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掲示板のログ(平成二十四年 一月〜三月 2012.1〜3)お名前の敬称は省略しています。

[11093] 5色について  公園 2012/03/31(Sat) 23:25 [Reply]
>「唯一神明造の御本殿の高欄上に並ぶ青・黄・赤・白・黒の五色の座玉(すえたま)は、伊勢の神宮と当宮にしか許されておらず、元伊勢としての高い格式を表わしています」、5色の布など新たな疑問が増える今日このごろです

上の古いスレがあったので簡単に書きます
光(統一)は宇宙そのものであり全知全能でありとあらゆるものの存在が統一を解き創造活動を始め人間への直接活動の元の働きとして「七つ」に分かれ色に例えれば7色になります
おさらいですがプリズムを使うと7色の光に分かれるし7色を回転させると白になります
キリスト教においての光は素直にこのことを云っており仏教の5色は本来7色のうちこの地上に働いている人間の種類は5種類だと云ってるのです
だから2種類の人が欠けているのでその当時は極楽浄土が地上に現れないと知っていたのにお釈迦さまはその中で一生懸命頑張ってくれたのでした
7色は人の働きに分けられます
また「奇御霊(クスミタマ)」「幸 御霊(サキミタマ)」「和御霊」「荒御霊」一霊四魂の霊系統などに例えられます(諸説あり)
あらためて唯一神明造の御本殿の高欄上に並ぶ「青・黄・赤・白・黒の五色」についてみてみると統合色の白(7色を混ぜると白になる)から赤・黄・青の色が分かれ始めたいわゆる赤・黄・青の働きを持った「清い人達」「八百万の神々の末裔」が全知全能の象徴である白の「天照大神」様を中心とする神々様がひとつになって黒色(ダメの意味ではない)「未開の地上」を照らし出す働き出す象徴をふくめての五色であると思われます
ちなみに今年の伊勢神宮は光がスゴイです癒やされるしひらめくし良いことずくめです
困った事があったら悩んでないで神宮へ行くことをお奨めします
だそくですが
誰でも知ってるように光は電磁波でありいわゆる波動ですから電気にもなります
そして硬い氷は冷えた水の分子の集合体で水の分子はH2Oの集合体でH2OのHは水素で水素は原子1個電子1個だと云われてます
水素は電子を持っており電磁波の性質を持っているので波動だとも云えます
だからすべての物質は波動であるとも云えます
だとするならば全ての物理法則を統合した生体とか物質波動科学が出てくることは必定だと思っています

科学者のみなさん頑張ってください

[11092] Re[11091][11090][11089][11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/30(Fri) 13:42 [Reply]
 宮古島出身の方から、ピッチャガマ(ちょうっとだけ・宮古島方言)情報をいただきましたので、紹介します。

*** 『○地震<ナヰ>(武烈即位前紀 紀歌 91) ⇔ない(地震)ナイ/[naji](名:じしん、地震.・・・・
*岩波大系本『古代歌謡集』(紀歌 91)には次のようにある(*括弧内は筆者の補記)
☆臣の子(鮪の臣)の八符の柴垣     下動み 地震が揺り来ば 敗れむ柴垣
 おみのこ(しばおみ)のやふのしばがき したとよみ なゐがゆりこば やれむしばがき
*上代語「地震(なゐ)」の語末音節の歴史的仮名遣いによる表記は、例外なく、ワ行の
「ヰ」である。
ところが、宮古方言の「ない(地震)」の語末音節は“/-イ/[-ji]”であって
それは上代文献語のヤ行の「い」と音声的に対応するものであるように思える。』
                      引用:「宮古古諺音義」p601・新里博著 ***

[11091] Re[11090][11089][11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/28(Wed) 10:10 [Reply]
大三元さん

 そうなんですよ、島の古老達に聞いても「ジイナイ(地鳴り?)」くらいなもので、単語としての地震は出てこないですね。辞典にも出てないですよ。
 それと、なぜ地震を「ナイ」と呼ぶのかも、宮古島の方さえ知りませんでした。

 ところで「オオナムチ」なんですが、「オオ/ナム/チ」で分解できるとすると、「ナム」の部分が「ナヰ」に近いようにも思えるんですけど、そんな説なんてあるんでしょうか?

[11090] Re[11089][11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/27(Tue) 20:29 [Reply]
琉球松さん
>  そう言えば、奄美沖縄諸島では地震そのものを表す言葉が見つかりませんね。

「琉球語辞典」(大学書林)「沖縄語辞典」(国立国語研究所)には nee で出ていますが「沖縄古語大辞典」(角川書店)にはみあたりません。

[11089] Re[11088][11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/27(Tue) 18:21 [Reply]
 宮古島の「ナイ・ナヒ」は現在の発音で、いつ頃まで遡れるかわかりませんが、古語の「ナル」が同島で変化したでしょうか。
 そう言えば、奄美沖縄諸島では地震そのものを表す言葉が見つかりませんね。

 アイヌ語の「ナイ」は「河川」でしたか。

[11088] Re[11087][11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/27(Tue) 15:07 [Reply]
琉球松さん
>  宮古島では、地震を「ナイ・ナヒ」と言ってますよ。
いつのことでしょう。「ヰ」が廃れた20/21世紀の言語資料でしょうか。
「ナヰ」が「ナイ」になり、擬古文調に「ナヒ」にでもしたものでしょうか。

>  これって「ナル」の転でしょうかね。
ここの「ナル」はどんな意味の言葉ですか?

>  あるいは、アイヌ語の「ナイ」と関係あるでしょうか?
アイヌ語の「ナイ」は私の知る限りでは「河川」の意味ですから関係ナイ?

[11087] Re[11086][11085][11084]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/27(Tue) 09:45 [Reply]
 大三元さんへ

 宮古島では、地震を「ナイ・ナヒ」と言ってますよ。これって「ナル」の転でしょうかね。
 あるいは、アイヌ語の「ナイ」と関係あるでしょうか?

[11086] Re[11085][11084]: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/26(Mon) 15:55 [Reply]
神奈備さん
>  岩波『日本書紀』の推古七年に、「地動りて:なゐふりて」とあり、その注釈として、「ナは土地、ヰは居。ナヰで地盤のこと。」とあります。

これが校注者4人の内の誰かの注釈なのでありましょう(多分、大野晋さん)。
根拠は何なのか。

>  ただし、「な」については、角川『古語辞典』久松・佐藤 にはありません。「なゐ(地震)」は古くは大地の意で、振る・揺らすを伴ってはじめて地震の意になるとという。とあります。

「・・の意になると云う」の様に根拠を示していない伝聞みたいなことで良いのかしら。

さて、日本書紀には確かに次のような記事はあります。
 允恭五年秋七月丙子朔己丑、地震
 推古七年夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。
漢字だけで書かれた文章を日本語でどう読むのか(ジシン、チドウは漢語であり日本語ではない、という規範)。
もう一つ関係する資料があります。
武烈前紀 にある歌謡に:太子歌曰、
於弥能姑能、耶賦能之魔柯枳、始陀騰余瀰、那為我與釐拠魔、耶黎夢之魔柯枳。
おみのこの やふのしばがき したとよむ なゐがよりこば やれむしばがき
臣の子の  八節の 芝垣  下 動む  ★★が・・・・ 破れむ 芝垣

「下動む」地面・地下が鳴動するのだから「なゐ」は地震のことであろう。
傍証・補強として 類聚名義抄(AD1100頃)に
 地震 なゐ とある(そうだ。。。)

これを根拠として
 允恭五年秋七月丙子朔己丑、地震 
ここの「地震」を「なゐ」と読んだのだろう。穏当だと思う。

そして「なゐ」というものが「よりこば」するらしい。これはなんだ。
「揺れ(振れ)来れば」だろう、というので

 推古七年夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。
ここの「地動」を「なゐふる」と読むことにしたのだろうか。
それとも「なゐふる」という直接的な用例があるのだろうか。寡聞にして知らない。

大体、「よりこば」(よりくれば)の「より」が「揺れ」の転だとするならここの「よ」は甲類でなければならないが、実は乙類が使われているので「揺れ」の転とするには「疑いが持たれる」むしろ「寄る」に関係あるのではないか(時代別国語大辞典上代編「よる」の項)と論じられている。

つまり「なゐ」が「地震」のことなのか「大地」の意味に過ぎないのか説得力のある解に達していないのではないか、と思っています。

資料不足、考え違いなどあるかもしれません、ご指摘下さい。

[11085] Re[11084]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/26(Mon) 10:36 [Reply]
大三元さん

 岩波『日本書紀』の推古七年に、「地動りて:なゐふりて」とあり、その注釈として、「ナは土地、ヰは居。ナヰで地盤のこと。」とあります。

 全国に命じて地震の神をお祭りさせた。と続きます。

 三重県名張市下比奈知(伊賀国名張郡)に、式内社の名居神社が鎮座しており、上記の命令による神社だとされています。尤も、「なゐ」の名を持つ神社はここだけのようです。


 ただし、「な」については、角川『古語辞典』久松・佐藤 にはありません。「なゐ(地震)」は古くは大地の意で、振る・揺らすを伴ってはじめて地震の意になるとという。とあります。

[11084] Re[11081]11077: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/25(Sun) 20:48 [Reply]
どんたくさん
> 以前どこかで大三元さんが、「事代主神というのは通訳だったのではないか」というようなことを書いておられたように思いますが、

無責任のようですが、どなたかの説をご紹介したものだったか自説という認識はありません。

> いわゆる天孫族と出雲族(大國主)とでは言葉が違っていた?

アイヌにも「國を造った神」があり我が大国主の別名とされる「国作大己貴命」(日本書紀)、「所造天下大神」(出雲風土記)に照らして興味深いものがあります。
http://www.dai3gen.net/ainu_yu20.htm

「国造神」のアイヌ語は「kotan kar kamuy(国を・造る・神)」ですが、二語目の kar が kor になると「国を・持つ・神」という意味になり「大国主」の語義に一致するのもオモシロイところです。

天孫族と出雲族(大國主)とでは言葉が違っていたか:その区分が十分精確ではないかもしれないとしても、私は概括的に概念的にそのように考えています。前者の言語が後に日本語になり、後者の言語は後にアイヌ語になった、という仮説を立てています。

なお「な」が満州語で「土壌、国土」を意味する、については、少なくとも三国史記のいわゆる高句麗語地名で「壌」の字が「那」「内」と対応しているように見えることがバックになろうかと思います。しかし「オホ」も「モチ」も和語だとすると、何故に真ん中に満州語の「ナ」が入るのだろう:今風に云えば真ん中に英語を入れて「大ランド持ち」とでもいう構造だった、という解なので疑問はぬぐえておりません。こんな構造は「あり得ない」とも言い切れないのですが、いいのかなぁ、、、と、ね。

[11083] Re[11078][11077][11076][11075]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/25(Sun) 09:45 [Reply]
どんたくさん、大己貴・大国主の解説ありがとうございます。


> 「スサノオ命」の二面性も、このあたりの事情に起因しているでしょうか。
> 出雲の地名「須佐」ではなく、紀伊国の「須佐」がオリジナルの地とする説もありますね。

 紀伊の須佐神社の伝承としては、「海を向いて鎮座していた」のですが、通る船が挨拶をしないとひっくり返すので、「海が見えない向き」に変えたとあり、乱暴者の伝承が紀伊にあったと言えます。
 一方、『出雲国風土記』には、素朴な神としての物語があります。

 これらを合わせると、二面性がある神と言えるようですね。

 紀伊をオリジナルとする松前説は、紀伊と出雲と共通する須佐、熊野、速玉などの神社の格付けが紀伊が上位になっていることを一つの根拠としています。平安時代の格付けで、オリジナルを言えるのかどうか、よくわかりませんが・・・。

[11082] Re[11081]11077: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/25(Sun) 09:35 [Reply]
 「ナ(庭・テリトリー)」は、琉球方言でも土地や空間を表すとされていて、「ナル(地震・鳴る・成る)」は後世の意味付けでしょうね。「奈良」もその派生語でしょうか。
  ともかくも、農耕民の表現と思われる「ムチ」は、"餅の霊力?" とも関係あるのでしょうか。

 ただ、「オヲ」はどうでしょう? 美称には違いないんでしょうけども、「大・粟・淡・多.阿波.青」などは、もともと海民に関わるよいうに思います。

 それと、「スクナヒコ」は語尾に「ナ」を付けたりしますよね。この場合の琉球方言での解釈は「ニナ(巻貝)」とも考えられます。

[11081] Re11077: 出雲国造の斎る神  どんたく 2012/03/25(Sun) 08:36 [Reply]
No:11080 大三元さん;

> 少なくとも岩波の日本書紀、補注にあります。

アッ! そうだったのですか。
やはり、大三元さんなら何かご存じだろうと思っておりました。

岩波『日本書紀』上 補注 p565:
・・・・・・・・・・・・・
それを一神に結合する際、その結合の中心として、オホ(大)ナ(地又は国)ムチ(貴)を新たに翻訳して、オホ(大)クニ(国)ヌシ(主)という言葉を作り、それに代表させたのである。
・・・・・・・・・・・・・

ここにすでに「翻訳」という言葉が使われていますね。

以前どこかで大三元さんが、「事代主神というのは通訳だったのではないか」というようなことを書いておられたように思いますが、いわゆる天孫族と出雲族(大國主)とでは言葉が違っていた?


> http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/25-5ada.html

大変面白いですね。
「なゐふる」という言葉は知っておりましたが、「へなちょこ」「へなへな」の語源がこういうこととは全く思いもしませんでした。

この「保立道久(ほたて みちひさ)の研究雑記」というのは、色々と面白そうですね。よいものを教えて戴いて、有り難うございました。


[11080] Re[11079]11076: 出雲国造の斎る神  大三元 2012/03/25(Sun) 00:01 [Reply]
どんたくさん
> 実は、オオ(美称の大)+ナ(土地の意)+ムチ(貴人の意)という説は以前にもどこかで見たことがあるような気がするのですが、それがどこであったのか記憶にありません。

少なくとも岩波の日本書紀、補注にあります。大野晋さんが書いたものかと思うのですが「原典」を見つけてはおりません。が、
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/25-5ada.html
が見つかりましたのでご参考に。

[11079] Re11076: 出雲国造の斎る神  どんたく 2012/03/24(Sat) 21:41 [Reply]
No:11077 神奈備さん、こんにちは。

>> 大己貴命

> 豊歴の先輩が興味深いサジェッションをしてくれました。
> それは、大己貴と大国主との関係です。

> 大己貴は奈良時代より古い時代の表現だ。
> 地震を「ない」と言うように、己(な)は土地ないし国の意味がある。
> 貴(ち)は 霊であるとか、支配者の意味がある。王でもある。
> 従って、「大己貴」を新しい言葉に置き換えて見ると、「大国主」となる。


『日本古代史大辞典』大和書房 2006年 の「おおなむちのかみ【大己貴神】」の項に、次のように書かれています。

『記』『紀』神話の神。『日本書紀』では大己貴、『古事記』では大穴牟遲、『万葉集』では於保奈牟知、大穴道、大汝、『出雲国風土記』では大穴持と記す。
名義は、オオ(美称の大)+ナ(土地の意)+ムチ(貴人の意)と解釈して地霊神、地主神とみる説が有力だが、異説もある。
・・・・・・・・・・・・・・・・。

これを受けて、私は次のようなことを考えました。

「弥生語=弥生時代の言葉」と「古墳語=古墳時代の言葉」とは違っていたのではないだろうか?

「弥生語」でオオナムチと言われていたものを「古墳語」に翻訳すると、大國主または大物主になるのではなかろうか?
ナという言葉の意味をどう捉えるか、翻訳の仕方によって、大國主にも大物主にもなりうるのではないだろうか?

『日本書紀』神代上・第八段・第六の一書には、「大國主神、亦の名は大物主神」とあり、また、大己貴神(=大國主神)の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)が大和の三輪山に住むとある。
また、『出雲国造神賀詞』では大物主を大穴持(大国主神)の和魂(にぎみたま)であるとする。

このように、大國主=大物主 という考え方がみられるのは、両方ともそのもととなった「弥生語」がオオナムチだったからではないだろうか?

実は、オオ(美称の大)+ナ(土地の意)+ムチ(貴人の意)という説は以前にもどこかで見たことがあるような気がするのですが、それがどこであったのか記憶にありません。

本居宣長の『古事記伝』にでもあるかなと思って、少しばかりあたってみたのですが、わかりませんでした。

どなたかこの説の原典をご存じの方がありましたら、ご教示ください。

[11078] Re[11077][11076][11075]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/24(Sat) 10:59 [Reply]
 イザナギ&イザナミが淡路のローカル神だったとの説が正しければ、"後から突然に皇祖神の親神にされた新しい神" が説得力を持ちそうです。

 奈良中央の政権は、風土記をかき集めたように、あちこちの信仰を統合したかもしれませんね。これじゃあやっぱり矛盾が出るのも必然なのでしょう?

