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掲示板のログ(平成二十一年 八月 2009.8)お名前の敬称は省略しています。

[9948] Re[9946][9944][9942][9940]: 越国からの報告 鼠  神奈備 2009/08/31(Mon) 09:37 [Reply]
> 異変も外国の諜報工作かも知れません。

 同感です。朝鮮の各国から工作員が入ってきていたことでしょう。特に百済からは新政権と旧政権と二通りが来ていたと思います。

 641年。百済で義慈王が就任、弟王子一族と大臣達を島に流し、権力を集中します。百済からの人質であった王子豊章を頼って、流された一族と大臣達は倭国にやって来ました。反義慈王の工作が行われたのでしょう。

642年。高句麗、泉蓋蘇文がクーデターで王朝を倒し、傀儡の王を立て、唐と対峙します。また百済、新羅を攻めます。

 朝鮮での王朝の改革は権力の集中による国難への対処の現れで、これは倭国での天孫による権力の集中か、蘇我氏による権力の集中か、政局が緊張していくことになります。

643年、山背大兄王を襲撃、一族を全滅させました。王族の殲滅と言うことは蘇我大臣と雖も勝手にはできません。王家である皇極天皇の命令があったのでしょう。蘇我氏と言えば、山背大兄王でも古人大兄皇子でも中大兄王子でも蘇我氏の血を受けた皇子ですから、どうでも良かったのでは。
 僧旻は唐の高表仁や新羅の使いと行動を共にしています。倭国の外交責任者と高表仁とが折り合わず、高表仁は役割を果たせずに帰国しています。外交を仕切っていたのは山背大兄王だと思われます。襲撃の裏では僧旻が動いていたのかも。

 何れにしろ、山背大兄王の財産や武力は大王家に匹敵するほどのものだったのでしょう。誰がそれらを引き継ぐか、引き継いだ皇子が次期大王の最有力になるのでしょう。これらの主犯は古人大兄皇子や軽皇子だったのではないでしょうか。

 645年、乙巳の変が起こります。『紀』では、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺、翌日には蝦夷も死に、蘇我本家の滅亡となります。
 この後で大王になったのが孝徳天皇(軽皇子)ですから、彼が首謀者だったのでしょう。これには外交政策も関連しているのでしょう。孝徳天皇は親新羅親唐の政策、所が唐は女性国王を認めないので皇極天皇に退位を迫る目的もあったのでしょう。新羅の工作員の姿が見えそうです。ここにも僧旻の姿が・・。

[9947] Re[9938][9937][9936][9935][9934]: 桜井市出雲  素人 2009/08/29(Sat) 23:02 [Reply]
追加で。
大和出雲で考えたのですが、縄文・弥生時代に山岳地域で焼き畑を行うと、物凄い白雲が発生したのではないかと考えました。
焼畑
焼き畑体験 
http://www.fctv.ne.jp/mori/dentouyasai/yasai11/hiire4.jpg
http://www.fctv.ne.jp/mori/dentouyasai/yasai11/hiire5.jpg
焼き畑体験Web
http://www.fctv.ne.jp/mori/dentouyasai/yasai11/index.html
西米良村Web
焼畑で米良大根をつくる!
http://www.nishimera.jp/modules/contents_news/index.php/2008/0905yakihata/DSC_2960.JPG
http://www.nishimera.jp/modules/contents_news/index.php/2008/0905yakihata/yakihata.html
最近はダイコンや赤カブを作るのに焼き畑をしたりするようです。
御紹介したものは小規模ですが、大和出雲や白河の斜面で古代に焼き畑を実施して白雲が発生してこれが、強力な上昇風を誘発して巻向山の後ろに雲を発生させた。この雲がたまたま黒雲の帯として流れ、雷雲を発生させた。これから古代の焼き畑が祭事として発展したなどと考えると積極的な出雲と為るのですが。
尾根上の碧座での儀式と火の祭典、派手で古代人には受けたかもしれません。
青草失礼しました。

