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掲示板のログ(平成二十一年 六月 2009.6)お名前の敬称は省略しています。

[9905] Re[9904]: 継体天皇について  神奈備 2009/06/26(Fri) 09:07 [Reply]
> 以前NHKラジオに出演されていた八幡市の郷土史研究家が、継体天皇が始めに八幡市に上賀茂神社、下鴨神社を造ったと聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか。教えて下さい。

 賀茂の神々は元来は雷神ですから、継体天皇が交野宮か筒城宮におられる時に雷神を祭ったことは十分考えられますね。
 是非はともかく、地元の郷土史家の情熱と地道な研究には頭が下がりますね。

[9904] 継体天皇について  てる 2009/06/25(Thu) 18:02 [Reply]
以前NHKラジオに出演されていた八幡市の郷土史研究家が、継体天皇が始めに八幡市に上賀茂神社、下鴨神社を造ったと聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか。教えて下さい。

[9903] 物部と蘇我  神奈備 2009/06/24(Wed) 17:25 [Reply]
『蘇我氏と大和王権』加藤謙吉著 から

畿内と東北を除いた物部地名(神社、人名、郷名、首名など)の郷がある郡に他の氏族の郷の数を表にしたものです。例えば土佐国香美郡には、宗我郷があり、物部郷があります。これが蘇我氏の重複郡の1に計算されています。

氏族   郡数   重複郡   重複率%
蘇我   28   15   54  大
物部   91   91   100
和珥   27   14   52  大
三輪   60   13   22
中臣   22   15   68  大
秦   62   29   47
東漢   42   18   43

この表から見えること
蘇我地名の半分は物部と重複。→物部守屋討伐後の物部の財産を奪い取ったと思われます。特に蘇我馬子の妃に物部弓削大連之妹が入っており、入鹿の弟は物部大臣と呼ばれたようで、守屋の財産を奪ったのでしょう。これが一つの重なりの要因だったのでしょう。
 お互い2世代に渡って対立した大臣家と大連家ですから、洋服の青山とハルヤマの様にライバルの店の近くに出店してライバルをつぶしていくようなことがあったのかも。

中臣地名と物部地名との重複率も高いようです。中臣は物部の派生氏族と言えるのかも。祭神の経津主・武甕槌も共通しています。
和珥と物部とは石上神宮の祭祀に共にたずさわっています。また和珥系の物部首も存在しているようです。

つでに思うのは蘇我の大臣家と物部・大伴の大連家との差ですが、大臣家からは大王家の妃を出していますが、大連家は出していません。この違いについてはわかりやすく言いますと、大臣家とは江戸時代の大名、大連家は旗本と言うような区分。

[9902] Re[9901][9898][9884]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/06/21(Sun) 09:20 [Reply]
はやとさん。
> 父は自宅で朝食後天寿を全うしました。

長期間の同行二人、ご苦労様でした。
ご自身のご健康に一層留意なされますように。
 

とみたさん
> 5世紀に馬の文化が倭国に入ってくると呪力による王権は廃れて馬や鉄具による実力時代になりますから巴形銅器は廃れますね。古墳時代前期には巴形銅器は多く、中期以降は使われなくなります。

 おっしゃる通りですね。
 5世紀以降でも例えば継体天皇の皇后の手白香皇女(仁賢帝の娘)です。この手白香(手志良加)とは水がはいった容器で土瓶のこと。新嘗祭に使用する壺のことです。皇后には血のつながりと巫女が求められました。
 手志良加を司るのは水部(もいとり)ですが、直接天皇に捧げるのは釆女の役割、これが允恭天皇の妃の忍坂大中比売が手水が凍るまで捧げていたとの説話に出てきます。

 蘇我の娘の堅塩媛ですが、堅塩とは黒塩で神餞で鮑に削ってふりかける塩です。巫女の名でしょう。

 推古天皇である豊御食炊屋姫尊とは、読んで字の如く、神に朝餞を捧げるべく神の食事を調理する姫の意だとか。これは『ヤマト王権の謎をとく』塚口義信著 を参考にしました。

 皇極天皇は飛鳥の南淵の川上で雨乞いを祈祷、見事に雨がふったと言います。これぞ巫女の仕業。

 酢加手姫皇女は用明天皇の皇女で、伊勢に赴き齋宮となり37年仕えたとされています。この頃にはまで伊勢は皇室の祖神を祀っている意識はないので、奈良県内の日神を祀る宮に居たのでしょう。酢加手とは意味がわかりませんが、透手、先が見えるような意味の名かも。
 
 面白いのは齋宮を置いたのは用明帝からで、用明さんは「信佛法尊神道」とあり、日本で初めての仏教信仰の天皇となっています。天皇が仏教に帰依する場合、子女を齋宮として神仏のバランスをとったのかもと思っています。

[9901] Re[9898][9884]: 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/20(Sat) 09:29 [Reply]
素人さん 毎々お付き合い有難うございます
 
 古代史ネタのクイズを解く感覚で遊んでいます。
> > 宇佐には宗像の海の民が入っているでしょう。宇佐の神様の本来の主は比売大神で宗像神説が有力視されています。宇佐は東大寺に銅を支援して中央と結びつきを深めます。秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
> > 辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。
> >
> 香春の鉱山地帯に神奈備様が訪問されたお話を以前こちらで読ませていただきました。

神奈備さんは、すでに何周も前を走っておられます。私は追っかけていますが牛歩でかないません。

興味は、宇佐と宗像(胸形)との関わりです。宇佐は8世紀に銅の供出で、中央とつながりが深くなりました。胸形は天武が地方豪族胸形氏の姫を貰って高市皇子を産んで中央とパイプが深まったのでしょう。

それまでは、地方の豪族だったのでしょう。でもそれなりの豪族特有の信仰を持っていたはずです。たとえば織姫や七夕などです。それを吸い上げたのが中央ではないか。

秦氏が絡んでいるような気がしていますが?

