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掲示板のログ(平成二十二年 三月 2010.3)お名前の敬称は省略しています。

[10209] Re[10208][10207][10205][10204]: 常陸の国  神奈備 2010/03/29(Mon) 17:44 [Reply]
素人さん
 別府湾と杭州湾とはよく似ています。上海の南側が国東半島の南側とそっくり。すごい着眼です。

 山頂に天降るはずもなく。高千穂は稲作の象徴としての登場でしょう。

 半島は楠が育たないとのことだったようですが、現在は南の方には生えているようです。 新羅で素盞嗚尊が眉の毛を抜いて楠の木になったお話が『紀』にありますが、眉唾でしょうね。

[10208] Re[10207][10205][10204]: 常陸の国  素人 2010/03/27(Sat) 23:07 [Reply]
> 神奈備様
> > > 季節を見計らって丈夫な大型の丸木舟にしがみ付いていれば行き来できたかもしれません。

追加で、
中国南部地域から日本にいわゆる「照葉樹林帯」が続いており、植生も似ているわけですから同じような巨木による大型の丸木船は建造できるわけです。
半島や中国北部では難しかったのではないでしょうか。
巨船の建造の比較的簡単な巨木による大型の丸木船は太古の時代から有ったのではないでしょうか。そのために、古代の外洋船では日本が優位な時代が有ったのではと考える次第です。クスの巨木の話が度々、古代に記されており夢物語とも思えません。
明治期にセルロイド可塑剤としての樟脳のヨーロッパなどでの需要で日本からクスの巨木林は消滅して現在は見ることができません。三内丸山遺跡で見られるクリの巨木も鉄道の枕木として使用され消滅したようです。近代化の中で巨大な樹林の蓄積が消滅したようです。
度々同じことを書きましてすみません。

[10207] Re[10205][10204]: 常陸の国  素人 2010/03/27(Sat) 01:19 [Reply]
神奈備様
> > 季節を見計らって丈夫な大型の丸木舟にしがみ付いていれば行き来できたかもしれません。
>
>  やはり交流は可能だったようですね。ありがとうございます。

石器の時代から揚子江河口付近と九州が行き来が有ったとすると、私の夢想には都合のいいことが有ります。前にも書いたことが有りますが、揚子江の河口付近杭州湾の地形が宇佐市付近の瀬戸内海と似ているので、大変興味を持っています。
杭州湾の出口に舟山群島が広がっています。宇佐付近が紹興市、寧波市が大分市辺りでしょうか。揚子江河口付近から来た人は、宇佐市付近の瀬戸内海に興味を持ったのではと考えています。Googleマップで見比べると解ると思います。杭州湾の丸い河口部と丸い国東半島が似ています。杭州河口付近から来た人は故郷に似た景色を気に入って、ここに住み着いたかもしれません。
瀬戸内海の景色が見渡せる台地や高地に住んだかも知れません。
こちらから、関門海峡を抜けて遠賀川・宗像の方へ進出したかもしれません。
南から来た、大陸系の海運者も考えられるのではないでしょうか。
ここを起点に考えると、高千穂は南の山奥です、杭州湾を起点にするとの山奥の重慶郊外の水銀地帯は西方向となり自論は上手くはまりません。宮崎を起点にすると西になるのですが。
とんでも青草でした。

[10206] 神話の矛盾  神奈備 2010/03/26(Fri) 09:54 [Reply]
 豊玉姫が山幸彦の子を孕んで、天つ神の御子は海原にて生むべからず。」と言って海辺に来て生みます。しかし、天つ神の祖神である天照大神は海で波がほどほど流れている中つ瀬で生まれています。これは矛盾と言えるのでは。


 塩椎神はどう見ても海神です。所が山幸彦を助けて海幸彦を苦しめ、ついには山幸彦に隷属させてしまいます。これはおかしいと思います。

[10205] Re[10204]: 常陸の国  神奈備 2010/03/24(Wed) 11:13 [Reply]
> 季節を見計らって丈夫な大型の丸木舟にしがみ付いていれば行き来できたかもしれません。

