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掲示板のログ(平成二十二年 五月 2010.5)お名前の敬称は省略しています。

[10272] 鏡は日神の依り代か?  神奈備 2010/06/01(Tue) 17:50 [Reply]
万葉集 鏡の歌コレクション

鏡が山や妹を写している情景の歌ははずしています。そうしますと:−


1079 真澄鏡(まそかがみ)照るべき月を白妙の雲か隠せる天つ霧かも

1507 いつしかと 待つ我が屋戸に 百枝さし 生ふる橘 
   玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり
   朝に日(け)に 出で見るごとに 息の緒に 吾(あ)が思(も)ふ妹に
   真澄鏡(まそかがみ) 清き月夜に ただ一目 見せむまでには

2462 我妹子し吾(あれ)を思はば真澄鏡照り出(づ)る月の影に見え来ね

2670 真澄鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまじ恋こそ益さめ

2811 この言を聞かむとならし真澄鏡照れる月夜も闇のみに見つ

2980 真澄鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ぬれば生けるともなし

3900 織女(たなばた)し船(ふな)乗りすらし真澄鏡(まそかがみ)清き月夜(つくよ)に雲立ち渡る

となっています。太陽(日)に鏡が関係する歌は皆無です。鏡は月をうつすもののようです。
 月の光を見る→月の影を見る→→鏡

[10271] 春日と月  神奈備 2010/05/31(Mon) 21:00 [Reply]
 『万葉集』に、「三笠の山」を歌ったのがそこそこあります。頭から幾つか。

0980 雨隠り三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降(くだ)ちつつ
0987 待ちがてに吾(あ)がする月は妹が着(け)る三笠の山に隠(こも)りたりけり
1295 春日(かすが)なる三笠の山に月の船出づ遊士(みやびを)の飲む酒杯に影に見えつつ
1861 能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも
1887 春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく 旋頭歌
2212 雁がねの鳴きにし日より春日なる三笠の山は色づきにけり
2675 君が着(け)る三笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも
3066 妹が着(け)る三笠の山の山菅の止まずや恋ひむ命死なずば
3209 春日なる三笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしそ思(も)ふ

 これらの歌の殆どには「三笠の山には月」が詠まれています。阿倍仲麻呂が異国で歌ったのも三笠山に出し月でした。三笠山は月に似合うのです。
 三笠の山を神体山とするのは春日大社です。ここは月を祭ったとの由緒はなさそうですが、神宮寺である興福寺の山号は月輪山でした。水が噴き出すと云う事があって、月は水に関係するので三笠山の月と二重になるとのこともあってか山号をやめ、山号額を取り除き埋めました。南円堂の前に塚が残っています。

 春日大社も月に水に関係があるだろうと思って再度『万葉集』を見ました。

月に関係の歌
735 春日山霞たな引き心ぐく照れる月夜に独りかも寝む
1074 春日山おして照らせるこの月は妹が庭にも清(さや)けかるらし
1295 春日(かすが)なる三笠の山に月の船出づ遊士(みやびを)の飲む酒杯に影に見えつつ
1373 春日山山高からし石上(いそのかみ)菅根見むに月待ちがたし
1845 鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
1887 春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく 旋頭歌

月には関係がない歌
1844 冬過ぎて春来たるらし朝日さす春日の山に霞たなびく
2125 春日野の萩し散りなば朝東風(あさごち)の風にたぐひてここに散り来(こ)ね
2181 雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは
3001 春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今そ悔しき
3819 夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末(うれ)の白露思ほゆ

 月がでている夜の歌とや朝夕の歌が目立ちます。

 春日(かすが)と云う言葉の中に「月」に関連する要素はないものでしょうか。「かすが」の「が」は「月 がつ」の「が」だったとか。

[10270] 射日神話  神奈備 2010/05/28(Fri) 11:20 [Reply]
 洪水神話は、実際の洪水の記憶があったからと云われています。
 太陽が近すぎて背中の赤ん坊が焼け死んだので、父親が怒って太陽を突いたので、怖いと遠くに(高くに)逃げたとか、十二個も太陽がいて熱いから、弓矢で太陽を射て十一個を落としてやっと地上が過ごしやすくなったとの射日神話があります。

 話は変わりますが、空気中の炭酸ガスが若干増えて、保温効果が高まったので地球の温暖化が始まったと云うのが通説ですが、アメリカの気象関係者の殆どはそれを信じていないようです。通常の変動の一環だということ。

 そういうことで、やはりかっては温暖期の気温が高すぎて人間が暑さにまいっていたことがあったのでしょう。どう解決したのかは不明ですが、何とか太陽を遠ざけたいとの願望があったものと思われます。それらの体験は所謂熱帯地方の人々だったのでしょう。北へ、南へと移動した人々もいたのでしょう。

 紀元前12000年にビュルム氷期が終り、スンダランドは徐々に水没していきます。また紀元前4000年前にも高温期が来ています。平均気温1〜2度高く、海水面も5〜10m上がっています。射日神話と洪水神話も同時期に起こっているのかも。


[10269] Re[10266][10265][10263][10260][10259]: ハンマーヘッドシャーク  神奈備 2010/05/26(Wed) 17:35 [Reply]
> 鯨の古語は「いさな」です。「いさな+き」「いさな+み」なのでしょうか。
> イザナギが禊ぎした アハキ原 も地上(川)ではなく海中か??? など
> 神話のこのあたりを海中のハナシと思って読み直してみるのも面白い。


 イザナギが黄泉の国に行き、イザナミに会いに行くシーンも、なんとなく鰐の川上りを連想させます。

 国や神々を生んだ諾冉二神には鯨(勇魚)の偉大さが求められたのでしょう。その当時として知りうる最大の生き物です。

 表・中・底の筒之男三神や少童三神の誕生譚は海中のハナシそのもの。

[10268] Re[10265][10263][10260][10259]: ハンマーヘッドシャーク  琉球松 2010/05/26(Wed) 14:01 [Reply]
追記

鯨の巨大さを考えると「八尋鰐」かも?