[9946] Re[9944][9942][9940]: 越国からの報告 鼠  素人 2009/08/29(Sat) 21:51 [Reply]
神奈備様
勉強させていただいております。
>
>  孝徳天皇は仏法を尊んだ人のようです。また僧が要職に着いています。寺院の営むのが難しい場合、助けると言っています。
>  いよいよ、難波長柄豊碕宮に遷る段には、僧侶二千一百余人を集めて経を読ましています。
白村江(西暦663年)の戦いの前で、高句麗と唐が闘っていたころではないでしょうか。日本は高句麗と同盟していた百済を応援しており、半島の戦への関与を強めていた頃ではないでしょうか。結構国内が騒然としていた時代でしょう。
越国も「大化四年(六四八)是歳 治磐舟柵以備蝦夷。」から蝦夷への討伐が強化されているようです。658年(斉明4年)4月、阿倍比羅夫は、船180艘を連ねて日本海岸を北上。660年(斉明6年)三月には、阿倍比羅夫は第二次遠征。200艘の大船団。阿倍比羅夫は北陸の越国の国司。白村江にそなへて、強兵である蝦夷の獲得なども有ったのかもしれません。百済救援軍の将として白村江で戦う。
大陸・半島の影響をもろ被っていた時代ではないでしょうか。
異変も外国の諜報工作かも知れません。
物凄い青草でした。

[9945] 丹生都比売神社の杉  神奈備 2009/08/28(Fri) 08:30 [Reply]
2007年に和歌山県の丹生都比売神社の樹齢160年の杉の木の農薬を入れられたことがありましたが、「なんとかですが、まだギリギリ生きてますよ。」とのことです。

[9944] Re[9942][9940]: 越国からの報告 鼠  神奈備 2009/08/25(Tue) 18:08 [Reply]
> 鼠って僧侶のことじゃないでしょうかね。

 面白い着眼です。

 『日本書紀』巻二五孝徳天皇即位前紀 天萬豊日天皇。略。尊佛法輕神道。

 『日本書紀』巻二五孝徳天皇即位前紀 沙門旻法師。高向史玄理爲國博士。

 『日本書紀』巻二五大化元年(六四五)八月癸卯 朕更復思崇正教光啓大猷。故以沙門狛大法師福亮。惠雲。常安。靈雲。惠至。寺主僧旻。道登。惠隣。而爲十師。別以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等宜能教導衆僧。修行釋教要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。令拜寺司等興寺主。

 『日本書紀』巻二五白雉二年(六五一)十二月晦 冬十二月晦。於味經宮請二千一百餘僧尼。使讀一切經。是夕。燃二千七百餘燈於朝庭内。使讀安宅土側等經。於是。天皇從於大郡遷居新宮。號曰難波長柄豐碕宮。

 孝徳天皇は仏法を尊んだ人のようです。また僧が要職に着いています。寺院の営むのが難しい場合、助けると言っています。
 いよいよ、難波長柄豊碕宮に遷る段には、僧侶二千一百余人を集めて経を読ましています。
 難波で一旗揚げようと僧侶が大勢やって来たのでしょう。

 都でなくなりそうになるとさっさと飛鳥へ戻る、気を見るに敏な人々。


 大化の改新の詔を見ていますと、支配階級は無法者の集団のようです。人民の持っている馬を略奪したり、地方では賄賂の取り放題、現在の状況に何となく似ているようです。平成の改新も要りそうです。

[9943] Re[9942][9940]: 越国からの報告 鼠  琉球松 2009/08/25(Tue) 08:41 [Reply]
訂正。。。

 「仏教の後退」は、物部と蘇我の対立が決定的となった後でしょうか。

[9942] Re[9940]: 越国からの報告 鼠  琉球松 2009/08/24(Mon) 09:35 [Reply]
 鼠って僧侶のことじゃないでしょうかね。

