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掲示板のログ(平成二十年 八月 2008.8)お名前の敬称は省略しています。

[9340] Re[9331][9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/08/31(Sun) 23:45 [Reply]
かたばみさん ご指摘の点を踏まえて、今後の展開に役立ちそうなレスにしたいと思います。

> >そう読んで一体何の意味なのだ
> 多々利をタタリと読んで何の意味なのだ・・反撃(^^;
> いつからを「古代日本語」とするのか知りませんが、古代日本語で意味をもつならそれは古代日本語だったからだと思います。

「古代日本語」は多くの場合 奈良時代以前+奈良時代+平安時代 の日本語を指すようです。更にいえば「上代日本語」は奈良時代以前+奈良時代のもの。私は「時代別国語大辞典上代編」が「上代日本語」の辞書としては優れたものだと思い、重用しています。

> >古代日本語が排している二重母音どころか
> >最後の音は「ゐ」であろう
> 「古代日本語」に遡れる地域の言葉なら古代日本語の原則に従うだろうと思います。
> では「外来語」はどう表記されるのか・・反撃(^^;
> 弥生以降では大量の外来語がやってきたはずで、そのままの発音で使われたもの少なからずと思います。

外来語が日本語に入る場合(借用、と云いますが)は、あくまでも借用する際の日本語の音韻体系(などのルール)に従って取り込まれます。

卑近な例では英語の think は日本語では シンク としか取り込みようがない。(将来、日本語の音韻体系に、発音記号で θ の音が参加するかもしれませんが。)

新しい音韻が追加されることは既に経験しています、例えば、奈良時代までは使われなかった拗音(ちゅ、ちょ、等)が漢語から借用した語の為に追加され、もともとの日本語でも使われるようになる。「ん」が追加になった。など。

> 長年月経過で「日本語風」に変化してゆくかもしれませんが。

つまり、外来語を借用するときは最初に「日本語風」に採り、長年月の経過で、日本語が音韻を増やして少しでも原語に近い音に対応する、ということが起こりえる、ということでしょう。

> 弥生の北九州と半島南岸での言葉がいかなる状況であったのか、非常に興味深いのですが情報がみえないです。

結局、文献がない言語、単語は論理的な推定をする以外に途はなさそうです。

ご提案の「タタラ」=ヤミ語の tatala=(小型の)船も「現代地名」の観察、製鉄のタタラ船などからは魅力のある解だと思いますが、なにせ、上代文献に用例がない。ないから使われなかったとも言い切れないけど、使われていたとも言えない。もし、セヤダタラ(ソヤダタラ)とか ホトタタラもヤミ語で説明出来たりすると説得力が上がるのでしょう。

[9339] Re[9337]: 「たたら」と「たたり」  かたばみ [Url] 2008/08/30(Sat) 10:20 [Reply]
多々利は棚上げとして・・

媛踏鞴五十鈴媛命、女性の名。
五十鈴は現代の神楽鈴というのでしょうか、鈴の道具を巫女さんが使いますから、女性に関連でよさそう。
蹈鞴、女性を忌避する様子が見える場所で使う道具でもあり、「鉄火激風」(^^;みたいな名を女性につけるとは考えにくい。

日本書紀がタタラと伝承されていたのであろう発音を蹈鞴と表記したのは、神武時代に鉄がはじまるなんてのをそれとなくにおわせているのかもかも・・心理分析を要する(^^;
書紀編纂時代の製鉄はタタラ製鉄とは系譜が異なる半島経由の鉄鉱石系だろうとみています。

最新と思えるタタラ製鉄(南方系製鉄?)およびバンドンブロン遺跡関連のインターネット情報です。
http://mutsu-nakanishi3.web.infoseek.co.jp/2008iron/8iron02.pdf
(他者の情報につき、いつ消されるかわからないので各自保存を)

たたら地名の分布です(地図で見る「日本地名索引」/ABOC社による)
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/chimei_tatara.png


以下夏の青草ぼーぼー
島根や内陸のたたらは中世以降のタタラ製鉄由来だろうと思いますが、九州西北岸〜瀬戸内沿岸に少なからずあるタタラはなにを意味するのか(各個撃破はしてません)。
「鈩口」なんてのは地形がふぃごの形状に似ているからなんてのもあるでしょうけれど、「鈩泊」なんてのは舟泊しか連想できない(現在地図では見あたらない)。

五島列島や天草諸島は南方系海人の拠点だと思います。帆も用いただろう外洋航海型の舟です(これがタタラ)。
海幸山幸の竜宮城はトカラ列島じゃないかと(^^;

瀬戸内沿岸は「ある時代」での出雲文化圏の九州〜近畿航路。
埴輪などにみえる平底船形は後に沿岸航海の主流となる人力による内陸系の舟で、外洋航海系の呼称消滅につながった、なんて考えています。

[9338] 蹈鞴  福島雅彦 2008/08/29(Fri) 23:12 [Reply]
※鹿の語源から…。  漢字音「ロク」、訓で「しか」とは?。
   これは、天照大神と素盞嗚尊の抗争の時、素盞嗚尊が天照大神の機織小屋に「斑馬の生皮」を投げ込む件があるが…。倭人伝には「無牛馬」とある。素盞嗚尊とは後述するが、「製鐵王」。古代製鐵の送風機「鞴(ふいご)」は革扁である。
斑馬の斑点とは「鹿」の皮?か。
“쇠”(soe)=鉄、真金<雅>。金属の総称。
“가죽”(ga-juk)=皮。
この二つの語を合成、「製鉄用送風機用皮」の短縮形が“soe-ga-(juk)”が「しか」であろう。

※素盞(嗚尊)=「帥升(shuai-sheng)」=“쇠상”(soe-sang)=鉄上(製鉄王)が、製鐵炉を操業している時、フイゴ・マンに向かって発する号令が…。
*古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)で、“더-타라!”(deo-tara!)=もっと燃やせ!、もっと燃えろ!。“또-타라!”(ddo-tara!)=又、乗れ!(踏め!)。何れも語頭清音化で「タ(ト)ッ・タラ!」と。


[9337] 「たたら」と「たたり」  ペギラ 2008/08/29(Fri) 22:05 [Reply]
「たた利」を元にして「たた羅」が存在するという文献があるということは
「たたり」と「たたら」が直接イコールだという暴論までは言わないが
ある程度関係があり、全く関係がないというわけではないと思います。

ここで思うことは、
なぜあの紡績機械が「たたり」で
踏みフイゴが「たたら」というか。

鞴 という字の訓は、「ふきかわ」
蹈鞴になると訓は、「たたら」

明らかに現代風に言えば「外来語」

同じように「たたり」も非常に謎

日本風に言えば「たたり」なんて、あまり使わないですよね。

それでも平安時代に残っているということは、
それなりの意味があるということ。

その根幹が知りたい!!



[9336] Re[9335]: タタリ=桛?  とみた 2008/08/28(Thu) 17:22 [Reply]
どんたくさん、大三元さん、ベギラさん、かたばみさん 皆さん

神奈備さんコーナー参加の方は、ものすごく博学だから、ご教示賜り恐縮しています。いつも、いい加減なことばっかり書いておりますが、これからもよろしくお願いする次第です。ありがとうございました。三途の川で閻魔大王が試験するときに備えても少し勉強しておきます。

> とみたさん、こんにちは。 どんたく と申します。
>
> > 桛(カセ)木需(木篇に需で、どう読むのでしょう?)と機織機なら、連想するのがあります。
>
>
> [木需]という漢字は、
>
> Unicode 6ABD です。
>
> 大漢和辞典:6巻589頁15748番 に記載されています。
>
> また、
> http://en.wiktionary.org/wiki/%E6%AA%BD
> に下記のような記述があります。
> ****************************************
> Kanji
> [木需]
>
> Readings
> On: じ (ji), に (ni), ぜん (zen), ねん (nen), じゅ (ju), にゅ (nyu)
> Kun: きくらげ (kikurage)
> ****************************************
>

[9335] Re: タタリ=桛?  どんたく 2008/08/28(Thu) 17:00 [Reply]
とみたさん、こんにちは。 どんたく と申します。

> 桛(カセ)木需(木篇に需で、どう読むのでしょう?)と機織機なら、連想するのがあります。


[木需]という漢字は、

Unicode 6ABD です。

大漢和辞典:6巻589頁15748番 に記載されています。

また、
http://en.wiktionary.org/wiki/%E6%AA%BD
に下記のような記述があります。
****************************************
Kanji
[木需]

Readings
On: じ (ji), に (ni), ぜん (zen), ねん (nen), じゅ (ju), にゅ (nyu)
Kun: きくらげ (kikurage)
****************************************

[9334] Re: タタリ=桛?  ペギラ 2008/08/28(Thu) 15:03 [Reply]
>> 檽 

倭名類聚鈔には、似たような文字ありますね。
多々利加太の訓

倭名類聚鈔を見ていて
多々良女という訓の文字
どんな女なんですか??


[9333] Re[9330][9329][9327]: タタリ=桛?  ペギラ 2008/08/28(Thu) 14:39 [Reply]
とみたさん
話題がそれてしまいますが。。。

> 銅鐸の絵の中の”工”を待った、紡ぎ糸をかせぐ女人(神戸市桜ヶ丘銅鐸)の桛は、古代の光から引用しました。
>

についてちょっと。
諸説・緒論ございますので、絶対こうなんだ!とは言いませんので
それを前提に少し。

神岡4号・谷旧蔵・伝香川などには、この道具を持った人しか描かれていませんが、
神岡5号には、この人の下というか側に、魚が描かれています。
この道具は漁具?ではないか。という見方。

さらに描かれた人の頭の形は「○」型
これは、男性を描いているのではないか。という見方。「△」が女性。

http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/001_B.html

この銅鐸から、女性・機織という発想は、多くの壁があると私は思います。



[9332] Re[9330][9329][9327]: タタリ=桛?  大三元 [Url] 2008/08/28(Thu) 12:08 [Reply]
とみたさん

檽 という字の出典お知らせ有り難うございます。
今昔文字鏡で調べてみましたが、音が「ジ」というだけで、訓は空欄、語義も判りませんでした。この字で、グーグルで引いてみましたが、
http://www.cantonese.jp/pages/search_c/%E6%AA%BD
意味不明です。

なお、桛 は国字だそうです。音訓ともに「カセ」と記載されてる(今昔文字鏡)けど国字なのに「音」がある、というのも良く判りません。

[9331] Re[9328][9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  かたばみ [Url] 2008/08/28(Thu) 12:04 [Reply]
>そう読んで一体何の意味なのだ
多々利をタタリと読んで何の意味なのだ・・反撃(^^;
いつからを「古代日本語」とするのか知りませんが、古代日本語で意味をもつならそれは古代日本語だったからだと思います。

>古代日本語が排している二重母音どころか
>最後の音は「ゐ」であろう
「古代日本語」に遡れる地域の言葉なら古代日本語の原則に従うだろうと思います。
では「外来語」はどう表記されるのか・・反撃(^^;

弥生以降では大量の外来語がやってきたはずで、そのままの発音で使われたもの少なからずと思います。
長年月経過で「日本語風」に変化してゆくかもしれませんが。
弥生の北九州と半島南岸での言葉がいかなる状況であったのか、非常に興味深いのですが情報がみえないです。


>蹈鞴というものが存在していて、それをタタラ(半島の言語からの借用であろうと、列島で独自開発した名詞であろうと)と呼んでいた、ということは考えないのでしょうか。

以下のごとく煩雑になるので、一例を書きました。

ある時代以降では蹈鞴タタラ=ふぃご≒製鉄の象徴、さらに下ってはタタラ=タタラ製鉄炉でもある、だと思います。
書紀は神武妃に「蹈鞴」の文字を使っていますから、「書紀編纂時代の認識では」の条件付で神武妃のタタラはふぃごであって、それ以外を考える必要はないと思います。
で、タタラの語源を欽明時代の多々利に求める論もある。

日本の製鉄炉形式の流れは錯綜していますが、書紀編纂時代での認識では製鉄の象徴≒蹈鞴ふぃご=タタラだったのでしょう。
だとすると、神武時代(弥生?)に製鉄あるいは精錬が存在した可能性を示すことになるわけですが・・
ちょっとまて(^^;

余談
(まずは各自が具体的に年代観を確立していないと話が合わなくなります)
数年前と考えは変わっていないので再提示になりますが。(昔の5057大三元さんのタタラ関連参照)

神武時代(持論AD36- 66)に製鉄がなくても、南方系の舟はいくらでもやってきていると思います。
神武妃の時代ではタタラが舟の意であったとしても、書紀編纂時代(AD700頃)のタタラが「ふぃご」の意に変化しているなら蹈鞴の文字が使われる。
書紀編纂時代あたりから製鉄遺跡が急増していますから、書紀編纂者の意識にも製鉄は強いインパクトを与えていたはず。
(が、当局の指示により製鉄事象は書けない(^^;)

時代はなんともいえませんが、製鉄技術の展開とともにタタラ製鉄の源流が生まれ(タタラ=舟との類似形状)、タタラがふぃごの意ともなっていったのではないか。
竪型炉、横型炉(韓鍛冶系?、倭鍛冶系?)、製鉄炉形式の分布と年代が錯綜していて複雑ですが、竪型炉の韓鍛冶系?がふぃごを象徴とみたかもしれない。


BC300に遡りえるタイのバンドンブロン遺跡の製鉄は粒状水酸化鉄(褐鉄鉱)を炭で直接還元する製鉄法。
手法としてタタラ製鉄に似ている(粒状褐鉄鉱を砂鉄に置き換える)。
前漢の鋼、武器に使える鉄の登場は南方です(南方の具体資料段ボール(^^;)

弥生時代の南方系文化と運搬手段、台湾の舟のタタラ(断面がVの外洋航海型)、タタラ製鉄での大船小舟の呼称・・タタラの語源は舟とみる所以。
無数の可能性があるはずで、それを組み合わせて確率として考察する一般手法の登場を期待しているのですが。


[9330] Re[9329][9327]: タタリ=桛?  とみた 2008/08/28(Thu) 07:32 [Reply]
> >  桛(カセ)木需(木篇に需で、どう読むのでしょう?)
>
> {木需}という字はどこでご覧になりましたか?
>  揣 (但し、手偏ではなく木偏)なら タタリ ですが。

大三玄さん どうも よろしくお願いします。
この字は、列島の古代史 信仰と世界観(岩波書店)の中の、特論、アマテラス神話と金銅製紡織具ー祭祀関連遺物 金子祐之先生の論文です。

銅鐸の絵の中の”工”を待った、紡ぎ糸をかせぐ女人(神戸市桜ヶ丘銅鐸)の桛は、古代の光から引用しました。

歴史万華鏡 三五館出版

[9329] Re[9327]: タタリ=桛?  大三元 [Url] 2008/08/27(Wed) 21:08 [Reply]
>  桛(カセ)木需(木篇に需で、どう読むのでしょう?)

{木需}という字はどこでご覧になりましたか?
 揣 (但し、手偏ではなく木偏)なら タタリ ですが。

[9328] Re[9321][9314]: 金のタタリと金のヲケ  大三元 [Url] 2008/08/27(Wed) 21:05 [Reply]
> ちょいとずれますが・・言語関係で常々思うこと、そう読むのは正しいのか、です。
> 弥移居を「みいい」と読んではまずいのか・・疑い深い(^^;

はい。どんどん疑ってご覧になれば宜しいと思います(^^)。そして、読み慣わしている読み方でない読み方をした方が合理性の高い説明がつくならば、新しい読み方の存在価値が出ましょうね。あたしなんかも、そのような試みを次から次へとしているものです。なかなか他人様に提起できるような存在価値のある新解は難しいっす。

上げられた例の場合には(1)そう読んで一体何の意味なのだ(2)古代日本語が排している二重母音どころか三重母音になっている(3)最後の音は「ゐ」であろう、などなどの批判に晒されましょう。

> 文字の意味を知っての「歌人の遊び」ですね。
> 極度に例の少ないサンプルではそういう場合もあるのではなかろうか。

戯訓、という面白い例がありますが、今の話の流れに寄与しないばかりか、複雑にするだけだと思いますので、控えておきます。

> タタラという発音が神武時代に存在したとして・・
> 新撰姓氏録(815編纂)の欽明時代(推定539-571)に「多々利」が登場する。
> 多々利タタリが祟りに通ずるのを嫌って多々良タタラに文字を置き換えたのだと仮定するなら、その結果の発音が一致していてもはるか昔の神武時代のタタラとは無関係。

うーん。そうなるかなぁ? 発音の一致が偶然によるもの、というご判断でしょうが、欽明時代にだって蹈鞴というものが存在していて、それをタタラ(半島の言語からの借用であろうと、列島で独自開発した名詞であろうと)と呼んでいた、ということは考えないのでしょうか。

[9327] タタリ=桛?  とみた 2008/08/27(Wed) 15:18 [Reply]
 桛(カセ)木需(木篇に需で、どう読むのでしょう?)と機織機なら、連想するのがあります。

糸巻き機ですか。すると神戸市桜ヶ丘の銅鐸に描かれる”工”を持つ女性が糸を紡ぐのか、巫女さんの呪具かの論争に関係します。

アマテラスが機織であることも関連しますね。

これは沖ノ島祭祀用の金銅製機織機が出て、宗像氏の祭祀に使われていたことが判明。天武が胸形特善の娘尼子を後宮に入れ高市皇子を生んだので宗像氏が中央政界に入り朝廷の祭祀にそして伊勢神宮の神宝に取り込まれたのでしょう。七夕の機織も宗像氏が持ち込み、伊勢湾の神島=亀島にも桛(かせ)が出る。

和歌山県の笠田はカセダと読む。桛田(かせだ)でもあり、南九州の加世田でもある(今は南薩摩市に改名)これは何か隠れているのか?





