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掲示板のログ(平成二十年 四月 2008.7)お名前の敬称は省略しています。

[9213] Re[9212][9211][9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  佐々木 2008/07/31(Thu) 20:23 [Reply]
 神奈備さん 小生の補足の補足まで、痛み入ります。

> 四天王寺の玉造説否定の補強ですが、物部氏は概して平地好きの氏族のように思えます。例えば河内の拠点の八尾、大和の天理史付近など。また、5の倍数好きで、北方の騎馬民族の流れを汲んでおり、草原にいた民で、また騎馬を得意とするなら平地が戦いやすいとの思惑があったのでしょう。

 物部の5の倍数好きは、かなり前に聞き覚えはありますが、何のことでしたか。
 物部氏の分布をみると、平坦で豊富な水がある、比較的四方見通しがよいところに居るようですが、孫子の兵法をわきまえていたように思えます。

[9212] Re[9211][9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  神奈備 2008/07/31(Thu) 09:46 [Reply]
> 万葉集に出ていないかと思い調べてみました。
>  薬師には「菅の獅子舞」や「菅王子」などの「菅」がキーワードと象徴されると思いまして紹介致します。

 
 佐々木さん、「笠」のヒント、ありがとうございます。

 難波の菅笠で有名なのが深江稲荷神社境内の笠縫神社。この付近の湿地帯で菅が採取できたのでしょう。菅笠は古くは専ら貴顕の用に供されたようですが、後世には一般人の伊勢参宮などに携帯されたようです。
 万葉集で菅を歌ったのは男女の愛を歌ったものが多そうです。菅の根が長いことは人の寿命の長さ、恋の長かれと祈る呪力があったのでしょう。なるほど、薬師に繋がりますね。

 四天王寺の玉造説否定の補強ですが、物部氏は概して平地好きの氏族のように思えます。例えば河内の拠点の八尾、大和の天理史付近など。また、5の倍数好きで、北方の騎馬民族の流れを汲んでおり、草原にいた民で、また騎馬を得意とするなら平地が戦いやすいとの思惑があったのでしょう。

 玉造は丘になっています。そこより現四天王寺の場所の方が平地で、物部の難波の邸宅に相応しい立地に見えます。

[9211] Re[9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  佐々木 2008/07/31(Thu) 00:22 [Reply]
万葉集に出ていないかと思い調べてみました。
 薬師には「菅の獅子舞」や「菅王子」などの「菅」がキーワードと象徴されると思いまして紹介致します。
 2819問答歌 
おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに
 0619大伴坂上郎女怨恨歌一首 
 おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡
磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず
大船の 頼める時に ちはやぶる 神か離くらむ うつせみの 人か障ふらむ 通はしし
君も来まさず 玉梓の 使も見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの
夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験をなみ 思へども
たづきを知らに たわや女と 言はくもしるく たわらはの 音のみ泣きつつ た廻り
君が使を 待ちやかねてむ
 
 当時どんな建築物だったのか少し興味のあるところです。

[9210] 浪花の祈り  堂島薬師堂  神奈備 2008/07/30(Wed) 11:55 [Reply]
 関西最大の面積と言われる本屋のジュンク堂が入っている堂島アバンサの北東側に宇宙基地とも見える金属製の丸い建造物があります。堂島薬師堂と言います。

 由緒 西暦593年、推古朝の頃の史料に「東は玉造に四天王寺をつくり、西の方洲の中に御堂を建立」の記録があると言います。

 延宝三年(1675年)の『芦船別』と言う文書に、「聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、洲の中に流れ着き、お堂を建てた。」との記述があり、これが薬師堂の起源と言われています。

 海上を航行する船からこのお堂がよく見えたところから、薬師堂のあるこの島が「堂島」の地名になったとも言われています。

 お堂には、薬師如来像・地蔵菩薩像・弘法大師像など仏像四体などが祀られています。薬師如来像は室町時代の作、弘法大師像はもっと古いそうです。

 薬師堂の隣には女神である「水かけ弁天さま」が祀られています。水の都大阪と近辺の水商売の守護神と言えるでしょう。

コメント
  593年と言えば推古元年で、『日本書紀』では、「この歳、始めて四天王寺を荒陵に造る。」とあり、上記の記事は『紀』とは幾分違っていますが、当初は玉造に造られたとしているのは興味深い所です。平安初期の『暦録』に玉造創建・荒陵移転説が記載され、後に定説と成りつつありましたが、実際の創建は推古元年荒陵とする考え方が有力に成っているようです。
 
 小生も移転したのかもと思っていましたが、玉造は聖地として場所であり、わざわざ移転する理由が見られないこともあります。

 堂島薬師堂と弁天さまは画像掲示板に載せました。

[9209] Re[9208][9207][9202]: 冬の蚊帳  素人 2008/07/26(Sat) 22:35 [Reply]
神奈備様
書き込み恐縮です。
>  現在でも宮中で行われている歌会始めの行事ですが、皇族は勿論でしょうが、地方の庶民に至るまで応募することができます。週間ポストに井沢さんがこの辺のことを書いていたような気がします。
>
>  このあたりに万葉の歌の伝統と言うのか心意気みたいなものがあるのではないでしょうか。歌垣も何も貴族だけのものではなかったのでは。嫁とりには庶民の若者も若干の歌の心得がいる、別にオリジナルでなかってもその場の雰囲気にあう歌ならよかったのでは。
>
>  そのような歌が沢山積もり、当時のインテリが万葉仮名に書き、地域の歌集が出来と考えられます。

防人制度、律令制度などの関係で人間の移動が激しくなり、流行なども都から地方に伝播して、地方の有名な歌が都に伝えられたりしたのでしょうか。また防人は東国から太宰府などに向かいますと都近くを通りますし、帰りに都に寄ったりしたのでしょうか。記録は地方の役所に配属された史部が万葉仮名などで書き取ったのでしょう。

[9209] Re[9208][9207][9202]: 冬の蚊帳  素人 2008/07/26(Sat) 22:35 [Reply]
神奈備様
書き込み恐縮です。
>  現在でも宮中で行われている歌会始めの行事ですが、皇族は勿論でしょうが、地方の庶民に至るまで応募することができます。週間ポストに井沢さんがこの辺のことを書いていたような気がします。
>
>  このあたりに万葉の歌の伝統と言うのか心意気みたいなものがあるのではないでしょうか。歌垣も何も貴族だけのものではなかったのでは。嫁とりには庶民の若者も若干の歌の心得がいる、別にオリジナルでなかってもその場の雰囲気にあう歌ならよかったのでは。
>
>  そのような歌が沢山積もり、当時のインテリが万葉仮名に書き、地域の歌集が出来と考えられます。

防人制度、律令制度などの関係で人間の移動が激しくなり、流行なども都から地方に伝播して、地方の有名な歌が都に伝えられたりしたのでしょうか。また防人は東国から太宰府などに向かいますと都近くを通りますし、帰りに都に寄ったりしたのでしょうか。記録は地方の役所に配属された史部が万葉仮名などで書き取ったのでしょう。

[9208] Re[9207][9202]: 冬の蚊帳  神奈備 2008/07/26(Sat) 14:48 [Reply]
橋本様、熊野三所権現本地仏図につきましては全く承知しておらず、失礼いたしました。

 お話の筋とは違うのですが・・・

> 万葉集は色んな身分階級の人の歌が掲載されています。上層階級の人が歌を詠むのは分かりますが下級階層の人が歌を詠むというのは本当にあったのでしょうか?という疑問があります。

 現在でも宮中で行われている歌会始めの行事ですが、皇族は勿論でしょうが、地方の庶民に至るまで応募することができます。週間ポストに井沢さんがこの辺のことを書いていたような気がします。

 このあたりに万葉の歌の伝統と言うのか心意気みたいなものがあるのではないでしょうか。歌垣も何も貴族だけのものではなかったのでは。嫁とりには庶民の若者も若干の歌の心得がいる、別にオリジナルでなかってもその場の雰囲気にあう歌ならよかったのでは。

 そのような歌が沢山積もり、当時のインテリが万葉仮名に書き、地域の歌集が出来と考えられます。

[9207] Re[9202]: 冬の蚊帳  和歌山(橋本) 2008/07/24(Thu) 21:51 [Reply]

橋本様、当時の時代背景はどのような時期だったのでしょうか、「上代表記の成立と渡来人の役割」に対する所見も、ご指導お願いいたします。
> これも青草でした。

 私はあまり上代の言語の事は分からないのですが、万葉集は色んな身分階級の人の歌が掲載されています。上層階級の人が歌を詠むのは分かりますが下級階層の人が歌を詠むというのは本当にあったのでしょうか?という疑問があります。
 また身分階級の差異により生活スタイルや教養、言語も違ったはずです。国家が万葉仮名を完成させようとしたならばそれを使用するのは誰を想定していたのでしょうか?
 全然答えになっていませんね、結局私には分かりません。ごめんなさい。

[9206] 浪速の道の物語 荒ぶる神  神奈備 2008/07/24(Thu) 09:18 [Reply]
 地方から都へ納税に来る民人は帰りの食糧を持って来なかったようです。お上からお駄賃として銭(コイン)を貰い、それで米などを買いながら故郷に着くまで食いつなぐことが期待されていたようです。貨幣経済の進展も期待していたのでしょう。

 ところが、お上の考え方は今でもそうですが、末端の民百姓のことは考えていず、コインではお米を買うことが出来なかったようです。帰路に飢え死にしてしまう人が多く出たようです。

 みすみす飢え死にするのならと、強盗になる者など治安は良くなかったようです。また人界戦術であったろう踏鞴製鉄の労働者になる者もいたようです。

 河内(柏原市)と大和(三郷町)の境界に雁多尾畑と呼ばれる地域があります。風の神の竜田大社の神が降臨した御座峰があります。ここの風の神は製鉄の為の風強かれを祈る神でしたが、後には稲作のために台風など大風を避ける神に変わったとされています。

 雁多尾畑の製鉄集団に納税民人が潜り込んだり雇われて行くことは必然の行為だったようです。その彼らはついでに竜田越を行う人間を襲い、金品を強奪するようなことがしばしばなされたと推測出来ます。峠に住む荒ぶる神−半分を殺し半分を通す−のお話は各地の風土記にも出てきますが、無事に峠を通るために奉幣を行う、手向けを行う、要は通行税を払うことでした。

 竜田越えには別名が幾つかあります。畏(かしこ)の坂、懼坂、恐の坂、賢の坂道。

畏(かしこ)の坂
『万葉集』巻八 一〇二二
 父君に 吾(あれ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(おもとじ)に 吾(あれ)は愛子ぞ 参上(まゐのぼ)り 八十氏人(やそうぢひと)の 手向する 畏(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あれ)はぞ退(まか)る 遠き土佐道を

懼坂
 『日本書紀』天武元年七月
 財等自高安城降。以渡衞我河與韓國戰于河西。財等衆少不能距。先是。遣紀臣大音令守懼坂道。
 衞我河 藤井寺市に恵我があります。懼坂道 地理的には竜田越の坂
 
 さて、竜田越のコースの一つとして亀ノ瀬(川の中に亀岩あり)付近を通るのがありますが、亀岩の上流下流800mと北700mは有名な地滑り地帯で、現在でも工事を行っています。まさに通るのが恐ろしい道と言えます。

 しかし、それよりは、結果的にはお上が作ってしまった無頼の徒である荒ぶる神の方がよほど恐ろしかったのではと思います。

[9205] 浪速の道の物語 終わり  神奈備 2008/07/22(Tue) 08:43 [Reply]
関屋越・田尻越

 ざっくり言えば、近鉄大阪線のコース。


穴虫越

 近鉄南大阪線のコース。葛下郡高田から穴虫峠を越えて安宿郡飛鳥・古市に至る道。この道も天武八年に竜田山と並び大坂山に関所が設けられた。安宿郡飛鳥には飛鳥戸神社が鎮座していますが、大和から見て飛鳥の入口の場所と言えそうです。

