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掲示板のログ(平成二十一年 十二月 2009.12)お名前の敬称は省略しています。

[10121] Re[10120][10113][10111][10110][10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  素人 2009/12/30(Wed) 00:15 [Reply]
追加の思い付きを。
朝日町から糸魚川までの約30kmが翡翠の拾える海岸ですが、この中央部にあたる15kmが有名な交通の難所、親不知海岸です。
親不知歴史の扉Web(詳しく交通の難所が解説されている。)
http://www.oyasirazu.net/index_01.html
 北アルプスの北端が海に落ち込んでいるところで、山側は険しい高山で迂回の困難なところで天然の強力な要害である。断崖の上に砦でも築かれれば突破は陸上からは困難と思われます。
翡翠の拾える海岸は、東西に分断されることとなります。翡翠の流れ出る、青海川と姫川は越中側から見ると親不知海岸の越後寄りと言うことになります。旅人は親不知を無事に通り抜けることに必死で足元の翡翠どころでは無かったのでしょう。
ヒスイ輝石Web(原産地と翡翠の流出範囲の図)
http://www.geocities.jp/horiuchihiroe/tishitu/tishitu3/kenkyu/hisui/a70724200.jpg
http://www.geocities.jp/horiuchihiroe/tishitu/tishitu3/kenkyu/hisui.html
この地図で解るように、小滝川、橋立の鉱脈地帯から鉱脈が富山県側の朝日町のヒスイ海岸の海底に伸びているように見えます。実際、朝日町のヒスイ海岸では翡翠が供給河川から離れているにもかかわらず、採取できるようである。
5世紀頃の越中宮崎の玉作り遺跡である浜山遺跡はこの地域に当たるわけです。こちらでの玉作りは鉄錐などを用いた、新しい技術の人のようですが、出雲とかから来られたのでしょうか。加工に手ごろな翡翠の原石は海岸から採取したのでしょう。
大和朝廷も親不知海岸では難渋したでしょうから、神奈備様が言われていたように能登から迂回して、佐渡に入りここを拠点として、越後を攻めたりしたかも知れません。
或いは、関東地方から信濃経由で、直江津や糸魚川に2方面から攻め入ったのかもしれません。それにしてもこの当時戦っていた蝦夷とはどんな人たちだったのでしょう。
青草でした。

[10120] Re[10113][10111][10110][10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  素人 2009/12/26(Sat) 22:42 [Reply]
>とみた様
>佐渡の鉄石英の玉作りの関係で興味があります。
>いつもの思い付きですが。
佐渡の近くの古い玉作遺跡を探してみますと翡翠の産地姫川の近くに長者ヶ原遺跡が有りました。少し西の直江津(上越市)から佐渡汽船のフェリーが佐渡の小木港を結んでいます。上越市には吹上遺跡が有って、姫川から運ばれた翡翠原石を用いて勾玉が作られていました。鉄錐は使用されていないようです。佐渡の玉作りでも鉄錐は無くて、石の錐(石針?)を使用して鉄石英の管玉や姫川の翡翠を手に入れて勾玉も作っていたようです。長者ヶ原遺跡の玉作りは縄文のようですからこれらの影響を受けた玉作りかもしれません。
新潟県上越市吹上遺跡 
http://www28.tok2.com/home/hide3/furusato/hukiage.htm
佐渡の玉造は縄文以来の翡翠勾玉の技術の影響が有るのでしょうか。

中国の弥生時代の交易船の真の目的は硬玉(翡翠)に有ったと思われますが、原石が新潟県・富山県辺りまではかなり出回って勾玉を作っていたようですが、よく中国人に嗅ぎつけられなかったものだと感心します。丹後半島から先は交易船の侵入は、蝦夷との関係からか弥生時代は困難だったのでしょうか。
翡翠の産地は秘密だったのでしょうが、勾玉が出雲の碧玉の勾玉となって翡翠が日本から消えてしまいました。
弥生時代から中国人が翡翠・翡翠とあまり嗅ぎまわるので、攻め込まれてはと警戒して日本から消し去ったのでしょうか。前にも書きましたが。
古墳時代中期には翡翠産地は大和朝廷の支配地で有ったようですから、大和朝廷が翡翠を消し去ったのでしょう。出雲の玉作の碧玉などでの独占とリンクしているようです。
浜山玉つくり遺跡
http://www.town.asahi.toyama.jp/site/historic/tamatukuri.shtml
お恥ずかしい青草でした。

[10119] おおすず  神奈備 2009/12/26(Sat) 09:41 [Reply]
 『銅鐸の祭と倭国の文化』三浦茂久著)と言う本を図書館で見つけて拾い読みをしました。鐸と鋤と言う漢字にススキ・スズキとの訓があるとしています。「今昔文字鏡」では訓に、おおすずがあります。

 漢和辞典によりますと、鐸には(漢)タク、訓は載っていませんが、意味としてスズ・大きなスズがあります。スズとは読めるのかも。
 鋤は(漢)ジョ、訓ではスキ、スく。

 『伊賀国風土記逸文』に、「猿田彦の女の吾娥津媛命は、四(日)神之御神の御神が天上から投げ降ろしなさった三種の宝器のうち、黄金の鈴を受領してお守りになった。その領有した御いわいどを加志の和都賀野のいった。現在の手柏野。」とあります。

 この「黄金の鈴」とは、金色に光る銅鐸と見ていいのでしょう。手柏野がどこであったかはわかりませんが、ペギラさんの銅鐸出土地リストの三重県の伊賀地方と思われる場所では以下の4箇所で出ています。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html

伝上野市千歳(旧阿山郡府中村千歳)  袈裟襷文の紐の双頭渦巻飾りの破片

上野市佐那具(旧阿山郡府中町)     一宮敢国神社

上野市比土東賀柳           袈裟襷文124cm 文久亥三年 長田川上流

名賀郡青山町柏尾湯舟(旧阿保村柏尾) 袈裟襷文 大正7年

 この中で地名に柏がついているのが4番目。ここの銅鐸かも。

 なお、伊賀で神がついている地名は(上野市)上神戸。神戸神社があります。

[10118] Re[10117][10116]: 出雲と玉作  素人 2009/12/25(Fri) 00:11 [Reply]
神奈備様
>他に久美浜や網野があります。規模の大きい潟湖の痕跡があるそうです。
>
久美浜は久美浜湾、網野は離湖(売りは京都で一番大きい湖) などでしょうか。
調べて見ますと離湖は古墳時代は海に開いた潟港であったようです。
久美浜湾は潟湖のような湾のようです。
奈具岡遺跡の周辺には嵐の時でも外航船が係留できる港があったようです。
御指導有難うございました。

[10117] Re[10116]: 出雲と玉作  神奈備 2009/12/24(Thu) 11:43 [Reply]
> 奈具岡遺跡のある丹後半島

 『古事記』開化天皇の条に、息長帯比売命の祖先の名が記されています。「迦邇米雷王。この王、丹波の遠津臣の女、名は高材比売を娶して生める子、息長宿禰王。この王、葛城の高額比売を娶して生める子が息長帯比売命。」とあります。この遠津臣とは丹波にあった津(港)を差配する豪族なのでしょう。
 丹後半島の東側には有名な伊根があり、良い港なのでしょうが、西側では渤海からの遣いが漂着した竹野郡大津浜があります。他に久美浜や網野があります。規模の大きい潟湖の痕跡があるそうです。

[10116] 出雲と玉作  素人 2009/12/23(Wed) 23:33 [Reply]
玉作で特異な存在になる出雲
玉作りは、縄文時代から有ったが、弥生時代になると生産規模が拡大して、生産場所も増加する。弥生時代後期後半から出雲の影響力が強くなり。古墳時代には生産が出雲に集約され、その後出雲のみで生産されるようになっていったようである。玉作りは弥生期から始まり、中央政権との関係からか、その生産が古墳時代以後出雲に集中しており出雲と中央政権の関係を考える上で参考となるかもしれません。
参考資料>
弥生時代後期後半以後は花仙山産碧玉(島根県玉造付近)が原料として各地に持ち込まれて管玉・勾玉が生産された。
「弥生時代後期後半以降(西暦150年以降)出雲の玉生産がその影響力を発揮し始める。
古墳時代(西暦250年〜西暦650年)400年間
     他地域での生産が急速に衰退する一方で、出雲に言わば玉造集団が集約されていく。この一連の動向には当時の政治的動向が大きく反映されていると推測される。古墳時代以降に出雲産玉製品が全国に流通・供給されていく背景には中央政権が深く関与しているものと考えられる。」
第 2 章 中国地方の玉作関連遺跡<玉作りの時代地域変遷詳細>
http://www2.pref.shimane.jp/kodai/about-kodai/tama/2.pdf
山陰地方における弥生時代の 玉作<最古の玉作遺跡は岡山県総社市南溝手遺跡です。>
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/293087/koukogaku-kouza080907-2.pdf

蛇足
奈具岡遺跡のある丹後半島ですが、外国の外洋船ですと、当時の日本の船のように大船の為に陸上に引き上げられないので、嵐の影響を受けずに停泊できる港が必要であったかもしれません。近くに天然の良港は有ったのでしょうか。対馬・壱岐などには有りそうに見えますが。

出雲の地形
神西湖の変遷(出雲の地形も時代により変わったようです。)
http://www.izmcci.or.jp/lake-jinzaiko/lake-jinzaiko-jinzaiko.html
青草ですが、お許しを。

[10115] Re[10114][10111][10110][10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  神奈備 2009/12/22(Tue) 17:00 [Reply]
> この直後に奈具岡遺跡に見られる玉造り工房、舶載品を含む多量の鉄器が見られると考えると、日吉ヶ丘遺跡墳丘墓の被葬者の存在が対漢交易に大きな役割を果たしたのかもしれません。

 『倭人伝』に、「その土地は、真珠や青玉を産出する。云々」とあり、青玉などは奈具岡で製作されたものもあったのかも。
 それにしても、大陸製の多量の鉄器が出土しているのは、裏の掲示板の浦島子の活躍を思わせます。

 所で、奈具と言えば、豐宇賀能賣神のたどり着いた場所です。その神が伊勢へ遷座する途中に立ち寄ったのが、大阪市内の玉造稲荷神社とされています。豊受大神を奉戴して来たのは玉造を仕事にしていた人々だったのかも。
 

[10114] Re[10111][10110][10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  くず 2009/12/21(Mon) 02:08 [Reply]
とみたさん、ありがとうございます^^
弥生時代中期の丹後半島出土鉄器を下にまとめてみました。

峰山町(京丹後市)途中ヶ丘遺跡 前期末葉から中期の環濠集落 鋳造起源の舶載鉄片
峰山町(京丹後市)扇谷遺跡   中期前葉鍛治滓

加悦町(与謝野町)日吉ヶ丘遺跡 中期中葉から後葉の集落跡
                 鋳造一字形鋤の刃部の破片2点
                 鍛造袋状鉄斧1点
                 鍛造袋状鉄鑿1点
                 板状鉄片1点
                中期後葉の貼石方形墳丘墓

