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掲示板のログ(平成二十五年 一月〜 2013.1〜6)お名前の敬称は省略しています。

[11441]Re: 九州倭国の東征と崩壊   かたばみ 投稿日:2013年 6月30日(日)21時24分
関東の社に神人が上陸したという縁起がいくつかあります。
伊豆熱海の来宮神社、東京鳥越の須賀神社、東京墨田区の隅田川神社、東京上野台地には少彦名を祀る社もあります。
近畿東海から関東方面へ脱出した出雲文化圏の人々に由来するものと考えています。
これを追撃してくるのが垂仁273-311の子の豊城入彦、これを祖先とするのが栃木〜群馬の上毛野や下毛野氏。
次にやってくるのが景行311-333の子の日本武、これを祖とする系譜はみえません。
しかし戦闘痕跡もみえず、景行の婚姻融和策からみてなんらかの新氏族が生まれている可能性は少なからずと思います。

朝日遺跡は弥生末期〜古墳時代にかけて周辺の台地に小集落に分散して消えます。
位置が低湿地帯であり、指導者がいなくなって灌漑治水のコントロールができなくなったためだろうと考えています。
(最初期の水田とされる九州福岡の板付遺跡は湧き水利用です)

静岡の登呂遺跡は出雲文化圏と思われますが、ここの消滅は弥生後期になんらかの災害に見舞われたためである可能性があります。
遺跡が厚い砂土に覆われているからです。
これが津波であるなら朝日遺跡も被害を受けて消滅を早めているかもしれません。

吉野ヶ里は略奪のくりかえしで消滅したのでしょう。
この頃に新羅本紀で盛んに倭人の侵略が書かれています。統率者のいなくなった北九州の集団が略奪をしかけていたのだと思います。
日向宮崎のヤマタイコクも消滅し西都原に「葬祭場」が残るのみとなった(その王族の子孫が景行紀で熊襲と称されることになる)。

九州倭国が消滅し、結果として倭国の主体が九州から畿内に移動した。
書紀から磯城の地名がぱったりと消えます。
舞台が九州から畿内に移ったからに他なりません(応神朝で再登場する)。

海人の系譜も変化してゆきます。
中国は五胡十六国の動乱期となって交易が途絶えた(新羅は五胡十六国を利して西域とつながって地力を蓄えてゆきます)。
近畿倭国からみた九州は僻地となり、太平洋岸も同じく僻地。珍彦グループの出番がなくなり外洋航海の技術は失われてゆきます。
海外からみれば畿内が僻地であり、倭国が見えなくなる時代。

日本海沿岸や瀬戸内が重要航路になってゆきます。
かっては出雲グループが活動していた海域、したがってここにはかっての出雲文化圏の人々が少なからず含まれている。
対馬と半島を結ぶこと、瀬戸内と日本海沿岸を結ぶこと、沿岸航路専門に特化した海人グループの登場です。


島根県出雲市の南に西谷古墳群があります。弥生後期〜古墳時代初期の墳墓群です。
四隅突出墓でありながら使う祭祀土器は吉備型であり、北陸型や地元型も混じっています。
弥生後半から古墳時代初期に天孫系譜と出雲系譜の混合があった、ということでしょう。

開化の子の崇神と異母兄弟の彦坐王系譜はなにゆえ「王」の呼称を持つのか。
母は天足彦国押人の孫の意祁津姫(袁祁津姫、姥津姫)とされるけれど・・
和珥氏系譜は天足彦国押人の子の和邇日子押人を祖とする。
和珥氏は後に任那へ渡っていますから意祁津姫の意祁は壱岐に通じる海人である可能性が高い。
ここには「王」を呼称する様子はありません。

天足彦国押人の後裔も日本海沿岸に侵攻して地元氏族と縁戚となった。
それが西谷古墳群などの「混合文化」の被葬者だと思います。
ただし、青谷上寺地遺跡より東では天孫グループと出雲グループの混合の痕跡がいまのところみえない。

兵主神社の分布からみて丹波や若狭が九州倭国に制圧されたようにはみえません。
日本海沿岸での九州倭国の制圧範囲は因幡(鳥取市)あたりまで、そして終戦。
瀬戸内側では備前(赤穂市)あたりまでで終戦。
すなわち、日本海側では丹波、若狭あたりを拠点とする出雲文化圏の氏族(豪族)がそのまま残存しているはず。

その地域に彦坐王がある。
祀る社は舞鶴市、亀岡市、滋賀県愛知郡愛荘町(旧名秦荘町。愛知川町と合併)にあり(平成祭データ)。
彦坐王は出雲グループの出自・・すなわち天穂日と出雲神族の結合によるその子孫とみるところ。

すなわち、開化の子とするのは書紀での系譜挿入によるインチキ(^^;
開化と意祁津姫の後裔は和珥氏族(あるいは春日氏族)であって、鳥取より西がその当初の拠点でしょう、ここに「王」はみあたらない。

天穂日の出自は不明なれど前漢の中国王族(呉楚七国の乱)、血脈は意味をなさなくなっていてもその意識が王を呼称する理由じゃないか。
その系譜は書紀にとって書けない事象だと思います。天火明同様に近畿に先着していますし。
岐阜尾張に進出して天火明の子孫とも結合し、孝昭が尾張から世襲足媛を嫁に向かえた。その子が天足彦国押人。大きなリングを形成。
天穂日の系譜では「足」タラシに加えて「押」「忍」もあるかもしれない。


交易を握る者はすなわち実力者、その点で畿内は交易には不利。海に面する氏族の力を借りねばならない。
畿内から海へ出るルートは琵琶湖〜若狭と生駒山の南の大和川を経て池上曽根遺跡周辺、和泉でしょう。
池上曽根にも出雲グループの有力氏族が残存しているはずで、武埴安彦の謀反にその可能性をみるところ。
(武埴安彦の母は河内青玉の娘、当時の河内は沿岸の和泉を含む)

和泉と摂津播磨をつなぐ必要もあります。
当時の大阪湾は湿地帯、淀川水系の複雑さによって利用できない(後に仁徳402-434が治水、さらに後に和気清麻呂が大和川付け替え)。
瀬戸内では住吉三神(オリオンの三つ星とみる)を祀る海人グループが登場、氏族的には多種多様の複合体だと思います。
物部系海人も含まれるはずで四国が本拠地の越智氏もそのひとりだと思います。

近畿倭国にとって日本海側の彦坐王グループとの関係を保つことは最重要だった。
沙本毘古王は彦坐王グループのタカ派でしょう、反乱というより徹底抗戦の行動だと思います(大昔の建御名方と同じ)。
それがあってさえもその妹の狭本比賣は垂仁の妃となり、日葉酢姫は景行311-333の母となった。
(景行の系譜では王が若干ある)
垂仁は融和策を選んだ、書紀は系譜操作を選んだ(^^;

大彦は出雲グループの足跡を追って北陸方面から東北へ進んだ。
しかし、出雲グループが200年をかけてその文化圏を構築した地域を短期間にどうこうしようとしても無理な話です。
大彦系譜は姓氏録(815)と紹運禄(1426)に膳臣、阿部氏、那須国造が書かれるのみ(例外的に垂仁の母となる御間城姫がある)。
こちらは地元に吸収され、畿内と縁遠くなったために記録も失われたのだと思います。しかし東北での豪族誕生のきっかけになっていると考えています。


朝鮮半島では新羅が地力をつけています。ローマングラスが出土。自前の鉄の精錬もAD300頃に開始(おそらくは西アジア系)。
百済も五胡十六国時代を利して拡大中。高句麗もまた同様。
参考図1、ローマングラスロード推定図。参考図2、五胡十六国時代相関図。
参考図3、360頃の五胡十六国、下部ピンク色が東晋。

垂仁273-311も田道間守を含む使節を西晋へ派遣したが西晋は316に滅亡、五胡十六国の混乱時代へ。
ひとり旅などできるわけがない、少なくとも数十人の派遣だと思う。東晋に達したとしても混乱のさなかでしょう。得るところなにもなかった。
橘を持ち帰った・・んなもの持ちかえるもんかっ(^^; 後の橘の輸入を田道間守にあてて美化したものと思います。
(常世の国とは四川省、柑橘類の原産地。田道間守らがここまで到達できるとは考えにくい)
なんとか帰り着いた使節団のひとりが田道間守だったというのが実情と思います(すいません、ロマンがなくて(^^; )。

内戦で疲弊した倭国は景行の北九州巡幸など復興に精一杯、鉄も未だに伽耶に頼るのみ。
そして北九州で次の時代が動き始めます。
倭王旨(七支刀369頃)への百済の接近、伽耶を巡る新羅との抗争、応神の百済支援の出兵。
そして倭王五代が再び主導権を握る時代へ。

九州倭国の東征と崩壊、段落といたします。









[11440]神崎と神前   福島雅彦 投稿日:2013年 6月30日(日)17時12分
韓国と音楽を愛する男さん
※横レス、失礼します。
私は、古代史文献派で、所謂「邪馬臺國」問題を解明しました。
*「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=漢の前の秦人の徐福が興した国。
*前(さき)=祖。
*漢前郡⇒神崎郡(吉野ヶ里の地)=好字二字令。
播磨にも「神崎」が在りましたか。徐福の痕跡は在りませんでしょうか。


[11439]常世の国とBENNIE K   韓国と音楽を愛する男 投稿日:2013年 6月30日(日)16時43分
BENIIE Kの由来が弁慶というところで、2005年にコカ・コーラのCMソングとしてヒットした「Dreamland」は、常世の国にふさわしい曲でしょうね。
ドリームランドは、夢の国、理想郷という意味であり、日本書紀・古事記に出てくる「常世の国」とぴったり符合します。
浦島太郎の竜宮城も、もとは日本書紀や丹後風土記の説話がもとになっていますが、古代日本人にとって、「夢の理想郷、楽園」こそが、常世の国なんです。
常世の国に行った人物として、少彦名命、神武天皇の付き人、但馬守、浦島太郎が出てきますが、現代日本において、「常世の世界」を地上に現したのが東京ディズニーランドであり、BENNIE KのDreamlandなのです。
播磨風土記には、常世の国に関する記述はありませんが、宍粟市にある「伊和神社」は、大国主(オオナムチ)が国造りを終えて隠居したという説話がもとになっています。
「伊和神社」はイワであり、いわき市の「いわ(古形はイハ)」とは異なるものです。
兵庫県で常世の国に関する神社は、豊岡市にある「中島神社」であり、但馬守命が常世の国までタチバナを取りに行った説話に由来しています。
「常世の国」の実在性は別として、古代日本人のあくなき探求が、今日の東京ディズニーランドの繁栄を招いたでしょうね


[11438][11437]Re: 弁慶とBENNIE K そして印南  韓国と音楽を愛する男投稿日:2013年 6月27日(木)17時31分
播磨国の地名もいい意味の漢字を用いてはいますが、公式表記と風土記が一致しない地名は、赤石と明石・加古と賀古・賀茂と賀毛・多可と託賀・宍粟と宍禾・神崎と神前です。
赤穂の古形は「あかほ」、揖保の古形は「いいほ」、宍粟の古形は「しさわ」、神崎の古形は「かむさき」であり、「ん」が「む」になるもの古形の特徴です。
中央ではいい意味の漢字を使う命令が出ても、風土記では異なる字を使っている以上、地名表記には統一性がなかったと考えるべきですね。
加古川の地名を見ても、日岡と氷丘は同一の場所で異なる字を使っており、地名の統一性のなさは今でもあります。
弁慶とBENNIE Kのような違いは、難波・丹波の古形が「なにわ・たにわ」であることや、相楽郡の古形が「さがら・さがらか」であることから、古代においては常用漢字の音読みとは関係なく読んでいたことになります。
播磨を「はりま」と読むことは、古代において「ん」とラ行が混用されたことの証拠であり、駿河を「するが」、敦賀を「つるが(古形はつぬが)」と読むことや、ハングルのnとrがllになること(全羅道をチョルラドと読み、Jeolla-doと表記することなど)との関連性も考えられます。
地名学は、古代における字音の研究の上でも、有用ですね。


[11437]Re: 弁慶とBENNIE K そして印南   神奈備 投稿日:2013年 6月26日(水)20時18分
韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。


> 風土記の編集者は、いかに漢字を選び、どのように読んだか、興味がありますね。


 『和名抄』紀伊国名草郡に、伊太・杵曽・神戸・須佐神戸などの地名が載っています。おそらく作者は、伊太杵曽神戸だったのを二文字づつにして理解したのでしょう。風土記記述の命令の前に好字令が出されています。地名は良い漢字二文字で表しなさいと言うありがたい命令だったようです。
 伊太祁曽神社の鎮座している西側に口須佐、南に奥須佐なる地名があります。
http://kamnavi.jp/itakiso/zokufudoki.htm
 恐らくは須佐と言う地名があって、伊太祁曽神社の遷座にともない、それが伊太杵曽になり、須佐地名は公式にはなくなっても、村民には長く残ったのでしょう。そのことが、口須佐・奥須佐と言う地名を作ったのでしょう。

 須佐が伊太杵曽に変わった理由は、須佐神社が遷座して行き、そこに伊太祁曽神社がやって来たからです。
 『寛永記』に、和銅六年(713年)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したと伝わる。同じ年に須佐神社が吉野西川峰より勧請とあります。須佐神社は紀伊国在田郡の式内大社です。
 桑原隲蔵さんも須佐神社は名草郡にあったと指摘されています。




[11436]Re: [11435]とくさ   神奈備 投稿日:2013年 6月24日(月)21時03分
KAGさんへのお返事です。

> というのは・・・JR山口線の津和野から2駅ほど山口側の「徳佐」という所で仕事でした。そこから見えるきれいな山に見とれていたら、土地の人から『長門富士:十種ヶ峰』と教えていただきました。なんと『御食津尊が十種瑞神宝を埋めた山頂だから』そのように呼ばれているとのことです。冬はスキー場でにぎわうそうですが・・・。
> あらら・・・物部神宝はこちらに???!!!


面白いモノを見つける能力は損傷などせず、相変わらず健在ですね。


> 私といえば膝の半月板を損傷して登山ができなくなりました。(その上、別件で来週からしばらく入院します。)せっかく面白そうな(山との)出会いがあったのに残念です。


神戸付近で入院でしょうか。落ち着いたら一報ください。アイスクリームでも持って行きます。


[11435]とくさ   KAG 投稿日:2013年 6月24日(月)20時03分
神奈備先生、ごぶさたしています。
唐突ですみません。今は日本に帰って来ています。
津和野のホテルから投稿しています。
というのは・・・JR山口線の津和野から2駅ほど山口側の「徳佐」という所で仕事でした。そこから見えるきれいな山に見とれていたら、土地の人から『長門富士:十種ヶ峰』と教えていただきました。なんと『御食津尊が十種瑞神宝を埋めた山頂だから』そのように呼ばれているとのことです。冬はスキー場でにぎわうそうですが・・・。

あらら・・・物部神宝はこちらに???!!!
私といえば膝の半月板を損傷して登山ができなくなりました。(その上、別件で来週からしばらく入院します。)せっかく面白そうな(山との)出会いがあったのに残念です。
ここは、和製インディ・ジョーンズたる神奈備先生にご報告だけでもと、投稿いたします。



[11434]弁慶とBENNIE K そして印   韓国と音楽を愛する男 投稿日: 2013年 6月23日(日)18時03分
2004〜06年ごろにはやっていた女性デュオで、BENNIE K(ベニーケイ)がありますが、由来は平安末期の弁慶からきています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/BENNIE_K

つまり、弁慶の「ん」を「に」と表記したものであり、古代においては字音の「ん」は表記しないか、印南(いんなみ、古形はいなみ)というように、「み」などで表記したりしていました。
現代日本語や北京語で「ん」で終わる漢字で、古形で「む」で終わるものがあり、印南の「なみ」も「なむ」から来ています。
姫路市安富には「安志姫神社」がありますが、風土記では「安師」と表記し、「あじ・あなし」あたりで発音していたと思われます。
http://www.kamnavi.jp/ym/hiboko/anjihime.htm

播磨風土記の飾磨郡因達里も「いだて」と発音し、「ん」はありません。
播磨風土記にはほかにも、佐用郡を「讃容」と表記したりと、「ん」を発音しなかったり、読みを変えたりする事例が多いです。
弁慶とBENNIE Kの対応は、古代における「ん」の読み替えが、現代にも通じていることを示す、貴重な?例ですね。
風土記の編集者は、いかに漢字を選び、どのように読んだか、興味がありますね。


[11433]Re: [11431]Re: 九州倭国の東征と崩壊   神奈備 投稿日: 2013年 6月21日(金)14時32分
かたばみさんへのお返事です。

> 万葉3844に巨勢の系譜が黒い肌であることをうかがわせる歌がある。新しい渡来氏族で東南アジア系なんてこともありえるか。

土師宿禰水通(はにしのすくねみみち)が、巨勢朝臣豊人が黒色を嗤咲ける歌一首
3844 ぬば玉の斐太(ひだ)の大黒(おほくろ)見るごとに巨勢の小黒(をくろ)

し思ほゆるかも

神奈備掲示板の平成二十年一月のログ[8649] に、黒男 について、書きました。

 宇佐八幡宮はじめ、幾つかの神社に黒男神社と言う神社が鎮座しており、

武内宿禰が祀られています。
大分県中津市 薦神社摂社黒人社
大分県日田市 玉垂神社<通称>黒男社
大分県東国東郡国東町  黒雄社
福岡県浮羽郡田主丸町 黒島神社
福岡県築上郡築城町 八幡神社摂社黒男殿神社
福岡県大野城市 黒男神社
福岡県糟屋郡久山町 黒男神社
福岡県福岡市 鳥飼八幡宮摂社黒殿社
福岡県福岡市 棉津見神社摂社黒津神社

佐賀県武雄市朝日町 黒尾神社 祭神は神母影媛。

鹿児島県鹿児島郡三島村 黒尾神社 ここでは住吉大神。

 八幡古表神社の神相撲は、小さい黒い神(住吉大神)が、全勝優勝するのですが、その相手には、武内宿禰や黒男神の名はありません。

住吉大神の人形
http://www.town.yoshitomi.lg.jp/p/1/9/2/27/3/1/#textimg395

勝敗は
http://www.genbu.net/data/buzen/kohyou_title.htm

 祭神であろう黒男神とは殆どが武内宿禰ですが、鹿児島に一社だけ住吉大神があります。どちらも神功皇后の守護神のようですから、名は違えども、同じような神かも知れません。織田信長が雇った弥助のようなイメージと言うよりは、屈強な兵士の団体だったのかも知れません。
 神功皇后を守護したのは、他にも五十猛、天照大神荒魂、事代主、稚日女、などが混然としているようです。



[11432]Re: [11431]Re: 九州倭国の東征と崩壊   かたばみ 投稿日: 2013年 6月17日(月)10時08分
神奈備さんへのお返事です。

>神母とされた山下影媛を神として祀る神社は紀伊にはなく、全て九州です。

なるほど、珍彦グループの女性が巫女の性格を持っていて不思議はなさそうです。
卑弥呼も珍彦グループのひとりなのかもしれない。
影姫が親父さんといっしょに船旅していたとは思えないので九州で祀られるのは妥当かもしれないですね。
このグループに文字(漢字)が存在した可能性は物部グループよりはるかに高いと思っています。

武内宿禰、古事記では比古布都押之信(書紀では彦太忍信)の子で母は木国造宇豆比古の妹の山下影比賣。
書紀では彦太忍信の子(母は高千那毘賣)の屋主忍男武雄心の子で母は紀直の遠祖の菟道彦の娘の影姫。
影姫の位置が1世代ずれてるけど、まあたいした問題ではない(^^;


平群の登場は応神朝、いったん衰微し用明585-586サイドのアンチ物部で再登場。武内宿禰と同系かもしれない。
巨勢(許勢)の登場は継体507-530、天武673-685で朝臣。
万葉3844に巨勢の系譜が黒い肌であることをうかがわせる歌がある。新しい渡来氏族で東南アジア系なんてこともありえるか。

記事での蘇我の登場は応神での百済人木満致(書紀引用の百済記)を蘇我満智(応神386-402)と同一とみるかどうか。
(新羅本紀と違って百済本紀と百済記は編纂に倭国関与の可能性高くそのまま信用はできない(^^; )
応神以前の記事はないので、半島南西部の前方後円墳築造の倭人と百済人の混血、応神朝の次の倭王五代(九州)での登場と推定。

羽多はわからないです。
参考図はハタの地名分布です。出雲とは何かを考えるきっかけとなった分布で特異な分布と思います。
ハタ・ケはハタの食糧の意であり、大年神系譜の渡来と関係するかもと考えています。
福岡にないのは水稲の地域だったからか。
ならば最古中の最古ですが、それが現代まで残るかどうか?

遡って天之忍穂耳グループにも始皇帝系譜の秦(萬旗豊秋津師比賣、呉楚七国の乱からの脱出組のひとりとみる)がありえると考えています。
神武朝では辰韓の秦(赫居世の先祖、やはり呉楚七国の乱からの脱出組とみる)との関連としてありえる。
応神朝での新羅ないし伽耶からの秦、雄略朝での秦、これは鉄系ないし商人系で異なる系譜が重ねられているとみてますが、ここでは略。

ま、いずれにしても武内宿禰を含めてみんな九州北岸からスタートだと思います。


海部氏系図と勘注系図、成立は先代舊事本紀以降だと思います(書紀編纂からしばらくしてから)。
先代舊事本紀は推古(聖徳太子)時代の天皇記や国記の編纂資料として提出された「物部氏の系譜」の断片のおそらくは再編集。
後にはこれが物部グループの祖先を示す標準、ということになった。

その一員であろう海部氏にとっても同じく。
籠神社に天火明命の後裔が来ていたわけじゃない、そこに来ていたのは海部氏。
海部氏の納めた系図が物部標準の系図だった。勘注系図は海部氏独自の縁戚関係を加えたものでしょう。
彦火明という各地の痕跡は後の物部ギルドが運んだもの。

籠神社の籠の由来はなんだろうなあ。コノと読むようですがカヌーを連想するところ。
籠の文字は物部ギルドが扱っていた手工業品の籠カゴだと思う。ダビデ文みたいな神紋?はカゴの編み目のカゴメ紋。
先代舊事本紀には笠縫といった職種が書かれる、籠造りじゃぱっとしないので後世に美化の変化もするでしょう。

元伊勢とされるのは九州倭国東征時に「最新版アマテラス祭祀」が運ばれて、崇神時代には「元伊勢」が各地にたくさんあったのではなかろうか。
元伊勢で祭祀が神格化されるなら豊宇気毘売神だと思います(天照大神の登場は書紀編纂以降)。
大年神系譜の大気都比賣命、珍彦グループがその伝承を知らないとは思えない。寒冷化の時代、農耕の神を祀るのは必然だし。
出雲の銅鐸も同様じゃないかな、次第に大型化するのは寒冷化によって必要がより大きくなったから。その文様には自然崇拝を感じます。




http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11431]Re: 九州倭国の東征と崩   神奈備 投稿日:2013年 6月15日(土)17時21分
> 家主忍男武雄心の嫁さんとなる影姫(山下影日賣)は菟道彦の子ないし宇豆比古の子とされる。珍彦グループのひとりでしょう。

 珍彦グループとは椎根津彦(倭宿禰、大和国造祖)のことで、」「海部氏系図」では、天村雲命の子とされています。

 一方、菟道彦とは、紀伊国造の系列の人物で、大名草比古の子となっています。この頃の紀氏は九州にいたようで、『肥前国風土記』藤津郡能美郷の条に「土蜘蛛を紀直らの祖の稚日子を派遣して云々」とあります。景行天皇の頃。

 武内宿禰の母親とされる山下影媛ですが、和歌山市に武内宿禰誕生の地と伝承されている場所(安原)に、誕生井があったりするのですが、この付近の人々の姓に「山下」が多いのです。全部が明治8年にできた苗字だとも思えず、何らかの伝承があったのかも知れませんが、神母とされた山下影媛を神として祀る神社は紀伊にはなく、全て九州です。
福岡県宗像郡玄海町葛原神社
福岡県小郡市の竃門神社
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇の玉垂神社
です。

 武内宿禰の子らが各氏の祖となっています。氏の名の地名分布のイメージ。
  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I      甘木  香春
        ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川
  有明海



[11430]Re: 九州倭国の東征と崩   かたばみ 投稿日:2013年 6月15日(土)09時52分
話がゆきつもどりつですが。
神武朝( 36〜懿徳105)の北九州には少なからぬ渡来者がやってきた。
後漢との交流では山東半島から。
朝鮮半島南部からは弁韓(後に伽耶)、ここにはAD1頃の鉄の精錬炉あり。鉄に関する人物が行き来していると思います。
伽耶は半島側での「スサノオ後裔」支配地と考えています。出雲との関係濃密、神武朝での出雲も鉄をここから入手だと思う。
辰韓(後に新羅)は赫居世BC57系譜(朴氏)と脱解AD57系譜(昔氏)と神武系譜の氏族的関連が濃密とみる。
馬韓(後に百済)はまだ未開、山東半島からの経由地でしょう。ただし馬韓の名からは馬の産地である可能性あり。

孝の字朝でも新しい氏族の誕生が相次いでいた。新興勢力あり、政略結婚あり、渡来系ありといったところです。
もっと後の登場ですが武内宿禰について。
武内宿禰は開化の兄弟の彦太忍信の孫とされますが、まったくの系譜改ざんと断定。

後の宿禰は氏姓制度によるもので渡来者の意とは限らないが、この時代では渡来系を意味する。
武内宿禰の子として羽多、許勢、蘇我、平群、紀臣の祖などが書かれますが、いつ渡来した人物かはここでは略。

百済が倭王旨(北九州)に七支刀369を贈ってきます。鉄は伽耶だけじゃないよ、うちでも作れるから仲良くしましょ。
贈ってきたのは七支刀だけじゃない、倭王旨に騎馬ももたらした。
武内宿禰は百済人、倭王旨の騎馬軍団の創始者と考えています(五胡十六国の前燕(遊牧民、山東半島支配)出自である可能性もあり)。
(古事記八千矛神に騎馬と見える記述があります、こちらは高句麗からの単発的でしょう)

応神386-402は倭王旨の子、応神は百済と新羅の抗争で百済に味方して半島西南部へ進出する。
これが半島西南部の前方後円墳であり、半島系倭人の登場でもある。
武内宿禰は倭王旨と応神朝の軍事参謀。
書紀編纂者は万世一系を保つために倭王旨の事跡を神功皇后の事跡に置き換えて神功紀を創作、応神を仲哀の子とするのに必死(^^;
また、武内宿禰の出自を彦太忍信の孫としたためにその寿命がやたら長くなってしまった。


さて、神武朝にあって椎根津彦を祖とし外洋を得意とする珍彦グループは北九州で海外交易に従事していた。
それが椎根津彦の別名珍彦(ウズのヒコ、貴重品の彦)の名の由来だと考えています。
開化の異母兄弟の彦太忍信の子の家主忍男武雄心の母は高千那比賣。
こちらは海部氏族出自の可能性が高い(勘注系図)。海部氏族も物部ギルドの一員。

家主忍男武雄心の嫁さんとなる影姫(山下影日賣)は菟道彦の子ないし宇豆比古の子とされる。珍彦グループのひとりでしょう。
珍彦グループの頭領をウズヒコと呼んでいた可能性をみています。
物部ギルドと珍彦グループは天孫系譜に次々と娘を送り込んでいた。

書紀は渡来人との交流が深い珍彦グループの系譜に武内宿禰を挿入し、その他の渡来人もその子として一括処理した。
神話時代の渡来者を一括して素盞鳴の子としたのと同じです。

開化出陣にあたって珍彦グループは海運の主役として物部ギルドと共に紀州熊野に渡った。
その時の珍彦グループの頭領が紀直の祖の菟道彦、あるいは木国造の祖の宇豆彦とみています。
ならば紀直あるいは木国造の最初の地盤は紀州の太平洋岸になるでしょう。
船材用として杉などを植林もしたでしょう、こちらが木の文字を使うべきところ。

対して紀臣は紀角宿禰(木角宿禰)を祖とする渡来系でこの時代では紀州とは無関係。
中国におけるキ姓のありようから紀臣は山東半島出自と考えています。
後に紀州を地盤にしたとしても畿内側になるでしょう。
ましかしキとキ、武内宿禰の系譜改ざんが加わって混乱。


武内宿禰の子とされるなかに宿禰ではない人物がいます。
葛城臣の祖の葛城長江曾都毘古、古来からの和名であろうヒコを用いています。
珍彦グループの影姫と家主忍男武雄心との本当の子、それが葛城長江曾都毘古だと考えています。
(比賣が二人見えますがこれも影姫の子か)

