神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十年 十二月 2008.12)お名前の敬称は省略しています。

[9675] Re[9674]: あいさつ  とみた 2008/12/31(Wed) 13:18 [Reply]
神奈備様 皆様

今年もいよいよ大晦です。

私も神奈備さん同様、古代史探求8割、宇宙研究2割の割合で老後の勉強を趣味として深めています。

太陽は46億年も存在し後、50億年も経てば水素がなくなって燃え尽きるでしょう。

赤色巨星に膨張して、そして白色矮星として消え去ります。
太陽の質量の8倍?程度のものは中性子星に、25倍以上のものは
ブラックホールになるとされています。

素粒子も6つのクオークまでは分かりましたが、点でなく弦の性格を持つという
膜理論がでてノーベル賞をお取になった小林先生の数学よりのもっと難解な数学を必要としているようです、惑星も太陽系以外にすでに150?個程度は発見されています。

重力の研究やヒッグス粒子の研究が超高速加速器で確かめられようとしています。

翻って、古代史も考古学的な発見に基づいて、多くの成果を挙げつつあります。

この神奈備さんの掲示板で、また新年も、皆様と交流出来るのを楽しみにしております。

世はまた、サブプライム問題が発端で世界的な経済危機を迎えます。アフガニスタンやパレスティナのきな臭い問題も憂うべき事態です。

皆様どうぞよいお正月をお迎えください。



[9674] あいさつ  神奈備 2008/12/31(Wed) 09:24 [Reply]
今年はありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

 ノーベル賞に引っ張られて岩波新書『宇宙論入門』を読んでいましたが、面白い記事が散見されますので、若干の紹介を。

フェルミのパラドックス
 人類以外の知的生命体が発展するなら、宇宙は知的生命体に満ちあふれているはず。それならば人類より高度な文明を持つ生命体も多数存在するはず。そうすると、地球に訪れる生命体がいてもよいはずだが、そのような事実はない。以上


 これから言えることは、宇宙旅行できるまで文明は発展しないのか、生命体が発生しないのか。

著者佐藤和彦さんの考え 知的生命体の社会は、高度な文明を獲得したとき自滅する

 計算
 天の川銀河 1000億個の星 → 1000億個の惑星系 と推定
 
 惑星の知的生命体の存在確立 1/1000 と想定

 1億個の惑星に知的生命体  @

 銀河系が誕生しておよそ100億年

 知的生命体の高度な文明が存在できる時間は100年 → 星あたり 1/1億 A

 結果 @xA = 1 現在は地球だけ が答え。以上

 
 なお、発展途上にある惑星や文明が崩壊した後にも生き残る人類がいるのでしょうから、宇宙は知的生命体に満ちあふれていると言えるでしょう。

[9673] 5.大伴氏の興亡  神奈備 2008/12/26(Fri) 08:50 [Reply]
 大王家は宮殿を大伴氏(来目氏)・佐伯氏に守らせました。おそらく武内宿禰の子孫達は大王家に匹敵する力量を持っており、うかうか信用出来なかったと言うことでしょう。
 尚、大伴氏が国政のトップに立つのは雄略朝の頃です。雄略天皇は就任前に葛城円大臣を殺しています。その後大伴連室屋を大連にしています。葛城円大臣の討伐に功があったのかも知れません。

 また雄略天皇は倭王武と見なされていますが、南宋の順帝への上表文は
 ・・昔から 先祖は 代々みずから甲冑をまとって山川を踏み越え 身を休めるひまもなく 戦ってきました。云々。とあります。この上表文と大伴家持の下記の歌

 大伴宿禰家持の万葉歌 四〇八四
 ・・・海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生す屍 大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は ・・

 の類似と大伴氏の役割を溝口睦子氏は前掲書で述べています。

 大伴氏は泉州に拠点があったとの説があります。これは『雄略紀』に、紀小弓宿禰が新羅で死んだことにたいして大伴室屋大連が天皇に「どこに葬ってよいかわからない」と訴え、淡輪(大阪府阪南市)に墓を造るように指定したこと、また紀氏と大伴氏とは同じ国で近隣とあることから、泉南あたりで紀氏と大伴氏が接しているとの考えで上記の説がでたようです。この墓の場所については、『古代王権と難波・河内の豪族』前田晴人著 に。紀国の紀水門から住吉津へ航行する船(紀氏の)から勇敢な先祖の墳墓が見える場所を選定したと推測されています。

 大伴大連金村は継体天皇の時、百済から任那四県の割譲を乞われて賛成しており、これを欽明天皇の時に責められます。金村は住吉の家に隠居した状態になり、以降大連の官位を得ることはなくなりました。

 万葉集に大伴がいくつか歌われています。
0068 大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
 この大伴の御津を住吉御津とする意見もありますが、千田稔氏は、『探訪古代の道巻2』の中で、開口神社の場所こそ古代の大伴御津と呼ばれた港ではなかったかとされています。それは竹ノ内街道が河内の丹比道に繋がり、更に堺の開口神社に至っているからです。また、立野越えの道は河内では大津道につながり、まっすぐ西で開口神社に至ります。開口神社とは『住吉大社神代記』の開速口姫神とされています。

0066 大伴の高師の浜の松が根を枕(ま)きて寝(ぬ)る夜は家し偲はゆ
 高師の浜は堺市の南の高石市にあります。ここから2kmほど南側に池上曽根遺跡があります。
 ここに曽根神社(二田物部神を祀る二田国津神社を合祀)が鎮座しており、この辺りに物部氏が跋扈していたのかも知れません。大伴氏の勢力は泉南までは及んでいなかったのでしょう。

 大伴氏は大和では十市郡、河内の石川に配置されています。十市郡は軽衢があり、交通の要路です。また石川は水越峠の西の出口であり、葛城氏を背後から牽制する拠点です。大王家の伴造として要所要所に配置されたと言うことです。

 書き忘れましたが、熊野川には大伴川と言う別の呼び方がありました。
                                −終わり−

[9672] Re[9671][9670]: 紀の国、能登、信濃  神奈備 2008/12/26(Fri) 08:48 [Reply]
> 実際に能登島の南対岸、七尾市万行から古墳時代初期の大倉庫郡跡が発見されています。

古墳時代前期初め(3世紀末〜4世紀初め)の3棟の高床の巨大倉庫跡

南北18・6m、東西17・2mの高床の倉庫とは300平米。3棟。
5世紀後半の難波の法円坂16棟ですが、90平米。

日本海側が古代では表日本ということがよくわかりますね。


> また能登半島の先端、東側には、紀の川、鵜飼川が流れます。

鵜飼は南方の習俗です。能登にも黒潮が流れている故でしょうか。

[9671] Re[9670]: 紀の国、能登、信濃  くず 2008/12/25(Thu) 18:32 [Reply]

>九頭の神が大伴・来目両氏の祀る神だったのかも知れません。土蜘蛛の伝統を残していたと考えることができます。茨城では佐伯と呼ばれた氏族もこの仲間だったのでしょう。

お話興味深く伺っております。
昨年秋に長野(中野市の柳沢遺跡)で銅鐸と銅戈が見つかっておりますが、
7本の銅戈のうち6本は大阪湾型。
形式としては大阪湾型(近畿型)a類とされる、和歌山県有田市の山地遺跡出土の銅戈が最も近いようです。
残りの1本ははるか彼方の九州型。
日本海から能登を超えての広域交流を考えねばなりません。
おそらく海上、河川、湖(琵琶湖)を利用した船によるものと考えます。