舞鶴市 桑飼上遺跡       中期中葉 鍛造袋状鉄片
弥栄町(京丹後市)奈具岡遺跡  中期後葉 鉄器、鉄片204点 鍛治関係遺物

参考 
広島大学 野島 永氏の論文
「弥生時代における初期鉄器の舶戴時期とその流通構造の解明」2008年
http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/book/noji_kaken08.html
「鉄から見た弥生・古墳時代の日本海交流」2005年
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/74006416/BA66949967_5_21_34_nojima.pdf
「丹後地域における弥生時代の鉄をめぐって」2002年
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/74006416/BA57042037_88_93_nojima.pdf

中期前葉から見られる舶載の鋳造鉄器、鋳造鉄器に由来する2次的な鍛造鉄器の存在。
これは前漢、武帝の楽浪郡設置以前になり舶載された鋳造鉄器は燕か、衛氏朝鮮あたりからか・・
中期後葉になって奈具岡遺跡での多量の鉄器が目にやはり目にとまります。

日吉ヶ丘遺跡の貼石方形墳丘墓の被葬者頭部の位置に460点の管玉が出ています。
この管玉は面上に整然と並んでいて、布状のものに縫い付けられていたと想定されており、
これを漢の冠帯制度に見られる冕冠の可能性を考慮すべきと言う指摘があるそうです。
「冕冠」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0
冕冠は大夫以上(天子、諸侯など)の礼冠とされたようです。
後漢書に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 …」とあって印綬された奴国の使い人は大夫を自称したようで、それ以前から漢の身分制度認識が伝わっていたものと思います。
この墓の被葬者は集落遺跡の出土物から弥生中期中葉から後葉にかけての人物が想定されます。
この直後に奈具岡遺跡に見られる玉造り工房、舶載品を含む多量の鉄器が見られると考えると、日吉ヶ丘遺跡墳丘墓の被葬者の存在が対漢交易に大きな役割を果たしたのかもしれません。
個人的には、当時の瀬戸内に見られる状況(防御性の高い高地性集落)から、
朝鮮半島への直接航路を考えています。
冬の日本海は釣りで経験がありますが、ちょっと無理だろうなとは思いますけど。

素人さん、
奈具岡の鉄製工具を使った最新の玉造り工法はその後後期後葉に穿孔用鉄錐が作り出され
日本海各地へ広がるようです。
島根県松江市矢田町 平所遺跡
石川県金沢市塚崎町 塚崎遺跡
福井県福井市泉田町 林・藤島遺跡

中期中葉に拠点集落に付随した日本海側の玉造り工房や磨製石器工房は中期後葉(奈具岡遺跡の時代)になって衰退します。(独自工法の佐渡の玉造はべつ。)
拠点集落は解体し周辺への分散が見られます。

八日市地方(じがた)遺跡、能登の吉崎・次場遺跡などがそれで、長野の栗林文化圏とも深い繋がりがあったと思われる集落遺跡でした。

[10113] Re[10111][10110][10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  素人 2009/12/20(Sun) 20:39 [Reply]
とみた様
佐渡の鉄石英の玉作りの関係で興味があります。
いつもの思い付きですが。
>鉄は、竹野川沿いの奈良岡遺跡の丘陵の水晶工房から弥生中期のものが出て、中国河南省出土の鋳鉄脱炭鋼と判明している。
上記の文から単純に中国人が中国河南省出土の鋳鉄脱炭鋼など鉄製品を運んできて、中国でとても人気のあった奈具岡(なぐおか)丘陵産の魅力的な水晶玉と交易を行った。
当時、中国人にとって、とても儲けの大きい交易ではなかったかと思われます。
船は中国人の外航船で、とても危険な日本沿岸地域にお金のために出航した。
後の伽耶あたりで、水先案内人を乗せたのかも知れません。日本近海の低気圧の犠牲になった船も多々有ったかもしれません。瀬戸内海経由では何らかの理由で交易が出来なかったのでしょう。単発的な交易かも知れません。
すごい青草ですが、当時水晶玉は中国との交易品では、との記載もあります。

奈具岡(なぐおか)遺跡 各種水晶玉の写真が有ります。
ここの玉作は鉄製の錐を用いた穿孔とか当時のハイテクです。日本の古来からの石錐とは違う系統です。
http://inoues.net/tango/naguoka.html

[10112] 前1世紀における銅鐸の変化    とみた 2009/12/20(Sun) 16:46 [Reply]
>馬を運ぶ準鋼造船は5世紀始めに、往来したのも確かですが、日本海を渡れるか。
準鋼造船(誤)⇒準構造船(正)です

[10111] Re[10110][10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  とみた 2009/12/20(Sun) 16:41 [Reply]
丹後は川が幾筋か流れています。古代史の集落は入り江(潟湖)か川を遡ったところ。
北部の日本海に流れ込む、福田川と竹野川
。中部の若狭湾阿蘇海に流れ込む、野田川。南部は舞鶴湾に流れ込む由良川。

> 弥生時代中期後葉(前1世紀)以降、九州以東の銅鐸祭祀圏において、丹後地域からの鉄の出土が卓越します。

> もしその畿内(東側銅鐸祭祀圏中枢)と、大陸、朝鮮半島との窓口であった北九州文化圏の関係が良好であったなら、

鉄は、竹野川沿いの奈良岡遺跡の丘陵の水晶工房から弥生中期のものが出て、中国河南省出土の鋳鉄脱炭鋼と判明している。

弥生時代に朝鮮半島東岸から直接に日本海を渡る船があったか。北九州や出雲から日本海沿岸部を山アテ航法で丹後に来たか。

8世紀渤海と日本の間の遣使船が日本海と往来したことは確実ですがそれ以前に往来できたか。
丹後の人は、春夏は可能であろう、冬の荒海では無理とされていました。

馬を運ぶ準鋼造船は5世紀始めに、往来したのも確かですが、日本海を渡れるか。
考古学者は、日本海を渡った実証ができないとされています。

> 丹後地域が鉄資源を独占していたわけではなく、あくまでも大陸との流通窓口で、
> 連立政権(?)の盟主的存在はまだ畿内勢力にあったものと思っています。
> 弥生中期後葉の北九州地域と、畿内を中心とした九州以東が緊張関係にあったと考えると、
> 防御性の強い弥生高地性集落が瀬戸内、大阪湾岸に見られるのもこの頃からで符合します。

東部九州の別府湾南の豊後では弥生時代後期後半に、沿岸部の集落が台地上に移動して防御性環濠集落ができます。

大阪湾/吉備連合と豊前豊後の対決のようです。まさに2世紀後半の倭国大乱を示しています。

> 丹後の野田川流域、加悦町にある日吉ヶ丘遺跡で、漢の鋳造技術で造られた鉄斧などの鋳造品の出土と共に弥生中期後葉の貼石方形墳丘墓が確認されています。

弥生中期に野田川流域に、寺岡遺跡と日吉ケ丘遺跡が出来ます。
方形貼石墓と組合せ式箱型木棺です。未だ豪華な副葬品はありません。野田川には銅鐸が二個出土しています。

竹野川ー福田川を結ぶ地域に、弥生終末期の3世紀はじめに赤坂今井墳丘墓ができます。豪華な首飾りを副葬した女性のシャーマン王がいた証拠でしょう。まさしくシャマン(鬼道)女王の卑弥呼の邪馬台国と同時代です。

これは野田川の小さいクニを合併した王かもしれないと宮津の博物館の学芸員が言葉を洩らしました。
いずれにせよ丹後の独立王国は50年栄えたあと衰えまして4世紀になって、大和朝廷の配下となった勢力が大きな前方後円墳を造ります。

日本海沿岸部に普及する出雲の四隅突出墓が丹後にはなく、代わりに台状墓が多いのに注目しています。北部畿内の影響があるようです。

供献土器祭祀が、墓坑内から墳頂に移るタイミングや画期が検討課題のようです。

丹後の円礫を使う祭祀も何処から伝わったかも気にしています


[10110] Re[10106]: 前1世紀における銅鐸の変化  くず 2009/12/19(Sat) 23:32 [Reply]
弥生時代中期後葉(前1世紀)以降、九州以東の銅鐸祭祀圏において、丹後地域からの鉄の出土が卓越します。
当時の銅鐸鋳型は河内や摂津、大和など畿内で見つかっており、祭祀圏の重要な生産流通(配分)拠点は畿内にあったものと思われます。
もしその畿内(東側銅鐸祭祀圏中枢)と、大陸、朝鮮半島との窓口であった北九州文化圏の関係が良好であったなら、
丹後に見られるような鉄製品(舶載品)の卓越は、大阪湾岸にも当然見られるはずだと考えます。しかし数例の出土例があるだけで丹後には及びません。

銅鐸偏年上の当該期と思われる外縁付鈕1式、2式との間では組成比率(原材料の産地)仕上げ技法が変わりますが、出土分布地、祭祀方法(鳴る銅鐸)等に大きな変化は見られない事、
中期後半の銅鐸祭祀地域に鉄器が普及したと思われる事(太型蛤刃石斧の衰退)などから、
丹後地域が鉄資源を独占していたわけではなく、あくまでも大陸との流通窓口で、
連立政権(?)の盟主的存在はまだ畿内勢力にあったものと思っています。
弥生中期後葉の北九州地域と、畿内を中心とした九州以東が緊張関係にあったと考えると、
防御性の強い弥生高地性集落が瀬戸内、大阪湾岸に見られるのもこの頃からで符合します。

丹後の野田川流域、加悦町にある日吉ヶ丘遺跡で、漢の鋳造技術で造られた鉄斧などの鋳造品の出土と共に弥生中期後葉の貼石方形墳丘墓が確認されています。
貼石方形墳丘墓は弥生中期後葉から終末期までの丹後地域に特徴的な墓制ですが、
中期末の吉備西部(現広島県庄原市) 佐田谷・佐田峠墳墓群の中にも同様の形式が見られます。
この墳墓群には貼石方形墳丘墓の他に同時代(弥生中期末葉)の方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓の異なる3つの墓制が確認されています。
ここが当時の北九州文化圏と東側銅鐸祭祀圏の軍事的な境界ではなかったかと考えています。
貼石方形墳丘墓が丹後、方形周溝墓は畿内、四隅突出型は吉備の各地区からなんらかの(軍事上の)出先機関が置かれていたのではないでしょうか?
佐田谷、佐田峠(さただお)の地名にも境界の意味がありそうに見えます。

[10109] Re[10107]: 佐渡  神奈備 2009/12/19(Sat) 10:06 [Reply]
http://www.dai3gen.net/taniguku.htm
> 佐渡 を「さど」と読むのに迷いはないのが普通ですが、「さわたり」が原点ではなかったか、と思ってます。


 府中市の大国魂神社の社家は猿渡氏です。サワタリ。元は藤原氏だそうです。これは猿が谷を渡る際の猿の吊り橋を指して言っているのかな。
 人も猿もワタルのは境界であり、海みをワタと言うのも海峡をさした言葉。度津神社は海だろうと思います。

