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掲示板のログ(平成二十一年 七月 2009.7)お名前の敬称は省略しています。

[9924] Re[9923]: 倭国大乱の200年後  神奈備 2009/07/31(Fri) 14:30 [Reply]
豊中歴史同好会の8月8日の例会は、近つ飛鳥博物館 館長の白石太一郎先生の
5世紀のヤマト政権と上毛野です。
場所、時間は http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2009.html

[9923] 倭国大乱  とみた 2009/07/31(Fri) 10:39 [Reply]
考古学者の白石太一郎さんの考え方に、九州地区の考古学的な分析を加味する。弥生時代の後期後半に西日本の動乱があった。各地に防御性の環濠集落が増える。

倭国大乱でしょう。2世紀後半。北九州 VS 大和ー吉備ー瀬戸内勢力 の鉄を巡る争奪の争いで、大和の邪馬台国が勝利する。豊前・豊後では環濠集落が増える。東方から来る勢力の防衛とされている。


その後、西日本を制覇した邪馬台国は東日本の美濃・尾張・北陸・中部に勢力を張る連合の狗奴国と戦い、勝利する。

これは3世紀の内乱でしょう。

これが終わって庄内式土器併行期には環濠集落が消えてゆく。
箸墓古墳は、西日本と東日本がまとまった記念であり、卑弥呼がなくなった247年。呪術的統合の象徴の欠失を補填するモニュメントであろうか。

文献に詳しい遠山美都男さんも、2世紀後半に起きた最初の倭国大乱の後に統一が成った西日本に加えて東海・中部地方が新たに倭国王の統合に加わるのが、3世紀半ばごろの二度目の倭国大乱の後とされている。


[9922] Re[9921][9918]: 武内宿禰と天日槍命  神奈備 2009/07/28(Tue) 08:14 [Reply]
> いや〜大変です。

 すざましい空想!です。
 歴史家ではなく歴史作家と云う御仁なのでしょう。
 先に作家として名をあげた人々の書く歴史や歴史小説の方が遙かにしっかりとした説得力がありますね。

 大阪の某書店では、歴史コーナーの隣に疑似歴史と云うコーナーを設けていました。アイヌ語から古代史を読み解く書物が発行された当初には疑似に分類されていましたが、現在は堂々と歴史コーナーに鎮座まします。

[9921] Re[9918]: 武内宿禰と天日槍命  多美 2009/07/27(Mon) 01:17 [Reply]
> 関さんと云う古代史作家の本に、武内宿禰とは天日槍命のこととあるそうです。どちらも神話的な存在であって、そのお二人が同一人物(同一の神)だとの物語で、否定も肯定もしかねるポイントを狙ったお話のようです。

「蘇我氏の正体」関裕二著の第四章、天日槍と武内宿禰の謎、にありました。

神功皇后(トヨ)と武内宿禰が夫婦だった。辺りまでは理解できるような気がします。そういうこともあるのかなあ、程度。邪馬台国の卑弥呼を滅ぼしたのは大和朝廷の意を汲んだトヨ(神功皇后)、卑弥呼の跡継ぎ男王は武内宿禰、トヨが治めた。
そして、トヨ宿禰は大和朝廷に裏切られ日向に逃げた。後、子供が応神皇・・・・。

いや〜大変です。

[9920] Re[9919]: 近江の旅(古代史探訪)  神奈備 2009/07/25(Sat) 10:38 [Reply]
> 桑名

 桑名は名前が似ていると云うことで狗奴国の首都ではと云う説があるようです。
 銅鐸は出雲、近畿・東海を主な分布地としています。特に後者が狗奴国領域に重なり、ここに銅鏡を掲げる勢力が侵攻・制圧したので、銅鐸は壊されたりして隠されたのでしょう。