珍彦グループは天孫降臨時代の海神族を祖とし、さらに遡ればBC1500頃の長江の海洋系三苗を祖先とする。
三苗は縄文に最新の祭祀をもたらし、大山祇神(縄文)と結合して「アマテラス祭祀」を生んだ。南方海洋系が濃い祭祀。
巫女+進化したシャーマニズムだと思います。
神武朝での珍彦グループはこの祭祀に後漢時代の呉楚文化(楚の鬼道を含む)を取り込んでさらに進化。

神武朝では神八井耳の多臣族の祭祀がメインであり、珍彦グループの祭祀は表にはでなかった。
しかし神武朝から孝の字朝に切り替わったとき表舞台に登場する。
幼少の卑弥呼を教育し、その祭祀を伝授したのは珍彦グループだと考えています。
すなわち巫女型であり、神武朝と違って女性がトップにあってもよい。

参考図、岡山県倉敷の楯築遺跡。
なんとなく縄文っぽくもある立柱、また原始道教っぽくもある彫刻の巨石。
中国地方に最初に侵攻した吉備グループの造営とみます、AD210頃か。この遺跡は葛城氏(の祖先)関与じゃないか。
すなわち孝の字朝の墓でもあり、卑弥呼の墓はこれに類似ではないか。

梁書に卑弥呼の死去は240〜249とあります。80〜90歳あたりか。
開化225-248は子の崇神248-273と倭迹々日百襲姫を呼び寄せて奈良に九州倭国の分室を設立した。
開化の呼称の所以であり、稚日本根子彦大日日の(稚)呼称の所以でもあります。

崇神は出雲祭祀を遵守し(大田田根子)、畿内の安定化に懸命。崇神の名の所以です。
畿内は戦場にならず田畑も荒廃していない、食糧などを九州倭国へ緊急輸送した。
この頃、九州から庄内式土器(近畿の形式)が出土します。物資輸送に使った土器でしょう。

しかし遅かった、卑弥呼の死後に九州倭国は再び乱れて内部崩壊へ。
壹與がなんとかつないだが266の晋への朝貢が最後となります。
九州倭国は滅亡した。
この戦で九州倭国はどれだけの兵と物資を消耗したか。
ただでさえ危うくなっていた九州倭国にそれがとどめをさすことになった。

もう少し続く(^^;




[11429]Re: [11427]Re: 加古川の古代文化   韓国と音楽を愛する男 投稿日:2013年 6月10日(月)18時27分
神奈備さんへのお返事です。

> 韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。
>
> 投稿ありがとうございます。
>
> 『播磨国風土記』
>  賀古郡に鴨波(あはは)里があります。ここには、阿波の鴨一族の移住したものと思っています。阿波国には、阿波郡と勝浦郡に事代主神社が鎮座しています。阿波には忌部氏も登場しており、遠祖を高皇産靈神としているとのことで、渡来系と見ることもできます。
>  従って、播磨にも渡来人の気配が残っていて当然のことでしょう。
>
> >加古川の文化のルーツは韓国にあり、といえるかもしれませんね。
>
>  韓国好きの方の発想に覆いのですが、注意しなければならないことは、韓国で文化が発達したのか、どの文化の母国だったのかの論証がなくてルーツとするのですが、文化の種類によっては、半島は渡り廊下だったこともあったのでしょう。

韓国系の文化で加古川にあるのは、古墳の出土品が伽耶(洛東江流域)のものと共通、鶴林寺の阿弥陀像の絵画(残念ながら盗まれてしまい、所在不明)と梵鐘、尾上神社の「尾上の鐘」が高麗時代のものです。
加古川市の有名な文化財で、韓国由来のものはこの3つです。
古代の播磨は、渡来人の先進文化で開けたことは、風土記の「アメノヒボコ」神話からも裏付けられていますが、韓国文化が今日まで伝わっているのは、加古川市民の鶴林寺や尾上神社に対する深い愛着があってのことですね。


[11428]Re: [11427]Re: 加古川の古代文化   韓国と音楽を愛する男 投稿日:2013年 6月10日(月)18時27分
神奈備さんへのお返事です。

> 韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。
>
> 投稿ありがとうございます。
>
> 『播磨国風土記』
>  賀古郡に鴨波(あはは)里があります。ここには、阿波の鴨一族の移住したものと思っています。阿波国には、阿波郡と勝浦郡に事代主神社が鎮座しています。阿波には忌部氏も登場しており、遠祖を高皇産靈神としているとのことで、渡来系と見ることもできます。
>  従って、播磨にも渡来人の気配が残っていて当然のことでしょう。
>
> >加古川の文化のルーツは韓国にあり、といえるかもしれませんね。
>
>  韓国好きの方の発想に覆いのですが、注意しなければならないことは、韓国で文化が発達したのか、どの文化の母国だったのかの論証がなくてルーツとするのですが、文化の種類によっては、半島は渡り廊下だったこともあったのでしょう。

韓国系の文化で加古川にあるのは、古墳の出土品が伽耶(洛東江流域)のものと共通、鶴林寺の阿弥陀像の絵画(残念ながら盗まれてしまい、所在不明)と梵鐘、尾上神社の「尾上の鐘」が高麗時代のものです。
加古川市の有名な文化財で、韓国由来のものはこの3つです。
古代の播磨は、渡来人の先進文化で開けたことは、風土記の「アメノヒボコ」神話からも裏付けられていますが、韓国文化が今日まで伝わっているのは、加古川市民の鶴林寺や尾上神社に対する深い愛着があってのことですね。


">[11427]Re: 加古川の古代文化   神奈備 投稿日:2013年 6月10日(月)15時00分
韓国と音楽を愛する男さんへのお返事です。

投稿ありがとうございます。

『播磨国風土記』
 賀古郡に鴨波(あはは)里があります。ここには、阿波の鴨一族の移住したものと思っています。阿波国には、阿波郡と勝浦郡に事代主神社が鎮座しています。阿波には忌部氏も登場しており、遠祖を高皇産靈神としているとのことで、渡来系と見ることもできます。
 従って、播磨にも渡来人の気配が残っていて当然のことでしょう。

>加古川の文化のルーツは韓国にあり、といえるかもしれませんね。

 韓国好きの方の発想に覆いのですが、注意しなければならないことは、韓国で文化が発達したのか、どの文化の母国だったのかの論証がなくてルーツとするのですが、文化の種類によっては、半島は渡り廊下だったこともあったのでしょう。


[11426]Re: [11424]諸説紛々   かたばみ 投稿日: 2013年 6月 9日(日)19時43分
神奈備さんへのお返事です。

> 前田晴人著『古代女王制と天皇の起源』なんかは

これについては卑弥呼を教育したのはだれか、九州倭国の東征でちょこっと書きます。

>岸本直文著『史跡で読む日本の歴史2古墳の時代』です。

持論
畿内の大型古墳の発掘調査がいつできるか、まずはこれですね。ほとんどが盗掘されてると思うけど。
時代と内容がわからないと被葬者がだれかもわからない(陵墓指定はほとんどペケ(^^; )
年輪年代法も基本的誤差が大きい可能性が現時点では大です。

http://homepage3.nifty.com/washizaki/present1108.pdf

土器編年より誤差が大きくなっちゃう(^^; 要注意。

それはおいて参考図参照
全国の大型古墳がなぜこの寒冷化ピークの時期(AD200〜AD400あたり)に築造されたのか。
寒冷化ピークは持論年代では孝の字朝末期の孝元204-225〜崇神248-273〜仁徳402-434頃となります。
民衆が困窮しているはずです。
そういうときに自己顕示欲で民衆をこきつかうようなアホな支配者はそうはいないと思います。
逃散や暴動につながるのは目に見えています。

大型古墳の築造は公共事業の意味がまずありきで、住民に食糧を配り労働力の集約化を行って田畑の開墾も同時に行うため。
このあたりはピラミッド建設に通じるところです。
最初期の纒向古墳群がそれで、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山、そして最後が箸墓。
被葬者は開化、大彦、武淳川別、倭迹々日百襲姫など。東田大塚は瀬戸内系土器棺につき吉備津彦系か。
築造は崇神248-273〜垂仁273-311。

権威を示す目的もあったでしょうけれど、自分が死んでから権威を示してもあんまり面白くはない(^^;
権威を示したいのはその子孫です。
古墳の完成に数十年かかろうと被葬者の死去がいつだろうとかまわない。

前方後円墳の前方部(祭壇)は初期には小さくホタテ貝型だったが、箸墓では一気に巨大化した。
被葬者(祖先)を盛大に祀ることで自らの権威を示す目的が生じたからではないか。
書紀に書かれる古墳の築造は箸墓のみ、権威の意識の芽生えを意味するか。

すなわち畿内勢力が出雲から天孫に切り替わったときに公共事業が始まった。
墓を作る意味に別の目的が加わった。
そしてその手法が畿内から周囲に伝わってゆくわけです。
むろん従来通りで丘や山の斜面などを利用する墓もあったでしょう。氏族特有の形状の墓もあるでしょう。

古墳築造の場所は田畑のど真ん中でかまわない。
築造の材料はできるだけ近場でまかなう。
周濠は古墳用の土砂採掘跡、田畑の中にあればため池に使えるから一石二鳥。
葺き石がどこ製かわかりませんが遠方の石ではないとみています(箸墓築造用の大阪山ってどこかなあ)。

石棺に阿蘇の石が使われたりするのは、「故郷の九州」を思ってのこと。
なんらかの儀礼とみえる舟形埴輪がでています。
天国に死者を運ぶ観念上の船という説が一般ですが、実物の船を写したものと考えています。
かっての九州倭国、故郷へ戻る船。葬祭場となった西都原へ遺骸を運ぶ船(西都原からも舟形埴輪出土)。

ちなみに三角縁神獣鏡(コピー品)がたくさん副葬された墓の被葬者は出雲兵を大勢殺した人(^^;
その祟りが怖いので鏡をたくさん副葬した、卑弥呼の鬼を防ぐ鬼道ですね。


神武朝〜孝の字朝の墓は九州のどこかにある。孝の字朝の場合は西都原のどこかかな。墳丘墓とは限らない。
倭人伝に書かれる卑弥呼の墓をいう文字は塚の右側(チョウ)と、これによく似たボウがある(手持ちの資料)。
ボウは覆うの意、チョウは丘とか盛土の意で似て非なる文字です。写本によって異なる可能性あり。
この場合の文字の正誤は重要です。卑弥呼の墓が墳丘であるとは限らなくなります。
使者が通訳から聞いた話でしょうけど、周濠があるなら記録されるんじゃないかな。

百余歩の墓、これは間違いないでしょう。土地の面積をいう場合は中国のどの時代でも同じ、二歩≒140cmを歩としています(小爾雅)。
ただし、尺といった物の寸法をいう場合は時代によって変化しています。
土地の表示はいつのどこでも同じ、表示法が異なると大問題になるからでしょう。
卑弥呼の墓、九州倭国衰微の時代、いつ築造が始まったのか。
さしたる墳丘は持たず100年も無管理だったら建屋も崩れてわからなくなるような墓だったのではないか。




[11425]加古川の古代文化   韓国と音楽を愛する男 投稿日:2013年 6月 8日(土)15時41分
こんにちわ、加古川市に住んでいる韓国と音楽を愛する男です。
僕の住む加古川市には、市街地の日岡・泊神社、工業地帯の尾上・浜の宮神社があります。
古代の加古川が豊かな土地であったことは、播磨風土記や大中遺跡・古墳の発掘調査から知られていますが、考古学的に見て加古川と神戸の関係は、韓国の釜山と金海の関係にも通じるのではないでしょうか。
どちらも、国を代表する国際貿易都市に隣接した古代王国であること、稲美と金海が類義であること(稲美=稲が美しい、金海=金色の海(ここでは美しい稲穂?))、有力者を葬った古墳があること、鉄文化が栄えた場所であることです。
播磨町の考古学博物館で行われている風土記の展覧会でも、韓国の技術が播磨に入り、花開いた「古代播磨文化」を、古墳などの発掘調査をもとに紹介しています。
古代播磨と伽耶の文化は、地名の意味・立地条件・発掘遺物からも、似通っているといえるのです。
加古川の文化のルーツは韓国にあり、といえるかもしれませんね。


[11424]諸説紛々   神奈備 投稿日:2013年 6月 7日(金)16時24分
 歴史の学会の動向はよくわかりませんが、前田晴人著『古代女王制と天皇の起源』なんかは、どのように評価されているのでしょうか。もう一つは、岸本直文著『史跡で読む日本の歴史2古墳の時代』です。
 大阪の古代史の同好会の「豊中歴史同好会」と「古代を偲ぶ会」には、岸本先生はそれぞれに招聘されて講演をされています。
 岸本先生の「王陵古墳の二系列」では、古代の倭王を神聖王と執行王に分けて見ていくと云う面白い視点からのお話です。
 主系列
  箸墓(卑弥呼)ー西殿塚(台与)−行燈山(ミマキイリヒコ)−宝来山(イクメイリヒコ)ー
 副系列
  桜井茶臼山ーメスリ山ー渋谷向山(オオタラシヒコ)ー・・−津堂城山(オホムダワケ)ー
 これらが5世紀末〜6世紀に入り、二系列は統一されてきたとのことです。

 前田先生は、古代の女王制は河内王朝寸前まで続いていたとしています。
 記紀から選び出す女王の条件
A 皇后皇妃であること
B 崇神〜応神の間に収まる
C 特異な伝承を持つ
D 陵墓伝承がある
E 制度の開始などの伝承
F 天皇との婚姻に何らかの障害があった
G 後世に王族がいたと伝える地方とかかわる

女王達
 初代卑弥呼 迦具夜比売
 2 台与
 3 丹波 竹野媛
 4 播磨 稲日大郎姫
 5 丹波 氷羽州比売
 6 山代 刈羽田刀辨
 7 大和 息長帯日売 狭穂姫
 といえことです。

 これらの説を合わせると面白いことになるのかも知れません。



神奈備掲示板  青草談話室ログ

[11423]
[11423]Re: 九州倭国の東征と崩壊   かたばみ 投稿日:2013年 6月 5日(水)23時59分
バタンキュー寸前の九州倭国に開化225-248登場。
孝元の子とされ、母は穂積臣の遠祖欝色雄の娘の欝色謎。
穂積臣は物部氏族の祖と等価でよいと思います(物部氏の祖先は大勢いると考えてます)。

同じ母で兄弟とされる大彦はすでに日本海側に出陣。
物部氏遠祖とされる大綜麻杵の娘の伊香色謎を母とする異母兄弟の彦太忍信は水軍の司令官か。
物部系の嫁さんでがっちり固められています。

土佐の田村遺跡は卑弥呼のAD190頃の攻撃で物部系譜の支配するところに戻っていた。
ただし、物部系譜は農耕には関与しない。田村遺跡の田畑は神武朝時代の名残り程度となっていた。

物部氏は一人の始祖ではなく多数の「無名氏族」の集合体、海運と商業ギルドの一種だと考えています。
先代舊事本紀の天神本紀に書かれる、物部造、笠縫部、為奈部、十市部、筑紫弦田物部、加えて天物部二十五部。
加えて、船の跡部、梶取阿刀造、船子倭鍛師などが祖先。
さらにその祖先は、呉楚七国乱から脱出した天之忍穂耳の配下の集団。技術系や船舶系であって農耕系はいない。

イデオロギーとか氏族系譜では扱えない集団。
天孫グループから戦略物資を大量受注、娘も送り込んで盤石の組織となった。
出雲グループにも同様だと思う、こちらは記録に残っていないだけでしょう。

出自もはっきりしない先祖ばかりでは力と地位を得てからは面白くない。
そこで、先代舊事本紀の天孫本紀に書かれる天照国照彦天火明櫛玉饒速日なる人物を祖先とする系図が作られた。
天孫降臨の天火明に饒速日を付け加えただけ(^^;
宇摩志麻遲や長髄彦の物語も作られた・・しかしこのお話は設定がめちゃめちゃで青草物語でも対応困難(^^;
天火明の子孫の動向と物部ギルドの動向をごちゃまぜにしたからでしょう。

推古時代に編纂とされる「天皇記」「国記」の編纂資料として物部氏は「系図や伝承」を提出し、書紀にもそれが混入した。
書紀の神武東征説話での「東の美しい国」「天の磐船から飛び降りた饒速日」・・
書紀編纂者には飛び降りたのは天火明であり時代もわかっていたが、神武東征創作上の都合に合わせて適宜流用。

先代舊事本紀は天皇記などの断片などを「日本書紀の内容に準じて」編纂したものと考えています。
推古時代に編纂したのだの意味なんだろうけど、表紙の蘇我馬子はまだしも聖徳太子なんて書いてしまった。
書紀以後の書であること見え見えで偽書扱いとなってしまった。

ウエツフミ・・いまのところ物部グループに残っていた資料断片を鎌倉時代に編纂したものと考えています。
出雲系譜の話が少なくないのは出雲グループに属していた物部がいたからだと考えています。
支配者側からでなく民間の立場からとみえる記述が多いことが貴重と思っています。
百科事典的なところがありますが、各地の港で活動するときにその地での習慣や歴史を知っておくための記録だったからではないか。

ウエツフミで使われる豊国文字、現在見えるものはカタカナが登場してからの創作でしょう。
文字、神武朝や孝の字朝であれば命令系統ははっきりしていてちゃんと伝達されればそれでよい。
文字が必要になるのは対外交流の時だけ、専門家が少数いれば事足りた。

しかし、氏族の異なる地域の港をつなぐ場合はそうはゆかない、秘密を守る必要もあります。
発音を記号化した「文字」が必要になるはず、多数の「写本」も必要になるはず(その断片がウエツフミの原本とみる)。
最古の文字、発音記号が存在した可能性は少なくないと考えています。
暦も必須、地域ごとにどこそこから見てあの山の頂から陽が昇るとき、といった共通情報の持ち合いです。


さて、開化は起死回生の一手を考えた。急がないと九州倭国がバタンキュー。
出雲の中枢奈良の唐古・鍵へ一気に突入する、失敗すれば全滅必須、いちかばちか。

渥美半島の天火明の子孫は周囲が警戒厳重で頼れず、奈良までの距離も遠い。
紀ノ川沿岸は最初から警戒厳重で上陸すら危うい(神武東征の五瀬の戦死に流用)。
現在の大阪湾は当時では沼沢で、淀川水系などが複雑に流れ込んでいて船の接近ができない。
元住吉社が神戸(西宮?)、後に住吉大社が大阪湾の南にできる理由です、船は大阪湾を避けて運用されていた。

紀州熊野から熊野越えで奈良の背後を突く。
紀州熊野には謎の三柱の神々が祭られています、熊野牟須美大神、家都御子神、速玉男神。
天火明時代に運ばれたごく古い神々で、遠隔地ゆえに変形せずに残ったのだと考えています。
三足烏も天火明が前漢文化のそれを運んだもの。

まずは武淳名川別が丹後半島に上陸して吉備グループの支援。
大彦は若狭湾から琵琶湖の東西へ向かうとみせて畿内の出雲兵力を日本海側にひきつける陽動作戦。
開化は兵をかき集めて紀州熊野へ向かった。多くても千人じゃないかなあ。

土佐田村遺跡から紀州熊野の途中には何カ所もの沿岸の補給拠点が必要。
これを準備したのが物部ギルドと珍彦グループ(椎根津彦の後裔)。
開化は日本海側からの連絡を待って熊野で待機した(情報伝達は物部ギルドでしょう)。
熊野山中の道案内は三足烏をトーテムとする氏族(神武東征説話では神武と八咫ガラスに置き換え)。

大彦の陽動作戦で畿内の出雲兵力が北に移動し奈良の防御が薄くなった。
開化は吉野を越えて現在の桜井市の南の山から一気に攻め込んだ。
唐古・鍵まではおおよそ10キロの平坦な田畑、半日で達する。
兵力を置いていなかった唐古・鍵はあっさり陥落。

奈良陥落の情報は出雲グループ内にあった物部ギルドに伝達され、いっせいに出雲から離反した。
このあたりがイデオロギーでも氏族でもない物部ギルドの恐ろしいところ、変わり身の素早さ(^^;
長髄彦と饒速日のお話はこれをヒントにしてるわけです。

出雲の主力は播磨と但馬で九州倭国の主力と戦闘中。
戦える戦力は各地にあったが、司令塔を失って奈良奪還の兵力を結集できなかった。
朝日遺跡はすでに目一杯で徴兵されており、その南の天火明グループが反旗を翻して万事休す。

いったん段落

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11422]Re: [11421]Re:[11420]Re: 九州倭国の東征と崩壊   かたばみ 投稿日:2013年 6月 2日(日)15時53分
神奈備さんへのお返事です。

兵主神社の兵主の名の由来はなにか、原型がいつ登場したか、なぜ但馬や播磨に多く残るか、ですね。
神奈備さんの資料

http://kamnavi.jp/ym/hiboko/index.htm
から兵主をポイントした参考図(黄色丸、水色四角は弥生遺跡セレクト)

兵主は史記の封禅書と漢書の郊祁志に書かれ、中国神話の黄帝と戦った炎帝の子孫。戈、矛、戟、酋矛、夷矛の5種の武器を作ったという。
山東半島の斉で祀られた瑯邪八神(瑯邪八主)のひとり。天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、兵主。
兵主を除き、自然界の摂理を祀る。始皇帝は斉でのそれぞれの祭祀場所を巡幸しています。
(参考:秦帝國の形成と地域/汲古書院)
ちなみに出雲系譜の大国主など主を用いるのは瑯邪八主の主からきているとみています。

兵主神社が多数登場するのは相応の大戦争があったからでしょう。
但馬や播磨に多いのはその地が「最後の攻防」の地になっていたから。
むろん唐古・鍵など出雲の本拠地でも戦勝祈願は行われているはずです。

九州倭国との戦闘中のやや後方で祭祀が行われたのだと思います。
出雲の中枢の唐古・鍵が制圧された時点での祭祀跡が残り、後に出雲系譜によって神社化されて兵主の呼称が残った。
西の吉備などにないのは占領されて10年単位の年月が経過し、祭祀跡は消滅し出雲色も消えて神社化しなかったからだと考えています。


天日矛の登場は崇神248-273時代で、すでに戦いは終結しています。しかし各地に出雲の残党があってゲリラ戦を展開していた。
播磨国風土記に書かれる葦原色許男、その名からも葦原のゲリラ(^^;
なお、八千矛神は出雲が存在していたときの人物だと思う(大国主などでは決してない)。
天日矛は戦の終結を聞いて亡命し、出雲残党の掃討作戦に参加した。
その行動範囲は但馬や播磨の兵主とも重なってくるわけですが、天日矛と兵主は無関係。

兵主の呼称が共通なのに御祭神がいろいろあるのは、戦の終結によって出雲グループがそれぞれの地で思い思いの祖先神をもって神社化したから。
というより、兵主の意味を知るのは祭祀者だけで、一般はその意味を知らなかったと思ってます。
兵主は崇神垂仁時代に遡る社が多いのではないかなあ。



[11421]Re:[11420]Re: 九州倭国の東征と崩壊   神奈備 投稿日:2013年 5月30日(木)09時29分
> 出雲の祭祀は山東半島のもので瑯邪八主が基本と考えています。

千田稔さんの『王権の海』から
 荒神谷遺跡と南西の加茂岩倉遺跡との真ん中に大黒山があります。この麓に兵主神社が鎮座しています。天日槍集団の楔が打ち込まれているようです。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E132.52.25.4N35.22.7.5&ZM=8

 この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた「事件の現場」の一つとなろう、千田稔さんは書かれています。

 実に面白い味方です。

 更に、大和の三輪の大神神社と大和神社との間に二つの兵主神社が鎮座し、一つは大兵主神社を冠している所から、天日槍集団に始まる天的宗儀が定着した記憶すべき場所であったためによるものと思われる。とされています。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.51.31.8N34.32.31.6&ZM=8


[11420]Re:[11415] 九州倭国の東征と崩壊   かたばみ 投稿日:2013年 5月27日(月)17時20分
話が前後して重複しますけれど・・

安寧 78-92の子に常根津日子伊呂泥(古事記)がおり、その母は縣主波延之女とあります。
母の氏素性がわからないですが、根津から思い浮かぶのは神武時代の椎根津彦(珍彦)。
速吸門、現在の豊予海峡〜日向沿岸の海人じゃないかな。
安寧の子、懿徳 92-105は母の名が多数あって系譜が危なくなってる。
一応出雲系の娘も母になっているけれどここで出雲との縁戚関係はとぎれた。

孝昭105-137では出雲と無縁になり、大王にからんで磯城とハエの呼称が盛んに登場する。
九州倭国内の出雲グループは切り離され、場合によってはその領地を接収されて、倭国争乱。
新羅本紀173年に卑弥呼の使者、とあります。天孫系譜と新羅は仲の良い時代でもあり就任挨拶だと思う。

このときの卑弥呼は何歳かなあ、15歳あたりか。
いうところの鬼道はだれに学んだのか。単なるシャーマンではなく学識も十分持っていたからこその「女王」就任でしょう。
源は天火明の天孫降臨の随伴者の祭祀か。
それを引き継ぎながら神武朝を介して後漢経由で呉あるいは楚の南方系祭祀を学んだか。
(すなわち、しゃべれなくても漢文を理解できたと考えています)

出雲の祭祀は山東半島のもので瑯邪八主が基本と考えています。戦国時代の斉あたりからのものか。
春秋時代の山東半島は楚文化の影響を色濃く持ち、後の道教にもつながる。
銅鐸埋納は楚の領域でもある長江の洞庭湖畔の青銅文化圏にもあります。

鬼道のありようが書かれた楚の竹簡が中国で出土しています。
鏡に鬼を映し出してこれを防ぐ、などなど。
北方の魏からみて南方系の楚の祭祀は邪、北方系文化からは鬼道と称されるわけです。

すなわち、卑弥呼の祭祀と出雲の祭祀は楚文化を介して同系。
一方では鏡を重視し縄文由来の巫女とシャーマニズムが含まれる。
一方では銅鐸を重視し、男性祭祀であり山東半島の原始道教に近いもの。
神武朝では鏡を重視した出雲系祭祀との混合ではなかったか(神八井耳の系譜です)。


九州内の争乱は卑弥呼の登場で治まった・・ごとくに書かれますがそれは魏の使者が見たうわべだけ。
寒冷化の農耕不振による本当の危機が迫っていた。

狗奴国(大隅半島)は天火明時代ではまだ存在しない。彦穂々出見も宮崎まで。
神武(鹿児島の奴国)の九州北上で陸上戦力は隼人族、大隅と薩摩の隼人でしょう(水軍は九州東岸と西岸の海神族系譜)。
九州倭国建国、神武朝成立で大隅は狗奴国となった。薩摩はわからないけど倭人伝の鳥奴国とでもしておきましょう。
しかし神武朝の終焉で隼人族とのつながりが途絶え、「孝の字朝105〜」では宮崎市の大淀川をはさんでの領土争いが生じていた。
倭人伝が書く、狗奴国と卑弥呼の仲が悪かった、の発端です。

後漢書では「女王国の東へ海を渡って千里で狗奴国あり」とあります。
魏志倭人伝では「女王国の東へ海を渡って千里で倭種の国あり」とあります。
神武時代と卑弥呼時代で狗奴国に関する情報の違いがあった。

弥生初期から田村遺跡では鹿児島など南九州の土器がでています。
天孫降臨以前から海神族によって土佐は九州南部と交流があったのでしょう。
で、神武朝において土佐の田村遺跡は狗奴国の一部とみなされていた。


海幸山幸伝承で海幸が海におぼれる話があります。海の民が海におぼれるとは何事か?
BC200〜180頃に田村遺跡がいったん衰微しています。
そこで2011年東北大震災にからむ最新情報。
高知県土佐市蟹ケ池などで、巨大津波の痕跡が発見されています。地質年代では2000〜2300年前。
http://www.jamstec.go.jp/donet/rendou/report/predict02.html

http://staff.aist.go.jp/hosokawa-jun/kaiyou-kenkyu62.html
BC300〜BCゼロ頃に四国九州の南岸で大津波があった。
田村遺跡の衰微は地質年代でほぼぴたり、土器編年で50年の誤差を許容するなら津波によるものとみてまず間違いない。
神話では海幸山幸であり、考古学では田村遺跡の衰微。

天火明の日向降臨が呉楚七国の乱BC154から20年後とすればBC134頃。津波もほぼ同時期ではないか。
津波で壊滅していた田村遺跡を天火明とその配下たちが復興し、田村遺跡はその後大発達してゆく。
神武朝(九州倭国≒倭奴国)との関係も濃密であって、狗奴国の一部となっていた。

後漢書AD57、倭奴国使者の奏上した「倭国の極南界也」(鹿児島、神武生誕地の奴国)とともに土佐の狗奴国のことも伝えられた。
それが後漢書の「海を渡る千里の狗奴国」。
そしてBCゼロ頃の田村遺跡にそれまで見られなかった住居形式が登場します。