> 古墳時代は巴形銅器や筒型銅器が伽耶地域の古墳から出土しているようです。伽耶地域との往来は古い時代からあったのでしょう。
> 巴形銅器や筒型銅器の写真が載っています。

巴形銅器は、倭国から伽耶に渡ったのではと考えています。
南島で採れる水字貝は渦巻ですから古代人はその形の不思議さに、魔除けの力を見たのでしょう。隼人の楯には巴形が付いていますね。平城京の井戸の中から見つかっています。伽耶の甲には渦巻きが付いています。

5世紀に馬の文化が倭国に入ってくると呪力による王権は廃れて馬や鉄具による実力時代になりますから巴形銅器は廃れますね。古墳時代前期には巴形銅器は多く、中期以降は使われなくなります。

[9900] Re[9897]: 隼人  はやと [Url] 2009/06/20(Sat) 09:07 [Reply]
おはようございます。
お心使いありがとうございます。

父は自宅で朝食後天寿を全うしました。
当日再入院予定で、迎えに見えて驚いて居られました。
ちょうど49日です。
そう云えば、手塚治虫、太宰治も同期でしょうか。
====>>ブログ参照、こちらは早いものでもう10年になります
   現在のサイトでは5年位でしょうか

隼人に関しては、史資料辺りからの推論をページに掲載しています。
それ以上のことは、勉強不足で、現在は掴めません。
とみたさんの新説を期待して拝見していたのでした。
====>>隼人探訪参照

現在、鹿児島神宮の境内を発掘していますが
遺物や遺構が出ても多分年代的には新しいでしょうから。。
過去にも白磁やベトナム辺りの土器が多数出土しています。
====>>鹿児島神宮参照

私は、現在平安時代辺りから江戸中期までを調べています。
こちらなら、史資料もある程度ありますから、自分なりに納得できる点が
多く見つかり興味をそそります。

この数年父の介護で手が離せませんでしたが
これからは、、、いつでも。。
中村先生や下野先生にもお会いする機会が増えます。
メッセンジャーでお届けしますよ。

[9899] Re[9895]: 謹告の訂正  神奈備 2009/06/20(Sat) 08:22 [Reply]
> 和歌山市伊太祁曽神社の奥鈴雄名誉宮司様に置かれましては今月17日にご逝去
> 20日17時よりお通夜、21日13時より告別式。和歌山市南出島の斎場にて。
>
訂正
お通夜は19時からです。

[9898] Re[9884]: 上賀茂神社と秦氏  素人 2009/06/20(Sat) 01:16 [Reply]
とみた様
書き込みが遅れてすみません。
勉強させていただいております。
> 宇佐には宗像の海の民が入っているでしょう。宇佐の神様の本来の主は比売大神で宗像神説が有力視されています。宇佐は東大寺に銅を支援して中央と結びつきを深めます。秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
> 辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。
>
香春の鉱山地帯に神奈備様が訪問されたお話を以前こちらで読ませていただきました。
わたしもこの地域の銅鉱山関連の資料を紹介させていただきました。かなりの古代銅産地であったようです。宗像氏との関係で、銅加工品などが、伽耶地域に渡ったようです。弥生期は中広形銅矛などが、古墳時代は巴形銅器や筒型銅器が伽耶地域の古墳から出土しているようです。伽耶地域との往来は古い時代からあったのでしょう。

橿原日記 平成17年5月1日Web
http://bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_05_01.htm
巴形銅器や筒型銅器の写真が載っています。
手前味噌ですが、前にご紹介しました鉄澤に筒型銅器が少し似ているので吹管の先ではないかと夢想した訳です。先が開いて窓が有るのと目釘の跡が問題ですが。
鞴・羽口に比べると原始的ですが、口に吹き竹を銜えて吹くと微妙な調整が出来るのかもしれません。
思い付きばかりの青草失礼しました。

[9897] 隼人  とみた 2009/06/19(Fri) 22:47 [Reply]
はやとさん、 思い出しました。

お父さんの状態はいかがですか。

はやとさんは、本場の方ですからこちらが教えていただく立場です。

私も中村明蔵さんでしたか、隼人研究を読んだことは一応はあるんですが良く分かりません。

岩波書店の列島古代史シリーズの古代史の舞台篇、西海道の巻で小田富士雄さんと坂上康俊さんが隼人に触れておられます。それによると、律令時代に入って隼人は良く反乱を起していますね。

薩摩の阿多隼人、大隈隼人が699,702,713,720、722年に反乱しています。

隼人には調庸を出す代わりに6年交替で都に朝貢・上番する制度が適用されたのですね。これが終わるのが801年です。702年の隼人の反乱鎮圧には、筑前国島郡大領肥君猪手とその子の泥麻呂など、筑前・豊前両国の人が従軍しています。
722年にはの反乱にときも、日向・薩摩三国の郡司、市卒のほか豊後国の郡司クラスが従軍していますね。

以下は私が聞き及んだ隼人に対するイメージです。

森浩一さんは、沖縄のゴホウラ貝やイモ貝を運搬する人、一部、装飾品などに加工する人、海上、水上の運送業者。

四川の長江文明の著者の古賀登さんは、長江中流域の巴国(三峡ダム〜重慶)あたりに住んでいた、巴人は水に潜る漁法(白水郎=アマ)と鵜飼の民のようで、これが隼人の原住民とされています。

紀ノ川の五条には阿多という地名があり、阿多の植民した地で、神武東征で阿多の鵜飼民が宇陀で助けます。

隼人の本拠は値嘉島(長崎県五島列島)とされています。

神話では海幸と山幸の物語で、負ける側の海幸ですね。この物語がインドネシアに起源があるので隼人はインドネシアのスンダーランドから来たとされるのが、縄文学の大家の小田静夫さんです。その他中国の南方の越人で蛋民(水上生活者)説もありますね。

確か、神奈備さんが(森浩一さんも)、紀ノ川や淀川の水上運送(船運)も紀氏などの墓石を運んでいるのが隼人とされていたと思います。
木津川の畔に近い京田辺や大住も隼人族がいますね。これは6年ごとに交替する隼人族でしょうか。

いずれにせよ、8世紀の律令期以前の弥生時代より或いは縄文時代から海の民はいるはずです。

甑島隼人もいますね。これは3世紀、魏呉蜀の三国時代に呉の偵察隊がここにいたとか、面白い説を九州出身の元商社マンである菊池さんが隼人の本で出されています。

隼人さんの本場の隼人説を伺いたいものです。


[9896] Re[9893]: 上賀茂神社と秦氏  はやと [Url] 2009/06/19(Fri) 19:42 [Reply]
とみたさん、こんばんわ。
早速のご回答ありがとうございます。
新ネタでも出ればがぜんやる気も湧くのですが
こればかりは。。

ご承知のように
隼人の呼称に関しても専門家でも別れているようです。
古代の筑紫全域に「隼人」と呼ばれる海神族が居たとか
いや京都近在の「隼人」を指すのだとか。。

結局はこの年代は藪の中と云うことでしょうか。

[9895] 謹告  神奈備 2009/06/19(Fri) 09:30 [Reply]
和歌山市伊太祁曽神社の奥鈴雄名誉宮司様に置かれましては今月17日にご逝去
20日17時よりお通夜、21日13時より告別式。和歌山市南出島の斎場にて。


[9894] Re[9891]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/06/18(Thu) 19:03 [Reply]
 済州島に、「東から三人の女神がやって来た。」との伝説があるそうです。ここも宇佐や宗像の比売神との繋がりが感じられます。


