高槻市春日町 春日神社多く立地 日向町(日向地名)
   豊中市春日町 豊中は豊前中津の略?
 枚方市春日町 北に石清水 大原野神社
神戸市春日野道 東に春日大社
中津 大阪市大淀区中津 豊崎 大淀(日向地名)東に春日大社
中津(神社) 壱岐 北に若宮島
★壱岐説中津説は出身地とすると、茨木はともにクリア。
 弓削道鏡を倒す切り札が宇佐八幡の御神託。
 宇佐八幡は中臣の出身地の近く。
 菅原道真の神格化。平将門の神格化。
★元興寺は、元興福寺?蘇我馬子
 興福寺は、藤原不比等。
 春日大社よりも、まず元興寺のお株を奪うことが先かもしれない。

[9076] Re[9075]: 春日大社  佐々木高久 2008/06/16(Mon) 13:33 [Reply]
 豊後国風土記に中臣氏が出てきますね。ウサツオミ(宇佐津臣命)の後裔に中臣烏賊津使主でしたか。宇佐津=中津、宇佐:石清水、***:若宮という対比も可能かもしれないですね。中臣、中津、臣は役職、津は港名称ですので、ともに真名は「中」。
 枚岡神社の南に、梶無神社の東に旧春日神社がありますから、枚岡神社ものっとられた感じでしょうか。
 若宮とは何でしょうか。若王子のことでしょうか。


[9075] 春日大社  とみた 2008/06/16(Mon) 11:56 [Reply]
佐々木さん どうもお付き合いありがたく・・・

やはり、春日大社の正体を知りたいのはは、中臣氏とか藤原氏の正体が気になっているからです。

周辺の豪族を、打ち負かせて、本来は皇族になれない身分から光明子を割り込ませて、古事記や日本書紀を使って正当性を訴え、平安期の道長の絶頂期き達し、

今のNHKの大河ドラマの篤姫の島津家につながり、太平洋戦争開始に関わった近衛首相までですね。

連綿と日本に影響を与えた氏族とは・・・

中臣・藤原の出所にはいくつも説があるので、たくさんの人がアプローチしていますが、いずれも富士山の溶岩台地の青木が原に入って、抜け出せません。

私の知る限り出自は・・・

鹿島出身説。

摂津三島説。

飛鳥の小原説。

韓国の洛東江の昌寧伽耶の比自火説

西域のサカスターン出身説・・・栗本慎一郎さんのシリウスの都飛鳥。

壱岐説・・・これは私の勝手な説です。

中央アジアのサカスターン(サカ人の国)はすでに行きましたよ。騎馬民族の太陽信仰の地でした。

洛東江は通過しました。

河内は今春行って、枚岡神社の宮司さんにもお会いしました。佐々木さんのお知恵を借りているところです。

秋には壱岐対馬に行きます。

ということで・・・

春日大社の謎を知りたいのです。若宮が気になりだしました。鹿島や香取は遠くないのでいつでも探訪できます。

よろしくお願いします。




[9074] Re[9073]: 春日大社の若宮オンマツリについて教えてください  佐々木高久 2008/06/15(Sun) 19:52 [Reply]
 とみたさん
 慧眼の至りと拝察致します。
 これは榎本神社に伝わる、武甕槌命による「つんぼ春日に土地三尺借りる」の話でしょうか。2つ伝説があるそうですが。若宮さんは興福寺の神様だそうですね。
 また春日大社付近の奈良以前からの地主は中臣氏でなく、榎本神社の祭神の巨勢姫明神、巨勢氏の流れです。当時巨勢氏の勢力は弱かったのでしょう。
 とみたさんの御説は。春日神社ではありませんが、石清水八幡宮でも言えることで、確かに若宮社があります。
 淀川流域では春日神社は、高槻に極めて多く立地します。鎌足の別業があったと関係とされています。読みは「かすが」でも祭神は速素盞烏命とする冠須賀神社というのがあります。名前は春日にしても祭神まではいじらなかったのでしょうか。
 当時の力関係でしょうか。春日大社と榎本神社の関係とは違います。
 ちなみに高槻には笠森神社もあります。千葉の笠森観音と関連があるのでしょうね。
 余談ですが、寝屋川市には秦河勝の墓がありますが、付近に八幡神社があります。 その境内の奥に白蛇2匹が祭られている柴上神社があります。この柴は司馬なのでしょうか。これ一体なんでしょうか。青草でした。

[9073] 春日大社の若宮オンマツリについて教えてください  とみた 2008/06/15(Sun) 15:56 [Reply]
神社の分析は難しい。真の祭神と後から、くっつけた祭神がいる。摂社などは意外と本当の神様だと思うことが多い。
古墳の研究でも、真の陵墓と見られるのは、天智陵と天武・持統陵は確かとして、多くは昔からあった古墳に仮託して陵墓と見做しているそうで、中には全く当てにならないのもあるそうです(橿原考研の研究員)。同様に神社も実態は似ているのではなかろうか。

たとえば、春日大社について、香取神社から経津主を、鹿島神社から武甕槌を、枚岡神社から天児屋禰を分祀している。枚岡神社が元春日社で春日大社への分祀は768年でしょう。(何故、枚岡神社のある地名に出雲井と出雲の名があるのでしょうか)

摂社は、若宮神社です。

もちろん地場の榎本神社も含めている。

この大社の大本は、若宮ではなかろうかとするのが私の意見ですが如何でしょうか。どうも自信がない。

若宮オンマツリが、祀りの本質で、藤原氏が後からいろいろな祀りをくっつけたのでは?枚岡神社も摂社に若宮神社があります。

この祀りは、磯良のミタマフリで海部一族の亡者の魂をも取り扱うらしい。

物部系の鎮魂を朝廷でやっていたものを、占部系が奪い取って春日大社の中臣藤原系の祭祀に切り替えたのではなかろうか。


[9072] Re: 豊中歴史同好会  どんたく 2008/06/13(Fri) 23:53 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。

>豊中歴史同好会 6月14日(土)14〜16時
>豊中市立蛍池公民館(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西。ルシオーレビル5F)

>御所市教育委員会 藤田和尊 5世紀のヤマト政権と葛城 市教育センター


お知らせ、有難うございます。

ただし、場所は下記のとおりです。
豊中市教育センター(ルシオーレビル6F。 エレベータで上がる )
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2008.html 参照)


[9072] Re: 豊中歴史同好会  どんたく 2008/06/13(Fri) 23:53 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。

>豊中歴史同好会 6月14日(土)14〜16時
>豊中市立蛍池公民館(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西。ルシオーレビル5F)

>御所市教育委員会 藤田和尊 5世紀のヤマト政権と葛城 市教育センター


お知らせ、有難うございます。

ただし、場所は下記のとおりです。
豊中市教育センター(ルシオーレビル6F。 エレベータで上がる )
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2008.html 参照)


[9071] Re[9070]: 東方に遊ぶ  佐々木高久 2008/06/13(Fri) 23:12 [Reply]
 天台宗浅草寺は、何度か訪問したことがありますが。境内付近では縄文時代晩期の土器片や古墳が見られる。発掘で浅草寺は奈良時代の成立とされている。
 浅草寺のお守りの文様が、鎌倉北条家、後北条家と同じでした。
 また境内には淡島堂があって、江戸時代に加太の淡島明神を勧請したのですね。
 江戸時代の1635〜42年の浅草寺古図を見ると、淡島弁財天の北に伊勢大神宮、仁王門の横に熊野社、1670年新板江戸外絵図では淡島弁財天の北に天島大神、熊野社がその西に描かれている。現在、熊野社どこに行ったのだろうか。

 追記 大隈神社の国土地理院の最新の測量点成果では4mでした。

[9070] 東方に遊ぶ  神奈備 2008/06/13(Fri) 19:40 [Reply]
> 古墳が方向として宮の南に造られるのが多いようです。これは千田稔氏が『日本の古代9都城の生態』に書かれているように、神仙境の思想があるようです。例えば藤原京の南側に天武・持統(檜隈大内陵)、文武(檜隈安古岡上陵)、高松塚古墳が造られていますが、これは生前に善徳を積んだ者は紫微宮の南方の朱宮で訓練を受け、神仙となり、東方に遊ぶそうです。


 宣化天皇は後世に檜隈天皇と呼ばれたように檜隈廬入野宮に都しました。宮た跡は於美阿志神社になっています。
 この檜隈(檜前)を姓氏とする氏族が東国に分布していたようです。『古代の日本と渡来文化』荒竹清光著によりますと、武蔵国造の一族であったようです。

