神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成二十七年 一月〜十二月 2015.1〜12)お名前の敬称は省略しています。

[11849] 神屋楯姫命は高皇産霊尊のむすめ鴨脚建雷 投稿日:2015年12月29日(火)09時30分
 初めて投稿です。この内容は大変な問題を孕んでいると思うので、その筋では著名な神奈備さんの掲示板に投稿します。皆さんに揉んで頂きたく存じます。よろしくご検討下さい。

                               本文
 古史料(日本書紀・古事記・先代旧事本紀・但馬故事記・海部氏系図・新撰姓氏録、風土記)を基に、系譜照合分析を行い、次の項目を明らかにした。即ち、
T宗像三女神は高皇産霊命のむすめである。
1先ず、次の手順で、神屋楯比売は高皇産霊命(高木神)の女むすめであることが明らかになる。
 「新撰姓氏録」(右京神別編)に「伊與部は、高媚牟須比命三世孫、天辞代主命の後なり」とあ り、これは「事代主命(天辞代主命)が高御皇産霊命(高媚牟須比命)の三世孫である」と示す。  「古事記(大国主の神裔譜)」には、「神屋楯比売を娶りて生める子は事代主神」とあり、事代主 命は、大國主神を父、神屋楯比売を母として生まれた事を明らかにしているが、大国主命 は高御皇産霊命の子ではないことは明かなので、高御皇産霊命と事代主命との血縁関係の 接点は母・神屋楯比売にある。この神屋楯比売の親については記紀に明記が無く、これまで 不詳とされてきた。
2一方、「海部氏勘注系図」は、多岐津姫命は神屋多底姫と同神だとする。確かに、古事記の云う 大国主命妃・神屋楯姫と神屋多底姫は発音が同じだから、同神と見ることが出来よう。この神 屋楯比売が高皇産霊命の女(二世)だとすれば、事代主命は高皇産霊命三世外孫ということに なり、「新撰姓氏録」(右京神別下)の記述「伊與部は高媚牟須比命三世孫の天辞代主命の後で ある」の謎は解ける。
3以上で、神屋楯比売は高皇産霊命(高木神)の女であり、宗像辺津宮女神・多岐都比売命(古事記)、高津姫神(先代旧事本紀)、多岐津姫命(神屋多底姫命とも、勘注系図)、は同神である事が判った。
4結局、事代主命は辺津宮女神の御子であり、高皇産霊命の外孫だと云うことが明らかである。
5すると、宗像三女神は高皇産霊命(高木神)の女むすめであり、別に、高皇産霊命の女・栲幡千 々姫命が天忍穂耳命妃となって2子(瓊々杵尊・饒速日命)を生んだことは既知であるので、
 この四女神は、その母は不詳ながら、高皇産霊命の女であることは明らかである。

U大己貴神・天火明命・高御皇産霊命は、高御皇産霊命の女を妃として、相互に姻戚である。
6宗像三女神の内、沖津宮女神(多紀理毘売命)と辺津宮女神(神屋楯比売命)の二女神は大己貴神 (大国主命)の妃となり、中津宮女神(市寸島比売命)は天火明命の妃となった。
 また、辺津宮女神が大国主神となした女神(天道日女命)は天火明命の妃となって、天香語山 命と天香山刀売をなした。天香語山命は、異母姉妹婚により、穂屋姫命との間に天村雲命を なす。この関係は出所資料別に示すと次の様になる。
鎮座     宗像三女神      出所                    夫君&子神
沖津宮  多紀理毘売命  出雲風土記     (夫)大国主命→(子)味耜高彦根神・高照姫
                       播磨風土記    (夫)伊和大神→(子)阿遅須岐高日子尼神
                        古事記         (夫)大国主命→(子)阿遅?高日子根神・高比売命(下照姫)
中津宮  市寸島比売命  勘注系図       (夫)天火明命→(子)穂屋姫命
辺津宮  高津姫神      先代旧事本紀   (夫)大己貴神→(子)都味歯八重事代主神・高照光媛大神
         多岐津姫命    勘注系図       (夫)大己貴神→(子)☆天道日女命(屋乎止女命・高光日女命)
         (神屋多底姫命)
         神屋楯比売命  古事記         (夫)大国主神→(子)事代主神
     ☆ 天道日女命    先代旧事本紀   (夫)天火明命→天香語山命、天香山刀売命(但馬故事記による)
 (追)   栲幡千々姫命  古事記         (夫)天忍穂耳命→(子)瓊々杵尊・饒速日命(天光明命)

7天火明命(邇芸速日命)は、高皇産霊命の一女(栲幡千々姫命)を母に、別の一女(中津宮女神・市杵嶋姫)、 及び、孫女(辺津宮女神の女・天道日女)を妃とした。この天火明命妃となった天道日女(別名:屋乎止  女命・高光日女命、海部氏系図・但馬故事記)は高照光姫大神  命(先代旧事本紀)と同神で、事代主神の   同母妹(または姉)である。

V記紀神話の孕む謎が解けつつある。
8諸々の謎が解けつつある。
 この解明結果、これまで謎とされてきた次の諸項目が理解できるようになった。
  1)事代主命が宮中八神殿に祀られている理由
   2)奈良県葛城の地に出雲神・葛城族が高皇産霊神と共に祀られている理由
  3)饒速日命の河内国天降りに高皇産霊命一族が防衛神として従った理由
3記紀神話が孕む矛盾(謎と虚偽性・創作性)が明らかだが、ここでは詳細に言及しない。
別に小文の形にもしておりますが、取り敢えず、結論のみをお伝えします。


[11848] Re: 眉唾かたばみ 投稿日:2015年12月25日(金)17時45分(火)18時09分
神奈備さんへのお返事です。

>岐神とは猿田彦神のこと。また、杖に椿を用いれば、霊力が強くなるそうです。

岐神は「生活圏の境界」の守護神と解しておけばよいと思います。
農耕と土地の固定化が登場してからであれば村落の境界と守護でもあって道祖神の登場。

猿田彦命の本質は天孫降臨の道案内と天鈿女命との結婚。
猿田彦命は後に道祖神、塞神など境界や道に関連する事象が重ねられて神格化されていった。

猿田彦命の容姿と意味において「伎楽の治道」の影響が非常に大きいと考えています。
伎楽は貴族だけではなく寺社で演じられたとき、庶民も参観できたと思います。
そして猿楽や能へ、あるいは白拍子など庶民の演芸へ。
庶民の旅が可能になったとき、猿田彦も伎楽の容姿で旅にでた・・

>椿大神社は猿田彦神を祀る式内社です

椿ツバキの語源、昔の神奈備掲示板でもやりましたね。
新井白石は厚葉木とか艶葉木なんて語呂合わせをやってる(^^;
ツバを吐いて邪を防ぐ呪術、これは世界共通のようにみえます。
椿は硬く丈夫な木で杖や護身用に使われたのでしょう(景行大王も土蜘蛛退治に椿の枝を使ったとある)。

旅人の守護でもあり、道、旅、足・・といった「身近なこと」での守護者として猿田彦命が庶民に広まった。
わらじが奉納されたりしてますが、幸か不幸かセックスの神として広まってはいないと思うけど・・ま、天狗には若干(^^;

東京の湯島天神、縁起は雄略時代の手力雄命ですが、手力雄命にお参りする人は皆無と思います。
菅原道真は庶民にとって身近で祈願する目的も明確。
文書として手力雄命が書かれていなかったら、100年のうちに置き換わると思います。
社は古を伝えると同時に今を写す。
そういう変化は大小を問わず各地に無数にあると思っています。


三足烏の最古は長江河姆渡遺跡の文様にあるとみています(二羽の鳥が太陽を運ぶ)。
太陽に住む鳥として三足烏が登場するのは漢時代のようで、漢文化の浸透で周辺諸国へも伝播(高句麗にも登場)。
日本には天之忍穂耳尊がもたらしたと考えています(BC150頃、呉楚七国の乱、長江の呉の王族の渡来とみる)。
それが天孫降臨(日向、天火明命)をへて紀州熊野に伝わった。

山陰の穀物伝承では鳥が種を運ぶイメージはあっても三足烏はないとみえます。
佐太神社などの由来の時代ではまだ登場していないからだと思います(BC500〜BC200あたり、春秋戦国〜秦)。


天孫降臨では猿田彦命が道案内をした。
神武東征説話では八咫烏が道案内をした。
なぜ猿田彦命ではないのか。
紀州熊野の最寄りに猿田彦命(神)があるならば道案内の最適は猿田彦命のはずです。

書紀編纂者の意識による、と考えています。
神武(あるいは開化)の「歴史時代」では猿田彦命の紀州での出番はない。
紀州熊野の縦断で道案内と補給を支援したのは、天火明命系譜の三足烏を持つ熊野の住人。
書紀編纂者はそのあたりの情報を持っており、その人々を八咫烏として表現したのだと考えています。

ちなみに、伊勢の語源は?
日向の五ヶ瀬川ゴカセガワ、現在はゴカセですが本来はイツセであり、これがイセに転じたと考えています。
書記で神武 36- 66の兄とされる五瀬命イツセです(AD30頃か)。
日向市の五ヶ瀬川河口に伊勢と伊勢ヶ浜の地名あり(後世に伊勢の文字で逆輸入と推定)。

参考図 天孫降臨〜神武 書きかけですけど



[11847] 眉唾神奈備 投稿日:2015年12月23日(水)20時15分
かたばみさんへのお返事です。

『日本書紀』巻一第五段一書第六 伊弉諾尊が泉津平坂で伊弉冊尊と夫婦の別れをした時、伊弉冊尊が國民を一日に千人殺すと言うと伊弉諾尊はそうであれば、私は一日千五百人産屋を建てると言い、是よりは来るなと、杖を投げると、それが岐神となりました。

 岐神とは猿田彦神のこと。また、杖に椿を用いれば、霊力が強くなるそうです。椿大神社は猿田彦神を祀る式内社です。

 椿の霊力は唾の持つ霊力によるもの。
『日本書紀』巻一第五段一書第十 伊弉諾尊は「もう縁を切ろう。」と言われた。また「おまえには負けない。」と言われた。そして吐かれた唾から生まれた神を速玉之男と言う。。次に掃きはらったて生まれた神が泉津事解之男。

 伊勢と熊野は陸からも海からも隣り合わせであり、それでも倭国の表通りと裏通りの差があり、猿田彦神と熊野の神々とは黄泉の国との境界で近いとは言え、こちら側とあちら側のように感じます。


[11846] 猿田彦命かたばみ 投稿日:2015年12月22日(火)18時09分
神奈備さんへのお返事です。

>  金の弓箭が流れてきた。お産れになった御子はこれを取って「なんと暗い窟だろう。」と言われて射通しなされた。光がカカと明るくなった。

弓を射るという神事や祭事は鬼を追い払うとか吉凶を占うといった場合だと思います。
誰かさんが丹塗りの矢に化けて誰かさんのトイレの下からつっついた(^^; てのはあるけど。

漂着神は海辺であればどこにでも登場する可能性はありますね。
佐太神社やサヒメ伝承はこれだろうと考えています。
洞窟にひそむ敵対者と戦う、これもありそう(サヒメは大穴持神の住むところを避けて穀物を播いたという)。

佐太神社の佐太御子大神は、書紀に書かれる神の中からであれば五男神三女神の熊野久須毘命と同義と考えています。
ごく単純に「熊野」から(^^;
ただし、ここには多数の環境避難民や戦争避難民の渡来を含みます。
(春秋戦国は寒冷化による農耕不振が根底にあると考える)

佐太神社の速玉男命は和歌山の熊野速玉大社の熊野速玉大神と同義。
熊野速玉大社(熊野本宮大社)の熊野夫須美大神ないし家津美御子大神は熊野久須毘命と同義。
熊野那智大社では「速玉」が消えていますが、内陸ゆえに海人系譜が消えたのでしょう。