柳沢遺跡での発見前まで、日本海側では能登を越えて銅鐸は発見されていませんでした。
(銅鐸型土製品は上越の吹上遺跡等知られていたので、発見はあるだろうと思われてはいたようです。) 
偶然発見の要素の強い弥生の青銅器ですので、
見つかっていない地域=相対的に数が少ない地域”と考えていいと思います。
能登半島が当時の東西交易における重要な中継地点であり、ある時期には境界であったと思います。

能登には神奈備さんがトップページでご紹介の伊夜比め神社があり、ここには弥彦の男神、あるいは佐渡の男神が通うと言います。
かつて能登島近辺が中継港で、佐渡や弥彦(柳沢遺跡より千曲川→信濃川を下った河口にあたる)から船が入港していたとすると、往事をしのぶ祭祀として行われているのかも。と思います。
実際に能登島の南対岸、七尾市万行から古墳時代初期の大倉庫郡跡が発見されています。

また能登半島の先端、東側には、紀の川、鵜飼川が流れます。そして大伴家持の歌にもあるように能登は船木の重要な生産地であったようです。このあたり紀州との共通点と思います。

もう一点、
柳沢遺跡は千曲川と支流”夜間瀬川”の合流点にあるのですが、この川を2キロほど遡ったところに式内論社の越智神社があります。御祭神は美穂須須美命、饒速日命で、美穂須須美命は大国主と越の奴奈川姫の子(出雲国風土記)。
(ご丁寧に古代文字?(越文字)で同祭神の名が記されているようです。)
玄松子さんのページ 越智神社(中野市)
http://www.genbu.net/data/sinano/oti_title.htm

この美穂須須美命を祭る神社がやはり能登の先端にあって航海の信仰を集めていたようです。
同様に、須須神社奥宮
http://www.genbu.net/data/noto/suzu1_title.htm

越智からは物部系を感じますが当時青銅器供給地(東奈良)摂津三島とも繋がりそう。
中世に入ってですが大和の越智氏は九頭龍を守護神としたようです。
http://kamnavi.jp/as/asuka/iwatowake.htm
http://www.kuzuryujinja.net/kuzuryu-yuisyo.htm

東奈良遺跡の青銅器生産が多田銀山(銅も産出)から供給された銅、すずによったものとしたら…
その多田にも九頭龍の話が残ります。
http://kamnavi.jp/en/settu/kududai.htm



[9670] 4.来目氏・八咫烏・榎本氏  神奈備 2008/12/25(Thu) 08:22 [Reply]
 大伴氏と関連の深い来目氏も紀の国に住んでいました。雄略天皇の時、新羅征伐に紀小弓宿禰、大伴談連らが新羅に侵攻しましたが、大伴談連と紀岡前来目宿禰が戦死しています。来目氏は大伴氏の配下のような存在だったのでしょう。和歌山鉄道に岡崎駅があり、近くに九頭神社が鎮座。

 「大来目部は宇陀地方の山人ではあるまいか」と、上田正昭先生は述べています。おそらく神武東征の物語に来目歌が出てきますが、これは宇陀で歌われていることなどによったのでしょう。また八咫烏の案内で熊野から宇陀で大伴氏の先祖の道臣(元名は日臣)が大来目を率いて進んでいます。

 大伴氏の一族に榎本連がいます。名草郡にいたのですが、熊野の三党にも榎本氏の名が見えます。熊野の山道をガイドしたのは榎本氏だったのかも知れません。熊野は烏に由縁がある神社です。それを以て八咫烏と言う発想が出来たのかも知れません。だから八咫烏も三本足と言う誤解が生じたのでしょう。

 八咫烏は宇陀で兄磯城・弟磯城に皇軍への恭順を呼びかけています。普通は同じ宇陀に居住していた来目氏が行うべきことを八咫烏が行っているのにはいささか違和感があります。やはりここの八咫烏も大伴氏・来目氏の一員だったと考えることが素直だと思います。

 八咫烏は宇陀郡ゆかりの神になりました。八咫烏神社は宇陀郡に鎮座しています。八咫烏の子孫は葛野主殿県主と『日本書紀』は記載していますが、これは山城の賀茂社を祀った氏族です。

 壬申の乱で吉野にいた大海人皇子が東国へ行く際に道案内をした氏族がいます。宇陀の猟師であった大伴榎本大国は大海人皇子を警護しつつ導いています。まさに八咫烏の働きです。榎本と八咫烏とはつながっていると思われます。『新撰姓氏録』によりますと、榎本連は山城国乙訓郡にいました。しかし、大伴榎本大国と山城の賀茂社との関係はわかりません。

 宇陀で特長的なのは九頭神社が多いことです。大和では他には山辺郡・吉野郡、紀国では名草郡・那賀郡あたりに匹敵しています。来目氏が九頭神社を齋祀っていたのかも知れません。
http://kamnavi.jp/jm/kuzukami.htm#udakuzu

 同じように大伴氏の祖神を祀る名草郡の神社は殆どが旧名は九頭神社です。九頭の神が大伴・来目両氏の祀る神だったのかも知れません。土蜘蛛の伝統を残していたと考えることができます。茨城では佐伯と呼ばれた氏族もこの仲間だったのでしょう。

 大伴氏は紀国の那賀郡にもいました。粉河寺を造営したのは大伴孔子古です。http://kamnavi.jp/kinokuni/historykisi.htm#ootomo

 さて、神武東征譚で紀国では名草戸畔が誅された話が『日本書紀』に出てきます。実際の紀の国を治めていた巫女王であったろう名草戸畔なる者が王権によって殺されたことがあったのでしょう。しかし本当に神武東征の時だったのかと言うと、神武さんの存在とその東征が歴史的事実としてはどうなのでしょう、俄には信じられない所です。
 神功・応神の東征に大伴氏は彼らに見方をして王権に取り入ることができたのでしょう。素朴で忠実な土蜘蛛だったということでしょう。

 その契機は土蜘蛛の統領格であった名草戸畔が神功・応神勢力に逆らうことがあり、このままでは紀の国にいた大伴氏は一緒に滅ばされると思い、まさに物部氏が長髄彦を殺して恭順したように、大伴氏は名草戸畔を誅して王権に恭順の意を示したということも考えられます。
 大伴氏を牽制させるために紀国に紀氏一族を置いたと言えるのかも。

 応神天皇が吉野宮へ行った際、国樔人が土地の産物を奉納しています。クズの民と王権とは親しい関係にあったと言えるでしょう。侵入王権にとっては、地元にいた豪族も気に掛かる存在であり、逆に彼らにまつらわなかったクズの民と結んだということ。

[9669] 3.『古屋家家譜』  神奈備 2008/12/24(Wed) 08:32 [Reply]
 一方、大伴氏の名は天孫降臨のシ−ン(一書第四)に大伴連の遠祖天忍日命、来目部の遠祖天槵津大來目が天磐靫を背負ってお供をするところに出てきます。大王家の古い伴造だったのでしょう。