 三井寺の坊さんが鼠に変身したとか、又、沖縄での「エンチュ(鼠)円珍?」は世を混乱させる「サーカ(釈迦)」が放ったいまいましい動物です。

 それと、大化の時代というのも気になりますよね。この時代は一時的に仏教が後退しています。

[9941] 扶桑略記  神奈備 2009/08/22(Sat) 22:46 [Reply]
扶桑略記は12世紀にできた史書です。

大化と言う我が国初めての年号が定められたと言う『紀』の記事には疑問符

がついています。所が宇治橋架橋碑の碑文に大化と言う年代が彫られていま

す。橋寺に架橋碑の三分の一ほどの断石があります。架橋碑文によれば、宇

治橋は道登法師によって大化二(646)年に架橋されとあるのです。

 大化二年に宇治橋を造り始めました。橋の北側の石に銘があります。道登

は山城国の恵満の出身でありました。高句麗への留学生で元興寺の僧で、大

化二年に宇治橋をかけようと往復していたときのことです。

 ひとつの髑髏が奈良山の谷間にあって、人や獣にふまれているのを目にし

ました。道登は、気の毒におもって、従者の万侶(まろ)に髑髏を木の上に置

くように命じました。

 そして、その年の大晦日の夕方のことです。寺の門前にある人がやってき

て、「道登大徳の従者の、万侶という方にお会いしたい」と、いいました。

 万侶が出て会うと、その人は、「道登大徳のご慈悲をいただき、このごろ

、たいへん安らかになりました。あなたさまに恩返しがしたいのですが、今

夜でなければ恩返しをすることができません」と、いい、万侶をある家へつ

れていくと、戸がしまっているというのに、家の中にすうっと入っていきま

した。

 家の中では、たくさんのごちそうが用意されていて、その人は、自分の分

のごちそうを万侶にあげて、いっしょに食べました。

 そして、その夜半、午前四時ごろ。ある男の声がしたかと思うと、その人

は、「わたしを殺した兄がこようとしています。はやくここを出ましょう」

と、いいました。万侶が不思議に思って、そのわけを尋ねると、「むかし、

兄と商売にでかけ、私は、銀四十斤ばかりをもうけました。すると、兄はね

たんで、わたしを殺して銀をうばったのです。

 それ以来、わたしは、長い間、人やけものに頭をふまれ続けてきました。
でも、道登大徳のお慈悲をいただき、いまはこのように苦しみから免れてお

ります。それで、このご恩が忘れられず、今宵、こうして恩返しをさせてい

ただいているわけです」と、いいました。

 ちょうどそのとき、その母と長男が亡き息子の霊をおがむためにやってき

て、万侶をみつけて驚き、ここにきたわけをたずねました。

 万侶が、これまでのことを話すと、その母親は、長男にむかって、「ああ

、私の愛しいあの子は、おまえに殺されたのか。他人ではなく、おまえだっ

たのか」と、いいました。そして万侶に礼をつくし、ごちそうをふるまうの

でした。

[9940] 越国からの報告 鼠  神奈備 2009/08/21(Fri) 19:19 [Reply]
『日本書紀』大化二年(六四六)是歳◆是歳。越國之鼠。晝夜夜相連。向東移去。

 この年、越しの国の鼠が昼夜連なって東に向かって移動した。

 大化の時代にはよく鼠が群をなして移動したようです。倭京から難波へ、また白雉五年には逆に難波から倭の都へ移動しています。


 大化四年(六四八)是歳 治磐舟柵以備蝦夷。

 越国の磐船柵を造っていますが、どうも鼠との関連は不明です。

[9939] 越国からの報告 砂のいたずら  神奈備 2009/08/19(Wed) 17:31 [Reply]
 『日本書紀』巻二五大化元年(六四五)十二月戊午《廿四》◆戊午。越國言。海畔枯査向東移去。沙上有跡。如耕田状。☆是年也太歳乙巳。

 越国からの報告。「浜辺に漂っていた枯れた切り株がイカダのようになって東に流れて行って砂に残った跡を見ると、田地を耕したような形をしていた。」と。

 何本もの筋が並んだようになっていたと言うことでしょうか。
 またはしっかりした畝状のものが続いていたと言うことでしょうか。

 『紀』を記述する際に参考とした文献なり文書類に載っていたのでしょうが、正史に記述する程の意味があったのでしょう。よくわからない所。

[9938] Re[9937][9936][9935][9934]: 桜井市出雲  素人 2009/08/14(Fri) 00:33 [Reply]
神奈備さま
出雲でも裏の八雲山から雲が湧くのですね。
>  出雲の神奈備山の仏経山の北側から出雲大社の方を眺めると丁度雲が湧き出していました。写真掲示板にアップしました。平成18年10月31日午後。
>
西風で海からの湿った風が出雲大社の窪地に吹き込み暖められて、上昇気流として八雲山を駆け上り、上空に上昇して次々と雲を湧かせているのでしょう。湧いた雲が上空の西風で東に流れているのでしょう。点々と雲が続く場合が多いのですが、海風のために湿気が多く上昇力が大きいためか、連続した積雲となっているようです。
上空で風が弱くて雲が大量に溜まって強い上昇風が発生すると一気に広がった雲が収束して積乱雲となって雷と豪雨をもたらすのかも知れません。
縄文期は洪水や落雷による神への畏怖を感じていたと思われますが、弥生期になると水稲稲作など農耕に必須の水をもたらす恵みの雨へと変わっていったのではないでしょうか。
雲の名前が八雲ですから複数の積雲が湧き上がる激しい上昇気流の発生する所かも知れません。非常に大きな上昇気流の中では大きな上昇気流が何本も立ち上がっていることはたびたびあります。途中で集合したりしている場合もあります。積乱雲の発生地と、軽々に言えませんが社殿が被雷したことが度々あるのでしょうか。

