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掲示板のログ(平成二十一年 三月 2009.3)お名前の敬称は省略しています。

[9772] 直江兼続  歌う カエル 2009/03/31(Tue) 20:42 [Reply]
兼続ですが・
NHKのドラマの設定では 出生は 樋口の子となってましが、
岡谷繁実の「名称 言行録」上巻によれば、
樋口の実子ではなく 越の長浜の近くの 代官の その又 下司の息子が
樋口の養子となった・・ラシイ・・
と・すれば
その後 又 直江に・・・

姓が 三度 変わっている事になるんですが・・
真偽 疑えばキリが無い 真実は サダカ では無い。
真実 事実 現実・・比較すると
一番 新しく 且つ 多くの人々が 信じる現実が
全てを 塗り替えて しまう。

なんだか・なぁ〜・!
真実なんて 大して 意味が無いとは・・

文化文明・歴史・芸術作品の価値・・一体 何ぁ〜んんん・・???
シーザーが殺された直後 ブルータス アントニオ が 演説をするが
民衆の支持は その度に変わる

確かなことは ゼロ のみ・・??
難しく考えたら 空しい

今は 今 遊べや 遊べ 遊びや せんとて 生まれけん
何でも 良いから その時 その時 夢中になってれば・
その内 眠るでしょう 多分

愛・・あこがれ 夢の中
愛は 恋よりも 清らか・・
鮎の棲む水 鯉の棲む水 BODの 差
それに しても・・
風変わりな 愛の 前立て 実に エエ 感じ・・です ネ 

[9771] Re[9770][9768]: 日本書紀私記  かたばみ [Url] 2009/03/31(Tue) 19:19 [Reply]
師の説として(中国の)梁の寳志なる僧が「東海に姫氏国あり」という、倭国とはこれなり・・ですね。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn59.htm

姫氏(祖は遊牧民の羌族らしい)は呉太白の姓であり、神武の祖は呉太白である、の論の源がこのあたりにあるのでしょう。
(推論の過程は別にして、天孫降臨の親の天之忍穂耳尊は「前漢時代の長江付近の呉の王族」とみています)

この問答の先生は「姫氏」はご存じないようで、天照大神や神功皇后をひっぱりだした。
落語の大家と八五郎の問答と大差ないなあ(^^;

なお、戦国時代の山東半島付近に紀氏がありますが、箕子朝鮮の箕子や姫氏と通じるかどうかについてはいまのところ何とも言えずです。

[9770] Re[9768]: 日本書紀私記  神奈備 2009/03/31(Tue) 16:29 [Reply]
> 国史大系8/吉川弘文館(デマンド復刻版)のなかの日本書紀私記(日本紀私記零本)をざっと眺めてみました(漢文につき眺める程度)。

 神武天皇と呉の太伯との関係、太伯は姫姓。

 『日本書紀私記』のお話として、『日本の古代1倭人の登場』に、日本を姫国と言うのは何故か? 答えは「天照大神や神功皇后が女帝だったから。」だそうです。

 姫姓とは紀姓のこと、そうしますと紀氏と天皇家とは親戚だった。殷の忠臣の箕氏が(キシ)朝鮮に封じられたとあり、これが素盞嗚尊の姓とすれば、キシは一方は天忍穂耳の姓となり、もう一方は素盞嗚尊−五十猛神を経由して紀州の紀氏につながるのかも。

[9769] Re[9767]: 感謝カンゲキ  神奈備 2009/03/31(Tue) 16:29 [Reply]
九鬼光志 の 部屋
http://plaza.rakuten.co.jp/khojikuki/diary/
http://plaza.rakuten.co.jp/utaukaerru/diary/

愛染明王は第六天魔王でもあるようです。その「愛」の字が直江兼嗣の兜の字。

[9768] 日本書紀私記  かたばみ [Url] 2009/03/31(Tue) 11:44 [Reply]
国史大系8/吉川弘文館(デマンド復刻版)のなかの日本書紀私記(日本紀私記零本)をざっと眺めてみました(漢文につき眺める程度)。

倭国に南北に二つがあるというのはなにか、なんて質問に先生が答えていますが、あいまい(^^;
(自論では(^^; 神武が生まれた鹿児島の奴国と神武が九州統一して北九州に建国した奴国があるからだぞよ)
邪馬臺国、耶靡堆国などいろいろ文字があるのはなぜか・・先生考えるに、倭の音による文字化だからであろう・・
(じゃ邪馬壹国はなにか・・)
日本の歴史書の始めはなにか・・先師の説は古事記であるが、私が考えるに先代舊事本紀(上宮太子撰とある)である(史書の形になっているかららしい)・・

今わいわい言われていることが平安初期?にすでにわいわいのようで、当時の考え方がうかがえてなかなか面白いです。

別の私記(漢風諡号あり)は人名等の文字に読み仮名を付した覚えであり、大己貴命オホアナムチ、空国ムナシキクニ、高倉下(タカクラ)ノモト、祈狩ウケヒカリ、姥津(伊豆)などなど。

[9767] 感謝カンゲキ  歌う カエル 2009/03/31(Tue) 07:42 [Reply]
感謝 感激 飴 アラレ オカキ 煎餅・・・
歌うカエルは 煎餅のPNで ブログを持ってますが
正式なPN は 千兵衛 です。 クッキーでもありますが
九鬼光志と 書きます つまり クッキー麹・・ん・ま
早い話が・・小路千兵衛 又は 九鬼光志です。
ん でも 内容は 無い様な もん です。

正体を明らかに せんと 失礼かと 思った もん で・・

・・・・・・・・・・・・・・

竹も南からですか 元々 自生していた と ばっかり 思ってました。
もしも 竹が無かったら・・
光秀は 今でも 健在?

