神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十二年 七月〜九月   2010.7−9)お名前の敬称は省略しています。

[10420] Re[10419]: 三社詣り  神奈備 2010/09/30(Thu) 08:48 [Reply]
> 日前国懸神宮、竈山神社、伊太祁曽神社の三社詣りは、単なる観光目的に作られたルートでは、ないようですね。

 いつの時代からこの三社詣りが始まったのかは承知していませんが、貴志川線の敷設が当初伊太祁曽までだったようで、三社詣りのための電車とされたようです。
 和歌山市内の子供達は徒歩で三社を廻ったようです。

[10419] 三社詣り  くすのき 2010/09/29(Wed) 20:25 [Reply]
楽しく記事を拝見させていただいています、ありがとうございます。
日前国懸神宮、竈山神社、伊太祁曽神社の三社詣りは、単なる観光目的に作られたルートでは、ないようですね。
詳しく教えていただければ、うれしいですね。
以前は、観光気分で、三社詣りをさせていただきました。
鳴門での古事記講演会は、とても興味深く、面白い内容でした。
また、お逢いできる機会を楽しみにしています。
感謝しています。

[10418] Re[10417][10414][10411]: 大日本豊秋津洲  琉球松 2010/09/29(Wed) 10:27 [Reply]
とみたさんへ

 "葛城山脈がトンボに似ている"。。。これはピンとこないんですけど、そういうこともありうると思いますね。
 それと、やはりトンボには稲作との関係性は濃厚にあるでしょうか。あとはその半透明の羽にも、なにか意味あるかも?

 というのも、琉球圏の神女の神名には「アケズミソ(トンボ衣)」など、その美しい羽をもって美称辞としていますし、徳之島の地名「秋津(アキツ)」も気になります。

[10417] Re[10414][10411]: 大日本豊秋津洲  とみた 2010/09/29(Wed) 08:03 [Reply]
> >  琉球方言の「アキチュ・アーケージュー・アキツ」は蜻蛉のことですが、「秋津洲」は、本州全域の形というより、大阪や奈良など一部の平野じゃないでしょうか?
> >
> >  "トンボが乱舞するほどの稲作の豊かな地" が原義だと考えますね。その幼虫は田んぼの豊かさを象徴しますよ。
>
> 今は赤トンボが飛んでいます。
> 国生み神話では伊予洲で四国を、筑紫洲で九州を示しています。
> 同じように秋津島も本州を表しているでしょう。
> この秋は安芸だと思います。天孫神武天皇が最初に上陸した本州が安芸です。王権にとっては記念すべき土地だったのでしょう。


秋津遺跡が、大和の葛城山の近くの御所市(室宮山古墳の北東)で発掘されて注目されています。
4世紀の遺跡でしょう。そこから見る葛城山脈が蜻蛉(トンボ)に似ているという説もありますが・・・
鴨都波神社も近い。ここは葛城山や金剛山を水源とする川が流れていて稲作には恵まれていた。
その南には巨勢の山があり弥生時代の中西遺跡には丘の平坦地に稲作が行われていた
。秋津という意味はもっと深淵だと思いますが・・・・

[10416] Re[10414][10411]: 大日本豊秋津洲  琉球松 2010/09/27(Mon) 14:32 [Reply]
 "伊予洲で四国を、筑紫洲で九州"。。。秋津島も本州を表している。。。

 こんな感じで、演繹的に説明されると納得ですね。
 安芸は、広島平野でしょうか、トンボの乱舞が目に浮かぶようです。

[10415] Re[10413]: 春日  神奈備 2010/09/27(Mon) 08:32 [Reply]
> 奈良春日大社に紀伊神社がありますがどういう理由で勧請されたのでしょうか。そばに明恵上人遥拝所とありますが関係ありますか?

春日大社の本殿の前に住吉の神が祀られています。
海神系の神々を取り込みたいと考えて紀伊からも勧請したのかなと思っています。

[10414] Re[10411]: 大日本豊秋津洲  神奈備 2010/09/27(Mon) 08:24 [Reply]
>  琉球方言の「アキチュ・アーケージュー・アキツ」は蜻蛉のことですが、「秋津洲」は、本州全域の形というより、大阪や奈良など一部の平野じゃないでしょうか?
>
>  "トンボが乱舞するほどの稲作の豊かな地" が原義だと考えますね。その幼虫は田んぼの豊かさを象徴しますよ。

今は赤トンボが飛んでいます。
国生み神話では伊予洲で四国を、筑紫洲で九州を示しています。
同じように秋津島も本州を表しているでしょう。
この秋は安芸だと思います。天孫神武天皇が最初に上陸した本州が安芸です。王権にとっては記念すべき土地だったのでしょう。


[10413] 春日  和歌山 2010/09/26(Sun) 20:48 [Reply]
奈良春日大社に紀伊神社がありますがどういう理由で勧請されたのでしょうか。そばに明恵上人遥拝所とありますが関係ありますか?

[10412] Re[10411]: 大日本豊秋津洲  琉球松 2010/09/25(Sat) 22:01 [Reply]
すみません。青草掲示板へのつもりでした。

[10411] 大日本豊秋津洲  琉球松 2010/09/25(Sat) 11:25 [Reply]
 本州島とされる「大日本豊秋津洲」って、神武天皇の発言ということになっていますけども、どうなんでしょうかね。

 琉球方言の「アキチュ・アーケージュー・アキツ」は蜻蛉のことですが、「秋津洲」は、本州全域の形というより、大阪や奈良など一部の平野じゃないでしょうか?

 "トンボが乱舞するほどの稲作の豊かな地" が原義だと考えますね。その幼虫は田んぼの豊かさを象徴しますよ。

[10410] 万葉集・枕詞・奈麻余美之甲斐の語源の解明  ひふみよ123 2010/09/25(Sat) 10:21 [Reply]
最近『万葉集・枕詞・奈麻余美之甲斐の語源の解明』【月刊誌「さすら」2009年5〜6月号掲載・神理研究会刊TEL03−5352−8115】を知りました。
万葉集の約15ヶの語源解明不能の枕詞の一つだそうです。
論文によれば、甲府盆地は古伝に曾って湖だったと伝え、
賀茂百樹著『日本語源』に拠り「奈麻余美」は
       なは土の意 まは真(成るの意あり)
       よは夜(蘇の意)  みは水(湖の意あり)
…とすると、 「土に成って蘇った湖の 甲斐の国」
  「湖が土地に成って蘇った 甲斐の国」
…と解明し、近年地震対策の為に実施された甲府盆地の地下構造調査結果から是を裏付けています。
  各位の論議をお願いしたい。
*月刊誌【さすら】は国会図書館で所蔵しています。

[10409] Re[10408][10407]: 阿波へ連れもていこら  佐々木 2010/09/25(Sat) 09:27 [Reply]
 訂正がありました。淡路島の島化は約1万年前でした。
 参考文献は、http://ci.nii.ac.jp/naid/110003013127
 中国と四国がつながったので、トンボ(秋津)の形が少し具体的になった?、神武さんが国土をみたのは約1万年前から8千前の間?
 大倭豊秋津島・・・・目玉と頭:四国、前はね九州と紀伊半島、後ろはね能登半島と房総半島、尻尾:東北ということかな。

[10408] Re[10407]: 阿波へ連れもていこら  佐々木 2010/09/24(Fri) 21:05 [Reply]
神奈備さん
>例えば「伊予の二名州」を「伊の州」と「予の州」。。。
 確かに違和感を感じますね。
 古事記の書き方に忠実に考えると、淡路島が島になるのがおよそ9000年前なので、伊予の二名島もそのころになるでしょうか。さらに大八島国の完成。。。」に続いて吉備児島、小豆島、大島、女島が出来ます。
 これら4島が島になる(海が入る)のはおよそ8000年前なので、9000年前は四国は中国地方の南の半島に過ぎなかったということになるのでしょう。

[10407] 阿波へ連れもていこら  神奈備 2010/09/24(Fri) 15:04 [Reply]
 「浪花の古代史研究会(ウガネット)」に「阿波古事記研究会」の三村副会長が2度にわたって阿波から参加頂き、討論をさせて頂きました。
 こんどは、ウガネットのメンバーが阿波におじゃますることになりました。また他の古代史・神社研究会の方々も参加されることになりました。

 三村さんが冷やかしのポスターを作成されています。面映ゆいことです。巫女さんのモデルは誰でしょう。
http://plaza.rakuten.co.jp/awakihara/diary/201009240000/

 古事記の舞台は阿波だったと言うことを全部否定する気はありませんが、例えば「伊予の二名州」を「伊の州」と「予の州」とがあったとし、「予の州」は愛媛を中心とした四国の西側、「伊の州」を徳島を中心とした四国の東と解釈をされています。
 英語でAとBは、A and B とするように、漢文でも、伊与予とか伊及予とかandに相当する文字がはいると思うのですが、日本書紀にも「伊予の二名州」とあり、and はありません。これは伊予を伊と予に分けることに無理があるのかなと思っています。
 どうなんでしょうか。
 このような事を論議したいと思っています。

[10406] 連れもていこら  神奈備 2010/09/21(Tue) 14:46 [Reply]
 アイヌ語でわかりにくい言葉を解明されている大三元さんのHPに以下のことが載っています。
http://www.dai3gen.net/oki-no-3go.htm
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
四国に関して「伊予之二名島」というのも、似たような方法で考えてみますと、二つの・名前・(を持つ)島はアイヌ語で tu re (kor) sir です。(2=tu, 名前=re)

一方、turesi という言葉があり、「妹」の意味です。この島には四つの国あって、二つの国に男性、残り二つの国には女性の名前が付いています。tures (kor) sir,「妹・(を持つ)国」だった(と考えられていた)なんて想像はどうでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
turesiの発音は、ツレシ、これを 連れし と考えれば、二重の言葉遊びで女性連れとなります。

[10405] 太龍寺  神奈備 2010/09/17(Fri) 14:30 [Reply]
 二十一番札所の太龍寺への御ぼり口は鷲敷(ワジキ)町です。今は阿南市。ケーブル乗り場の東側に和食郷があります。これもワジキ。
 詳しいことは不明ですが、サンスクリットでは太龍は蛇王・龍王のヴァースキ(和修吉 わしゅきつ)。これが地名になっているようです。

http://nifty.its-mo.com/z-121901132-484212613-11.htm

 またヴァースキの吐き出した毒をハラーハラと云うそうで、『和名抄』の阿波国那賀郡に幡羅(ハラ)地名。

 弥生時代の辰砂の産地の若杉山遺跡は大龍寺へ登る道筋にあります。この若杉(ワカスギ)もワジキの変形かも。

 なお、大龍寺の草創は神武天皇だそうで、ここで弘法大師が修行したそうです。

[10404] カタマリの概念     生田淳一郎 2010/09/17(Fri) 10:30 [Reply]
神奈備ドン、あり難うございます。
斯くなると、八咫烏のほうが「矢・田」からの派生のような印象をえました。 ta(田)はいちおう“場所<身体”です。
八咫烏に就いては、まとまった本も出ているようですので、近々よんでみようと思ってま。

惟ひけらくに、万象は太い絆、細い絆ですべて連結し、言語的総体をつくっているかと愚念してま。
就中、pana(弓・矢)、花、橘(太刀、弓矢)、櫓、しろ、梅(大・目)などが一団のカタマリとなって“強執”を形成しているようです。

[10403] Re[10402]: 矢宮とは !?     神奈備 2010/09/16(Thu) 17:19 [Reply]
> お宮と「矢」は、このごろのおたしの「強執」です。
> どんな意味内容をもっているのか、ぜひお教えください。

和歌山市関戸に鎮座している神社です。
矢宮神社
http://kamnavi.jp/ki/city/yanomiya.htm

[10402] 矢宮とは !?     生田淳一郎 2010/09/16(Thu) 15:28 [Reply]
お宮と「矢」は、このごろのおたしの「強執」です。
どんな意味内容をもっているのか、ぜひお教えください。

[10401] Re[10400][10399]: 和歌山で  神奈備 2010/09/15(Wed) 20:38 [Reply]
> >雑賀孫一について
>  和歌山市立博物館に問い合わせてみるのがいいかもしれません。

ありがとうございます。
和歌山の街興しの素材として孫一を取り上げ、例えばNHKの大河ドラマ化の運動を起こそうとの企画があるそうです。その事前調査なのでしょう。
市 県 博物館(雑賀関係の論文もちらほら) 観光協会 教育委員会 藤白、矢宮、朝椋神社を紹介しておきました。

[10400] Re[10399]: 和歌山で  佐々木 2010/09/14(Tue) 23:43 [Reply]
>雑賀孫一について
 和歌山市立博物館に問い合わせてみるのがいいかもしれません。ヤタガラスの鈴木孫一ですかね。
 私の直感では、秦氏関係の土木技術者を出自とするような印象を抱きます。

[10399] 和歌山で  神奈備 2010/09/14(Tue) 18:21 [Reply]
 雑賀孫一について詳しそうな人を教えて下さい。

[10398] Re[10397]: 笹の瀬弥生遺跡  神奈備 2010/09/12(Sun) 17:24 [Reply]
> 丹生神社の項で8800川上の霊威の文中 毛原丹生狩場明神のあとに 途中に笹の瀬には弥生遺跡があります との記事がありますが この遺跡について他に分かることがあれば 教えてください

保育社 日本の古代遺跡シリーズ
46和歌山で見たような気がしますがさだかではありません。

[10397] 笹の瀬弥生遺跡  貴志ひろし 2010/09/12(Sun) 14:38 [Reply]
丹生神社の項で8800川上の霊威の文中 毛原丹生狩場明神のあとに 途中に笹の瀬には弥生遺跡があります との記事がありますが この遺跡について他に分かることがあれば 教えてください

[10396] Re[10395]: 猪名川沿いの五十猛神  神奈備 2010/09/12(Sun) 09:22 [Reply]
いこまかんなびさん、ご無沙汰いたしております。


> 一際大きい「九頭社(渡津社)御祭神五十猛神(御別名渡津神)・・」と書いた立札が建てられた神社が祀られていました。

 お知らせありがとうございます!!

