神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十一年 一月 2009.1)お名前の敬称は省略しています。

[9714] Re[9713]: 気象変動と考古学  神奈備 2009/01/30(Fri) 08:48 [Reply]
> 埼玉の草加はもちろん

 ここにもクサカがありましたね。


> 神武関係地名が60m以上の土地にあるそうです。

 往古の水辺となりますね。


 産宮神社の由緒については『福岡県神社誌』のコピーを玄松子さんから頂きました。

 社説に云う。神功皇后三韓に赴かせ給ふ時、安産を祈らせ給ふ。後、皇子御降誕ませしかば報賽に百手の的射修行し給ひしと云う。其旧例とて今は二月二十五日官民等弓矢を取て儀式となす。以上。

 一方、大和の橿原でのお話。
 神武天皇の本当の墓と伝えられている丸山近辺に居住していた人々は日向から天皇についてきて天皇死後墓を守るべく住み着いたと云われています。また、神功皇后が皇子を生んだ際、世話をした人々が皇后に呼ばれて皇后の仙洞御所(離宮)を建てて、その回りに住まわせたとの伝承が残っています。
 二つの伝承が混ざり合っているのです。

 神武天皇と神功皇后、名前が似ているから混乱したとの見方があるようですが、似ているのは奈良時代の漢風諡名のことであって、元々神武さんは、さぬ、わかみけぬ、で呼ばれていたと思われますので、おそらく皇后と紛らわしいととはなかったのではと思われます。
 
 いずれにしてもどっちも歴史的事実としては存在を確認できていない方々ですが、モデルとなった人物なり事実があったのでしょうが。

[9713] 気象変動と考古学  とみた 2009/01/29(Thu) 13:03 [Reply]
環境考古学の安田喜憲先生は花粉分析による気候変動が得意ですが、厳密な気象変動(太陽活動の盛衰など)の時間的把握から見た研究を熊本大の甲元先生がされていて注目されています。

やはり紀元前800年から700年に亘り日本列島は寒冷期であった。弥生時代は歴博の炭素14法で400年ー500年ごろ遡る説が出て、弥生前期の前に弥生早期を入れました。これは正に紀元前700年ごろです。貼付サイトをご覧ください。


http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf

別の研究によります。関東の東京湾は縄文海進時代は奥東京湾が関東圏の内陸奥地に入り込んでおりました。香取の海と称する事もあります。

今の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼一帯は海でした。

埼玉の草加はもちろん、群馬の館林まで入り江がの海岸線があったようです。

学術的研究では・・・

9000年前から奥東京湾では海水面が急上昇し、海水が浸入。
6500年前から5500年前までが縄文海進が最盛期であり。館林台地の南東部まで浸入。

5500-5300年までは、その海進の後半期です。
海水面は現在より2−3m高く安定していた。

5300年前から4500年前まで海退期が始まり、1−2m海水面が下がる。その後4300年まで安定する。海退は4300年以降再び進み3500年前で終了。

以上は関東圏の東京湾近辺です。関西の河内湖ではどうでしょう。

四条畷市資料館の野島稔先生によると、7000年前までは、枚方市までは海で、弥生時代終末期から古墳時代初期までは門真市と中野市?は海であったそうです。

興味深い研究もあります。神武東遷の真偽です。真としても時代が紀元前660年は別としても紀元後1世紀、2世紀、3世期、4世紀説があるかと思います。
大和征服行路の地が現在もトレースできる。記紀の記事の地名と弥生期の河内湖地名が一致する。(たとえば長スネヒコに敗れた日下という地名は今もあります)。

同時代は大和湖標高は50−70mであり、神武関係地名が60m以上の土地にあるそうです。

小人閑居して不善をなす。

私は小人にて、閑居しながらパソコンと戯れています。

妙な話題を提供します。



[9712] 奈留多姫命  神奈備 2009/01/28(Wed) 22:58 [Reply]
筑前国怡土郡(福岡県前原市大字池田)の産宮神社の祭神は 奈留多姫命、鵜鵜草葺不合尊、玉依姫命です。聞き慣れない奈留多姫命は鵜鵜草葺不合尊と玉依姫命の間に生まれた御女です。
神武さんの兄弟は男4人とばかり思っていましたが、女の姉妹がいたのですね。

さらに、びっくりするのは、奈留多姫命が第二代綏靖天皇の母親と言う伝承がこの神社に残っているようです。父親は誰なのか由緒には記載がないようです。もし『福岡県神社誌』をお持ちの方がご覧になっていれば、『神社誌』記載の由緒を教えて下さい。