 大伴氏の系図で、甲斐国一宮浅間神社に伝わる『古屋家家譜』と言うものがあります。これによりますと大伴氏と紀の国との深い繋がりが見えてきます。

 高皇産霊尊−安牟須比命−香都知命(紀国名草郡)−天雷命(名草郡)−天石門別安国玉主命(名草郡)−天押日命−天押人命−天日咋命−刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命−道臣命(名草郡)本名日臣命−味日命−推日命−大日命−角日命−豊日命−武日命−建持連公−室屋大連公−金村大連公−狭手彦−

 上記家譜での名草郡の式内社  具体的な神社名は『古代氏族の系譜』溝口睦子著による。
香都知命(紀伊国名草郡祭神)香都知神社 http://kamnavi.jp/ki/naru.htm
天雷命(紀伊国名草郡祭神)鳴神社 http://kamnavi.jp/ki/naru.htm
天石門別安国玉主命(紀伊国名草郡祭神)朝椋神社(元九頭神社)と九頭神社 http://kamnavi.jp/ki/city/asakura.htm
刺田比古命(紀伊国名草郡祭神) 刺田比古神社(元九頭神社) http://kamnavi.jp/ki/city/sasuta.htm
道臣命(名草郡片岡の生まれ)

 『古屋家家譜』の作成に紀伊国出身者がからんでいたのではとの指摘もあるようで、全てが信用できるのかどうかには疑問があるようです。一つでも伝承として認められるものがあるとしますと、「大伴氏は紀の国を故郷としていた。」との仮説は信憑性が増してきます。

 『続日本紀』の神護景雲三年(769年)の条に、陸奥國牡鹿郡の俘囚であった大伴部押人が申し出て言うには「自分たちの先祖は紀伊國名草郡片岡の里の出身である。先祖の大伴部直が蝦夷を征討するべく陸奥國小田郡に居を構えていたところ、子孫が蝦夷に捕虜にされて俘囚となっていた。そこで俘囚の名を取り除き調庸の民に戻してほしい。」と願い出、これが許されたとあります。『古屋家家譜』では日本武尊の東征軍に従軍して陸奥国小田郡島田邑に駐在し蝦夷を鎮めたのは大伴乎多氐とあります。

 『日本書紀』では、雄略天皇曰くとして、「大伴郷は紀郷と同じ国の近い隣りでつきあいも長い」とあります。上記の大伴氏関連の神社は全て和歌山市内にあり、紀氏の齋祀る日前国懸神宮とも指呼の距離と言ってもいい近さです。

[9668] 2.紀氏の登場  神奈備 2008/12/23(Tue) 09:07 [Reply]
 高野山と言えば丹生氏ですが、この丹生氏と紀氏とは祖神を同じくしていますし、紀氏と大伴氏とも親戚関係にあります。即ち紀直の智名曽の娘が大伴の豊日命を生んでいます。これも近い関係があります。なお、智名曽の妹が名草姫とされています。

 紀の国の豪族と言えば紀氏が思い浮かびますが、大伴氏も紀の国にいました。紀氏が『日本書記』に初めて登場するのは『景行紀』で、「紀伊国へ遣わされた屋主忍男武雄心命が紀直の先祖の菟道彦の女影媛を娶って武内宿禰を生ませた。」のところです。私はここの紀伊国は九州の基肄郡付近ではないかとな見ています。それは武内宿禰の母親を祀る神社は北九州にのみ鎮座しており、紀国には見あたらないからです。
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
福岡県小郡市 竃門神社
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇 玉垂神社
佐賀県武雄市朝日町大字中野 黒尾神社 武内宿禰の誕生の地との伝承があります。
 
 和歌山に紀氏が現れる最初のシーンは、神功皇后が凱旋してきた時、昼でも夜のごとく暗くなった理由を皇后が紀直の祖の豊耳に問うところです。「阿豆那比の罪」のところです。豊耳は答えず、別の老人が答えています。豊耳とは地獄耳の人を思わせる名前ですが、紀の国で生じていることを知らなかったようです。この時点では余所者だったと言うことでしょう。神功・応神の兵として紀国に進駐して来たのでしょう。

 『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)を引用します。北九州の地図のつもりです。

  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I
       ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川  

 ここに武内宿禰を祖先とする氏族の名前が揃っています。神功・応神の勢力は彼らの応援を受けて畿内に攻め込んだのでしょう。

[9667] 1.大伴氏の登場  神奈備 2008/12/22(Mon) 20:07 [Reply]
 この前の豊中歴史同好会では大伴氏のお話を、前夜の睡眠不足もあって半覚半睡の状態で聞かしていただきました。これは如何と少し大伴氏に尽きまして勉強しましたので、参考にして頂けるならと思い、シリーズして見ます。

 『常陸国風土記』茨城郡の條に、「古老が言うことには、「昔、国巣(土地の人の言葉ではツチクモ、またヤツカハギという)山の佐伯、野の佐伯があった。云々。」とあります。佐伯とは「さえぎる」者といわれたりしますが、所謂東国の蝦夷なのでしょう。
 
 弘法大師空海は佐伯氏の出ですが、佐伯氏故に蝦夷の出で、空海には彼らに特有の金属探知能力が伝わっていて、そのおかげで丹沙を持って唐に赴き、大量の仏典を買って帰国したとの説があります。現在は朱肉に使われる丹沙の朱肉は一掴み50万円〜100万円とされています。

 その空海は真言宗の寺院を何故紀州の高野山に建設したのでしょうか。仏典を学び修行するには都(例えば東寺)では雑念が入りやすいと言うようなこともあったのでしょう。山深い高野山付近は古代の豪族の雄である大伴氏の管理下にあったようです。また佐伯氏も大伴室屋大連公の後裔とされています。要は同族だったよしみで高野山に入りやすかったのでしょう。

 空海は高野山を下賜の勅許を得た後に大伴氏に援助を乞う手紙をだしています。
  弘仁八年(817)空海44歳の時の手紙
 今、法に依て修禅の一院を建立せむと思欲(おも)ふ。彼の国、高野の原、尤も教旨に允へり。故に表を修めて情を陳ぶ。天恩允許して符を下したまひ訖んぬ。是を以て、一両の草庵を
造立せんが為に、且弟子の僧泰範、実恵等を差して彼の処に立ち向はせしむ。手紙以上。

 この地には丹生氏がいましたが、同時に大伴氏もいて、高野山の玄関口にあたる丹生酒殿神社の地で共存していたとされています。なお、後世には渡来系氏族の坂上氏もやってきます。

[9666] Re[9665]: 辰砂交易の記述  神奈備 2008/12/21(Sun) 15:24 [Reply]
 二村さん こんにちは。

> 大陸からの買い付け人が実際に来ていたということを記述した「中国などの」文献は無いでしょうか?