 『大和の原像』で小川光三氏は、太陽の道として、東は伊勢斎宮跡から檜原神社・箸墓、さらに真西へ行くと穴虫峠に至り、大阪では堺市日置荘の萩原天神社。大鳥大社を経由して淡路島の伊勢森に至る道です。


竹内嶺
 当麻町長尾に長尾神社が鎮座しています。この神社は吉野から堺に行く長尾街道と竹ノ内街道との交点に鎮座しており、祭神にも吉野との関連の見られる神社です。
 当地に伝わる伝説では、長尾神社は東面し、大和高田の竜王社(石園座多久虫玉神社)は西面し、長尾神社は竜の尾をあらわし、竜王社は竜の頭を現すとあります。また、長尾神社は大蛇、つまり巳さんの尾で、三輪明神さんは巳さんの頭、竜王社は腹(子宮)であるとも伝えられています。

 長尾神社以西は竹ノ内街道と呼ばれた官道でした。河内の丹比道に繋がり、堺の開口神社に至ったようです。千田稔氏は、『探訪古代の道巻2』の中で、開口神社の場所こそ古代の大伴御津と呼ばれた港ではなかったかとされています。同感です。
 立野越えの道は河内では大津道につながりますが、これもまっすぐ西で開口神社に至ります。


水越嶺
 葛城の一言主神社や長柄神社から葛城山と金剛山の間になる水越峠を越える道です。途中に葛城水分神社も鎮座しています。河内側には建水分神社が鎮座。
 御所市には葛城襲津彦が半島から連れてきた渡来人を多く住まわせてハイテク団地を形成したのですが、また河内側(河南町付近)にも多くの渡来人が住んでいたと思われ、この峠こしに技術交流がなされていたのでしょう。

[9204] 浪速の道の物語 立野越・亀ノ瀬越  神奈備 2008/07/21(Mon) 13:59 [Reply]
 官道であった。竜田大社から雁多尾畑に上がって行きますと、法隆寺龍田神社の本宮跡があり、また更に登りますと龍田大社の神が降臨された御座峰があります。毎年元旦に神主さんがお参りに来られるとか。この登り道は古くからの道だったのでしょう。雁多尾畑を西に下っていきますと、金山姫神社・金山彦神社が鎮座しています。この道は古くから人々が行き来していたようです。

 また、龍田大社門前から大和川沿いに南に行くと磐瀬杜碑が立っています。
万葉集に歌われた石瀬の杜です。巻八 鏡女王(かがみのおほきみ)の歌一首
1419 神奈備(かんなび)の石瀬(いはせ)の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ吾(あ)が恋まさる

 後にはこの杜を通り、大和川の北側を亀ノ瀬に行き、ここから雁多尾畑に上がり、青谷に下り、大和川を渡り、国分に至った道を立野越と言うようです。近世は奈良街道、古代は長尾街道とか大津道と呼ばれていました。
 亀ノ瀬から雁多尾畑に登っていくのは大変でありますが、亀ノ瀬から西は地滑り地帯で、危険この上もない道だったのです。現在も地滑り防止の工事を行っています。電信柱のような物を何万本も地中に打ち込み続けています。ここが地滑りで蓋をされますと、大和国中が水没し、大和湖が出現してしまうのです。

 『日本書紀』では、神武天皇の軍は竜田に向かいましたが、その道は狭く険しくて人が並んで歩けなかったとして引き返しています。

 『履中前紀』では、どうやら高津宮(多分難波宮とほぼ同じ場所)で住吉仲皇子の陰謀によってあやうく殺されそうになる際、近くの臣に助けられて大和へ逃げるのですが、竹内峠を越えようとしていたようですが、少女が兵士が山中に多くいるので、別の道をと言い、竜田山越の道を通ったとあります。
 狭い道だったので攻められやすいと言うことで、ここは軍としてはあまり通らない道だったので待ち伏せされなかったのかも知れません。なお、『古事記』では当麻道を通ったとしています。

 壬申の乱では近江方が大和に攻め込む様子を感じて、天武側は竜田、大坂(当麻)、石手(竹内)を守らせます。こういうこともあってでしょうが、天武八年に竜田山・大坂山に関所を設けています。

 亀ノ瀬は葛城二十八品の経塚を埋納した二十八番目の場所とされています。第一番は加太の友が島の序品窟です。亀ノ瀬に当たる場所は大和川内の亀岩と呼ばれている岩。

 柏原市国分や安堂は遺跡の多い場所で古代からの交通の要衝だったのでしょう。ここから磯齒津路や大津道に渡るためには大和川か石川を渡る必要があります。多くの人々が渡っていったことでしょう。対岸の藤井寺市にはまた多くの遺跡が集中している地帯です。ここに船橋と言う地名が残っており、かっては船橋が架けられたのでしょう。

 万葉集 巻九 一七四二
河内(かふち)の大橋を独りゆく娘子を見てよめる歌一首、また短歌
1742 しな照(で)る 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上(へ)よ 紅の 赤裳裾引き 山藍(やまゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく

 吉田東悟『地名辞書』によれば、「片足羽川」は大和川の別名であり、大県郡の旧名の堅鹽からの名としています。カタシハと訓。

 この橋の架かっている西側の地名は船橋です。船橋とは船を並べてその上に板を置き、歩いて通れるようにした橋のことです。『日本書紀』仁徳一四年、「猪甘津に橋為す。即ち其の処を号けて小橋という。」とあります。これが最古の記録。ここにも舟橋なる地名があります。初期の橋は舟橋だったのでしょう。

 万葉集で歌われている橋が船橋だったかどうかですが、その昔にはやはり船橋が架かっていたのでしょう。


[9203] 浪速の道の物語 暗嶺越 十三峠越   神奈備 2008/07/21(Mon) 13:19 [Reply]
 生駒市西畑から暗峠を越え、大津神社のある水走、高井田・足代に至る道。国道308号線。 生駒山側では、枚岡神社の北側に出る。暗峠と云うのは小椋山を越えていくからとの説がありますが、小椋山は龍田越えの山とする万葉歌(巻九−一七四七)があり、定かではありません。

 この道の途中の足代はアジロと読むようです。猪飼野の古書店主さんに足代さんがいて、地域の有名な郷土史家ですが、彼が足代について調べていたおり、四天王寺の塔を建設の際の足場を足代と言ったと言うことを突き止めておられました。他には網代からの変化などもあったようです。

 難波宮と平城京の最短コースとされています。官道です。当麻の加守神社の蟹守宮司さん曰く「官道とはお上が造った道と言う意味ではなく、役人のみが通ることが出来、一般庶民は通行禁止の道のこと。」との説がありました。竹内街道もそうだったと云います。

 
十三峠越 

 法隆寺の近くの平群郡竜田から北西方向に行き、福貴畑から十三峠を越え、八尾市神立に降りてきます。難波の三種の神器の一つである玉祖神社が鎮座、(後は劔の石切神社、鏡の若江鏡神社、これらが正三角形をなす。)、難波の宮の南東すぐに玉造の集落があり、ここから南下して難波大道を行き四天王寺から東に曲り、玉祖神社に参詣した道です。俊徳丸と在原業平のことは[9151] で触れました。

[9202] 冬の蚊帳  素人 2008/07/20(Sun) 16:57 [Reply]
やっと手に入れました。安い小振りの薄い雑誌です。
言語生活326「上代表記の成立と渡来人の役割」姜斗興(かん と こう)
立命館大学講師 上代語研究
素人には読みにくい雑誌です。
佐々木様こんな専門的な本を読まれているのですか、すごいですね。
史部(ふひとべ)が主題なのですが、解りやすく言えば書記のことのようです。
この書記が半島の方で、渡来されて活躍され、万葉仮名を完成させて日本語の文字表記に大活躍されたとのお話のようです。
しかし、多説あるようで表記法に新しい時期の中国語の表現があったりして、中国からの新渡来者と見られる方もおられたようで半島とは限らなかったようです。中国語の読み書きですから朝鮮語は全く必要ありません。朝鮮の書記と言っても元々中国人だったわけですから朝鮮に長くいた中国人一族が移民してくることもあるわけで、これも中国人ですね。
朝鮮人の関与を現存の古文書の中から探そうとしておられるようですが、苦戦されておられたようです。
 博学な橋本様、当時の時代背景はどのような時期だったのでしょうか、「上代表記の成立と渡来人の役割」に対する所見も、ご指導お願いいたします。
これも青草でした。

[9201] 目と製鉄  素人 2008/07/20(Sun) 16:49 [Reply]
佐々木様
>  亀高さんは場違い?と思いますが、実はそうでないのです。
>  高炉で出てくるコークス炉ガスの精製技術、鉄の腐食抑制技術などなど、神鋼ほかは非鉄溶接棒鍍金などでちょっと違った鉄鋼大手です。
>  氏の学位は白内障の測定技術、つまり光学分野の薬学的応用ですね。神鋼での経験をうまく料理されました。

あまりに青草ですが、製鉄ですから一目連神社 天目一箇命ですか。

[9200] Re[9199]: 暑中見舞い  佐々木 2008/07/20(Sun) 11:18 [Reply]
 こちらこそ。
 何か朝からお叱りを受けたような。
 亀高さんは場違い?と思いますが、実はそうでないのです。
 高炉で出てくるコークス炉ガスの精製技術、鉄の腐食抑制技術などなど、神鋼ほかは非鉄溶接棒鍍金などでちょっと違った鉄鋼大手です。
 氏の学位は白内障の測定技術、つまり光学分野の薬学的応用ですね。神鋼での経験をうまく料理されました。
 でも古代史・考古学分野も最先端の科学的手法が加わり革命期にありますが、やはり現場と信頼できる人でしょうか。
 実は今中公新書「水害」宮村忠を読んでいますが、利根川中条堤のところを見ておりますが、大阪茨木市と同じ小字が大多数。ここが中臣の関東の地でしょうか。

[9199] 暑中見舞い  とみた 2008/07/20(Sun) 10:30 [Reply]
神奈備さん 佐々木さんの両巨頭のお陰で古代史漫遊も、楽しんでいます。

昨日の新聞に出ていた話。神戸製鋼の元社長の亀高さんが、引退されて10年、全く畑違いの薬学を猛勉強されて 82歳で北里大の薬学の博士号を取得されたんですって。

指導教授曰く、熱意としつこさに敬意との仰せでした。

昔は薬学は、薬草学でしたが、今は亀の甲、ベンゼン核の有機化学が必要でしょう。

私も実は、学生時代の専門はこちらでした。

それが、畑違いの古代史。コレハ古墳と副葬品の分類学。亀は道教だしね。

亀の甲より年の功。

理数系人間が、古代史を探求するにはやはり”しつこさ”です。

Walking Dictionary のお二方、素人さんも猛烈な追求派です。

自分で納得できるまで、説明を求める。いい加減な論理は、どうも合わない。私も同じですね。

でも本当は、インスピレーションとか感性が科学でも大切であることは私なりに承知しています。

その上、年代測定、鉄の工学、DNA、鏡の同位元素分析など古代史も科学的な技法も取り込まれてきて、実験考古学の分野も充実してきていますね。文献と神社の由緒と科学の間で古代史は益々複雑になってきましたが、それだけ面白さもありますね。