 この檜前氏について、折口信夫博士は、「浅草寺は熊野修験者が紀州の日前宮を東国にもたらしたもので、檜前浜成と竹成が海から拾い上げた観音を祀った。とされています。紀伊一宮の日前宮の名が出るのはヒノクマの名以上の縁起や由緒があったのかどうか承知していませんが、興味のある指摘です。

 さて、武蔵に七党と言う後の板東武者になってくる10以上の集団がありました。この中に丹党と言う一族の分布地域と先ほどの檜前一族の分布地域とが重なっていると、荒竹清光氏は指摘されています。
 この丹党は丹治氏の一団で、祖先は高野山付近の豪族となっていた丹治家信で、彼は宣化天皇の十代の孫となっています。丹治家信は空海を高野山に案内、後にその効で空海に狩場明神として祀られています。

 一方、高野山付近の豪族の祖とされる蔵吉人は阿智使主に帯同して渡来してきたとされています。阿智使主は東漢氏の祖とされ、飛鳥の檜前に居住していました。
 檜前・丹生をポイントとする大きい輪の姿が見えてくるようです。

[9069] 豊中歴史同好会  神奈備 2008/06/12(Thu) 21:32 [Reply]
豊中歴史同好会 6月14日(土)14〜16時
豊中市立蛍池公民館(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西。ルシオーレビル5F)

御所市教育委員会 藤田和尊 5世紀のヤマト政権と葛城 市教育センター

[9068] Re[9067][9059][9058][9052][9051]: 難波宮の木簡  佐々木高久 2008/06/11(Wed) 09:04 [Reply]
 言語生活所蔵図書館488館、立命館文学281館。大学図書館は、基本事前連絡要ですが、一般入場で当日可です。
 たぶん貴操作上不適合があるのでしょう。雑誌名をコピーして、タイトル貼り付け、検索ですが。
 ci.niiの方でも、所蔵館の検索が出来るようになっていますが。都道府県の図書館からは司書に相談するようなシステムだったと思うが。

[9067] Re[9059][9058][9052][9051]: 難波宮の木簡  素人 2008/06/11(Wed) 01:07 [Reply]
佐々木高久様
ご指導有難うございます。
>  素人さん
>  こちらで雑誌保管場所を見つけるしかないでしょう。都道府県立図書館にもあるところはあるでしょう。まず「言語生活」分がタイトル的には網羅されているようですが。雑誌発行者がpdfで配布の可能性もあります。
>  http://webcat.nii.ac.jp/
しつこくて済みません。
調べてみたのですがヒットしません。
立命館文学が文献リストからすると大半が立命館大学人文学会出版の雑誌のようですが、あまりメジャーでないのでしょうか図書館にもないようです。新しいものは立命館関連Webから閲覧できますが、古いものはできません。
国会図書館には有るようですが、とても手間がかかるので内容が伴わないと勘弁してほしい気持ちです。ご覧になったことはあると思うのですが内容の程はいかがでしょうか。厚かましい質問失礼しました。
青草の内容ご勘弁ください。
蛇足ですが、4世紀後半の洛東江の東岸への派兵、入植後に本国との連絡などのために万葉仮名などが用いられたのかもしれません。外国との関与の中で生まれたのかもしれません。

[9066] 東方に遊ぶ  佐々木高久 2008/06/11(Wed) 00:01 [Reply]
 額田王の「茜さす紫野ゆき点野ゆき野守は見ずや君が袖振る」は、地元寝屋川の点野とされている。志貴皇子の「石はしる垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも」は、吹田の垂水とすれば難波宮期に詠んだものと言える可能性があるのですね。 
 額田王の歌は滋賀県の蒲生野の方が有力だったように思うが、確かに大阪京橋あたりを野田橋や蒲生野と言っていたので、どちらとも言い難い。
 しかし都の東で遊ぶのは、理解できる。
 桜井あたりに宮があったころは、東とすればどこで遊んでいたのだろう。室生、初瀬だろうか。
 あと天皇が崩御されたとき、京都の奥の方のなんとか人が関わると聞いたのだが、彼らも東方で遊ばれたままと答弁していました。

[9065] Re[9064][9063]: 宮の法則 宮は北へ遷る。  佐々木高久 2008/06/10(Tue) 20:54 [Reply]
>旭区高殿の現在の標高は1m程度、大隅神社で3m、一方、座摩神社の御旅所は15m、難波の宮跡は26m、九州からやって来た大王が難波に拠点を構える際、みすみす見晴らしと防衛の絶好の地である上町台地北部をはずすのは考えられません。
 かなり地盤沈下が相対的進んだようです。孫子の兵法で考えるとそれが当然かもしれません。しかし伝承と地名の一致があるので当面大隈の線ですすめてみます。
 欽明の難波祝津宮も批判の対象になりうるということになりますね。
 いずれ千田さんや水野さんにも尋ねてみましょう。
 吹田の高浜神社も古社だと勘違いしてました。吹田砂堆には広く条里制遺構はあるので。



[9064] Re[9063]: 宮の法則 宮は北へ遷る。  神奈備 2008/06/10(Tue) 20:19 [Reply]
 旭区高殿の現在の標高は1m程度、大隅神社で3m、一方、座摩神社の御旅所は15m、難波の宮跡は26m、九州からやって来た大王が難波に拠点を構える際、みすみす見晴らしと防衛の絶好の地である上町台地北部をはずすのは考えられません。

 また式内社の鎮座ですが、鶴見区に阿遅速雄神社が鎮座している以外、旭区、東淀川区近辺には見あたりません。やはり立地としてはもう一つだったようです。

 古墳が方向として宮の南に造られるのが多いようです。これは千田稔氏が『日本の古代9都城の生態』に書かれているように、神仙境の思想があるようです。例えば藤原京の南側に天武・持統(檜隈大内陵)、文武(檜隈安古岡上陵)、高松塚古墳が造られていますが、これは生前に善徳を積んだ者は紫微宮の南方の朱宮で訓練を受け、神仙となり、東方に遊ぶそうです。

 欽明天皇は檜隈坂合陵(見瀬丸山)に葬られたとされています。この五代後の天皇は平城京に遷都した元明天皇です。まさに宮から見て南方に当たる見瀬丸山古墳が朱宮になるように遷都したのではと千田さんは述べています。

 宮の南方に古墳を造る。後に遷都する場合、南に行く訳にはいかないので、自ずから北に向かうことになります。

 飛鳥 → 藤原 → 平城 → 長岡 → 平安
 難波 → 長岡 → 平安
 
 長岡京の位置は真南とされる枚方の交野山の場所からはやや東へずていますが、機物神社、七夕と神仙境を示すものがあります。
 同じく、平安京の真南より甘南備山はそこそこ西にずれていますが、麓には竹取物語の舞台が近く、やはり神仙境を思わせます。

 東京には正式には遷都していないのですが、神仙となった天皇達は東方に遊ぶとのことで、明治天皇以降四代はその加護を得ようと東に遊んでいるのかも知れません。

[9063] Re[9062][9056][9055]: 宮の法則  佐々木高久 2008/06/10(Tue) 14:14 [Reply]
 その高殿は、旭区高殿ではないかと思うのです。大隈と高殿は、千林(瀬早し)から大宮(絶間)、中宮、生江、赤川などの河内湖と大阪湾の水路である浅瀬を境にして対岸同士。
 高殿西の森小路には弥生中期以降の港湾集落遺跡もあった。
 昭和37年の大隈の標高は概ね6m程度、流路付近は2.5m、高殿は3.5m。 当時弥生中後期の海面は−2m程度とすると、高殿の比高は5.5mなので十分高いように考えることができないでしょうか。

[9062] Re[9056][9055]: 宮の法則  神奈備 2008/06/10(Tue) 13:39 [Reply]
 応神天皇の大隅宮については『大阪市史』では、かっての大隅島付近と想定しています。現に大隅神社の南の西大道に大祖皇神祠も置かれていたようです。

 応神天皇と妃の兄媛が高殿に登って夕日を見ていた時に、兄媛が両親のいる吉備を偲んで嘆いたので、難波大津から船で吉備に送らせたとあり、その船を高殿から見送ったとあります。低い大隅近辺から例え高殿の上からであっても船を見ることが出来たかどうかです。やはり上町台地の北端部が展望もきき、大阪湾に浮かぶ船がよく見えたでしょうし、防衛の意味でもよかったと思います。