 渡津神は一般的には大渡津見神とみなされているようで五十猛神の別名としているのは珍しいようです。佐渡に式内の度津神社が鎮座、祭神を五十猛命としています。

 河辺郡(川西市山原)にも、戸隠神社の摂社の元宮神社に渡津神が祀られており、ここも恐らくは五十猛命のことかと思います。

 おかげさまで近くで二社も見つかりました。もう少し涼しくなったら、参拝させて頂きます。

[10395] 猪名川沿いの五十猛神  いこまかんなび 2010/09/11(Sat) 21:29 [Reply]
神奈備さん、お久しぶりです。
先日、猪名川を遡って多田銀銅山跡や三草山近くをぐるっと廻ってきました。

「五十猛命を祀る神社一覧」を拝見しますと、猪名川沿いにも五十猛命を祀る神社の多いことを知りました。

猪名川町笹尾(兵庫県・旧摂津国河辺郡)の春日神社のずっと手前下流域にある北田原に「高皇産神社」という神社があって、春日神社の摂社と同じように、本殿前庭左手に並んだ摂社?小祠群の中に、一際大きい「九頭社(渡津社)御祭神五十猛神(御別名渡津神)・・」と書いた立札が建てられた神社が祀られていました。

「一覧」には載っていなかったので一応お知らせします。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m/34.9110483333333_135.3656725_8/

[10394] 大和系変化  神奈備 2010/09/09(Thu) 09:22 [Reply]
 「丹生都比売の大和系変化」と言う概念は松田壽男氏がとなえたもので、丹生神社の祭神が丹生都比売から弥都波能賣(ミツハノメ)、ミツハノメからオカミへの変化があり、この変化を大和系変化と呼ぶものです。

 日本での最古の辰砂を採取していた徳島県の若杉山遺跡に近い鷲敷町丹生谷に仁宇と言う地名があります。ここに丹生神社が鎮座しており、ミツハノメが祀られています。(現在は八幡神社)

 水神のミツハノメ神はイザナミが火を生んで死に至る際に、尿から生まれた女神がミツハノメの神です。有名なお話ですが、弥都波能賣神社[ミツハノメ]や伊射奈美神社[イサナミ]と言う神名そのままの延喜式内社は阿波国美馬郡にのみ存在しており、ミツハノメの神のルーツは阿波と考えられます。そう言う意味で阿波ではミズガネの神もミツハノメと言うミズガミが兼ねていたと思われます。

 若杉山の水銀採取は縄文時代から続き、古墳時代初期に終了しています。阿波の水銀を採取させて確保していた勢力は次の水銀産地を求めて大和の宇陀に食指を動かしたのです。これが王権の東征の物語の原形になったのかも知れません。したがって、大和の丹生神社の最新は当初からミツハノメだったのかも。

 大和では大和系変化は起こらなかった。

[10393] 豊中歴史同好会  神奈備 2010/09/09(Thu) 08:45 [Reply]
2010 9 11  14〜16時。
大東市総合文化センター 所長 笠井敏光
考古学からみた3−5世紀の山城
市教育センター
蛍池駅すぐ西。
豊中市教育センター(ルシオーレビル6F。エレベータで上がる)

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

小生は用事があり、欠席。

[10392] いわずもがな………カナ      生田淳一郎 2010/09/07(Tue) 07:57 [Reply]
青草々々。
けふの書き込みに koh のハナ s ak ya を並べました。

聖地と書くべきが「整地」になっちゃった。修正ねがえるやろか。

[10391] 折口信夫  神奈備 2010/09/06(Mon) 20:18 [Reply]
 折口信夫の「死者の書」に、二上山の塚に響く印象の深い呼び声は「こう こう こう」です。
 こう こう こう。お出なされ。藤原南家郎女の御魂。

 何故、「こう こう こう」なのだろうと思っていましたが、どうやら折口信夫は実の母を叔母の「えい」ではないかと思いこんでいて、戸籍上の母の「こう」や自らの誕生にさげすみの念を持っていた裏返しのような、母たる血縁への思いが、「こう」の繰り返しになったのだろうと思い至りました。

[10390] Re[10389]: 御所市・葛木御歳神社  神奈備 2010/09/04(Sat) 08:41 [Reply]
> http://npn.co.jp/article/detail/81296006/
>
> こんな記事を発見

お知らせありがとうございます。

[10389] 御所市・葛木御歳神社  ペギラ 2010/09/02(Thu) 23:02 [Reply]
http://npn.co.jp/article/detail/81296006/

こんな記事を発見

[10388] Re[10387][10386][10381]: ウズのパワー  神奈備 2010/08/30(Mon) 21:24 [Reply]
> 風呂の語源を"室(回りを囲まれた空間か)からとする説がありますが、

 風呂地名は大和の吉野に比較的多く残っています。金属の精錬のにかかわる場所と謂われているようです。津風呂湖と謂うダム湖もありますが、その南側の吉野川の流れが円形になっています。宮滝の東側。
http://nifty.its-mo.com/z-123763170-489265871-11.htm


> 女陰をツビと言うもこれかなぁ^^

 飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社も水の流れが滝のようになって渦を巻いているのを女性に例えた神社名と言われています。

[10387] Re[10386][10381]: ウズのパワー  くず 2010/08/30(Mon) 07:27 [Reply]
生田さん、おひさしぶりです^^
神奈備さんありがとうございます。

>靱公園の中央部に元社とされる神社…
うつぼ、の名は秀吉の言った駄洒落から、と読みましたが、
生田さんが臭うと言う地名の"坪"のように、ツブラからの転かもしれません。

北九州、周防灘に望む位置に津村島があって(現在は埋立地と半ば陸続き)
島の内部には円い内湖のような構造の入り江があって、
昔は周防灘を渡る船が海荒れの時に凪ぎ待ちをしたようです。

風呂の語源を"室(回りを囲まれた空間か)からとする説がありますが、
津村島の入り江はまさにそんな感じを受けます。
津村島の津村明神が女神とされるのも、まさにその入り江の形からかも。
女陰をツビと言うもこれかなぁ^^

[10386] Re[10381]: ウズのパワー  神奈備 2010/08/27(Fri) 13:53 [Reply]
 くずさんご指摘の御霊神社は大阪御堂筋のやや西側に鎮座しています。現在地より西側の靱公園の中央部に元社とされる神社が鎮座しています。
http://nifty.its-mo.com/z-124851667-487783232-16.htm

 難波の三津八幡神社も御堂筋からやや西で、このラインに古代の海岸線があったのかも知れません。
 
 御霊神社は靱地域の氏神さんで、ここのツブラは「灯台もと暗し」でした。

> これも単に円形の江であっただけでなく渦巻きが出来ていたのかも^^

 海岸はフラクタル構造の典型なのでしょうが、銀河系と同じ原理で渦ができているとしますと、なにか楽しい想いです。

[10385]  つ ぶ ら               生田淳一郎    2010/08/27(Fri) 07:02 [Reply]
くずさん、やっとかめナモ(名古屋弁)
群馬高崎ほうめんと千葉九十九里ほうめんに「円(つぶら)さん」がいます。言い伝えでは丸い池が由来だとか。このへん、お説での、奈良方面にあったツブラエが関東に現れた……のかナ?
みんなで輪になって……、地名の坪あたりもにおいます。壷も「丸子町」のように丸いナァ。 / 津軽のツボケ。

ツブラのラは強調接尾辞とみていいかと思います。が、バスク語に buru(頭)があって、ぼくのこころを悩ませる。 

[10384] 神奈備殿。  岩田 2010/08/26(Thu) 13:16 [Reply]
PCに織田岩田氏で打ち込みましたら14ぺージに・・延喜式神名帳・東海道尾張図に出くわしました、見ると貴殿のサイトが現れた次第です!最初に投稿しました文面が14ぺージに記載されていましたので・・質問したが、お門違いの様ですな失礼しました。

[10381] Re[10376][10373][10372][10371][10370][10369][10367]: ウズのパワー  くず 2010/08/26(Thu) 08:10 [Reply]
うずのパワーに惹かれてまいりました^^

うずと加茂、銅鐸とくれば、神戸で銅鐸が見つかっている渦ヶ森。
近くに鴨子ヶ原、有名な桜ヶ丘の銅鐸出土地も近くです。

以下、MADOKAさんが前に話されていた"大阪湾に出来る渦"のお話に関連して、

「円」と書いてつぶらと言う読みがありますが、
小型の巻貝を指すツブ、カタツブ(ム)リ、ツムジ、糸を紡ぐ、など、
ツブ(ム)には単に円いだけでなく渦巻きに関連した意味があるように見受けられます。

大阪の御霊神社に祀られる、津布良彦神、津布良媛神の2柱、
創始は圓江(つぶらえ)の圓神祠であったとされます。
これも単に円形の江であっただけでなく渦巻きが出来ていたのかも^^

筑紫で神功皇后の船足を止めた菟夫羅姫命、
伝承に天宇受賣命との類似がみられる能登の神杉伊豆牟姫神も、
ウズとツブ、ツムを結ぶ神名であるように思います。

[10380] Re[10378]: う〜〜ん、  神奈備 2010/08/26(Thu) 08:06 [Reply]
> 偶然見つけた掲示板だが反応も無し、ここは古代の話題のみ投稿しあうのですか?

あなたの情報だけでは返事のしようがありませんし、ここはお門違いです。

[10379] Re[10341]: 阿波古事記 遺りたるもの  天孫降臨 2010/08/26(Thu) 03:46 [Reply]
古事記は712年に発表され日本書紀は720年に発表である。
古事記を見た朝廷は716年に史志編さんに携わっていた山上憶良を伯耆国の国司に派遣する。
伯耆国の調査報告を逐一受けた朝廷は当時の朝廷に都合のよい解釈をして日本書紀などの史志を編さんした。
その後721年に山上憶良は朝廷へ帰ったが史志編さんの上司であった藤原不比等が720年に亡くなったため自分の考えを通すことができた。
726年再び筑前の国司となる。
 大伴旅人(九州全体の長官)と仲良くなり、日本書紀などの史志に合うように九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。
白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。山上憶良は百済人である。
九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。
高天原は蒜山であり、天孫降臨の地は伯耆国の高千穂である。
この説を取るとほとんどのことが矛盾なく説明できる。
ニニギのお供の者も大宮を中心に自然な距離に祭られている。
コノハナサクヤヒメはニニギの尊の居られた御所と同じ丘陵の
すこし下ったところの神社に祭られている。

[10378] う〜〜ん、  岩田 2010/08/26(Thu) 02:58 [Reply]
偶然見つけた掲示板だが反応も無し、ここは古代の話題のみ投稿しあうのですか?