何時までもヒヨッコの修行時代を続けます。

向暑の折柄、時には、一服しながら、ご交誼の程をお願いする次第です。

夏ばてに、熱中症が加わって、加齢とともに華麗には参りません。

皆様、ご自愛のほどを




[9198] 浪速の道の物語 中垣内越・生駒越・辻子谷越え  神奈備 2008/07/20(Sun) 08:15 [Reply]
 平城京から西へ行く道で、添御縣坐神社の鎮座する三碓(みつがらす)を通り、生駒市俵口から龍間から中垣内西に行く道。阪奈道路のコースで善根寺に出ることになります。

 善根寺は草香山の裾になり、草香山の末端にあたる宮山に春日神社が鎮座しています。磐座なのか古墳の石なのか、が置かれている神社です。扁額には「日本最初春日大社」と記されています。

 この神社の前を北西に行き、阪奈道路の下をくぐって進むと、八幡山への目印が出てきます。八幡地蔵尊や磐座祭祀の八幡神社が見えてきます。八幡神社は和気清麿が祀ったと由緒板にあったように記憶しています。

 谷川健一氏『白鳥伝説』には、「勝井純『神武天皇御東遷聖跡考』に、この道を日下の直越としている。」と述べています。どんどん行きますと最終的には生駒の燈篭ゲートに出るのですが、その途中に饒速日山があり、また草香山と呼ばれています。この山を水源とする川を「日の川」と称し、饒速日山と太陽信仰との関連が偲ばれます。

 近鉄石切駅を降りて石切神社上宮方面に歩いて行きますと、そのまま生駒山に登っていく道があります。辻子谷越えと呼ばれます。小生は足慣らしに時々この道を通り、山頂を目指します。直線的に登り、直線的に降りる、まさに直越えの道とする説があります。

五年癸酉(みづのととり)、草香山を超ゆる時、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)がよめる歌二首
0976 難波潟潮干の名残よく見てむ家なる妹が待ち問はむため
0977 直越(ただこえ)のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも
0977 一直線に山を越えてくるこの道でこそ、海面全体が輝いている難波の海と名付けたらしい

[9197] Re[9195][9192]: 情報の訂正と補足2  佐々木 2008/07/20(Sun) 06:03 [Reply]
> 5世紀からでしょうね。ところが宇治では、須恵器が出て、共伴の木片の測定で380年代のものとされて一番古いですよね。

 枚方の須恵器の窯は北くずはと、神奈備さんがご案内された荒坂峠付近の長尾荒坂、普賢寺越え大阪側の田口です。あと幣羅坂越えの招堤。
 地名では灰原となっています。須恵器の窯の設計に日置Gが関与したのでしょう。
 枚方の日置氏の繁栄は白鳳期から12世紀ごろです。

 宇治の年代は、木製品の年代なので、多少差異はあるでしょうが。
 実際遺構を見た側としては???です。参考記録程度。あと数件の資料が必要です。

> 四条畷資料館の野島先生の話では、北河内の土器は瀬戸内海からでなく、丹後のものに似ているようです。中河内の大和川の柏原市船橋遺跡には瀬戸内の吉備の土器が入っているのと対照的です。
 北河内は、それ3世紀?以降の朝鮮伽耶の輸入もの?が目立ちますね。淀川の津付近の遺跡で見られる。
 今日も37℃だそうです。また避難します。


> 別の方の資料では、男山第三中学の横にあった、八幡茶臼山古墳は、継体の時代より はるか以前の古墳で、古墳時代前期に淀川の水運を利用して遠く九州、それも肥後との交易があったとされています。

 ついでですが、茶臼山の場所は今は山城ですが、本当は河内なんです。
 また茶臼地名は、百済系地名として少し有名です。

[9196] Re[9195][9192]: 情報の訂正と補足2  佐々木 2008/07/19(Sat) 15:58 [Reply]
> 枚方の土器は土師器か須恵器どちらでしょう。
 日置の土器(土師器)作りは、かなり有名でしたが、最近入る情報が多いので、文献はまた後日で。難波津の警備も伺ったのですが。
 梁塵秘抄の樟葉の御牧の土器作りのころは須恵器も出てきています。当たり前ですが。
 まあ、みなさん後期高齢者または予備軍ばかりで、見分けがつきません。
 森浩一先生の可能性が高いですが。

> 石清水八幡宮の宮司は紀氏。

 紀氏系の田中氏、善法寺氏(足利義満母)、新善法寺家の3家+尾張氏or和邇?氏系の志水氏(尾張徳川家義宣母)。
 昨年から国の宝物庫の学術調査が入り、結果が期待されるところ。
>
> 八幡市の内(有智)には“伽和羅=カワラ”という地名があり、甲作りの集団がいたとされている。

 これは誤解でして、武具製造の「かはら」は戦国時代まで、八幡宮の東側の方です。伝承と関連文書があります。牛馬飼連から皮革を仕入れるには、こちらの方が近いです。木津川の氾濫からもやや無縁です。直線距離でわずか500m程度。
 彼らは大住隼人を自称していますが。斎藤実盛の末裔が多いです。
 内里にも河原があります。伝承は不明です。

 私も全く関心がなかったけれど、なぜか訪問先の郷土史について、衝動買いの性質を持ち合わせておりまして、その関係で図書を偶然にも多く持っていたのです。
 本を読む暇がないのは今も変わりませんが。

[9195] Re[9192]: 情報の訂正と補足2  とみた 2008/07/19(Sat) 14:09 [Reply]
> 以前 とみたさんからの質問でしたか
>  枚方の日置氏。
>  日置臺、北臺の小字地名がありますが、「臺」の文字が、測量地名といえるそうです。
>
>  おそらく堺の陶邑が衰退して(薪炭がなくなった?)、枚方へその機能が移転したときに、日置氏も移動したと思います。日置氏は土器作りにも関わったとの地元伝承(おそらく日置山遺跡のこと)があります。

へえー日置氏は土器も作る。

和泉の日置荘では、鋳物の土と鋳物師を全国に出していることと、鍛治もやっていたことが遺跡から判明。

和泉といえば、陶邑のオオタタネコと大物主で神直は神人が全国に派遣されて、三輪信仰と須恵器を広げています。

5世紀からでしょうね。ところが宇治では、須恵器が出て、共伴の木片の測定で380年代のものとされて一番古いですよね。

枚方の土器は土師器か須恵器どちらでしょう。

四条畷資料館の野島先生の話では、北河内の土器は瀬戸内海からでなく、丹後のものに似ているようです。中河内の大和川の柏原市船橋遺跡には瀬戸内の吉備の土器が入っているのと対照的です。

>  なお枚方の日置周辺では弥生後期から古墳の集落遺跡で、焼失跡が数件見られることから、倭国大乱?の可能性もあります。
>  土器作りは近代まで壬生寺の焙烙づくりとして継続しました。
>
>  八幡の内(有智)氏
>  八幡市内里には日向堂、京田辺市松井向山地名があり、日向隼人が居た。美濃山女谷の横穴群は、日向隼人の墓との見解があります。
>  参考 京都地名研究会「「京都地名の検証」勉誠出版、(松井の項)による、古川章氏。
>  お役に立たないかもしれませんが。

森浩一先生は、私はかなり信用している方です。80歳近くで後継者に思いを託されて書かれています。

僕の古代史発掘という著作に、淀川と紀氏との関係を書かれています。

石清水八幡宮の宮司は紀氏。八幡の茶臼山古墳は阿蘇凝灰岩を使った舟形石棺と鉄剣が出る。茨木の海北塚古墳の横穴式石室の石材は紀ノ川流域のもの、守口市高瀬の淀川の渡し守は、紀伊の国人の小玉。

八幡市の内(有智)には“伽和羅=カワラ”という地名があり、甲作りの集団がいたとされている。

別の方の資料では、男山第三中学の横にあった、八幡茶臼山古墳は、継体の時代より
はるか以前の古墳で、古墳時代前期に淀川の水運を利用して遠く九州、それも肥後との交易があったとされています。南山城の堀切谷7号墳には、直弧文を刺青した武人埴輪で出ているそうで、何れにせよこのあたりは、南九州とか肥後とか、隼人とか関係がありそうで、想像を巡らせています。

現役で大阪赴任の樟葉生活の時は、全く古代史のイロハも知らなかったのが今になって惜しまれます。


[9194] 熊野三所権現本地仏図  和歌山(橋本) 2008/07/18(Fri) 23:28 [Reply]
 突然ですが、熊野三所権現本地仏図(絵画)の作例を探しています。奈良県生駒市に類例が有ります。どなたかご存知ありませんでしょうか?

[9193] Re[9188][9184][9183]: 「久須婆」の渡考  佐々木 2008/07/18(Fri) 21:00 [Reply]
 大三元さん
 大変面白く拝見。
 少し青草です。

 クソバ カマ⇒ クズハ カマ ⇒ 久須婆 河間 :くずは の河の間
 クソバカ マ  ⇒ クズ マ     (くそ ばか まぬけ とも見える?)
 カマ:平岩 ⇒ここでは平たい中州のこと?
 クソバカ:クズ????

 ちなみに日本書紀垂仁記での地名の説明で
 オチクニが訛って、オトクニというのがありました。

 さらに万葉集4211では、久須婆之伎(くずばしき)というのがありました。

[9192] 情報の訂正と補足2  佐々木 2008/07/18(Fri) 20:22 [Reply]
以前 とみたさんからの質問でしたか
 枚方の日置氏。
 日置臺、北臺の小字地名がありますが、「臺」の文字が、測量地名といえるそうです。

 おそらく堺の陶邑が衰退して(薪炭がなくなった?)、枚方へその機能が移転したときに、日置氏も移動したと思います。日置氏は土器作りにも関わったとの地元伝承(おそらく日置山遺跡のこと)があります。
 なお枚方の日置周辺では弥生後期から古墳の集落遺跡で、焼失跡が数件見られることから、倭国大乱?の可能性もあります。
 土器作りは近代まで壬生寺の焙烙づくりとして継続しました。

 八幡の内(有智)氏
 八幡市内里には日向堂、京田辺市松井向山地名があり、日向隼人が居た。美濃山女谷の横穴群は、日向隼人の墓との見解があります。
 参考 京都地名研究会「「京都地名の検証」勉誠出版、(松井の項)による、古川章氏。
 お役に立たないかもしれませんが。

[9191] 浪速の道の物語 清滝越  神奈備 2008/07/18(Fri) 20:21 [Reply]
 東大寺へ宇佐八幡を勧請した時、平群郡で奉迎したと言う『続日本紀』巻十七の記事のある八幡宮を無足人で知られる高山八幡宮に比定されていますが、この付近には西からの交通路があったようです。このから西へ向かうとすれば、国道163号沿いに北田原に出て飯盛山を目指すことになります。清滝峠を越えて逢坂に出て、四条畷市の式内の国中神社に出て、東高野街道に突き当たります。

 この東高野街道は高野の名前は別として生駒山西側を南北に貫通する古道であったと思われます。二上山のサヌカイトが生駒山麓から北摂にまで点在し、縄文時代の遺跡もこの街道沿いにあり、弥生・古墳時代の遺跡も街道沿いに分布しており、現在まで生き続けた古道の遺跡と言えるでしょう。

 『行基年譜』には、「直道一所 在自高瀬生駒大山登道」とあります。清滝越の道はより西で高瀬の渡しに繋がります。式内高瀬神社も鎮座しています。また、『播磨国風土記』に大帯日子命(景行天皇)が川渡りの際、紀伊国人小玉が「あなたの家来ではない。」と主張し、渡し賃を取った説話がでています。紀の国の人が淀川水系の水運を握っていたことが偲ばれます。

 平城京から長岡京へ行くのに高瀬から淀川の北側の三島路を通ったと云います。

[9190] 情報の訂正と補足1  佐々木 2008/07/18(Fri) 18:03 [Reply]
神奈備さんからの質問で
 京田辺の息長氏。
 朱智神社の社記に「息長朱智」、地元の古文書「下司(げし)古墳之図」に「下司館・息長山・息長家居住之地、息長家之墳也」、下司氏は息長氏を名乗っている。