> 白子

 白水郎のこと、面白いですね。当地に式内の久留真神社が鎮座、ここから淡路島に勧請されたのが伊勢久留麻神社。


> 近江

 渡来人が集まっている地域のようです。琵琶湖の存在が、何か有れば船で避難できると云うことで住み易かったのかも。
 天日槍の足跡も残っています。これが息長氏につながったかも知れません。また三上山を御神体とする御上神社の祭神が天之御影命で、この娘が息長水依姫でこれまたその後裔に息長帯比売がいることになっています。
 三上山の周辺に銅鐸、天之御影命(=天目一箇命)、息長氏と古代史のキイワードがならびます。同時代ということではないでしょうが・・・。

[9919] 近江の旅(古代史探訪)  とみた 2009/07/24(Fri) 10:01 [Reply]
近江の古代史遺跡を訪ねて 投稿者:とみた 投稿日:2009年 7月24日(金)09時52分40秒 返信・引用
近江の旅で、ふと思ったことです。

18日の前後に一人旅で能登川(東近江市)の埋文センターと野洲の銅鐸博物館を訪れ学芸員と簡単に会話しました。その話をつないで見ます。

埋文センターでいただいた、能登川の神郷亀塚の資料を見てたら一つだけ面白いことを発見しました。

能登川は江戸時代につけた名前だそうです。古代は神崎郡でした。

琵琶湖周辺は、湖東が神郷亀塚で3世紀前半で前方後方墳です。

湖南は栗東や草津で伊勢遺跡があるところですね。これは2世紀かな。3世紀は富波遺跡でしょう。

湖西が高島の新旭町の熊野本遺跡です。ここは3世紀です。ガラス玉が出ていて丹後の奈具や加悦の日吉ケ遺跡などと似ている様な気がしますね。

湖北が息長の土地です。坂田郡で米原の北でしょうか。ここに小松遺跡があります。これは3世紀の墳墓です。

これらが3世紀の登場豪族ですね。東海式とクナ国との関係や如何です。

伊勢湾の桑名の近くの白子という地名が白水郎ということでこれは潜水漁法であわびや魚を取る人たちがいたのでしょう。海部民です。

愛知県の尾張には尾張族の本拠のお宮さんが真清田神宮です。尾張一宮です(尾張二宮が熱田神宮)。

これは木曽川の近くで一宮駅の近くです。木曽川は南下して桑名の近くに流れ込みます。まさに海部です。

古代は朝日遺跡が一宮の名古屋よりの清洲・枇杷島にありました。

清洲には廻間(ハサマ)遺跡があり東海式土器の本拠です。八王子遺跡も一宮で2世紀ー3世紀のものです。

枇杷島には弥生時代遺跡があり、環濠集落がありました。

野洲の銅鐸博物館で学芸員が、漏らした言葉です。

銅鐸の元祖は菱環鈕T型で横帯文があるのが朝日遺跡で出た。


[9918] 武内宿禰と天日槍命  神奈備 2009/07/21(Tue) 20:23 [Reply]
関さんと云う古代史作家の本に、武内宿禰とは天日槍命のこととあるそうです。どちらも神話的な存在であって、そのお二人が同一人物(同一の神)だとの物語で、否定も肯定もしかねるポイントを狙ったお話のようです。

新羅本紀の脱解の項に、「脱解 本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。云々」とあり、ルーツは倭国の多婆那國(丹波?)にあるとしています。天日槍命は新羅の王子であるので、脱解の末裔としているようです。

また、天日槍命は新羅の王子であるので、新羅に降臨した素盞嗚尊の末裔ともされているようです。

脱解王の次の王は南解次次雄と云い、何となく「すさのを」を連想させます。

さて、関さんは脱解や素盞嗚尊の末裔が天日槍として倭国にもどり、武内宿禰となって大活躍とのこと。

武内宿禰は紀朝臣の祖であり、また紀直の血が途絶えたのでやはり紀朝臣から跡継ぎを得ています。そういう意味で紀国一の宮の日前国懸神宮の御神体はそれぞれ日鏡と日矛と云われており、日矛=武内宿禰は成り立つかも知れません。更にこの神宮は江戸時代には八幡造でした。武内宿禰の匂いもするのかも。