なれ寿司は平気です。が ひょっとしたら・魚醤(字が違うかも・?)も かなあ?

弥生時代 大阪南部の信太山駅 富木駅の 部族も 魚醤を作っていたらしい。
と すれば 富木のヒミコも 辛党だったのかも?
ま 慣れたら旨いから 慣れ寿司???

兎に角 メッチャ ありがとう御座いました。

[9766] Re[9765]: 平野区 盾原神社  神奈備 2009/03/30(Mon) 20:53 [Reply]
歌う カエル さん、もう少しで賑やかな季節になりますね。

 北限、面白いテーマです。
 
 縄文時代以前として南方の影響とは具体的に、竹、ゴボフラ貝、発酵食品などを考えてみましたが、ゴボフラ貝は弥生時代には南西諸島との交易があったようです。北海道の伊達市の有珠モリシ遺跡からも出土しているとのこと。

 竹は今多いのが孟宗竹、これは江戸時代に入ってきて猛烈に繁殖。それ以外では真竹など、青森にまで行っているそうです。竹は根は伸びていって増殖します。一挙に遠い処に行くには人間が根を運んでやる以外にないとのこと。いつ頃、青森まで行ったのでしょうか。有用な植物ですから、率先して移植していったのでしょう。

 発酵食品も南方系です。和歌山には「なれずし」があります。飯の柱に鯖を置き、葦の葉でぐるぐる巻きにして桶につけ込みます。一月ほどしますと鯖が乳酸菌発酵してすざましい臭いと美味しい鮨ができあがります。近江の鮒鮨、富山にもあるようです。


南限

アラハバキを例示されていますので、とりあえず。

 この神の分布は三河以東以北が中心で東北が多いようです。蝦夷の神と言えるのでしょう。
 西日本では大阪摂津の四天王寺の鎮座地の旧名は荒墓邑、荒れた古墳でもあったのかも知れませんが、なんとなくアラハバキに通じるようにも。
 出雲にはいたようです。出雲はズーズ弁の土地でもあり、東北と同族のようです。佐太神社にあらはばきの門があったとか、阿羅波比神社と言う神社も鎮座、思わせぶりですね。
 アラハバキの神の存在の仕方として客神社に置かれる場合が多いようで、またこの神社の祭神が稻背脛や足摩乳、手摩乳と言う出雲ゆかりの神が見られます。

[9765] 平野区 盾原神社  歌う カエル 2009/03/30(Mon) 16:31 [Reply]
こんにちわ 安近短で ウロウロ してます。
鶴橋の 赤留姫 と 平野の盾原神社 十種神宝・・
兵主・・兵庫県・・判った様な 解らない様な・・
ぼんやり して イマイチ

半島からの影響を受ける以前 徐福渡来以前
スンダランド 沖縄 等 南方からの渡来があったと聞きますが 北限は
何処と思われますか?

それに・
北の部族 アラハバキ等の 痕跡の 南限は どの辺りでしょうか?  

気になる・・知りたい と言う事は 一体 何んでしょうか ?

[9764] 岩橋千塚古墳群 いわせ  神奈備 2009/03/28(Sat) 20:28 [Reply]
 紀伊の国の古墳は圧倒的に紀氏のものと見られています。それでも紀氏の最初の古墳は5世紀に現れ、それも大阪の泉南の淡輪古墳群にあります。

 次ぎに紀の国の加太の近くの木ノ本古墳群で5世紀半ば。5世紀末には大谷古墳群。

 この近くに7棟の高床式の倉庫群が発見されており、これは難波の法円坂の16棟の古墳群の少し前になります。床の下の大きい甕がいくつか置かれていたようで、油を入れていたのか米をいれたのか、中身はわかっていないようです。

 6世紀〜7世紀にかけての紀氏の首長クラスの古墳が岩橋千塚古墳群の峯の上に分布しているようです。古墳は厚さ数センチの緑泥片岩の石片を高く積み上げて作られております。所々に石梁として幅数拾センチ厚さ数センチの長い石が平たい棚のように両側の壁に突き刺さっており、これは倒壊防止の役立っているそうです。次代が降ると、その石が縦になります。

 紀伊風土記の丘と命名された史跡公園のようになっており、散策道でもあります。至る所に小さい古墳があり、ほぼ千の塚があるそうです。円墳で中央が落ち込んでむき出しになっているものもありました。

 知事塚、群長塚と言う名の古墳があります。明治維新後の和歌山県知事や名草郡長が率先しておおっぴらな盗掘をしたのでその名が付いているそうです。紀伊は御三家だったので、薩長の者がやって来たのかも。堺の仁徳陵も堺県知事が盗掘。ボストンでしたか海外に売ったとか。

[9763] 祭祀遺跡  神奈備 2009/03/16(Mon) 17:04 [Reply]
 大阪歴史博聞館の講座で「祭祀遺跡から見た日本人の心性について」と云う題での講座がありました。一時間少々の講座だったので、語る方も聞く方も不満が残る内容だったのですが、池上曽根遺跡から出土した鳥の形をした出土品に話が及んでいました。