 追 記
 京田辺市山崎について、山崎神社のあるところの古墳は、継体さんの第八皇子菟皇子の古墳との古文書の存在。玉造遺構が最近発見された。日本最初の麩による酒造りの場所。大友皇子の縊死した場所。
参考 京都地名研究会「京都地名の検証2」三山木、「「京都地名の検証」筒木による、ともに小泉芳孝氏。
 とみたさんへ 内氏と日置氏に関する情報は後ほど。

[9189] Re[9188][9184][9183]: 「久須婆」の渡考  佐々木 2008/07/18(Fri) 07:52 [Reply]
> この機会に、私の現状の考えをあげておきましたので宜しかったらご覧ください。
> http://www.dai3gen.net/kusuba.htm

 鋭意勉強させて頂きます。大三元さんのサイトは、知り合いに教えているのですが、まずパソコンからなので。

[9188] Re[9184][9183]: 「久須婆」の渡考  大三元 2008/07/18(Fri) 00:01 [Reply]
>  アイヌ語の解釈は「大三元」さんのホームページ「縄文地名解への自戒、確信に至る時」に拠りますが、ほか文書(紙ベース)では、どれを引用するのがベターなのでしょうか。急ぎませんのでご案内を乞います。

リファ有り難うございます。紙ベースのアイヌ語によるクスバ・考は記憶にありません。

この機会に、私の現状の考えをあげておきましたので宜しかったらご覧ください。
http://www.dai3gen.net/kusuba.htm


[9187] Re[9185][9177][9176]: 浪速の道の物語 普賢寺越え  佐々木 2008/07/17(Thu) 11:41 [Reply]
 ありがとうございました。
 私は、ずっと神奈備さんは伊太祁曽神社さんの神職と誤解しておりました。
 
 古代関係の集会は、どこもかしこも還暦以上の講演者が目立ってきまして、なんとなく寂しいような。

[9186] 古代を偲ぶ会 例会予定  神奈備 2008/07/17(Thu) 11:09 [Reply]
2008 7 19 14時〜16時
四条畷市教委 野島 稔さん
テーマ 河内の土器
会場:エル・大阪 京阪天満橋下車 5分
大阪市中央区北浜東 3-14
一般の方 1,000円(申し込み不要)
http://kamnavi.jp/link/sinobu08.htm

[9185] Re[9177][9176]: 浪速の道の物語 普賢寺越え  神奈備 2008/07/17(Thu) 10:53 [Reply]
>  伊太祈曽さんに、NHK和歌山の湧き水取材で訪問されたと大分前に伺いましたが、何か放送でもあったのでしょうか。

伊太祁曽神社さんからの返事がありました。

取材後の放映等については特に連絡がなかったのでどのようになったのかわかりません・・・。

[9184] Re[9183]: 「久須婆」の渡考  佐々木 2008/07/16(Wed) 23:53 [Reply]
 アイヌ語の解釈は「大三元」さんのホームページ「縄文地名解への自戒、確信に至る時」に拠りますが、ほか文書(紙ベース)では、どれを引用するのがベターなのでしょうか。急ぎませんのでご案内を乞います。

[9183] 「久須婆」の渡考  佐々木 2008/07/16(Wed) 20:53 [Reply]
 「くずは」はアイヌ語のkusa/kuspa(船で川を渡す)起源と考えると、現楠葉よりも南の牧野の方が近いよう((久須須美神社や九頭神廃寺)が牧野にあること)に思えたので、万葉集で確認してみました。
 楠葉中ノ芝(死馬)には久修恩(くずおん)院がありますが、これは以前は木津(こづ)寺と言っていた(枚方市史)ので、考慮しないことにしています。

1742原文
級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳<數>十引 山藍用 <揩>衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久

訓読
しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく

 伝承では、片足羽川は淀川支流の船橋川(京阪電鉄くずはと牧野の間)とされています。
 い渡らす子とあるので、その場所を久須婆の渡しと置いてみました。
まずさ丹塗りの 大橋はどこか。
 久須須美神社や九頭神廃寺付近で南北方向の大道の遺構がある(枚方市史)ので、その北への道、つまり平安期以前の南海道と考えます。
 その延長は南船橋町と西船橋町あたり、かつて大日池と神社(祭神不明)があり、船橋があったと伝承されている場所に相当します。
 ゆえにその船橋が「さ丹塗りの 大橋」と考えます。
 そこから見える渡しとすれば、大橋の南200mのところ、もちろん南海道沿いですが養父集落(養父元町)があります。そこに久那斗神を祀る道祖神社がありました。
 ゆえにこのあたりに久須婆の渡があったのではないかと考えます。
 またここを久須婆の渡とすると、古事記で兵が浮いた、鵜河は京阪電鉄線付近となります。
 これは地形的に追いかけると京阪牧野駅付近で穂谷川と合流して淀川に流れていたことになります。
 継体宮を二宮神社とする私の仮説の可能性が高くなったのだろうか。

[9182] 浪速の道の物語 岩船越  神奈備 2008/07/16(Wed) 20:48 [Reply]
 磐船街道のことで、京阪交野線終点の交野市私市から南へ天野川の渓谷沿いの道です。ほしだ園地に哮が峯とされる山もあり、また神功皇后が食べた梅干しの種から生えたとされる梅の木の跡などを経由、別れて磐船神社の巨石の前への道があり、また車の多い国道168号線の街道に戻ります。

 磐船神社の前にも饒速日尊降臨の石とされる巨石があり、先に書いたように哮が峯も別にあり、にぎやかな饒速日尊伝承地。

 天野川は生駒市の南田原のお松の宮付近を分水嶺として南へは富雄川が流れ、大和川へ入ります。饒速日尊が十種の神宝を持って降臨し、神宝は磐船神社に置かれたのですが、久しく祀る人もいなくなり、神宝も分散、従って磐船神社の松の枝を持ち帰り、南田原の神社に植樹、松の木鬱蒼と生えしげっていたと言う伝承があります。岩船社は摂社になり、住吉神社が覆い被さったようです。

 分水嶺を過ぎて富雄川沿いに南下していきますと、今度は式内の登弥神社が出てきます。

 この岩船越の大和国部分は古くは鳥見と云われ、神武伝承に登場する英雄である長髄彦の地盤だったようです。

 この岩船越は渓谷沿いの厳しい道だったとは思われますが、大和にも河内にも両サイドが物部氏の拠点のようであり、往古は頻繁に通われていた道だったと思われます。

[9181] 万葉集  ぽんた 2008/07/16(Wed) 18:52 [Reply]
約4500首
毎日10首アップして・・・450日か・・・
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/manyou/manyou.htm

[9179] Re[9178][9173][9172][9166][9165]: コア箱を見てみたい。  佐々木高久 2008/07/16(Wed) 11:40 [Reply]
> この掲示板では、多くの方々が歴史に関して(特に古代史)に関して書き込みをしています。その多くが(僕も含めて)アマチュアですし、独学で勉強しています。
 ですから、専門的に学んだ方からみると「常識」とされる事象も知らずに書いている場合があります。あるいは思い込みで書いている場合もあります。
 そういう場合、個々の書き込みに関して間違いを指摘し、教えあうのではないでしょうか。

 ああそうゆう考え方もありますね。
 私も残念ながらアマチュアです。古希を過ぎてから生涯学習や聴講生として学んだのです。それは興味があったからです。
 最初はいきなり個別の事象について、よく学者に尋ねたものです。
 何度も基礎をちゃんと学びなさいと門前払い。それからは手当たり次第基礎的なものを読み出し、何度も挑戦をしつづけてきたのです。
 今ではよく相手にしてくれたと思います。
 興味を持つことにアマもプロの境界はないと私は思います。興味があれば挫折しても立ち上がれると思います。またそうでなくてならないと思います。
 そうやっているうちに、何か見えてくるのだと思います。
 ただそうゆう意味では、私は厳格な人間の部類かもしれませんね。


> 僕が何か(たとえば古代史に関する)書き込みをして、間違いを指摘されることなく、「本を読め」「基礎を学べ」と指摘された場合を考えるとゾッとしますし、2度と顔を出さないでしょう。

[9178] Re[9173][9172][9166][9165]: コア箱を見てみたい。  玄松子 2008/07/16(Wed) 11:04 [Reply]
>  素人さんは、勉強熱心な方ですから基礎を学べば、もっと上質の討論ができると思いましたので。
>  述べている意味がわかりますでしょうか。玄松子さんありがとう。
>  ちょっと冷たい対応のように見えたかもしれませんが。

わかりません。掲示板は学会ではありません。

この掲示板では、多くの方々が歴史に関して(特に古代史)に関して書き込みをしています。
その多くが(僕も含めて)アマチュアですし、独学で勉強しています。
ですから、専門的に学んだ方からみると「常識」とされる事象も知らずに書いている場合があります。あるいは思い込みで書いている場合もあります。

そういう場合、個々の書き込みに関して間違いを指摘し、教えあうのではないでしょうか。

僕が何か(たとえば古代史に関する)書き込みをして、間違いを指摘されることなく、「本を読め」「基礎を学べ」と指摘された場合を考えるとゾッとしますし、2度と顔を出さないでしょう。

[9177] Re[9176]: 浪速の道の物語 普賢寺越え  佐々木高久 2008/07/16(Wed) 10:16 [Reply]
神奈備さん
> 荒坂越えより若干南側の道が普賢寺越え。
 
 徳川家康・穴山梅雪で少し有名ですね。荒坂、幣原よりはかなり険しいですね。田原道ですね

> 山号以外に息長氏がいた証拠はあるのでしょうか。
 
 現状なかったと思います。私が調べている限りでは、継体の葛葉、弟国、筒城の3宮は古墳時代以降白鳳期までの集落遺跡等の分布密度が高い地区となっていること程度。だれなのかはわからない。遺物に渡来人の雰囲気は感じないと文化財関係者はいうのですが。

> ここも息長氏の拠点。継体さんがやって来たから息長氏の拠点であったとするのは論理がギャグになるのでは。
 すでに根付いていたと考えるべきでしょうが。
 坂田郡山東町に埋葬者は息長氏と伝承される古墳が多いですね。野洲の三上神社にも伝承があるそうですが、ここまで南下しますと宇治田原、井手、京田辺まで進出している可能性はありますが。

> その話より、普賢寺越えのお話に戻りますが、この道を河内に入ればやはり楠葉に行くとこが出来ます。木津川の水運と陸運とで二つの宮はつながっています。また木津川・宇治川・桂川の三川を越えれば、弟国宮です。北陸、琵琶湖と水運の中で育った継体さんらしい宮の分布とも言えます。大和へ入るのをグズグズしていたのは、内陸の盆地などは夏は暑いし、いやだったのかも。
 
 昨年末と今春に、枚方で継体の関するシンポがあったようですが、千田稔さんは継体さんは大和に入りたがらなかったと発言されていました。また経済的に豊かな南山城河内に居る方が合理的であったか。
 
 蛇足ながら木津川(泉川)は当時近鉄線あたりを流れていたそうです。京田辺の飯岡は木津川の右岸だったそうです。
 筒木宮の前の江津あたりから舟にのって、下流の水主神社付近から仁徳さんの「栗隈大溝」を抜ければ、巨椋池の市田に出るので、この三宮は陸、水の便ではすぐれた立地といえましょう。今ならば神戸大阪京都のような感じですか。
 ただ筒木宮と大和は、気候的にはよく似ていると思いますが、筒木は極端に年間降雨量が少ない。養蚕にはよかったのか?弟国宮も伝承のところは大和以上に暑いところですが、もう少しの南の大山崎なら。
 さらに蛇足ですが、樟葉付近は「越の国」と呼ばれ、隣接する八幡市南部には大字美濃山があります。
 伊太祈曽さんに、NHK和歌山の湧き水取材で訪問されたと大分前に伺いましたが、何か放送でもあったのでしょうか。