一般には、「紀」では事代主神の長女の媛踏鞴五十鈴媛、「記」では大物主神の娘の比売多々良伊須気余理比売が綏靖天皇の母親とされています。いずれも父親は神武さん。

[9711] 住吉セミナー  神奈備 2009/01/28(Wed) 13:56 [Reply]
2月2日 14時30分〜16時
住吉大社吉祥殿
住吉大社周辺の景色」−住吉八景を」めぐってー
大阪歴史博物館学芸員 伊藤純氏
聴講 二百円

[9710] Re[9709]: 葵祭  神奈備 2009/01/25(Sun) 14:50 [Reply]
 昔、アルバイトで行列の一人をやったことがあります。鉾のようなものを持ってあるきました。その時は牛馬の糞は気になりませんでした。前の方を歩いていたのかも。

 牛の屎は3日後が美味しいそうです。黄金虫はここへ卵を生みます。台湾では牛屎亀とかいて黄金虫のこと。

[9709] Re: 葵祭  どんたく 2009/01/23(Fri) 23:06 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。

京都の秋の時代祭のときも、長い行列の最後尾に馬の糞を拾う係の人が歩いて行くのを見ました。

きっと葵祭の真似をして、こういうことをやるようになったのでしょうね。


[9708] 葵祭  神奈備 2009/01/23(Fri) 17:06 [Reply]
 牛馬三十六頭が動員されて行列が行われます。祭の行列の最後尾に牛馬の糞を拾い集める係が二人いてその量はリヤカー一杯になるそうです。
 かっての天皇の大葬の牛は六頭で、行列中に糞をすることを避けるばき、訓練を行ったり、餌を考えたりしたそうです。食事に多いに気を使ったそうです。ゴマまどが効果があったとか。量がすくなく栄養価が高い? 葬儀が終わるまでは牛も従五位の位を貰ったそうです。貴族です。

 牛は草食動物とされていますが、草を食べていてよくあの肉が出来るものです。これは牛の胃の中のバクテリアが草を抄かし、そのバクテリアを牛が消化すると言う仕組みになっているからです。肉食動物と言えるのかも。

 インドでは牛の小便を呑む風習がありました。塩分摂取が目的だったそうです。

 日本の歌
  夕暮れに 牛の放尿 待つ農夫
  春疾風 尿る農夫を 牛が待つ

[9707] Re[9706][9704][9699]: 鳥居  神奈備 2009/01/21(Wed) 09:04 [Reply]
>  神奈備さん
>
>  突然思い出しました。大山崎町の山崎聖天宮の一の鳥居だったように思うのですが。とりいそぎご案内まで。
>  最近の写真も添付します。http://rakuyu.wablog.com/143.html

 ありがとうございます。桜の名所ですね。その頃、参詣したいと思います。
 最近の神社は舗装がなされており、消えてしまっているようですね。

[9706] Re[9704][9699]: 鳥居  佐々木 2009/01/20(Tue) 21:08 [Reply]
 神奈備さん

 突然思い出しました。大山崎町の山崎聖天宮の一の鳥居だったように思うのですが。とりいそぎご案内まで。
 最近の写真も添付します。http://rakuyu.wablog.com/143.html

[9705] Re[9704][9699]: 鳥居  神奈備 2009/01/20(Tue) 19:44 [Reply]
佐々木さん

> 昭和30年から40年かけて神社めぐりをした時期があり、微妙に心あたりがあったので現況を調べてみました。

 ありがとうございます。若干はそうだったかなと言うおぼろげな記憶がないわけではないのですが、一度、伊太祁曽神社の名誉宮司さんに確認してみます。


 全く違うお話です。 ニューヨークの停電。

 七夕は牛曳きと織り姫は年に一度の逢瀬を楽しむ日で、7月7日は盆の導入の日でした。奉公人が休みをもらって帰り、男女がデートをしました。妊娠すると翌年の4月8日が出産予定日となります。まさに仏様の誕生日なのです。

 なお、キリストの誕生日は冬至の日で、妊娠は春分の日となります。中東では春分の日前後に奉公人のお休みの日があったのでしょう。

[9704] Re[9699]: 鳥居  佐々木 2009/01/20(Tue) 11:09 [Reply]
神奈備さん
>『神話と民俗のかたち』(井本英一著)のP66に、「日本でも古い形式の鳥居は、左右の柱の間に祭壇である平たい石が表面をだして埋めてある。」とあります。
 本当の事かな。今まで全く気が付いていませんでした。大神神社でも石上神宮でお伊勢さんでも・・・。
 
 昭和30年から40年かけて神社めぐりをした時期があり、微妙に心あたりがあったので現況を調べてみました。
 しかし平成になって石畳を施工したり、バリアフリーの関係で段差が解消されたり、当時の印象と違うように感じました。
 当時の写真や古い山渓のガイドなども当たってみたいとは思いますが。
 
 なお昨年末?だっだか、左右の鳥居の中間は神様の通り道と小松和彦先生に伺いました(教育テレビ)が、これとはまた別のことなのでしょう。

>また、P58に、鳥居の柱の一方だけ礎石があり、もう一方は掘立柱と言うのがあるそうです。平城宮大極殿の楼閣や近くの法華寺がそうとあります。地震に強い?