[10377] 追伸。  岩田 2010/08/25(Wed) 03:17 [Reply]
昨日二か所の区役所と市役所に行きまして先祖の戸籍・除籍謄本を入手しましたが明治時代まで動きが判明しましたが江戸までの亡き親父より聞いている人物は一律破棄され解りませんとの事でした、親父よりそう云えば何代か前の先祖が津島市神守(かもり)で庄屋をしていた事、及び祖先が織田と関係あるとも聞きてますが。

[10376] Re[10373][10372][10371][10370][10369][10367]: ウズのパワー  神奈備 2010/08/24(Tue) 14:02 [Reply]
>  ほかに「うず」地名を確認したところ
> ・埋縄 (うずなわ) 三重県朝日町
> ・雲通 (うずい)  広島県吉舎町
> ・雲耕 (うずのう) 広島県芸北町
> ・卯敷 (うずき)  島根県隠岐の島町
> ・宇受賀(うずか)  島根県海士町
> ・太秦 (うずまさ) 京都市、大阪府寝屋川市

 出雲と言う表現にも渦のエネルギーが込められていたのかも。

 日本古来からの模様として渦があります。

 縄文土器の渦巻き紋
 蛇が巻き付いたような模様の土器もあります。渦巻き蛇のとぐろとか蛇の体の模様なども渦巻きを思わせます。

 銅鐸の渦巻き模様

 珍敷塚古墳
 蕨模様が有名です。
 志貴皇子の歌 一四一八 石ばしる 垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

 平城宮の井戸の跡から発掘された隼人の楯の模様

 江戸時代の江戸城も渦巻き模様の堀で、敵が直進できないように固めていました。現在は地下鉄が皇居の下を通さないとの方針で、地下鉄の渦で取り巻いているようになっています。
 渦巻きで取り囲むのは戦術的な防衛面だけではなく、永遠を願う呪術的な意味も大きかったのです。

 和歌山市宇須に山東鉄工所と言う会社があり、幾度か出張した記憶があります。

[10375] ウス  和歌山 2010/08/23(Mon) 23:38 [Reply]
和歌山市にも宇須という地名があります。

[10374] 先祖ですかね、  岩田 2010/08/23(Mon) 15:02 [Reply]
織田氏が毎年灯油料を寄進・中略・明治維新となって稲沢市長野にある万徳寺へ仏像移し還俗して岩田氏になる・・とありますが当家の家紋は織田瓜でして上級武士だと聞いております、名古屋市中村区在住。

[10373] Re[10372][10371][10370][10369][10367]: ウズのパワー  佐々木 2010/08/23(Mon) 09:28 [Reply]
> 笛吹山神社ですが、『平成データーCD』では、これを「うずしきやまじんじゃ」と訓しています。これは正しい訓なのでしょうか。
 
 確かに「笛吹」は「うずしき」読みです。「ねじ式」はガロで知っていましたが、檜原村には笛吹(うずしき)のほかに人里(へんぼり)などの難読地名があるようですね。
 ほかに「うず」地名を確認したところ
・埋縄 (うずなわ) 三重県朝日町
・雲通 (うずい)  広島県吉舎町
・雲耕 (うずのう) 広島県芸北町
・卯敷 (うずき)  島根県隠岐の島町
・宇受賀(うずか)  島根県海士町
・太秦 (うずまさ) 京都市、大阪府寝屋川市

[10372] Re[10371][10370][10369][10367]: ウズのパワー  神奈備 2010/08/22(Sun) 19:38 [Reply]
 蛇のどぐろが渦巻きで神奈備山の姿と言う説もあるようです。むかしよそ見をしていて神社の通路で「どぐろ」を踏んづけたことがあります。未だにその感覚が足に残っています。元論後で神罰を頂戴し、山の中でさかさまにひっくり返りました。

 『播磨国風土記』には、揖保の里に、客神が海水を掻き回してこれに宿ったとあり、そのパワーに地元の神はびっくりしているようです。

 所で、東京都西多摩郡桧原村2121に鎮座している笛吹山神社ですが、『平成データーCD』では、これを「うずしきやまじんじゃ」と訓しています。これは正しい訓なのでしょうか。

[10371] Re[10370][10369][10367]: ウズのパワー  佐々木 2010/08/21(Sat) 21:56 [Reply]
神奈備さん
> 徳島県阿南市加茂町に渦宮神社が鎮座、祭神不詳とか。
 阿南市加茂町の渦宮(氏宮)神社ですね。ワダツミではないでしょうか。
ついでにウズのことを追記致します。
○豊後国海部郡の椎根津彦神社・・・うずのみや(珍宮)。
○同志社田辺の奥に、普賢寺宇頭城がありますが、付近に筒木(城?)宮伝承地があります。うずき、つづき、少し気になります。
追伸
 茨田堤について調べていると、直木さんの論考、大阪春秋第89号、1997を確認しました。私も地域の伝承と同じ結果となりました。つまり「古川の左岸堤」でした。北から池田中町の菅原神社(琴平神社)、大利神社、神田天満宮、京阪萱島駅からはほぼ京阪線沿いです。なお堤防が切れそうなところに神社が配祀されているようです。
 また京阪大和田駅付近の発掘で地下20cm?のところに堤状遺構があったようです。

[10370] Re[10369][10367]: ウズのパワー  神奈備 2010/08/21(Sat) 18:03 [Reply]
 徳島県阿南市加茂町に渦宮神社が鎮座、祭神不詳とか。

> 渦神社
 守口市狼島の渦神社「別雷神」は明治40年に守居神社に合祀されています。

> 京都府加茂町大野ウヅ(渦)という地名がありました。

 別雷神は屋根を突き破って天に昇って行くパワーがありました。まさに竜巻と言う渦巻きです。渦とカモとはつながっているのかも。


> 奈良の柳生も水銀の産地でしたか?

 奈良市丹生町には丹生神社が鎮座、かっての祭神を丹生都比売命だったそうです。矢嶋澄策氏の「日本水銀鉱床の分布について」に奈良市(旧柳生村)丹生町の名があります。

[10369] Re[10367]: ウズのパワー  佐々木 2010/08/20(Fri) 22:56 [Reply]
>「古代人は、渦は海の主・海蛇(ウズ)が起こすものと考えた。」とあります。

 酷暑見舞い申し上げます。

 渦といえば、大阪府守口市に渦神社がありました。また京都府加茂町大野ウヅ(渦)という地名がありました。加茂町の海蛇とは?
 赤ん坊には○○救命丸でしたなあ。

>水銀
 奈良の柳生も水銀の産地でしたか?

[10368] 王権は何故大和を目指したのか?  神奈備 2010/08/20(Fri) 14:07 [Reply]
 王権は何故大和を目指したのか? 幾つかの考え方あったと思われます。

 結果論であって、大和を拠点とした大王(雄略か)が全国の統一に成功したから、大和が全国統一のシンボルとなったのです。これが後には京都となるのです。

 大和国には水銀朱が採れる辰沙の大きい産地があり、ここをおさえて他の地域より優位な立場に立つと言う思惑がありました。

 水銀朱は交易品としても重要な産物であり、また銅鏡へのメッキ、墓へ入れるなど、朱の呪術には不可欠な鉱物でした。

 弥生時代には阿波の若杉山が辰沙の産地でしたが、弥生時代の終わり頃には資源が底をつきました。有望な産地として大和国宇陀の名は知られていました。阿波・讃岐・吉備の連合は、いざ大和へ!と進出していったのです。

 戦いの先陣巫女は倭迹迹日百襲姫命が勤めました。姫の霊力は群を抜いており、大和を席巻しました。
 水銀とかかわる女神としては丹生都比売神が有名ですが、百襲姫が都とした讃岐国大内郡入野郷で、昔は丹生郷と言われていた場所で、丹生神社も鎮座していたようです。百襲姫もまた水銀の女神でもあったと言えるでしょう。

倭迹迹日百襲姫命を祭る備前備中讃岐阿波の神社

鳴門市北灘町 葛城神社摂社定水明神社
高松市西春日町 鶴尾神社摂社田村神社
大川郡大内町 水主神社
大川郡大内町 艪掛神社  大内町丹生に鎮座。百襲姫がヤマトより到着の地。
高松市一宮町 田村神社
高松市仏生山町 船山神社
岡山市石関町 岡山神社
岡山市一宮 吉備津彦神社
岡山市吉備津 吉備津神社

香川県大川郡大内町 丹生神社があったが現在は石清水神社と名前を変えている。
当地は大内郡入野郷で、昔は丹生郷、のち丹生村。古代の辰沙の産地。

鳴門市撫養町に丹生神社が鎮座、定水明神社とは数km。


[10367] ウズのパワー  神奈備 2010/08/19(Thu) 19:44 [Reply]
 最近見ている本に『古代海人の世界』谷川健一著 があります。ここに『阿波名所図会』の鳴門の渦にコメントとして、「古代人は、渦は海の主・海蛇(ウズ)が起こすものと考えた。」とあります。

 海蛇はハモのことかな。鍋がよろしいようで。


 それと、『日本神話の特色』吉田敦彦著 に、ウズメとウズヒコについて面白いコメントがありました。

 共に、進み難い所を突破する役割を負った神です。ウズメは女陰を武器に進みます。ウズヒコは棹根津彦と言う別名があるように、やはり船の先頭で男根たる棹を出して水先案内をして明石の狭い場所を突破していくのです。

 ウズのパワーに乾杯!

[10366] Re[10365]: 高天原広野姫天皇  福島雅彦 2010/08/16(Mon) 23:37 [Reply]
>高天原とは高天原広野姫天皇がおわす場所と考えますと、素直に大和となります。飛鳥です。丁度天香具山があります。

※暗に九州の出自を匂わせているのでは、と疑っています。
*「天(あま・あめ)」の意味が、「国の東の聖地」です(語源解説は折りを見て)。
*天香具山=「天(あま・あめ)」に在る「“강꿰”(kang-ggwe)山」で、意味=「河刺し山」です。朝倉市杷木町の「高山(こうやま)←香山←香具山」です。
*この山は「高い山」ではありません。九州一の大河の筑後川に文字通り突き刺さっています。標高は190メートルです。
∴畿内の香具山は移転地名です。河に突き刺さっていないでしょう?。

[10364] Re[10363][10362][10360][10358][10357]: 笠狭崎  福島雅彦 2010/08/15(Sun) 18:10 [Reply]
>  所が、記紀が編纂された頃から延喜式の頃までは、所謂日向三代(ニニギ、ホホデミ、ウガヤ)については、御陵があると思われていました。御陵があるとは、人であって神ではないと意味ですから、日向三代は実在していたと思われていたようです。
>
> ニニギ  築紫日向可愛文山陵 紀  日向剋R陵 土扁に峻の旁 延喜式
> ホホデミ 日向高屋山上陵   紀  日向高屋山上陵 延喜式
> ウガヤ  日向吾平山上陵   紀  日向吾平山上陵 延喜式

※気に掛けてはいるのですが、…
*水縄連山(耳納山地)周辺の何処かではないかと。
*高良山神護石、杷木神護石、女王山神護石、が怪しいと睨んでいます。

[10363] Re[10362][10360][10358][10357]: 笠狭崎  神奈備 2010/08/15(Sun) 14:47 [Reply]
>> 所で、九州にはニニギ尊が通った道筋ついて何か伝承がの残っているのでしょうか。

> ※伝承ではなく、神話の舞台が存在します。

 ありがとうございます。構想された神話と言うことであって、「伝承があって、それが神話化されたと言うことではない。」と言う意味に理解できます。

 所が、記紀が編纂された頃から延喜式の頃までは、所謂日向三代(ニニギ、ホホデミ、ウガヤ)については、御陵があると思われていました。御陵があるとは、人であって神ではないと意味ですから、日向三代は実在していたと思われていたようです。

ニニギ  築紫日向可愛文山陵 紀  日向埈山陵 土扁に峻の旁 延喜式
ホホデミ 日向高屋山上陵   紀  日向高屋山上陵 延喜式
ウガヤ  日向吾平山上陵   紀  日向吾平山上陵 延喜式

 

[10362] Re[10360][10358][10357]: 笠狭崎  福島雅彦 2010/08/15(Sun) 00:58 [Reply]
>所で、九州にはニニギ尊が通った道筋ついて何か伝承がの残っているのでしょうか。