 『古事記』の「大年の神の系譜」については、大山咋神は「葛野之松尾」に坐すとあり、この表記は『古事記』の地名表記の例外にあたるとしています。山代国葛野と書くのが普通だと言います。即ち『古事記』そのものが葛野で書かれたと見る意見があるようです。
 さらに、松尾神社は『山城国風土記』には登場していないのに、『古事記』に出ているのはおかしいのではないか、また曽富理の神は平安京造営後に秦氏によって勧請されたとしており、「大年の神の系譜」の部分は後からの追加部分ではないかとの見解があります。

 高野新笠は光仁天皇の妃ですが、死後に皇后の称号が与えられたそうです。それまでの皇后は井上内親王でしたが、陰謀があって廃され、身分の低かった高野新笠の子の山部親王が桓武天皇になりました。高野新笠の実家は和史と言う古い渡来系氏族だったそうです。
 
 財力などでは和史氏は秦氏に到底およばない氏族だったのでしょう。

[9893] 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/18(Thu) 17:13 [Reply]
はやとさん

>外野から愉しく興味深く拝見しています。

有難うございます。素人なりにイロイロなネタを組み合わせて、眺めては自己流の見方が出来ないかまさぐっているところです。出来るだけ信用のできるネタを仕入れています。
お力を貸してください。

> 宇佐には秦氏などの渡来人が多い。隋書に書かれる秦王国です。

>推論されたベースをお伺いできませんか

遣隋使の小野妹子が隋から倭国(日本)へ帰る608年、随行した隋の特使、斐清世順路について、隋書<倭人伝>に書かれている。

百済を度り・・・南にタン羅国(済州島のこと)を望み、都斯麻国(対馬のこと)を経、はるかに大海の中に在り。又。、東して一支国(壱岐国でしょう)に至り、又竹斯(筑紫とされている)国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ・・・・


華夏は中国人のことです。中華民でしょう。華夏、東夷、苗蛮と中国の古代は分けています。
秦人と似た人が多かったからそう呼んだと考えます。

筑前・豊前の接する宇佐近辺は、渡来人が多い。正倉院にある豊前の戸籍表からは仲津郡(現在の行橋市の一部と京都郡豊津、犀川地区)の人口404人中渡来人である秦氏系人口は377人(94%)であり、上三毛郡(豊前市と筑上郡)の人口131人のうち127人(96%)が秦氏という高い比率です。この地域が秦王国があった地域と考えられている。

これは清川理一郎さんの本からの引用です(私もこの見方に以前から賛成です)。

宇佐は、日本書紀巻第一神代上第六段一書第三条に、宗像3女神が宇佐島に降り居さしむ。とされていますから宗像とつながりが深いと思います。

宗像族は海の民。潜水漁法(白水郎=アマ)も考えられます。宗像は胸形で入れ墨でしょう。

魏志倭人伝によれば、末ろ国(松浦?)の海辺では、魚や鮑を採っています。安曇と宗像の差が難しいところです。住吉族や隼人族との差も分かりません。

これが秦氏とはどう繋がるかが皆さんに訊ねたいところです。弥生時代は海の民が居てそこに4-5世紀に秦氏が中国から入ったのでしょうか。

対馬や壱岐には弥生時代から朝鮮との交易が深く、卜骨も壱岐の原の辻ではたくさん出ています。これが壱岐氏の前身か。壱岐から北九州の西新に交易拠点が移ります。その後の古墳時代に秦氏はやってきた。

宗像の市杵島姫が山代の松尾神社に祭られていることに関係があるでしょう。

8世紀になると720年豊国人が大隈に侵入して720年隼人が反乱を起こします。宇佐の八幡の人が宇佐八幡宮のご神体である薦枕を神輿に積んで鎮圧します。

769年和気清麻呂が道鏡にまつわる宇佐の神託事件で、称徳女帝の不興を買い、大隈に流される途中、宇佐郡シモトダ村で足が動かなくなったとき、300匹の野猪が助けます。シモトダ村の住民が秦氏の配下で秦氏が和気氏と親しかったと平野邦雄さんは説いています。

宇佐と宗像と秦氏そして和気氏が絡んでいそうで、長岡京ー平安京と時代は進みます。

天皇の祭祀の変遷。

律令時代は 出雲大社ー大神神社ー伊勢神宮
平安前期は 宇佐八幡ー賀茂神社ー伊勢神宮
平安中期は 石清水八幡・賀茂神社ー伊勢神宮

大神神社が消え、出雲が消され、宇佐と賀茂が勢力を伸ばします。

以上、毎度の長文で失礼しました。





[9892] Re[9884]: 上賀茂神社と秦氏  はやと [Url] 2009/06/18(Thu) 08:40 [Reply]
とみたさん、おはようございます。
外野から愉しく興味深く拝見しています。

> 宇佐には秦氏などの渡来人が多い。隋書に書かれる秦王国です。

推論されたベースをお伺いできませんか

> 秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
> 辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。

香春から宮崎の大崩山辺りにかけ、鉱物資源の宝庫だったようです。
===>>宮崎県史 資料編 参照

当地に数百メートル置きにその「妙見神社」が点在した場所が
あります。(明治後期の合祀令で現在は無い)
それを探りに八代の妙見宮にも出懸けましたが。。。
なかなか。。

ついでながら「石敢当」は当地にも玄関口や塀に多数実在します。
福建省から移入されたそうです。
「唐人町」もありましたから頷けます。
彼等は大抵が商人で、現在も、国分界隈の大型ショップは
その末裔です。
また、寺社も建立されその名残も散見されます。
当地には多大な貢献をされた。。

[9891] 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/17(Wed) 13:44 [Reply]
琉球松さん

>済州島との関係は大いにある。沖縄の来訪神との類似が指摘できる。※祭祀に死者儀礼の要素

沖縄と済州島とやはり深い関係があるのですね。済州島の海女は伊勢志摩の海女と深いつながりがあるようです。

三角錐(円錐に近いかも)の石積も多いし巫女も多いと鳥越健三郎さんは本で書かれていました。

トルハルバン(石の爺さん)は村の守護神で魔除けですが、これは13世紀にモンゴル軍に占領された時代にモンゴルの石像が伝わったようです。

ところで、沖縄には石敢当という魔除けがありますね。魔物は曲がるのが苦手だからこの石で防ぐわけです。

これは中国の福建省から伝わったようですね。福建省の西南の貴州には福建省から逃げてきた少数民族のトン(イ同)族がいますが、この風習を持っています。

神奈備さん
>松尾大神は秦氏の祭る神で、近江の日枝山の神で松尾に坐る神で鳴鏑

日枝は比叡で、大山咋またの名は山末之大王神ですね。鳴鏑を用いる神。

匈奴など北方系騎馬民の武器で音で威嚇するので”鳴る”と書かれるのでしょう。

天忍日命つまり大伴氏の先祖がこの鳴鏑で武装しています。大伴氏はタカミムスビを祖としています。

溝口睦子さんは、天皇族はタカミムスビを奉じ、5世紀に北方の文化をもたらしたとされていますから、大伴氏を随伴したのでしょう。

忌部氏もタカミムスビを祖としてますね。

壱岐氏のツキヨミが松尾神社の摂社にあります。

壱岐氏はタカミムスビを祖としています。

秦氏と壱岐氏は繋がっていますね。

大山積は神話に良く出ますが、大山咋は神話に出ません。

これは韓神か漢神のどちらでしょう。カマド神とも関係がありそうだし。

どうも秦氏とか、高野新笠に関係がありませんか?