[9176] 浪速の道の物語 普賢寺越え  神奈備 2008/07/16(Wed) 08:38 [Reply]
 佐々木さん、八幡市志水は石清水に遠慮した表記だそうですね。河原崎なる地名も見えますね。


 荒坂越えより若干南側の道が普賢寺越え。

 [8949] で、佐々木さんから、京田辺市の三山木に越前と云う地名が残っていることを教えて頂きましたが、丁度和銅四年に設置された山本駅付近のようです。

 ここから西に向かうと多々羅(新宮社が鎮座)、そこから西に大御堂観音寺(式内地祇神社が地主神)が鎮座。山号を息長山と称しています。息長氏が南山城に進出していた根拠とされています。尤も、感心山と云う山号もあったようです。山号以外に息長氏がいた証拠はあるのでしょうか。

 継体天皇が筒城宮を置いたのが多々羅付近とされ、従って息長氏が支援した大王とされています。大王の后の何人かは近江の坂田郡の人で、ここも息長氏の拠点。継体さんがやって来たから息長氏の拠点であったとするのは論理がギャグになるのでは。

 交野樟葉宮、山代弟国宮付近にも息長氏がいたのかどうか。

 その話より、普賢寺越えのお話に戻りますが、この道を河内に入ればやはり楠葉に行くとこが出来ます。木津川の水運と陸運とで二つの宮はつながっています。また木津川・宇治川・桂川の三川を越えれば、弟国宮です。北陸、琵琶湖と水運の中で育った継体さんらしい宮の分布とも言えます。大和へ入るのをグズグズしていたのは、内陸の盆地などは夏は暑いし、いやだったのかも。

 ついでに、多々羅は百済の奴理能美の住居があって、仁徳皇后の石日売がやってきています。また普賢寺道を枚方に行きますと百済王の本貫地、また継体さんは百済の武寧王から鏡を貰っており、これは和歌山の隅田八幡宮に伝承されていましたが、息長、百済、継体が混沌としている普賢寺越えでのようです。

[9175] Re[9174][9170][9169]: 浪速の道の物語 荒坂峠  佐々木高久 2008/07/15(Tue) 21:09 [Reply]
補足まで
> > 甲作郷は、八幡市八幡神原あたりを中心としたところだそうです。
>八幡神原まで行けば、西に抜ければ楠葉ですが、「伽和羅」を京田辺市河原に比定すれば、大住から荒坂峠のコースも矛盾はなさそうです。

 確かにそうだったのですが、数年前文書(八幡の正法寺文書)が出てきまして、「伽和羅」の場所は、八幡神原から志水あたりとのありました(現地の伝承とも一致)、京田辺市郷土史会が看板を作った京田辺市河原でないことがわかりました。
 たしか京田辺市河原は志磨郷(要確認)でした。
 
> > 幣羅坂
>『古事記』では、少女が歌っている場所は山代の幣羅坂となっており、『日本書紀』では和珥の坂です。怪異が起こる場所は坂であり境であるということ。
 山代の幣羅坂は歌姫街道の「市坂」の方でしょうね。八幡はちょっと変?ですね。

 神奈備さんならご記憶の片隅にあろうかと、例のアテルイモレを切ったところも埴山(ほかに椙山)がありました。

[9174] Re[9170][9169]: 浪速の道の物語 荒坂峠  神奈備 2008/07/15(Tue) 20:15 [Reply]
佐々木さん、ご指摘ありがとうございます。

> 甲作郷は、八幡市八幡神原あたりを中心としたところだそうです。

 八幡神原まで行けば、西に抜ければ楠葉ですが、「伽和羅」を京田辺市河原に比定すれば、大住から荒坂峠のコースも矛盾はなさそうです。

 
> 楠葉に土部(はにべ?)

 これは候補地に相応しい地名です。


> 幣羅坂
 『古事記』では、少女が歌っている場所は山代の幣羅坂となっており、『日本書紀』では和珥の坂です。怪異が起こる場所は坂であり境であるということ。


[9173] Re[9172][9166][9165]: コア箱を見てみたい。  佐々木高久 2008/07/15(Tue) 19:48 [Reply]
> 僕には、素人さんなりに(かなり)勉強して書き込みをしていると思うのですが。

 素人さんはよく勉強されています。これはここ数年の氏の書き込みから見ても、それは十二分に理解できます。
 但し自然科学で個々の細かい現象について、いきなり応用、客観的評価するには、高等学校地学の基礎を学んで、土地の成り立ちなどを理解していないと、自分が十分理解するには障害があろうと思うわけです。
 たとえばAの試料は砂ばかりだった、Bは粘土と砂が交互に出てきた。Cは泥炭と粘土と砂が交互に出てきた。標高はAが一番高く、次にB、Cだったが、高度差は2m程度であったと聞いても、その地域の全体像を知っているか知らないか、地学の基礎が有している少ないかで、議論の質が違ってきます。
 また奈良湖のことは、かつてうわばみさんがきれいなGIS解析図で示されておられました。
 素人さんは、勉強熱心な方ですから基礎を学べば、もっと上質の討論ができると思いましたので。
 述べている意味がわかりますでしょうか。玄松子さんありがとう。
 ちょっと冷たい対応のように見えたかもしれませんが。

[9172] Re[9166][9165]: コア箱を見てみたい。  玄松子 2008/07/15(Tue) 18:06 [Reply]
僕には無関係なのですが、少し気になりました。

>  素人さん
>  まず本を読んで、基礎を学ばれた方がいいと思います。

僕には、素人さんなりに(かなり)勉強して書き込みをしていると思うのですが。

[9171] Re[9167][9163]: 4世紀末の争乱と鴨氏  ペギラ 2008/07/14(Mon) 22:37 [Reply]
ありがとうございます。

まるで、現地にいたような感覚が伝わる、そんな素晴らしい概略。

さすがです。感謝感謝でございます。m(_ _)m

鴨氏・葛城氏・雄略帝・蘇我氏・天武帝

いろんなキーワードが絡み合っているものを解きほぐす。
おもしろいです。




[9170] Re[9169]: 浪速の道の物語 荒坂峠  佐々木高久 2008/07/14(Mon) 17:26 [Reply]
 面白いお話でした。
 本件は、日本書紀のくずはの「くそばかま」のくだりだったように思います。くそを漏らしたのは久須波の渡であったと記憶しています。その前に綴喜郡甲作郷で、甲冑を脱ぎ捨てるようなくだりがあったと思います。
 甲作郷は、八幡市八幡神原あたりを中心としたところだそうです。
 先般も八幡市教育委員会で松花堂の東隣で8世紀の豪族屋敷跡(女郎花遺跡)が発掘されました。ここは丁度山陰道から分岐した古山陽道の沿い(足利健亮氏)にあたります。
 ゆえに古山陽道を綴喜郡大住郷まで戻って荒坂峠を経由したかどうか少し疑問があるところであります。もちろん荒坂峠は江戸時代にはすでに荒坂街道があったことは絵図でも確認できます。
 ではどこを通過して行ったかでありますが、埴安が気になる名称でありますが、埴土で祭器を作り、国を支配すること(安国)を「埴安」と仮定すれば、現在の「楠葉の御牧の土器作り」で有名な南楠葉船橋、長尾、招堤養父など地区(交野郡葛葉郷園田郷)あたりと置くこともできます。 
 小字地名では楠葉に土部(はにべ?)、船橋にはに穴(安?)があります。近くには壬生寺の「ほうらく」の生産地で有名な招堤四人山(よったりやま)もあります。
 さらに幣羅坂という文字も出てくると記憶しております、これは奈良坂と普通考えますが、八幡市にも奈良郷(久世郡那羅郷)がありまして、山城河内の境に幣原(しではら)坂という場所(水月庵付近)もあります。
 そこで幣原から葛葉へ出る道を古い地図で確認すると、足利方式で見ると古代の道路跡と思しきものが途中南海道と当時栄えていた招堤寺内町や日置里で交わり、久須波の渡まで続いているのが読めました。
江戸時代には幣原道と言って、招堤養父船橋南楠葉地区の人たちの甲作郷への買い物街道でした。また正平の役の男山の戦いで負けて、後村上天皇が三種の神器を甲作郷の岡の稲荷社(松花堂の南側)に埋めて、河内へ落ち延びたときの街道でもあります。

[9169] 浪速の道の物語 荒坂峠  神奈備 2008/07/14(Mon) 15:35 [Reply]
 崇神天皇の時、四道将軍を各地に派遣します。北陸、東海、西海、丹波です。丁度大彦が北陸に出発しようとした際、武埴安彦が謀反を企て、山背から攻め入って来ます。また武埴安彦の妻の吾田媛が大坂から攻め入って来ます。四道将軍達が京にいなくなってから攻め込んだ方が将軍達の留守を狙えて成功する確率が高いと思われますが、何故か出発と同時に攻め込んで来ます。四道将軍達は行き掛けの駄賃に武埴安彦と吾田媛を討伐していこうとの情報でも入っていたのかも。

 武埴安彦は孝元天皇の皇子であり、崇神天皇の叔父にあたります。孝元天皇が河内の青玉繋の娘の埴安媛に生ませたのが武埴安彦です。彼は山背に拠点を持っていたようです。
 大坂から攻め込んだのは穴虫峠を越えて当麻道からやって来たのでしょう。西海に派遣予定の五十狭芹彦命の軍がこれをうち破ります。

 武埴安彦の軍は山背から木津川に来ます。和珥臣の遠祖の彦国葺も対岸に到着、武埴安彦は胸に矢があたり死にます。部下の軍勢はおびえて逃げますが、羽振苑(今の祝園)で殺されます。残兵は恐怖の余り屎を袴漏らしながら逃げて楠葉に至ります。屎褌が訛ったと云います。

 祝園から楠葉に至るには、古山陰道を北上し、これはJR学研都市線を北に行き、松井山手駅からさらに西に行き、枚方市長尾駅の手前(東)から北西に進んで楠葉にたどり着いたことになりそうです。

 古代より、荒坂峠と称する峠が山背と河内の境界の最北部にあり、古山陰道から西に分岐していました。京田辺市松井からこの峠を越え、枚方市長尾の荒坂の池の傍を通り、枚方市田口に至る道を荒坂峠といいました。枚方市田口から北上すればやはり楠葉。

 なお、河内の青玉繋の娘の埴安媛の住所については不明ですが、東大阪市加納の宇波神社の祭神は埴安比売命ですが、これはおそらくはイザナミ尊の屎に生成される神と思われます。『記紀』の説話の武埴安彦・埴安媛の名前は楠葉から逆に付けられた名かも知れません。反乱者への侮蔑を込めて。

 また、武埴安彦ですが、河内の豪族の娘を娶ったこともあり、本来は河内彦であり、これは狗奴国の狗古智卑狗のこと、そうすると山背の宇治を許乃国と云ったことから、狗奴国に当てはめると云うロマン解説もネット上で見受けられます。

[9168] 鴨氏の続きに期待  とみた 2008/07/14(Mon) 13:59 [Reply]
神奈備さん

お暑いですね。夏本番です。今春、河内湖の旅の延長で、鴨津波神社を訪れ、宮司さんのお話しも伺ったので、鴨氏の話は大変興味があります。引き続きの詳細の投稿を待ち望んでいます。

[9167] Re[9163]: 4世紀末の争乱と鴨氏  神奈備 2008/07/13(Sun) 21:55 [Reply]
> 昨今の発見としては、「打下」 これ「うたげ」って読みもあるんですね。