AD100頃の田村遺跡には銅鐸も登場します。
「孝の字朝」に切り替わったとき、田村遺跡は出雲グループに取り込まれた。
田村遺跡にはBCゼロ頃から出雲文化の集団が登場して出雲文化が浸透しており、AD100頃に銅鐸が搬入された、と考えています。
大国主の子とされる鳥鳴海神の子孫がそれである可能性低からず、神武建国の際にここへ引っ越してきていた。
すなわち「孝の字朝」時代では九州倭国には属さぬ「倭種の国」に変化した。


卑弥呼はまずは田村遺跡奪還作戦を発動。新羅本紀193にいう倭人の大飢饉、このあたりが発端。
卑弥呼35歳あたり。
さして時をおかず、瀬戸内への侵攻も開始された。
国内の混乱から目を外の目標へ向けさせて団結させる、いつのどこにでもある常套手段。
卑弥呼が就任して争乱が治まった、とあるのはこれだろうと考えています、魔法を使った訳じゃない(^^;

田村遺跡を武力によって占領するのは容易だったがその住人は逃散して実益を得ることはできなかった。
これにより田村遺跡とつながり深い大隅の狗奴国との関係はますます悪化、狗奴国は九州倭国から離脱した。

後漢滅亡の混乱により、卑弥呼の魏への使者はAD238。倭国王師升107の後漢への使者から130年もたっています。
卑弥呼はすでに80歳、介護も必要になっていたでしょう(^^;

魏の使者の見たのは北九州の一部だけ、使者の耳に届くのも通訳の話のみ。
倭人伝の記事のみに頼るのは要注意、九州倭国に都合の悪いことは書かれてはいない。
魏の使者ががんばってもう少しつっこんだ探索をしていれば面白かったけど・・卑弥呼が許さなかっただろうな。

再度高地性集落の変遷参考図


瀬戸内の高地性集落はBC50〜AD100で急増。これは神武の九州倭国建国と大国主の島根出雲引退に連動するものとみえます。
そしてAD100〜AD200では数が減っています。
ここで防備を弱めるはずがない、攻撃されて消えたと考えるのが妥当と思います。

孝霊175-204の兄弟に大吉備諸進(古事記)があります、名の残る人物としてはこのあたりが最初の瀬戸内侵攻軍か。
その子とされる孝元204-225のグループでは吉備の名がぞろぞろあります。
次々と瀬戸内へ侵攻したグループだと考えています。
桃太郎のお話の源もここから。

伊勢湾と渥美半島付近、朝日遺跡周辺に高地性集落が出現するのもこの年代です。
そこに天孫とつながりある系譜がいるならば外だけでなく内の警戒も必要になったでしょう。
このあたりは朝日遺跡の変遷がポイントですが略。


戦闘は泥沼化してゆきます。
拠点の争奪戦であり、あちらを取ればこちらが取られるのくりかえし。
それでも鉄剣など武器に優れる九州倭国がじりじりと押していた。

出雲の戦勝祈願は瑯邪八主の兵主。武人の蚩尤を祀っていたが、後の兵主神社は大国主など平和な祭神に切り替えられます。
天孫側の戦勝祈願はなにかなあ、みえないです。武力の祖先神はいないか。
文字どおり神武じゃないかなあ、200年前の英雄。あるいは天之忍穂耳時代の武人か、例えば手力雄。

出雲は伽耶との交流路を失って鉄剣の入手ができず、かろうじて高句麗との接触のみ(妻木晩田遺跡など高句麗類似の墳墓)。
(東北の釜石で餅鉄を発見してはいたけれど)
旧来の青銅の武器で戦う他はなく、領土の広さとゲリラ戦でこれをカバーしていた。
現代となんらかわるところなし。

九州倭国の増援部隊が日本海側にも送られます。孝元の子の大彦(後にその子の武淳川別も)。
しかし、集落を占領しても住民は逃散して軍団の糧食すら危ない状態になってゆく。
50年戦争です。
国土が狭く生産力の低下している九州倭国は食糧も徴兵も限界オーバーでバタンキュー寸前(^^;

そこに開化225-248が登場する。
いったん段落。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/


[11419]Re: [11418][11417]を読んで   神奈備 投稿日:2013年 5月25日(土)11時53分
miraiさんへのお返事です。

ありがとうございます。
私は、『出雲国風土記』のみを資料としました。

出雲国風土記 楯縫郡
神名樋山 郡家東北六里一百六十歩 高一百二十丈五尺 周二十一里一百八十歩 嵬西在石神 高一丈 周一丈 往側在小石神百余許 古老伝云 阿遅須枳高日子命之后 天御梶日女命 来坐多久村 産給多伎都比古命 爾時 教詔 汝命之御祖之向壮欲生 此処宜也 所謂石神者 即是 多伎都比古命之御託当旱乞雨時 必令零也

阿遅須枳高日子命之后 天御梶日女命 を採用しました。


[11418][11417]を読んで   mirai 投稿日:2013年 5月25日(土)11時25分
ミカジヒメの夫はアヂスキタカヒコネではなく、アヂスキタカヒコネと瓜二つであったアメワカヒコです。アメワカヒコはミカジヒメという妻がいたにもかかわらず、アヂスキタカヒコネの妹シタテルヒメ(下照)を娶ったのです。その裏切り(敵側の女性を娶り、敵側についたこと)を知ったミカジヒメはその後、自分の弟の子、つまり甥であるアメノホヒと結婚しています。アメワカヒコは敵側のアヂスキタカヒコネと瓜二つでもありましたが、アマテラス(天照)とスサノヲが姉弟であるが夫婦のようにも捉えられたように、ミカジヒメの弟と同一人物のようにも捉えらていたようです。


[11417] Re: [11409] Re: [11407] Re: [11405] 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日:2013年 5月24日(金)09時30分
かたばみさんへのお返事にはなっていませんが・・・

神々の世界は多夫多妻制。

意美豆努命−赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命
          i
         天御梶日女命
            同じ神、天津甕星に妃がいれば、こんな名前。
         天甕津媛
          i
大穴持命 −阿遅須枳高日子命

これで、ミカジヒメの夫だから、赤衾さんと阿遅須さんが同一の神だと思っていましたが、それでは額田王をはさんだ天智と天武が同じになってしまう。やはり貞淑を求めたい気持ちをすてて多夫制であったと考えれば、違う神だったことが素直に理解できます。

五十猛神と大屋津比売ですが、共に素盞嗚尊の御子神ですが、兄妹と理解していましたが、夫婦だったとしても間違いではなそそうです。そこに大屋毘古神がおり、大屋津比売とペアに見えます。現に、五十猛神と大屋毘古神は同じ神と『旧事紀』にあるのですが、多夫制から見れば、違うのかもしれません。ついでに天香語山命と大屋津比売、のペアもあります。新潟の弥彦神社の祭神と大屋毘古も「ヤヒコ」で、名前が似ています。奥方はキイにはならないと云えそうです。


[11416]Re: [11409] Re: [11407] Re: [11405] 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 5月22日(水)21時46分
神奈備さんへのお返事です。

>出雲では、伊努神社に参詣しました

大国主の親父さんの兄弟に相当する御祭神ですね。
大国主の国譲り(書記ではなく持論での、神武同世代)でその子孫が島根出雲から若狭、そして南下する可能性あり。
穀物神とみるなら大年神グループの初期段階で伊怒比賣あり。怒、努をヌなら呉音、漢音ならド。
これの変化で伊努もあるか、この社名の本来の意は稲神社かもかも。
再度大年神グループ参考図。

>このルートで美濃まで行ったのかも。近江・美濃には天若彦縁の神社も鎮座

天若彦と味耜高彦根、容姿が似ているという特徴、どんな特徴なのかなあ。
ましかし、天之忍穂耳や天穂日と同じグループだと思います。呉楚七国の乱グループ。
なにせこのグループには長江〜山東半島まで大陸沿岸がすべて含まれる上に、スサノオ子孫と混じる可能性大でやっかい。

その子孫が若狭から南下は十分ありえるところ。
ただし天穂日グループは関ヶ原から岐阜方面へ。味耜高彦根グループは京都方面へ。

系譜は大国主の子とされますが時代がおかしくなる(国譲り神話への改ざんの結果でしょう)。
スサノオグループと天孫の親+アマテラスグループの大抗争中の人物であり、大己貴の子とみるところ。
では大己貴とは・・少彦名の仲間で東シナ海の海賊にちかい人物(^^;
呉楚七国の乱脱出組の海上輸送を支援し、スサノオの娘婿となって後の出雲神族グループの対外交易の基礎を作った人物。
てなことを青草してます。



http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11415] Re: 九州倭国の東征と崩壊   かたばみ 投稿日:2013年 5月21日(火)19時21分
天孫の親はアマテラスグループと結合して天孫グループを形成。
天孫グループは手狭の北九州から九州西岸と東岸の日向に移住、天孫降臨です。

BC80〜50頃、田村遺跡は変容してゆきます。
集落は集中型となり拡大、大型の掘っ立て柱跡が登場、土器は遠賀川式と縄文系の混合から、南四国特有の土器に変化。
倉庫群とみえる大型建物が増加、計画的な集落建設がうかがえます。

日向から天火明がやってきた。前漢文化を色濃く保持しているグループです。
日向や宮崎ではまだ手狭、話に聞く土佐と尾張への進出を目した。
先代舊事本紀天神本紀での五部と物部二十五部(海運、手工業)などがここを開発し海運拠点を作る。
物部氏族の最初で最大の拠点になった。
ヤマタイコクの母体となる日向宮崎へ米を送る穀倉地帯になっていたかもしれない。

天火明はさらに東へ。紀州熊野から尾張へ上陸した。
朝日遺跡の変遷につながるけど略。

AD0〜80頃、九州では神武が九州倭国を建国、大国主は島根出雲へ引退。
田村遺跡は最大規模に拡大しています。田村遺跡は神武朝経由で後漢鏡などを入手したんじゃないか(発掘品は破鏡されている)。

そして、新しい集団がここに登場し共存するようになります。
住居は小さいが周囲に溝をめぐらした作りでこれまでなかった形式。
この形式は西の仁淀川の遺跡でみられ、西からやってきた集団と推定されます。
神武の九州倭国建国で「禅譲的」に追い出された大国主の子孫のひとつ、出雲グループの分派とみるところ。


大国主の子とされるグループに鳥鳴海神があります。例外的にこの系譜だけが7代にわたって古事記に記載されています。
なぜこの系譜だけが記録に残ったのか。
神武朝の近傍にあって神武朝との交流が継続していたからだと考えています。
で、神武朝の終焉とともにその後の系譜の記録は途絶えた。
その可能性のあるのが吉野ヶ里遺跡、もうひとつが田村遺跡。

AD100頃、田村遺跡に近畿型銅鐸登場。香川県側から山越えで搬入か。
土器が瀬戸内系に変化し、田村遺跡は出雲文化圏に組み込まれます。

九州では神武朝が終わって「孝の字朝」(105頃〜)となって倭国争乱へ。
孝昭105-137は尾張連遠祖の瀛津世襲の娘の世襲足媛をめとった(瀛ヨウと読んでおくかなあ、大海の意です)。
田村遺跡と紀州熊野を経由して物部海運の船ではるかかなたの尾張から。

世襲足媛、タラシの姫。若狭から南下の天穂日子孫と天火明子孫の混血ではないか。
孝昭の妃として世襲足媛がやってくる途上の田村遺跡に鳥鳴海神の子孫がいたなら・・
孝昭の子は天足彦国押人と日本足彦国押人(孝安大王137-175)で名がそっくり同じ、これに鳥鳴海神の子孫の遠津山岬多良斯神が加わると・・
タラシの錯綜もありえそう。

孝昭にはまだ九州以東へ侵攻の意識はなく、政略結婚というより日向天孫の直系子孫との婚姻の意味が強かったのではないか。
「孝の字朝」の大王は即位期間が長い、書記には書かれていない大王が何人かいて系譜が錯綜しているんじゃないかと考えてます。
倭人伝の卑弥呼以前の男王、卑弥呼並立の男王などです。
したがって婚姻関係や系譜もうのみにはできないと思う。
この頃の書記編纂資料も元々からあいまいである可能性も大きいと見ています。


さて、田村遺跡の衰微はAD150以降で、他よりやや早いとみえます。
誤差かもしれませんが、「孝の字朝」に早々に攻撃された可能性あり。
占領、建物が維持されても労働力が散逸して生産力が激減し、田畑は荒廃する。ついには消滅をまねくでしょう。
田畑を耕す人がいなくなってしまった、弥生末期に各地の大集落が急激に消滅するのはこれが理由と考えています。

いったん段落。

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[11414] 九州倭国の東征と崩壊  かたばみ 投稿日:2013年 5月21日(火)19時20分
私の年代観での青草物語でございます。

吉野ヶ里遺跡や朝日遺跡は有名ですが、これらと比肩する弥生の大集落が南国土佐の物部川河口付近にあります。
田村遺跡、あまり知られていないと思いますが弥生最大級の集落遺跡です。
なぜここに弥生の大集落があるのか・・各論はほぼゼロです。
従来の弥生常識アカデミックでは説明できないからだと邪推(^^;

持論のいろいろと結びつくところが少なくないのでその概略。
田村遺跡は縄文末期〜弥生末期の消滅まで集落のありように盛衰がありながらも連続しています。
通常は付随するはずの墓域が未発見で人骨は発見されていません。
以下土器編年を実年代に置き換えていますが50年くらいの誤差は常にあります。

物部川河口付近は全国屈指の稲作地帯だった場所(二期作)。物部川の扇状地がいかにもおいしそうです。
縄文で香川県側のサヌカイトがでていますから四国縦断の交易路があったと思われます。
弥生草創期の集落の様子は縄文集落に似ていますが、建物様式は朝鮮半島南西部の松菊里遺跡のそれとほぼ同じ。
当初は松菊里からダイレクトとみられる土器、ついで遠賀川土器に変化、鹿児島など九州南部型も多く出土しています。

BC250頃にいったん最盛期を迎えて水稲が出現、集落は縄文の散在型とは異なる集中型に変化。
BC200頃には二重環壕が登場しますが、集落がいったん衰微する。
BC180あたりで集落は散在して縄文型に戻り、土器にこの地域特有の形式が登場。

BC80〜50頃に集落は再び集中型になって拡大、大型の建物が登場します。
AD0〜80頃に集落は最大規模となり、鉄器が登場する(鍛冶)。
ガラス小玉や管玉が大型住居に集中して出土。西の仁淀川方面からの入植者が登場して共存。
高松平野から搬入とみえる土器が登場する。
集落では樹木伐採用石器が減って加工用石器が多くなる。集落周辺の樹木を伐採しつくし、より離れた場所での伐採となったとみられる。

AD100頃、後漢鏡登場(破鏡)。広型銅矛登場、少し遅れて近畿式銅鐸登場(平型銅剣は存在せず)。
AD150以降に集落の住居数が激減し、銅鐸や銅矛が埋められる。
古墳時代初期の田村遺跡は周辺に小規模の集落が残るのみとなる。


さてこれを青草に重ねてみます。
まずはBC500頃から日本へやってくる大年神グループです。
畑作グループは高知まで南下はしない、その必要がなく東への展開。日本海沿岸から若狭、瀬戸内の東進から紀ノ川遡上あたりまで。
長江から大陸沿岸を北上してきた水稲グループは長江付近の気候に類似の環境を探した。

四国の情報は海神族が提供、はるか昔に渡来していた海洋系三苗の子孫。
九州西岸と東岸、そして四国南岸は海神族にとって庭のようなものでしょう(帆を使っていたと推定、彦穂々出見の塩土老翁など)。
北九州で水稲を展開したグループとは別に四国南部へ直行したグループがいた(南九州で水稲は宮崎程度)。
これが田村遺跡の最初の発達。使う土器は松菊里タイプのまま(遠賀川土器は北九州で誕生中)。

ちなみに高知県は杉とヒノキの大生産地です。このグループが船材用として植林したのではなかろうか。
名の登場する人物では大屋彦かなあ。五十猛は紀ノ川で吉野杉か。
(五十猛は大年神グループとみています。書記は半島系渡来者をみな素盞鳴尊の子として扱っている)
あるいは海神族による屋久杉との関連、樹木のDNA分析はいかなるか(土佐杉は油分が多く屋久杉とにてる)。

倭人伝の女王国の東、海を渡る千余里の國、それが田村遺跡。
侏儒國、女王を去る四千余里、は紀州南岸か(ここはまだ縄文でしょう)。
裸國、黒齒國、その東南にあって船行一年にして至るべし、は伊豆七島か。縄文人はここで黒曜石を採取しています。

BC200頃に集落の衰微があり二重環壕が登場する。
これはちょっと説明が難しい。
年代としてはスサノオグループの登場とアマテラスグループとの抗争時代、防御態勢を取るのは妥当と思います。
素盞鳴の八岐大蛇退治は耳川流域での地元民との抗争とみています。
武器に優れるスサノオグループ優勢で北九州はすべて制覇。天照大神の岩戸隠れ神話はこのあたりのイメージから。

スサノオの行動目的は北九州で力を得て箕子朝鮮再興だと考えています。
スサノオグループが海を越えて四国にまで進出するか??
田村遺跡が衰微する理由がみあたらない。大洪水? 南海大地震の津波?

そのタイミングで天孫の親が九州に到来(天之忍穂耳BC154頃)。
アマテラスグループを支援してスサノオグループと全面戦争となる。北九州から大量の戦死者の骨がでる時代。
スサノオグループは敗れて伽耶へ退却する。神話では素盞鳴尊の追放。
スサノオと地元民の混血子孫は出雲グループとして吉野ヶ里や豊前豊後に定住、瀬戸内から畿内へ進出。

長くなったのでここで分割します。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11413]Re: [11409] 誰を天皇とするか   とみた 投稿日:2013年 5月20日(月)23時45分
神奈備さん、かたばみさん 会話に割り込ませていただきます。
すっかりご無沙汰ですが、只今は弥生時代相当期の中国や朝鮮の考古学を調べておりまして、神社のことは忘れかけておりました。

郷里の話題が出ましたので、お邪魔します。ただし郷里の神社の由緒はわかりませんので教えてください。歳を重ねて調べるのが億劫ですので頭の中からキーワードだけ述べさせていただきます。

谷汲は10年ぐらい前までは、岐阜駅から名鉄電車谷汲線が出ておりましたが廃線になりました。
西国三十三寺巡りの最終寺の名刹・華厳寺で有名です。
今は大垣駅から樽見線で谷汲口駅で降りるか、大垣駅から近鉄揖斐線で揖斐駅からタクシーを拾うかしかありませんね。バスがあるのでしょうか。

大垣は揖斐川が流れ、大野町あたりで根尾川が合流します。根尾川の上流は薄墨桜で有名な根尾谷です。

根尾の北には、福井県の山が見えます。

秦氏の郷がありますね。福井にも大野があります。

大野町は東山道(中仙道)の道沿いだと思います。

付近に仙道という地名が残っています。

継体天皇のお相手はたくさんいますが、福井県の奥方だけでなく大野に近い美濃の武儀郡にも奥方がいますね。継体のオヤジ?は根尾で子供を隠して難を逃れた伝承があります。

大垣には美濃赤坂があって、古代は鉄が取れました。

ベンガラに用いたと大垣の考古学者は仰っています。考古学者は

日本海の石川県八日市地方遺跡と東海道・尾張の朝日遺跡を結ぶ東西軸は弥生時代には東日本文化と西日本文化の中継地帯として考えています(明治大学石川日出志教授)。

岐阜県の大野から山県へ向かう中山道の途中に船木山古墳があり有名です。
トンボ玉が出ています。新羅と関係があるような気がします。
近くの蓆田は律令期の8世紀(715年?)に尾張から新羅人を移住させたところです。

お説では、花長神社が鴨氏と関係がありそうとのことで急に興味が湧きました。



>  出雲では、伊努神社に参詣しました。ここの祭神は、国引きされた意美豆努命の御子の赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命となっています。
>
>  この神を祀る神社は、出雲では芦高神社、面白いのは美濃国大野郡(谷汲村)に鎮座する花長下神社です。近くの花長上神社は后の天甕津日女命で花鹿山が神体山。



[11412]Re[11411] : 伊太祁曽神社について   山本 投稿日: 2013年 5月20日(月)09時11分
神奈備さんへのお返事です。

神奈備さん

さっそくの回答ありがとうございます。
昨日質問のメールをしてからサイトをじっくりと拝読させて頂きました。
(順序が逆ですいません。もちろんまだほんの一部だけですが)
確かに、紀州から飛騨に開拓にいったという事実はあるようですね。
飛騨にも位山などの国造りの伝説があるのでロマンを感じた次第です。

今後ともよろしくお願い致します。





[11411] Re: 伊太祁曽神社について   神奈備 投稿日:2013年 5月20日(月)08時43分
山本雅基さんへのお返事です。

 神社の歴史は時代が下ると霞の中のようにわからないようになっていきます。
 飛騨には伊太祁曽神社が10社以上はあるようですし、日抱宮と云う名前の近い神社も鎮座しています。

 飛騨と紀伊との共通点は木材産業の地だと思います。江戸時代には植林の技術指導を四国や九州に行っています。その際に、植林の神である伊太祁曽神社を勧請していったこともあったようです。

 飛騨と木曽で伊太祁曽と云う語呂合わせもありますが、もう一つは両面宿儺のお話が飛騨で語られていることです。『仁徳紀』。和歌山からは両面人物埴輪が出土している(偶然か?)符合があります。

 答えになっていないかも知れませんが、こんな所です。


[11410]伊太祁曽神社について   山本雅基 投稿日:2013年 5月19日(日)19時32分
はじめまして。和歌山市出身で少し古代に興味を持ってきた者です。
以前、岐阜県高山市に何度が行き、伊太祁曽神社が4か所ほどあるのが気になっていました。和歌山というか紀州とどんなつながりがあるのか教えて頂ければ幸いです。


[11409] Re: [11407] Re: [11405] 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日: 2013年 5月19日(日)09時23分53秒
かたばみさんへのお返事です。

 出雲と隠岐を少し回っていました。
 隠岐には楠木は見あたらず、鹿や猪もいないようです。

 出雲では、伊努神社に参詣しました。ここの祭神は、国引きされた意美豆努命の御子の赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命となっています。

 この神を祀る神社は、出雲では芦高神社、面白いのは美濃国大野郡(谷汲村)に鎮座する花長下神社です。近くの花長上神社は后の天甕津日女命で花鹿山が神体山。

 秋鹿と花鹿、伊農と大野、共通点がありそうです、

 『尾張国風土記』吾縵(あづら)の郷の條で語られています。垂仁の皇子の品津別が物を云えないのは、出雲の多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女がまだ祭ってくれる祝をもっていない。祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を云うようになるだろう。

> 島根出雲から東進するなら若狭から琵琶湖へ南下が妥当。

 このルートで美濃まで行ったのかも。近江・美濃には天若彦縁の神社も鎮座しています。


[11408] Re: [11407] Re: [11405] 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 5月15日(水)14時39分53
神奈備さんへのお返事です。

>山城や近江の盆地はいい農地だと思いますが

琵琶湖北東に弥生遺跡(遺物)が若干あるのみで不思議です。
銅鐸も若狭湾と琵琶湖南部からだけ。古墳時代になると古墳がいくつもでてくるということは生活には不適の地だったとみえます。
弥生時代の琵琶湖東岸、農耕不適の土壌とか水利の悪さなどがあったのではないでしょうか。

愛知の朝日遺跡の土器の動きは面白い。
土器の形式は琵琶湖北東方面からで奈良ではない。で、土器(の使用者)は渥美半島沿岸部から朝日遺跡など北へ動くのだそうです。
文化は北からで人口増大は南から、ということでしょう。

弥生の島根出雲は天穂日の支配地(漂着地)だったと考えています。だから大国主の世話を天穂日(の後裔)に依頼した。
天穂日の後裔がつかめない。
崇神紀での出雲振根は島根出雲に残った天穂日の後裔(出雲臣)であって主力ではないと考えています。

島根出雲から東進するなら若狭から琵琶湖へ南下が妥当。
天穂日後裔の主力は近江をスルーして愛知へはいった、その可能性をみています。祖先がかっての仲間であったらしきがいる愛知へ。

後には近畿出雲の拡大と共に愛知はその勢力下にはいることになる。
銅鐸はむろんですが、土器での諏訪との交流が深いこともそれを示すと思います。


妻木晩田遺跡より50kほど東に青谷上寺地遺跡があります。
各地と交易盛んと見られる出土物多数の大型集落ですが高地性ではなく、弥生後期とみられる戦闘痕跡のある人骨が多数。
妻木晩田は要塞で攻略困難、そっちはスルーしてこっちがやられたんだと思ってます(^^;
攻撃側からは奈良の唐古・鍵との連絡を遮断できればそれでよい、といったところか。

話が飛びますが、「神武の九州北上」でも類似だったと考えています。
吉野ヶ里は強固すぎてスルーした。北九州沿岸の「祖先の地」を支援しながら出雲の本拠地豊前豊後の攻撃に専念した、です。



大分川と由布川からの侵入を見張るように3つの高地性集落があります。


>出雲大社に全国の神々が集まって談義をして帰っていくお話を連想します。

神在月も10月ですね。農閑期の会合(集会)なんだと思います。
ただし、神々が集まったのは島根出雲ではなく奈良の唐古・鍵だと考えています。
神々とは出雲文化圏の村長さん、10月に集まってなんだかんだの会議と情報交換をおこなった。

縁結びも情報交換のひとつ、嫁がほしいんじゃがおめえんとこにいい娘っこはおらんかのう・・
諸般の都合により崇神以降に出雲文化のいろいろを奈良から島根出雲に運び出していった。
大国主の引退場所で信仰の中心となってゆく島根出雲ならイメージの移転に絶好と思います。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11407] Re: [11405] 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日:2013年 5月14日(火)17時12分31秒
> 『魏志韓伝高句麗』に「其国東有大穴名隧穴、十月国中大會迎隧神還於国東上祭之」とあります。

 出雲大社に全国の神々が集まって談義をして帰っていくお話を連想します。


> 韓国の東の海上に鬱陵島

江戸時代の17世紀後半に南宗庵が編んだ『残太平記』に以下の記事があります。
 偖又隠岐国ノ商人ヲ呼テ五十猛嶋ノ事ヲ問給ヘバ隠州ヨリ七十里ニハ近ク覚ヘ候。東西九里ニテ、大竹如芦シゲク生テ竹ノ中ニ路アリ人不住一ノ岩屋アリ。内ノ広サハ一町四方モ有ベシ。人若シ是ニ望メバ色黒キ一眼ノ人長一丈ニ過、竹ノ葉ヲ衣トシテ鉄棒ヲ振テ追出ル......此大人ハ素盞烏尊ノ御子五十猛命此嶋ニ住給フト云伝ヘタレバ神ニテ在スラント思ハレ候。

 特長は、色黒キ(火ヤケ、すす)、一眼ノ人(目一箇神:金属精錬師)、竹ノ葉ヲ衣トシ鉄棒ヲ振テ(山の中にいた鉱山師が鬼のイメージで把握されました)とあります。五十猛神を韓鍛冶の神とされる真弓常忠氏の論に該当しそうです。

 『八重葎』(やえむぐら)宝暦九年(1759)の作品ですが、これに「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とあり、これは太田市五十猛町の昔の名前が磯竹であったことを説明しています。この竹島は欝陵島のことであり、現在の竹島(江戸時代は松島、朝鮮名は独島)ではなさそうです。





[11406]Re: [11405] Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 5月13日(月)18時13分51秒
神奈備さんへのお返事です。

私の年代観にて・・九州倭国の東征と崩壊

>尾張の姫を娶っていると云うこと以外には、別段の特徴はありません

孝昭の子の天足彦国押人の母とされる人物が尾張連遠祖の娘が正しいならば、それは愛知の朝日遺跡の変化に答えありと考えています。
大三元さんが書かれている、天足彦国押人は出雲神族の「遠津山岬多良斯神」ではないか、にも深く関連します。
天火明命の後裔は? 天香語山は実在人物か?
このあたりは次回の青草物語にて(^^;

佐賀の吉野ヶ里遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡、愛知の朝日遺跡、山陰の妻木晩田遺跡。
弥生の大型集落の変化を10年の精度でつかめれば・・
参考図は高地性集落の年代別の変遷ですが50年以上の誤差がありそう。

弥生時代での広範囲な侵攻(戦闘)はどのようなものになるか。
近代戦での最前線といったものは存在せず、拠点での攻防だったと考えています。
必ずしも九州側が先に制圧されるわけでもない。

軍団同士の連絡ができないからです。馬すらまだ使われていない、連絡は船と徒歩だけ。
複数の侵攻軍団があったとしてそれぞれはばらばらで行動するほかなし、連係プレーは不可能。
伝書鳩・・痕跡みあたらず、八咫ガラス、まさかなあ。


佐賀の吉野ヶ里は弥生前期からスタートして弥生末期で終わる。
遼寧式銅剣の出土から当初はスサノオ系譜の集落であること確実。
その後の変遷は九州での複雑な状況を示すので特に詳細年代必須なれど、観光地化しただけで10年前から新情報なし。

愛知の朝日遺跡も変遷がポイント、AD100〜200の図でそれまでなにもなかった場所に高地性集落が登場する。
この時代になって警戒警備の必要が生じたということ。
銅鐸あり、遺跡のありようの変化、詳細年代必須。

奈良の唐古・鍵の年代はさほどの詳細はいらない(^^; 登場から消滅までずーっと出雲の中枢。

妻木晩田遺跡も比較的単純。登場が弥生中期でAD100頃とすれば、神武朝末期に開始された集落でしょう。
山陰の出雲側の防衛拠点です。出雲臣族、天穂日後裔との関連があるはずですが資料不足。
四隅突出墓、おそらくは高句麗系墳墓の形状。

出雲は九州を失い神武朝の終焉で半島の伽耶との交流も困難となった。
(伽耶の牛頭山はスサノオ引退の地と考えています、書記での追放されたという場所)
弥生時代での新羅は原則として天孫系と仲がよい、新文化の導入は高句麗に頼るほかなし。
妻木晩田遺跡はある時期での高句麗との交流拠点だった。

ひょっとしなくても竹島問題にもからむ(^^;
魏志韓伝高句麗に「其国東有大穴名隧穴、十月国中大會迎隧神還於国東上祭之」とあります。
誤訳恐れずで(^^; 高句麗の東に大穴があって隧穴という、10月に国中が隧神を迎え、(隧神)が還るとき国の東にこれを祭る・・
韓国の東海上に鬱陵島(うつりょうとう)(和名は松島)があります。奇岩洞窟が多数あって現在は韓国の観光スポット。
(竹島はその東おおよそ90kmにある)
出雲国風土記に何度も登場する大穴持・・大穴・・同根か(むろん大国主の別名などでは決してない)。


それぞれの消滅は弥生末期AD250頃で共通。
地域はばらばらだが、消滅は倭国争乱と卑弥呼に関連する可能性が極めて高い。
(魏志倭人伝は九州の事象しか書いてない)


九州倭国の東征作戦の主力は孝元(204-225)の一族。
軍事指揮官は孝元の子の開化。随伴する巫女は倭迹々日百襲姫。
各方面の将軍は
大彦(孝元の子、母は穂積氏遠祖の娘欝色謎)
武渟川別(大彦の子、母不詳)
吉備津彦(孝元の弟の子、母不詳、系譜に若干の錯綜あるか)
丹波道主(開化の子の彦坐王の子、母は息長水依比賣)
書記にいう四道将軍がその痕跡です。

加えて開化の異母兄弟とされる彦太忍信。
母は後の物部氏の祖とされる大綜麻杵の娘の伊香色謎。
伊香色謎は崇神の母でもあるけど、書記で系譜のいじりはよくある話。

輸送部隊は表舞台には登場しませんが、これなくして侵攻は不可能。
彦太忍信はその指揮官ではなかったか。配下は物部海運。

対する出雲の海運は安曇氏(神武時代に建御名方とともに諏訪へもはいっている)。
加えて出雲側にも物部系海運ありとみてます、どっちにころんでもOKとなるように、物部商社(ギルド)は行動していた(^^;
(神武東征説話における饒速日と長髄彦説話にもからむ)

彦太忍信の孫が武内宿禰とされるけど・・これははてなあ。
後に有力となる半島からの渡来系氏族の祖を書記がここに配置したもの、とみています。
「宿禰」の名の登場でもあります。

ぼちぼちと続く・・




[11405] Re: [11400]誰を天皇とするか   神奈備 投稿日: 2013年 5月11日(土)20時29分0秒
> そして孝昭あたりで、

 尾張の姫を娶っていると云うこと以外には、別段の特徴はありません。


> 目的はむろん広大な農地の獲得。

 山城や近江の盆地はいい農地だと思いますが、あまり侵攻の対象になっていません。だぜだろう。正体不明の渡来人の巣窟だったので、手を出せなかった??