※伝承ではなく、神話の舞台が存在します。
*「筑紫の日向の襲の高千穂の[木患]触嶽」=水縄連山(耳納山地)。
・「筑紫の日向」=うきは市妹川地区に現存(妹川小学校前バス停=日向)。
・「襲の」=“서”(seo)=西(古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める))。
・「高千穂の」=“다가-”(taka-)集(たか)る-千穂(山頂がノコギリの歯状=千の峰)の。
・「[木患]触る嶽」=山腹が千本の櫛の歯で梳いた様な谷沢に刻まれている。
*一山の山容・山態の表現です。
※瓊瓊杵尊は「膂宍の胸副國」を辿られた、とも。
*「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨「高千穂」と、浮き出た肋骨は「[木患]触る嶽」を表現しています。

[10361] Re[10360][10358][10357]: 笠狭崎  福島雅彦 2010/08/15(Sun) 00:41 [Reply]
>所で、九州にはニニギ尊が通った道筋ついて何か伝承がの残っているのでしょうか。

※伝承ではなく、神話の舞台が存在します。
*「筑紫の日向の蘇の高千穂の[木患]触嶽」=水縄連山(耳納山地)。
・「筑紫の日向」=うきは市妹川地区に現存(妹川小学校前バス停=日向)。
・「」

[10360] Re[10358][10357]: 笠狭崎  神奈備 2010/08/14(Sat) 19:45 [Reply]
 福島さん、ありがとうございます。鷹取山からですと、半島が見えるかも知れませんね。ここですと、遠賀川付近からもやってこれそうです。

 所で、九州にはニニギ尊が通った道筋ついて何か伝承がの残っているのでしょうか。

[10359] Re[10354][10347][10346]: 神社の耳皿  和歌山 2010/08/13(Fri) 22:11 [Reply]
耳皿(土器)は箸置きとして使用されていますが、伏見稲荷では酒を入れて祭事に使用します。他に春日大社、厳島神社、熱田神宮、伊勢神宮、率川神社、加茂別雷神社、琴平宮等で箸置きとして使用さています。宮中でも使用されています。
 出土品は概ね9世紀以降の寺院跡や都市、城郭などからです。祭祀遺跡からは出土していません。耳皿についての論文は若干ですがあります。
 

[10358] Re[10357]: 笠狭崎  福島雅彦 2010/08/12(Thu) 21:38 [Reply]
>所で、天孫降臨をして、「この地は韓国に向かい」、とありますが、これで降臨地は北九州だろうとする意見があるのですが、大和の国の人々が書いたと考えますと、北も南もなく、築紫洲(九州島)としますと、韓半島に向かっていると理解できます。
>
※『古事記』=「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。」とあります。
*筑紫の日向(うきは市)から、御笠山の裾(笠紗の御前=二日市地溝帯)を引き通して韓国(狗邪韓國)が正面にある、と。
*即ち、海岸ではなく内陸部なのに…、意味が込められている、と。
*朝日は何処でも射しますが、筑紫の日向は、山中なのに210号線の切れ込みから「直刺す」と強調しています。
*夕日は、山間の内陸部なのに背振山系の西の端に落ちるので地平線まで沈むのが見える、と。即ち、西に高い山がないことを言っています。
∴宮崎県の日向では、西に九州の背骨があり、該当しません。

[10357] 笠狭崎  神奈備 2010/08/12(Thu) 10:02 [Reply]
 天孫降臨神話では先ず山頂に降臨し、それから笠狭崎に行き、ここで木花咲夜比売を見初めます。

 笠狭崎は鑑真和上も上陸した坊津に近く、大陸からの渡航者にとっては格好の上陸地だったのでしょう。
 
 天孫降臨神話の中には稲作の渡来と言う要素は記紀には見あたりませんが、『日向国風土記』(逸文)には、ニニギ尊が稲籾を投げながら降臨するお話が載っています。

 大陸の南方を出発した船は東支那海を横切って到着するポイントが笠狭崎となるのでしょう。稲作を持ち込んだ大陸からの渡来人もここに上陸したのかも知れません。半島からの渡来人は北九州に着いたのでしょう。

 笠狭崎から数拾km北には串木野があり、徐福渡来伝承が残っています。伝承には孝霊天皇の時代、徐福来渡来とあります。孝霊天皇は面白い存在です。

 所で、天孫降臨をして、「この地は韓国に向かい」、とありますが、これで降臨地は北九州だろうとする意見があるのですが、大和の国の人々が書いたと考えますと、北も南もなく、築紫洲(九州島)としますと、韓半島に向かっていると理解できます。

[10356] Re[10355][10353][10352][10350][10348]: 天孫降臨後の高天原  福島雅彦 2010/08/09(Mon) 20:53 [Reply]
>天孫降臨の道順は半島から築紫へのだったと思われます。日本列島であれば隠す必要はなかったのでは。

※私も、倭、倭人は半島にも居た、と思っています。
*『山海経』の「蓋國は燕の南倭の北に在り倭は燕に属す」と。
*これは、蓋國が白頭山の南麓の蓋馬高原辺りとすれば、その南の倭とは半島全域、かと。
*『後漢書』の『韓傳』にも『三国志(魏志倭人伝)』の『韓傳』にも、「東西は海に限り南は倭に接す」とありますから、倭は半島を南下し続けた、と。
※しかし、列島にも倭人が居て、半島帰還倭人と徐福一派の三極対立が倭國大乱だと思っています。
∴『記・紀』神話はこれらの勝ち組の神話を母体にしていると観ています。

[10355] Re[10353][10352][10350][10348]: 天孫降臨後の高天原  神奈備 2010/08/09(Mon) 11:25 [Reply]
 記紀では高天原をうまく隠したつもりだったのでしょうが、神代上で下記の事を漏らしています。天孫降臨の道順は半島から築紫へのだったと思われます。日本列島であれば隠す必要はなかったのでは。


『日本書紀』巻一第六段一書第一  日神所生三女神令降於筑紫洲。因教之曰。汝三神宜降居道中、奉助天孫、而爲天孫所祭也。

 紀に、日神が生んだ三柱の女神を、築紫の国に降らせられた。そして教えて言われるのに、「お前達三柱の神よ、海路の途中に降り居て、天孫を助けまつり、天孫のためにお祀りをされよ。」と。

一書第二 市杵嶋姫命、遠瀛者。田心姫命、中瀛者。湍津姫命、海濱者。

一書第三 市杵嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命 今在海北道中。號曰道主貴。

[10354] Re[10347][10346]: 神社の耳皿  神奈備 2010/08/09(Mon) 11:21 [Reply]
 神餞用の箸置きは御箸台と言い、台に耳皿がのっかった形ですが、饗膳用(祭りに奉仕する方々をもてなす祝い膳)には耳皿が利用されるのが一般的なようですが、個々の神社で差がありそうです。

春日大社の春日祭 御戸開之儀 八種神餞 竹柏でつくられた箸を耳皿に置きます。
賀茂別雷神社 外陳神餞 耳土器御箸台付を使用します。

金刀比羅宮 柳の箸を耳皿に置きます。

 これの調査には豊歴のドンタクさんからヒントを頂戴しました。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syoudoutaku.html

 参考文献 一色八郎著 箸の文化史  カラーブックス 箸

[10353] Re[10352][10350][10348]: 天孫降臨後の高天原  福島雅彦 2010/08/09(Mon) 00:01 [Reply]
> この中で高天原は、皇祖とスタッフがいる総司令部のある場所です。高天原から降りていったイザナギ神・イザナミ神がこの国を生みます。生まれた国の中に高天原があるということは論理としては成り立たないことです。

※天上界の事に仮託した時点での矛盾です。
*地上の実在の場所を隠蔽したいための苦心が偲ばれます。
*地球上に陸地が無かった頃、天上界から海中を掻き回して国生みした、とは科学的ではありませんし…。

[10352] Re[10350][10348]: 天孫降臨後の高天原  神奈備 2010/08/07(Sat) 22:14 [Reply]
残暑お見舞い申し上げます。

 国生み 国譲り 天孫降臨 神武東征 は 皇室がこの国を統治することが当たり前とする一連の神話だと考えています。

 この中で高天原は、皇祖とスタッフがいる総司令部のある場所です。高天原から降りていったイザナギ神・イザナミ神がこの国を生みます。生まれた国の中に高天原があるということは論理としては成り立たないことです。

 国生みでは九州も四国も本土も生まれます。ここには高天原はありえないのです。北海道は国生みの対象外だったとすれば、この辺りに想定できるのかも知れません。

 岡正雄さんは三つの高天原を想定されています。
   北方 タカミムスヒ      半島 満州 シベリア モンゴル
   南方 イザナミイザナギ    東南アジア 照葉樹林 中央アジア
   土着 天照大神        南海諸島

 記紀の編集者さん方は、それでもどっかをモデルとして描いたのかも知れません。ドスンドスンと素盞嗚尊が高天原を目指す、雨の中を簑笠で下っていく、これは地上とつながっている様をあらわしているようにも見えます。山の上を想定しています。
 モデルとしてはおっしゃるような条件を満たしている山の上を想定できますね。

[10351] ↓追記  福島雅彦 2010/08/07(Sat) 15:30 [Reply]
下記のハングル表記=古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)です。

[10350] Re[10348]: 天孫降臨後の高天原  福島雅彦 2010/08/07(Sat) 15:24 [Reply]
>高天原は朝鮮半島だとする見解が散見されます。いまでも朝鮮半島に天照大神や高皇産霊神がいるとも思えず、もはや高天原は空っぽというか、消滅しているということでしょうかね。
>
※ご無沙汰しています。猛暑の残暑お見舞い申し上げます。
*場所としての「高天原」は実在しています。
*“다가-아멘벌”(taka-aman-beol)⇒「高=集る」の当て字、「天(あま・あめ)=東の聖なる山」、原=國邑・人里(耕地)の意。
*福岡県うきは市の山間(やまあい)の狭い範囲に「○○原」の字地名が百箇所近く犇いています。
*この地には「日向」の地名も現存=筑紫の日向。
*うきは市は元・「浮羽」⇒“욱일벌”(u-kil-beol)=旭日原は日向でもある。
*この地は水縄連山(耳納山地)の東の端で、天孫降臨の「膂宍の胸副國」の表現とも整合します。
*「膂宍の胸副國」=水縄連山(耳納山地)=山頂がノコギリの歯状を呈し、痩せた獣の背骨。山腹は千筋の谷沢に刻まれ、痩せた獣の肋骨が浮き出た様を呈しています。
*これは、裴世清が『隋書』に謂う「邪靡堆」とも合致=(黒髪が)靡く(様な)堆(うずたか)い山=水縄連山(耳納山地)=『三国志(魏志倭人伝)』に謂う、古の「邪馬臺國」でもある。
※『記・紀』は「高天原」の場所を隠蔽する必要が在って、天上界の様にしたが、私に看破された。

[10349] 豊中歴史同好会 8月7日 今月は第一土曜日です  神奈備 2010/08/06(Fri) 17:37 [Reply]
豊中歴史同好会 8月7日 今月は第一土曜日です

講師 元福井県埋文センター所長 中司照世

テーマ 考古学からみた3−5世紀の近江

市教育センター
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2010.html

[10348] 天孫降臨後の高天原  神奈備 2010/08/06(Fri) 10:02 [Reply]
 天孫降臨後に高天原に登った神は例えば饒速日尊、『旧事本紀』には高皇産霊神がその死を哀れんで、遺体を高天原に運ばせて葬儀をおこなったと記されています。
 一例だけですが、神が死ぬことによって、高天原に昇ると言うことがあったのでしょうが、ちょいと用事があるんで、と言った感じでは昇っていないようです。

 逆に高天原から降りてくる神もいなかったようです。神武さんが熊野で苦戦をしている際には『古事記』では、天照大神・高木神が建御雷神に降りていって助太刀をするように命令しましたが、建御雷神はこの国を平(ことむけ)し横刀を降ろせば間に合うとして刀のみを降ろしました。刀は石上神宮に神として祭られています。


 所で、分かり難いことがあります。
 『日本書記』垂仁紀 で、天照大神が倭姫命に「伊勢国はしきりに浪のうち寄せる国、この国におりたい。」と託宣があり、これがおそらくは現在の伊勢内宮の由緒なのでしょうが、これは高天原から天照大神が伊勢に降りたと理解していいのでしょうか、それとも相変わらず高天原に天照大神が居て、分霊が伊勢に居ると言うことなのでしょうか。