遷したよりは進歩しているの鴨。

 詳しいお話は後日となりますが、簡単な概要をとりあえず。塚口義信さん、豊中歴史同好会の講演

1.葛城集団の台頭

 御所市地域は4世紀には鴨集団の支配した地域である。これは弥生遺跡である鴨都波遺跡の存在、多くの円墳の分布、鴨系の神社の分布からも言える。即ち鴨都波神社(下鴨)、鴨山口神社(上鴨)、高鴨神社の鎮座。

 所が5世紀に入ると室宮山古墳のような巨大古墳が出現し始める。葛城襲津彦の古墳と比定される。掖上鑵子塚古墳は5世紀半ばで玉田宿禰の古墳、5世紀後半の屋敷山古墳など巨大な勢力を持つ葛城集団が御所市、葛城市地域の支配者となっている。鴨集団は葛城集団の配下に置かれたのであろう。


2.4世紀末の争乱

 当時の大和政権は畿内に匹敵する広い地域を基盤とした政権であった。その政権での内部の争いが生じた。争乱は西日本的規模で争われ、山城南部出身の応神天皇の勢力が勝った。負けたのは押熊王、このお話は神功皇后伝説として『記紀』に記されている。

 葛城集団は勝ち組であり、御所・葛城地域に入植してきた。渡来技術者集団を近辺に住まわして地域の再開発を行い、強大な勢力を築いた。負け組となった鴨集団はその支配下に置かれた。


3.鴨集団の服属神話

 鴨集団の一部は高市郡に居住していたのは、橿原市雲梯町に鎮座の河俣神社は式内大社の高市御縣坐鴨事代主神社の後裔社で、この神社の鎮座が鴨集団の服属を物語っている。即ち高市御縣という表現は王権直轄地域であり、そこにこの神社が残ったと云うことは祭る人々も残ったと言える。

 『日本書紀』神代第九段一書第二
 是時歸順之首渠者。大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市。帥以昇天陳其誠款之至
 帰順する首領である大物主神と事代主神は八十万神を天高市に集めて率いて天に昇り、(高皇産霊尊)に誠の至りを申しあげた。
 これが鴨集団(事代主神を祭る)の服属を神話的に語っています。

 また、『出雲国造神賀詞』にも、「事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ」て、「皇御孫の命の近き守神として置く。」とあります。事代主は出雲の神ではありませんが、国津神すなわち出雲系と言えるでしょう。何れにしろ、出雲風土記の研究はやりなおす必要があると思います。

 鴨集団の神は大王家の守護神となって行ったのです。


4.神武伝説と事代主神

 『古事記』では神武天皇の皇后は大物主神の娘である比売多多良伊須気余理比売となっています。一方、『日本書紀』では、皇后は事代主神が三嶋溝杙耳神の娘の玉櫛媛の子の媛蹈鞴五十鈴媛命となっています。この二つの説話はどちらが古いのか、明らかに『日本書紀』です。なぜならば、『古事記』の通りとすると、『記紀』にともに出てくる大田田根子の説話は矛盾します。なぜなら崇神天皇は大物主神の血をひいた子孫となるからです。
 
 また、丹塗矢の伝説は鴨集団の持っていたものと思われます。『風土記』の「山城の賀茂の社」のお話も丹塗矢であり、これを『古事記』は大物主に当てはめたものです。同時に山城の賀茂と大和の鴨とはつながっていることを示していると思います。


5.壬申の乱と鴨氏
 
 壬申の乱の最中に高市県主の許梅に、事代主神が託宣をしています。まさに鴨氏の台頭と大王家の守護を行って来たのです。


6.まとめ

 4世紀末に鴨集団は没落しますが、7世紀に甦るのです。

[9166] Re[9165]: コア箱を見てみたい。  佐々木高久 2008/07/13(Sun) 21:37 [Reply]
 素人さん
 まず本を読んで、基礎を学ばれた方がいいと思います。
 それらの本は放送大学の一般教養で使用していたものです。
 泥炭は京都なら深泥池、新宮なら浮島の森、沖縄なら漫湖など、兵庫県なら大沼、加保坂湿原、奈良はお亀池、曽爾高原などがありますが、概ねレッドデータブックに出ているのでしょうか。
> 腐植土の中の特殊な形態がピート=泥炭層でしょう。植物と土が混合して無機成分の多い腐植土となるのが一般的でしょう。大半が炭素含有量の低い腐植土で、石炭化する高炭素濃度腐植土のピート=泥炭層は特殊なものでしょう。とてもイコールで結べるものでないと思いますが。
 私が述べるのは、土壌学?の方面での厳密な議論ではないですが。
 私が学んだ半世紀以上前の教養では、概ね=と診る。でした。国学院の樋口清之さんもそこが発想の原点でありました。
> 問題は柱状図の地表面の高度、が高いところでは、落ち葉などによる腐植土層で水が関係していない可能性が高い。しかし、泥炭層の資料とされていた柱状図の地表と同じぐらいの近くの海抜高度でのボーリング柱状図に泥炭層が出ないのは地殻変動がない限りとても、納得できない。
ボーリング資料は点ベースなので、ここで出てここで出ないという議論はいろいろ推定されることがあるでしょうね。
 河道堆積物と後背湿地の関係など、お示しした本を読んで確認していただければと思いますが。
 これ以上の細かい精緻な知識ないので、また新たなことがお分かりでしたら素人さまからご教授下さいますように。




[9165] コア箱を見てみたい。  素人 2008/07/13(Sun) 21:08 [Reply]
忙しくて書き込みが遅れて大変に申し訳ありません。
佐々木高久様
>  素人さん
>  腐植土層=ピート=泥炭層では?
腐植土の中の特殊な形態がピート=泥炭層でしょう。植物と土が混合して無機成分の多い腐植土となるのが一般的でしょう。大半が炭素含有量の低い腐植土で、石炭化する高炭素濃度腐植土のピート=泥炭層は特殊なものでしょう。とてもイコールで結べるものでないと思いますが。

> > 泥炭層で湖沼起因とすればもっと登場してもいいのではと思うのですが、ボウリング場所が悪いのでしょうか。柱状図の作成者が悪いのでしょうか。
>  泥炭層つまりピートは、どうゆう場所に堆積するのでしょうか。湿地ですか。浅い池、深い湖ですか。粘土は?、砂は?
>  田渕洋編「自然環境のおいたち」朝倉書店、安田喜憲「環境考古学事始」などを読んで勉強してください。
>

あまり難しい本は必要ないと思われます。例えば、北海道でしたら根釧原野、本州でしたら高地の尾瀬沼、東北・北陸の頂上の広大な湿地帯で見ることができます。場所によっては行くのが大変ですが。現在の気象ですと、本州では寒冷な高地と言うことになります。気温と植生が重要と思われます。深い池でも泥炭層が厚ければ可能ですが、資料からあまり厚くはないようですから水深は浅かったのでしょう。これぐらいは素人でも解ります。
河川は、泥炭化が進むとフミン・フラボ酸を含み褐色で弱酸性の河川と言うことになりますか。現在でもフィールドワークで十分知ることができます。問題は柱状図の地表面の高度、が高いところでは、落ち葉などによる腐植土層で水が関係していない可能性が高い。しかし、泥炭層の資料とされていた柱状図の地表と同じぐらいの近くの海抜高度でのボーリング柱状図に泥炭層が出ないのは地殻変動がない限りとても、納得できない。
採取土壌のコア箱に納めてあるのを見せていただけば、泥炭層か土交じりの腐植土かわかるのでしょうが。
万葉仮名資料は忘れていません。本買いました。

[9164] 万葉集  ぽんた 2008/07/13(Sun) 11:33 [Reply]
遠江と三河のことなら、ちょっと知ってます。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/manyou.htm

[9163] 4世紀末の争乱と鴨氏  ペギラ 2008/07/12(Sat) 23:10 [Reply]
こんばんわです。

とっても行けそうもありませんが、面白い話がありましたら、
教えて下さい。
お願いいたします。m(_ _)m

昨今の発見としては、「打下」 これ「うたげ」って読みもあるんですね。

おじゃまいたしました。

[9162] Re[9159][9158][9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  大三元 2008/07/11(Fri) 23:54 [Reply]
神奈備さん

「幡豆」ならこれまた、pa-at でピッタシ。。。

>  この歌の四極山は、愛知県幡豆郡幡豆町や吉良町に比定されます。温泉地として名高いようです。

[9161] Re[9158][9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  大三元 2008/07/11(Fri) 23:52 [Reply]
佐々木さん、初めまして。

>  大三元さん はじめまして。著書先般拝見しました。

有り難うございます。

>  温泉は湯里から南の河内松原あたりまで自噴していそうな地域らしいので、弓削もその可能性を否定できません。

はい、「否定出来ない」仮説が生身のメモリに入り切らなくなってきて困ってます。

よろしく。

[9160] ご参考までに  佐々木高久 2008/07/11(Fri) 20:29 [Reply]
万葉集の0999海人が原文では、白水郎だったので少し粗く調査してみました。
★原文で白水郎 磯の有無に関わらず白水郎は釣りをする(万葉集3225)
 確認できた地域 琵琶湖志賀 伊勢 伊良湖 大阪 福岡志賀?
 少し内湾の漁師?
★原文で海部は釣りをしない(万葉集3225)
 確認できた地域 志摩 播磨 田子の浦 能登 富山 福岡 志賀島 長門
 外洋の船頭?
★原文で安麻 釣りをする(万葉集3609)
 確認できた地域 茨城県 武庫 福岡志賀島
 外洋の漁師?
★原文で海のみ 和歌山 播磨 淡路 大阪
 船頭?
 またこの作業から、大阪の我孫子地名は網子が由来することが理解できました。
 0999の網手も我孫子あたりにいたのだろうか。

[9159] Re[9158][9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  神奈備 2008/07/11(Fri) 17:21 [Reply]
大三元さん、佐々木さん ありがとうございます。

 万葉集の四極山の歌は以下の二首

0272 四極(しはつ)山打ち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島榜ぎ隠る棚無小舟(たななしをぶね)

 この歌の四極山は、愛知県幡豆郡幡豆町や吉良町に比定されます。温泉地として名高いようです。
 また、志葉都神社が鎮座、式外ですが、古社のようです。祭神は津比良彦命、港に関係するようにも思えます。


0999 茅渟廻(ちぬみ)より雨そ降り来る四極(しはつ)の海人綱手干したり濡れあへむかも

 こちらは、難波のようです。こちらの四極は四八津と云う表記です。四八に住吉の意味? スー ヤ → スミヤシ ? ・・ ? 。

> si 本当の・大きい・主な
> pa 湯気(など多義あり)
> at (湯気などが)立つ

 実に興味深い御指摘です。
 まさに、この二つの「しはつ」に共通するのは、温泉と港のようです。

[9158] Re[9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  佐々木高久 2008/07/11(Fri) 11:42 [Reply]
神奈備さん

> 坐摩神社は現在地ですね。ご近所です。元々陶器神社がありました。ここへ遷ってきたのもむべなるかなですね。
心筋梗塞、そうしますとポックリ寺なんかもγ線が強いのかも。
大阪ではありませんが、
奈良県北葛城郡香芝町 阿日寺
奈良県北葛城郡香芝町 石光寺
奈良県北葛城郡当麻町 吉田寺

 坐摩神社は御旅所も高く、あとは阪和線沿いに集中しています。
 ポックリ寺もγ線強度非常に高いです。見事な発想です。
 香芝から入乃波温泉さらに尾鷲への北西南東方向の軸が高い傾向が出ている様子です。
 
 大三元さん はじめまして。著書先般拝見しました。
 温泉は湯里から南の河内松原あたりまで自噴していそうな地域らしいので、弓削もその可能性を否定できません。


[9157] Re[9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  大三元 2008/07/11(Fri) 11:29 [Reply]
> > 湯里には温泉が自噴していたのです
>  ここの天神山が四極山すなわち磯齒津山のネーミングの元ですから、象徴的な温泉だったのでしょう。

こうなってくると次のアイヌ語がオモシロイことになってきます:
si 本当の・大きい・主な
pa 湯気(など多義あり)
at (湯気などが)立つ

流石に(?)「弓削」(八尾飛行場の東)は無関係?