 やはり交流は可能だったようですね。ありがとうございます。


海神について 3

 『姓氏録』宗像君 大国主命六世孫吾田片隅命之後也 とあります。やはり吾田の流れの氏族なのでしょう。

 筑前国宗像郡を本拠とし、沖の島、中津島、辺津宮の三座。三女神を祭っています。この三女神は宇佐神宮の比売神として出現したとされています。大分県宇佐郡安心院町に鎮座の三女神社がルーツのようです。この神社の鳥居は肥前鳥居だったと思います。三女神は肥前から伝わったのかも。

 『肥前国風土記』基肄郡 姫社の郷 荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、免れる者が半分と言う具合であった。そこでどうして祟るのかわけを占ってみると、「筑前の国宗像の郡の珂是古にわが社を祭らせよ。」とあります。風土記の異本には阿是古とあります。

 鳥栖市姫方町の姫古曽神社のことです。祭神については饒速日尊とかその母神とされる栲幡千々姫命と見られていますが、現在は市杵嶋姫命ほかです。宗像のの珂是古が祭るのですから宗像の女神でいいのでしょう。ひょっとしたら姫古曽神社から宇佐郡の三女神社へ市杵嶋姫命が伝わったのかも知れません。

 この珂是古即ち阿是古は物部麁鹿火の弟です。物部阿遅古と同一人物と見なされています。水間(水沼)君の祖で、宗像神の祭主でした。『日本書紀神代紀』には、「宗像の三女神は筑紫の水沼君が祀る神。」とあります。

 物部麁鹿火は継体天皇の時、筑紫の君の磐井の征討にたずさわった将軍です。乱の後の九州の統治を任されたようです。

 一つは弟の物部阿遅古を派遣して半島との海路をおさえている宗像船団と神々の掌握を行ったのでしょう。

 更に、筑紫君磐井の子が差し出した糟屋の屯宮とは志賀島のことのようで、安曇の海運をも掌握したようです。物部の梶取の役に阿刀造等の祖の名が出てきますが、安曇からの徴用なのかも知れません。

[10204] Re[10203][10202][10200]: 常陸の国  素人 2010/03/24(Wed) 00:29 [Reply]
神奈備様
>笠沙の岬とは加世田市にあり、ここの栫ノ原(かこい)遺跡からは丸木舟製造用の丸ノミ形石斧が出土しています。
 縄文初期から人が住んでいたようで、最古級の土器も出ているようです。1万年以上の縄文・弥生生活の間には多くの人々が大陸との交流を行って来ていたのでしょう。舟山列島と笠沙の岬とは定期便とは言いませんが、連綿と交流があったと推定できます。

前にも書きましたが、舟山列島から増水期の揚子江の淡水の海水上の川に乗って真直ぐ東に向かい、さらに直進して黒潮に行き当たったら、この流れに沿って北東方向に進むと九州方面に到着できたのではないかと夢想します。帰りは、沖縄辺りに向かい南風に乗って大陸方面に向かうと浙江省辺りに着くのではと考えます。季節を見計らって丈夫な大型の丸木舟にしがみ付いていれば行き来できたかもしれません。
遣唐使船は見掛の立派な構造船だから壊れたのでしょう。国の代表ですから丸木舟では馬鹿にされ確実に蛮族認定されます。大見えを張らざるを得なかったのでしょう。
到着時期も先方の都合に合わせたり悪条件が重なったのでしょう。
縄文期の広範囲の交易から推測すると十分可能性は有るのではないでしょうか。
辰砂で大陸と伊勢・大和が結び付くともっと面白かも知れません。
水銀ですと秦の始皇帝のころでしょうか。産地は重慶市付近とか。
青草でした。

[10203] Re[10202][10200]: 常陸の国  神奈備 2010/03/22(Mon) 11:20 [Reply]
海神について 2

 だいぶ前のことですが、上海から杭州へ鉄道で行った際、線路の両サイドに雪が筋になってつながっているように見えたことがあります。実際によく見ますと、発泡スチロールの弁当箱の残骸でした。食べ終われば窓の外へ放るのでしょうが、こう言うのが大雨などで東支那海に流れ込んで黒潮にのることもあるのでしょう。