すなわちこれらの社はみな兄弟、出雲熊野大社も海人系譜が消えているだけでやはり兄弟とみています。
おそらくは神魂神社も兄弟ではないか。

速玉男命は輸送の海人系譜(安曇氏の祖、物部氏の祖の一部)であり、熊野久須毘命は農耕の伝達者を代表する。
日御碕神社と美保神社は海人系譜の拠点でしょう(漁労の海人はエビスさん信仰へ)。
これらの社は後に出雲文化圏と天孫文化圏の抗争に巻き込まれてゆく。
島根の熊野は天穂日命渡来(漂着)で天孫系譜との関連も生じ、後に大国主命の引退先の杵築大社が登場。

和歌山の熊野は天火明命とその随伴者の拠点であり、天火明命はさらに伊勢志摩から濃尾へ展開。
こちらには遠賀川始発の農耕と九州縄文(大山祇神)が結合した文化(農耕)を持つ人々が随伴。
(持論でアマテラスと称しています、天照大神の源流)
先代舊事本紀では「物部氏の祖」の説明が主体で農耕の記述はないけれど、農耕がなければ生活できないでしょう。

孝昭105-137(九州)は尾張連遠祖の娘を妃に入れていますが、この娘は天火明命の末裔と考えています。
ホツマツタエでは瓊々杵尊と木花開耶姫の東海への到来を書きますが、書紀の記述と天火明命の混乱が源にありとみています。

愛知の朝日遺跡は後に出雲文化圏に併合されて周辺は銅鐸の生産地となる、朝日遺跡には異なる文化が混在した形跡があります。
紀州熊野は独立を維持して後の開化225-248の上陸地となる(書紀では神武東征の上陸地)。
道案内や物資補給がなければ熊野山中の縦断などできない。
その支援が紀州熊野の住人。書紀では八咫烏として登場。
八咫烏、天之忍穂耳尊−天火明命が持っていたであろう中国の三本足の烏が原型と思います。

紀州の銅鐸は東岸では新宮市の破片が南限。
完形品出土は津市まで、伊勢市以南では出雲の勢力範囲にはなっていなかったと推定。
西岸では田辺市や御坊市に銅鐸出土と高地性集落が並びます。
こちらは出雲勢力の「最重要警戒拠点」であったと思われます。
神武東征説話での日の沈む側からの上陸失敗ですね(実際には開化225-248の上陸失敗とみる)。


猿田彦命、やはり天孫降臨とはなにか、の考察が必須と思っています。
猿田の地名を「地図で見る日本地名索引」で検索すると、九州、山口、広島の瀬戸内に散在。
山陰、日本海沿岸、近畿、東海ではゼロです。
例外的に伊勢の五十鈴川に猿田彦神社、おそらくは崇神以降に運ばれたものとみています。
(これは逆に日向の五十鈴川に猿田彦命があったことの傍証になると思っています、「伊勢」も・・)

なぜか北関東から東北に多いのが面白い(ただし申田が多い)。
こちらは坂上田村麻呂の蝦夷(東北縄文+出雲)制圧とからむ可能性ありとみています。



[11845] 猿田彦命神奈備 投稿日:2015年12月18日(金)14時58分
くずさんへのお返事です。

 日本での星信仰は少ないよう見えても、社名に「星」がついている神社は地方によっては結構あります。

栃木県 163社 星宮神社など 平安末期以降か
千葉県  42社 星宮神社など
高知県  65社 星神社 など

くずさんの指摘された星々のうち、 昂星(すばる) プレアデス星団と、畢星(あめふり)アルデバラン周辺に広がるヒアデス星団は
豊田有恒著『神話の痕跡』の中で浦嶋子にかかわる星団とされています。

特に、ヒアデス星は地球から約150光年離れており、往復300年は、雄略天皇の時代から帰国した淳和天皇の時代までの300年強の時間とちょうどあうとされています。




[11844] 猿田彦命神奈備 投稿日:2015年12月17日(木)19時39分
かたばみさんへのお返事です。

佐太大神
『出雲国風土記』
 金の弓箭が流れてきた。お産れになった御子はこれを取って「なんと暗い窟だろう。」と言われて射通しなされた。光がカカと明るくなった。

 先ず、太陽の神であること。
 次に、暗い窟を射通すのは、男根を思わせる。
 海と貝が生死にかかわっている。
 この辺りからも、猿田彦が浮かび上がって来ても良いように思います。



[11843] 猿田彦命琉球松 投稿日:2015年12月17日(木)15時08分
くずさんへ

 猿田彦の鼻や「ホウヅキ色の目」などと星座の関係性はあるかもしれませんね。
 僕の場合は、海人達が船上から見た地政学的な表現ではと考えますから、地名や産地を重視します。
 例えば鼻は愛媛県「佐田半島」で目は「高縄半島」、「口と尻が赤い」のは中央構造線の東(四国島の尻)阿波と南予(四国島の口)の水銀朱の産地かもしれません。

 それと旧国名の「伊予」は『倭人伝』に見える卑弥呼の後継者ではないかと。。。
 つまり、どういう字が当てられていようとも琉球方言的にはもともと「ティヨ」に近い音だったからこそ「トヨ・タヨ」そして「イヨ」とも解釈可能かと考えるわけです。
 伊予は「愛媛=兄姫」、九州島から東へ拡大して行った女王国連合の先発隊で、「乙姫=弟姫」は南海の魚(薩摩半島〜奄美&沖縄)で後続勢力ではと解釈したいわけです。その先発隊が一時期拠点を置いたのが瀬戸内海を "見渡す" 高縄半島やその周辺離島ではないでしょうか?



[11842] 猿田彦命くず 投稿日:2015年12月17日(木)00時23分
神奈備さんへのお返事です。

猿田彦にのっかります^^
個人的には勝俣隆さんの言われる猿田彦=おうし座説も一理あるかな。。。と。
天の八街=スバル、ヒアデス星団=猿田彦の顔、
赤色巨星のアルデバランがホウヅキ色の目、対するオリオン座がウズメ命。。

で、僕としては天の八街もまたスバルではなくヒアデス星団かなと思ってます。
浦島太郎や天若彦(御伽草子)が異界で出会った8童子は畢(ヒアデス)で8とされる。
この時の亀にのった浦島もオリオンと見ます。(オリオンを亀座とみる東南アジアの国)
天に弓を射る天若彦もオリオン。そっくりとされるアジスキも同じく。
オリオンを唐鋤星と呼び、また雛ぶりでのタナバタとの対比からも。
おそらくはアマテラスの前神がタナバタで、アジスキ(オリオン)と共に大御神。

ヒアデスは8、スバルは7ないし6。八街は黄道にも近いヒアデスが有力と思います。

もうひとつ、猿田彦と同じホウズキの赤目を持つヤマタノオロチもヒアデス=八街では^^
赤目は同じアルデバランからの想起。
オロチ=ヒアデス  ヒアデスの異名 釣鐘星。
道成寺の安珍・清姫をはじめとする釣鐘と蛇のお話の数々。


切り伏せたスサノオの十束剣の異名「韓鋤剣」もオリオンから。
オロチの尾はスバル=天叢雲(群れ星=スバルの異名)
天村雲命が牛にのって天フルお話。これはおうし座とスバルの位置関係から。
http://www.miyagin.co.jp/pleasure/0101.html


十束剣を持ち、浦島と似た山幸もオリオンと重なります。
探しても探しても見つからない兄の釣り針は赤目(タイ)が飲み込んでいた。
この赤目とはサソリ座のアンタレスでは。
サソリのJ型を釣り針と見立てる。冬の星座オリオンから夏の星座サソリは探しても見えない。。。



[11841] 猿田彦命かたばみ 投稿日:2015年12月13日(日)19時12分
書き忘れました。
佐太神社、これも本来は狭田だと思います。
佐太御子、島根半島の狭い土地に「最新農耕」を広めた人物と考えています。

現在の佐太神社HPには猿田彦命には触れていないですね。
佐太御子=猿田彦命は明治初期の国学者平田篤胤の説にすぎない。
諸般の事情でそれに従わざるをえない状況もあったのだと思います。
伊弉諾伊弉冉尊を祀る社は要注意、具体的な人物像が失われた場合に、縄文末期〜弥生初期に遡る伊弉諾伊弉冉尊を祀ること少なからずと考えています。

出雲熊野大社の櫛御気野命=素戔鳴尊の説もありますが・・島根−出雲−素戔鳴尊に引きずられた説にすぎない。
すなわち書紀や風土記編纂の後に登場したもの(先代舊事本紀など)。
佐太神社と同じく弥生初期の最新農耕を広めた人物を祀る社だと考えています。
山陰に残るサヒメ伝承と同義、こちらも穀物を広めた人物(位置的に島根出雲ほど有名にはならなかっただけ(^^; )。

土蜘蛛、アシナヅチ、テナヅチと類似が長髄彦、足が長かったのでしょう。
やはり縄文系譜の容姿を残す人物とみています。

さーて、伎楽面登場以前の猿田彦命のイメージは・・
おそらくはほぼ同族であろう木花開耶姫は現代感覚での容姿端麗だったのだろうか(^^;
櫛稲田姫も・・



[11840] 猿田彦命かたばみ 投稿日:2015年12月13日(日)11時02分
神奈備さんと琉球松さんへのお返事です。

サル、猿、相当に古い言葉のようで、語源不明で各説ありみたいですね。
土蜘蛛やテナヅチ、アシナヅチと表現する容姿の人々に同じとみています。
すなわち、ごく単純に手足の長いお猿さんに似た人々。おそらくは縄文系譜。

サル・タ、と分解した場合のタは「田」、これも古い「日本語」とみえます。
田とは畑や耕作地の意。水を用いるのが水田。
畑も日本語、おそらくは焼畑からだとみるけれど、ハタのケ(食)だと思う。
(ハタとは渡来の意とみる)
すなわち、猿に似た手足の長い人々が耕す土地。そこに住む人々。それが猿田の語源と考えます。

佐田、佐多・・サ・タのタはやはり田でしょう。
サは「狭」であって狭い土地の意を「佐」などの良字に置き換えたものと考えています。
佐多岬、狭い土地の崎。佐多半島、狭い土地の半島。
サには早乙女とか早苗のサのごとき「めでる」の意もあると思いますが、ここでは狭いの意だと思います。

類例が神武の佐野命、本来は狭野命。すなわち狭い野原の土地をもらった人物・・負けるもんかやったるでー(^^;
神武の兄とされる御毛沼命(古事記)、三毛野命(書紀)。本来は御+ケ(食)+野、とみています。
沼を使うのは野原の水源の意があるかもしれない。
兄なので神武よりは広く良い土地をもらった人物ですね。

熊野出雲大社の御祭神は櫛御気野命、クシは貴いの意でしょう、御+ケ(食)+野だと考えています。
酒、サ・ケ、ここでのサは早苗のサと同じくで「めでる・食」の意。



[11839] 猿田彦命神奈備 投稿日:2015年12月 6日(日)17時18分
かたばみさん、琉球松さん、ありがとうございます。以下のようにまとめてみました。

1 猿田彦の原像 人面装飾付深鉢(縄文中期 山梨)
縄文時代    県大湯遺跡 通称日時計
この時代の祈りは、生みの神秘ととセックスであろう。
中央に屹立する石棒はみなぎる男根、周囲の円形はホト。猿田彦と天宇豆女の原形であろう。
男根は地中から上に向かって立っている。 地の神が天女と交合するイメージ。
集落の存続のために子供を産むことにつながる性に対する強い思いがあった。地下の祖神のパワーを頂いて懐妊を願うのである。石棒も象徴。

2.辟邪
性のパワーには、魔除けがある。古代の戦時巫女は軍の先頭に立って、ホトを露出する。敵は戦意を喪失すると言う。
猿田彦神は衢の神である。村に魔物・邪が入るのを阻止する神である。故に性の神である。
天宇豆女神は性の女神であるのは、『記・紀』の物語から明らかである。
辟邪の神は、衢の神、祖(さえ)の神、来名戸祖の神、岐の神とも呼ばれる。この神は逆に言えば、道案内の神ともなる。猿田彦神は天孫の瓊々杵尊を筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に先導した。 『日本書紀』一書第二)には、大己貴神が岐神を経津主と武甕槌につけて方々を巡り歩いて、従わ ない」者を殺した。
『日本書紀』第九段本文)大己貴神が国を平らげた時に用いた広矛を使者の二神に与えて、これを 用いれば、国は平安になるでしょう。吉田敦彦氏は、矛は杖であるとしている。即ち、大己貴神は猿田彦神を共として葦原中国を平定したと言うことが出来る。