[9917] ムスヒの神  神奈備 [Url] 2009/07/17(Fri) 19:36 [Reply]
 皇祖神は元々高皇産日神だったが律令制の頃の天照大神に替わって来たと云われます。

 神々のうち、ムスヒの神は火魂神 生魂神 足魂神 稚魂神 玉魂神、熊野夫須美神など多くの神名が残っています。

 ムスヒとは「万物を生み出す日の力」であり、ムスヒは天帝でもあり、日月でもあると云われます。

 高皇産日神のタカミとは、「高い所に坐す貴い」と云った意味。

 火魂神 ホムスヒ 火の神とか火伏の神のようです。 
 生魂神 イクムスヒ 生命を生み出す神
 足魂神 タルムスヒ 生命を十分に生み出す神
 稚魂神 ワクムスヒ 若々しい、生み出す神
 熊野夫須美神 熊野に坐す万物を生み出す日の力

 一方
 生国魂、咲国魂と云う神々もいます。

 生国魂 国を生む神
 咲国魂 国を富ます神

 なお、上記の「神」とは「精霊」と云う意味の方が似合うようです。

[9916] 太陽神  神奈備 [Url] 2009/07/13(Mon) 19:57 [Reply]
男性太陽神の末路

 高皇産日神 『古事記』の冒頭で、「独神と成り、身を隠したまひき。」と消されています。
 蛭子     太陽神は一つであるべきとされ、従って不具としてうち棄てられました。
 猿田彦 伊勢の海で貝にかまれて泡をふきながらおぼれ死にました。
 火明命 海部・尾張の氏神。天照御魂神の大半は天照大神に置き換えらてしまいました。
 饒速日尊 天皇家につかえる連の遠祖として生きながらえましたが、長髄彦を裏切り殺しました。裏切り者の汚名を背負い続けています。

[9915] 伊勢と日神  神奈備 [Url] 2009/07/13(Mon) 09:04 [Reply]
疑問6 伊勢と日神

 『記紀』神話の天岩戸開きの項に登場する神々の拠点は伊勢。

 天手力男命は多気郡の佐那神社。『古事記』(天孫降臨の段)に「手力男神者、坐佐那那県也」とあります。伊勢の語り部が朝廷に持ち込んだということでしょう。

 猿田彦は男性太陽神で伊勢志摩の漁民の神と言われています。阿射加神社、椿大神社の祭神です。

 猿女君の祖である天之宇受女命も勿論伊勢に拠点があったのでしょう。

 天武の頃に草薙剣を熱田神宮へ奉納しています。おそらく同じ頃に古来より天皇家に伝承されていた八咫鏡を伊勢へ持ち込んだものと思われます。この鏡は九州平原弥生遺跡から出土した直径46.5cmの
と同じサイズと思われます。延暦時代の『儀式帳』に「正体御船代一具、内一尺六寸三分」とあり、これは49cmで丁度鏡の大きさが一致しています。

 この八咫鏡を伊勢神宮の御神体として持ち込んだ事は、いわば皇室の天照大神を遷座させたと言えますし、それは九州からやって来たと言っていいのでしょう。青草ですが、皇室のルーツとして邪馬台国の卑弥呼を認識していたのかも。

[9914] Re[9913]: 稲荷山と雄略と伊勢  神奈備 [Url] 2009/07/11(Sat) 19:50 [Reply]
とみたさん、ありがとうございます。

> 脱退して自立の道をとった。

册封体制からの離脱は聖徳太子の「日の出る国の天子、日の没する国の天子に。」が決定的だったそうです。「天子」を名乗るのが自立の証でしょう。


> 伊勢神宮は天武・持統天皇時代に立派になりますが、雄略の前後から伊勢も注目され始めたのでしょうか。

 『アマテラスの誕生』筑紫申真著(講談社学術文庫)によりますと、多気大神宮の度会への遷宮をもって伊勢神宮の成立としています。『続日本紀』によりますと、文武二年(698)のことです。