[10267] Re[10266][10265][10263][10260][10259]: ハンマーヘッドシャーク  琉球松 2010/05/26(Wed) 10:32 [Reply]
 こちらでは、鯨を祖神とする伝承は聞かないのですが、徳之島の鬼説話では南から来る鯨を神聖化しているふしがあります。

 また、ジュゴンは神の乗り物とされていますから、魚類哺乳類の違いははほとんどないようで、これは本土や朝鮮半島で言う白馬でしょうか。

 それと、古語「いさな」。。。これは沖縄島北に浮かぶ離島「伊是名(イゼナ)」を連想しますね。

[10266] Re[10265][10263][10260][10259]: ハンマーヘッドシャーク  大三元 [Url] 2010/05/25(Tue) 08:49 [Reply]
>  鯨などを祖神とする民もいるんでしょうか。

鯨の古語は「いさな」です。「いさな+き」「いさな+み」なのでしょうか。
イザナギが禊ぎした アハキ原 も地上(川)ではなく海中か??? など
神話のこのあたりを海中のハナシと思って読み直してみるのも面白い。


[10265] Re[10263][10260][10259]: ハンマーヘッドシャーク  神奈備 2010/05/24(Mon) 09:14 [Reply]
> 鮫は卵ではなく直接子を産みますから

 これは面白いですね。海人の祖先神と見なされる資格はあったのでしょうね。
 鯨などを祖神とする民もいるんでしょうか。

[10264] Re[10262]: 北西 南東  神奈備 2010/05/24(Mon) 09:13 [Reply]
 どちらかと言えば伊勢神宮は”東”にあたります。
 出雲大社も北西と言うよりは西北西に近いようです。和歌山の日前国懸神宮と出雲大社が夏至の日の入り、冬至の日の出のラインになるようです。

 また、吉野裕子さんは、出雲大社と鹿島神宮とが日本列島のなかでの東西ラインで最長と書いています。いろんな見方があるようです。

 平安時代になりますと、都を守るために大将軍神社を四方に建てたようですし、比叡山延暦寺も鬼門の守護となっています。

[10263] Re[10260][10259]: ハンマーヘッドシャーク  琉球松 2010/05/22(Sat) 12:01 [Reply]
「木魚」と呼ばれる楽器?がありますが、板などにシュモクザメを描くことで、有用な音が得られると考えたのではないでしょうか。
 これは、大三元さんが気にされている「サナギ(サ鳴き?)」とも関わると思いますね。仮に銅鐸がそう呼ぶばれていたとすれば、本体に残された複数の穴に風を通すことでスースー、サーサー、ピーピーと、つまり"サメザメと鳴く"のではないかと。。。

また、神武の母系が南島の鮫であることは、彼女達の出産シーンを見てもわかります。
 鮫は卵ではなく直接子を産みますから、銅鐸とその"入れ子"の関係を連想しますね。

[10262] 北西 南東  かじりかけ 2010/05/21(Fri) 23:54 [Reply]
お答えありがとうございました。

以前、屋敷内に荒神様を北西に水神様を南西にまつるという書き込みをしましたが
出雲の社が富神社にあったとすれば、国を守るために北西・南西に神様をまつる大社を建てたのではないか?と妄想します。
さらに、大和朝廷を守るために北西に出雲大社を・南西に伊勢神宮を建てたのではないのか?
と妄想を膨らませておりますがうらずけるようなものがありません。(泣)
この妄想はあきらめた方がよろしいでしょうか……

[10261] 日光感精神話  神奈備 2010/05/19(Wed) 10:52 [Reply]
井本英一著『神話と民俗のかたち』に日光感精に冠する興味深い話が載っています。

 イランの地方の女性の名かには、初夜が終わった翌朝、中東の乾燥地域の特徴である平たい陸屋根の上で仰向けに横たわり、日の出の太陽に向かって局部を曝し、太陽の精を受けて妊娠することを願う者がいる。

 原田大六著『実在した神話』のい中で、やはり平原弥生古墳の被葬者が、頭を西に、股間を東に向けて埋葬されており、日向峠からの日の出が股間を射すようになっていると述べています。

 どうやらこの習俗は、大陸を伝播して我が国に来たもののように思われます。イラン人は海洋民ではなさそうだし、朝鮮半島にもよく似た話があります。北方系か。

 『古事記』の天日矛のお話です。新羅の国の阿具沼の辺に一賤の女が昼寝をしており、そこに日、虹の如く輝いてその女の陰上に指しし。そうして孕んで赤玉を生んだ、と言うお話です。

  大隅八幡宮に関する伝承で、震旦の陳大王の娘の大比留女は七歳、王が問いただすと夢で朝日の光が胸にあたったため懐胎したと説明した。やがて生まれた王子と共にうつぼ舟に乗せて流した。大隅国に到着。

 大隅八幡宮は鹿児島ですが、震旦の国とは大陸の国でしょうから、やはり北方系。

 尤も、稲作民に残る種籾は朝日のにあたって懐妊し、次の稲を生むと言われています。これも日光感精神話としますと、北方系・南方系と区分する意味がないのかも。

[10260] Re[10259]: ハンマーヘッドシャーク  神奈備 2010/05/16(Sun) 09:50 [Reply]
 お箸は弥生時代には伝わっていたとされているようですが、それは一部の支配者などに限られていたのでしょう。
 在原業平が河内の玉祖神社(八尾市の東側の山裾に鎮座)の近くの女人のもとに通っていたことがありました。ある日、すこし早い目に行ったのでしょう、女の家の窓が開いており、その中で女が手づかみで飯を食べていたのを目撃しました。下品と言うのか鬼が何かをくっているような印象を受け、百年の恋いもさめてしまったとのお話があります。もっともうろ覚えですが。