3.アイヌ語
大三元氏。アイヌ語のサルは葦原の意味がある。葦原の醜男(大己貴神)を案内する神にふさわしい名前である。猿田彦の基本に「猿」があるのだろう。南方熊楠「猿は牡蠣を好み、引き潮に海岸で牡蠣が殻を開いた所に小石を打ち込み、肉を取って食う。時々手を挟まれて大騒ぎをする。猿が槌人にとらえられて食われる事がある。この話は、『古事記』伊勢の阿邪訶で比良夫貝に手をかまれて溺れると言う話に良く似ており、黒潮に乗って伊勢に伝わったと創造できる。

4.出雲
猿田はサタとも読めるのは、猿投神社をサナゲと読むことでも判る。
。『出雲国風土記』加賀の郷 佐太大神のお生まれになった所である。御祖神魂命の御子の支佐加比売が、「なんと闇い岩屋であることよ。」と仰せられて、金の弓をもって射給うた。その時光が加か加あかるくなった。だから加加と言う。

○佐太大神には太陽神を思わせる。
『古事記』天孫の降臨を天の八衢で待ち受けている猿田彦は、上は高天原を、下は葦原中国を光
(てらし)していた。天照大神以前の伊勢の太陽神と言われる。

。『出雲国風土記』加賀の神埼
 ここに窟がある。・・いわゆる佐太の大神のお産まれになった場所である。御祖神魂命の御子の枳佐加比売命が祈願して、「私の御子が麻須羅(ますら)神の御子なら、失くなった弓箭よ出てこい。」と祈られた。・・金の弓箭が流れてきた。お産れになった御子はこれを取って「なんと暗い窟だろう。」と言われて射通しなされた。すなわち御祖の支佐加比売の社が鎮座している。
父神は麻須羅であり、これは猿の古語である。猿の子は猿。佐太狼は猿田彦であった。
5.沖縄
宮古島の狩俣で祖先祭(うがんさい)の行列の先頭を歩く老婆は赤い頭巾をかぶって、葉のついた椿(?)の枝を杖として地面をたたきながら神々を案内していく。サダル神と言う。サダルが音韻変化でサルタになり、縮まってサタとなったとは谷川健一氏の言である。なお、沖縄には「猿」はいない。動物園はともかく。

6.椿
『荘子』 椿は八千歳を春とし八千歳を秋とする霊木。不老長寿の効果があり、進んで、辟邪懲悪の威力があある。『荘子』の椿は日本の都婆岐とは違うが、古代人は同じと見なしたようだ。
霊木。無数の赤い花が咲く。人間の生命にかかわる。人の数だけ花をつける。人が死に直面するとか不幸に見舞われることを予知する。花が何らかの変化を見せる。霊樹。粗末に扱うと祟りがある。
奈良・正倉院の南倉に伝わる椿杖(つばきのつえ)は天平宝字二年(758)正月初卯の日におこなわれた魑魅悪鬼払いの行事に用いられたもの。

7.銅鐸
辟邪は銅鐸の邪視文にも顕れている。邪視文が悪霊を退ける信仰を示している。猿田彦は「目勝つ人」であり、同じ働き。
『猿田彦と秦氏の謎』清川理一郎著によれば、滋賀県高島市の式内社水尾神社につたわる『神社縁起書』に、猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」との遺言をしたとある。



[11838] 猿田彦命琉球松 投稿日:2015年12月 3日(木)10時24分
神奈備さんへ

 猿田彦命は、一定のリーダーシップで方向性や行く末を示す神でしょうけど、サイの神や道祖神との習合で分かりにくくなっているのでしょう。
 琉球文化圏では、棒を以って先導する神事が散見されますね。
 石垣島川平に出現する「マユンガナシ」や宮古島の「パーントゥ」、トカラ列島の「ボゼ」もそうかもしれません。
 奄美大島のノロも杖を兼ねる棒で「その方向へ」と先導します。

 「サルタ」と「サダル」のどちらが古形かは確かめようがないのですが、多くの古語を温存する琉球諸語はやはり重要でしょう。
 現在の沖縄語&国頭語では「サタんねーらん(方向性が不明)」とか言いますし、『沖縄古語大辞典』には「サダメ(定め)= 決まり」などの他に「サダケル(先だける)= 先駆け」と出ています。
 「先だける」は、神女達が神の道などを行く時に先頭なるという意味で、まさに猿田彦命を彷彿させますね。

 また、地名としての「サタ」は岬など航海の分岐点でしょうし、大隈半島南端の「佐多岬」や愛媛県の「佐田岬半島」とその先端の「佐田岬」はさらに重要なポイントでしょう。伊勢湾に盤踞していた海人のテリトリーとしての愛知県の「知多半島」も元々は「サタ岬」だったかもしれません? 大分県「佐賀関半島(さがのせき)」も怪しいところです。
 以前にも書きましたが、四国島の "巨大な鼻" 佐田半島は、アメノウズメのホト(大分県別府湾)に向いている猿田彦命の男根と見なす事も可能でしょう。

 それと、延喜式神名帳に見える「佐陀神社」との関係はどうでしょうか?


[11837] 猿田彦命かたばみ 投稿日:2015年12月 2日(水)20時55分
神奈備さんへのお返事です。

>これは大湯遺跡の日時計と呼ばれている遺跡が原形だと思います

大地母と天の交合ですね、大湯の石柱はそれだと思います。
この意識は自然発生じゃないかな、誕生と葬礼が複合した祭祀場。
漁労でも海は女性だと思いますが移動生活の狩猟ではどうなのだろう。

日時計はないと思います。
村人がその場所にわざわざ時間を見にゆくか? 太陽を見れば十分。
時計は現代人の感覚によるものと思います。
冬至や夏至など季節の区切りを知る、これはありえる。祭壇と石柱の位置関係によっては、ですけれど。
こちらは現代人の感覚から失われつつありますね。

>猿田彦神は強烈な性神でもありました。陽根神です。

猿田彦命を男根ととらえる、私は同意できないです。
西アジア系の顔イメージ→大きな鼻→伎楽面でのさらなる強調、後に大きな鼻→男根のイメージでしょう。
これはモンゴロイド系の低い鼻からは登場しないと思うのです。
もろに男根であろう石棒のごときは縄文からいろいろありますけれど。

滋賀県相谷熊原遺跡の縄文草創期の土偶は豊かなおっぱい。
女性を強調するものはいろいろありますが、鼻を強調する土偶はみたことがありません。
男根イメージは伎楽面以降で生じた猿田彦命の容姿に引きずられて派生したものだと思います。

道祖神、こちらは縄文からの流れを汲むかもしれない。
集落の守護神、夫婦和合による集落の繁栄ですね。農耕登場による土地と境界の概念の登場でもあると思います。

現地人の道案内と天孫に随伴する女官の物語。
記紀にはめずらしい王族ではない民間人の伝承とロマン、それが猿田彦命の物語だと思っています。

HPに大昔に採録した猿田彦命のWEBのそっくりコピーを臨時アップしておきます(一週間ほどで削除します)。
(このWEBは現在は存在しないようです)


余談と持論
天の岩戸隠れとは、縄文と初期開拓者(初期の弥生農耕)が結合したその指導者の巫女が、素戔鳴尊勢力に追われて、おそらくは阿蘇山中に避難して隠れた。
これを天之忍穂耳尊勢力が支援して救出、同盟を結んだ事象、と考えています。
飲めや歌えの宴会で天之忍穂耳尊の女官も裸で踊ったかもしれない。
後に天之忍穂耳尊の子(天孫)が新天地に展開するとき、道案内をしたのが猿田彦命。そして随伴していた女官と夫婦になった。

天孫のルートは、北九州から那珂川遡上で筑後川へ。日田市から阿蘇山麓の小国町までは船で遡上。
ここから陸路で高千穂へ。猿田彦命の道案内で五ケ瀬川に添って延岡市、あるいは五十鈴川に添って日向市へ、と考えています(後の北九州からヤマタイコクへのルートとまったく同じ)。

ただし、この降臨は瓊々杵尊にはあらず、天火明命。
めとる妃は大山祇神の娘の木花開耶姫(阿蘇山麓在住でしょう)。
その姉の石長比賣(やはり阿蘇山麓)は素戔鳴尊の子の八島士奴美命の妻となる。
北九州〜阿蘇山麓で素戔鳴尊勢力と天之忍穂耳尊勢力が抗争中の時代(BC190頃〜BC100頃)。
(天火明命はさらに太平洋岸経由で伊勢志摩〜濃尾へ展開、先代舊事本紀)
(出雲勢力は瀬戸内経由で近畿へ展開、おそらくは赤衾伊努意保須美比古佐倭気命/出雲国風土記)

では瓊々杵尊は・・
那珂川から筑後川までは同じだが、現在のうきは市付近で筑後川を西へ下って有明海へ。
さらに南下し薩摩川内市〜薩摩半島の笠沙付近に上陸と考えています(瓊々杵尊伝承あり)。
こちらは海神族の勢力圏、道案内も海神族でしょう。

瓊々杵尊の妃は神阿多都比売/古事記(神阿多津姫、神吾田鹿葦津姫)。
木花開耶姫の別名とされるけれど「別名」は記紀の常套手段(^^;
瓊々杵尊のその後の系譜は不明なれど、記紀は天火明命系譜とを一本化して合成。

後に彦穂々出見尊と鵜草葺不合尊を経て九州東岸と西岸が結合。
鹿児島で佐野命(狭野、神武)誕生。妃は隼人族の阿多吾平津姫(綏靖に殺害される手研耳、岐須耳の母)。
日向では天火明系譜の五瀬命、薩摩川内付近では瓊々杵尊系譜の稲氷命(ひょっとして脱解へ)。
3人が協力して九州統一へ(大国主命の国譲り)。



[11836a] 猿田彦命神奈備 投稿日:2015年11月29日(日)16時38分
かたばみさんへのお返事です。琉球松さんへの問いかけです。

沖縄では、おばあさんが赤い頭巾をかぶって、棒をつきながら先導する神の姿をサダル神と言うそうです。これがサルタに変わったのが猿田彦神だと谷川健一氏の説があります。新たと新しいの関係と同じ。
さて、沖縄が古いのか、本土が古いのか、一概には言えないような気がします。先導する神とは、木の神とか水の神とかの具体的な神ではなく、抽象概念の神だと思われますので、さて、どちらが文化程度が高かったのか、高い文化を取り入れていたのか、答えは単純ではばさそうです。

 さて、猿田彦神は強烈な性神でもありました。陽根神です。その相方の天宇豆女はホト神なのです。これは大湯遺跡の日時計と呼ばれている遺跡が原形だと思います。



[11836] 猿田彦命かたばみ 投稿日:2015年11月25日(水)15時44分
神奈備さんへのお返事です。

>来年は申歳ですので、猿田彦神について思いを巡らしています

天孫降臨の道案内と天鈿女命の誘惑、ポイントは天孫降臨とはなにかですね。
天宇豆女と書く場合はウズすなわち珍彦同様に、貴重とか珍しいの意によると思います。
天鈿女と書くのは、鈿が髪飾りとか貝かざりの意で珍ウズと同義だと思います。

天孫、書紀では天空から降りてきたかのごとくに読めますが、天孫降臨を歴史とみなすならそれはありえない。
九州北岸の高度文化の所有者の子供らが海や川を経て(すなわち船)新天地へ展開した事象を神話化したものと考えています。
そのルート(陸路)の近所に猿田彦命の住まいがあったのでしょう。

猿田彦命もおそらく実在人物、だがいろいろな尾ひれがくっついている・・といったところ。
申が原意の可能性あり(申には天の神の意あり。神の文字の右側)。

九州の縄文人の骨は洞窟から発見されることが多いようで、身長も一般縄文人より大柄のものがある。
猿田彦命のイメージはそのあたりがスタートじゃないかと思ってます。
土蜘蛛や脚摩乳・手摩乳(アシナヅチ・テナヅチとは別系の縄文系譜か。
(アシナヅチ=足長土、手長土の変化とみる)
そお親とされる大山祇神の容姿が俗人としてちと気になるところ(女神だと思ってます)。