 本件平城宮第一次大極殿は堅い地盤には礎石と掘立柱で、軟らかい地盤(泥炭からなる湿地の埋立地でした)は掘立柱でした。復元工事の際に柱穴に忠実に復元すると軟らかい地盤のところが傾いていたようです。

 ちなみに昨年松楠さんというお名前を見ましたが、外人でありました。

[9703] Re[9695][9694]: 毛味  神奈備 2009/01/19(Mon) 18:12 [Reply]
 伊勢神宮にも蛙にかかわる行事があります。二見浦の道ばたの岩場に参詣人が焼いた物をおくのです。
 また諏訪大社では元日、二匹の蛙を殺して食します。神は蛙を食べるのでしょう。日本の神々は縄文の流れを受け継いでいるようです。

 仏教で言う糞掃衣は死者が着ていた衣でこれは大変な力を持っているようです。四十九日後に縁者に繊維品を送るのが慣わし。キリストの屍衣も取り合いになりました。インディジョーンズも聖衣を探しにいったと記憶しています。

 死はパワーをもたらすのでしょう。

 葬儀が終了しますと祭壇は撤去されます。昔の神祭りも神を迎える屋代を造り、祭が終わると屋代を取り壊しました。護摩壇も修法が終わり次第撤去されます。産屋に火をつけるのも、同じことかも。死と破壊は再生をもたらすのです。

 この典型的なお話は天若日子の葬儀に現れます。再生したアジスキタカヒコネは喪屋を切りふせ、けっ飛ばして破壊しています。喪屋を壊すことは再生を促すことだったのでしょう。

 伊勢神宮の20年おきに建物一切を取り替えるのは、建築技術の継承のためとの通念がありますが、岡田精司さんによりますと、当初は19年おきで、太陰太陽暦では日と月が同じ出発点に戻る年数として決められたようです。死と再生の儀式に通じるようです。
 余談ですが、心の御柱の周辺には八百枚の瓦が置かれるそうで、例え根元以下が腐っても倒れないそうです。一枚一万として八百万神が支えている?

[9702] Re[9701][9700][9698][9695][9694]: 毛味  大三元 2009/01/18(Sun) 18:21 [Reply]
神奈備さん
> アイヌ語にもズとヅの区分があるのでしょうね。五十音は?甲乙の差は?
> 国樔もアイヌ語かも。

アイヌ語では、zは殆ど使われず、使われたとしてもsと同じ音韻として機能します。
ツ(ヅ)[tsu/dzu]はなく tu があり(トゥ、などと書きます) su とは違う音韻として認知されます。tu の「濁音」バージョン du もあり得るかも知れませんが tu のこととして認知されます。

「国」とアイヌ語 kuni (ku-un-i 吾・居る・所)の関係も気になってますが、今まで議論がなかったようなので(見つけていないだけかもしれないけど)不思議です。

> 話は変わりますが、屎と言う字が人名に使われています。
・・
> これは魔除けの為の命名と言う説があるそうです。これが後世には楠に変わり、南方熊楠などとなったとか。小生の祖父は松楠でした。

アイヌの習俗でも魔除けのために幼名に汚い言葉を使う例があります。糞の塊、とか、糞の付いたもの、とか。北海道で「悪魔」ちゃんという命名が問題になってましたね。結局その名では出生の登録できなかったのでしたっけ。

[9701] Re[9700][9698][9695][9694]: 毛味  神奈備 2009/01/18(Sun) 16:46 [Reply]
> あれ? クズがクニスの約 だとすると
>     クヅはクニツの約 なんて言えるのかな。

アイヌ語にもズとヅの区分があるのでしょうね。五十音は?甲乙の差は?
国樔もアイヌ語かも。


話は変わりますが、屎と言う字が人名に使われています。
用明二年 押坂部史毛屎
孝徳(白雉元年)倉臣小屎
紀貫之の幼名は阿古屎丸
他に、屎麻呂、屎子など。
これは魔除けの為の命名と言う説があるそうです。これが後世には楠に変わり、南方熊楠などとなったとか。小生の祖父は松楠でした。

[9700] Re[9698][9695][9694]: 毛味  大三元 2009/01/17(Sat) 18:14 [Reply]
神奈備さん

> 大三元さん 写真掲示板で多美さんが御著書を購入されたようです。

有り難うございます。

>  お見事と言う他はありませんね。国樔の民は縄文の民。九頭神を祭っていた?