>  縄文の頃にはどうだったのでしょう。八雲立つ。雨が降り、雷が鳴り響く。神が恵みをたてくれている、いや怒っているのだ。
>
前にも書きましたが、弥生以前の焼き畑(粟・稗など)のころは恵みもあったでしょうが、畏敬の念の方が大きかったのではと思われますが、水稲栽培が始まる弥生期には雨乞いが行われたでしょうから降雨への感謝の方が大きかったと素人は考えています。
お恥ずかしい、素人の青草でした。

巻向山の麓
白河(しらが)の集落付近の写真
雲が湧いているように見えます。
http://homepage3.nifty.com/giacomo/20050109t3.jpg
初瀬谷からの巻向山南東
雲がわいているように見えます。
http://www.unisys.co.jp/KANSAI/manyo/yama/images/y9_3.jpg
写真が小さくて済みません。
大和出雲・白河共に上空に雲が湧くようです。
蛇足の青草失礼しました。

[9937] Re[9936][9935][9934]: 桜井市出雲  神奈備 2009/08/13(Thu) 18:10 [Reply]
 出雲の神奈備山の仏経山の北側から出雲大社の方を眺めると丁度雲が湧き出していました。写真掲示板にアップしました。平成18年10月31日午後。

 出雲大社の本殿の天井には八雲の絵が描かれています。出雲だから八雲なのか、八雲だから出雲なのか、いずれにしても雲との関係が伺われます。

 天井の写真は画像掲示板の「2008年 8月23日(土)」にアップしました。
 ログは
http://www12.atpages.jp/kamnaviholiday/gazou/hei20/h2008.htm
です。

 縄文の頃にはどうだったのでしょう。八雲立つ。雨が降り、雷が鳴り響く。神が恵みをたてくれている、いや怒っているのだ。

[9936] Re[9935][9934]: 桜井市出雲  素人 2009/08/12(Wed) 02:41 [Reply]
神奈備さま
書き込み有難うございます。
>  雲が湧くので、出雲でしょうかね。
大和出雲は南向きの斜面に有りますので、雨降りの翌日など晴れた時は、太陽によって暖められた湿った空気は上昇風となって斜面を登り、雲となって山の斜面を駆け上るわけです。昼ごろからかなり低い高度から雲が現れると思われます。強い上昇風となるのは、白河川の深い谷の構造によると思われます。この為に、巻向山の裏側に雲が吹き上げられたように見えると思われます。
東西に延びる谷筋の南斜面ですから大和出雲は暖かい生活しやすいところではないかと推測されます。水にも恵まれていますし古代からの生活の場所であったと思われます。特殊な局地気象現象の見られる地域ですから、縄文以前から信仰の対象であったのかもしれません。しかし、細長い黒い雲の帯は他では見たことがありません。不思議にも足のような雲が横に張り出しているのです。三輪山上からの雷鳴の轟きも特殊です。積乱雲では普通、横に広がっていた黒い雲の広がりがあっという間に狭まって激しい上昇気流となって上昇して雷や激しい降雨をもたらします。だいぶ違います。
私は経験有りませんが、中を飛んで生還した人によると、洗濯機の中の様だそうです。
味気ない青草で失礼しました。
>大昔の出雲族はこの辺りに住んでいたとの伝承もあるそうです。
出雲族の信仰は縄文・弥生時代は雲と関係が深かったのでしょうか。

[9935] Re[9934]: 桜井市出雲  神奈備 2009/08/11(Tue) 17:46 [Reply]
 既に壊されてしまっていますが、野見宿禰の塚があったと言われています。

 『垂仁紀』に、野見宿禰と当麻蹶速との相撲の話があります。「当麻蹶速に勝つ者がいるのか」、「出雲国に野見宿禰と言う勇士がいます。」とあって、その日のうちに野見宿禰を呼んでやって来ます。近い所にいたのでしょう。