 平安時代になっても庶民は箸を使わずに食べることがあったようです。

 川を昇る鰐ですが、それが川を下る矢に置き換えられ、さらに箸になったお話。三輪の神の神妻となった百襲姫がある朝、神の姿が小さい蛇だったのを見て驚きます。神は恥をかかされたとして、百襲姫が座ったとたんにホトに箸が刺さって死にます。恥をかかせたことになります。
 ここには、鮫−鰐−蛇−矢−箸の推測の連鎖が考えられます。                
 丹塗矢となったこともある大物主は蛇にもなり、また箸となり、百襲姫を殺したのです。

 先の変化の鎖は鰐−舟への変化となっています。
 京の貴船神社の創建譚です。
 鰐に乗った玉依姫命が尼崎から京都の貴船まで昇ったのが、黄舟に乗って行ったとの話になっています。貴船神社にはその船が石になったのでしょうか、奥宮に船形石が置かれています。

[10259] ハンマーヘッドシャーク  神奈備 2010/05/11(Tue) 16:32 [Reply]
 摂津国に溝咋神社があり、祭神は媛蹈鞴五十鈴媛命と三島溝咋耳命などです。神武の皇后とその祖父神となります。この溝咋とは一体何でしょうか。
 田圃に水をひく溝を守る板をとめる杭に成る神との見解があります。
 また、溝の中の泥鰌や田螺をつついて食べる鳥(鴨)のことだろうとする意見もあります。

 「咋」の字を持つ神として有名なのは大山咋神です。比叡山の東麓の日吉大社や京都市の西の松尾大社に祀られています。共に立派な磐座を持っています。原始信仰からの神社だと思われます。磐座とは山に打ち込まれた杭と見ることができないでしょうか。(なお松尾大社の背後の山にある磐座は古墳の一部ではないかとの説があります・・・・。)

 溝に打ち込まれた杭、山に打ち込まれた杭、これが溝咋、山咋、だと思われます。

 さて、松尾の神は、鳴鏑矢を用いる神とされています。鳴鏑矢とは尖端がT字型になった矢のことです。『山城国風土記』(逸文)には、「賀茂川から丹塗矢が流れてきて、玉依日売が持ち帰って家の寝床の近くに置いておくと、みごもって賀茂別雷神を生んだ。」とあります。これは鰐が矢に化けてと言う各地にある伝承と同じ様なものです。鰐はサメのこと。

 シュモクザメと言うサメは口の尖端がT字型になっており、鳴鏑矢とよく似ています。別の名はカセワニです。川の上流の女神に会いに来るサメ、このお話は肥前国の与止日女神社に伝わる伝承です。この神社の側を流れている川の名前は嘉瀬川です。

 『山城国風土記』の丹塗矢に化けた神は火雷神とされていますが、方丈記を書いた鴨長明(下社の正禰宣の子)は下社の祭神を大山咋神と書いています。これはシュモクザメと鳴鏑矢の似ていることがきっかけだったのでしょう。

 写真掲示板にシュモクザメと土器に描かれたシュモクザメらしい絵と鳴鏑矢をアップしています。

 シュモクザメはハンマーヘッドシャークと言います。杭を打ち込むハンマーです。これが大山咋をして鳴鏑矢と言わしめたのです。

[10258] Re[10257][10253][10251][10250]: 淀川の右岸と左岸  神奈備 2010/05/10(Mon) 08:18 [Reply]
>東摂津

 秀吉さんは、淀川東岸を改修し、京街道を造らせています。東岸は河内側で大坂の町の側です。洪水は東摂津へと言うことだったのかも。

[10257] Re[10253][10251][10250]: 淀川の右岸と左岸  佐々木 2010/05/09(Sun) 11:25 [Reply]
>東摂津

 宮廷雅楽で使用される篳篥の蘆舌の材料である葦の産地だったそうです。
 三島郡味舌(ました)村、味生(あじふ)村ほか。そのような場所であればこそ、葦に傷つけるような武具や火などは使い辛くなって、ある種アジール化したのかもしれません。浸水がなければ好都合な隠れ家かもしれません。

 多美さんのご活躍、別荘の方でも時折拝見させて頂いております。

[10256] Re[10254][10252]: 五十鐸  大三元 [Url] 2010/05/09(Sun) 08:45 [Reply]
神奈備さん、レス有り難うございます。

ウスタキは、臼や(渦や)滝とは関係なく、五十猛との関わりを考える必要があるのではないか、という視点が提供できるかと思います。

イソタケ彦とイソタケ姫兄妹ですかね。

[10255] Re[10250]: 淀川の右岸と左岸  多美 2010/05/09(Sun) 07:22 [Reply]

>  地域の古代における気風と関係しているのかどうか、古代の魂を祀るこの地域に大きい特徴が見られます。それは神社本庁加盟社かそうでない単立社かのことです。

> 淀川右岸
>      宗教法人中  全神社  単立
>  高槻市        48   33
>  茨木市        48    8
>  摂津市         6    3
>
> 淀川左岸
>  枚方市        26    1 
>  寝屋川市       18    0
>  守口市        10    0

神社本庁(体制)から見れば、淀川右岸はトンデモナイ輩(笑)

この手の話題に過剰反応してしまいます、悪い癖は治りません。

「橋のない川」というのを思い出しました。

川は人の心の仕分け人でしょうか。

勉強意欲は先生次第ですね。

佐々木さんの参加は、穏やかで和みますね。

川戸は川の外、かも知れません。勉強・勉強。

追伸

古墳にまったく興味なかったのですが、榛名神社・赤城神社の古社地にこだわる著書を読み、その根拠が古墳らしく、「古墳は嘘つかない」なんて、思う今日この頃であります。

[10254] Re[10252]: 五十鐸  神奈備 2010/05/08(Sat) 20:05 [Reply]
> 今日は、イソタケ が ウスタキ と同一か兄妹かも、というオハナシ:

 臼滝は飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の祭神として祀られています。山の登り口に飛鳥川が勢いよく流れており、段差のある所では滝のように流れが落ちで、渦をなしているようです。女神。
 この神が宗像三女姫の一としますと、確かに多岐都比賣命似合います。たぎっている滝。この神は須佐之男神も御子、須佐之男神を祀る巫女。