国樔は クズ(クニスの約か、と)
九頭は クヅ という違いがあるのをどう考えるか。

あれ? クズがクニスの約 だとすると
    クヅはクニツの約 なんて言えるのかな。

[9699] 鳥居  神奈備 2009/01/17(Sat) 15:59 [Reply]
 『神話と民俗のかたち』(井本英一著)のP66に、「日本でも古い形式の鳥居は、左右の柱の間に祭壇である平たい石が表面をだして埋めてある。」とあります。

 本当の事かな。今まで全く気が付いていませんでした。大神神社でも石上神宮でお伊勢さんでも・・・。
 気がつかれて写真でも撮っておられる方は神社名を教えて下さい。

 また、P58に、鳥居の柱の一方だけ礎石があり、もう一方は掘立柱と言うのがあるそうです。平城宮大極殿の楼閣や近くの法華寺がそうとあります。地震に強い?

 なお、上記書物には鳥居の左右の柱の太さが違うものがあるとしていますが、一本の木から左右の柱をとる場合、当然そうなるのは不思議ではありません。

[9698] Re[9695][9694]: 毛味  神奈備 2009/01/17(Sat) 15:58 [Reply]
大三元さん 写真掲示板で多美さんが御著書を購入されたようです。

> なお、アイヌ語で考えてみると mo-mim で「小さい・肉」となり、鹿などに較べて確かに小さく、これであろうか、と思ってます。

 お見事と言う他はありませんね。国樔の民は縄文の民。九頭神を祭っていた?

 天武天皇の吉野での窮地を救った国樔の翁とは吉野や宇陀にいて天武天皇を美濃へ案内した大伴榎本大国とつながっていたのかも知れないと思っています。

[9697] Re[9696][9693]: 綾杉文の謎、続いて出雲街道の謎  佐々木 2009/01/17(Sat) 10:52 [Reply]
 とみたさん
 
 楽しんでおられますね。

 形態で比較する場合は、集落遺跡と古墳の形態変化過程を比較しながら進めるのがよいのではと昨今は思うようになりました。まだ資料収集のみで逐一当たっていません。
 また古墳については副葬品も備考されると核心にせまることができるような印象をもっています。
 なお土木工学の立場で見ると丸い方が、その後補修等が少ないのかなと見ています。
 四角や丸は昨今の車のデザインを見ていても、一定の周期性が見えますね。
 
 最近和田晴吾先生はどのような見解で、古墳石材学の奥田尚先生の成果も勉強できれば、面白いテーマだと思います。とりいそぎ感想ですが。

[9696] Re[9693]: 綾杉文の謎、続いて出雲街道の謎  とみた 2009/01/17(Sat) 10:06 [Reply]


佐々木さん、どんたくさん本年もよろしくお願いします。またいろいろと謎を解きたいですね。お知恵をお貸しください。

最近仕入れた謎を提供します。私はセミナーや本で仕入れた謎を出しますので、神奈備さんにも頂きたいです。

> とみたさん、遅まきながら、あけましておめでとうございます。
>
> >柳沢遺跡の銅鉞(金偏がない)に興味を持っています。
>
> 「銅鉞(金偏がない)」とは「銅戈」のことでしょうか?
>
> どうかな?
変換で出てこなかったので、代用しました。

出雲街道の謎です。

新納泉(にいろいずみ)先生は、岡山大の考古学専門家です。

東出雲には、方墳が古代から継続してあります。

方墳は、北方系の高句麗に特に積石方墳が元だとされています。

考古学の土生田純之先生も、高句麗は積石塚方墳のルーツとされています。

5世紀後半(475年)、高句麗が漢江(今のソウル)にいた百済の本拠を落として進出して以降、円墳に代わるそうです。

新泉先生は、東出雲ー津山盆地ー西播磨の所謂、出雲街道が高句麗の方墳文化を持った集団の進出の道とされています。そういえば播磨・讃岐は積石文化圏です。

私の調べでは、瀬戸内海海岸沿いの揖保川河口の西側に兵庫県御津町の綾部山39号墳
は石囲い石槨木棺(石囲い木槨木棺かも)です。

讃岐の萩原古墳や大和纏向のホケの山古墳と同じタイプでしょうね。

3世紀の墓でしょうか。

揖保とか播磨では、後になると天日矛と伊和神社の勢力が鉄を争っています。天日矛は但馬に逃れて出石の地に落ち着きます。

播磨では神社が物部とか射楯とか兵主とか神社が込み入っています。

銅鐸や神社や古墳やらいろいろ調べるととても面白いテーマだと思いますが・・・・

お知恵を貸してください。


>
>

[9695] Re[9694]: 毛味  大三元 2009/01/17(Sat) 09:37 [Reply]
神奈備さん

蛙を煮たのを上味(よきあじ)とし、名づけて毛瀰(もみ)という、ですから、それ(上味の蛙)がない食事はおいしくない、ということなのかと思います。

なお、アイヌ語で考えてみると mo-mim で「小さい・肉」となり、鹿などに較べて確かに小さく、これであろうか、と思ってます。

[9694] 毛味  神奈備 2009/01/16(Fri) 17:59 [Reply]
 『広辞苑』に、「もみない」、「もむない」と言う言葉があり、意味は「美味しくない、まずい」のようです。そうしますと、「もみ」は美味しいなのでしょうか。