[9890] Re[9887][9886][9884]: 上賀茂神社と秦氏  琉球松 2009/06/17(Wed) 10:49 [Reply]
 とみたさん、こちらこそ面白い話題ありがとうございます。

 「三角錐の積石」ですけど、沖縄ではピンとこないですね。
 ただ、盛り砂が「盛り塩」と同義だとすればどうでしょうか、琉球圏全域で白砂は塩と同等の力があるとされますから、神が通る道に砂を敷いたり、旧暦3月3日には女達が海辺の白砂と海水に足をつけてケガレを払いますね。。。奈良三輪山伝説との関係あり?

 それと、済州島との関係は大いにあると思います。いろいろと言われてますが、一例を紹介します。
『南島の地名/南島著名研究センター(ボーダーインク)2005』より
*** 済州島の朝天里(チョチョンリ)の海女組織によって旧暦2月に行なわれるヨンドン祭りを取り上げる。ヨンドン神はヨンドンハルモニとも呼ばれ、女性神だという。この神は海の彼方の観念世界であるイヨドから、旧暦2月1日に来訪し、島の東端にある牛島(ソンド)から上陸し、海辺の魚介類を食べながら島を回る。(略)
 以上を要約すると、※ヨンドン神は豊穣をまたらす来訪神であり、沖縄の来訪神との類似が指摘できる。※祭祀に死者儀礼の要素が見られ、その点では沖縄のは爬龍船祭祀の様相と類似するものがある。***

[9889] Re[9885]: 神官の争い  神奈備 2009/06/17(Wed) 09:34 [Reply]
> 宇佐の神官の争いは現在でも起きているようですね!地方(神宮)と中央(本庁)との争い。

 前に明治神宮が本庁を離脱しましたが、今回は宮司人事が先に出ているようなので、宮司を除いての離脱は難しいのかも。
 「宮司」とは、その方は本庁に支持されるよりも氏子に支持されているほうが大切だと思います。
 政治家の世襲は封建社会の名残でしょうが、神職の世襲は神社財産を守ると言う意味からも大切なことと思っています。戦前の官幣大社の場合、世襲ではなかったので、お宝が持ち出されることが続いたようです。官幣中社には世襲が認められていたので、お宝の持ち出しが防げたようです。


> 立砂つまり二つの三角錐の盛り砂を置くとそこに神様が降りられる。

 祓えの神が降りるのでしょうか。


> 祭の前に神様が神山から降りていていただくためのヒモロギ。

 かっての宮司さんは神降ろしが下手だったようで、からっぽの御阿礼神事になっていたのでしょう。非常勤でもいいから、神降ろしの出来る宮司さんに声をかけていたようです。確かに下手の人の場合、素人の笛のほうであっさり降りる神をおろせないと言うことがありました。

[9888] Re[9884]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/06/16(Tue) 21:38 [Reply]
> 賀茂氏・鴨氏と秦氏の関係が気になります。

 『山城国風土記逸文』から。
 賀茂の娘が川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れてきて、家の寝床の近くに置くと、みごもって男子が生まれました。別雷命です。矢は火雷命。

 よく似た話が『秦氏本系帳』にあります。秦氏の娘が葛野川で洗濯をしている所に上流から矢が流れてきました。矢を戸の上に置いておくと、娘は懐妊して男子を生みました。父神に盃を言うと、天井を突き破って捧げました。男子を別雷神と言います。戸の上の矢は松尾大明神です。

 松尾大神は秦氏の祭る神で、近江の日枝山の神で松尾に坐る神で鳴鏑。秦氏の娘が秦氏の祭る神の子を生んでそれが賀茂の神である別雷神となると言うことになり、山城賀茂氏と秦氏との深い繋がりが見えます。

[9887] Re[9886][9884]: 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/16(Tue) 21:32 [Reply]
琉球松さん  お付き合い、かたじけない。

「B御阿禮神事」につて。。。
>本土側の「稗田阿禮」は個人名ではなく「歴史神話を伝承する者達」と解釈することもできます。

丹後の竹野姫も、固有名詞でなく竹野地方の姫の総称と言われました。

同じく稗田阿禮も職能なんでしょうね。阿禮は神現れとか、御生とかの意味だそうです。稗田阿禮は猿女君一族です。

猿田彦と天ウズ女でしょう。

私が不思議に思うことは・・・律令時代、天皇の下に神祇官と太政官があって、神祇官の中に神部が30人います。

中臣、斎部、鏡作、玉作 そして猿君です。この猿君は何を仕事とするのかが分かりません。

アマテラスを岩屋から出す裸踊りの名手だから、歌舞でもするのか、巫師なんでしょうか。それがノロなら神女ですね。猿田彦神社か椿神社が伊勢にあり、元々は宇治土公で海部ですね。

>  ですから、沖縄からみれば「稗田の阿禮」は、ユタ(シャーマン)ではなく、ノロ(神女)に近いと思います。本土にも似た神職の方がいたようですね?

琉球には不思議な神様がいますね。本島は久高島のノロが奉仕するのでしょうか。石垣島の来訪神は、アカタマ、クロタマの仮面。ミルク神、シャーカ神。
宮古島の島尻狩俣のバーンツーの泥塗り奇祭。

沖縄はフィリピン、中国福建省、日本本土など各地からの風習が伝わっていますので、良く分かりません。御嶽(ウタキ)も日本の神社に似ていますが相違点が良くつかめません。巫女と神女の違いは何でしょう。
青森のイタコや朝鮮の巫女(ムーターン?)とは違いましょうか。
沖縄は済州島から影響は受けていませんか。

も一つ、韓国には天の祭=農耕祭があります。百済では蘇塗といいいます。

三角錐の積石を作りその上や横に木を建て、そこが聖域です。

対馬にも海岸にたくさん三角錐の石積があります。

上賀茂神社の立砂は三角錐の盛り砂でここに神様が降りてきます。沖縄には三角錐の積石はありませんか。


[9886] Re[9884]: 上賀茂神社と秦氏  琉球松 2009/06/16(Tue) 16:53 [Reply]
とみたさんへ 「B御阿禮神事」につて。。。