 この遺跡は弥生中期のものです。鳥は死者の魂が他界へ行くのを助けると云う心性が育っていたのでしょう。

 敏達天皇の誄の際、蘇我馬子は「雀鳥の如し」と物部守屋に言われ、守屋は「手足を震ひて」誄を行っています。守屋の場合、タマフリとされていますが、殯宮での誄の場合、もはや再生の呪術ではないでしょうから、鳥の動作を真似て魂を他界へ運ぶ所作をのようにも見えます。

 天稚彦の葬儀の際には雀が舂女(供える米をつくる女)を演じています。守屋の震えたのは泣く真似か掃除の真似をしたのかも。

 『記紀』が書かれたのは7世紀後半をくだらないでしょうから、約700年間は魂が他界に行くのを鳥が助けると言う信仰は続き、また対馬では墓に棒の上に鳥の模型を置く風椎が最近まで残っていたようです。

[9762] 竹、竹、竹が生え。  神奈備 2009/03/14(Sat) 11:15 [Reply]
隼人のルーツは南方系の海洋民と云うのが通説のようで、頷けるところが多いようです。
海洋民が気にするのは潮の満干であり、これは月によってもたらされるもの、そういう意味で山城国綴喜郡で隼人が祀る神社が月読神社。郡名の綴喜も筒木で竹を意味したのかも。

南方系の海洋民というとインドネシア・インドシナが思い浮かびますが、竹文化の地でもあります。それが、南九州での記紀神話に竹の呪術話が載っています。

『古事記』では、鹽椎神が玄櫛を投げると竹林が出来たお話。これで無間勝間の小船を造り、山幸彦を入れて海神の宮へとどけました。
『日本書紀』「木花開耶姫、其の棄てし竹刀、ついに竹林と成る。そのを名付けて竹屋と言う。」とあります。
『薩摩国風土記』ニニギ命は竹屋村の竹屋守の娘を召して二人の男子を産ましむ。臍の緒を竹刀で切りました。

養老律令「隼人司」では、隼人の役割に竹笠造があり、近江、丹波、紀伊の隼人の仕事のようです。

ここからは隼人と関係のない話です。
竹と穢れの関係。
 籔とは入ってはいけない聖域のこと、藪医者にはかかるまいぞ。
 穢れを竹で囲うのは、竹矢来・刑場など。但し籬(ヒモロギ)は聖地を囲んでいます。

竹と健康との関係
 竹皮には防腐効果があり、おにぎりなどを包みました。
 筍には滋養強壮作用があるようです。
 竹は土中の鉱物性養分を根から吸い上げるので、竹筒に入れた水はミネラル水になるようです。
 竹炭は備長炭の2〜3倍の吸着力があり、また竹炭から出るミネラル滋養が豊富な竹炭風呂もいいようです。

[9761] 鬱陵島と五十猛  神奈備 2009/03/12(Thu) 19:54 [Reply]
 2007年11月のことですが、鬱陵島と五十猛命との関連について話題にしました。以降、いくつかの話題が出ました。

 江戸時代の17世紀後半に南宗庵が編んだ『残太平記』に以下の記事があります。 
 偖又隠岐国ノ商人ヲ呼テ五十猛嶋ノ事ヲ問給ヘバ隠州ヨリ七十里ニハ近ク覚ヘ候。東西九里ニテ、大 竹如芦シゲク生テ竹ノ中ニ路アリ人不住一ノ岩屋アリ。内ノ広サハ一町四方モ有ベシ。人若シ是ニ望メバ色黒キ一眼ノ人長一丈ニ過、竹ノ葉ヲ衣トシテ鉄棒ヲ振テ追出ル......此大人ハ素盞烏尊ノ御子五十猛命此嶋ニ住給フト云伝ヘタレバ神ニテ在スラント思ハレ 候
 
 特長は、色黒キ(火ヤケ、すす)、一眼ノ人(目一箇神:金属精錬師)、竹ノ葉ヲ衣トシ鉄棒ヲ振テ(山の中にいた鉱山師が鬼のイメージで把握されました)とあります。五十猛神を韓鍛冶の神とされる真弓常忠氏の論に該当しそうです。

 『八重葎』(やえむぐら)宝暦九年(1759)の作品ですが、これに「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とあり、これは太田市五十猛町の昔の名前が磯竹であったことを説明しています。この竹島は欝陵島のことであり、現在の竹島(江戸時代は松島、朝鮮名は独島)ではなさそうです。

 領土問題
 戦後の講和条約について
 1.朝鮮の要求文:竹島と対馬の領有権を要求する。却下→対馬に対する理不尽な要求に注意。
 2.講和条約の原案:日本は、朝鮮及び済州島、巨文島、ダジュレー島(鬱陵島)及びリアンクール岩(竹島)を含むすべての沖合小島嶼に対するすべての権利及び権原を放棄する。→ここで対馬に対する要求は排除。
 3.講和条約第二条 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島、欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。→リアンクール岩(竹島)=朝鮮名独島は朝鮮領ではないと決まった。
 
 竹島は日本の領土と主張する根拠は十分にある。

[9760] Re[9759]: 布津主神  かたばみ [Url] 2009/03/12(Thu) 11:53 [Reply]
>意宇郡楯縫郷 布都怒志命の天石楯を