佐渡と書いて「さわたり」とよむ地名 例

秋田県本荘市薬師堂字谷地佐渡
三重県 熊野市 飛鳥町佐渡
新潟県 燕市 佐渡
高知県 高岡郡檮原町 佐渡
愛知県 名古屋市瑞穂区 佐渡町
他に佐渡川などもありそうです。

サドがアドやアズミと関係がないかを見ていましたら、長野県松本市安曇沢度(さわんど)が出てきました。他の多くの沢渡はサワタリとよんでいます。


> 南方土佐 北方佐渡

 これを対と見るとサドも棄てがたいところ。

[10108] 出雲に繋がる佐渡  素人 2009/12/19(Sat) 01:57 [Reply]
佐渡に弥生期の玉造の遺跡が有るようです。
佐渡新穂玉作遺跡
http://www.niigata-kankou.or.jp/sado/kanko/institution/5563.html
かなり大きな玉製造の遺跡のようです。
玉造の遺跡の多い出雲につながるかもしれません。
玉製品の流通路が日本海沿岸に沿って有ったのでしょうか。
青草でした。

[10107] 佐渡  大三元 [Url] 2009/12/18(Fri) 13:25 [Reply]
佐渡 を「さど」と読むのに迷いはないのが普通ですが、
「さわたり」が原点ではなかったか、と思ってます。理由など:
●「たにぐくのさ渡る極み」の形で、国内至る所くまなくの意を表す慣用句になっている。(時代別国語大辞典上代編)ことから国の果て、国境、という捉え方。
●「儺の祭の詞」(祝詞)に「四方之堺 東方陸奥 西方遠値嘉 南方土佐 北方佐渡」とあり、佐渡は北の境界として認識されている。
●倭名抄に「佐渡国 国府在 雑太郡 ・・・雑太(佐波太)」とあり、「サハタ」なる地名が確認される。(今の、佐和田町、であろう)「さわたり」の名残か。
●日本書紀に「渡島」という地名が出てくる。今の北海道(島)のことと考えられる。「さ」が「小さい」とか「若い」という意味合いの接頭辞だと捉えると、「佐渡島」と「渡島」を対比させて「ちょっと渡った島」対「本格的に渡る島」と見ることもできそうだ。

[10106] 前1世紀における銅鐸の変化  くず 2009/12/16(Wed) 01:38 [Reply]
銅鐸が外縁付鈕1式から2式に変わるときに、銅鐸を含む日本列島の青銅器の化学組成が変わるようです。
組成比率が朝鮮系遺物タイプから前漢鏡のタイプに変わるそうで、これは銅(錫もか)の生産地がそれまでと変わった事に対応するとみられています。
またこの変化とおそらく時を同じくして、九州以東(銅鐸祭祀圏)にも鉄器の普及が認められるようです。
例として、
○銅鐸の仕上げ過程で外縁付鈕1式期には見られなかった鋭利な工具を使った痕跡が2式以降にみとめられる。
 (表面文様の補刻、下部切断跡の削り痕等の変化)
 外縁付鈕2式は畿内第W様式の初め頃に成立したと思われる。
○畿内第W様式(弥生中期後葉)になって畿内の太型蛤刃石斧の大多数が使い古した状況で出土するようになる。
 →鉄斧(中国製か)の普及による衰退と見られる。
○同じく中期後葉、丹後の奈具岡遺跡の玉造り工房に併設された鍛治遺跡と鉄製工具、まとまった鉄素材が出土。

変化が起こる畿内第W様式期とは池上曽根遺跡(BC52年)等の年輪年代測定法の結果から前1世紀代にあたると考えられます。

前漢による朝鮮半島へ楽浪郡の設置がBC108年です。
青銅器の組成変化が前漢鏡タイプに変わることも考え合わせると、この変化はその影響下によるものと考えられないかと思います。
楽浪郡を通じ前漢から安定して鉄(銅)の供給が受けられるようになったのはないでしょうか。
みかえりとしては奈具岡遺跡で生産された水晶の玉など漢にとっても魅力的であったかも^^
九州以東の社会(おそらくは広義の出雲)が北九州(関門海峡、瀬戸内)を介さず、日本海を通じた前漢との独自交易ルートを持った。
弥生中期後半から後期、山陰、丹後の勢力が力を持っていったのはそれによるのでは?と思います。
疑問なのは、
籠神社に伝世鏡があるものの、九州以東では北九州のように鏡が出ない事。
畿内第W様式の土器とは、瀬戸内に特徴的な"凹線文が施される土器の他地域への広がり"が明確な指標になっている事。
瀬戸内方面から対外貿易の窓口となる山陰、若狭湾域へ移動した勢力があったのか。

[10105] Re[10104]: RE:銅鐸と神社  神奈備 2009/12/15(Tue) 20:03 [Reply]
> 弥彦神社と佐渡国一宮の渡津神社の関係は神奈備様のホームページを拝見しますと関係が深いそうです。佐渡渡船関連でしょうか。

 渡津神社へはなかなか参詣する機会がなく、延び延びになっています。心苦しいことです。
 祭神は五十猛神とされています。島根県隠岐郡にも同名同神の神社が鎮座しています。五十猛神を渡しの神とするのは、『播磨国風土記 飾磨郡』の因達の里の条に、「神功皇后渡海の際に、御船前の伊太氐の神がこの処においでになる」とあることからも頷ける所です。

 五十猛神は各地に祭られているのですが、特長は対馬・壱岐・隠岐・能登・佐渡などの日本海側の島に古社らしいのが鎮座していることです。イギリスの植民地支配は、インドに対するスリランカ、マレーへのペナン、大陸への香港と本土に近い島に先ず拠点をつくり、そこから徐々に浸透していきます。それと同じように五十猛神を奉ずる人々は列島に侵入するべく、近くの島に上陸したのでしょう。

[10104] Re[10101][10098][10097][10096]: RE:銅鐸と神社  素人 2009/12/14(Mon) 00:39 [Reply]
追加で、
佐渡といいますと、金山・銀山ですが古代においても隠し金山、隠し銀山などとして掘られていたのでしょうか。
弥彦神社と佐渡国一宮の渡津神社の関係は神奈備様のホームページを拝見しますと関係が深いそうです。佐渡渡船関連でしょうか。
佐渡の金銀は新しいように思われますが、砂金など産出していますし古代では砂鉄探査の副産物として砂金の発見もあったそうです。
渡津神社から北に6キロぐらいの所に砂金山という山が有り、この周辺で後の時代に砂金が産出しています。近くを流れる西三川川で砂金がとれたようです。
砂金ですから、初期段階では砂でなくて塊状の金も産出していたのかもしれませんし、これでしたら、川底から拾えばいいわけで簡単に採取できたかもしれません。このような金が、渡津神社を通じて弥彦神社に持ち込まれていたのかもしれません。
魅力的な収入です。(妄想)以下砂金山情報。
佐渡西三川金山遺跡
http://www.mapcall.tv/sadonavi/search/detail.asp?cid=1191
「佐渡西三川砂金山の歴史地理」(小菅徹也/著)<詳しい解説>
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1988/07/88_07_03.pdf
以下のように西三川ゴールドパークで砂金取り体験が出来るようです。(初級・中級・上級など有るようですが。)
佐渡西三川ゴールドパーク砂金取り体験:入場料 600(税込)
佐渡広場Webでの佐渡西三川関連。
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51445710.html
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51446177.html
相川金山は坑道掘りで新しいようです。
弥彦山を無理やり佐渡の金銀と繋げてしまいました。
有りそうにない、青草でした。

[10103] Re[10096]: RE:銅鐸と神社  くず 2009/12/13(Sun) 17:32 [Reply]
> 愛知県の八王子遺跡も弥生時代中期のもので、外縁付の銅鐸です。これが柳沢のものと似ているのですね。

先月まで長野県立歴史館に八王子遺跡出土の銅鐸の現物が来ており(秋季企画展)そこで柳沢銅鐸と比較する事が出来ました。
大きさ、文様(流水文=柳沢1号銅鐸)、各部位の磨耗状況など素人目にも良く似ていました。
外縁付鈕1式と2式の間で銅鐸に含まれる銅と錫の割合が変わるらしく、錫の含有量が多い外縁付鈕1式のほうが、2式に比べ腐食が少ない事も確認出来ました。

年代は外縁付鈕1式と銅戈大阪湾型(a類)がほぼ同じ年代で、その後外縁付鈕2式、九州型銅戈( 中細型c類)が継続して持ち込まれたと見られます。
また柳沢遺跡の主体土器である栗林式は最古段階が畿内第V様式の時代と見られるようです。
土器編年からは長野 栗林期最古段階 = 上越 吹上遺跡T期古段階(銅鐸型土製品)=
小松 八日市地方遺跡7期 = 尾張V−2期、V−3期が並行と考えられているようです。
 確実なところをまとめると
畿内第U様式後半 −朝日遺跡V期 菱環鈕1式鋳型の廃棄
畿内第V様式   −外縁付鈕1式の成立  
   長野 栗林期最古段階 上越 吹上T式最古段階(銅鐸型土製品出土)から、
   栗林式成立と銅鐸、銅戈が持ち込まれた時期は重複する可能性が高い。
畿内第W様式前半− 池上曽根遺跡 大型建築物(上限BC52年)

となり、畿内第V様式(弥生中期中葉)はBC100年頃から、BC200年(放射性炭素年代測定法)の間くらいとなりましょうか。
九州の奴国王に印綬があった年代(AD57年)頃とは出雲賀茂岩倉なども含め柳沢遺跡においても青銅器埋納が行われた頃と考えています。

柳沢遺跡の主体土器である栗林式は在地の縄文晩期土器(氷式)の特徴を受け継ぐ縄文色を濃く残した土器です。
集落を構成した主体は縄文文化を引き継ぐ地元の人達。
そこに最新の水耕稲作技術と開拓技術、ピカピカの青銅器祭器を持ち込んだ少数の
統治集団(祭祀者)がやってきたものと思います。
祭祀者のものと思われる墓も地元の墓制によります。(礫床木棺墓)
先進弥生文化をもたらした人物はそこでの神話に名を残したかもしれませんし、神の座に座ったのかもしれません。

柳沢遺跡から望む高社(こうしゃ、たかやしろ)山は神奈備山の雰囲気があります。
鎮座する高杜(たかもり)神社はご祭神を小彦名命、大国主命、建御名方命としています。

[10102] Re[10100][10093][10092]: 味耜高彦根命の出自は?  神奈備 2009/12/13(Sun) 10:18 [Reply]
> 神奈備さんは味耜高彦根命ファンですか、私は大己貴命のほうかなあ。