 『応神紀』に、天皇が吉野の宮に出かけた際、国樔の人達が濃い酒を献上し、歌を歌ったとあります。国樔の人の日常の食事は山の果実やがま蛙の煮物のようです。がま蛙の煮物を毛瀰(もみ)と言うとあります。うまく味を付けたがま蛙の煮物はもみないものではなかったということ。

 天武天皇を祭神とする浄見原神社の旧正月十四日の国樔奏の神餞の一に蛙があります。『応神紀』のお話は天武天皇にそのようなことがあったのかも。

 インドネシアのソティは蛙の足の焼きものだったと記憶していますが、これも美味しかったのです。

[9693] Re: 綾杉文の謎  どんたく 2009/01/16(Fri) 00:05 [Reply]
とみたさん、遅まきながら、あけましておめでとうございます。

>柳沢遺跡の銅鉞(金偏がない)に興味を持っています。

「銅鉞(金偏がない)」とは「銅戈」のことでしょうか?

どうかな?


[9692] Re[9690]: 国宝神輿 鞆淵八幡  神奈備 2009/01/15(Thu) 22:46 [Reply]
> 本文では 重文となつていますが、大阪、誉田八幡の神輿「鎌倉時代」と共にs31.6に国宝指定されています。

お知らせありがとうございます。
住所につきましてはおいおい直そうかなと思っています。    

[9691] Re[9689]: 綾杉文の謎  佐々木 2009/01/15(Thu) 19:47 [Reply]
 とみたさん
 お元気そうでなによりです。
 高野女史は野々口姓も使用されるので混乱します。
 たとえば下記の文献では野々口姓です。
http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/kenkyu/kiyo37/takahasi37.pdf
 土器については、向日市文化資料館の中塚先生が大家だと伺っております。  http://www.city.muko.kyoto.jp/shisetsu/shiryokan.html
 丹後久美浜については阪大の福永伸哉先生が市史関係でまさに調査途上とのことです。ご案内まで。



[9690] 国宝神輿 鞆淵八幡  玉住 榮宏 [Url] 2009/01/15(Thu) 18:43 [Reply]
はじめまして 鞆淵の玉住 よしひろです。

本文では 重文となつていますが、大阪、誉田八幡の神輿「鎌倉時代」と共にs31.6に国宝指定されています。 宝形神輿のわが国最高峰とNHK放映。
国宝ガイド本でも紹介されています。  住所も 紀ノ川市中鞆淵となつていますのでよろしくお願いいたします。    