 高天原は朝鮮半島だとする見解が散見されます。いまでも朝鮮半島に天照大神や高皇産霊神がいるとも思えず、もはや高天原は空っぽというか、消滅しているということでしょうかね。

[10347] Re[10346]: 神社の耳皿  神奈備 2010/08/04(Wed) 09:39 [Reply]
「神社と神道」の応答を待ちましょう。

http://jinja.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=334

[10346] 神社の耳皿  和歌山 2010/08/03(Tue) 16:51 [Reply]
全国各地の遺跡から出土している素焼きの皿で両側を内側に曲げた耳皿と呼ばれている土師器があります。今でも伊勢神宮など一部の神社でも使用されているらしいのですが用途はなんでしょうか?また何処の神社で使用されているんでしょうか。春日大社にもあったような気がしますが・・・一般に箸置きだと言われています。

[10345] Re[10344][10341]: 阿波古事記 遺りたるもの  神奈備 2010/07/31(Sat) 09:04 [Reply]
とみたさん コメントありがとうございます。

> 不思議なのは阿波忌部氏が、天鷲日命を祀りますがその祖先はタカミムスビであることです。タカミムスビは北方系です。

 氏族の祖神につきましては、血のつながりだけではなく、政治的立場をあらわすとする見解もあります。(溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波新書)


> 大伴氏も久米氏も忌部氏も北方系の一族かも。

 忌部氏もそうですが、大伴氏も久米氏もタカミムスビを祖神としています。皇室と同じ立場をとっていると言えます。

 太陽は冬至と夏至に祭られます。冬至は太陽そのものの復活、夏至は稲作の豊穣を太陽に願うと上記の本にあります。

[10344] Re[10341]: 阿波古事記 遺りたるもの  とみた 2010/07/30(Fri) 11:34 [Reply]
> 阿波とは
> 古事記とは
>  猿女君の巫女達は、朝廷や豪族に抱えられており、壬申の乱の負け組の巫女達は失業状態。

面白い見方です。
記紀は天武が編集方針を出していますから、壬申の乱で味方した豪族を引き立てていますね。

不比等は山科の田辺史大隈の教えてもらっている、田辺史小隅は大友氏を応援していて大海人皇子の敵です。
不比等は天武とまずい関係なのに持統天皇/草壁皇子の時代に官僚として取り入ったのでしょうね。天武の記紀の筋書きを多少は変えたのか。

記紀のネタは帝紀・旧字がでしょうか。阿曇稲敷が川島皇子、忌部子麻呂、中臣大島ら11人と整理記述したのでしょう。

忌部子麻呂は初代出雲国司。子麻呂のお父さんは孝徳朝の忌部佐賀斯。

忌部は語り部でしょうか。一種のシャーマンです。
阿波の安曇族の海人部によって伝承された歌は新嘗祭、大嘗祭に先祖の成り立ちで歌われた天語歌。

猿田彦は磯部ですから海の民。渡会氏も天鷲命を祀るから阿波忌部でしょう。

安曇も猿田彦も忌部もみんな倭王権に取り込まれたのでしょうね。不服→服(まつろう)した部民です。

不思議なのは阿波忌部氏が、天鷲日命を祀りますがその祖先はタカミムスビであることです。タカミムスビは北方系です。
鷲と鷹は今もキルギスやカザフスタンの国鳥です。猛禽類は北方アジア系であることです。

摂南大学の依田千百子さんの論考に、高句麗の東盟祭と扶余の迎鼓祭は招魂慰霊祭のことが書かれています。冬至に弱まった太陽の復活儀礼を行いますが、日本の天岩屋戸神話に日蝕神話と対応するのだそうです。


海の民が活躍していた弥生ー古墳時代に、たとえば5世紀前後に北方系の支配層がやってきたのではなかろうか。

大伴氏も久米氏も忌部氏も北方系の一族かも。

大伴氏は鳴鏑を使います。これは匈奴などの騎馬民が戦争のときに使う道具です。


[10343] 八咫烏神社  神奈備 2010/07/30(Fri) 10:51 [Reply]
 『続日本紀』に慶雲二年(705)八咫烏の社を大和国宇太郡に置いて祭らせたと出ています。
 現社地は伊那佐山の山頂に祀られていた八咫烏神社、即ち都賀那木神社(貴船社に改称)の遥拝所であったとも伝えられています。

 『アマテラスの誕生』で、著者の築紫申真氏は、「この直前に神武天皇の八咫烏伝説が形を整えられて、正史の中で大きくその位置を与えられることが決まったので、急いでその説話の具象化を行った。現に八咫烏神社が存在していますよ。」と歴史に真実性を与えたと指摘されています。

 『続日本紀』には他に神社を造った話はないようです。神話に合わせて神社を造る、となりますと、神話も神社もおいそれとは信用できないことになります。
 出雲大社の場合も、記紀にあわせるべく、大きい建物が建てられたとの見方がありました。

[10342] Re[10340]: 阿波古事記9  多美 2010/07/21(Wed) 20:05 [Reply]
>
>  記での各地平定譚 軍事と婚姻
>
>  神武天皇 日向出発 築紫(豊国 遠賀川)阿岐 吉備 浪速 紀伊 大和
>  孝霊天皇 派兵 播磨 吉備
>  孝元天皇 婚姻 河内 尾張 木国
>  開化天皇 婚姻 丹波 山代 淡海
>  崇神天皇 婚姻 木国 尾張 派兵 高志国 東国(伊勢〜陸奥) 丹波 吉備
>
>  四国が平定の対象となっていないし、四国からは妃も出ていません。神武さんを除けば、大和も平定の対象にはなっていません。これと同様な存在が四国と言えます。大王家の本拠地か本貫地か、または腹心の支配地だったのかも。

これは、大変な説だと思います。
原因と結果、原因は、遡及が止まり納得すること。
映画風転の寅さん風に言えば『おいちゃん、それ言っちゃあおしまいだよ』。
恐らく、
みなさん、戸惑いの日々でしょう(笑)。

支配力の三原則、今も昔も変わらない。

[10341] 阿波古事記 遺りたるもの  神奈備 2010/07/21(Wed) 13:17 [Reply]
阿波とは
 北方を中心とした粟国と南方をさす長国があったが、統合された。アワは太陽、ナガを蛇とすれば、縄文時代からの呼称だったのかも。 

古事記とは
 猿女君の巫女達は、朝廷や豪族に抱えられており、壬申の乱の負け組の巫女達は失業状態。

天武天皇
 天武天皇の大嘗祭では、中臣、忌部、及神官人等は奉仕。各地の語り部がそれぞれの神話を歌った。
 天武天皇は武勇の人でもあったが、政治家でもあり、文人でもあった。自分が皇統を奪い、新政権を樹立した段階で、実力主義の登用を行うには、逆に各豪族の系譜と位置づけを行っておく必要を感じたのではないか。
 天武皇太子の時の歌は万葉集の中でも秀逸
 万葉 巻き一 21番 紫のにほえる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも

 天武天皇の時代に、天武の命令で稗田阿礼が、後宮の女、巫女や各地の語り部などから伝承を収集した。天宇豆女のポースなど女性ならではとの視点で書かれたと思われます。

忌部氏
 また祭祀氏族であった忌部氏には祭祀が再現している古伝承を忌部家代々に伝えていた。これは古事記に反映している。
 忌部の古さの証明 古文献神代期の条で「鐸」について触れているのは『古語拾遺』齋部広成著、807年と『先代旧事本紀』。後者は前者を参考にしている可能性があります。 日神の石窟幽居の段に、「天目一箇神をして鉄の鐸(古語に佐那伎という)を作らしむ。」とあります。中臣氏には「鐸」を期待できません。

他にも神話の舞台
 阿波が古事記の舞台というのは、イザナミが黄泉の国である祖谷に隠れ、イザナギが橘湾に逃げてきたイメージはまさに阿波の真骨頂でしょう。

神楽
 阿波では神楽はほんの僅かしかなされていいない。宮崎県などとは大違いです。神楽になりぬくい部分の舞台だったのでしょう。

天孫降臨
 ニニギが立ち寄った笠沙の岬はどう考えても東支那海の岬、ここが天孫降臨の地。

[10340] 阿波古事記9  神奈備 2010/07/17(Sat) 08:25 [Reply]
 神代期での忌部氏と中臣氏はほぼ同列に登場しています。
 所が、天照大神が天岩戸から出てきた後、再度入らないように注連縄を張るのですが、『古事記』では、「布刀玉命(忌部氏の祖)が尻くめ縄を控き度して」、とあります。『日本書記』の場合、「中臣神や忌部神が、しめなわを引き渡した。」となっています。中臣氏のしゃしゃり出が気になります。『紀』への藤原不比等の干渉が目に見えるようです。

 地方忌部の登場シーンなどで、忌部氏の古さ、中臣氏のしゃしゃりがばれています。地方忌部の存在は『日本の建国と阿波忌部』林博章著に啓発されました。
『日本書紀』天岩戸隠れ (一書第三)下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿。
『日本書紀』国譲り   (一書第二)既以紀伊國忌部遠祖手置帆負神、定爲作笠者。

 中臣氏の場合、地方の中臣の登場はないのです。

 記での各地平定譚 軍事と婚姻

 神武天皇 日向出発 築紫(豊国 遠賀川)阿岐 吉備 浪速 紀伊 大和
 孝霊天皇 派兵 播磨 吉備
 孝元天皇 婚姻 河内 尾張 木国
 開化天皇 婚姻 丹波 山代 淡海
 崇神天皇 婚姻 木国 尾張 派兵 高志国 東国(伊勢〜陸奥) 丹波 吉備

 四国が平定の対象となっていないし、四国からは妃も出ていません。神武さんを除けば、大和も平定の対象にはなっていません。これと同様な存在が四国と言えます。大王家の本拠地か本貫地か、または腹心の支配地だったのかも。

 阿波国の吉野川流域と讃岐国は阿讃山脈で隔てられていますが、それほど峻険な山並みではなく、多くの人々の交流があったようです。また阿波国板野郡(鳴門市など)とは海岸沿いにつながっています。

 讃岐と阿波は忌部氏の多い地域だったようです。忌部氏はその職制もあってか、大王家に反抗するような動きは一切なかったようです。

 吉備・播磨と讃岐・阿波は瀬戸内海の島嶼と海とでつながっています。古代文明の発展の基本的な地形です。

 大倭玖迩阿禮比賣媛と言う仰々しい諡名の姫神がいます。ヤマトの国を出現せしめた姫神と言うことです。おそらくは吉備の王だった孝霊天皇の妃となり、有名な倭迹迹日百襲姫命を生んでいます。卑弥呼だとか台与だとされている姫です。
 大倭玖迩阿禮比賣命は倭国香媛とも言います。この媛は唯一吉備(備中国賀陽郡)の吉備津神社の摂社の本宮社に孝霊天皇とともに祭られています。
 
 孝霊天皇の神霊は伯耆国(樂樂福神社など10社)、他に出雲(1社)、伊予(2社)、土佐(11社)などに祭られています。吉備を拠点に周辺の征服活動をしていたのかもしれません。
 
 倭国香媛の娘の倭迹迹日百襲姫命を祭る神社は吉備に4社、讃岐に5社、阿波に1社、他に大和など3社に祭られています。讃岐・阿波では水に関係する女神として祭られているようです。丹生都比売は水銀の神から水の神になりましたが、百襲姫は水神から水銀の神になったのかも。箸墓の発掘ができれば石室から大量の朱がでることでしょう。

 吉備・播磨・讃岐・阿波等の国々の連合が畿内に移動して大和に王権を確立したのでしょう。古墳の様式などが阿波などから、埴輪は吉備からとか、重要な祭祀様式がこの地から持たされているようです。
 
 王権が大和に移動した目的はいくつかありましょうが、一つは阿波の若杉山の辰沙の埋蔵量は減ってきて、大和宇陀の鉱山に活路を求めたのでしょう。

[10339] Re[10338][10337][10333]: 阿波古事記7  神奈備 2010/07/17(Sat) 08:22 [Reply]
> > 「生」が「日」にでも対応してくれないと説得力がありません。
> →「生」が「足」にでも対応してくれないと説得力がありません。

イリ王朝(ミマキイリヒコ、イクメイリヒコ)から
タラシ王朝(景行天皇ら)
への移行など?