[9326] Re[9325][9322]: たたり  ペギラ 2008/08/27(Wed) 12:43 [Reply]
すいません、まとめてアップすればよかったですね。m(_ _)m

もう一つ。
http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/event/catalogue/religious/mouri~50.htm

「たたり」の姿がかなり見えてきたぞ。


[9325] Re[9322]: たたり  ペギラ 2008/08/27(Wed) 12:35 [Reply]
さらに発見です。

これが、辞書などで説明される「たたり」ですね。

http://www.zenzeikyo.com/E/times_no13/c-times.html


[9322] たたり  ペギラ 2008/08/27(Wed) 11:01 [Reply]
やっと見つけた、出土品の「たたり」画像

http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/03kanzo/kofun.html

これが、「たたり」で良いのかな?
ちょっと疑問だが。(笑




[9321] Re[9314]: 金のタタリと金のヲケ  かたばみ [Url] 2008/08/27(Wed) 10:27 [Reply]
>(欽明6年9月)「弥移居国」 みやけの国

大三元さん、調べていただいてありがとうございます。
わずかではあっても居をケと読むものもあるのですね。

ちょいとずれますが・・言語関係で常々思うこと、そう読むのは正しいのか、です。
弥移居を「みいい」と読んではまずいのか・・疑い深い(^^;
(みやけと読めば、任那の屯倉ミヤケである国、強いイメージが浮かんできますけれど)

移を「や」と読んでいる例は万葉812に「意加米移母おかめやも」が唯一ありました。
このサンプルでは歌人があえて一般ではない文字を使っている可能性を感じます。
歌の内容から「也毛やも」などを使うより、「移ろい」と「母」の文字を使うとより歌のイメージが高まるように見えるのです。
文字の意味を知っての「歌人の遊び」ですね。
極度に例の少ないサンプルではそういう場合もあるのではなかろうか。


>岩波の『日本書紀』下巻P93の頭注:
> ここでは(「弥移居国」は)百済・任那諸国を指す

あいにく資料のほとんどが段ボール箱の中なので、来年早々あたりにはチェックしてみます(^^;


>「だとすると」以降の意味が読みとれません。

タタラという発音が神武時代に存在したとして・・
新撰姓氏録(815編纂)の欽明時代(推定539-571)に「多々利」が登場する。
多々利タタリが祟りに通ずるのを嫌って多々良タタラに文字を置き換えたのだと仮定するなら、その結果の発音が一致していてもはるか昔の神武時代のタタラとは無関係。
あたりまえですけど。

ただし、半島系の方言を欽明系の方言?に置き換えただけと仮定(解釈)するなら、神武時代のタタラとの関連の可能性は残る、ともいえそう。

[9320] Re[9318]: たたら  大三元 [Url] 2008/08/27(Wed) 00:34 [Reply]
> 「たたら車」というのは、紡績車のことでしょうかね?紡錘。。

たたり 絡{土朶}・揣(手偏ではなく木偏) 方形の台に柱を立てて、紡いだ糸を纏きつけるようにしたもの。糸巻き。繰り台。(時代別国語大辞典上代編)

繰り台はイメージが湧かないけど、前二つだと、これにキャスター付いたら作業できなくならないかなぁ?

> そこで思いました。
> 「たたら」という発音物、、もしかして、紡績器具名が起源ではなかろうかとも。
>
> その形に似ているから、フイゴがそう呼ばれるようになったのでは?

「くつひき」 臥機 (肥前風土記)・・・【考】足にしばりつけて足で引いて使用するもので沓引の義か・・・

これなら、足で操作する、というフイゴとの共通点がありそうですが、タタリとタタラはどうにもつながらない。

[9319] Re[9312][9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/27(Wed) 00:18 [Reply]
>  多々羅の遺跡の発掘で出たという氏のお話。伝聞です
「森浩一さんが、製鉄というよりも金属製の「たたら車」?が出ていたとか聞きました。」
この文の主語は森さんですよね(森浩一さんが・・・聞きました)?
そして、森さんが書き物にされた(?)のを佐々木さんが読まれて、その記憶でここに書かれた。
さて、『「たたら車」?』の「?」は森さんが疑問に思って書いて居られるのですか、佐々木さんが記憶不確かな為に付されたものですか?
「たたら車」って何ですか?(どんなもの、何をするもの?)
「たたり車」ではないのですね?(それにしても、それなぁに?だけど。)

>  ありがとうございます。機会あれば拝見します。「り」の列で「利」の文字使用履歴、文書など確認できれば致したいと思います。

文字使用履歴、文書、ということでしたら時代別国語大辞典上代編が良いかも。
推古遺文以下計18の文書での利用有無を掲載しています。「り」に「利」を使っていないのはそのうち古事記を含めて3文書です。

>  可能性を述べているのみで、貴職のご専門の立場で×と判断されれば、飛ばして下さい。小職は想定されるものは、すべて採用する方向で検討する姿勢です。日常は生きるか死ぬかが掛かっていますし。

私は専門家でもなければ職業にしているものでもありませんのでご承知おき下されたく。
「想定されるものは、すべて採用する方向で検討する姿勢」:私は思いついたことを肯定・否定両面から攻めるように努力しています。(自己批判・・・)そうしないと、他人様に提起したとき説得力が出ないと思うからです。朝聞道,夕死可矣、と云います。間違ったことはなるべく俗界に捨ててから三途の川を渡りたいもの、と思ってます。

>  最初から批判的に見るのもよき手段かと思います。

何を意味して居られるのか把握できません。

[9318] たたら  ペギラ 2008/08/26(Tue) 23:44 [Reply]
「たたら車」というのは、紡績車のことでしょうかね?紡錘。。

そこで思いました。
「たたら」という発音物、、もしかして、紡績器具名が起源ではなかろうかとも。

その形に似ているから、フイゴがそう呼ばれるようになったのでは?


[9317] Re[9315][9314][9311][9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 22:42 [Reply]
>  これ、弥:ミ 移:ヤ 居:ケ と読むのでしょうか。

そうです

[9316] Re[9311][9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/26(Tue) 22:25 [Reply]
> 万葉をざっとみたところでは「居、ヰ」であって「ケ」はみあたらないのです。
> (金のオヰだとするとそれがなんであるか推測すらできなくなりそう)

 万葉集を紛失して、コピーでもらった分なのですが、
 石田王卒之時丹生王作歌一首 并短歌 3巻420に、
 齋戸乎居(いはひべをすゑ)がありました。

 「利」は百済史料で確認しました。いろいろご指導ありがとうございました。

[9315] Re[9314][9311][9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/26(Tue) 22:14 [Reply]
> 「居」を「ケ」と読むのは、推古朝遺文・古事記にありという(世界大百科、時代別国語大辞典上代編)ので古事記を見てみました。やっと一例見つけました。
(欽明6年9月)「弥移居国」 みやけの国 
少し教えて下さい。
 これ、弥:ミ 移:ヤ 居:ケ と読むのでしょうか。

[9314] Re[9311][9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 21:39 [Reply]
> 「利」は万葉集では頻出していますね。しかし「居」を「ケ」と読む根拠はどこにあるのか。
> 万葉をざっとみたところでは「居、ヰ」であって「ケ」はみあたらないのです。
> (金のオヰだとするとそれがなんであるか推測すらできなくなりそう)

「居」を「ケ」と読むのは、推古朝遺文・古事記にありという(世界大百科、時代別国語大辞典上代編)ので古事記を見てみました。やっと一例見つけました。
(欽明6年9月)「弥移居国」 みやけの国 

岩波の『日本書紀』下巻P93の頭注:
 ここでは(「弥移居国」は)百済・任那諸国を指す。・・・
居は上古音から ka→ ke→ ka→ ko(発音記号でここに表現出来ないものあり略記)という変化を経てコ(乙類)の音を表すようになった文字。その途中の ke の段階の音によって ケ(乙類)の音を表したもの。

ここ以外では 居はコを表しているのが殆どのようです。 
例:
居勢祝 (神武記)
万葉:09/1723/4 ねもころみれど 根毛居侶雖見

> だとするなら「往古のタタラ」があったとしてもここでの多々良は偶然の一致にすぎず「往古のタタラ」とは関係がない可能性がでてきそうです(^^;

「だとすると」以降の意味が読みとれません。(色々想像してみましたが、お尋ねするのが早そうだし正確でしょう。)言い方を変えてみて貰えますか?

[9313]  「あいのり」という地名     生田淳一郎 2008/08/26(Tue) 18:50 [Reply]
 大館から弘前に向う途中の山の中に「あいのり」という地名これあり。
 あいのはアイヌならむ。 U はほとんど O で近い発音。 ri はやっぱ「里」ならむ。

 中間言語といいますか、○○語△△語のように集団形成から変質を余儀なくされて、現代に生き残ったた言語とは、国を牛耳る氏族語だった。そういううごきの中で埋もれた移行形態の把握なくしては、ツバメの子安貝を掴む結果となりやしょうでぇ♂

 「あいのま」という地名もあります。アイヌがいるマのことでしょう。「ma(湾入の浜)」は、今でも佐渡で生きています。

[9312] Re[9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/26(Tue) 17:58 [Reply]
> 要は「森浩一さんが、製鉄というよりも金属製の「たたら車」?が出ていたとか聞きました。」というご文の意味が判らないのですが・・・もし、いずれにせよ不確かな伝聞で根拠として使えない、ということなら、もう結構ですが。

 多々羅の遺跡の発掘で出たという氏のお話。伝聞です

> 平凡社世界大百科事典「かな」

 ありがとうございます。機会あれば拝見します。「り」の列で「利」の文字使用履歴、文書など確認できれば致したいと思います。

>「郷里制の関係で、最後に「り」を付けないように配慮したとか。」という仮説を引っ込められませんか。

 可能性を述べているのみで、貴職のご専門の立場で×と判断されれば、飛ばして下さい。小職は想定されるものは、すべて採用する方向で検討する姿勢です。日常は生きるか死ぬかが掛かっていますし。
 最初から批判的に見るのもよき手段かと思います。

 いろいろご指導ありがとうございました。

[9311] Re[9310][9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  かたばみ [Url] 2008/08/26(Tue) 17:45 [Reply]
おととっ忙しくなった(^^; 即応感謝。

「利」は万葉集では頻出していますね。しかし「居」を「ケ」と読む根拠はどこにあるのか。
万葉をざっとみたところでは「居、ヰ」であって「ケ」はみあたらないのです。
(金のオヰだとするとそれがなんであるか推測すらできなくなりそう)

タタリと発音して「祟」に通じるので類似の良字に置き換えた、これはありそうですね。
だとするなら「往古のタタラ」があったとしてもここでの多々良は偶然の一致にすぎず「往古のタタラ」とは関係がない可能性がでてきそうです(^^;

任那の人、半島系倭人だろうと思いますが、珍しい品の名詞としては西アジアまでぶっとぶ可能性もあるからなあ。
発音の妥当性や背景考察がない語呂合わせがスタートでも、いつのまにか定説のごとくになってしまうのかも・・

[9310] Re[9308][9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 17:00 [Reply]
要は「森浩一さんが、製鉄というよりも金属製の「たたら車」?が出ていたとか聞きました。」というご文の意味が判らないのですが・・・もし、いずれにせよ不確かな伝聞で根拠として使えない、ということなら、もう結構ですが。

>  ようやく了解。しかしこれどげんして解明しますか。「多々利」は「たたり」と読むのが間違いなのでしょうか。この言葉の由来が?。

「多々利」という文字列を見て「おほ・おほ・と(し)」とでも読むことも不可能ではないでしょう。勿論「たたり」とも読めます。そのほかにも読めるかもしれない。前後の文脈に照らして選択するのでしょう。「たたり」という言葉の由来、ということは語源でしょうか。存じませんし、今、関心の範疇ではないのではないでしょうか。言葉の意味なら辞書に出てるのですが。

[9309] Re[9307][9305][9304]: 乎居  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 16:51 [Reply]
> 利という文字は読み何?
> 「り」は推古遺文・古事記では「理」。時代と読みなど現象の整理が必要ですね。

平凡社世界大百科事典「かな」の項にある「上古の表音文字一覧表」が私には至極便利で、実用上十分に現象の整理がなされていると思ってます。

> > > いや郷里制の関係で、最後に「り」を付けないように配慮したとか。

出雲国風土記の該当箇所をご覧下さい。「母理郷 ・・・・・故云 文理 神亀三年 字を母理と改む」とありましょう。

「郷里制の関係で、最後に「り」を付けないように配慮したとか。」という仮説を引っ込められませんか。

[9308] Re[9306][9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/26(Tue) 15:50 [Reply]
> 「確か京都地名研究会の「京都地名の検証」でしたか、森浩一さんが、製鉄というよりも金属製の「たたら車」?が出ていたとか聞きました。」とお書きになったのはこの本のことですか?

 そうです。1巻と2巻があります。「大阪」も新刊で出てました。3日前まで持っていましたが、京都民報の綱本逸雄さんが書いておられたのですが、完全書名を忘れています。

> そう言う問題ではないだろうと思います。ある時点(欽明期)に発生した事象(「たたり」が贈られたので「たたら」となづけた)で、大昔の名義(たたら)を(たたり、と)解く、というのが論理的にどうなんでしょう、と疑問を呈しているのです。

 ようやく了解。しかしこれどげんして解明しますか。「多々利」は「たたり」と読むのが間違いなのでしょうか。この言葉の由来が?。





[9307] Re[9305][9304]: 乎居  佐々木 2008/08/26(Tue) 15:40 [Reply]
> > 古事記では「り」は「理」、「ら」は「羅」「良」、利の文字の適用がない。
> これが意味するところは何ですか? 
> (理を使うか利を使うかは単なる選択の問題ではないのか?)

利という文字は読み何?
「り」は推古遺文・古事記では「理」。時代と読みなど現象の整理が必要ですね。

> > いや郷里制の関係で、最後に「り」を付けないように配慮したとか。

> 出雲意宇郡「母理(文理)」(もり)郷とか肥前養父郡「曰理」(わたり)郷とかは反証になります? そういう話ではない?
 反証なりうる?おそらく。但し和銅二字令の後の修正地名なのでしょうか。

[9306] Re[9300][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 14:30 [Reply]
> >【地名随想】「京田辺市の『多々羅』地名 綱本逸雄
> を読んでみた上での私のコメントでした。
>
>  今これが「京都地名の検証」という本になっています。残念なことに、すでに手放してしまった。

「確か京都地名研究会の「京都地名の検証」でしたか、森浩一さんが、製鉄というよりも金属製の「たたら車」?が出ていたとか聞きました。」とお書きになったのはこの本のことですか?

>  そこまでの精度の議論が必要がどうかですが。懸念はあってもですが。

異なる語が同じ意味だ(たたら=たたり)と新解をするのですからそれなりの論証が必要でしょう。

> >それとも神武妃の名前は古事記(など)編纂の時に「つけた」というお立場でしょうか?

>  この問題はわかりません。学術的にはどのように解釈されているのかもよく存じ上げす。 これらの御名前の成立に関する文献などあれば、ご教授願いたく。

そう言う問題ではないだろうと思います。ある時点(欽明期)に発生した事象(「たたり」が贈られたので「たたら」となづけた)で、大昔の名義(たたら)を(たたり、と)解く、というのが論理的にどうなんでしょう、と疑問を呈しているのです。

[9305] Re[9304]: 乎居  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 13:31 [Reply]
>  新井白石の書物で、「麻(オ)の糸を入れて運ぶ器=笥(ケ)」が。麻を水に漬け込む桶でもよろしいのかな。

それと、一般に、水をいれておく容器、でもあるようです。天岩屋の段で、アメノウズメが「ウケ」を伏せて踏みならして踊る、これも「桶」だろうとされてます。

龍田風神祭の祝詞に「・・・金(くがね)の麻笥(をけ)、金のタタリ、金のカセヒ、・・・」というのも見つけました。(参考のみ)

> 古事記では「り」は「理」、「ら」は「羅」「良」、利の文字の適用がない。

これが意味するところは何ですか? 
(理を使うか利を使うかは単なる選択の問題ではないのか?)

> いや郷里制の関係で、最後に「り」を付けないように配慮したとか。

出雲意宇郡「母理(文理)」(もり)郷とか肥前養父郡「曰理」(わたり)郷とかは反証になります? そういう話ではない?

[9304] 乎居  佐々木 2008/08/26(Tue) 10:53 [Reply]
 新井白石の書物で、「麻(オ)の糸を入れて運ぶ器=笥(ケ)」が。麻を水に漬け込む桶でもよろしいのかな。
 多々利⇒多々羅変換、古事記では「り」は「理」、「ら」は「羅」「良」、利の文字の適用がない。『新撰姓氏録』の編集時に「利」の文字が使用可だったのでしょう。いや郷里制の関係で、最後に「り」を付けないように配慮したとか。

[9303] Re[9301][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 10:07 [Reply]
> ところで「乎居」はなんでしょうか。

「桶」じゃないかな。

[9302] Re[9301][9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 10:06 [Reply]
> 多々利に注目したなら多々利公とするのが普通だと思いますがなんで「多々良公」と文字を変えたのかなあ。

私の憶測ですが「祟り公」に通じるので、それを「悪んで」(にくんで)「たたら公」にした?

[9301] Re[9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  かたばみ [Url] 2008/08/26(Tue) 09:35 [Reply]
面白い、「多々利」とはなにかの解釈問題なんですね。
「『新撰姓氏録』山城国諸蕃「任那 多々良公」に・・・金の多々利、金の乎居(をけ)等を献りき」
(献金多々利金乎居等)

金で作った小舟(ミニチュア)・・という解釈もありえる(^^;
ところで「乎居」はなんでしょうか。

多々利に注目したなら多々利公とするのが普通だと思いますがなんで「多々良公」と文字を変えたのかなあ。
このあたりもキーになりそうです。


[9300] Re[9297][9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/26(Tue) 09:30 [Reply]
>【地名随想】「京田辺市の『多々羅』地名 綱本逸雄
を読んでみた上での私のコメントでした。

 今これが「京都地名の検証」という本になっています。残念なことに、すでに手放してしまった。

>さて? 神武妃の名前についている「たたら」は「たたり」のことだ、と言えるのか、というのが、今の討議の核心だと思います。欽明の頃には「たたら」と「たたり」は同義だった、という話には持って行けるのでしょうが、それだけでは神武妃の「たたら」は「たたり」のことである、とは言えないのでは? 

 そこまでの精度の議論が必要がどうかですが。懸念はあってもですが。

>それとも神武妃の名前は古事記(など)編纂の時に「つけた」というお立場でしょうか?

 この問題はわかりません。学術的にはどのように解釈されているのかもよく存じ上げす。
 これらの御名前の成立に関する文献などあれば、ご教授願いたく。

[9297] Re[9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/26(Tue) 08:40 [Reply]
>  欽明時代の論説とは、どこに書いてありましたかね。

以前神奈備さんが紹介なさったのは:
http://chimei.hp.infoseek.co.jp/tushin2.htm
じゃなかったでしたっけ。そこで
 【地名随想】「京田辺市の『多々羅』地名 綱本逸雄
を読んでみた上での私のコメントでした。

> >京田辺の多々羅地名の論説は欽明天皇の時代の話。そこの結論(まだだが)を神武期に持って行くのは怖い。
>  編纂は神武のときではないのですから、問題ないのではないでしょうか。

さて? 神武妃の名前についている「たたら」は「たたり」のことだ、と言えるのか、というのが、今の討議の核心だと思います。欽明の頃には「たたら」と「たたり」は同義だった、という話には持って行けるのでしょうが、それだけでは神武妃の「たたら」は「たたり」のことである、とは言えないのでは? それとも神武妃の名前は古事記(など)編纂の時に「つけた」というお立場でしょうか?

