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掲示板のログ(平成二十四年 四月〜 2012.4〜6)お名前の敬称は省略しています。

[11180] 諏訪  福島雅彦 2012/06/30(Sat) 20:50 [Reply]
※周防から鐵一萬斤…。

*周防=諏訪=“쇠-와”(soe-wa)=「鉄・来る」(直訳)の古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)。
*光市には新日本製鉄所が…、古代から製鉄があったのですね。

[11179] Re[11178][11177][11176][11174][11173][11156]: ひみを  ペギラ 2012/06/30(Sat) 16:28 [Reply]
> 倭人が「おう」と言っているのに、「わん」と聞いているということです。
>
>

ちょっとこれは、凶暴な例えですね。すいません。

天武天皇十四年(六八五)十一月甲辰《二》◆十一月癸卯朔甲辰。
儲用鐵一萬斤送於周芳惣令所。
▼是日。筑紫大宰請儲用物。■一百疋。絲一百斤。布三百端。庸布四百常。
鐵一萬斤。箭竹二千連送下於筑紫。

ここで出てくる「周芳」は、日本古典文学大系本の訓では、
「すは」

「は」が「わん」に聞こえているということです。

[11178] Re[11177][11176][11174][11173][11156]: ひみを  ペギラ 2012/06/30(Sat) 16:06 [Reply]
> ※倭人が「おう」と発音しても「王」とは書かないでしょう。彼らは「わン」の認識ですから…。
>

正確に 聞き取っていないから こうなるということで。

倭人が「おう」と言っているのに、「わん」と聞いているということです。


[11177] Re[11176][11174][11173][11156]: ひみを  福島雅彦 2012/06/30(Sat) 14:29 [Reply]
「秦王國」
> これも漢字音訳に意味がついてしまって、後世みんなを悩ます記述ですよね。
> これは、普通 「周防国」でしょう。

※倭人が「おう」と発音しても「王」とは書かないでしょう。彼らは「わン」の認識ですから…。

*秦王國=華奴蘇奴國の漢訳でしょう。

*華奴蘇奴國=「漢ン祖ン國」(奴=ン、は格助詞「の」の音便変化の音写)で、秦人の徐福を「漢」の前の人と説明、徐福が起こした国、の意。
徐福は、平原廣澤の王となって帰らず、です。佐賀県の神崎郡(漢前(さき)郡)が発展的に京筑地区へ展開した、と。

[11176] Re[11174][11173][11156]: ひみを  ペギラ 2012/06/30(Sat) 11:07 [Reply]
>当時の倭人が、「卑弥呼」と言う文字を見て、女王をさしていると分かったでしょうが、どう読んだのでしょうね。

タイムマシンが欲しい!
ドラえも〜ん!! よりも、個人的には、「デロリアン」で。

そんなタイムマシンみたいな、というか、タイムカプセルになるのかな?
「日本書紀」はすごいと思います。

何度読んでも、いつも新鮮で、毎回新しい発見がある。

ドラマとか、映画でも、何回見ても飽きないというやつですね。
「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」
「相棒シリーズ」「躍るシリーズ」
家中のみんなから、「また?」という冷凍ビームを浴びながら
一人 戦っています。(笑

当時の倭人、何と読んだか? 
魏の返書があったということですかね。
そこに「卑弥呼」と書かれていたという。

う〜ん。あったとしても どれだけの人間が文字を読めたか?
万葉仮名というのが 確立されたのが、いつか。
正統万葉仮名は、日本書紀編纂作業開始以降だと思っています。
発音と文字と意味が近づいてきたという世界。
それまでは、てきとうな借字の域ではないかと。

通訳などは、「ひみこ」〜「ぴ」「ほ」〜「ひみを」まで、色々でしょうが、
現地の倭人は、「ひめみこ」と読むのではないでしょうか。
自分たちがそう言ったのだから。
逆当て字?無理がありますが。

現代 
日本語 カラオケ 
中国語 卡拉OK  
みなさんがどう聞こえるのかは、なんとも、 ですが、
私には、中国語カラオケは、  「カラーオッケイ」 (極端かな?)
白黒印刷か、カラー印刷か、というので、 カラーOKという感じに。
でも日本人は、「カラオケ」と発音するでしょう。
例えが下手で、すいません。もっとわかりやすいのがあれば良いのに。
私に知識が足りません。残念

日本書紀にも漢字音訳が、あります。
すごいですよね。この本。ほんとうにびっくりですよ。
後世に残っていてくれてありがとう。残す努力をしてくれた賢人たちに感謝。

『日本書紀』から

巻二二推古天皇十六年(六〇八)八月壬子《十二》

『皇帝問倭皇。
使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。
知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。
丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。
故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。』

この文章は、α群?β群? 
22巻は、β群だから、和風漢文?。  だが、引用文はどうなのか?
α群のなかでも、引用文はそのまま和風が使用され、 正統漢文ではないとしている。
じゃ、これは? β群のなかにある、引用文はどうなのか?
だれか、森先生に聞いてください!!(笑

で、このあたりにある、漢字音訳
今遣大禮蘓因高。大禮乎那利
日本書紀では、小野妹子  難波吉士雄成

でも、隋書には、この二人で出てこない。

『隋書』から

倭王遣小コ阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見、大ス、
曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」
清答曰:「皇帝コ並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。
其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」
於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

正統音訳漢字とでも、言いましょうか。
小コ阿輩臺、大禮哥多毗

この人物は、日本書紀に相対させるならば、
粟田細目臣  額田部比羅夫連
でしょうかね。

私としては、今、こんな思いです。

そうそう、隋書には、
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。
度百濟、行至竹島、南望 羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。
又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

に「秦王國」

これも漢字音訳に意味がついてしまって、後世みんなを悩ます記述ですよね。
これは、普通 「周防国」でしょう。

そもそも、中国の歴史書に「秦王国」などという記述は無い。「秦国」だ。

辺境の地だから、こんなことになったのか?とでも言いたいのでしょうか。
魑魅魍魎の住む 辺境に 行ったからには  面白い土産話が 必要だったのか。

隋の宮廷での、大爆笑音が聞こえてくる。そんな思いです。


[11175] Re[11174][11173][11156]: ひみを  福島雅彦 2012/06/29(Fri) 11:43 [Reply]
※横レス、失礼します。

>  当時の倭人が、「卑弥呼」と言う文字を見て、女王をさしていると分かったでしょうが、どう読んだのでしょうね。

※読まなかった、と思います。

*中国人は、「倭語」の“himmikot”=“힘”尊(みこと)=最高位の尊のことを、この様に書くのだ、とは認識したか、と。

[11174] Re[11173][11156]: ひみを  神奈備 2012/06/28(Thu) 20:32 [Reply]
ペギラさん こんばんは。

> 中国人がどう日本語を聞きとったかというものであり、

 「呼」と言う文字は、魏国では、wo ho と言う発音だったようです。

 日本でも、万葉集で使われている「呼」は、「を」の発音です。数巻を見ましたが、「呼」を「よぶ」と使用する以外には「を」か、「阿呼」で「あ」のルビで無発音になっているものしか見つかりませんでした。
 日本で「呼」を「こ」と発音するのは、平安時代以降のことではないでしょうか。ho → ko ?

> 私個人としては、日本人が「こ」と読もうが「を」と読もうが、そのあたりに、似た音ということだけだと思います。

 当時の倭人が、「卑弥呼」と言う文字を見て、女王をさしていると分かったでしょうが、どう読んだのでしょうね。

[11173] Re[11156]: ひみを  ペギラ 2012/06/26(Tue) 20:45 [Reply]
> 「卑弥呼」の「呼」を「こ」と読んでこの名を「ひみこ」と読むことが通例になっているが、

おひさしぶりに突然の発言をお許しを。

この「卑弥呼」という漢字については、
森博達著 「日本書紀の謎を解く」p67〜 少し関連が登場します。

漢字音訳 というのもですよね。

p68に明の万暦20年(1572年)頃に撰述された「日本風土記」という
日本事情紹介書の音訳が記載されています。

乃密・・・・・・ナミ(浪)
紫七・・・・・・ツチ(土)
揺革許多・・・・ヨカヒト(善人)九州方言
伏陀革一潔・・・フトカイケ(太か池、湖の意)九州方言

中国人がどう日本語を聞きとったかというものであり、
私個人としては、日本人が「こ」と読もうが「を」と読もうが、
そのあたりに、似た音ということだけだと思います。

コーヒーは珈琲  チョコレートは巧克力

>其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀。

ここから、見えそうなのは、
「ひめみこ」「ひこみこ」 と、私は勝手に思っています。

「ひめみこ」を 音訳して 「卑弥呼」なら、
日本人がこの漢字を「ひみこ」と呼ぼうが、「ひみを」と呼ぼうが。

諸先輩方のご考察を否定するものではありません。
私のような 考え方もあるのではと。

夜道で襲わないでくださいね。(笑


[11172] Re[11171][11170]: トリック?  大三元 [Url] 2012/06/26(Tue) 16:42 [Reply]
神奈備さん

>  そこで、「乎」、「男」、「雄」のついている代表的な神様をあげてみました。

五伴緒(天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命):
「緒」という用字に目を引かれると共に、そこには女性(女神)が二柱含まれており「を」が必ずしも男、雄、♂とは限らないことが云えそうです。

[11171] Re[11170]: トリック?  神奈備 2012/06/26(Tue) 09:13 [Reply]
縁MADOKAさんに卑弥呼を「ひみを」とよむ説があるとのことをお話しました。

「を」と言う言葉には力強さがある。それは当たっているかも知れない。とのご託宣。

 そこで、「乎」、「男」、「雄」のついている代表的な神様をあげてみました。
須佐乃乎命
伊迦賀色許男命
葦原志許男神
黄泉事解男神
加賀背男神
*筒之男神 *=表、中、底
火之夜藝速男神
熊野速玉男神
健御雷之男神
手力雄大神

なるほど、威力ある凄みのある神様がならびました。

卑弥呼さんも、鬼道を扱う巫女さんですから、畏敬すべき存在、ヒミさんに+警蹕の音(を)をつけて呼んだのかも知れません。魏の書記さんは、そのこともあって、「を」に「呼」と言う字を当てはめたのかも。

縁MADOKAさんの古代史漫談
http://kamnavi.jp/link/enmadokakodaisi.htm

[11170] トリック?  福島雅彦 2012/06/24(Sun) 10:37 [Reply]
>どうして「ひみこ」と疑いも持たずに読むのでしょうね。
私も以前はそうだったけど。。。すり込み、マインドコントロール?

※読んでは駄目ですョ。

*「倭語」の何を意味する言葉を何と発音したら、中国の書記官があの当て字を振るか、が問題です。

*倭人が「ひみを」と発音したら、絶対にあの文字は撰ばない筈です。

*何かの、刷り込みに陥っているから、読みたくなるのです。読んじゃ駄目!

[11169] Re[11168][11158][11157][11156]: ひみを  大三元 [Url] 2012/06/24(Sun) 07:16 [Reply]
神奈備さん

>  呼 が を であるのは、神名で実に正直に出てきます。

ですよね。
どうして「ひみこ」と疑いも持たずに読むのでしょうね。
私も以前はそうだったけど。。。すり込み、マインドコントロール?