 日本海側には半島の廃棄物が多いようです。昔は海岸に流れ着いた材木は神社の所有物と決まっていたようです。社殿修理などに使用したのでしょう。北九州の遠賀川河口から志賀島のつけねの東側の間の海岸線に漂着した船材で宗像神社の社祠のために使ったのです。
 最近は危険な薬品の残った入れ物が着いたりして処理が大変だそうです。

 海岸の漂着物は海外の投棄物だけではありません。和歌山の北の海岸を歩いて見ますと、ペットボトルが幾重にも海岸にのっており、その量はすざまじいものでした。ジュ−スのメーカやペットボトルの成型屋さんの方々には一度歩いてほしいものです。

 何時か誰かが拾い集めなければならないのです。


 天孫降臨と神武東征の物語は天皇家の祖先は南九州に渡来し、そこから大和に来たことを語っています。これは一般的な常識となっているようで、トンデモ話ではなさそうです。
 
 降臨した瓊々杵尊は笠沙の岬にたどり着いています。神話で語られるように高千穂の山に降臨するはずがなく、海を通って笠沙の岬に着いたのでしょう。

 笠沙の岬と言えば野間岳と野間大権現が思い浮かびます。野間姫は大陸沿岸の海神である媽祖のことで、台湾の西の福建省が媽祖となった黙娘の出身地です。この伝承が伝わったルートが一つの参考になろうかと思います。

 媽祖は南九州を中心に遠くは青森県下北郡の大間稲荷神社、宮城県宮城郡七ケ浜町の荒崎神社に祀られています。

 大陸沿岸では浙江省の舟山列島に多く祀られているようです。福建から浙江省にかけての海岸を出立したのでしょう。

かたばみさん青草> 神武の祖である天之忍穂耳尊は前漢における呉楚七国の乱の反乱者=罪人だからです。

 瓊々杵尊と見ても同じなんでしょうが、呉・越付近(上海・南京など)から渡来してきたのでしょう。

 笠沙の岬とは加世田市にあり、ここの栫ノ原(かこい)遺跡からは丸木舟製造用の丸ノミ形石斧が出土しています。
 縄文初期から人が住んでいたようで、最古級の土器も出ているようです。1万年以上の縄文・弥生生活の間には多くの人々が大陸との交流を行って来ていたのでしょう。舟山列島と笠沙の岬とは定期便とは言いませんが、連綿と交流があったと推定できます。

 ここは薩摩国阿多郡阿多、まさに阿多隼人の本拠地です。ここに大山祇神の娘の木花咲耶姫(神阿多津比売)がいて、瓊々杵尊と一夜婚、火照命・火須勢理命・火遠理命(穂穂出見尊)が誕生しました。火照命(海幸彦)は隼人の祖とされる。火須勢理命は海部の祖の火明命、穂穂出見尊(山幸彦)は皇祖となりました。

[10202] Re[10200]: 常陸の国  素人 2010/03/22(Mon) 02:05 [Reply]
神奈備様
鹿嶋周辺から黒潮が太平洋に離岸するのですね。
>常陸国には那賀郡があります。海岸沿いのようです。黒潮と親潮がぶつかる良い漁場のようです。黒潮を逆にたどると:−

>伊豆国那賀郡 阿波国那賀郡 讃岐国那珂郡 伊予国那賀郷 日向国那賀郡 筑前国那珂郡
鹿島の海岸には色々漂流物が有るようです。あまり珍しくない現象で困り物のようですが。
「何ヶ月、何年もの時間をかけて、海を漂ってまいりました漂着物。世界につながっていることがよく分かります。旧波崎町付近の神栖市の海岸よりも外国製品の漂着物が多いように感じます。潮の流れの影響でしょうか。」
「奇強」中国の洗剤
http://rakurakuda.fc2web.com/051024_0957~01.jpg
葡萄糖」中国製の清涼飲料水
http://rakurakuda.fc2web.com/051024_1024~01.jpg
「浙江」「Boat Brand」などの浮標
http://rakurakuda.fc2web.com/051024_1032~02.jpg
ラクラクダWeb_鹿島海岸ヘッドランドより
http://rakurakuda.fc2web.com/2005_1024_kasima_kaigan.html
黒潮ですから揚子江から流れ出したりした物などが流れてくるのでしょうか。
これは現在のものですが、古代にも色んな物が流れついたのでしょう。
人、植物、舟、お宝なども流れ着いたのかもしれません。
鹿島周辺などに漂着しないと黒潮に乗って、太平洋に流されるのでしょう。
ゴミの青草ですみません。