東京付近の祭礼での猿田彦命はみんな天狗の姿になってるけど、法隆寺〜正倉院の伎楽面の「治道」が原型か。
伎楽面は耳のでかい人物が多い、天之忍穂「耳」尊、倭人伝でもミミが登場。
平安初期ではこのイメージだったのだと思います。天鈿女命はぽっちゃり美人の呉女かな。
霧島神社に300年ほど前に奉納されたという「九面」では鼻の高くないのもあるみたい。



[11835] Re: 旧石器時代〜安曇氏安曇族?神奈備 投稿日:2015年11月23日(月)12時03分
かたばみさんへのお返事です。

 興味深い投稿、ありがとうございます。

 この時代の動きについては、あまり考えたこともないので、勉強になります。

 来年は申歳ですので、猿田彦神について思いを巡らしています。

 弥生文明の渡来人の天宇豆女を娶る猿田彦は縄文人の祀る神だったのだろうと思っています。普通は男が渡来して土着の女を娶るパターンを想定しますが、子孫は縄文文化の母親の影響を受けて文化が変わりにくいと思われますが、逆に猿田彦家はつらい系文化に素早く変わっていったものと思っています。


[11834] Re: 旧石器時代〜安曇氏かたばみ 投稿日:2015年11月19日(木)23時02分

農耕は平原の草を食糧に利用する文化、縄文は山の森林を食糧に利用する文化。
(岡山県彦崎貝塚からBC4000頃の稲のプラントオパールが大量に出土、森林不足ゆえと考えています)
海面上昇で東シナ海の水深は深くなりアマモは消滅、それを食べるジュゴンも消えてゆく。
縄文最盛期(最温暖期、BC6000〜BC3000あたり)での日本近海の海人の獲物は魚だけとなって、その勢力と文化は衰退したと考えています(外洋航海の技術は維持でしょう)。
BC5300頃、喜界カルデラの大噴火による「九州の破滅」も大きな影響があったでしょう。

BC2000頃から寒冷化がはじまる。世界各地で大文明が崩壊あるいは衰退する年代です。
(長江の良渚文化の崩壊は土砂による埋没→その人々の周辺への散逸→三苗)
縄文も衰退がはじまります。長野では縄文の破滅になった、信州の土器の装飾が消えて貧弱化。
(東北ではもとから若干寒冷で破滅には至らず、亀ヶ岡土器にみられる高度な精神性)

それ以降の九州に流入し始めるのが中国の平原の文化、農耕。
春秋戦国の前後、BC1000あたりからかな。寒冷化と戦乱からの脱出者。山東半島からと朝鮮半島経由でしょう。
(持論にて環境避難民と戦争避難民と称しています)

そして九州北部と日本海沿岸の海人に変化が生じたと考えています。
漁だけではなく「輸送」という新職種の登場です。
地域製からみて南西諸島や南九州では輸送は登場せず漁労のみだと思います。

北九州と日本海、そして瀬戸内、若干の太平洋沿岸で輸送に従事する海人の活躍がはじまった。
これが穂高見命の祖、安曇氏の祖だと考えています(物部氏の祖も含まれる)。
大綿津見神から綿津見神への過渡期とでもいうかな。

日本海、瀬戸内海、太平洋、この人々は地域性を持つ沿岸航海に特化。
外洋航海術は失われて南西諸島のみとなる。
底津綿津見神(日本海?)、中津綿津見神(瀬戸内海?)、上津綿津見神(太平洋?)。
後の住吉三神、底筒之男神、中筒之男神、表筒之男神(おそらくは書紀時代でのイメージ呼称だと思う)。
住吉三神での筒ツツとは星の意とみています、外洋航海時代(大綿津見神時代)のなごりですね。


その後、素戔鳴尊渡来、天之忍穂耳尊渡来で出雲文化圏と天孫文化圏の登場。
海人もその文化圏での活動になってゆく。
安曇氏は日本海と瀬戸内メインの出雲文化圏だと思います。
物部氏は瀬戸内と太平洋岸、天孫文化圏メインだと思う。

輸送に関与するということは、最新文化に常に接していることでもあります。
すなわち最新文化の伝達者(輸入)でもある(農耕技術の伝達者はあくまで輸送される農民)。
例えば伽耶の鉄や青銅、これを列島に運んでいたのは安曇氏だと思います。

信州の山奥に安曇の名が残るのは、鉱物資源探査に安曇氏が従事していたからだと考えています。
黒姫山の褐鉄鉱、秋田の銅、さらには釜石の餅鉄などの発見・・
(物部氏もほぼ同様、資源探査にも従事していたと考えています)

その後の出雲と天孫のありようから、安曇氏は名を残す程度となって衰退、物部氏は大勢力になってゆく。
[11833] R旧石器時代〜安曇氏かたばみ 投稿日:2015年11月19日(木)22時58分
だいぶ間があきましたけど、旧石器時代にまで遡りましての長文失礼(^^;

>その海人が、弥生文明と接し、弥生人と共に陸地や山地に入って稲作を始めたり

参考図1 列島周辺の海底 地球の化学−海底地形図−日本 より
古黄河の流末と古黒潮の合流する九州西岸、五島列島周辺、ここが縄文誕生の始発だと考えています。
現在の黄河河口は山東半島北側に移動し、長江とは比較にならない細河になってしまったけれど、古黄河の河口は山東半島南側にあって大河だった。
参考図2 寒冷時代の南西諸島周辺の詳細イメージ

黄海と東シナ海は大平原、それが五島列島にまで達しています。
黄河と長江と鴨緑江の運ぶ土砂が数万年の単位で堆積する巨大沖積地。
土砂は日本海にも流れ込んでいるようにみえますが、これは対馬暖流が突き抜いた時に運ばれたのではないかな。

現在の黄海と東シナ海の水深は50〜100m程度。
BC14000あたりでは総じて現在より100mほど海面が低いですから、この頃では九州北部と東シナ海沖積地はつながっていた。
古黄河の流れが半島側と巨大沖積地を分断しています。
バイカル系の内陸型旧石器人は半島側から北九州へ。
樺太経由と同じ系譜です、ナウマン象など南下する動物を追う狩猟型。石器形式の類似がそれを示す。
(長野県の野尻湖あたりで合流かな)

古黄河と古長江の冷たい淡水が黒潮と混じり合えば魚が大喜び、そして大漁場。
古黄河を下ってくる舟を持つ内陸系の旧石器人がいたと考えています。
バイカル系と石器形式が異なる人々ですが、始発がどこかは不明。
列島のほとんどでは樺太と半島を南下した旧石器人だけだったが、九州では様相が異なっていた。

縄文人の始発は旧石器時代後期の九州西岸。
南下する黄河系の人々と北上する長江系の人々、これと南方系海人との結合にあると考えています。
(南下は厳冬期、北上は温暖に転ずる時代)

参考図2で古黄河の流域の水深がやや深いのは、古黄河(+鴨緑江)が蛇行しながら流れていたからだと考えています。
現在の済州島はその中にあった中州といったところか。
黒潮は南西諸島の南北に分流、南西諸島が大陸側とつながることはなかった。
湊川人は南方系漁労の民の「一部」だと思います。北方系の人々が黒潮を横断してここまでやってくることはないでしょう。

BC12000頃からの温暖化で海面が徐々に上昇を始める。
BC10000〜BC8000ころでは東シナ海と黄海は水深数メートル程度の浅海に中州?が点在する状況になっていたことが推定できます(大型コンピュータでのシミュレーションを期待するところ)。

この状況ではアマモなどの海草が広大な海の草原を作るでしょう、魚介類の天国です。
(ワカメやコンブとは違って藻ではなく草です)
ジュゴン(海牛)の食事はこのアマモ、ジュゴンの天国にもなっていたと考えています。
陸のナウマン象などに匹敵する獲物、それを獲る海人。
漁労民の大繁栄時代じゃないかな、沿岸部の内陸系の人々と物々交換していたと思います。


そして対馬海峡に黒潮が流れ込みはじめる。
北九州と大陸が切り離されて、大陸側沿岸と九州沿岸の距離が徐々に離れて水平線の向こうへみえなくなる。
舟に優れる人々でないと「対岸」に渡るのが困難になってゆく。

温暖化で人々が北上を始める、動物が移動しそれを獲る人間(文化)も移動する。
列島にいたバイカル系旧石器人は海で遮断されて北へは帰れなくなった、その文化の衰退です。
列島の気候と植生が変化してゆきます。
日本海に流れ込む暖流が生み出す湿気が列島を湿潤多雪に変えた。

半島側では湿潤にはならず、列島とは植生が異なってゆきます(湿潤を好む杉がありません)。
冬の多雪から身を守る落葉広葉樹が列島を覆ってゆく。
九州や西日本では多雪とまではゆかず、葉を落とさずに冬を過ごす照葉樹が茂る。
冬に枯れる心配が少ない=たくさんの木の実を播いておく必要がない=人間や動物にとって食糧が少ない。
風が吹けば桶屋がもうかる・・ですけれど。
西日本の縄文人口は東日本の1/10程度とされます。落葉広葉樹の森のほうが食糧豊富だったからだと思います。

<


[11832] Re: 安曇族?琉球松 投稿日:2015年11月15日(日)20時49分
神奈備さんへ

 「アズミ」が海人であることは明らかですが、「スミノエ」なども同類なのでしょう。
 沖縄語では今でも、海に潜ることを「シーミー」と言いますから、琉球諸語一般をみても「スミ」を含む語はそのまま海人を表すんでしょうね。

 谷川健一はまた、以下のようにも書いてますね。
『蛇 不死と再生の民俗/冨山房インターナショナル 2012 』より
*** 古代において活躍した阿雲、墨像、墨江などの海人族たちは、もとは倭の水人として一括されうるものであり、身体にほどこした入墨の部位のほかは、ことさらな違いがあるはずはなかった。墨江は潜り(スミ)ながら魚や貝を突く入江にほかならず、その神の筒之男は、次に述べるようにツツ(蛇)の文様を肌に入墨した男たちのことである。つまりそこには、倭の水人の日常の様態が示されている。
 また胸に蛇の文様を入墨した宗像の水人の神は、水底にいる蛇体の女神であるミツハ、ミヌマ神であった。阿雲は目に入墨をした海人で、ワタツミの神を信奉した。倭の水人が肌にほどこした蛇の入墨は、遠くたどれば南中国沿岸の海人の風に習うものであった。***


[11831] Re: 安曇族?神奈備 投稿日:2015年10月 2日(金)20時39分
かたばみさんへのお返事です。

 石斧は縄文人の木材加工の道具ということですね。
 縄文末期の九州全体の住民は海人であり、原安曇族と言っても差し支えがないようです。その海人が、弥生文明と接し、弥生人と共に陸地や山地に入って稲作を始めたり、木材を加工したり、徐々に海から離れた生活をするようになっていったと思われます。海岸に残って海運漁労に従事し続けたのが、海人族となり、志賀島に拠点を置いていたグループが安曇族とされたのでしょう。彼らの祖神は安曇磯良とか磯良エビスと言う。エビスや土蜘蛛は列島の古い住民のことでもあり、彼らが祀った神でもあります。
『魏志倭人伝』によりますと、3世紀後半の倭人の習俗を書いているようです。稲作が伝わり、食料供給も安定し、人々が定住をして、銅矛や銅鐸を造り、祭りを行い、また銅鐸を埋めて鏡を神器としたりしており、実に古墳時代寸前の時代を示しているはずです、中国北方や韓半島の大きい影響を受けていたのですが、倭人は断髪し・入れ墨し、水中に潜って貝や魚を捕っている様に記載されています。全員ででゃないでしょうが、これか海人の習俗です。縄文時代の習俗や南方海人のやりかたが、倭人の世界に根強く残っていたことを示しています。