 五十猛さんも須佐之男神の御子神ですから、同じように須佐之男神を祀る覡の要素もありそうです。

 同一神とは断定しにくい所ですが、兄妹には違いないようです。
 大和国宇智郡の金剛山の中腹の高天岸野神社が物語っているようです。

[10253] Re[10251][10250]: 淀川の右岸と左岸  神奈備 2010/05/08(Sat) 20:03 [Reply]
> 米軍の航空写真等から確認すると条里制地割の継承が確認できます。

 佐々木さん、思いこみを素早くご指摘いただき、ありがとうございます。流石。

> 勝尾寺川

 勝尾寺は中世にはアジールだったと。東摂津は何か一筋縄ではいかない地域のように感じます。

[10252] 五十鐸  大三元 [Url] 2010/05/08(Sat) 13:08 [Reply]
スサノヲの原義は イソサナキ(五十鐸) ではなかったか、という大いに妄想に近いことを考えております。
 http://www.dai3gen.net/susanaki.htm
要旨:
 イソサナキ(イサナキ・ソサナキに縮約?)の子が 五十猛(イソタケ)
 天日矛の子が 五十迹手(イソトテ)
 もし、五十猛 と 五十迹手 が同一なら
 スサノヲ(イソサナキ) と 天日矛 も同一(かも)
     (サナキ 鐸 と 矛 の対比)
 ソサナキ が 素戔鳴 これが 素戔嗚 に変化

今日は、イソタケ が ウスタキ と同一か兄妹かも、というオハナシ:
 イソタケの親は スサノヲ(イソサナキ)
 ウスタキ姫とタギツ姫が同一、という説がある;とすると
  タギツ姫の親は スサノヲ
 ∴ウスタキ姫の親も スサノヲ
  つまり、イソタケもウスタキもスサノヲの子


[10251] Re[10250]: 淀川の右岸と左岸  佐々木 2010/05/08(Sat) 10:20 [Reply]
>条里制の跡もありません。

 米軍の航空写真等から確認すると条里制地割の継承が確認できます。東奈良遺跡付近は茨木川からの土砂が江戸時代以降数m程度は堆積しているような地形でした。
 なお淀川左岸の茨田郡や讃良郡条里の開始は10世紀以降とのことでした。

>三島郡藍原
 具体的な場所は定かではありませんが、勝尾寺川(下流では茨木川)と安威川が合流する場所(茨木市田中町三咲町あたりか、かつて安威という大字がありましたが)で両河川ともに河床勾配が急なままで合流するところ、地元不案内な外人は立ち往生して簡単に捕まったのかもしれません。高速道路の信号のない交差点のど真ん中に追い詰められた感じですかね。

★茨木といえば、讃良郡の秦氏がその後茨木氏を名乗った地域でありました。

[10250] 淀川の右岸と左岸  神奈備 2010/05/08(Sat) 09:11 [Reply]
『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)二月甲子朔◆九年春二月甲子朔。遣凡河内直香賜與采女。祠胸方神。香賜與采女既至壇所。〈香賜。此云舸■夫。〉及將行事。奸其采女。天皇聞之曰。詞神祈福可不愼歟。乃遣難波日鷹吉士將誅之。時香賜即逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗。普求國郡縣。遂於三嶋郡藍原。執而斬焉。

 上記の内容は河内直香賜さんが采女を伴って胸方神に参詣を命じられ、行事を行おうとする時釆女を犯した。雄略天皇は何たる不謹慎、殺せと難波日鷹吉士に命じ、香賜は摂津の三島郡藍原でつかまり、斬られたと言う内容です。

 河内直香賜さんの本貫地は一つは神戸市の王子動物園の近く、河内魂神社付近、もしくは淀川左岸を川の内側(=河内)と言うので、左岸の人と思われますが、何故か、東摂津の三島に逃亡しています。アジールだったのかも。

 中臣鎌子さんも神祇官の職を断って、この辺りに隠棲しますが、これはひょっとして本貫の地かも。

 東摂津は例えば、東奈良遺跡のように銅鐸の工房がありました。鏡を祭祀する大和王権とは伝統的に長い間一線を画していた地域と思われます。条里制の跡もありません。

 この地域で史上初に登場するのが神武の皇后の祖父の三島溝咋、皇后の名が富登踏鞴伊須須伎余理姫、あまり敬意を払われていたとは感じません。その次が武埴安彦の叛乱、部下達は楠葉に逃げたのは、ここから川を渡ろうとしていたのでしょう。アジールへ。

 この反体制的な気風は継体天皇を擁立し、彼の古墳を置いたと言うことにも残っているように思います。


 地域の古代における気風と関係しているのかどうか、古代の魂を祀るこの地域に大きい特徴が見られます。それは神社本庁加盟社かそうでない単立社かのことです。


淀川右岸
     宗教法人中  全神社  単立
 高槻市        48   33
 茨木市        48    8
 摂津市         6    3

淀川左岸
 枚方市        26    1 
 寝屋川市       18    0
 守口市        10    0

数字は大阪府神社庁HPから
http://www.jinjacho-osaka.net/osakajinjyamap.html

[10249] 豊中歴史同好会  神奈備 2010/05/07(Fri) 10:45 [Reply]
豊中歴史同好会 市教育センター
2010 5 8 13:45
兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生
テーマ
纒向遺跡と邪馬台国論
ホットな話題です。
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2010.html

[10248] Re[10246][10245][10241]: 諏訪社を訪ねて  神奈備 2010/05/04(Tue) 11:37 [Reply]
> ヰナヘ郡。
忌部氏の祖の天日鷲命を祀る多奈閇神社が鎮座しています。
また、猪名部神社が鎮座、物部系のようです。郡の名は猪名部の方でしょう。


> 銅鐸なら弥生まで遡る伝承でしょうか。

 大金地名は『和名抄』に、伊勢国朝明郡に大金郷があります。この地での銅鐸の発見を大鐘が出たと云うことで、その名になったとしますと、銅鐸をサナギと云う事が忘れられてしまった頃以降と言えるでしょう。『和名抄』は930年代。