[9296] Re[9283]: 大己貴神と神武天皇  かたばみ [Url] 2008/08/26(Tue) 06:48 [Reply]
>「荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置」が話題となり

どう解釈するか、ですね。
無難なのは、ある時代に諏訪系の人々が移住して祀った、かなあ。
もっと青草にゆけば、その源流を古墳時代にまで遡るとみて、出雲側に武神の復活が必要になって祀った、という解釈。私はこれでゆきます(^^;

長野の戸隠神社や東京の湯島天神が祀る手力雄命も同様の状況を示すとみています。
こちらは天孫側が旧出雲勢力に対抗するために祀った武神(武甕槌命は記紀以降での登場)。
創建がいつか、そのときの周辺情勢がどうか、これがキーワードだと思います。


神武と大己貴命、神話と歴史の接点でもあり、弥生時代の具体的情勢を推定する重要部分だと思います。
ただし、大己貴命は少彦名命や素盞鳴尊との関連から神武よりはるかに古いはず。
記紀が神武以降の時代設定をずらす操作をしているために大国主命時代であったものが大己貴命時代と重なり、大己貴命≒大国主命となってしまったとみています。

神話時代から人間時代の流れを具体的に年代化した持論図表、ついでにどうぞ。

(ここでの「アマテラス」は記紀の天照大神ではありません、その源流)
数年前のものですがいまのところ修正の必要を感じていません。

[9295] Re[9294][9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  かたばみ [Url] 2008/08/26(Tue) 06:43 [Reply]
「えとのす14号/海南の船と文化」によりますと、台湾ヤミ族の現代の板材の船をニニナプン・ア・タタラ、昔の刳舟をニソサワン・ア・タタラと称しています。タタラは小舟の意。
資料が手元にないのであいまいですが、中南米の葦船にも似た発音があります。

で、タタラ製鉄の炉には大船、小舟と呼ぶメイン構造があります。
ふたつの事象のどちらも具体的ゆえに、日本での「タタラ」の語源は「小舟」の意であった可能性が高いと考えています。

[9294] Re[9293][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/26(Tue) 00:04 [Reply]
 確か京都地名研究会の「京都地名の検証」でしたか、森浩一さんが、製鉄というよりも金属製の「たたら車」?が出ていたとか聞きました。
 ただ「ら」が「羅」だから、これは絹織物だろうと思っていたら、仁徳関係だったか、村に片隅に日本最初外国産蚕??の石碑がありました。

>京田辺の多々羅地名の論説は欽明天皇の時代の話。そこの結論(まだだが)を神武期に持って行くのは怖い。
 編纂は神武のときではないのですから、問題ないのではないでしょうか。
古事記、書紀、万葉集、推古遺文、金石文など上代仮名遣い傾向の統計はつくりかけているけども。吏読もちょっと見ながらですが。

 欽明時代の論説とは、どこに書いてありましたかね。

★「百々(ドド)」の成立は忘れました。滋賀で数ヶ月前に教えてもらっただが。

大三元さん 忙しすぐるとすぐ忘れ、暇だともっと忘れます。

[9293] Re[9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 23:35 [Reply]
佐々木さん
> 以前神奈備さんが、京田辺の多々羅地名のことを教示して頂きましたが、

古いところを見てきました。

> あれは紡績の多々羅(たたら)車由来の地名でありました。

そんな確定的になってた訳じゃないのではありませんか? 今後の発掘が待たれる、みたいな結論と読みましたが。

> ゆえにタタリもタタラも同じではなかったかと考えております。

この可能性もあると思いますが、いつの頃からの話か。京田辺の多々羅地名の論説は欽明天皇の時代の話。そこの結論(まだだが)を神武期に持って行くのは怖い。

[9292] Re[9290][9289][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 23:23 [Reply]
佐々木さん

> 「モモ」は万葉集の原文ではどの字でしょうか。私は百は「ド」と読んでしまいます。
> 「モモソ」と「クマソ」の「ソ」何か気になります。モモ、ニニ、トト、タタとか面白い。

「モモ」他の原文漢字などは
http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm
をご参照下さい。
なお、「万葉集」に「モモ」は出てくるでしょうが、モモソビメは覚えていません。

「百」を「ド」と読むのはいつ頃からなんでしょうね。上代にはなさそう。
(それこそ、10*10=トト → トド、 ドド なのでしょうね。)

沖縄古語の「ソ」=「〜人」ですが「〜」の所は数字(数値)であるべきのようですが、これを援用・拡大解釈すると「クマソ」は「クマ人」でしょうかね。「肥人」もそれの一つの漢字表記方法、ということに?

[9291] Re[9289][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  ペギラ 2008/08/25(Mon) 22:59 [Reply]
なるほど、紡績か、、、という話は以前から聞いていたが
改めて、本日、個人的に勝手に納得(^_^;)

事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也

織姫も玉櫛姫も、紡績と言えば、そうだろう。

この子供が「蹈鞴」という漢字表現のままの
金属系の言葉とするというのも変だよね。

ホトタタラという言葉に紡績器具に当たるものはないのだろうか?

さらに、三島あたりは、紡績関係の集積拠点地か、生産地拠点地だったのだろうか?

面白い道が見えて嬉しいです。



[9290] Re[9289][9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/25(Mon) 22:33 [Reply]
> もう一つデータだけですが、新撰姓氏録 山城国諸蕃 任那からの帰化人として
> 「多々良公」があって、「金のタタリなどを献上したので多々良公姓を与えた」とあります。「祟り公」じゃまずかったのでしょうかね。

 大内氏の多々良でない多々良? これ聞き覚えあるけど。

「モモ」は万葉集の原文ではどの字でしょうか。私は百は「ド」と読んでしまいます。
「モモソ」と「クマソ」の「ソ」何か気になります。モモ、ニニ、トト、タタとか面白い。
 大三元さん。青草でした。

[9289] Re[9288][9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 21:53 [Reply]
佐々木さん

あらら、そうでしたか。それは失礼。
もう一つデータだけですが、新撰姓氏録 山城国諸蕃 任那からの帰化人として
「多々良公」があって、「金のタタリなどを献上したので多々良公姓を与えた」とあります。「祟り公」じゃまずかったのでしょうかね。

>  大三元さん
>
>  以前神奈備さんが、京田辺の多々羅地名のことを教示して頂きましたが、あれは紡績の多々羅(たたら)車由来の地名でありました。ゆえにタタリもタタラも同じではなかったかと考えております。たしか大三元さんからつっこみが入ったので記憶しています。ボケてるからまちがっていたらすいません。
>
> > 「たたり」だとそうかも知れませんが、一応「たたら」なので、どうでしょうか。
> > それにしても、あわてて糸を撚ったらどういうことになるのか(^^)
>
>  麻の繊維を叩かないで、自分の指を叩くのでしょうか。 

[9288] Re[9287][9284]: これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/25(Mon) 21:27 [Reply]
 大三元さん

 以前神奈備さんが、京田辺の多々羅地名のことを教示して頂きましたが、あれは紡績の多々羅(たたら)車由来の地名でありました。ゆえにタタリもタタラも同じではなかったかと考えております。たしか大三元さんからつっこみが入ったので記憶しています。ボケてるからまちがっていたらすいません。

> 「たたり」だとそうかも知れませんが、一応「たたら」なので、どうでしょうか。
> それにしても、あわてて糸を撚ったらどういうことになるのか(^^)

 麻の繊維を叩かないで、自分の指を叩くのでしょうか。 

[9287] Re[9284]: これは麻紡績のことでは?  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 20:52 [Reply]
佐々木さん

「たたり」だとそうかも知れませんが、一応「たたら」なので、どうでしょうか。
それにしても、あわてて糸を撚ったらどういうことになるのか(^^)

> 1★多多良伊須須岐や多多良伊須気とは、麻から糸をすく道具のことで、余理はそれを撚っているのではないだろうか。
>  つまり糸紡ぎ姫。
> 2★蹈鞴五十鈴とは、紡いだ糸的なものの五十鈴織(記憶不明?)のことか。依は着物を造るとすると、(麻)着物つくり姫とも、1★にように糸紡ぎ姫なのか。

[9286] Re[9280][9278][9277]: 三輪山セミナー イン kokyo  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 20:50 [Reply]
細かいことかも知れませんが:
> イスケは慌てるという意味のことです。古事記の文脈の中では、大物主がヒメに見ほれて、赤く塗った矢に姿を変えて、溝を流れ下ってヒメが厠(水の流れの上に板を引いた)で用を足していたとき、ホト(秀処=陰部)に突き刺さったのでヒメは驚いて慌てふためいたの意味です。

こう↓じゃないですか?
ホトを刺されたのは「セヤダタラ姫」、本当はこの人が「いすすいた」筈。
「イススキ姫」はその娘で、いすすく理由なし???

[9285] ヤマトトトビモモソ姫  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 20:44 [Reply]
「モモ」は100か?
「モモソ」の部分に就いて古事記の表記は「母母曾」であります。古代日本語の特殊仮名遣い(甲類・乙類が分別される音がある)において「モ」に就いては古事記だけが甲乙の区別をしています。(書紀・万葉集などでは分別されていない。)

そして古事記で「100」の意味を表す場合の「モモ」は「毛毛」と書かれています。「毛」は甲類の「モ」です。一方「母」が乙類の「モ」に使われています。従って、古事記が「母母曾」と表記した時に「母母」の部分に関しては「100」という意味合いではなかったことになります。(桃なのか股なのか、それとも何なのか不詳、とします。)

それを考えると「古事記」の「母母曾」に相当する部分が、日本書紀では「百襲」となっていることが疑問になります。どんな可能性があるでしょう。

1.古事記が「モ」に就いて甲乙分別したのは間違いであり(擬古文のとちり?)(または、ここに関してだけ「モ」の甲乙を間違えたのであり)本来の意味は「100」でよいのだ。
2.古事記は(ここに関して)全面的に正しく、日本書紀が「百」と書いたのは古語を良く知らなかったからだ。
3.本来「百襲」は「モモソ」ではなく「ホソ」を写したものだ。{これ私論}

ヤマトトトビモモソ姫の周辺(義母)には「細姫」が居る。
ヤマトトトビモモソ姫の別名(であろう)に「倭迹速神浅茅原目妙姫」がある。ここの「妙」は「くはし」と読まれる。「細」も「くはし」の訓がある。

(余談:沖縄古語辞典には「ももそ:百人」が載っている。「そ」は「何人」の「人」に相当する、と。)
---------------------------------------------------------------
「トト」は10*10か?
確かに「迹」は乙類の「ト」であり、10の「ト」も乙類で一致はしています。
だから「迹迹」が10*10になる得る、そのこと自体は良さそうです。
が、次のような名前があり、これらとの整合を考えると多少逡巡があります。

倭迹迹日百襲姫(記:夜麻登登母母曾毘賣)
倭迹速神浅茅原目妙姫 {迹速:とはや;と(乙)ど(甲)}
倭迹迹稚屋姫(記:倭飛羽矢若屋比賣){記:倭以外では「ト」が一回}
春日千乳早山香媛(記:春日千千速眞若比賣){チチ}
千千衝倭姫(記:千千都久和比賣) {チチ}

くどいようだが、後半の「モモソ」に引かれて、「トト」を10*10と説く場合には「モモ」が100であることの明証が欲しい。
---------------------------------------------------------------
「ソ」が「霊力のある」という意味だ、という典拠をご存知の方教えて下さい。
「セヤダタラ」の「セヤ」は「ソヤ」のことで、「金属の矢じりの矢」だ、という岩波日本書紀頭注あり。時代別国語大辞典上代編で「そや」は「戦闘用の矢」


[9284] これは麻紡績のことでは?  佐々木 2008/08/25(Mon) 19:56 [Reply]
1★多多良伊須須岐や多多良伊須気とは、麻から糸をすく道具のことで、余理はそれを撚っているのではないだろうか。
 つまり糸紡ぎ姫。
2★蹈鞴五十鈴とは、紡いだ糸的なものの五十鈴織(記憶不明?)のことか。依は着物を造るとすると、(麻)着物つくり姫とも、1★にように糸紡ぎ姫なのか。

[9283] 大己貴神と神武天皇  神奈備 2008/08/25(Mon) 17:13 [Reply]
 『風土記』記載の神社に佐支多神社があり、祭神は健御名方命、八坂戸賣命となっていますが、神社の祭神ほどあてにならないものはなく、風土記の昔には、既に健御名方命になっていたのかどうか疑問です。
 尚、神社の別名は御射山(おんたいざん)です。この名も「みさやま」と読めば諏訪大社からみとなります。

 かって、「荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置」が話題となり、これをまとめてアップしています。
 http://kamnavi.jp/log/koujinvry.htm


> ヒメは驚いて慌てふためいたの意味です。

 成るほど、こちらの方があわてるでしょうね。片や、母親ですから何事にも動じない。


大三元さん、ありがとうございます。

> 日本書紀(本文) 大己貴族神・幸魂奇魂   (族は所属の属または族を除く)

大己貴神の葦原中国の統一作業が終わった後、本人の幸魂奇魂が登場するシーンの後のお話ですね。神代の本文は大己貴神、神武紀の本文は事代主神、面白いズレですね。
 それと后妃から見ると、大己貴神と神武天皇が重なってくる、欠史八代の謎解きにつながりますね。

> 今の視角からだと「勝ち組が負け組に女性を人質のように差し出す」のはおかしいかもしれない。

 公武合体の和宮降嫁や信長の妹のお市のかたの場合はどうでしょうか。

[9282] 神武妃の周辺  大三元 [Url] 2008/08/25(Mon) 14:28 [Reply]
神奈備さん、リファありがとうございます。
話題になってる神武妃の周辺について私の考えをまとめておきました。
表形式を使いたく、また、長くなりそうなので、ここに書くのではなく、私のサイトにあげました。悪しからず。

http://www.dai3gen.net/jinmu-hi.htm

[9281] Re[9276][9275]: 八雲立つ  かたばみ [Url] 2008/08/25(Mon) 08:10 [Reply]
>松江の神魂神社には、九つ雲なので

こちらは出雲臣族(天穂日命)が創建したとされる社、最古の大社造りとされています。
雲を出雲大社に準じて、御祭神のイザナギイザナミの2神を加えているのだと思います。
いつの時代の信仰とその表現をどう解釈するかではありますが、こちらのほうが出雲大社より古い時代に登場した社であり、すなわち出雲神族以前に天穂日命がここにあったと考えています。

これを青草にすると・・神話の国譲りとはなにか、その前後の出雲文化のありようとは、のヒントに(^^;

[9280] Re[9278][9277]: 三輪山セミナー イン kokyo  とみた 2008/08/25(Mon) 08:01 [Reply]
> とみたさん、セミナーのご紹介ありがとうございます。

お互い様です。品質の良い情報の交換が出来ればと思っています

>
> > イスケヨリヒメはイスケは慌てふためくの意味だそうです。ヨリは依で憑依の依ですね
>
>  イスケヨリヒメが慌てふためいたと思われる舞台は当芸志美美命がその三の弟を殺そうと計画していることを知った時でしょうが、危険を知らせる歌を詠んでいま
す。

神武(イワレヒコ)が日向の元妻の子供のタギシミミ、と大和の現地妻のヌナカワミミの争いで慌てるということでしょうか。

イワレヒコはイスケヨリヒメと三輪狭井川の源流近くで新居を持ちヌナカワミミをもうけました。

イスケは慌てるという意味のことです。古事記の文脈の中では、大物主がヒメに見ほれて、赤く塗った矢に姿を変えて、溝を流れ下ってヒメが厠(水の流れの上に板を引いた)で用を足していたとき、ホト(秀処=陰部)に突き刺さったのでヒメは驚いて慌てふためいたの意味です。

単純に考えています。

神奈備さんの仰せの含意があるかどうかは、私にはまだ分かりません。古代語学者の西郷信綱さんも、イススキは慌てる意味とされています、これは古事記です。日本書紀にはイスケからイスズ=五十鈴に変えている。五十鈴姫ですね。大物主は事代主に変えていますのは、皆様ご承知のところです。


>
>  狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
>
>  どうなんでしょう、慌てふためいて、このような歌が詠めるでしょうか。
>  また、イスケで、他に慌てふためく意味に使われている用例があるのでしょうか。
>
> 依については、大三元さんの『初期天皇后妃の謎』の中で、スセリとヨリを対比させて、長幼を現しているのではと問題提起をされています。

大三元さんは、縄文語の大家です。私は言葉に関しては素人丸出しです。

> > タタラは立てられる
>
>  フイゴの踏鞴よりは素直に理解できそうです。

そうですね。タタラという言葉はよく製鉄と関係する説もありますね。セミナーでもそれも考えられるけれど立てると考える方が自然だと三浦先生は仰せでした
>
>
> > トトは十と十でモモは百です。トトとモモノ間のソも霊力のあるという意味だそうです。
>
>  トトとモモノ間には「ソ」はありません。トトトモモの「ト」のことでしょうか。そうしますと、ヤマトトトモモソヒメは大和ではなく、山の十十の霊力のある百襲姫となりますね。意味が分かり難い所です。

済みません。私のミスです。ヤマトトトモモソヒメですね。

十x十=百で”ソ”は霊力のあるという意味です。

ヤマトは大和と倭と思っていましたが、三浦先生はこれは触れておられませんでした。

和や倭が二文字の好字化推進で8世紀に変更して大和になったようですから、(泉は和泉に変更)不用意に考えるのは危険ですね。山と考えるのもあり得ましょうか。

大和平野は確かに山々で囲まれています。八重に十重つまり十十ですね。

何れにせよ古代は、シャーマンが活躍していました、ソ・・・霊力のある、

ヨリは・・・依で憑依。玉依はよく出てきます。

それで納得してしまいました。

スエは陶で、神を祀る土器ですね。陶邑のオオタタネコが大物主神を祀った。


[9279] Re[9275]: 八雲立つ  かたばみ [Url] 2008/08/25(Mon) 07:42 [Reply]
>八雲の名がついていますが、雲は七つでした。七不思議。

神在月にもふるさと帰りできない神様・・諏訪に追放された建御名方命かも。
いつかは許されて雲が八つになるのかもかも・・かも(^^;

[9278] Re[9277]: 三輪山セミナー イン kokyo  神奈備 2008/08/24(Sun) 21:46 [Reply]
とみたさん、セミナーのご紹介ありがとうございます。