青草に移して・・・

[10101] Re[10098][10097][10096]: RE:銅鐸と神社  素人 2009/12/13(Sun) 02:22 [Reply]
とみた様
勉強になります。
神社関係は全くの素人ですが、
>
> > > 越後の弥彦神社は尾張族の天香山を祭るとしたら、その位置が信濃川河口?下流?
> > > でそれを遡った千曲川(長野県では信濃川を千曲川と呼ぶ)の中流域に柳沢遺跡がある。尾張族が関係するという妄念は、如何でしょうか。
> >
> >  水をさすわけではありませんが、横からコメントを。
> >
> >  趣旨に関連するのかどうかですが、越後の弥彦神社の祭神を天香山命としたのは、室町時代の『大日本国一宮記』です。
>
> 神社の由緒は、為政者の意図とか、神社の都合でかなり塗り替えられるような気がしています。乗っ取り、勢力の分割、いろいろあるようです。
>
弥彦山の裏の海岸には野積浜の男釜女釜(神代、祭神が上陸されたとされる。)が有ります。
女釜・男釜の洞窟でお弥彦さまが、塩たきをした伝説も有るようです。(後付けかも知れませんが。)
佐渡の松ヶ崎や羽茂からの弥彦山のお姿はなかなか御立派です。
蛇足ですが、羽茂は海岸から奥まった羽茂川沿いに中心街が有り、少し奥に佐渡国一宮の渡津神社(御祭神は五十猛命)がご鎮座されています。
古代は羽茂川に船を係留したり、川を遡って渡津神社の近くまで行けたのかもしれません。
弥彦山も裏から見ますと景色も違うようです。
時代と共に神社のあり方も表に変わったりするのでしょうか。
青草失礼しました。

[10100] Re[10093][10092]: 味耜高彦根命の出自は?  かたばみ [Url] 2009/12/12(Sat) 13:23 [Reply]
>味耜高彦根命についての記事を視ますと、心に波が立ってくる気分になります

神奈備さんは味耜高彦根命ファンですか、私は大己貴命のほうかなあ。
婿入りでいじめられても少彦名命と国造にがんばる大己貴命、その子の味耜高彦根命が各地に新文化を広めていったのでしょう。

この頃までは特段の争いもなく、持ちつ持たれつか(天孫のやってきた九州を除く)。
三内丸山類似の縄文の巨木柱をみて、出雲大社の伝・超高層が作り出されたのではないでしょうか。
(巨木柱は灯台であると考えています)


>泣きやまないもう一柱の神が神が素盞嗚尊

泣く理由が書紀には書いてありませんが、古事記では「妣の国、根の堅洲国に籠もりたくて」と書いています。
妣とは亡くなった母のこと、岩波古事記の解釈だと妣を伊弉冉尊とみなし、根の堅洲国を黄泉国とみなしています。

これは納得できません。
直前では黄泉国と書いているのに、新たに根の堅洲国と書くか? また、根とは故郷(祖先)の意であって地下のことではない。
加えて神話上ではありますが、素盞鳴尊は伊弉諾尊が独り神となってから生まれていて、母はいないはず。

素盞鳴尊が箕子朝鮮王族だとすれば解釈は簡明です(^^;
妣とは半島での「実母」であり、根の堅州国とは箕子朝鮮のこと。
古事記で文字を見るのは危険ですけど、堅固な中州にあった国、北朝鮮の大同江下流域は妥当な地形とみえます。

まだ子供の素盞鳴尊が家臣に抱かれて半島から列島へ逃れてきた、家に帰りたいよと泣き叫ぶ状況を神話化したもの。
なお、味耜高彦根命が泣くのは普通の夜泣きでしょう(^^;


>これが悪名高い蘇我氏の蘇我につながるとすれば

蘇我氏は本当に悪者だったのか・・書紀の情報操作に注意が必要と思っています。
書紀編纂には藤原不比等が強く関与しているはずで、その父の中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し権力を奪取した。
大化改新、言葉を飾るのは簡単ですが、それを正当化できる大義名分がなければただの簒奪者になってしまう。
少なくとも蘇我入鹿は悪者として書かねばならなかったのだと考えています。

なお、蘇我馬子は特に悪者にはしていないと思いますが、他からやってきて権勢をふるえば崇峻など地場勢力?の造反も起きるでしょう。
ま、いつの世も勝った方が正義となるか(^^;


[10099] Re[10098][10097][10096]: RE:銅鐸と神社  神奈備 2009/12/12(Sat) 11:40 [Reply]
> 吉備津神社の宮司にお会いした時、宮司は笑いながら、温羅伝説は、南北朝か、室町の時代に勧進のために作った伝承でしょうね。神社の格の高いことを宣伝したのでは。

 さもありなんのお言葉だと思います。奉職されている神社をしっかりと見られておられ、語られる勇気は称賛ものですね。特に朝鮮からの神を祭っている神社については氏子の圧力も大きいようです。

 それにしても、弥彦神社周辺には天香山命の眷属の方々にゆかりの神社と伝承が見事にできあがっているのは、ご指摘の温羅伝説にからむ神社や伝説とよく似たありかたに見えます。
 素盞嗚尊が降臨したと言う出雲の船通山(鳥上峰)の頂上には江戸時代に鳥居が作られたと言われており、室町時代以降に庶民も富を蓄え、知識も豊富になり、地元の伝承に想いをいたしたのでしょう。


> 物部も海人という説もあります。

 饒速日尊の降臨にお供をした船舶関係の名が『先代旧事本紀』に見えます。
 船長跡部首人等の祖 大阪府八尾市に跡部神社
 梶取阿刀造等の祖  山城国葛野郡に阿刀神社、阿刀の地名も各地に見えます。このアトと安曇とには関係があるのだろうと思っています。

[10098] Re[10097][10096]: RE:銅鐸と神社  とみた 2009/12/11(Fri) 20:33 [Reply]
神奈備さん ご指摘ありがとうございます。

私がごとき神社の素人は、由緒書に頼ってしまう傾向があり、専門家から訂正いただけることは歓迎です。併せて皆様に迷惑をおかけしたことをこの場を借りてお詫びします。(今後もミスをご指摘ください)。

> > 越後の弥彦神社は尾張族の天香山を祭るとしたら、その位置が信濃川河口?下流?
> > でそれを遡った千曲川(長野県では信濃川を千曲川と呼ぶ)の中流域に柳沢遺跡がある。尾張族が関係するという妄念は、如何でしょうか。
>
>  水をさすわけではありませんが、横からコメントを。
>
>  趣旨に関連するのかどうかですが、越後の弥彦神社の祭神を天香山命としたのは、室町時代の『大日本国一宮記』です。

神社の由緒は、為政者の意図とか、神社の都合でかなり塗り替えられるような気がしています。乗っ取り、勢力の分割、いろいろあるようです。

たとえば、私の少ない経験です。支障もありましょうが2−3述べさせていただきます。

吉備津神社の宮司にお会いした時、宮司は笑いながら、温羅伝説は、南北朝か、室町の時代に勧進のために作った伝承でしょうね。神社の格の高いことを宣伝したのでは。

元伊勢を巡り伊勢神宮に到着する、倭姫命世記は、外宮の渡会氏が偽書としてしつらえた話である。

敦賀気比神社の祭神は、元々は気比大神のツヌガアラシトであったのを、応神と神功が乗っ取ったのではないか。

高麗神社の祭神は、高麗若光とされているが、高麗福信であろうと古代豪族に詳しい学者の意見があります。

以上、枚挙に遑なし。

畏れ多いかもしれませんが、神社の真相に迫る、手がかりがほしいものです。





[10097] Re[10096]: RE:銅鐸と神社  神奈備 2009/12/11(Fri) 14:11 [Reply]
> 越後の弥彦神社は尾張族の天香山を祭るとしたら、その位置が信濃川河口?下流?
> でそれを遡った千曲川(長野県では信濃川を千曲川と呼ぶ)の中流域に柳沢遺跡がある。尾張族が関係するという妄念は、如何でしょうか。

 水をさすわけではありませんが、横からコメントを。

 趣旨に関連するのかどうかですが、越後の弥彦神社の祭神を天香山命としたのは、室町時代の『大日本国一宮記』です。現地調査をしたものではないようです。祭神の例をあげておきます。

 丹後 籠神社    住吉と一体なり
 伯耆 倭文神社   下照比売  @
 紀伊 日前国懸神宮 石凝姥
 対馬 和多都美神社 八幡宮なり A
 山城 上賀茂    大山咋命  B  下鴨 大己貴命 C
 佐渡 度津神社   五十猛神
 越後 伊夜日古社  天香久山命

 現在の常識(推敲を重ねてたどり着いた結論?)とはいささか違うようです。特に@〜Cなどには首を傾げたくなります。祭神は往々にして神社名が雄弁に語っているものです。
 越後の伊夜日古社は現在の弥彦神です。弥彦神の名は直接には記紀には出てきません。この神社と対になる神社が能登の伊夜比咩神社です。この二社の神社名を素直に見ますと、立派な男神、立派な女神と言うことになります。

 ことし帰幽した伊太祁曽神社の名誉宮司の奧鈴雄さんは、大屋彦神の大は美称、伊夜日古の伊も同様、詰めれば屋彦神(夜日古神)と理解できるとのこと。

 もっと突き詰めれば屋も夜の弥もそうであって、単に彦神=男神になるのでしょうが、ここまでやると天香久山命も男神の一のようだからそれでいいんだとなってしまいますが、そういうことでは弥彦神社をキイにして尾張族と越後につなげるのは苦しいようです。

[10096] RE:銅鐸と神社  とみた 2009/12/11(Fri) 08:13 [Reply]
くずさん  早速、貴重な情報をいただきありがとうございました

>地元の事もあって特に興味を持っております。 詳細な情報はあまり出回っていないのかな?
と言うこともあって詳しく書かせてもらいます。
銅戈と合わせて柳沢遺跡から出土した銅鐸は最低でも5個体分です。


2007年に一個、2008年に五個銅鐸が見つかったそうですが、仔細を知りませんでしたので教えていただいて助かります。

愛知県の八王子遺跡も弥生時代中期のもので、外縁付の銅鐸です。これが柳沢のものと似ているのですね。

朝日遺跡は古代伊勢湾の海岸の北べりです。そこから北西に11kmのところに八王子遺跡があります。尾張一ノ宮つまり真清田神宮で尾張族の総本山です。

越後の弥彦神社は尾張族の天香山を祭るとしたら、その位置が信濃川河口?下流?
でそれを遡った千曲川(長野県では信濃川を千曲川と呼ぶ)の中流域に柳沢遺跡がある。尾張族が関係するという妄念は、如何でしょうか。

北九州の早良は奴国でしょうか。甕棺が多いところです。後漢の光武帝に奴国王が印綬を貰ったとしたら。正に52年は弥生時代中期後葉ー末で、柳沢遺跡や八王子遺跡の時代です。

奴国は志賀島ですからそこを拠点にする海上運送担当者は、安曇族とされています。物部も海人という説もあります。物部と尾張と海部の区分も微妙です。機能的に、あるいは拠点を分け縄張り関係かとも思っています。あるいは親分子分かも知れません。