 「あれ」は『沖縄古語大辞典/編集委員会(角川書店)1995』に "基・命令" とでていますね。
 また、奄美大島での次期ノロ候補者の少女は「アラボレ」と呼ばれています。これは「新(アラ)御阿禮」ではないかと考えます。
 とい言うのも、琉球圏で神事に携わる者には「カンシャレ(神シラレ)・アムシラレ(母シラレ)」など「しラレ」のつく名の方が多く、「ラレ」は「阿禮」の転訛ではないかなと。。。
 さらに、ノロ(祝詞を謡う者?)が神歌など、古い神事や歴史を伝える責任者であることから、本土側の「稗田阿禮」は個人名ではなく「歴史神話を伝承する者達」と解釈することもできます。

 ですから、沖縄からみれば「稗田の阿禮」は、ユタ(シャーマン)ではなく、ノロ(神女)に近いと思います。本土にも似た神職の方がいたようですね?

[9885] 神官の争い  橋本 2009/06/15(Mon) 21:34 [Reply]
宇佐の神官の争いは現在でも起きているようですね!地方(神宮)と中央(本庁)との争い。

[9884] 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/15(Mon) 13:42 [Reply]
賀茂神社には、いろいろ謎があります。皆様からヒントをいただければ幸い。
世界遺産の上賀茂神社と下鴨神社。

@先般、ぎおんさんから頂戴した、丹波碇高原山麓に薦池という集落がある。丹後宮津ヨサ宮で行われる葵祭り。

上賀茂神社には二つの狛犬があって、一つは獅子で中国由来、一つは一角の狛犬で朝鮮由来とのことです。狛犬は朝鮮の狛で高句麗でしょうか。

ここでも葵祭が行われます。

丹波と山代葛野は繋がる。賀茂氏・鴨氏と秦氏の関係が気になります。

A薦池と聞くと豊前の宇佐神宮のご神体の薦枕を想像します。720年の隼人の反乱には宇佐の八幡の氏子が薦枕を神輿に積んで大隈半島に攻め込みます。

宇佐には秦氏などの渡来人が多い。隋書に書かれる秦王国です。

宇佐には宗像の海の民が入っているでしょう。宇佐の神様の本来の主は比売大神で宗像神説が有力視されています。宇佐は東大寺に銅を支援して中央と結びつきを深めます。秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。

薦は宇佐の三角池でとれこの池も造ったのも秦氏か勝氏(辛島勝)か。

宇佐の神官の争いも気になります。宇佐氏vs辛島氏 vs 大神氏。

B御阿禮神事

 祭の前に神様が神山から降りていていただくためのヒモロギ。柴垣で囲み松や榊に神様が憑依される。

立砂つまり二つの三角錐の盛り砂を置くとそこに神様が降りられる。榊を捧持した矢刀禰が立砂を三度回る。
阿禮とはシャーマンのことでしょうか、古事記は稗田の阿禮が口承した。

C上賀茂の祭儀は最後に走馬=騎射=流鏑馬で山代県主が捧げました。山口博先生(聖徳大教授)に依れば、これは、中国の青海省レゴン市(同仁県)のチベット族である古代遊牧民の祭儀に似ているそうです。チベットにはボン教という土俗信仰と自然崇拝があるようです。

依り代を立て火を焚き、シャーマンが祈祷をし、抜刀を手にした男が馬を走らせる祭儀です。

秦氏は西域からやってきたという説、羌人(チベット系)説もあります。新羅説だけでなく、高句麗由来もありえます。。私はソグド人かもと思ったりしています。いずれにせよ北方からの匂いがします



[9883] Re[9882][9880][9879][9878][9877][9872]: 難波津と住吉津  琉球松 2009/06/14(Sun) 20:40 [Reply]
 神奈備さん、どうもです。

 「日本人の鏡のような人々」。。。そのとおりだと思います。
 朝鮮半島の人々の努力がなかったら、日本国は立ち上がっていないのかもしれませんね。

[9882] Re[9880][9879][9878][9877][9872]: 難波津と住吉津  神奈備 2009/06/13(Sat) 21:33 [Reply]
 『新撰姓氏録』太秦公 秦始皇帝三世孫孝武王から出る。とあり、その子の功満王や融通王が仲哀・応神期に来朝とあります。
 始皇帝の暴政やその後の混乱で大陸から半島は新羅の地に流れてきて辰韓を築いた民人が再び列島に流れてきたのでしょう。

>  秦氏は、百済からの「今来」じゃないでしょうか。

 『応神紀』には、秦氏の祖の弓月王は百済からやって来たとあります。融通王のこと。
 所が秦氏の居住地のお寺の瓦は新羅系だそうで、広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像は新羅出土の像と材質は同じ赤松で新羅産の木だそうです。

 辰韓=秦韓で、これが後の三韓時代の新羅ですから新羅からの渡来人とするのが一般的です。
 ただ、秦氏と言っても一人の先祖から出たわけではなく、秦氏の雇用した養蚕などに従事した部民なども秦氏の一族とされていったようです。

 まじめに働き、まじめに税金を納め、国政にかかわらない、日本人の鏡のような人々だったようですね。
 

[9881] 火焔土器の国  神奈備 2009/06/13(Sat) 20:02 [Reply]
大阪府立弥生文化博物館 平成21年度夏季特別展

火焔土器の国-5000年前のメッセージ-

講演会
6月27日(土)「燦燦 火炎土器を生み出した人びと」
水野正好(財団法人大阪府文化財センター理事長)

□ 時 間  いずれも午後2時〜4時
   □ 会 場  弥生文化博物館1階ホール
   □ 定 員  いずれも170人
          (当日先着順、午後0時30分より整理券配布、午後1時30より受付)
   □ 聴講料  無料(ただし入館料が必要です)

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_natu.html

[9880] Re[9879][9878][9877][9872]: 難波津と住吉津  琉球松 2009/06/13(Sat) 19:15 [Reply]
 秦氏は、百済からの「今来」じゃないでしょうか。その根拠地の一つが「山城・山背」とされていますよね。

 奄美沖縄の神歌の定型句対語の一つは「ヤマト〜・ヤシロ〜」が圧倒的多数ですが、久高島のそれは「ヤマト〜・サウル〜」となっていて、「ヤシロ(山城)=ソウル」と考えられます。「奈良」も朝鮮語だと言われていますし。。。

 まあ、遠回りですけど、秦氏は朝鮮渡来集団かなと考えてみましたがどうでしょうか。

[9879] Re[9878][9877][9872]: 難波津と住吉津  神奈備 2009/06/11(Thu) 09:47 [Reply]
> 秦氏ははたして(駄洒落)何処からやってきたか。