 なお、水野正好氏は天王寺付近としたのは髪長媛を桑津に置いただけではなく、夕日がきれいに見える場所として考えたのかも。桑津に行くのは馬に乗れば上町台地北部からでもたいした時間がかからないでしょうから。 


歴代天皇の宮と跡に出来た寺社
天皇  時期  宮       住所     神社
履中 5央 稚桜宮     桜井市池之内 稚櫻神社
反正 5央 丹籬宮     松原市上田  丹比柴籬神社
允恭 5央 飛鳥
安康 5央 石上穴穂宮 天理市市田町 穴穂神社?
雄略 5後半 泊瀬朝倉宮 桜井市岩坂・黒坂 十二神社?
雄略 磯城宮     河内 志紀
清寧 5後半 磐余甕栗宮 橿原市東池尻町 御厨子神社
顕宗 5後半 八釣宮     明日香村八釣  弘計皇子神社
仁賢 5後半 石上広高宮 天理市石上・嘉幡
武烈 6初頭 泊瀬列城宮 桜井市出雲 十二柱神社境内武烈天皇社
継体 507 葛葉宮     枚方市楠葉丘  交野天神社 神社を宮跡としたのかもしれない。
〃 511 綴喜宮     京田辺市多々羅都谷 新宮社
〃 518 弟国宮     長岡京市今里  乙訓寺
〃 526 磐余玉穂宮 桜井市池之内  「おやしき」と言う小高い丘
安閑 匂金橋宮 橿原市曲川町  金橋神社「安閑天皇」
宣化 536 檜隈廬入野 明日香村檜前 於美阿志神社(石碑)
欽明 539 磯城島金刺宮 桜井市金屋・外山 崇神天皇(志貴御縣坐神社)
〃 ○難波祝津宮 尼崎市東難波町 難波八幡神社(石碑)
敏達 572 訳語田幸玉宮 桜井市戒重  春日神社(他田坐天照御魂神社の論社)
用明 585 磐余池辺雙槻宮 桜井市谷   石寸山口神社(旧名双槻神社)
崇峻 587 倉梯柴垣宮 桜井市倉橋  金福寺
推古 592 豊浦宮     明日香村豊浦 甘樫坐神社「推古天皇」
舒明 636 飛鳥田中宮 橿原市畝傍町 法満寺
皇極 642 小墾田宮 明日香村雷  飛鳥坐神社跡?
642 飛鳥板蓋宮 明日香村岡  板蓋神社(川原)?
孝徳 651 難波長柄豊碕宮 中央区法円坂 場所は違うが豊崎神社
斉明 655 飛鳥川原宮 明日香村川原 弘福寺(川原寺)
天智 667 近江大津宮 大津市錦織  明治時代の創建の近江神宮
天武 672 飛鳥御原宮 明日香村岡  板蓋宮跡
持統 694 新益京(藤原京)橿原市    鴨公神社
文武 藤原京
元明 710 平城京に遷都 奈良市   宇奈多理坐高御魂神社?
聖武 741 恭仁京遷都 木津川市加茂町 山城国分寺・御霊神社
〃 742 紫香楽宮(甲賀宮)甲賀市信楽町牧 甲賀寺跡・新宮神社跡
孝謙 756 河内離宮に行幸  柏原市  智識寺・石神社の隣
淳仁 761 保良宮に行幸 石山市  洞神社
称徳 769 由義宮を造営 八尾市八尾木北  由義神社

[9061] Re[9060]: 日置を追って  佐々木高久 2008/06/10(Tue) 13:20 [Reply]
 日置地名はこんなにあるのですね。ぼうっと見ていると塩や鯖街道沿いに分布。
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C6%FC%C3%D6&sk=0
 日置と土器製造で、感じたこと、縄文の炎の飾りの土器。これは日置氏の作品かもしれない。炎と塩は同音。引田が出てきました。香川県引田郡には忌部があったと思うのだが。日置と忌部=日忌み子?

[9060] 日置を追って  とみた 2008/06/10(Tue) 12:24 [Reply]
日置探訪にご協力、ありがたく・・・

今までの追加情報では、枚方にも日置郷があるよ。これは日時計の測量に関わる。

堺の日置荘は承知のところです。

伊勢湾の神島から上った太陽が三重県の名張川に沿う太郎生集落(日神の塚)と次郎生集落(日置姓が多い)を通り元伊勢の笠縫と二上山を越えて、日置荘につく。

興福寺の荘園になたのでしょう。

ここは火とは関係がないとか。

紀伊にも白浜の東に日置川が海辺に流れていますね。熊野川にも近くきになります。

例のゴトビキ岩は弥生時代の祭祀跡。銅鐸が下に埋もれています。

熊野速玉神社ー神倉神社のつながりです。

日本海は因幡の青谷上寺地の因幡の近くに日置川があるのは知っていましたが、その西の日本海沿岸の山口県長門にも日置川があるのは、佐々木さんの報告です。

日置は宮廷の日読み、火に関係する鍛治以外に、司雨的性格を持ち日神祭祀に関わると出ています。司雨、祈雨の民、交通上の要衝に位置する重要な氏族とは面白い

性格です。

神奈備さんは、葛城の日置郡の高尾張邑。高は高句麗に多い名前ですね。新撰姓氏録の伊利須使主の後裔は承知のところです。

でも伊利は何ですかね。

西域の天山山脈の北にイリ川があります。これは北方系の騎馬民族の活躍した草原です。まさか、これは青草だから差し控えましょう。

でも気になるのは、木津川の祝薗あたり、狛の地名が残り、椿井大塚古墳は昔の地名は高麗村つまり高句麗人が住んでいた所。この地に住む人は、古代は狛という名で山背相良郡にいました。高句麗には5部がおりました。その一は後部で北部とか絶奴部(チョルロ)でした。その出身者です。これは758年に長背連に改名されます。

同じく、高麗使主馬養も名前を変えて、多可連になります。故地は綴喜郡多賀です。

高神社近くにあるそうです。

日置氏は元は三輪山の辺りの辟田が出発点で、引田になります。三輪引田と阿倍引田です。

七夕に脱線しましょう。七夕には牽牛星と彦星が天の川で逢瀬です。この絵が400年ごろの高句麗の徳興里古墳の天井に描かれています。

天の川の地名も枚方だけでなくいろいろなところにあるようです。

七夕の日まで追っかけて見ます。



[9059] Re[9058][9052][9051]: 難波宮の木簡  佐々木高久 2008/06/10(Tue) 09:10 [Reply]
 素人さん
 こちらで雑誌保管場所を見つけるしかないでしょう。都道府県立図書館にもあるところはあるでしょう。まず「言語生活」分がタイトル的には網羅されているようですが。雑誌発行者がpdfで配布の可能性もあります。
 http://webcat.nii.ac.jp/

[9058] Re[9052][9051]: 難波宮の木簡  素人 2008/06/10(Tue) 00:34 [Reply]
佐々木高久
有難うございました。
>  素人さん
>  姜斗興氏が、その関係の第一人者のようです。疑問点の一部が下記の論文リストのいずれかに出ていると思います。1980年以前のものが該当すると思います。
> http://ci.nii.ac.jp/search/servlet/Kensaku?dnum=25&sortType=year1&Text=%D5%AA%C5%CD%B6%BD&condition0=1&area0=auth&keyword0=&conditionRange0=1&areaRange0=year&KeyRangeS0=&KeyRangeE0=&select=&pnum=1&mode=0&sortType_bottom=&AREACNT=1&JNUM=1&RANGE_AREACNT=1&SORTFLG=DESC&SORTKEY=year1&SORTMARK=0
>
ネットで調べても姜斗興先生のプロフィールすらわかりません。
論文のイントロダクションすら解りませんとどれを探したらいいか解りません。
虫のいい話ですが、ご存知でしたらご指導ください。
御本もお出しのようですが、中々手に入らないようです。
蛇足、万葉集は呉音で書かれていて呉音は5世紀から6世紀のものだと言うことは解ってきました。木簡と万葉仮名は関係ありそうだと言うこともわかってきました。
メモ見たいに使えたのでしょう。間違えたら削れば修正できるようです。
西暦700年ごろまでは木簡の文章を読み上げていたと有、文書の扱いに慣れていなかったのでしょうか。

[9057] 守口の忌部?  佐々木高久 2008/06/09(Mon) 20:52 [Reply]
 守口の八雲遺跡(八雲から淀江)で弥生の玉造工房が見つかっています。
同じく梶遺跡の低湿地古墳で国内2例目の牛形埴輪、首輪をした犬の装飾を施した須恵器壺。なんとなく松江の忌部と地名から見ると近いような感じです。犬と忌むはやはり関係あるのかな。八雲の上流には大隈があります。