 持統天皇は5年(691)に伊勢国へ行幸しますが、どうやら伊勢も多気も神宮には立ち寄っていないようです。


天照大神と伊勢についての疑問5 天武天皇は日神を天照大神と名付けたのは何故か。天照御魂神を取り込んだのか。

 大海子皇子は幼少時和泉の凡海氏によって育てられたと思われますが、摂津説もあるようです。育てた凡海氏は尾張氏と同族です。壬申の乱の際、この縁が役立ったのでしょう。

 そういうことで、天武天皇の崇める日神は海洋神の日神だったのです。

 天武天皇は泉州を基点に難波・淡路・瀬戸内、また凡海氏つながりで尾張・美濃とも結びつきを深めたのでした。

 天武は難波に執着、難波宮の復活を図りました。河内湖・大阪湾を照らす日神を崇めたことでしょう。

 日下の上から登る太陽、河内湖を見事の照らし、日の落ちる夕刻まで実に見事な日神の仕業。これは下照姫神の働きによると思っていたのでしょう。この下照姫神こそ天武にとっては天照大神の原形だったのです。先ず、日神を海照大神と命名したのかも知れません。

[9913] 稲荷山と雄略と伊勢  とみた 2009/07/11(Sat) 10:11 [Reply]
神奈備さん

いつもありがたく読ませていただいています。奈備はカーナビのナビ (ナビ=Navigate(ナビゲート)役です。

>雄略朝で伊勢の朝日郎を討伐、伊勢を支配下においた。さらに東国への進出。これは稲荷山の刀が語っています。

先日、アジア史学会がありまして、稲荷山の鉄剣などの話を伺ってきました。
日韓中の学者と郷土史家との論争でした。

剣の銘文の辛亥はやはり、471年が正しいようです。倭王の武つまり雄略の時代です。

このころは、中国の南宋に倭武王は上表して、高い将軍格を認めてもらおうとしたが、高句麗や百済より低い格しか与えてくれないので、脱退して自立の道をとった。それでと関東や東国に進出しようとしたようです。

その根拠地が稲荷山古墳のあるところです。それまでは、古墳が全然無い土地でした。

西隣の埼玉=北武蔵の比企地方の勢力が、稲荷山に移ってきたようです、ここは荒川と利根川の間の土地です。中央の雄略とタイアップして毛野国を制覇し、東国に進んだようです。

この時代は、韓半島は金管伽耶が衰えて、内陸の高霊の大伽耶が栄えます。新しい馬飼や技術者・工人が入ってきました。

その東国進出の本拠として伊勢が重視されるのでしょう。

伊勢神宮は天武・持統天皇時代に立派になりますが、雄略の前後から伊勢も注目され始めたのでしょうか。


[9912] 天照大神と高皇産日神  神奈備 2009/07/10(Fri) 20:12 [Reply]
疑問4 天照大神が高皇産日神とならんで皇祖神となったのは何故か。

 『万葉集』 天照らす日女の命 天照らす神の御代より 久かたの天照る月 の使い方があり、天照は天照大神だけではない使い方がありました。

 天照高彌牟須比命、天照御魂神、阿麻?留神と言う日神々がおり、これらを総合しての天照大神は全てを包む日神の敬称となった。

 高皇産日神は渡来系の神と認識されておりました。特に新羅への対抗心のためにも、国産の独自の神がほしい所です。

 天照大神は壬申の乱の勝利への貢献と言われますが、具体性はありません。大海人皇子が伊勢で天照大神に祈ったとの記事があるだけです。要は太陽に祈願したということ。しかし、『万葉集』199 の高市皇子の殯宮への人麿の歌に
 去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
 とあります。いかにも度會に斎宮があったように歌っていますが、後智恵でしょう。