[11404] Re: [11400]: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 5月 9日(木)20時19分55秒
神奈備さんへのお返事です。

>この妻木は、妻木晩田遺跡の場所で、弥生後期の全国でも最大級の遺跡です

いろいろが絡みます。あくまで私の年代観にて(^^;

まずは
不思議なことに、神武〜懿徳の系譜には「姫」がひとりも書かれていない。
孝昭にいたってようやく怪しげな状況で登場する。
あるいは安寧の子とされる師木津日子の孫に蝿伊呂泥が登場する。

神武朝には女性がいない、妃となる出雲神族の娘を除けば。
記録にとどまる地位の女性がいなかったのだと考えています。

神武朝での巫、出雲との合体にて男性の祭祀者ではなかったか。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-1.htm
これの山東半島系の巫(祭祀)です(山東半島ではおそらく瑯邪八主を含む)。
朝鮮半島では男巫が濃い、大陸の影響大だからだと見ています。

淳名川耳(綏靖)が異母兄弟の手研耳を殺害。
このとき神八井耳は手を出していない。で、殺人者が王位を継承する(^^; 王には武力重視だったのだと思う。
神八井耳の子孫は多臣族オホ(意富)とされるだけではっきりしない。
祭祀者であり、その後ではやはり記録にとどまる扱いではなかったのだと考えています。

そして孝昭あたりで、天孫降臨のアマテラスの頃の祭祀へ復古した、巫女の復活です。
(沖縄の巫女も海洋系の濃い同類でしょう、こちらはずーっと巫女だったと思う)
基本政策の変更、農地確保のために出雲領土(自治区)を接収するなどに伴う出雲祭祀との離別ではないかと考えています。
倭国争乱の種です。

そして卑弥呼の指示で開化等が九州以東へ侵攻、近畿出雲を制圧した。目的はむろん広大な農地の獲得。
崇神が近畿倭国(分室)を開設したが、周囲はすべて出雲祭祀とその文化。
崇神の巫女では調整できず民心も乱れた。
そこで大田田根子の登場です。
神八井耳の系譜、意富のタタの子孫。出雲祭祀を知りその架け橋となれる人物。

その後、巫女ではないかと見える「倭の文字の姫」は垂仁の倭姫という簡単な名で消える。
崇神以降では巫女のありようは神に仕える女性(斎王)に変化した。

現代に至るいわゆる神主さんは男性、大田田根子の継承だと考えています。
現代では女性の神主さんもいらっしゃるけどこれは男女同権の意識からのものでしょう。

いったん段落。
次は神武東征ならぬ九州倭国東征(^^; および九州倭国の崩壊。
妻木晩田遺跡(弥生後期高地性集落)のありようと関連です。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11402] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   茨の紀氏 投稿日:2013年 5月 8日(水)14時34分33秒
かたばみさんへのお返事です。

>さて、天之忍穂耳、ミミ。
> 神武の子の名はすべてミミです。淳名川耳(綏靖)、神八井耳、手研耳、岐須耳。
> 安寧の子にも息石耳あり(日向の耳川の語源は?)。
>神武系譜の実際の耳がどうであったかは別にして、少なくとも神武にはミミの子孫である意識があったのだと思います。
> 魏志倭人伝時代でもミミの名が登場する。

ミミ は、監督官 密偵
官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
投稿日:2013年 5月 8日(水)12時30分39秒
王はサトラップの政治を統制するために監督制度を設けた。帝国各地に「王の耳」が配置され、中央からは「王の目」が派遣されて監督にあたった。

耳(みみ)=「みみ」は「慶賀、祝福」を意味するギリシャ語「オムニミ」よりの転音
投稿日:2013年 5月 8日(水)11時41分11秒

「厩戸皇子」「豊耳聡 聖徳」で、いずれも耳が付いていて、若い頃には「教育府」の官にあったのが分かります 。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage12.htm

「弥弥(ミミ)」
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/mimi.htm

投馬国(教育府)―弥弥、弥弥那利エドム
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage46.htm

教育府 一大率
一大率(イチダイソツ)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1163600141
大宰府の官は昔から大宰帥

宰」 解字:形声。意符の宀(いえ)と 音符の辛(??が正しい形。つみの意)とから成る。 罪人であって家にて仕事をするものの 意。
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1307

率・・・いぬ・・・「―+戈(ほこ)」。もと刃物で作物を刈ってひとまとめに締めくくり、収穫すること。のち率(そつ、まとめること)と同系。十二支の名となったため、原義は忘れられた。

八井耳命   「黄蕨」吉備国の語源  
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




[11401] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 5月 8日(水)10時48分28秒
茨の紀氏さんへのお返事です。

今の我々が「あなた方の祖先は誰ですか」と聞かれたらなんと答えればいいかなあ。

日本人の形成についてはDNA分析からがメインです。
ただし縄文まで。弥生に入ると周辺から流入する人々が増えて現状のDNA分析では追随できない。
中国史書と考古学的物証などが重要になります。
記紀などの記述をどう解釈するかも重要。

記紀の内容を中国史書と結合するには書紀の書く年代をどうみるかが必須。
で、年代復元をやっています。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/g01.files/06/fukugen.pdf
これでいろいろな事象を説明できるかですね。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/kf99.html
BC1000〜BC500頃の半島と九州情勢
DNA分析による日本人形成(この中の日本人のDNA6)
大年神系譜と弥生農耕
弥生中期〜後期の九州推定図
などなど


さて、晋書倭人の項にある「自謂太伯之後」の文言、これを持論の歴史観で考えてみます。
魏略からの引用の引用は原文未確認ですが源は同じで、魏が倭国に接したときに得た情報でしょう。
「自謂太伯之後」が魏に接した倭人の意識だったとして、それを生じさせたものはなにか。

参考図は弥生遺跡と出土物の概略
弥生の北九州で突然に前漢の鏡や剣が登場する。
あいにく江戸時代に発掘されてほとんどが散逸してしまったようです。
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/371-380/375/375_02.htm
一般の戦争避難民や環境避難民では持てない宝物、これらの宝物の持ち主は前漢文化を持つ王族以外には考えられない。
それを祖とみなす魏時代の倭人の意識が「自謂太伯之後」といわせた。

人々が故郷を離れて未知の世界へ移住するには強い理由が必要です。
前漢時代にそれを生じさせるような事象があるか。
呉楚七国の乱BC154。前漢による所領の削減が発端のようです。

東シナ海沿岸国が全員参加、しかし統率者不在で短期間で鎮圧された。
捕まれば処刑、逃げるほかなし。呉王は越へ逃げたが殺害されています。
陸は前漢の支配地、王族たちは伝え聞く半島南部や九州へ海路にて脱出した。

その渡来者が書記にいう天之忍穂耳、天穂日とその他大勢。
これまでの渡来者とは文化レベルが桁違い、天孫降臨の親たち。
すなわち倭国の建国者神武(AD36-66)の祖先。
新羅本紀における建国者赫居世BC57の祖先も半島南部に上陸した脱出者と考えています。
参考図 新羅王統図

渡来した王族、長江の地元氏族かもしれません。
魏時代の倭国の知識人が「長江の王族」を認識していたなら「自謂太伯之後」として不思議なし。
太伯が周とは離別し(入れ墨)、呉王はその弟の系譜と知っていても、有名?な太伯を持ち出すでしょう。
魏呉蜀時代の呉は後漢までの呉とは別物の孫氏ではありますが、呉と戦闘中の魏としてはその話ちと面白くない。
卑弥呼にプレゼントを贈って言い寄ってきた(^^;


さて、天之忍穂耳、ミミ。
神武の子の名はすべてミミです。淳名川耳(綏靖)、神八井耳、手研耳、岐須耳。
安寧の子にも息石耳あり(日向の耳川の語源は?)。
神武系譜の実際の耳がどうであったかは別にして、少なくとも神武にはミミの子孫である意識があったのだと思います。
魏志倭人伝時代でもミミの名が登場する。

肥前国風土記では景行大王が土蜘蛛の大耳と垂耳を服属させる話がある(岩波註では五島列島平戸島付近とする)。
こちらは土蜘蛛としていますから縄文系の大耳かもしれない。
BC110頃、前漢の武帝はビン越(百越のひとつ)を制圧し住民を江蘇州などに強制移住させています。
ここから脱出して九州に渡来した越人も少なからずいたと考えていますが宝物所持はないでしょう。

谷川健一説は耳輪をつける風習の民、しかし耳飾りの出土は縄文であって弥生ではみあたらないのが弱い。
縄文類似の耳飾りは雲南にもあります。
http://withinc.kobe-yamate.ac.jp/univ/course/kawakami/episode_07.shtml
ここの老婆のごとき装着は耳たぶが大きくないとできないでしょう。それをさらに強調する装着法。
縄文人骨、耳には骨がないからなあ。

伎楽面の呉公、大耳が大勢います。いつの時代の人物をモデルにしてるのかわかりませんけれど、耳たぶに穴はないみたい。
http://www.emuseum.jp/detail/100769/003
http://gigaku.info/

天之忍穂耳は単にでかい耳の系譜だったと考えています。
越系、遡れば三苗、縄文末期に渡来した人々につながる系譜に大耳があったと考えています。

ただし、伎楽面の「治道」のごとく天狗のような鼻の高い大耳もある。
書記に書かれる猿田彦の容姿は伎楽の治道のイメージ流用とみてます。
唐時代ではシルクロードで西域と交流さかん、お釈迦さんのごとき中央アジア系の大耳族も存在し、それが鼻の高い大耳である可能性もありそうです。
現代の祭礼で登場する猿田彦、天狗の面ですが平安以降のイメージでしょう。耳から鼻への意識の変化あり、か。




[11400] Re: [11391] Re: [11381] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日:2013年 5月 6日(月)17時16分36秒
かたばみさんへのお返事です。

> 神武は九州統一にて政権樹立の使者を後漢に送った。倭奴国王と認定されたが名の記録はなかった。
> 同様に孝昭も新政権樹立で使者を送ったと考えています。

 第三代安寧天皇の皇子の師木津日子命の皇子和知都美命は淡道の御井宮に坐しき。この長女が蠅伊呂泥またの名は意富夜麻登久邇阿禮比売。

 この比売は恐らくは淡路島で誕生したのでしょう。隣の阿波国名方郡の式内社の天佐自能和気神社の祭神に加えられています。そうして吉備にゆかりの孝霊天皇の妃となっています。
 孝霊天皇ゆかりの神社は西日本に幾つか鎮座しています。また鳥取県の大山北麓に孝霊山があり、面白い伝承が伝わっています。溝口町「鬼住山ものがたり」から。
伯耆の国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻比売と言う美しくて気だての良い娘がいるとのことで、天皇は早速妃としてお召しになったのです。ある時、朝妻比売は故郷に年老いた母親を残してきたのを気にかけました。天皇は比売を故郷に帰しましたが、寂しくてついにご自身が伯耆の国にやって来ました。伯耆の人々は孝霊山に急ぎ宮殿を建てたそうです。

 この妻木は、妻木晩田遺跡の場所で、弥生後期の全国でも最大級の遺跡です。天皇諡号と地名と伝承が重なったもっともらしいお話です。伯耆では、ほかに樂樂福神社が鎮座し、鬼住山の悪鬼を退治した後、崩御し葬られたとの社伝があるようです。

 孝霊天皇の次は孝元天皇です。この天皇の皇子に比古布都押之信命、この命が木国造の祖、宇豆比古の妹山下影日売を娶り生んだ子が建内宿禰となっています。前にもこの掲示板に書いたのですが、母神の山下影日売を祀る神社は以下の場所に鎮座しています。
筑後国 御原郡 竃門神社「玉依姫命 (配祀)山下影姫命 足仲彦天皇」
筑前国 宗像郡 葛原神社「武雄心命 影姫命」
肥前国 杵島郡 黒尾神社「神母景媛」 など

 鎮座地は全て九州です。建内宿禰の誕生の地はやはり九州、武雄市付近かもしれません。孝元天皇や木氏の拠点も九州にもあったのでしょう。




[11399] Re: [11391] Re: [11381] Re: 誰を天皇とするか   茨の紀氏 投稿日: 2013年 5月 5日(日)20時26分37秒
かたばみさんへのお返事です。
>将軍、軍事なら男性の仕事、並んで巫女がいたのではないかなあ。

>
> 神武朝で巫女がどのような地位にあったのか、興味深いところです。
> 女王と見なされる卑弥呼の登場に至る過程はいかに、です。

巫女=女性の祭司・・・関連があれば幸いです。

エッセネには女性の祭司(儀式がつかさどれる人=今の助祭的仕事)がいました。

高句麗の国家的祭司によって、神廟二所に[河伯女(夫余神)]と その子[朱蒙]を祀っていたことが. みえるのは、国家発生期において神霊と交わる最高 巫女と、神子たる国王によるマツリゴトの存在を暗示する: もので、それら母子神の祭祀 ...
http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/Shrine_maiden.htm
?BC2世紀頃の半島を媒介とする弥生文化の流入
BC 2世紀半ばローマのセレイコス朝に反乱したマカバイ家とエッセネ派がクムランに 亡命。
http://ameblo.jp/meadowlarks-refrain/entry-11230971677.html
クムランとは死海(西アジア、 ヨルダンとイスラエル両国にまたがる塩湖)北西端の沿岸から約1kmにある遺跡で, ユダ王朝時代(前7〜前6世紀)に要塞が築かれた「塩の町」のこと。
http://blog.livedoor.jp/gamasenninn/archives/29095254.html
【西アジア】 アジア西部、アフガニスタンから地中海東岸に至る地域の総称。イラン・イラク・トルコ・シリア・レバノン・ヨルダン・ イスラエル・アラビア半島・カフカス地方の諸国を含む。西南アジア。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/114851600000/
エッセネ派のイエス景教のことどもわずかに大工だったとされる墨子の名人工伝説が 伝わるのみである。 ... これまで仮想的に考察してきたエッセネ派の工人傭兵集団と、 中国の史書に著された墨家の性格はそっくりだからである。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1763
エッセネ派とは、西暦紀元前後に盛んに活動していたとされるユダヤ教禁欲主義の異端集団で、 ...

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/220e41f12af3357b476448db42b032b4
 西暦166年。ローマ帝国と中国の後漢との間に交流が始まったと、『後漢書』にある。それから150〜200年くらい経った西暦300年代前半。中国は西晋の終わり、あるいは東晋の初めといった時代で、北方では五胡十六国が覇権を争っていた。

エッセネには女性の祭司(儀式がつかさどれる人=今の助祭的仕事)がいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/hyakuokunohosi/21101379.html






[11398] Re: [11391] Re: [11381] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 5月 3日(金)21時07分48秒
神奈備さんへのお返事です。

>倭国王帥升等の存在が気にかかります

AD107年頃の情勢、このあたりは確実性の高い情報が足りないです。
持論の年代復元だと孝昭大王即位の数年後になります。

淡海三船が続日本紀編纂をやっていたとすれば、書記編纂時の資料はほとんどが残存していて見ることもできたのではないでしょうか。
天皇諡号には漢字としての意味が込められているとみて重視しています。
例えば開化大王(持論225-248)の開化の意味、稚日本根子彦大日日にいたっては最大級の賛辞とみえます。

孝昭以降では王権とその支持母体が変化したんだと思います。
孝昭/観松彦香植稲、香米を植えた、でよいと思っていますが観松彦はいささか風変わり。
先代舊事本紀でも錯綜して書かれていますし謎の多い人物。

神武東征説話をどうみるかがありますが、それはおいて。
懿徳までの神武朝は出雲受容の連合政権だった。
その出雲色を廃した倭国(九州)への変化が孝昭であり倭国争乱の火種となったのではないか。
背景にあるのは人口増に伴う農地確保、例えば出雲系譜の自治領だったものの廃止など。


神武は九州統一にて政権樹立の使者を後漢に送った。倭奴国王と認定されたが名の記録はなかった。
同様に孝昭も新政権樹立で使者を送ったと考えています。
帥升は後漢から与えられた名。師は将軍の意か、升は昇るの意で「将軍に昇った」であれば妥当かなと思っています。
将軍、軍事なら男性の仕事、並んで巫女がいたのではないかなあ。

神武朝で巫女がどのような地位にあったのか、興味深いところです。
女王と見なされる卑弥呼の登場に至る過程はいかに、です。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11397] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか  茨の紀氏 投稿日: 2013年 4月30日(火)21時02分56
かたばみさんへのお返事です。 RE>イザナギイザナミの祖先・・と考えております。
イザナギ・イザナギ一族の祖先も伝承では呉の太伯であり、熊襲の祖先と同じとなる。
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01yayoijidai.htm

秦氏のルーツには、中国春秋時代に滅んだ呉・越の流浪の民である(越出身の者は銅 の生成に優れる)とか、秦始皇帝にさかのぼるなど諸説あるが、新羅あるいは加羅(百済 と新羅の間にあった朝鮮半島南部の国、伽耶ともいう)だという説が有力といわれている ...
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html

周公の長子の太伯が長江下流域に建国した国が「呉」であり、そのとき太伯に 帰服して共に国を築いたという千余家は土着の越人であったと記されているそうである。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_03dokokarakitaka.html
、『史記』に長江下流域以南に「百越」がいたことが記されている。百とはたくさんの意であるが、於越(浙江)、?(ビン)越(福建)、揚越(江西)、南越(広東)、駱越(安南)などの「越」があり、「越人」がいたそうである。
 またおなじく『史記』「呉太伯世家」には、周公の長子の太伯が長江下流域に建国した国が「呉」であり、そのとき太伯に帰服して共に国を築いたという千余家は土着の越人であったと記されているそうである。
(鳥越は「越人」のところを「倭族」としているが筆者が書き換えた。)

 すなわち長江下流域(江南、華中と呼ぶこともある)には漢民族ではなく、越民族、それも非常に多くの小民族集団がいた。漢民族は北方の黄河流域で、黍(キビ)などを中心に畑作農耕を営み、土間式住居で暮らしていた。
 一方、越民族は長江流域で水稲農耕と高床式住居、履物を脱いで上がるという習俗を持ち、黥面文身していた、そういう人々が照葉樹林文化を持ち、長江文明を支えていたと考えられる

日本人の起源8 「倭人」とは華南の「越人 ...
続いて8回目の今回は、第2波の渡来人:中国華南地方から朝鮮半島そして日本へと、 大陸の春秋戦国時代の玉突きによって押し出されていった人々こそが【倭人】であり、 そのルーツは越にある、という記事をお送りしたいと思います。
http://www.jyoumon.com/b2010/11/001164.html
春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。

縄文人と弥生人 縄文系のDNAは都市部では全体の約25%程度を占める。 ... 弥生人 に追われて山に逃げた縄文人という説に合致する。 ... 越人は南方のベトナムや台湾 方面に逃げるものと、北方の徐州方面に逃げるものに分かれます。
http://enkieden.exblog.jp/17538561/
C系統は南洋方面とシベリア方面、D系統は日本とチベットに分布し縄文人の主系統、O系統はO1aが長江中流域(楚)、 O2a(越)とO2b(呉)が長江下流域、O3が黄河流域(漢)やアジア各方面、その他が2%ほどを占めている。弥生期に流入したものはO2bが多い。O2bは江南から大勢が逃亡し、九州北部と朝鮮南部に定着した。

縄文時代と違って弥生時代の江南人が列島へ移住してきた原因は、戦国時代における戦争の結果でしょう。紀元前473年に呉王夫差は越王勾践に破れ、呉が滅亡します。呉人は北方にある山東半島の南(徐州)方面に逃れます。

吉備は縄文時代から住みついた江南人と、その後にやってきた呉人(姓は姫・き)や楚人(姓は?・び)が多く住んでいるところです。吉備の名は姫?(きび)からとったのかもしれませんね。穀物の黍(きび)という説もありますが、まだ学説は定まっていません。


> 歴史という川、曲折しながらも途切れることはなく合流し分流もする。
> 人間の行動は自然環境によって決定される。少なくとも弥生〜古墳時代あたりまでは。
> 気候の変動、環境の変化、最重視している情報です。
> つきつめれば食料事情です。

つきつめれば食料事情   まさに人類究極の問題 人口増加=アダムとエバの過ち 人口問題デス。





[11396] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 4月30日(火)20時40分10
画像の追加です。

縄文のストーンサークル、寺野東遺跡からみる冬至の筑波山。
当初は山腹からの日の出とみえ、誤差が大きいと思いましたが、地平線でみるとぴったり。
カシミール3D使用。

大神神社拝殿と奥社の冬至と夏至の関係。
同様に誤差が大きいとみていましたが、地平線基準ならぴたりとみえます。
ただし当時の拝殿の位置がどこかはなんともいえず。
黄色いでかい鳥居(^^;は儀式殿(本殿)の位置。

位置関係ということでは暦と太陽の位置がまずありきだと考えています。
祀るのはむろん大自然、祖先神の社では道教などの影響下にはいってのことになると考えています。









[11395] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 4月30日(火)20時18分28秒
茨の紀氏さんへのお返事です。

歴史、飛鳥奈良でさえ?、古墳時代以前ではまるっきり??
それを知りたい、です。

まずは考古学的出土物。しかし土器編年では年代が不明確。
炭素14、ばらつきが大きく、精度も要注意。
いまのところ正確なのは年輪年代法でしょうか、あいにくポイントがまだ少ない。

歴史という川、曲折しながらも途切れることはなく合流し分流もする。
人間の行動は自然環境によって決定される。少なくとも弥生〜古墳時代あたりまでは。
気候の変動、環境の変化、最重視している情報です。
つきつめれば食料事情です。

三内丸山の盛衰、寒冷化で栗などが十分に得られなくなったら・・得られる食料で養える人口に減少せざるを得ません。
集団で南下もありえるでしょうけれど、単純に100年単位で人口が減っていったと考えています。
人口密集の長野県では火炎土器のごとくがなんの装飾もないみすぼらしい土器に変容。
ここでは飢饉同様で短期間で破局になった、関東東海や近畿瀬戸内に脱出した人々もいたと思います。
これが瀬戸内を西進したとみえるイザナギイザナミの祖先・・と考えております。

総じて東北ではもともとから冷涼で長野のごとき破局にはいたらず縄文文化は継続。
縄文末期に登場するのが東北の亀ヶ岡式土器、漆塗りなど優れた感性とゆとりを感じます。
そして弥生初期の温暖化へ。
青森県砂沢遺跡など登場、近畿より早い水稲の可能性があります。北九州から日本海沿岸経由の伝播だと思います。
ずーずー弁、東北が先か島根が先か・・出雲文化圏の拡大時代。

弥生後期の寒冷化では東北は九州と違って農耕不能となる。関東の初期の稲作痕跡も消滅します。
北海道の寒冷適応文化の南下による狩猟文化への逆戻り、これが蝦夷の誕生と考えています。
アラハバキの源流はどこにあるのか・・


池上曽根遺跡BC52の主はだれか・・書記年代なら崇神時代、それらしき記述はない。
唐古・鍵遺跡、弥生前期(BC300〜200あたり)から集落の形成、弥生後期には大集落、青銅器製造の痕跡、古墳時代にはいって集落は縮小。
(書記年代では孝霊大王あたりからの形成で神功時代での縮小となります)
纒向遺跡、弥生末期の土器(AD250頃)、祭祀痕跡あるも大集落とみなせる状況なし。
(書記年代では神功あたりでの形成となります)

これらの遺跡の流れを説明できる資料はない。
神社関連は書記などに書かれる内容の補足どまり、重要情報が隠れている可能性はありますけれど。
鎌倉期の編纂でしょうけれど、ウエツフミの情報の多彩さ、そこにも可能性をみています。

外国史料との関連の説明も必要。
やむなし、様々にシミュレーションを行って年代とその流れにおいて可能性の高いパターンを考えてみることとしました。
考古学では推測はタブー、神話との結合もタブー。だけど推測しないと歴史にはならず先に進めないです。
確率や統計学を併用した手法を工夫すれば汎用性が生じるはずですが、あいにく数学は苦手(^^;








[11394] Re: 「11393」Re: 出雲大社 大遷   かじりかけ 投稿日:2013年 4月30日(火)11時45分7秒
神奈備さんお返事ありがとうございます。


>  八雲山から流れ出る川を、素鷲川といいます。須佐神社の横を流れている川も素鷲川です。出雲大社本殿の北に素鷲社があり、須佐之男尊を祀っています。大和の入鹿神社には、素盞嗚命、蘇我入鹿が祀られています。

大社さん(出雲式の出雲大社の呼び方)の本殿の後ろの素鵞社は、そがのやしろ といいますからズバリなのでしょうか?