[9056] Re[9055]: 宮の法則  佐々木高久 2008/06/09(Mon) 17:16 [Reply]
>応神天皇の大隅宮  
東淀川区の大隈付近の小松の松山神社あたりとばかり考えていました。江口も近くにあり、瑞光という地名も興味を惹かれる。吹田砂堆は縄文草創期に陸化しているので立地場所としては可。弥生の海退期なので、安定した土地。

>仁徳紀三十年に、毎夜菟餓野で鹿の鳴く声を、大王と妃が聞いています。菟餓野は梅田の東に地名が残っているように堀江の北側の野原を指した地名で、鹿の声を聞くには法円坂は遠いこと
 兎我野は鳥葬地区なので、単に人気のない寂しい様子を比喩しているように思いますが。兎も鳥も一羽二羽と数えるので、兎と鳥は同じように見たほうがいいように思われる。実際鹿の声が数百m離れていると、聞き取るのは困難に思う。
 宮のまわりに人がいないとは一体どうゆうことなのか。何か事件が。

 よく理解できないこと「高津」という地名、津が付くが港湾を示唆する物証に薄い。基本的に上町台地の上。枚方の「郡津」は津でなく「郡門」と郡役場の門と解釈すべきとあった考えを流用すると「高津」も「高(皇)門」なのだろうか。
「津」を主張すれば、吹田の「高浜」も候補の可能性があるのではないか。
 

[9055] 宮の法則  神奈備 2008/06/09(Mon) 13:56 [Reply]
 河内の宮の場所についての水野正好氏の説。
応神天皇の大隅宮  天王寺駅付近 桑津に髪長姫を置いた。その近くだろう。
仁徳天皇の高津宮  東高津神社の鎮座場所

 一方、難波の宮跡の発掘に尽くされた山根徳太郎氏
応神天皇の大隅宮  天神橋南詰の元坐摩神社の鎮座地付近
          住吉大社の元の鎮座地でもあり、スミノエとスミを共有している。
仁徳天皇の高津宮  法円坂の難波宮と同じ場所 宮跡として記憶が残っていたであろうから、難波宮が置かれた。

 不詳神奈備の愚案
応神天皇の大隅宮  天神橋南詰の元坐摩神社の鎮座地付近
 山根氏の案と同じ場所です。往古の大王の宮跡は殆どお宮さん(神社)になっているから、それらしい場所の神社を捜せば宮が判る。

仁徳天皇の高津宮  生魂神社旧地 大坂城の大手門が生玉門と呼ばれていた。仁徳紀三十年に、毎夜菟餓野で鹿の鳴く声を、大王と妃が聞いています。菟餓野は梅田の東に地名が残っているように堀江の北側の野原を指した地名で、鹿の声を聞くには法円坂は遠いこと、かつ大王の宮の跡が神社になりやすい事からの推測です。

 なお、王の宮の跡が神社になりやすい事の具体例を後日に示します。
 
 ついでに都(宮)の場所移動の法則ですが、北へ北へとなっていることも示します。

[9054] 葛城郡日置郷  神奈備 2008/06/09(Mon) 13:55 [Reply]
 日置で思い出すのは、『古代倭王朝論』(畑井弘著)にある、葛城の高尾張邑が葛城郡日置郷であり、ここにも日置氏が居住していたようです。

 葛城のは土神剣根命がいたのですが、この土神をヒキカミと読んでいます。土方はヒジカタですから土はヒキと読むのも不自然ではないようです。

 もうひとつ葛城の高尾張邑には侏儒がいることが『神武紀』にあります。侏儒はヒキヒトと読まれるようで、かれらをまとめて土蜘蛛なる蔑称を与えていますが、朝鮮語では蜘蛛はkemi eは左右をひっくり返す字 で、やはりヒキカミと読めるとしています。このカミは魁帥のヒトコノカミのカミでしょう。

『新撰姓氏録』の「大和国諸蕃」に、日置造 出自高麗国人伊利須使主(後)也とあり、渡来系であったようです。

[9053]   訂  正        紋爺ぃ 2008/06/09(Mon) 06:18 [Reply]
 下のほう、9043 で gau(村) を ベトナム語としていますが、これ、ネパール語ですので、訂正です。
 tol(区、町)も gau(村)もネパール語ですので、驚いてほしいんです。

[9052] Re[9051]: 難波宮の木簡  佐々木高久 2008/06/08(Sun) 23:11 [Reply]
 素人さん
 姜斗興氏が、その関係の第一人者のようです。疑問点の一部が下記の論文リストのいずれかに出ていると思います。1980年以前のものが該当すると思います。
http://ci.nii.ac.jp/search/servlet/Kensaku?dnum=25&sortType=year1&Text=%D5%AA%C5%CD%B6%BD&condition0=1&area0=auth&keyword0=&conditionRange0=1&areaRange0=year&KeyRangeS0=&KeyRangeE0=&select=&pnum=1&mode=0&sortType_bottom=&AREACNT=1&JNUM=1&RANGE_AREACNT=1&SORTFLG=DESC&SORTKEY=year1&SORTMARK=0

とみたさん
日置氏については日置町史に少し出ていました。
参考までにhttp://www.sujet.co.jp/matiyoso/kousou-honbun.pdf
 堺の日置荘と枚方と共通点を比較すると、小字地名もかなり一致する。ため池の名前も同じものがある。土器生産地がある。交通上重要地点にある。
 土器生産地は陶邑であるが、衰退期に枚方へシフトしているので、枚方の方が新しいと思います。日神祭祀はもちろん司雨的、祈雨的役割とあるので、これならば神社で確認できるのではないでしょうか。また枚方のだんじりは火の中へ突入していくそうなので、これは日置氏そのものの可能性が高いですね。
 なお燃料製造とあるので、山林を切り開き薪炭を製造した人たち、自然破壊民族のはしりのようですね。このあたりは安田喜憲さんがたくさん本を出していますね。
 軍人でもあるので、彼らを配下にすることは重要なことだと思います。もしかすると魏志倭人伝に出てくる各国に共通するのが、日置氏であればと面白いですね。

[9051] 難波宮の木簡  素人 2008/06/08(Sun) 21:32 [Reply]
佐々木高久 さま
書き込み有難うございます。
>  素人さん
>  いつも難しいこと考えてますね。
>  こう考えることはできませんか。ことばを話す人は居たが、文字による記録文化はなかった。発想になかった。中国には漢字があった。
>  だから、最初自分たちのことばを適当に音の近い漢字を当てて、自分たちのことばを文字化した。その後速記の過程か文字波及の過程で必然的にひらがなが出来た。
中国語でも外国の地名や人名は似た音の漢字を当てていたと推測します。特に万葉仮名とは違うのでしょう。
>  ゆえにいつから漢字を当てたか、どうゆう基準で、あを阿を当てたかなどの傾向をみれば答えが出てくるのではないだろうか。となると王仁博士になるのか。
>  あとは人口がわからないと識字率もわからないでしょうし。文字で記録する必要性がどのような過程で出てきたのか。このあたりまで検討しないと無理がありそうですが。それが稲作なのか。縄文草創期の栗園なのか。
>
古い話はわかりませんので、新しいところでは、
また難波宮に戻って 難波宮で出土した木簡に万葉仮名が書かれているようです。
難題測定から7世紀の中ごろと有りますから荒っぽい推測ですが6世紀以前から有ったのかも知れないと夢想します。
「大阪市中央区の難波宮(なにわのみや)跡で、漢字1字に1音をあてる万葉仮名で文を記した最古の木簡(7世紀中ごろ)が出土し、市教委と市文化財協会が12日、発表した。」
http://umeda.exblog.jp/4724104/
青草でした。 

[9050] Re[9042]: 渡来人(帰化人)  佐々木高久 2008/06/08(Sun) 11:11 [Reply]
 素人さん
 いつも難しいこと考えてますね。
 こう考えることはできませんか。ことばを話す人は居たが、文字による記録文化はなかった。発想になかった。中国には漢字があった。
 だから、最初自分たちのことばを適当に音の近い漢字を当てて、自分たちのことばを文字化した。その後速記の過程か文字波及の過程で必然的にひらがなが出来た。
 ゆえにいつから漢字を当てたか、どうゆう基準で、あを阿を当てたかなどの傾向をみれば答えが出てくるのではないだろうか。となると王仁博士になるのか。
 あとは人口がわからないと識字率もわからないでしょうし。文字で記録する必要性がどのような過程で出てきたのか。このあたりまで検討しないと無理がありそうですが。それが稲作なのか。縄文草創期の栗園なのか。
 