 又、「スサノオ命」の二面性も、このあたりの事情に起因しているでしょうか。
 出雲の地名「須佐」ではなく、紀伊国の「須佐」がオリジナルの地とする説もありますね。

[11077] Re[11076][11075]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/24(Sat) 09:27 [Reply]
> 大己貴命

 豊歴の先輩が興味深いサジェッションをしてくれました。
 それは、大己貴と大国主との関係です。

 大己貴は奈良時代より古い時代の表現だ。
 地震を「ない」と言うように、己(な)は土地ないし国の意味がある。
 貴(ち)は 霊であるとか、支配者の意味がある。王でもある。
 従って、「大己貴」を新しい言葉に置き換えて見ると、「大国主」となる。


> 邪馬台国の連合に参加?した後の名で、

「大己貴」は大国主より古い言葉ですが、邪馬台国の時代より先か後かは決め手が見えません。


> 出雲においても、熊野信仰はさらに古いとの説がありますが

 意宇郡の熊野信仰の部族が出雲地域を支配したとされており、それが国譲り譚の原型とされています。「古い」と言っていいのでしょう。

 本当に古い神には墓は無いと思っています。例えば、高御産巣神の神陵については、寡聞でもあり、聞いたことがありません。イザナギは淡路なり淡海に幽宮があります。イザナミもおっしゃるとおり。この二神は後から突然に皇祖神の親神にされた新しい神のように思われます。だから神陵があるのだと考えています。

[11076] Re[11075]: 出雲国造の斎る神  琉球松 2012/03/23(Fri) 16:18 [Reply]
 神奈備さんへ

 出雲神の神名は、大雑把に「国譲り」以前と以後に分けられるんじゃないかと考えますが。。。例えば「大己貴・大汝・大国主・大地主・大三輪」など「オヲ」を冠する名は、邪馬台国の連合に参加?した後の名で、海人系の匂いがするんですよ。
 一方、「葦原醜・杵築・八千矛・伊和」などは、銅鐸に関する名でしょうか。

 ところで、出雲においても、熊野信仰はさらに古いとの説がありますが、神奈備さんはどうお考えでしょうか。
 イザナミは、紀伊国と出雲の両方に葬られていますね。

[11075] 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/03/23(Fri) 11:18 [Reply]
 『令義解』(833年)に、天神地祇について以下のように記されています。

 天神とは、伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造の斎る神など
 地祇とは、大神、大倭葛木鴨、出雲大汝神など

 さて、「出雲国造の斎る神」とは、何のことでしょうか。
 『記』や『紀一書第二』に国譲りの後で、大己貴命のために御殿のような社を建てています。『紀』では、天穂日命に祭祀を司らせます。これこそ「出雲国造の斎る神」と言えるでしょう。大己貴命は地祇中の地祇です。天神に分類されるはずがありません。矛盾があります。
 そうしますと、更に地祇の「出雲大汝神」とは、何のことかいなとなります。

 津名道代さんの『日本「国つ神」情念史』には以下のように出ています。
 「出雲大汝神」と「出雲国造の斎る神」は別もののような書きぶりではないか・・。さらに、「出雲国造の斎る神」を天神としながら、祭神の名を言っていない。じっさい、『延喜式』神名式でも、出雲国出雲郡に
大穴持神社 小社。
杵築神社[キツキ](名神大) こちらが現在の出雲大社。
とでており、「天穂日命に祭祀を司らせます。」との約束はどうなったのか。
と指摘しています。

 『日本の神々』(白水社)出雲大社の項は石塚尊俊氏の執筆ですが、「出雲国造の斎る神」とは、熊野大神のこととして、天神としています。地祇の「出雲大汝神」を杵築大神のこととしています。出雲国造は杵築大社を祀りながらも熊野大神を手放していなかったと言うことでしょう。

 また、『先代旧事本紀』(陰陽本紀)には、熊野・杵築両大社の祭神を素盞嗚尊としています。素盞嗚尊は天照大神の弟ですから、天神にあたるとの理解があったのかも知れません。杵築大社を天神である素盞嗚尊を祭神とするのであれば、「出雲大汝神」を『延喜式』での大穴持神社としても成り立つことになります。

 よくわからないお話です。

[11074] もし「龍神の聖線(ドラコニクル・レイライン)」というものがこの世に存在しているならば・・・  そ(八筒光) [Url] 2012/03/21(Wed) 21:49 [Reply]
かつて融通念仏宗の開祖で大念仏寺を開いた伝説の念仏修行者「聖応良忍大師」が龍神信仰の山岳修験者で龍神信仰のレイラインを密かに形成させていたら・・・
私なりに考察した意見をこちらで述べさせていただいております。
http://31448354.at.webry.info/201203/article_2.html

余談ですが「スサノオの数字(大井道範師著/幻冬社ルネッサンス)」には「古事記のコード」で紹介された「六合の中心」を中心とした橿原宮を中心とした南北のレイラインについて取り上げられていますが実はこちらに(http://31448354.at.webry.info/201202/article_3.html)
私自身がそれ以前に同じ内容の考察を取り上げさせていただいています。

それと同様に今回のレイラインを私自身で発見したのですが神奈備さまとこの掲示板をご覧になられておられる皆様方からご批判をお寄せいただければと思います。


[11073] Re[11070]: 伊勢部柿本神社  和歌山 2012/03/20(Tue) 12:37 [Reply]
> 和歌山の神社 伊勢部柿本神社 海南市日方 倭姫命が諸国を巡行された際、吉備の名方浜宮に来られました。神社の公式HPができました。

 私はここの氏子なんですが、子どものころ遊び場でした。和歌山を離れて奈良へきて3年がたちますが参拝に帰りたいです。
 東大寺二月堂の修二会が終わりましたが7日ほど神明帳の奉読の聴聞に通いました。練行衆が柏手を打つのですが私も柏手を打って神々をお迎えしました。次は新薬師寺です。

[11072] 海人とウミガメは親しい間柄  神奈備 2012/03/20(Tue) 10:39 [Reply]
住吉セミナー 神戸大学 坂江渉る 先生

海人とウミガメは親しい間柄

『古事記』神武東征 槁根津日子(サヲネツヒコ)の登場
 その国より上り幸(イ)でましし時、亀の甲(セ)に乗りて、釣りしつつ打ち羽(ハ)ふり来る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇(ア)ひき。

 亀の背には実際には乗れないが、このような伝承があることは親密さを窺わせる。

『日本書紀』巻二神代下第十段一書第三
 豐玉姫は大龜に乗って、妹の玉依姫を連れて、海を照らしてやってきた。

『日本霊異記』
 難破の津に到る時、海辺の人、大亀四口を売る。 等。

 『丹後国風土記』亀比売。

 亀は神界と人界を結ぶ聖獣、人間に福をもたらす生き物。


 神の去来と亀の去来とは似ている。彼方から、特定の季節に、夜に、やってくる。そうして歓待を受ける。亀の場合にも御神酒を捧げる。

住吉セミナー予定
http://kamnavi.jp/link/sumisemina12.htm

[11071] Re[11069][11068][11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  神奈備 2012/03/20(Tue) 10:34 [Reply]
> 古代人にとっては同じ扱いだっかも

 咋の神とは掘る神と理解できます。

 古代の地中深くではなく、露出銅を掘ることで入手できました。

[11070] 伊勢部柿本神社  神奈備 2012/03/19(Mon) 19:40 [Reply]
和歌山の神社 伊勢部柿本神社 海南市日方 倭姫命が諸国を巡行された際、吉備の名方浜宮に来られました。神社の公式HPができました。
http://kamnavi.jp/ki/city/isebekaki.htm
http://www.isebekakimotojinja.jp/index.html

[11069] Re[11068][11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  琉球松 2012/03/19(Mon) 11:15 [Reply]
 神奈備さん、大三元さん、ありがとうございます。

 大三元ご紹介のサイトは、だいたい読んでるんですけどね、古代人の感覚にはなかなか近づけなくて苦労します。
 「クイ」に関して、鳥類の「クイナ」の行動を見ていると、「食う・突く・掘る・彫る」などの作業?を表すように思いますが、「百舌鳥」と「溝」の古墳との関係性も面白いですよ。

 神奈備さんは、農耕土木と鍛冶屋の両方に繋がるように示唆されていますけど、これって技術職一般を言っているでしょうか。現在は職種別に表現を使いわけてりするんですけど、古代人にとっては同じ扱いだっかも?

[11068] Re[11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  大三元 2012/03/19(Mon) 08:54 [Reply]
琉球松さん:

>  そもそも「溝咋(みぞくい)」の原義はなんなんでしょうか?

私は下記URLあたりのことをぐるぐると巡っています。
一言で言うと「みそくい鳥」のことであり「みそさざい」のことか(広島・岡山方言)(他に「みそなめ」とも)、と考えてます。そう考えると色々と展開、相互補強などが「楽しめます」。

http://www.dai3gen.net//mizokui.htm
http://www.dai3gen.net//sasaki.htm
http://www.dai3gen.net//kangaekata.htm

[11067] Re[11066][11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝咋神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  神奈備 2012/03/18(Sun) 21:11 [Reply]
咋の神

大山咋尊 日吉大社 松尾大社
天咋見命
津咋見命 天日鷲命の御子にして一名津鷲見命と申すとも云い又は天太玉命と同神なりとも云う。

裳咋臣船主 裳咋(もくひ)神社昔、この辺りは大沼を取り囲む水田がある。

咋岡神社 飯岡の北境、宮ケ森に鎮座。永享年間、洪水の爲め被害あり、この地囲に濠をめぐらし土塁の跡が周囲の森林の中に残る。

 三島溝咋耳命については、田圃の草取りをイメージする神名解読が一般的です。鳥に例えた鴨の姿を思い描くのでしょう。
 
 たしかに、「咋」の字については、溝であろうかなかろうか、水なり田にゆかりがありそうにも見えます。掘ると云う共通項があるのでしょう。

 大山咋の場合は金属の発掘とされていますので、三島溝咋耳命も、おっしゃる通り鍛冶屋さんか製鉄・製銅の仕業の奉じる神と見てもいいのでしょう。銅鐸の鋳型が出土した東奈良遺跡に近いのも傍証となるのでしょう。

[11066] Re[11065]: 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  琉球松 2012/03/18(Sun) 11:16 [Reply]
 そもそも「溝咋(みぞくい)」の原義はなんなんでしょうか?

 文字どうりの意味なら楽勝なんですけど、「媛蹈鞴」は「ホトタタラ」でもあるわけですから、溶鉱炉のホド穴から銅鏡が出産されるとの解釈も可能でしょうかね。

 とすると、「溝咋」は、土木業者というよりも鍛冶屋さんのイメージに近くなるんですけどどうでしょうか。中国製の鏡を型取りして勝手にコーピー品を造ったとか(笑)。

[11065] 茨木市・五十鈴町の「溝昨神社」に伝わる「暁の御鏡」(二神二獣鏡)  そ(八筒光) [Url] 2012/03/15(Thu) 21:36 [Reply]
カムヤマノイワレビコ命(神武天皇)の皇后と伝わる「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」とその母君「三島溝咋玉櫛媛」を祀る「溝咋(みぞくい)神社」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%92%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(http://kamnavi.jp/en/settu/mizokui.htm)

その溝咋神社に伝わる隅田八幡鏡に匹敵する位の歴史的価値の重い社宝「「暁の御鏡」(二神二獣鏡)の紹介がこちらhttp://www.geocities.jp/mizokuijinja/sub2.html
(以下、引用)

■暁の鏡 (中国の漢の時代につくられたもの)

第五十一代平城天皇の皇子阿保親王の位田が当地方にあり、第五十三代淳和天皇の天長元年(西暦824年)の夏、ひどいひでりにあい人々が苦しんだ。親王が天皇にお願いして鏡をたまわり当神社の神前にて祈れば大雨が降り人々が大いに喜んだ。親王はこのことを天皇に申し上げたところ、天皇はその鏡に溝咋大神と書かれ当神社に与えられたと伝えられている。
なおこの鏡は中国の漢の時代につくられたもので青銅製二神二獣鏡、漢の騶(すう)氏が五穀がみのるのを祈ってつくったものである。」

なお、茨木市には宇野辺周辺での「雨乞い神事(つい最近になって町おこしのために復活したそうな)」や竜王山・宝池寺の「八大龍王」伝説など(弁天宗・冥応寺(茨木弁天)など)雨乞い伝承話が多いのですがなんと神鏡だけでなく「水天像」も相伝されているらしいのです(http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060512-01.html)ひょっとしたら南側の「星見町」の旧「天満宮」に祀られていたのかもしれません(江戸地方では陰陽五行説で北の「水」の方角から水天を祀る(水天宮など)神社が多かったがそれが「妙見」と間違われていたらしく・・・)

またこちらにはそれに関するこんな伝承話が(溝咋村の民話・伝説)
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/sub2-1.html#mizominwa

かつてこちらの祭礼の渡御は高槻市・三島江の「三島鴨神社」(http://kamnavi.jp/en/settu/misimakamo.htm)(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%B4%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/)まで行われていたとのこと。
この三島鴨神社は「加茂氏」などの伝承が残り「大山祇神」を日本国内で初めてまつりあの「饒速日命」が一時的に逗留していた伝承を持つ地域。
(かつてこちらには「妙見宮」があったとのこと(http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/kanko/database/rekishi/1327367980823.html)

さらに気になるのは先述の溝咋神社の五十鈴町の南側には「星見町」と言う地名がありここにはかつて天満神社があったがこちらの溝咋神社に合祀されたとの事。

茨木市の壮大で奥深い古代史ロマンに打たれた方は是非とも大田茶臼山古墳めぐりついでに阪急茨木市から徒歩15分ほどで安威川へ五十鈴町へ歩けばすぐなので是非とも参詣をお勧めします。

[11064] 住吉セミナー  神奈備 2012/03/15(Thu) 11:57 [Reply]
 住吉セミナー188回

平成24年3月19日(月)
14時半から16時
古代の大阪湾に来ていたもの
ーウミガメの上陸・産卵の文化史
神戸大学 坂江渉先生
住吉大社吉祥殿
資料代 たぶん200円


[11063] Re[11061][11059]: 春日大社の摂社の紀伊神社  神奈備 2012/03/14(Wed) 15:21 [Reply]
 『豊後国風土記』に、「豊前の仲津郡の中臣の村」と云う字句が出てきます。平安時代の『和名抄』にも、仲津郡に中臣郷が記載されています。宇佐地方と中臣とは由縁があったのでしょう。

 『日本書記』に、天種子が登場しますが、いっこうに活躍はしていません。しかし、垂仁・景行・仲哀紀には中臣が登場していますし、天岩戸のシーンにも出てきます。不比等としては、「悠久の昔から天皇家を支えた氏族であるぞよ。」としたかったのでしょう。そういう意味では神武の宇佐伝承に繰り込ませたのかもしれませんね。

 天種子そのものは、『平成祭CD』によりますと、埼玉・千葉から滋賀・京都、鳥取、四国、福岡・大分を合わせて26社も祭られています。中臣氏の祖神としての伝承があったのでしょう。

[11062] Re[11060]: 「鞍馬山魔王尊・大地の「気」を「金星」から」の意味とは・・・  神奈備 2012/03/14(Wed) 15:20 [Reply]
> これもまた余談ですがそういえば本堂前にある一時期話題になった「金剛床」、神奈備さまはおたちになった事はありましたでしょうか。

 小生は「波動」を感じない人ですので、見るだけです。

[11061] Re[11059]: 春日大社の摂社の紀伊神社  多美 2012/03/14(Wed) 09:50 [Reply]
天種子命 あめのたねこのみこと

「日本書紀」にみえる豪族。
天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫。中臣(なかとみ)氏の遠祖。神武天皇の東征に従軍し,筑紫(つくし)の宇佐(うさ)で菟狭津媛(うさつひめ)と結婚したという

古事記に書かれていないということは、不比等の陰謀でしょうか?

[11060] 「鞍馬山魔王尊・大地の「気」を「金星」から」の意味とは・・・  そ(八筒光) [Url] 2012/03/12(Mon) 22:04 [Reply]
神奈備さまがずっと前にこちらでこの様な事をおっしゃられていたのをおぼえていますか。(http://kamnavi.jp/yamasiro/kurama.htm)

(「歴史」の項目中に・・・)
 「この山は2億数千年前〜7千万年前の地質で成り立ち、素晴らしい波動を発している霊山だと言う。その霊山の波動を護法魔王尊としたのであろう。大地の「気」を「金星」からとの発想は何だろう。地球とともに惑星の仲間と判っていたのかも知れない。」の「大地の「気」を「金星」からとの発想は何だろう」の意味が以下のリンクから情報を得ました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yhwh_lucifer/937281.html

こちらの情報によると先代の管長睨下が「先代の貫主・信楽香雲が神智学の影響を受け・・・」との事で西洋宗教の教えが「和洋折衷」の意味で仏教と融合し鞍馬山魔王尊の教義に繋がったのではないか、との見識が見られます。

大阪市の北区・真言宗の「太融寺」の本堂「大悲殿」には千手観音・毘沙門天に「地蔵菩薩」の三体が本尊・脇仏として祭られています。

鞍馬寺では「地蔵菩薩」を置き換えて「鞍馬山魔王尊」としているのは「大地のエネルギー」(地)を(蔵)しているという意味では地蔵菩薩と本地垂迹の関係に当たるのかもしれません。

余談ですが吉野・金峯山寺の「三位一体金剛蔵王大権現」は「(千手)過去・(釈迦)現在・(弥勒)未来」の三世を表していますがその本地垂迹の関係には「大日如来・地蔵菩薩」と寺側が教えてくれました。これは「天と地」を意味します。

つまり「大地の「気」を「金星」からとの発想は何だろう」とは魔王尊が金星からその偉大な力を地球上に「神降ろし」した「ルシファー」降臨の伝承に似通ったところがあるのかもしれません。

これもまた余談ですがそういえば本堂前にある一時期話題になった「金剛床」、神奈備さまはおたちになった事はありましたでしょうか。

[11059] 春日大社の摂社の紀伊神社  神奈備 2012/03/12(Mon) 21:18 [Reply]
 五十猛神を祀るとされる韓国宇豆峯神社については、『式内社調査報告』には、祭神として天児屋根命も一つの説としてあるとしています。中臣氏の祖神の天児屋根命の孫の天種子命は、神武東征の途中、宇佐にて在地の豪族菟狭津媛を娶った豊前仲津郡中臣郷出身であったとする太田亮の説をあげて、『景行紀』の熊襲征伐ではこの中臣氏一統の援助が功を奏したと考えるのは、直入中臣神を祀っており、当検校川畔に中臣神が祀られても不思議ではないとしています。また中臣氏は播磨国揖保郡で中臣印達神社の例を見るように五十猛神を祀る例があります。

 紀伊では、伊太祁曾・大屋都比賣・都麻都比賣の三神を分遷しており、これは藤原不比等の紀氏への牽制かとも思われます。

 春日大社の摂社に紀伊神社があり、五十猛・大屋都比賣・都麻都比賣の三神を祀っているのも、その一環だと思われます。

[11058] Re[11057][11056][11055][11054][11052]: 淡路と淡海  多美 2012/03/09(Fri) 18:01 [Reply]
「神々の系図」川口謙二によれば、

『日本書紀』には、この後、伊邪邦岐神は神功を終り幽宮を淡路国に建てて隠れ給うたと書かれている。これにしたがって淡路島には伊弉諾神社(旧官幣大社)が建てられている。またこの神の座を近江国・多賀神社としている説もあり、伊邪邦美神についても、神陵の地を紀伊国熊野有馬村にあるとする説、『古事記』の出雲と伯耆の国境にある比婆山に葬ったとする説などあって、この二神の崇敬の拡散が知られる。

古事記と日本書紀の記述の違いは、良くある話ではないでしょうか、

とすれば、二説あってもおかしくないのでは?