何せ、港湾業は戦後日本でも港湾運送事業法で、細かく仕事の認可が決められ縄張りを冒すと騒動になりました。







[10095] Re[10094]: 銅鐸と神社  くず 2009/12/11(Fri) 01:53 [Reply]
とみたさん、神社と結びつくかは不明ですが信仰の源流という点で少し。

> さらに日本海を東に進むと、石川県小松市に八日市遺跡があります。
> ここの銅鐸は愛知県の朝日遺跡の銅鐸と同じく菱環鈕式で最古の銅鐸のタイプだそうです。

朝日遺跡と八日市地方遺跡がなんらかの同じ文化を共有し、物流の面でも同一の役割を担っていたは興味のある考察ですね。
ただおそらくですが、小松市八日市地方遺跡からの菱環紐式銅鐸出土というのは、
八日市地方遺跡から出土した杵に線刻された文様が、
朝日遺跡出土の菱環紐式の石製鋳型に残る文様と同じであった、
という事ではなかったでしょうか。
北陸では菱環紐2式が福井の春江から出ています。

> その流域に、くずさんがよく話題にされる柳沢遺跡があります。銅鐸が5個でています。菱環式についで古い外縁付です。

ありがとうございます^^
地元の事もあって特に興味を持っております。 詳細な情報はあまり出回っていないのかな?
と言うこともあって詳しく書かせてもらいます。
銅戈と合わせて柳沢遺跡から出土した銅鐸は最低でも5個体分です。

○柳沢1号銅鐸は銅戈と同時に見つかったものです。
  外縁付紐1式でも古い段階のもの。文様は流水文。
○柳沢2号銅鐸は廃土の中から見つかったものですがほぼ原型を残していました。
  形式は同じく外縁付紐1式で文様は四区袈裟襷文ですが裾には他に類例がない蕨  手文があります。
○柳沢3号銅鐸は外縁付紐2式が推定され四区袈裟襷文です。
○4号銅鐸も外縁付紐2式で四区袈裟襷文。
○5号銅鐸は外縁付紐2式か扁平紐式でも古段階のもの。四区袈裟襷文です。

銅鐸の鋳型が扁平紐1式と2式の間で石製から粘土製に変わりますが、
柳沢遺跡から出土したのはその分岐点前までのもので何れも石製鋳型です。
製作地は文様の特徴からおそらく摂津であろうとされています。
古いものほど磨耗が激しく紐の下側も減っていますので吊り下げて鳴らされていたようです。
表面や紐の磨耗状態は愛知の八王子銅鐸と酷似しますので同じ使われ方をしたのでしょう。
集中埋納については、ある時代までは同じように併用され、そして同時に役割を終えていると思います。

もう一点、小松市の八日市遺跡と共通するもので、絵画土器の鹿の描き方があります。八日市地方遺跡出土の絵画土器の鹿と、柳沢遺跡出土のものとが酷似しています。
同じ鹿の描き方は福岡市早良区の吉武高木遺跡出土の甕棺や、佐賀県唐津市の天神ノ元遺跡出土の甕棺にみられます。単純な表現ですが同一のデザインです。
また天神ノ元遺跡の絵画甕棺には鹿と鉤型が連続して書かれます。
柳沢遺跡出土の九州型銅戈には鉤型が刻まれ、また長野の小谷村出土と伝わる銅戈には鹿が描かれていますので一つの信仰がそこに窺えます。
鹿は決まって雄鹿が書かれます。鉤型も鹿の角からのものと見れば、雄鹿の角の生え変わりに稲作と関連しての”再生循環の信仰”ではなかったかと思います
銅鐸は東日本的(出雲)的なものでしょうが、信仰の源流はこの甕棺墓を作っていた北九州の人達にあるのではないかと思っています。

[10094] 銅鐸と神社  とみた 2009/12/10(Thu) 15:54 [Reply]
出雲と大和王権の話で盛り上がっています。銅鐸と神社のことで気になっていることです。

出雲の賀茂岩倉と荒神谷の銅鐸は、たくさんでて吃驚して大分時間が経ちます。

出雲から日本海を東に進むと、久美浜があります。ここは国見が本来の名で、神谷神社があります。後に太刀宮と合併。久美浜が海部の本拠(宮津の籠神社は海部の本拠ではない)とするのが郷土史家の見方です。

由緒では、八千矛神を祀っていたのが、丹波道主命に乗っとられたようです。申すまでもなく。八千矛は出雲の神。

丹波主命は大和王権が派遣して土着の勢力を倒した勢力、四道将軍。

入母屋造りで出雲の大社造りの系統をひく。

隣の但馬の葦田神社も祭神を天日矛にすり替えられたようです。

但馬の城崎の近くの日本海沿岸に気比と言う地名があり、銅鐸が出土していましてこれは北摂津の三島の東奈良遺跡の銅鐸工房の鋳型と同じだそうです。

さらに日本海を東に進むと、石川県小松市に八日市遺跡があります。

ここの銅鐸は愛知県の朝日遺跡の銅鐸と同じく菱環鈕式で最古の銅鐸のタイプだそうです。八日市遺跡は弥生時代中期の日本海の交流センターで朝日遺跡は弥生時代中期の太平洋の交流センターと考古学者は考えています。

さらに東北へ、越後一宮の弥彦神社は信濃川の下流域にあります。尾張族の祖神の天香語命を祀っています。
そこを遡ると長野県に入り千曲川と名を変えます。

その流域に、くずさんがよく話題にされる柳沢遺跡があります。銅鐸が5個でています。菱環式についで古い外縁付です。





[10093] Re[10092]: 味耜高彦根命の出自は?  神奈備 2009/12/10(Thu) 11:48 [Reply]
 味耜高彦根命についての記事を視ますと、心に波が立ってくる気分になります。

 土蜘蛛を弥生文化(稲作に勤勉に取り組む)にそうように教化する役割を持っていたのがのが鴨族ではなかったかと考えています。
 
 泣きやまないことは、弥生文化に最後まで抵抗したことの暗示であって、それゆえに逆に土蜘蛛の支持を得ていて、土蜘蛛への説得力もあったと見ています。


  素盞嗚尊を祭神とする神社の神職で構成されている会を清清会(せいせいかい)と言いますが、すがすがしい会との意味で、すがは須賀や蘇我との書かれます。
 泣きやまないもう一柱の神が神が素盞嗚尊、出雲の須佐神社の横を流れる川を素鵞川(スガガワ)、出雲大社本殿真北の素鵞社、これが悪名高い蘇我氏の蘇我につながるとすれば、出雲侵攻に働いた蘇我氏がそこから名前を貰ったのかも。

[10092] Re[10091][10090][10088][10086][10085]: 味耜高彦根命の出自は?  かたばみ [Url] 2009/12/09(Wed) 17:49 [Reply]
>秋葉神社の祭神となっているのはどうなんでしょう。金属→火→防火とつながっているのかな

東京向島に秋葉神社があって、江戸初期では千代世稲荷ついで秋葉権現と名を変えています。
創祀は1289年で、江戸以前では隅田川が分流し広がって東京湾に注ぎ、その中州にあったと思われます。
当初は水神ないし漁労民の祀る神であり、江戸初期の干拓で農地化して稲荷となったと考えています。
江戸名所図絵に遠州秋葉神社を勧請して稲荷と相殿となった、とあります。

村が大きくなれば火災の危険も増える、鎮火祈願はそのあたりではないかなあ。
金属探査の山師がいかなる神を祀るか知りませんが、秋葉の鎮火は人家の増えた場所に修験僧が広めたものではないでしょうか。

山形県庄内平野の秋葉も似たような流れにあるんじゃないか。
青銅刀子がでてますから弥生で海運拠点になっていたのでしょう。
こちらは最上川の水神か海運の味耜高彦根命が祀られていて、のちに秦さんの子孫が米の買い付けでお稲荷さん。
人家が増えて修験僧も祈祷にやってきた・・


>昔、この掲示板で、近津と千鹿頭が似ており、諏訪のミシャグジ神につながるのかとの投稿を頂きました

長野県佐久市長土呂に近津神社がありまして、昔は千鹿頭神社という名前で池から大蛇が出たという伝承があります。
観光課での話なので、社名がいつなぜ近津に変わったのかはわかりません。

千鹿頭は諏訪の建御名方命の子とされますから、碓氷峠を越えて関東平野北部へ進出したのだと思います。
(おそらくは弥生が寒冷化する頃、AD100あたりか)
碓氷峠を越えた安中市に咲前神社があり、建御名方命と経津主命が戦ったという伝承があります。
経津主命と大己貴命を祀っていて、経津主命と出雲の関係がうかがえて興味深いです。

静岡にも近津が若干ある。
もしこれが諏訪からまっすぐ南下した痕跡であるなら、近津の源流は千鹿頭であり諏訪だといえるかも。

ミシャグチは吉野裕子さんの赤蛇とみるに賛同で、褐鉄鉱採掘と赤く染まった水流の表現ではないかと思っています(黒姫山の褐鉄鉱)。
もうひとつはアラハバキですね、こりゃなんじゃというのは。


>土蜘蛛が奉じていたかもと思っている味耜高彦根の神

土蜘蛛を縄文文化圏の人々とみるならばそこへ入った新しい文化圏の人として味耜高彦根命を祀るはあり得ると思います。
敏達紀に、降伏した蝦夷の魁帥綾糟が服従を誓うのに三諸岳に向かって誓っています。
三諸岳とは三輪山のこと、誓った相手は大田田根子の祀る神、出雲の神でしょう。
東北蝦夷が縄文と出雲の融合によって登場したとみる所以です。

蘇我蝦夷、蘇我と蝦夷の双方に出雲がみえる。
粟鹿大明神元記の蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴=素盞鳴尊の子の八島士奴美(大国主命の祖)。
蝦夷にも出雲がみえる・・蘇我氏は出雲系譜→(北九州の)多臣族の出自である・・


[10091] Re[10090][10088][10086][10085]: 味耜高彦根命の出自は?  神奈備 2009/12/08(Tue) 19:55 [Reply]
> 味耜高彦根命を祀る社の東北での位置

 陸奥では都都古和気神社に祭られていることで幾つかに勧請されているようです。別の名を近津大明神とも称するとあり、これも幾つか。秋葉神社の祭神となっているのはどうなんでしょう。金属→火→防火とつながっているのかな。

 昔、この掲示板で、近津と千鹿頭が似ており、諏訪のミシャグジ神につながるのかとの投稿を頂きました。土蜘蛛が奉じていたかもと思っている味耜高彦根の神、どこまで古代の解明に働いてくれるのでしょうか。