[10247] Re[10246][10245][10241]: 諏訪社を訪ねて  とみた 2010/05/03(Mon) 13:17 [Reply]
> > 『住吉大社神代記』大八嶋國天下奉レ出二日神一者。船木遠祖。「船木等本記」があります。

> 住吉大社風土記は平安時代の偽書説がありますね。

手が滑りました。もちろん〔住吉大社神代記〕偽書説です。津守氏が書いたとか

[10246] Re[10245][10241]: 諏訪社を訪ねて  とみた 2010/05/03(Mon) 13:13 [Reply]
神奈備さんありがとうございます

> > 伊勢船木氏は、
> 『伊勢国風土記』の逸文(吉野裕:平凡社)には見あたりません。
> 『古事記』神八井耳命は、伊勢の船木直(フナキノアタヒ)の祖。
> 『日本書記』見あたりません。
> 『住吉大社神代記』大八嶋國天下奉レ出二日神一者。船木遠祖。「船木等本記」があります。

住吉大社風土記は平安時代の偽書説がありますね。

>  四日市市の耳常神社は舟木明神と呼ばれていたそうです。伊勢の舟木直の祀る神社だったと『青銅の神の足跡』(谷川健一著)は述べています。則ち船木氏が居たのです。
>  この朝明郡の一部を割譲して員弁郡を設けたようで、ここは物部氏の伴部の猪名部の居住地であり、猪名部神社もいくつか鎮座しています。造船用の材木を切り出す船木氏と造船の猪名部氏が隣り合わせに居住している事例です。

伊勢船木氏は四日市ですか。知りませんでした。
員弁郡は忌部ですね。

神武は天日別=天日鷲命に命じてイセツ彦を平定させ伊勢国造にします。
天日別命は度会氏で、忌部と関係がある。
伊勢神宮は内宮、外宮いずれも神職が度会氏であったものが、内宮は中臣氏と縁の深い荒木田氏に交替されます。

天武時代から荒木田氏が伸してくる。すると忌部氏は中臣氏より下位になる。
伊勢船木氏の祖は手力神で、アマテラスが岩屋から出るときに力を使うので内宮にも摂社として守護させられる。

追われたイセツ彦は伊勢から風を起こして黒潮に乗り、遠州で天竜川を遡り諏訪に到着。

諏訪湖から天竜川が流れ出るところでタテミナカタ神として土着の洩(守)矢神と戦う。

藤蔓で戦い、洩矢神の鉄輪に勝利する。

手力神としては、さらに北上して科野(信濃)水内の戸隠山に岩屋が落ちたとされる領域の戸隠神社まで広がっている。

洩矢神の扱う”さなぎ”の佐那は銅鐸なのか鉄鐸なのか、鉄鐸としたら鉄は褐鉄なのか?これが問題ですね。

>四日市市大鐘町 太神社「神八井耳命」銅鐸が出土していますので大鐘地名。 
由緒 神社の創立年代や由緒は不明。近辺に船木氏が居住していたようで、同祖の多氏が祀っていた神社と見ていい。諏訪大明神の名で氏神でした

四日市の大金が銅鐸なら弥生時代です。諏訪の北の塩尻には従来最北とされていた銅鐸があります(今は、千曲川ー信濃川の畔の中野遺跡の銅鐸が最北)。

伊勢湾沿岸の多気郡佐那には櫛田川が流れその北には雲出川があります。
この川の下流部はアザカの里で、独自の文化を持つ地域社会があり、前方後方墳が多く、東海式土器であるS字甕土器の発祥地で倭王権に反乱を起こした伝承があるそうです(考古学の赤塚次郎さん)。

伊勢と天竜川を結ぶ領域は、三遠式銅鐸の中心地です。

銅鐸なら弥生まで遡る伝承でしょうか。忌部や中臣氏はもっと新しい時代の6世紀以降に活躍する豪族と思いますが如何でしょう。

船木氏や猪名部は秦氏と同時代の5世紀以降でしょう。

木材を伐り出して寺社や船を作る部民やそれを管理する民と思われます。




[10245] Re[10241]: 諏訪社を訪ねて  神奈備 2010/05/02(Sun) 09:27 [Reply]
 とみたさん、興味深いお話の紹介、ありがとうございます。

 物部守屋の逃亡伝説が近江に残っています。

近江浅井(滋賀県浅井郡)波久奴神社
由緒 創立年月不詳当大連守屋大臣を祭鎮する所は、用明天皇二年、大連義蘇我馬子等と稲城に戦ふて利を失ひ、迹見赤祷の為に射殺せらるる者は、則ちその臣漆部巨阪にして、大臣は弟小阪伴従して其領内、即ちその当地に潜匿し大臣名を隠して萩生翁と自稱す、遺命に依て大臣を小谷東峡の巌窟に葬す、土人大臣を尊崇して爰に祭鎮す。

物部守屋を祭神とする神社
何となく逃亡経路を示しているような・・・
飛騨大野(岐阜県高山市)錦山神社
信濃伊那(長野県高遠町)守屋社
信濃諏訪 守屋山 山頂に守屋の神祠

秋田の唐松神社を目指した物部守屋の一子那加世の足跡か・・・。
甲斐巨摩(山梨県中巨摩郡)大輿神社
陸奥(岩代)国 会津郡 守屋神社三座

鎮魂と感謝?・・
大和磯城(奈良県田原本町)村屋坐彌冨都比賣神社の村屋神社
摂津東成 四天王寺内 守屋祠

守屋の子供達の行く末
忍人 四天王寺家人
辰狐 肥前国松浦
片野田 筑前国鞍手郡
那加世 秋田県


> イセツ彦は伊勢国大金郷の船木直ともあります。

四日市市大鐘町 太神社「神八井耳命」銅鐸が出土していますので大鐘地名。 
由緒 神社の創立年代や由緒は不明。近辺に船木氏が居住していたようで、同祖の多氏が祀っていた神社と見ていい。諏訪大明神の名で氏神でした。