[9156] Re[9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  神奈備 2008/07/11(Fri) 09:08 [Reply]
佐々木さん、情報ありがとうございます。

> 湯里には温泉が自噴していたのです

 ここの天神山が四極山すなわち磯齒津山のネーミングの元ですから、象徴的な温泉だったのでしょう。


> γ線の強度と神社を少し調べると、東大阪市の弥刀神社が大阪府内の平野では一番に高く、次は八尾市矢作神社でした。長瀬川の東側が高いようです。矢作神社で、乳の出がよくなるのはこの関係かもしれません。また大阪市内は坐摩神社でした。但しγ線の高いところを好んでいくと血流量が増すのか、私も含めてある年齢以上は心筋梗塞になりやすいようです。


 γ線の強度、調査結果ありがとうございます。

 坐摩神社は現在地ですね。ご近所です。元々陶器神社がありました。ここへ遷ってきたのもむべなるかなですね。
 
 心筋梗塞、そうしますとポックリ寺なんかもγ線が強いのかも。

 大阪ではありませんが、
奈良県北葛城郡香芝町 阿日寺
奈良県北葛城郡香芝町 石光寺
奈良県北葛城郡当麻町 吉田寺

 などがポックリ寺として著名、二上山の東側に集中しているのも面白い。

[9155] Re[9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  佐々木高久 2008/07/10(Thu) 21:08 [Reply]
 『雄略紀 十四年』のルートには湯里があります。かつて湯里には温泉が自噴していたのですが、呉の人たちも湯里の温泉に浸かって、ご酒を煽っていたのでしょうか。そのような景色が見えてきます。赤留比売神社の名称がたいへん興味深く思います。  
 [9149]で書かれていた、γ線の強度と神社を少し調べると、東大阪市の弥刀神社が大阪府内の平野では一番に高く、次は八尾市矢作神社でした。長瀬川の東側が高いようです。矢作神社で、乳の出がよくなるのはこの関係かもしれません。また大阪市内は坐摩神社でした。但しγ線の高いところを好んでいくと血流量が増すのか、私も含めてある年齢以上は心筋梗塞になりやすいようです。
 
 

[9154] 浪速の道の物語 磯齒津路  神奈備 2008/07/10(Thu) 16:57 [Reply]
 『雄略紀 十四年』に、「爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。」と云う記事があります。この記事は「呉国の使いと共に、呉の献じた手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。」と次ぎにあり、彼らを飛鳥に導くための道路を「磯齒津路」として整備したことをしめしています。
 (注)手末の才伎 手先を使う諸種の工人

 住吉大社から東への道は、丁度長居公園の南側を通り、湯里の天神山跡の南側を通り、喜連に至ります。明治以降は八尾街道、近年は長居公園通りとして大阪国際女子マラソンのゴールへの道として知られています。平安時代にまとめられた『延喜式』に、「新羅の客が来朝したときは神酒を給す。」とあり、大和や摂河泉の神社が住道社と生田社に稲束を送り、住道社が醸した酒は難波館で給す。」とあります。

 大和に都がある頃には、住吉津に到来した新羅からの帰化人に対して、帰化の証として神酒を飲むことが要請されていたようです。「仲間に入れてもらいたいのなら俺の盃を受けろ。」「俺の酒がのめねえか」と云うことで、磯齒津路沿いに鎮座する神須牟地神社・中臣神須牟地神社(これらが住道神であり、道の神といえます。)で醸した酒を、赤留比売神社で酒宴を行い、酒を呑ましたのでした。巫女さんがお酌をしたのかも。

 磯齒津路は龍田越か亀の瀬越をして大和に入ったのでしょう。

[9153] Re[9152]: 万葉集巻1−9の私見  佐々木高久 2008/07/09(Wed) 20:17 [Reply]
> 莫囂圓隣之  なごまりし  大相七兄  おふなに  爪謁気  つげき
> 和んでいらっしゃる媼につたえました。吾が背子がイツカシの木の根元に立っていらっしゃいました。と。と、いう様な意味ではないかとおもいます。
> <吾が背子とは誰でしょう?ヒント。大相の隣に並んでいらっしゃる、七人の莫囂の中の一人です。または、隣から数えて七番目の人です。または、七番目の順位の人です。という、ゲームのような歌ではなかったのか、と考えました。爪の文字が出てきますので、琴をよくした人であるかもしれません。当時の情況が全く分かりませんので、それぞれの官位が誰をさすのかは分かりません。

まず他人が作った作品なので、真意がわかるわけがない。少しでも近づきたいと念じることです。
 また難解とか解釈がいくらでも出てくるということは答えがないと思ってもいいです。
 しかしこの歌は温泉に行くときに歌ったもの、漢字は音読みが主体であること、囂、謁が他に出てこないのは表現できない音と判別できるでしょう。
 和歌山県の「那賀」の「賀」に集約したのは、そこなのです。
 まず自分の住んでいる付近からトライしてみるのもいいかもしれません。
http://infws00.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/MANYOU/manyou_kensaku.html

[9152] 万葉集巻1−9の私見  河村佳住 2008/07/09(Wed) 13:17 [Reply]
すみません。ちがう話題の途中に入り込むのはルール違反なのだと思いますが、どんたく様、佐々木様から教しえていただいたことで、ぼんやり考えておりましたことが、形になりそうですので書き込ませていただきます。

手元に有りました、万葉仮名にふりがながついているだけ、と言う本を眺めてみましたが(初めて一通り見ました。)莫、囂、圓、隣、之、大、相、七、兄、爪、謁
気、が隣り合って出てくることはありませんでした。囂、謁はこの歌のみ、圓は、「まど」の読みでなら出てきました。そこで、以下のように、読んでみることにしました。
莫囂圓隣之  なごまりし  大相七兄  おふなに  爪謁気  つげき
<和んでいらっしゃる媼につたえました。吾が背子がイツカシの木の根元に立っていらっしゃいました。と。>と、いう様な意味ではないかとおもいます。
<吾が背子とは誰でしょう?ヒント。大相の隣に並んでいらっしゃる、七人の莫囂の中の一人です>。または、隣から数えて七番目の人です。または、七番目の順位の人です。
という、ゲームのような歌ではなかったのか、と考えました。爪の文字が出てきますので、琴をよくした人であるかもしれません。
当時の情況が全く分かりませんので、それぞれの官位が誰をさすのかは分かりません。

初めての書き込みは「はじめてのおつかい」のような、大冒険でした。
やはり、皆様のお話をもっと拝聴(拝読)させていただこうと、思っております。心やさしくお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
いつかまた無謀な冒険心が湧いて来るまで失礼いたします。




[9151] Re[9150][9149]: 浪速の道の物語  神奈備 2008/07/09(Wed) 09:25 [Reply]
> かなり以前でしたか地震学が専門の尾池和夫さんが、「閃き」について同じことを述べられていて、ノーベル賞の原点は、活断層と書かれておりました。

 神社巡りや神頼みもそれなりの根拠があると云うことですね。


 道と神社については、参詣道にも当然必然性があります。和歌山の鉄道である貴志川線は、当初は和歌山駅から日前宮・竃山神社・伊太祁曽神社の三社参りのために敷かれた鉄道とされています。

 難波では東に延長すれば十三峠越から平城京に至るみちがあります。
 大坂の玉造から八尾の神立の玉祖神社につながる道です。玉祖道で、玉造・四天王寺・神立への道です。云うまでもなく玉造の人々玉祖神社に参詣した道です。

 この道はやがて平城京に至るのですが、俊徳街道とも呼ばれたのは俊徳丸が四天王寺に通った道でその名前がついたようです。

 在原業平は龍田から十三峠を越えて枚岡神社に参詣しましたが、神立茶屋辻の娘の梅野に恋し八百夜も通い詰めた道といわれており、業平道ともいいます。

[9150] Re[9149]: 浪速の道の物語  佐々木高久 2008/07/08(Tue) 21:01 [Reply]
 王子社は、先週早朝朝日放送の歴史街道で拝見させていただきました。
 見事な分布でした。
 かなり以前でしたか地震学が専門の尾池和夫さんが、「閃き」について同じことを述べられていて、ノーベル賞の原点は、活断層と書かれておりました。
 さて最近は高野街道や行基道などの歩く会がありますが、これも活断層沿いにありまして、こちらは古刹や廃寺が多く、井戸は一定距離ごとにあります。
 また[9149]で上げられた神社のある活断層は、関西では超1級クラスの活断層の中でももっとも活動度の高い地区で、活断層のランク付けとの調和が大変面白く、拝見致しました。
 追記 
 街道と活断層については東方出版「街道と活断層を行く(関西地学の旅)」が出ていました。これはちょっと内容が粗いようですが。
 こんな石造鳥居被害と地震動に関する研究もありました。
 http://kei.kj.yamagata-u.ac.jp/kawabe/www/torii/

[9149] 浪速の道の物語  神奈備 2008/07/08(Tue) 17:26 [Reply]
 『倭人伝』の対馬の項で、「道路は禽鹿(キンロク)の径の如し」と書いています。獣道が道のルーツだったことを物語っているように思います。獣道には所々に水がわき出る場所があるようです。所謂、断層の上が道になり、この断層からはα波やγ線なども出ていて、人間にとっては心地よい気分になったり、または閃きがあったり、天の啓示を受けたりしたのでしょう。その場所を聖地のように感じ、神の降臨の場所と見立てて籬を作る場所として大切に扱ったのでしょう。

 金剛葛城山系の東側に葛城古道が通っていますが、24号線よりやや西側となっています。ここには古紀路と呼ばれた古代道路があります。一言主、名柄、高鴨と神社が並びます。
 山辺の道も三輪の大神神社・大和神社や石上神宮などそうそうたる神社が並んでいます。

 難波では断層と神社がくっきり出ているのが熊野古道がそうなっているようです。上町台地の西側の熊野古道は丁度谷町堺筋の間にあたり、断層の真上です。谷町線の地下鉄工事で水脈が切られて井戸もかれました。岸和田の久米田断層の上も熊野古道が通っています。そうして熊野古道沿いには元々の神社も多く鎮座していますが、さらに王子社がいくつか作られました。

[9148] 4世紀末の争乱と鴨氏  神奈備 2008/07/07(Mon) 09:47 [Reply]
豊中歴史同好会のお知らせ
2008 7 12 市教育センター (阪急蛍池駅下車)
堺女子短期大学 学長 塚口義信先生
テーマ 4世紀末の争乱と鴨氏
1000円
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2008.html

鴨氏の体系的なお話は珍しいと思います。

[9147] Re[9146]: 感謝  佐々木高久 2008/07/05(Sat) 11:14 [Reply]
 河村さん
 星野聰氏の説で、時代の違う楚の官名と高句麗の官名が羅列されるか。
 額田王が温泉に行くときに、高句麗の使者が何で矢を射るのかが考えさせられるところです。

 和歌山の温泉に行ったことに注目するとこんな説もあるかもしれません。
莫囂圓隣之:紀伊国那賀郡名草郡では
大相七兄:那賀郡相谷から名草郡七瀬川の沢に(名草郡湯屋谷、那賀郡湯窪を中心としたあたりか?)
謁(湯)氣:湯気が出ています(湯治場があります)
吾瀬子之射:わたしたち(額田王、中皇命、間人皇女、または私の兄の子らと)は入りました
五可新何本:時間が経つのを忘れるぐらいいい気分でした。
もちろん裏読みは[9141]かと考えています。
 当時なかった楚の官名を当て字に使用するぐらいの学があった。
 