[10338] Re[10337][10333]: 阿波古事記7  神奈備 2010/07/16(Fri) 16:27 [Reply]
大三元さん ありがとうございます。

> 兄=天という考え方が通じているように見えます。

 二人兄弟としますと、天と月を一体として兄、日を弟とでもしませんと不都合です。天照大神登場以前の「日」とは地上の存在で、水浴びなどをしていたと『山海経』(海外東経)に出ています。
 黒歯国の北に湯の湧く谷があり、そこに十個の太陽が水浴びをする。扶桑の大木があって、九個の太陽は下の枝におり、一個の太陽が今まさに出ようとして上の枝にいる。

 残りの月は天にあるとするのは、月の神である高御産巣日神が高天原に陣取っているとする神話としてもおかしくはありません。


> 要は「タラシ=tal+assi お月様」か???

 いいですね。

> 「生」が「日」にでも対応してくれないと説得力がありません。
→「生」が「足」にでも対応してくれないと説得力がありません。


> あと、雉、名は鳴き女(天探女)が天若日子に伝言に来るときにも湯津楓(ゆつかつら)に留まります。

 雉、名は鳴き女、これも女スパイでしょうが、天若日子側にも女スパイがいました。天探女です。女スパイ対女スパイの戦い、いにしえの007のようです。
 
 湯津楓、楓も桂の一種ということでしょうか、『紀』では湯津杜木にカツラのルギですが、注釈には杜木をカツラと訓むのは、桂と杜との誤用とあります。(岩波文庫)

 月の神である高御産巣日神の遣いですから、鳴き女も天若日子も月神系統かも。

[10337] Re[10333]: 阿波古事記7  大三元 [Url] 2010/07/15(Thu) 16:34 [Reply]
「月」を廻るご考察、興味深く拝見してます。
順不同ですが下記コメントします。
> ついでに、『隋書倭伝』から。
> 600年 推古八年の遣唐使が、「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雛彌
>と号す。天を兄、日を弟、日が出れば弟に政務を任せる。」と返答しています。
> これからわかることは、天を兄、日を弟とする倭王は月(の神の後裔)
>ということです。

「天を兄」と為す、というので想起するのは:
「天足彦国押人」が兄で、「日本足彦国押人」が弟で孝安天皇となる。(日本書紀)
隋書が三人(兄、倭王、弟)に言及しているのに対して
日本書紀では二人(兄、天皇=弟)と異なっていますが、
兄=天という考え方が通じているように見えます。

(日本書紀の原型が「兄=天足彦、倭王=国押人、弟=日本足彦」みたいな
ことではなかったか、というのもありますが、所詮妄想です。
ただ、古事記では「兄=天押帯日子、弟=大倭帯日子国押人」、と
「国押人」が一つしか出てこないので、これを
「兄=天押帯日子、弟=大倭帯日子、天皇=国押人」と仮設する
のが容易かもしれません。)

>タラシヒコ、満月のことかも。

韓国語 tal=月 であるのが興味を惹きます。
(これは中世まで遡れるようです。
また、弓月=ku+dal →くだら、という考察もしました。)

ついでに辞書をみてみますと assi=(若)奥様、お嬢様、若い夫人や
娘を目下が呼ぶ語、とあります。
現代韓国では女性だけに使うようですが、古語では両性に使った
なんてことが証明できると面白いと思いますが果たして???
要は「タラシ=tal+assi お月様」か???

> 神産日神、高御産日神、玉積日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神

ここの「足」も tal=月 かと考えたいのですが、
「生」が「日」にでも対応してくれないと説得力がありません。
(今のところそうはなりそうもない)

> 月読神が保食神のもとに行った時の話が『紀』にあります。湯津桂の樹が一本あったので、月読神は湯津桂の樹に依ったのです。湯津桂とは斎桂で神聖な桂と言う意味。

> 『古事記』に、「山幸彦(火遠理命)が綿津見の宮へ行った際、門の傍の井戸の上に湯津香木(香木は桂のこと)があったので、その木の上に坐った。」とあります。

> 上記の物語はともに神々が湯津桂の木に依りついているのです。桂の木は月桂樹で月に生えているとされています。月読神が依りつくのは当然です。一方、山幸彦も依りついています。月の神の子孫だと云うことを暗示しているのでしょう。

あと、雉、名は鳴き女(天探女)が天若日子に伝言に来るときにも
湯津楓(ゆつかつら)に留まります。
これはどうも「月」には絡みそうもないのでは?

[10336] Re[10335][10333]: 阿波古事記7  神奈備 2010/07/15(Thu) 11:50 [Reply]
> 関**さん=関裕二さん
> 元祖は原田**さん=原田常冶さん
>
> 八*さん=この方は?でしょうか。
>
八木荘司さん
澤田洋太郎さんはどうだろう。
旭屋書店のコーナーで確認がいるそうでsy。

[10335] Re[10333]: 阿波古事記7  多美 2010/07/15(Thu) 10:59 [Reply]

>  書店の歴史書を置いてある場所に時々、疑似歴史コーナーがあり、最近では関**さん、八*さんなど多士済々ですが、元祖は原田**さんあたりでしょうか。

関**さん=関裕二さん
元祖は原田**さん=原田常冶さん

八*さん=この方は?でしょうか。

[10334] 阿波古事記8  神奈備 2010/07/15(Thu) 08:46 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第84回)天照大御神と高御産巣日神 続

 高皇産霊神は別名を高木神と言います。高い木に依りつく神です。北方系の神とされています。恐らくは高句麗辺りの神だったのでしょう。

 高皇産霊神は忌部氏の祖神ということで、阿波や讃岐と大いに関係があります。このことは前方後円墳に先行する弥生墳丘墓に現れてきます。積石塚の墳墓は高句麗の代名詞のようなものです。
 阿波から出土している小銅鐸も朝鮮式のようで、古い時代から渡来人の影響を受けていたようです。

 阿波の弥生墳丘墓
  鳴門市 萩原墳墓群   積石墓
  三好町 足代東原遺跡  円形積石墓から前方後円形の積石墓へ発展

 阿波の弥生墳丘墓(萩原墳墓群)の中には、円丘部から突出部が出ているものがあり、前方後円墳へ変わる途中とも見ることができます。画紋帯神獣鏡が出土、同范鏡が北朝鮮大同江でも出土。
  
 国内で積石墓の多い地域
 長崎県対馬 山口県児島 愛媛県津島町高田 香川県石清尾山塊 徳島県吉野川流域 和歌山県 長野県 山梨県 → ツングース系の渡来人が多い地域。

 徳島県埋蔵文化財調査室  北條芳隆助教授の講義録から
 讃岐型前方後円墳
 前方後円墳の祖形・原形は鳴門市萩原にあった萩原噴丘墓である。
 中山大塚古墳(奈良県)の発掘により、前方後円墳の円噴の祖形が阿波の積石塚にあることを確信した。古墳の上に敷かれる葺き石は、積み石塚のなごりである。資料の実体を重視する見方の必要性を講義された。「徳島」に身を置かなければ気づかない事実。

 阿波の古墳を調べていますと、神社境内や神社が側に鎮座していることが目立つ気がします。神社発生の要素として、祖霊を祭ることがあり、それが古墳ということなのでしょう。

 阿波の古墳は積石塚・木槨が特徴、阿波と大和の古墳時期比較。
 西暦   阿波       大和
 200
     萩原2号墓    纏向石塚
 250 天河別1号墳
     西山谷2号墳   
     萩原1号墓    ホケノ山古墳(萩原2号墓と類似)阿波忌部氏が被葬者か?
              箸墓
 300

 弥生時代から古墳時代への移行の頃の以下の古墳は、立地、墳丘、列石、竪穴式石室、鏡の副葬、東西方向の長軸などの基本的要素が共通しています。これらの地域の王の連合を示しているようです。        
 岡山市総社市 宮山墳丘墓
 徳島県鳴門市 萩原一号墳
 兵庫県揖保郡 養久山一号墳
 奈良市桜井市 纏向石塚
              
 萩原噴丘墓一号墓から画文帯神獣鏡はヤマトのホケノ古墳と同范鏡のようで、半島の楽浪・帯方郡域からも出ており、交流の深さは偲ばれます。3世紀初頭でのこの鏡の分布図を下記に示しました。萩原の東に3世紀中頃の西山谷2号墓(円墳)があり、積石の竪穴古墳でこの形状では日本最古とされており、この技術がヤマトに伝わったとみられています。

http://kamnavi.jp/log/gamontai.jpg

[10333] 阿波古事記7  神奈備 2010/07/13(Tue) 08:34 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第84回)天照大御神と高御産巣日神

> 天照大御神は,高天原に上り高御産巣日神の 妃 ( きさき ) となったのであろう。

 書店の歴史書を置いてある場所に時々、疑似歴史コーナーがあり、最近では関**さん、八*さんなど多士済々ですが、元祖は原田**さんあたりでしょうか。上記の説も疑似歴史家さんが好むテーマの一つでしょう。阿波古事記には無関係なこと、無駄な説です。

 先に述べて来た通り、天照大神が皇祖神として奉られたのは、天武・持統朝以降の事です。聖徳太子と蘇我馬子が作ったとされる『天皇記』『国記』のうち、『国記』が火災を免れたとあり、書かれた当時にはまだ、天照大神は皇祖神ではなく高御産巣日神が皇祖神だったのではないかと思います。

 天皇家の重要な祭り−月次祭− の唱えられる祝詞。「月次祭祝詞」
 宮中八神への感謝 御巫等祭神八座
 神産日神、高御産日神、玉積日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神

 ここに天照大神は祭られていないのです。それが、平安時代になって天照大神が祭られます。記紀ができた奈良時代でも天照大神は無視されていたようです。

 『日本書紀』顕宗天皇三年
 春二月 月の神が人に憑いて、「わが祖高皇産霊は、天地を造った(天地鎔造の)功がある。田地をわが月の神に奉れ。」と云われた。壱岐県主が奉った山城国葛野郡の葛野坐月読神社の由緒となっています。
 これは高皇産霊は月神だと言うことです。面白いことに徳島市加茂名町に鎔造皇神社があります。「鎔造」がついている神社はここだけです。

 夏四月 日の神が人に憑いて、「倭の磐余の田をわが祖高皇産霊に奉れ。」と云われた。
対馬県主が奉った大和国十市郡目原坐高御魂神社の由緒となっています。

 高皇産霊は日神と月神の祖であり、かつ月神でもあると言えます。

 月読神が保食神のもとに行った時の話が『紀』にあります。湯津桂の樹が一本あったので、月読神は湯津桂の樹に依ったのです。湯津桂とは斎桂で神聖な桂と言う意味。

 『古事記』に、「山幸彦(火遠理命)が綿津見の宮へ行った際、門の傍の井戸の上に湯津香木(香木は桂のこと)があったので、その木の上に坐った。」とあります。

 上記の物語はともに神々が湯津桂の木に依りついているのです。桂の木は月桂樹で月に生えているとされています。月読神が依りつくのは当然です。一方、山幸彦も依りついています。月の神の子孫だと云うことを暗示しているのでしょう。

 ついでに、『隋書倭伝』から。
 600年 推古八年の遣唐使が、「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雛彌
と号す。天を兄、日を弟、日が出れば弟に政務を任せる。」と返答しています。

 これからわかることは、天を兄、日を弟とする倭王は月(の神の後裔)ということです。タラシヒコ、満月のことかも。

[10332] 阿波古事記6  神奈備 2010/07/12(Mon) 09:08 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第32回)天照大御神と月読命 (第40回)須佐之男命

 日と月がイザナギの両目から生まれたという神話は、日本だけもものではありません。
 
 大陸
 はじめに盤古死す。死するに垂んとして身を化す、気は風雲となり、声は雷霆と為る。左眼は日となり、右眼は月と為り、四肢五体は四極五嶽と為り、血液は江河とと為り、筋脈は地の理と為り、肌肉は田土と為り、髪髭は星辰と為り、皮毛は草木と為り、歯骨は金石となり、精髄は珠玉と為り、汗は流れて雨沢と為り、身の諸虫は、風邪の感ずるところに困って、化して??と為る。