> イスケヨリヒメはイスケは慌てふためくの意味だそうです。ヨリは依で憑依の依ですね

 イスケヨリヒメが慌てふためいたと思われる舞台は当芸志美美命がその三の弟を殺そうと計画していることを知った時でしょうが、危険を知らせる歌を詠んでいます。

 狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

 どうなんでしょう、慌てふためいて、このような歌が詠めるでしょうか。
 また、イスケで、他に慌てふためく意味に使われている用例があるのでしょうか。

依については、大三元さんの『初期天皇后妃の謎』の中で、スセリとヨリを対比させて、長幼を現しているのではと問題提起をされています。

> タタラは立てられる

 フイゴの踏鞴よりは素直に理解できそうです。


> トトは十と十でモモは百です。トトとモモノ間のソも霊力のあるという意味だそうです。

 トトとモモノ間には「ソ」はありません。トトトモモの「ト」のことでしょうか。そうしますと、ヤマトトトモモソヒメは大和ではなく、山の十十の霊力のある百襲姫となりますね。意味が分かり難い所です。

[9277] 三輪山セミナー イン kokyo  とみた 2008/08/24(Sun) 08:32 [Reply]
昨日、東京は有楽町で、三輪山セミナー in tokyoがありました。

会場は1000人ぐらいは入っていたでしょう。毎年盛況で満員になります。

もちろんほとんどが白髪頭です。

講演者の、千葉大の三浦祐之先生は口語訳古事記を文芸春秋社から出せれていてベストセラーにもなったそうです。その抜粋を話されました。少し面白く感じたことをご紹介します。

三島溝クイの娘のセヤタタラヒメと大物主が結ばれて、或いは、ホトタタラ、イスケヨリヒメとか名前の意味が分かりました。

セヤタタラヒメとはセ・・・神聖な、ヤは矢、タタラは立てられる、つまりオオモノヌシが矢となって川を流れてくると、ヒメが川の上に板か杭の上で用便をしていると陰部=ホトに矢が刺さってその矢を床においておくと男になる・・・というような話しが神婚神話ですね。溝杭も溝は川の溝で杭は水洗トイレの横板でしょうから、つまり厠ですね。

ホトタタラもホトは陰部で、タタラは立てられる。古代の性は大らかですからね。

イスケヨリヒメはイスケは慌てふためくの意味だそうです。ヨリは依で憑依の依ですねシャーマンに依りつく。古代は何せシャーマンの時代です。

神との交信が出来る。神の言葉を聞き取れる能力が支配者の力の源泉です)

ヤマトトトモモソヒメはヤマトは倭でしょう。トトは十と十でモモは百です。トトとモモノ間のソも霊力のあるという意味だそうです。シャーマンですね。

邪馬台国をダイと読んだのは江戸時代以降ですって。ヤマトと呼ぶべきとのことです。


陸の神、山の神は、蛇と矢だそうです。矢は男性の神格ですね。

海の神は、ワニだそうです。このワニは古代ではアフリカのクロコダイルではなく鮫とかフカを意味すよとのことです。

和邇氏も海辺の民でワニを信じていたのかもしれない。それが陸に上がった。

水野正好先生も話せれましたが、この方の本はよく読んでいます。大和の黒塚古墳の北の大和神社に、ヒミコの都があったとう説です。

崇神天皇が国魂の地の神を祀ったところです。

上ツ道です。

上ツ道と山辺道が古代の墓と都の大通りというユニークな説です。

邪馬台国の支配領域は宮城県から山口県です。

青草掲示板でぽんたさんがご紹介された霊視の邪馬台国に合致しているのでしょうか?


[9276] Re[9275]: 八雲立つ  佐々木 2008/08/23(Sat) 10:10 [Reply]
>  蔀(しとみ)と言うそうです。本殿の天井の八雲の図を見せていただきました。260余年前に描かれた絵とも思えない鮮やかなものでした。八雲の名がついていますが、雲は七つでした。七不思議。

 松江の神魂神社には、九つ雲なので、そちらへ行かれたという人も居られるようです。「八雲立つ 出雲・・」なので、ほんとうに雲さんがお出かけなのかもしれません。
 それとも神様は雲の上にいらっしゃるので、その雲は描く必要がなかったのでしょうか。

[9275] 八雲立つ  神奈備 2008/08/23(Sat) 09:12 [Reply]
 出雲大社の60年に一度の遷宮(屋根のふき替え)の為に、現在の神座は拝殿奧になっています。本殿に神の居ぬ間にのぞき見をしようと特別拝観が行われていました。

 本殿の長い階段を上りました。
、それから縁側を一回り。周辺の山々と内部の摂社などを上から見下ろしながらの一周です。
、それからいよいよ蔀(南西部)を南側から覗きました。本殿内部は四つの部屋に別れており、本殿に入った次の部屋で、元々ないもない廊下に当たる場所。

 蔀(しとみ)と言うそうです。本殿の天井の八雲の図を見せていただきました。260余年前に描かれた絵とも思えない鮮やかなものでした。八雲の名がついていますが、雲は七つでした。七不思議。

 西向きの神座はかいま見ることも出来ませんでしたが、そこの天井にはなにも描かれていないようです。

 写真掲示板に八雲図を掲載。この図は天空から見た形で描かれています。

[9274] Re[9273][9272][9270]: 森神  佐々木 2008/08/19(Tue) 16:52 [Reply]
 神奈備さま

 早速ありがとうございました。
 大阪歴史博物館の井上智勝さんの書かれた徳丸亜木氏の森神に関する書物の書評を偶然見つけました。
 徳丸氏は、森神は施餓鬼供養で日蓮宗系宗教者がある時期から介入してきたこと、さらには、奈良の森神は大和における水源祭祀遺跡の存在および平安時代に水田の用水源に聖地として「森」祭祀があったからと述べ、それに対し井上智勝さんは奈良の森神のことについては大胆な仮説と批判されています。

 私自身はこれらについて感想を申し述べることはできませんが、日蓮宗は意外でした。
 滋賀の住民が地元の琵琶湖で水泳しない?のも、大阪京都の皆様の飲料水だからと教育されてきたとのことらしい。
 また国鉄が蒸気機関だったころ、その蒸気機関車用補給水源一帯を水源保全林として守って来られたことも思い出しました。改めて水は命と再確認しました。

[9273] Re[9272][9270]: 森神  神奈備 2008/08/19(Tue) 15:33 [Reply]
> 森神に関する基本的な文献などあればお教え願いたいのですが。

 『奈良県史 5 神社』の冒頭に杜神について若干触れています。
 
 池田源太さんの書かれた概要は以下の通り。

 神の杜が自然の森から発生・発達したことは、普遍的な現象で、大和も例外ではない。

 吉野郡などでは「杜さん」と言う言葉が残っている。津風呂には五ヶ所の杜さんがあった。

 柳生の奧の大保では、村内各所の「杜神」を呼び出して祭り、終わってこれを払う「杜神呼び出し」という作法がある。二十一の杜社がある。多くは、叢林であったり、大木が二、三本ある程度である。

 小山戸の都祁山口神社の社頭に三坪の叢林が杜神さんと呼ばれている。

 白石の国津神社と雄雅神社との間に四ヶ所の「やすんば」がある。
 
 高鴨神社の末社には「細井の杜」など四ヶ所がある。

 西部大和には、杜が社として成立している。 

[9273] Re[9272][9270]: 森神  神奈備 2008/08/19(Tue) 15:33 [Reply]
> 森神に関する基本的な文献などあればお教え願いたいのですが。

 『奈良県史 5 神社』の冒頭に杜神について若干触れています。
 
 池田源太さんの書かれた概要は以下の通り。

 神の杜が自然の森から発生・発達したことは、普遍的な現象で、大和も例外ではない。

 吉野郡などでは「杜さん」と言う言葉が残っている。津風呂には五ヶ所の杜さんがあった。

 柳生の奧の大保では、村内各所の「杜神」を呼び出して祭り、終わってこれを払う「杜神呼び出し」という作法がある。二十一の杜社がある。多くは、叢林であったり、大木が二、三本ある程度である。

 小山戸の都祁山口神社の社頭に三坪の叢林が杜神さんと呼ばれている。

 白石の国津神社と雄雅神社との間に四ヶ所の「やすんば」がある。
 
 高鴨神社の末社には「細井の杜」など四ヶ所がある。

 西部大和には、杜が社として成立している。 

[9272] Re[9270]: 森神  佐々木 2008/08/19(Tue) 10:40 [Reply]
>  森神と言えば、小山戸の都祁山口神社の前の田圃にポツンと鎮座しています。ここには先に都祁水分神社が鎮座していたと伝わっています。ここの現山口神社の背後の御社尾に水分神が降臨したと伝わる神石があることが理由です。

 大変恐縮なのでありますが、森神に関する基本的な文献などあればお教え願いたいのですが。探してみたのですが、もひとつわかりません。

 追記
 奈良湖?奈良湿地が正解でしょうが。
 先日徳島大学の東潮先生が田原本町阪手遺跡で調査された結果を拝見しました。
 2.7〜2.5万年前は泥炭が堆積、以降0.9万年前までは有機質粘土と泥炭の互層、それ以降は砂と粘土の互層となっていました。
 2.5万年前までは泥炭が厚く堆積することから湿地、0.9万年前までは湿地と池の繰り返し、それ以降(年代不明)は河川氾濫が優勢な環境とのこと。
 亀ノ瀬地すべりは大阪工業大学の藤田崇先生の調査では、3.7万年前より古い時代から活動しているとなっています。地すべり発生と奈良の湿地化が相関しています。
 参考文献:「地形と人間」古今書院、2005年発行の「奈良」

[9271] Re[9269]: 鉄について教えてください  神奈備 2008/08/19(Tue) 09:31 [Reply]
 縄文末期の洪水や奈良湖の消滅に伴う河内湾への土砂の流入は多いにあったはずです。

 生駒山地の南端の大和川の急勾配の部分付近は北側の山地からの地滑り地帯です。幾度も幾度も溜まった土砂を堵き流して大和盆地に溜まった水を排出させた何千年もの歴史を感じます。

> イザナギイザナミ神話とノアの方舟神話の源は同時代とみています

 イザナギイザナミ神話も洪水神話の欠片とも見ることが出来るようですね。

[9270] 森神  神奈備 2008/08/18(Mon) 21:40 [Reply]
 この前の古代を偲ぶ会で、奈良在住で神社と地名を探索されている方と久しぶりにお目にかかりました。森神に関心を持って調べておられるとお話されていました。

 森神と言えば、小山戸の都祁山口神社の前の田圃にポツンと鎮座しています。ここには先に都祁水分神社が鎮座していたと伝わっています。ここの現山口神社の背後の御社尾に水分神が降臨したと伝わる神石があることが理由です。

 都祁水分神社は友田に鎮座していますが、ここに難波に鎮座している坐摩神社が鎮座していた可能性があるのではないでしょうか。

 坐摩神社の神は宮中にも祀られておいて、『延喜式』臨時祭に、「座摩巫。都下国造氏の童女七歳以上の者を取りて・・・」とあります。この都下国造とは摂津国菟餓の地としていますが、この時代に摂津国の中に都下国が置かれていて、国造がいたなどとは到底思えません。日本広と雖も都下国造が置かれていたのは大和高原以外にはありません。

 往古の坐摩神社は難波の上町台地の先端に鎮座しており、井戸の神々が祀られています。都祁水分神社の鎮座地も平坦地で井戸が掘られていた可能性があります。

 都祁村の南の桜井市に芹井[せいりん]、白木と言う地域がありますが、難波の坐摩神社の鎮座地の渡辺村にも白木神社が鎮座しており、難波の渡来人が大和都祁から坐摩と白木神社を勧請したのかも知れません。

[9269] Re[9255][9253][9227]: 鉄について教えてください  かたばみ [Url] 2008/08/18(Mon) 19:16 [Reply]
>早い時期から淀川・大和川の上流で大規模な開発が行われていたような印象を持っていますが

褐鉄鉱であれ餅鉄であれ銅や青銅より丈夫で長持ちの金属なら重用されたでしょうね。
岩にクサビを打ち込む用途なら材質や形は気にしないでよいかもしれない。
出土物としてはさびて残りにくいのがつらいところ(ちびたのを集めて再使用するだろうし)。

以下の文末に奈良湖参考



http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html
縄文末期(BC2000あたり)は寒冷化の時代で異常気候が多かったようで洪水痕跡がみえます。
洪水が運んだであろう泥沼の河内潟?に棒をつっこんでかき回した人がいたかもかも(^^;
(イザナギイザナミ神話とノアの方舟神話の源は同時代とみています)


[9268] 天照大神  ぽんた 2008/08/18(Mon) 02:47 [Reply]
>天照日大神とか日の神とかこの神の表記は150種類以上あるようです。

神宮(通称「伊勢神宮」)の内宮のご祭神は天照大御神で、大麻には「天照皇大神宮」と書いてありますね。志摩国一宮・伊雑宮のご祭神は天照坐皇大御神御魂ですね。

>日前国懸神宮の神を伊勢神宮の神と同じ神の天照大神と見るのは平安末期には確立していたようです。

太陽神=男神・天照(アマテル)大神=ニギハヤヒから、天皇家の祖が太陽神だとして、太陽神=女神・天照(アマテラス)大神=卑弥呼に変えた時(持統期)に建てられた神社では、混乱しないように「天照大神」とは違う呼称にしたのでしょう。天照がアマテルではなく、アマテラスだという認識が広まってから(平安時代以降)=天照(アマテル)の存在が忘れられてから建てられた神社のご祭神は、単に天照大神でいいかと。

[9268] 天照大神  ぽんた 2008/08/18(Mon) 02:47 [Reply]
>天照日大神とか日の神とかこの神の表記は150種類以上あるようです。

神宮(通称「伊勢神宮」)の内宮のご祭神は天照大御神で、大麻には「天照皇大神宮」と書いてありますね。志摩国一宮・伊雑宮のご祭神は天照坐皇大御神御魂ですね。

>日前国懸神宮の神を伊勢神宮の神と同じ神の天照大神と見るのは平安末期には確立していたようです。

太陽神=男神・天照(アマテル)大神=ニギハヤヒから、天皇家の祖が太陽神だとして、太陽神=女神・天照(アマテラス)大神=卑弥呼に変えた時(持統期)に建てられた神社では、混乱しないように「天照大神」とは違う呼称にしたのでしょう。天照がアマテルではなく、アマテラスだという認識が広まってから(平安時代以降)=天照(アマテル)の存在が忘れられてから建てられた神社のご祭神は、単に天照大神でいいかと。

[9267] [9266]:ありがとうございました  ぴき 2008/08/16(Sat) 10:59 [Reply]
神奈備さん・こんにちは

丁寧な返答ありがとうございました
日神の表記が150種類以上もあるのですね ビックリです

神奈備さんの日前国懸神宮のところと
日本書紀を読みかえしました
一書に日前神が出てきましたが由緒書きと異なるところがあって謎が増えてしました…

また教えてほしいことがでてきましたら質問させていただきます
その時は宜しくお願いいたします
ありがとうございました

[9266] Re[9265]: 教えてください  神奈備 2008/08/16(Sat) 09:54 [Reply]
 びきさん、こんにちは。日前国懸神宮への御参拝、暑い中ご苦労様です。
 
 現在この神宮は日前大神・国懸大神を祭神とし、共に天照大神のこととしています。

 天照陽乃大神の表現は始めて接しますが、天照大神のことと存じます。
 天照日大神とか日の神とかこの神の表記は150種類以上あるようです。何故、この神宮が天照陽乃大神と表記しているのか、これについては承知していません。

 なお、日前国懸神宮の初期の頃の祭神は紀州の海人の齋祀るローカルな太陽神であるとか(松前健一氏)、高天原の天岩戸神話にからむ鏡と矛であるとか(本居宣長翁)、他にも諸説があると思います。
 松前説に天照御魂神と言う日神を祀っていた可能性に触れています。そのような事も考えて、天照大神と表現を避けたのかもしれませんが、神様のお名前のことですからうかつなことは言えませんね。

 日前国懸神宮の神を伊勢神宮の神と同じ神の天照大神と見るのは平安末期には確立していたようです。

[9265] 教えてください  ぴき 2008/08/15(Fri) 20:08 [Reply]
はじめてこんにちは
教えてほしい事がありまして書かせていただきます

先日、日前国懸神宮に参拝した時に社務所で由緒書きをもらいました
そこの部分に天照陽乃大神と書かれていましたがこの神は天照大神と同神でいいのでしょうか?
もし同神ならなぜ天照陽乃大神と天照大神に書き分けるのでしょうか?
同神でないのなら天照陽乃大神とはどういった日神になるのでしょうか?