 律令制の導入を行い、天皇家を頂点とする政治体制構築のため、伴造中心の体制を打破して伴造の祖神でもある高皇産日神を押さえて、古来より馴染みのある日神の天照大神を持ち込んで天皇家の氏神としたということでしょう。

[9911] 伊勢と言う場所  神奈備 2009/07/10(Fri) 08:24 [Reply]
疑問3 後世、伊勢と言う場所に皇室が日神を祀ったのは何故か。

 雄略朝で伊勢の朝日郎を討伐、伊勢を支配下においた。さらに東国への進出。これは稲荷山の刀が語っています。

 継体朝の基盤は近江・北陸・尾張にあります。伊勢はその要衝にあたる重要な地です。

 伊勢には朝熊山などへの日神の降臨伝承が残っています。元々から多くの日神が祀られていたのでしょう。
 猿田彦神も伊勢の漁民の奉ずる太陽神と思われます。猿女君はそれに仕える巫女。この猿女君が朝廷へ持ち込んだ話が天孫降臨に組み込まれたのでしょう。

 『伊勢国風土記』には、「伊勢津彦は国を天孫に献上、日の如く照り輝き、東海に去った。」とあります。日神であり風の神でもあるのでしょう。

 伊勢、阿波、日向など東側に海を持つ国は海から朝日が昇ります。朝日を見ますと海と天とは一体と感じます。

 東への窓口が伊勢の天照大神、西の要衝は宗像三神と神功皇后。香椎宮。


[9910] Re[9909][9908]: 伊勢神宮の齋宮の記録  神奈備 2009/07/09(Thu) 08:48 [Reply]
> 疑問2 伊勢への齋宮は本当はいつ頃からか。

 伊勢国のどこかに齋宮が設けられ、齋王がいたとの想定ですが、実は伊勢ではなく、大和国中だったと言うこと。

 雄略三年の栲幡姫皇女の記事ですが、天皇が、齋宮に皇女がいないことに気がついて、闇夜にあちこちを探し求めたとあります。天皇の住居の近くに齋宮があったということでしょう。

 欽明や敏達の皇女も皇子が周辺にうろうろしていたようですから、これも大和国中といえるでしょう。特に敏達帝の時期に、日祀部を置いています。他田とは、三輪山を南東方向に見る場所で、JR巻向駅の西側に他田坐天照御魂神社とされる神社が鎮座しています。敏達帝の菟道皇女はこの付近にいたのでしょう。王宮もこの付近。

 『日本書紀』の齋宮の記事については、伊勢とか五十鈴川とか出てくるのですが、こては後からの修飾でしょう。また、この頃の日神、天照御魂神は男性神だったのかも。

[9909] Re[9908]: 伊勢神宮の齋宮の記録  神奈備 2009/07/08(Wed) 10:37 [Reply]
> 疑問1 齋宮は、何故、やたら犯されるのか?

 天岩戸の前の天鈿女神の姿が齋宮や巫女の神祀りの姿であり、裸身顕示の祭礼であったようです。(松前健『日本の神々』)。見物人が居たのかどうかは承知していませんが、神懸かりになって祭儀を終えるのですが、終えた後も意識はもうろうとしており、姿も無防備だったのかも知れません。

 もう一つは齋宮の恋いもできないの身分がいやになり、出世の見込みのない皇子をそそのかして犯され、わざと解任される道を選んだと言う恋多い姫君だったとか。

 齋宮を犯すのは罪であり、雄略の栲幡姫皇女の場合、讒言されたその噂を立てられた廬城部連武彦は父親によって殺されています。また皇女も五十鈴川の川上に神鏡を埋めて経死しています。