[9146] 感謝  河村佳住 2008/07/05(Sat) 09:48 [Reply]
どんたく様
知識に広がりも奥行きもない者に、丁寧に御教示くださいまして、ありがとうございます。
まったくのトンチンカンな、思いこみでなかった、とわかってうれしく思っております。

[9145] 万葉集巻1−9の解読(3)  どんたく 2008/07/05(Sat) 02:37 [Reply]
このように考えてくると、
>莫囂圓隣之大相七兄爪謁気
というのは歌の前半部分とは考えられない、ということになってきます。

それでは歌の前半部分はどこにあるかというと、それは消えてしまっていて、現在残っている万葉集には存在しないというように考えます。

実は、これは私が考え出したことではなく、下記の本からの受け売りです。
星野 聰『異説 日本古代研究ノート』勉誠社 平成7年

著者の星野氏は、次のような仮説を立てて考えています。

(1)莫囂圓隣之大相七兄    爪謁気
(2)○○○○○○○○○吾瀬子之射立為兼五新何本

ここで(2)が歌の本文で、(1)はそれに対する注釈だと考えるのです。

(2)の歌の後半部分「吾瀬子之射立為兼五新何本」は、普通読まれているように、「我が背子が い立たせりけむ 厳橿が本」
と読みます。

(2)の歌の前半の○○○○○○○○○の部分は、歌が抜けていると考えます。
そうして、(1)の「莫囂圓隣之大相七兄」はこの抜けている前半部分を説明する注釈だと考えます。
すなわち、「高麗からの使者達が見守る中で矢を射た」という趣旨の歌であると見るのです。

一方、(1)の「爪謁気」は、(2)の「い立たせりけむ」に対する注釈であると考えます。

以上、非常に大雑把な書き方をしましたが、詳しくは上記の『異説 日本古代研究ノート』をお読み下さい。
普通の万葉学者の読み方とは違ってまさに「異説」でありますが、このような見方もあるのかという意味で、興味をそそる説だと思います。

[9144] 万葉集巻1−9の解読(2)  どんたく 2008/07/05(Sat) 01:47 [Reply]
さて、ここで、「莫囂」、「大相」、「大兄」について検討してみます。

(1)莫囂
私が持っている
[漢]劉安等著・陳廣忠訳注『淮南子訳注』
によれば、
『淮南子』巻十九 修務訓 に
「呉与楚戦、莫囂大心撫其御之手 曰:」
とあります。

そうしてその【注釈】に、
莫囂:主管大衆之官。原注:“莫、大也。囂、衆也。”一説即是莫敖。
莫敖、春秋楚官名、稍低于令尹。
大心:楚成王時令尹子玉之孫。
とあります。

結局、「莫囂」というのは、春秋時代の楚の官名ということです。
このことは、河村佳住さんが書いておられる通りです。

(2)大相
下記のように『日本書紀』の中に「大相」が出てきます。
●天智10年正月:
 丁未。《09》高麗遣上部大相可婁等進調。
●天智10年8月:
 八月乙丑朔丁卯。《03》高麗上部大相可婁等罷歸。
●天武8年2月:
 二月壬子朔。高麗遣上部大相桓欠。下部大相師需婁等朝貢。

この「大相」は高麗の官名です。

(3)大兄
下記のように『日本書紀』の中には、例えば「中大兄皇子」のような「大兄」とは別に、次のような「大兄」が出てきます。
●天智6年10月:
 高麗太兄男生出城巡國。
●天武2年8月:
 癸卯。《20》高麗遣上部位頭大兄邯子。前部大兄碩千等朝貢。
●天武4年3月:
 是月。高麗遣大兄富于。大兄多武等朝貢。新羅遣級〓朴勤脩。
●天武5年11月是月:
 丁亥。《23》高麗遣大使後部主博阿于。副使前部大兄徳富朝貢。
 仍新羅遣大奈末金楊原送高麗使人於筑紫。
●天武9年5月:
 丁亥。《13》高麗遣南部大使卯問。西部大兄俊徳等朝貢。

これらの「大兄」は高麗の官名です。

『隋書・東夷伝・高麗伝』に次のような記述があります。
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/koukuri.htm

官有太大兄,次大兄,次小兄,次對盧,次意侯奢,次烏拙,次太大使者,次大使者,次小使者,次褥奢,次翳屬,次仙人,凡十二等。

このように、太大兄、大兄、小兄 などは、高麗の官名です。

[9143] 万葉集巻1−9の解読(1)  どんたく 2008/07/05(Sat) 01:42 [Reply]
河村佳住さん、初めまして。 どんたく と申します。

>万葉集巻第一、九の、未だ確定的な解釈のないといわれている
>莫囂圓隣之大相七兄爪謁気
>の、莫囂が気になっておりましたが、ちくま学芸文庫「漢書3」60ページで楚の官名に同じ文字があることに出会いました。そうすると、大相というのも気になります。皆様は、どう思われますか?

すごい問題提起ですね。

万葉集の本を見ると、
>莫囂圓隣之大相七兄爪謁気
という部分を、歌の前半部分と見て、今までに色々な人が読みに挑戦してこられているようですね。
しかし、どの読みもピンとこない感じですね。

河村佳住さんが書いておられるように、「莫囂」は官名ですが、「大相」それから「七兄」の代わりに「大兄」というのを調べてみると、これらもやはり官名です。

ここで「大兄」というのは、日本の「中大兄皇子」などの「大兄」ではなく、高麗の官名としての「大兄」です。
高麗の官名としては、「大兄」の他に「小兄」というのもあります。

「七兄」というのは「大兄」の書き誤りであるか、もしくは7人の「大兄」や「小兄」などを表しているのではなかろうかと思われます。

このように考えると、
>莫囂圓隣之大相七兄
というのは官名の羅列のようなもので、これが歌の前半部分であるとは到底考えられないということになってきます。

長くなりますので、以下は別にアップします。

[9142] ありがとうございます  河村佳住 2008/07/04(Fri) 23:18 [Reply]
神奈備様、佐々木様、さっそくの誠実なご返事ありがとうございます。
今は少しでも皆様の話題を理解できる様に、と過去ログを読み始めております。
私も住まいおります所の歴史等判るようになれればいいな、と思っております。
近くの神社は、素盞鳴神社といいますが、近隣住宅の案内板には寿貴項神社と書かれてありました。他の所でもそんな名前の神社がありますでしょうか?
住んでおりますのは播磨風土記明石郡にあたる所です。よろしくお願いいたします。

[9141] Re[9139]: 李寧煕さんの万葉解読について  佐々木高久 2008/07/04(Fri) 20:37 [Reply]
 河村佳住さん はじめまして たとえばこんな解釈???もありますが、
 幸于紀温泉之時額田王作歌
 額田王が和歌山の○○温泉に行ったときの作った歌
009莫囂圓隣之 大相七兄爪謁(湯)氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
なごえりし? おそなえつゆげ? わがせこが,いたたせりけむ,いつかしがもと
 莫囂 圓隣之:勿来(来るなかれ)と守衛
 大相七兄 爪:太政大臣高市皇子が
 謁(湯)氣:勇気
 吾瀬子之射 立為兼五:和射見が原(関ヶ原)に堅固に立ちはだかり
 可新何 本:勝利のもと
 まさに壬申の乱での、史実の高市皇子の行動と似ているが、あとづけ解釈なので。
 史実では七番目の皇子(八番目?)ではないのが問題。

[9140] Re[9139]: 李寧煕さんの万葉解読について  神奈備 2008/07/04(Fri) 19:37 [Reply]
河村佳住さん こんばんは。
 ご安心下さい。ちゃんと掲示板に出ていますよ。

> 莫囂が気になっておりましたが、ちくま学芸文庫「漢書3」60ページで楚の官名に同じ文字があることに出会いました。そうすると、大相というのも気になります。皆様は、どう思われますか?

 有名な難訓歌ですね。莫囂は大陸の古典に出てくる言葉です。

http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9B%B8/%E5%8D%B7039
參功:凡下二國,縣百二十二;得王二人,相三人,將軍六人,大莫囂、郡守、司馬、侯、御史各一人。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/meisi/onmyouji/onmyoudou/five/gokou02.htm
 左氏傳桓公十三年,楚屈瑕伐羅,鬥伯比送之,還謂其馭曰:「莫囂必敗,舉止高,心不固矣.」遽見楚子以告.楚子使ョ人追之,弗及.莫囂行,遂無次,且不設備.及羅,羅人軍之,大敗.莫囂縊死.

 さて、万葉集での使い方は漢文・万葉仮名・李寧煕お得意の吏読なのか、なかなか難しい所でしょうね。

[9139] 李寧煕さんの万葉解読について  河村佳住 2008/07/04(Fri) 12:51 [Reply]
初めまして。神奈備様、玄松子様はじめ皆様には、知人の神社めぐりの為の資料集めの時には、無断でお世話になっておりました。お詫びとお礼を申し上げます。
李寧煕さんの万葉解読の本を、昔読んで後、万葉集巻第一、九の、未だ確定的な解釈のないといわれている
莫囂圓隣之大相七兄爪謁気
の、莫囂が気になっておりましたが、ちくま学芸文庫「漢書3」60ページで楚の官名に同じ文字があることに出会いました。そうすると、大相というのも気になります。皆様は、どう思われますか?
パソコンも神社のことも古代史も初心者段階から、少しも進歩していないので、この文章がちゃんと届くのか、皆様が読んで理解してくださるのか、たいへん心配です。よろしくお願いいたします。

[9138]  眼 の 手 入 れ      生田淳一郎 2008/07/03(Thu) 06:17 [Reply]
 神奈備どん、
> 日本語を並べると詩になり、韓国語を並べると喧嘩になると。

 おおいに啓発されました。これ戴きィ〜です。
 言うて言うて言いまくれる能力が、朝鮮〜韓国での最高の美徳だそうです。なにかこう、構造的なことを感じます。

 いま『紋次郎・言語考古学』では提督の眼のメンテ・恢復を祈って書いています。知識としての「参考」だけではなく、ぜひ実践してみてください。

[9137] 詩と喧嘩  神奈備 2008/07/01(Tue) 14:51 [Reply]
 某お寺で古代史の勉強会があり、そこで韓国語と日本語の対比について面白いお話を聞きました。一つの例ですが、「おふくろ」と云う日本語の語源とされる韓国語は「オボ」(親)+「グロ」(懐かしい)ということのようです。懐かしい親とは父親でもいいのですが、やはりお袋の味のように母親の方に一層の懐かしさを感じるのが人の常、じつに韓国語は分析的な言葉だということです。
 日本語になると、その分析的要素は消えています。

 日本語を並べると詩になり、韓国語を並べると喧嘩になると。

 そこまでは、実に面白い研究会だったのですが、その次ぎに、天武天皇=高句麗の将軍説に話が及び、
その根拠の一つとして、『往代希有記』に「仁武天皇御代豊受神宮新立御気殿本記」との言葉があることを主張されており、「仁」の字は「人二」で、書きようによっては「天」になるとのことで補強。
 淡海三船さんもあの世でびっくり。

 所で、高松塚古墳とキトラ古墳とは兄弟のように似ているそうです。高松塚の方は首から下、キトラは首から上を葬ったそうです。首から上と云う意味は頭蓋骨がないと云うことで、顎や歯は残っていたそうです。一方、キトラ古墳は頭骨と足の一部だそうです。同一人物の埋葬とすればどのような儀礼とか呪術がなされていたのか、興味深いところです。DNA鑑定をして、結果を公表してほしいところです。


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