[9049] Re[9046]: 渡来人(帰化人)  素人 2008/06/08(Sun) 02:06 [Reply]
和歌山(橋本)さま
書き込み有難うございます。
>  
> 久しぶりに書き込みます。
>  渡来人は知識階級か技術者が多いから字を書ける人は多かったのでは。でも技術者はどうだろう???
>  日本語の習得も知識階級なら早かったのでは、日本書記などの記述はどうですか?
日本語と漢字ですと万葉集で、万葉仮名と言うことになるでしょうか。
7世紀後半から8世紀後半。
日本語の歌を漢字で書き取っています。
漢字での日本語の表記がされていたのでしょうか。
律令国家成立の頃には全国で使われていたのでしょう。
白水江の戦い(西暦663年)百済からの大量難民。
この頃には漢字での日本語表記がなされていたのかもしれません。
公式には漢字漢文でしょうが。
青草の夢想ですから詳しい方、ご指導お願いいたします。

[9048] 十分な語学力があればいいと思いますが  素人 2008/06/08(Sun) 01:36 [Reply]
紋爺ぃ様
書き込み有難うございます。
>  素人どん、「名僧“知識(bodh)”」。シナからではなく、朝鮮での戦争や紛争につかれた知識を家族ごとスカウトしたほうが安上がり。オレ、ホンズナス(弘前弁)阿波波。
その通りと思いますが、東アジアで高度文明を誇っていたのは中国ですから最新の文化は中国が発信していたわけで、これの伝播した朝鮮は情報伝達の遅い古代ではかなり古いと思われます。漢字・文体も変化しますし日本人は新し物好きですから中国から直接を望んでいたのではと夢想したわけです。言葉は悪いですが、騙して連れてくるには一例として僧侶など適当ではと思ったわけです。文人墨客でもいいと思いますが、なかなか乗ってこないのではと夢想したわけです。

[9047] 日置天の追加  佐々木高久 2008/06/07(Sat) 21:06 [Reply]
山車の彫り物で櫛名田姫を確認しました。
http://iwanee.web.fc2.com/osaka-kitakawati.htm 
祭神は天御中主神と菅原道真ですが、何か参考になりますでしょうか。

[9046] 渡来人(帰化人)  和歌山(橋本) 2008/06/07(Sat) 20:21 [Reply]
 
久しぶりに書き込みます。
 渡来人は知識階級か技術者が多いから字を書ける人は多かったのでは。でも技術者はどうだろう???
 日本語の習得も知識階級なら早かったのでは、日本書記などの記述はどうですか?

[9045] ひっこしします      紋爺ぃ 2008/06/07(Sat) 13:04 [Reply]
 佐々木さん、神ながれ堰とめているようですので、つづきは『紋次郎・言語考古学』に文字づらァ並べやす。

[9044] Re[9043]:  挙手の礼を捧げます  佐々木高久 2008/06/07(Sat) 10:16 [Reply]
紋爺いさん 敬礼です。
>モイトリ、カイトリ、ヂコンジ、ラックンボウ、サコデなどの地名はどうですか。
漢字がわかりもした。
モイトリ:水取 ヂコンジ:地内山(大きな古墳がありもす、痔根治ではありもはん)、ラックンボウ:楽君坊、カイトリ、サコデは漢字はわかりもはん。じゃっでんこげなとこで、再度ご指南を。打出小槌町一番地はご存じじゃろか。
カイトリは漁業組合か。明治まで、蜆がたんまり取れるところ、よかです。
>toliya が組、群、集団です。おおこれは、ケントーリアという外国の条里制があるわ。


[9043]  挙手の礼を捧げます  紋爺ぃ 2008/06/07(Sat) 09:56 [Reply]
 佐々木さん、前身は海軍大佐か大尉ぐらいでっしゃろな。
 じょうわん(上腕)を脇につけて、挙手の礼ささげます。小野寺さんみたくに薬ゆびをちょとかがませたりして……。宇毋。
 先日テレビみてましたら、掌のひら丸みえにして、左手で挙手の礼の真似してました。飛んで行ってぶっ叩きたかったです。
 ウンジュらの年代はジャパン・バッシングとかで、いちどは戦友さんたちのカタキ取った。が、あとがいけねぇ。次世代のわれわれが個人主義とかでやられちゃった。慚愧々々です。

> モイトリ、カイトリ、ヂコンジ、ラックンボウ、サコデなどの地名はどうですか。
 はじめてのお目見えです。内意がわからんと持ち出しようもわかりまへん。
 ですが、モイトリは塩組合、カイトリは兵站としてのおべんたう(干した貝)のミを採った組合のほかは、いちおうは、考えられません。
 toly は、古くはアナトリア(ギリシャ語 ; 東)、下北の東通村。道真さんの寓居、太宰府榎寺がある「通る古賀」。村という行政単位が出たは江戸中期。それまではベトナム語の gau(郷)。toli は地方ぐらいでの慣用だったか。ネパール語辞書での tol には町、区の訳がつけられています。toliya が組、群、集団です。少しは驚いてくださいネ。
 muoi はベトナム語の塩! 塩やったばあなので、これがホントなら大いにラッキー。
 貝の前は mina でしたが、アラビヤ語 mina(湊)とのガチンコをさけて貝になったことがハッキリしていますので、カイトリは比較的あたらしいです。北海道奥尻島の対岸にカイトリ澗がありました。
 
> 蛙は、「かわず」でなかったか。
-zu は虫や生き物の総称ではなかったでしょうか。被覆形としてタジク語にあります。
 川の生き物がカワズかと。
 豊後ではフクロウをコーズといいます。タジク語 koh は山ですが、古代日本で「コ−」といったらコ−はコ−でも高野山のような聖山。大牟田にもありますね。聖山のズがコーズ。
 イケズ〜ッ! も、あのへんのことばです。

 素人どん、「名僧“知識(bodh)”」。シナからではなく、朝鮮での戦争や紛争につかれた知識を家族ごとスカウトしたほうが安上がり。オレ、ホンズナス(弘前弁)阿波波。

[9042] 渡来人(帰化人)  素人 2008/06/06(Fri) 23:13 [Reply]
 秦氏、日置氏など渡来人が登場しますが、古代において文字を書ける人は非常に少なかったと思われるのですが、文字を書ける渡来人と文盲の渡来人では扱いがどのように違ったのでしょう。中国・朝鮮でも文字が読み書き出来る人は古代において非常に少なかったと思われますが、日本が獲得した読み書きの出来る渡来人の数は非常に多かったのでしょうか。渡来人は中国語は喋れて漢字漢文を操ったと思われますが、日本語の習得にはかなりの世代を重ねたのでしょうか。
 当然ながら日本語の表記に万葉仮名のような漢字表記を考えて日本語の表記が成されるようになり日本人を教育するようになるまでに、かなりの時間がかかったのでしょうか。
漢字の日本語化と識字率の向上は律令国家の成立のためには必須と考えられますが、大量の識字者の獲得も必須と思われますがどの様に行われたのでしょうか。
当時としては、超エリートである識字者が簡単に集まらないと思うのですが、何か獲得のために運動したのでしょうか。例えば、仏教僧などは識字者であり、布教の情熱に燃えていれば布教のために誘えば結構、集まったりして、識字者の獲得に成ったのではと夢想していたりします。そして僧にすると言って優秀な子どもを集めて教育させれば識字教育になり識字率が向上します。識字者の日本への獲得運動。
識字できれば本を買えばかなりの技術、行政などは学べるのではと考えます。
最近考えている青草です。

[9041] Re[9040]:  pher から hir へ     佐々木高久 2008/06/06(Fri) 19:49 [Reply]
 ジョンバチラー曰く
 ヒラは崖、カタは上のことと。カタノは上の野原だと。当地は安倍氏の存在が確認できたので、蝦夷のことばで説明した方がいいのではないでしょうか。
 ヒル塚という古墳があるが、これはタジク語がぴったりです。えびすを漢字で書くとヒルコですからなんとなくわかりました。
 モイトリ、カイトリ、ヂコンジ、ラックンボウ、サコデなどの地名はどうですか。
 蛙は、「かわず」でなかったか。

[9040]  pher から hir へ     紋爺ぃ 2008/06/06(Fri) 18:17 [Reply]
 呉音も漢音もヒラには結びつかないようですね。