 欽明の皇女の磐隈皇女と犯した茨城皇子については、皇女は解任、茨城皇子はその後のことは書かれていません。

 敏達の皇女の菟道皇女を犯した池辺皇子についても、その後のことは書かれていません。出世はしなかったのでしょうが、処刑される程でもなかったのかも。


> 疑問2 伊勢への齋宮は本当はいつ頃からか。

 伊勢を天照大神を祭る伊勢神宮とすれば、天武天皇の皇女の大来皇女が最初となるのでしょう。
 伊勢を、国として伊勢で太陽を祭る場と理解すれば、雄略天皇の頃に行われていたのを否定する根拠はなさそうです。雄略朝では伊勢の朝日郎を討伐、伊勢国を支配下においたとの記事があります。この朝日郎とはやはり伊勢の太陽神の一つだったのかも。
 雄略朝では稲荷山から出土した刀からも東国への進出が語られている通り、東国への窓口としては伊勢は要衝の地だったと言えます。齋宮の派遣も国の支配を強める一つの方策だったのでしょう。

 齋宮派遣について『日本書紀』がでっちあげの記事を載せるとしますと、5人の齋宮のうち二人も犯され、一人は噂をたてられて死ぬと言う物語になるのでしょうか。事実は小説より奇なりだったのでしょう。

[9908] 伊勢神宮の齋宮の記録  神奈備 2009/07/03(Fri) 08:57 [Reply]
崇神 5年 天照大神を豊鋤入姫命に託し、ヤマトの笠縫邑に祀った。

垂仁25年 天照大神を豊鋤入姫命からはなして、倭姫命に託された。伊勢国に至った時、天照大神は伊勢国は浪のうち寄せる傍国の美しい国、この国に居たいと託宣。五十鈴川の辺に齋宮。

景行20年 五百野皇女を遣わして天照大神を祭らしむ。

雄略 1年 栲幡姫皇女、伊勢大神の祠に侍り。
   3年 栲幡姫皇女、伊勢大神の祠に侍り。姦淫妊娠。五十鈴川の川上に神鏡を埋めて経死。

継体 1年 507 荳角皇女、伊勢大神の祠に侍り。

欽明 2年 541 磐隈皇女、初め伊勢大神に侍へ祀る。後に茨城皇子に奸され解任される。

敏達 6年 577 日祀部を置いた。他田に置かれたと言う。三輪山の日神を祀ったものと思われる。
   7年 578 菟道皇女を以て伊勢の祠に侍らしむ。池辺皇子に奸される。事顕れて解けぬ。

用明前期 585 酢香手姫皇女を以て伊勢神宮に拝して日神の祀り奉らしむ。推古天皇の世に及ぶ。ある本に曰く、37年間、日神の祀に奉る。

天武 1年 672 朝明郡の迹太川の辺で天照大神を望拝みたまふ。天照大神の名はまだない。
    2年 673 大来皇女を天照大神宮に遣侍さむとして、泊瀬の齋宮に居らしむ。
    3年 674 大来皇女、泊瀬の齋宮より伊勢神宮へ向でたまふ。泊瀬に籠もっている間に社殿建立?

持統前期 686 大来皇女、弟の大津皇子の謀反で任を解かれる。後任の指名はない。

文武 2年 698  9月 當耆皇女を遣わして齋宮とし、伊勢神宮に仕えさせた。

所で幾つかの疑問があります。

疑問1 齋宮は、何故、やたら犯されるのか?
雄略9年 凡河内直香賜と采女を胸方神に遣わし、香賜は神域で采女を犯した。
舒明8年 釆女を犯した者を取り調べて、みな処罰した。
と言う記事もあります。

疑問2 伊勢への齋宮は本当はいつ頃からか。皇祖神でなくとの齋宮を出すのは賀茂神に例があります。伊勢神宮が皇祖神を祀る神社以前に齋宮がでても不思議ではありませんが。
齋宮のはじめは雄略継体天武の頃か?

[9907] Re[9906][9887][9886][9884]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/07/01(Wed) 09:50 [Reply]
> 韓国や対馬は知らないけど、上賀茂神社の立砂は三角錐ではなく、円錐ではないでしょうか?

おっしゃる通りです。
どのようにして小石を積み上げるのでしょうかね。
砂時計のように上から砂を流すのかな。


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