疑問ばかりで申し訳ありませんが
お分かりになるならば教えてください
宜しくお願いいたします

[9264] 『寝屋川市史』茨田堤概略図  神奈備 2008/08/14(Thu) 16:01 [Reply]
8月9日の豊中歴史同好会の講演資料から
枚方文化財研究調査会 西田俊秀氏
『寝屋川市史』茨田堤概略図
を写真掲示板に掲載しました。

[9263] Re[9262][9261]: 何のことでしょう。  佐々木 2008/08/13(Wed) 22:15 [Reply]
 素人さま
 いろいろご指導方ありがとうございました。

> 意味解らないのですが、所謂「ゆざき」のことでしょうか。野鍛冶の一般的な手法ではないと思われますが。補修法ですか。鋳鉄の鍬だと折れちゃうのではないでしょうか。古代の鍬だと鋳鉄ですが戦前ではないでしょう。

 「ゆざき」を調べましたがわかりませんでした。どんな漢字でしょうか。
 家の前の神社に月1回山から降りてこられて、穴のあいた鍋釜を原料に、ふいごで溶かして、鍬にしてましたね。
 大正でしたから、化石的な職人さんだったのでしょうか。

> 戦前でも安来の鋼を軟鉄に溶接していたのでは。
 居住地がまさに安来でした。刀鍛冶さんの子息ともよく遊びました。

 素人様は鍛冶屋博士ですね。専門用語の嵐です。

[9262] Re[9261]: 何のことでしょう。  素人 2008/08/13(Wed) 21:30 [Reply]
佐々木様
> >ナイフと刀は構造が全く違うものですからご注意ください。
>  素人さま
>  何のことでしょう??承知しておりませんが。
マルテンサイト層とか焼き入れのことらしいですがありませんでしたか。
刀はこれで反りが出たりするらしいですが。ナイフでは有りません。
> >野鍛冶(農鍛冶)は普通は鉄材や高度の鋼を自分で作ったりはしない、単純な作業場と思われます。
>  戦前では、外皮を硬鋼で造り、内側を包丁鉄で造るなど、自分たちでなさっておられましたね。
鋼を包丁鉄に溶接または鍛造した。材料の鋼と包丁鉄は買ったのでしょう。
>  定期的に村に巡回される野鍛冶さんは、穴の開いた鍋釜で鍬を作って頂き、子供ごころに魔法使いのように眺めていました。
意味解らないのですが、所謂「ゆざき」のことでしょうか。野鍛冶の一般的な手法ではないと思われますが。補修法ですか。鋳鉄の鍬だと折れちゃうのではないでしょうか。古代の鍬だと鋳鉄ですが戦前ではないでしょう。
>  包丁は、刃金がないので、預かり札をもらっていましたね。
最近の加治屋と同じですか。戦前でも安来の鋼を軟鉄に溶接していたのでは。
>  今の鍛冶屋さんはおしゃっる通りなのでしょう。
早いところは戦前でも農耕用のモーターなどをベルトで繋いでつかっていたかも知れません。明治期になってから野鍛冶は村の加治屋さんに変身したのでしょうか。これらの出稼ぎの野鍛冶でしょうか。完全な野鍛冶では無いのでしょう。
素人の青草でした。

[9261] 何のことでしょう。  佐々木 2008/08/12(Tue) 23:37 [Reply]
>ナイフと刀は構造が全く違うものですからご注意ください。
 素人さま
 何のことでしょう??承知しておりませんが。
>野鍛冶(農鍛冶)は普通は鉄材や高度の鋼を自分で作ったりはしない、単純な作業場と思われます。
 戦前では、外皮を硬鋼で造り、内側を包丁鉄で造るなど、自分たちでなさっておられましたね。
 定期的に村に巡回される野鍛冶さんは、穴の開いた鍋釜で鍬を作って頂き、子供ごころに魔法使いのように眺めていました。
 包丁は、刃金がないので、預かり札をもらっていましたね。
 今の鍛冶屋さんはおしゃっる通りなのでしょう。

[9260] Re[9257]: 水へし  素人 2008/08/12(Tue) 23:08 [Reply]
佐々木様
書き込み有難うございます。
>  「水へし」という表現もあるようです。漢字は「水減し」。
>  http://www.meikoukai.com/contents/jyuku/pdf/textbook_1_2.pdf
>  刀剣の製作の項に出ております。
その通りなのですが、刀剣にも流派があると思われ純平様の流派では「水ベシ」と言われていたのだと思います。どちらも正しいのでしょう。師匠の言われることは絶対なのでは。
>  これは作業映像ですが、今は見るだけで、なんとも暑くなる光景です。
> こうゆう光景が、農鍛冶さんのところにいけばごく普通に見られたのですが。
>  http://www.h7.dion.ne.jp/~e30kenta/index.html
野鍛冶(農鍛冶)と刀鍛冶は違うように思われます。外皮を固い鋼で造り、内側を包丁鉄で造る、鍛造溶接の刃物は刀鍛冶でしょう。野鍛冶でしたらありあわせの鉄材を加工して刃物の形を作り、刃の部分は鋼をフラックスを付けて溶接して刃の形にしてから焼入れをして刃物を作る単純な作業と思われます。電動のハンマーと加熱用の簡単な鍛冶炉が有れば良かったのではないかと思われます。とても単純な作業場でしょう。野鍛冶(農鍛冶)は普通は鉄材や高度の鋼を自分で作ったりはしない、単純な作業場と思われます。それから前にお書きになっていたナイフと刀は構造が全く違うものですからご注意ください。
青草でした。

[9259] Re[9258]: はじめまして、「橘」についての記事を読ませて頂きました  神奈備 2008/08/12(Tue) 22:01 [Reply]
 重陽の節句を祝うさん、書き込みありがとうございます。

> 仏教に深く帰依したと伝えられる聖徳太子

 四天王寺近辺の五條宮(敏達天皇社)は、橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社とされています。この付近の神社は聖徳太子の建立になったものが多いと言われています。

[9258] はじめまして、「橘」についての記事を読ませて頂きました  重陽の節句を祝う [Url] 2008/08/12(Tue) 12:09 [Reply]
私は、紙幣に使われていた聖徳太子像の両脇に描かれている人物 (童子?) の髪に飾られている花が、橘と桜ではないかと思い、そういうことを自分のブログに書いてみました。
橘について、検索をしてみて、こちらの記事を見つけ、大変勉強になりました。
橘が、常世の国を象徴する植物であるということが、よく分かった様な気が致します。
ところで、そうすると橘は日本古来の信仰 〜 神社と関わりのある樹、だと思われますが、仏教に深く帰依したと伝えられる聖徳太子縁りの寺、橘寺にもあるのは、少し不思議な気がします。
聖徳太子には、本当に不思議が沢山あります。

[9257] 水へし  佐々木 2008/08/12(Tue) 10:22 [Reply]
 「水へし」という表現もあるようです。漢字は「水減し」。
 http://www.meikoukai.com/contents/jyuku/pdf/textbook_1_2.pdf
 刀剣の製作の項に出ております。
 これは作業映像ですが、今は見るだけで、なんとも暑くなる光景です。
こうゆう光景が、農鍛冶さんのところにいけばごく普通に見られたのですが。
 http://www.h7.dion.ne.jp/~e30kenta/index.html

[9256] 鉄蹄と水ベシ  素人 2008/08/12(Tue) 00:58 [Reply]
暑くて眠れないためにボーとしています。
内容に、多少問題があってもお許しください。
鍛冶では水ベシと言うようです。(水ベシの解説Web)
http://www.eonet.ne.jp/~sumihira/04kajikoubou/2mizubesisenkou/mizubesi.html
掲載ホームページ 純平様Web
http://www.eonet.ne.jp/~sumihira/00home/home.html
青草でした。
 褐鉄鉱ですがピンからキリで、良質の鉄含有量の多いものもあり古代中国でも円形の縦型炉の製鉄遺跡(鋳鉄等)の近くで褐鉄鉱の鉱山跡が発見されているそうです。当然ながら褐鉄鉱も日本でも製鉄に使われていたと思います。ただ、餅鉄(岩鉄)も古代では河原に転がっていたと思われます。今でも河原で拾えるところもあるようです。磁鉄鉱などでは極めて品位はいいのではと思います。低温還元では密度の低い褐鉄鉱の方が海綿鉄に低温で出来たのではないかなどと夢想することはあります。海綿鉄精練はたたらの上手な方にご指導いただけば、さほど難しくない技術のように聞きます。スタートは先生が大事なように思われます。
素人のたわごとでした。

[9255] Re[9253][9227]: 鉄について教えてください  神奈備 2008/08/11(Mon) 16:55 [Reply]
> こんにちは、お暑うございます。

かたばみさん、皆さん、残暑お見舞い申し上げます。

> 伊奈史学会による古代製鉄の可能性の実証実験

 このような実験を根気よく続けておられる方々がおられるとは感激します。

 褐鉄鉱からでも鉄を精錬できると言うことが言えそうですね。

 河内潟の埋まり方が縄文中期以降に急激に進んでいるようで、総統早い時期から淀川・大和川の上流で大規模な開発が行われていたような印象を持っていますが、褐鉄鉱の鉄器が大いに働いていたのかも知れません。

[9254] 浪花の祈り 天若日子  神奈備 2008/08/11(Mon) 11:14 [Reply]
 『古事記』に、天照大神が「葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国」と言い、忍穂耳をさしむけようとしますが、中つ国は荒ぶる神々が多く、どの神を遣わして平定しようかと相談がありました。

 先ず、天菩比の神を遣わします。この神は忍穂耳らと共に天照大神と素盞嗚尊との誓約で生じた神です。しかし三年たっても報告がありませんでした。

 次ぎに差し向けたのが天津国玉の神の子の天若日子でした。『紀』では天稚彦と書きます。高天原で機を織っている稚日女とは対の存在のようです。七夕の彦星の匂いがします。
 
 天若日子は天津国玉の神の子ですから稚国玉と呼ばれたのでしょうが、この神名は天若日子の妻の下照姫の別名とされています。天若日子を貶めようとする者がわざと間違えて書いたのでしょう。下照姫は大国主命の娘で鴨の女神です。

 天若日子は下照姫と結婚して高天原への報告は行わず、さらに返事を促しに来た雉の鳴女を矢で射て殺します。その矢が高天原に届き、高木の神が矢を投げ返しますと、天若日子の胸にあたり、天若日子は死んでしまいます。これが『記紀』の筋書きです。ただ、『紀』の本文は天若日子は新嘗(にいなえ)の行事の後で寝ていた所へ矢が返って来たとしています。

 新嘗祭りは天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀のことで、今日で言えば勤労感謝の日になっている由緒深い祭儀と言えます。

 天若日子は中つ国では天皇位に相当する人物として行動していたようです。高天原にとっては許し難い行動と映ったのでしょう。
 後に持統天皇と呼ばれる高天原広野姫は、我が子草壁皇子をさしおいて、大津皇子が人心を掌握してしまっていることを見て、「生かしてはおけない、殺せ!」との憎悪の念を燃え上がらせたのです。

 大津皇子の処刑後、妃の山辺皇女は髪を乱し裸足で走り出し殉死しています。夫の天若日子の死に悲しみ、下照比売の泣き声が天にまで響いた様を思い起こします。

 大津皇子の姉の皇女大来は伊勢から戻り、大津皇子の屍を二上山に移し葬る時、二上山を眺めて「うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む 万葉巻一 一六五」と歌うのです。天若日子の葬儀に味耜高彦根命が現れ、喪屋を美濃へぶっ飛ばした後、下照姫が歌う様を連想するのです。

 天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル) 御統に 穴玉(アナダマ)はや み谷 二(フタ)渡らす阿治志貴(アヂシキ) 高日子根(タカヒコネ)の神そ

 さて、天若日子の死後、下照姫の兄の迦毛の大御神とされる阿遅須伎高日子根命が登場します。稲作が終わり収穫祭の後には、秋も深まり、鴨が飛んでくる季節には麦蒔きが待っています。迦毛の大御神の登場となるのです。


 『記紀』によりますと天若日子は返し矢で死んでしまいますが、近江や美濃には別の伝承が残っています。

 近江  彦根市三津町 勝鳥神社の由緒から
 天稚彦命が出雲の国から東方へ征伐に出陣された時事代主命らとともに三津に立ち寄られた。美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命のなきがらを下照姫命の兄が三津にほおむり勝鳥石をたてたと語り伝えられている。

 近江  滋賀県犬上郡豊郷町 天稚彦神社の由緒から

 神代の昔、天稚彦命は神々と共に当地にお立ち寄りになった時、風光明媚な日枝の庄を大変称賛されたので妃の下照姫命が天稚彦命の御遺体を此の地に葬られたのが創祀の始まりと伝えられている。

 美濃 美濃市笠神 上神神社の由緒から
 下照姫命は大国主命の娘神にして、天照大神の御命令を奉じてお降りになった天稚彦命の妻となり、御二人力を合わせて中津国の御平定に大きな御功績残され、この里にお住居になつた神です。

 畿内と近江・美濃、これは壬申の乱の主戦場です。偶然でしょうが、大津皇子の活躍した地域です。天若日子の伝承が語られているのは面白い。

 天津国玉の神と稚国玉、やはり天武天皇と大津皇子を想起します。

 折口信夫の「死者の書」と言う小説に、大津皇子の霊が歴代の藤原氏の美女を誘惑するお話がありませが、その中に天若日子が語られます。「天若日子こそは、天の神々に弓引いた罪ある神。其すら、其後、人の世になっても、氏貴い家々の娘御の閨の戸までも、忍びよると申しまする。」これを天若(アマワカ)みこと言うとあります。

 折口信夫は御伽草子の天稚彦草子(15世紀)などをイメージしているのです。

 長者の娘に大蛇が求婚する。上の娘二人は死んでもいやと断るが、末の娘は承諾する。末むすめはが大蛇の頼みでその頭を斬ると立派な若者になる。若者は我は天稚御子と名のり、二人は幸福に暮らす。ある時男は天に昇るが、その留守に姉娘たちのさかしらで禁を破ったために男は帰ってこれなくなる。女は一夜(ひとよ)ひさごを伝わって天に昇り、首尾良く男に尋ね逢う。しかし男の父親は鬼で、種々の試練を受けることになったが、男から与えられた咒宝によって切り抜ける。二人は父の鬼に許され、七夕・彦星として年に一度逢うことになった。

 稚日女、弟棚機(オトタナバタ)、七夕・彦星のお話も七夕にからんでいるのは偶然ではないでしょう。

 難波に縁の天津国玉の神と稚国玉ですが、古社に祭られている気配が無いのが寂しい所です。難波には神武以前の歴史があり、一つは物部氏の歴史であり、さらにそれ以前の天若日子の降臨と鴨族の難波開拓の前史があったのです。鴨族は祭祀氏族ですが、その頃には神社の形ではなく、恐らくは石山の磐座に神の降臨を願って祭祀を行っていたのでしょう。
 これが難波坐生国咲国魂神社の創祀と言えるのでしょうが、創建年代は神代としか言い様はないようです。天若日子の父神を天津国玉神と言いいます。天孫族の派遣の国魂神のネーミングでです。これこそ難波の開拓神として、国魂とされる程に奉じられ称えられた神と言う忌みでしょう。
 即ち、難波坐生国咲国魂神社の祭神に天津国魂神はふさわしい。また天若日子には稚国玉また咲国魂の名を贈り功績を称えたものと思いたいところです。

[9253] Re[9227]: 鉄について教えてください  かたばみ [Url] 2008/08/11(Mon) 08:56 [Reply]
>その辺りを技術的にフォローしていただきたいのです。

こんにちは、お暑うございます。
製鉄に関する個人的考えはいろいろありますが、それはおいて伊奈史学会による古代製鉄の可能性の実証実験の記録です。
会報で公表されたものなのでHPに出してもいいと思うけど・・一応禁転載。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kattekou/index.html

[9252] 村上祭祀説ほか  佐々木 2008/08/11(Mon) 00:00 [Reply]
 村上祭祀説の意味がわからなかったですが、その集団の最上級のものを古墳の副葬品として埋葬する儀礼のことを言われているのですね。
 
 この傾向はまちがいないと思います。
 甲冑の里は埋葬品は甲冑が、絹織物の里は埋葬品で絹織物とタタラが、石棺の里は、最上級の石棺が出てきます。
 これは最終的には六道銭の代わりでしょうが。

 アメノヒボコの歩いた道を追跡すると、日吉や日置そして鍛冶という地名に必ずぶつかります。これも発見。

[9251] 素人の考え。  素人 2008/08/10(Sun) 22:37 [Reply]
とみた様
> 潮見浩先生は、徳島大の教授ですが、隣の愛媛大の村上恭通教授が東アジアの鉄の研究を本格的になされています。

昔ですが、潮見浩先生は広島大学の先生だったように記憶しています。
>
> 二人の先生で、説が大いに異なるんです。
>
> 学問は論争するのは、大いに結構でそれが発展のばねに違いないとしても、素人筋としてはどちら側につくかで迷うわけです。
>
> 奈良市には佐紀盾古墳群がありその一つにウワナベ古墳と陪陵の大和6号墳(5世紀)があります。ここに鉄鋌がたくさん埋納されていました。
>
> 鉄鋌とはなんぞや?これも百家争鳴です。通説は鉄の素材説で、東潮先生もその説です。ところが村上先生は鉄鋌は祭祀用の精神的なものとされています。別の先生は
>
> 鉄鋌は貨幣説です。
>
> 墓に副葬するのは、死後の世界の冥土の王様に地下の土地を借りる買地券として入れるとする呪的なもの。
>
> 鉄鋌の製法についても、区々です。直接法、間接法・・・というように古代史はいろいろな説が混迷して困るんです。それが面白いといえば面白いんですが・・・・
>
刀鍛冶を紹介したのもこれと関係あります。
鋼を精鋼する時に刀鍛冶はまとめた鋼を板状(鉄鋌状)にして焼きを入れ割って良質の部分を選抜して炭素濃度のそろった鋼材として、加熱して鍛造で纏めて良質の鋼材とします。先にご紹介したホームページで鉄蹄状のものが写真でに写っています。
精鋼中間品として無理なく考えたらと思うのですがいかがでしょうか。
私は炭素濃度の低い直接還元塊から鍛造した鉄鋌と考えています。

[9250] Re[9248][9247][9245]: 素人の浅はかな考え。  素人 2008/08/10(Sun) 22:19 [Reply]
とみた様
私の錯覚のようでした。
>   また得意の錯覚でした。訂正します
>
> > > 「東アジアの初期鉄器文化」潮見 浩著
>
> >東潮先生は、徳島大の教授ですが、隣の愛媛大の村上恭通教授が東アジアの鉄の研究を本格的になされています。
>
> 潮を見て早合点。
>
> 徳島大の東潮と潮見とは全然違います。
>
> 訂正してお詫びします。
>
> 素人さん、潮見先生の考え方は要約するとどんな説でしょうか。ポイントだけでも教えてください。
古代中国関連の製鉄と言いますと「東アジアの初期鉄器文化」潮見 浩著
が代表的なのでてっきりお読みと思っていました。
日本では中国の古代の製鉄について書いてある本はこの本しかないようです。和鋼博物館の方がお勧めの本です。
戦国後期には各種鋳造品・鋳型が発掘されていますので、白銑鉄が作られていたのでしょう。
海綿鉄炉も発掘された復元図が載っていますし、海綿鉄だけでなく鉄塊も出土しているようです。
前漢代の製鉄は直接製鉄の海綿鉄炉・長方形錬炉・円形錬炉・排炉・低温炒鋼炉(小型?)・海綿鉄、銑鉄を原料とする反射炉など高度技術による製鉄の遺跡が発見されている。耐火煉瓦・耐火土が使用され耐久性もあったと思われます。その代り鉱化剤として石灰石などが使われたようです。東に行くほど炉は小さかったようです。
しかし、日本に伝わった技術はこの一部で小型で初歩的なものであったようです。
日本では原料として得やすかった砂鉄と炭を使用したノロの出やすい土による炉で
製鉄がおこなわれた。
(技術格差が莫大、技術は囲い込まれてなかなか国外に持ち出せなかった。
そこで行き場のない中国人技術者と共に技術の断片を獲得した。)
発掘などの事実により、記載されている。
全般に渡っているのでポイントを書くのが困難です。
とても青草です。

[9249] 隕鉄と甲州金  佐々木 2008/08/10(Sun) 11:57 [Reply]
 隕鉄の形も甲州金も、どちらも形態的に似ているように思うのです。甲州金がなぜあの形で流通したのか気になりました。
 
 草創期の鉄原料は隕鉄だったと思います。
 隕鉄はどこでも落ちていそうなものですが、やはり見つけ易いのは砂漠地帯、そうなると遊牧民が有利でしょう。
 
 遊牧民はこれを交換貨幣的に扱ったのではないかと考えます。
 
 隕鉄は400℃で溶解するので、簡単な太陽炉でもなんとかなるでしょう。

 また古墳の鉄剣は通行手形と、森さんが言われていましたので、鉄鋌も通行手形、いまの六道銭に通じるものでしょうか。
 おそらくこれは出身地出身階層特定職業集団の埋葬儀礼でしょう。
 