(1) e から i へ
 さきに小生は bira(川)が基本だといいました。さっそくですが、これ枚方に限っては間違いかもしれません。阿波波。
 ネパール語の pher- (変える、交換する、着変える)が慣用されるうちに一回二回などの回(回数)をいうようになりました。ここが「ひとひら(一枚)の雲」などの日本語に定着したものと見受けられます。
 hira とは hir の開音(母音づけ)化した語形です。
 たしかに フェルは日本人には発音しにくいのですが、なぜ ヒルになったかというと、hir は別系(タジク語)で宗教上の指導者をいいます。古代では宗教の指導者は政治・軍事での指導者でもあったので、ヒルという音に落ち着いたかとおもいます。
 ヒルメムチとはこの hir だとおもいます。 hir は hi となって古代でおお暴れしています。

(2) i から e へ 
 ハナシ、ポンと飛びますが、蛙はよくよく注意して観察すると、もと来たところへ「帰る」そうです。カ(川?)ヘルです。
 蛙は神様です。同じ「帰る」でも、ていねいな言いかたで、ネパール語には phir-(お帰りになる)があります。一般系 phirta は「戻ること」です。

 オレにもワカランごつなったばい。晩酌ば始めたつです。

[9039] Re[9033]: 枚方に思う  佐々木高久 2008/06/06(Fri) 17:09 [Reply]
 梶取社で思い出したのですが、京都貴船に梶取社があります。大阪は阪南市(旧和泉鳥取)に。
 日置天神社のことですが「太陽の高度や日出・日没方位の観察から、狩猟儀礼や農耕儀礼に必要な季節情報が古代の神々に関わる施設から発せられていたであろうことは十分考えてよいと思います。」との見解を日時計のご専門の方からコメント頂戴頂きました。とみたさんこんなところです。

[9037] Re[9033]: 枚方に思う  佐々木高久 2008/06/06(Fri) 09:46 [Reply]
>他所人は枚方とか枚岡を、ヒラとなかなか読めないんです。これって呉音でしょうか。
 そうなのです。古文書を見ていると牧方になっているのも多くありまして、大山崎町の牧方は、枚方とする古文書もありまして、ややこしいのです。これは同類とまとめるべきと見ていますが。
 さて忌部の家紋は、クワ科の梶の葉ですが、平安時代には、七夕に7枚の梶の葉に和歌を詠むという伝説。これなにか匂いませんか。クワは養蚕です。
 あと安倍晴明は出自には各説があります。母親は葛葉さん(あの楠葉?)で、狐伝説があります。粟倉郷付近には狐地名がたくさんあります。葛の葉と梶の葉は酷似します。忌部の家紋は葛の方がより近いです。さらに阿波忌部、安房忌部の中抜きをすると阿部、安部です。これはありえる苗字の組み換えですが、奇妙です。安房忌部の後裔が実は晴明をはじめとする土御門家ならば面白いと思います。
 また日置氏は太陽神、つまり陽暦。陰陽道は月神、つまり陰暦。日置氏と安倍氏は裏表になるわけですが、安倍氏=忌部とすると、トミタさんのご関心はテーマとして面白いと思います。
 最後に余談ですが、トミタさんならご記憶の隅にあるかもしれませんが、GHQの熊澤天皇、彼は伊福部氏関係の人物です。あの時はかなり検討が進んだので、もしかすると何か忌部氏についても手がかりが出てくるかもしれません。


[9035] 酷すぎるミス連発  とみた 2008/06/06(Fri) 09:25 [Reply]
>ソグド人は突厥や唐に取り入って勢力を伸ばしました、商売は上手い。

人身売買までやって儲けていまして、秦氏は
聖徳太子(厩戸皇子)や桓武のスポンサーです。

秦氏は挿入ください

>持統天皇の即位の大嘗祭などで神器を捧げる役目です。
持統の時は3種でなく、2種の神器で勾玉は含まれていないと思います。

>蘇我坐神社も近いので蘇我氏とのかかわりもあろうかと

正しくは,宗我坐神社です。

蘇我氏の神社であることはちがいありません。

>忌部の忌み嫌うの忌む

厭み嫌うが正しい。忌むは葬儀の時に慎むなどの時でしょうか。齋は齋王つまり穢れを除いた内親王が伊勢神宮などに仕えますね。

字を読むと忌は巳の下に心、斎は中に示が入っています。

よく掲示板に出してからミスに気がつきますが、大抵は訂正しないで横着しています。今回は余りに酷いので訂正します。この場を借りて野いつもミスの訂正を怠っていることをお詫びします。



[9034] Re[9032]: 文字づらからの応援?      とみた 2008/06/06(Fri) 07:55 [Reply]
紋爺さん 紋次郎とは忠治親分の謂れですか?木枯らし紋次郎というのがありました。塩爺は小泉元総理の番頭。その合成語の諡号?まだ死んでない。

阿多の塩土爺さんも参加した名前ですかね。??冗談です。失礼しました。

青草コーナーの塩の特集は、秀逸でしたよ。面目躍如。また特集をやってください。

> ★ ヒラカタ(枚方)。埼玉県の上尾から熊谷まで、ヒラカタは広大な「川端」です。
>   bira(川) は世界中に広がっています。東北には大平川があり、姓にも大平さん。
> ★ インベ。タがログ語の ina(女)が開音(母音づけ)をうける前の語形 *in ではないか思われます。稲作は全国にあるようになったとき、稲がつく地名はナンセンスになります。
>  で、これを地図に照らしあわせると、川や海岸よりにある。すなわち、女=舟 で、インベ姓は、舟に関係あるのではないでしょうか。 be は日本語の 部 ですが、元々はネパール語発 bhed(部門)か。

忌部の忌み嫌うの忌む。齋のイムでもありますね。

要は、古語拾遺に素性を述べていますが、天岩戸からアマテラスを引き出すのに貢献しているんです。三種の神器の勾玉に関係して、持統天皇の即位の大嘗祭などで神器を捧げる役目です。朝廷の祭祀の名門で、藤原氏の台頭で桓武の後の平城?天皇の御世に、訴えたのが古語拾遺です。

でも佐々木さんが書かれているように、いろいろな役目もありますね。港湾土木開発者の顔や、鉄や銅の生産。伊福部は銅鐸の産地と関係があるとか。

阿波の忌部は、御木=三木で麻布、讃岐の忌部は祭祀用の楯、紀伊の忌部は材木を差し出しました。中央官僚が天太玉命で 大和奈良の曾我川の畔に祭神を持っています。このあたりは勾玉つくりがされているようです。蘇我坐神社も近いので蘇我氏とのかかわりもあろうかと思っています。

忌部は出雲の初代国司で、国造の意宇氏の本拠には、忌部川があり、玉の産地で阿波の忌部神社の経費を払う神戸です。

紀伊は井辺として、相撲の埴輪がでて有名です。
イムベ氏は物部氏の子分か?これが私の疑問です。


>  渡来人は発音と文字をひねくって、出自を半分ごまかしているみたい。
> ソグド人との関係??

良い線です。

私もソグド人と秦氏の行動は似ている気がしますね。

ソグド人は突厥や唐に取り入って勢力を伸ばしました、商売は上手い。人身売買までやって儲けていまして、聖徳太子(厩戸皇子)や桓武のスポンサーです。

政治には直接手を出さず、後ろからお金や技術や宗教で支配する手口です。
鉱山開発や土木や養蚕や舞楽に関わっています。
>  とみたさん、イムベとありますが、表記された漢字はどういう文字でしょうか。 i-mut-be も考えられてややこしいです。imut なら、ただの「土地支配」ぐらいか? 鹿児島に伊牟田姓。
>  麻生という発音には“馬”がみえます。正式には asp 。

[9033] 枚方に思う  とみた 2008/06/06(Fri) 06:52 [Reply]
他所人は枚方とか枚岡を、ヒラとなかなか読めないんです。これって呉音でしょうか。

枚方はさーて昔は、どう読んでいたんでしょうか。
千葉や福島の相馬の元は倉麻らしい。麻の倉から、馬の時代になって、相馬になったのでしょう。

佐々木さんの探求では、枚方は面白いところですね。
天野川、と機織神社、薩牛儀礼、郊祀、桓武のお母さんの高野新笠は母は土師氏で父は和史氏ですね。文書担当の下級官僚です。光仁と上手くやって偉くなたのでしょう。大和の広陵町の牧野(ボクヤ)古墳に被葬とか。桓武はお母さん方の山背の
乙訓郡の土師氏の家で生まれているという説があります。天皇に息子がなれば血筋も偉く見せて、百済の武寧王の系統に祀りあげたわけです。