 『都々古和気神社縁起』(文禄三年(1594)書写)」に、「・・、大己貴命者日代宮天皇之御時大国魂大神出現、とでており、・・」

> [10085] 崇神紀に大国御魂を祀る話がありますが、

 の話と合わせて興味深い所です。


[10090] Re[10088][10086][10085]: 味耜高彦根命の出自は?  かたばみ [Url] 2009/12/08(Tue) 14:22 [Reply]
神奈備さんのHPの味耜高彦根命を祀る社の東北での位置をプロットしてみました。
味耜高彦根命の子孫が弥生製鉄(釜石の餅鉄)に関わっているかもしれないと思いましたが、それは見えないな。
蝦夷登場はこれらの出雲系氏族?との融合による、と推定できるくらいか。

各社の確実な縁起がわからないとなんともいえませんが、後に金属資源にからむ氏族が味耜高彦根命を祖と考えて祀ったかどうかではなかろうか(物部系探索者も重なってくる)。
出雲仁多郡に味耜高彦根命がありえるなら、やはり同様とみておきます。


さて、味耜高彦根命の出自について若干。
いろいろ混乱があるようですが、大国主命の子である、とするとこから生じる混乱なのだと思います。
まずは時間軸(年代感)を決める(仮定でよい)ことが必須です。

素盞鳴尊の渡来:箕子朝鮮崩壊からの脱出王族。BC194から10年以内か。
天之忍穂耳尊の渡来:呉楚七国の乱(が平定されて)からの脱出王族。BC154から10年以内か。
王族が故国を捨てて移住するには生死に関わる状況が必要、そういう状況がこの頃にふたつある。
この年代は確実だと考えています(特に魏志韓伝における記述は重要)。

国内側では決定できる要素がありませんので、書紀年代を様々な条件と推定から補正するほかなし。
略しまして以下となります。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/06/kojiki_shoki.pdf

まずは、これと素盞鳴尊後裔の年代とと天之忍穂耳尊後裔の年代が整合できるか・・ぴたり整合できる(^^;
ま、それぞれの系譜に大きなインチキがない限りはですが、素盞鳴尊から大国主命まで6代(7代)。
瓊々杵尊から神武までが4代(5代)。
その差2代が渡来年の差40年に相応し、1世代20年ほどで妥当なところです。

神武 36- 66の妃は事代主命の娘の媛踏鞴五十鈴媛である、が事実とすれば事代主命と神武はほぼ同時代。
事代主命の父の大国主命はそれに重なってちょい前となります。活躍年代は紀元前後にまたがるといったところです。
素盞鳴尊渡来年から神武時代までおおよそ180年、これを大国主命までの6ないし7世代で割れば平均1世代が20年から30年で、これも妥当だと思います。

さて、書紀のプレ天孫降臨(BC150頃とみる)で天之稚彦命の葬儀へ味耜高彦根命が出席しています。
もし、味耜高彦根命が大国主命の子であれば、神武時代の人物となって天孫降臨に関与するはずがありません。
系図綱要/太田亮でも大国主命の子として書いていますが、これは年代感を持たない文献をベースにしているからだと思います。

まずは大穴持神、大己貴命、大国主命、大物主命を同一人物のごとくにみることを捨てます。
書紀の罠に踊らされてはならない(^^;
すべて別人とすると、大穴持神はさすがにどうにもなりませんが、祖先神化しつつあった縄文由来の自然神に原型があるとみておきます。
大山祇神とほぼ同義でもある、地域が異なるか伝承形態が異なるだけとみておきます。

大己貴命、先代舊事本紀などを含めれば、素盞鳴尊の娘の須勢理姫に婿入りした人物、でよいでしょう。
素盞鳴尊よりちょい若い、BC170あたり。
大国主命は、神武に重なって直前、活躍年代はBC10あたりか。
大物主命は記述があいまいすぎて個人かどうかもはっきりしませんが、出雲崩壊時AD250頃直前の王としておきます。
(書紀がそのようにぼかした)

味耜高彦根命は大己貴命の子である・・それだけ、単純明快(^^;

味耜高彦根命がプレ天孫降臨に登場する、大己貴命BC170頃の子でるならBC150あたりの人物となってOKです。
高比賣(下照姫)は天若日子(天之稚彦命)の妻とされますが、これも大己貴命の娘であるならOKです。

天之稚彦命は大己貴命の娘にふらふらっとなってしまった、事実である(^^;
大己貴命は東シナ海南方系で肌で色が黒かった、須勢理姫は半島と列島での娘。
混血には美人が多いからなあ(^^;

大国主命の子とされる系譜に時代の異なる大己貴命の子が混入しているのは確実と思います。
国譲りは神武と大国主命の間での事象であり、書紀はこれを神代のプレ天孫降臨時代として書いたために大己貴命と大国主命が同一人物化している。


系図綱要の神魂尊流に天神玉命(三島縣主祖)−天櫛玉命−賀茂建角身命(鴨縣主祖)があります。
この系譜はほぼ正しいんじゃないかな、鴨さんがあっちこっちで混じり合ってしまっただけ。

神魂尊とは神皇産霊尊カミムスヒであり、少彦名命がここにあり、他に伊勢国造度会氏祖などがあります。
持論ですが長江系文化圏からの渡来者(弥生初期頃)を意味するとみております。
すなわち、大己貴命、味耜高彦根命は少彦名命と故郷をほぼ同じにする、神皇産霊尊(長江系文化)に出自があるとみておきます。

対応するに高魂尊流があって、これは高皇産霊尊タカミムスヒであり、天之忍穂耳尊の妃とされる萬幡豊秋津師姫があり、天孫降臨の随伴者である忌部氏祖の天太玉命などが含まれています。
黄河系文化圏からの渡来者を意味するとみております。

天之忍穂耳尊は呉かな(神武の祖は呉泰伯なんて論も生まれる)、長江系です。
天穂日命は山東半島の斉の子孫で黄河系。


神皇産霊尊の手から漏れたのが少彦名命であり、大己貴命と協力して国造を行っています。
素盞鳴尊は船を造らねばならないといっています。
だから、素盞鳴尊は娘の婿に海人の大己貴命を迎えて、船を造らせた。
その大己貴命の子が味耜高彦根命。海人と見える伝承もあり、このふたりは海人。

先代舊事本紀の地祇本紀に、大己貴命とその周辺が書かれていますがここには多くの示唆が含まれるとみています。
ただし、記述が徐々に書紀の流れに乗って別名がぞろぞろ登場し、事代主命が大己貴命の子でもあるようになってしまうけど。
先代舊事本紀の編者も書紀の罠にはまっているのでしょう(^^;

ま、青草の風が吹けば桶屋がもうかるではありますけど。


[10089] 豊中歴史同好会  神奈備 2009/12/07(Mon) 09:11 [Reply]
2009 12 12 14時から16時 豊中歴史同好会
講師 堺女子短期大学 名誉学長 塚口義信先生
テーマ コノハナノサクヤビメの神話 
場所 阪急宝塚線蛍池駅すぐ西ルシオーレビル6F

[10088] Re[10086][10085]: 八岐大蛇→出雲とは 感想  かたばみ [Url] 2009/12/05(Sat) 23:35 [Reply]
>「知られたらまずい」理由がよくわかりません・・・大和に出雲があったことを暗示しています

書紀編纂目的はなにか、これが重要だと思います。
まずは天照大神とその背景の構築と整備。
次が、大和朝廷は万世一系であり天孫降臨〜神武〜天武へ連綿と続くとする(出雲の支配は神代での国譲りにて終わる)。
もうひとつ、氏族間の抗争をやめさせようという目的もあった。皆兄弟なのだ・・
それが天照大神と素盞鳴尊の誓約神話、いまひとつすっきりしない内容だけど(^^;
そう考えることで、なにが偽でなにが真かの判断もしやすくなると思います。

出雲の存在はあってよいのです、天孫に対立する支配者でない限りは。
だから、天孫といえど孝昭105-137〜開化225-248での出雲との抗争時代の事象は書けなかった。

天武時代にも少なからぬ銅鐸が発見されているはずで、これを書くなどはもってのほかとなります。
天孫とは異なる大勢力があったことがはっきりしちゃう(^^;

神武が媛踏鞴五十鈴媛を妃にする、これは出雲との融合ですからかえって好ましい事象でしょう。
もっとも、これを書くことで神武時代と大国主命時代が同時代であることが明らかになってしまうけれど。

島根出雲から野見宿禰がやってくる、もちろんなにも問題はないです。書紀は出雲を島根に集約済みでもあります。

味耜高彦根命の社が近畿に存在してもかまいません。
味耜高彦根命は神代とする時代の人物であり「現代の」だれがどこに祀ろうとかまわない。
しかし、崇神の直前まで存在していた出雲の支配者や祭祀者などの場合はそうはゆきません、神格化し時代をあいまい化するか消さねばならなかった。
(ゆえに、後世にいろいろな解釈が生じてしまう、神社の縁起などにも影響を与えていると思います)

兵主は景行大王の子が祀ったとされますが、八千矛神が曖昧化されて神代に送り込まれるなら祀ってもよい。
景行大王の氏族融合策の一環で崇神直前まで祀られていたものを復興したのだと思いますが、これは縁起に書いてはならないぞよ(^^;


味耜高彦根命が海人であるならば島根半島に住むことも不思議はありません。
島根半島沿岸は縄文時代から東北と九州をゆききする海人の拠点だったと思います。

阿自岐神社、味耜高彦根命の社である可能性は高いと思います。
味耜高彦根命が海人であるなら輸送や交易者として活動するに不思議はなく、その子孫も同じくです。
その子孫は若狭〜琵琶湖〜奈良といった陸路を含む交易路を確保していたはずで、阿自岐神社はそういう経路上にありますね。

京都府船井郡園部町に大森神社があって、ここは一見山奥に見えるけれど、若狭の舞鶴から由良川経由で亀岡にでるルート上にある。
船井の地名がいつできたのか知りませんが、船便からじゃないか。
そういう社(中継地)がかってはたくさんあったんじゃないでしょうか。


>秦氏が鴨の大御神を奉戴して当地に祀ったとも考えられる

ありえると思います。秦氏は商人、商品の輸送を鴨さんへ依頼していたかも。

余談
物部氏も海人が源の海運者で、多数の同業者が全国組織を作り上げ、垂仁273-311に物部姓を賜り、大王に妃を入れて大豪族となった。
祖先は平民の海人である・・面白くないぞ・・で、天火明命に重ねた架空の祖先を自らの系譜に書き加えた。
これが饒速日尊であって実在しない、が持論です。

物部氏の祖先は、各地に展開した様々な氏族の海人の集合体とその組織(の統括者)ということです。
出雲もお客さんであったはずで、味耜高彦根命が海人であったなら、その子孫はどこかで「物部組織」とつながっている可能性もありそうです。
饒速日尊+長髄彦説話も出雲とも交易していた組織であることを示唆するものと考えています。

物部氏が秦氏(商人)と違うのは海運者であって、軍事物資や金属資源などをメインにしていたことだと考えています。
資源探索の山師を配下に抱えていたりする、ゆえに山奥に痕跡があったりもする。
秦氏は農産物や布などの民生品を扱って、物部氏とはうまいこと棲み分けていたと考えています。