[11168] Re[11158][11157][11156]: ひみを  神奈備 2012/06/23(Sat) 20:42 [Reply]
 呼 が を であるのは、神名で実に正直に出てきます。

 『平成祭CD』平成7年 神社本庁発行 は、神名の一文字で、それがついている神様の一覧が出るようになっています。

呼 で検索しますと、二柱。こ と言う発音はゼロです。 
 素盞呼命 岐阜市高田の津島神社のみ
 尾張國造呼止與命 愛知県津島市神尾町の七所社のみ

乎 では多くの神様がでてきます。
 須佐乃乎命
   之
   能
 乎止世命

呼や乎には、王 の意味があるとの説があります。
 須佐皇王尊 長崎県南松浦郡の祖父君神社
と言う名前で素盞嗚尊を祭っています。須佐と素盞につく王の神名は上記一柱のみ。

 また素盞嗚尊の場合、男、雄などの他に烏もあります。
 須佐能烏命 福岡県嘉穂郡の老松神社

 余談 素盞鳴 すさなき
長野県東筑摩郡生坂村 本村神明社諏訪社合殿
愛媛県西条市 原八幡神社 あわせて西条市に4社

[11167] 秦氏と大田(太田)  神奈備 2012/06/20(Wed) 10:49 [Reply]
 秦氏は一つの氏族と言うより、新羅系の渡来人の総称のような所があるように感じます。

 長幡部神社が常陸国久慈郡太田郷に鎮座しています。ここで織られる布は倭文織よりも美しく丈夫だったそうです。当社の祭神の多弖命は三野よりこの地に来ています。
 美濃には秦氏が多く住んでいたようです。女神が降臨したと言う引津根(不破郡垂井町)は織物より金属生産が主業だったのかも知れませんが、やはり秦氏の臭いがしても不思議ではありません。

 また太田郷と言う地名は全国に多いのですが、『播磨国風土記』揖保郡大田里に、「呉の勝が韓国から渡ってきて、紀伊の名草の大田の村に着き、次ぎに摂津の三島の賀美郡の大田の村に移り、それから播磨に移住した。」とあり、「勝」の動きは秦氏の動きではないかと思われます。

 秦氏と大田(太田)は密接に関係しているようです。

[11165] 亀山さん  神奈備 2012/06/17(Sun) 19:27 [Reply]
古事記学会の研究発表

 皇學館大學非常勤講師 亀山泰司さん

 日本書紀の区分で、森博達さんの分類 α群 β群 があります。歌謡の仮名に カ行の牙音字と喉音字を使う巻をβ群、カ行に牙音字のみを使うのをα群と分類している。この分類はかって、太田善麿氏、西宮一民氏などの分類とほぼ同一。

 天照大神は伊勢大神と日神と言う名で紀に記載されているが、β群はすべて天照大神の表記、α群は伊勢大神と日神のみで、天照大神はいっさい出てこない。また、神名を伊勢大神と書こうが、日神と書こうが、天照大神と書こうが文意には関わり合いがない。

 今後の課題は、何故そのような使い分けがあったのか、またβ群と古事記との近さもあるようで、それらを検討して行きたいとのこと。

 写真掲示板に、亀山泰司の発表の写真をだしています。

[11164] 吉備の国は謎が多い  神奈備 2012/06/15(Fri) 21:13 [Reply]
 今更何ですが吉備の国は謎が多いようです。

 『魏志倭人伝の考古学』佐原真著 によりますと、黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布しています。東海を狗奴国と見ますと、瀬戸内海の真ん中の要衝に吉備国がいて、狗奴国と同族であって、従って同盟関係にあったのかも知れません。倭国乱、これでは、九州と畿内の勢力はほとほと困ったことになったのでしょう。

 ここで畿内の知恵者が思いつきました。「吉備にすごい巫女がいる。そうだ! 吉備の巫女をみんなの王にしよう。これで吉備を味方にできる。狗奴国に対抗できる!」この作戦がうまく行きました。これで西国連合対狗奴国との戦いになったのでした。


 弥生末期の特殊器台と言う大きい円筒形の埴輪は吉備が発祥の地だそうです。古墳時代に入り、大和の初期古墳の箸墓や西殿塚古墳、また淀川北部沿いの古墳に立てられていたようです。古墳時代の大和の大王は吉備の祭祀を取り入れています。大和・吉備連合政権と言ったものだったのでしょう。
 その後、魏国の介入もあって狗奴国と和解が成り立たったのでしょう。


 謎の3が古墳、造山古墳は伝履中陵古墳(上石津ミサンザイ)とほぼ合同で、時代は4世紀末、伝履中陵古墳よりは時代が若干先行しているようです。
 この時代の最大の古墳です。大王が生きている間に造営するようで、倭国最大の権力者が埋葬されている可能性があります。
 記紀風に言うと、「吉備に天皇がいて、古墳を造り、埋葬された。」ということになります。吉備に宮を置いた天皇は、『紀』には、応神天皇が葉田の葦守宮に移って住んだとあります。岡山市下足守の葦守八幡宮の場所とされています。造山古墳は応神天皇の古墳かも。

 次に吉備で大きい古墳は作山古墳です。この古墳は誉田御廟山古墳と同じ頃の造営のようで、この頃の吉備には倭国の大王クラスはいなかったようです。

[11163] 大倭  神奈備 2012/06/13(Wed) 19:53 [Reply]
 『魏志倭人伝』に、「国々に市場が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行われて、大倭が命じられてその監督の任に当たっている。」とあります。

 「大倭」なる官職があり、市場を監督しているということです。『魏志倭人伝』にわざわざ記載されている所を見ますと、重い役割があったのでしょう。

 大倭がつく天皇がいます。欠史8代のうち
4 懿徳天皇 大倭日子鋤友命
5 孝安天皇 大倭帯日子国押人命
6 孝霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命
7 孝元天皇 大倭根子日子国玖流命
の四天皇の名についています。それ以外に神名として、大倭吉備津彦命。
女性では、大倭玖迩阿禮比賣命(孝霊妃)、大倭迹迹日百襲比賣命(孝霊の娘)の二人です。吉備にからむのが面白い所です。
 大倭のつく天皇や皇子は市場の監督もやったと言うことでしょう。総理大臣みたいなものか。


[11162] 古事記学会大会  神奈備 2012/06/12(Tue) 13:33 [Reply]
●古事記撰録千三百年記念 古事記学会大会
(平成24年6月16日(土)・17日(日)
奈良県新公会堂)

期日 平成24年6月16日(土)・17日(日)
場所 奈良県新公会堂 能楽ホール

問い合わせ先
古事記学会事務局 國學院大學 若木タワー10階
1009(谷口)研究室 tel 03-5466-0212

  来 聴 歓 迎

▼6月16日(土) 公開講演会 午後1時〜午後4時

古事記の文体--変体漢文の見直しを中心にして--
 皇學館大学教授・大阪市立大学名誉教授 毛利正守

『古事記』歌謡における人称転換と自敬表現
 聖心女子大学名誉教授 山口佳紀

『古事記』成書化の歴史的意義
 京都大学名誉教授・島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長 上田正昭

▼6月17日(日) 研究発表会 午前10時〜午後4時30分

午前の部

顕斎についての一考察
 國學院大學大学院生 落合敦子

古事記における仁賢天皇の位置づけ
 甲南大学非常勤講師 阪口由佳

穂穂手見命はなぜ高千穂の宮で五百八十年過ごすのか
 長崎大学 勝俣隆

午後の部

日本書紀β群と古事記--「天照大神」の偏在について--
 皇學館大学非常勤講師 亀山泰司

『古事記』下巻允恭天皇在世時の記事について 
 亜細亜大学短期大学部特任講師 伊藤剣

『釈日本紀』にみる『古事記』の価値
 國學院大學兼任講師 渡邉卓

『古事記』天覧に供されず
 菅野雅雄

18日・19日 臨地研究「壬申の乱ゆかりの地をめぐる」

特別陳列「古事記の歩んできた道--古事記撰録1300年--」
会 期 平成24年6月16日(土)〜7月16日(月・祝)
会 場 奈良国立博物館 西新館(第1室)
休館日 毎週月曜日
開館時間 午前9時30分〜午後5時(毎週金曜日は午後7時まで開館)
※入館は閉館の30分前まで

[11161] Re[11156]: ひみを  福島雅彦 2012/06/10(Sun) 15:58 [Reply]
> 「卑弥呼」の「呼」を「こ」と読んでこの名を「ひみこ」と読むことが通例になっているが、果たしてそれで良いのか。

※大三元さん、詳しい論考を拝読しました。
*私は、厳密な音価で読むのではなく、「倭語」の何の意味を音写したか、を考察すべきだと思います。

*「卑彌呼」=“힘”(him)尊(みこと)=「最高位の尊」の意の古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)音写、と観ます。

*語義も勘案した近似音であろう、と。鬼道の祭事の時トランス状態で呪文を唱える。

*「卑彌呼」=「卑しく愈々叫ぶ」の語義と「ひンみこッ」の合成か、と。

[11160] 豊中歴史同好会  神奈備 2012/06/08(Fri) 12:44 [Reply]
6月9日 午後2時〜4時 1時過ぎから会員による報告があります。面白い。
講師 愛知県埋蔵文化財センター 副所長兼調査課長 赤塚 次郎 さん
演題 考古学から見た4・5世紀の尾張とヤマト政権
場所 豊中市立蛍池公民館集会室 5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[11159] 10日で終わりです。【尾張氏】  ふえふきじんじゃこふんくん [Url] 2012/06/07(Thu) 21:44 [Reply]
何度もカキコさせていただきました名古屋市博物館の「尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」展、いよいよ10日で閉幕です。
大変な人気となっているようです。
一名古屋市民ですが、尾張氏の知名度がアップし、文化財保護の予算が引き続き
出て、研究が進む事を願っています。
若狭の向山1号墳の埴輪の工人衆と尾張は同じ手法ではないかと言われています。
会場には実物の展示があります。
どうぞ、お近くのまだ、見ておられない方、お出かけ下さい。

[11158] Re[11157][11156]: ひみを  大三元 [Url] 2012/06/07(Thu) 19:42 [Reply]
神奈備さん、吉備からお帰りでしたか。レスありがとうございます。

>  で、『三国志』の著者の西晋の陳寿さんは、「呼」を「を」と発音するものとして書いたと言うことですね。

陳寿さんが卑弥呼というスペルを書いたのがオリジナルなのか、以前から(中国側か日本側か)そう書かれていたのをコピーしたのか、は別の話でしょうが、とにかく「呼」の音(h)と「こ」と読まれて良さそうな「狗、觚、古」の音(K)とは違う音なのだ、ということにもっと注意すべきではありましょう。

今日見つけた別例:福井市の「日野川」流域に「三尾野町」があり天神山に古墳群があり、弥生時代以降の遺物がでる、と。

[11157] Re[11156]: ひみを  神奈備 2012/06/07(Thu) 19:17 [Reply]
 これは邪馬台国論争に画期的な衝撃になります。

 万葉集では確かに出てきます。巻10 2164
[原文]瀬呼速見 落當知足 白浪尓 <河>津鳴奈里 朝夕毎
[訓読]背を早み落ちたぎちたる白波にかはづ鳴くなり朝夕ごとに
[仮名],せをはやみ,おちたぎちたる,しらなみに,かはづなくなり,あさよひごとに

 で、『三国志』の著者の西晋の陳寿さんは、「呼」を「を」と発音するものとして書いたと言うことですね。

[11156] ひみを  大三元 [Url] 2012/06/07(Thu) 08:16 [Reply]
「卑弥呼」の「呼」を「こ」と読んでこの名を「ひみこ」と読むことが通例になっているが、果たしてそれで良いのか。いくつかの論拠のもとに「こ」ではなく「を」と読むべきである、という仮説に説得力があるように思う。(私は「ほ」と読むのではないか、と論じたが「を」の方が良さそうだ。)つまり、卑弥呼は「ひみを」であろう。
 「ひみを」は「日・水・緒(尾)」でありその意味は「日・川・命」または「日・川・峯」あたりではないかと思う。上記URLをご参照願う。

 これに関して興味があるのは:山口県旧鹿野町東部(現在:山口県周南市大字須万 )の『秘密尾(ひみつを)』という集落に『氷見(ひみ)神社』がある。創建は貞観(じょうがん)7年(870年)。「広大な原生林を切り開くのに七日間かかり、やっと太陽を拝めたということから、ここは日見尾(ひみお)と名付けられたそうです」という案内板がある。この神社の上宮は女人禁制となっていますが、上宮とは、氷見神社社叢つまり氷見神社裏山(社叢)が御神体だそうです、という報告がある。三代実録に比美神として見えるのがここであろう、と考えられているようだ。

 なにもここが邪馬台国だ、というつもりはないが、卑弥呼の記憶が反映されているような印象を強く持つ。

[11155] 吉備津彦神社  神奈備 2012/06/04(Mon) 17:19 [Reply]
 『国史体系』と言う古典を集大成した書籍があります。この中に延喜式が採録されています。多くの写本などから編纂したもののようです。
 備中国賀夜郡四座の最後に、吉備津彦神社 名神大 とあります。この郡の大社はここだけなので、筆頭に来ても不思議ではないのですが、尻に来ています。想像するに、元々は延喜式神名帳の原稿には記載がなかったが、有力者が巻き返して記載させたなどと推測してしまいます。王朝の頃、吉備津宮とか吉備津大明神と呼ばれていたようで、本名は吉備津神社であって、近くの吉備の港の守護神だったのでしょう。

、社伝に「加夜臣奈留美命が吉備中山の麓に、茅葺宮を営み吉備津彦を祀ったのが神社の起源。」とあります。加夜臣奈留美命の名は『出雲国造神賀詞』の「賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」が思い起こされます。偶然かも。

 吉備津彦神社は古代、気比比売大神、気比大明神の名で、天照皇大御神、月讀大神、素戔嗚大神、建日方別大神をお祀りしていたと¥100円で頂いた由緒書きに書いています。

 また、吉備=気比のようで、北陸に多い気比神社や、能登國や高志深江国造で、「素都乃奈美留命」が思い浮かびます。能登国の羽咋郡に鎮座の瀬戸比古神社の祭神にもなっています。素都乃奈美留命は瀬戸比古と称されていたのでしょう。
 