 大昔の出雲族はこの辺りに住んでいたとの伝承もあるそうです。


> 雲中の尾根上の神殿とかあると面白そうですが。

 ダンノダイラには巨大な磐座があり、現在も祭られているようです。

 雲が湧くので、出雲でしょうかね。

[9934] Re[9926][9925][9923]: 倭国大乱  素人 2009/08/11(Tue) 00:27 [Reply]
追加で、
地形から見ますと黒い雲の帯の元は大和出雲(巻向山の南側)から深い白河川の谷に沿って上昇して、巻向山の後ろ側に立ち上って、西に方向を変えるように思われます。
以下の航空写真に雲が映っています。
中心が巻向山、右下の雲が白河、家型マークが出雲。
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.54158693840233&lon=135.88708068061462&z=16&mode=aero&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.529270968857&hlon=135.89297617603&layout=&ei=utf-8&p=
黒雲の湧く所は青草ですが、重要なところのように思われます。
ここに
大和出雲の十二柱神社(じゅうにはしら)
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm
が有りますが、古代信仰との関係もありそうです。
出雲の出雲大社と何か関係があるのでしょうか。
大和出雲の北側の山が巻向山です。
雲中の尾根上の神殿とかあると面白そうですが。
蛇足の青草でした。

[9933] Re[9932]: カミと神  神奈備 2009/08/10(Mon) 08:14 [Reply]
> カミは「火の神」や「水の神」などのように個別な名前を持たずに、

 カミに素朴さを求めておられるのは賛成です。カミとは精霊というのかSpritと同じ様なモノを指しておられるのでしょう。

 それを文明的な材料で飾るなり安置する場所を設置するなりすると、何となく偉くなったようで、それを神と呼ぶのに相応しいモノに変わってくるのでしょう。

 そういう意味では「記紀神話」に登場してくる神々には固有名詞らしい名がついており、文明の衣装をまとった「神」なのでしょう。

[9932] カミと神  まさ 2009/08/09(Sun) 19:31 [Reply]
お久しぶりです。
突然ですが、皆さんは「神とカミの違い」についてどう思われますか?
私の中では、神は神話(特に記紀神話)に登場し、個別に名前があり、さらにある程度、大きな信仰団体(神社や氏子など)によって祭祀されていて、他方、カミは「火の神」や「水の神」などのように個別な名前を持たずに、また、主に素朴な信仰をもった民間(個人、家など)によって祭祀された方々なのではないかと思います。また、カミはアニミズムの影響が濃いのではないかなとも思っています。(神も多少なりとも、あるとおもいます。)皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

[9931] 草薙劔  神奈備 2009/08/08(Sat) 20:50 [Reply]
『日本書紀』巻二七天智天皇七年(六六八)是歳◆是歳。沙門道行盜草薙劔逃向新羅。而中路風雨。荒迷而歸。

摂津国東成郡の式内社阿遅速雄神社の由緒から
 新羅の僧、道行尾張国熱田宮に鎮り座す御神劔、天叢雲劔即ち草薙御劔を盗み出し、船にて本国へ帰途、難波の津で大嵐に遇ひ流し流され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり、放手 放出 今「はなてん」と云ふ)後この地の里人、この御劔をお拾ひ申上げ、大国主命の御子 阿遅鋤高日子根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ケ年後 草薙御神劔の御分霊は永遠に当御社に留まり座し、奉斎す。御神劔は天武天皇(四十代)の皇居、飛鳥の浄見原宮に御うつし申上げ・・・・。

『日本書紀』巻二九朱鳥元年(六八六)六月戊寅《十》◆戊寅。天皇病祟草薙劔。即日。送置于尾張國熱田社。

 難波の怪異の一つにカウントしてもよさそうなお話。
 要は僧の道行が熱田神宮の御神体である草薙劔を盗み出して難波から船に乗って故国に持ち帰ろうとしたが、劔の霊により嵐が起こり、ついには劔を投げ出して逃げたということ。里人が劔を拾って神社に置いたが、後に天武天皇の浄見原宮に遷したのを、祟りで病いになったとして熱田神宮に送ったそうです。

 この時、三種の神器のうちの八咫鏡も伊勢神宮(おそらくは滝原宮)に遷したものと考えています。

[9930]  キンニク・マン  生田淳一郎 2009/08/08(Sat) 18:19 [Reply]
 家康さん在住のころ、岡崎城に、現代でいえば「キンニク・マン」としか表現できないような怪物が出現しています。
 その怪物に就いては、べつだん、「血がドロドロ溢れ流れた」とは書かれていません。
 溢れ流れていたんじゃ、すぐに肉塊になる。

 すぐに U.F O へ短絡するということではなく、なんらかの“第三の途”を模索したいところで」。

[9929] 綿菓子  神奈備 2009/08/07(Fri) 10:58 [Reply]
『日本書紀』巻二九天武天皇七年(六七八)十月甲申朔◆冬十月甲申朔。有物如綿零於難波。長五六尺。廣七八寸。則随風以飄于松林及葦原。時人曰。甘露也。