 寡聞にして承知していません。

 『魏志倭人伝』には、「其山有丹」とあります。弥生時代や古墳時代には辰砂が使われていました。

 景初二(正しくは三)年(239)には、魏から「真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤をたまう。」とあり、真珠がパールであれば五十斤という勘定はおかしく五十孔とでも表示され、真珠とは真朱ではないかとの見解があります。(『魏志倭人伝の考古学』佐原真)朱を貰っているようです。

  所が、正始四年(240)には、伊声耆・掖邪狗らが魏に行き、その際、丹を上献しています。

 空海さんんも丹砂を持っていって、仏典を買う資金にしたと言われています。日本でも上質の丹砂が採取できたのでしょう。

[9665] 辰砂交易の記述  二村 [Url] 2008/12/20(Sat) 23:01 [Reply]
初めまして。

過去ログを興味深く拝見しました。お尋ねしたいことがあります。

大和朝廷が発祥したころ(?)と考えられる巻向遺跡において,辰砂の交易をしていたなどとする説がありますが,大陸からの買い付け人が実際に来ていたということを記述した「中国などの」文献は無いでしょうか?

[9664] Re[9663]: 調田坐一事尼古神社  神奈備 2008/12/18(Thu) 09:02 [Reply]
> 最寄り駅は「尺度」ではなく『尺土』です。

ご指摘ありがとうございます。

[9664] Re[9663]: 調田坐一事尼古神社  神奈備 2008/12/18(Thu) 09:02 [Reply]
> 最寄り駅は「尺度」ではなく『尺土』です。

ご指摘ありがとうございます。

[9663] 調田坐一事尼古神社  御心霊 2008/12/17(Wed) 21:02 [Reply]
[9662] Re[9661]: 奈良学講座  神奈備 2008/12/15(Mon) 15:48 [Reply]
御歳媛様、ご無沙汰いたしております。お知らせありがとうございます。

> 平林氏の御歳神さま=女神説も興味深いですね。

来年は丑年、神様と牛とは多いにかかわっているようです。
特に殺牛儀礼から御歳神を説き起こす平林先生の説には多いに興味をそそられますね。

早速、JR東海「第105回奈良学講座」平成21年3月7日(土)11:00〜16:30 に申し込みました。

[9661] 奈良学講座  御歳媛 [Url] 2008/12/15(Mon) 00:28 [Reply]
神奈備さま、ご無沙汰しております。
鴨と葛城、三輪のお話、楽しく拝読しております。

さて、JR東海「第105回奈良学講座」では、
話題に上っていました平林章仁氏を講師に迎えまして、
葛木御歳神社へも来られるようです。
http://nara.jr-central.co.jp/naragaku/cultural-course.html

平林氏の御歳神さま=女神説も興味深いですね。
また楽しいお話が聞けるかと楽しみにしています。
ちょこっと紹介まで^^

いつもありがとうございます。

[9662] Re[9661]: 奈良学講座  神奈備 2008/12/15(Mon) 15:48 [Reply]
御歳媛様、ご無沙汰いたしております。お知らせありがとうございます。

> 平林氏の御歳神さま=女神説も興味深いですね。

来年は丑年、神様と牛とは多いにかかわっているようです。
特に殺牛儀礼から御歳神を説き起こす平林先生の説には多いに興味をそそられますね。

早速、JR東海「第105回奈良学講座」平成21年3月7日(土)11:00〜16:30 に申し込みました。

[9661] 奈良学講座  御歳媛 [Url] 2008/12/15(Mon) 00:28 [Reply]
神奈備さま、ご無沙汰しております。
鴨と葛城、三輪のお話、楽しく拝読しております。

さて、JR東海「第105回奈良学講座」では、
話題に上っていました平林章仁氏を講師に迎えまして、
葛木御歳神社へも来られるようです。
http://nara.jr-central.co.jp/naragaku/cultural-course.html

平林氏の御歳神さま=女神説も興味深いですね。
また楽しいお話が聞けるかと楽しみにしています。
ちょこっと紹介まで^^

いつもありがとうございます。

[9660] Re[9658][9653][9652][9650][9640]: 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」  ペギラ 2008/12/11(Thu) 21:48 [Reply]
塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」は、
「原神武伝説」というものを想定しているのですね。

「三輪山の神々」学生社

を読まないと、もう一段深いところがわかりませんが。
とりあえず、これを読んでから、また考えます。


[9659] Re[9657]: 「ざじずぜぞ」の逆転  神奈備 2008/12/10(Wed) 21:50 [Reply]
風の旅人さん こんばんは。

> 浄見原神社は地元では天皇さんと呼ばれており、山の上にあります。
> そこに至る途中に竪穴式住居跡があり、かなり近年までその付近に人が住んでいたという話を聞いた事があります。

 小生の知る浄見原神社は吉野川の側にあり、そこを山の上と言うのは当たらないと思います。竪穴式住居跡がありそうなのは大蔵神社のように思います。別名があるのでしょうか。

[9658] Re[9653][9652][9650][9640]: 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」  神奈備 2008/12/10(Wed) 21:48 [Reply]
> 六国史上では、賀茂から大田田根子さんを祖とする表現はない。

そうです。『新撰姓氏録』大和国神別 に
 賀茂朝臣本系
 大神朝臣同祖 大国主神之後也 子大田々禰古命孫大賀茂茂都美命 一名大賀茂足尼。奉斎賀茂神社。仍負姓賀茂。(以降各地のカモの祖のお話)

とあります。これを「賀茂朝臣は大国主神の子・大田々禰古命の孫・大賀茂茂都美命の子孫」と言うことなんでしょう。

 『新撰姓氏録』の元資料に「今日では失われている『日本書紀』の系譜集」があったのかも。

 尤も三歳祝は大物主神五世孫意富太多根子命之後也。とあり、『古事記』に符合しています。

[9657] 「ざじずぜぞ」の逆転  風の旅人 2008/12/09(Tue) 23:56 [Reply]
初めて書き込みさせてもらいます。古代史に興味はありますが全く知識に乏しい者ですから、その辺は割り引いてお付き合い下さい。
ある方に次のようなメールを書いていて、ここにたどり着きました。
「私の生まれ故郷は吉野にある国栖(くず)と言うところです。
ご存じの通り古事記や日本書紀にも出てくる地名です。

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/

先ほどから検索していて新たな発見をしてしまいました。
国栖と日本酒の起源についてです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E9.BA.B9.E9.80.A0.E3.82.8A.E3.81.A8.E9.86.B4.E9.85.92.EF.BC.88.E3.81.93.E3.81.96.E3.81.91.EF.BC.89
何か私が日本酒を好きな理由もこう言うところにあるのかも知れません。