川口謙二「神々の系図」は、いつも参考にしています、

本筋(伊勢系?)は淡路、亜流?が淡海、

国生み神話でしょうから。

[11057] Re[11056][11055][11054][11052]: 淡路と淡海  琉球松 2012/03/09(Fri) 12:06 [Reply]
 もともとは淡路島のローカル神だったとの説が正しければ、近畿地方全域に広がっていた信仰が、伊勢湾経由でもたらされたと推測はできないでしょうか。
 多賀大社の近くには「猿田彦」を祀る社もあるようですから、伊勢や熊野からの流入と見たほうが妥当な気がします。

 「多賀」が「オオガ」と読む時代があったとすれば、海人地名「オヲ」でしょうから、淡路説?優位になるんですけども、そういう記録も見当たらないですね。

[11056] Re[11055][11054][11052]: 淡路と淡海  多美 2012/03/09(Fri) 09:34 [Reply]
>、実在するから記述したと考えていいのではないでしょうか。

「淡路の多賀」「淡海の多賀」双方「多賀」、

何だかややこしいですね、

鎌田純一氏は、1923年大阪生まれ、國學院大學日本文化財研究員、皇學館大学教

授を経て、宮内庁掌典、現在は宮内庁侍従職御用掛、皇學館大学名誉教授。とありま

す、以下の発言
 
>これのどちらが正しいということは、近江の多賀大社と淡路の伊弉諾神宮、両者の

争いになるので私には言えません。

この発言から、判断すれば、鎌田純一氏は、どちらが正しいか、知っている、と、思

われます、

てっきり、淡路が正しいと思いましたが、実在するから記述したとなれば、一体、ど

うなっているのでしょうか?

この問題を研究または追求している人が、いるのでしょうか?

両神社は、今は、共存共栄のようですが、かつて、どうなっていたのでしょうか?

大スターになった天照大神の生み親は、糟糠の妻と同じように軽んじられたのでしょ

うか。



[11055] Re[11054][11052]: 淡路と淡海  神奈備 2012/03/08(Thu) 19:16 [Reply]
 『古事記』に記載があるから、淡海の多賀に伊弉諾命を祀る神社を建立したのか、または淡海の多賀に神社があるから、『古事記』に採録されたのか、5対95位で、実在するから記述したと考えていいのではないでしょうか。
 5分の点は、『続日本紀』の次の記事によります。「慶雲二年(705)八咫烏の社を大和国宇太郡に置いて祭らせたとあります。」神武天皇の熊野山中越えの説話があり、八咫烏がいたんだよとの証拠として八咫烏神社を置いたようです。

[11054] Re[11052]: 淡路と淡海  琉球松 2012/03/08(Thu) 09:14 [Reply]
 多美さんへ 

 これは「淡路(伊弉諾神宮)」のほうに分があるんじゃないでしょうか。

 松前健著書『日本の神々/中公新書 1974 』より
***この二神(イザナギ・イザナミ)が、皇祖神アマテラスの親神とされ、高天原パンテオンの上席に位置を占めるに至る前は、単に淡路島を中心とする漁民集団「海人(アマ)」の奉じる一地方神であったらしいことは、つとに証せられている。『延喜神名式』に淡路国津名郡淡路伊佐奈伎神社とあるのがそれである。(略)
 こうしたイザナギの分布は、おそらく海人が持ち運んだからであろう。海から離れた山地にも、古く海人が移住した痕跡があり、二尊の崇拝もおそらく彼らの移動と関係がある。***

[11053] Re[11051]: 一度は行きたい神社25選  神奈備 2012/03/07(Wed) 17:12 [Reply]
 どんたくさん、興味深い神社のご紹介、ありがとうございます。

> (6)日光東照宮
> (7)明治神宮
> (8)鶴岡八幡宮
は未だ参詣していません。

(9)白山比盗_社
は白山頂上の奥宮のみ。

 一社一社を思い起こしますと、それぞれ独特の魅力を持った良い神社だと感じます。早朝の春日大社のすがすがしさ、夏の日の出羽三山神社の上り坂の森、日吉大社の磐座、何回参詣しても楽しい熊野本宮大社、信仰とは違う穏やかさにふれる思いでした。

 松尾大社の磐座、葛城一言主神社の銀杏、高鴨神社のカンナリの音、丹生都比売神社の美しい社殿、霧島神宮、枚聞神社・・ 私にはとうてい神社は選べないと思いました。

[11052] 淡路と淡海  多美 2012/03/07(Wed) 13:04 [Reply]
淡海(多賀大社)と淡路(伊弉諾神宮)

上田正昭

 これに対して『古事記』は、一番古いもので応安の四、五年(1371、2年)

ですから、南北朝ですね。それが真福寺(しんぷくじ)本といわれる名古屋の真福

寺に残っている僧賢瑜(けんゆ)書写の最古の写本です。もちろんそれ以前の写本

もあったに違いないし、真福寺本の奥書を見ても、その前に写本があったことは確

かだと思われるのですが、残っていません。
 
その次に古いのが道果本と呼ばれるものです。道果という人が真福寺本の十年後に

写したもの(上巻のみ)ですが、これも非常に貴重なのです。

 例えばイザナギノミコト、これは国生み神話で重要な神さまですが、この神さま

がどこに鎮まり坐すかというと、「淡海の多賀に坐す」と真福寺本に書いてある。

ところが道果本には「淡路」と書いてある。

〜略〜

鎌田純一

 先ほど言われた『古事記』では写本によって「淡海の多賀に坐す」と「淡路の多

賀に坐す」という違いがあるように、『古事記』『先代旧事本紀』の写本は、揃っ

て伊勢本系とト部本系とに分かれています。伊勢本系の方は、「淡路の多賀に坐

す」で、ト部本系の方は、「淡海の多賀に坐す」となっているのです。
 
これのどちらが正しいということは、近江の多賀大社と淡路の伊弉諾神宮、両者の

争いになるので私には言えません。

〜略〜      (日本の神々『先代旧事本紀』の復権 より)

※写本の誤写ということのようですが、鎌田純一氏は、どうやら、「淡路」の方が

正しいと言っているようです、鎌田純一氏の立場は皇室伊勢系のようですので、
 
どっちが正しいと言っても、原本がないので、どうにもならないイザナギの

キ○○マですね。

 日本書記の方では「淡路」らしいですね。

神奈備さんは、ちょっと皮肉をコメントしています、

弦松子さんは、あえて、触れていないようです。


[11051] 一度は行きたい神社25選  どんたく 2012/03/06(Tue) 20:44 [Reply]
みなさん、こんにちは。 どんたく と申します。

今日、本屋で次のような本を見つけて買いました。

『入門 日本の神様』洋泉社MOOK 2012年2月16日初版 2012年4月3日第3刷 \880

この中に、「一生に一度は行きたい神社25選」として、次の神社の名前があがっていました。

私の場合はこれらのうち約2/3程度しか参拝しておりませんが、ここの常連の方々は、ほとんど全部の神社を回っておられるのでしょうね。

(1)伊勢神宮
(2)出雲大社
(3)出羽三山神社
(4)鹿島神宮
(5)香取神宮
(6)日光東照宮
(7)明治神宮
(8)鶴岡八幡宮
(9)白山比盗_社
(10)諏訪大社
(11)日吉大社
(12)熱田神宮
(13)伏見稲荷大社
(14)八坂神社
(15)北野天満宮
(16)住吉大社
(17)春日大社
(18)石上神宮
(19)大神神社
(20)熊野本宮大社
(21)厳島神社
(22)金刀比羅宮
(23)太宰府天満宮
(24)高千穂神社
(25)八幡総本宮宇佐神宮



[11050] 「役行者と前鬼と後鬼」の伝承話  そ(八筒光) [Url] 2012/03/05(Mon) 19:25 [Reply]
吉野山・金峯山寺にて去る2月上旬の「節分会「鬼火の祭典」」はすでに終わりましたが今度、その金峯山寺にて今月下旬から毎年一定期に公開されることになった蔵王権現秘仏開帳に関連して修験道の開祖・役行者に法力によって屈服されて以来、随従するようになったと言う「前鬼・後鬼」のお話。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/ikoma-oni-ennogyouja.html
                                            
私はとあるお方のお話から「熊野権現か吉野・大峯に役行者を慕う修験者の講社組織か氏子の方々の一部に「九鬼」氏を名乗る方がおいででその方は前鬼か後鬼の末裔であることに誇りを持ち今日も役行者に仕えている氏族に誇りを持っている・・・」と言うような信じられないような伝承話を聞いたことがあります。

ちなみに学研ムーブックスシリーズ「消された物部氏・天津甕星の謎」にはヤマト朝廷によって歪められた星神が「鬼・河童・天狗・案山子」などに変えられた旨の興味深い(星神さまには失礼で恐縮なのですが・・・)記述がありました。

私が考えるに前鬼は青鬼で後鬼は赤鬼(或いはその逆?)で好対照なのではなかろうかとも思います。その根拠は「前鬼」は大峯奥掛修行で吉野側から熊野側へ分け入る所謂「順峯」で行者を守護し北方からなので陰陽五行説で「水」を意味するから青鬼で、一方「後鬼」は同じく奥掛け修行で逆に熊野から吉野へと分け入る「逆峯」において熊野側で行者を守護する目的を持ち南方は陰陽五行説で鳳凰の「赤」(ヤタガラス伝承など)だから「赤鬼」と比例しているのではなかろうかとも思われるのですがあさはかな考えでしょうか。

もう一つ、金峯山寺での「鬼火の祭典」では豆まきの際に「福は内、鬼は外」が一般的ですがここでは「福は内、鬼も内」と逆に歓迎されている風習は特筆すべきものがあります。そこには前述の伝承話が庶民に息づいている証拠なのかもしれませんね。

また「前鬼・後鬼」などを従えた「役行者」像を時々、洞川龍泉寺などの修験系寺院で見かけることもありますが、気のせいかこちらの「妙見三尊像」の「抱罫童子・示罫次郎・妙見菩薩」に似通ったところがあるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30181010.html

まるで斧などを持つ「役行者・前鬼・後鬼」を彷彿とさせるとは想像できませんでしょうか。またついでに考えられる事に「月・星・日」とも好対照とも考えられないでしょうか。

[11049] 『阿倍野王子物語』から。  神奈備 2012/03/03(Sat) 15:48 [Reply]
 今日、市立中央図書館で見つけた本。

 阿倍王子神社は、熊野詣での道筋の九十九王子社の一社でした。近所の晴明神社の社家の保田家が神職を努めていましたが、幕末に保田家が没落してしまいました。明治維新後、神社を登録する際、村人は四天王寺七社の一である大江神社に相談した所、とりあえず大江神社の社名を借りることになり、明治五年に大江(王江)神社として登録しました。

 明治40年1月に勅令が出て、独立神社には社掌一名を置き、村社維持金として6000円積み立てること、境内地は160坪以上に限るとの規則でした。村は窮地に陥り、大いに悩んだそうです。明治40年6月に神社合併の話が出たので、合併を決めました。あいては、東区安土町の男山八幡神社でした。40年10月14日、村をあげて遷座式を行ったようです。男山八幡神社の社殿・末社・石燈籠・手水鉢・神輿などを大八車にのせて運び、財産とすることができました。
 翌41年大江八幡神社と改称しました。
 合祀以後、当社は熊野王子社であり、『明月記』の「後鳥羽院熊野御幸記」に、阿倍野王子としていることがわかり、明治44年9月に社号復旧の許可を得ました。

 阿倍晴明に関わる葛葉稲荷神社(信太森神社)の建物は、男山八幡神社の本殿が使用されているとのこと。

 以上が図書館で見た長谷川靖高著『阿倍王子物語』の概要。
 大江神社と称したことがあり、男山八幡神社の合祀先の大江神社とは阿倍王子神社のことだったのでしょう。

[11048] 『大阪府全志』  神奈備 2012/03/02(Fri) 12:20 [Reply]
 『大阪の神社関係記事 明治三九−四一年』と言う小冊子が関西大学から出版されています。同じ内容のHPもアップされています。
http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/naniwa/publication.html
 この時期は神社合祀が行われた時期です。

明治40年9月15日の大阪毎日新聞の記事の要旨。

 大阪府においては、三九年八月の勅令に基づき、府下における神社の合併整理を行い、一年間の所得財産300円(大阪市内400円)に達せざる神社は、断然他社と合併せしめ居れるが、整理著しく進捗して云々・・。

 とでています。

これに関連する話を、猪飼野の郷土史家の足代健二郎さんから聞きましたので紹介します。

 大阪市の御堂筋に北御堂、西本願寺の津村別院と言います。御堂筋の向かい付近に、山城国石清水八幡宮の神官が別宅を持って布教していました。その家のうちに祀られていたのが、男山八幡神社でした。近隣の方もお詣りしていたようです。この神社が合併されて現存していません。

 『大阪府全志』
 阿倍王子神社の項に、明治40年8月1日、男山八幡神社を合祀したと書かれています。
 また、大江神社の項にも、明治40年9月18日に男山八幡神社を合祀したとあります。

 同じ神社が二つの神社に合祀されたとの記事です。現在、合祀の痕跡が残っているのは阿部王子神社で、祭神の中に、合祀 品陀別命 とありますが、大江神社には八幡さんの気配はなさそうです。
 
 どちらかが間違いなのか、両方とも正しいのか、よくわかりませんが、大きい神社としましては、氏子の取り合いの意味もあったのでしょう。小さい神社は引っ張りだこだったのですね。

[11047] Re[11046]: 伊福部  神奈備 2012/02/28(Tue) 09:08 [Reply]
 宇部神社をサイトにアップしましたが、この社が伊福部氏の祖神を祀る神社であったようです。今は武内宿禰を祀っています。
 伊吹山の神も伊福部氏が祀っていたとしますと、往古は日本武尊のお話に見えるように、ヤマト王権とは敵対していたのでしょう。銅鐸が記紀に登場してこないのも、そのような関連だったのかも。

[11046] 伊福部  多美 2012/02/27(Mon) 19:30 [Reply]
青銅の神の足跡は、吉川英治の長編小説のように登場人物が、多いです、

ただし、青銅の方は、根拠の資料があり、それを基に推測、小説的、

とにかく、理解するのに、大変時間を要す?

伊福部昭は、「ゴジラ」東宝映画音楽担当、末裔らしい、

早坂文雄(「七人の侍」音楽担当、同年交流があったようです、

今、青銅から音楽に変わったのでしょうか?

五百旗頭は、伊福部の同族とか、

今、震災復興関係の頭目のようです、

一年前に、青銅を読んでいれば、読みも判った、残念(笑)、

伊福部は、日本海の方が本拠のようですが、

大陸から直接、渡来したのでしょうか?

[11045] Re[11044][11043]: 鬼に舌を抜かれる話5  神奈備 2012/02/22(Wed) 21:06 [Reply]
>「オニ」よりも「モノ」のほうが古いように思えますがどうでしょうか。

 『古事記』には、鬼、と言う字は出てきません。

 『日本書記』では、イザナギがイザナミの死体を見た後で逃げる際、桃をなげています。このシーンで「此用桃避鬼之縁也」とあります。
 また、天孫降臨の際に、「吾欲令撥平葦原中國之邪鬼」とあります。

 これから、「オニ」が「モノ」より古いとは言いにくいでしょうが、そのような気がします。

 いずれにしても、オニやモノは国津神のようで、征服される側に属しているようです。



鬼に舌を抜かれる話6

 牛祭祭文をアップしておきます。 川村湊著『闇の摩多羅神』から。

 牛に乗った摩咤羅神が読み上げる「牛祭祭文」 の最初は、日本中のありとあらゆる神々の勧請である。もちろん、それは滑稽味のある、ふざけた神々への招碍状だ。こんな具合である。
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  謹請再拝(きんじやうさいはい)、謹で啓(まふ)す。維南瞻部洲(これなんせんぶしう)大日本国、応永九年無射(きくづき)十二の天(そら)、朝日の豊登り、夕日の豊降ります中に、銀(しろがね)に花栄え、金(こがね)に実結び、天門開き開(あ)けて、地戸和合したる今夜(こよひ)、当寺の当僧四番大衆等、誠を二花の嶺よりも高くし、志を五葉の底よりも深くして、恒例不闕の勤として、摩叱羅神を敬祭し奉る事あり。神明を祭るは招福の計ごと、霊鬼を敬ふは除災の基なり。上は梵天・帝釈・四大天王・日月・五星・廿八宿・七曜・三辰・九禽、下は炎魔王界・五道の大神・泰山府君・天左宇・司命・司禄、別しては当所鎮守三十人所、五所護法・離来天神部類眷属、総ては日本国中の大小の祀神、田中にはあらね共稲積、片山にはあらね共榎本(ゑがもと)・椙本(すがもと)・木枯(こがらし)・藤杜(ふじもり)、嵯峨の奥なる一挙(ひとこぶし) 打れては、軈(やか)てうさい辻々の道祖神、家々の大黒天神の袋持に至るまで、驚かし言(まふ)して曰(まふ)、夫れ以(おもんみ)れば、性を乾坤の気にうけ、徳を陰陽の間に保ち、信を専にして仏に仕へ、慎を致して神を敬ひ、天尊地卑の礼を知り、是非得失の科を弁ふる、これ偏へに神明の広恩なり。茲(ここ)に因つて単微の幣吊を捧げて、敬みて以つて摩叱羅神に奉上す。豈神の恩を蒙らざるべけんや。茲に因て四番大衆等、一心の懇切を抽でゝ十列の儀式を学び、万人の逸興を催すを以て自ら神明の法楽に備へ、諸衆の感嘆を成すを以て、暗に神の納受を知らんとなり。然る間に柊槌頭(さいづちあたま)に木冠を戴き、鍬平足(くはひらあし)に旧鼻(ふるぴ)高(かう)を絡げつけ、鍼牛(からげうし)に荷鞍を置き、痩馬に鈴を付けて馳るもあり。踊るもあり。或は鞍爪に大[門構えに由](おほつむ)を詰めてにがみ、或は荷鞍に尻瘡摺剥いて悲しむもあり。企は誠に十列の風流に似たりと雄ども、体はたゞ百鬼夜行に異ならず。此の如き等の振舞を以て、摩咤羅神を敬祭し奉る事、偏へに天下安穏寺家泰平の為なり。之に因て長く遠く払ひ退くべきものあり。先づ三面の僧坊の中に忍び入りて、物取る世(せ)古(こ)盗人(ぬすびと)め、奇怪すわいふわいや小童ども、本木のなり物取れとて明障子打壊る骨なさ法師頭も危は覚る。扨(さてか)はあた腹・頓病・風咳嗽・疔瘡・癰瘡・[門構えに由]風、ことに尻瘡・虫瘡・膿瘡・あふみ瘡・冬に向へる大胝(あかがり)、並びに胼(ひび)・咳病・鼻たり・瘧心地・択食(つはり)・伝死病、しかのみならず鐘楼・法華堂のかはつるみ、讒言・仲人・闘諍合(いさかひあい)の中間口、貧苦男の入たけり、無能女の隣ありき、又は堂塔の檜皮(ひはだ)喫ひ貫く大鳥・小烏め、聖教破る大鼠・小鼠め、田の畔(あぜ)穿(うが)つ土豹(むぐらもち)、此の如き異類異形、不道無懺の奴原に於ては、長く遠く根の国底の国まで払ひ退くべきものなり。
 右九月十二日太秦広隆寺牛祭祭文なり。
悪心院源信僧都
応永九年九月十二日夕日書レ之(傍点等は原文のママ)1402年
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[11044] Re[11043]: 鬼に舌を抜かれる話5  琉球松 2012/02/22(Wed) 11:42 [Reply]
 「オニ」よりも「モノ」のほうが古いように思えますがどうでしょうか。