 また隕鉄はシュメール語で「天の金属」らしいですが、いかにも月と日を信仰していた遊牧民らしい。命名でないかと思います。
 彼らは夜の空にも詳しいでしょうから、流星が落ちたところには隕鉄の残骸もあったでしょう。

 と私の考えはこんな感じです。とみたさん。
 祭祀という表現はいかにも曖昧であまり好きにはなりませんね。

[9248] Re[9247][9245]: 素人の浅はかな考え。  とみた 2008/08/10(Sun) 09:43 [Reply]
  また得意の錯覚でした。訂正します

> > 「東アジアの初期鉄器文化」潮見 浩著

>東潮先生は、徳島大の教授ですが、隣の愛媛大の村上恭通教授が東アジアの鉄の研究を本格的になされています。

潮を見て早合点。

徳島大の東潮と潮見とは全然違います。

訂正してお詫びします。

素人さん、潮見先生の考え方は要約するとどんな説でしょうか。ポイントだけでも教えてください。

[9247] Re[9245]: 素人の浅はかな考え。  とみた 2008/08/10(Sun) 09:32 [Reply]
素人さん 私のつまらない質問の答えていただいてありがたくおもいます。
> 「東アジアの初期鉄器文化」潮見 浩著

潮見浩先生は、徳島大の教授ですが、隣の愛媛大の村上恭通教授が東アジアの鉄の研究を本格的になされています。

二人の先生で、説が大いに異なるんです。

学問は論争するのは、大いに結構でそれが発展のばねに違いないとしても、素人筋としてはどちら側につくかで迷うわけです。

奈良市には佐紀盾古墳群がありその一つにウワナベ古墳と陪陵の大和6号墳(5世紀)があります。ここに鉄鋌がたくさん埋納されていました。

鉄鋌とはなんぞや?これも百家争鳴です。通説は鉄の素材説で、東潮先生もその説です。ところが村上先生は鉄鋌は祭祀用の精神的なものとされています。別の先生は

鉄鋌は貨幣説です。

墓に副葬するのは、死後の世界の冥土の王様に地下の土地を借りる買地券として入れるとする呪的なもの。

鉄鋌の製法についても、区々です。直接法、間接法・・・というように古代史はいろいろな説が混迷して困るんです。それが面白いといえば面白いんですが・・・・



> 蛇足、佐々木先生はもっとお若い方と思っておりましたが、すごい記憶力ですね。
> 私など覚える量より忘れることが多くて、思い付きばかり書いています。
> 疎開でなくて勤労動員とはすごいですね、飛行機とかトンネルの中で作っていたのですか。教練て木の鉄砲で剣道みたいなのをやるやつですか。
> 興味しんしんです。射撃とかやったのでしょうか。

本当に佐々木さんはお元気で記憶力がすごいですねえ。軍事教練、勅語・・・

終戦記念日をそろそろ迎えますが、私も子供の時、農村にいて灯火管制とか坊空濠とかを承知しています。b29が空襲にやってきて隣の村が焼夷弾で赤赤と燃えるのを記憶しています。平和は本当に大切です。北京オリンピックは戦争の代替行為で国の面子をかけますが、戦争で血を流すより余程いいですね。

それでもこのときに、小国のグルジアにロシアが攻めてきたり、中国新疆自治区のウルムチやクチャに抵抗のテロがあり、漢民族が西域のウイグル族を支配するのに反発しています。

中国の最大版図は清朝の領域です。外モンゴルだけが独立しているだけで今の中国は清と略同じ領域を支配しようとしています。

中米の二大強国の中で、日本が平和を守るのは国民もうまく対応を求められていますね。

古代史を楽しめるのも平和があってこそです。

[9246] 浪花の祈り 阿加留比売と豊宇可乃売  神奈備 2008/08/10(Sun) 09:26 [Reply]
 阿加留比売は天日矛命の為に、「種々(クサグサ)の珍(タメ)つ味(モノ)を設けて、恒にその夫に食はしめき。」と『古事記』に記載があります。さらに「阿加留比売は逃遁(ノガ)れ度り来て、難波に留まりぬ。天日矛、難波に到らぬとする間(ホド)に、その渡し神塞(サ)へて入れざりき。」と書かれています。

 阿加留比売とはさほど出来が良いとは言えない夫の天日矛から逃げてきた女人として描かれています。何故、彼女は神として祭られたのでしょうか。むろんひとりぼっちで来たのではなく、お付きの巫女さん方を引き連れての神としての来訪でしたのでそれなりに祀られたのでしょう。
 そのポイントは、阿加留比売には、大気都比売の神や保食神の雰囲気を感じるのです。御餞神と言える所が神らしい神だったのでしょう。


 天日矛を塞えぎった難波の渡しの神とは、住吉の神以外には考えられません。

 現在の住吉大社の第四本宮には神功皇后が祀られていますが、MADOKAさんの熱心な主張の通り、かっては赤留比賣命神が祀られていたとしてもいいと思われます。『古事記』に、天日矛を塞へぎったとあり、住吉大社の第一本宮から第三本宮が東西に並び、その南側に第四本宮が置かれ、いかにも「北の国からやって来た天日矛を渡し神が塞へて入れざりき。」の形容がピッタリするからです。

 視覚的なのもではなく、もう一つの理由は『住吉大社神代記』には、子神として赤留比賣命神の名が登場していることです。赤留比賣命神は住吉三神とは何ら関わりがなく、神功皇后は天日矛の血をひいていても、赤留比賣命とは何も関係がないのです。皇后の祖先神からからやっと逃げおおせた女神なのです。

 さて、住吉大社の第四本宮の比売神を神功皇后とするにあたってそれまで比売神であった赤留比賣命神は現在の平野区平野東の杭全神社摂社の赤留比賣命神社に遷されたのです。

 さて、話はころっと変わって:−
 『摂津国風土記逸文』によると、「稲倉山。昔、止与[口宇]可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。またいう、 昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅(ひぢ)の麻奈韋(まなゐ)に遷られた。

 この話は現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神は元々摂津にいて、それから丹波に遷ったと言うことです。

 稲倉山なる山は現在の摂津の範囲には見あたりませんが、北摂津地域の丘陵地帯は上代より猪名野・稲野といわれており、北摂に稲倉山があっても不思議ではありません。
 また、「飯を盛った」と言う所からは飯盛山としますと、兵庫県三田市や四条畷市あたりと思われます。

 ひとつの案ですが、玉造稲荷神社から三光神社一帯も一応の高台になっており、見ようによっては飯盛の形とも思えます。稲倉山をここに比定したいのです。理由は、比売社と呼ばれたことがあること、比売許曽神の最初の鎮座地であったこと、また豊受大神が伊勢に祀られるに当たって、丹波から当社を経由して伊勢に行っているようにもとれる伝承があるとのことから比定地としたいのです。月海千峰『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』p135。

 比売許曽神社に祀られていた赤留比賣命神は豊宇可乃売神として丹波に地に祀られて行ったのでしょう。それは船木氏によって遷って行ったのです。

 『住吉大社神代記』に「船木等本記」の記載があり、住吉大社創建の頃には船木氏は重要な役割を果たしていたのでしょうが、その後の大社の歴史には登場していないようです。津守氏との主導権あらそいに破れたのかもしれません。基本的に船木氏とは日神を祭る役割があったのです。住吉大社に於いて船木氏の祀る日神とは赤留比賣命神であったのです。神功皇后に替わったので、お役ご免となったのでした。

 船木氏は比売許曽神社に祀られていた赤留比賣命神を奉じて丹波の国の比遅の麻奈韋に遷ったのです。丹波では赤留比賣命神を豊宇可乃売神として受け入れたのです。『丹後国風土記逸文』には、「竹野の郡舟木の里の奈具の社においでになる豊宇賀能売命」との表現があります。

 赤留比賣命神は今や豊宇可乃売神として伊勢の外宮の祭神となっています。

[9245] 素人の浅はかな考え。  素人 2008/08/10(Sun) 03:45 [Reply]
とみた様
暑くて頭がボーとしています。
> >  とうとう熱中症ですよ。
>
> 古代史熱もかなりの熱ですが、熱帯夜は大変です。昼も夜も熱帯にいる見たいに暑苦しくって難儀してます。御気をつけてください
> >
>
> 白銑鉄はどうして作るのでしょうか。これすらわからないんです。

温度が低くて炭素含有量が少ないと白銑鉄が必然的に出来るようです。普通に作ると出来る。現在のように1500℃以上で浸炭させると鼠鋳鉄なんかが出来ると聞いたことがあります。素人のたわごとですが。古代炉ですと、溶鉱炉の高さが低いですし高温は出なかったのではないでしょうか。炭素含有量が低いのでパドル法は容易で、可鍛鋳鉄には向いていたのではないでしょうか。
>
> 鉄の原料もまだ定かでありません。
>
> 川砂鉄、山砂鉄、海砂鉄これはもっと後の時代で、タタラが本格化した後の様に思うのですが。鉱山鉄か輸入の鉄の塊のように思うんです。
千引カナクロ遺跡(奥坂遺跡群)・西団地遺跡群・市後遺跡は秦村周辺にあり高梁川の上流域にははっきりと名の残った磁鉄鉱鉱山が存在しました。(スカルン鉱床)
こちらで、前に書いたことがあります。総社市内にも磁鉄鉱鉱山があったようです。
初期はスカルン鉱床の磁鉄鉱(高品位)を焼いて小割りして原料にしています。
ご存知ですよね。結構古い製鉄遺跡群ですよね。
>
> 踏みフイゴが出てきた後です。
踏み鞴以前から福島などでは難しい海砂鉄でイルメナイとを溶解して製鉄していたと聞きます。炉の幅は狭いと思われますが。
> 弁辰から輸入した鉄鋌や板状鉄斧も鉄素材とされますが、これも異論があるようです。
>
> 銑鉄を造るのは高温を必要とするでしょうが、そんな高温が何時の時代に可能になったのでしょうか。技術的な裏つけが取れません。
>
前に「東アジアの初期鉄器文化」潮見 浩著をお持ちだと聞いたように夢想しまして詳細は割愛しました。鉄官が設けられた前漢期に鋳造が広く行われていたわけで、鋳型も沢山、出土しているわけですから白銑鉄は溶鉱炉で作られていたわけで、1200℃位は軽いのではないでしょうか。温度は釈迦に説法でしょうが、炉高によって決まるのではなかったでしょうか。

> 銑鉄は炭素が多すぎて、硬いので折れやすい。鋼にするには脱炭せざるを得ない。
>
> 鉄鉱石を低温で還元すると、炭素は少なく、柔らかい軟鉄の塊練鉄が取れる。
>
> これは木炭と鉱山鉄鉱を鍛治炉に入れてやれば出来ると仰るのが、素人さんの説だと思うんです。
>
> 温度は低くても出来るのでしょうか。
直接法で海綿鉄ですから温度は低いと思われます。余り低いと反応速度に問題が出るようで1000℃位だと楽だと聞いたことがあります。時間かかりすぎても困るのでしょう。気長に待てば、低温でも出来るのでしょう。
>
> 当時は坩堝などを使わなかったのでしょうか。
>
> 京田辺の多田羅とか柏原の大県の鉄遺跡を見ても、やはり古代の鉄を知らないと考察が限界だと感じています。大県は、フィゴのかけらがでています。記紀に拠れば垂仁の子供の鐸日子と鐸比売が関係があるとされていますね。
>
> 垂仁を仮に350年と見て子供は370年ぐらいに見立てるとしましょう。ところが考古学者は大県は6世紀の遺跡ですよと云ってます。
>
> 鍛治だけなのか製鉄も行ったのでしょうか???
>
ノロが残らないと区別しにくいのでしょう。海綿鉄ですと低温なので、ノロは出にくいし一部燃やしてもウスタイトですから鍛冶炉と同じです。難しい。
先にご紹介した総社の製鉄はたしか、「たたら製鉄」光永真一著 吉備人出版に詳しく解説されています。
海綿鉄の部分酸化溶解は炉底・羽口の温度を熱電対で計測している資料が有り1600℃付近まで温度が上がっており酸化炎で海綿鉄が一部反応してウスタイトとなってこの発熱反応により純鉄の融点に到達して純鉄塊(融点:1535℃)が溶解してと考えたわけです。前にアフリカの製鉄法の実験でウスタイトに埋まった軟鉄塊が登場して海綿鉄から1500℃以上の温度が出るのは海綿鉄が燃えて高温になったと考えたわけでした。ほかにどう考えるのでしょうか、名案があればお教えください。
青草でした。本は素人向けですから、諸先生方には物足りなかもしれません。出典を示しただけです。
蛇足、佐々木先生はもっとお若い方と思っておりましたが、すごい記憶力ですね。
私など覚える量より忘れることが多くて、思い付きばかり書いています。
疎開でなくて勤労動員とはすごいですね、飛行機とかトンネルの中で作っていたのですか。教練て木の鉄砲で剣道みたいなのをやるやつですか。
興味しんしんです。射撃とかやったのでしょうか。

[9244] Re[9243][9242]: とみたさん参考までに  佐々木 2008/08/09(Sat) 09:56 [Reply]
> 佐々木さんの関心は、いろいろな世界におありなようで、ありがたいです。

 われわれの世代は軍需工場での研修とか。日本神話は教練で。だから長い間興味は放置していたのです。

> 白銑鉄はどうして作るのでしょうか。これすらわからないんです。

 白銑鉄といえば、まず鉄鉱石が原料となります。
鉄鉱石を溶解してS分などの不純物を取り除いたものぐらいと考えてください。

> 銑鉄を造るのは高温を必要とするでしょうが、そんな高温が何時の時代に可能になったのでしょうか。技術的な裏つけが取れません。

 1,000℃以下ですと、海綿状の鉄になるだけです。
 容積が増加するので、炉が大きくなる。
 利点は海綿状のため、空気との接触面積は増加するので、吹き込む空気量は少なくできる、炉の温度管理も比較的ルーズでいい。
 しかし自然通風なら、バカデカイものになりますね。丸くなるのかな?
 またなんとなく炉が二ついるということはご理解頂けますか。
 海綿鉄を再溶融して、ペースト状?にしたものは塊練鉄ですかね。

 また炉の温度については、焼土の部分のキュリーポイント、あれを計ればわかるのでしたか?
 
> 当時は坩堝などを使わなかったのでしょうか。
 そうゆう話は聞いた覚えはあるけども???太陽炉?

> 鍛治だけなのか製鉄も行ったのでしょうか???
 これは勉強しておりません。

このサイトが見やすいかもしれません。
  http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_132.htm

[9243] Re[9242]: とみたさん参考までに  とみた 2008/08/09(Sat) 07:34 [Reply]
>  とうとう熱中症ですよ。

古代史熱もかなりの熱ですが、熱帯夜は大変です。昼も夜も熱帯にいる見たいに暑苦しくって難儀してます。御気をつけてください
>
>  鉄のことで少しコメント。

佐々木さんの関心は、いろいろな世界におありなようで、ありがたいです。

>  おそらく当時ならば白銑鉄の質によって炉の形状は変わっていたのでしょう。
>
>  また火床の木炭の大きさ、入れ方にも細かいノウハウが要求されます。
>  
>  これで白銑鉄が軟鉄(低炭素鋼)になります。

白銑鉄はどうして作るのでしょうか。これすらわからないんです。

鉄の原料もまだ定かでありません。

川砂鉄、山砂鉄、海砂鉄これはもっと後の時代で、タタラが本格化した後の様に思うのですが。鉱山鉄か輸入の鉄の塊のように思うんです。

踏みフイゴが出てきた後です。

弁辰から輸入した鉄鋌や板状鉄斧も鉄素材とされますが、これも異論があるようです。

銑鉄を造るのは高温を必要とするでしょうが、そんな高温が何時の時代に可能になったのでしょうか。技術的な裏つけが取れません。

銑鉄は炭素が多すぎて、硬いので折れやすい。鋼にするには脱炭せざるを得ない。

鉄鉱石を低温で還元すると、炭素は少なく、柔らかい軟鉄の塊練鉄が取れる。

これは木炭と鉱山鉄鉱を鍛治炉に入れてやれば出来ると仰るのが、素人さんの説だと思うんです。

温度は低くても出来るのでしょうか。

当時は坩堝などを使わなかったのでしょうか。

京田辺の多田羅とか柏原の大県の鉄遺跡を見ても、やはり古代の鉄を知らないと考察が限界だと感じています。大県は、フィゴのかけらがでています。記紀に拠れば垂仁の子供の鐸日子と鐸比売が関係があるとされていますね。

垂仁を仮に350年と見て子供は370年ぐらいに見立てるとしましょう。ところが考古学者は大県は6世紀の遺跡ですよと云ってます。

鍛治だけなのか製鉄も行ったのでしょうか???


[9242] とみたさん参考までに  佐々木 2008/08/08(Fri) 19:57 [Reply]
 とうとう熱中症ですよ。

 鉄のことで少しコメント。

 1,500℃が出てきましたが、これは炭素が燃える温度です。
 但し炭素単独で燃やすのは、技術的にも至難の業です。
 まず過剰空気で、かつ常時この温度が維持できる蓄熱性能を持った炉が要求されます。
 これが炉の形状を決定付けます。

 おそらく当時ならば白銑鉄の質によって炉の形状は変わっていたのでしょう。

 また火床の木炭の大きさ、入れ方にも細かいノウハウが要求されます。
 
 これで白銑鉄が軟鉄(低炭素鋼)になります。

 最後に軟鉄を刃鋼に使用するために、刃先としての硬さが要求されるので浸炭によって、炭素を混ぜます。
 
 そして出来た鋼は最後にオーステナイト相まで焼き入れ、そのまま硬いマルテンサイト組織にするために急冷します。
 しかし鋼の靱性が落ちたのを戻すために、焼き戻しで靱性のあるソルバイト組織にします。 

[9241] Re[9240]: 気比神宮  神奈備 2008/08/08(Fri) 16:58 [Reply]
> 特に、固有名詞の読み方が覚束ないのです。
> 振り仮名を付けて、説明文を作成していただけないでしょうか?

 平仮名の振り仮名は『日本の神々』北陸 に準拠
 カタカナは『古事記』の一般的読み方

[9240] 気比神宮  高橋 トミキ 2008/08/08(Fri) 11:37 [Reply]
お願いがあります。
気比神宮の説明文を読ませていただきましたが、なかなか読めません。

特に、固有名詞の読み方が覚束ないのです。
振り仮名を付けて、説明文を作成していただけないでしょうか?