 諏訪大明神と呼ばれたのは何故かは承知していませんが面白いことです。


> 伊勢船木氏は、伊勢風土記、日本書紀、古事記、住吉大社神代記に書かれているそうですが

『伊勢国風土記』の逸文(吉野裕:平凡社)には見あたりません。
『古事記』神八井耳命は、伊勢の船木直(フナキノアタヒ)の祖。
『日本書記』見あたりません。
『住吉大社神代記』大八嶋國天下奉レ出二日神一者。船木遠祖。「船木等本記」があります。


> シンポジュームで猪名部、船木氏は王権や大寺社に奉仕する木工集団、林業地帯に活躍する集団に伝承を残すと解説がありました。

 四日市市の耳常神社は舟木明神と呼ばれていたそうです。伊勢の舟木直の祀る神社だったと『青銅の神の足跡』(谷川健一著)は述べています。則ち船木氏が居たのです。
 この朝明郡の一部を割譲して員弁郡を設けたようで、ここは物部氏の伴部の猪名部の居住地であり、猪名部神社もいくつか鎮座しています。造船用の材木を切り出す船木氏と造船の猪名部氏が隣り合わせに居住している事例です。
http://kamnavi.jp/log/funaki.htm

[10244] 追加します  伊作 2010/05/01(Sat) 22:22 [Reply]
一つ忘れていました。

倭国30ヵ国の中で9ヵ国ほど奴のつく国があります。三韓では80を超える国がある中で、奴がつくのは弁辰の楽奴国一つです。私は以上に多い奴のつく国は、古豪・倭奴国の版図の名残りを残しているのではないかと思います。(20年ばかり前に発表しました)。

その中の狗奴国は倭人語の「旧奴国」で、古豪・倭奴国の遺臣が男王を担いだ国ではなかったかと、少し本気でみています。この着想には、卑弥呼と卑弥弓呼が姉弟か肉親関係にあったとする妄想が付随します。
何しろ倭人伝が使った「もと」には、旧と本もありますが、ここでは「素より不和」で、勢力や国柄や主義や派閥の違いによる不和ではないようですしね。

ご承知かも知れませんが、熊本県の菊池は古くは「久々知」「久々智」と書きました。「くくち」です。現在でも地元の古い人は「くくち」といいますし、古い地名辞典には「くくち」とかながふられています。
狗奴国の官の狗古智卑狗も「くくち」です。

[10243] 長くなります  伊作 2010/05/01(Sat) 21:44 [Reply]
>文字が対馬であるならそうは読めないと思います。
>ツシマは対馬という漢字表記を唐時代以降の中国発音と「シないしシマ」を加えて切り貼りしたもの。
>牛や馬がいないとする土地で邪馬や對馬など馬の文字は用いないでしょう。

むずかしいですね。私は倭人が「対島」という漢字意味をもつ言語でつけたものを、倭人の発音に会わせて中国人が対馬にあてたとの考えです。(いささか苦しいのでこれ以上強調はしません)。「ま」に馬の字をあてたのがほかにもありますね。(あなたの意見では「ば」でしょうが)。
基本的に大きな意見の相違はないようですが、読みが違うというところのようです。余談の中に異論が一つあります。

>後漢が命名した国名、中国の属国扱いの場合です。
長くなりますが、私の論考から抜粋します。

たとえば「漢委奴国王」という印字の意味だが、ここに漢とあるのは、実質的な服属関係が存在したことを示しているのではない。天子を頂点とした社会の建て前では、地上のものはすべて天子に属する。この考え方にのっとって天子を奉ってきたのだから、一応は漢天子の下にある建て前になる。しかし、この関係が形式的なものであることは、互いが了解していたことである。
仮に、57年当時の倭奴国が後漢朝の支配下にあって服属していたとすれば、東夷伝序文のいうように「時代を隔てて散発的に貢献した」では済まない。「服わずは討伐、頼るは拒まず」が王道の不文律だから、それこそ討伐の対象になっていたことだろう。
『三国志』韓伝には、衛満に滅ぼされた朝鮮王の話から続く韓の歴史の一文で、「漢代には楽浪郡の支配下に置かれ、季節のサイクルごとに役所に来て朝貢していた」とある。藩内にあって属国関係が存在すれば、このように何らかの朝貢が義務づけられる。それも、倭国のように50年に一度や130年に一度ではなく、季節のサイクルごとにか年季ごとにである。
中国王朝に対して実質的な服属義務や貢献義務が存在したのは、中国自らが制定した9服制度に組み込まれた藩内の諸国である。(東夷諸国でいえば玄菟郡下の高句麗や夫余など周辺異民族の範囲にとどまる)。むろん列島の倭国は「藩甸の外(9服の外)」すなわち藩外にあって、歴代の中国王朝から兵士の拠出や定期的な貢献といった義務を負わされた事実もない。むしろ、歴代の中国王朝が、倭人・倭国の朝貢を「化外慕礼」に位置づけてきたし、天子体制下にある属国とみなした言動はしてはいない。

中国には「化外慕礼」という言葉がある。これは、五服・九服の外にいる異民族が、天子や王朝を慕って朝貢することをいう。「化外」を換言すれば、藩外すなわち天子の徳育強化の及ぶ領域(支配領域)の外という意味である。藩外の周辺民族の朝献・朝貢が多いことは、それだけ天子の威光が強いことと、天子への敬慕が強いこと意味する。体面と尊厳にこだわる朝廷としては大変喜ばしいことである。かくして、藩外の異民族の朝貢外交を歴代の王朝が歓迎することになる。
一方の周辺民族諸国からみれば、朝献・朝貢は中原との国際交流の手段である。先進の中国との交流・交易、情報・知識・技術の入手、安全保証など様ざまな下心があった。そのためのトップ外交の手法が朝献・朝貢であり、唯一の公式外交手段だったのである。西暦57年の倭奴国王、107年の倭国王・帥升、238年の卑弥呼の朝献は化外慕礼であり、朝貢外交に位置づけられる。