余談ですが、こちらでは家を建てたりリフォームしたりすると稲佐の浜の砂を素鵞社に置き、代わりに素鵞社の周りにある砂を持ち帰り敷地の四隅にまき悪いものをはいらせないようにするんですよ。


[11393]Re: 出雲大社 大遷宮  神奈備 投稿日: 2013年 4月30日(火)11時10分33秒
かじりかけさんへのお返事です。


> グーグルでググってみると富神社の西側に千家という地名があります。
> 興味深いのはその西側に北島という地名が残っていること

 本当ですね。気がつきませんでした。ありがとうございます。

 垂仁記に、本牟智和気王をを迎えた出雲国造の祖、岐比佐都美がいますが、この神を祀る社が神奈備山の仏経山の山頂にあった曽支能夜社で、富神社はその神奈備に守られた土地に鎮座しています。

 千家北島はその末裔にあたるのは、納得できますね。

> 出雲の国は、かつて葦の生えるような湿地帯

 葦原色許男と言う名前も納得できますね。稲作も早くに本格化したのでしょう。力を持った地域だったと言えます。

 八雲山から流れ出る川を、素鷲川といいます。須佐神社の横を流れている川も素鷲川です。出雲大社本殿の北に素鷲社があり、須佐之男尊を祀っています。大和の入鹿神社には、素盞嗚命、蘇我入鹿が祀られています。
意味ありげのような気がしませんか?



[11392] 出雲大社 大遷宮  かじりかけ 投稿日:2013年 4月29日(月)23時06分48秒
神奈備さん、こんにちは
お久しぶりです。

GWで出雲にいらっしゃる方がいるかも!
で、小ネタ投稿です。

グーグルでググってみると富神社の西側に千家という地名があります。
ここは、出雲大社の千家さんの家がかつてあった場所だから千家という地名になっているらしいです。
(で、興味深いのはその西側に北島という地名が残っていることなんですが皆様には関係ないことかもです。)
古い地図を見てみると、このあたりが「出雲郷」となっているので神話の舞台は、この辺にあったのかもです。


出雲の国は、かつて葦の生えるような湿地帯で、今の出雲大社が立っている周辺もそうだったようです。
出雲大社の大鳥居は有名ですが、その前には宇賀橋があり川の名をうががわと呼んでいたようです。
出雲大社の後方の山の名を八雲山と言いますが、その八雲三山を蛇山・鶴山・亀山または蛇山・不老山・宇賀山と呼んでいたそうです。
意味ありげのような気がしませんか?




[11391] Re: [11381] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日:2013年 4月29日(月)17時37分8秒
かたばみさんへのお返事です。

 推古−允恭のカーブを延長しますと、神武BC100年位に見えます。そうしますと、倭国王帥升等の存在が気にかかります。九州の金印から帥升の勢力の圧力に追い出された形での神武の九州脱出だったのかも知れません。激励されての大和進出もありかも。


> 「文化」を象徴しそれを祀る

 このような考え方は、かたばみさん独特の発想と申しますか、知恵ですね。感服します。大和朝廷が豊饒を約束して、この国を支配するんだよ、と言う国の形を示したのが神宮と言うこと。いい。


> 書記は鏡がそれを写すとした、うまいと思います。

 同感です。異次元へ誘う鏡、見事な御神体です。現在まで、これを上回る御神体は出ていません。水晶玉か。


 神社の配置について、丹後丹波の櫻井雅子女史が、「浪速の古代史研究会」で、地域の結界、信仰の形(北斗七星の配置)、神奈備山の麓、神と鬼の対比、などなどのケースについてお話をして頂きました。
 北に鬼、南に神奈備と言う組み合わせを全国的に探しておられるとの事でした。






[11390] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   茨の紀氏 投稿日:2013年 4月29日(月)10時43分27秒
かたばみさんへのお返事です。

>ある事象だけを取り出して論を進めるのは危険だと考えています。
かたばみさん 以前より 御尊敬 申し上げております。

 私は ある事象からの証明に四半世紀 ネットで「ハモる」方の増殖するのを待ちました。
    ↓
  神社はなぜそこにあるか?
反論はいつでも受け付けます。HSCPに対する合理的な反論には50万円の礼金を用意しています。専門家、研究機関などの制限もございません。
古墳の位置と神社の位置の関係、
天皇陵の不思議な直線配置http://w312.k.fiw-web.net/hscp/
神社群の持つ基本法則
1.神社群はHSCP(二つの神社のペアが作る線の端末から直角方向に引いた線の多くが同一の収斂点を持つ規則)または直角収斂則と呼ぶ規則で配置されている。(このときの収斂点を神社群中心と呼ぶ)
2..神社群中心には神社が存在する場合が多いが、そこに神社がない場合があり、その代わりに遺跡(立石、いわくらを含む)、水源、尖った山の山頂、洞窟、滝などがある。(近年話題の多くなっているパワースポットと一致する場合もある)。
注;甑岳(宮崎県えびの市)のように、頂上が尖っていない山でも、神社群中心がある場合もある。
3.神社群の配列規則は北海道から沖縄まで同じ規則で配置されている。
4.神社群は互いにHSCP則を満足する線でチエーン状に結ばれていて、北海道から沖縄、島嶼まで切れ目なく結ばれている。
5.神社群は神社間を結んだ線が作る干字状パターンで古富士ポイントまたは野迫川ポイント(奈良県吉野郡野迫川村の山中にある)の一点を指している。富士山や野迫川ポイントを目視できない見通し外距離にある神社群でも同一規則を持つ。
6.神社群の位置を決める角度の精度は1度以下(実力は±0.2度)と高い精度を持っている。

神社配列規則から得られた成果の一部
1.神社の配置からは、現存する神社のほとんどは縄文時代にその位置が決まっていたと考えざるを得ない。しかし、その位置に最初から現在のような神社があったとする証拠はまだ見つかっていない。
2.神社配置規則から見た歴史観は現在の常識的な歴史観から大きく乖離している。しかし、数学的に見ると全く矛盾はない。これはこれまでの文献や発掘による考古学的手法の限界を示している。
3.島根県の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は神社群中心の位置にあり、古富士線も持つ。
4.日本全国にある鉱山位置の多くは神社配置規則の中に組み込まれている。神社配置は表面的に良く見える神社配置と、その裏に、巧みな神社配置によって鉱山位置も示す二面性を持っている。例えば、島根県の石見銀山大久保間歩の近傍にも神社群中心がある。
注;石見銀山にある神社群中心の位置は世界測地系で表すと(釜谷間歩に近い)

当時の権力者の日本地図認識は、行基図とか残存する荘園図みたいな曖昧なものではなく、かなり精密な測量地図を持っていたと考えるのが自然です。
Re: 郊祀
  投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月23日(火)23時18分38秒
 ↑
「ハモる」方の増殖による 古い歴史観の改善が人類のハーモニーを育てると期待しております。

>合理的な反論には50万円の礼金
  ↑ ・・・期待しております。





[11389] 曽許乃御立神社  PONTA 投稿日: 2013年 4月26日(金)01時52分59秒
最後のレポートです。
今までありがとうございました。

http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-367.html
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/


[11388] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 4月25日(木)23時48分39秒
茨の紀氏さんへのお返事です。

茨の紀氏さん、はじめまして。

>銅鐸が出土した所から近いところに神社がある

そういう場合もある、といったところでしょうか。
同様事象が大量にあるなら話は違いますけれど、ある事象だけを取り出して論を進めるのは危険だと考えています。

銅鐸については神奈備さんへのコメントが持論です。
「青銅」にはこだわりません。鉄の場合もこだわりすぎると危ないと思っています。
なお、出雲祭祀の源流は山東半島、瑯邪八神にありと考えています(天、地、日、月、陽、陰、四季の七神、加えて祖先神の蚩尤シユウ)。


伊弉冉伊弉諾神話、事実を源にしていると考えています。
事実とはいっても伝わるのはイメージのみで正確とはいいがたいでしょうけれど。
常に注意しているのはその事象の年代です。これを仮定して周辺状況などと照らし合わせて無理が生じるかどうか。
生じるようならその仮定が間違っている、修正する。このくりかえしが私の手法です。

持論では伊弉諾伊弉冉神話は縄文末期の混乱時代を生き抜いた人々の行動の記憶、です。
国生み島生みとは縄文海退(BC2000〜BC1000頃)により陸地(島)が増えた時代の記憶と考えています。
http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/52701552.html

http://www.geocities.jp/ikoh12/kako_no_page_no_syoko/001honnronn_10.html

世界的にこの時代は異常気象の時代で地域によっては洪水発生、総体に寒冷化で混乱の時代。
ノアの箱船神話、ナイル川の氾濫(河口の花粉分析で確実)、長江の良渚文化の洪水による崩壊(発掘により確実)。
福井県鳥浜貝塚にも洪水痕跡あり(花粉分析)。焼畑痕跡ともみえる発掘もありますが物証的にはまだ不十分と思っています。

迦具土が伊弉諾伊弉冉の子とするならば。
迦具土の妃とされる埴山姫(波邇夜須毘売)も伊弉諾伊弉冉の子、まあ似たような時代の人々、でよいと思います。
注目するのは二人の間から稚産霊神が生まれ、その子が豊宇気比賣神(大気都比賣)とされること。
迦具土=火(落雷など山火事とみています)、埴山姫=土、火と土の結合から豊宇気比賣=穀物の登場。ずばり焼畑を意味すると考えています。

ちなみに迦具土や埴山姫は大山祇神とも密接につながっています。
はるかに下って伊勢神宮の内宮と外宮にも流れ込んでゆく・・
(少なくとも日向宮崎なら天武持統時代に盛んに焼畑を行っていたと思います)


環日本海文化圏(安井喜憲)は十分あり得ると思います(北海道産の黒曜石がアムール川の遺跡から発見されている)。
しかし、縄文末期での基本は農耕へのシフトだと思います。
長江など大陸南方系文化(照葉樹林と水稲)と崩壊しつつあった縄文文化との結合ですね。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11387] Re: [11381] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 4月24日(水)23時35分41秒
神奈備さんへのお返事です。

伊勢神宮の20年おきの式年遷宮、その源は焼畑だと考えています。
大山祇神と南方系の原始農耕の複合文化を象徴する(祭祀)が内宮。
縄文末期に遡ると考えています(陸稲含む)(日本最後の焼畑、宮崎県椎葉村)。

外宮は止由気宮儀式帳に従うなら、雄略の出自にかかわるもので。北九州の農耕文化(水稲含む)。
(雄略は倭王五代の4代目(倭王興)で九州倭王と近畿倭王を兼務、3代目が安康(倭王済)で近畿允恭朝を制圧(^^; )
出雲系譜と日本海系の畑作が加わった文化、それを象徴する祭祀と考えています(出雲の銅鐸系といってもよいです)。
食料生産の拡大と安定化を象徴する(擬人化するなら大気都比賣命)。
外宮も式年遷宮しますが、これは後の天武持統あたりの祭祀の制定によるもので内宮に準じたのでしょう。

内宮と外宮、お供え物に違いはあるのかなあ。

どちらにもご神体は存在しない。
祖先神を祀るのではない、といって山とか川といった自然神でもない。
「文化」を象徴しそれを祀るのですが、最高神天照大神の必要が生じて書記によって擬人化されたのだと考えています。

神宝はなんでもいいんだけど(^^; 書記は鏡がそれを写すとした、うまいと思います。
で。書記にはもうひとつの目的がある、大王系譜から出雲を消すこと。万世一系とすること。
良くいうなら内部抗争の種をなくすといってもよいです(至近では壬申の乱)。
出雲文化の象徴、祭祀具(神宝)銅鐸に関する徹底的な口封じ(^^;

崇神あたりから銅鐸の抹殺ははじまったのでしょう。密かに埋められたか、破砕したか。
代わるものが銅鏡、天孫降臨時代?〜卑弥呼時代の祭祀具(各地に大量にばらまいたのは景行大王311-333とみてます)。
祭祀の混乱で登場するのが大田田根子「意富のタタを祖先とする子」と解釈しています(意富、神八井耳命の系譜、出雲と天孫の混合氏族)。

いまのところの、銅鐸と銅鏡に関する持論です。

前にアップした年代復元図、縮小されて読めない。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/g01.files/06/fukugen.pdf
年代復元図
詳細が必要ならこちらをどうぞ。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11384]Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日: 2013年 4月24日(水)19時46分8秒
茨の紀氏さんへのお返事です。

 茨の紀氏さん、鳥取県の神社の紹介HPの紹介ありがとうございます。
 銅鐸を古代の人々が名前をつけていたとすればやはり「さなぎ」だったのでしょう。
 ずばり 但馬国朝来郡 佐嚢神社 さのう さなぎ ここでも数キロ離れての出土です。関係あると見るか、否か、小生はないように感じますが、ありと見る方もおられるでしょうね。

 神社名で、「さなぎ」のうち、「さな」がついている主な神社は
  三河国加茂郡 猿投神社
  伊勢国多気郡 佐那神社
  摂津国島下郡 佐奈部神社

「なぎ」、草薙(是非はある)伊弉諾を祭る神社はあまた鎮座。
伊勢国鈴鹿郡 於々奈気神社
丹後国中郡  名木神社
伯耆国会見郡 奈喜良神社
筑前国下座郡 美奈宜神社

 いずれも、銅鐸と直接の関連はなさそうだと思います。勿論、銅鐸祭祀がやめになった際、鋳潰したケースもあり、無関係だったとは断じにくいところです。

また、神社伝承に、近江国高嶋郡 水尾神社 の場合です。
 『猿田彦と秦氏の謎』清川理一郎著によれば、水尾神社につたわる『神社縁起書』に、猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」との遺言をしたとあります。信ずるかどうか。




[11383] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   茨の紀氏 投稿日:2013年 4月23日(火)11時23分28秒
かたばみさんへのお返事です。

> 銅鐸(弥生時代でしょう)を神宝とする社があるのかどうかです。

佐和良義神社のご由緒には、「カグツチはカグの神、カグは銅の古語」と書かれています。
       つまり、カグツチの神様とは、銅の神様ということになりますね?
銅鐸が出土した所から近いところに神社がある。即ち、住んでいたところから、それほど遠くないところに銅鐸を埋めたことになる。 伊耶那岐命、伊耶那美命、カグツチが祀られている神社の近くに、銅鐸が発見されているということは、銅鐸を埋めたのは、白狄人だったと見てもよいように思われます。
銅鐸は、500個ほど見つかっていますから、全国的に、このように調べると一層確かになります。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page683.html


[11382] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 4月22日(月)20時55分3秒
大三元さんへのお返事です。

追申です。

>時代別国語大辞典上代編には「ハエ」という項目がない

文言の収集がどのような資料からなのか知りませんが、「葉江」は意味不明の人名の一部とせざるを得ず、古語として採用はできなかったのかなあ。
蝿伊呂泥は古事記(原文みてないけど)。
和名類聚抄931-938に蝿/波倍ハエがあるようです(字通/白川静)。
倍を呉音はバイ、漢音はハイ。波と重複するけどなんとなくここにも海、魚が臭う。
蝿は説文解字には登場しているようで古事記編纂者が知っていておかしくない。

これは、逆に青草情報になるんじゃないかな。
ハエ南風であるなら南西諸島〜九州南部。地域性が強く他地域では「南風の意」は知られていなかった(平安時代ではたぶん没交渉じゃないかな)。
古事記編纂の人には漁労関係の文言程度の情報しかなく、卑下する意味をふくめてハエを漢音でのハイ蝿とした・・

とすると蝿ハエの読みの語源はここにあるのかも。ハイともいうし(関東方面に多いみたい)。
さーてなあ。

磯城には磯シなんて読みはない。こちらは磯辺の城の情報からの単純な連想当て字とみます。
城キも書記時代に「すでに」城キの読みがあったのかどうか? 後世に磯城から参照のキなら危ない(^^;
字通では古訓はミヤコ、アツチ、サカヒ、カキ、ツク、キヅク、でキはない。
強いて言うならカキ、キヅクの簡易化?

ちなみに奈良の磯城郡は明治11年の新郡区編成令で作られた地名(日本史小辞典/山川出版)。
旧名の城上、城下は(延喜式と拾芥抄、鎌倉中期)。式上、式下は(郡名考/青木昆陽、江戸時代)との付会でしょう、思惑による地名ということになりそう。
書紀の注釈に磯城を「奈良の磯城郡」なんてのが書いてあるけど・・思惑通り(^^;




[11381] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日:2013年 4月21日(日)10時40分0秒
かたばみさんへのお返事です。

> 銅鐸(弥生時代でしょう)を神宝とする社があるのかどうかです。

 出土した銅鐸が神社に保管されている場合など、また神社境内らしい場所からの銅鐸の出土も数例あるようですが、銅鐸を御神体としている神社は寡聞により承知していません。
 谷川健一『精銅の神の足跡』では、一宮とされる神社の近く(数キロ)に銅鐸が埋められているケースが幾つか指摘されています。御神体でない証のように思います。

 神社祭祀と銅鐸の祭りとは異質なものだったと思っています。神社は鎮座地(祖先を埋葬、水源、磐、巨木)に深く関わる祭祀であり、銅鐸は持ち運び可能な祭祀だったと思われます。
 地主神と仏像との差。銅鐸は神の依代ではなく、神を呼ぶもの、神社で言えば拝殿前の鈴、寺院では釣鐘。


[11380] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 4月20日(土)23時53分18秒
大三元さんへのお返事です。

蝿伊呂泥、イロデは万葉仮名の用法ですね。こちらは発音の重要性が高いと思います。
しかし蝿ハエは「漢字」、表意文字。
蝿ハエの読みは日本語、だれがいつそう読み始めたのか。
書紀の時代はその混合の時代と考えています。
蝿伊呂泥は「似た発音」の「イメージ連想文字」と万葉仮名の混合。

南風ハエ、漁業(海岸)、魚に群がるハエ、言語学とは別の自然な連想だと思います。
ただし、女性に用いる文字としてはいささかイメージが悪い。
この文字の採用者は、蝿伊呂泥を下に見る人物ではないかと考えています(古事記編纂関連かなあ)。

類例として葦原醜男(葦原色許男)、播磨国風土記で天日矛と戦う出雲系人物。
醜シコは男性用としてはやはり見下しの文字採用だと思います。

磯城もイメージ連想文字だと思います。発音では志木津などからシキでよいと思います。
(磯イソ、ソと読むのはいつごろからか)
イメージ連想文字だと使用者の感覚によるばらつきが大きい。
地名や人名ではいつのどのような発音と文字資料を参照しているか、ですね。


「邪馬壹国」を使っていますが、一般にはヤマタイ国なのでこれも使います。
はっきりいって今はどーでもよいに近いです(^^;
このことからなにかを決定できるわけでもなく、中国史書のどれかがミスってるだけのこと。
ヤマトに近づけたい論の場合は重要でしょうけれど。

倭奴国(委奴国)の場合はそうはゆかない。
イドコク、伊都国にもつながり得るので、倭人伝の2国がかっては同じ国であった可能性に広がるからです。
奴国ナコクかドコクか、漢音か呉音かはこの国の建国由来推定にも重要と考えています。
(例えば神武の祖先の出自と神武本人の意識です)
倭の文字はいまのところ光武帝以前の中国文字にはみつからない(写本など書き換えられた書は別です)。
金印授与以降に「委」(稲の意)に人を加えて国名あるいは地域名とした、と考えています。

隋書の「倭のような文字」も意図を持って作字したと考えています。
既知の「九州の倭国」ではない「近畿の倭国」を表すためです(いつだれがそうしたかはおいときます)。
しかし、この文字はそのときだけで使われずに消えてしまった・・

拡張ですが「壹与」もイヨであるなら伊予の語源となる可能性があります(倭人伝の伊邪も気になるところ)。
四国西岸は持論の邪馬壹国との関係が密接となっておかしくない地勢。
瀬戸内でも太平洋岸の航路でも中継地として要衝になりますから。


地名検索には地図で見る日本地名索引(1998)を未だに使っています。
これに並ぶものはないと思いますが、現在消えてるみたい。


東武線のとうきょうスカイツリー駅、旧業平橋駅。
在原業平といってもピンとこなくなって売り込み中の名を使う、妥当でしょう。
業平橋の名も100年後にはどうなっているか。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11379] Re: [11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか  かたばみ 投稿日:2013年 4月20日(土)20時19分15秒
神奈備さんへのお返事です。

>だから、周辺をうろうろするのをやめられません

足を踏み外してこけないように杖がほしいですね(^^;
事象の年代をなんとかしてつかみとる杖。

書紀の神武即位はBC660、信じられない。神武の存在はあったとしてその実年代はいつか。
古事記の崇神258、成務355以下を信じられるか。
考古学上の出土物との説明ができるかどうか。
外国資料との整合ができるかどうか。

書紀編纂者はどのようにして年代を操作したのか。
なんだかんだの試行錯誤でたどり着いたのが自分流の年代補正です。

手法は単純、「ある大王の没年(即位年)」を基点にしてゴム紐を伸ばすごとくに「神武即位年」をBC660に引き延ばした。
具体的には作図(比例配分)すればよい、奈良飛鳥時代の大工なら物差し一本でできる。

下図の下側横軸が書紀年代でゴムひもを伸ばした年代。
左側縦軸が伸ばしていない実年代。
ま、誤差はあるにせよ、書紀と古事記が一致する允恭没年を基点としています。
(雄略即位でも大差なし)
この基点と書紀の神武即位BC660を直線で結んで作図すればその間の実年代が縦軸に現れます。
(紫のラインの角度には試行錯誤を要します)
結果、古事記の崇神年代もおおよそ正しいであろう、となりました。

連続的であり、各事象での思惑を含まない物理的な処理であることが自慢です(書紀編纂者にとっても同様じゃないか)。
さらに拡張すると天孫降臨年代、素盞鳴尊登場年代まで遡ります。

これに基づく歴史観の構築ができるか。
考古学での出土物の説明、可能(特に銅鐸)。
外国資料との整合、可能。

隣国のお話ですけど、おまけの青草。
天日矛はAD270頃の人物となり、新羅王統図で11代助賁王の一族とみますと、12代沾解王急死や倭人が于老を殺害249など王位継承抗争の臭いがプンプンの渦中の人物となります。
13代は閼智系譜の味鄒王262が継承、脱解系譜の天日矛は倭国へ亡命した。
味鄒王262以降混乱は続き、アンチ倭国の奈忽王356に至る(倭国の大規模新羅攻撃開始)。
(書紀では神功ですが、倭王旨によるものと考えます。百済からは七支刀のプレゼントもあるし)
七支刀銘文、天日矛の天孫系宝物所持も説明ができる。
という青草が成立(^^;

人物史、なんとかできる(^^;
雄略〜継体、書紀年代と古事記年代に微妙な不一致があります。
倭王旨、応神、倭王五代、2系列の大王が存在しているための混乱だと考えています(宇治天皇もそのひとつ)。


次に、書紀の記述内容は信じられるか・・
その場の当事者でないと知り得ない内容が外部に伝わる可能性はまずない。
そういう事象が詳細に書かれる場合は基本的に不可信、後世の創作や尾ひれである可能性がきわめて高い。
不可信の最たるが神武東征説話と神功皇后説話。

ただし、一般が目撃できるであろう事象の場合は別です。
例えば景行大王が筑紫に向かったとき、神夏磯姫が出迎えるシーン、磯津山の木を抜いて枝に八握剣や八咫鏡を掛けて・・うんぬん。
年代不詳でも不正確でも語り部によって後世に伝わる可能性があります。
(周防から筑紫へ渡る、「磯城」のもうひとつの有力候補が豊前の沿岸と考えています)


話がずれて、映画などに諸葛孔明なる人物が大活躍。
この人物は(歴史書)三国志には登場しません。
唐時代に書かれた三国志演義という小説に登場するのみ、すなわち後世の創作人物。
ですが、あまりに有名になるといかにも実在したかのごとくになってしまう。
孔明廟なんてのができて信仰の対象にもなったらどうにもならない・・饒速日などは危ないなあ(^^;

神社縁起等の資料価値は私的には一段下になります。
それぞれの時代での思惑で変形や改変がなされる可能性があるからです。

変化の可能性が大きい時代は書紀編纂以降の文化安定期、平安時代。
歴史の中心が奈良や京都となってからのそれ以前のいろいろ。現在に至る社の登場のほとんどもこの時代だと思います。
次が鎌倉時代の安定期と江戸時代の安定期、「学者の考え」が説から事実扱いになってしまう危険性。
そして明治維新による「天皇復権」の時代、ここでも学者の考えや主義主張による改変が少なからずと思います。


ひとつおたずねしたいことがあります。
銅鐸(弥生時代でしょう)を神宝とする社があるのかどうかです。

大型の出土分布は九州以東で広範囲。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku.html

銅鏡の出土分布。
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater12.html
古い前漢鏡はほとんどが北九州。
古墳時代に入ってAD200〜300以降に近畿古墳から大量に出土が始まる。

復元年代にかぶせれば、開化225-248で出雲制圧、崇神紀に書かれる四道将軍がその痕跡。
(天日矛も各地の残党制圧に参加したかもしれない)
九州以東の銅鐸文化が銅鏡文化に置き換わった、となります。




[11378] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか 大三元 投稿日:2013年 4月20日(土)08時23分47秒
かたばみさんへのお返事です。

> 葉江ハエは南風のハエだろうなあ。

生ゆ、栄ゆ の方が相応しそうな気がしてますが、21世紀の語感かもしれない。
時代別国語大辞典上代編には「ハエ」という項目がない。広く使われている地名(地形?)語だけど(http://www.dai3gen.net/hae.htm )古さに今ひとつ疑問が残る。

> 磯城、磯の城でいいんじゃないか。
> シキという現在地名は熊本県の志岐くらいでみあたらない。

どれほど古い地名か判らないが現在地名としては下記があった。
志木 埼玉 志木町
志木 東京 東京西北部
千木 石川 小坂村
志貴 三重 明和町
(駅) 大阪 八尾市
椎木 奈良 本多村
信喜 島根 邑智町
信喜 島根 邑智町
式 広島 作木村
信木 広島 船佐村
志気 佐賀 北波多村
志岐 熊本 苓北町
志岐 熊本 苓北町
鴫 熊本 多良木町

「磯城」が「シキ」でそのうち「キ」が城の意味ならば固有名詞部分は「シ」だけということだろうか。この場合「シ」の意味は何だろう。

> 懿徳大王兄弟とされる師木津日子の孫に蝿伊呂泥あり(漁業、魚から蝿の連想文字じゃないかな)。

シキつながりで「葉江」から「蠅」に連続性を見たいのだが「葉江」の「江」は ye、蠅の第2音は he であることは注意しておきたい。

> 持論のひとつは「ヤマタイコク」は日向〜宮崎。

奈良時代の日本語では二重母音を使わなかったから「タイ」という音で考えるには慎重を期したい。仮に卑弥呼時代の日本語では「タイ」という二重母音が許されていた、としてもこの語は奈良時代には「テ」と認識されていた可能性がある。「邪馬台」は「ヤマテ」か。
「テ」は「シロ」と似た意味である、と時代別国語大辞典上代編に記述がある。∴「ヤマテ」と「ヤマシロ」が同義・類義のように思える。
http://dai3gen.net/yamatai.htm



[11376] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか  神奈備 投稿日: 2013年 4月16日(火)14時29分1秒
かたばみさんへのお返事です。

> 葉江ハエは南風のハエだろうなあ。

 でしょうね。淡路島の南にある沼島でも、南風を「ハエ」と言います。また「バエ」は海岸の出っ張りなどを言います。南方系海人の上陸した島のように思われます。
http://kamnavi.jp/en/awaji/koujin.htm

> (奈良の磯城は明治時代制定だったかな、最近の地名であって無関係)

『日本書紀』巻十九欽明天皇元年(五四〇)七月己丑《十四》◆秋七月丙子朔己丑。遷都倭國磯城郡磯城嶋。仍號爲磯城嶋金刺宮。
 これは大和のこと。延喜式内社に、大和国城上郡 志貴御県坐神社とあり、古い地名のようです。河内にも志紀郡 志紀県主神社が鎮座しています。


> 持論のひとつは「ヤマタイコク」は日向〜宮崎。

 小生は大和だろうと思っていますが、『魏志倭人伝』の道行きを解釈すると、日向に行き着くケースがあるようです。邪馬台国と神武さんとの関わりは興味深いテーマだと思います。卑弥呼は霊力だけで女王になったのではなく、血統が優れていた。即ち、倭国王帥升の末裔に当たる人物だったと思われます。(岡山大 松木武彦先生)
 帥升の末裔=神武の末裔としますと、卑弥呼が大倭玖迩阿禮比賣命、倭迹迹日百襲比賣命。台与としますと、一応条件はクリアーすることになり、面白くなります。


> 事実は記紀よりはるかに面白い(^^; 青草でございます。

 同感です。だから、周辺をうろうろするのをやめられません。



[11375] Re: [11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか  かたばみ 投稿日: 2013年 4月13日(土)20時13分45秒
神奈備さんへのお返事です。

こちらこそたくさんのヒントや情報を頂戴しています。

>磯城県主葉江の娘を娶っています

葉江ハエは南風のハエだろうなあ。
現在の日向市沿岸や小島はハエだらけ(^^;
南西諸島〜九州南部、海と漁業、転じて海運にも従事した人々だと思います。

磯城、磯の城でいいんじゃないか。
シキという現在地名は熊本県の志岐くらいでみあたらない。
(奈良の磯城は明治時代制定だったかな、最近の地名であって無関係)