気比さまは、若い頃前の道路を車で通っただけでまだ参拝いたしておりません。
今は東北の地に住んでいるのでなかなか行く機会がありませんでした。


[9239] Re[9238][9227]: 鉄について教えてください  とみた 2008/08/08(Fri) 10:51 [Reply]
素人さん ありがとうございます。

折角の解説は辛うじて理解できますが、多くはまだ理解が不十分です。
> 6世紀以前を考えるとき、鍛冶炉は重要と考えております。
> 鍛冶炉で鉄を造れるそうです。

吉備の炉は、箱型で背が低いとか。直説法でしょうか。朝鮮のは長い円錐型の炉とか聞いています。

鉄の原料は、砂鉄か鉱山鉄か、(輸入ものの鉄鋌か板状鉄斧か)。

それに木炭を入れる。

炉は粘土で作る。炉に原料と木炭を入れてフイゴ(送風装置)で空気・酸素を送る。

これしか分かりません。木炭は酸素を木炭=炭素に吸い取らせて還元するのと、燃焼温度を高めるために使うのでしょうか。

これでは燃焼温度が足りません。そこで工程の途中で発生した海綿鉄を炉に入れて燃焼温度を一層高める作用をさせるんですね。

これが、鉄塊ができる工程でしょうか。出来る鉄の塊、つまり鉄ケラ(金母)ですね。
鉄ケラを鍛えていろいろな形に整形するには、一定の温度が必要でそれが可鍛状態でしょうか。可鍛状態では炭素を加えて強化する加炭(浸炭)と硬すぎる銑鉄から炭素を奪う脱炭とありますが、その差は温度でしょうか。

白銑鉄は液体なんですね。知りませんでした。
ところで炒鋼法は間接法で二段構えですね。この技法も教えてください。

> ノロを出さないで海綿鉄を作り、一部を燃やして1,500℃以上の高温を作り、軟鉄を作る技術だと考えられます。
>  6世紀後半洛東江の東岸地域から日本に移住した製鉄華僑が機微にもたらした製鉄技術がこれに近いものでした。(総社市秦村付近)

やはりここは総社市の秦氏の村で鉱山開発や銅だけでなく、鉄も関係しているのですね。作山古墳の近くでしょうか。どの辺りでしょう。

鍛治だけなら5世紀に入ると総社市窪木薬師遺跡がありますね。

総社の製錬は日本で最初の一貫処理で湯名です。製錬と鍛治です。

総社市奥坂遺跡群の千引カナグロです。

総社は高梁川の近くで備中です。カナグロは正に鉄そのものですね。

秦氏は鍛治だけなのか、鍛治と製錬といずれも関係するのでしょうか。

備中一宮の吉備津神社は7世紀末に備前の吉備津彦神社を分祀し備前一宮の吉備津彦神社を設けます。この吉備津彦神社の祭神は鉄ケラ(金母)です。

少し青草ですが、仁徳が吉備の黒日売を寵愛します。黒ヒメの黒は鉄かもしれませんね。

角型炉での軟鉄の製造法は中国大陸から山東半島、遼東半島を経て洛東江の東岸地域そして日本に移住した製鉄華僑と共に吉備に伝播したと考えております。
> これはたたらとは少し違う系譜のように考えています。(新しい技術と思われます。)
>
> 上記技術が吉備で鉄鉱石や砂鉄を用いた製鉄の中で徐々に温度が上がり浸炭も進んで角型炉でも変質していったようです。後に律令期に入って、吉備の技術と遣唐使によってもたらされた技術が、複合して塊錬鉄を作る技術、3点セットがそろったと考えています。強力な鞴で空気を吹き込みました。高温の炉のために、出来る鉄は白銑鉄で液体の鉄で間接製鉄法でした。
> この白銑鉄を一番簡単な脱炭素技術は日本で行われていた部分溶解での脱炭素法である下げ場の技術などが、とくに初期は行われていたと考えています。


なかなか難しいですね。敢えて平易に理解する方法はありませんでしょうか。

所詮、予備知識不足ですから教える側も大変でしょうね。

DNAの方は、アミノ酸とか細胞の構造とか基礎知識はあるので理解が出来ますが。鉄は

基礎知識がないので苦労します。

またよろしくお願いします。

[9238] Re[9227]: 鉄について教えてください  素人 2008/08/08(Fri) 00:23 [Reply]
とみた様
書き込み有難うございました。
> 素人さん お付き合いありがとうございます。
> 要は、古代史研究としての鉄です。日本は明治に近代製鉄が入るまではタタラ製鉄ですね。
>

6世紀以前を考えるとき、鍛冶炉は重要と考えております。
鍛冶炉で鉄を造れるそうです。
ノロを出さないで海綿鉄を作り、一部を燃やして1,500℃以上の高温を作り、軟鉄を作る技術だと考えられます。
 6世紀後半洛東江の東岸地域から日本に移住した製鉄華僑が機微にもたらした製鉄技術がこれに近いものでした。(総社市秦村付近)純度の高い磁鉄鉱を用いて背の低い方形炉で低温で還元して海綿鉄を貯え最後に、温度を上げてノロを底に貯めてこの中に海綿鉄を一部燃焼させて、1,500℃以上の高温を作り融点の高い軟鉄をノロの中で塊状として不純物はノロ中に溶解して純度の高い軟鉄の鉄塊(塊錬鉄)を製造しており、古代からの直接法での海綿鉄精練の変形と考えております。
> 始まったのは6世紀と考えていいのでしょうか。
>
> 日本の製鉄は独特のようですが、これが古代の朝鮮の製鉄技術とか中国の技術と全く違うのでしょうか。
>

前に書いた、海綿鉄製造は中国では角型の背の低い炉で低温での直接還元で武器用の鉄の製造原料として実施されていたと聞きます。海綿鉄の溶解技術の進歩したものとしての角型炉での軟鉄の製造法は中国大陸から山東半島、遼東半島を経て洛東江の東岸地域そして日本に移住した製鉄華僑と共に吉備に伝播したと考えております。
これはたたらとは少し違う系譜のように考えています。(新しい技術と思われます。)

上記技術が吉備で鉄鉱石や砂鉄を用いた製鉄の中で徐々に温度が上がり浸炭も進んで角型炉でも変質していったようです。後に律令期に入って、吉備の技術と遣唐使によってもたらされた技術が、複合して塊錬鉄を作る技術、もっと温度を上げてイルメナイトを溶かして角型の幅の狭い炉で白銑鉄を作るようになった。大量に存在する海砂鉄を利用する間接製鉄は律令期の鉄需要の増加にこたえるものであったと考えています。大仏建立時の踏み鞴導入とこの鞴の製鉄への流用から砂鉄・角型炉・踏み鞴のたたらの3点セットがそろったと考えています。この辺でたたらが完成したと思います。玉鋼は江戸期の大発明です。これには特に良質の山砂鉄が必要不可欠です。


朝鮮・中国ともに主力は縦型炉円筒形の炉に大きな円錐状の1本の羽口が下向きに差し込まれたような独特の溶鉱炉です。強力な鞴で空気を吹き込みました。高温の炉のために、出来る鉄は白銑鉄で液体の鉄で間接製鉄法でした。
この白銑鉄を一番簡単な脱炭素技術は日本で行われていた部分溶解での脱炭素法である下げ場の技術などが、とくに初期は行われていたと考えています。
青草ですが、1部だけ書いてみました。
単純ではないようです。

[9237] Re[9235][9232]: ツヌガアラシトとアメノヒボコ  佐々木 2008/08/07(Thu) 22:32 [Reply]
> >  少し信じがたいのですが、地形的には上町台地は千里山の島熊山から連続する台地でした。
>  ネットで見ていますと、約40万年前〜20万年前は地殻の六甲変動の最盛期で、断層によって、六甲や生駒山地が出来たそうです。千里は地下に深所の花崗岩体の隆起によりでき、この隆起は豊中市島熊山付近を頂点として南の上町台地、和泉の線に行われているようです。地下の深い花崗岩が上がってきたということですね。

 書き込み中に落雷で、中途半端になりました。申し訳ありません。

 浪華百事談によると元禄年間に天探女命の磐船の地はどこを掘っても岩盤にあたりそうで、また井戸を掘ったものは病気なったとか。近鉄や千日前線の工事ではどうっだったのでしょう。
 とくに小橋町の北は寺が多く、南は大規模病院が多く立地します。
 大阪冬の陣では真田丸の前面で、小橋篠山の前田利常軍で100名以上の死者がでたところ。なんとなく怖い場所です。
 
 http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/3940024.shtml

[9236] 浪花の祈り 天の探女と御伽草子  神奈備 2008/08/07(Thu) 15:48 [Reply]
 天の探女が祀られている神社は浪花にはなく、岐阜県美濃市(美濃国武儀郡)に二社あることは前に紹介しました。
 大矢田神社摂社華堂神社「下照姫命、櫛名田姫命、天探女命」
 誕生八幡神社「應神天皇、天探女命」
 
 これは、高天原の方針<葦原の中つ国は倭が御子の統治する国>に基づいて、多くの荒ぶる国つ神に方針を受け入れさせるため、先ず天の菩比の神が派遣されたのですが、大国主の神に媚びつい返事もよこさないありさま。

 続いて、天津国玉の神の子天若日子が遣わされたのです。天若日子は大国主の娘の下照比売を娶り、八年も高天原に返事もしていなかったのです。
 
 天若日子の様子を探りに来た雉子名鳴女なる鳥神が天若日子の家の前の湯津楓の上にとまって天つ神の命令を言いました。天の探女は天若日子をそそのかして鳥神を矢で射殺させてしまいます。その矢が天上に届き、天上の高御産巣日神がその矢を投げ返して天若日子の胸に命中、天若日子は死んでしまいます。

 天若日子の葬儀の席に現れた下照比売の兄である阿遅志貴高日子根が天若日子によく似ていたので、親兄弟は生き返ったと思い、取りすがったのです。死人と間違えられたと怒った阿遅志貴高日子根は喪屋を切り伏せけっ飛ばしてしまいます。それが落ちたのが美濃国の藍見河の河上でした。長良川の上流ということ。

 美濃国には天若日子と下照比売が国作りを行い、人が住めるようにしたとの伝承を持つ神社(上神神社)も鎮座しており、天若日子一族が移り住んだとの伝承が残っていたのでしょう。天の探女も一緒に来ているようでほほえましいことです。

 室町期に出来たと思われる御伽草子の中に瓜姫物語があります。天の探女が悪役で登場しています。

 瓜から生まれた実に美しい娘が守護の嫁になることを耳にしたアマノサグメが娘と入れ替わっていい目にあおうとして、瓜姫を高い木の上に縛り付けて、自分は瓜姫の着物を着ておさまっていました。
 瓜姫の嫁入り行列が高い木の下を通った時、上から瓜姫の声が聞こえ、アマノサグメが入れ替わっていたことがばれたのです。
 アマノサグメは大和国宇陀のへのはしに連れていかれ、足や手を引き抜かれて捨てられたのです。アマノサグメは細かい塵になって消えてしまったので、世の中は静かになったそうです。
 またアマノサグメの血に染まって、薄の根もとは赤く、花の出始めも赤く、いろづいているとかいうことです。

御伽草子の中に天稚彦物語もあります。これは後ほど。

[9235] Re[9232]: ツヌガアラシトとアメノヒボコ  神奈備 2008/08/07(Thu) 15:45 [Reply]
> この動きは文武?が、紀伊の日前や国懸神社を分社したのと似ている神社政策と思いますが如何でしょうか。

 『続日本紀』大宝二年(702)文武天皇の時で、伊太祁曽・大屋津比売・都麻津比売の三社を分ち遷す」とある記事のことを言われているのだと思います。

 地方の有力な神社に対する中央からの干渉、例えば、皇室の祖先神を祭神にとか、神々を分遷して勢力を削ぐとか、色々なことが行われたことでしょう。国造達の独自の力を削ぐ政策の一環だったのかも。

 紀の国では、元々名草郡にあった須佐神社を在田郡に遷したと思われ、かつその御子神達の伊太祁曽神などを分遷させています。


>  少し信じがたいのですが、地形的には上町台地は千里山の島熊山から連続する台地でした。

 ネットで見ていますと、約40万年前〜20万年前は地殻の六甲変動の最盛期で、断層によって、六甲や生駒山地が出来たそうです。千里は地下に深所の花崗岩体の隆起によりでき、この隆起は豊中市島熊山付近を頂点として南の上町台地、和泉の線に行われているようです。
 地下の深い花崗岩が上がってきたということですね。

[9234] Re[9233][9231]: 姫島  mai nakahira 2008/08/07(Thu) 12:59 [Reply]
神奈備さま

黒曜石が採れたのですね。
ようやく、鹿児島県の「上野原遺跡」の資料をきちんと読みました。
縄文早期から、南九州にはスンダランド系の縄文人がいたもよう。
姫島は島なので、遠くからも人が来たでしょうね。

> 写真家の「ようこそ三宅岳のホームページへ」に載っています。
> http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page064.html
>
わたしが見つけたHPはこれです!
石棒は、祠の中じゃなくて、割れ目の奥だったのですね。
さすがに祠の裏は、恐れ多くてのぞけませんでした。

> この方も日矛の末裔なのかも。

それ、面白いですね。
私たちも名草に関係あるのかな?
>
> かまどさんに逢われたとか、いいお話を聞けたことと思います。よかったですね。

ありがとうございます。
かまどさんは、とても知的でほんわかムードのいい方でした。
>

[9233] Re[9231]: 姫島  神奈備 2008/08/07(Thu) 11:42 [Reply]
mai nakahira さん、こんにちは。

> 古層の信仰の上に、新羅などの女神伝承が乗っかって来た感じがします。

この島は黒曜石が採取されていたそうで、古く縄文時代から人々が行き交っていたのでしょう。
渡来系の神々は、そのような古い信仰の上に多いかぶさったものがおおいのかも。

写真家の「ようこそ三宅岳のホームページへ」に載っています。
http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page064.html

この方も日矛の末裔なのかも。

かまどさんに逢われたとか、いいお話を聞けたことと思います。よかったですね。

[9232] ツヌガアラシトとアメノヒボコ  とみた 2008/08/07(Thu) 11:17 [Reply]
ツヌガアラシトとアメノヒボコは同一人物でしょうか。

ツヌガアラシトは、日本海沿岸を通り、角鹿(敦賀)へ、角の生えた人となっていますが、牛の角か天冠か。

意冨加羅の王子なら、金官伽耶で慶尚南道。金海地方です。

こちらは皇子が牽く牛を村役人にとられて食べられた代償に、白い石をもらってそれが若い女性に変じた。

アメノヒボコは新羅の王子。慶尚北道の出、今の慶州でしょう。

こちらは、沼のほとりで女が、日光に感精して赤い玉を産んだのを牛を牽く男が、見つけて大切に保管していた。王子がその男に出あい、牛殺しと疑われた男は許しを得ようと赤い玉を差し出した。それが若い女性に変じた。王子は瀬戸内海を通り、但馬に着く。

二つの話は似ているようでもあり、似ていないようでもある。若い女性が逃げてきて王子がそれを追ってきたことと、難波のヒメコソ神社は共通。

両方とも牛に関係がある。殺牛儀礼に関係するかも知れません。

一方は越前気比であり、他方は但馬出石である。

日本海には何れにせよ、新羅と深いつながりがある。

越前の九頭竜川の支流の日野川は元の名が、叔羅川(シラキ川)でその源流には、信露貴山(シラキ山)がある。新羅神社や白木神社もあるでしょう。

九頭竜川流域には丸岡や永平寺町の松岡古墳があり、松岡の二本松古墳出土の天冠は大伽耶のものと酷似している。九頭竜川河口部で交易を盛んにした三尾氏などの豪族が栄えその墳墓が丸岡や松岡にあるのでしょう。大伽耶は4世紀末までは意冨伽耶を意味し、5世紀半ばから北西の高霊が栄えてこちらが大伽耶と云われます。大伽耶の天冠には角見たいな枝がある、金銅(金メッキ)冠で二本松の天冠に似ている(これは5世紀後半の墓です)。敦賀に上陸した角のある人と関係があるかも知れません。

因みに、丸岡は継体天皇のお母さんの振媛の里です。

敦賀の越前一宮の気比神社は、元々はツヌガアラシトを祭神としていたのを、律令時代になって文武天皇が702年に、ツヌガアラシトを摂社の角鹿神社に移し、気比神社には、神功皇后と仲哀と応神を祭ることにした。

この動きは文武?が、紀伊の日前や国懸神社を分社したのと似ている神社政策と思いますが如何でしょうか。

ところで、気比神社にはアメノヒボコをどこか摂社にでも祀っていましょうか??