 秦氏の祀る神々はどうも特定の神ではなく、時に八幡、時に稲荷、賀茂、また秦始帝、秦河勝とさまざまな神を祀っているようです。秦河勝は実在していたように思われますが、生誕譚は初瀬川に流れていた壺の中にいた赤子だったとの伝承があります。


> 敏達天皇の577年に日祀部をおいていますね。

 『紀』では、この大王は「不信佛法。」だったようですが、次の用明大王は「信佛法尊神道」のタイプでした。神祀りを本分とする大王としては具合がよろしくないと云うことで、酢加手姫皇女を伊勢神宮に遣わし齋宮とし、日神を祀り、彼女は以降37年間齋宮をつとめています。
 大王が仏教を信じ場合、齋宮を置いて神祀りを行ったということで、これが『隋書』に云う「天=兄=齋宮」で、大王が「日=弟=用明」にあたるのかも知れません。
 
 ここで日神=伊勢と見えますが、これは『紀』の編纂した頃の日神観であり、実際には伊勢には行っていないのでしょう。
 酢加手姫皇女は敏達の娘だ母は葛城の娘で、タカミムスヒを祀る高天彦神社か二上山付近に居たのかも知れません。 

 齋宮の酢加手姫皇女は推古29年に引退、同じ年に聖徳太子とその母とされている間人皇后(用明の皇后)、太子の妃、聖徳太子の時代を支えた三人の女性がまとまって死んでいます。推古天皇を含め年増の3人の内、何人かは同一人物かも。

[9878] Re[9877][9872]: 難波津と住吉津  とみた 2009/06/09(Tue) 14:16 [Reply]
>  元々の皇祖神はタカミムスヒの神だとのことで、この神は渡来系の神としています。確かに『顕宗紀』の、「高皇産靈有預鎔造天地之功。」と云う字句があり、日本の神になじまない台詞です。

壱岐の月神が阿閉臣事代に神がかりして《我が祖を高皇産霊はで天地を鎔造》、山代の葛野に領地を割かせてツキヨミ神社を置かせますね。

対馬の日神が、磐余に領地を割かせて高皇産霊を祀らせます。

壱岐氏は、秦氏と関係がありそうです。

壱岐は卜骨がたくさん出土しています。亀卜でしょう。

(邪馬台国も亀卜です)。

お告げのあった顕宗三年は487年です。

5世紀後半、まさに秦氏が大活躍する時代。秦氏ははたして(駄洒落)何処からやってきたか。葛城から深草経由で葛野に来た説。豊前から宗像神の市杵島女神をもってきた説。

松尾神社や賀茂神社の祭神が気になります。

大山クイ神も気になりますね。

今木神のウナタリ神社の変遷もなぜか気になります。
高御魂神(タカミムスビ)を祭る。高木神は北方アジア系の神様といわれます。

今木神は、高野新笠の父の和乙継が祀っていた神。それが王寺の久度神社や平安京の平野神社に移される。

韓神で竈神とも繋がっている。高野新笠ー桓武は道教・神仙思想や風水に兎に角うるさい天皇である。

長岡京と交野は郊祀で中国の祭祀を採用し殺牛儀礼も行う。機物神社では七夕が行われる。

因みに、竈神は3世紀に入るらしい。黄羊が人の善悪を天帝に告げて人の寿命を司る。

桓武をサポートする秦氏と和気氏。和気氏は、道鏡事件で活躍するが元々は奈良時代後半の戦乱で舎人として藤原氏を助けた功績で出世した。
和気氏は、日本後記で・・・出自を鐸石別命の孫の弟彦王で神功皇后時代に逆賊忍熊別との戦乱での軍功としている。時代が操作されていますが、鉱山開発に関係があれば秦氏も関係しそうです。

タカミムスヒが鎔造とあるのは鍛冶に関係がありそうです。シャーマンと鉄はまた深いつながりがありそうです。化学的な変化は古代人には大きな呪力でもあったのでしょう。

>  『敏達六年紀』で、日祀部を置いています。日祀部の祖神もタカミムスヒ。この30年後に隋国に使いを出しています。西暦600年(推古8年)『隋書倭伝』に

敏達天皇の577年に日祀部をおいていますね。宮廷の太陽祭祀にタカミムスビの日の神を先祖神と採用した証ですね。

常陸と下総の境をなす、下海上の国造を移して、奈良の他田宮で太陽祭祀をさせています。

日祀(奉)部と日置部は関連があるのかどうか??

日置部も太陽祭祀に関与していそうですし、鉄や鋳物に関与しているという説もありますし

[9877] Re[9872]: 難波津と住吉津  神奈備 2009/06/08(Mon) 09:33 [Reply]
> 溝口睦子さんの”アマテラス誕生”という本が、直木先生も評価されているそうです

 元々の皇祖神はタカミムスヒの神だとのことで、この神は渡来系の神としています。確かに『顕宗紀』の、「高皇産靈有預鎔造天地之功。」と云う字句があり、日本の神になじまない台詞です。ムスヒのヒは日であり、霊ではないとしています。

 『敏達六年紀』で、日祀部を置いています。日祀部の祖神もタカミムスヒ。この30年後に隋国に使いを出しています。西暦600年(推古8年)『隋書倭伝』に、「倭王は、天を兄とし、太陽を弟としています。云々。」とあることについて、『古事記』の冒頭の三柱の獨神を持ってきて解読しています。

 天御中主神ーーーー天
 高御産巣日神ーーー日・・・倭王の祖神
 神御産巣日神ーーー日

 天を兄とし、日を弟としているとの解読です。遣隋使はこれを知っていて、統治の方法を紹介したというのです。別に答えを持っているわけではないのですが、いささか苦しい解釈にも見えます。

 さらに、『隋書倭伝』には、「倭王、姓は阿毎、字は多利思比弧。天を兄、日を弟、王の妻は雛彌、太子を名づけて利歌彌多弗利となす。」との記載が見えます。この時の遣隋使の派遣の記事は『日本書記』にはありません。次の推古十五年の派遣や翌年の答礼については『日本書記』に書かれています。小野妹子。

 倉西裕子『称徳太子と法隆寺の謎』(平凡社)では、多利思比弧を太子日子とし、聖徳太子のこと、利歌彌多弗利は利→和とし、ワカフタリと読み、若翁と表記できることを示しています。長屋王の皇子を若翁としています。大王の3世孫になります。聖徳太子の子を指すことば。
 卑弥呼と男弟のような彦姫の制度は長くこの国の統治形態として残ったのでしょう。

[9876] Re[9875][9872]: 難波津と住吉津  とみた 2009/06/05(Fri) 10:19 [Reply]
神奈備さん 毎々ご教示有難うございます。