自然物由来の地名と違って人工物由来だと、後に僻地化すると地名として残らないのだと考えています。
政治経済のメインルートからはずれてしまった地域ですね。
日向あたりの海岸じゃないか、日向の方には申し訳ないけど僻地適合(^^;
城といっても柵のある集落といった程度でしょう。

ま、推定に持論が重なるだけですが・・
懿徳大王兄弟とされる師木津日子の孫に蝿伊呂泥あり(漁業、魚から蝿の連想文字じゃないかな)。
系図綱要には意富夜麻登久邇阿禮比賣ともあって、出展不明ですが非常に興味深いです。
もし意富夜麻登久邇阿禮比賣が蝿伊呂泥であるなら、持論的にはますます適合。

持論のひとつは「ヤマタイコク」は日向〜宮崎。
持論のもうひとつ、天孫降臨にまで遡ると、天火明命が阿蘇から高千穂経由で日向へ、そして紀州熊野から尾張へ。
日向には五十鈴川、耳川あり。高千穂以降の山中案内は地元の猿田彦命。
瓊々杵尊は有明湾から現在の薩摩川内市あたりへ、海神族の地域。

どちらも温暖な地域、後の弥生後期の寒冷化時代でも力を保ち得た地域だと思います。
農耕革命で人口急増していた北九州は寒冷化時代に農耕不振で飢饉になった。
倭国争乱の主原因がこれだと考えています。
新羅本紀には新羅の飢饉と倭の大飢饉の記述があります。


書紀は天孫降臨を瓊々杵尊ひとりに集約した。
天火明命は「神武より先」に近畿へいってしまってるので書けなかった(先代舊事本紀にでてくる程度)。
また、大山祇神の娘とされる木花開耶比賣、実は天火明命の妃だと考えています。
(瓊々杵尊の本当の妃は海神族のだれかだと思う)

それらはおいて、神武はふたつの天孫系譜の結合から鹿児島で誕生した。
前出の九州図参照(年代はごちゃまぜです)

日向は神武系譜の故郷のひとつ。
倭国争乱真っ最中の孝霊大王175-204の大日本根子彦太瓊の「倭根子」の尊称はここからだと考えています。
後に近畿出雲を制圧した開化大王225-248の稚日本根子彦大日日尊も同様。
出雲と混じり合った神武朝の後裔ではなく、日向系天孫の子孫を強調する尊称。


神武の北九州出雲侵攻で日向天孫の水軍は豊後水道の速吸瀬戸から瀬戸内へ突入。
しかし、五瀬命が戦死敗退。
北から突入の周防灘海戦では稲飯命が敗退。
海戦では速吸瀬戸と関門海峡の要害を以て出雲水軍の勝利だった。
その指揮官が建御名方命、負けていなかったので国譲りに反発して追放。諏訪は州波、周防から運ばれた地名。

事実は記紀よりはるかに面白い(^^; 青草でございます。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/


[11374]Re: タラシ   かたばみ 投稿日: 2013年 4月12日(金)00時16分20秒
大三元さん、おひさしぶり。

>遠津山岬多良斯神

大国主命の子とされるグループの八代目あたりですね。
大国主命は神武大王(持論 36- 66)と同世代。でないと妃の媛踏鞴五十鈴媛の系譜がおかしくなる。
この関係を記紀編纂者はなぜ残したのか・・
豊前豊後あたりで大国主命は白髪のおじいちゃん(^^; そこへ神武が鹿児島から隼人族を率いて北上してきた。

この北上経路の痕跡が魏志倭人伝の「なになに奴国」だと考えています。
倭人伝には奴国がふたつ登場する、ひとつは神武の誕生地(鹿児島)、後漢書にいう「倭國之極南界也」。
もうひとつは神武の建国地(福岡あたり)。

神武こそが大国主命から国を譲られた張本人。
譲られた国とは九州北部。大国主命は島根出雲へ引退した。
すなわち、漢委奴国王金印57の委奴国王とは神武(委とは倭の意、当時に倭の文字はまだなかった)。

記紀は大国主命と国譲り事象を神話時代のこととして改ざんした(その結果神武の妃の矛盾が生じる)。
神武東征説話は後の開化大王(225-248)の近畿出雲制圧と神武の九州北上を混ぜ合わせて改ざんした。

北九州では天日方奇日方命など大勢の出雲系譜が神武朝(懿徳 92-105まで)と合体したと考えています。
1世代20〜25年とすると、遠津山岬多良斯神は大国主命から下ること160〜200年あたりになります。
(この頃の世代数は大きく異なってはいないと考えています)

天足彦国押人命の年代は兄弟とされる孝安大王(持論137-175)と同じでしょう。
遠津山岬多良斯神の推定年代とほぼ一致、同一人物の可能性は少なからずと思います。


このころの九州以東はすべからく出雲文化圏(大型銅鐸出土など)。ただし紀伊半島熊野周辺を除きます。
記紀は出雲の存在を消すためにこの時代の事象を書けない。それが孝昭〜孝元の空白。

天足彦国押人命の天アマは海アマじゃないかなあ。対馬海峡と日本海を自由に往来していた氏族。
国押人なんてのは相当の力量がないとつかない尊称だと思います。
天足彦国押人命の父とされる孝昭大王(持論105-137)は後漢書の倭国王帥升107となります。
神武朝に代わる「新王朝」建国の挨拶と考えています。
ハンコももらってるんじゃないかなあ(^^;

孝安大王137-175は日本足彦国押人、日本ヤマトとタリシの複合(天足彦国押人命とは母違いかなあ)。
ここで早くも倭国が分裂か・・後漢書の倭国争乱のはじまり146-189は妥当なところ。
続く孝霊大王175-204は大日本根子彦太瓊、書紀は継承者に日本(倭)根子「倭を祖先とする子」を強調した。
大日本の大が意富オホであるのかないのか?
前出の倭迹々日百襲姫は孝霊大王の娘とされ、その母は意富夜麻登玖邇阿禮比賣ともされる。
ま、どうであれ倭国争乱は真っ最中。


なお、遠津待根神は大山祇神の子とされる木花開耶比賣や櫛名田姫と同系グループの天之狭霧神の末裔。
天之狭霧神は天孫降臨時の活津日子根命あたりか、大気都比賣命あたりと同世代か。
すなわち稲作など弥生農耕拡大期。
遠賀川式土器の時代ではさすがに世代数もわからず人物史としてはどうにもならないですね。




[11373]Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか  神奈備 投稿日:2013年 4月10日(水)15時59分48秒
かたばみさんへのお返事です。

> 神奈備さんの掲示板用文章が696件目、アップしていないのもありますけ> ど、ほとんどが青草ネタ(^^;
> 私の古代史観はほとんど変化なし。修正すべき新しい「物件」がないです。

 それだけの数になりますか。本当にありがとうございます。

 「古代であそぼ」の史観は、よく考証された大きい流れの構成の中で、ありうる話の積み重ねとなっているので、なかなか覆す発見はでないでしょうね。

> 孝昭大王の出自が相当の謎、懿徳大王の子とは信じていません。

 同感です。安寧天皇から孝安天皇まで、磯城県主葉江の娘を娶っています。同一世代かも知れません。


> 多利思比狐大王はこの流れの中の人物。海と半島を経由して中国文化に精通していた。

 聖徳太子は丹後の間人や道後温泉にゆかりがあり、当時としては視野の広い人物だったのでしょう。





[11372]タラシ   大三元 投稿日:2013年 4月10日(水)08時38分12秒
かたばみさん

> タラシ、足、帯、の名の登場は孝昭大王(持論105-137)大王の子とされる天足彦国押人命/紀(天押帯日子命/記)とみえます(系図綱要、太田亮)。

http://www.dai3gen.net/izm_kssi.htm

出雲の:遠津山岬多良斯神 の「多良斯」からチョコチョコ考えたことを挙げております、ご参考になれば幸い。

遠津山岬多良斯神=天足彦国押人命か? しからばそれらの親についても
父:天日腹大科度美神=カヱシネ?
母:遠津待根神=ミ「マツ」・ヒコ・カヱシ「ネ」 と関連付けられるか。
なんてことを考えてます。



[11371] Re: [11367]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日:2013年 4月 9日(火)16時27分54秒
神奈備さんの掲示板用文章が696件目、アップしていないのもありますけど、ほとんどが青草ネタ(^^;
私の古代史観はほとんど変化なし。修正すべき新しい「物件」がないです。

タラシ、足、帯、の名の登場は孝昭大王(持論105-137)大王の子とされる天足彦国押人命/紀(天押帯日子命/記)とみえます(系図綱要、太田亮)。
孝昭大王の出自が相当の謎、懿徳大王の子とは信じていません。
(懿徳大王はひょっとして女帝の可能性もみております)

懿徳大王までの(良好な?)出雲系譜との関係が失われて、以降の混乱が倭国争乱。
倭迹々日百襲姫の母とされる意富夜麻登玖邇阿禮比賣が卑弥呼だと考えていますがおいときます。
(神八井耳命=多臣族=意富オホ)
崇神時代の大彦命、北陸方面へ。意富の彦であり妥当なところか。

タラシの意味はなにかなあ、帯の表記が近いとみて衣服関連かなあ。
天足彦国押人命の系譜からは彦坐王、意祁津姫命(袁祁津姫命、姥津姫命)があり、若狭湾あたりの有力氏族になっているとみています。
日本海を持つ氏族、海によって半島経由で最先端文化も導入しやすい。

意祁津姫命の娘に日葉酢姫、垂仁大王の妃となってその子が景行大王(大足彦忍代別)。
別ワケがつくのが興味深い、「タラシ文化圏」の分家の意かもしれない。
景行大王は全国的婚姻融和策、あっちこっちに無数の子がいる(^^;
成務大王は稚足彦(若帯日子)。

日本武尊、こちらは海とは関係のない氏族との子じゃないか。
孫の仲哀大王はふたたび足仲彦(帯中津日子)。
息長帯比賣(神功皇后)は仲哀大王の妃としてはおそらくは正しい、彦坐王の系譜のうちの日本海系。
応神大王の登場は成務、仲哀による各地の氏族領土の「国有化」への反発と造反だとみております。

この後には雄略大王の娘とされる稚足姫がみえるだけになる。
再登場は舒明大王(629-641)の息長足日廣額。息は意祁と同義で日本海系を示すと推定。
このなかに古来からの海運商社物部と新興の蘇我の抗争あり。
交易なかずんば力を得ず。蘇我蝦夷、日本海経由での東北蝦夷との交易をうかがわせます。

多利思比狐大王はこの流れの中の人物。海と半島を経由して中国文化に精通していた。

タラシは九州北部を含む日本海系譜の文化のなかにあった名だとみております。
対するのは「倭」「日本」「倭根子」といった名、孝安大王(137-175)が日本足彦国押人、両方を含んでいるのが微妙な立場を示していると推定。
倭国争乱の真っ最中ですね(ここでの争乱は北九州限定)。
これらの文字表記には記紀編纂者の良心が残されていると考えています(^^;

後に開化大王(225-248)など「四道将軍」によって近畿出雲制圧、総指揮官は倭迹々日百襲姫(箸墓古墳)。
事実は記紀より奇なり(^^; 今のところ小説として書くより他はなさそうですけど。




[11370]Re: [11369] Re: [11368] 邪馬壹國〜邪馬臺國  琉球松 投稿日:2013年 4月 7日(日)20時05分26秒
神奈備さん、たぶんそういう事なのでしょうね。

 ただ、『魏志』の倭人伝の頃の倭語で「一」を「イチ・イツ」と呼んでいたかは疑問なんですよ。
 呉音&漢音は、若干は入って来ているでしょうから、九州〜瀬戸内海の倭語がどうだったかの確証もありませんしね


[11369] Re: [11368] 邪馬壹國〜邪馬臺國   神奈備 投稿日:2013年 4月 7日(日)16時47分46秒
琉球松さんへのお返事です。

> 現在でこそ数字の「一」は呉音&漢音の「イチ・イツ」とも呼びますが、本来は「ヒト・ヒトツ」で、「五」が「イツ・イツツ」ですから、

 この本来とは、日本語でのヨミのように感じます。

 「壹」の字は南宋の写本に「邪馬壹國」とある所だけのようです。それ以外には「一大國」、「一月 一年」、「一大率」、「一人」、「一女子」と「一」だけが使われています。これだけでも、「壹」の字は写し間違いだと判ります。


">[11368] 邪馬壹國〜邪馬臺國  琉球松 投稿日:2013年 4月 7日(日)10時03分22秒
「邪馬壹國」と「邪馬臺國」が別の意味だとすれば、「壹=五」で「臺=十」との解釈も可能でしょうか。

 現在でこそ数字の「一」は呉音&漢音の「イチ・イツ」とも呼びますが、本来は「ヒト・ヒトツ」で、「五」が「イツ・イツツ」ですから、「五」を「十」の半分とすると、途中経過の意味にもとれます。(邪馬臺がヤマトに繋がるとの前提ですが)

 まあ、思いつきの類いで。。。邪馬壹國が邪馬臺國に発展拡大した経過を表現している可能性もありますし、一大國の「一」と壹岐嶋の「壹」は違う意味なのでしょう。


[11367]Re: 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日:2013年 4月 4日(木)16時19分25
かたばみさんへのお返事です。

2010/05/01の[10242] 以来かと思います。お久しぶりです。画像を投降できるようになったので、便利に仕えます。

> すなわち風土記のほうが正しい可能性が大きい、というのが私の見解です。

 正しいと言うか作為が少ないというか、素直って感じでしょうか。


> すなわち東国では景行大王など関係なかった(^^; 日本武尊を大王とみなしていた、ということですね。

 基本的にはその通りだと思います。
ただ、『塵袋』に記載の逸文に、「常陸の国河内の郡の浮島に鳥があり、賀久賀島と言う。その鳥の細々と鳴く声は愛らしい。大足日子天皇がこの村の仮宮に留まり給うこと三十日、云々」とあります。『塵袋』は鎌倉後期の作品ですから、史料的には少し弱いかもしれません。また倭武天皇と景行天皇とを一体と理解していたのかも知れません。


> 「多利思比狐」大王が本名だと考えています。

 先の景行天皇は『古事記』では、大帯日子淤斯呂和気です。「大帯日子」が『隋書』の「多利思比狐」に相当するのでしょう。個人名よりは大王のような意味かと思いますがいかがでしょうか。個人名は「淤斯呂和気」かと思います。

『播磨国風土記』に、美袋郡に市辺天皇の名が登場しています。オケ、ヲケの父です。

『古事記』に、天皇(king of kings)とされてもいいと思わせる表示がある皇族がいます。

 尾張の美夜受比売が倭武の命に捧げた歌「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば 云々」とあり、倭武の命を天皇と見ているようです。

 父の仁徳が、「宇遅能和紀郎子は、天津日継(アマツヒツギ)を知らしめせ」とのりたまひき。とあります。

 木梨之軽太子、日継知らしめすに定まれるを、未だ位に即きたまはざりし間に、そのいろ妹軽大郎女に(タハ)けて歌ひて曰はく、云々。

 市辺、倭武、宇治、木梨之軽、聖徳太子の五人が浮かび上がります。





[11396]Re: [11364]名草戸畔ついでに考えたことがあります。   神奈備 投稿日:2013年 4月 4日(木)15時14分52秒
miraiさんへのお返事です。

 面白い「思いつき」ですが、やはり脱線的なお話でしょう。
 まず、 邪馬壹國か邪馬臺國か、この論戦では、後者に軍配があがっているように思います。
 途中経過の国の一字をとってきて、目的地の地名をつくる意味がわかりません。狗奴国も狗邪韓國→・・→奴国から出てきます。


[11395]Re: 誰を天皇とするか   かたばみ 投稿日: 2013年 4月 4日(木)08時41分19秒
神奈備さんへのお返事です。

何年ぶりでしょうか、ごぶさたです。

>誰を天皇とするか

日本書紀の作為による混乱と考えています。
風土記等の記述は日本書紀との整合ミス(整合忘れ)、というわけです。
すなわち風土記のほうが正しい可能性が大きい、というのが私の見解です。
出雲風土記と豊後風土記は整合させるべき最重要で徹底的にいじられているとみております。

天皇と表記するからおかしくなる、天武以前はすべからく大王であって大王が何人いてもかまわない。

>『常陸国風土記』はヤマトタケルを倭武天皇と表記

景行大王が九州に7年ほど居住したことと関係ありと思っています。
すなわち東国では景行大王など関係なかった(^^; 日本武尊を大王とみなしていた、ということですね。
(九州における日本武尊と東国における日本武尊は別人だと思う)

>『播磨国風土記』は?道稚郎子を宇治天皇

私の歴史観は応神大王と仁徳大王は並立した大王だと考えています。
九州系大王系譜が応神であり、大和系大王(崇神〜景行〜仲哀、ヤマトタケルを含む)をある時期に制圧した。
その後、仁徳が大和の大王権を奪い返した。
九州では倭王五代の時代であり、諸外国からはこちらが倭の大王だった。
すなわち書紀系譜では倭王五代を説明できない、菟道稚郎子こそが倭王讃だとみております。

その後、雄略が大和を再び制圧。
その後、日本海系府の継体大王と筑紫の磐井大王の確執へ流れ込んでゆきます。

菟道稚郎子は応神の子であり、九州系大王の継承者。播磨あたりでは菟道稚郎子を大王とみなしていたのでしょう。
「宇治」とは「菟道」と同義で後に宇治に置き換えられたのでしょう。
書紀にいう禅譲などうそっぱち(^^; (非万世一系)

>倭国の王を「阿毎多利思比孤」としているのも

推古女帝は存在しない、が持論です。むろん大王は聖徳太子。ただしこの称号は後のもの。
「多利思比狐」大王が本名だと考えています。
書紀編纂者にとってその出自がいささか都合が悪かった(非大和系大王、またまた非万世一系)。

継体と欽明から用明への系譜の流れがいかなるものか、ですね。
九州における神武大王と媛踏鞴五十鈴媛(出雲族)の子の神八井耳命(多臣族)の流れと、応神時代に半島に渡った九州系倭人(半島の前方後円墳)との混血氏族、とみています。
聖徳太子が百済支援にこだわる理由でもあります。

書紀編纂側からは出雲系譜が強く抹消ものですが、聖徳太子の事跡があまりに大きくまた時代も近くて消せなかった。
系譜をいじり女帝を登場させ、太子として扱ってしのいだ。

壬申の乱もこの流れの中から生じているとみています。女帝の影に異変あり(^^;
ま、天武天皇以降はおおよそ大丈夫だろうと思ってますけど。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/


[11364]名草戸畔ついでに考えたことがあります。  mirai 投稿日:2013年 4月 3日(水)22時09分20秒
前回、本当は名草戸畔という女性の正体について私の考えるところを書こうと思ってましたが脱線してしまいました。ついでですが、また脱線します。「丹生都比売伝承」を読んでたときに江南という地名が出てきて、邪馬台国を思い浮かべてしまいました。そこでちょっと思ったことを書きます。
魏の使いが朝鮮半島から日本に渡ってくる行程は狗邪韓國→對馬國→一大國の順になります。(對馬國を對海國と記す書もあるようですが、一応對馬國ということで進めます。)『紀』は對馬嶋、壹岐嶋と記しています。ここで狗邪韓國から「邪」、對馬國から「馬」、一大國から「一」を取り出して最後に「國」を付け足します。『紀』では壹岐嶋ですから「壹」を取り出して最後に「國」を付け足すことになります。そうすると前者は「邪馬一國」、後者は「邪馬壹國」となり、現存する魏志倭人伝の版本で邪馬台国を記す「邪馬一國」「邪馬壹國」と同じになります。ちょっとした思いつきでした。前にこのような考えをした人はいるんでしょうか。


[11363]備忘録 秋の七草   神奈備 投稿日:2013年 4月 2日(火)20時52分37秒
山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首
1537 秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花
1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花
尾花:すすき。朝顔の花:ききょう


[11362] Re: [11361][11359]名草戸畔を語る を見て   神奈備 投稿日:13年 4月 1日(月)20時28分28秒
miraiさんへのお返事です。

 面白い着想です。
 丹生都姫神社の社家の出の丹生広良氏は、『丹生神社と丹生氏の研究』の中で、丹生姫の九州への上陸地を伊都国と想定されていますが、まさに壱岐対馬経由は十分考えられます。

 その足跡は香春岳経由で宇佐へ、そこから南下して大分で中央構造線を発見してそのラインで東に向かったとしても成り立つ話ですね。



[11361][11359]名草戸畔を語る を見て   mirai 投稿日: 2013年 4月 1日(月)13時20分9秒
[11359]名草戸畔を語る を見て感ずるところがあり、神奈備さんの「丹生都比売伝承」を読ませてもらいました。そこで興味深く思ったのが、江南にあった呉・越に関する事柄でした。呉は太伯、越は兎の苗裔でともに夷である、呉王女姉妹を奉祭する呉の遺民たちが一部の越の遺民を引き連れて新天地に向かったという事柄です。私がこの事柄から思ったのは、彼らはまず対馬・壱岐に渡り、対馬では呉王女姉を奉祭する呉の遺民(龍蛇信仰の人達)が、壱岐では呉王女妹を奉祭する少数の越の遺民(ウサ信仰の人達)が繁栄した、のではないかということです。そして次に彼らは九州へと渡り、呉王女姉を奉祭する呉の遺民(龍蛇信仰の人達)は数国からなる倭国を作り、呉王女妹を奉祭する少数の越の遺民(ウサ信仰の人達)は伊都国を作った、のではないでしょうか。きっと倭国は伊都国を属国と見下していたことでしよう。そこに、ある人物を長とする一団が登場する、というのは「因幡の白兎」ですが。


[11359]名草戸畔を語る   神奈備 投稿日: 2013年 3月26日(火)21時03分0秒
講演会
「なかひらまい・小野田寛郎 名草戸畔を語る」

和歌山に残る名草戸畔伝承は、「口伝(くでん)」によって受け継がれてきました。この口伝を採集し、名草戸畔 古代紀国の女王伝説』を書いた、なかひらまい氏とその謎を解き明かす驚異の伝承保持者といえる小野田寛郎氏の対談です。文書に書かれず親から子へ語り継がれてきた「生きた歴史」を知る人は、年々少なくなっています。和歌山の文化を残していくために、司会に前全農代表理事専務・ジュリス・キャタリスト代表取締役で小野田家のご親戚でもある加藤一郎氏を迎え、小野田氏に名草戸畔伝承について語っていただく講演会を行います。


■日時:2013年(平成25年)5月5日(日)
      開場:12:30 開演:12:45(終演予定14:30)
■場所:「アバローム紀ノ国」 鳳凰の間
     〒和歌山市湊通丁北2−1−2
     TEL:073−436−1200
■出演:小野田寛郎 なかひらまい 司会・加藤一郎
■入場料:1,500円(当日2,000円)
■主催:テレビ和歌山・和歌山放送
■後援:和歌山県・和歌山市・海南市




[11358] 誰を天皇とするか   神奈備 投稿日: 2013年 3月25日(月)20時51分18秒
 『常陸国風土記』はヤマトタケルを倭武天皇と表記し、『播磨国風土記』は詌道稚郎子を宇治天皇としています。『古代出雲を知る事典』瀧音能之著に、これは、誰を天皇とするか未だ決まっていない段階で書かれたものだろうとしています。誰を天皇とするかは、『古事記』『日本書紀』で確定したと推測しています。興味深い見解だと思います。

 この考えを敷衍しますと、『新唐書』に、推古天皇の時代にもかかわらず、倭国の王を「阿毎多利思比孤」としているのも、例えば聖徳太子が実質大王であったのですが、後世には、太子信仰も萌芽して来ており、悲劇の皇太子にしておこうとの史局の判断があったのかも。



">[11357]土井先生   神奈備 投稿日:2013年 3月25日(月)13時59分21秒
 昨日24日の大阪中央公会堂で開催した「浪速の古代史研究会」に姫路から土井先生が参加してくれました。

土井さんにからんで 氏の論文を掲載していますページです。
家島の神々 西島のコウナイの石
http://kamnavi.jp/en/harima/iesima.htm

土井さんのブログ
harimanada・播磨灘・印南の海。
http://kounai.at.webry.info/


[11356]Re: 静岡県磐田市の式内社 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月23日(土)11時36分49秒
> 巡拝!
>
> http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-358.html

ご紹介ありがとう。

[静岡県磐田市の式内社 PONTA 投稿日:投稿日:2013年 3月22日(金)15時25分35秒
巡拝!
http://6229.teacup.com/kamnavi/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fpontyan1997.blog59.fc2.com%2Fblog-entry-358.html

http://6229.teacup.com/kamnavi/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww2.wbs.ne.jp%2F%7Eponta%2F


[11353]『傀儡子記』 6 終 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月19日(火)16時20分33秒
『傀儡子記』−−−
 女たちの歌は、あたか古代シナの韓蛾のごとく、塵を動かし、その残響は 梁をめぐつて、聴く者の襟を涙で滞らしてやむことがない。歌うのは今様、 古川様、足柄、片下、催馬楽、黒鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満固、風 俗、咒師、別法などの類である。余りに多く数えられない。

 これは天下第一のものである。誰が感動せずにいられよう。
−−−
 青墓(美濃)の傀儡 名曳(なびき)は仁平元年(1151)の『詞花和 歌集』に、
  はかなくも 今朝の別(わかれ)の 惜しきかな いつかは人を なが らへて見む
  ( 別れゆく人は 天寿をまっとうしてほしい 神奈備訳)
が載録されています。傀儡子は顔よりも、歌で好まれたようだ。

 『本朝無題詩』中原廣俊作
 千年芳契誰夫婦 一夜宿縁忽別離 賣色丹州容忘醜 得名赤坂口多髭
 容貌が醜いのも、口髭が生えているのも、芸さえあれば、傀儡子がつとま るという詩。參河國赤坂傀儡女には口髭があると言う。

 最後に、藤原雅経(1170−1221)の家集『明日香和歌集』から
 吾妻へ下るとて、あをはかの宿にて、あそびて侍りける傀儡、のぼるとて たづねければ、みまかりけるよし申すをききて。
 尋ねばや いずれの草の 下ならむ 名はおほかた 青墓の里
                              以上。


[11352]『傀儡子記』5 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月18日(月)09時18分39秒

『傀儡子記』−−−

 東国では美濃、三河、遠江に党があり豪華な暮らしをする。山陽では播州、山陰では但馬の党がこれに次ぐ。西海の党はこの手下である。傀儡の名は、小三、日百、三千載、万歳、小君、孫君などがある。
−−−
 歌人で白河上皇の側近公卿藤原顕季(一〇五五?一一二三)が、「日詰めにて、墨俣・青墓の君ども数多喚び集めて、様々の歌をつくしける」と東海道の墨俣や青墓の傀儡女が多く上京して歌を詠っており、墨俣にも傀儡女がいることがわかります。

、鏡山にも傀儡女が家居していました。(『本朝無題詩』)。鏡山は滋賀県蒲生郡の宿駅で、『梁塵秘抄口伝集』には、「鏡の山のあこ丸」(後述)が著名。傀儡女が他の職種にも就いていました。鏡山のあこ丸が、主殿寮におり、神崎のかねは、待賢門院に仕えています。奉仕の内容は、今様を謡ういわば歌手です。

 平安中期から後期にかけて、朝廷や貴族邸宅に出仕する女房や女官は、夫やパトロンを持たなければ、安定した生活を送れなかった。院政期には、落ちぶれた貴族女性や女房たちを、貴豪族層の男性達に斡旋する「中媒」がおり、実質的な買売春が行われていました。遊女・傀儡女は、芸能と売春を業としましたが、女房や半物、雑色等も、出仕しつつ、同様な売春をしていたのです。けっして、遊女や傀儡女だけが特別だったわけではなかったようです。


[11352]『傀儡子記』4 神奈備 投稿日:投稿日:2013年 3月15日(金)08時22分44秒

『傀儡子記』−−−
 田を耕すことなく、植物を採集することもない。よって県官には属さず、土地につい正民ではなく、自ら浪人の境涯に身を置いている。上に帝、宰相のあることを知らず、郡司などの官吏を恐れない。課役がなく、一生遊んで暮らす。夜は百神の祭りで、鼓を打ち、舞い、喧嘩し、もって福助を祈る。
−−−
 時の最高権力者であった後白河法皇の所へ多くの遊女がやって来て、今様を唄ったのを記録したのが、『梁塵秘抄』で、中世の様子をうかがう素晴らしい資料となっています。
 例 女の盛りなるは 一四五六歳 二十三四 とか 三十四五 にし成りぬれば紅葉の下葉に異ならず (やはりAKBの年代が可愛い。紅葉の下葉とは大年増を意味します。昔は成熟・老化が早かったのでしょう。)