[9689] 綾杉文の謎  とみた 2009/01/15(Thu) 12:44 [Reply]
皆様、少しご挨拶が後れました。新年おめでとうございます。

今年は、未曾有の不景気で大変な年になりそうですが,このコーナーで元気の気を頂こうと思っておりますのでご厚誼のほどよろしくお願いいたします。

くずさん、柳沢遺跡の銅鉞(金偏がない)に興味を持っています。九州型と大阪湾型ですね。

場所は、信州、千曲川が善光寺平で犀川と合流して信濃川となり日本海に流れ込むその中流域でしょうか。温泉地の湯田中と小布施(葛飾北斎で有名)の北ですね。

私は、九州型の綾杉文に関心があります。

これは、山口県周防灘周辺に特徴的に見られる貝柄施文土器にはよくついている文様です。

集団のトーテムというか、シンボルなんでしょうか。山口県響灘(土井が浜のある)や福岡県・大分県の周防灘にも綾杉文土器が出土しています。

丹後の久美浜(海部の本拠)にも、北摂津の猪名川の田能遺跡からも綾杉文土器が出ています。大和の唐古・鍵遺跡からも出ています。

手焙形土器は弥生期後半から古墳時代初期の祭器用土器ですが、吉備の足守川流域の楯築墳丘墓に綾杉文土器が出土します。

楯築は、やはり丹後や大和に大いに影響しているはずです。

この地の特殊器台土器から大和の円形埴輪が出てくるわけで、いろいろな文様の走りがついています。

出雲の荒神谷から出た銅矛には綾杉文がついています。佐賀県の工房でできたという説もあります。

京都府埋蔵文化センター在籍?の高野陽子先生の説をご紹介します。

弥生初期は、日本海沿岸に沿って交易ルートがある。弥生期中期から瀬戸内に吉備の祭祀性の高い土器が丹後に流れている。弥生時代後期には、

丹後は西出雲とつながり、東出雲は越と交流が深まる。山陰東部から越への土器流入が顕著のようです。

私は神社研究と文献をこのコーナーで教えていただきながら、考古学研究を抱き合わせて今年も進みたいと思っております。










[9687] いやよいやよも  神奈備 2009/01/13(Tue) 10:46 [Reply]
 和歌山の御坊市の東端に熊野(いや)と言う場所があり、熊野(いや)神社が鎮座しています。出雲からの勧請と言われていますが、出雲の熊野大社はクマノだと思いますが、出雲には他に揖夜神社が鎮座、言屋社とも書いたようです。御坊の熊野神社には出雲の熊野大社から紀伊の新熊野に勧請する途中、当地にとどまったとの由緒です。新熊野とは南紀の新宮付近と思われます。
 なお、かっての大塔村にも熊野(いや)地名があり、弥谷(いや)とは四面山嶺重畳せる谷の意との説明が『続風土記』にあります。出雲の揖夜神社付近の地形には該当していないようです。
 余談ですが、阿波の国の祖谷もイヤです。美馬郡の属しています。ここにも式内社の伊射奈美神社が鎮座、出雲との関連を思わせますし、また四面山嶺重畳の気分もあります。

 さて、和歌山の御坊の熊野の西の海岸沿いに塩屋(シオヤ)と言う地名があります。ここの海岸から熊野神が上陸と伝わっています。塩屋と熊野、ヤムヤでありエンヤで、シオヤではないのですが、出雲の塩冶神社(鹽冶比古神社)の名が思い起こされます。

紀州                   出雲
日の岬の付け根のところに岬神社      御碕神社
吉原                   葦原 葦原中国
薗浦                   ソノの長浜
塩屋                   塩谷(エンヤ)
塩屋の奥に森               国譲りの会議をしたところが森郷
熊野イヤ                 揖夜神社・熊野神社
伊弉冉命の墓所の花窟神社         伊賦夜坂・揖夜神社

 出雲から多くの人々が紀州へやって来たように思われます。

[9686] 鶴田村  神奈備 2009/01/11(Sun) 14:53 [Reply]
畦前さん、激励ありがとうございます。幸い、素晴らしい方々に投稿していただいています。


> 鶴田村

 谷川健一さんの『白鳥伝説』によりますと、物部氏は白鳥を祖先と考えていたとしています。この場合の白鳥とは色が白かったらよかったのかも。鶴でも己が詐欺と呼ばれていることに気が付いていない鷺でも。

天照神社の由緒
 当社は天照国照彦火明玉饒速日命を天照神と奉称して祭れる社にして三代実録大日本史筑前続風土記等多くの古書に所載せるが如く古より地方祟敬の中心たり。後世に至りては八幡大神外三座を相殿に配祀す。そもそもその鎮座は遠く人皇第十一代垂仁天皇の十六年本町笠城の山上に奉祀せるに始まり後允恭天皇御宇宮殿を山麓千石穂掛谷に移し淳和天皇の天長五年更に明野の里に遷し奉る今の脇野是なり。陽成天皇元慶元年御贈位の事有り。花園天皇延慶元年(1308)神託によりて今の社地鶴田鶴栖の里に遷し奉る西国探題惣政所玄朝社殿を造営し社領神田を献す。後粥田庄の制なるに及び当社をその総廟と定めらる。

 中世のこの時代でもこのような神託を受け、遷座を行うとは、物部の物部たる思いが強かったような印象を持ちます。

 上記の本によりますと、天照神社は六ヶ岳の南麓ですが、東北には剣神社が鎮座、別名を倉師大明神と言うそうで、これが鞍手郡名のルーツ。

[9685] はじめまして!すばらしい論議に感激です!  畦前 一条 2009/01/10(Sat) 12:43 [Reply]
はじめまして、どうしても自分がやっと見つけ出した持論を展開して、いつの間にか論戦から憎しみのこもった言い争いのような事には、へきへきしていました、確かにしゃべり言葉ではなく、そんなにきつい言い方ではないのですが、気がつけば
書き言葉できつく聞こえてるのかということが発端のような書きなぐりやいも見てきました、実につまらないことです。歴史を知ること追求(求道とも思える姿)することは、地域を知ること自分を知ること、そしてそれぞれがどの様に展開されて
行くかという、すばらしい地域づくり、ひいては日本創りになります。どうか、このまま、すばらしい求道とも思える歴史の展開をされることを、楽しみにしています。