また、くず族について再検証していて確信を得た事があります。
国栖人とは、古事記や日本書紀にも登場する先住民です。
「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押分けて(井の中から)出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました。と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があります。
浄見原神社は地元では天皇さんと呼ばれており、山の上にあります。
そこに至る途中に竪穴式住居跡があり、かなり近年までその付近に人が住んでいたという話を聞いた事があります。
おそらく尾のあるというのは彼らは狩猟によって得た毛皮を腰に巻いていたと思います。昔の狩人や山行さんはそうしており、座った時に自然と座布団の代わりとなるのです。そして、井の中より岩を押し分けてとあるのは、竪穴式住居に住んでおり、そこから出てきたと言うのが、竪穴の中に住んだ事のない天津人にとっては、そのような記述になったと思われます。
クズとは、広く土着先住民全体を指し示す言葉だそうです。また先住民を土蜘蛛とも広く呼んでいたみたいで、葛城山に住んでいた葛城族は最後まで大和朝廷(天津人=朝鮮半島からやって来た人)と最後まで戦い大和朝廷を苦しめたとされています。その葛城族の呪いが後に能「土蜘蛛」となって表現されています。
くず族=土蜘蛛=竪穴式住居に住む先住民
それら先住民を戦いによって征服していく過程が、実は大和朝廷の礎だったとも言えると思います。各地に点在する「国津神社という神社は、クズ族 や九頭神社と関係があると思われます。 ... さて、この六箇山郷の国津神社について調査していたところ、国津神社とクズ族について次の示唆的な本を見つけました。」
http://kamnavi.jp/log/kuzukuzu.htm
神社とは、戦い等によって殺した人達の荒ぶる御霊を鎮める為のものという意味合いを持ちますから、そう考えると前出の掲示板の九頭神社の意味合いと所在が良く理解出来ます。」
さて以前にここで取り上げられていた国津神社と九頭神社の読みの違いについてです。吉野川(紀ノ川上流)から紀ノ川沿いの和歌山までの流域では、「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」と逆転してしまいます。従いまして「くず」と「くづ」の発音の逆転が紀ノ川流域とそこから離れた内陸部では逆転が起こっても不思議ではないと思われるのです。この逆転は、出雲地方と東北地域の一部だそうです。
このエリアの繋がりは、きっと何らかの理由があると思われるのですが、はっきりしません。ただ漠然と今興味があるのは、常陸の国と飛鳥との繋がりについてなのですが、案外このへんにヒントがありそうに思います。
話は変わりますが、浄見原神社のご神体は鏡だと言う事を小さい頃に聞いた記憶があります。

[9655] Re[9648][9646][9644]: 式内・己等乃麻知神社  ぽんた [Url] 2008/12/09(Tue) 22:12 [Reply]
> 式内・己等乃麻知神社についてまとめました。
再調査して、大幅に書き直しました。
式内・己等乃麻知神社の論社は、夜泣松神社ではなく、その斜め前にある事任稲荷のようです。
> http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/tabi/nisi.htm

[9654] Re[9649][9648][9646][9644]: 式内・己等乃麻知神社  ぽんた [Url] 2008/12/09(Tue) 03:42 [Reply]
> 砥鹿神社の「紋」ですが
> 参詣した折、気になり神官に尋ねたのですが、全くコトマチヒメ忌部氏との関連は言われなく、コトノママに叶う云々でして、紋の名は特に無く「卜定(ぼくてい)」と訓んでおられるそうです。

事任神社が亀甲紋なのは、住所が、亀の甲にちなむ亀甲だからかな。
砥鹿神社が亀甲紋なのは、ご祭神を大己貴命にしたからかな。亀甲紋といえば出雲ですからね。
http://harimaya.com/o_kamon1/syake/south/izmo_mon.html

[9653] Re[9652][9650][9640]: 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」  ペギラ 2008/12/08(Mon) 22:56 [Reply]
http://doutakupegira.black.coocan.jp/?m=listthread&t_id=22&summary=on

大田田根子さんに関して、以前に考察しましたが、
六国史上では、賀茂から大田田根子さんを祖とする表現はない。

神武紀について、
重箱隅突きをしても仕方がないのですが、
物語のストーリーとして、合点がいかない部分がある。

神武が橿原で即位し、王宮を作成したならば、
なぜ?わざわざ三島の姫を王妃にしたのか?

そのあたりは、またの話で。

事代主と鴨とを結びつける決定的な部分としては、
『日本書紀』
巻四安寧天皇即位前紀◆大日本彦耜友天皇 懿徳天皇◆大日本彦耜友天皇。磯城津彦玉手看天皇第二子也。母曰渟名底仲媛命。事代主神孫鴨王女也。

ここの表記が面白い
事代主神孫鴨王

ここが、鴨と事代主神を繋いでいる赤い糸?



[9652] Re[9650][9640]: 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」  神奈備 2008/12/08(Mon) 09:27 [Reply]
> 阿治須岐宅比古尼神や八重事代主神は、葛城に全く関係ないと思っています。
> 阿治須岐宅比古尼神や八重事代主神は、押しつけられたうえの保身の為ではなかろうか。

> 三輪からは、ほぼ全くといっても良いくらい、鴨との関係をうたわない。これは、鴨からも同じこと。

 言われてみれば、原点に戻ってしまうご指摘ですね。


 『出雲国風土記』仁多郡に、「阿遅須伎高日子命はあごの髭が八握になっても哭いており言葉もしゃべれなかった。」とあります。これは一つの氏族の始祖王を示す伝説のように見えます。出雲にいた鴨の源流が葛城に移った時、奉じていたのかも。

 また鴨族のある末裔のお家にホケノ古墳(3世紀中頃)から出土した銅鏡の同范鏡が保存されており、被葬者は三輪と鴨の共通の祖ではないかとの説があります。大田田根子さんなど。

[9651] 和同開珎と桃の種  神奈備 2008/12/07(Sun) 22:04 [Reply]
 大阪歴史博物館の8階には「歴史を掘る」と題して考古学入門の展示があります。その中に溝の模型があり、様々な土器類と共に和同開珎のコインと並んで桃の種が掘り出された状態で見えます。
 神々に供えてから捨てたものと思います。

 賽銭の風習はいつ頃からかよく知りませんが、大陸では唐の時代にあったようです。難波の宮などの市の発達から和同開珎なども流通していた可能性もあります。和同開珎を賽銭として使われたのかも知れません。

 賽銭の役割は、銭に人の穢れが移ると思われていたので、これを神社に散じて穢れを除くと言う信仰からです。これは現代でも同じです。

 遺構の中から和同開珎と桃の種が並んで出土しているのは、共に魔除けの意味で神前に供えると言う呪術がそうさせたのでしょう。

 さて、桃には何故魔除けのはたらきがあるとされたのでしょうか。桃尻娘と言う映画がありましたが、やはり天鈿女命を連想します。天鈿女命の武器は女体そのものです。桃はそれに似ているのです。

 意富加牟豆美命と言う神様がいます。伊邪那岐命が黄泉の国から脱出する際、追って来る黄泉軍を追い払うべく桃の実を投げました。伊邪那岐命は桃の実を名付けて意富加牟豆美命としました。
 この神を祭っている神社は越中国新川郡砺波郡に多く、五社之社と言う神社が幾つかあり、諾册二尊などと一緒に祭られています。
 大阪では大阪天満宮の大将軍社に八衢比古神・八衢比賣神・久那斗神・意富迦牟豆美神の四柱で祭られています。この神社は難波の宮の四方に祭られた魔除けの方位の神と思われます。

[9650] Re[9640]: 塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」  ペギラ 2008/12/07(Sun) 21:56 [Reply]
>  塚口先生の「鴨集団と四世紀末の争乱」の講義録と資料は[9616]から[9639]です。
>
> [9616] 鴨集団と四世紀末の争乱
> [9618] Re[9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱
> [9626] 鴨集団と四世紀末の争乱
> [9627] 神武と応神、日向
> [9633] 大和平定と橿原宮即位の伝承
> [9639] 神武天皇の皇后選定伝承
>