 百神とは百大夫のことです。遊女達が信仰しました。イメージは少女、遊女が使役する神で、式神などと同じようです。神像に針を刺し、男を連れてこい、連れてきたら抜いてやると言う脅迫信仰だったようです。道教的で、神に感謝する心はないのです。現代中国が他国に感謝の心を持たず、逆恨みの性根はこんな所に根ざしているのかもしれません。遊女・傀儡子の世界と同じく背徳的です。

 さて、傀儡子と言えば、傀儡舞が著名であり、豊前の八幡古表神社に傀儡舞や細男の伎楽を奏していました。細男の舞は、伝承では、安曇の磯良が長い海底生活から浮上した際、顔面に貝などが付着して醜悪だったので、白布で顔を隠して現れたことに由縁して、今でもそのようにして舞う。春日大社など。
 傀儡子や遊女の起源を渡来人とする説もありますが、安曇磯良からは海人系が想起されます。起源は一種類ではなく、巫女、宮廷の官女、没落貴族の子女、など、美人もしくは歌人、などの女性にもその職業につくチャンスとか運命があったのでしょう。

 傀儡子は男も含まれています。ここでは傀儡女を対象としています。傀儡女には夫がいます。夫は妻が他の男に売色をするのを嫌わないようです。夫はヒモだったのかも。


[11351]『傀儡子記』3 神奈備 投稿日:2013年 3月12日(火)13時51分49秒

『傀儡子記』−−− 女は媚術を用い、ながしめを行い腰を折って歩き歯を見せて笑み、唇に朱、顔に白粉を施している。歌を歌い淫らで、妖しい媚を売る。旅客に戯れても、父母夫はそれを知っても戒めない。一夜の歓楽ではあきたらず、続けてこれを求める。自ら千金を献じて錦の服を作り、金のかんざし、螺細の櫛を挿す。実に異様の民である。
−−−

 唐では、宮妓 官妓 家妓 民妓がいました。宮妓は外国賓客に踊りを見せる役割があった。日本では、内教坊妓女を置いた。また、官妓に代わって、太宰府では高級な遊行女婦を持ってきたという。これは傀儡子の女達です。
 遊行女婦の歌は万葉集にも載録されています。
0966 大和道は雲隠れたりしかれども吾(あ)が振る袖を無礼(なめ)しと思(も)ふな
大伴郷が太宰府を去る時に、見送る府吏(つかさひと)の中に遊行女婦(うかれめ)あり。其の字(な)を兒島(こしま)と曰ふ。兒島が詠った。官吏と立場が同等で、教養もあることが判ります。蔑視や賤の気はなかったようです。


[11350]古代を偲ぶ会 神奈備 2013年 3月11日(月)14時34分54秒
「古代を偲ぶ会」の来年度の予定をアップしました。
http://6229.teacup.com/kamnavi/bbs

[11349]『傀儡子記』2 神奈備 2013年 3月11日(月)11時59分59秒
『傀儡子記』−−−
男は馬に乗り弓を持ち、狩猟で生計を立てる。長剣を持って跳躍し、短剣をもてあそぶ類の者たちである。魚や竜、ウナギやミミズのような生態の者たちで、石を魔術で金銭に変じ、草木を鳥獣に変え、よく人目を惑わす。
−−−
 騎馬民族や東北の蝦夷の風習に見えます。縄文の流れの中にいて、定着し稲作に励むタイプではない性質だったのでしょう。
 「石を金銭に変じ」は、金属精錬の技術があったのか、もしくは、「草木を鳥獣に変え」など、奇術のみせものや、軽業、また傀儡子からは人形回しなどが思い浮かびます。

[11348] 無題  琉球松 2013年 3月10日(日)22時30分9秒
神奈備さん、了解しました。

[11347] 『傀儡子記』1 神奈備   2013年 3月10日(日)20時01分39秒
『傀儡子記』 大藏卿匡房卿

 著者の大江匡房は、長久二年(1,041)に文章道の大江氏(元は土師氏)の男として誕生した。役人として、荘園管理の任につき、備中、備前、美作、越前の国司・受領として蓄財に励んだ。太宰府権帥を四年つとめ、幾度となく京と九州を往復し、神崎・江口の遊女を始め、瀬戸内海、九州の遊女事情にも精通した。
 1106年以降、『遊女記』(舟で客をさそう)・『傀儡子記』(陸地の遊女)を著す。ここでは、『傀儡子記』を中心として、傀儡女について調べたことを書いてみます。

  後白河上皇は『梁塵秘抄口伝集』の叙述において、明確に遊女と傀儡子を区別しています。
 「斯くの如き上達部・殿上人は言はず、京の男女・所々の端者・雑仕・江口神崎の遊女・国々の傀儡子、上手は言はず、今様を謡ふ者の聞き及び我が付けて謡はぬ者は少なくやあらむ。」
 江口神崎は淀川・神崎川沿いの水辺にいた遊女を指し、国々の傀儡子とは内陸(美濃、東海道・山陰道等の陸の宿駅)にいた遊女を言います。

『傀儡子記』−−−
 傀儡子は定住しない者たちである。家はなく、テントを張って、水と草に沿って移動する。北方異民族の者たちに風俗は似ている。
−−−
 傀儡子はジプシーに似ています。ジプシーは西暦1100年頃にギリシャ北東部のアトス半島に現れたとされており、傀儡子の方が古いような気がします。ジプシーが遙かギリシャから日本にやって来たとは思いにくい所です。


[11346] 掲示板の仕様を変えました。  神奈備  2013年 3月10日(日)20時00分22秒
題名の前の連続ナンバーが入りません。これは手で入れています。ご協力をお願いいたします。
連続ナンバーが入っていない場合、席亭が勝手にいれますので悪しからず。

[11345] アラハバキ神社  PONTA [Url] 2013/02/28(Thu) 07:33 [Reply]
アラハバキ神社
http://kamnavi.jp/jm/arahaba.htm

追加
>遠江 城飼 若宮神社境内社阿羅波婆鬼神社 静岡県掛川市大渕6769
http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-313.html 

新住所
>遠江 麁玉 荒ハバキ(金偏に祖)神社 静岡県浜北市堀谷
遠江 麁玉 荒ハバキ(金偏に祖)神社 静岡県浜松市浜北区堀谷

[11344] 『梁塵秘抄』  神奈備 2013/02/26(Tue) 12:38 [Reply]
『梁塵秘抄』には、熊野詣や神社、遊女のことなどを歌った今様が採録されています。後白河法皇のお仕事です。
熊野詣
熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路と伊勢路も遠からず 256

遊女
遊女の好むもの、雑芸鼓小端舟、簦翳艫取女、男の愛祈る百大夫 380

神社
南宮の本山は、信濃の国とぞ承(うけたば)る、さぞ申す、美濃の国には中の宮、伊賀の国には幼き兒(ちご)の宮 262
注 南宮:南方刀美神社(諏訪大社)。中の宮:仲山金山彦神社(南宮大社)。兒の宮:敢國神社。

これより南に高き山、娑羅の林こそ高き山、高き峯、日前国(こく)懸、中の宮、伊太祁曽なる神とや紀伊三所 246
中の宮:中言神社 http://kamnavi.jp/ki/city/nakagoto.htm 。なる神:鳴神社。紀伊三所:伊達神社、志摩神社、静火神社。

[11343] Re[11342][11341][11340]: 松原右樹先生  神奈備 2013/02/24(Sun) 10:24 [Reply]
遺作は昨年既に発行されています。

[11342] Re[11341][11340]: 松原右樹先生  宮本634 2013/02/24(Sun) 08:34 [Reply]
神奈備さま

> 松原さんの人柄が、次のブログが素晴らしい。5年前のものですが。
>
> http://ameblo.jp/2626150/entry-10088386746.html

ありがとうございます。やはりいい方ですね。お会いしたことはないですが、会った方々のお話を聞くと皆さん松原先生を尊敬し、慕われています。松原先生ファンの多さと、そのファン同士のつながりの強さも感じました。遺作の編集応援しています。

[11341] Re[11340]: 松原右樹先生  神奈備 2013/02/23(Sat) 21:34 [Reply]
宮本634 さん こんばんは。

松原さんの人柄が、次のブログが素晴らしい。5年前のものですが。

http://ameblo.jp/2626150/entry-10088386746.html

[11340] 松原右樹先生  宮本634 2013/02/23(Sat) 15:27 [Reply]
はじめまして。宮本634(ムサシ)と申します。
松原先生なくなられたんですね。松原先生のイメージは泥臭いところでしょうか。悪い意味ではなく、いい意味でですよ。ほんと地元の中に溶け込むぐらい調査されていた印象があります。ですから、今まで知られていない話や、多くの情報を持たれ、いろんな角度から物事を見られていた方だと思います。先生と一度お話してみたかったですね。ご冥福をお祈りいたします。

[11339] 四天王寺十五社と同じような神々を祀る神社。  神奈備 2013/02/21(Thu) 21:17 [Reply]
 大阪市都島区の都島神社(元十五社神社)
天照坐皇大御神 (配祀)廣田大神 住吉大神 熊野大神 三十川大神 白山大神 生野大神 小守大神 石上大神 春日大神 加茂大神 大原野大神 松尾大神 石清水八幡大神 稻荷大神

 福岡県中間市大字下大隈字村前1175-3 十五社神社
天照大御神 布留大神 大原大神 春日大神 稻荷大神 松尾大神 加茂大神 八幡大神 住吉大神 廣田大神 熊野大神 玉津嶋大神 白山大神 篭守大神 生田大神

 両社の祭神を比較しますと、次の二柱が違っています。
 大阪 三十川大神、生野大神
 福岡 玉津嶋大神、生田大神

 三十川は三十一文字の誤読であれば、玉津嶋大神は和歌の神であり、納得できます。同時に生野が生田であれば、こちらが摂津の神で、十五社には相応しい感じです。


[11338] 四天王寺十五社  神奈備 2013/02/20(Wed) 19:38 [Reply]
 四天王寺十五社は、かって太子堂四足門の後に鎮座していました。
四天王寺の十五社の祭神(摂津名所図絵)
祭神は天照大神、住吉、廣田、熊野三前、三十川神、白山比メ神、籠守神、生野神、布留神、大原、春日、稲荷、松尾、賀茂、八幡宮。

この中の三十川神については、三八所、三十字川、と表されています。何故か、概ね、吉野三十八神に比定されています。

また、生野神ですが、丹波国に式内社が鎮座していますが、四天王寺となじみが少ないので不思議なことです。

[11337] 自己レス  PONTA [Url] 2013/02/20(Wed) 17:29 [Reply]
千葉県は、県庁所在地(『倭名類聚抄』の「下総国千葉郡千葉郷」)の地名を県名にしたわけで、その「千葉」の語源説の1つに「「茅(ちがや)」が生い茂る土地で「茅生(ちぶ)」と呼ばれ、転じて「ちば」になった」とする説があります。
最初、この話を聞いた時に、「茅(ちがや)が生い茂る土地=茅生(ちぶ)→千葉(ちば)」と回りくどいことを言わなくても、「茅(ちがや)が生い茂る土地=茅場(ちば)→千葉(ちば)」でいいと思ったのですが、想像するに、古文書等に「茅生」は出てきても「茅場」は出てこないのでしょう。
茅が生えている土地は「茅場」ではなく「茅生」「茅原」、菅が生えている土地は「菅場」ではなく「菅生」「菅原」。丹が産出する土地も「丹場」ではなく、「丹生」でしょうね。
「場」は多目的広場というか、何もない、草も生えていないまっさらなスペースで、そこに祭壇を作れば祭祀場になるし、踊れば踊場になるのでしょう。

[11336] Re[11335][11333]: 遠江国磐田郡の式内社  PONTA [Url] 2013/02/20(Wed) 14:56 [Reply]
> http://www.genbu.net/tisiki/bunken.htm
ありがとうございました。勉強します。

> ご指摘ありがとう。文中で > が抜けていました。
>が抜けているのと、生雷命神社が記載されていないのと、どう関係するのですか?

> アクセス禁止 アダルト/成人向けとでて表示できません。
たいしたサイトではないので見ていただかなくても結構ですけど、神社やお城の話ってアダルトなんですね。

> 場の字、面白いですね。『和名抄』では、国・郡・郷の名前には一切使われていません。大発見です。
大発見ですか??? どういたしまして。
私が言いたいのは、「漢字ではなく、仮名で考えよう」です。『倭名類聚抄』の国名だけ見ても「いなば」「たんば」があります。「因幡」「丹波」は当て字ですので、正字は「稲場」「丹場」の可能性があります。少なくとも、国名を考える時に頭の中に「米の国」「丹が産出する国」というイメージがあったかなと。
ただ、前にも書きましたが、「ばしょ(場所)」の古語は「ば(場)」ではなく、「な」「と」「が」(処)かもです。この点はまだ研究途中なので、結論が出てから書き込んだ方が、あなたに誤解されかったことでしょうね。(書き方も悪かったのかな。)
ちなみに、漢字の「場」の字義は「意符の土(つち)と、音符の昜(とりはらう意=除)とから成る。邪魔ものを取り払って平坦にした地面の意。ひいて場所の意を表わすという。」だそうです。
http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-30.html

あと、国名は中国風に1字であったのを『風土記』編纂時に2字に変えた国もありますので、要注意ですね。

[11335] Re[11333]: 遠江国磐田郡の式内社  神奈備 2013/02/20(Wed) 09:09 [Reply]
> 現在、遠江国磐田郡の式内社を調査中です。
> http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-249.html
> 参考になる書籍、サイトなどご存知でしたら、ご教示下さると嬉しいです。

http://www.genbu.net/tisiki/bunken.htm

> なお、貴サイト
> http://kamnavi.jp/en/toomi.htm
> に生雷命神社が記載されていないのはどういう意味ですか? ご教示下さると嬉しいです。

ご指摘ありがとう。文中で > が抜けていました。

なお、貴HPのアドレス http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/
については、小生のPCの場合、アクセス禁止 アダルト/成人向けとでて表示できません。成人を通り過ぎた人間ですが・・・

場の字、面白いですね。『和名抄』では、国・郡・郷の名前には一切使われていません。大発見です。



[11334] Re[11332][11331][11330][11326]: イナバの白うさぎ神話  PONTA [Url] 2013/02/19(Tue) 22:11 [Reply]
>とうてい国ではなく、狭い所との認識のようです。

千葉県の「ちば」の語源は「多くの葉」説が有力ですが、「〜場」かも。
地名の「地場(ちば)」は「大きな神社または寺院がある場所」という意味だそうです。
先日、千葉県の方が、浜名湖に遊びに来て、湖畔に「大知波」(おおちば)という地名があるのを知って、面白がっていました。「落葉」「落波」という表記もありますが、江戸時代には大知波村と小知波村があったわけで、PONTAでは「知波」であり、これは「しるは」の当て字だと考えています。『万葉集』に「等倍多保美 志留波乃伊宗」(遠江しるはの磯)が登場して、万葉学者は「しるは」を「白羽」としていますが、「白羽」を「しるは」とは読めないかと。

[11333] 遠江国磐田郡の式内社  PONTA [Url] 2013/02/19(Tue) 21:50 [Reply]
現在、遠江国磐田郡の式内社を調査中です。
http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-249.html
参考になる書籍、サイトなどご存知でしたら、ご教示下さると嬉しいです。
春休みが終わるまでにはまとめたいので。

なお、貴サイト
http://kamnavi.jp/en/toomi.htm
に生雷命神社が記載されていないのはどういう意味ですか? ご教示下さると嬉しいです。

[11332] Re[11331][11330][11326]: イナバの白うさぎ神話  PONTA [Url] 2013/02/19(Tue) 21:35 [Reply]
個人的に気になっているのは「場(ば)」と「処(な、と)」の違いです。

>とうてい国ではなく、狭い所との認識のようです。

これは全く気にしていません。
たとえば、駿河国の語源は、駿河=急流=富士川であり、静岡県の語源は賤機山なわけで、山や川や狭い地域を指す地名が国名になりうるからです。

[11331] Re[11330][11326]: イナバの白うさぎ神話  神奈備 2013/02/19(Tue) 21:19 [Reply]
 『日本書紀』の中で「場」が幾つか使われていますが、広い土地を表しているものは、継体天皇六年に任那四県の割譲の件で、
「今賜百濟合爲同國。固存之策無以過此。然縱賜合國。後世猶危。况爲異場幾年能守。」
現代語訳 百済に与えて百済国とすれば保全の為にもこれに過ぐるものはない。しかし百済と合併しても、後世なお危ないと思われます。まして百済と切り離しておけば、何年ももたないと思います。この場は百済の一部(境)を示しているようです。

 残りの「場」の使い方は、「橿場」戦場、「疆場」辺境、「設壇場」たかみくら などで、とうてい国ではなく、狭い所との認識のようです。

[11330] Re[11326]: イナバの白うさぎ神話  PONTA [Url] 2013/02/19(Tue) 00:54 [Reply]
>イナバは稲羽

個人的には、
「イナバ」は「稲羽」ではなく「稲場」で稲作地帯
「タンバ」は「丹波」ではなく「丹場」で丹生鉱山
だと今のところは思ってます。

[11329] Re[11326]: イナバの白うさぎ神話  PONTA [Url] 2013/02/19(Tue) 00:48 [Reply]
>宇佐は兎狭とも呼ばれた?

首都には全国から人が集まってきて住み、母国の名を地名にしたとか。
たとえば、奈良でいえば、三輪山の北に「出雲」があります。
(出雲国の人が移住してきたとも、逆にここの人々が山陰に行って出雲国を建国したとも。)

奈良が首都になる前は、北九州に首都があり、「宇佐」は「総」(後の上総国・下総国)と聞いたことがあります。

[11328] Re[11327][11326]: イナバの白うさぎ神話  神奈備 2013/02/17(Sun) 14:47 [Reply]
とみたさん、面白いテーマありがとうございます。

 対馬の鴨居瀬や鶏知に鎮座している古い住吉神社の祭神は、彦波瀲武鵜鵜草葺不合命と豊玉姫命になっています。『神功紀』に記されている、「海藻のように若々しく生命に充ちている神」に符合します。この神が安曇連の祀る三小童神と兄弟神として三筒男命とされたのでしょう。安曇は磯良が本源の神だった。

 『肥前国風土記』によりますと、耳の名を持つ土蜘蛛が住んでいた五島列島(値嘉島)に安曇連百足が派遣されています。この島の白水郎は馬や牛を持っていて容貌は隼人似ているとあり、安曇と隼人の近さを思わせます。

 同じ、『肥前国風土記』に宗像の郡の人珂是古が姫社の神を祀る話が出てきます。物部の阿遅古連公(水間君等祖)と同じ人物とされています。(『風土記』吉野祐注)物部氏も阿刀氏や跡部氏など海人族でもあり、『先代旧事本紀』によりますと、尾張や丹後の海部氏とも同族となっており、その祖神が火明命となっています。この名も南九州に由縁を感じます。

 南九州に上陸した人々は海を越えてきた人々です。海人族でしょう。彼らが日本列島に順々に入植していって、沢山の海人の痕跡を残していったのかも。

[11327] Re[11326]: イナバの白うさぎ神話  とみた 2013/02/16(Sat) 12:42 [Reply]
>出雲神宮と出雲大社の神前での拍手は四拍手で特異らしい。

上はミスです。正しくは、宇佐神宮と出雲大社の神前での拍手は四拍手で特異らしい。

この事実は論文には書かれてありましたが、私は未確認です。

いつからの流儀かも確かめておりませんので、正否について論評がありましたらお教え

願います。

[11326] イナバの白うさぎ神話  とみた 2013/02/16(Sat) 12:28 [Reply]
鳥取大学地域学部のpdf論文に目が止まった。未だ究められた論文のレベルまで達してないが、なんとなく面白そう。
うさぎがウサ族でわにがワニ族で部族対立があった。うさ族は九州の宇佐族でワニ族は若狭ー畿内の和邇。
宇佐は日本書紀で、葦原中国の宇佐嶋に降り居ましむ。今、海の北の道の中に座す。つまり沖の島の宗像神の地が候補地。

或いは、大分県宇佐市の宇佐神宮の宇佐も候補地。

私は秦氏は沖の島にも宇佐神宮にも関係があると思っていますが・・・宇佐は兎狭とも呼ばれた?

伯耆の米子には宗形神社があり宗像三神が祀られていて出雲における古代の九州勢力と繋がりが深い。出雲神宮と出雲大社の神前での拍手は四拍手で特異らしい。

イナバは稲羽これは何を意味するか羽はウサギなら一羽二羽と数える。
秦氏は餅が鳥となって飛んでいったなどの伝承をもつ、稲荷にも関わる。因幡の幡は秦氏の刻印でもある。

イナバには印波もあるし、少しこれらは怪しそうな説。
宗像海人の性格がよくわかりませんね。安曇海人と同一か違うのか。

宗像三神は宗像氏が祀り、安曇族の磯良は豊玉姫の子で綿積見三神を祀る。秦氏縁の松尾神社には宗像神の市杵島姫(宗像大社辺津島に祀る神)を祀る。

住吉大社の本殿は東から西に三棟並んで建っています。
これはオリオン座の三ツ星をあらわしているとのこと。
三つ星は地球の赤道に沿って巡行しているので、水平線或いは地平線の
上に現れるとき、真東から一直線に縦に並んで出て来るのだそうです。
沈むときは横になって真西に沈む。
従って東西の標にもなりますし、時間的をも測定できるという
航行上欠かせないふたつの重要な目印になっている。
それを祀った住吉さんが海の神として重要な神社である。これはどの海人が祀るのでしょう。住吉さん、安曇さん、宗像さん、隼人さん、海部(尾張)さん

海の民はいろいろあるけれどどんな関係でしょうね。
地域による違いか、時代による違いか、職能(素潜り、交易、航海)による違いか





[11325] 待っているのは遊女  神奈備 2013/02/05(Tue) 20:04 [Reply]
万葉集 巻一
0394 標(しめ)結ひて我が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後も我が松

意味(中西進氏) しるしを結んで我が物ときめておいた住吉の浜の小松は成人の後も渡しの松だ。待っていよう。 注 小松は少女の比喩。松に待つをかける。

神奈備の理解
 要するに港である住吉には遊女がいて、旅に出る前に一夜をともにしたが、旅から帰った時には大人の女性になっているだろうが、やはり私の女だ。待っているだろう。

 松は「待つ」の比喩で、待っているのは遊女ということになります。

さて、悲劇の皇子の有間皇子の有名な歌。
0141 磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む

意味(中西進氏) 磐代の浜松の枝を結びあわせて無事を祈るが、もし命あって帰路に通ることがあれば、また見られるだろう。

神奈備の理解 連行されている途中で磐代に泊まった際、添い寝した遊女とは、また帰りの時にも添い寝できるだろうか。


658年 11月9日に有間皇子は西牟婁の湯に連行され、中大兄皇子の尋問を受けた。白浜温泉です。この時、皇子は「天與赤兄知。吾全不知」と答えました。
2日後の11月11日に、藤白坂で絞首されたことになっています。海南市ですが、直線距離で80km、熊野古道ベースでどうでしょうか、倍の160kmとしますと、40時間で時速4km。

従って、皇子の古墳は御坊市の岩内古墳と言われています。ここですと、ゆっくりはできませんが、磐代で休憩はできそうです。この世のお別れに遊女と巡り会えていればいいですね。

[11324] Re[11323][11322]: BS自然の中の神々  神奈備 2013/02/03(Sun) 09:26 [Reply]
KAGさん、懐かしいお話、ありがとうございます。

あの頃は、何故か、取り憑かれるように、みんなで八ツ岩探しでしたね。KAGさんがあの騒動に火をつけて、みんなKAGさんのペースに巻き込まれていました。KOKOROさんの歩いた跡の薮を切り開いた跡を見つけたり、ななかまどさんのお車が狭い山道をものともせずに進んでいく勇気に支えられました。

また、道端に置かれていた祭祀用の道具、地元の方々は気の遠くなるような昔から、八ツ岩を祀っていたのを発見できました。今日はたどり着けるとの確信が得られた一瞬でした。

八ツ岩の説明
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/hinotani.htm

KAGさんのニカラグアからの無事なご帰還を祈りつつ、名前の出た方々への感謝とご健康を祈念いたします。

ありがとうございました。


[11323] Re[11322]: BS自然の中の神々  大三元 [Url] 2013/02/03(Sun) 08:54 [Reply]
KAGさん、朗報、おめでとうございます、、、って云うのかな。

> きたる2月28日に「BSジャパン GRACE of JAPAN 〜自然の中の神々〜」で、(私の崇敬奉る)
> 石上神宮 布留の社 が、放映される予定だそうです。その中で、
> 「八つ岩」様の写真が放送されるかもしれませんので、念の為に撮影者の私へ、
> ご確認を下さったというわけです。

お書きになっていたことをもとに神奈備ログを見てみましたら12年前のハナシなんですね。KOKOROさんと云い、KAGさんと云い、アドヴェチャーでしたね、今更ながらに好奇心の強さ、実行力の高さに「凄い!」と申し上げます。

[11322] BS自然の中の神々  KAG 2013/02/02(Sat) 01:22 [Reply]
かろうじて・・・・正月を故郷で過ごすことができました。ありがたく感謝いたします。

今回、アフリカから生きて還ることの適わなかった方々たちに深い実感をもって、ご冥福を祈ります。

かくいう自分も今また、再び中米ニカラグアへ向かう途上です。「防人の詩」という曲が頭の中でリフレインしながら・・・。



さて、わが『JNG』(布留の社)様からご連絡を頂きました。かつて私が奉納いたしました
「八つ岩」様の写真を放映してもよろしいかと・・・。

きたる2月28日に「BSジャパン GRACE of JAPAN 〜自然の中の神々〜」で、(私の崇敬奉る)
石上神宮 布留の社 が、放映される予定だそうです。その中で、
「八つ岩」様の写真が放送されるかもしれませんので、念の為に撮影者の私へ、
ご確認を下さったというわけです。

神奈備先生を始め、大勢の方々のご支援を受けて、足掛け3年ののちやっと拝観できた「八つ岩」様ですので、私個人の撮影著作権など、考えてもいませんでした。多くの皆様にご観覧頂ければ幸いです。

このたびのご確認には、喜んでお応え致しました。番組の構成上、どのようにカットされるかわかりませんが、一瞬でも放映されれば、嬉しいですね。

BSジャパン GRACE of JAPAN 〜自然の中の神々〜
http://www.bs-j.co.jp/graceofjapan/


この「八つ岩」伝説を巡る実地研究は、本当に大勢の皆様のご支援の賜物です。
いつ頃の話ですかね・・・・、たしか、
日の谷に登る前日の夜、愛子様ご誕生のニュースがあったように覚えています。

 まず神奈備先生、何度も度重なる空振り・無駄足の登山を繰り返して、ごめんなさい。でも先生がいらっしゃらなければ、最後まで諦めずに見つけきることは出来ませんでした。

 ZOUさん、与乃登さん、ななかまどさん、小雪さん、心強いご同行をありがとうございました。やはり、現実のスピリチュアル・パワーには敬服しました。

 KOKOROさん、地縛霊の巣窟と恐れられた日の谷の徘徊も今ふりかえれば懐かしいです。あんなに身の回りに白いモノがまとわりついていた写真も、まず、あのときだけです。

 今は亡き紋次郎こと故・生田淳一郎先生、そして泊瀬女様と玄松子先生も、アドバイスとご声援に、いつも背中を押される思いでした。
 時々のマルヤさん、福島先生や大三元様からのコメントも有り難く思いだします。
 MADOKA様! 今の職場事務所からは近いはずなのですが・・・日本に居なくてすみません。

 滝本町(桃尾(百緒)の滝)、長滝町の皆様にも本当にお世話になりました。お茶を頂いたり、貴重な資料を提示頂いたり、車で案内までして頂いたり・・・・、お名前は控えさせて頂きますが、お礼もできないまま何年も過ぎてしまい申し訳ありません。
 「八つ岩」様は、今も布留川流域に生活される皆様のご崇敬により信仰が堅持されています。日本の伝統的生活スタイル、うらやましいばかりです。

 ぐうたらで似非氏子に過ぎない私でも、それにもかかわらず、いつも温かく迎えて頂きます
 宮司様、禰宜様に厚く御礼申し上げます。私が何年も不通でも、見捨てることなく、変わらず見守って下さっています。


ただ1枚の写真でも、多くの方々との出会いとご助力を頂きまして撮影できたのですね!