 どちらも頼りがいのある神?なんでしょうけど、敵にまわすと恐ろしいですよね。首を落しても抹殺できないし、祟りは面倒ですから大事にしないといけません。

 これらの「オニ・モノ」の話は出雲的な印象を持ちますね。沖縄島の来訪神「キミマモン(君真モノ)」と「大己貴命・少彦名命」もどこかで繋がっているように思います。

[11043] 鬼に舌を抜かれる話5  神奈備 2012/02/21(Tue) 16:24 [Reply]
邪鬼を払う。
 世阿弥が『風姿花伝』の中で、「祇園精舎に見立てる伽藍の背戸にあたる「御後戸」にて、外道(邪鬼)祓いのために、鼓・笛・唱歌で、六十六番の物まね(猿楽)をしたのが能の起源であると言っています。
 平泉の毛越寺では、本尊を後戸で守護する摩多羅神の祭りがある。翁装束の者が秘文を唱えます。
 摩多羅神の祭りで有名なのは太秦の広隆寺の大酒神社の牛祭りです。インド伝来の神と言われる摩多羅神が、赤鬼・青鬼を従えて牛に乗って拝殿まで来て、祭文を読み上げるのです。祭文では、疫病神を追い払い、自身が病に効く神であり、悪行や非行にも効用がある等の内容を言うのです。平成十二年を最後に行われていません。牛の調達や気分によるそうです。

 摩多羅神は表で祀られる神ではなく、一種の地主神のように、背後・辺境にいて、表の神々を守護する神です。延暦寺の常行堂、四天王寺の引声堂の後戸などが有名です。。
 家康を祭る日光東照宮では、家康の隣に祭られています。真如堂には像があるそうです。

 春日大社(雷神)の後戸の神は、奈良坂に鎮座する奈良坂春日社と呼ばれる奈良豆比古神社の神々とされています。そうして、奈良豆比古神の後戸の神として、境内に石瓶神社が鎮座、ご神体は石神。シャクジ、宿神であり、また客神とされています。本来の神が客神の地位に落とされている例は多いのです。東京の神田神社は平将門が祭神でしたが、明治天皇が参詣することになって急遽大己貴命・少彦名命を主祭神として、将門を隠したと言います。

 山門比叡山に対して寺門園城寺が近江に鎮座。ここの地主神は新羅明神です。円珍が唐より帰朝
時、出現。神性雄健(タケキ)とされます。素盞嗚尊とも五十猛ともされています。牛頭天王の素盞嗚尊のように、五十猛神も仏法の守護神となったのです。

[11042] Re[11040]: 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/20(Mon) 12:00 [Reply]
> 「オニ」の語源が「オン(隠)」とする説が正しければ、地中や川底に潜む?銅鐸を原義とするかもしれません。

 鬼はモノと発音されていたようで、悪の雰囲気はなかったのでしょう。大物主も祟るカミだからこそ畏怖されたので、本来は託宣する神だったのでは。

 卑弥呼の鬼道ですが、古代中国での鬼道について、福永光司著『「馬」の文化と「船」の文化』では、(1)祈祷、(2)祭祀、(3)禁呪、(4)祝詞、(5)護符、(6)憑依、(7)神託・託宣 の七つとしています。卑弥呼の周辺にいた多くの女の中には、後漢や魏の国でおこなわれていたであろう医薬などの知識を持った者が混ざっていて補佐していたのかも。

[11041] Re[11039]: -吉備と鉄  神奈備 2012/02/20(Mon) 11:57 [Reply]
> 吉備には加夜、賀陽とかいう地名が多く韓半島南部の伽耶との関係が深そう。

総社市福谷に姫社神社ひめこそ)が鎮座しています。

http://kamnavi.jp/ym/hiboko/kibihime.htm

 比売許曽神は大分の姫島と難波のがよく知られていますが、吉備にもありまして、境内には、「古代吉備之国発祥之地」と「古代吉備之国波多波良更郷鉄造之神社」の碑が立っています。備中国下道郡の秦原郷に鎮座と言うことで、吉備の鉄は渡来系の秦氏のグループが関与しているようです。

[11040] Re[11038][11037][11036][11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  琉球松 2012/02/19(Sun) 11:24 [Reply]
 オボレダレン(ありがとうございます・徳之島方言)

 『茨木童子』の話、これも面白いですね。
 『生まれた時には歯がはえ揃って、すぐに歩き始めた」との比喩は、鬼の優秀さの表現かもしれませんし、「血の味を知った童子は、その味が忘れられない。その後、わざと客に傷つけて舐めるようになってしまった」部分は、徳之島の『秋利神の鬼』と通ずるものがあります。

 ところで、「オニ」の語源が「オン(隠)」とする説が正しければ、地中や川底に潜む?銅鐸を原義とするかもしれません。銅鐸はもともと善なる農耕神だったでしょうけど、土地や水源などの所有意識の発生と金属製武器の発達によって "鬼" に転じた可能性もあるでしょうか。

 琉球圏では、鬼は抹殺の対象ではなく、その角(暴力)の部分を撤去して善なる者に再生するような思想があります。銅鐸神を再生し、誰も所有できない太陽を中心に据えたのも、「ワ」の思想を東に拡大するための戦略でしょうかね。

[11039] -吉備と鉄  とみた 2012/02/19(Sun) 08:54 [Reply]
神奈備さん いつも面白いお話ありがとうございます。

弥生時代後期ー終末期の吉備は5万戸を擁する投馬国かもしれない。

上東遺跡は波止場。吉備は伽耶とのつながりが深い。古墳時代に入った造山古墳は伽耶郡にある。伽耶には鉄技術を持った工人が居たのでしょう。その勢力が入植したのか、交易したのでしょう。

吉備には加夜、賀陽とかいう地名が多く韓半島南部の伽耶との関係が深そう。

吉備の備前は鉄がとれたが鉄の多い北部に狙いを定めて大和王権が白猪屯倉を置き鉄を奪いにかかった。備前北部を割いて美作郡と成し地元豪族の和気氏を朝廷側に組み込んだ。

サイコロで勝利した老人は金山彦神なんですね。
先年、吉備をサイクリングで旅したとき吉備津彦神社の前で偶々、呼びかけていただいた人が有木さんと仰せで美作神社の神職の方でした。中山神社は美作一之宮神社とのこと。

この辺がすっきりしません。吉備津神社の方に自転車を進める途中の道で、鼻ぐり地区がありここが有木氏の本拠、一軒の家の前で老人が出て居られて、解説を頂きました。近くに古代の磐座がありそこに太陽光が差し込み古代古墳があるとのことでした。吉備の中山の磐座なんでしょうか。隣の山が茶臼山で中山と複峰を成す。

山と山の間の谷に磐座があり環状列石もある。そこには高麗朝鮮人参が作られていた。

[11038] Re[11037][11036][11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/17(Fri) 15:41 [Reply]
>  全国に分布する鬼の説話は、だいたい金属と関わりがあるようです。
>  で、興味深いのは、これらの鬼は元々は善なる者だったということですね。何らかのキッカケで人食い鬼に転ずる。。。徳之島の類話では「やむなく指を食する」ことで鬼になってしまいます。

 神奈備とは神が隠れる所と言う意味があります。隠れている神を鬼と言ったのでしょう。
 そのイメージに良くあうのが、「角がある人」だったかも知れない天日槍、まさに金属神でもある鬼神。この神が皇室の祖先神の一柱。日槍は兵主神すなわち蚩尤とされており、鬼の原形のイメージです。

 皇室の歴史に神功皇后を経由して鬼の血がはいり、時々本性を現すようです。

 持統の大津殺し、井上皇后と皇太子を殺し、弟の早良皇子を殺した桓武、平安時代にはたくさんの鬼が出たのでしょう。

 自らが鬼の末裔であることを棚に上げて、各地の鬼や蝦夷を征服して来ました。


鬼に舌を抜かれる話5

茨木童子
 昔、水尾村のある農家に男の子(茨木童子)が生まれた。母の胎内に16ヶ月もいたので、生まれた時には歯がはえ揃っていたとか。すぐに歩き始めたという。
 父はある日、童子を籠に入れて九頭神(くずかみ)の森(現在の茨木高校付近)に捨てた。それを床屋の主人が拾いあげ、大切に育てた。床屋の手伝いをしていた童子がある日、客の顔を剃っていた時に、誤って客を傷つけてしまった。童子は吹き出した客の血をとって舐めた。

 血の味を知った童子は、その味が忘れられない。その後、わざと客に傷つけて舐めるようになってしまった。うす気味悪がった客は、店に来なくなり、床屋はさびれる一方と
なった。床屋の主人に厳しく小言を言われた童子は、ある日近くの小川の橋の上から川に映った自分の顔を見ると、それは鬼の形相をした自分の姿であった。

 その小川の橋は以来、茨木童子貌見橋(すがたみばし)と名づけられ、後の世まで語りつがれている。床屋と小川のあったといわれる所に、その橋の碑が立っている。

 童子は驚き店には戻らず、茨木の町をあとに丹波の山奥に行ってしまった。そして、大江山の酒呑(しゅてん)童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になったという。

 茨木は荊切と書かれた。『常陸国風土記』の茨城の郡の話にあるように、茨棘(うばら)を穴に仕込み、そこへ土蜘蛛を追い込んで殲滅したことが、摂津でも行われたのかも知れない。
 中臣鎌足が常陸出身との説がある。かれの墓は当初茨木の阿為山であった。茨木には新屋坐天照御魂神社が三座も鎮座している。式内社。雷神(鬼)を祀る。
http://kamnavi.jp/mn/osaka/niiya.htm

 一社は宿久庄に鎮座、平安時代には夙と呼ばれる地域であり、茨木童子の子孫をなのる賤民のの居住地であったと推測される。土蜘蛛の末裔だったのであろう。この辺りを通る西国街道は京に至って羅生門に到る。鬼に到る道である。

[11037] Re[11036][11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  琉球松 2012/02/16(Thu) 14:49 [Reply]
神奈備さん、ニーファイユー(ありがとうございます・石垣島方言)

 全国に分布する鬼の説話は、だいたい金属と関わりがあるようです。
 で、興味深いのは、これらの鬼は元々は善なる者だったということですね。何らかのキッカケで人食い鬼に転ずる。。。徳之島の類話では「やむなく指を食する」ことで鬼になってしまいます。
 また、姉妹が登場するアイヌの説話「オキクルミの妹」など兄弟姉妹の関係や、新潟県の「鬼が笑う」などのように観音様までが「ホト」をあらわにして難を逃れるなど、バラエティーに富んだ話が多いですね。

 沖縄島から問題にしたいのは、「羅刹女・鬼婆」など女性を悪と見る飛鳥仏教?との対立で、さらにご紹介した「鬼餅由来」に出てくる川や勾配の激しい地形など、イザナミ&イザナギが対立に至った経過などなんですよ。

 ご紹介の「生駒の鬼」も、暴力的な金属神に対して "役行者が説教" することで改悛。。。これは仏教勢力の影響もありそううですが、やはり "目" を問題にしたいですね。
 たぶん、神奈備さんの手元にもあるでしょう谷川健一さんの『青銅の神の足跡』。。。銅鐸や「倭国の乱」まで考えを広げると、鬼の正体がだんだん見えてきますね。

[11036] Re[11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/16(Thu) 11:03 [Reply]
琉球松さん、面白いお話のご紹介、ありがとうございます。

> 「私の身には口が二つあります。下の口はよく鬼を喰い、上の口はよく餅を喰うのです。」

 邪気を払うという役割が強烈なのでしょうね。


鬼に舌を抜かれる話4
生駒の鬼
 以下のお話は、若尾五雄『鬼伝説の研究』を参考にしました。

 大阪と奈良の境、生駒山域に鬼取山というところがあり、そこに人喰い鬼の話があります。
 昔、赤目、黄目という夫婦鬼がおり、始はおとなしかったがやがて人の子供を食べることをおぼえ、村々を荒らしまわったのです。村人がこの鬼退治を計画しましたが、髪切山(こうきりやま)まで行くと、雨が降り風が吹いて近寄れない。どうしても鬼退治ができないので、困っていました。そこへ、役行者が来て、鬼の子供をとらえ隠したところ、鬼が一生懸命で鬼の子を探したので、役行者がその鬼に、自分の困ることは人の困ることだと説教しますと、鬼は改悛したのです。
 この赤目が前鬼で、黄目が後鬼のこと。

 髪切山はテレビ塔の立っている近くで、入り口に八大竜王と書いてあり、境内に滝があり、この滝からは黄金が出ると言います。また金満大神というのが、その側に祀ってあります。金満大神とは役行者のことで、カネフキ大神と言います。

[11035] Re[11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  琉球松 2012/02/15(Wed) 11:38 [Reply]
 吉備津神社の祭神は「吉備津彦」となっていますが、一時期は「吉備武彦」とされた時代があったようですね。孝霊天皇の系統ではなく、景行系にすり替えた?時代でしょうか。

 鬼退治は孝霊の時代なんでしょうけど、沖縄の伝統思想は "鬼を退治するのは女性" ですから、何かウラがあるように思えます。

以下は、王朝時代の文献にも見える国家誕生に関わる沖縄島の説話「鬼餅由来」のご紹介・『球陽』より
*** 首里の金城村に兄と妹が住んでいた。兄の名は伝わらないが、妹は、一女がいて於太(オタ)といったから(その母という意味で)於太阿母(オタアム)とよばれた。はじめ一緒に住んでいた。その宅は、今は封じて小嶽となっている。後に兄は大里の岩窟に移り住み、人を殺してその肉を食うと噂された。村人たちは大里鬼とよんだ。ある日、妹は兄を問い詰めようして訪ねたが、兄は留守であった。しかし、竃の釜の中に人肉が煮えているのが見えた。妹が驚いて逃げ帰ろうとしたが、途中で兄に出会った。兄が言った。
 「お前、なぜそう急ぎ帰るのか。うまい肉がある。食べてもらおう。」
妹が答えた。
 「家に大事な用があります。」
兄はそれを無理やり引き止めた。妹は返す言葉もなくなり、一緒に兄の家に至った。しかしそこで、奇策を考え出し、懐に抱いていた子の腿を密かにつねって大泣きさせて、そして言った。
 「この子が便を下そうとしている。しばらくの間、窓の外へ出して下さいな」。
兄が言った。
 「(外ではなく)家の裏で便をさせても何の差し障りがあるか」。
妹が答えた。
 「家の裏では失礼になります」
と、強く請うて外に出た。
兄は小縄で妹の手を縛り、厠に行かせた。妹は縄を解いて外の木の枝にかけて、ひそかに逃げた。兄は妹がなかなか帰って来ないので怪しんで外へ出て見ると、逃亡していた。兄が北の山の端まで追いかけて見ると、早くも遠くまで逃げている。大声で
 「待て待て」
と叫んだ。妹は猛虎に追われたかのように、腹ばいになりながらも逃げ延びた。そのことに因んでその地(その時に渡った川)は“マテ川”と呼ばれる。またその坂を“生死坂(イキ・シニのヒラ)”という。
 その後、兄は首里に妹を訪ねてやって来た。妹は取り急ぎ、一計を案じた。兄を招いて崖の上に坐らせ、鉄餅七つ(これは糯米でモチを作り、中に鉄の玉を入れたものである)・蒜七根、自分が食べるための米餅七つ・蒜七根を作り、兄に鉄餅と蒜を与えた。鬼人は鉄餅を食おうとしても食うことが出来なかった。時に妹は、兄の前に前裾を開いて、箕踞(両足をなげ出して座ること)していた。兄が怪しんで問うた。妹は答えた。
 「私の身には口が二つあります。下の口はよく鬼を喰い、上の口はよく餅を喰うのです。」
と言って、自分の餅と蒜を食べてしまった。これを見た兄は、あわてふためいた。そのため足を踏み外し、崖下に転げ落ちて死んでしまった。
 この謂れによって、毎年十二月、必ず吉日を択び、国人皆が餅を作って食べ、鬼災を避けるのである(鬼餅の行事はここから始まったのである)。古くは内金城邑では、毎年十二月内に六回鬼餅を作り、神に献じて、後これを食べたが、今は、初庚と次の庚の日の二回となっている。松川地頭(地頭は官職名)は、与那覇堂の田米二斗五升を出し、それを根神人に与える。根神人は鬼モチを作り、小嶽に供祭する。***

[11034] 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/14(Tue) 11:52 [Reply]
桃太郎の鬼退治

鬼ヶ城(きのじょう)縁起
 阿曾郷の鬼ヶ城に温羅(ウラ)と言う鬼が棲んでいて、付近を荒らし廻っていた。吉備津彦尊は、その随臣楽々森彦命と共にこの鬼を退治した。温羅はなかなか強く、吉備津彦命射た矢と、鬼の城に居た居た温羅が投げた岩とが、空中でかみあい、落下したのが、高塚の岩との伝承がある。
 温羅は左の目を射られ、血が流れた。血吸川という。温羅は雉となって山中に隠れたが、命は鷹と化して之を追うた。次には鯉と化して血吸川に入ったので、命は鵜と化してこれを噛んだ。鯉喰宮という。
 温羅はついに捕らえられ、その首は吉備津神社の釜鳴神事の行われる竃の下に埋められた。
 尊は温羅の首を切ってさらしたが、首だけになっても温羅は唸り声をやめなかった。尊はその肉を犬に食わせたが、それでも唸り声はやまなかった。更に髑髏を吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、唸り声は十三年間やまず、釜を鳴らし続けた。

 そしてある日、尊の夢に温羅が現れ「わが妻の阿曽媛に釜で神に奉ずる食物を炊き、釜は幸あれば豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう。」と告げたので、尊は言われた通りにしたと言う。