[10201] 海神について  神奈備 2010/03/19(Fri) 20:30 [Reply]
 住吉の神は王権による航海神であり、住吉神の末裔と言う氏族はいないようです。それを語るのは各地の住吉神社の祭祀に当たった氏族がばらばらと言うこと。
 すなわち、筑前は佐伯氏、長門は穴門氏、摂津は津守氏でした。王権に任命されたのでしょう。

 海洋民族は南方系が多いのは頷けることです。中世、中国南方の海神として娘媽(のうま)神があり、女神です。海神は女神だったのです。そういう意味では吾田片隅命之後也とされる宗像氏に祀られる三神は比売神です。吾田は阿太で、阿太隼人と同族だったのです。
 この三女神を祀るのが和多津見三神だったのではないでしょうか。宗像海人の津麿が老齢になって対馬へ米を送る船頭の役目を安曇の荒雄に交替して貰います。暴風雨で荒雄は死んでしまうのですが、宗像を祀る安曇を象徴するお話ですね。

 安曇族の祀る和多津見三神はやはり南方系の海神ですから女神だったのです。この女神と同時に誕生した神が住吉三神です。やはり和多津見三神を祀る男神が住吉三神と位置づけることができるのではないでしょうか。津之男、筒男だったのでした。

 大王家は安曇族がいなければ存在できなかったのです。漁貝類の確保は大王の絶対条件だったのです。大王家も海人の出だったのです。天照大神は海中で生まれ、子孫の一人(山幸彦)は海中で王者になるためのイニシエーショウンを行い、彼と海神のむすめの間に生まれた子から天皇家が始まったのです。

 尤も、最後には大王家の海神は住吉神となり、安曇は貶められたようですね。

[10200] 常陸の国  神奈備 2010/03/15(Mon) 17:28 [Reply]
 『常陸国風土記』から。

 新治の郡 油置売命と言う山賊がいた。
 茨城の郡 この地の原住民として国巣(土地の人はツチクモ、ヤツカハギと言う)、山の佐伯、野の佐伯があった。
 行方の郡 手鹿と言う佐伯があり、云々。
      佐伯の小高というものが住んでいた云々。
      わる賢い賊。荒賊。国栖で夜尺斯・夜筑斯。
      芸都の里に、寸津毘古・寸津毘売となのる国栖。
 久慈の郡 薩都の里に昔土雲となのる国栖があった。

 先住民をまつろわない者として征伐の対象と考えていた奈良時代の支配者の意識が見えるようです。彼らは縄文時代から住み着いていたのでしょうか、またはどこかからやって来たのでしょうか。

 常陸国には那賀郡があります。海岸沿いのようです。黒潮と親潮がぶつかる良い漁場のようです。黒潮を逆にたどると:−

伊豆国那賀郡 阿波国那賀郡 讃岐国那珂郡 伊予国那賀郷 日向国那賀郡 筑前国那珂郡

 これらの地域で土蜘蛛が跋扈していたとは『記紀や風土記』などにも見えませんし、土蜘蛛が移動していったとも思いにくい所です。強いて言えば、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』には多くの土蜘蛛のお話があり、それは隼人にもつながっているようです。値嘉の郷は五島列島の島のようですが、この島の白水郎は容貌が隼人に似ていると出ています。言葉も世人とは違うと出ており、安曇連百足が訪問しています。海人系土蜘蛛が居たのでしょう。
 
 九州の『風土記』には土蜘蛛が登場しますが、現在まで残っていない記録にも同様に土蜘蛛が各地にいたのかも知れません。彼らは圧迫を受けて北へ南へと新天地を求めて旅立ったのかも知れません。それならば、面白い。