 この二つの神社の間に、有木神社と言う祠があるそうです。歩いたつもりですが気がついていません。アリキ。福田海本部と言う宗教団体の敷地の中に不動岩があるそうです。吉備中山の祭祀場だったようです。

[11154] アマテラスもい大変だね!  平民 2012/06/04(Mon) 17:09 [Reply]
アマテラス(記紀の伝説)重視なのにいまだに叡智はみとめない大和文明?
いい加減に馬鹿な振りやめれば!渡来だと思ってびびっていたらガチの先祖(先住民)でした?引っ込みがつかない(一部の文系のエリートがメンツ丸つぶれ)から先祖や叡智否定して現状維持?
アマテラスが日食にびびって岩戸に隠れたのおなじパターン??
大笑いだった「火星とおなじ19.5度の配置の遺跡」。イギリスにも日本にも。埼玉県の越生町が有名らしいね!ちょっと前は越生郷高麗領だったっけ?埼玉県日高市は韓国式風水が探し当てた日本の中心地らいしよ!旧石器時代じゃないの?縄文よりも新しい時代?帰国子女が渡来人?時代の古さが桁違い!叡智レベルも桁違い!
日食=サロス。まさか発想の違いで「約19.5度」という山頂(数字)にさえたどり着けなかったの?一年間で「天球上で西へ移動」する角度だよ!北岳から100km地点なのも当然だったか!いいだしたらきりがない!渡来重視じゃないからネタがつきない!先祖たちが黒曜石を大好きだったことに感謝!徹底してふさわしい場所の石重視!それにして文字や記憶(口伝)の再現性の低さ!「数学という文字」の追試の凄さ認識。同じことを考えればおなじ場所、おなじ距離、おなじ数字。

[11153] Re[11152][11151][11150][11149][11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  福島雅彦 2012/05/31(Thu) 21:13 [Reply]
> > *私も、以前箕面の滝は見た記憶があるのですが、水源は何でしょうか。
>
>  箕面の滝の北側に溜め池に毛が生えた程度の箕面川ダムがありますが、さほど水量があるものではありません。
>  ダムから滝への途中の水路に地下水が噴き出していたようで、滝には安定した水量があったようです。
>
>  ダムの北約2.5km付近にトンネルを掘っていた際、地下水路を切ったようで、水があふれ、一方では箕面の滝への川の水量は激減しました。
>  現在は、ポンプアップした水の循環で滝の景観を維持しています。

※情報を下さり、多謝 謝々!

*と謂うことは、太古から豊富な水源が在ったのですから、箕面=「水生」の語義と。

[11152] Re[11151][11150][11149][11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  神奈備 2012/05/30(Wed) 15:43 [Reply]
> *私も、以前箕面の滝は見た記憶があるのですが、水源は何でしょうか。

 箕面の滝の北側に溜め池に毛が生えた程度の箕面川ダムがありますが、さほど水量があるものではありません。
 ダムから滝への途中の水路に地下水が噴き出していたようで、滝には安定した水量があったようです。

 ダムの北約2.5km付近にトンネルを掘っていた際、地下水路を切ったようで、水があふれ、一方では箕面の滝への川の水量は激減しました。
 現在は、ポンプアップした水の循環で滝の景観を維持しています。

[11151] Re[11150][11149][11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  福島雅彦 2012/05/30(Wed) 15:11 [Reply]
> 大阪の箕面は滝が有名ですが、瀬戸内海気候の東端であまり雨が多いようではないので、溜め池が多いようです。

※ご無沙汰しています。コメント戴き多謝 謝々!

*私も、以前箕面の滝は見た記憶があるのですが、水源は何でしょうか。

[11150] Re[11149][11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  神奈備 2012/05/29(Tue) 17:13 [Reply]
> ※水縄連山(耳納山地=箕尾)、箕面、美濃、の地名は「水生(みのお)」の語義を持っている、と観ています。稲作に必要な時期に必要な用水を供給する保水力のある土地(山地)の意、と。

言語に強い方の鋭さですね。ありがとうございます。

水縄連山は雨が適当に降り、かつ保水力のある山なのでしょう。
大阪の箕面は滝が有名ですが、瀬戸内海気候の東端であまり雨が多いようではないので、溜め池が多いようです。

[11149] Re[11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  福島雅彦 2012/05/28(Mon) 23:41 [Reply]
> 偶然見つけたのですが、箕面有料道路のゲート付近から府道9号線を東よりに歩き老人ホーム「永寿園」東隣の道を山中に上ると数分して「水神社・白姫大明神」なる神社が目に入ります。(http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-144.html)
>
> この他に箕面市内、特に「如意谷」一帯は水神さまを祀る神社・祠が多数ありますがどのような謂れがあるのでしょうか、神奈備さま、なにか情報をお知りではないでしょうか。

※水縄連山(耳納山地=箕尾)、箕面、美濃、の地名は「水生(みのお)」の語義を持っている、と観ています。稲作に必要な時期に必要な用水を供給する保水力のある土地(山地)の意、と。
*水縄連山(耳納山地)=東西約25qの一重の単山で山頂はノコギリの歯状を呈し(高千穂)、山腹は下り尾根と谷沢に刻まれ([木患]触嶽」)で保水力のある山です。
*箕尾山の別名と、高牟礼山の別称=“다가-물”(taka-mul)山(水が集る)です。

[11148] 磐井は死して筑紫の多くの人を助けた  神奈備 2012/05/26(Sat) 17:09 [Reply]
5月27日のウガネットは 15時30分から 中央公会堂。

 中央のチョンボに何故九州の人々が徴兵されていくのか、かながね不満は高まっていました。筑紫の支配者であった磐井はついに堪忍袋の緒が切れてしまいました。

 筑紫にいた渡来人や各地の豪族も磐井を応援したのでしょう。

 ヤマト王権もさすがに物部麁鹿火と大伴金村を将軍として磐井に対峙させました。
 物部氏は遠賀川流域にルーツともいえる故地を持ち、多くの同族民が住んでいました。磐井につくか麁鹿火につくか、また、大伴氏は後の百済の達率日羅などの例もあり、肥後に久米地名が残るようにやはり同族が住んでいました。彼らも単純に磐井につくことにはならなかったのでしょう。

 そういうこともあって、磐井は破れました。
 
 しかし、その後の大規模な出兵は行われませんでしたので、筑紫からの徴兵はなかったのでしょう。死して目的を達したともいえます。

[11147] 麁ぶる神  神奈備 2012/05/26(Sat) 08:21 [Reply]
 九州の神々は麁ぶる神が多いとの指摘はかねてからあります。
木花咲耶姫 瓊瓊杵尊が姫の貞操を疑ったので、産屋に火を付けて出産。おそらく焼死したのでしょう。

香椎宮 香椎神が神功皇后に、「自分を祀れば金銀の豊富な新羅の国は戦わずに従うだろう。」と託宣しましたが、仲哀天皇はそれを疑い、聞き入れなかったので、天皇は病気になり、翌日には死んでしまった。

半殺しの神も多い。
筑後国風土記
 筑前国と築後国との間に、けわしく狭い坂があった。この上に麁猛神がおり、往来の人の半数は死んだ。「人の命尽くしの神」と呼ばれた。そこで筑紫君と肥君らが占って、筑紫君らの祖甕依姫を巫祝として祭らせた。麁ぶる神はおさまった。

佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社に伝わる伝承 地元小学校のHPから
 昔々、木の山の東に、とても大きな悪い神たちが住んでいました。 その神たちは、山道を通る人たちの約半数を殺し、後の半数がやっと命びろいしていました。 そこで、「里の人たちが、かわいそうだ」と、悪神たちを退治しにきたのが五十猛命でした。 そして、五十猛命は、みごとに退治しました。五十猛命が最初に木を植え始めたのが荒穂山だの伝承もある。

肥前風土記 基肄郡姫社郷
 荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分に及んだ。

肥前風土記 佐嘉郡
 佐嘉川の上流に荒ぶる神がいて、往来の人の半分は生かし、半分は殺した。

 このように麁ぶる神々跋扈している土地柄、多くの土蜘蛛たちもおり、その流れを受けた人々も多かったのでしょう。
 中央政府が新羅出兵に際し、従来通り、兵員の供出を求めてきたのです。しかし元々、出兵せざるを得ない誤った政策をとったのが、継体天皇であり、大伴金村であったのです。

[11146] 磐井の乱  神奈備 2012/05/25(Fri) 20:33 [Reply]
 5月の浪速の古代史研究会(通称ウガネット)のテーマが「古代の九州」。

 いろんなことが思い浮かびますが、所謂「磐井の乱」を起こした「筑紫王磐井」を取り上げてみました。古事記では 石井。

 まず、イハヰ とはどのような意味があるのでしょうか。
 『角川古語辞典』によれば、「岩間から湧き出る泉を掘って井戸としたもの」とあります。なんのこっちゃら。わざわざ掘ることもないのにね。

 まぜ、神奈備らしく神社から。

越後国三嶋郡 石井神社[イハヰ] もと住吉大明神、祈雨。石井に遷座後名を石井神社とす。

武藏國荏原郡 磐井神社[イハヰ] 祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、 邪なるものは忽ち変じて塩味となる、

近江国滋賀郡 石坐神社[イハヰ] ?

山城國乙訓郡 石井神社[イハヰ] 清水を神格化した古社なり。

 イハヰ は 泉や水に関した神社のようで、神社の原点に近い存在なのでしょう。泉があり、水がわき出している、貴重な場所です。回りに柵をして立ち入らない、ましてや掘り返すことをせず、大切に守ってきたように思います。

 村の人々が大切に守ってきた泉、権力者が独占しようとか、隣村が占拠しにくるとか、トラブルもあったのでしょう。こういう時に、「邪なる者や占拠者など、おまえ達には飲めない水だ! 」と磐井の神に祈って、相手に呪いをかけることもあったのでしょう。

『日本書紀』
456年 雄略即位前、御馬皇子(市辺押磐皇子の同母弟)は三輪の磐井の井戸の横で待ち伏せされ、殺された。この時、御馬皇子は井戸をさして呪った。「この水は百姓は飲めるが、王者だけはは飲めない。」と。

524 筑紫君磐井が反乱、西の国をわがものにしようとしている。
591 崇峻五 蘇我馬子、東漢直磐井の子の駒を使って崇峻天皇を暗殺した。

 これらを勘案しますと、磐井(イハヰ)とは、邪なる者、もしくはヤマト王権へ仇なすモノの名のようです。

[11145] ストーンヘンジ  神奈備 2012/05/22(Tue) 17:12 [Reply]
 たった一時間でしたが、ストーンヘンジを眺めて一周することができました。石組みの中には入れず、外からの見物でした。

 ストーンヘンジも紀元前2000年前に石組みができましたが、新石器時代の 太陽と月の動きのシュミレータと想定されています。

 石組は二重になっています。更に、見えませんが、石の外側に、360度で56個の穴があいています。これらと石を利用して”太陽”と”月”の動きを計算して、日食・月食を予測するようです。

 古代ギリシャのアリストテレスは、宇宙の動きを説明するべく、地球を中心とする透明な56個の同心球を想定しました。これは惑星の逆向きの動きをも説明するための同心球のことで、スト−ンヘンジの56個とは偶然の一致。

 ストーンヘンジの56個は、19+19+18の意味があり、月の動きはメトン周期という 18.61年 があります。同じ場所に月が昇ってきます。ストーンヘンジで起こる月食現象は56年ごとに繰り返すそうです。 

 食の予想についての神官の態度は、起こると言って起こらなくともいいのです。祈祷で禍を避けたとでも言い逃れができます。しかし、何も言わずに起こってしまいますと、致命的なことになります。無能・役立たずということ。

 古代中国の天文学者の羲氏と和氏は、紀元前213年10月22日の日食を見逃したために即時に処刑されています。

 ストーンヘンジの輪から20mほど離れてヒールストーンと言う石が立っています。夏至の日の出の場所を示しています。日本の場合ですと、周辺の山の頂上などを利用して環状列石を作るのでしょうが、ここの周辺には山がなく、このような石が必要だったのでしょうし、地平線からの日の出や月の出を確認できるメリットがあるようです。

写真掲示板に写真を掲載しています。

[11144] 90年ぶりの里帰り  ふえふきじんじゃこふんくん [Url] 2012/05/16(Wed) 18:31 [Reply]
名古屋市博物館「尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」の展示品の中に三環鈴があります。
大正12年京都帝大の梅原末治先生が志段味大塚古墳から発掘なさったものです。
4-5世紀中国東北地方の騎馬民俗「燕」の青銅器と同じものだそうです。騎馬武装とのことです。

今回、こうした京大保存の出土品が、90年ぶりに里帰りしました。名古屋市民としては嬉しい限りです。

どうぞ、お近くの皆さん 博物館にお越しください。尾張氏は、馬に乗って駆け回った勇敢な武士団だったのでしょうか?