> 住吉の津は4-5世紀に津守連が運営。渡来人は少ない。

> 難波の津は5世紀後半に盛んになる。東生郡は難波忌寸と日下部が担当。
>
>  画像掲示板に難波・住吉の遺跡の盛衰と地図を載せました。
>  出典は「上町台地の北と南」積山洋氏 『大阪市文化財論集』から。

読ませていただきました。
>   崇禅寺遺跡は倭王権の成立前後の時期に畿内勢力にとって重要な地域だった。しかし神崎川の流路が淀川・大和川の土砂の堆積で水上交通の要衝と云う立地の有利さは消えていったようです。
>  さらに土砂の影響は河内湖の氾濫を呼び、為政者のしては捨て置けず、難波堀江の開削を行ったのでしょう。法円坂の倉庫群もその頃に建設された。
>  
>  その時期よりやや遅れて住吉の桑津遺跡、山ノ内遺跡などが出現してきた。住吉における集落遺跡は5世紀後半から末に発展し、難波と住吉は一体となって一つの時代を迎えたようです。

住吉の方が後ですか。

百済の堤防で最も古いのは、金提市の碧骨堤だそうです。4世紀の百済王権の下で造られた遺跡です。狭山池と同様な敷葉工法(草土工法)のようで農業用の水利用だそうです。

大阪府教委の小山田宏一さんも研究なされています。大阪府の亀井遺跡や八尾市の久宝寺遺跡は弥生中期に稲作はなされていたようですが、5世紀に渡来人が増え、築堤開田がなされたとされています。
旧東除川水系は大雨があると下流から溢れる水で困った筈です。

百済の堤防技術を移転したのでしょう。河内湖南の中河内は5世紀から入植が始まるのでしょう。

滋賀県立大の田中俊明教授の、新撰姓氏録の分析で、河内の渡来民の内訳は、55氏で
15氏は百済支配層またはその子孫、3氏は高麗人(つまり高句麗人)一氏は新羅人、残り36氏は歴代の中国の支配層の流れを汲む子孫です。

秦氏は通説では新羅人とされるようですが、田中さんの分析では秦氏や漢氏は中国
由来の人となるのでしょう。

漢人が一時期、韓半島に住んでそれから日本(倭)に渡るという事でしょうか。

河内には中国王族の血を引く支配層が先に移住していて5世紀には技術者集団を呼び寄せたのかもしれません。支配者が河内に侵略したのではなく、北方の遊牧民の文化を持つ集団を呼び寄せた。中国の5胡16国時代の争乱の余波が韓半島や日本にも伝わった。

移住民がもたらした5世紀の文化・・・・・

馬/須恵器/武具/土木技術/農具/かまど/畿内型横穴式石室。私は特に農具がU字型の鉄製の鋤鍬の出現に注目しています。

都出比呂氏先生も5世紀の農具や開墾道具の発達を指摘されています。
農業が生産性を増し、川の工事が大規模になるのは鉄の道具が丈夫になったからでしょう。

[9875] Re[9872]: 難波津と住吉津  神奈備 2009/06/04(Thu) 21:46 [Reply]

> 住吉の津は4-5世紀に津守連が運営。渡来人は少ない。
>
> 難波の津は5世紀後半に盛んになる。東生郡は難波忌寸と日下部が担当。

 画像掲示板に難波・住吉の遺跡の盛衰と地図を載せました。
 出典は「上町台地の北と南」積山洋氏 『大阪市文化財論集』から。


  崇禅寺遺跡は倭王権の成立前後の時期に畿内勢力にとって重要な地域だった。しかし神崎川の流路が淀川・大和川の土砂の堆積で水上交通の要衝と云う立地の有利さは消えていったようです。
 さらに土砂の影響は河内湖の氾濫を呼び、為政者のしては捨て置けず、難波堀江の開削を行ったのでしょう。法円坂の倉庫群もその頃に建設された。
 
 その時期よりやや遅れて住吉の桑津遺跡、山ノ内遺跡などが出現してきた。住吉における集落遺跡は5世紀後半から末に発展し、難波と住吉は一体となって一つの時代を迎えたようです。ただ、住吉津と目される細江川河口付近(住吉さんの鎮座地)にはこれに該当する遺跡が出ていないようです。

[9874] Re[9873][9872]: 難波津と住吉津  とみた 2009/06/04(Thu) 09:33 [Reply]
素人さん 

私も素人です。元々は理数系で、現役を退いて俄か勉強で数年間、古代史を追っかけています。

とても指導なんてできませんが、有効と(勝手に思う)話題を提供して皆さんの是非論を伺っては、知識を磨こうと思っています。難波ー住吉のテーマは神奈備さんがお得意な事柄ですので、判断を仰ごうと思っています。

> 勉強させていただいております。
> > 住吉の津は4-5世紀に津守連が運営。渡来人は少ない。
> >
>
> 渡来人が度々登場しておりますが、渡来人はどんな人でしょうか。
> 下級官吏などに採用されたとありますので漢字漢文の出来る人でしょうか。(史部)
> 中国においても、識字率の極めて低い古代においては漢字漢文が出来る人はほんの一握りであったと思われます。朝鮮の方で漢字漢文が出来る人は稀人であったと思われます。こう考えると日本に来られた中国人、朝鮮人のごく一部が渡来人でしょうか。
> 低いレベルで、技術などでかろうじて渡来人扱いされた方もあったのでしょうか。
> 運の悪い朝鮮の方では、蝦夷とおなじ蛮族として部落に入れられ長期(100年?)にわたって監視され、同化していったと聞いたことがあります。
> 色々夢想するのですが、実態はどうだったのでしょうか。
> 極東アジアでは超エリートと思われる人が、どうして日本に流れたのでしょうか。
> 大陸では王朝が変わるごとに文人墨客が入れ替わったりしたと考えることもできますが、朝鮮半島でも中国人等は大事にされたと思うのですがどうして逃げ出したのでしょう。

私の判断を述べさせていただきます。
民を二つに分けるべきでしょう。

平民と支配層です。

百済でも王族は扶余とか高句麗から流れてきたツングース系の民でしょう。
平民というか、土着の人は支配層が代ってもしぶとく生活を続けるでしょう。韓族でしょうね。

倭の国も同じで、平民は山の民、海の民で、土着民です。支配層が流れてきたと思っています。渡来人は一般に王族や貴族或いは技術者だと思います。

韓半島は前漢時代から中国の植民地でしたので楽浪には漢人がある程度は入っていて支配層をなしていたと考えます。

東アジアの動乱を、弥生時代前ー中ー後期、古墳時代前ー中ー後期と分け日本と韓国(高句麗・新羅・百済・伽耶)と中国と地域的に分けて考察し、積み上げるしか方法は無いのではと考えます。