[10199] Re[10197][10194][10188][10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  素人 2010/03/14(Sun) 02:40 [Reply]
追加の青草ですが。
>  常陸の国は常世とされていましたので、田島守の橘があったとも言われています。
第11代天皇・垂仁天皇の命により、田道間守(たじまもり)は「不老不死のもの」を探しに出かけ、やっと探し当てて非時香菓(ときじくのこのみ、橘)を常世の国から持ち帰ったが、垂仁天皇は崩御されていた。
秦の始皇帝と徐福の話に似ていますが、日本に来ていたら、常陸の国の非時香菓(ときじくのこのみ、橘)が不老不死の薬と聞けば、常陸の国を訪れたでしょう。
この橘の名前はフクレミカンで漢字では福来蜜柑(ふくれみかん)書くようです。
謂れは、「福が来る。」のようですが、無理やりこじつけると徐福の福をとり福(徐福)が来た。
徐福伝説が本当であれば、遠来の異邦人の来訪を名前に残したのかもしれません。
お騒がせの青草でした。
関連資料>
筑波山周辺の町村ではフクレミカンが昔からあって福来蜜柑(ふくれみかん)とも書くようです。
「福来」は文字通り福が来るということで縁起物として近年は各家庭で植えられているようです。
フクレミカン(筑波ミカン)
http://hanabaka.blog70.fc2.com/blog-entry-486.html
健康に良い成分などが、入っているようです。(健康増進作用)
福来みかんの機能性成分
「フクレミカンの成分分析を行って機能性因子を探索したところ,果皮にポリメトキシフラボノイドが多く含まれており,収穫後のフクレミカンを貯蔵した場合でも,それらの含量は変化が少なく,安定性が高いことがわかった。」
http://narc.naro.affrc.go.jp/chousei/shiryou/kankou/seika/kanto20/08/20_08_09.html
コウジの一種、フクレミカン。サガミコウジ(相模柑子)、サガミタチバナ(相模橘)などとも呼ばれる。果実の直径は5cm足らず。種子が多いが、酸味が少なくておいしい
http://aquiya.skr.jp/zukan/Citrus_leiocarpa.html

[10198] Re[10197][10194][10188][10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  素人 2010/03/13(Sat) 00:33 [Reply]
神奈備様
書き込み、有難うございました。
>  遙か向こうが見えないほど大きい湖も海と言われていたようです。琵琶湖は淡海です。所が磯良に付いていた細螺・石花貝などは所謂海水中の生き物ですから、当時の内海であっても外洋であっても成り立つようです。
>
細螺:巻貝、ニナの様な巻貝でしょうか。ハマグリやアサリに比べ食べにくく手間のかかる食材に思えます。茹でた小さい巻貝を引き出しながら食べるのは大変です。
石花貝:カメノ手最近は食べるようですが、昔はあまり食べなかったように思えます。
磯の食材としては、アワビ・サザエ・ウニなどと比べますと地味な食材と思われます。
貝塚ですとヤマトシジミ・アサリ・ハマグリ・カキ・等が有るようです。一部では、ニナも登場するようです。現在の高級食材から食べたのではないでしょうか。
食べ物の話になってすみません。
磯良に付いていたモノは、あまり高級食材ではないようです。
鹿島・香取などの周辺の磯は高級食材は取れなかったのでしょうか。
縄文時代の貝塚が霞ケ浦周辺にあるようです。

> > フクレミカン
>
>  常陸の国は常世とされていましたので、田島守の橘があったとも言われています。ミカンの皮は乾燥させてから燃やすと、火が吹き出すほどの勢いで燃えます。これは表面にワセリンを塗っていなくても同じ様な燃え方ですがら、皮に油分があるのでしょうね。

ミカンの油ですとリモネンでしょうか。
固着した油分とか、ガムなどを溶かす油だったと記憶しております。
香島・香取の香は橘の臭いでしょうか。
青草でした。

[10197] Re[10194][10188][10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  神奈備 2010/03/09(Tue) 20:59 [Reply]
 遙か向こうが見えないほど大きい湖も海と言われていたようです。琵琶湖は淡海です。所が磯良に付いていた細螺・石花貝などは所謂海水中の生き物ですから、当時の内海であっても外洋であっても成り立つようです。

> フクレミカン

 常陸の国は常世とされていましたので、田島守の橘があったとも言われています。ミカンの皮は乾燥させてから燃やすと、火が吹き出すほどの勢いで燃えます。これは表面にワセリンを塗っていなくても同じ様な燃え方ですがら、皮に油分があるのでしょうね。