平成24年5月16日よる6時56分 名古屋テレビで「古代の王家」之巻 名古屋市博物館の紹介がありますよ。http://www.nagoyatv.com/shin_omotenashi/index.html

毎々失礼しました。「尾張氏」がテーマになる展示会が無いものですかハイになってしまいました。神奈備様、感謝感謝です。

[11143] お近くの方 来てください!  ふえふきじんじゃこふんくん [Url] 2012/05/13(Sun) 17:52 [Reply]
名古屋からまたまた、おじゃまします。尾張氏好きな市民です。
下記日程でシンポジウムが開催されます。お近くの方、よかったら
お越しください。

☆尾張連吾襲の正体は解明されるでしょうか?!
尾張戸神社を信仰する集団と熱田社との関係は?葛城の高尾張は・・・
ヤマトタケルは・・
何かヒントとなるかも

5月19日(土) 企画展「尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」シンポジウム
テーマ:『志段味大塚古墳と五世紀の倭国』
講師:阪口英毅(さかぐちひでき)氏(京都大学大学院文学研究科助教)
   山田俊輔(やまだしゅんすけ)氏(東京国立博物館研究員)
   ほか、当館学芸員
受付:12時より整理券配布、12時30分開場。(当日先着220名、無料)
開演:13時〜(16時30分頃終了予定)
会場:博物館講堂(入口は1階にあります)

[11142] Re[11141]: 聖武天皇の「骨」  神奈備 2012/05/13(Sun) 08:57 [Reply]
> 聖武天皇の「骨」

 骨が何らかの入れ物の中にあったのでしょう。空気に触れたとたんに分解・気化してしまった、と言うことでしょうか。

 一週間ほど小旅行に出ます。

[11141] 聖武天皇の「骨」  多美 2012/05/12(Sat) 19:44 [Reply]
聖武天皇の「骨」

「骨」の発見と紛失

聖武天皇の葬儀が盛大におこなわれたいきさつは、『続日本紀』にくわしく記されている。この葬儀は、聖武にたいして、あたかも「仏の奉ずる」ごとき態度をもって執行された、とそこにある。
盛儀であったことは間違いないのである。それでは聖武は、どのようにして葬られたのであろうか。それがどうもはっきりしない。埋葬されたのか、それとも火葬にされたのか、そのへんのところがどうもはっきりしないのである。

 なぜそのことが問題にするのかといえば、聖武以前の歴代の天皇が、死んだのち火葬に付されたことが『続日本紀』にはっきり記されているからである。すなわちその記述によると、持統、文武、元明、元正とつづく四代にわたって、その遺体はすべて火葬の方式によって処理されたとはっきり明示されているのである。それが、聖武の送葬儀礼にかんしてだけ、そのように記されていない。火葬のことに一つも言及されていないのである。
 
 もしも『続日本紀』のこの記述を信用するとすれば、聖武天皇の遺体は陵墓に埋葬されたと解するほかはないのではないだろうか。それともそこには、何らかの別の問題が介在しているのであろうか。そのへんのところが。よくわからないのである。

 しかしながら一方で、聖武の遺体が『続日本紀』の記述にもかかわらず、火葬に付されたのではないかと推定される根拠がないわけではない、すくなくともその問題に再考をうながす事実が一つだけ存するのである。

 明治から大正にかけての時期であったが、東大寺の大仏殿で大々的な修理工事がおこなわれた。それは明治三十六年七月に着工されたが、たまたま同四十年九月になって思わぬ「遺宝」が発見されることになった。修理工事の足場をつくるため、大仏殿の須弥壇の数ヵ所に穴を掘った。すなわち大仏蓮座をめぐって直径七、八尺の壺堀をおこなったところ、地下一尺四、五寸のところからさまざまな遺宝がでてきた。
 
遺宝が発見された場所は大仏の正面、西南、後方の三ヶ所であったが、壺堀と壺堀の中間部分は不明なので、須弥壇全体でどのくらいの遺宝が埋められているのか、それはむろんわからない。が、その三ヶ所で発見されたものだけみても、種類の豊富さは目を見張るばかりであった。金象嵌(きんぞうがん)をほどこした太刀類、金具類、銀地金渡金の壺、硝子容器、銅鏡、鎧の破片、真珠や水晶などの宝石類、など多種多様であったが、ここでとくに注意したいのは、それらの遺宝に混じって「歯、骨断片」が発見されたことである。

 このときの修理工事で発掘された遺宝について、その概要を記した論文が昭和二年に発表された上田三平氏による「東大寺大仏殿須弥壇内に於て発見せる遺宝に就て」(『寧楽』七、昭和二年七月)であった。そこには発掘目録が紹介され、発掘品の内容について簡単な解説が付されていた。そのなかで、右の「歯、骨断片」は明治四十年九月四日に発掘したときのもので、大仏殿本尊を安置した壇上の、「坤」方位の地中約一尺五寸のところから出土している。上田氏の記す目録番号第二十七の項によると、「齲歯一個 長八分白色骨様ノモノ一個」とある。

 ところが、まことに奇怪なことであるが、この「歯、骨各一個」の出土状況とその行方がよくわからないのである。右の上田三平氏自身もその「歯、骨」を確認していない。なぜなら氏はその論文の末尾で、「目録に臼歯一個として明治四十年九月四日の遺物の中にあるが実物は拝見しない。骨断片と称するものがあるが何の遺骨か明らかでない」と書きのこしているからである。

 ※●上田三平(うえださんぺい)
1881―1950年。教育者・郷土史家。旧国富村(現小浜市)生まれ。福井師範卒。「福井県の教育」に多数の論文を発表。石川、奈良県の史蹟名勝天然記念物の調査にも従事した。

 いったいその「歯、骨」はどこに消えてしまったのであろうか。それがどうもよくはわからないのである。その後、この問題は長らく取りあげられることはなかったが、昭和五十一年になって奥村秀雄氏の注目するところとなった。すなわち氏の「国宝東大寺金堂鎮壇具について―出土地点とそれによる埋納時期の考察―」(MUSEUM 298、一月号、一九七六年)が発表され、新たな問題提起がなされたからである。

 この論文の内容はつぎにのべるとして、その前にふれておきたいのは、さきの「歯、骨」についての疑問である。ただこの論文の末尾に付記されている「あとがき」のなかで、奥村氏がつぎのような思い出話を書きとめているのが、とりわけ私には印象深かった。

 氏は学生のころ、「故安藤更生先生から大仏殿出土の、この歯の話」を聞いたことにふれ、そのときの「師の楽し気な表情」が今も忘れられないと記している。また安藤氏の遺稿集『南部逍遥』(中央公論美術出版、昭和四十五年十二月)のなかには、かつて東大寺二月堂の主任であった稲垣晋僧正のことが語られていることを紹介して、この僧正が実は須弥壇下の遺物の発見者ではなかったかと推測している。それというのも、安藤氏は生前に奥村氏にむかってその話をしたとき、「聖武か元正の歯かもしれんな・・・・」ともらしていたからである。

 しかし。この奥村氏の「あとがき」は、あくまでも稲垣晋僧正から安藤更生氏がきいた話にもとづいて書かれているのであって、確かな資料による証言でないところがいささか心もとない。

 ※●奥村 秀雄 (オクムラ ヒデオ) ( Hideo Okumura) - ID:1 科研費研究者番号 : 6 直近の所属(KAKENから) : 東京国立博物館 研究分野(KAKENから) : 美術史 キーワード(KAKENから): 法隆寺献納宝物/交渉史/彫刻史/正倉院宝物/東南アジア/シュリ-ヴィジャヤ/金銅仏の彫刻史的研究/工芸史/染織史/金銅仏の保存科学的研究/金剛仏の保存科学的研究/南アジア/金工史/法隆寺伝来四十八体仏/光背/金剛仏の彫刻史的研究/木漆工史/潅頂幡/荘厳具/金銅小幡/荘巌具/金銅仏の研究/保存科学的研 http://rns.nii.ac.jp/nr/1  
1992年?1994年東京国立博物館 / 次長
1991年東京国立博物館 / 学芸部 / 部長
1990年東京国立博物館 / 学芸部 / 学芸部長
1988年東京国立博物館 / 学芸部東洋課 / 課長
1987年東京国立博物館 / 学芸部法隆寺宝物室 / 室長

●安藤更生
安藤 更生(あんどう こうせい、1900年6月10日 - 1970年10月26日)は、日本の美術史家。 東京出身。本名・正輝。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年、雑誌『東洋美術』を創刊。戦後は早稲田大学教授。 日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。

●稲垣晋僧正と思われる
この図書は著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて公開しています。
タイトル : 良弁僧正御伝記
タイトルよみ : ロウベン ソウジョウ ゴデンキ
責任表示 : 稲垣晋清編
出版事項 : 東京:長谷川幾松,明42.8
形態 : 130p 図版;22cm
NDC分類 : 188.1
著者標目 : 稲垣,晋清
著者標目よみ : イナガキ,シンショウ
全国書誌番号 : 40045938
請求記号 : YDM16332
西暦年 : 1909

 これについてすぐに思い起こされるのが、さきの上田三平氏の論文である。なぜならそこでも「稲垣氏」(おそらく稲垣晋僧正のこと)のことに言及されていたからである。しかもその言及の仕方が、もう一つ奥歯にものがはさまったような感じなのである。まずその論文のはしがきにある部分で上田氏は、「遺宝」の実見にあたっては北河原公海師や筒井英俊師とともに「稲垣氏」に多大の便宜を提供してもらった旨を記し感謝の意を表している。ところが、同じその論文の末尾において、つぎのように記している。

        其 他
 目録に臼歯一個として明治四十年九月四日の遺物の中にあるが実物は拝見しない。骨断片と称するものがあるが何の遺骨か明らかでない。当時の発見者稲垣氏の言によると此等の歯及骨類と銀壺とは全く関係はないそうである。

 右の上田氏の論文は、この「其他」の一文をもって終わっている。「其他」と
いうことは、「遺宝」の種類を内容別に解説したあと、それにもれるものという
意味でつけ加えられたものである。「歯、骨」が「其他」として最後に扱われた
のだといっていいだろう。が、それはともかくとして上田氏もまたすでに昭和
二年の段階で、その「骨断片」が何の遺骨であるかもわからないという。わか
っているのは、その骨断片が同じ出土した銀壺とは直接関係はなさそうだとい
う「稲垣氏」の証言だけである。

要するに。「遺宝」の問題について論文を発表した上田氏も、そして奥村氏も
「歯、骨」そのものをみてはいない。さきに奥村論文を通して紹介した安藤更生氏の伝聞にしてからが、きわめてあいまいである。

 そのようにみてくると、大仏殿の須弥壇下から出土した「歯、骨」は、発見と同時にどこかに消え去ったとしか解することができなくなるのではないか。それははたして偶然だったのであろうか。それとも故意に隠滅されたのか。あるいは不慮の事故だったのか。事態は「骨」をめぐる謎めいた話になってくるのである。

 ちなみに、前後三回にわたって出土した東大寺の「遺宝」は昭和三十二年になって「東大寺金堂鎮壇具」として一括して国宝に指定された。ところが不思議なことに、その国宝指定品中にはさきの「歯、骨」についての項目が省かれているのである(『指定文化財総合目録、美術工芸品篇』参照)。こうして謎はますます深まるばかりである。

 ※●北河原公海師
2010年5月27日
東大寺で北河原新別当の晋山式 渡邊理事長が出席
奈良市の華厳宗大本山・東大寺で5月27日、華厳宗管長、東大寺第二百二十世別当に就任した北河原公敬大僧正(67)の「晋山(しんざん)式」が行われ、南都各寺院や各界から約800人が出席しました。立正佼成会から渡邊恭位理事長が列席、荒川公男奈良教会長が同行しました。  
北河原師は奈良市生まれ。1953年、10歳で東大寺に入寺し、15歳で得度、執事長、上院院主などを歴任し、前別当・上野道善師の後任として、今年5月1日付で新別当に就任しました。任期は3年。祖父の公海師(第二百世)、父・公典師(第二百十世)=いずれも故人=も同寺の別当を務めました。
当日、渡邊理事長は、金堂(大仏殿)で行われた伝燈奉告法要に参列しました。金堂裏庭の特設会場で催された披露宴では、北河原師があいさつ。今秋の東大寺総合文化センター建立、伽藍(がらん)再興の構想などに触れ、後世への文化継承の大切さを強調するとともに、「華厳では人と人とが支え合い、つながり合い、共に生きることを教えている。生かされているいのちという自覚に立ち、日々精進したい」と抱負を語りました。渡邊理事長は北河原師とあいさつを交わし、祝意を伝えました。(2010.6.4記載)

【仏教民俗学・山折哲雄・講談社芸術文庫〜「聖武天皇の骨」より】

つまり、
”聖武天皇の遺骨だというのである”

しかし、誰も実物を見ていない、ということである。

稲垣晋僧正(発掘者らしい)の話を聞いた、ということ。

誠に不思議な話であります。

一体、どういうことなんでしょうか?