[10087] Re[10079]: 須恵器と土師氏と伽耶  素人 2009/12/05(Sat) 14:59 [Reply]
とみた様
鉄は軍事的にも重要なので民需品とは違いそうです。
国家が顔を出します。

>聖明王の息子の恵王が、百済人を引き連れて加古川の北の三木あたりにやってきて新し>い鉄の技術を伝えたようです。九州の前原辺りの志麻の港から恵王を送還したのが肥君>でしょうか。鉄の宅蘇吉士が絡んでいそうです。

>朴さんによれば、大伽耶の文物は、倭国に5世紀末まで影響し、6世紀前葉には
>百済の文物が入るそうです。6世紀後半に新羅文化が入る。

朝鮮の影響を半島の方はいろいろ言われるのですが、中国と言う当時文化的に非常に進んだ地域が有り、ここで完成された技術を導入する場合、技術者集団が日本に来ていただけばいいだけで文化の浸透などは必要ないわけです。簡単な物の伝播・浸透でしたら伝播浸透するでしょうが複雑な専門技術を必要とするものは技術者集団として受け入れなければ技術移転は困難でしょう。まして、識字率の低い時代では尚更です。

細分化した技術の個別な人伝えの伝承が必要でしょう。技術者集団は囲い込まれて技術が独占されるように運営されていたと思われます。逆に技術の流出を警戒していたのではないでしょうか。

古代日本においても、技術者集団を受け入れても技術者集団が中国のお偉いお役人の「中国の鉄官」さまに監督されていたりすると技術移転などとんでもないこととなるでしょう。

吉備の製鉄集団と備中の鉄官様の関係などでしょうか。西暦400年の高句麗の伽耶への侵入で日本へ移住した鉄官様さまが暫くして、伽耶に帰った製鉄集団を備中から支配していたのでしょう。任那伽耶の磁鉄鉱鉱山と製鉄集団を備中から支配して、鉄蹄などを生産していたと思われます。任那伽耶は日本の領地でしょうし、鉄の支配者が日本に居たわけですから、ほぼ日本製の鉄が5世紀初めから日本に移送されていたと思われます。

任那伽耶の滅亡で、これら技術者集団が吉備に移転して、周辺の磁鉄鉱を用いて、国産の鉄を生産したのでしょう。これら技術は字もお読みになれるお偉い鉄官様の下でのお仕事でしょうから、中国本土から最新技術がもたらされて居たのでしょう。これらの中に中国古来からの背の低い角型の海綿鉄炉もあり、直接還元法の変形として辺境地域向けの耐火煉瓦を用いない簡易炉での変法として低炭素の鉄塊を得るヒントも有ったのかもしれません。中国本土では、耐火煉瓦製のために煉瓦を傷めないように海綿鉄のみを生産して海綿鉄を燃焼させて鉄塊とすると1500℃以上の高温で炉材が溶解して痛み補修が必要となるのでこれを嫌っていたのではと推測します。この辺の情報が、辺境地域の使い捨ての耐火土での簡易炉の特性と結びついたのかもしれません。これらの行われた任那伽耶は日本の領土で角型炉による低炭素鋼の製造技術は日本の技術なのでしょう。これが、技術者と共に吉備に移住したのでしょう。総社の秦村付近での角型炉で鉄鉱石を用いて低炭素鋼を生産していました。

その後、低品位砂鉄を用いて長方形の角型炉で白銑鉄(鋳鉄)を製造するようになったようです。(間接還元法) 中国・朝鮮では筒型の溶鉱炉で鞴を用いて白銑鉄(鋳鉄)を製造していた。特に中国では耐火煉瓦を用いた巨大な溶鉱炉が前漢時代から稼働していたようである。日本では、独自の形で間接還元法に発展した。初期の角型炉での白銑鉄と踏み鞴での角型炉での白銑鉄は多少違うものかもしれません。縦型炉とふみ鞴は大仏建立の時、中国の皇帝が大奮発して送られた技術のようですが、縦型炉はあまり定着しなかったようです。

江戸期に入って、高品位の砂鉄を用る直接還元法で高品位鋼の「玉鋼」が発明された。

たぶん日本の製鉄技術は日本での独自の発達によるものでしょう。
何度も書いていた青草でした。

[10086] Re[10085]: 八岐大蛇→出雲とは 感想  神奈備 2009/12/05(Sat) 10:05 [Reply]
> 崇神紀に大国御魂を祀る話がありますが、書紀としてはこの時代の奈良に出雲の存在があったことを知られてはまずい

 「知られたらまずい」理由がよくわかりません。それに次の垂仁の時代も同じような状況だったとしますと、出雲から野見宿禰を呼びますが、その日の内に到着しています。大和に出雲があったことを暗示しています。


> 古事記での父母の結婚談が書紀での倭迹々日百襲姫と大物主命のお話に書き換えられたのでしょう。

 余談ですが、百襲姫の弟が吉備津彦、これが桃太郎です。百襲姫のモモを頂いた名かも。さらに、桃太郎伝承が吉備と敦賀の気比神宮にあったようです。これも吉備=気比からかも。

> 仁多郡は山奥です、ここにそんな伝承が生じるとは考えられない

 近江に阿自岐神社が鎮座、この伝承があっても不思議ではない神社に見えます。
http://kamnavi.jp/en/oumi/ajiki.htm

[10085] Re[10075][10069][10067][10059][10028][10026][10023][10005]: 八岐大蛇→出雲とは  かたばみ [Url] 2009/12/03(Thu) 19:17 [Reply]
>大国主命・事代主命・大物主命などの神々の呼称は祀る者によって名付けられたとしますと

以下まとまりがなくミスもあるかもしれませんが、長文失礼。

現役ではなく祭祀などで祖先神として扱う場合の呼称であった可能性もあると思ってます。
三輪山の大物主命は近畿にあった出雲の最後の王だと考えています。

八千矛神、主がないのは武神であって王ではないからじゃないか。
兵主の概念は社名となり、神名は日本化あるいはイメージ化しているか。
葦原志許乎命、相撲のシコ名、シコを踏むとは戦うとか強いの意で、こちらも武神でしょう。
どちらも武力が必要になるAD200あたりでの登場と思います。

大国主命〜大物主命の間を200年とみて、その間に「主」らしきが見えないのは、書紀の目的の根幹に触れるために抹殺されたとみています。
書紀に孝昭〜開化での事象が書かれていないのと同じです。

崇神紀に大国御魂を祀る話がありますが、書紀としてはこの時代の奈良に出雲の存在があったことを知られてはまずい、それが大国御魂の表現で「主」を用いていないのだとみています(大国主命だけではなく出雲の王すべての意かもしれない)。
倭迹々日百襲姫で大物主命が登場するのは、天孫と出雲の融合を示唆するためで、出雲の最後の王を曖昧化(神格化)して登場させたのでしょう。

出雲系祭祀がうまくゆかず、大田田根子が登場(大はオホでありオホのタタのネコと分解します)(古事記では意富多多泥子)。
ここでの根子は開化などの倭根子の用法と同じで、多臣族のタタの子孫であるの意となります。

書紀は「私は大物主大神の子である」と言わせていますが、その一族の意ででしょう(大物主命を神格化していますし)。
母は活玉依姫とありますが、事代主命の妃の名であり、まともに受け取れば200年ほどワープした人物になっちゃう(^^;
これも、書紀が母の祖先は活玉依姫であるといわせているの意と解釈しています。
(書紀編纂者には苦しいところ、200年ほどを削除してつなげなければならない)

書紀は、あいまいに祖が神代の出雲にある人物として大田田根子を登場させた。
古事記ではより200年ワープになるような書き方、古事記での父母の結婚談が書紀での倭迹々日百襲姫と大物主命のお話に書き換えられたのでしょう。

さて、出雲臣族がでてこない、出雲の神を祀るのであればなぜでてこないのか。
近畿出雲などの伝承や記録を残すことは祭祀者である出雲臣族のつとめだと思います。
書紀にとって、これが銅鐸など祭祀現物が現存していることとつながってはまずい、出雲臣族ともどもこれらの情報は抹殺されたのだと考えています。

また、崇神にとって出雲の本体は出雲神族であり、その祭祀者(と文化)にあるのではなかったのでしょう。
一般民衆にとっては出雲臣族の祭祀者が身近だと思いますが、そこは政治のいろいろといったところか(^^;
出雲の家来の意の「臣」を使ったのは、そのあたりでもあって、出雲臣族とその祭祀は書かれずに消され、出雲臣族の登場は出雲大社神宝と出雲振根命の伝承のみとなった。

崇神紀では出雲臣の祖を天穂日命とは書いていないですが、出雲国造神賀詞(出雲臣著、たぶん)ではだいぶ違いますね。
天穂日命が大穴持神を穏やかに鎮めて八嶋国の統治権を譲る事を誓わせた、とあります。
書紀の国譲り神話の影響を受けていそうですが、天孫降臨は間接。こちらは直接。
天穂日命が島根に漂着し、縄文文化へ浸透(融合)しながら近畿へ進出していったことを示唆するとみています。

出雲国造神賀詞では大物主を櫛厳玉命として大穴持神の別名としていますが、ここにはいろいろの錯綜がありそうです。

島根県太田市の東南に佐比売山神社(三瓶山、サヒメ伝承)があります(出雲風土記では地名のみで由来などは書いてない)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/sahime_sanpeiyama.png
サヒメは大気都比賣命の子で、朝鮮半島のソシモリで荒ぶる神に大気都比賣命が殺されたとき、形見の五穀を持って赤い雁に乗って、島根県益田市の沖の高島に降りた。
しかし、そこは大山祇神が治める地だったので、比礼振山(益田市の東、佐比賣山神社)に降り、東に進んで佐比売山(三瓶山)で五穀を広めた。

大気都比賣命は大年神文化(畑作)、荒ぶる神とは素盞鳴尊。
高島の大山祇神とは、瀬戸内の大三島に大山祇神があって海人の拠点であるのと同様に海人の拠点。
(大山祇神は縄文由来の自然神であり沿岸漁労や沿岸航海も含むとみています、外洋航海は大綿津見神)
山陰で信仰される山の神は、樹木、狩猟、火、焼畑、一般畑作、水稲など様々で(畑作の民族/雄山閣)、縄文〜弥生が混じり合って錯綜しているとみえます(山の神には漁労等は含まれない)。

山陰は政治経済の中枢から離隔した地域ですから、政治的干渉による変形が少ない状況で残る可能性が大きい。
各地の縄文に浸透していったであろう初期の農耕文化のありようもこの状況と類似だったろうと考えています。
村ごとに異なる祭祀を持っていたりもする、そういうところへ天穂日命の進化した祭祀が重なっていった。
銅鐸祭祀は農耕だけでなく、自然界の営みと人間界の営みをつなぐための祭祀、とみるほうがよいかもしれません。