 『古事記』では、左の御目を洗うと天照大神、右の御目を洗うと月読命、御鼻を洗うと建速須佐之男命は成るとあります。鼻と須佐之男命の組み合わせは日本独自のものかも知れません。
 とは言え、『日本書記』一書第五 では、韓郷で素盞嗚尊の髯が杉の木、胸の毛は檜、尻の毛は槙、眉毛は杉と楠になったとあり、盤古神話の「皮毛は草木と為り」と似ています。

 目から日と月が成るお話は、西シベリア、マレー半島、イラン、アフリカにもあります。

 神話のレベルとして、日神・月神が誕生した場所を具体的に示す必要はないように思います。古代には多くの日神、月神が各地域の海人や農民に祀られていたのですが、記紀で日神は天照大神、月神は月読命に統一してしまったのです。

 現在まで残っている日神の例をいくつか。

 天照御魂神 大和国 鏡作坐天照御魂神社、他田坐天照御魂神社、摂津 新屋坐天照御魂神社 など
 丹波 天照玉命 対馬 阿麻て留神
 旧事本紀 天照国照彦天火明命 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
 日本書記 対馬 天日神命

 皇祖神としての天照大神の登場は天武天皇以降のことです。それ以前の皇祖神は高御産巣日神(高木神)でした。天孫降臨を命じたのは天照大神と高木神の連名で書かれています。と言っても記紀の著述者達が天照大神を捏造したと言う話ではなく、幾つかの伝承が各地に残っていたものを集約したものと考えられています。

 『日本書紀』本文には、「皇祖高皇産霊尊、皇孫の瓊瓊杵尊を立て葦原中國之主とせんと・・」とあります。天孫降臨の前提として葦原中国の平定の段取りは高皇産霊尊が行っています。「皇孫」とは、天照大神の子が父、高木神の子が母と便利になっています。

 須佐之男命まで阿波の生まれとしてしまうのは鎮座している神社からは無理がありそうです。唯一鎮座する神名のついた式内社を以て阿波に関連付けて来ている所に、その名からも後ほど勧請されたであろう式内社でもない徳島県海陽町宍喰の八坂神社を振りかざしているのは、まじめに阿波古事記に取り組もうとする人の腰を抜かしてしまいそうです。
 
 須佐之男命の名前を冠する式内社は、紀伊国在田郡の須佐神社[スサ](名神大。月次新甞) 、出雲国飯石郡に湏佐神社[スサ]が鎮座、紀伊が格式が高いので、本家は紀伊ではないかと松前健先生は述べています。丁度、阿波国の向かいに当たります。三貴子を紀伊水道でうまれたとするのなら、紀伊でもいいのでしょう。


[10331] Re[10330][10329]: 謹んで訂正します  神奈備 2010/07/12(Mon) 09:07 [Reply]
> 旅人さん
>  一体何をおっしゃりたいのでしょうか。

お返事がない場合、消去します。

[10330] Re[10329]: 謹んで訂正します  神奈備 2010/07/11(Sun) 17:20 [Reply]
旅人さん
 一体何をおっしゃりたいのでしょうか。

[10329] 謹んで訂正します  旅人 2010/07/11(Sun) 11:48 [Reply]
[10328]訂正させていただきます。

中臣御食子(日宮イルグン佐平)「「我が百済から仏教を享受して法興寺を建立しました。法隆寺のような大寺院を建立したのも蘇我氏の役割が大きい。」

訂正前
中臣御食子(日宮イルグン佐平)「我が百済から仏教を享受して法隆寺を建立しました。」



[10328] 鎌足命名シーン  旅人 2010/07/11(Sun) 11:24 [Reply]
「朝鮮用に歴史を歪曲か?」神社やお札になっている「鎌足」にけちをつけたいのか?

三国記 DVD05 9話
倭国の推古天皇崩御の「使節団」が登場。
「おそれおおくも王様の立派な知恵で乱れた倭国を救って下さい。
王様は聖徳太子のご子息である山背大兄王を後継者に任命されました。蘇我大臣は王様とは異なる意向を示しています。」
武王「蘇我蝦夷はおそれおおくも私の命にさからっているのか。」
使者「蘇我大臣は専横を極めております。側近達も居丈高に振舞っております。」
武王「佐平たちは蘇我蝦夷を成敗できる策を考えてくれ」
上佐平が蘇我氏を説明。
中臣御食子(日宮イルグン佐平)「我が百済から仏教を享受して法隆寺を建立しました。」
内頭佐平「先祖が功を立てても関係ない。蘇我蝦夷を制裁する策を考えよう。推古天皇崩御を新羅が知れば、百済への対抗を煽るはずです。」
中臣御食子「王座を狙っている偉人です。本国を裏切る可能性があります。」
武王「日宮佐平よ、優秀な息子を持ったな。息子を立派に育てな。カンダルよ、この国で生まれたお前は私の息子だ。今日は新たな任務を与えるために呼んだ。お前が生まれ変わる地は倭国だ。倭国はいち早く百済が開拓して、育て上げてきた国だ。何も知らない者に先進文化を伝えて、今日の繁栄を築いた。だが、倭国は百済への恩を忘れて、私を見下そうとしている。」
武王「カンダルは、ミン大師のお供をして倭国に行きなさい。無礼な倭国の者たちに制裁を加えて百済の魂を根付かせる、そして倭国の民に喜びを享受させてやりなさい。」
カンダル修士「王様、つつしんで王様の命を全うしてきます。」
上佐平「では、倭国に出向くカンダルに、その地に見合った名を命名してください。」
武王「そうだな。カンダルよ、お前は百済と倭国の架け橋になるのだ。両国を結ぶ足がかりになってくれ。その意を反映して鎌足という名を与える。鎌は草木を刈る道具だ。その鎌で不義を取り払って両国を結ぶ橋になってほしい。」


[10327] Re[10326][10325][10321][10309]: 神武伝承と額田王  神奈備 2010/07/10(Sat) 19:42 [Reply]
> アマテラス=持統天皇、ニニギ=文武天皇、タカミムスビ=藤原不比等 説も有力です。

 この三人で天壌無窮の神話がうまくつながりますので興味ある説です。タカミムスヒの神も月神のようです。藤原氏も太陽に照らされて光る月のようでもあり、また天皇家と言う大木に巻き付いて生きる藤のような所があります。とどのつまりは、藤原道長の望月の欠けたことがないと歌うように月を自覚していたのかも。

 中臣氏が具体的に姿を見せるのは、敏達天皇の時の中臣勝海大夫の排仏活動の頃のようです。
 祭祀氏族の対抗馬の忌部氏は神代の後では大化元年に忌部首子麻呂を美濃國で神々に奉幣しているまで出てきませんが
神代で
『日本書紀』天岩戸隠れ (一書第三)下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿。
『日本書紀』国譲り   (一書第二)既以紀伊國忌部遠祖手置帆負神、定爲作笠者。
と、地方の忌部氏が活動しています。中臣氏よりは相当に古い氏族だったのでしょう。

[10326] Re[10325][10321][10309]: 神武伝承と額田王  とみた 2010/07/09(Fri) 12:31 [Reply]
> 神に奉れ。」と云われた。壱岐県主が奉った山城国葛野郡。葛野坐月読神社の由緒。

壱岐直の祖が真根子その父が、中臣烏賊津使主。

卜部氏や中臣氏の元祖? 允恭紀に、近江の坂田の衣通郎姫を迎えに行く。

烏賊は伊香で近江の伊賀津臣命、雷大臣命。烏賊だから海人系?

中臣氏はいろいろ謎めいてつかめませんね。

中臣鎌足は明日香の小原で生まれて、淀川の三島の阿武山に葬られる。

母は大伴夫人。房総や鹿島の豪族の大伴齧子の娘の智仙娘と中臣鎌子との間で生まれた。

京都の山科に住み、隣に百済出身の文武両道に長けた田辺大隈がいて不比等を教えた。

近江の伊香具神社は天武の時代に創建。祭神を常陸鹿島から移住させたようです。

中臣氏は壱岐の亀卜を乗っ取り、タカミムスビの子孫とする大伴氏に従った日奉部を傘下に入れて宮廷神祇官として偉くなり、敏達天皇時代に天皇が神格化が進む中で宗教的部民として伸していた。

アマテラス=持統天皇、ニニギ=文武天皇、タカミムスビ=藤原不比等

説も有力です。









[10325] Re[10321][10309]: 神武伝承と額田王  神奈備 2010/07/08(Thu) 16:59 [Reply]
> 大伴、久米いずれもタカミムスビ神を祭る。これは北方系の神ではないのでしょうか。

 阿波にいた忌部氏もタカミムスビ神の後裔のようです。

 高木神とも言われ、高い木に依りつく神は、北方系の神と言われています。この神は『顕宗紀』に登場しています。
 顕宗天皇三年
春二月 月の神が人に憑いて、「わが祖高皇産霊は、天地を造った功がある。田地をわが月の
神に奉れ。」と云われた。壱岐県主が奉った山城国葛野郡。葛野坐月読神社の由緒。

夏四月 日の神が人に憑いて、「倭の磐余の田をわが祖高皇産霊に奉れ。」と云われた。
対馬県主が奉った大和国十市郡目原坐高御魂神社の由緒。

 高皇産霊神は日と月神の祖であり、月神でもあります。

 槻の木の名前と月神の月とは無関係ではないのかも知れません。月が似合う木。

 月神が依りつく木に桂があります。月の中にこの木が生えているとされています。[10301] で書いたように、天孫は桂の木に依りついています、月神の子孫です。

[10324] 阿波古事記5  神奈備 2010/07/08(Thu) 08:47 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第13回)
 延喜式内社・伊邪那美神社
 
 伊邪那美神を祭神とする式内社は全国で一社阿波だけです。伊邪那岐神の場合には、淡路、摂津、近江など7社となります。三貴子の唯一の親神として崇敬されたのでしょう。
 神社の格式も、淡路伊佐奈伎神社は貞観元年(859)無品勲八等から一品に昇格しています。それまでが無品だったのが面白いところです。近江の多賀大社は貞観元年(859)
に従五位下になっています。一方、阿波の伊射奈美神社は貞観十一年(869)に、正六位上を従五位下に昇格しています。

 女の体内に「火」があるとの伝承も世界共通と言えます。それででしょうか、恥部をホト(火処)と呼んだりします。女の情念というか好色が火処に現れるということでしょう。それが女体を焼いてしまうのです。

 伊邪那美神が焼け死んだのは火の神の阿遇突智神を生んだからです。女神の嘔吐物になる神は金山毘古神・毘売神、次ぎに屎には波邇夜須毘古神・毘売神、次ぎに尿になる神は彌都波能売神、和久産日神。この神の子は豊宇気毘売神。

 焼き畑栽培の名残も感じますが、伊邪那美神も死して穀物の種ではありませんが、農耕に必要な鍬鋤の材料、土、水、若々しい生産の神、そうして食物を司る女神を生成しています。やはり大宜都比賣神と同様にハイヌウェレ型神話を引きずっているようです。

 イザナミの墓とされる場所が、『古事記』では、出雲と伯伎の境の比婆山です。『日本書紀』では、『一書第五』では紀伊の熊野の有馬村としています。花の時は花をもってお祀りしと記されており、これは花窟神社で今日まで続いています。『日本書紀』では、一書第一から第十一までで第五を除いては場所を記述していません。

 黄泉の国から帰って来たイザナギ命が禊ぎをするのは『古事記』では竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原です。『日本書紀』では、一書第六では、築紫の日向の川の橘の檍原、一書第十では、出かけて阿波の水門の速吸名門は流れが急なので、帰って橘の小門で祓いを行ったとしています。

 小生、「浪花の古代史」平成22年3月の発表で以下のことを行いました。  一日に一人ずつ助けると言う神様が徳島県に鎮座しています。阿南市津乃峯町の津峯神社の神様です。 http://www.genbu.net/data/awa2/tunomine_title.htm

 『延喜式神名帳』では、賀志波比賣神社[カシハヒメ] となっています。この女神の名は『記紀』には見えませんが、一説には天照大神の幼名だとか。

 この神社の鎮座する津峯から眼下に橘湾は見えます。谷川健一著『古代海人の世界』によりますと、津峯の山の麓に青木と言う地名があるとのこと、イザナギ神が禊ぎをした阿波岐原と近い名前です。

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギ神にイザナミ神は一日に1000人を殺す、そうするとイザナギ神は一日1500人を誕生させると応答しますが、津峯の神を連想するお話です。