教えてください。

[11140] Re[11134][11133][11131][11130]: 宇佐嶋  神奈備 2012/05/11(Fri) 12:09 [Reply]
 一柱騰宮
建物があって、その内の一本の柱が川の中に立てられているようなものと想像していましたが、いささか不自然な感じを持っていたのですが、「アシャゲ」の方形の神を迎える建物は、神武さんを迎えるのにふさわしいと思います。

 宇佐では、中臣氏の先祖に天種子が宇佐津比売を娶っていますが、中臣氏も神武東征のお供としていたと主張したかったのでしょう。
 豊国には中臣直入神社も鎮座しており、中臣氏の気配が感じられる所です。
 天種子については、以降全く出てきません。天種子の話はウソだと思います。

 さて、宇佐島をislandであろうとして考えて来ましたが、例えば、『肥前国風土記逸文』に、杵島が出てきます。
 杵島の県。一つの離れた山がある。坤(南西)から艮(北東)にかけて三つの峰が連なっている。名付けて杵島と言う。

 宇佐島を素直に宇佐の山(大元山 御許山)としていいのでしょう。


[11139] ありがとうございました  箕面市民 2012/05/10(Thu) 19:29 [Reply]
御教示いただきありがとうございました。
地元市民のわたしでさえしらないことがまだまだ市中にはあるとおもいます。
北攝地区は雨乞い信仰・伝承が各地に語り継がれているようです。

[11139] ありがとうございました  箕面市民 2012/05/10(Thu) 19:29 [Reply]
御教示いただきありがとうございました。
地元市民のわたしでさえしらないことがまだまだ市中にはあるとおもいます。
北攝地区は雨乞い信仰・伝承が各地に語り継がれているようです。

[11138] Re[11137]: 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  神奈備 2012/05/10(Thu) 16:06 [Reply]
 箕面市民さん、こんにちは。

 箕面と言えば、箕面の滝、水に不自由はしない地域かなと思っていましたが、多くの溜池がありますね。箕面の滝も今や人工の滝。貴重な地下水路が切られたようです。
 箕面市の年間降水量は1385mm、810都市中の514番目、多いとは言えないようです。お隣の茨木市も似た状況です。豊能町も同様。

 水神社の白島(はくしま)は、如意谷の東。いずれにしろ、川がなく、水不足の地域だったのでしょう。

 水神様を祭る謂われは、よくわかりませんが、水を大切にし、水への渇望があったのでしょう。

[11137] 箕面市白島「水神社・白姫大明神」  箕面市民 2012/05/09(Wed) 21:20 [Reply]
偶然見つけたのですが、箕面有料道路のゲート付近から府道9号線を東よりに歩き老人ホーム「永寿園」東隣の道を山中に上ると数分して「水神社・白姫大明神」なる神社が目に入ります。(http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-144.html)

この他に箕面市内、特に「如意谷」一帯は水神さまを祀る神社・祠が多数ありますがどのような謂れがあるのでしょうか、神奈備さま、なにか情報をお知りではないでしょうか。

[11136] 豊中歴史同好会  5月  神奈備 2012/05/08(Tue) 13:53 [Reply]
2012 5 12 講義 14時〜16時

御所市教育委員会 藤田 和尊

河内政権肯定論

場所:豊中市立蛍池公民館 5階公民館集会場

http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[11135] 志段味古墳群散策にどうぞ  ふえふきじんじゃこふんくん 2012/05/07(Mon) 18:20 [Reply]
名古屋からこんにちは! 今 名古屋市博物館で「尾張氏☆志段味(しだみ)古墳群をときあかす」展が行われています。渡来系の帆立貝式古墳の最新出土品が見れます。尾張氏は本当に 謎多き、氏族ですね。よかったら名古屋へお越しください。と、一(いち)名古屋市民からの宣伝でした。それから、名古屋市守山区にある志段味古墳は整備前で、自由に散策可能です。名古屋市のHPに便利な地図が載っています。
http://www.city.nagoya.jp/moriyama/page/0000012430.html
これを片手に散策はいかがでしょう。散策のお役にたてるよう、つたないページを作りました。ご利用ください。
http://homepage2.nifty.com/island2/kofun1.html

[11134] Re[11133][11131][11130]: 宇佐嶋  琉球松 2012/05/07(Mon) 16:34 [Reply]
 「あしひとつあがりのみや」は、『奄美に生きる日本古代文化/金子正(刀江書院)1963 』で、奄美沖縄の祭場「アシャゲ・アシャギ」の原型ではないかと書いてますね。

 これが、片足を上げたりするタタラ場と考える説もあるようですけど、しかしなぜに神武は宇佐に立ち寄る必要があったんでしょうか。

[11133] Re[11131][11130]: 宇佐嶋  神奈備 2012/05/07(Mon) 10:27 [Reply]
> もしかして、その中の一つに「宇佐嶋」があって、神宮の名の由来になったでしょうか?

『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀甲寅年
一柱騰宮 此云阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰  あしひとつあがりのみや

 神武さんが宇佐に行った時に、歓迎された建物。

 何となく、天一根命を思わせるネーミングです。


 葦原で稲を育てたら、葦が風を防いでくれて、すくすく育つように思いますが・・・。

[11132] Re[11131][11130]: 宇佐嶋  琉球松 2012/05/05(Sat) 11:34 [Reply]
またまた訂正

 釣川沿い?と考えられるのは「辺津島」だけでしたね。他の2島は海上ですけども「釣川」から生まれた姫(小さい)でしょうか。

[11131] Re[11130]: 宇佐嶋  琉球松 2012/05/05(Sat) 11:19 [Reply]
 "葦原中國之宇佐嶋" と聞くと、宗像を流れる釣川の「沖つ島・中つ島・辺つ島」のように、宇佐神宮沿いを流れる「寄藻川」にも中州のような島々があったんじゃないかと推測しますね。
 もしかして、その中の一つに「宇佐嶋」があって、神宮の名の由来になったでしょうか?

 大阪の淀川などにも「葦原」はあって。。。つまりは、まだまだ水田稲作には不適な湿地帯を「アシハラ」と呼んだんじゃないでしょうか。この「アシハラ」の開発に成功した状態を「瑞穂の国」と言うと考えますがどうでしょうか。

[11130] 宇佐嶋  神奈備 2012/05/04(Fri) 20:34 [Reply]
『日本書紀』巻一第五段一書第三 一書曰。
略 即以日神所生三女神者。使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣。略

 誓約で生まれた三女神は、宇佐島に降臨します。宇佐の峰なら話は簡単なのですが、宇佐島とはどこのことでしょう。
 宗像の沖つ島、中つ島、辺つ島を宇佐島とは言わないでしょう。

 地図を見ますと、国東半島の北側にある、姫島がとりあえずは宇佐の地に近い島です。
 八坂神社の姫島龍神の説明に、「天之一根命 弁財天の一神」とありました。この意味が分かりにくいのですが、市杵島姫が弁財天になぞらえられることがあるので、姫島の神をそのように称したのでしょう。

 阿留比売の素性がよくわからないのですが、宇佐の姫神と見ますと、宗像三女神の一柱か、宇佐若宮下照姫大神なのか、もしくは下照姫の娘なのか、想像を楽しんでいます。

[11129] Re[11128][11127][11125][11124][11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/05/03(Thu) 16:38 [Reply]
訂正

 「姫島」の生成は12番目でした。

[11128] Re[11127][11125][11124][11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/05/03(Thu) 16:16 [Reply]
 『古事記』の国生みで「姫島」の生成は13番目で、その順位の前後からすると国東半島沖の島と考えたほうが妥当なんですけど、『日本書紀』には出てこないですね。
 『古事記』が、"女性の声" を反映させているとすれば、逆に男性的?な『書紀』からは削除されてるんでしょうか?

 これらの島が "海から円錐型になった山が沈んだような感じ" であるとすれば、少なくとも美称辞「浮島」ではないようですね。

 あるいは単に、「小さい・控えめ」などの表現で「ヒメ」なのでしょうか。
 現在でも、昆虫などの名に「ヒメ」はよく使われます。。。「例・アカタテハ/ヒメアカタテハ・ウスバシロチョウ/ヒメウスバシロチョウ」。この場合の「ヒメ」は、比較的小型だったり、比較的色が薄かったりしますよ。

[11127] Re[11125][11124][11123]: 難波の比売語曽社  神奈備 2012/05/03(Thu) 08:48 [Reply]
>  「姫島」は福岡にもありますね。
>
>  だいたい地先の小島ですからね、神々の中継地でしょうか。「うつぼ船」に乗せられて追放された「百襲姫」とその母かも。。。?


 福岡は糸島半島の近くと北九州市にあり、共に小さくて丸い島です。また長崎の五島列島の姫島も丸い島です。

 海から円錐型になった山が沈んだような感じです。やはり天一根。

 百襲姫とつなげようとしますと、香川県に姫島があればありがたい。ネットで見れば、小豆島町神浦に、天理教の姫島分教会があります。ゆかりの地かも。

 また余談。
 和歌山市の紀ノ川の北側に小豆島(あずき)と言う場所があります。ここもかっては島だったのでしょう。小さい島は豆に例えられることもあったのでしょう。


[11126] Re[11124][11123]: 難波の比売語曽社  神奈備 2012/05/02(Wed) 09:53 [Reply]
> これらの小島は「蛭子」を連想するんですけど。。。どうなんでしょうか。

 『古事記』に、女島を生んだとあり、国東半島の東の姫島のこととされています。神の名としては、天一根神、です。いかにも、小さい島がしっかりと海の上に突き出しているような印象の神名だと思います。

 どうでしょうか、蛭子、とはイメージが異なるような・・・・

余談です。
 大阪ではアヒル(合鴨)のことを、ヒル、と言います。鴨の神の事代主とともに、恵比須神、とされています。

[11125] Re[11124][11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/05/02(Wed) 09:51 [Reply]
 「姫島」は福岡にもありますね。

 だいたい地先の小島ですからね、神々の中継地でしょうか。「うつぼ船」に乗せられて追放された「百襲姫」とその母かも。。。?

[11124] Re[11123]: 難波の比売語曽社  琉球松 2012/04/29(Sun) 23:09 [Reply]
 あれれれ、「姫島」って、国東半島沖だけじゃないんですね。
 これらの小島は「蛭子」を連想するんですけど。。。どうなんでしょうか。

 しかしまあ、大正区はリトル沖縄って感じのところですね。知り合いも大勢いますよ〜。

 ムムムム、面白くなりそうです。

[11123] 難波の比売語曽社  神奈備 2012/04/29(Sun) 15:24 [Reply]
 ひょっとしたら、本当の難波の比売語曽社かも知れない祠を発見!