[9231] 姫島  mai nakahira [Url] 2008/08/07(Thu) 00:00 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。

前回の旅行で、姫島のヒメコソ神社に行ってきました。
姫島は、白い玉の伝承のほうですね。

ヒメコソ神社の奥には、巨大な岩があって、
その岩の割れ目に小さな石の祠があります。
扉は閉まっていましたが、中には石棒が入っているはず(ネットで拝見しました)。
ものすごく古いのアニミズム信仰を感じるところでした。
古層の信仰の上に、新羅などの女神伝承が乗っかって来た感じがします。

フェリー乗り場の近くに神功皇后の八幡宮があり、
確かアカヒルメ命が祀られていたと思いますが、
自転車移動で疲れ切っていて、行きそびれました〜。

[9230] Re[9229]: 浪花の祈り 天の探女と比賣古曽神  佐々木 2008/08/06(Wed) 17:24 [Reply]
> 天探女命の乗ってきた磐船は現在は土中に埋まってしまっているようです。

 磐座が上町台地に多いので、物理探査の資料を確認してみました。
 少し信じがたいのですが、地形的には上町台地は千里山の島熊山から連続する台地でした。また上町台地で岩盤が露出していてもおかしくはないようです。
 岩を誰が持ってきたのか関心があったのですが、どうもそのあたりに岩盤があったのでは考えるべきなのかもしれません。

[9229] 浪花の祈り 天の探女と比賣古曽神  神奈備 2008/08/06(Wed) 14:03 [Reply]
 天探女命の乗ってきた磐船は現在は土中に埋まってしまっているようです。江戸時代の『摂津名所図絵』には、産湯稲荷(小橋公園)、磐船山、味原池、姫古曽神社などが鳥瞰図的に描かれています。所が現在、磐船旧蹟の石碑は、少し北側に当たる天理教阪府分教会の敷地内に置かれています。

 その『摂津名所図絵』には、磐船こそ、比賣古曽大神の御正躰也、磐舩土中に蔵(かく)れ満しましいる、よって比賣語曽(姫蔵)と言うとあります。ここでは比賣古曽神=天探女としています。さらに、比賣許曽神社の祭神を下照比賣命とし、「大巳貴命の御女にて天稚彦命の妻、味耜高彦根命の妹なり、亦の名稚国玉媛或は天探女とも號す。」としています。 

 天探女に加えて比賣許曽神と下照比賣神とが登場して来ました。摂津国東生郡では、比賣許曽神とは渡来系の赤留比売神であり、鴨氏の下照比売神となっているのが混乱の元なのです。
 
 少し整理をしておきます。
 『古事記』(仁徳記)に、昔のこととして、天の日矛についての記載があります。新羅の国の王子だった天日矛が、日光で懐妊した女が生んだ赤玉を手に入れます。これが美しい乙女に変わり、妻にします。妻がよくつくしてくれるのをいいことに心奢って妻を罵ります。妻は「私は汝の妻になるような(程度の低い)女ではない。吾が祖の国に行く。」と宣言、難波に留まったのです。「比売碁曽の社に坐す阿加留比売と言う神です。」との注が続いています。

 『日本書紀』(垂仁紀)に、よく似た話が載っています。「都怒我阿羅斯等が手に入れた白い玉がきれいな娘になったのですが、ちょっとしたすきに娘はいなくなり、難波に至って比売語曽社の神となった。」とあります。

 記紀からは比売許曽神とは、半島で赤玉や白玉が変じた女神のことで、一つの名は阿加留比売と言うことがわかります。

 所が、平安時代の10世紀初めにまとめられた延喜式神名帳に、摂津国東生郡に比売許曽神社の名が載っています。その延喜式の臨時祭では、比売許曽神社一座亦号下照姫とあるのです。比売許曽神を下照姫とも言うとあるのです。

  それより半世紀早くの貞観元年に摂津国従五位下勳八等下照比女神従四位下としたと出ています。難波生国魂神・下照比女神・坐摩神の順で書かれているのです。この下照比女神は東生か西生と見るべきで、川部郡とは読みにくいところです。平安時代には難波の比売許曽神は下照姫となっています。

 鴨の女神である下照姫が渡来系の阿加留比売であるはずはないのです。下照姫としているのは間違いなのです。何故ならば、比売許曽神・阿麻美許曽神社の許曽は朝鮮語の社で伊太祁曽神の祁曽にも通じ、渡来系の神(阿麻美許曽神社は素盞嗚尊・伊太祁曽神社は五十猛神)を祀る神社にこそつく許曽・祁曽と思われるからです。
 
 現在の三光神社の地は姫山と言われます。おそらくはこの山に下照姫が祀られていた所、鴨氏の力が衰えて来た5世紀頃に多くの渡来人がやって来て、ここに阿加留比売を逢わせ祀ったことがあり、やがて二神は習合していったというか、下照姫の名が忘れ去られたということがあったのでしょう。

[9228] 豊中歴史同好会のお知らせ  神奈備 2008/08/06(Wed) 09:50 [Reply]
2008 8 9 第2土曜 14〜16時  ¥千円。
会場:豊中市教育センター(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西。ルシオーレビル6F。南西角の エレベータで上がる )

講師 枚方市教育委員会 西田敏秀氏
演題 5世紀のヤマト政権と北河内

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2008.html

[9227] 鉄について教えてください  とみた 2008/08/06(Wed) 07:19 [Reply]
素人さん お付き合いありがとうございます。
要は、古代史研究としての鉄です。日本は明治に近代製鉄が入るまではタタラ製鉄ですね。

始まったのは6世紀と考えていいのでしょうか。

日本の製鉄は独特のようですが、これが古代の朝鮮の製鉄技術とか中国の技術と全く違うのでしょうか。

まあ、燕の国で鋳鉄が春秋時代に始まり、戦国時代に普及したけれども農具用鉄で、戦国末期になって、脱炭技術が進んで武器にも使われる丈夫な鉄になった。

朝鮮では初期鉄器時代は紀元前3世紀に始まったとされています。

高句麗が強くなったのは、炒鋼法を学んでからといわれています。

鉄は炭素の含有量が少ないのが塊練炭で加炭して鋼に、

銑鉄は炭素が多すぎて脱炭して鋼にするわけでしょうが、いずれも温度が適当でないと可鍛出来ない。

可鍛状態でしか鍛造できないのですね。日本は
砂鉄を利用し始めるのが6世紀、そのために鉄穴(カンナ流し)で山の砂を崩しては川に流して鉄分を沈殿して砂鉄をとったのでしょう。

それとたらら製鉄は連動している。

吉備でははじめは鉱鉄を使っていたらしい。

何れにせよ日本の製鉄は6世紀に始まる。それまでは高師小僧という水草に付着した褐鉄を不純物の入ったまま、低温度で取り出して鉄を利用したかも知れない。

ましな鉄は、鉄素材を弁辰(伽耶や新羅)から輸入して鍛治技術で農具を作っていた。

このように思っているのですが、その辺りを技術的にフォローしていただきたいのです。



[9226] Re[9224]: 素人さん 鉄について教えてください  素人 2008/08/05(Tue) 23:52 [Reply]
とみた様
書き込み有難うございました。
> 素人さん、とみたです。
>
> 素人さんは、鉄を深く研究なされています。古代史を究めるには鉄についてある程度知る必要を感じています。
>
> 愚問を率直に並べますのでお教えください。割り込みで、どなたかの教示もいただければ幸いです。シリーズになろうかと思います。鉄については何せ私は素人です。この場を借りて、多少は知識を整理できればありがたいです。
>
> 先ず、日本の製鉄炉と中国の製鉄炉や朝鮮の製鉄炉はつながりがありましょうか。
>
> 白銑鉄、焼き入れ、焼き戻しが分かりません。

炉の問題は複雑ですからあとにして、鍛冶の基礎ですが刀鍛冶の方が貴重な秘伝の一部を公開されているWebが有りますので、一通り読まれると非常にためになります。

特に「下げ場」脱炭素の技術が重要です。たたらで造った鋳鉄は白銑鉄です。鋳造して脱炭素すると可鍛鋳鉄になります。鍛造できるようになります。問題は温度管理。
 近代化した、たたらで白銑鉄を造り、「下げ場」で脱炭素して鋼や包丁鉄を造られています。炭の使い方(種類、大きさ)など貴重な技術が満載です。古代につながる技術です。
http://www.eonet.ne.jp/~sumihira/
なかなか公開して戴けない部分ですので、非常に貴重です。
いつも参考にさせていただいております。

[9225] 浪花の祈り 天(あま)の探女(さぐめ)  神奈備 2008/08/05(Tue) 16:49 [Reply]
 アマノジャクのルーツの女神。

 万葉集 巻三 二九二
 録兄麻呂(ろくのえまろ)が歌四首(よつ)  近江朝の人
 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも

 遠い天上からやって来た探女の石船が着いたという高津は浅瀬になってしまった。

 奈良時代末には難波堀江も土砂で浅くなってしまい、遣唐使船が座礁したと云います。


 『続歌林良材集』津の国の風土記にいう
 難波の高津は天稚彦が天くだった時、天稚彦についてくだった神、天(あま)の探女(さぐめ)が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ、と。云々。

 先の石船や磐船は、神の乗り物である船を云うのであって、石で出来た船と云う意味ではありません。要は、海上を航行して来たのです。

『続歌林良材集』は17世紀央の書物であり、上記引用は古代の風土記の逸文とするには疑問があると、『大阪市史』では述べています。

 
 『古事記』では天若日子、『日本書紀』では、天稚彦とされる神で、国譲りを促すべく、高天原から大国主のもとに差し向けられたおそらくは美男の神がいます。
 天(あま)の探女は、天若日子に付き添って共に浪花にやって来た侍女・乳母・スパイのような役割の女神だったのでしょう。
 『日本書紀』では、何故か、天の探女を国神としています。

 国譲りの推進役のはずの天若日子はいっこうに復命もせず、天上から雉子名鳴女なる鳥神を様子を見に派遣、この時に、天の探女は天若日子をそそのかして鳥神を矢で射殺します。おかげで、天上の高御産巣日神がその矢を投げ返して天若日子の胸に命中、天若日子は死んでしまいます。

 天探女命は美濃国武儀郡(岐阜県美濃市)の
 大矢田神社摂社華堂神社(はなどじんじゃ)「下照姫命 櫛名田姫命 天探女命」
 誕生八幡神社「應神天皇 天探女命」
 に祀られています。何故、美濃か、これは後ほど。

[9224] 素人さん 鉄について教えてください  とみた 2008/08/05(Tue) 12:03 [Reply]
素人さん、とみたです。

素人さんは、鉄を深く研究なされています。古代史を究めるには鉄についてある程度知る必要を感じています。

愚問を率直に並べますのでお教えください。割り込みで、どなたかの教示もいただければ幸いです。シリーズになろうかと思います。鉄については何せ私は素人です。この場を借りて、多少は知識を整理できればありがたいです。

先ず、日本の製鉄炉と中国の製鉄炉や朝鮮の製鉄炉はつながりがありましょうか。

白銑鉄、焼き入れ、焼き戻しが分かりません。

[9223] Re[9222]: 焼け土?  素人 2008/08/05(Tue) 00:32 [Reply]
全体写真では。
気持ち赤いような気がする。
東北電力原町火力発電所の工事中の写真
http://www.culture-center.fks.ed.jp/event/kodai/kahatsu3.jpg
http://www.culture-center.fks.ed.jp/event/kodai/seitetsuiseki.htm
製鉄遺跡の写真ではあまり紅くない。
地山はこの辺では、レンガ色の土はなかったように記憶しています。

[9222] 焼け土?  素人 2008/08/05(Tue) 00:18 [Reply]
神奈備さま
書き込み有難うございました。

>
> 素人さん 製鉄と万葉の歌
>
>  所で、真金と丹生とが揃って出てきますと、水銀でアマルガムを作って純金を得る作業を思い起こします。巻14・3560の歌は、心を丹生の赤土にたとえたものですから、物理的な辰沙がある必要はないのでしょうが、丹生の真朱と来て福島県とするのは、いささか根拠が弱いような思われますね。
>
地名と大和朝廷の官営製鉄所と見られる大規模な長期にわたった製鉄遺跡から特定されたようです。地質の調査をしますと時々焼け土が出ますが、レンガ色をした赤土だったりします。広大な地域に製鉄炉と炭焼きの窯が連なった遺跡のようですから、窯跡は焼け土の連続で、レンガ色の赤土が山を覆っていたと思われます。勿論、炭用の雑木の伐採で山は、はげ山となっていて赤い山肌がむき出しになっていたのでしょう。煤で黒いなどと言われると困りますが。さらに、製鉄遺跡の発掘写真ではあまり紅くないので心配もあります。
少し色は違いますが、「丹生の真朱」に例えたのではと夢想します。

[9221] Re[9220][9218]: 出雲湯殿山神明宮  佐々木 2008/08/03(Sun) 10:45 [Reply]
>  出雲湯殿山からの連想ですが、ついでに。
>  前に紹介されていた『馬・船・常民』に寺社が海路を支配していたことが述べられています。平安・鎌倉期。
>  瀬戸内海 石清水八幡宮、賀茂社・鴨社
>  山陰   石清水八幡宮
>  北陸   日吉
>  太平洋  伊勢、熊野
 非常にすっきりしました。
 佐々木氏による石見出雲守護は鎌倉以降、その後石見銀山が開発されます。その関係で出雲船が現れたのかもしれません。
 熊野・浅草は熊野別当家も、最初の武蔵守護平賀氏も清和源氏つながりかもしれません。
 北陸の日吉は最初の守護比企氏?
 倭寇は、「八幡船」といい、些少でも石清水八幡宮さんと関係があるのでしょう。
 そういえば紀伊国屋さんは深川神明の寄進だった?

[9220] Re[9218]: 出雲湯殿山神明宮  神奈備 2008/08/03(Sun) 09:23 [Reply]
> この考えでいきますと、熊野発浅草は、紀伊国屋さんの廻船が関係しているのかもしれません。

 浅草寺創建は推古天皇の時代とされていますが、文献では鎌倉時代の『吾妻鏡』には出ているとのこと。

 出雲湯殿山からの連想ですが、ついでに。
 前に紹介されていた『馬・船・常民』に寺社が海路を支配していたことが述べられています。平安・鎌倉期。
 瀬戸内海 石清水八幡宮、賀茂社・鴨社
 山陰   石清水八幡宮
 北陸   日吉
 太平洋  伊勢、熊野


素人さん 製鉄と万葉の歌

 所で、真金と丹生とが揃って出てきますと、水銀でアマルガムを作って純金を得る作業を思い起こします。巻14・3560の歌は、心を丹生の赤土にたとえたものですから、物理的な辰沙がある必要はないのでしょうが、丹生の真朱と来て福島県とするのは、いささか根拠が弱いような思われますね。

[9219] 製鉄と万葉の歌  素人 2008/08/03(Sun) 01:32 [Reply]
万葉の歌の話が出ていましたが、東北の万葉集の歌を見つけました。

真金(まがね)吹く丹生(にふ)の真朱(まそも)の色に出で言はなくのみそ吾が恋ふらくは(巻14・3560)

前にご紹介した福島県南相馬市の金沢製鉄遺跡付近(真吹)で詠まれた歌のようです。
こんな山深いところの歌も万葉集に載っているようです。
東北の古代製鉄の地と都の関係もかなり濃厚であったと思われます。
不純物の多い海砂鉄を原料として高温で白銑鉄を作り、大鍛冶で脱炭素して鋼や包丁鉄を製造していたと思われます。もちろん、鋳造も。
海路、都に鉄も運ばれたのでしょうか。
真金(まがね)吹くですと吉備のようですが。
行方評 654年分置
行方郡:吉名・大江・多珂・小鶴・真吹・真野
万葉の碑 ミンユウネット
http://www.minyu-net.com/serial/manyou/080130/manyou.html 

[9218] Re[9217][9216]: 出雲湯殿山神明宮  佐々木 2008/08/02(Sat) 20:53 [Reply]
> 日本海側の山々の連鎖、宗像の神々や白山信仰が連なっているようです。
 出雲発の神明さんと言うのも合点のいかない所。神明さんも熊野神明さんというのがあるようで、紀州の日の神と折口信夫さんは言うています。浅草が例に挙がります。

 私の数代前まで、日本海で船を有し、広域に商を行っていたとの由。
 中世以降、出雲の美保関から出羽の酒田までを積出港として利用し、日本海側各地に知行を安堵されていたようです。
 確かに美保関から酒田便もあり、鶴岡までに届けるケースも確実にあったと思います。新田開拓には寄進もさせられています。
 だから出雲発鶴岡はなるほどと、[9216]のブログも納得しておりました。

 この考えでいきますと、熊野発浅草は、紀伊国屋さんの廻船が関係しているのかもしれません。
 以前神明地名を列記して見せてもらったので、ここまでたどり着きました。
 神奈備さん こんなことあるのでしょうか。

[9217] Re[9216]: 出雲湯殿山神明宮  神奈備 2008/08/02(Sat) 19:29 [Reply]
>  つまり海上からのいわゆる「山アテ」の役割を果たしていたのではないでしょうか。 その関係で山々に出雲の神を祀ることになったのではないか。

 日本海側の山々の連鎖、宗像の神々や白山信仰が連なっているようです。

 出雲発の神明さんと言うのも合点のいかない所。神明さんも熊野神明さんというのがあるようで、紀州の日の神と折口信夫さんは言うています。浅草が例に挙がります。

 もう一つが東北のオシラサマ信仰も神明様と言うようです。これは熊野聖の巫女が持って歩いた御神体のようです。

 出雲にも熊野大社が鎮座、近辺まで紀州の熊野の勧請社が押し寄せているような劣性の中で、熊野大社から発したとも考えにくい所です。

[9216] 出雲湯殿山神明宮  佐々木 2008/08/01(Fri) 22:45 [Reply]
 最近清掃したので、出雲???と思い、神棚を確認して来ました。まさにその通り。少し気になりましたので調べてみました。
 
 出雲から船出をして、北へまず大山、白山山系、立山山系、出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山)が目印になったのではないか。もちろん逆も。
 つまり海上からのいわゆる「山アテ」の役割を果たしていたのではないでしょうか。 その関係で山々に出雲の神を祀ることになったのではないか。
と下記のブログには書かれておりました。

http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/49047627.html

[9215] 浪花の祈り 神明宮  神奈備 2008/08/01(Fri) 20:59 [Reply]
 浪花には朝日・日中・夕日を冠にする神明宮がありました。浪速三神明です。現在も姿を変え、場所を変えて鎮座しています。

 朝日神明宮は熊野古道の坂口王子社(中央区神崎町)の対角にある南大江公園に鎮座していましたが、後に此花区春日出中に遷座しました。

 日中神明宮は朝日神明宮の元地の北側に鎮座しており、現在は古い埋め立て地である鶴町の中央公園に遷座しています。新開地に由緒のある神社を遷す、いいやり方だと思います。

 夕日神明宮は西天満神明宮とも難波神明宮とも呼ばれました。現在は露天神社内に小祠が西を向いて鎮座しています。

 この夕日神明宮は、日本七神明の一とされています。露天神の由緒から日本七神明をリストアップ。

東京芝神明宮 東京都港区の芝大神宮
京都松原神明宮 下京区の五条通りの朝日神明宮
京都東山神明宮 山科区の日向大神宮
加賀金沢神明宮 金沢市野町の神明宮
信濃安曇神明宮 長野県大町市の仁科神明宮
出雲湯殿山神明宮 鶴岡市神明の伊勢両宮 or 山形市錦町の神明神社・・? 出雲は何だ!?
夕日神明宮

 この七神明の選択基準は頼りないことですがよくわかりません。仁科神明宮は神宮に習って20年遷宮を仁科氏が滅びる戦国時代まで行っていたようです。

[9214] Re[9213][9212][9211][9210]: 浪花の祈り  堂島薬師堂  神奈備 2008/08/01(Fri) 08:20 [Reply]
>  物部の5の倍数好きは、かなり前に聞き覚えはありますが、何のことでしたか。
>  物部氏の分布をみると、平坦で豊富な水がある、比較的四方見通しがよいところに居るようですが、孫子の兵法をわきまえていたように思えます。


『旧事本紀』から

防衛として天降り供へ奉る。
天香語山命など32柱がお供したとありますが、瓊瓊杵尊の五伴緒と瓊瓊杵尊降臨時活動の思兼神の子の二神は、饒速日尊にお供は疑問。32神−7神=25神。

五部人を副へ従と為して天降り供へ奉る。
笠縫部等の祖など

五部造、伴領と為て天物部を率て天降り供へ奉る。
二田造など

天物部等、二十五部人、同じく兵仗を泰びて天降り供へ奉る。
二田物部など


扶余族も5を単位とするそうです。


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