七夕は、琴座のぺガの織姫と、牽牛の彦星が7月7日に天の河でデートする訳です。これが枚方の天野川。

祭天は太陽でなく星ですね。

北方系の信仰。牽牛の彦星も河鼓で天の川の太鼓を意味するらしい。

問題は織姫です。機織は古来、江南の呉あたりが有名です。

絹は長江(揚子江)の下流の上海の近くの太湖(上海カニで有名)の湖州が
絹の産地です。南ですね。

北の牽牛と南の織姫が出会う。

読み方によっては、北の黄帝と南の蚩尤が出会う。

七夕は、當麻の蹴速が相撲で野見にやられる日です。相撲は北の文化です。高句麗の古墳の壁画には相撲の絵があります。




[9032] 文字づらからの応援?      紋爺ぃ 2008/06/06(Fri) 06:42 [Reply]
 オレ、いつのまにか穢れ多き身になってるみたいなので、ここに顔だすを遠慮しちょりま。
 また、小生は漢字オンチなので、ついてゆけないことあまたです。
 が、「玄」が出たので差し出ぐちにおよびます。
★ 当時の玄の発音はわかりませんが、内意はクロ(黒)で、小川を内包させているのでは?
★ ヒラカタ(枚方)。埼玉県の上尾から熊谷まで、ヒラカタは広大な「川端」です。
  bira(川) は世界中に広がっています。東北には大平川があり、姓にも大平さん。
★ インベ。タがログ語の ina(女)が開音(母音づけ)をうける前の語形 *in ではないか思われます。稲作は全国にあるようになったとき、稲がつく地名はナンセンスになります。
 で、これを地図に照らしあわせると、川や海岸よりにある。すなわち、女=舟 で、インベ姓は、舟に関係あるのではないでしょうか。 be は日本語の 部 ですが、元々はネパール語発 bhed(部門)か。
★ 粟、阿波。粟はシナ音ソグ、すなわち、ソグド人のことでは?
 じぶんのことをマロという貴族はソグド人によってもたらされています。
 渡来人は発音と文字をひねくって、出自を半分ごまかしているみたい。

 とみたさん、イムベとありますが、表記された漢字はどういう文字でしょうか。 i-mut-be も考えられてややこしいです。imut なら、ただの「土地支配」ぐらいか? 鹿児島に伊牟田姓。
 麻生という発音には“馬”がみえます。正式には asp 。

[9031] Re[9029]: 忌部氏  佐々木高久 2008/06/05(Thu) 23:14 [Reply]
枚方のことで新たな発見。
 粟倉郷(小倉から渚)というところがありました。かなり上品の管玉が発見されています。弥生の祭祀遺跡も集中する傾向があります。また桓武の殺牛祭祀の場所(柏原)がある。阿波は、元は粟の一字だったので、因縁を感じる。
 御殿山地名については、元は安倍山と呼ばれ、その関係で枚方は比羅カタ(ひらかた)が由縁と枚方市史に出ていました。御殿山は明和年間の絵図でも意賀美神社のところになっています。
 また枚方風土記では印田のまえは犬田で、そのまえは玄田(よみかた不明)でした。

[9030] Re[9029]: 忌部氏  佐々木高久 2008/06/05(Thu) 16:05 [Reply]
 とみたさん
忌部で、まず不明なのは、忌部という苗字なのか、単なる職業集団の名称ではないかということ。
阿波の三木氏は、現在阿波製紙の三木一族などに代表されると思います。また後藤田、三木などの出身地が概ね吉野川市鴨島地区周辺であるそうです。
私の知己は忌部住民で、平安時代から宮大工で、藤原姓を名乗っている。藤原姓は確かに宮大工で江戸期の古文書で見かけられる。屋号があるので中臣系の藤原とは違う。
織田信長も中臣系でない越前藤原氏を称し忌部氏としている。
ゆえに阿波の藤原も忌部の可能性がある。また当地には大麻姓もある。
枚方の犬田野付近にも、三木家があり、市長を勤めたことがある。枚方市岡南町の田中家鋳銅工場は、皇朝十二銭?の生産で有名で明治時代まで続いた由緒ある工場である。
そこに斎部能登守?署名の文書があるが、京都の真継家が発行している。津田には根来の鉄砲鍛冶で有名な津田監物の出身地である。
枚方の方はそうかもしれませんね。
滋賀県長浜の奥には伊部がある近くには国友の鍛冶がある。これも伊福部なのでしょうね。麻については、滋賀では東近江市の辻富家(現在の辻冨麻紡績、ほか小泉麻業、近江麻業、トスコ)が有名で、麻地名もあり、伊野部地名もある。山陽道は三原尾道(後のトスコ)がある。
 竹取物語の翁も三室戸の秋田斎部でした。この人の職業はよくわからない。
 雑然と書きましたが、これらから推定すると複数の職業集団のように見えてくる。 職業別に分類が必要に感じます。
http://www.city.kashiba.nara.jp/outside/kakuka/hakubutsukan/shisetsu/kaisetsu_sheet/sheet4.pdf
http://www.eonet.ne.jp/~hirakatabunkazai/8dayori/pdf8/73.pdf


[9029] 忌部氏  とみた 2008/06/05(Thu) 10:54 [Reply]
忌部の謎解きで皆さんのお知恵を拝借します。

基本的興味は、阿波の天富命が、黒潮に乗って、安曇部民を引き連れて、私の住んでいる千葉県に上陸することです。

阿波は、麻です。三木家です。

大嘗祭に天皇をくるむ麻です。

途中下船して、イセツ彦と関わり、神武に追いやられて信濃にも足跡を残し、多分伊豆にも立ち寄って、最後は黒潮が千葉の房総沖で陸地を離れるときに陸地に上陸したのが安房です。ここにも麻を植えています。麻生郡がありますし、麻の倉庫つまり倉魔があり、これが馬の産地にもなると相馬に名を代えます。


云うまでもなく、徳島県の吉野川流域に大麻比古神社(阿波一宮)があって天太玉神社を祭っており麻植郡があります。

忌部神社は天冨命を祭神としています。

千葉県の安房には、安房神社(安房国一宮)があり天太玉命を祭っています。
布良崎神社は天富命を祀っております。楫取神社もありまして、宇豆彦を祀っています。

宇豆彦命は天富命に従ってこの地に渡ります。

梶取舟は、吉野川独特の船です。

梶取は確か紀伊にも地名があるはずです。

梶取神社から香取神社が生まれ、経津主をまつります。

このあたりからスタートです。

忌部氏は紀伊、讃岐の忌部がいます。

佐々木さんの枚方のイムベは伊福部かも知れないと思っています。

鉄や青銅の民です。忌部と重なるかも知れません。

忌部=齋部氏の祖である天太玉命が率いる五神の中に、見える天目一箇神(一つ目小僧)はタタラ炉を見る神で、鍛治職です。筑紫・伊勢の忌部とされています。

[9028] Re[9026][9024]: 日置氏は  佐々木高久 2008/06/04(Wed) 20:24 [Reply]
>地図では印田とありますね。具体的な伝承が残っているのでしょうか。
 具体的伝承は安倍晴明がこのあたりで修業した程度です。
星丘西遺跡の鳥祭祀と、古墳時代以降の遺構がないこと、地名の近似性から、古墳時代以降に衰退した忌部氏が第1の候補と考えました。
 しかし晴明の先祖の阿倍氏一族の引田臣の「いんだ」と地名と一致するので、そちらの方が地名の由来はよいように思います。すいません。
 但し阿倍氏が当時から祭祀に通じていたのかは不明であり、晴明になって陰陽道が突然出てきます。また阿倍引田臣と忌部氏との関係の有無もわかりません。これらの因果関係がわからないところです。

>この前徳島の神社巡りに行きましたが、駅前の小山助学館と言う本屋で、『日本の建国と阿波忌部』林博章著を買いました。この中の忌部氏の分布というか足跡は、筑紫・石見・出雲・備前・讃岐・阿波・淡路・紀伊。大和・伊勢・伊賀・丹後・越前・安房・上総・下総をあげていました。
 この地域は南朝の勢力分布と妙にオーバーラップするのが面白いです。
 阿波忌部氏の地域に行ったことがありますが、典型的なサンカでした。
 ただほとんど屋号を持っていたのが興味を惹きました。
 サンカは中近世では曲げワッパ、唐箕などの生産集団であり、もちろん踏鞴なども製作していたでしょうから、製鉄とも関わっていておかしくないと思いました。これは余談。