 絶好の神社巡りの季節です。大阪市大正区の神社を幾つか廻って見ました。元々海の中だったので、古い神社はないだろうと思っていましたが、三軒家東2丁目の八阪神社に行ってびっくり。姫島龍神ののぼり旗がぎっしり、八阪神社に来たつもりが別の・・・・

 大正区は殆どが埋め立て地域で、海抜1m〜−1m地帯とされていますが、北東の地域は姫島と言う小島であって、そこの小高い丘にいつ頃からか姫島龍神が鎮座していたようです。そこに津波で流された八阪神社を遷座したようです。

 本殿の隣に姫島龍神社が鎮座、社殿に「竜神祝詞」が貼っていました。地域の女性達に圧倒的に支持されている祠のようです。

 大阪には姫島と呼ばれる島はここと、西淀川、東淀川区の三箇所が知られています。それ以外に阿加流比売神社が平野区に、比売語曽神社は東成、中央区に鎮座しています。

 さて、ダークホース的な姫島が出てきました。面白くなりそうです。

http://kamnavi.jp/en/settu/yasaka02j4.jpg
http://kamnavi.jp/en/settu/yasaka02j6.jpg

[11122] 第三土曜日は「古代を偲ぶ会」 その報告  神奈備 2012/04/22(Sun) 09:35 [Reply]
 魏の時代、すでに字典があり、それによる解読
 
 239年、魏から卑弥呼が貰った反物に絳地交龍錦五匹。
 
 
 絳地交龍錦

 絳は工に通じ、あかく染めること この頃の染料は茜の根から抽出した染料、退色が少ない。
 布で染めたか、糸で染めてから織ったのか、錦とあるので糸染めでしょう。布染めと違い、糸が丸ごと染まっているので、あざやかに見えるそうです。

 交龍 皇帝の使う布の場合、龍は一匹づつ。王に与える場合、龍が交差している図柄。赤龍と青龍であろう。

 五匹:この頃の一尺は24cm、10尺で一丈=240cm、四丈で一匹、960cm、五匹で48m。

http://kamnavi.jp/link/sinobu.htm

[11121] 日神を出し奉る  神奈備 2012/04/21(Sat) 18:07 [Reply]
アッサムに天岩戸神話に似たお話があります。

太陽が世界の果ての岩屋に隠れた。皆が声をあげて呼ぶが出てこない。雄鶏が美しい鳴き声をあげると出ることを承知した。太陽が出ようとすると大きい岩で塞がれていたので、大力の猪が岩を持ち上げ、太陽を出した。


アッサムのお話から日本の伝承・神話が思い浮かびます。

『播磨国風土記』賀毛郡山田の里 猪飼野
日向の肥人が天照大神のおられる舟の上に猪を持参して献上した。

『古事記』
天手力男が天照大神の手をとって天の岩戸から出した。
『日本書記』
天手力男神が岩戸をひきあけた。

『住吉大社神代記』
「大八嶋国の天の 下に日神を出し奉るは船木の遠つ神、大田田神なり。」とあり、船木遠祖の大田田神が 太陽神を乗せる舟を二艘造ったとある。
伊勢の船木氏が祀った佐那神社の祭神は天手力男神で、船木氏の遠祖。

この三つを合わせればアッサムになりそうです。

[11120] Re[11119][11107][11104]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/04/20(Fri) 16:02 [Reply]
> [11119] 投稿してスミマセン。削除して頂いて結構ですので失礼しました。

 日本語解読能力不足と勉強不足で、多賀宮のことは未だよくわかりません。

[11118] の讃岐富士も含めて、最近はよくわからない投稿があります。

投稿者が「削除」を指示したり、口にする場面もあります。

どうやら無責任な内容の投稿だと云うことでしょうかね。

[11119] Re[11107][11104]: 出雲国造の斎る神  加賀 2012/04/19(Thu) 21:33 [Reply]
> > この文書には櫛御気野命とは大日孁貴神 也としており、神宮の古伝を考え合わせると櫛御気野命とは水の神である豊宇賀能売神=瀬織津姫神ではなかったかと想像します。
>  所謂トンデモ説ですね。
>出雲国造側の文書をあたってみて下さい。

倭姫世記の雄略二十一年十月の条に

皇太神の第一の摂神、荒魂多賀宮おば、豊受太神宮に副へ従へ奉らしめ給ふ者也

とあり、皇太神の第一の摂神(荒祭宮)を荒魂多賀宮として、
豊受太神宮に副えて祀ったという多賀宮の縁起です。

度会家行氏の類聚神技祇本源に、

元は荒祭宮一書に並び坐す。東多賀宮、西荒祭宮。

とあり、更に出口(度会)延佳の神宮神秘伝問答にも多賀宮には皇大神宮
の和魂が祀られていた旨が記してあります。

>  豊宇賀能売神が水の神である根拠は何でしょうか。真名井の泉で降臨した? 食物に水は欠かせない? よくわかりません。

神道五部書など神宮側の文書をお読みなればいいかと思います。
>
> > =瀬織津姫神
>  突然の登場ですが、これも良くわかりません。この神は一部の方には大いにもてはやされていますが、何故なのでしょうか。
それは私も存じません、。投稿してスミマセン。削除して頂いて結構ですので
失礼しました。

[11118] 讃岐富士は整形  一般人 2012/04/19(Thu) 16:21 [Reply]
みんないつまで「ほっこ」な振りしているの?
富士山が日本一の高さになるずっと前は小御岳や旧宝永山の時代。どちらからも「1000秒」が讃岐富士でしょ?選ばれた場所だから整えたんでしょ?違う?信じない?先祖が違うから叡智のレベルも違う?追試不可能な祭祀(勉強しても身につけられない)しかみとめないのが学界の常識?
当時の讃岐富士の標高は一秒でしょ?薩摩富士は2倍。薩摩富士までの距離も1000秒でしょ?一秒=地球一周(4万km)÷24時間÷60分÷60秒
いまさらですよね!さて大和三山はいつまで天然の振りですか?
そうそう、都知事が大騒ぎさせた尖閣諸島って東方向に進むと・・・なんで同じ緯度に島(山頂)があるのですか?なぜ三角形の形の孤島が多いのですか?なぜ島に溝をつけて二つに分断したのですか?測量や開発(巨大な盆栽)は中心からどんどん外に広がっていっただけでしょ?渡来重視で先住民無視?先祖の介護放棄?
おまけ
富士山・浅間山のほぼ中間に金峰山があり巨石が目立ている。位置がずれすぎ?だって旧石器時代の浅間山や小御岳や旧宝永山が基準だよ!誤差ほとんどないよ!言い出したらきりがないのでここまでにします。富士山は世界「文化」遺産!
ごめんなさい、質問されてもレスできません。
同じじことを考えれば同じ結論。同じ山頂。山が破棄されても(墓あらし?)リフォームされても周囲の痕跡から推定は可能。それが理系の叡智、数学という文字。

[11117] Re[11116][11115][11114][11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/19(Thu) 11:09 [Reply]
 神奈備さんへ

 こちらにも、亀にまつわる話は多いんですけど、「海幸山幸」系や「浦島」系の説話には、意外に亀は登場しないんですよ。
 本土側でも、そもそも亀は虐められたわけでも、助けられたわけでもないようですし、唐突に登場しますよね。なんか中国の「玄武・蓬莱山」などの影響でしょうか。
 もともとは「玉依姫・豊玉姫」のように鮫だったと思いますけど、どこかですり替えがあったかもですよ?

 「りゅうぐう」と「りゅうきゅう」は、言語的には全く関係ないのでしょうけど、「常世・竜宮・補陀洛・蓬莱」が観念的には奄美沖縄のことだった可能性はあると思います。「タマ」と表現される海の女神達は薩摩半島の南からやって来ますね。

[11116] Re[11115][11114][11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  神奈備 2012/04/16(Mon) 21:11 [Reply]
 浦島伝承は常世国につながります。
 紀伊半島南端には補陀洛渡海の実施や、少彦名神が常世へダイブしたとされる熊野御崎があります。
 また徐福渡来譚もまた同じような地域で話されることがあるようです。

 和歌浦は風光明媚な所で、鎮座する玉津島神社は地主神の明光浦霊や美人で和歌の神でもある衣通姫尊を祭っています。余談ですが、住吉大社・明石の柿本神社と共に和歌三神と呼ばれました。

 万葉集には住吉大社にかかわると思われる浜での浦島伝説が歌われています。巻9 1740。
春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 云々

 沖縄にはウミガメがやってくる浜が多いのでしょう。浦島伝説があってもよさそうですし、逆に竜宮城がある島ともされているのではないでしょうか。

 和歌山で浦島と言えば、勝浦の大きい温泉ホテルが有名になってしまいました。あまり面白い現象ではありません。

 最近 浦島伝承についていささかまとめましたので、お暇な方はどうぞ。
http://kamnavi.jp/log/ugaurasima.htm

[11115] Re[11114][11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/15(Sun) 17:10 [Reply]
 神奈備さん、お手数かけました。

 「御名草浦・美名草浦・火名草浦・蜷草浦」なんて、根拠のない地名を推測をしてしまいましたが、消去法としてはありがたい情報です。

 しかし、今度は「浦島子」説話の原風景なか?なんて、よからぬ想像がムラムラと(笑)。
 

[11114] Re[11113][11112][11109]: 名草戸畔 その後  神奈備 2012/04/15(Sun) 13:46 [Reply]
 現在の和歌川が紀の川の本流であった古代、その河口に広がる景勝の地の名称でした。東に名草山(島だったかも)、南東は船尾山、北は雑賀山に囲まれた浦です。


『続日本紀』巻九神亀元年(七二四)十月壬寅《十六》◆壬寅。賜造離宮司及紀伊國國郡司。并行宮側近高年七十已上祿。各有差。百姓今年調庸。名草海部二郡田租咸免之。又赦罪人死罪已下。名草郡大領外從八位上紀直摩祖爲國造。進位三階。少領正八位下大伴櫟津連子人。海部直土形二階。自餘五十二人各位一階。又詔曰。
登山望海。此間最好。不勞遠行。足以遊覽。故改弱濱名。爲明光浦。

最後の行は
 山に登り海を眺めるのに、この辺りは最も良い。わざわざ遠出をしなくとも遊覧に充分。それで、弱の浜(ワカノハマ)と言うのを改めて、明光浦(アカノウラ)とせよ。
と言う意味です。

 和歌浦の古名はワカノハマと言ったようです。現在和歌山城のあう城山は砂が集まってできたような丘で、崩れやすく、弱いので、その名がついたとされています。

 和歌浦の高い場所から東に名草山が見えますが、それほどの印象をもった記憶はありません。名草への意識は薄いのではないかと思います。古代には和歌浦と名草山の間は河口・海だったのです。
http://kamnavi.jp/jm/kinokawa.jpg
 傍証にもなりませんが、和歌浦は海部郡に属し、後に名草郡と合併し海草郡となりました。

万葉歌
 919 若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺あしへをさして鶴たづ鳴き渡る
和歌山弁 和歌浦よ 満潮になったら 干潟なくならいしょ ほいたら 葦の生えちゃる岸辺によ 鶴がねーて 飛んでいかいしょ

1219 若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕へは大和し思ほゆ
和歌山弁 和歌浦に 白い波来てら 沖からさぶい風吹かいしょ そんな日暮れ 大和 こいしいわ

 若の浦と呼ばれており、聖武天皇の気まぐれは採用されなかったようです。


[11113] Re[11112][11109]: 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/15(Sun) 09:50 [Reply]
神奈備さん、どうもです。

 的外れの感はあるかもしれませんが、和歌浦湾の古名は「名草浦」じゃないかと想像するんですが、どうでしょうか?

[11112] Re[11109]: 名草戸畔 その後  神奈備 2012/04/15(Sun) 08:57 [Reply]
>  以前に「名草戸畔」の話題がありましたが、沖縄宮古島の説話「螺草浦(になくさうら)の神女」の舞台となる「螺草浦」の地名に関して、ちょうっと話題になってますのでご参考までに。。。『http://setouchi.ac.jp/~dnagoh/ 自由掲示板2 』

 流石に名護さんの運営の掲示板ですね。会話が弾んでいます。知恵と人柄とでしょう。

[11111] Re[11110]: 「池田・愛宕神社」に関するスレを全部削除してください  神奈備 2012/04/15(Sun) 08:47 [Reply]
> [11108]に関する事は了解しました。
> まことに勝手ではございますがスレ[11103][11105][11106][11108]は全て誤解の無きように削除してください。
>
 削除は小生が判断いたします。
 面白い話題を提供していただいておりましたのに、残念ですね。

[11110] 「池田・愛宕神社」に関するスレを全部削除してください  そ(八筒光) 2012/04/14(Sat) 19:05 [Reply]
[11108]に関する事は了解しました。
まことに勝手ではございますがスレ[11103][11105][11106][11108]は全て誤解の無きように削除してください。

なおこれ以降の私の当掲示板に関する投稿は一切を自粛いたします。
今までにご迷惑をおかけいたし申し訳有りませんでした。

[11109] 名草戸畔 その後  琉球松 2012/04/14(Sat) 13:33 [Reply]
 以前に「名草戸畔」の話題がありましたが、沖縄宮古島の説話「螺草浦(になくさうら)の神女」の舞台となる「螺草浦」の地名に関して、ちょうっと話題になってますのでご参考までに。。。『http://setouchi.ac.jp/~dnagoh/ 自由掲示板2 』

[11108] Re[11106]: 「五月山愛宕神社・建石星の宮」由緒書の内容の紹介  神奈備 2012/04/13(Fri) 20:48 [Reply]
どっかのHPの引用がない書き込みは嬉しいのですが、掲示板での、一方的の自分の主張を述べるだけと言うのは、コミニケーションにはなりません。