 温羅(吉備冠者)   異国から来た鬼神、百済の王子とされる。百済は346-660年。
 鬼ヶ城 神籠石式山城。7世紀後半の造営とされる。
 血吸川 砂鉄の多い川(天井川)  出雲の簸伊川の八岐大蛇に温羅は相当する。
 楽々森彦       楽々は伯耆の楽楽と同意。森は盛場の意味か。
http://kamnavi/en/kibi/kibitu.htm 吉備津神社

 『古今和歌集』  真金吹く 吉備のなかやま 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 『万葉集』    大王の  御笠の山の   帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 吉備の中山は、本来は津山市の中山神社のこと、後に吉備津彦の墳墓があるとされる中山になった。


吉備の中山神社と志呂神社

 博打好きの物部肩野乙麿がオオナムチの神を奉じて住んでいた。ある日、路傍で老人が骰子を持って座っていた。老人は土地を賭けようと誘ったので、のった。ところがやる度に老人が勝ち、乙麿はたちまち、土地を失ってしまった。 老人は実は金山彦神であった。乙麿は中山を金山彦神に譲り、自らは志呂神社を担いで、美作国久米郡弓削庄(御津郡建部)に社殿を建てた。5,6世紀には、美作の鉄は物部氏が支配していたが、7世紀に金山彦神が出現した所から、美作の鉄は王権の支配下にはいったと思われる。なお、6世紀後半に中央では物部守屋が滅ぼされている。
http://kamnavi.jp/en/kibi/nakayama.htm 中山神社

[11033] 鬼に舌を抜かれる話2  神奈備 2012/02/12(Sun) 17:03 [Reply]
伯耆−日野川−砂鉄
出雲−簸伊川−砂鉄

両川の源流は鳥ヶ峰(船通山)の周辺、砂鉄の一大産出地帯。
http://kamnavi.jp/log/onimap.jpg

出雲神話 八岐大蛇 素盞嗚尊 産鉄民 対 稲作民 産鉄利権の争奪
鬼神神社(式内 伊賀多気神社上宮)の存在
出雲国造千家元勝撰
 出雲国仁多郡小国里 鬼神大明神縁起一巻
 出雲国仁多郡横田荘小国里 上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞嗚尊五十猛神也 延喜式云五十猛神陵地伊我多気社是也
http://kamnavi.jp/it/izumo/onikami.htm

伯耆神話 八上比売と大穴牟遅神
ここに八上比売、八十神に答へて言はく、「吾は汝等の言は聞かじ。大穴牟遅神に嫁がむ」といひき。かれここに八十神忿りて、大穴牟遅神を殺さむと欲ひ、共に議りて、伯岐国の手間の山本に至りて云はく、「赤猪この山にあり。かれ、われ共に追ひ下さば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、必ず汝を殺さむ」と云ひて、火もちて猪に似たる大石を焼きて転ばし落しき。ここに追ひ下すを取る時、即ちその石に焼きつかえて死にましき。(赤猪岩神社)
御祖、「汝はここにあらば、つひに八十神のために滅さえなむ」といひて、すなはち木国の大屋毘古神(五十猛神と同じと見なされている。神奈備注)の御所に違へ遣りたまひき。次に、木の俣より漏き逃がして云りたまはく、「須佐能男命の坐す根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神りたまひなむ」とのりたまひき。

<余談>上記神話の山 手間山。 手間天神 伯岐国の手間
少彦名神は高皇産霊の手の間から零れ落ちたので手間天神と呼ばれるようになった。
赤猪岩神社の鎮座する西伯郡会見町に、天萬神社が鎮座している。手間からの転訛でしょう。
少彦名神は岩に寄り付く神だあるのは、紀州串本の潮御崎神社の磐座、、また能登の国の宿那彦神像石神社の名からも想像できます。赤猪岩に少彦名神が寄り付いていたから大穴牟遅神が助かったのかも知れません。
大阪の天神社は主祭神を少彦名神とする場合が多く、そこに菅原道真が合祀されている。

<余談>孝霊天皇
『紀氏譜記』によると。
御丈七尺
御面躰青く
面頭に三尺の角
飛行自在
と言う。

[11032] 鬼に舌を抜かれる話  神奈備 2012/02/11(Sat) 09:32 [Reply]
鳥取県  楽楽福神社(ささふく)信仰
 日野郡溝口町宮原の楽楽福神社 大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)后の細比女命

 由緒 孝霊天皇、当国に御幸の時、鬼住山の悪鬼を降伐遊ばされて後、この地に崩御、人民その遺徳を偲び笹で社殿の屋根を葺きこれを祀る。これ笹福の宮なり。神号のいわれは「砂鉄吹く(ササフク)」の神、即ち、古代製鉄神で、鉄の象徴する強大な富と力、厄払いと長寿を意味する。

 日野郡日南町宮内の楽楽福神社(西の宮)大日本根子彦太瓊尊 細比賣命 皇子大吉備都彦命・彦狹嶋命

 由緒 孝霊天皇は『武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う』と書かれております。天皇は丹波の国、更に日本海を経て西伯郡大山町妻木に上陸され、しばらくご滞在。つづいて溝口町の鬼住山と本町の鬼林山に兇賊あり、人民を悩ますとお聞きになり、皇子及び侍従を従えられてその賊をお討ちになって地方を平定し、皇代を普及されたのであります。神社の裏山に崩御山があり、細比売命もしくは皇子の歯黒王子が葬られているという。祭神の細比売命は片目の神と言う。

日野郡日南町宮内の楽楽福神社(東の宮)大日本根子彦太瓊命 若建吉備津彦命 細姫命(ささひめ) 福姫命

 由緒 西の宮と同じ由緒。

 日野郡日南町印賀の楽楽福神社 福姫命
 
 由緒 片目の神と言う。福姫は「吹く」で、精錬。

 片目についてはつながる。
  神代鍛冶ー片目神−天目一箇神
  印賀綱 −片目神−福姫命

 この地域の吉備との関連
  西の宮陵墓石は備中産
  弥生中期には交流あり


[11031] 豊中歴史同好会  神奈備 2012/02/08(Wed) 11:55 [Reply]
2012 2 11  14時〜16時
池田市立歴史民族資料館館長 田中晋作氏
考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と伽耶諸国
5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[11030] Re[11029]: 神社とマンションの共存と言う道はありでしょうか。  神奈備 2012/02/03(Fri) 08:50 [Reply]
 丘陵地域の開発にはこのような問題が起こるようです。横浜市などでも、神社より高い場所に住宅ができているのが散見されます。神戸の生田神社でも、神域の森にくっついて建物の壁があります。

 だからいいじゃないかではなく、神社の背後に楠などを植えて、参詣者がマンションをお祈りする感じにならないようにしないとお互いが困りますよね。

[11029] 神社とマンションの共存と言う道はありでしょうか。   [Url] 2012/02/02(Thu) 19:24 [Reply]
突然の投稿をお許しいただきたく存じます。
実は神奈備さまに先だってめを通していただきたい問題と案件がございます。

大阪府豊中市上新田に「千里天神」こと上新田天神社さまが御鎮座されている地元の崇敬篤きことはご存知の事と思います。

かつては周囲一体の「千里の竹林」が「大阪みどりの百選」にも選ばれており京都・嵯峨野のそれを彷彿とさせ幻想的ですらありました。

・・・それがここ最近になってとあるマンション建設企業体がこともあろうに「とんど」で使用するはずであった松の木ごと竹林を伐採し神社の背後に17階建ての高層マンションを建てる」事になってしまい大問題となっています。

そこで私は全国の皆さんにご理解を賜りたく関係ブログ記事を投稿しました。
http://31448354.at.webry.info/201201/article_5.html

この記事に目を通していただき対立か共存かのどちらか、それとも他の手立てがあるのかを御提案していただきとう存じます。

[11028] Re[11026]: 徐福再考  神奈備 2012/02/02(Thu) 09:13 [Reply]
 韓半島

 紀元前2世紀末から4世紀まで半島東部に辰韓と言う国がありました。秦の圧政から逃れてきた人々が馬韓の支援を得て建国したとされています。秦氏の出身地ともされているようです。

 この地域には徐福の伝承は全くなさそうです。韓半島本体にはどこにもそのような伝承が残っていません。これは、困った民族性ですが、半島内は混乱・戦乱の中で過ごしてきており、伝承が途絶えてしまったと見ることもできます。

 出張で慶州のバス停につき、運転手が荷物をおろしていたら、ある韓国人が小生の旅行カバンを曳いて動き出したのです。迎えに来てくれていた人と一緒に追いかけて取り戻したのですが、物騒な時代でした。聞くところによると、タクシーの運転手で、自分の車に乗ってもらおうとしたとの言い訳だったようです。慶州は比較的広いとの印象を持ちました。

 辰韓は後の新羅、今の慶州のある平野で、平原広沢と言えるかも知れません。

 辰韓の王は馬韓の人がつとめたようで、徐福が王になった訳ではないのでしょうが、No2でも、また村長さんでも、故国へは王として伝えたとも考えることができます。

 徐福、辰韓上陸説もありうるかも。

[11027] Re[11026][11025][11024][11023]: 徐福再考  生田淳一郎 2012/02/01(Wed) 11:59 [Reply]
 とみたさん、ありがとうございました。
 文字を変えてスキタイ語とか、トカラ語で検索してみます(だがオレにできることかなぁ〜)。

 
 小生が掴んで馴染みになっている情報は、 BC1500年に地球規模の大寒波があって、このときヒンズークシ山脈の北がわにいた多くの白人の群が南下したという事実です。
 稲作が山東半島のつけねあたりまで北進したのでしょうか? 記述では「した」とのことですが、その期間は地球物理学(?)のほうで分るのではないでしょうか。
  「人口の増減とか文化は気温上昇、寒冷化のたまもの 」かと思われます。
 また、 5組の夫婦が 500年も潤沢な気候に恵まれ、適当な混血があれば、人口は 1億人をこえるのでは?
 ネズミ算式に急激に増えた人口は、寒冷期になると、そこには戦争が始まり “ 文化 ” が一挙に高揚します。

 渓流釣りで腰にさげてゆくビクにはえさ箱がついています。このえさ箱に透明なエビみたいなトビゲラの幼虫を入れてゆくのですが、50匹は入れたと思っていたのに、時間が経つと、いつのまにか大きな太いのが二〜三匹になってしまっていることがよくあります。彼らは共食いをしていたんです。

 これまでの知見では、「九州板付に始まった稲作は 350年後には津軽まで普及していた」そうですが、これは朝鮮半島と九州のあいだの陸地が切れて海峡ができ、暖流が日本海に入ったことが、大きな原因だったとか。
 地図をみると、三島半島と津軽は緯度の上では同じです。山東半島へは暖流は来ているのでしょうか。

 小生の孤老は、徐福についても無知による「(頑迷)固陋」のほうですが、ここんとこの大原則を理解できたら、一歩前進が計れそうです。

[11026] Re[11025][11024][11023]: 徐福再考  とみた 2012/02/01(Wed) 11:47 [Reply]
>  徐福を神武天皇と見る考え方があり、衛挺生著の『神武天皇=徐福伝説の謎』と言う本がでています。> http://kamnavi.jp/jm/ketusi8dai.htm

>  徐福の到着の頃に同じ頃の前200年の遺跡とされる曲り田遺跡(糸島郡二丈町)から鉄器が出土しています。最古の鉄の遺物だそうです。ただ、鋳型や製鉄遺跡などは出ていないとのことです。

欠史八代の綏靖の話が面白いですね。祀る神社が肥後に多く豊後にも少しあるとの事」。褐鉄鉱を採取して固める石凝命。徐福の船で運んできた工人でしょうか。

考古学的な話で関連を見ます。弥生時代の鉄には国産の褐鉄と輸入の鉄斧があります。
阿蘇の狩尾は褐鉄、沼鉄の産地です。これを鍛冶をすれば何とか道具はできるでしょう。

輸入物は
鋳造鉄斧が弥生時代中期の初めに韓半島から入り、筑紫平野と筑後川が交わる辺りに入ってきます。その延長で肥後の有明海沿岸の斎藤山貝塚にも入ります。
正に紀元前200年ぐらいの時代です。鋳造鉄斧は戦国時代の燕のものとされています。
衛満が燕人を引連れて朝鮮北部に亡命し、在地の王を負かせて陣取った時代に相当します。前漢武帝に紀元前108年に滅ばされ前漢の植民地の楽浪郡が朝鮮にできました。

筑後川とか矢部川とか菊池川流域などの河川が有明海に流れ込んでいます。
佐賀の曲り田も稲作と同時に鉄が入ります。弥生中期初めでしょうね。
阿波の忌部も面白そうです。神武は度会氏を使って伊勢津彦を追い出しました。
阿波忌部は天日鷲命で伊勢神宮の外宮の度会氏は天日鷲命を祀るようですね。
阿波の矢野遺跡は銅鐸の古い文様、弧帯文が吉備の特殊器台の文様に継承されるそうです。これが纏向のホケノ山の壺とか箸墓の埴輪へ繋がるのでしょう。

[11025] Re[11024][11023]: 徐福再考  神奈備 2012/02/01(Wed) 09:18 [Reply]
 徐福を神武天皇と見る考え方があり、衛挺生著の『神武天皇=徐福伝説の謎』と言う本がでています。発想は面白いものですが、年代観が違うように思います。
 『日本書記』神武天皇の以降のから系譜や物部氏・海部氏などの系譜をつきあわせますと、欠史8代は4代になり、神武天皇の東征開始は紀元後100年頃と考えています。
http://kamnavi.jp/jm/ketusi8dai.htm

 徐福は紀元前212年に出発しており、約300年の差があります。天皇家の祖先にも比定しにくいように思います。


 徐福の到着の頃に同じ頃の前200年の遺跡とされる曲り田遺跡(糸島郡二丈町)から鉄器が出土しています。最古の鉄の遺物だそうです。ただ、鋳型や製鉄遺跡などは出ていないとのことです。

 徐福を祭神としている神社をリストアップしてみました。(神社本庁 平成7年資料)
 
波田須神社摂社徐福社「主神,徐福」三重県熊野市波田須町460-1,紀伊国 牟婁郡
新井崎神社「本社・主神,徐福,事代主命 宇賀之御魂命」京都府与謝郡伊根町新井松川8-3,丹後国 与佐郡
阿須賀神社摂社徐福宮「主神,徐福」和歌山県新宮市阿須賀1-2-25,紀伊国 牟婁郡
金立神社「奏除福,保食神 罔象女命」佐賀県佐賀市金立町大字金立3415,肥前国 佐嘉郡
金立神社下宮「主神,奏除福,保食神 罔象女命」佐賀県佐賀市金立町大字金立2467,肥前国 佐嘉郡

 日本の神として似ているのは、大国主命とともに国作りを行った少名彦名命、常世国の住人だったようです。薬の知識もあり、兜をかぶっていたら、頭に角が生えていたと見えたのかも。

[11024] Re[11023]: 徐福再考  琉球松 2012/01/31(Tue) 13:15 [Reply]
 とみたさん、こちらこそヨロシク。

 山口県の土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムに行ったことがあるんですが、損傷が激しい遺体が多く、『魏志』の倭人伝に見える「倭国乱」の時代と重なるとの印象を持ちましたし、埋葬された遺体のほとんどは中国方向に向いているのでしょう。
 また、徐福集団が混乱した西日本にやって来たとすれば、彼等は救世主的存在だったかもしれません。

 ちなみに、男性の右腕には沖縄諸島産の「ゴホウラ貝輪」が装着されていて奄美沖縄との濃厚な交流があったことが確認できますが、少なくとも徐福集団は奄美大島以南には来た形跡がありませんね。ただ、種子島の広田原遺跡には漢字の「山」が彫られた遺物などが見られますから、同時代の大陸との関わりがあるようです。

[11023] 徐福再考  とみた 2012/01/31(Tue) 12:19 [Reply]
琉球松さん 今年もよろしくお願いします
>福岡県八女市で1月20日にある徐福の祭りは童男山(どうなんざん)古墳で開かれる。この古墳は、6世紀後半の円墳で、"徐福信仰" の発生がこの時期であるとも考えられる

後世の人が、綾かって伝説を利用しますね。
現在も町興しで、いろんな伝承を利用しますんで鵜呑みにはできません。
吉備津神社の桃太郎伝説は勧進のために拵えたとか、諏訪神社の穀の木の社紋も然り。

>生田さんのサカ、タジク、三国志・・・

 生田さんもお元気なご様子何よりです。まあ古代史ネタで孤老を癒すでは同じ道 楽です。
 私は言葉の研究は苦手ですから余りお付き合いできませんが・・・

 私は一歩一歩着実に事実を集める流儀です。想像の翼には乗りません。
 サカはスキタイです。ギリシャ語でスキタイ、ペルシャ語で サカ(イ)、中国 語で 塞人です。紀元前の西域(たとえばカシュガル)ではアーリア語族(いま はヨローッパ語族)のトカラ語が使われていました。
 タジキスタンはソグド人がいましたからソグド語でしょうか。キルギスなどでは トルコ系言葉が使われていたと思いますが自信がありません。

 私の関心事は、山東省の斉の都の臨淄には春秋戦国時代には、西方の人が住んでいた とする説があり、頭蓋骨分析で、西日本弥生人の男性は中央アジア、北アジアに酷似しているという人類学者が最近発表していることです。
 山口県の響灘土井ヶ浜人のルーツは、殷周時代の青海省(チベット人が今も中国に反抗している地)に古人骨と似ている。戦国時代末期ー漢代の山東省の臨淄の人に酷似している。

 山東省と弥生人の関係を気にしたいます。

[11022] Re[11019][11018]: 徐福再考  とみた 2012/01/31(Tue) 11:20 [Reply]
> 淮南衡山列伝 徐福、始皇帝を騙して、男女3000人、五穀の種、百工を借りて出発し、平原広沢を得、止まりて王となって、帰らなかった。

五穀の内容は稲のほか粟、黍、稗なんでしょうか。百工の工人はどんな技術を持っていたか。多分分からないでしょう。
方士ですから道教とすると面白い。
出発地は連雲港の河口。徐福村があります。連雲港は
淮河の北、黄海沿いです。秦の時代の重要港湾都市です。

北に日照市がありこの辺りは稲作の本場です。
紀元前2500年前には龍山文明が栄え、稲作も江南から山東半島に遡っています。
日本へ水耕稲作が齎されたのは弥生時代早期。これが以前は紀元前4-5世紀とされていたのが歴博のAMS測定法で紀元前10世紀に遡りましたが未だ批判されています。