[10196] Re[10195]: ご無沙汰です  神奈備 2010/03/09(Tue) 15:15 [Reply]
末摘花さん、こんにちは。
 
 「加具土の神様は、王に成りたかったと記載されている事が多いのですが」寡聞にして、このようなお話は承知していません。

 そういえば、神様も意志や意欲を持っているのでしょうね。素盞嗚尊は根の国に行きたいとか、天照大神は子孫にこの国を治めさせたいとか。

 加具土が埴山姫を娶ったのも「火と土」の結婚ですがら、土器や埴輪を造りたかったのかも知れません。香具山の埴土をとって平瓦などを造って祀るのはまさに国を支配するための呪術ですから、加具土は王になりたかったと言えるのでしょうね。

[10195] ご無沙汰です  末摘花 2010/03/09(Tue) 01:17 [Reply]
加具土の神を、検索してましたら、懐かしい神奈備さんのホームページにたどり着きました 桑名に来られたんですか? 加具土の神様は、王に成りたかったと記載されている事が、多いのですが、貴殿様は、とのように、お考えでしょうか?

[10194] Re[10188][10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  素人 2010/03/07(Sun) 22:19 [Reply]
神奈備様
勉強させていただいております。
>また、『太平記』に、神功皇后が軍評定のためにもろもろの天神地祇を常陸の鹿島に集めた。海底の阿度部磯良ただ一人お召しに応じなかった。神々は庭燎を焚いたり曲を調べて磯良をよんだ。磯良は細螺石花貝藻(シタダミイラギ)に栖虫、手足五体に取り付けて、更に人の形にては無りけり。磯良は魚類に交わって久しく海底に住んでいたと言った。
 というようなことが書いてあります。ここにも鹿島と磯良の繋がりが感じられます。

>このような話からは鹿島や香取の神は海神の要素があり、これは住吉大社の中にも星神社が鎮座していることと同様に航海には星が欠かせないものということを意味しているのではないでしょうか。

海とか海底とか出てまいりますが、太平洋でなくて内海の流海(現在の霞ヶ浦)のことでしょうか。鹿島神宮も香取神宮も江戸期初期までは内海に面して居たようです。
江戸期に現在の利根川の水路を江戸湾から現在の利根川経由に付け替えてから、霞ヶ浦が出来て淡水化したようです。ご存じのことと思いますが。

流海(ながれうみ)(霞ヶ浦の古代の呼び名)
江戸時代まで霞ヶ浦は海で有ったようです。
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1981/03/81_03_05.pdf
「霞ヶ浦の歴史」
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1987/01/87_01_09.pdf
古代柑?(フクレミカン)おまけ。
鹿島(香島)、香取で香りと関係あるようですが、フクレミカンは香りが良いようですが地名と関係有るのでしょうか。皮を干して利用したようです。
献上品などで有ったのでしょうか。
「茨城県鹿島郡、行方郡と筑波山周辺で栽培されていた。」
霞ヶ浦の自然 かすみがうらネットWeb
http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/page/A0130.html

[10193] 吉野のこと  神奈備 2010/03/06(Sat) 21:49 [Reply]
 熊野から吉野へは北山川沿いに点々と「和田」地名が分布しています。
http://www.kamnavi.jp/log/ugajinmu.htm

 海人族が通過しただけではなく、定着したことの証だと思います。熊野の鯖や塩を大和に運ぶルートだったのでしょう。後世には馬に積んで運んだのでしょうが、馬が入ってくる以前には人間がリレーして新鮮な鯖を大和に届けたのでしょう。黒猫ヤマトのはしりです。

 さて、西吉野町に夜中と言う地名があり、近くに波宝神社が鎮座、祭神は住吉大社と同じ。この「夜中」地名から、神功皇后が紀伊の国に来た際、夜のような暗さが何日も経ったので、翁に聞くと、阿豆那比の罪と言って、小竹の祝(神主)と天野の祝が中がよいので同じ墓に埋めた。これが罪として祟っていると判り、分けて埋葬すると元のように明るくなったとの伝承を思い起こします。このお話と関係があるのかどうかは不明ですが、近くの波宝神社の本殿の絵に日食を思わせる絵があるとのことで、これを確認に行く予定です。
 尤も、夜中は谷中の転訛だろうと言う身も蓋もない説もあるのです。