[9684] Re[9683][9682]: 阿田賀田須  郭公 2009/01/10(Sat) 00:28 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございました。
  
 年末は、福岡から(前原の宇美八幡そのほか)山陰を鳥取まで走ってきました。
 石見一宮の物部神社。
 ご神紋は太陽を背負った「ひおい鶴」。
 鶴といえば、鞍手郡宮田町の天照宮も、鶴の住むところに遷りたいと、この鶴田村に遷座されたそうで、物部と鶴、縁がありそうです。

[9683] Re[9682]: 阿田賀田須  神奈備 2009/01/09(Fri) 14:45 [Reply]
>  「筑前国続風土記」 ○神湊に、
> ・昔此所の産神。津賀計志(つかけし)大明神の社有。祭礼九月七日。市杵島姫を勧請すと云。
>  
>  あいにく専門資料は持ち合わせていませんが、図書館で確認できるかと思いますので、阿田賀田須を祭神とする出典を教えてください。

神社本庁発行の『平成祭りCD』から引用しました。

櫛田神社 石堂神社,境内社・主神,吾田片隅神,福岡県福岡市博多区上川端町1-41,筑前国 那珂郡
宗像大社 津加計志神社,境内社・主神,阿田賀田須命,福岡県宗像郡玄海町大字田島2331,筑前国 宗像郡
氏八満神社 中殿神社,境内社・主神,吾田片隅命,福岡県宗像郡玄海町大字田島2241,筑前国 宗像郡
大都加神社 主神,阿田賀田須命,福岡県宗像郡津屋崎町大字生家1912,筑前国 宗像郡

[9682] 阿田賀田須  郭公 2009/01/09(Fri) 10:57 [Reply]
 神奈備さん、いつも拝見しています。今年もよろしくお願いします。

 神奈備さんのHP、和邇坐赤坂比古神社に、阿田賀田須命を祀る神社として、
福岡市博多区 櫛田神社摂社石堂神社「吾田片隅命」
福岡県宗像町玄海町 宗像大社摂社津加計志神社「阿田賀田須命」、氏八幡神社摂社「吾田片隅命」
福岡県宗像郡津屋崎町 大都加神社「阿太賀田須命」

 とあります。

 昨年末、ぜひ一社でも見ておきたいと、知り合いに案内していただいて福岡・神湊の津加計志宮へ行ってきました。
 海傍の高台にありました。
 地元の漁業組合が主な氏子さんのようです。
 由緒を書いた看板は見当たりませんでした。

 「筑前国続風土記」 ○神湊に、
・昔此所の産神。津賀計志(つかけし)大明神の社有。祭礼九月七日。市杵島姫を勧請すと云。
 
 あいにく専門資料は持ち合わせていませんが、図書館で確認できるかと思いますので、阿田賀田須を祭神とする出典を教えてください。
 お手数ですがよろしくお願いします。

[9681] 太秦  神奈備 2009/01/08(Thu) 20:55 [Reply]
 『旧寝屋川市誌』を見ていましたら、雄略天皇が秦酒公が分散していた秦の民を心配しているのでこれをまとめて酒公に与えたら、庸調の絹織物を積み上げて奉じたので姓として禹豆麻佐(太秦)を与えた記事を引き、これを京都の太秦のことと記述していました。

 雄略期は古墳時代中期の5世紀後半にあたりますが、京都の太秦付近の古墳などの遺跡は6世紀以降のものが多く、一方、寝屋川市太秦(茨田郡幡多)には5世紀代の古墳も出土しており、渡来系の遺物も出ています。遺跡からは馬や牛の歯なども出ているようです。

 応神期(5世紀前半)に秦氏の祖(記: 秦の造の祖、紀:弓月君)が来朝しており、次の仁徳期には、茨田提、難波堀江、誉田山古墳の造営などの大きい土木工事がなされており、秦氏の土木技術が活用されています。馬や牛を利用していたかも。

 山城の秦氏は陰が薄い時、茨田郡幡多に住んでいた秦氏が多いに王権に貢献しており、太秦の姓を貰ったのは茨田郡幡多の秦氏と考えられます。
 『旧寝屋川市誌』はお国自慢の出来るチャンスをみすみす失っているようです。

[9680] 備前の新羅  神奈備 2009/01/06(Tue) 19:53 [Reply]
 初詣に備前の牛窓神社に参詣。ここの岡崎宮司さんはかってNHKのラジオの深夜便に登場し、神社やどのついて様々なお話をされた方。