布都怒志命を経津主命に同定する論を知りませんが、同じ人物としていいんじゃないかなあ。
語呂合わせだけでもないし(^^; 書紀の経津主命=アンチ出雲の先入観さえ取り除けばOK。

「なになに主」の登場は大国主命以降ですね。大国主命の用いた文化が山東半島文化なのだと考えています。
やはり親分であるはずの大己貴命には「主」はない。
大己貴命は大国主命よりはるか以前の出雲の指導者(BC180頃か、大国主命はおおよそ6世代後でBC10頃か)。
素盞鳴尊一家への入り婿であってよそ者(^^;
大己貴命の用いた文化は少彦名命の伝えた文化、長江など東シナ海南方沿岸の文化でしょう。


出雲国造神賀詞に
「朝日の豊栄登に伊波比の返事の神賀吉詞を奏し賜はくと奏す」 とあります。

神武紀に、道臣命(日臣命)に勅して「今高皇靈尊を以ちて朕親ら顯齋を作む。汝を用ちて齋主と爲し」があります。
ここでの「齋主」は単なる「齋のあるじ」だと思いますが、伊波比イハヒとは齋イハヒでもあり祝(ハフリ)の源なのでしょう。
道臣命を祖とする大伴氏は軍事担当とされますが、武人ではなく「卜占」などで戦略を練る専門家、そういう意味の軍事担当だと考えています。
この時代での政治や軍事はすべからく祭祀による「神の返事(啓示)」に従っていたと考えます。

「イハヒ」を人格化すれば「神の返事」を伝える祭祀者であり、伊波比主命(経津主命)も武人にあらずとみるところです。
「フツの剱」を神の啓示を受けた剱(軍事的啓示)とみるなら、「フツ」も「神の返事」の意であり、「イハヒ」と「フツ」は異なる文化での同じ意である可能性あり。
それが伊波比主命と経津主命のふたつの名のある理由ではなかろうか。


>草木がよくものを云うことが出来た時

狩猟採集生活のとき、大自然からの恵みだけで暮らしていたとき、が本来なのでしょうけれど、ここでは単に大昔にはといった用法でしょうね。
常陸国風土記の「普都大神」は書紀での経津主命のありようの影響下にあるのではないかと思います。

[9759] 布津主神  神奈備 2009/03/11(Wed) 11:46 [Reply]
>> 布津主神は国譲りで出雲に敵対。星神退治の伊波比主神
> むふふ(^^; 例外の神にあらずして、核心の神かも。

 『出雲国風土記』
 意宇郡楯縫郷 布都怒志命の天石楯を縫い直してここに置き給うた。だから楯縫という。

 意宇郡山国郷 布都怒志命が国をお巡りになられたとき、ここに来て仰せられるには、「この土地(クニ)は止(ヤ)まず、眺めていたいと思う」と。だから山国と云う。

 出雲郡美談郷 天の下をお造りになられた大神の御子和加布都怒志命が云々。

 大国主命の御子神、和加布都怒志命。確かに核心の神かも。


 『常陸国風土記』
 信太郡高来郷 草木がよくものを云うことが出来た時、天より下ってきた神、お名前を普都大神と申す神が、葦原中津国を巡りあるいて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。云々。

 この神は天孫系譜なのかな。縄文的・弥生的な人々をやわらげ平らげたと言えそうです。
 出雲系の人々の造った剣を天尊系が手に入れて恫喝に使用したということ。

 
 畑井弘さんは朝鮮語を勉強して『記紀』の解読と記述されていますので、基本的には現在使われている朝鮮語だと思います。引用文献には金思[火華]さんの『古代朝鮮語と日本語』などは載っています。

[9758] Re[9753][9751][9750]: ヒヒ媛  かたばみ [Url] 2009/03/10(Tue) 22:19 [Reply]
>『古代倭王朝論』(畑井弘著)−著者は朝鮮語から記紀の人々を読みとく

その本を読んでいませんが・・天皇の漢風諡号は書紀にはありませんからそれ以降に選定されたものですね。

書紀以降に朝鮮語に関連させて開化を「解化で気比と異字表記」ですかぁ。
根拠が示されないかぎり、語呂合わせにすぎないとしか・・(^^;
当時の朝鮮の文字も漢字であり、その当時での漢字と発音の関係は??
ハングルははるか後の登場だし。

神武〜開化、崇神〜元正(715-723)の漢風諡号は762頃に淡海三船オウミノミフネによって選定されたもの(釈日本紀の引用)、でよいだろうと考えています。
淡海三船ではないとしても、日本書紀講釈用の日本書紀私記がいくつか残っていますから、この頃の選定であるのは間違いないと思います。

「書紀の本質(実像)」あるいは「外伝」が残っている時代でもあるでしょう。
そこに使われる文字は発音ではなく、漢字としての意味を持っていると考えています。
開化であれば「(新たに)開き変化した」大王、崇神であれば「(2系列の)神々を崇敬した大王」といった具合です。

平安時代は日本独自文化の意識が台頭する時代でもあって朝鮮語に関連する必然性はないと思います。

[9757] Re[9755][9754][9750]: 青草 Re:[4883] 日子坐と和邇  竹取物語へ  かたばみ [Url] 2009/03/10(Tue) 22:02 [Reply]
かぐや姫については未検討につきおいておきます。