[11830] Re: 安曇族?かたばみ 投稿日:2015年10月 2日(金)19時56分
神奈備さんへのお返事です。

>その分布は南は沖縄本島から北は長崎県五島列島に及び

参考図1は小笠原と八丈島出土の丸ノミ型石斧です。
あいにく単発の出土で周辺状況での年代推定は無理のようです。

伊豆七島神津島の黒曜石が東京や信州から出土、最古では旧石器時代に遡る。
だれが神津島の黒曜石を発見しどうやって運んだのか。
旧石器人=狩猟のイメージが強いですが、漁労系の旧石器人もいたのだと思います。
先の縄文形成の参考図のBC12000あたりかなあ。

まだ寒冷で、推定ですが寒流の親潮が小笠原あたりまで南下し、黒潮とぶつかっていた。
親潮と黒潮の混合するところすなわち大漁場、ここをめざして列島側と南のサイパンなどから旧石器時代の漁労民が魚を追ってやってきた可能性はあります。
伊豆七島からは列島に帰れるでしょうけど、小笠原からでは潮流や季節風の関係で帰ることはできないのではないか。

沖縄の湊川人は先の参考図のBC20000〜BC14000の南方からの漁労系の人々と考えています。
いろいろな種族があって縄文形成の「一部」になったかもしれない。
BC12000頃、半島と列島が対馬海流で切り離され、日本海からの水蒸気が列島を多雪化して落葉広葉樹の森へ。
参考図2 東シナ海の海没
陸地だった現在の黄海は次第に淺海となってその沿岸は列島と離れてゆく。
ここに黄河の淡水が流れ込めば、やはり大漁場になると思います。

そこに集まる漁労民、内陸側の旧石器人との交易も盛んになるでしょう。
これが南からの縄文形成の主役だと考えています。
海没するスンダ大陸から移動してくる人々も加わる。
丸ノミ型石斧で丸木船を造る人々。丸ノミ型石斧はその時代に位置するものと思います。

先の縄文形成の参考図のBC8000以降、最温暖期へ向かう時代、縄文形成の最盛期。
小笠原の丸ノミ石斧は帆走技術を持つ人々の漂着の可能性が高いと考えています。

参考図3 縄文人と弥生人に分けた場合のDNAの類似性(表現が正確ではありませんがイメージとして)
(この図ではアイヌの人々は大陸の北方内陸部のそれに近い)
半島と列島はそっくりで同じ縄文人みたい。
先の持論の参考図のBC12000〜BC10000あたりでの状況の補強になっていると思ってます。
離れた雲南に縄文類似がうかがえますが、その地域のある集団がまとまって列島付近にやってきのかなあ。

先の塩基欠失DNAの分布登場ははるかに新しく、BC2000〜BC1500頃で縄文末期。
大綿津見神と直接リンクするのはこちらであろうと考えています。
航海技術などはそれ以前からを継承していると思いますけれど。


>お付人の阿曇連百足を見にやった。そこには大耳という土蜘蛛がいた

神武の最初の妃?は隼人族とみていますが、神武の使う言葉も隼人族の言葉(方言?)でしょうね。
隼人族の言葉、その位置からは海神族にほぼイコールではないかなあ。
言葉は父母の血脈より周辺の環境の影響が大と考えています。
その地で暮らすなら周辺の人々と断絶して暮らしてはゆけないと思うのです(ただしその地にはなかった物の単語を除く)。

景行は神武から250年以上、日本海系の日葉酢姫を妃にもいれているし、使う言葉はずいぶん変化していると思います。
出雲系の影響大ではなかろうか。








[11829] Re: これって前方後円?大三元 投稿日:2015年10月 1日(木)10時50分
かたばみさん、コメント有り難うございます。

> 現地へいったことがありませんが、観光地化しているみたいですね(^^;

訪ねたのは土曜日の夕刻でしたが人も少なく周囲にお土産やとか食事処もなく観光地化の度合いはかなり低いと思いました。静かに縄文の雰囲気を味わってきました(^_^)

> 以前に公式の発掘資料を探しましたがみつかりませんでした。
> 配石の測量図や航空写真、どの位置からなにが出土したかなど、資料館にはなかったでしょうか。
> (鹿角市役所教育委員会 出土物管理センターなんてのがあるなあ)

「ストーンサークル館」に出土物が展示されてました。ボランティアのガイド氏は6万点ある、更に整理中、とのこと。土曜日ということでこのガイド氏以外には教えてくれる人が居ませんでした。

> グーグルの航空写真ではいまいち分解能不足。国土地理院のは古くてもっとだめだな(参考図1)。

https://www.youtube.com/watch?v=-cKdSKxLP7Y の5分40秒あたりが円周と出っ張りが良くわかるかも。

出っ張り部分があるならサークルは結界の一種でしょうね、立ち入り禁止区域。
> 出っ張りは祭祀跡だろうと思います。

そんな感じなんでしょうねぇ。

> 前方後円墳と直接の関係はないと思いますが、円墳あるいは方墳に祭祀場を加えるといった意識は同じだろうと思います。

そう捉えるのが穏当でしょうね。祭祀部分が円周から離れているのではなく円周に接している、という共通点がオモシロイと思いました。

> 前方後円墳では、まずは小さな祭祀場の追加でホタテ貝型、祭祀場が大型化して前方後円墳、だと思います。
> 前方後円墳では特段の方位性はみえない(佐紀古墳群を除く、被葬者を北にみる祭祀)。
> けれど、サークルと方位によっては暦にも関連するかなあ。

少なくとも一つは日時計だと解釈されているようですね(上記Youtubeにもあり)。

> 栃木県の寺野東遺跡の環状盛土、ここから筑波山を見ると冬至で山腹からの日の出、しかし仮想地平線だとぴたりと筑波山山頂のV字部分に一致します。
> 偶然かどうか・・
> 参考図2 (高度は3倍に強調)

4千年前の労作に感動、感懐ひとしおでした。<



[11828]これって前方後円? かたばみ 投稿日:2015年 9月30日(水)21時25分
大三元さんへのお返事です。

現地へいったことがありませんが、観光地化しているみたいですね(^^;

以前に公式の発掘資料を探しましたがみつかりませんでした。
配石の測量図や航空写真、どの位置からなにが出土したかなど、資料館にはなかったでしょうか。
(鹿角市役所教育委員会 出土物管理センターなんてのがあるなあ)
グーグルの航空写真ではいまいち分解能不足。国土地理院のは古くてもっとだめだな(参考図1)。

出っ張り部分があるならサークルは結界の一種でしょうね、立ち入り禁止区域。
出っ張りは祭祀跡だろうと思います。
前方後円墳と直接の関係はないと思いますが、円墳あるいは方墳に祭祀場を加えるといった意識は同じだろうと思います。
前方後円墳では、まずは小さな祭祀場の追加でホタテ貝型、祭祀場が大型化して前方後円墳、だと思います。
前方後円墳では特段の方位性はみえない(佐紀古墳群を除く、被葬者を北にみる祭祀)。
けれど、サークルと方位によっては暦にも関連するかなあ。

栃木県の寺野東遺跡の環状盛土、ここから筑波山を見ると冬至で山腹からの日の出、しかし仮想地平線だとぴたりと筑波山山頂のV字部分に一致します。
偶然かどうか・・
参考図2 (高度は3倍に強調)<






[11827] Re: 安曇族?かたばみ 投稿日:2015年 9月30日(水)12時35分
神奈備さんへのお返事です。

>「魏略」は、倭人の風俗としての文身(刺青)について述べています

魏略での倭人の話はほぼ信用できると思います。
事前情報なしで卑弥呼へ正式使者を送るはずがない。
その前の「偵察員」の報告が魏略のベースだと思います。

魏略は晋書などにも引用されますが「黥面文身。自謂太伯之後」(正確には単に太伯)。
・・なに、呉(の地域)と関係があるのか、それはまずいな。プレゼントをたっぷり贈ってこちらの味方にせよ・・
倭国内で議論があったと思いますが、卑弥呼の判断にまかされたのだと思います。

さて・・
神武に求婚された出雲のお姫様は、なにあの顔の模様 ヤダー・・
海の民の風習だと思います。
山東半島以北(内陸)の文化(出雲系文化)では鯨面はなかったと思います。
(ただし、海人系であろう大己貴命や少彦名命を除く)

持論にて神武は九州西岸降臨の天孫(瓊々杵尊)と東岸降臨の天孫(天火明命)の結合、鹿児島の出自。
最初の妃は阿多小椅君吾平津姫か、阿多の地名から妃は薩摩隼人だと思います。

神武の九州統一で使者が後漢の光武帝へ、後漢は国と認めて金印を授ける、「漢委奴国王」。
(委奴国イドコク、後の伊都国の原名称とみています)
倭人伝に書かれるふたつの奴国、後漢書に書かれる「極南界」の奴国が神武の生まれた奴国、鹿児島。

神武の子の手研耳命(岐須耳命も)は淳名川耳尊(綏靖、母は媛踏鞴五十鈴媛)に殺害され、以降隼人族との関係は悪化。
それが後に卑弥呼領土に隣接する狗奴国(大隅隼人)との抗争へ拡大し、狗奴国は倭国に従わない国となる。

前漢時代(光武帝AD25以前)では前漢との接触はなかったとみています。
天之忍穂耳尊の子孫だったから。呉楚七国の乱、前漢時代に反乱を起こした人物の子孫だったから。
魏略の「太伯之後」にはこのあたりの情報も含んでいるとみています。
(天之忍穂耳尊は何者か、の重要な状況証拠です)

天之忍穂耳尊は刺青をしていたか・・漁労民ではなく王族、前漢文化のなかで刺青風習は消えていると思います。
しかし列島でのその子孫は海神族と結合して刺青復活でしょう。
日本武尊あたりまで続いていたかもしれない。


縄文での刺青、土偶の文様から刺青があったのは確実と思います。
刺青は海洋文化の象徴、サメなどから身を守るおまじないですね(HPの第3章 縄文の人々)。
縄文の温暖化、海の人々は温暖適応文化を北へ運ぶ人々でもあります。
北海道最北の礼文島に縄文の船泊遺跡あり。海系の縄文だと思います。
参考図 縄文の誕生

沖縄での刺青は巫女が手にする程度になっていますが、中国との交流の影響で消滅し、わずかに残ったものと考えています。
天照大神の源流となる九州の巫女も刺青していたんじゃないかな。

先のDNAの塩基欠損分布図で沖縄がやや低い率になっているのも中国との交流頻繁によるとみています。
(HPのDNA分析による日本人形成、のDNAと日本人5、DNAの多様性)
アイヌ関連ではHPの「参考図と仮説、の縄文とアイヌ形成」参照

BC2000あたりから縄文は寒冷化、こんどは北海道や東北北部の人々が寒冷適応文化をもって南下する。
縄文晩期の青森の亀ヶ岡土器の関東からの出土。
三内丸山遺跡などで暮らしていた人々が関東まで南下していたのだと思います。

>倭人は周に朝貢していますが

出展がわかりませんが、先に書いたように稲作の民や東夷といった伝承の原意が後に倭の文字に書き換えられたものと思います。
長江流域の稲作地帯、この人々が東シナ海沿岸域を北上する過程で、夏、殷、周へ朝貢する可能性は高いと思います。(特に殷は良渚文化と密接につながるとみえる≒三苗)
(倭・倭人・倭国/井上秀雄/人文書院、倭の文字由来の考察はありません)

列島で周とつながりがあり得るなら、周に滅ぼされた殷の貴族の箕子の建国とされる箕子朝鮮−素戔鳴尊と思いますが、この時代でも北九州の弥生人が周に朝貢する意味はまったくないと思います。





[11826] Re: 安曇族?神奈備 投稿日:2015年 9月29日(火)14時36分
かたばみさんへのお返事です。

 『肥前国風土記』神埼の郡 値嘉の郷 から
  景行天皇が西の海を眺めていると、煙が沢山たなびいていた。お付人の阿曇連百足を見にやった。そこには大耳という土蜘蛛がいた。中略。そこの白水郎(あま)達は牛や馬に富んでいた。白水郎の容貌は隼人に似て、言語は世人とは違っていた。