鴨探検隊としては、このような論文、本当にうれしいですよね。
葛城一族、というか後世の蘇我一族というか
渡来系?の彼らが来るまでは、葛城は鴨の世界。
そんなことを宣伝していただくのも、とても大切だと思う今日この頃。

葛城と鴨の世界で、私は、
古い時代、すでに現場が古い時代なのですが、
記紀制作期よりも古い時代、
弥生や古墳時代には、
阿治須岐宅比古尼神や八重事代主神は、葛城に全く関係ないと思っています。

鴨一族の神様は、鴨神であり、高鴨神。
阿治須岐宅比古尼神や八重事代主神は、
押しつけられたうえの保身の為ではなかろうか。
むちゃくちゃファジイな例えならば、現代の公共事業みたいな。

シンプルに日本書紀を見てみると、
『日本書紀』
巻一第八段一書第六
大國主神。亦名大物主神。亦號國作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈神。亦曰大國玉神。亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命與少彦名命。戮力一心。經營天下。復爲顯見蒼生及畜産。則定其療病之方。又爲攘鳥獸昆虫之災異。則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩頼。嘗大己貴命謂少彦名命曰。吾等所造之國。豈謂善成之乎。少彦名命對曰。或有所成。或有不成。是談也。蓋有幽深之致焉。其後少彦名命行至熊野之御碕。遂適於常世郷矣。亦曰。至淡嶋而縁粟莖者。則彈渡而至常世郷矣。自後國中所未成者。大己貴神獨能巡造。遂到出雲國。乃興言曰。夫葦原中國本自荒芒至及磐石草木咸能強暴。然吾已摧伏莫不和順。遂因言。今理此國唯吾一身而巳。其可與吾共理天下者盖有之乎。于時神光照海。忽然有浮來者曰。如吾不在者。汝何能平此國乎。由吾在故。汝得建其大造之績矣。是時大己貴神問曰。然則汝是誰耶。對曰。吾是汝之幸魂奇魂也。大己貴神曰。唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶對曰。吾欲住於日本國之三諸山。故即營宮彼處使就而居。此大三輪之神也。此神之子。即甘茂君等。大三輪君等。又姫蹈鞴五十鈴姫命。又曰。事代主神化爲八尋熊鰐。通三嶋溝■姫。或云玉櫛姫。而生兒姫蹈鞴五十鈴姫命。

この文章だけならば、
鴨と事代主神が繋がるパターンと三輪と事代主神が繋がるパターンが考えられる。
姫蹈鞴五十鈴姫は、三輪一族であるとしても可笑しくないでしょう。

三輪からは、ほぼ全くといっても良いくらい、鴨との関係をうたわない。
これは、鴨からも同じこと。

ともに一族である表現は、とりあえず、私は見たことがない。

そうですね。六国史以後の歴史上、そう作られなかった。


[9649] Re[9648][9646][9644]: 式内・己等乃麻知神社  たん 2008/12/07(Sun) 13:59 [Reply]
PONTAさん

>一、佐夜中山の南に往古本社有り。---慶長年中兵火にて焼くる。---
#このあたりと、宮城村の位置は気になるところです。
三文字屋さんは論旨?の中に物証らしきものは皆無で、単なる口碑の伝なのでしょうか。
 祀るカタチが不定から特定地へ変わった後も神体が移動するのはそれ程珍しい事ではではなく、事任八幡宮も戦国末期には神体を散在させたとの記録があるようですが。
どれが重要視されたかとか年代の特定が出来ると推理程度には発展できるかも。これが楽しいですね。

砥鹿神社の「紋」ですが
参詣した折、気になり神官に尋ねたのですが、全くコトマチヒメ忌部氏との関連は言われなく、コトノママに叶う云々でして、紋の名は特に無く「卜定(ぼくてい)」と訓んでおられるそうです。

しかし小国、砥鹿など名の知れた社がコトマチを仰ぎたいというのは、亀卜なのか本宮山に因むものか、吉田神道(足利以降本当の優位は(1635)以降)のセイか、その年代を調べるのが必要ですね。色々楽しそうです。


[9648] Re[9646][9644]: 式内・己等乃麻知神社  ぽんた [Url] 2008/12/05(Fri) 05:25 [Reply]
式内・己等乃麻知神社についてまとめました。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/tabi/nisi.htm

[9646] Re[9644]: 式内・己等乃麻知神社  ぽんた [Url] 2008/12/04(Thu) 20:50 [Reply]
調査結果

掛川市には、宮脇村(現・掛川市宮脇)と宮村(現・掛川市八坂)があり、「宮脇村」の語源は「神明社の横の村」、「宮」の語源は「事任八幡宮のある村」だそうです。式内・己等乃麻知神社のあった場所は、古宮町(現・掛川市日坂字古宮)だそうです。日坂宿を縦断する川が古宮川(現・逆川。「坂川」の意?)で、旧東海道と交差するとことにある古宮橋以西が古宮町です。

[9645] 大豆物部  神奈備 2008/12/04(Thu) 11:32 [Reply]
物部の部族で饒速日尊に武器をもってお供した人々がいます。
『先代旧事本紀』に、「天物部等、二十五部人、同じく兵仗を泰びて天降り供へ奉る。」とあり、その中に大豆物部と言う部族がいました。
 一体どこだろうかと思っていました。
今までの候補地は
近江 旧五個荘村大字大豆塚 「須牟地」考 今井啓一説
大和 城上郡豆越か 鳥越説
でしたが、広背郷も候補と思われます。
 
 広瀬神社の鎮座する広背郷に「大豆造今志」と言う者が住んでいたようです。平城京出土木簡に急ぎの呼び出し状に名があります。大豆村(まめ)がありました。今の北葛城郡広陵町安倍の付近だそうです。

 古語では「豆には元気と言う意味があるそうです。」

 チリトテチンとは豆腐の腐ったものですが、これは豆腐の病気と診てもいいでしょう。病気の豆腐にコンニャクが言いました。「早く治って下さいな。」豆腐は答えました。「治ってももう豆には戻れないでしょう。」

[9644] 式内・己等乃麻知神社  ぽんた [Url] 2008/12/03(Wed) 23:58 [Reply]
事麻知神社

 この事麻知の社、説々有り、いづれとも決し難し。字には事任とも書す。また事摩岐とも書す。當国の内六ヶ所に有り。一々に記す。一、宮城一之宮、第一に云ひ伝ふ。一、掛川の南在亀甲村に事麻知社有り。小社なり。萬福寺と云ふ寺の門前に有り。今は宮を後向きに建つ。宮前を馬に乗り通る者落馬有りしゆゑかくのごとくなすとなり。神前に「當国一宮事麻知社」と書きて有り。木燈籠有り。一、日坂八幡宮を云ふと有り。『長明海道記』に曰く、小夜中山の側なる事任社と書きたるに依りてかく云ふと見ゆ。一、塩井河原に有る塩屋権現なりと云ふ。一、『遠江名所和歌集』に曰く、伊達方村の西、牛頭村の内に社有り。諏訪権現の社、すなはち事任社と云ふ。一、佐夜中山の南に往古本社有り。大社にして神主御朱印有り。慶長年中兵火にて焼くる。誠に當国一の宮にして広大なる宮と云ふ。焼けて後に亀甲村に移すと云ふ。また、亀甲村の宮を宮城村へ移すと云ふ。亀甲村にても宮城へ今の仮宮を建て置くとと云ひ、説ひとつなり。その内この説尤もなる様に思ふなり。長明が記にもよく合ふなり。