 訳 天武七年 綿のような物が難波に降った。長さ5〜6尺、広さ7〜8寸、風にのって松林と葦原でひるがえっていた。人々が「甘露である」と言った。

 綿菓子が褌のようなサイズになったものが降ってきたということです。目出度いことなのでしょうが、一体何でしょうか。

 この年の12月に筑紫で大地震が起こっているようです。

[9928] 狐頭斷絶  神奈備 2009/08/05(Wed) 21:06 [Reply]
 最近、奇妙とは言えませんが、変なことが多いような気がします。

『続日本紀』巻十四天平十三年(七四一)閏三月己巳《十九》◆己巳。難波宮鎭恠。庭中有狐頭斷絶而無其身。但毛屎等散落頭傍。

 訳 難波宮で怪異を鎮祭させた。庭の中に狐の頭がちぎられて落ち、体部のないものがあったのである。ただ毛と糞などが頭のそばに散り落ちていた。

 後期の難波宮が完成して8年、3年後には都となるこの時期に、奇妙な事件が起こっています。
 一体、狐とは何物なのでしょう。上町台地の森から宮殿に紛れ込んで、番犬にでも襲われたとか。

[9927] Re[9924][9923]: 倭国大乱の200年後  多美 2009/08/02(Sun) 09:42 [Reply]
> 豊中歴史同好会の8月8日の例会は、近つ飛鳥博物館 館長の白石太一郎先生の
> 5世紀のヤマト政権と上毛野です。

群馬に「上毛かるた」というのがあります。読みは「じょうもう」です。
なかには、「かみのげかるた」などという人もいるようです。
その一枚に≪しのぶ毛の国二子怐竄ニいうのがあります。
毛は「け」と読みます。
二子怩ヘ前橋の東にある大室公園にあるらしいです。
六世紀あたりのものらしいです。
群馬県には8000基を超える古墳があるそうです。
因みに、太田市にある天神山古墳(東日本一)には目怐u天満宮」があります。
土地所有者は33代続く人らしいです。
近くの親戚の人は『おおほんけ』と呼んでいました。
天神山古墳は天神様を祀っていたので命名したらしいです。
目塚(めづか)は小字名とのこと(親戚の人談)。

ところで、
群馬県人は上毛と呼ぶのを気にしないが、栃木県に人は下毛は嫌がるようです。
そこで、折り合いをつけて「両毛」としたのではないかと邪推しております。

[9926] Re[9925][9923]: 倭国大乱  素人 2009/08/02(Sun) 08:52 [Reply]
訂正
> 帯状の黒雲が、向きを変えられる場所が、巻向であり箸墓の箸墓古墳でありたいへんに重要な場所であったと考えられます。

箸墓の箸墓古墳 誤)→箸中の箸墓古墳 正)

間違っておりました訂正してお詫び申し上げます。
 箸中ですが、御神体の黒雲の帯が囲い込んだ三輪山周辺の内側は御神域だったのでしょうか。青草ですが、ご神域の端の中で「はしなか(端中)」これに他の文字を当てて「箸中」素人のたわごとでした。
恥の上塗りでした。

[9925] Re[9923]: 倭国大乱  素人 2009/08/01(Sat) 23:54 [Reply]
とみた様
勉強させていただいております。
>
> これが終わって庄内式土器併行期には環濠集落が消えてゆく。
> 箸墓古墳は、西日本と東日本がまとまった記念であり、卑弥呼がなくなった247年。呪術的統合の象徴の欠失を補填するモニュメントであろうか。
>
度々書きまして、申しわけありませんが、以前奈良に行ったときに、遭遇いたしましたことを思い出します。初瀬山・巻向山から湧いた黒い雲は西に山を下り、巻向駅付近から箸墓古墳付近で向きを南に変えて、手の届きそうな低い黒雲の帯が169号線を三輪・明日香の方に下って行きました。
この後に三輪山上で激しい雷鳴が轟き、豪雨となりました。
黒い雲の帯こそ三輪の御神体かと考えております。
帯状の黒雲が、向きを変えられる場所が、巻向であり箸墓の箸墓古墳でありたいへんに重要な場所であったと考えられます。
箸墓古墳の伝説もこれと関係あるかも知れません。
国家の転換点に、この場所に、墓を造築される方はこの時代を代表される方で有ったと夢想いたします。
素人も箸墓古墳は特殊な墓であろうと考えております。
素人の青草でした。


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