>布津主神は国譲りで出雲に敵対。星神退治の伊波比主神

むふふ(^^; 例外の神にあらずして、核心の神かも。
星神を退治したというのは逆らう海の民を悪役にしたのであって、星神を祀る民がみな出雲文化というわけではないと思います。

書紀はなにゆえに国譲りで武甕槌命と経津主命の二人を登場させているのか。
両者を武神とみるむきもあるようですが武甕槌命は軍人だとして、経津主命はどこかの王(文人)か祭祀者ではないかとみています。
説話に歴史上の事実が含まれるなら、経津主命は天孫系譜でも出雲系譜でもあって中立者として国譲り交渉を行った人物(の象徴化)、と仮定すると・・

まだ踏み込んではいませんが、そういう立場になりえるのは天孫降臨のひとり天穂日命、その後裔の出雲臣族の流れしかない。
天孫降臨以前の出雲の祖は素盞鳴尊(出雲神族、自論で箕子朝鮮王族)、しかしこちらの文化はたいしたことない(^^;
出雲文化の中枢は、天孫降臨時に初期出雲文化圏に入って融合した出雲臣族の運ぶ山東半島の文化(畑作系)にある。

天穂日命の出自は、自論で呉楚七国の乱(BC154、天孫降臨のきっかけ)における山東半島の王族とみています。
前漢時代の山東半島の沿岸国は、膠東、臨淄(シ、さんずい+甾)、瑯邪(菑川)の三国。
小国につき版図は流動的ですが、ここに瑯邪八神があります。

国譲り後の大国主命を祀るのは天穂日命(の後裔)でもあり、いろいろが無理なく結びついてきます。
(鹿島神宮では拝殿の向きが北向きだが香取神宮では南向き、このあたりにも関連するかも)

埼玉県入間郡毛呂山町に出雲伊波比神社があり、御祭神は大名牟遅神(大己貴命)と天穂日命です。
(渡来系祖先の人々が多い地域です)
社名の出雲の伊波比とは、伊波比主命=経津主命、どんずばり(^^)

[9756] Re[9753][9751][9750]: ヒヒ媛  大三元 2009/03/10(Tue) 14:48 [Reply]
神奈備さん
>  『古代倭王朝論』(畑井弘著)

この本も読んでないし、著者の言語的な素養がどうなのかも判りませんが、神奈備さんが抜き書きなさった範囲だけについて・・・

「フH 立|」は発音記号では kε pi となるのかと思いますが、何れも「日」の意味があるのかどうか。手持ちの「韓国語辞典」(白帝社)(小さな辞典ですが、発音記号があるので便利)では確認出来ませんでした。

むしろ、「日」の意味のあるのは hε でした。また、この音が「海」をも意味することがありますが、それは音(音訓の音)として、つまり漢語の場合の「海」を(日本語でならば「カイ」と読むような場合に)hεと読むもののようです。(例:海軍 ヘーグン、海女 ヘーニョ)。いずれにしても現代の韓国語で調べたもので、古くは不明(少なくとも私にとっては)です。

従って「日日」を「フH 立|」(kε pi)と読むことも、「日日は太陽の、または海のと言う意味」というのも、ついて行けません。

朝鮮語(出来れば中期朝鮮語(古朝鮮語って殆ど知られてないから))に詳しい方のコメントを頂きたいところです。

また、後半の pi を「フィ(ハェ)」と見て「蠅」につなげているようですが、韓国語は「ピ」と一音節で、一字で書けば良いものを二字にして、蠅なら hape(葉江ならhaye)としっかりと二音節のものの二字目を小文字にしてみたり、何をやりたいのか作為を感じます。

[9755] Re[9754][9750]: 青草 Re:[4883] 日子坐と和邇  竹取物語へ  神奈備 2009/03/10(Tue) 09:52 [Reply]
 二人の御眞津比売

かたばみさん、ありがとうございます。

 『古事記』では、開化天皇の皇子に、御眞木入日子印恵命、御眞津比売がいます。母は伊迦賀色許命です。
 もう一人は、御眞木入日子印恵命(崇神天皇)は、大毘古命の娘の御眞津比売を娶って垂仁天皇などを生んでいます。

 『日本書紀』では、崇神天皇の妃は御間城姫で大彦命の娘としています。崇神の姉妹に御間城姫の名は見えません。

 『古事記』の開化天皇の皇女の御眞津比売の名は御眞木比売だったのか、『日本書紀』の御間城姫は御間津姫だったのか、同じような名での混乱があるようです。


 『古事記』に出てくる迦具夜比売ですが、垂仁天皇が娶って袁那弁の王を生んでいますが、その後、この名は出てきません。よく似た名は応神天皇の妃となった袁那弁の郎女がいます。和珥の比布礼の矢河枝比売の妹です。
 近江に矢川神社、また日牟礼八幡宮が鎮座、近江には羽衣伝説もあり、迦具夜比売にかかわっているのかもと思っています。


> 大国主命、事代主命、葛木一言主命、大物主命の「なになに主」とは出雲の王の尊称とみています。

例外の主神。
布津主神は国譲りで出雲に敵対。星神退治の伊波比主神。

[9754] Re[9750]: 青草 Re:[4883] 日子坐と和邇  竹取物語へ  かたばみ [Url] 2009/03/09(Mon) 16:05 [Reply]
ごぶさたです。

>崇神期 三輪の大物主神(=大和の民衆) 崇神は余所者か?