[11107] Re[11104]: 出雲国造の斎る神  神奈備 2012/04/13(Fri) 20:44 [Reply]
> この文書には櫛御気野命とは大日孁貴神 也としており、神宮の古伝を考え合わせると櫛御気野命とは水の神である豊宇賀能売神=瀬織津姫神ではなかったかと想像します。
 所謂トンデモ説ですね。
 豊宇賀能売神が水の神である根拠は何でしょうか。真名井の泉で降臨した? 食物に水は欠かせない? よくわかりません。

> =瀬織津姫神
 突然の登場ですが、これも良くわかりません。この神は一部の方には大いにもてはやされていますが、何故なのでしょうか。

[11106] 「五月山愛宕神社・建石星の宮」由緒書の内容の紹介  そ(八筒光) [Url] 2012/04/11(Wed) 21:14 [Reply]
先ほど紹介しました「がんがら火:北摂池田伝統の火祭り」(中岡嘉弘氏著)の内容から両社に関する由緒に関する記述がありましたので引用させて頂きます。
(私が参詣した当日は参詣が目的ではなくただ単に観光目的と山頂からの眺めが目的だったので社殿の前で一礼しただけだったので詳細は解りかねませんでした)

P44「星の宮 勧請札」
「うやうやしく聞くに穴織大明神(あやはとりだいみょうじん)の末社、星の大神を祀る。
その昔、仁徳天皇御代、漢織・呉織が本朝に渡来され、綾錦を織り給う、その時夜々多くの星が天降り織殿を照らし給うた。故に燭火をつける必要がなかった。
漢・呉は共に百三十余歳の長寿を保ち身罷った(みまかった)。

それ故に社を立て、諸々の星を明星大神と号し祀った。
その後度々ぼ兵乱に会い焼失したが、寛正四年第百二代後花園天皇御代紀元二千百二年、当城主池田筑後守勝正父は漢織本殿並びに末社などを五十八世神主秦定森をして再建せしめた。しかし、この社は天正の兵火に焼失す。

されど、村民の信仰厚きにより社を再び造営される所となり、この度修復成る。定盛の十五世秦定興還座し奉るものである。

日月清明 五穀成就 天下泰平 萬民安全 奉祈者也
猪名津比古神七十三世孫 
穴織社正神主 河村上総守秦宿禰定興 謹誌
丁時文化十五年戌寅年四月翔戌辰日」

P70-P73
「池田五月山愛宕神社 縁起」
「摂州池田五月山愛宕神社に鎮座在します御祭神は、火之迦具土大神、武甕鎚大神、佐伯部祖神の三柱にして、摂社に、天照皇大神宮、大国主命、饒速日之命、松伯稲荷明神を亦別に大日大聖不動明王、行者神変大菩薩を各々祭祠奉る。

火之迦具土大神と申し奉るは伊諾諾(いざなぎ)、伊弉冊(いざなみ)の二柱神の御子にして火之元神に在はしまし古は陰暦六月晦にト部氏の人火を打ちて宮居の四隅に鎮火の神事を執り行せられたる御古記有り。

武甕鎚大神と申し奉るは天孫降臨を扶翼し奉りし武神にして大国主命と共に和議し給ひし折の使神に在はします。
佐伯部祖神とは其の御名経津主命(たけふつぬしのみこと)と申し奉り 武甕鎚大神と共に御同行給ひし勇武の神に在はします。

上世より五月山愛宕にこの御三柱を祭祠奉り神武天皇御東征の砌に御奉賛し給へる霊山にして佐伯氏が世々宮守を勤めて日本最初の愛宕社たりと口婢に残れるものなり。
たまたま中世仏教の渡来につれて仏家の管理に屈し愛宕大権現とも称え奉る。
天正年間攝津の乱に山祠及び数宇寺院兵変に罹り荒廃に帰せしも慶長の始めに復興成り元録の頃其の公殷賑を極め火祭りの神事奉納相撲等執り行わるる先史民族の遺風にして斎事に使用せられたると思わる土器の破片や石鏃など発掘され今尚幾多の礎石、欠余の石燈籠、鳥居等の残存せるを見れば当時の盛況を思い余るものなり。

猶、佐伯部は古く池田に於ける原住民で有ること疑いなく古くは五月山を佐伯山と称せしこと有り愛宕の御分霊を各地に火難除、厄除の守護神として奉祠し在るを多く見受けるものなり。
近年に至り山麓より展開し茅渟(ちぬ)の海に至る猪名川、武庫野一円に渉るデルタ地帯に貴重なる先住民族の住居跡、田能遺跡の発掘を視るなど往古の人々其の高所を選び代々祖先偲びて祭祀成せる事確かなり。」

「愛宕火祭りのこと」
「毎年一月二十四日・八月二十四日を祭日(命日)とし、八月夏山の際には昼間大護摩の権修あり宵闇せまる頃山頂の御神火を二基の大松明へ神官による点火の式あり。
中腹鳥居の元なる愛宕祠の神の位置に大一焔の文字を画きて大松明を人形形にかざして鉦半鐘を打ち鳴らして急坂を下り街中を練りに練り行く様を里人呼んで「がんがら火」と称し今に猶池田地方の方言として伝わるものにて途上燃え落ちる余燼を拾い持ち帰り各戸之を元火として神前に燈明を献じ、家内安全、火難厄難除とせんものと先を競い拾うの風習が今につたわるものなり。

たまたまこの行事を拝み共に厄難を免れんものと近郊はもとより遠く河内、灘方面よりも人々の押し寄せて一夜殷賑雑踏を極めのである。
この愛宕火の「大」は天に配し「一」は地に配し「松明」は人に配し天・地・人和合を象徴したるものなり。

世の推移につれ愛宕火にも衰弱がありこの神事が厳修された年には火災厄事が無く怠った年には大厄事が続いたと伝わる。
古老の言い伝えによると往昔の池田丸焼けの大火事の際にも火祭り神事を受持って居た「甲ケ谷町」(現城山町)に於いて一手に行われ居るものにて、過ぐる天保五年の二月東本町の東大和大火の折にも甲ケ谷が無事であり一層甲ケ谷が火祭り行事を盛大に行うようになったる由伝わる。
池田市綾羽二-二○ 愛宕神社 電話072-751-1090番

なおここでお詫びがございます。
先ほど「この行事が「百四十年」絶やさず・・・」旨ですがこれは他の神社の行事リンクとひっくるめてしまったが為に誤りで実際には「三百六十年以上にわたって・・・」でした、関係各氏子連中の方々には深くお詫びいたすと共に長く行事を見守っていただいているご苦労に敬意を表します。

それと余談ですが上記のいきさつからして京都の愛宕山の本家とは別系統の信仰の歴史であることはお察しと通りですが出所は不明ながらも五月山愛宕神社の御神紋は「三つ梟」(みつふくろう)との事、そういえば埼玉・秩父神社で有名な「北辰の梟」の話は聞いた事がある方も多いでしょうがこれにちなみこちらでは「明星の三梟」(明星のみつふくろう)と称す事は許されるでしょうか。

[11105] Re[11103]: 「がんがら火祭り」で有名な池田市の愛宕神社・星の宮の存在はご存知でしたでしょうか  神奈備 2012/04/11(Wed) 11:56 [Reply]
 『摂津名所図会』に、星御門古址ということで、星の宮が記載されています。二女の織姫に星の光をあたえて、作業を助けたとのこと。

 同じ『図会』に池田五月山・愛宕山について、絵入りででています。

 防衛大臣に、「知っているのか知らないのか」の質問が国会でなされていますが、大人げないように見えますね。

[11104] 出雲国造の斎る神  加賀 2012/04/08(Sun) 23:14 [Reply]
出雲国造家が代を継ぐ際に行われる神事に出雲国造の「火継式」があります。
熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、
鑽り出された神火と、意宇郡山代郷の真名井社の瀧の神聖な水によって調
理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。「出雲国造火継神
事の研究」に詳細が記されています。
出雲国造は火以外に神聖な水も引き継いでいるわけです。

佐草家の文書、重山雲秘抄にはこの水を豊受大神より受け継いだ水としています。
この文書には櫛御気野命とは大日孁貴神 也としており、神宮の古伝を考え合わせると櫛御気野命とは水の神である豊宇賀能売神=瀬織津姫神ではなかったかと
想像します。現在の熊野大社では地祇の分類となるスサノオ尊を櫛御気野命と
していますが、出雲国造一族である千家俊信氏の出雲国式社考においても
天照大御神であるとしています。
火を継ぐのは男神としての天照大神(スサノオ尊)であったのかも

真名井社の祭神は天津彦根神であり、下照姫命(意宇郡山代郷に下照姫祀る賣豆紀神社が鎮座しています。)の婿となったという天若日子命であるという説もある神です。山代国造の祖であり御上祝家の祖でもあります。
御上神社の神天御影命は、忌火神、二火一水の神と信仰されており出雲国造の神事
の神聖なものと一致します。山代国の式内社に天津彦根命を祀る神社が無いのが不思議ですが、山代国愛宕郡出雲郷にある下鴨神社の元社は御影神社といいます。
(式内出雲高野神社の論社)
恐らく大国主の息子となった天津彦根命がキーマンで、彼が神聖な火と水を
出雲に持ち込んだのではないでしょうか。

[11103] 「がんがら火祭り」で有名な池田市の愛宕神社・星の宮の存在はご存知でしたでしょうか  そ(八筒光) [Url] 2012/04/08(Sun) 20:00 [Reply]
「カグツチ」の話が出てきたところで神奈備さまにお尋ねします。
池田市の神社で五月山山頂付近の「愛宕神社」と建部付近の「星の宮」の存在をご存知でしたでしょうか。

小生は3年前になるのですが当時の池田市に単身で史跡めぐりに出かけて「呉服神社・五所神社(奥の院・鉢塚古墳(内部に重要文化財の「十三重石塔」がある)・伊居太神社」や建部の「星の宮」や五月山山頂の「愛宕神社」に詣でた事があります。

池田市では毎月8月24日の地蔵盆の縁日で京都の「大文字焼き」ならぬ「がんがら火祭り」が140年続いた今もその伝統を絶やさずに挙行され大阪府内では珍しい無形指定文化財として定番の夏の風物詩として有名です。
(がんがら火祭り公式サイト・http://www.gangara.gr.jp/)
(<その興りと経緯>・http://www.gangara.gr.jp/histry/texthistory.html)
(実際の祭りの様子・http://ventus-1.seesaa.net/article/161130829.html)
(http://milky.geocities.jp/kyotonosato/oosaka/08/gangara10.html)
「愛宕神社」
http://blog.goo.ne.jp/iiya118/e/3ab4a65b5877fcc0c2d74d234ca1144e
http://blog.kenchikusha.com/archives/50395180.html
紹介にもある通り、ここからの池田市街の一望が格別にすばらしいです。
「星の宮」
http://bittercup.web.fc2.com/06tesima/hosimikado.html
「伊居太神社」
http://bittercup.web.fc2.com/06tesima/ayahajinja.html
この両社は共通した由緒を持っているのは紹介文にもあるとおりです。
ところが「星の宮」は「がんがら火祭り」の中継拠点的な役割を担っているといいます、それはがんがら火祭りを催行する氏子連中がこの建部地区に集まっているからです。
そのことについては図書館などで所蔵している「がんがら火:北摂池田伝統の火祭り」(中岡嘉弘氏著)をご覧になればご理解いただけるものと思います(ここでは長文になるために紹介は申し訳ありませんが省略させていただきます)。

愛宕信仰と妙見信仰とは「天と地」「陰と陽」「火と水」を一対にした関係の信仰と見て取れるかもしれません。その理由は「妙見信仰」はある程度裕福な身分でなおかつ戦勝祈願や商売繁盛など特に水商売や馬関連の商売に携わる人たちの崇拝対象である程度身分を選びますがその点、「愛宕信仰」はポピュラーな火伏せ・家宅安穏など特に「陶磁器」関連の神様としても知られ「天上の」妙見さまと違って「地上に暮らす人々に分け隔てなく平等利益を与えてくださる権現(菩薩)さま」として庶民信仰として全国各地に根付いているはずです。あの有名な大阪市中央区本町・渡辺の「坐摩神社」にも「陶器神社」に「カグツチ之神」が祀られており「愛宕権現」として周辺の瀬戸物などの陶磁器産業に崇拝されている事が今日の愛宕信仰の庶民に支え続けられてきた証としてみてとれるはずです。

面白いのは愛宕神社と「星の宮」が「火の神様」として共通した神様として認識されていること、これは「星の宮」が「明星(金星)大神」として祀られておりそれは鞍馬山の「鞍馬山魔王大僧正」の伝承と似ているのかも知れません。