[9026] Re[9024]: 日置氏は  神奈備 2008/06/04(Wed) 14:12 [Reply]
> >実は忌部氏も追っかけています。
> これも枚方に居るんですわ。たしか犬田野(いんだの)という場所ですが、交野線星ヶ丘駅、村野駅の北側のあたり一帯です。

 地図では印田とありますね。具体的な伝承が残っているのでしょうか。

  この前徳島の神社巡りに行きましたが、駅前の小山助学館と言う本屋で、『日本の建国と阿波忌部』林博章著を買いました。この中の忌部氏の分布というか足跡は、筑紫・石見・出雲・備前・讃岐・阿波・淡路・紀伊。大和・伊勢・伊賀・丹後・越前・安房・上総・下総をあげていました。

 河内の忌部氏については、林博章氏は触れていませんが、石川郡の佐備神社の祭神も天太玉命となっています。尤もこの神社の本来の祭神は不詳のようです。

 佐備からは渡来系の鍛冶の匂いもしますね。

 忌部氏を渡来系とする伝承はあるのでしょうか。『古語拾遺』では、高皇産霊神の孫が天太玉命となっており、ニニギ尊と兄弟。また『姓氏録』では高皇産霊神の子神、渡来とすれば古渡りに属するのかも知れませんね。

[9025] Re[9024][9023][9022]: 日置氏は  佐々木高久 2008/06/04(Wed) 11:43 [Reply]
とみたさん
 忌部関係?の星丘西遺跡では弥生中期後半の方形周溝墓に羽飾をつけたシャーマンが線刻された壷型土器が見つかっています。鳥は弥生人にとって神聖な霊魂を運ぶ特別な存在として神聖視されていたそうですね。星丘西遺跡は古墳時代以降は現代まで人工遺構はなくなります。また方形周溝墓は星丘から樟葉まで百基以上確認されています。また藤田川、星丘から御殿山一帯は、鍛冶遺跡が比較的広域に見つかっているようです。藤田川の山田神社付近には鍛冶屋地名が広域に残っています。出屋敷では製塩土器が多数見つかっています。

[9024] Re[9023][9022]: 日置氏は  佐々木高久 2008/06/04(Wed) 09:34 [Reply]
とみたさん
> 日置氏は、新撰姓氏録では高句麗出身、伊利須使主の後裔。高句麗でなく百済ですか。馬であれば高句麗の方が似つかわしいけれど、枚方は百済寺があり百済かも。
 高句麗から移民ではないでしょうか。
> 田辺の多田羅は加羅王族の地という説も見受けました。枚方樟葉の招堤の日置郷は、佐々木さんの調査では、土地名とダンジリでは測量に関係するようですね。これだけでも大いに収穫です。
「あかねさす」の短歌から、まちがいなく太陽の指す方(角)を感じさせます。
どこかの日置郷は、集落が日時計になっているとホームページに出ていました。
> も一つ、面白いのはレーライン(太陽の道)です。NHKで数年前取り上げた話題です。伊勢湾の神島から上った太陽は伊勢神宮の齋宮の上を通り、津市美杉を通過した後、日神の塚のある太郎生、日置姓の多い中太郎生を経て、室生寺、初瀬の天神=与喜山を拝する長谷寺、三輪山、元伊勢の檜原神社(日原神社)に向う。さらに二上山、堺の日置荘、大鳥神社と通り大阪湾を渡り淡路島の舟木にある日の神を祭る石上神社、伊勢の森へと延びるんだそうです。
 日置郷の特徴は、日の出・日の入の間が長い、つまり東西に長いところが選ばれています。古代方位については、たしか前千葉大学の山田安彦教授が精力的に取り組まれて著書も多数あったように思います。
> 住吉神社の真弓常忠宮司は、本のなかで日置氏は海人族で日神祭祀の傍ら製鉄にも関与されていたとされています。
 太陽熱で炉を作る発想かもしれません。確か「はんたか」という太陽熱の炉を研究しているグループがおりました。ただフロンティアなら、特定の職業を持っていても、何でも取り組まないといけないだろうし、方角方位計時測量技術については基準に基づいて設置した器具で測定するのみなので方法のみの伝承技術ですが、製鉄は器具よりも知識経験がものをいう技術なので、生き残るために取り込んでいったのかなと思いますが。
>実は忌部氏も追っかけています。
これも枚方に居るんですわ。たしか犬田野(いんだの)という場所ですが、交野線星ヶ丘駅、村野駅の北側のあたり一帯です。
 

[9023] Re[9022]: 日置氏は  とみた 2008/06/04(Wed) 00:23 [Reply]
>  以前からトミタさんは日置氏を。
>  日置氏は、日置天神社の由緒から、近江の佐々木綱久が再建に関わっています。 日置氏は佐々木氏説を裏付ける有力な説であります。佐々木氏は宇多源氏となっていますが。家紋から見ると百済系渡来人に近いですが。

佐々木さん、ご先祖様と日置が関係あるとは,縁は異なものですね。

日置氏は、新撰姓氏録では高句麗出身、伊利須使主の後裔。高句麗でなく百済ですか。馬であれば高句麗の方が似つかわしいけれど、枚方は百済寺があり百済かも。

田辺の多田羅は加羅王族の地という説も見受けました。枚方樟葉の招堤の日置郷は、佐々木さんの調査では、土地名とダンジリでは測量に関係するようですね。これだけでも大いに収穫です。

日置といえば、出雲の西部の神門郡に日置の郷があります。出雲風土記に、欽明の時に都から日置の伴部が派遣され、その地に留まって祀りごとを行った場所と書かれています。

歴史学者の門脇禎二さんは、蘇我氏が、伴部日置を引き連れて出雲を征討したとされているんです。

出雲の東部には意宇郡があり意宇氏は出雲の国造ですね。

意宇氏の関わる熊野大社と出雲大社(杵築大社)の神戸は、日置の部民で神社の費用負担をしているんです。

も一つ、面白いのはレーライン(太陽の道)です。NHKで数年前取り上げた話題です。伊勢湾の神島から上った太陽は伊勢神宮の齋宮の上を通り、津市美杉を通過した後、日神の塚のある太郎生、日置姓の多い中太郎生を経て、室生寺、初瀬の天神=与喜山を拝する長谷寺、三輪山、元伊勢の檜原神社(日原神社)に向う。さらに二上山、堺の日置荘、大鳥神社と通り大阪湾を渡り淡路島の舟木にある日の神を祭る石上神社、伊勢の森へと延びるんだそうです。

古代の測量を日置氏が担当しているのではないかという説の一つの根拠です。

住吉神社の真弓常忠宮司は、本のなかで日置氏は海人族で日神祭祀の傍ら製鉄にも関与されていたとされています。

そんなことで、興味が尽きないんです。
隠居の身の上で楽しいテーマです。実は忌部氏も追っかけています。
 

[9022] 日置氏は  佐々木高久 2008/06/03(Tue) 22:53 [Reply]
 以前からトミタさんは日置氏を。
 日置氏は、日置天神社の由緒から、近江の佐々木綱久が再建に関わっています。 日置氏は佐々木氏説を裏付ける有力な説であります。佐々木氏は宇多源氏となっていますが、実際にはわかりません。家紋から見ると百済系渡来人に近いですが。
 また招堤には巨刹があったので、奈良は唐招堤寺となったようです。招堤はサンスクリット起源とのこととか。あと山車のあるところはどうも日置氏が関わっている、住んでいたようです。なんとなく自分で出自を調べることになって、いとこそばゆいことです。

[9021] 難波宮造営と牛馬の犠牲  神奈備 2008/06/01(Sun) 17:52 [Reply]
 写真掲示板の2008年 5月23日分の大阪市北部の復元図の太い線は谷間です。谷間の所々に黒い点がついていますが、ここは7世紀半ばの前期難波宮建築前後に埋められて整地された場所です。
 難波宮の南西角に近い●からは大量の馬や牛の骨が出土しています。何らかの儀礼で牛馬を屠殺して埋めたものと考えられています。

 その●から少し西側の●からは円筒埴輪がたくさん出ています。古墳があり。これが根こそぎに壊されたものと考えられます。上町台地の上には点々と古墳が並んでいたものと思われます。『日本書記』孝徳紀の白雉元年の記事に「宮の地に編入されるために墓を壊された人、住居を遷された人々に、それぞれに応じた御下賜があった。」と出ています。おそらくは民家も建っていたのでしょう。


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