朝鮮半島から日本へは稲作が入ったことになっています。半島西南の忠清道の松菊里遺跡はルーツ候補で有力でしょう。ここから洛東江の支流の南江を経由して日本に伝わったとする説が考古学者の通説です。しかし朝鮮半島では取れない種類の稲も日本へ中国から入っているようです。


>  有明海沿いや、築後平野など。稲作も九州に先ず到来してから東へと普及していったのでしょう。これから見ますと、稲作の伝来の一つが徐福の渡来であったと言えるでしょう


紹介いただいた徐福伝来地に福岡県筑紫野市八女市が含まれているのが気になりますね。邪馬台国九州説のメッカです。弥生時代後期の環濠集落がたくさんあります。
佐賀県武雄市と和歌山県は武内宿禰絡みです。これは古墳時代中期でしょうか。京都府伊根は丹後の舟屋のあるところで、丹後は徐福縁の地もありますし道教の日下部―日置の臭いがします。浦島太郎、豊受、羽衣、酒・・・・
伊根がイネで稲なら面白そうです。いずれにせよ海の民でしょう。
徐福の渡来の本場は紀伊・熊野でしょうか。連雲港市と和歌山は今も交流しています。宮崎延岡市は西都原古墳に近い。



[11021] Re[11019][11018]: 徐福再考  琉球松 2012/01/31(Tue) 11:06 [Reply]
 徐福本人、又はその集団が九州北部や西部に渡来したのは、まず間違いないのでしょうね。
 そうでなければ、西日本のあちこちで観音様や熊野信仰に入り込まないと思います。
 渡来経路が九州島直なのか、朝鮮半島経由なのかは確かめようがありませんし、伝承も後世のものかもしれません。

 とみたさんは、「到着地は九州と熊野と丹後」と推測されましたが、熊野や丹後などは時間をかけて広がっていった地域じゃないでしょうか。あくまでも "東進" と見たいわけです。。。
 それと、信仰上の問題ですね。またまた名護説のご紹介。

『邪馬台国総合説・自由掲示板』より
*** 南熊野には徐福信仰と熊野信仰が共存しているが、熊野の神の中に徐福の影はない。同じ時代の神でありながら、何故両者は交わらず祭神が異なるであろうかという点に、二つの信仰の成立の謎を解くヒントがある。(略)
 熊野信仰は邪馬台国成立の神を仏教と習合させ仏で表を飾った。仏教との習合を嫌う人々は「世直し」の初期に関与したと思われる徐福を表飾りにし「世直し」信仰=百襲姫信仰=神武信仰を守ろうとした。二つの信仰が同じ土地、同じ時代(孝霊時代)に生まれたと称しながら信仰の核の部分で異なるのは、表飾りの違いに過ぎないであろう。しかし、仏教に表を譲るかどうかは信仰原理に関わる重要な問題であったに違いない。信仰の内実で両者が交わった形跡の薄いのにはこのようなわけがあった。(略)
 では、熊野信仰と徐福信仰のどちらが先に成立したであろうか。福岡県八女市で1月20日にある徐福の祭りは童男山(どうなんざん)古墳で開かれる。この古墳は、6世紀後半の円墳で、"徐福信仰" の発生がこの時期であるとも考えられる。そうすると仏教の伝来とほとんど同じ時代である。両者の成立は同じ時代であった可能性が高く、互いにその勢力を競ったに違いない。熊野信仰に百襲姫の潜んでいることがあらわになるのは、讃岐の水主神社の信仰であり、その中に古代史を解く鍵がある。徐福=神武とする説も、このように理解するとあながち荒唐無稽な説ではないが、しかし、神武の実態は決して人間そのものと見るべきではない。あくまでワニ神(銅鐸)を壊して再生した銅鏡、すなわち太陽を表す「アマテラス」であり、政権の象徴としての「神武」であった。その宗教転換、政権の変換を進めた歴史の実態としての人々の代表が最終段階では百襲姫であったということであろう。***

[11020] Re[11019][11018]: 徐福再考  生田淳一郎 2012/01/31(Tue) 10:47 [Reply]
 とみたさん 明けまして・・・。
 小生は去年の 6月ごろからタジク語の辞書に取っ組んでいます。
 タジク語は日本の制度、宗教、固有名詞など、歴史に由々しい食い込みかたを示すこと深甚なものがあると、思うに至りました。
 ご存知のとおり、タジク語はペルシャ語(<アラビア語)、ソグド語、ロシア語、韃靼語など歴史に名を連ねたそうそうたる民族の混成語だそうですが、この一連の中にサカ語も含まれているそうです。

 サカ語はとみたさんもおやりになった言語でした。
 佐々木さんも語彙集のサイトを示してくれたのですが、キカイ・オンチの小生が検索してみても、「サッカー」とか「豚サカ」などが出てくるばかりで、困った困ったです。
 なにかいい辞書やサイトがありましたら、お教え下さい。お願いします。

※ サカ語にカスケード(小さな滝)があったことは、驚きとともにおぼえています。
※ 幸い、ソグド語辞典は手もとにあります。
※ 韃靼語(タタール〜満州語)との突き合わせも、蠱惑的です。


● 小生が読んだ三国志は、吉川英治の小説をネタ本にしたマンガ本でしたが、たしかここにも徐福が出てきました。
 母親を人質にとられて曹操の軍門に下った軍師です。
 二人の徐福 ?  このへん、どうなっているんでしょうか。
● 「古いほうの徐福」の土地では、古い日本語(倭人語)が喋られていた・・・・・・のでは? 
 もし、そうでないならば、今の日本列島のどこかに「濃密な漢語地名だらけの地帯」が、残っているはずです。

[11019] Re[11018]: 徐福再考  神奈備 2012/01/30(Mon) 16:17 [Reply]
ともたさん。寒中お見舞い申し上げます。

> ただ今弥生時代の稲の渡来の研究を始めています。

 8年前に徐福についてのサイトを調べてリンク集を作ってみましたが、リンク切れが増えてきて、また新しいサイトが登場して来ていますので、サイトを更新したばかりです。
http://kamnavi.jp/ym/jofuku.htm


 福永光司著『馬の文化と船の文化』によりますと、徐福についての文献で信頼性が高いとされるのは、100年後の司馬遷の『史記』としています。
秦始皇本紀二八年(BC219) 齊の人徐市らは始皇帝に書をたてまつり、海中に三神山あり。これを求めたい旨を申し入れた。
秦始皇本紀三五年(BC212) 始皇帝、徐市らに巨万を使わしたが失敗したのを、おおいに怒った。
淮南衡山列伝 徐福、始皇帝を騙して、男女3000人、五穀の種、百工を借りて出発し、平原広沢を得、止まりて王となって、帰らなかった。

 さて、平原広沢の王となったとのことで、東シナ海で「平原広沢」と言えそうなのは、日本列島のどこかが有力な候補地と言えるでしょう。有明海沿いや、築後平野など。稲作も九州に先ず到来してから東へと普及していったのでしょう。これから見ますと、稲作の伝来の一つが徐福の渡来であったと言えるでしょう。
 稲作はもっと早くから伝来していたと思います。


> 日本への航海は韓半島の西岸伝いでしたか??

 航路などは、文献になさそうで、遺跡や出土物からの推測と、地域の伝承などを探るしかないでしょう。韓半島西南の済州島などに伝承が残っているようで、一度北上してから半島西岸を南下したとの想定は妥当だと思います。


[11018] 徐福再考  とみた 2012/01/30(Mon) 10:05 [Reply]
神奈備さん皆さん、今年ももうすぐ二月です。年賀のあいさつもしないままですので寒中のご挨拶をさせていただきます。また穿ったお話を楽しみにしております。
ただ今弥生時代の稲の渡来の研究を始めています。

今朝なんとなく徐福のことが気になりました。調べもせずに頭の隅っこにある記憶を辿りますのでミスがありそうです。ヒントがございましたらお教えください。

山東半島の黄海沿岸の徐福村(連雲港とか日照市)あたりでしょうか。北上して廟島を渡って遼東半島から南下して、日本に来たのでしょうか。山東半島なら黄海を渡りそうですのに何故、遼東を経由したのか。

考古学の宮本一夫先生は日本への稲の伝播は山東からでなく遼東半島経由とされています。証拠は磨製石製品です。稲作に必要な石包丁とか木製の農耕具を作るに必要な石斧です。山東半島から遼東半島へは廟島という島伝いに100kmで行けるのに直接山東半島から対岸の韓半島へは200kmもあり黄海は波が高いから当時の航海術と船の性能から無理だったのでしょうか。

日本への航海は韓半島の西岸伝いでしたか??調べてありません。ご存知なら教えてください。
到着地は九州と熊野と丹後などと思うんです。

堺市と連雲港市は徐福で交流があるとか聞いています。

時代は秦始皇帝時代か前漢武帝の時代でしたか。日本にたくさんの若者と品物を持ち運んだようですが・・・

[11017] 延喜式神名帳のリンク先  神奈備 2012/01/27(Fri) 19:57 [Reply]
 当サイトの延喜式神名帳の個々の神社のリンク先を見直して更新しました。当初はできるだけ地元の神社紹介を入れるようにつとめましたが、今度見直したら殆どのサイトとはリンクが切れていました。
 今回はそう言うことで長持ちのサイトを重点にリンクをさせて頂きました。
 
 やはり、玄松子さんのサイトは圧巻でした。また彼の厳密さにも改めて敬服した次第です。例えば、遠江国敷智郡の津毛利神社の項を例にします。http://www.genbu.net/engi/toomi.htm?print=onhttp://www.genbu.net/engi/toomi.htm
まず、  所在不明
とあります。次に
津毛利神社 静岡県浜松市南区参野町112
春日神社  静岡県浜松市西区馬郡町1882-2
と並びます。
この意味を氏は説明されていないようですが、最初に「所在不明」とあるのは、失われていた(ほぼ廃絶の)神社ですが、後世に式内社と(無理に)比定した神社ですよと語っているのです。これは良心的な表示の仕方だと思います。

[11016] 人類は何故、龍を構想したのか。  神奈備 2012/01/25(Wed) 09:40 [Reply]
> 神奈備ドン、お元気ですか?

ありがとうございます。元気でやっています。

人類は哺乳類の一種であり、これは獣窩類から進化してきました。7千万年前にほ乳類ができました。これは恐竜が全滅した後からです。

 恐竜が地球上で全盛を誇ったのは、植竜類から恐竜になった2億2千万年前から7千万年前の1億5千万年間でした。この間、人類の祖である獣窩類は恐竜の腹の足しならない程度の大きさで生き延びました。鼠ぐらいだったのでしょう。
 7千万年前に何らかの事情で恐竜が全滅して、獣窩類はほ乳類となり、そこから人類ができました。

 ついでですが、鰐はこの間もワニ類として存続していました。

 恐竜全盛の1億5千万年の間、人類の祖先は恐竜に怯えて生きてきたのです。恐怖がDNAに刻まれているのでしょう。これが蘇って、龍を構想したのでしょう。

 豊玉比売が出産する際に、『日本書紀』本文は龍の姿になったとし、一書には鰐の姿になったとあります。これらは人類が鼠の頃のこわいものだったのです。


[11015] Re[11014][11013][11012][11011][11010]: 浦島子の物語 8  琉球松 2012/01/17(Tue) 12:46 [Reply]
 神奈備さん、すみません。

 又々、演説してしまいました(笑)。

[11014] Re[11013][11012][11011][11010]: 浦島子の物語 8  神奈備 2012/01/16(Mon) 11:41 [Reply]
> 一方、豊玉姫や玉依姫から生まれた龍(鮫)は、時代の再生と考えることができるでしょうか。

 「時代の再生」、難しくてよく判りません。

 人類が龍を構想したのは、恐竜が地球の支配者であった、1億5千万年の間、人類の祖先は獣窩類と言う小さい鼠のような動物であったと推測されています。小さいのは恐竜の餌にさえならなかったので、生き延びたようです。

 7千万年前に恐竜が絶滅して、そこからほ乳類が誕生して、その中から人類が出てきました。4百万年前。


 1億5千万年の間、人類の祖先は恐竜に怯えて生きてきたのです。これが深くDNAに刻まれて、その記憶が蘇ったのが龍だったのでしょう。

[11013] Re[11012][11011][11010]: 浦島子の物語 8  琉球松 2012/01/15(Sun) 11:18 [Reply]
 "老人が若い娘に叱りつけられて泣いている" 。。。この場合の老人(ヒゲのある者?)は "鮫々と泣く" 龍スサノヲじゃないでしょうかね。
 再生の地と観念されている常世国(海神宮)の木の実?を受け入れなかったために、若返れなかったのではないでしょうか。

 一方、豊玉姫や玉依姫から生まれた龍(鮫)は、時代の再生と考えることができるでしょうか。荒神(乱?)を再生するための装置が奄美沖縄であるとの仮説の基本は、銅鐸(地信仰)から銅鏡(太陽信仰)への転換で、「世直し」の目的は、北部九州の女王連合を東に拡大する運動と見たいんですよ。

[11012] Re[11011][11010]: 浦島子の物語 8  神奈備 2012/01/14(Sat) 09:02 [Reply]
琉球松さん、「世直し」のご紹介、ありがとうございます。

> これによっても、海幸・山幸の話とほとんど同じモチーフであることが分かる。

 異界訪問譚というジャンルのお話と言うことになります。

1. 『古事記』諾冉二神
 ここにその妹(イモ)伊邪那美命を相見むと欲(オモホ)して、黄泉国(ヨミノクニ)に追ひ往きましき。ここに殿の縢戸(サシト)より出で向へし時、伊邪那岐命語りて詔(ノ)りたまはく、「愛(ウツク)しき我が汝妹(ナニモ)の命(ミコト)、吾(ア)と汝(イマシ)と作りし国、未だ作り竟(ヲ)へず。故(カレ)、還るべし」とのりたまひき。

 イザナギはイザナミを連れ戻しに行きましたが、失敗して逃げて帰ります。


2. 『古事記』大国主神の根(ネ)の国訪問
 御祖(ミオヤ)の命、その子に告げて言はく、「汝(イマシ)はここにあらば、つひに八十神のために滅(ホロボ)さえなむ」といひて、すなはち木国(キノクニ)の大屋毘古神(オホヤビコノカミ)の御所(ミモト)に違(タガ)へ遣(ヤ)りたまひき。ここに八十神覓(マ)ぎ追ひ臻(イタ)りて、矢(ヤ)刺(サ)し乞ふ時、木の俣(マタ)より漏(ク)き逃(ノ)がして云(ノ)りたまはく、「須佐能男命(スサノヲノミコト)の坐(イマ)す根の堅州国(カタスクニ)に参(マヰ)向(ムカ)ふべし。必ずその大神議(ハカ)りたまひなむ」とのりたまひき。
 故(カレ)、詔命(ミコトノリ)の随(マニマ)に須佐之男命(スサノヲノミコト)の御所(ミモト)に参(マヰ)到(イタ)れば、その女(ムスメ)須勢理毘売(スセリビメ)出で見て、目合(マグハヒ)して相婚(ア)ひまして、還(カヘ)り入りて、その父に白(マヲ)して言はく、「いと麗しき神来ましつ」とまをしき。

 大国主神が根の国を訪問、須勢理毘売に出会います。『記』では、須佐能男命の六代目の孫が大国主神です。須勢理毘売とは五世代の差があります。異界での女性と時を越える話が混在しているようです。


3.『古事記』海神宮(ワタツミノカミノミヤ)訪問
 ここに塩椎神、「我(アレ)、汝(イマシ)命(ミコト)の為に善き議(コトハカリ)せむ」と云ひて、即ち无間勝間(マナシカツマ)の小船(ヲブネ)を造り、その船に載(ノ)せて教へて曰(イ)はく、「我、その船を押し流さば、やや暫(シマ)し往(イ)でませ。味(ウマ)し御路(ミチ)あらむ。すなはちその道に乗りて往(イ)でまさば、魚鱗(イロコ)の如(ゴト)造れる宮室(ミヤ)、それ綿津見神(ワタツミノカミ)の宮なり。その神の御門(ミカド)に到りましなば、傍(カタハラ)の井の上(ヘ)にゆつ香木(カツラ)あらむ。故(カレ)、その木の上(ウヘ)に坐(イマ)さば、その海(ワタツミ)の神の女(ムスメ)見て相(アヒ)議(ハ
カ)らむぞ」といひき。

 火遠理命(山幸彦)は海神宮を訪問、ここで豊玉毘売命に出会います。結婚して三年間その国に住んだようです。その後、帰るのですが、時間に乱れはないようです。
 海神の宮から来た豊玉姫が出産の際に龍の姿になったとあります。海と龍とのつながりが見えます


 根の国訪問(2)と海神宮訪問(3)は、共に兄弟の圧力が訪問の動機となっています。異界で結婚し、世間に戻ります。兄弟を支配し、王になります。



4.『古事記』非時のかくの木の実
 垂仁天皇(スメラミコト)三宅連(ミヤケノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)、名は多遅多摩毛理(タヂマモリ)を以(モ)ちて常世国(トコヨノクニ)に遣はして、ときじくのかくの木(コ)の実(ミ)を求めしめたまひき。

 これも異界訪問の話ですが、女性と出会う話にはなっていません。
 
 しかし、橘寺発行の『橘寺と聖徳太子の昔ばなし』に、面白い話が載っていました。

 垂仁天皇から不老長寿の元になるものを探すように命じられた田道間守はあちらこちらの国を訪ねて探し歩きました。どこにも見つかりませんでした。所が、不思議な光景に出会いました。それは老人が若い娘に叱りつけられて泣いているのです。田道間守が話を聞いてみると、若い娘が母親で、老人はその息子であるというのです。母親は一つの実を示し「この子だけが酸っぱくて嫌だとこれを食べないのです。だからこんなに年を取ってしまったのですよ。」と云いました。それを聞いた田道間守は、おどりあがって喜び、その不老長寿の実のなる木を数本譲り受けて帰国しました。


 所で、時間の矛盾と言えば、日本武尊とその皇子とされる仲哀天皇との関係です。

景行天皇四十年 日本武尊没 この時までに仲哀さんが誕生しているはず。
景行天皇六十年 景行天皇没 ただちに成務天皇即位
成務天皇四十八年 仲哀さん 皇太子になる。その時31歳。
仲哀さん 景行の二十年と成務の四十八年は生きている。それだけで六十八歳。何故それを31歳としているのか。

天皇の年を半分として見る。(大祓えごとに年を数えると:−)
景行一〇年と成務二十四年、あわせて34歳、やはり31歳ではありえない。
仲哀天皇が日本武尊の皇子だったというのは『紀』の中に矛盾があります。