 殆どが山地の吉野には不思議なことに、海神社、海神神社、住吉神社4社が鎮座しています。海神神社は何と夜中に鎮座、海神社は北側の下市町、住吉神社は南部のようです。綿積神を祭る海人族が吉野に入植したのかも知れません。

 紀の川の上流を奈良県では断固として紀ノ川とは呼ばず、吉野川と言います。紀ノ川沿いに地名を追いかけて見ます。

北九州 伊都国 那珂川 志賀海人名草
紀伊国 海部郡 名草郡 那賀郡(海神社) 伊都郡(志賀)
宇智郡 資母郷 那珂郷 賀美郷 阿陀郷
吉野郡 吉野郷 資母郷 那珂郷(志賀) 賀美郷  海神社、海神神社
宇陀郡 海神社二座

 ここに出てくる那賀郡・那珂郷は下−中−上の中とも見えます。資母郷 那珂郷 賀美郷 と並ぶからですが、別に川上からキチット並んでいるということもなさそうです。

[10192] Re[10190][10188][10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  神奈備 2010/03/04(Thu) 09:53 [Reply]
> 中臣氏は物部が蘇我氏に敗れ、物部の祭祀権を奪ったのではないか。

> 物部宗家の滅亡で、物部氏の鎮魂の神事を中臣氏が継承した。これが私の解釈です。

 石上神宮を祭っていた物部は参戦していないので、ここの鎮魂の神事は保持したのでしょう。また、所謂崇仏戦争の場合、中臣氏も物部氏の側についていたようで、すぐに宮中での祭祀権を中臣氏に持って行かれたのかどうかです。物部も分かれていたように中臣氏も一本化していなかった可能性もおおありでしょうね。

 宮中で行われていた鎮魂の神事は物部氏の手から離れたのかも知れません。

 所で、奈良県には春日神社と称する神社は150社以上鎮座しているのですが、桜井市橿原市以南の春日神社はほぼ物部系とされています。祭神は大社に右にならえですが・・
 この神社をつなぐと地上絵が現れると言われています。イメージは神奈備画像掲示板ログの平成一八年11月19日をご覧下さい。南は吉野に入っています。

http://www12.atpages.jp/kamnaviholiday/gazou/hei18/h1811.htm

 春日と言う名称も中臣氏に横取りされたのかも。

[10191] Re[10180][10179][10177][10174][10173]: 水神様  橋本(和歌山) 2010/03/03(Wed) 14:15 [Reply]
崇徳上皇の故事から天皇寺とも呼ばれていますが、この地は元々水の信仰があったようです。
 八十場は野葬場からきているかもしれません。白峰の頂上で荼毘にふしますが20日間冷水に浸すということは「モガリ」だったかも?四国は山岳宗教の地というイメージがありますが、案外水や海を意識しているんです。

[10190] Re[10188][10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  とみた 2010/03/03(Wed) 11:31 [Reply]
> > いずれも星祭がありこれが謎めいています。
>
> 『古代海人の世界』谷川健一著から。
>  僧袋中(たいちゅう)の『琉球神道記』には、鹿島明神はもと、武甕槌命であるが、人面蛇神であり、海底にいて一錘十日という具合だったので、顔に牡蠣が付着していたとされ、磯にいたので磯良という、とあります。

>  武甕槌命と安曇磯良とは同じ神だとのことです。

多摩美大 講師の井戸理恵子さんから聴いた話です。

大嘗祭、新嘗祭の鎮魂儀式に三つのタイプがある。

○猿女流は太陽が昇るタイプ。高天原伝来。魂の再生。
○物部流は倭を治める魂を取り扱う。石上鎮魂。
 卜部流が入って衰える。

猿女流と物部流が融合して現在の宮中の鎮魂はミタマフリとして行われている。
○安曇流は魂の蘇生を促す海部一族の亡者の魂も取り扱う。

 春日大社の若宮の御マツリは磯良の鎮魂。
 磯良舞は細男舞が舞われる(宮崎駿のアニメ映画”千と千尋の神隠し”に出てくる 白い覆面)
 中臣氏・藤原氏は春日大社の実権を握り氏神様として取り込んだ。