もちろんのろん、自論では(^^;
大国主命、事代主命、葛木一言主命、大物主命の「なになに主」とは出雲の王の尊称とみています。
いつの誰がそう呼んだか不明なれど、山東半島の琅邪八神の天主、兵主などの主を用いたと推定。
(すなわち、大和における最後の出雲の王が大物主命)

で、四道将軍の一人開化大王(自論225-248)の子が崇神大王。
四道将軍の行動、それが出雲領土への侵略、大和の新政権樹立。
これが「大和東征」であり、書紀等は神武の事跡に書き換えているわけです。
瀬戸内諸国への侵略も含むわけで、全体としては10年くらいはかかっているとみています。

当然ながら崇神(自論248-273)は大和におけるよそ者です。
だから・・大和での崇神の祭る神々(天孫祭祀)と旧来の出雲の神々との葛藤が生じた。

天孫祭祀の主役が倭迹々日百襲姫(縁戚が卑弥呼とみる(^^;)であり、書紀は融合策の最初として大物主命と倭迹々日百襲姫の婚姻談を登場させた、と考えています。
この婚姻は作り話だと思いますが、周辺氏族との婚姻融和策が実際に行われたはずです。

崇神の母は後の物部系ですが、弟とされる彦坐王の母は意祁津姫命(おそらくは日本海系の出雲文化圏出自、後の神功皇后→応神登場につながってゆく)。
垂仁の母は四道将軍のひとり大彦命の娘ですが、兄とされる豊城入彦命の母は木国造の娘(おそらくは和歌山あたりの山と海を糧にする沿岸部の氏族→これも出雲文化圏だと思う)。

大王を継いでいる崇神と垂仁はどちらも天孫系の母ですが、母が非天孫系では大王になれなかったのでしょう。
(豊城入彦命の説話も作り話だろうな、非天孫の母ゆえにはるか東国へ出張させたのが事実だと思います)
(沙本毘古王の反乱も起きるわけで、日葉酢姫(景行の母)に至って安定したかにみえたが・・仲哀暗殺(^^;)

入(イリ)とはそういう集団(系譜)があったのではなく、単純に(九州から)大和に入った新参者の意と考えています。
姫の場合の入も同様ですが、こちらは周辺氏族から大和の新参者へ嫁入りした女性、かな。

考古学的な不連続もこの頃(AD250あたり)。
唐古・鍵遺跡の衰微と纒向遺跡の登場、さほど大きくはないホタテ貝型古墳から大型前方後円墳への移行など。
神武東征談を除くなら、記紀の記述でさえAD250頃の大和では天孫がよそ者であったことを示す・・

[9753] Re[9751][9750]: ヒヒ媛  神奈備 2009/03/09(Mon) 08:41 [Reply]
> あと、「飯日媛」は「イヒヒ媛」と読むのでしょうが「ヒヒ媛」もありうる、「大日日」をここにつなげる、とか。


 『古代倭王朝論』(畑井弘著)−著者は朝鮮語から記紀の人々を読みよく努力をされているようです。−によりますと、『日本書紀』では彦大日日天皇、『古事記』では大毗毗命、この日日を(フH 立|:ハングル表記のつもり 但し立の上の’はない)と読み、発音は くぇ(ケ) フィ(ハェ)と見ています。日日は太陽の、または海のと言う意味とされています。別の漢字を当てはめれば気比、笥飯に通じると見ているようです。飯にも通ずるのでしょう。
 開化も解化で気比と異字表記としています。

 よくわかりませんが、この中に「ハェ」が出てきて、これが開化天皇の2代前の孝霊天皇の妃の蠅伊呂杼(台与と想定中)も蠅がからんでいるように感じます。

[9752] 百張蘇我乃国  神奈備 2009/03/08(Sun) 17:45 [Reply]
 竹取物語の迦具夜比売のモデルとして、伊勢神宮の物忌の少女を挙げる方もいます。上井久義『日本古代の親族と祭祀』。
 理由は結婚できない娘であること、物忌と父親が一組になって奉仕することがあることをあげています。
 それと、斎宮の近くに竹神社が鎮座してたこと。多気郡の地名のルーツは竹。

 『皇太神宮儀式帳』に、「豊鋤入姫が天照大神を奉斎して、多気佐々牟江宮に来たとき、竹首吉比古に対して、その国の名を問われたところ、「百張蘇我乃国、五百枝刺竹田乃国」と答え、櫛田根椋の神御田をたてまつった。」という。」とあります。

 百張蘇我乃国はモノハリ ノ ソカ ノ クニ と読むのでしょう。百張は蘇我へかかっている枕詞のようですが、よくわかりません。百張は弓とか皮革の数詞でもあります。竹も湿り気の多い土地に育ちますので、川の側とかが多く、菅などが生えている場所が多い国と言う意味かも。そうしますと下の竹田の国にも通じるようです。

 五百枝刺竹田乃国はイホエサス タケタ ノ クニ。五百枝刺は竹の枕詞、聖徳太子の有名なシーン、行き倒れの人に声をかける中に「サスタケノ キミハヤナキ」とあります。やさしい恋人はいないのかと宇治谷孟さんは訳しています。

 同じ話が、【倭姫命世記】にも出ています。
 http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm

[9751] Re[9750]: 青草 Re:[4883] 日子坐と和邇  竹取物語へ  大三元 2009/03/08(Sun) 16:09 [Reply]
神奈備さん
> 崇神期 三輪の大物主神(=大和の民衆) 崇神は余所者か?