冊封(さくほう)とか冊封体制とは、現代の日本人がつくって使いだした造語である。これは、西嶋定生氏が1962年に提唱したとされる。古来の中国には冊封とか冊封体制という言葉はない。西嶋定生氏のいう本来の冊封体制は、
「中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と★名目的な君臣関係★を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ」(wiki)。
つまり、中華思想にのっとって、天子の支配下にない周辺異民族国が形式的に臣下の形をとり、中国を中心として形成する国際秩序をいうようである。

中国には封冊(ほうさく)という言葉はある。天子の封拝・進爵の宣下文言を書いた書で冊書ともいう。これは、藩内の遠隔地や地方の王侯・諸将・諸民族などに封拝・進爵を行なうのに用いられた。この封冊(ほうさく)を現代風にいえば辞令のようなものである。とはいうものの、宅急便や郵便で配達して済ませるようなことはしない。本来は天子が行なうべき授与儀式を、封冊を携えた封爵使者が天子に代って厳粛に執行して授与する。この封冊を用いた封拝・進爵を翻訳すれば、「天子政府による天子政府下の諸官や藩内の諸王・諸侯・諸民族に対する人事手法(封拝)」というところだろう。天子を頂点とした統治機構体の政治手法の一つであって、封冊を用いた封拝行為そのものを「体制」とはいわない。ましてや「冊封体制」などという言葉は中国には存在しなかった。
問題なのは、「倭国は冊封体制に組み込まれていた」を拡大解釈して「倭国が中国に実質的に臣従していた」とする言説が多いことである。むろん、日中のどの歴史をみてもそうした形跡は皆無である。

中国天子による爵位の授与について注目したいのは、天子に属する藩内の諸王・諸侯には「封ず」で、諸将・諸官には「拝す」という言葉が使われてきた。一方、天子の支配に属しない藩外にある倭国に対して王号を与えた文書で、「封ず」という表現が使われた例は一切ない。中国側もこういうことには厳格で、さすがに無頓着ぶりをみせる『三国志』以降の各正史もこだわって使い分けている。(封は「あたえる」で、天子が近親血族や功臣に国邑を分け与えて建てさせた。これが本来の「封建」である。さすがの中国人も、天子の所有領域にない列島の倭国に「封ず」を使うほどに理屈知らずではなかったようである)。
倭国王に対しては、せいぜいが「親魏倭王となして」「金印紫綬を假す」、あるいは「除す・進めて号す」である。
(『倭人伝』には例外的に、卑弥呼の複数の使者に対して率善中郎将の印綬を「壹拝す(おしなべて拝す)」とある。また、天子代理の使節が詔書や印綬を与える意味の「拝假す」とあるが、これは古語熟語であって本来の「拝する(授ける)」意味ではない)。

中でも『宋書』の「除す」は、いかにも文書のやりとりだけですませた表現である。『梁書』のいう「進めて号す」は、建国のハクつけの一環として古式恒例の進爵儀式をやったのであって、倭国との文書交換が行なわれた形跡すらない。 むろん、『宋書』『隋書』をみても倭国が中国に臣従していた事実はない。

わが国では、卑弥呼が朝献したことや、使者の難升米たちが率善中郎将の官位と銀印を頂戴していることをあげて、倭国が魏に臣従うしていとする見解もあるが、それは基本的なところで間違っている。天子が藩外の異民族に王号や官位を与えるのは、天子を戴く政府の外交手法の一環であり実質的な臣従関係はない。難升米が頂戴した率善中郎将は、禄高が最高で2000石にもなる親衛隊の高官である。だからといって、難升米が魏皇帝の身辺警護で実際に働いたわけでもなく、魏政府から報禄を頂戴したわけでもない。あくまでも外交形式のうえに授けた名誉官位である。
 (魏が率善中郎将の官位を授けた遠大な真意については省略)。

[10242] Re[10239]: 発音か意味か  かたばみ [Url] 2010/05/01(Sat) 13:41 [Reply]
>中国語発音が呉音や漢音とは異質な場合が多いことをいうための説明材料として)現代の中国語発音を併示します。古今、さほどの違いはないからいいでしょう

中国は多民族国家、日本とは比較にならないほどの言語が入り乱れていて、秦時代に文字の統合化が行われたけれど、発音については不明。
古代の発音を知ることは現物が残っていないためにたいへん困難だと思います。
小さな島国でも「弥生時代の倭語」と現代公用語語が同じだといえないそれ以上に中国語では違いがあったはずで、漢や魏呉蜀時代などでの発音はいかに、ですね。

>7世紀の中国の識者がそろって「馬」を「マ」に当てているようです

それが唐音なのかも。
イロハのごとき発音記録手段の存在を聞いたことがありませんが、文字を用いれば話は通じる、があったからか。
五胡十六国と南北朝時代を経て唐時代に至ってようやく発音の統合化(平均化?)が始まっているのだと思っています。

>この理屈でいくと、邪馬台は「やばたい」ですか。

その通りです。
邪馬台ヤマタイと読めるのは、おそらくはおっしゃられるように「七世紀の中国語」唐音以降であって、漢時代ないし魏時代の発音と同じとはいえない、ということです。
だれかが後漢書の表記をずっと後の発音で読んで、それが一般化(固定観念化)してしまっただけ。
(魏志では邪馬壹国であって後漢書の邪馬臺国ではない、これについては略)

倭語での国名は後漢書の邪馬臺国であれば、例えばヤバタイに近いであろう倭語を探さねばならないわけです。
倭語では山戸、山門の意のヤマトだった、その可能性はあると思います。
ただし、奈良のヤマトだとはできません、どこにでもありえる地名だからです。
隋書の都斯麻も戸島や門島の意の倭語を文字化した可能性もあります。

>どのみち「つしま」は倭人読みですね

倭人読みとは、古代の倭の言葉の意でしょうか、文字が対馬であるならそうは読めないと思います。
ツシマは対馬という漢字表記を唐時代以降の中国発音と「シないしシマ」を加えて切り貼りしたもの。
魏志の對馬の倭語での発音は邪馬ヤバと同列であってタイバに近いものであったと考えます。
時代が400年も違う隋書の都斯麻トシバを横目でみながら、お偉いさんがそうやったのでそうなってしまっただけだと思います。