 中臣氏は鹿島神宮と深い関係がありそうです。
 中臣氏は物部が蘇我氏に敗れ、物部の祭祀権を奪ったのではないか。
 乙巳の変で蘇我氏を倒した。
 中臣氏は元々は鹿島の鹿卜を得意とし、6世紀に海亀の亀卜を得意とする壱岐氏を取り込んで宮廷卜を成立させ神祇官として不動のものにした。卜部のほかに日奉部も管掌下においた。物部宗家の滅亡で、物部氏の鎮魂の神事を中臣氏が継承した。これが私の解釈です。







[10189] Re[10186]: 大山  神奈備 2010/03/02(Tue) 21:27 [Reply]
> みなさま、何語だと思いますか?

 山
 漢音では サン  呉音では セン 

 役小角の開いたとの伝承を持っているのかな。

 京都の鷲峰山 鳥取の大山。

[10188] Re[10183]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  神奈備 2010/03/02(Tue) 17:33 [Reply]
> いずれも星祭がありこれが謎めいています。

『古代海人の世界』谷川健一著から。
 僧袋中(たいちゅう)の『琉球神道記』には、鹿島明神はもと、武甕槌命であるが、人面蛇神であり、海底にいて一錘十日という具合だったので、顔に牡蠣が付着していたとされ、磯にいたので磯良という、とあります。

 武甕槌命と安曇磯良とは同じ神だとのことです。

 また、『太平記』に、神功皇后が軍評定のためにもろもろの天神地祇を常陸の鹿島に集めた。海底の阿度部磯良ただ一人お召しに応じなかった。神々は庭燎を焚いたり曲を調べて磯良をよんだ。磯良は細螺石花貝藻(シタダミイラギ)に栖虫、手足五体に取り付けて、更に人の形にては無りけり。磯良は魚類に交わって久しく海底に住んでいたと言った。
 というようなことが書いてあります。ここにも鹿島と磯良の繋がりが感じられます。

 このような話からは鹿島や香取の神は海神の要素があり、これは住吉大社の中にも星神社が鎮座していることと同様に航海には星が欠かせないものということを意味しているのではないでしょうか。

[10187] Re[10185][10184]: 牟礼神社  神奈備 2010/03/02(Tue) 14:48 [Reply]
 『大阪府の地名』平凡社 には、

 牟礼村は現在の「中津町、園田町、大池町1〜2丁目」とあります。

[10186] 大山  かじりかけ 2010/03/01(Mon) 23:47 [Reply]
「出雲国風土記」では、「大神岳」や「火神岳」と記されていました。
この大山、みなさまはどのように読まれましたか?
「だいせん」と読みます。
鳥取県の大山町のホームページでは、この山という字をセンと読ませるのは島根、鳥取、岡山の北部に多いとありました。
みなさま、何語だと思いますか?

[10185] Re[10184]: 牟礼神社  神奈備 2010/03/01(Mon) 16:32 [Reply]
> 牟}神社は元は牟}村にあったと聞いていますが現在の茨木市の何町にあたりますか?

 『摂津志』によりますと、「戸伏、橋ノ内、荘、中、牟禮 以上を戸伏荘と言う。」とあります。

 現在の町名を地図的に描きますと下のようになります。
    |
  戸 安 荘
  伏 威
    川 橋
  中 | の
中 村 | 内
津   |

 この地名の次ぎに鮎山、目垣と続きます。『摂津志』の中を中村としますと、次の牟禮は中津ではないでしょうか。牟禮神社の場所がすでに中村にかわっており、地名の牟禮を町名とするのは混乱のもとです。従って、牟禮神社の祭祀氏族の祖が大中津日子命ですから、元来の祭神の名をとって中津としたのでは。


[10184] 牟礼神社  牟}村 [Url] 2010/03/01(Mon) 10:01 [Reply]
牟}神社は元は牟}村にあったと聞いていますが現在の茨木市の何町にあたりますか?


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