とても重大なご指摘だと思います。これ一つ取っても大テーマですね。
このあたりの系譜は「父系」で記録されて伝えられているわけですが、これを「母系」で見直してみたい、というのが手に余ること見え見えな関心事項です。特に葉江さんの一族が「女王」格で数代把握できるのかなぁ、そして、彼女等の配偶者が「大王」格。

崇神(ミマキ入彦イニヱ)ですが、「ミマツ彦カヱシネ」と「ミマツ媛」を兄妹に捉え、「ミマキ入彦イニヱ」は「ミマツ媛」と婚姻したことによる名称か、とか、そんな作業をやってますと、多くの大王が余所者、というか、入り婿でありそうなことがほの見えてきます。「ミマ」は「御孫」の意味が可能ですので、「ミマツ彦カヱシネ」は誰の孫か、と見ると父系では安寧(シキツ彦玉手見)の孫ですが、母系ではシキのフトマワカの孫になる;こういう捉え方を試みています。

あと、「飯日媛」は「イヒヒ媛」と読むのでしょうが「ヒヒ媛」もありうる、「大日日」をここにつなげる、とか。

まとまってないし、整合性もまだまだですが、「崇神は余所者か?」というご提起へのレスポンスまで。。。

[9750] 青草 Re:[4883] 日子坐と和邇  竹取物語へ  神奈備 2009/03/05(Thu) 20:48 [Reply]
> 沙本毘古王の天皇暗殺計画にも「小刀」がモチーフに入ってますしイミシンですかね。

 小刀までは思いつかずでした。やはり具体的にイメージすることが必要ですね。


 さて、『古事記』になりますが、この辺りの系譜を。


       内色許売┌─大彦命───御真津比売
細比売     ├──┴─開化天皇──日子坐王(和珥系)      
  ├───孝元天皇   │ ├──比古由牟須美命−┬−大筒木垂根王−−迦具夜比売
孝霊天皇         │竹野比売        └−讃岐垂根王(竹取の翁) ├袁那弁の王
  ├─倭迹迹日百襲姫  ├─────御真木入日子印恵命(崇神天皇) │
大倭国阿礼比売      伊迦賀色許売 ├─────────────垂仁天皇
御真津比売(大彦命の娘)

 イリ王権での騒乱説話
崇神期 三輪の大物主神(=大和の民衆) 崇神は余所者か?
崇神期 建波邇夜須毘古(孝元天皇の子) イリ王権対倭国王権
垂仁期 沙本毘古の王(日子坐王の子) イリ王権対和珥一族

http://kamnavi.jp/ym/index.htm

 狗奴国であった大和国(尾張・物部・和珥・長髄彦連合)に九州から攻め込んだ倭国連合の大王であった開化天皇の後裔を追い落とし、物部系の崇神天皇が権力を掌握、和珥系の日子坐王を丹波に遠ざける、また倭国系の比古由牟須美命の系統をやはり権力から遠ざける、次代の垂仁天皇は倭国系統の迦具夜比売を娶り、王権の力を安定させたい、そこに育ての親の讃岐垂根王は迦具夜比売の美貌を利用して取り入りたい、さまざまな思いが交錯していたのでしょう。

 しかし倭国系の巫女王の系列、大倭国阿礼比売(台与)−倭迹迹日百襲姫−・・−迦具夜比売を意識していた迦具夜比売はイリ王権に媚びる気持ちはなかった。求婚に対して受けたのではなく自害、これが月に戻っていくと言うお話になったのでしょう。
 世継ぎの一人である袁那弁の王については何ら伝承が伝わっていません。系譜はでっちあげなのでしょう。

[9749] Re[9748][9747]: 彗星  かしこ 2009/03/03(Tue) 17:50 [Reply]
クスコ市の北にあるサクサイワマンには、紀元900年〜1200年頃のプレ・インカの遺跡があり、これが発展する形でインカ文明が生まれたのではとの説もあるようです。しかし、中央アンデス地方では、前5000年頃からインゲンマメなどの栽培が始まったようですし、チチカカ湖にはこんな伝承があるそうです。《私たちこの湖の者たちがこの地上で最も古い。長い間、私たちはここにいる。それも太陽が隠れた前から・・》

それ以前から食用飼育されていたのが天竺ネズミだそうです。米俵の上で太陽を抱く大国主命と狛ネズミ(私の中ではこれまた千千岩や五十猛のお話と繋がっています)。ネズミはお米に害を為すのに、何故と不思議ですが、お米もネズミも大地の恵みとして括れないか。天竺ネズミはケチュア語クイ(qowi)。大山咋神が思われます。(大山祗をオオヤマネズと読むことはあるのでしょうか?)