 この物語は安曇族の人は隼人のアマの言葉がわかることを述べており、同族でありことを示唆していると思える。

 安曇に関係する地域の縄文遺跡を調べてみる。とくに石斧や石刀は舟を作る道具と考えられるので、注目してみた。かたばみさんの御教示をいただいた。

 隼人の居住地 上野原遺跡 磨製石斧・掻器・削器・彫器・石錐・楔形石器な
  7,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、一度は消滅した。縄文時代晩期(約2,500年前)には、上野原台地の北側がおもな生活の場として森の恵みを得ていたようだ。

 五島列島 石斧は九州の多くの遺跡で確認され、その分布は南は沖縄本島から北は長崎県五島列島に及び、中心地域は奄美大島から鹿児島本土南部に認められています。上野原遺跡の栫ノ原型石斧は形態、年代ともに限定することのできる石器でり、その分布を調査することで一つの文化圏の存在を推定するそうだ

http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/bunarintokodaisi/kitaminaminojilyounonn/odaA/sekihu.html

 志賀島 島の縄文時代の遺跡は、志賀海神社境内の入り口付近と見られる1ケ所のみである。ここから縄文時代後期・晩期の土
器と、黒曜石製石鏃、磨製石斧が発見されているが、遺跡の正確な場所は特定できていないという。

 このように見ると、安曇の足跡には、遺跡として石斧が出土しています。しかし、安曇と石斧との相関関係があるとは言えないようですね。




[11825] これって前方後円?大三元 投稿日:2015年 9月28日(月)13時27分
ご無沙汰してます。先週佐渡から秋田を回って来ました。鹿角市の大湯環状列石群で円形に石が配置されているのは知ってましたがそれに外接して方形にも敷かれていました。これって前方後円墳と似てる? ネットで検索した限りそのような指摘はないようですが。

佐渡では度津神社、熱串彦神社を訪れましたが神奈備さん、玄松子さんのサイトで予習しました。多謝。

神奈備 2015年 9月28日(月)20時10分
大三元さんへのお返事です。

 お久しぶりです。

 私も、大湯遺跡に参りましたが、気が付きませんでした。それより、サークルの中央に立っている石柱は3000年ほどもそうしていたのか、だれかが立て直したのか、くだらないことが気にかかっていました。

 前方後円墳の形は、日本人のハートに響くものがあるのかもしれませんね。

 例えば、神奈備山頂から昇って来る朝日とか、流れ星とか、イカの干物とか。

大三元 2015年 9月29日(火)08時48分
神奈備さんへのお返事です。

ユニークな発想・連想ですね、イカの干物とは!
私ならさしづめ タブレットキャリア かな。

神奈備 2015年 9月29日(火)14時34分
蛸の干物の方が先は丸いですね。



[11824] Re: 安曇族?神奈備 投稿日:2015年 9月28日(月)12時11分
かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。今後勉強させていただきます。

以下はかたばみさんの投稿以前に入れ墨について書いたものです。

 倭人の先祖について「魏略」は、倭人の風俗としての文身(刺青)について述べています。すなわち、倭人は自らを「呉太伯の後」という。昔、夏后小康の子が会稽に封ぜられ、断髪・文身をしてもって蛟竜の害を避けたが、今の倭人もまた文身をして、水のなかでの害を避けている。唐代にできた「翰苑」に引用されている「魏略」逸文の一つです。

 倭人で入れ墨で知られているのは、実は殆ど全ての人々です。熊襲、安曇、土蜘蛛と称される人々、アイヌ、縄文人など。古墳時代には入れ墨は珍しいものになっているようで、神がそのにおいを嫌ったとか、罰としての入れ墨が出てきます。隼人、安曇の人々には残っていたようです。

 倭人は周に朝貢していますが、山東半島にたどり着けば、黄河を遡ると周に至ります。縄文時代の倭人にとっては丸木舟か双胴船にしたもので航海していたのでしょう。



[11823] Re: 安曇族?かたばみ 投稿日:2015年 9月28日(月)11時38分
神奈備さんへのお返事です。

> 『論衡(ろんこう)』に、「周の皇帝に倭人(が 「鬯艸(チョウソウ)というものを貢(みつ)いだ)。」 という記事が初見とされます。。

縄文に遡っての文化圏のありようはまだまだ不明の点が多いですね。
石斧のひろがり
http://6903.teacup.com/kamnavi2/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.kuniomi.gr.jp%2Fgeki%2Fiwai%2Fsekihiro.html
丸ノミ型石斧は丸木船(Canoe)建造用だと考えています。
ただし、縄文に帆の痕跡はみあたらず外洋への進出はほとんどなかったとみています(関東では伊豆七島あたりまで)。

参考図 先史時代の航海
周を中心にみれば越より南が南蛮かな。

論衡は読んでいませんが、周時代の話になると少し歴史背景の確認が必要と思います。
「倭」の文字の解釈です。
後漢書の東夷伝では「倭奴国」に光武帝が金印を授けたとあります(AD57)。
志賀島の金印がそれに相当するならば「漢委奴国王」、ここでは「倭」の文字が使われていません。

「倭」の文字は光武帝時代には存在せず、稲作の民の意と東夷を重ねて金印では「委」の文字が用いられたと考えています。
その後に委ににんべんを加えて九州地域の民族(国)を表す「倭」の文字が作られた(おそらくは説文解字AD100頃までに)。
(金印が偽物ではない状況証拠、偽物なら疑いをもたれるような文字「委」は使わない)

周時代では東シナ海沿岸域は東夷であって範囲が広い。むろん日本列島も「東夷」のひとつ。
したがって周時代の伝承の書での「倭」には注意が必要で、その原意では東シナ海沿岸域から台湾あたりまでを含んでいる可能性があります。


BC2000〜BC1500頃、長江沿岸部の良渚文化が泥土に埋まって消滅。
(世界的な異常気象時代、ヒマラヤ融雪?〜長江の氾濫によると推定(中近東ではノアの方舟)。
その脱出者(海洋系)が九州縄文に変革をもたらしたとみています(中国伝承での三苗)。
参考図2 DNAに特有の塩基欠損をもつ人々の分布(濃い青ほどその比率が大きい)。

中国内陸では仰韶文化や龍山文化などと結合して夏、殷へ(周はチベット系で文化の系譜が異なる)。
南には東南アジア、東の海ではポリネシア。
(書記にいう高皇産霊尊とはその内陸系文化であり、神皇産霊尊とは沿岸部と海洋系文化を示す)

九州に渡来した海洋系三苗の系譜、これが記紀での大綿津見神に相当すると考えています。
良渚文化の最新の祭祀なども持つ(おそらく焼畑も)、九州にて大山祇神(縄文)と結合して天照大神の源流へ・・
(大綿津見神−−穂高見命(あるいは宇津志日金折)−−安曇氏)

少しくだって記紀の五男神三女神のうちの活津日子根命や宗像三女神も大綿津見神の流れを引いて日本海側。天津日子根命は九州西南岸の海洋系と考えています。
いわゆる海神族でもあって、後の豊玉毘賣や椎根津彦などを含みます。
具体的氏族としての安曇氏は弥生あたりでの日本海沿岸域での海の民を祖にしているのではないかなあ。






[11822] R安曇族?神奈備 投稿日:2015年 月25日(金)15時46分
日本人が文献に現れるのは

『論衡(ろんこう)』に、「周の皇帝に倭人(が 「鬯艸(チョウソウ)というものを貢(みつ)いだ)。」 という記事が初見とされます。。

この鬯艸を霊芝としますと。南方産のものとなりますが、昆布と考えると日本列島でも採取できます。

安曇族(原安曇族というべきか)は相当に古い海洋民族で、ルーツは 大陸の越あたりから、南九州へ渡ってきたを考えることができそうです。

南九州に居たとしましと、北の人々との間に交流交易もあったのでしょう。昆布を手に入れる可能性があります。

周は紀元前1000年ころにあったはずで、縄文時代に当たります。玄安曇族が跋扈していても不思議ではありません。


[11821] 異常気象と遠賀川かたばみ 投稿日:2015年 9月11日(金)23時45分
NHKの巨大災害 MEGA DISASTER 地球大変動の衝撃
第1集 異常気象 "暴走"する大気と海の大循環 (NHKオンデマンドあり)
にてMJOという概念(気候変動の研究)を知りました。数百年単位で発生する異常気象。
2千年前までの年輪の分析でAD127に大きなそれが発生(大洪水?)しているのだそうです。

てなこと書いてる間に茨城県鬼怒川の決壊で大洪水・・
(もし東京の荒川が決壊すると140万人の避難が必要になるそうです)


九州遠賀川の立屋敷遺跡は弥生土器の指標となる遠賀川土器の出土地です。
持論、弥生の初期(BC500以降)にこの人々が稲を以て全国展開、これを初期開拓者と称しています。
(和歌山県紀ノ川流域の遺跡では遠賀川土器と縄文遺跡が共存する)
素戔鳴尊が踏み荒らした田畑は遠賀川、ひょっとして大気都比賣命を殺害(^^;

しかし、それにしてはいささかおかしいと感じていました。
遺跡が小規模で他には弥生遺跡がない。
縄文貝塚と縄文遺跡(小高い位置)はたくさんあるのに・・

参考図 遠賀川流域(画像中央部に立屋敷遺跡)
海岸線は縄文海進4mほどの場合です。縄文貝塚の位置とほぼ一致。
縄文海退によってそこに田畑に向く土地が生まれていった・・はず。
(伊弉諾尊伊弉冉尊の国生み神話は縄文海退が源と考えています)

AD127、これか。
周囲の山から流れ込む水は遠賀川に集中する(山門、山戸、ヤマトの源とみています)。
大洪水が起きれば平地部の集落や田畑は水没、土石流が起きれば埋没する。
立屋敷遺跡はかろうじて現存した遺跡にすぎず、もっと多くの集落があったのではないか。
(奈良盆地と違ってこちらでは弥生集落が壊滅した)


AD127、持論年代では孝昭105-137の後期、倭国争乱の直前。
北九州の他の地域でも大きな被害が生じていたなら、倭国争乱の直接の引き金ともなる。
寒冷化が重なれば復旧は困難でしょう。

「孝昭」観松彦香殖稲尊、新種の稲を播いたが洪水で全滅・・
先代舊事本紀の天皇本紀に記紀とは異なる記述があります。
「孝照」天皇が二度登場する。懿徳の太子とする「孝照」と懿徳の第二子とする「孝照」(孝安の次に書かれる)の二人。
神武朝末期の分家情報が交錯しているのだと思います。
ひとつは遠賀川、ひとつは日向宮崎か。
宮崎ではその地の祖先の天火明命の展開先(はるか遠く尾張)からも妃を入れることになる。

そして遠賀川は消えて倭国争乱時代へ・・記紀の書く孝昭105-137、孝安137-175(卑弥呼登場)に主権が移動する。

http://6903.teacup.com/kamnavi2/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.ne.jp%2Fasahi%2Fwoodsorrel%2Fkodai%2F


[11820] 伽耶諸国と蘇我氏かたばみ 投稿日:2015年 8月31日(月)23時15分
書紀には百済と新羅は頻出しますが伽耶はあまり出てこない。小国群なので三国史記にもないのでしょう。
参考図1 紀元前の半島情勢(完訳・三国遺事/明石書店の地図に持論を補筆)。
神話での天穂日命と天之忍穂耳尊登場の前後関係、天穂日命の方がずっと近くからの渡来だった・・

参考図2 伽耶諸国の図(三国遺事などの記事による)。
箕子朝鮮崩壊BC194からの脱出者が「韓」を自称した(魏志韓伝)、韓人と倭人の混血系譜が「倭韓」。
(倭漢と書いてた、単語登録修正中(^^; )


斑鳩イカルガ、斑のある鳩のような鳥、の当て字なのでしょう。
当時に「イカルガ」と呼ばれた鳥がいた、とみておくのが無難そう。
現在のイカルという鳥に付会する論がありますが、イカルガだからなあ。

飛鳥も不明、万葉集から明日香アスカという発音があったのは間違いないでしょう。
(明日をアスと読むこと自体がどこからくるのか?ですけど)
それを飛ぶ鳥と当て字したのもやはり鳥がたくさんいたからなのでしょう。
飛鳥寺の平瓦に「飛」の文字。
http://6903.teacup.com/kamnavi2/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.bell.jp%2Fpancho%2Fk_diary-15%2F2015_06_12.htm