以上、掛川市連雀の住人・三文字屋兵藤庄右衛門『遠江古蹟図絵』(享和3年(1803))より。


と、兵藤庄右衛門さんは、式内・己等乃麻知神社の6つの論社を挙げておられます。

1.宮城一之宮(宮城村)←最有力
2.當国一宮事麻知社=一之宮事任神社(掛川市亀の甲一丁目)
3.日坂八幡宮=誉田八幡宮=事任八幡宮(掛川市八坂)←根拠は鴨長明の『海道記』
4.塩屋権現(塩井河原)=塩井神社(掛川市八坂字塩井川原)
5.諏訪権現の社(牛頭村)=諏訪神社(掛川市逆川)←根拠は『遠江名所和歌集』
6.本社(佐夜中山の南)・・・慶長年中、兵火にて焼失

 論旨は、「6の本社(事麻知神社)が式内・己等乃麻知神社であり、式内社に相応しく大きな神社であったが、慶長年中(1596〜1615)の兵火で焼失したので、ご神体(ご神像)を亀の甲一丁目の一之宮事任神社(2の神社)へ移し、宮城村に仮宮が出来たので、ご神体(ご神像)を仮宮(1の神社)へ戻した。この仮宮が式内・己等乃麻知神社」ということかな。

 3・4・5の神社は、隣接していて、「日坂宿の手前(京都側)の神社」と言われても、どの神社を指すのか分かりません。
3・事任八幡宮=里宮です。本宮は向かいの本宮山にある小社です。
4・塩井神社=東海道とこの神社の間には逆川があり、普段は橋が架けられていません。祭りの日だけ橋が架かって神社へ行けます。遠江一宮・小國神社の末社の塩井神社とは別です。
5・諏訪神社=光弘卿が「ことのままのやしろ」だとして歌を詠んだ場所です。(『春の曙の記』)

*遠江一宮・小國神社は、己等乃麻知神社のご神体(ご神像)を借り、「事任神社」と名乗ることにより、遠江一宮に指定された。(「事任神社」と名乗っていたことは社記にあり。)
*三河一宮・砥鹿神社は、己等乃麻知神社のご神体(ご神像)を借り、三河一宮に指定された。一之宮事任神社と社紋が共に亀甲なのはこのためである。(「事任神社」と名乗っていたことは社記にはない。「事任」は「任事(ことのまま)」とも表記する。「新抄格勅符抄 神事諸家封戸 大同元年牒」(宝亀11年(780))に「任益神 十戸 参河国」とあるが、「任事神社」を名乗っていた砥鹿神社かもしれない。)
*遠江一宮・高松神社(掛川市高松)、遠江惣社・淡海國玉神社(磐田市見付)も式内・己等乃麻知神社の論社である。
*遠州七不思議「小夜の中山・夜泣石」は式内・己等乃麻知神社のご神体であって、夜泣松神社(廃社)を式内・己等乃麻知神社とする説あり。

で、本命の1の神社がある肝心の宮城村がどこにあるのか分かりません。宮脇村(掛川市宮脇)のことかなとも思うのですが。「宮脇」という地名からは大きな神社の存在が想像されますが、宮脇には現在は山古神社と白山神社しかありません。「宮城村の位置」「宮脇の語源」については今後の調査課題です。(掛川市は中遠であって、PONTAの調査範囲の西遠ではないのですけどね。)

[9643] Re[9642][9641]: 来年は丑年です。牛に因んだお話を。  神奈備 2008/12/03(Wed) 21:18 [Reply]
> 朝妻はやはり葛城襲津彦が朝鮮から連れてきた朝鮮の技術集団でしょうね。

 『新撰姓氏録』の山城国諸蕃の 漢 に 秦忌寸 があります。

 秦始皇帝之後で弓月王が応神天皇の十四年に百二十七県の民を率いて来朝、大和朝津間腋上の地を与えられています。
 御所市には朝妻もありJR掖上駅もあります。朝妻としますと、葛上郡日置郷そのものの地です。日置氏は『新撰姓氏録』では「高句麗の伊利須意彌より出る」とあります。百二十七県の一つだったのかも。
 いずれにしても、鴨氏の支配地域の真ん中のようです。後に山城では加茂と秦氏とは協力関係を持つようですが、この頃からのおつきあいかも知れません。

[9642] Re[9641]: 来年は丑年です。牛に因んだお話を。  とみた 2008/12/03(Wed) 11:28 [Reply]
今年もすでに師走です。小生は師でもないのに古代史の迷路に入りながら、各地を走りながらめぐっている今日この頃です。

神奈備さん、いろいろな情報をありがとうございます。佐々木さんにも多くを教えていただきました。この場を借りて感謝の言葉を述べます。日置氏の出自も確かに面白かった。
日置は鍛冶が有力でしょうね。塩を作る窯を各地に広げた民でしょうか。太陽祭祀や測量士も捨てていません。

>  葛城にいた鴨族は渡来系であったかどうかです。葛城では、赤銅の八十梟帥がいるとあります。また高尾張邑に土蜘蛛がいて侏儒(ヒキヒト)と似ていたとし、葛の網でからめ取ったので地名を葛城としたとあります。戦いが済んでから、剣根を葛城国造としたとあります。『天孫本紀』に、葛木土神剣根命と言う名で登場します。土神は「ヘキカミ」と読むようです。剣根の娘賀奈良知姫が日置姫を生んでいます。「ヘキヒメ」です。

>  葛上郡に日置郷があり、御所市朝妻付近に比定されています。銅の産地の五百家の西になります。赤銅の八十梟帥を束ねたのが剣根で、日置氏であった可能性があります。『新撰姓氏録』には、日置氏は「高句麗の伊利須意彌より出る」とあります。

朝妻はやはり葛城襲津彦が朝鮮から連れてきた朝鮮の技術集団でしょうね。

時は、4世紀末。

高句麗の好大王碑にかかれています。391年倭軍が百済や新羅を取り込もうとするのを高句麗が妨害します。400年には高句麗が洛東江の金官伽耶を攻めて滅ぼします。新羅はまだ当時は高句麗の属国です。伽耶や新羅の難民が葛城の南郷あたりにつれてこれたのが漢人四邑でしょう。ソツヒコの時代説と仁徳時代説があります。金・銀・銅ガラス鉄の製作加工職人です。須恵器は土が適さないのでやっていません(瓦を焼く場所は近くあるようですが)。サビ漢人は高鴨神社のあたりに住みます。名柄は当時は先端技術のハイテクタウンです。祭祀の道具である小銅鐸や多丑細文鏡が出ていますので弥生時代にも朝鮮人が住んでいたかもしれません。