また、インカは血縁地縁集団アイユを基盤としていたといいます。「結い」を連想します。以前愛知の語源で語られていたアユチも。

マンコ・カパックですが、manco はスペイン語ですと、「片手or片足がない」という意味だそう。一本足は太陽王に相応しいかもしれませんね。

>常陸那賀 日下部郷

あの図では「部」が落ちているのでしょうか。ナカの日下(部)は面白いと思います。伯耆川村。カハは沖縄古語で太陽(こちらで知りました)でした。

>日高→ヒダ→シダ→信太

ひいては常陸に繋がるのでしょうか。梵語 hitaH , baMDuH(友人)。同じく、hitakAma, hita(フレンドリーな)。アイヌが和人をシサム(隣人:広辞苑)と呼ぶことと対応するように感じます。常陸も坂東も隣人。「此の地は、本、日高見の国なり」でも今は「僕らのもの」(^^;。

ケチュア語をもう少しだけ眺めますと。sayay (止まる)。塞やサヨ姫を思いますし、wayqe(男性から見て兄弟)は神名の「別」ではないかと思っています。仮にそうだとして、気になる建日向日豊土比泥別(肥の国)がもし比泥の兄弟ならばそれは太陽で、名前も長いし彼が大将だろう・・と。tura(女性から見て兄弟)も想像を刺激します。

大切な本殿で、神奈備さんを青草に引き込んでしまいました。お付き合い下さって有難うございます。

[9748] Re[9747]: 彗星  神奈備 2009/03/02(Mon) 11:56 [Reply]
> 暗闇に光るtitiの目は火(光)だそうですから太陽のイメージでほぼ獅子。

チィチィカカ湖 海抜3890m、琵琶湖の12倍の広さの湖で、隣国ボリビアと6対4で分け合っている。ボリビアもインカ帝国の範疇だった。ボリビア海軍はこの湖で展開。(海に面していない)
 アンデス山脈からの雪解け水が集まる。水温は8度以下と低い。トトラ葦を積み重ねた島がある。大阪では葦舟の寿命は1年程度だが、ここでは3〜4倍の寿命。トトラ葦は淀川等の葦よりは畳の材料の井草に似ている。
 ウロス島など葦で作った島には学校や教会もある。歩いて見たが勿論大地とは違う。リューマチや関節痛、また日差しが強いので皮膚癌などでここの人々の寿命は長くない。

 チィチィカカ湖畔のプーコはインカ帝国初代の王マンコ・カパックが降臨したと言う伝説がある。13世紀初頭の頃。太陽の御子と名乗り、その内本人もその気になったと言う。

 太陽のイメージは理解できます。

> ついでに先の kuskan ですが、新編常陸国誌の那珂郡二十二郷図で南北の丁度真中辺りに、日下郷を見つけて嬉しくなりました。

各地の日下郷
『和名抄』から

常陸那賀 日下部郷 ここのことでしょうね。
伯耆川村 日下郷
伯耆會見 日下郷
備前上道 日下郷

『常陸国風土記逸文』
筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて信太の郡を置けり。此の地は、本、日高見の国なり。

『白鳥伝説』(谷川健一著)
東方の地を日の上る所としてヒノカミ→日高見。
日高→ヒダ→シダ→信太。

 これらとも関連があるのでしょう。

[9747] Re[9746][9745][9744][9743][9742][9741][9740][9739]: 彗星  かしこ 2009/03/01(Sun) 14:26 [Reply]
最後に・・と書いたにも関わらずまたしてもお邪魔します。神奈備さんのご返事を見て、辛抱しきれず。本当におしゃべりですみません。

>地上−ピューマ−力  地下−蛇−豊穣

ここ何年もチチカカ(湖)と千千岩(神)の関連が気に懸かっていましたが、ますます笑われそうで、引出しの中でしたが、これに元気を頂きました。(^^)
Titicaca湖の名前の由来は、「チチカカ湖上の岩にピューマがいたのでチチ(ピューマ)カカ(岩)」ということのようです。titi(ピューマ:アイマラ語)-qaqa(岩:ケチュア語)ならば、千千岩そのものではありませんか。

暗闇に光るtitiの目は火(光)だそうですから太陽のイメージでほぼ獅子。qaqaは日本のハハ、カカ(蛇/大地)でしょう。チチカカ湖の石に寛ぐピューマは岩座に坐す太陽。そしてこれは、こちらのサイトにある、《五十猛がある日、基山の「霊霊石」に腰をおろして四方を眺めていた。すると小川で一人のきれいな娘が洗濯しているのが目にとまった。そこでさっそく結婚することになり、基山の西にそびえる山の頂で夫婦の契りを結んだ。》に直結しませんか。霊霊石が即チチカカですから感動的です。

これに関連して、カカセオが思い浮かびます。theo(神:ギリシャ語)、sao(星:ベトナム語)。星は神。カカセオは石神(qaqa-theo)であり、星神(qaqa-sao)であり、悪神(caco 羅語 悪い-theo)である。qaqa-sao なら彗星かも。今では言葉遊びのようですが、昔は違っていたのかもと想像したい気持です。これは発音の仕方によっては qaqa-sir ともなりそうで、カカシル→カタシロ→コトシロ(何しろqotuとqaqaです)・・稲荷山鉄剣銘文の王は、やはり獲カタシロと読むのでは?と面白がっています。(^^;

ついでに先の kuskan ですが、新編常陸国誌の那珂郡二十二郷図で南北の丁度真中辺りに、日下郷を見つけて嬉しくなりました。また、ケチュア語 taki(歌う)。岳はやはり歌うもののようです。木曾の御岳さんは相当歌ったのでしょうね。(^^ゞ

>天−コンドル−平和

神 空に知ろしめす。すべて世は事も無し。(ブラウニングの詩そのままです。)


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