[11102] 天日矛の話  神奈備 2012/04/08(Sun) 15:18 [Reply]
 南米の神話に、火の起源譚があります。ある女はいつも一人で食事をするのを不思議がってのぞき見をすると、女は腹を強おし、産道から火の玉が転がり出てき、この火で料理をしていたとのお話です。

 これが、日本ではカグツチはイザナミから生まれたと言うことになるのでしょう。

 さて、これが韓半島では、古事記に採録されている天日矛にまつわるお話として、ある女が阿具沼のほとりで日光に感精し赤玉を生むとのお話になったと考えていいのでしょうかね。


 また、山姥のお話として、山姥が牛車の荷・牛を食べ、さらに牛方をも食おうとして追いかけます。牛方は逃げて山姥の家の天井に隠れました。山姥は餅を食べ、釜の中で寝てしまったので、釜に蓋をして石を置き、熱湯を注いで山姥を殺したとか、また釜を焚いて焼き殺すと言う話もあります。山姥の黒焼きは万能薬となったそうです。

 これが古事記に採録されている天日矛のお話の中で、ある男が牛に弁当を積んで行くのをみた天日矛が、男に対し、牛ごと食べてしまうのではないかと疑いをかける話があり、似ているような気がします。

 天日矛の話は王権にまつわる神話のようにも見えますが、実際にはもっと古い話だったのかも知れません。

[11100] wanted 大出あや子さん     生田淳一郎   2012/04/04(Wed) 12:18 [Reply]
下 11099 ] の論旨は、わずか 四つの類似語彙らしきものを挙げつらって、「依って日本語はロシア語が起源なのであ〜る」とするハチャメチャ論法で、如何に暴れ者の小生でもこれをそのまま放置してはおけません。
 この暴挙には深ァ〜いワケがあります。
 六、七年前か十二年前だったか、詳しいことは忘れましたが、小生はある日大出あや子さんという方から「こんな本を書きました」との報せの手紙を戴いたのでした。おそらく、ここ青草談話室をご覧になったのでしょう。
 みると多くの言語種を当たって超古代の謎を解明しようとする姿勢はまさに戦友じゃないですか。県庁行き文体の返事をさしあげたところ「だぁれもやらないので私がやりました」とのみごとなタンカとともに、主とする斬り込み領域は日本の枕詞をロシア語との比較で解明できそうだとのもくろみであることが分かりました。
 「これはこれはたいへんな本だ、あとでゆっくり読ませてもらおう」と思い、お名前住所、電話番号をメモしました。
 それから幾星霜・・・・・、ここにきて「ててご」がどうもロシア語くさいことになり、いちど大出さんに連絡とってみる必要が出てきました。
 ところが電話口に出て着た40才がらみの男性の声は「そのような人は知らない、関係ない」というのです。
 ネット検索の結果、大出あや子さんの主著書は『アイヌ語の残照』ということらしいので、最悪の場合でも出版社を介すれば直接のコンタクトは可能でしょう。
 ま、果報は寝て待ちましょうか。
 あ、日本語とロシア語の類似はムィス、 xu mat 、naのほかに「ツ(TSU)」があります。古い時代の日本語には tu はあっても tsu は無かったとする主張があるそうですが、もし一連のタジク語連が縄文期から日本にあると言えるもんなら、ロシア語のもつ固有みたいな ツィ、ツェなどの音は由々しきものを蜂起させます。キルリ文字はコを上向けにして右下にノを入れ表記号です。

[11099] オオナムチの語源・日本語の原郷はロシア語??  生田淳一郎   2012/04/03(Tue) 20:54 [Reply]
 ものを書き始める時には、m離隔な文の流れあたりを掴めるのですが、今回という今回はなんかこうギグシャグして、われながらイヤになるのです。しかもテーマは日本歴史の大きな曲がり角。
 小生がここ半年タジク語に打ち狂っていることはご存知かと思いますが、タジク語とは中央アジアの大言語の混血から成り、日本語の直接の親みたいな言語が現在のナニ語にいちばん近いのかは、まだ把握できていません。
 「小生は「日本語にいちばん近い中央アジア語」のことを父語(ててご)と仮称しています。
 「日本語にいちばん近い中央アジア語」は、気にならないわけがなく、この割り出し作業はタイヘンだぞ〜と思い、やるなら纏まったじかんを設けて集中してつっこまねばならないと考えてきました。
  それが・・・・・、チョチョン、チョチョンとひっかかりができて、しかもそれが日本人が一番ケギライするロシア語へロシア語へと導いて行くのです。
 
《ムィス(ロシア語の岬)》。これはアイヌ語に取り憑かれた 40年前に拾った語彙でした。
 《フ・ナロード(人民の中へ)》フ が英語の to とか into にあたる。石川啄木の詩の中に「フ・ナロードと叫べる者なし」があり、バカの一つおぼえでおぼえていました。
 共産主義では「貧乏人様、虐げられた人びと様」と口先では下層階級にオベッカ使うのですが、その実、バスチューユ牢獄破壊みたいな時だけはプロレタリアを有り難たがるのです。が、それらが真っ赤なウソッパチであることは相模原の不和哲三宮殿をみれば
 ・・・
イッパツで一目瞭然。

 《mat(女)》 / アイヌ語 mat(女)。 この語を金田一京助が注目したので有名になったかと思われます。mat は族際語です。
 白状しますが、「ててご → 日本語領域」に導く語彙はこの ムィス、xu mat の三つしかありません。これだけで日本語ウンヌンは言えようわけがありません。だからあっしの脊髄も頸椎もギクシャクしているんです。

 どこの言語も新しくあたるときはいつもそうですが、初めのうちはとくに「単発音で基礎語をねらいます。
 手許の辞書はくだんの『パスポート『』ですけど、これが赤黒印刷で眼が散って、じつに読みづらい。
 やっと読みの基本がわかったキリル文字でなんとか辿りついた発音も脇に書いてあるフリガナとはまるでちがうのです。

 それでもようやく 「na(前)」をみつけました。「オオナムチ」とは「前国務大臣」ぐらいの表現ではなsかったでしょうか。
 パーリ語には namutiで「悟らない人」、「解脱できない人」から転じて悪魔みたいに扱われています。
 mut を個人のハクづけぐらいに思うと、薩摩の間諜とされてきた伊牟田さんや牟田さんあたりも浮かばれそうです。

[11098] 「常富大菩薩」さまのお話  そ(八筒光) [Url] 2012/04/03(Tue) 19:58 [Reply]
神奈備さまを初めこのサイトをごらんの皆様は「常富大菩薩」さまと言う神様をご存知でしょうか。よく「八幡大菩薩」さま、というように神仏習合の中で成立した菩薩さまがこの世には存在しています。

実はこの神様は「宇賀之御霊之大神」、つまりお稲荷さまの事です。
大阪府は日本三大妙見霊場として名高い能勢町野間中の妙見山の北側の中腹にあります、天台宗と法華宗系の修験の一派「妙見宗」の総本山「本瀧寺」(http://www.hontakiji.com/)
の本殿「大空殿」(http://www.hontakiji.com/%E6%9C%AC%E5%A0%82/)に祀られている三神のうちの一柱です。

こちらに祀られておられます「常富大菩薩」さまには次のような伝承が語り継がれています。(http://www.hontakiji.com/%E5%B8%B8%E5%AF%8C%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9/)

実はこちらの妙見山の元々の産土神は他でもない「宇賀之御魂之大神」なのです。
ケーブル黒川駅の東側から山頂へと通じている山上への登山ルートの途中に「白瀧稲荷神社」があります。(http://kamnavi.jp/it/kinki/kawanisi.htm)
(http://blogs.yahoo.co.jp/dekunobou36/48570735.html)

私が図書館で確認した民俗学叢書「秦氏と妙見信仰」(植田加代子氏著・岩田書院刊)の内容によれば野間中から石清水八幡宮の荘園だったと伝わる「野間神社」(http://kamnavi.jp/mn/osaka/noma.htm)(http://blogs.yahoo.co.jp/itigonnusi/57782711.html)
のある「地黄」までの集落はかつては「秦氏」などの渡来氏族系の集落地だったと伝わる地域です。

実は妙見宗の管長初め本瀧寺のご住職を勤められておられる人の中に「野間氏」を名乗る方々がおられその方々は「ノウマ姫」と物部氏にかかわりのある末裔ではなかろうかと思われるのです。

もともとは本瀧寺を中心とする「妙見宗」は元々奈良県吉野山にあります「金峯山修験本宗」の総本山「金峯山寺」率いる一派でもありました。それが戦後、独立して今の「妙見宗」と改宗し日蓮宗系プラス天台系修験の新宗教に近い教団になったのですが金峯山寺に属する教会の教祖の中には東大阪市などでは朝鮮人の方の教師もおられるそうでその影響が残っている可能性も見受けられます。

先述の「白瀧稲荷神社」も神社でありながら神仏習合の形式をとっているのもそうした教学のなかで神仏習合の修行道場として確立してきたのかもしれません。

妙見宗は物部氏が「磐座(イワクラ)信仰」を神降ろしのご神体として始めた「イザナギ流」が「法華神前読経」の作法に入れ替わって始められた法華神道の一形態として重視される極めて珍しい一派といえるでしょう。

[11097] Re[11096][11095]: 安徳天皇さまを大阪・露天神社で祀っているのはこちらの「金毘羅水天社」ですね  そ(八筒光) [Url] 2012/04/02(Mon) 19:10 [Reply]
> > 神奈備さまにお尋ねします、大阪・露天神社で安徳天皇さまを祀っているのは
> > こちらの金毘羅水天社でよろしかったでしょうか。
>
> 水天宮でよろしいかと。

大変、失礼しました。

[11096] Re[11095]: 安徳天皇さまを大阪・露天神社で祀っているのはこちらの「金毘羅水天社」ですね  神奈備 2012/04/02(Mon) 19:09 [Reply]
> 神奈備さまにお尋ねします、大阪・露天神社で安徳天皇さまを祀っているのは
> こちらの金毘羅水天社でよろしかったでしょうか。

水天宮でよろしいかと。

[11095] 安徳天皇さまを大阪・露天神社で祀っているのはこちらの「金毘羅水天社」ですね  そ(八筒光) [Url] 2012/04/02(Mon) 18:41 [Reply]
神奈備さまにお尋ねします、大阪・露天神社で安徳天皇さまを祀っているのは
こちらの金毘羅水天社でよろしかったでしょうか。
http://www.tuyutenjin.com/matsu.html
http://nohzoh.seesaa.net/article/120495879.html
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%A4%AA%BD%E9&sk=1

こちらは私も度々、参詣するところで特に由緒書にもあるとおり水運業者や水商売関連の職人さんに人気があると聞いています。
しかしこちらには表には書いていないもうひとつのご利益があったと思います。
それは「善星皆来・悪星退散(要するに方除け)」など星回りに関する利益だと思われます。

その理由は申し上げるまでもなく、でしょうが要するに「天之御中主神・大物主之神・筒之男三神」など星宿に関する本地垂迹に関する神格が一同に揃っているところにあります。

かつては法善寺の金毘羅稲荷と合わせて縁日の毎月9・10の日には屋台などが出て縁日風景で賑わっていたとの事です。



[11094] 安徳天皇  神奈備 2012/04/01(Sun) 10:04 [Reply]
 第81代安徳天皇は寿永4年3月24日(1185年4月25日)壇ノ浦で三種の神器と共に入水しました。勾玉と鏡は源氏によってすくい取られたそうです。

 安徳天皇を祀る神社は、『平成祭CD』によりますと、摂社も含めて全国で111社。
 社名を水天宮とするのが、焼く半分の56社。
 県別では、福岡が30社、徳島9社、高知7社、東京・神奈川が6社と分布しています。徳島では剱を社名に持つ神社が4社。平家の落人伝説と貴種流離譚の仕業であろうか。

 さて、剱を失ったことで、頼朝が義経を責めたとのこと。

 それよりも、八咫大蛇が安徳天皇として生まれ変わり、まんまと剱を取り戻したと、『平家物語』などに記載されている。八咫大蛇は81代天皇、8歳の帝となって取り返したとあります。

 ここまでは普通のお話。
 紀州の津名道代さん『日本「国つ神」情念史2』に、面白い見方が披露されていますので、紹介します。
 天皇家が剱を失ったと言うことは、自らが剱を以て身を守る必要がなくなった時代になったからとの主張。剱の換わりに武家が登場し、天皇家を守る存在になったとのこと。
 神奈備が参詣した安徳天皇を祭る神社
 徳島 剱山本宮殿 http://kamnavi.jp/en/sikoku/turugi.htm
 山口 赤間神宮  http://kamnavi.jp/en/sanyou/akama.htm
 対馬 八幡宮神社 、広島 厳島神社、大阪 露天神社 など。


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