きっかけは、出雲健神社拝殿の説明の1行「日の谷の山中に降臨」のみ。どこにあるかわからない磐座を探しはじめたのは、偶然に迷いこんだ山中の雨乞い池からの「遭難」でした。(天理警察さま、救出ありがとうございます)

今思えば・・・実は、
神奈備先生こそ「和製インディ・ジョーンズ」だったのです。

 
帰国後は、また新たな(やっかいかも)テーマが・・・しかも大阪人の目の前にある。ぶつけますので、よろしくお願いします。

[11321] 『松原右樹遺稿 熊野の神々の風景』刊行要領  神奈備 2013/01/30(Wed) 17:28 [Reply]
『松原右樹遺稿 熊野の神々の風景』刊行要領


本書の刊行については、「松原右樹先生遺稿刊行会」を編集・発行元とし、賛同者の醵金で一部を支弁する自費出版されました。

体裁は、A5判・縦書き・本文三二〇頁、口絵カラー写真八頁
です。

主な内容は、松原先生の遺稿(「熊野のケガレ」「本宮に降臨する三枚の月」「ゴトビキ岩の秘儀―新宮」「那智ノ滝の妖しい魅力」「熊野三山・神々の原像」の五章構成)、岩橋昭・生駒崇宣両氏執筆の追悼文、令室松原美智子さまの文を掲載しています。

【呼び掛け人】代表 岩橋昭 (関西外国語大学特任教授) 他

醵金は、おひとり千円といたします。
醵金いただいた方には、完成本を一部お渡しいたします。
二部以上をご希望の方は、一部につき千円を申し受けます。
恐縮ですが、醵金は前払いとさせていただきます。ご賛同いただける場合は、左記の郵便振替口座にお振込みください。
備考欄に、お名前(ふりがなも)・ご住所・電話番号、お持ちでしたらEメール・アドレスも明記ください。刊行時期昨年十一月。

郵便振替口座 【口座記号・番号】
00950―2―144920
【加入者名】中井勤子

お知らせ頂いたのは島崎英夫様 大阪教育大学 教職教育研究センター
です。

[11320] 道成寺と藤原宮子 3  神奈備 2013/01/27(Sun) 08:35 [Reply]
宮子の蛇神性

宮子は髪長比売と称されていました。肥長比売と同様に、本性は蛇神でしょう。
首皇子を生んだ後、37年間の籠もりに入りました。出産後の蛇神への変身と見なすことができます。母の籠もりにより、首皇子は、親離れが出来なかったのです。宮子と言う蛇にくわえられるように呑み込まれたままであった。

『今昔物語』には、聖武天皇が一夜会いたまえる女に金(こがね)千両賜いしを、女死に臨み遺言して墓に埋めしめた妄執で、「蛇となって苦を受け金を守る」ところを吉備大臣、かの霊に逢いて仔細を知り、掘り得た金で追善したので、蛇身から兜率天へ鞍替したちゅう話。
蛇が宝物を守る話はイラン等にもあります。

 蛇神である大物主に守られた皇室が、藤原氏にからみつかれ、その蛇神性がエスカレートした状態が生じているように見えます。    終


[11319] 続き  PONTA [Url] 2013/01/27(Sun) 02:01 [Reply]
(途中で切れちゃいました)これは、事代主命のことでしょう。

[11318] Re[11314]: 三角波  PONTA [Url] 2013/01/27(Sun) 02:00 [Reply]
> 「倭の青垣」とは、倭の国の周囲を取り巻いている山々を青垣に例えたものです。
> 「青柴垣」とは、青い葉のついている柴で両サイドを垣のようにしたものと思われます。『紀』では、垣を籬としておいます。神霊の収まる場所。青柴垣を呪術的に波の上に作り出してその中へ隠れたと云うことになります。

『日本書紀』には「海の上に青柴垣を作り」とあり、「その中へ」ということは、長方形の2辺(「両サイド」)ではなく、4辺(周囲)でしょう。
「青垣」の例を示せば、「倭の青垣」でしょうけど、「青柴垣」と書いてあるので、「柴」に注目したいところです。
「柴」に注目すると、諏訪大社(下社)のお舟祭りの柴舟が思い浮かびます。
柴舟には、翁と媼が乗ることから、建御名方命夫妻と考えられていますが、
「下社」ですから、古くは翁

[11317] 道成寺と藤原宮子 2  神奈備 2013/01/26(Sat) 14:42 [Reply]
『続日本紀』にあるように、宮子は不比等、賀茂比売の御子か?

文武天皇が宮子の誕生地とされる日高に道成寺の建立を勅しています。。何も関係がなければ、この地に勅願寺を造らせることは考えられません。そう言う意味では日高は「火のない所」と思われます。従って、宮子は不比等・賀茂比売の子ではないでしょう。
また不比等の子であれば、後の光明子のような扱い(皇后)を受けてもいいですよね。

神奈備の説
 子は母のもとで育てられるのが普通。母の家は貴族なみの名家であったはずと思われます。
6世紀、中臣黒田は鹿島から河内に進出してきました。畿内での足がかりを得るために、塩屋連と手をを結んだのです。即ち、塩屋牟漏連都夫羅古娘を妻としました。牟漏と見えるので紀伊国の塩屋氏の出でしょう。ここで生まれた常磐が中臣連姓初代とされます。
(卜部氏は鹿島にいた。剣豪塚原卜伝は鹿島の人である。)

 この塩屋連の末裔が有間皇子の側近であり、また宮子の実家ではなかったろうか。おりしも文武天皇の妃にふさわしい娘を持たなかった藤原不比等が宮子を養女として入内させたのではないか。髪が長い美人だとしても、藤原氏と全く無関係な漁師の娘を養女にする筈がない。

 紀伊塩屋は藤原氏の実家筋であったのが、養女とした大きい理由でしょう。

[11316] 道成寺と藤原宮子 1  神奈備 2013/01/26(Sat) 08:41 [Reply]
年表
679 天武8 宮子誕生 『続日本紀』藤原不比等と賀茂朝臣比売の間に出来た娘とする。
697 持統11 宮子、文武天皇の夫人となる。石川刀子娘・紀竃門娘は格下の嬪。
701 大宝元 宮子、首皇子(後の聖武天皇)を生む。
  宮子、37年の籠もりに入る。 首皇子の養母として氷高内親王(元正天皇)を指名。
  文武天皇紀伊国牟婁の湯に幸す。(この時道成寺建立を勅したのではないか)
705 慶雲2 この頃道成寺建立
707 慶雲4 文武天皇逝去、元明天皇即位。
710 和銅3 平城京遷都
713 和銅6 石川刀子娘・紀竃門娘に嬪を名のらせないこととする。首皇子を後継者にするため。
714 和銅7 首皇子 立太子
715 霊亀元 元正天皇即位(首皇太子の母として即位、宮子は皇族の出ではないから)
720 養老4 藤原不比等死去
724 神亀元 聖武天皇即位。 国母宮子は皇太夫人
  聖武天皇紀伊明光浦(和歌浦)に行幸。玉津島頓宮に10日滞在。
729 天平元 長屋王の変
  宮子、僧玄ムを見て開晤す。聖武と相見ゆ。 海中の観音仏を拾う
749 天平勝宝元 宮子、東大寺へ行啓。
752 天平勝宝4 宮子、大仏開眼会への行啓
754 天平勝宝6 宮子崩御

宮子の誕生伝承
@ 父を早鷹、母を渚と言う海人の娘。髪がはえなかったが海中から観音像をえてから髪がはえ、後に髪長姫と呼ばれた。髪の長いのは美人の象徴。長い髪が天皇の目にとまり、不比等の養女として宮廷に迎えられた。伝承が八幡神社に残る。

A 貴人の忍海氏重勝が流浪して来て、この地の海人の娘を娶り、その子とする。

地元の普通の漁師の娘が或程度の期間に、にわか教育を受けて宮廷にあがれるものだろうか。

[11315] Re[11314]: 三角波  大三元 [Url] 2013/01/23(Wed) 20:09 [Reply]
念のため「三角波」をWikiから抄出しておきます:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E6%B3%A2
船乗りからは大変恐れられている波である。船が下から繰り返し短い周期で突き上げられ揺れ幅がみるみる大きくなったり、あるいは予測不能なタイミングで突発的に突き上げられるようなかたちになり、突然安定を失い沈没させられ・・・

つまり事代主は三角波による沈没で亡くなったのか(ワニになった、という点で稲飯命との共通性?)、その三角波を事代主自身が発生させたとでも考えるのか、ワニと三角波=兎が跳ぶ、つまりワニとウサギの対立を垣間見ることが出来るのか、、、
 そんなあたりを もとほりつつ あります。



[11314] 三角波  神奈備 2013/01/23(Wed) 17:03 [Reply]
 大国主神の国作りの際に、少名毘古那神の替わりに来た神を、倭の青垣の東の山の上に祀ったのですが、その神は御諸山の上に坐す神です。

 「倭の青垣」とは、倭の国の周囲を取り巻いている山々を青垣に例えたものです。
 「青柴垣」とは、青い葉のついている柴で両サイドを垣のようにしたものと思われます。『紀』では、垣を籬としておいます。神霊の収まる場所。青柴垣を呪術的に波の上に作り出してその中へ隠れたと云うことになります。

 柴に三角波の意味があるとしますと、波を垣に変えたと云う程度のことしか出てこないということでしょう。

 それにしても日本海側の神話では兎と波(海)とは関わりがあるのは、同じ音と云うことがあるのでしょうね。

[11313] Re[11312][11310][11309][11308][11307][11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  神奈備 2013/01/22(Tue) 20:08 [Reply]
> 「柴」をアイヌ語では kaykuma と云い、この語は 三角波 をも云う(隠語)ことに着目していますが、

甲斐駒ヶ岳は見事な三角形の山です。

[11312] Re[11310][11309][11308][11307][11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  大三元 [Url] 2013/01/22(Tue) 10:32 [Reply]
神奈備さん

>  柴をフシと訓むのは、『紀』では「府爾」の表記で、鳥兜の草名を意味するそうです。

「附子(ぶし、ぶす)」は漢語だと思いますが神話の解釈に使うのはどうでしょうか。

直接的な関係はありませんが、調査途中で面白い資料を見つけましたのでご紹介しておきます。「草木名初見リスト」というものです。http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&ved=0CD4QFjAC&url=http%3A%2F%2Fkoara.lib.keio.ac.jp%2Fxoonips%2Fmodules%2Fxoonips%2Fdownload.php%3Ffile_id%3D25216&ei=vOf9UITmH4vFmQWhv4GACw&usg=AFQjCNGHMDvpMikz7jr6XrLs9rjtJygEXQ&sig2=c8Hs9hSFGifVOhJkLVd05w&bvm=bv.41248874,d.dGY&cad=rja
 これによると「トリカブト」の初見が1666年となってます。「ぶし、ぶす」は出てこない(漢語だから?)。今話題にしている「ふし」も出てこない;それは「草木名」ではない(各種の枯木)からか。

「柴」をアイヌ語では kaykuma と云い、この語は 三角波 をも云う(隠語)ことに着目していますが、それ以上の論証、発展がなく、お蔵入り状態です。また、三角波のことはアイヌ語で「兎が跳ぶ」という表現をしますが、日本サイドでも同様であることにも興味がひかれます。

http://dai3gen.net/isesima.htm

[11311] Re[11310][11309][11308][11307][11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  PONTA [Url] 2013/01/21(Mon) 19:18 [Reply]
>トリカブトの木々
トリカブトだと「柴」「木」というより「草」って感じですね。

『日本書紀』には「天逆手」は出てきませんね。
「国譲り」に反対した神として、建御名方命ではなく、香香背男が登場するし。

そもそも「国譲り」といっても、大国主命に日本を譲ってもらった天津神は九州でちょっと活躍(?)するだけですよね?
本当の「国譲り」は、神武天皇と奈良盆地の住民(事代主命=一言主命と建御名方命=長髄彦)の話なのかな?

って青草でする話ですね。

http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-210.html

[11310] Re[11309][11308][11307][11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  神奈備 2013/01/21(Mon) 08:56 [Reply]
> 常緑樹で「青垣」を作ればいいのに、柴で「青柴垣」を作り、『古事記』にはわざわざ「柴はふしと読む」と注があります。「不死」でなければいけないのか?
> 不死を願う一方で、柴に依る柴神は、不慮の事故で無くなった人が悪霊となって現世に戻り、現世の人達を苦しめるのを防ぐ神ですから、この世に戻ってきては困るらしい。

 柴をフシと訓むのは、『紀』では「府爾」の表記で、鳥兜の草名を意味するそうです。トリカブトによる自殺なのか、トリカブトの木々に埋もれていると遺体の損傷腐敗の進行を遅くできるようです。
 それにしましても柴の訓のフシは現在には使われず、シバ、フサ・グ、マツ・リなどです。
 また、印度のシヴァ神につながっているのかも。

[11309] Re[11308][11307][11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  PONTA [Url] 2013/01/20(Sun) 20:38 [Reply]
>「柴」は「ふし」と読み、「不死」につながります。

常緑樹で「青垣」を作ればいいのに、柴で「青柴垣」を作り、『古事記』にはわざわざ「柴はふしと読む」と注があります。「不死」でなければいけないのか?
不死を願う一方で、柴に依る柴神は、不慮の事故で無くなった人が悪霊となって現世に戻り、現世の人達を苦しめるのを防ぐ神ですから、この世に戻ってきては困るらしい。

[11308] Re[11307][11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  PONTA [Url] 2013/01/20(Sun) 17:40 [Reply]
『美保神社略記』に「海中に青柴垣をお作りになり、天逆手を拍っておこもりになり」とありますが、「海に青柴垣が出来た」「その中に隠れた」を「船の周囲を青柴で飾り、その中央にご遺体を置いた」と考えると、死因は「入水自殺」かもしれませんが、葬儀は「船葬」と思われます。

「常世の国」を『広辞苑』では
@古代日本民族が、はるか海の彼方にあると想定した国。常の国。
A不老長寿の国。仙郷。蓬莱山。
B死人の国。よみのくに。よみじ。黄泉。(古事記伝)
としています。死人の国が海の彼方にあるのなら、船に乗せて、そこに流してあげようという発想? うまくすれば、不老長寿の国にたどり着いて生き返る? 「柴」は「ふし」と読み、「不死」につながります。


[11307] Re[11306][11305][11304][11301][11299]: 逆手  神奈備 2013/01/20(Sun) 08:59 [Reply]
> 「えびす神」には「蛭子系」と「事代主命系」がありますが、両神共に船葬!!!

面白い!
 原日本人は列島各地にやって来たのは、舟に乗って来たのです。それゆえ祭の開始時に舟を漕ぐまねをすることがあるのです。

 亡くなった際に霊魂が旅立つのも舟に乗って行くとの共同幻想がありました。これは日本だけでなくエジプトのピラミッドの側から舟が掘り出されるのも同様な幻想からでしょう。
 
 古墳の中の絵にも霊魂を舟に乗せているのがありますね。太陽の舟と同じ概念でしょう。

 昔の出雲国造さんの葬儀は遺体を宍道湖に沈めたそうですが、簡単な舟のようなものに乗せて出したのかもしれません。おっしゃるように、「船葬」と言えますね。

[11306] Re[11305][11304][11301][11299]: 逆手  PONTA [Url] 2013/01/20(Sun) 00:02 [Reply]
今、PONTAのブログに、「蛭子は船葬」とコメントを入れて下さった方がおられました。

「えびす神」には「蛭子系」と「事代主命系」がありますが、両神共に船葬!!!

[11305] Re[11304][11301][11299]: 逆手  PONTA [Url] 2013/01/19(Sat) 19:48 [Reply]
> 船の名前説は興味津々ですね。

ありがとうございます。さらに言えば、船を左右に揺らしたのは、船を転覆させるためではなく、跳躍を繰り返すシャーマンのような「神がかり」動作と思われます。その後、船に寝て、船を棺桶に見立てて、花ではなく青柴で飾り(=船を青柴垣に変え)、「船葬」が行われたのでしょう。

皇族の入棺を「御舟入りの儀(おふねいりのぎ)」と言います。これは、「棺」と言いたくなくて、似た形の「船」と言った「忌み言葉」(植物の「アシ(葦)」を「ヨシ」と言い換えるようなもの)で、古代日本で船葬が行われていた証拠にはなりませんが。


[11304] Re[11301][11299]: 逆手  神奈備 2013/01/19(Sat) 13:22 [Reply]
> 「天の逆手」は船の名前では?

『古事記』の注釈
角川文庫 手を下方に向けて打つ
岩波文庫 逆手を打つのは呪術で、船を青柴垣に変えてとあります。

船の名前説は興味津々ですね。
古事記の文章「即踏傾其船而 天逆手矣 於青柴垣 打成而蔭也。」
からは、其船のところに天逆手が来ていれば説得力が増す様に思いますが・・・


[11303] Re[11302]: 野田昌夫氏の「ワニ考」  琉球松 2013/01/19(Sat) 12:46 [Reply]
 神奈備さん

 野田昌夫氏の「ワニ考」のアップ、ありがとうございます。
 谷川健一さんの『青銅の神の足跡』とも合わせて考えると、色んな事が見えてきそうです。

[11302] 野田昌夫氏の「ワニ考」  神奈備 2013/01/19(Sat) 09:35 [Reply]
奈良県の和爾下神社の項に畏兄の野田昌夫氏の「ワニ考」をアップしました。古代のワニについての決定的な統一理論です。ご一読ください。

http://kamnavi.jp/as/yamanobe/wanisita.htm

[11301] Re[11299]: 逆手  PONTA [Url] 2013/01/19(Sat) 05:51 [Reply]
> 事代主が国譲りの後、天の逆手を青柴垣に打ちして隠き。

「天の逆手」は船の名前では?
http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-207.html

[11300] 紀伊国日高郡  神奈備 2013/01/17(Thu) 20:02 [Reply]
応神天皇が和邇の宮主矢河枝比売を娶って生まれた御子が宇遅能和紀郎子、八田若郎女。
仁徳天皇の皇后石之日売が紀伊国へ御綱柏を取りに行っている隙に八田若郎女と夜昼戯れ遊びたわむれ、石之日売が怒って山代に行ってしまった。天皇は八田若郎女の御名代の八田部を定めました。
摂津の国に八部郡があり、八田部の中心地だったようです。今の神戸市西部の一部。当初は若狭から播磨・紀伊の塩生産を統括していました。奈良時代、紀伊国日高郡財部(印南)の矢田部益占が平城京に塩を送った木簡が出ています。戸主(ヘヌシ)を名のっていますから、立場は村長さん程度。

製塩では紀の国には海部郡と日高郡に塩屋と言う地名があります。『新選姓氏録』の河内皇別条に葛城曽都毘古命の後の塩屋連の名が見えますが、この名族の末裔が日高郡(御坊市)に住んでいたのです。ここには熊野九十九王子社の一である塩屋王子神社が鎮座しています。この社は製塩で財をなした魚屋権兵衛が伊勢から勧請したと言われています。別名を美人王子。天照大神と天児屋根命などが祀られています。
http://kamnavi.jp/ki/nanki/sioya.htm

 さて、孝徳天皇の皇子の有間皇子が謀反を企てて藤白坂で殺されたことになっています。謀反に加担していたのが塩屋連[魚制]魚(コノシロ)です。大宮を焼き、500人の兵を牟呂湯に向かわせ、淡路の船で海上を封鎖し、牢屋を囲んだようにすれば計画は成り立つとの作戦があったようです。地元地形を熟知した塩屋連の作戦だったのでしょう。
 熊野の神兵・熊野水軍の動員なども作戦にあったのでしょう。有間皇子は熊野の花窟神社の鎮座するする有馬に関係していたのかも知れません。

[11299] 逆手  神奈備 2013/01/16(Wed) 08:31 [Reply]
事代主が国譲りの後、天の逆手を青柴垣に打ちして隠き。
『古事記』のひとつのシーンですが、これが出雲の美保神社に青柴垣神事として祭礼が行われています。4月7日。
祭りの日に参詣できると云うチャンスがあり、神社の氏子さん方に「逆手」とはどのようにするものかと質問しましたが、明確に答えた方には出会いませんでした。中には背中で拍手との答えもありました。それならば見返る姿でやれば呪いになるだろうと思いますが・・・

中西進『古代日本人心の宇宙』と云う本のなかに逆手について書いていました。
手の甲で拍手を打つ
ということとしています。ほんまやろか?


[11298] Re[11297]: 新年  神奈備 2013/01/12(Sat) 18:57 [Reply]
とみたさん、今年もよろしくお願いいたします。
> 大手術
大変でしたね。無理をせずに悠々とお過ごし下さい。

> 常陸の鹿島神宮の祭祀と卜部
剣豪の塚原卜伝さんは、卜部覚賢の子で、塚原家の養子となっています。戦国時代にも卜部が鹿島にいたことになります。

 三宅
 奈良県磯城郡三宅町(合併で桜井市三宅町)のお隣の川西町に糸井神社が鎮座しています。三宅氏が祭った神社で、綾羽呉羽の機織の神を祀ったとも伝えています。三宅氏は天日矛命の末裔で秦氏の一部だと思います。織物だけではなく製鉄や造船など、またソロバン勘定にも長けていたようで、古代王権をインテリジェンスで支えた渡来系氏族だと思います。新羅系とされており、妙見信仰にもつながると思われます。

[11297] 新年  とみた 2013/01/12(Sat) 16:51 [Reply]
神奈備さん、新年もよろしくお願い申し上げます。旧年は大手術で養生に打ちすぎこのコーナーは豪沙汰しておりました。心を癒すには古代史ロマンは最高です。ただいま塩屋、卜氏、三宅氏と妙見というおもしろい話題が賑わっておりますのでご挨拶代わりに投稿させていただきます。

(1)常陸の鹿島神宮の祭祀と卜部との関わり・・・国学院大笹生衛教授
厨台遺跡群は、鹿島神宮の北側に谷を隔てて隣接し、
『常陸国風土記』香島郡条「神の社の周匝は、卜氏の居
む所なり」の記述に対応する地点に位置する。遺跡群
内の片野地区からは8世紀代の墨書土器「鹿嶋郷長」が
出土しており、鹿島神宮の神戸集落の遺跡と考えられ
る。『常陸国風土記』は、孝徳朝における神郡の設置、
神戸の8戸から50戸への加増、天智朝における神宮の
造営を伝え35)
、7世紀中頃の祭祀組織の再編が窺える。
厨台遺跡群全体では7世紀中頃から後半にかけて竪穴
住居数が増加しており、年代が一致するため、『常陸
国風土記』が記す神戸の加増に対応すると考えられ、
これに連動して祭具の再編成が行われ新たな石製模造
品が導入された可能性が高い

(2)妙見信仰と秦氏・・・神戸女子大 植野加代子教授
日本霊異記などの分析から、秦氏は大阪府池田市域の能勢に拠点、摂津国豊島郡
秦上郷・秦下郷であろうか、能勢の山林を伐り出して猪名川の水運を利用して、運び
船材に用いた。畿内を中心に秦氏が水上交通の拠点とするところは、妙見菩薩の信仰
が多く分布している

[11296] 「三宅=妙見」?!  三宅 2013/01/11(Fri) 21:02 [Reply]
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-5.htm

「三宅」と名のつく地名及び神社には妙見信仰がつきもので代表どころでは大阪府交野市「茨田三宅(星田妙見宮)」「摂津嶋下郡三宅(井於神社)」「丹比郡依網三宅(屯倉神社)」が大阪府内では代表で全国には「三宅」と名のつく地名があるはずで新潟県長岡市のこの一帯も代表どころ。

さて屯倉は天皇直轄の貯蔵庫でその管理には古代豪族が担当していたというがそこには天帝信仰など五穀豊穣を祈願するため民衆と皇族が妙見信仰を持っていたのだろうか。それとも「天之穂日命」が天神信仰と通じて(特に土師氏)妙見信仰と習合していたのか。

[11295] Re[11294]: 中臣と藤原を読んで  神奈備 2013/01/07(Mon) 20:53 [Reply]
未来さん、面白いお話ですね。

龍蛇信仰を辰巳と見るのは新鮮でした。

 対馬卜部や壱岐卜部は後世に中臣氏の配下になって生き延びたものと思われます。従って遠祖を天児屋根命にしたり、雷大臣にしたりしたのでしょう。

[11294] 中臣と藤原を読んで  未来 2013/01/07(Mon) 10:45 [Reply]
 対馬卜部氏から出雲氏族、龍蛇信仰の物部氏が後裔として現われ、壱岐卜部氏から中臣氏が後裔として現われたのではないでしょうか。
 神話に出てくる海神の宮にいる海神、「わたつみ」と読みますが、これは十二支の動物の卯・辰・巳を示しているのであり、ウサ(卯)信仰の中臣氏と龍蛇(辰巳)信仰の物部氏の二氏族の総称でしょう。そして海神、大山ツミ神という山の神、天神という総称はまったく同じかと思います。天(空)・山(陸)・海の道案内、先導者とされる者がそれぞれ別の人物として記されているのに、実はたった一人の人間であったという感じです。
また彼らはウサギとワニとして登場していて、大変仲が良くないです。

[11293] Re[11292]: 中臣と藤原  神奈備 2013/01/07(Mon) 10:34 [Reply]
768年、三笠山に鎮座とされています。香取神宮から経津主命がやってきています。

[11292] 中臣と藤原  和歌山 2013/01/06(Sun) 13:56 [Reply]
藤原氏が中心となって勧請したのが春日大社、鹿島から武甕槌、平岡から天児屋根命、鹿島から中臣氏がついてきています。摂社若宮の神は白い蛇の姿となって出現したといわれています

[11291] 中臣と藤原  神奈備 2013/01/05(Sat) 15:33 [Reply]
 中臣氏は神界と人間界をつなぐ役割の氏族、即ち「蛇」の役割でもありました。ナーガ、トミです。
 柳田国男の『遠野物語』に、「藤蔓が蛇に見えた。」と言う話が載っています。道に横たわる蛇を追い払うのに、「藤原 藤原 退ドけなれ 去サいなれ 蛇なら打ちすえ 打ち曲げよう。」との呪文を唱えるのです。

 筒男の解釈でよく言われるのが対馬の豆酸(つつ)で豆酸の男説がありますが、当否は不明。この豆酸に式内雷神社が鎮座、祭神は雷大臣即ち中臣烏賊津臣です。対馬卜部の祖。欽明朝の時、卜部常磐が卜部氏の名を改めて中臣姓を名乗ったのです。中臣連姓初代です。『新撰姓氏録』摂津国未定雑姓「天児屋根命十四世孫雷大臣」とあり、『松尾社家系図』に、「雷大臣は中臣。大中臣。卜部。伊伎。藤原等の初祖也。」と出ており、「神功皇后御世四大夫の内随一なり。」とあります。
 即ち、中臣氏はその卜部氏の後裔であり、それが藤原氏となりました。中臣氏に藤原の姓を与えたのは、やはり意味がつながっていることになります。中臣氏・藤原氏は神祇氏族であることに加え、蛇に守られる氏族であり、それが王権にまとわりついて生き延びることになるのです。藤蔓のように。

 藤原氏の中に海人族の気配が感じられるのは、対馬の豆酸にルーツを持ち、筒男への信仰があるが故だと思われます。春日大社の本殿前の岩本神社に住吉三筒男として祀られているのはそれ故でしょう。

『万葉集 巻十五 三六九四』
 わたつみの 恐(かしこ)き道を 安けくも なく悩み来て 今だにも 凶(も)なく行かむと 壱岐(ゆき)の海人の 秀(ほ)つ手の占(うら)へを 肩焼きて 行かむとするに 夢(いめ)のごと 道の空路に 別れする君

 ・・・壱岐の海人の 巧みな占いを かた灼きに占いつつ 行こうとしているのに・・ これは対馬卜部は海人ということです。藤原氏が海人の流れをくんでいるのです。

 壱岐の原ノ辻遺跡は、弥生時代前期からの遺跡で、船着き場、環濠集落の遺構もでている。ここからシカ・イノシシの肩甲骨の卜骨が九点出土しています。海に囲まれて生活しているはずなのに、獣骨で占いをやっているのは面白いことです。大陸伝来のままだったのでしょう。古墳時代にはいると、甲卜が登場します。

[11290] Re[11289]: 謹賀新年  大三元 2013/01/02(Wed) 20:26 [Reply]
あけましておめでとうございます。

気に沿った時にしか出てきませんが、今年も宜しくお願いします。

[11289] 謹賀新年  神奈備 2013/01/01(Tue) 09:38 [Reply]
あけましておめでとうございます。

> 吉田東伍著『大日本地名辞書』
> ・・・祖を伊と訓むは後世の偽(原文では言偏)とす、古簡に祖山とありて、昔はオヤヤマと唱へし歟、もしくは祖の字を仮りて、其オヤをイヤに転じて使用せる也、即祖の一字にてイヤと訓むを古義とす。後世祖谷と書してイヤと云は偽作とす、古簡に伊屋とす、又祖山を祖谷山と書せる例なし。

大三元さん、今年もよろしくお願いいたします。

ネットによりますと、「柳田国男は“イヤ”・“オヤ”は元は祖霊のい ます地という意味を持ち、後にその意味に合った漢字を当てはめたとする説を唱えている」とあります。

同じような意味ですね。

紀州の伊太祁曽神社の祭神に「大屋毘古神」がいます。また、越後には式内名神大社の伊夜比古神社が鎮座、これらの神名も、オオヤヒコ、イヤヒコ、突き詰めれば祖ヤヒコと言えるかも知れません。祖神の男神、万国共通の神と言えるのかも。


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