 この牛窓については、『備前国風土記』に、「神功皇后が備前の国の海上を航海している時、大きな牛がいて船をひっくり返そうとした。その時、住吉明神が老翁の姿となって現れ、牛を投げたおした。故にその所を名付けて牛轉(まろび)と言った。訛って牛窓になった。」とあります。

 『続日本紀』の天平十五年の記事に、「邑久郡の新羅の邑久浦の浜に大魚五十二匹が打ち上げられました。長さは二丈三尺以下一丈二尺以上で、皮の薄いことは紙のようで、眼は米粒のように小さく、鹿の鳴くような声を出します。」
 この記事の邑久郡の新羅の邑久浦とは錦海湾で師楽湾沿いと思われます。新羅からの渡来人が住んでいたものと思われます。

 この二つの資料から殺牛儀礼が浮かび上がってきます。元々日本にはなかった牛、ましてやこれを殺して神に捧げると言うのは渡来人の持ち込んだものです。『三国史記』に、豊作であれば牛を生贄として祭を行ったとあるようです。

 牛窓は摂津の住吉大社の真西にあります。また牛窓には神功皇后の伝承が残っています。こしかけ石とかともづな石が伝えられています。これらが総合されて『備前国風土記』の記事が出来あがったのでしょう。

[9679] 本年もよろしくお願いします。  mai nakahira [Url] 2009/01/03(Sat) 22:11 [Reply]
神奈備さま、皆様、
あけましておめでとうございます。

皆様のおかげで、いつもいろいろ勉強させていただいています。
本当に、ありがとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いします。

「とみたさま」がいらっしゃっているので、便乗して書き込みさせていただきます。

最近、出雲の古い社家にのこる伝承を読んでいるのですが、
丹波のことがいろいろ出てきました。
やはり紀伊とも関係があるようですが、検証するのはかなり難しいです(苦)。

[9678] 今年ももよろしくお願いいたします。  神奈備 2009/01/02(Fri) 16:17 [Reply]
年賀の書き込みありがとうございます。

 熊野を始め津島神社、八坂神社、熱田神宮、高野山、手向山八幡宮、日吉大社などでは牛王護符(牛玉護符)が配付されていたようです。殆どは病疫退散のお守りですが、熊野は誓約のお守りとなっています。『義経記』の腰越状に、「諸寺諸社の牛王宝印の裏を以て・・」と誓いの言葉を書いています。

 牛王護符特定の信仰や神名に関連しているようには見えませんが、熊野、津島神社、八坂神社などからは牛頭天王が連想されます。と言う意味で、牛王とは、牛頭天王の略と言う説が有力ですが、牛玉となっている護符もあるようで、牛頭天王信仰に玉信仰−神秘的な力をもつ摩尼宝珠・如意宝珠への信仰−を加えたものとの見方もあります。

 熊野の場合、烏で文字を描き、宝珠の朱印が左右に押されています。牛と玉、この二つが揃った神話として、難波の比売語曽社にまつわるお話があります。

 『垂仁紀』に、「怒我阿羅斯等が、国にいたとき、黄牛(アメウシ)に農具を背負わせて田舎に行った。所が黄牛は急にいなくなった。村役人が殺して食べてしまった。牛の対価に村に祀っていた神を求め、白い石を貰った。白い石はきれいな娘になった。この娘は難波に至って比売語曽社の神となった。」という記事が載っています。

 また、『応神記』には、「阿具沼の辺で女が日光で孕み、赤玉を生んだ。これを貰った農夫が天日矛に牛を殺して食うと疑われ牢屋にいれられた。それで赤玉を天日矛に贈り許された。赤玉は美麗な嬢子になり、妻としたが、嬢子は吾が親の国へと行って、難波にとどまった。比売碁曽の社に坐す阿加流比売神と言う。」と言うお話が載っています。

 これらのお話に牛と玉が登場します。比売語曽神は天照大神の原形ともされており、また豊穣の神の豊受大神の原形とも見ることができます。

 玉の太陽、牛の豊穣、牛王護符の基本は実に基本的な祈りにあったようです。

[9677] 謹賀新年  韓国と音楽を愛する男 2009/01/01(Thu) 17:47 [Reply]
新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
兵庫県加古川市居住の韓国と音楽を愛する男ですが、この掲示板に書くのは初めてです。
加古川の泊神社は、僕が毎年初詣に行っています。
2007年に能舞台と売店がリニューアルされ、以前東側にあった売店は南側に移転しています。
古い能舞台は老朽化が激しく、末期は立ち入り禁止になっていただけに、大祭にあわせてリニューアルしたものと思われます。
神奈備さん、常連の皆さん、これからもよろしくお願いします。

[9676] 新年  赤ずきん 2009/01/01(Thu) 08:14 [Reply]
明けましておめでとうございます^−^
楽しく拝見させていただいております^^
今年もよろしくお願いします^^


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