 国生み神話は阿波や淡路を中心に活躍していた海人が語り伝えたお話なのでしょう。阿波と言う言葉は”太陽”を意味するともされ、また阿波には式内社で、事代主神社が二社、伊射奈美神社、弥都波能賣神社、波尓移麻比メ神社、天石門別豊玉比賣神社、和多都美豊玉比賣神社、多祁御奈刀弥神社と言う国生みにからむ神々、海神、国譲りの神と神話を凝縮したような神社が見られます。

 阿波の国には古代の多くの謎が秘められているようです。

 阿波古事記の活動は小生にとっても興味津々の所です。ゾクゾクします。
 どちらにしてもイザナミ神を祀る唯一の式内社の阿波国美馬郡の近辺に伝承地がほしいところです。出雲と紀伊の共通地名に熊野があります。熊野の訓に「ユヤ、イヤ」があります。そうです阿波国の奥の院が祖谷(イヤ)です。祖谷がイザナミ神の送葬の地と見ていいのでしょう。

[10321] Re[10309]: 神武伝承と額田王  とみた 2010/07/06(Tue) 13:43 [Reply]
> 毎日新聞のシリーズとなった難読歌からの神武伝承の語られ方の推測記事。
>
> 写真掲示板に投稿しました、3度クリックして頂きますと大きくなり、読みやすくなります。

神奈備さん 、これは面白い記事ですね。久米と大伴の関係。久米の本拠は 畝傍山の付近とされています。

神武天皇の橿原神宮は明治時代に畝傍の麓の洞部落から引越ししています。
現在の橿原神宮は橿原市久米町にあります。

同志社大の辰巳和弘さんによれば、軽の大槻は近鉄橿原神宮駅東付近にそびえていたとされています。

真北に古代大和の基幹道、下ツ道が一直線に伸びる。全長は約23kmに及ぶ。それが平城京の朱雀大路となる。今来の大槻は古代国家建設の原点となっている。正しく聖樹です。

橿原の新沢古墳は大伴氏縁という説があり宣化陵も近くです。

宣化・安閑は大伴氏と関係が深く、欽明は蘇我氏と縁が深いようです。

大伴が欽明時代に任那問題で失格し物部・蘇我氏が残り、さらに物部守屋が蘇我馬子に敗れ蘇我氏が伸してきます。

そして大化改新(乙巳のクーデター)で蘇我本宗家は中兄大皇子に敗れ息長の舒明系

の天智・天武が表に出てくる。それに繋がる斉明と額田王君。その謎掛けの歌です

ね。大伴、久米いずれもタカミムスビ神を祭る。これは北方系の神ではないのでしょ

うか。



[10320] 阿波古事記4  神奈備 2010/07/06(Tue) 12:51 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第4回)
 「記」の大宜都比賣は四つの場面に登場します。
 1.国生みで伊予の二名島(四国)を生み、粟国は大宜都比賣と謂うとしています。
 2.国生みの次の段階の神々の生成で、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂う。次ぎに大宜都比賣神を生みき。この次ぎに火之迦具土神を生み、伊邪那美の神は死にます。
 3.天照大神の天岩戸の物語の後、速須佐之男命が大気津比賣神に食物を乞い、身体から取り出しているのを見て、穢汚しているとして殺してしまいます。殺された神の身から五穀が生じます。
 4.大年神の神裔の項。大年神の子神に大山咋神や羽山戸神。この羽山戸神が大気都比賣神を娶りて生める神の名は若山咋神などの稲作関係の神々。

 1,2は誕生のお話、3は殺される、4は結婚して子をなす。複数の大宜都比賣神がいるように見えます。幾つかの伝承が混ざり込んだのでしょう。食物の姫神との名ですから、これは普通名詞です。

 「紀」では、殺されるのは大宜都比賣神ではなく、保食神。殺すのは速須佐之男命ではなく、月読神となっています。五穀起源のお話への速須佐之男命の登場は筋が悪いようで、ここは月読神が正解でしょう。ツキヨミとはコヨミ(暦)です。大宜都比賣は大月媛、まさに月読神の配偶神。大月媛の名は長野県飯山市の長峰神社の摂社の四之宮神社の祭神として出てきます。

 縄文時代の土偶は女神の形をしています。土偶は壊されて埋められています。女神が殺されることで作物の起源となるのは、インドネシア・メラネシア・南北アメリカ大陸の広範囲に分布しているハイヌウェレ型神話と謂われるものです。従って、大宜都比賣神や保食神は殺されなければならないのでしょう。

 
 さて、大宜都比賣神は殺された後でも娶られて子をなす、まさに神の仕業です。

大宜都比賣神を祀る神社数 旧国別に5社以上 『平成祭りデータ(神社本庁CDから)』
阿波国  3社
−−−−−−−−
出羽(羽前)国 5社
下野国  5社
武蔵国  9社
甲斐国  5社
信濃国 27社 建御名方神を祀る式内社が共通であることに関連か?
紀伊国  7社
土佐国  6社
−−−−−−−−
合計 131社

[10319] かたばみさんへ質問。  伊作 2010/07/06(Tue) 08:57 [Reply]
以前、少し意見をいただいた伊作です。この場を借りて質問があります。
かたばみさんのサイトに次のような文章があります。
これを書いた資料に行き当たらないので、できたら、資料名など詳しく教えていただきたいと思います。

●古代で遊ぼ「長江流域の初期文化」
トンティン湖(洞庭湖)周辺から出土した青銅器には興味深い特徴がある。
わずかな例外を除き、青銅器が単体で周囲に遺跡などがない山頂、山麓、水辺に埋められている。深さ1m程度で周囲には細砂や黒っぽい黄土を詰めている。出土品のうちの多数を占める「銅鐃」(ニョウ:銅鐸類似で舌がなく取っ手がある)は開口部を上にして埋められている。日本の銅鐸の発掘状況とよく似ているが、こちらも謎となっている。これら青銅器を所有したであろう人物の遺跡は発見されていない。この地から発した春秋戦国の「楚」はこの風習を引き継いでいるようで、山東省泰安(泰山南方)でも類似風習がある。

よろしく。

[10318] Re[10317]: 勅旨 鎌足  神奈備 2010/07/05(Mon) 19:36 [Reply]
> 三国記(DVD)では、中臣御食子の息子 カンダル修士は、属国の倭国へ派遣された。カンダル修士に対し、百済王が倭名を命名するシーンがあります。神社を蒐集すると、鎌足に関する正確な情報がみれるのでしょうか?

何のお話かよくわかりません。

[10317] 勅旨 鎌足  旅人 2010/07/05(Mon) 15:05 [Reply]
三国記(DVD)では、中臣御食子の息子 カンダル修士は、属国の倭国へ派遣された。カンダル修士に対し、百済王が倭名を命名するシーンがあります。神社を蒐集すると、鎌足に関する正確な情報がみれるのでしょうか?

[10316] 阿波古事記3  神奈備 2010/07/04(Sun) 21:00 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第1回)
 阿波古事記には国譲りのお話については何故か触れていません。所が大国主神の御子神で、国譲りの助演男優を勤める事代主神と建御名方神を祀る式内社が阿波に鎮座しているのです。
 式内社である事代主神社が二社、多祁御奈刀弥神社も鎮座しており、阿波は事代主神の本拠地のように思われます。なぜなら、大和での式内社は高市御縣坐鴨事代主神社とか鴨都波八重事代主命神社と鎮座場所を指定した神社名です。大和は分遷されてきたように感じられます。

 建御名方神を祭る神社は信濃には南方刀美神社、阿波では多祁御奈刀弥神社、どちらが本拠とは簡単にはいえないのですが、母神が越国は翡翠の沼河比売神、信濃に近く、多祁(建)がついていない神名、信濃が本貫の地かも。

 いずれにしても事代主神と建御名方神は島根県の出雲には馴染みのない神です。
 所で、『出雲国風土記』に、意宇郡母理の郷にに以下ことが書いてあります。
 天の下をお造りなされた大神大穴持命は、越の八口を平定し賜うて、お還りになった時、長江山においでになって祥して、「私がお造りして領有して治める国は、皇御孫命が無事に世々お治める所としてお譲りしよう。ただ八雲たつ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍を置き賜うてお守りしよう。

 ここでは国造りは大穴持命が行ったとし、それを天孫に譲って、出雲の国には自分の魂を鎮座させ、国々を守ろうとの事を言っています。出雲国造の神賀詞と似た内容です。

 国譲りのお話も古代ローマ、ゲルマンの神話、インドの神話にも見いだされて概ね次の構成になっています。(吉田敦彦著『日本神話のなりたち』p100。参照下さい。)

 1 天にいる祭祀と武力の神々と、地にいる生産労働の神々との間に争いが起こった。当初は生産労働の神々が富と性的魅力などによって、天側の神々を懐柔した。

 2.天の神々が地の神々を麻痺させる無敵の武器を投げることで挽回した。

 3.両者は和解。天の神々の統治権を認めるかわりに地の神々も仲間の神とし、互いに協力して世界を支配することになった。

 天の代表は天照大神、地は大国主神、性的魅力は下照比売、武器は武甕槌神。

 出雲の平定は蘇我氏の手によるものと言われています。忌部氏や紀氏は配下に置かれたようです。蘇我氏の平定のお話を神代のこととして国際派知識人である忌部氏が話を膨らまして語ったのでしょう。事代主神の登場は葛城の鴨の服従、建御名方神の登場は、信濃に都を遷す計画があった程の国でしたので、ここの国の神をも服従の物語に組み込んだのかも。


 国譲りの話はもう一つあります。 
 国譲りは記紀を作成した大きい目的の一つだと思います。神話的には国津神達が天津神達に従うことです。「紀」の国譲りの一書第二には、大物主神と事代主神が八十万神を天高市に集めて、神々を率いて天に上がってその誠の心を披瀝とあります。このお話は出雲ではなく大和の国でのお話のようです。大物主神は三輪山の神、事代主神は高市御縣坐鴨事代主神社の神で場所の天高市もこの神社の鎮座の場所です。なお、塚口義信先生は、このお話は神功皇后・応神天皇が大和を制圧した際のお話と見ています。

[10315] 阿波古事記2  神奈備 2010/07/03(Sat) 19:42 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第1回)
> 事実,先に書いたとおり,古事記(記)には国生みの際に出雲(山陰地方)をつくったことが書かれていない。書かれていない以上,出雲を島根県に当てはめることはできない。また,記に書かれる近畿から東は,当時まだ一つにまとまっておらず,別の文化圏であるので,現在の日本全体に当てはめて読むと矛盾する点が生じる。

 出雲は国生みの範囲にはいっていないとの阿波さんの主張ですが、記紀の目的として天孫がこの国を治める正統な理由は、天照大神の親神である諾册二神が国生みをした故だと言うことですから、吉備や出雲を含む中国地方が大倭豊秋津島に含まれないとの解釈は全く説得力がありません。

 阿波さんの指摘は島根県東部の出雲の国はなかったのだから、出雲で起こったとされる事件は島根県以外のどっかだと言うことで話を進めていますが、実は二重の過ちをおかしています。

 一つはしっかりと出雲はあったからです。徳島の東側を無理に出雲としてしまう理由はないのです。

 出雲で起こったとされる事件、特に八岐大蛇退治については、大蛇の住む場所を高志としており、徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,古くは「高志」という地名で,高志小学校・高志郵便局等が現在も使われている、としています。しかし「風」には「天の下をお造りなされた大神大穴持命は、越の八口を平定し賜うて」とあり、出雲近辺にもコシがあったようです。「記」では高志の沼河比売に妻問いに行くのです。
 島根県の出雲で差し支えありません。

 阿波さんは、八岐大蛇を「頭が八つ,尾が八つ」としているのは、吉野川の河口と上流の支流を表現している事である。とされていますが、この神話は、竜蛇の形をした怪物を退治し、犠牲になる運命にあった処女を助け妻とすると言う筋ですが、これは東は日本、西はスカンジナヴィアや西アフリカにまでおよぶ広大な地域に分布しているお話で、プルセウス・アンドロメダ型神話と一致しています。
 詳しくは吉田敦彦著『日本神話のなりたち』p63〜p65を参照。

 このような話は、渡来人によって各地でその土地の伝承として語られたのかも知れません。「風」に記載がないのは、出雲では語られていなかった、「記紀」の作成担当の渡来人が出雲神話に組み入れた可能性が高いのでしょう。

 国譲りの件は追って。


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