紀ノ川上流の五条市の宇智・猫塚古墳には金銅製鋲留蒙古鉢形の眉庇付冑が出ています。

この武具を作る冑作り職人は5世紀のはじめに居ました。
金銅は金メッキですから、この技術集団も、宇智の北隣の忍海に居ました。

朝妻氏は金属加工が得意とされています。

高鴨はこれらの集団と関係がありそうです。

高鴨神社の宮司さんは、スズカ氏で高鴨周辺では5世紀中頃、鉄を製造していたといわれているそうです。

通説では日本で鉄が精錬されるのは6世紀中葉だとされていますので、高鴨地域も鉄鍛冶の段階かと考えます。

それでも新しい技術で切れ味がよかったので、味鋤=切れ味のよい鋤鍬が作られたのでしょう。

も一つ御所市に鴨津波神社があります。由緒書きにはよると、八重事代主を祭っています。カモツナミ、ャエ事代主神・・・・鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神という意味だそうです。

金剛山に源を発する葛城川が葛城山に源を発する柳田川が合流する土地で灌漑に最も適していた。

これから察すると稲作適地のようです。そこに鉄の農具が使われたのでしょうか。

鴨津波神社の墳墓跡から円筒埴輪の原型(模様に筒の丸い穴がある)が出ています。

円筒埴輪は吉備の特殊土器に由来するというのが通説でありますが御所市に古い円筒埴輪の祖形が出ているのは再考の余地があるかと考えています。




[9641] 来年は丑年です。牛に因んだお話を。  神奈備 2008/12/02(Tue) 17:14 [Reply]
『倭人伝』は、3世紀頃の列島の様子を書いているのでしょうが、「牛、馬、虎、豹、羊、鵲がない。」としています。神話では、月夜見尊が保食神を殺したたら、頭に牛馬が生じたとしています。しかし、牛が日本にやって来たのは馬より1世紀遅れの5世紀頃と言われています。

 所で、『古語拾遺』に、御歳神の祟りのお話が載っています。
 神代に大地主(おおとこぬし)神、田つくりましし日に、牛のシシをもて田人に食わしめたまいき。時に御歳神の子、その田に至(き)まして、饗(みあえ)に唾(つば)きて還りまして、ありさまを父に告げましき。 御歳神、いかりまして、イナゴをその田に放ちたまいしかば、苗の葉たちまちに枯れ損なわれて、篠竹のごとなりき。ここに大地主神、片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじかんなぎ)をして、その由を占求(うらな)わしめたまいしに、御歳神たたりをします。
 
 祟りを鎮めるべく、「牛の宍をもて溝口におき、男茎(おはせ)の形を作りて加え云々」と続きます。このお話が渡来人によってもたされたのであればともかく、葛木御歳神社の祭典にからんでできあがったとすれば、それは5世紀以降と言うことになります。

当掲示板 
[9232] ツヌガアラシトとアメノヒボコ  とみた さんから牛に関連の部分を
 (ツヌガアラシトとアメノヒボコについての)二つの話は似ているようでもあり、似ていないようでもある。若い女性が逃げてきて王子がそれを追ってきたことと、難波のヒメコソ神社は共通。両方とも牛に関係がある。殺牛儀礼に関係するかも知れません。

[8965] 牛馬の犠牲  とみた さん
 一つ気になったのは、魏志東夷伝、扶余の条に扶余でも殺牛の儀礼があったことです。

 葛木御歳神社の祭神は高照姫命(=下照姫)であり、この女神を御歳神として祭ったとの説が平林章仁著『神々と肉食の古代史』に見えます。鴨の女神に牛肉をお供えせずに先に田人に食べさせたとして御歳神が祟りをなし、さらに牛の宍で男茎(おはせ)の形を作り供えさせたのです。これは日本古来の風習ではありません。渡来人の風習と言えるでしょう。

 ヒメコソ神社に祭られている神は、『応神記』のアメノヒボコでは難波の比売語曽の神を阿加流比売神、『垂仁紀』のツヌガアラシトでは美女としています。一方、『延喜式』の名神祭などでは比売語曽神社の神は下照姫としており、共に「殺牛儀礼に関係する」と言うトミタさんの指摘は下照姫を加えて当を得ているものと言えるでしょう。

 鴨の女神が渡来系の神と見なされた事は、女神を妹とする迦茂の大神である味耜高彦根命も渡来系なのかと言う問題になります。『垂仁紀』のツヌガアラシトは、「国にいた頃、黄牛(あめうし)に農具を負わせて田舎に行った」とあり、農具と耜(スキ)との関連が見えますが、鉄製であろう鋤は最初は海外から持ち込まれたものでしょうから、切れ味のよい鋤の神格化されたものであれば、渡来系と云えないことはないでしょう。

 葛城にいた鴨族は渡来系であったかどうかです。葛城では、赤銅の八十梟帥がいるとあります。また高尾張邑に土蜘蛛がいて侏儒(ヒキヒト)と似ていたとし、葛の網でからめ取ったので地名を葛城としたとあります。戦いが済んでから、剣根を葛城国造としたとあります。『天孫本紀』に、葛木土神剣根命と言う名で登場します。土神は「ヘキカミ」と読むようです。剣根の娘賀奈良知姫が日置姫を生んでいます。「ヘキヒメ」です。

 葛上郡に日置郷があり、御所市朝妻付近に比定されています。銅の産地の五百家の西になります。赤銅の八十梟帥を束ねたのが剣根で、日置氏であった可能性があります。『新撰姓氏録』には、日置氏は「高句麗の伊利須意彌より出る」とあります。

 鴨氏の周辺には渡来人が多く住んでいます。葛城襲津彦が俘人として連行してきたのは、桑原、佐糜、高宮、忍海四邑の漢人としていますが、佐糜、高宮、忍海は葛城の地名です。これらの渡来人を葛城氏の下で実務として統率していたのが地域の鴨氏だったのでしょう。鴨氏の祭祀の中に渡来系の神事、例えば殺牛儀礼など、が持ち込まれて来たと言えそうです。

 和泉国の日置荘は梵鐘鋳造の地ですが、日置氏は往古には銅鐸を鋳造していたのかも。日置氏はそう考えますと、紀元二世紀以前に列島にいた氏族と言えそうです。そう言う意味では鴨氏の祖神に大国主神の御子の味耜高彦根命が登場して来るのもむべなるかなです。高彦とは高句麗系なのかも。葛上郡には「高」のつく神として、高鴨、高天彦がいます。まさに日置郷である御所市朝妻の1km以内です。

[8960] Re[8958][8957][8955]: 牛馬の犠牲  佐々木高久 さん
七夕の牽牛は殺牛儀礼が絡んでいそうです。
[4194] 七夕  とみた さん
宗像が機織と関係がある証拠しょう。宗像三女神の一人は織姫ということでしょうか。
男の牽牛星は、生贄の牛、つまり殺牛です。

 味耜高彦根命と下照姫命の母神は宗像の多紀理毘賣命です。さらに下照姫が兄である味耜高彦根命を紹介する歌は、
 天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル) 御統に 穴玉(アナダマ)はや み谷 二(フタ)渡らす阿治志貴(アヂシキ) 高日子根(タカヒコネ)の神そ
です。タナバタも登場です。

牛のよだれのようなだらだらした文章で、失礼いたしました。


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