それらに大きな影響を及ぼす蘇我氏、伽耶系倭韓の系譜と推定(素戔鳴尊と半島系出雲につながる)。
加えて百済系倭韓が飛鳥時代の最新文化を運ぶ。

いつから蘇我氏の九州への登場がはじまったのか。
欽明539-571だとみています。
越の男大迹王と筑紫の磐井王との内戦で倭国が半島南部の支配力を失う時代。
百済と新羅による伽耶の争奪戦、その混乱からの登場。

書紀系譜は欽明539-571、敏達572-584、用明585-586となっています。
欽明には二人の蘇我氏の妃が入っているのに、敏達には入っておらず間接的に額田部皇女(推古)が書かれるのみ。
(額田部皇女を敏達皇后とすること自体が?、二人の間に子は書かれていない)
なぜか・・
欽明の居城は九州であり(九州王)、敏達の居城は奈良(近畿王)だったから。

蘇我氏は欽明時代にはまだ奈良には入っておらず、敏達との接触がなく妃も入れていなかった。
欽明死去で用明が継承(九州)(近畿ではまだ敏達)、敏達死去で用明は蘇我氏とともに奈良へ。
用明の任期は短くない、しかし近畿に随伴した崇峻がおいらが大王じゃ、とやったので蘇我馬子は怒ってこれを殺害(^^;
このあたりに書紀の書く用明と聖徳太子と推古の問題解決のポイントが・・略

蘇我馬子は相当の傑物だったとみています(崇峻殺害は大王の器に非ずとみたためと推定)。
用明の子(隋書で多利思比狐、書紀は身分を落として聖徳太子)によって飛鳥の文化大革命がはじまる。

書紀編纂者は蘇我氏の出自とその周辺事情を熟知だったと思う。書紀編纂者にとっては「近世」のことだし。
蘇我馬子死去、その子と孫は非力にて豪族を統率できず、なんだかんだで蘇我氏本家滅亡。
書紀編纂者は蘇我氏を悪役のごとくとし、九州系大王の系譜を消し、天智を天武(敏達系譜)の兄弟にしてしまった・・





[11819] Re: タタリかたばみ 投稿日:2015年 8月25日(火)18時15分
神奈備さんへのお返事です。

>目に見えない神秘の降臨や示現の跡を示すことを、古代では「タタリ」と言ったそうな

前に書きましたが、たたる、たたり・・タタ+ラリルレロの変化、にみえます。
自然神は恵みをもたらすと同時に災害ももたらす、その畏敬と畏怖への祭祀。
災いは起こさないでください・・畏怖。

「祟」は「出+示」、いでて示す、これだけなら災いとは限らない。
もし託宣の意味があるなら、まさに祭祀を意味すると考えられます。

大田田根子、オホのタタを祖先とする子。
多臣族オホの祖は神八井耳命、神武の子、媛踏鞴五十鈴媛の子、おそらくは出雲祭祀を併せ持つ祭祀者。
出雲の祭祀は山東半島の瑯邪八主と考えています(始皇帝時代の斉)。
天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、+(兵主、戦国期に追加)。
自然界の源を祀る、とみえます。
銅鐸の絵模様、動物や農耕狩猟、水流、自然界との接触を表す。
神武の祭祀は??ですがその時点では出雲祭祀が優位にあった、そこで出雲祭祀を導入したと考えています。

三角縁神獣鏡、卑弥呼の鬼道での用法と考えています。
楚の竹簡に書かれる呪術、鏡に鬼を写してその害を防ぐ。
棺の周りに鏡を配する、怨念による災いを防ぎたい。
すなわち、人間を大勢殺した英雄ほどたくさんの鏡を必要とする(^^;

その流れが平安に入って風水害や病気といった自然災害の源にも「怨霊のタタリ」を意識した。
このあたりで「祟」、タタリやタタルが「災いだけの意味」に用いられ始めるのではなかろうか。

前出の言蛇さんの「金銅のたたり」、写真の文字は木偏に「端の右側タン」。
「タン」は象形文字で木々が芽を出し根を張る、物のはじまりの意のようです。
木偏が加われば意味確定、「金銅のたたり」は木々の生育を祈願する祭祀具と思われます。
タタリの本来の意が文字にて説明されているのではないでしょうか。


雷は菅原道真、水は水神様、火は愛宕神社(修験と結合で火伏、同系が秋葉神社か)、風は?
疫病は・・天照大神、素戔鳴尊、月読尊のうちで強そうな素戔鳴尊尊、荒ぶる神。
病魔退散、牛頭天王登場。神仏習合とともに密教僧が広めたと考えています。
茅輪くぐり、蘇民将来、東京千住の素盞鳴尊神社の天王祭では「蘇民将来之子孫也」の幟をたてています。
参考写真 男御輿と女御輿があってどちらも荒っぽく揺さぶります。

八坂神社(祇園祭、祇園精舎)は(平安時代での)新羅の「牛頭山に座した素戔嗚尊」(の招聘)を縁起とするようですね。
伽耶山の海印寺の「伽耶山海印寺古籍」に牛頭山の名がみえるようですが、山容からくる名称でしょう。
日本なら牛首の地名に相当か、各地にある(牛頭は少ない)。
すなわち伽耶は弥生の出雲と深く関係する地域と考えています。

持論にて伽耶(伽耶山、牛頭山含む)は天之忍穂耳尊に敗れた素戔鳴尊の引退先であり、箕子朝鮮との関連から燕など北方経由の製鉄導入も可能でしょう(半島最古の製鉄遺跡AD1頃)。
引退時(BC130頃か)では70才くらいのご老体か、神話では素盞鳴尊の追放。
北九州から大量の戦死者遺骨がでる時代。

蘇我氏は伽耶系倭漢の流れだと考えていますが、状況証拠が乏しい。
入鹿神社の縁起の流れは複雑そうですね。もし当初から素戔鳴尊があったとしたら非常に興味深いです。
蘇我馬子創建という宗我都比古神社は武内宿禰と石川宿禰を祀っているようですが、こちらは書紀の書く系譜に従ったものと思います。
入鹿神社の場合はなにか主張があっての素戔鳴尊なのかなあ?




[11818] Re: タタリかたばみ 投稿日:2015年 8月22日(土)18時10分
かたばみさんへのお返事です。

神々がその神聖な気配を地上に現し、目に見えない神秘の降臨や示現の跡を示すことを、古代では「タタリ」と言ったそうな。これを主張したのは折口信夫さん。神の立ち現れが「タタリ」でした。その観念はやがて大きく変化し、人間や社会に危害を加える「祟り」を合意するようになったのです。神の示現が神罰の降下を意味するようになったのです。

天台座主慈円『愚管抄』 では、「怨霊とは現世で果たせなかった復讐を、冥界で果たすために登場する
存在で、相手を攻撃するだけではなく、世の乱れをも引き起こす存在」と書いています。

縄文の昔、埋葬方法に屈葬がありました。死霊の再生による災いを恐れたのです。それは現在まで通じる気持ちです。
祟りと鎮魂の例。
養老四年(720)隼人反乱の鎮圧で亡くなった隼人の慰霊のためにはじまった宇佐神宮の放生会は今まで続いています。
藤原不比等の息子の藤原四兄弟の陰謀で自死させられたい長屋王の祟りで四兄弟共に天然痘で亡くなりました。壮絶な祟りでしょう。
仏教には死後の世界の体系があり、成仏できずにさまよう霊魂を得道させる方法を持っていたので、基本的には鎮魂は仏教の役割で、これが早良親王の祟りを恐れた桓武天皇の平安京作りとその後の密教の繁栄につながりました。空海・最澄はよいタイミングで登場したのです。
神道の祟り封じの例
大化の改新の変で殺されたの蘇我入鹿を祀る神社にはより威力の強い素戔嗚尊が合祀されています。隣にゴッツイ神がおると、下手に祟れないということです。



[11817] Re: タタリかたばみ 投稿日:2015年 8月21日(金)20時52分
初心者さんへのお返事です。

>九州南部で絹が生産されていた可能性は高いと思います

ヤマタイコク、農業と漁業がメインの国だとみています。
北九州諸国が農耕不振で混乱状態となっても安定で主導的立場になった。

青銅や製鉄の周辺の山は炭生産のためにはげ山になったのではないか。
周辺に木がなくなれば青銅や製鉄拠点は他へ移動してまた伐採。
焼畑も行われていたはずで、一時しのぎの短周期の焼畑は森林破壊となって農耕不振を増長する。
(新羅本紀AD193に倭人が大飢饉となり避難民到来、の記事あり)

気候と環境破壊、その影響の少なかったのが温暖な宮崎だったとみています。
宮崎県では西都原古墳群以外には目立つものがない、畑か水田だけだったから(^^;
絹も生産可能だと思います、しかし食糧不足の助けにはならない。
宮崎県からさしたる出土物がでないのは、畑じゃなにも残らないから。
地味な地域だったのだと思います(現在も(^^; )。発掘予算の問題はおいといて。


以下ほとんど余談(^^;
九州全体が倭国、そのうちのどこの国に統率者がいたか。
神武朝時代(神武〜懿徳)では奴国か伊都国(委奴国=倭奴国)かな。後漢の最新文化が流入するところ。

孝昭105-137観松彦香植稲では違う場所かもしれない。
松を見て稲を植えるとは?? 母は天豊津姫命、懿徳では妃が出雲系ではなくなる。
この頃に出雲系の集落(田畑)の奪取が始まったとみています、倭国争乱の始まり。
例えば吉野ヶ里(遼寧式銅剣出土≒スサノオ系譜)、この付近は神武朝では出雲系の人々の居住地域だったとみています。

福田式銅鐸という特殊型が吉野ヶ里の北側から出土(この形式の最初の発見が広島市福田)。
佐賀県鳥栖市の安永田遺跡からその鋳型が出土。
小銅鐸(九州〜関東に分布)から一般銅鐸(九州以東〜東海、出雲文化圏)で大型化する前の過渡期の銅鐸だと考えています。
登場年代は天孫と出雲が共存していた神武朝時代(AD36−懿徳92-105)。
参考図1 出雲神族系統図


養蚕技術の持ち出しはやっかい、九州以東の出雲文化圏に養蚕はなかったと考えています。
(太平洋沿岸経由で千葉県の可能性はあり≒天火明命)
出雲は九州を国譲りしたために中国との交易路を失い、最新の文化と技術の導入ができなくなった。
(島根〜海路〜高句麗経由のみ)
大国主命と神武の停戦交渉(国譲り交渉)・・長期的視野にて神武の勝ち。
漢委奴国王の金印の用法は後漢との交易独占の御朱印だと考えています、志賀島など港で使うわけです。
(紙にぺたんではなく封泥か封蝋)

孝安137-175日本足彦国押人、孝霊175-204大日本根子彦太瓊、孝元204-225大日本根子彦国索
(年代は持論の書紀年代復元による)
混乱する倭国のなかから「ヤマタイコク」の卑弥呼が登場。
新羅本紀の173に倭の女王卑弥呼の使者来訪、とあります。就任挨拶の使者だと思います。
(この頃の新羅は脱解系譜で倭国と親密、前出)

そして開化225-248稚日本根子彦大日日、稚に注目です、幼い倭とはなにか。
奈良にて崇神朝が誕生(持論AD239景初3年)、その後も絹の出土は多いとはいえない、急ぐべきことではなかった。

書紀編纂者はそのあたりの情報は持っているはず。魏志倭人伝も読んでいるはず。
だがこの時代の卑弥呼の存在は書けない、事象も書けない。
「神武東征」以降に倭国が九州にあってはならない。
綏靖〜孝昭〜開化は空白とせざるを得ず、尊称にその状況を含ませるのみ。
(神功紀に倭人伝の引用がありますが、平安中期のできの悪い学者の補筆でしょう(^^; )

参考図2 アップ忘れてた、新羅の交易ルート推定図(草原の道、馬をとばせば1ヶ月で沿海州からカスピ海へ)





[ 11816] Re: タタリ初心者 投稿日:2015年 8月19日(水)10時24分
かたばみさんへのお返事です。

> それじゃ持論の場合に日向宮崎から絹がでていないのは・・宮崎県の発掘作業がまったく不足で発見されていないだけ(^^;
私も、邪馬台国はさっぱりわかりませんが
九州南部で絹が生産されていた可能性は高いと思います
蚕を上手に育てるには、九州北部はちょっと寒そうに
感じるという理由もあります。
世間の人はなぜだか北部九州を「南国」と考えていますが、
全国のお天気情報を見れば、近畿関東と大差ありませんから
加温飼育しないと蚕が死んでしまうかも

まあ、蚕はともかく、人間が裸足で生活するというのは
北部九州も大和も雪が降るし氷点下に下がるし想像できません
絹が生産できる技術があるなら、草鞋くらい編めそうに思います
稲を穂刈りしていたという問題はありますが、全量穂刈とも限りませんし

とりとめがなくてすみません


[11815] Re: タタリかたばみ 投稿日:2015年 8月18日(火)18時32分
追申。
なぜ魏志倭人伝の図か、の理由を書くのを忘れました。
絹の出土地です。魏志倭人伝には絹の存在が書かれています。
弥生の絹の出土地は北九州のみ。奈良からの出土は古墳時代に入ってからです。


http://yamatai.cside.com/tousennsetu/kinu.htm
 絹のデータベース

それじゃ持論の場合に日向宮崎から絹がでていないのは・・宮崎県の発掘作業がまったく不足で発見されていないだけ(^^;
ま、北九州での生産だけで事足りていた、という可能性もありそうですけど。




[11815] Re: タタリかたばみ 投稿日:2015年 8月16日(日)21時26分
初心者さんへのお返事です。

>高皇産霊尊と 栲幡千千姫命は同族なのでしょうか?違うのでしょうか?