理屈抜きで、天皇の年を1/3として見ると。
景行 七年 仲哀 八年 あわせて十五年。これであれば、つじつまがあいます。


[11011] Re[11010]: 浦島子の物語 8  琉球松 2012/01/13(Fri) 10:10 [Reply]
 神奈備さん、いつも興味深く読ませもらっています。

 「浦島子」は、琉球圏の時代背景を探るのにも重要です。
 以下に、名護博教授のお考えを紹介しますが、参考になるでしょうか。

 HP『邪馬台国総合説』掲示板より
*** 浦島太郎の話は『日本書紀』の他にも多くの文献にみられ、その伝説も全国に分布し、なかでも丹後半島の京都府伊根町、香川県詫間町などが有名である。この浦島伝説は、2000年前の沖縄と日本本土との政治的事件を反映したものであることはほとんど知られていない。ここでは神奈川県の伝説を主体に述べよう。
 
<<遠い昔、三浦の里に水江浦島太夫(みずのえのうらしまだゆう)という人がいた。 あるとき、太夫は、太裡(たいり)という仕事につくため、 妻と太郎という子をつれて、丹後の国へと旅立った(略)>>
 この話において、神奈川県のことが丹後の国と関係付けられて語られている理由は幾つか考えられる。一つには、権威ある文献で浦島伝説が丹後国のこととして書かれているためであろう。この中に「蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ)」とある。これによっても、海幸・山幸の話とほとんど同じモチーフであることが分かる。神武天皇の祖父にあたる山幸彦が行く先は、薩摩半島から一日かかる海の国であり、それは奄美沖縄にほかならなかった。紀元0年頃から350年頃までの間、沖縄と日本本土は親密な関係にあった。日本国家がいかにして誕生し、そしてその国家の基礎ともなった常世国、沖縄との関係が切れたということが伝説の形で残っているのである。伝説には、その関係の途切れた理由は述べていない。沖縄の神歌から推察すると、それは、原初ヤマトが「世直し」、すなわち革命を容認し、しかも女性の宗教的権威を尊重する政権であったからであろう。「竜宮にいたのは三年のはずだったが、丹後の国では347年もたっていた」と述べられている。「347年」には偶然とは思えない正確さがある。日本本土の中心部で出土する沖縄由来の遺物の年限は、およそ350年、九州では600年くらいである。古代のある時期、沖縄と日本本土とはかくも長く、親密であった。***

[11010] 浦島子の物語 8  神奈備 2012/01/13(Fri) 09:39 [Reply]
 豊田有恒さんの前回のそれぞれへの星の比定は、距離感がすばらしい。
雄略時代の時間概念
 『紀』美和河で容姿甚麗な引田部の赤猪子と言う童女を見初めた雄略天皇はそのうちに迎えるから 嫁に行くなと言ったきり、忘れており、そのうちに80年が過ぎてしまった。100歳に近い老女になってしまったのでしょう。
 天皇は訪ねてきた赤猪子を悼み、歌を与えました。

   引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも(歌謡九四)  
 雄略天皇は、418年の生まれ、456年に天皇に就任、在位は23年。479年に没。61歳。赤猪子に声をかけてから80年も生きていることにはなっていません。残酷にも赤猪子だけが歳をとっています。浦島子と同じように、ここにも時間の矛盾があります。

 各地の浦島伝説を紹介します。
  漁労民が竜宮へ行くお話は、インドシナ、インドネシア、台湾、中国、朝鮮、沖縄に分布。
  
  この伝承を伝えた日下部氏には、彦坐王の後裔と、仁徳天皇と日向髪長媛の子孫の流れがあります。この日下部氏には、南九州にあった浦島伝説を各地に持っていた可能性もあります。

 日向国児湯郡(宮崎県児湯郡川南町) 白鬚神社「浦島大神を祀る奥之宮がある。」
 浦島太郎が龍宮から高鍋町の浮島なる鵜戸を経て帰着。知り合いもなく、ここが終焉の地となる。

 海部氏が祀る丹後の籠神社の摂社の真名井神社の祭神は豊受大神。

 豊後国大野郡(大分県大野郡) 門上社、土鳥社、要社、中道神社 「皆、浦嶋太郎を祭神とする。」大野郡は阿蘇山の東30km、海には40km以上も離れた山間部。

 豊後国の日出(ひじ)に真那井がある。また、『豊後国風土記(逸文)』に、餅の的のお話がある。「裕福な農家の人が弓を射ようとして、的がなかったので、餅を的にして射た。餅は白い鳥になって飛び去った。家はたちまち貧しくなった。」。よく似た話は、『山城国風土記(逸文)』にもあって、餅を射た人の子孫が先祖のあやまちを悔いて、祈り祭ったと言う。稲荷の神になったと言う。
 稲荷の神、豊饒の神の縁起譚である。豊受の神に通ずる。

 丹後での比治山の真奈井への天女降臨伝説は豊受大神につながる。豊の国にも天女伝説がある。

『海部氏本記』彦火明命−−・・−−難波根子建振熊−建振熊宿禰−・・
丹後から難波へか、難波から丹後へか、浦嶋譚が伝承されている。

 『摂津国風土記逸文』「昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所としていた。後にわけがあって、やもうえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。」とある。
 ここでは、豊受大神は難波から丹後へ遷っている。

  『万葉集巻九 一七四〇』 水江の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
 春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり

「住吉」が浪花の住吉なのか、単に澄んだ海岸と言う意味なのか。筒川と筒男も面白い。

 難波には豊受大神の伝承が残っている。『摂津国風土記逸文』から。
 昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
 またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけが
 あって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

 浦島伝承や豊受大神の信仰が、豊の国から難波へ、さらに丹後へと伝わっていった可能性があります。

 住吉にいた豊受大神
  豊の国と難波、豊の国にいた女神の赤留比売も難波へ遷っている。『古事記』では、赤留比売は「色々な珍味をそろえ夫に食べさせた。」とあり、食物を司る巫女であり神女であった。すなわち豊の国の食物の神である。ヌナクラと呼ばれたイナクラにいる豊宇可乃売の神といえよう。
 『住吉大社神代記』によれば、住吉大社の第四宮について、「姫神宮。御名。氣長足姫皇后宮。」とあり、氣長足姫は姫神すなわち赤留比売を自らの宮に祀っていた。これが豊受大神の原形でしょう。

 他の重要な豊後・摂津・丹後のつながり。
    彦火明命−・・−椎根津彦命(倭宿禰命)−−
    彦火明命:丹後の籠神社  椎根津彦命(豊後:椎根津彦神社  摂津:保久良神社)

 各地の伝承

 福島県いわき市下仁井田 諏訪神社 浦島太郎屋敷跡
 
 神奈川県横浜市七島町 連法寺 帰ってきた太郎が両親の墓を探して、当地で見つけ没した。
 神奈川県横浜市神奈川本町 慶雲寺 乙姫様からいただいたという菩薩像がある。

 長野県木曽郡山口村 竜宮峽乙姫岩 寝覚の床で釣りをしていた浦島太郎は鉄砲水で流され、この地に着く。これに気づいた乙姫は浦島太郎を介抱し、やがて二人は恋仲となり、一緒に暮らす。

 愛知県武豊町 知里付神社 神社の東南に、「負亀(おぶがめ)」という土地に浦島屋敷がある。浦島太郎が助けた亀の背に負ぶさって出発したのでその名になっている。

 石川県松任市 石ノ木塚 助けた亀の母の背中に乗って竜宮城へ行く。帰ると100年経っていた。

         浦島子の物語 エンド

[11009] 豊中歴史同好会  神奈備 2012/01/13(Fri) 08:30 [Reply]
2012 1 14
元福井県埋蔵文化財センター所長 中司照世

考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と吉備

5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[11008] 浦島子の物語 7  神奈備 2012/01/12(Thu) 11:12 [Reply]
この項はは、豊田有恒著『神話の痕跡』青春出版者を参考にしました。

『丹後国風土記』
 嶼子は、五色の亀を得たり。女娘、教えて目をねむらしむ。
 (到着)
 ここに女娘が名は亀比売なることを知りき、すなわち女娘いで来たりしとき、嶼子、竪子等が事を語るに女娘の曰ひけらく、「その七たりの竪子は昂星(すばる)なり。その八たりの竪子は畢星(あめふり)なり。

 嶼子、仙郡に遊ぶことすでに三歳になりぬ。忽ちに土を懐う心を起し、独り二親を恋ふ。  (帰国)
 ここに郷人に問ひしく、「水江の浦の嶼子が家の人は、今、いずくにあるか」と問ふに、郷人こたへらく、「君はいずこの人なれば、旧遠の人を問ふぞ。吾が聞きつらしくは、古老等の相伝へていへらく、先の世に水江の浦の嶼子といふものありき。独り蒼海に遊びてまた還りこず。今にして三百余歳をへつといへり。

 五色の亀を得たり。これは、空飛ぶ円盤そのもののイメージ。亀比売は神女。
色 五行・星 方位 神獣
青 木 東 青龍
白 金 西 白虎
赤 火 南 朱雀
黒 水 北 玄武
黄 土 中央 −

 女娘、教えて目をねむらしむ。 星間旅行の常識。おそらくは、嶼子を冷凍した。
 豊田氏
 天上仙家(亀比売の宮殿)とは、約150光年程度の距離にある星。300年経過とあり、宇宙旅行をしたとすれば、片道150年を要す。ヒアデス星団(130光年)が該当します。
 昂星(すばる) プレアデス星団  410光年 6〜8の星の集団。
 畢星(あめふり)アルデバラン    68光年 7〜8の星の集団。

 各星と地球との距離(光年) 亀比売の宮殿 天上仙家
    地球    畢星   ヒアデス星団       畢星
           68        130       410

 さて、ローレンツの時間の収縮の式と言うものがあります。あるスピード(V)で走っている物体の経過する時間は元の動いていない場所の物体の経過時間との比率を示す式です。
光と同じ速度で飛ぶと、時間が経たないのです。それはすべての景色が一緒に飛んでいることになり、時間がたっていないことと同じだからです。

 収縮率=√(1−v**2/c**2) **は二乗 cは光速。300,000km/秒
v/c 収縮率% 300年が
99.9995   1%      3年 遊ぶことすでに三歳になりぬ
計算例 今にして三百余歳をへつといへり。
        99.998   2%      6年
        99.995   3%      9年
        99.400  10%     30年
        97.900  20%     60年

具体的な星の名前が登場し、かつ、距離感がすばらしい。

 ローレンツの時間の収縮の式を図示すると、下記のようになります。VがCに近づくと#がゼロに近づき、時間がかからないということ。
 逆に止まっている場合、経過時間通り時間が経ちます。

龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜           龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜#:島子の感じる時間 龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜           龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V##########C龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜龜龜龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜龜龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜V龜龜C龜龜             龜龜
龜龜龜龜V龜C龜龜龜Cの長さ:光のスピード龜龜
龜龜龜龜VC龜龜龜龜龜            龜龜
龜龜龜龜C龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜               龜龜龜龜龜龜
龜龜Vの長さ:浦島子の飛ぶスピード龜龜龜龜龜龜
龜龜               龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜


[11007] 浦島子の物語 6  神奈備 2012/01/11(Wed) 19:03 [Reply]
邪馬台国と浦島太郎

この項目は、前田晴人著『桃太郎と邪馬台国』講談社社現代新書を参考にしました。

『魏志倭人伝』
 伊都国 東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸。世々王がある。みな女王国に属している。

 奴国 東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。二万余戸がある。


『丹後国風土記』
 与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人、日下部首等が先祖は、名を筒川の嶼子と云いき。人となり姿容秀美しく、風流なること類なかりき。こは水江の浦の嶼子といふ者なり。
 (亀に乗って海中を行く。)
 すなわち不意間に、海中の博大き嶋に至りき。その地は玉を敷けるが如く、闕台はきらきらしく、楼堂は玲瓏きて、目にみざりし所、耳に聞かざりし所なり。
 さて、泄謨觚、兇馬觚のどちらかを「しまこ」と訓めるということが、前田氏の主張の根拠の一。

 前田氏:嶼子シマコを、外交官の役職名と想定しています。丹波のシマコも外交官であり、奴国へ来て外交を司っていたと想像できます。

 前田氏:シマコの「コ」 こ・呼・子。これは、ヒミコ、シマコ 高位の職名と思われるとする。

 前田氏:風土記の仙郡(とこよ)の風景は、闕(宮殿の門)、楼堂(高い建物) 魏の王都のイメージに見える。

 『魏志倭人伝』
 倭の女王に報えていう。「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方(郡)の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところの男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。
 『古事記』
 若倭根子日子大毘々命(開化天皇)、春日の伊耶河宮(イザカハノミヤ)に坐して天の下治らしめき。この天皇、旦波の大県主名は由碁理(ユゴリ)の女、竹野比売を娶して生みましし御子、比古由牟須美命(ヒコユムスミノミコト)。

 前田氏:都市牛利(としごり)は都市(物品管理者役)の由碁利のこと。
 神奈備:難升米とは奴宿禰か。

 『丹後国風土記』
 そして、帰り際に、女は、再び逢いたかったら肌身離さず持ち、決して開けてはならないと言って、島子に「玉箱」を与えた。玉箱を持ち、女に言われるままに目をつむって船に乗ると、瞬く間に元の筒川に着いた。

 前田氏:この玉手箱とは、由碁利は魏王から卑弥呼に与える土産を預かった。箱に入っており、開けてはならない物のことを指している。

 『丹後国風土記』
 昔、豊宇気大神が当国の伊佐奈子嶽に天降されたとき、天道日女命たちは、この大神に五穀と
蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を堀り、それで潅漑して水田陸田を定めて植えた。そして大神は再び高天原に登られた。それで田庭と云うのである。丹波、旦波、但波、など、多爾波と読む。

 『魏志倭人伝』
 卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径は百余歩・徇葬者の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺した。(倭人たちは)また卑弥呼の宗女の台与なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。

 神奈備:卑弥呼の後継として、丹波から「豊」姫を迎えたと言う意味かも知れない。

 さて、邪馬台国時代(3世紀中頃)の丹後半島から、画文帯環状乳神獣鏡、青龍三年銘方格規矩四神鏡(高槻安満古墳と同笵鏡)が出土しています。このことから、この地域の首長は邪馬台国の目指す魏王朝との外交関係を持っていたようです。

 3世紀後半以降の政権の動き 記紀から。

 開化天皇 丹波の竹野媛を妃とした。

 崇神朝  四道将軍:丹波道主命(彦坐王子)を丹波に派遣。

 垂仁朝 丹波道主命の五人の娘 日葉酢媛・竹野媛 ら召しいれた。竹野媛は不器量ゆえ返した。

 また、浦島子が祖先となる日下部首については、文献によって若干の差があります。
日下部首の祖
『風土記』 シマコ 日下部首
『姓氏録』 彦坐王 日下部首・日下部連
『古事記』 開化天皇  崇神天皇 垂仁天皇
     └ 彦坐王     狭穂彦 日下部連
『日本書紀』    └ 丹波道主王

 日下部首は、彦坐王の後 山城・摂津・河内・和泉 に部民を持っていました。反乱に加担した垂仁后狭穂姫も彦坐王の皇女。

 このことは、丹後国、初期ヤマト王権とのつながりがあったといえます。シマコが彦坐王だとストレートには言いにくい所です。


余談 丹後の海部氏本紀
始祖火明命−・・−日本得魂命−−−弟彦命−乎縫命 −小登与命- 建稲種命-
 日女命   小止与命 宮簀姫
倭人伝 (卑弥呼)  (台与)
天皇家  崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇 日本武尊
 『丹後国風土記』
 長谷の朝倉の宮に天の下をお治めになった天皇(雄略天皇)のみ世に、嶼子は云々。

 雄略天皇の時代の特徴
  稲荷山古墳出土の鉄剣銘
  ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。(先祖の名が続く。)名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、(云々)。
  江田船山古墳出土の鉄刀
  天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。

 雄略天皇の時代、大王の力が強まり、各豪族はそれぞれの先祖伝承をもって、忠誠を誓ったのではなかろうか。豪族は氏とよぶ同族(血縁)集団を形成して氏の名を名のり、その集団の長である氏上が氏人を率いて大王に仕えた。

 丹後の日下部氏の祖先伝承も、雄略天皇の時代に整理されたことが、その時代のこととしたのでは。

 雄略天皇は河内に住む若日下部王を娶る。

 『紀』雄略元年の条 后の韓媛(葛城円大臣の娘)が生んだ稚足姫皇女を伊勢の斎宮とした。

 『紀』雄略十八年 伊勢の朝日郎を討たせる。伊勢国の服属譚。
 『記』伊勢の国の三重の釆女が天皇に御酒を捧げた。伊勢国の服従譚。
 『紀』雄略二十二年 丹波国与佐宮で祭られていた豊受大神が伊勢に遷された。

 称号について
魏志倭人伝 記紀 魏志倭人伝 記紀
伊支馬 活目 難升米 宿禰
弥馬獲支(みまわき) 和気 卑奴母離        夷守
柄渠觚(ひここ) 彦 奴佳革是 中臣
狗古智卑狗 菊池彦

[11006] 浦島子の物語 5  神奈備 2012/01/10(Tue) 17:20 [Reply]
丹後 和銅六年(713)丹波国の北部を分離し、丹後国とする。大江山山系が境。

丹後地域は他の地域に比べて弥生時代の遺跡が多いようです。

弥生前期  竹野(たかの)遺跡 陶[土員]とうけん=土笛 大陸の影響が見られる。       扇谷遺跡  二重の深い濠に囲まれた高地性集落の遺跡。弥生初期にこの付近はきな臭かったということでしょうか。瀬戸内よりだいぶ早い登場です。


弥生中期  BC219年。始皇帝、東海へ徐福を派遣。丹後半島に上陸伝承が残っている。新井崎神社。
      奈具遺跡
  大宮町三坂神社墳墓群  ガラス玉、鉄器、土器 埋葬品は九州北部と似ている。
      久美浜町の函石浜遺跡 大陸の新(8〜13)の貨幣である貨泉が出土。
弥生後期  奈具岡遺跡 水晶の玉を造る、鉄器も大量に出土。
      大風呂南一号墳 舟底状木棺 鉄製武器、ガラス玉。
      鉄製武器が出土した赤坂今井墳墓と上記の大風呂南一号墳は他地域の首長墳と比べても超越している存在。