大山祇神と大穴持神、ほぼ同義じゃなかろうか。
出雲風土記の味耜高彦根命と、出雲国造神賀詞での味耜高彦根命と、サヒメ伝承を連結させて連想すると・・
出雲風土記の仁多郡三澤郷に登場する味耜高彦根命は「大神大穴持神の御子」と明示し、幼子の味耜高彦根命が泣き止まないので船に乗せてあやしたとあります。
仁多郡は山奥です、ここにそんな伝承が生じるとは考えられない、改ざんミスでここへきちゃったのかもしれないけど。
ましかし、船に乗せると泣き止む味耜高彦根命、海人とみる理由になっています。

瀬戸内大三島の大山祇神、瀬戸内海人の拠点。
サヒメ伝承で益田沖の高島に先住する大山祇神。これも海人の拠点だったのでしょう。
大穴持神=大山祇神であり、味耜高彦根命は海人の子である・・となるのであります。

ま、出雲とはなにか、一筋縄どころか百筋縄でもたいへんなのであります(^^;


天穂日命、漂着でしょうから息も絶え絶えでありましょう(^^;
助けてくれた先住者へ祭祀や漂着時での最新文化をもたらしながら、先行した農耕文化や縄文文化のなかに浸透拡大していった。
瑯邪八主は兵主を除き自然崇拝ですから縄文にも浸透しやすいと思います。

天穂日命(後裔)が西(九州)へ向かわず東(若狭)へ進んだのは、素盞鳴尊の勢力が九州と島根半島の間にあって、天穂日命の勢力では太刀打ちできなかったから。
天之忍穂耳尊側からみれば出雲に降参して家臣になった天穂日命でもあります。


九州では常に最新文化が半島経由で流入しています。
遠賀川流域(山戸、ヤマトの固有名称の発祥の地とみる)をはじめとして豊前豊後などの出雲神族にも水稲が広まっています。
北九州〜日本海沿岸〜東北(青森県弘前市の砂沢遺跡)への水稲伝搬の過程で島根〜鳥取にも水稲情報がきていると思いますが、地形と環境の問題でここでは畑作がメインとなっていた。

書紀の保食神には稲がありますが、古事記の大気都比賣命には稲が書かれていません。
稲があったなら書き忘れるなんてことはないと思います。
九州での水稲関連での伝承が書紀に書かれ、水稲のない時代の大年神系の大気都比賣命が古事記に書かれたと考えています。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/kami_ootoshi.png

蛇足・・
素盞鳴尊は天之忍穂耳尊に敗れて半島へ追放された(隠居した)。BC160あたりか。
素盞鳴尊の隠居先が後に伽耶となる地域(伽耶山=牛頭山)。

ここが書紀にいうソシモリか、ただし牛頭を山頂の形の汎用表現とみればここだけではないかもしれません。
伽耶は出雲神族子孫(多臣族を含む)と密接な関係を保ち、後の新羅や百済の拡大による抗争の中心となってゆきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/kaya01.png

さらに蛇足(^^;
雄略紀で狩りをしているときに現れて雄略と一体のごとくみえる一言主神、奇妙な説話だと思いますが・・
雄略が開化〜仲哀系譜ではなく、多臣族であることを示唆するために一言「主」神を書紀編纂者のだれかがそーっと書き加えた(^^;
出土物では雄略時代と見える稲荷山鉄剣銘文の「オホ」ですね。

持論では雄略は允恭の子にあらず、九州の倭王五代のひとりで、半島南部から列島の関東までを支配した大王。
安康454-456と武烈498-507も倭王五代のうちの二人、書紀が万世一系に組み込んだものと考えています。
筑紫の磐井、倭王六代目のはずだったが(ほぼ同族の)継体に滅ぼされ、継体は万世一系に組み込まれた。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/daiou.png


[10084] 汎神虎  神奈備 2009/12/03(Thu) 10:50 [Reply]
 来年は寅。
 日本には虎は棲んでいないようですが、虎の生きている国では、それにまつわる多くの話が伝わっているようです。
 
 お産で苦しんでいる雌虎がいて、雄が産婆さんをさらって手伝わせた話があり、後ほど、いろいろな獣の肉を産婆さんの家の前に置いていったとか。
 同じ様な話として、日本では山姥のお産を助けます。

 また、虎を神として崇めています。日本では狼や狐に相当しています。
 狼が猪鹿が田畑を荒らすのを防ぐので、神となった。
 狐は兎が
    〃
 虎の国では
 虎は野猪が田畑を荒らすのを防ぐので、神として祀られています。

 また、虎自身が占いが好きなようで、木の枝を投げて獲物がいる方向を見るとか、虎が栖から出るとき、何気なく尻尾を回す。その尖を見て向かう所を知るといいます。

 インドのサンタル人は、虎の皮の上に座って誓いをたてるようで、最も重大な誓いの際に行われるようです。熊野牛玉の紙に誓いの文を書くようなものでしょう。

 虎著翼放之。これは大海人皇子を吉野にやった際、官人が言った台詞。ここらで既に神と見なしていたのかも。

[10083] Re[10082]: あれ?  神奈備 2009/12/01(Tue) 19:07 [Reply]
> 大友皇子の「自刃」のレスは消しました?
> 都合悪かったですか?
> 間違いを認めたくなかったのかな?

青草と混同ですね。

『紀』は「くくる」としていますね。

[10082] あれ?  PONTA [Url] 2009/12/01(Tue) 18:36 [Reply]
大友皇子の「自刃」のレスは消しました?
都合悪かったですか?
間違いを認めたくなかったのかな?

[10081] あと  PONTA [Url] 2009/12/01(Tue) 18:26 [Reply]
自分でも消せるようにしてくれると嬉しいです。
管理人さんに迷惑をかけたくないので。

[10080] 失礼しました。  PONTA [Url] 2009/12/01(Tue) 18:25 [Reply]
>迷惑ですから気を付けて下さいね。
了解!

[10079] 須恵器と土師氏と伽耶  とみた 2009/12/01(Tue) 12:13 [Reply]
くずさん  素人さん 貴重な報告に感謝します
>もう1群は胎土、自然釉の特色が韓国の金海・釜山周辺にみられる類例に似るそうです。
(釜山・福泉洞31号墳、金海・大成洞2号墳、11号墳に類似)
金官伽耶にあたるでしょうか。
いずれにしてもこの形式が陶邑須恵器の発生に繋がる可能性があります。

朝倉窯群(小隈・山隈・八並)のものは陶邑とは異なり、慶尚南西道から全羅南道を一部含んだ地域が推定されており、居屋敷窯のものは烏足文の叩きから全羅道地域が推定されるそうです。
もう1群は胎土、自然釉の特色が韓国の金海・釜山周辺にみられる類例に似るそうです。
(釜山・福泉洞31号墳、金海・大成洞2号墳、11号墳に類似)
金官伽耶にあたるでしょうか。
いずれにしてもこの形式が陶邑須恵器の発生に繋がる可能性があります。

朝倉窯群(小隈・山隈・八並)のものは陶邑とは異なり、慶尚南西道から全羅南道を一部含んだ地域が推定されており、居屋敷窯のものは烏足文の叩きから全羅道地域が推定されるそうです。
>角型が出るとすれば、鉱山のあった洛東江の下流域東岸付近(多分、任那伽耶)でしょう。釜山の郊外地域でしょか。60cm〜70cmで十分か。炭素含有率は低いでしょう

私のおぼろげな伽耶のスケッチです。
韓国も考古学が進んでいますのでそれに期待しています。申教授や慶北大の朴天秀教授が倭と伽耶を研究されています。紀元前3世紀ー紀元前後 :初期鉄器時代。遼寧からきた青銅剣文化に続く時代

韓半島は漢の植民地として楽浪郡が紀元前108年から紀元後313年まで420年間続きます。かなり漢文化が浸透するでしょう。

2-3世紀には燕系の公孫氏も影響を与えるでしょう。
3-4世紀には中国の東北部から扶余や高句麗のツングース族が伽耶に入り込む。
金官伽耶は400年前には盛んだあった。

400年に高句麗に金官伽耶は攻められて衰えます。

450年までは新羅文化が伝わるとするのが朴さんです。
450年以降は高霊の大伽耶が勢力を伸ばします。

479年に大伽耶は南宋が滅びた後、南斉に朝貢し国として認知させます。
百済は北の高句麗に攻められ代わりに南の安羅伽耶に侵入します。大伽耶は新羅に応援を求め。百済・安羅に対峙しますが、新羅に裏切られます。

金官伽耶は新羅に攻められ532年に消滅。562年に大伽耶も新羅に滅ぼされます。百済は聖明王が倭に仏教を伝えた後、554年に新羅の真興王と戦って敗れます。

聖明王の息子の恵王が、百済人を引き連れて加古川の北の三木あたりにやってきて新しい鉄の技術を伝えたようです。九州の前原辺りの志麻の港から恵王を送還したのが肥君でしょうか。鉄の宅蘇吉士が絡んでいそうです。

朴さんによれば、大伽耶の文物は、倭国に5世紀末まで影響し、6世紀前葉には
百済の文物が入るそうです。6世紀後半に新羅文化が入る。

年号や地名は少し怪しいですがこんな感じで見ています。金官伽耶は洛東江を中心に東の金海、西の昌原茶戸里、南の大成洞がポイントと見ております。

金官伽耶の大成洞や大伽耶の高霊では殉葬がおかなわれています。
出雲の天穂日系の野見宿禰が當麻の蹴速を相撲で殺し、桜井の出雲という地名や相撲神社があり、殉葬の代わりに埴輪を造るのはなぜでしょうね。

土師原という地名が出雲の簸川にあり、河内の古市に土師里がある。

[10078] Re[10076][10073][10071][10070]: 須恵器と土師氏と伽耶  素人 2009/12/01(Tue) 00:49 [Reply]
とみた様
> 鉄は、朝鮮半島の西北部から伽耶に入ったのではなかろうか、と古代鉄に詳しい村上恭通先生が仰いました。中国の鉄炉は漢時代は4mと高炉です。その流れを受けて、朝鮮も高炉系や高い円筒形だそうです。大伽耶は円筒形です。日本は箱型炉で高さは120cm。
> バイカル湖の西のシベリヤの製鉄炉は60−70cmと低い。
> ところが、日本でも備後の製鉄炉は円筒形という説があります。
>
> 素人さんは、どうお考えですか。
> 朝鮮は角型炉とされますがどのあたりに分布していましょうか。高さはどのぐらいでしょう。
円筒形は鉄管の置かれた鞍山の大鉄鉱石地域からでしょう。朝鮮のものは小型。
角型炉は直接製鉄による海綿鉄製造炉の発展形と考えております。角型以外もありましたが、背の低い方形炉が発掘されています。中国本土からの新しい技術かも知れません。
角型が出るとすれば、鉱山のあった洛東江の下流域東岸付近(多分、任那伽耶)でしょう。釜山の郊外地域でしょか。60cm〜70cmで十分か。炭素含有率は低いでしょう。
ここから、吉備の総社に移住したのでしょう。総社市秦村など。
と夢想しています。
代わり映えのしない戯言です。


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