対の馬に見える島、そういう見解もありますが賛同できません(どうみたら対の馬にみえるのかなんてのはおいといて)。
文字を意味からとらえる、属国ということになってしまう、自国の名に他国の言葉を使うには事情が必要。

そのように解釈しようとするなら、魏志での他の地名も同様に文字の意味から行わねばならなくなります。
隋書の都斯麻も文字の意味で解釈するのか、でもあります。

列島では文字はまだ一般化しておらず、地名は倭語における発音だけであり、その発音を当時の中国人が適当に文字化している。
これが原則と思います。
ただし、倭語の意味を知って、それ類似の意味と発音が両立する文字があれば、それを使う可能性はあります。
魏志では詳細が書かれているので、ある程度はそういう親切がある可能性はありますけれど・・
しかし、「其地無牛馬」とあります。
牛や馬がいないとする土地で邪馬や對馬など馬の文字は用いないでしょう。
魏志の文字は発音を示す、がまずありき。


なお、書紀では文字の意と倭語の発音との両立に努力していると思います。
唐へ送る史書でもあり、そこに適当な当て字を使ったら内容を誤解されかねません(新唐書では書紀を転載している)。
古事記や万葉における自己流の当て字ではまずい、専門家の参与が必須になるでしょう。
まずは発音体系と文字用法が統一されていればよいですから、漢文としての完成度は棚上げとして、渡来した学僧参与程度で大急ぎでまとめたのでありましょう(南方系学僧かな)。

また、人名などに文字の意味を重視した名付けも必要になり、倭迹々日百襲姫なんてのがそうじゃないかと思ってます。
倭のお姫様に決まってるはずなのにわざわざ倭と付け足す・・倭じゃないお姫様もいたのかなあ(^^;
五十迹手はどうかな、同様に万葉や古事記に準ずる読みとするのはちょっと待て。

中国史書における倭語はまずは発音から、そこで古代における呉音や漢音という分類(分析)が重要になります。
現状における呉音や漢音という分類だけで足りるとは思えませんし、さらなる研究も要す、これも重要と思います。

余談
中国語を冠する例外国名が金印における委奴国(倭奴国)。
後漢が命名した国名、中国の属国扱いの場合です。
魏志が、委奴国ではなく伊都国と表記したのは、かっての委奴国が多数に分裂して同じとはみなせなかったからだと考えています。
すなわち倭国争乱ですね。
なお、魏志には「なになに奴国」が多数登場しますが、それらの国が(旧)委奴国ないし(現)奴国に関連あることを知っていたからだと考えています。

で、伊都国や怡土イトの源流がここにあり、その意味が卑字によるものであることを知ったときどうするか。
地名改変をやるでしょう。
筑紫、対中国外交の玄関として胸を張れる地名に変更したわけです、文字も意味も読みも中国語ですけどね(^^;


[10241] 諏訪社を訪ねて  とみた 2010/05/01(Sat) 11:09 [Reply]
ゴーデンウィークの前、諏訪神社上社、下社を巡り、御柱のシンポジュームに参加しました。
柱を山から引き出す木落としが済んで、いよいよ里曳ー御柱建が始まります。諏訪は、いくつも謎のある土地です

ミシャクジ、さなぎ(鉄鐸)、薙鎌、御頭祭、洩矢ー守矢ー守屋、建御南方、イセツ彦、フネ古墳(5世紀半ば蛇行剣出土)、上社が洩矢神長官と諏訪氏、下社が金刺氏で神八井耳命の多氏系であることです。いくつかを確認してきましたが、謎も残ったままです。

上社の前宮と本宮のご神体は守屋山。守屋山の杖突峠には物部守屋神社があり、
麓の洩(守)矢館の裏の古墳(7世紀前半のもの)は物部守屋の息子の武麿のようです。
蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋の息子たちが諏訪守屋山に逃れたのでしょう。物部武麿が初代洩矢神ということです。

さなぎ(銅鐸)は、争いごとを調停して契約が結ばれたとき洩矢大祝が鳴らした鈴ですと館長は明言されました。
争いには、天竜川を挟んで、諏訪湖側の土着洩矢神と西側に侵入した明神藤島の戦があります。
洩矢神が鉄輪を使い明神は藤の杖、藤蔓を使いました。明神族が勝利。

伊勢から天竜川を遡り諏訪に入ったのは金刺氏か或いは、同系のイセツ彦=伊勢船木氏かもしれません。イセツ彦は伊勢国大金郷の船木直ともあります。

大金とは鉄に関係がありそうだし・・・
こちらも、王権によって追われた多氏系の一族でしょうか。

伊勢船木氏は、伊勢風土記、日本書紀、古事記、住吉大社神代記に書かれているそうですが、神奈備さんはお詳しいと思いますのでよろしく教示ください。

シンポジュームで猪名部、船木氏は王権や大寺社に奉仕する木工集団、林業地帯に活躍する集団に伝承を残すと解説がありました。

[10240] いばら住吉  神奈備 2010/05/01(Sat) 08:20 [Reply]
 連休中は日頃働いている人のために、毎日が連休初日の人とては、できるだけ邪魔をしないように過ごそうかと思っています。

 昨日は和泉佐野市の住吉神社へ行ってきました。南海本線の井原里駅の近くです。この神社は「いばら住吉」と呼ばれているそうです。

 しかし井原の住吉だからではないと思っています。近所の大阪西区に茨住吉神社が鎮座しており、やはり「いばら住吉」です。神社のできた頃、周囲に荊が多かったからとの説があるようです。

 「いばら」とは、住吉大社の元宮とされる神戸市東灘区の本住吉神社の鎮座地が摂津国菟原郡で、菟原の住吉から勧請したから「いばら住吉」となったとも思いますが、ほかに「うばら」「いばら」と住吉をつなぐ何かがあるのでしょうか。


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