日本も九州、山陰、畿内など分ける必要があります。

この地道な作業の上に、文献と考古学と神社などの分析を加えて練り上げる。

この作業の過程で皆様のお知恵を借りています。

私の当座の作業仮説は、直木孝次郎さんや溝口睦子さんのご意見を基本に考えています。5世紀に、天皇族が河内に進出し北方遊牧民の王権思想が取り込まれたのではなかろうか。つまり応神・仁徳以降です。天を至高の神とするタカミムスヒが最高位でありアマテラスは最高位でない。日本書紀ではタキミムスビが最高位の神様です。

神武東征とか欠史八代が本当にあったか。そのモデルは誰かという常套の論争に発展します。
何時も気にしている日置氏も多分関係があると思っています。日置氏と日奉部が同じかどうかも気になります。

大伴氏や忌部氏は天皇族と同じくタカミムスビを先祖としています。







[9873] Re[9872]: 難波津と住吉津  素人 2009/06/04(Thu) 01:04 [Reply]
とみた様
勉強させていただいております。
> 住吉の津は4-5世紀に津守連が運営。渡来人は少ない。
>

渡来人が度々登場しておりますが、渡来人はどんな人でしょうか。
下級官吏などに採用されたとありますので漢字漢文の出来る人でしょうか。(史部)
中国においても、識字率の極めて低い古代においては漢字漢文が出来る人はほんの一握りであったと思われます。朝鮮の方で漢字漢文が出来る人は稀人であったと思われます。こう考えると日本に来られた中国人、朝鮮人のごく一部が渡来人でしょうか。
低いレベルで、技術などでかろうじて渡来人扱いされた方もあったのでしょうか。
運の悪い朝鮮の方では、蝦夷とおなじ蛮族として部落に入れられ長期(100年?)にわたって監視され、同化していったと聞いたことがあります。
色々夢想するのですが、実態はどうだったのでしょうか。
極東アジアでは超エリートと思われる人が、どうして日本に流れたのでしょうか。
大陸では王朝が変わるごとに文人墨客が入れ替わったりしたと考えることもできますが、朝鮮半島でも中国人等は大事にされたと思うのですがどうして逃げ出したのでしょう。
毎度の青草の支離滅裂な質問ですが、ご指導ください。

[9872] 難波津と住吉津  とみた 2009/06/03(Wed) 11:47 [Reply]
中ー南河内の地、南に住吉郡、北東に東生(成)郡、北西に西生(成)郡がある。

住吉郡の北東部と東生郡の南部を分割して百済郡が天平年間730年代に出来たとされる。

住吉の津は4-5世紀に津守連が運営。渡来人は少ない。

難波の津は5世紀後半に盛んになる。東生郡は難波忌寸と日下部が担当。

西生郡は吉士(難波吉士)と三宅忌寸が担当。

吉士は、航海技術に長ける新羅系の人。

三宅氏は新撰姓氏録では、新羅王子、天日矛の末裔、記紀でも田道間守の後裔とする、やはり新羅系。

難波の堀江とか満田堤の開拓や治水は秦氏が担当し、これも新羅系でしょうか。

難波屯倉は朝廷の倉庫でしょうから、これの運営は新羅系の難波の吉士や三宅氏が担当したのでしょう。

百済系は難波津の運営が行われた後、白村江で百済が敗れた7世紀後半にやってきて、多く増え過ぎたので、8世紀に百済郡が設置される。

河内湖の南には、5世紀はじめは伽耶からの渡来、後半から百済からの渡来が増えることとの整合性が気になります。

直木孝次郎先生は、応神が河内に入ることから天皇族が始まる。

溝口睦子さんの”アマテラス誕生”という本が、直木先生も評価されているそうですが、遊牧民の動きが活発になって5世紀のはじめに北方系の王権思想が機織や建築・金属加工、乗馬の風習など多くの先進技術、先進文化とともに入ってきた。

信仰は、タカミムスビ神である。河内に入ってきたと思われます。

八十島祭祀は、河内王朝(仁徳)の即位儀礼であると岡田精司先生は唱えられています。

直木先生は、記紀の話は応神・仁徳以降の話でそれ以前は、過去に遡って修正増補された架空の作り噺、造作とされています。

ただ、八十島祭の場所が熊川で行われることに、注意を向けられています。熊と神功皇后との関係です。

熊が虎に勝つのが朝鮮の建国噺です。神功皇后と熊の関係が不思議だそうです。熊鰐、忍熊、振熊が敵味方の将軍です。





三宅連は

[9871] 紀ノ川と紀伊水門  神奈備 2009/06/01(Mon) 15:25 [Reply]
神武紀 名草邑に進み、名草戸畔を誅す。
仲哀紀 熊襲の反乱を聞いて船で徳勒津から穴門へ向かった。
神功紀 武内宿禰は皇子を抱いて、紀伊水門に泊まった。
皇后は紀伊国日高で皇子に会い、小竹宮に移った。御坊と粉河に候補地。
応神紀 三年 百済の辰斯王が貴国に無礼だったので紀角宿禰らを遣わした。
紀角宿禰の年齢を20歳と仮定する。
この頃、紀ノ川下流に鳴滝倉庫群が築かれた。 応神は四一年まで。
仁徳紀四一年 紀角宿禰を百済に遣わして国郡の境や産物を記録させた。
紀角宿禰の年齢は20+(41−3)+41=99歳となる。→応神仁徳同一説
雄略紀 九年 三月 紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿宿禰を新羅討伐に派遣。
大将軍紀小弓宿禰は病没した。
         五月 紀大磐宿禰は父小弓が死んだことを聞き、新羅に行き、自分勝手にふるまう。
顕宗紀 三年 紀生磐宿禰、任那から高麗へ行き、三韓の王たらんとして神聖と名乗った。
欽明紀二三年 紀男麻呂宿禰を遣わして任那に到った。
敏達紀一二年 紀国造押勝らを遣わして百済にいる日羅を召しに行った。
崇峻紀 四年 紀男麻呂宿禰らを大将軍に任じ、二万余の兵を筑紫に出発させた。

紀伊水軍の活動期間は5世紀後半から6世紀後半の任那滅亡までの期間が主な時期。
これは宮が再び南大和に置かれた時期に合う。即ち難波への攻撃への懸念があったのかもか。
大和川は水運に向かない、淀川は飛鳥や三輪橿原からは不便、紀ノ川の水運が利用された。
紀伊水門から半島へ行く兵士は軍神でもある五十猛神に祈願して赴いたのであろう。
海外との緊張関係が解け、また難波津の役割が増大してくるにつれ、紀伊水門の役割が低下。
紀国造の齋祭る神は伊太祁曽神社「五十猛神」から農耕神の日前国懸神宮へと替わって行った。


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