古墳時代
3世紀   峰山町カジヤ円墳  碧玉製腕飾り、鉄製武器、農耕具類 埋葬品は畿内勢力との関係。

4世紀   大田南五号墳古墳  青龍三年鏡(235)出土。卑弥呼が魏に遣いを出す三年前の年号。
      北二号墳  後漢 画文帯環状乳神獣鏡
      福知山広峰一五号墳  景初四年鏡(239+1)景初は三年まで年号変更を知らずに鋳造したとされる。魏の国の影響下にある国々はそれぞれ広い国ですから、末端の工員にまで伝わらなかったのかも知れません。

5世紀  神明山古墳
     網野銚子山古墳(全長200m)日本海沿岸部最大の古墳。

 丹後半島西部には、潟湖が多く、天然の良港であった。交易によって富が蓄積された。淡水湖に海洋船を係留させると、海の貝などが剥落し、長持ちする。

『古事記開化天皇の条』
この天皇、旦波の大県主名は由碁理(ユゴリ)の女、竹野比売を娶して生みましし御子、比古由牟須美命(ヒコユムスミノミコト)。

 このように、大和の大王との婚姻関係があった伝承があったほど、政治力・経済力を持った存在がいた。経済力は、大陸・半島との交易でも得ていたのだろう。同時に大陸の神仙思想が入って来てさまざまな物語がはぐくまれた。浦嶋子、羽衣と天女、徐福渡来、大江山の鬼など。



 丹後に由良神社が鎮座しています。これに対応しそうなのが、由良比売神社が隠岐島に鎮座しています。由良と浦とは近い言葉のようです。

 『出雲国風土記』「大穴持命の御子の阿遅須伎高日子命は、八十島を率て巡りて宇良かし給へども・・」とあります。「宇良かし」は魂を「揺り動かす」と言う意味がありますが、宇良は由良と同意のようです。占いの「うら」にも通じるのではないでしょうか。

 丹後の弥生時代から古墳時代初期には、列島内では先端地域で、大陸との交流も相当あったようだ。大和の王権の対外窓口であったのでしょう。

[11005] 浦島子の物語 4  神奈備 2012/01/09(Mon) 16:37 [Reply]
 豊後国海部郡に丹後の伊根町と似た舟屋があるとのことで、平凡社の『大分県の歴史・地名事典』を見たのですが、そのような記述は見あたりませんでした。
 臼杵市の地名で、大泊、坪江、深江、硴江、大浜、中津浦、下ノ江。
 南海部郡 上浦、蒲戸浦、長田浦など、まさに海岸の地名が並んでいました。この辺りに舟屋が並ぶ港があるのかも知れません。


 真名井は豊後と丹後に特有のものかと思っていましたが、なんと大阪の富田林に真名井古墳と言う古墳がありました。3世紀後半、三角縁神獣鏡が出土しているようです。古墳名の由来は判りませんが、真名井と言う地名か池が付近にあったのでしょう。


 天女・羽衣伝説が大阪にもありました。
交野市に羽衣橋はあって、天女の衣を隠した少年と天女が夫婦となった伝承がありました。
また、高石市に羽衣地名があり、はやり天女伝説があったようです。


 また、探せば全国的に分布しているのでしょうが、海の彼方に常世の国があるという信仰を常世信仰というのですが、豊国、丹後、大阪にあったようです。

豊国 香春神社の祭祀氏族の赤染氏は、後に常世連と名を変えています。ルーツであった新羅などに常世を感じる氏族だったのでしょう。
 豊国では、豊後には熊野神社が多く鎮座していますが、豊前の場合宇佐以外に熊野神社はありません。

丹後 徐福渡来伝承、浦島子伝説、天女降臨など、神仙の雰囲気が満ちているようです。また熊野郡には式内社の熊野神社が鎮座しています。

摂津 四天王寺の西門は西方極楽浄土の東門にあたると言われます。またその西の浜から渡海をおこなったこともあったようです。補陀落を表す庭もあります。四天王寺の南門近くには熊野遙拝石がおかれています。


[11004] 浦島子の物語 3  神奈備 2012/01/08(Sun) 11:08 [Reply]
難波と丹後 キイワードは「豊受」「潟湖」「日下部」「浦島子」です。

豊受大神

『摂津国風土記逸文』から。
  昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
  またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

『丹後国風土記』逸文から
  丹波郡比治里の比治山の頂上の真奈井で天女八人が水浴をしていた。うち一人の羽衣を老夫婦が隠してしまったので天に帰れなくなった。そのためその老夫婦の家に住んでいた。天女は酒を造るのがうまかった。それで家は豊かになった。しかし十年後に家を追い出されてしまった。
 天女はあちこち漂泊した末に舟木の里の奈具村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(トヨウケビメ)であるという。

 これらを読む限り、先に摂津国にいて、それから丹後に遷ったとあります。摂津にはどこから来たのでしょうか。摂津にやってきた女神、豊国の比売語曽社神すなわち阿加流比売を思い起こします。この女神は天日矛の御饌都神として、「種々の珍味を作って食べさせた。」とあります。丹後に摂津から豊宇賀能売神を遷して祭った場所は「舟木の里」です。舟木一族が移動して祭ったと考えることができます。舟木の名は、『住吉大社神代記』にも出てきます。船木等本記、船木遠祖、船木連など。住吉の祭祀氏族だったのでしょう。現在は津守氏の名前が残っており、船木氏の名は見えないようです。住吉大社の姫神を丹後に遷し祀ったのは船木氏だろうと思います。そうして姫神とは、阿加流比売神であり豊宇賀能売神と思われます。


潟湖
 丹後半島の西側に多かった潟湖は徐々に土砂で埋まってきて、港機能は東側に移動して行ったようです。大阪は河内湾が徐々に埋まって河内潟から河内湖へと変貌していきます。丹後での浦嶋子を祭る神社も半島の西と東に分布しているのも、港機能の移動と関連しているのでしょう。


日下部と浦嶋子
 浦島子を日下部の祖先とする伝承があります。また生駒山の西側に日下地名があり、また日下部一族が居住していました。雄略天皇が生駒山を越えて求婚に来ています。また、堺市草部に鎮座の日部神社は日下部氏の祖神を祀る。彦坐王。



丹後の籠神社に伝わる海部氏の系譜に難波根子建振熊の名が見えます。神功皇后の時に忍熊王討伐の将軍となっています。さらに仁徳期には飛騨の両面宿禰を退治します。和珥の祖とされています。和珥氏は後に多くの氏族に展開します。春日、布留、櫟井、大宅、高橋、柿本、粟田、小野、山上氏で、近江から大和東側などに分布しています。

 名前に難波がついている所から見ますと、丹後と難波をつなぐ武人のようですが、和珥氏と末裔の氏族は大阪にはあまりなじみがないようです。所謂河内王朝の成立に大いに貢献した武人ということで、難波の冠が建振熊さんに与えられたのかも。

[11003] 浦島子の物語 2   神奈備 2012/01/07(Sat) 14:39 [Reply]
> 頼れるものはただひとつ・・・どっかで聴いたような科白ですが・・・、朝鮮語の urφ(龍)です。

なるほど。


豊国と難波・摂河泉について

 『摂津国風土記逸文』「昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所としていた。後にわけがあって、やもうえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。」とあります。ここでは、豊受大神は難波から丹後へ遷っています。人によっては、丹後に戻ったのではとしていますが、豊国からやってきたかも知れません。

 
 『日本書紀』(垂仁紀)都怒我阿羅斯等が白い石から変化したきれいな娘を追いかけたお話があります。「大加羅国(半島南部)から日本に来たのです。娘は難波に至って比売語曽社の神となり、また豊国の国前郡にいって、比売語曽社の神となった。二ヶ所に祭られていると言う。」との記載があります。
 この話は『古事記』では、天日矛が赤い玉から生まれた娘を妻にし、種々の珍味を作って食べさせた。ある日行き違いがあり、妻に逃げられました。難波の比売碁曽の社においでになる阿加流比売という神です、との話になっています。さらに、天日矛が追いかけて難波に入ろうとする時、その渡の神が遮って入れなかったとあります。豊国は出てきません。

 渡の神は住吉大神なのか、鴨の大神の味耜高日子根命の御子神の阿遲速雄神かも知れません。

 比売語曽社の神は半島南部からやってきたのですから、イメージとしては、北九州から豊国に抜け、瀬戸内を通り畿内にやってきた足取りが考えられます。


 豊と摂津で、「息長」が共通事項として、あります。豊では香春神社の祭神に辛國息長大姫大目命の名が見えます。また大阪市平野区喜連鎮座の楯原神社と近辺には、息長氏に関わる伝承が残っています。住吉大社の第四宮も息長帯姫を祭神としていますが、本当の所は阿加流比売ではないかとの意見も有力です。


 難波のある上町台地の東側は、その昔は河内湖と言われる海でした。徐々に上流からの土砂で埋まってきて河内潟となり、現在はレンコン栽培の湿地帯を若干残して、市街地となっています。明治時代には大阪湾の船が津波で生駒山山麓にまで流されたこともあったようです。海を渡ってきた船を淡水湖(汽水湖でも)に係留しておくと、海の貝が剥落して、船の寿命が延びるようです。生駒山麓には日下部氏が居住していました。


 大阪は渡来人の巣窟です。豊の国は秦氏が多いようですが、大阪は秦氏だけではなく、西漢氏、など多彩です。

 仏教が伝来して以降、仏教を信仰するのかしないのかの対立がありました。敏達十四年に仏像を捨てる事件がありました。
 『日本書紀』敏達天皇十四年(五八五)三月 「物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒おさせ、火をつけて焼いた。同時に佛像と佛殿をも焼いた。焼け残った佛像を集めて、難波堀江に捨てさせた。」とあります。大阪市の大川のこととされています。ここで仏像が陸揚げされたので、ここで捨てたと言うことでしょう。
 同じ記事が『日本霊異記』に、「弓削大連公、放火焼道場、将仏像流難波堀江。…速忽棄流乎豊国也」とあり、「すみやかに豊国に棄て流せ」となっており、豊国にも難波があったようですね。

 
『万葉集巻九 一七四〇』 水江の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の こ
とそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに 海若(わたつみ)の 神の娘子に・・・

 浦島のお話が摂津の住吉のこととして歌われているようです。ここでは亀は出てこないのです。突然に神の娘子の登場です。

 浦島が釣っていたのは、「堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣り」です。かつおつりぼし、たいつりぼしと言う言葉があり、金星を表すようです。海若(わたつみ)の神の宮は金星にあるように思っていたのかも知れません。

[11002] Re[11001][11000][10999]: 浦島子の物語 1  生田淳一郎 2012/01/07(Sat) 12:45 [Reply]
 ここは畏れおおい神域。まだ直感の域をぬけていないと思ったので、胸のうちを祥述できませんでした。

● 頼れるものはただひとつ・・・どっかで聴いたような科白ですが・・・、朝鮮語の urφ(龍)です。
 北海道の西海岸ちかく(滝川市〜留萌市の間)には雨竜町があります。
 「ウラ(龍)」がさきにあったところろへ リュウ(龍)が入ってきたのだとおもえます。
 *ur はアイヌ語でも 水です。水は神様ですので、 ur の開音化された語形(ura)だけでも「水神」でした。このように運んだのは、タジク語的な・ネパール語的な勢力だったとおもいます。
 そうそう、原爆が炸裂した浦上天主堂がありました。長崎は龍の町です。
 三浦さんは「神ウラ」さん。形容詞後置形。

  シナ語 lo(n) 、le(ベトナム語)、lu(蒙古・・・荒っぽいですがネパール語も)あたりが散在していますので、極東での龍は ura ・・・、あってもオカシくはありません。

● 由良比売神社。「イウラ」・・・ウラ(龍神)をなんとかする」という造語。「なんとかする」とは拝むこと。
  和多須神。 su はいろんな海神が集まってマス “ 巣 ” か?

● ウマシマジ、タカクラジ、ウラシマジの ji はネパール語で「◯◯さん、◯◯氏」です。タジク語でも tʃ - 、dʃ -の末尾辞に同形がありそうですが、いまのところ、概念総括にはいたっていません。

● ウラシマのシマですが、アイヌ語の 空間概念をもつ ma は一つしかなく,想定されるアイヌ語語形の sir-ma は採用できません。 それよりも、タジク語その他で zamin(土地 ; 地球 ; 陸)が広がって散在しています。
 他の言語で i というのを a とするタジク語語形はかなりありますので、これは採用できます。
 山の中にウラシマさんがあることに首をかしげている学者さんたちに教えてあげてください。

[11001] Re[11000][10999]: 浦島子の物語 1  神奈備 2012/01/07(Sat) 10:55 [Reply]
> ウラシマは、ウラシマジと置いてみると、馴染みのある領域が展開するようです。

 浦嶋子と書きますので、置けるかもしれませんね。


> ウラは龍ではないでしょうか。

 これをより詳しくお願いします。

 天の橋立のある宮津市に、由良神社が鎮座、式内社ではありません。

 浦と似ているのが由良、揺れている感じ。

 一方、隠岐島には式内大社の由良比売神社が鎮座、元の名は和多須神とあります。渡しの神とは五十猛神とか大山積神が有名ですが、女神とすれば乙姫様もそういえるかも。

[11000] Re[10999]: 浦島子の物語 1  生田淳一郎 2012/01/06(Fri) 16:52 [Reply]
 お神酒飲み過ぎて肝臓がダウンしてるのじゃないかと心配しましたが、元気のようでなによりです。

● これまで「イカリ」は農耕とばかりに思い、そのように紹介してきましたが、このほどアラビア語のほかトルコ語にも kal(金属精錬)があることがわかり、大幅修正です。イヒカリ・・・・・、ま、両方をニラむ必要があるのでしょう。

● 小生は目下タジク語の辞書を読んでいます。その成果のひとつですが、伊丹(市)とはイフキ、胆振と同じく、「ふいご・する」という意味が出ました。なぜニュー、ニブの発音に丹の字をあてるのか・・・。胆振の胆にもタンがある。

● 豊、日田、九重、日出。まさに小生の “ 血のふるさと ” です。
 玖珠郡玖珠町にある切株山には急速に巨大化したクスノキの伝説があります(小生の父親はこの切株山にうまれました)。このクスノキをくりぬいて大きな舟をつくったそうです。豊のくにと丹後・摂津方面の交流に役だったという伝説ですが、信じたいところです。

● ウラシマは、ウラシマジと置いてみると、馴染みのある領域が展開するようです。 / タカクラジ・ウマシマジ。
 ウラは龍ではないでしょうか。ことしはタツ(dhatu・・・金属)どし。嗤えヨ↗

[10999] 浦島子の物語 1  神奈備 2012/01/06(Fri) 14:58 [Reply]
浦島子の物語を調べていたら、豊国、丹後、摂津の三ヶ国のつながりが浮かんできました。

キイワードは「豊」「潟湖」「日下部」「浦島子」です。


先ず、豊国と丹後について。

 大分県に日出(ひじ)町に真那井(まない)と言う場所があります。丹後には峰山町に比治の里に真名井と言う泉があり、天女が舞い降りた伝説が残っています。
 大分県九重町の太陽が射し込むタイミングがある壁湯天然洞窟温泉があり、ここに天女が下りてきたとの伝説があります。入浴客の妄想?


 大分県佐伯市の場所は海部郡で、海人族の地。丹後の籠神社の海部氏にもつながります。おそらく、これら海人族の相互の移動が各地によく似た伝承や神話をもたらしたのでしょう。ネットによれば、現在でも丹後の伊根町の舟屋と同じ舟屋が豊後国海部郡にあるそうですが詳細は調べ切れていません。
 いずれにしても、丹後も豊後も、摂津もですが、潟湖が点在し、海人の航行に実に便利な港湾となったのです。


 水銀朱は災いを避ける色であり、また防腐剤にもなり、縄文時代から墳墓に入れられたりして、使われてきました。特に中央構造線と言い、熊本ー大分ー愛媛ー徳島ー和歌山ー奈良ー三重と大断層ゾーン付近の地中から出土していました。それとは別に丹後からも水銀朱が採取されていたようです。

 大分県では大分市坂の市町に丹生神社が集中しています。ここの土壌の水銀含有率は二桁のppm以上ですこぶる高品位。大分市宮河内字阿蘇入の土壌の水銀含有率は0.13%と桁外れに高いのです。
 『豊後風土記』に、「景行天皇が土蜘蛛を打ち、その血で血田と呼ばれた。」との地名説話が書かれています。大和の宇陀に血原地名があり、やはり水銀産地です。

 丹後では、京都府竹野郡丹後町に丹生神社が鎮座、また舞鶴市大丹生の丹生神社鎮座血は、往古より水銀の産地として名高いようです。

 『丹後風土記残欠』に、「伊加里姫」を祭る神社についての記載があります。大和吉野には「井光」と書いて「いかり」と訓む神社が鎮座。また神武東征譚に、「人がいて井戸の中から出てきた。その人は体が光って尻尾があった。」とあり、これが井光と名のっています。水銀鉱山から顔を出した姿のように見えます。このように丹後も豊国や大和と同様に水銀朱の産地だったのです。


 『豊後国風土記』日田郡(ゆぎあみ)郷 欽明天皇のみ世に、日下部君らの祖邑阿自(おほあじ)がユキ部としてお仕え申し上げた。

『丹後国風土記』与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人、日下部首等が先祖は、名を筒川の嶼子と云いき。人となり姿容秀美しく、風流なること類なかりき。こは水江の浦の嶼子といふ者なり。

 ついでに河内国では、生駒山の西麓に日下地名があり、日下部氏の居住地でした。


 豊後国大野郡(大分県大野郡)に鎮座する、門上社、土鳥社、要社、中道神社「皆、浦嶋太郎を祭神とする。」とあります。大野郡は阿蘇山の東30km、海には40km以上も離れた山間部。こういう場所に浦嶋太郎が祭られていることについては、郷土史家も首をひねっていると言う。

 豊後・豊前の両国は豊国を分離したもの。
 『豊後国風土記』(序文)に、豊国に名の由来がかいています。簡単にまとめると、夜明けに白い鳥が北から飛んできて、村に舞い集まった。鳥は見る間に餅となった。さらに数千株もある芋草になった。この事を天皇に奏上すると、「天皇は「天の神から下さっためでたいもの、地の神から授かった豊草である。」と仰せられた。ゆえに豊国と言う。

 白い鳥はまさに豊受大神そのもの。

[10998] 塩津神社跡?  神奈備 2012/01/01(Sun) 09:35 [Reply]
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

12月30日の大阪日日新聞に「琵琶湖で津波か」と言うタイトルの記事がありました。
北端の塩津遺跡から北側に倒れた柱群が見つかったようです。
詳しくは

http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/17dcac755ada7b8fcecf390f5d4f477b

http://www.genbu.net/data/oumi/siotu_title.htm



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