高皇産霊尊と神皇産霊尊は氏族ではなく文化圏の総称として書紀編纂者が考えたのでしょう(うまいと思う)。
書紀編纂者にはある程度具体的な氏族情報があっただろうと思いますが、それを書くわけにはゆかなかった。

書紀の神武以前、すなわち神話の部分は、天照大神を最高神として統一するための段だとみています。
ですから高皇産霊尊や神皇産霊尊の扱いが、天孫降臨に至る「命令系統」で天照大神より上位のようなそうでないようなあいまいな表現になっているのでしょう。

天照大神(海照大神≒太陽神)、素戔鳴尊との関係から女性のイメージが強い、おそらくは縄文由来の巫女イメージ(≒大山祇神)。
だが姿をみせず書紀編纂者は鏡に代替した、そこに映るものすべてが天照大神なのだ・・これも文化を示すものでうまいと思っています。

素戔鳴尊の出自について書紀編纂者は情報を持っていたと思っています。
具体的には書けない、根の国の表現から死去した伊弉冉尊を連想させていますが・・
ここでの根の国とは地下の冥界に非ず、祖先の国の意。祖先の国とは箕子朝鮮・・魏志韓伝を読んでいないはずはない。
半島経由文化でもあります。

ちなみに月読尊、こちらはシンプルで漁労文化(潮流と潮の干満)と狩猟文化(月弓)を示す。


弥生の絹の伝来ルート最新版?
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page990.html
最古絹片も華中ルート

魏略「太伯の後と倭人がいった」
紀元前後の北九州から出土する長江系の桃氏銅剣→天孫系。対するのが遼寧式銅剣(北方の燕など)→スサノオ系。
その他各種呉越系文化との類似から、天之忍穂耳尊は長江系王族とみてよい、と考えています。
(その他の沿岸域からの脱出者もいるはずで、例えば天穂日命は斉など山東半島じゃないか)

呉楚七国の乱BC154、東シナ海沿岸国がすべて参加した反乱。
そこからの脱出者天之忍穂耳尊、その随伴者のひとり栲幡千千姫命。
栲幡千千姫は海系と陸系の双方の繊維を知っていたと思います。
絹の国内生産はまだでしょう、蚕の飼育と桑の植樹が必要です。
日本での絹の最古はいまのところ有田遺跡(おそらく天孫系)、ついで吉野ヶ里遺跡(おそらく出雲系)、どちらも長期にわたる大型遺跡。

参考図 神話時代〜魏志倭人伝時代をひっくるめた概観図。
(ヤマタイコク論はほとんど書いていませんが、倭人伝解釈はこの図だけで十分(^^; )




[ ] 半島からの渡来人?かたばみ 投稿日:2015年 8月16日(日)21時15分
半島からの渡来人(及び倭漢)に関しては、百済と伽耶(持論、素戔鳴尊の撤退先)はシンプルと思いますが、新羅はやっかい。
その王朝系譜に三つの系譜があるからです。参考図1
新羅は三国のうちで半島の東の辺境にあって、中国などとの交流に不利な地域、すなわち非力な小国だった。
失礼してその概観(ほぼ三国史記による)。

建国者赫居世(BC57)の系譜(朴氏)、8代目の阿達羅王(即位AD154)まで(卑弥呼の使者173の記事あり)。
脱解の系譜(昔氏)、脱解(即位AD67)が4代目(朴氏系譜に挟まる)で9代〜16代訖解王(即位AD310)まで。
(312に倭国が花嫁を求める記事あり、おそらく景行大王かその縁者の求めだと思う)
閼智の系譜(金氏)、若干錯綜しますが17代の奈忽王(即位AD356)以降です。

赫居世は天之忍穂耳尊渡来と同様に呉楚七国の乱からの脱出者の子孫とみています。
魏志韓伝に辰韓が書かれますが、秦韓でもあり秦の始皇帝の流れを汲む氏族の半島への脱出と考えています。
(山東半島の斉あたりか?)
天孫降臨と類似の伝承を持つことにもなるでしょう。
赫居世建国BC57、持論天孫降臨BC130頃〜神武建国AD36、時代が重なります。


天穂日命は天之忍穂耳尊渡来時にどっかへ消えますが、島根あたりへ漂着とみています。
記紀は天之忍穂耳尊に従わずと書きますが、出雲国造神賀詞では経津主命らとともに活躍している。
出雲臣族の祖、その子孫は大国主命の引退先の杵築大社の管理を行う。
ちなみに出雲神族(素戔鳴尊系譜)は斉の文化の影響大とみています。
斉の瑯邪八神(瑯邪八主)をメインとする祭祀、天穂日命の持つ文化の影響大ではなかろうか。


脱解(AD67)とは何者か。神武(AD30前後)の兄弟とされる稻飯命(稲氷命)ないしその子である可能性大とみています。
すなわち、朴系譜は天孫の祖先の仲間であり、昔系譜では天孫と縁戚、ということです。
この流れの中にあるのが天日矛命。

昔系譜の沾解王(即位247)あたりで王位継承の内紛に倭国が介入した様子がうかがえます(宇老角干の殺害)。
その内紛からの亡命者が天日矛命だ、と考えています。
天孫とつながる系譜、だから崇神朝(AD248〜)に亡命し崇神はその宝物で本人確認をした。
(都怒我阿羅斯等はおいときます)


閼智系譜(金氏)の奈忽王(即位356)登場以降で情勢が変わります。
新羅からローマングラスなど中央アジアや西域の文物が大量に出土するようになります。
参考図2
西域との交易路を確保して最新文化を入手し国力の増大に成功した。
西アジア系の最新の製鉄技術も入手でしょう、辺境の小国だった新羅が強国へ変貌してゆきます。

これに危機感を持ったのが「隣国」の九州勢力AD350頃(応神の前)、持論で倭王旨、書紀では神功。
百済はこの機を逃さず七支刀をプレゼント、AD369。
倭国のねらいは鉄生産技術、その関係者の倭国への強制移住。
西域系の商人なども含むでしょう、雄略紀で登場する秦氏の祖先の渡来もこの頃。
当然ながら以降の新羅は倭国と敵対することになります。


多々良氏の祖もこの頃にあるのではないでしょうか(伽耶か百済か新羅かはなんともいえず)。
後の秦氏は「商人」の系譜となり、多々良氏が製鉄の系譜となった(部外秘で書紀は書かない、多々良の呼称もまだない)。
この流れなら砂鉄製鉄じゃない、平安の砂鉄製鉄がいかなるかは? 氏族としての紆余曲折や浮沈は大きそうです。
多々良氏が復活するなら鎌倉時代以降かな。このときには製鉄イメージの名だけになっていたかもしれないけれど。




[11815f] Re: タタリ?かたばみ 投稿日:2015年 8月16日(日)21時12分
神奈備さんへのお返事です。

>多々良千軒と呼ばれたのは、単に農業とか林業とかで特徴があって呼ばれたのかどうか

ユーチューブにたたら製鉄の良い解説映像があって、その中でタタラ製鉄は大量の炭が必要で、近隣に炭焼き
施設を必要とした、という話がありました
(たたらの映像はたくさんあるけどどれだったか不明、1時間以上だったと思う)
間接的に炭焼き集団の去就なんてのもチェックが必要かもしれないですね。

今のところ最古の製鉄遺跡は広島県三原市の小丸遺跡かな。弥生後期らしい。
ただし知られるタタラ製鉄炉とは異なるすり鉢状で、鉄鉱石破片出土。

砂鉄を使うタタラ製鉄がいつからなのか、その呼称はいつからなのか・・不明(^^;
書紀の蹈鞴フィゴからは平安中期には製鉄の意味を持っていたことがうかがえます。
ただし、砂鉄利用の製鉄とは限らず、フィゴならどんな炉でも使うでしょう。
蹈鞴フィゴをタタラと読ませるのがいつからか・・

参考図 地図で見る日本地名索引による多々良の分布
小丸遺跡の位置と重ねれば、なんとなく安藝とか周防に製鉄が存在した可能性はみえる。
しかし、弥生後期のこの地域に砂鉄はなさそう。

参考図 日本の鉄資源(岩手の餅鉄は早々に取り尽くされて今はない)
関東と東北の多々良は砂鉄資源と重なります。
砂鉄製品の出土は蝦夷の蕨手刀、平安中期には登場だが砂鉄ではないものもある。
(AD400〜500でも東北で鉄製品がでているけれど砂鉄ではない)

砂鉄のタタラ炉に近いのは福岡県八熊遺跡の箱型炉か、平安初期〜中期頃。
この地域には砂鉄もある。
なんとなくではありますが・・この時代のこのあたりでタタラの呼称とフィゴと製鉄が混じり合ったのではないか。


現在知られるタタラ炉は鎌倉以降の発達で、鎌倉以前では不純物も多く農耕具用だったと考えています。
(鎌倉時代に人糞の利用が大規模となり農業が大発達、鉄が不足する)
名刀正宗、後に発達するタタラの玉鋼に非ず、鉄鉱石である可能性が高い、国宝で分析できず(^^;

だとすると多々良氏は・・いつの誰の子孫??





[11815] Re: タタリじゃ〜(Re: 七支刀)琉球松 投稿日:2015年 8月16日(日)10時45分

 北原白秋。。。いいですね。
 白秋の故郷柳川の友人から「いい酒があるから飲に来い!」って強引な誘いがしょっちゅうあります。
 「泡盛で十分だからおまえが先に沖縄に来い!」って、仲がいいんだか悪いんだか(笑)

 *源は中国皇帝の下賜品という認識* であるとすれば、春秋戦国時代まで遡るでしょうか。
 この時代は神武即位の頃に相当しますから、北部九州から天岩船で畿内に移動した物部氏の一派をも想起します。
 稲作技術が発達した長江下流から四川省あたりの文明が朝鮮半島南部をも席巻したでしょうね。

 『長江文明の発見(徐朝龍)/角川選書 1998 』より
*** 春秋時代晩期は、青銅にかわるべき鉄(鋼)という新しい金属が登場した時代だった。考古学の上では、呉国の領域の春秋晩期の墓から中国最初の鉄や鋼が数多く発掘され、呉国がこの人類史上革命的な金属を開発し、鉄器時代の先頭に立っていたことを証明している。**


[11815] Re: 天の若日子言蛇 投稿日:2015年 8月15日(土)15時29分
神奈備さまへのお返事です。

> 万葉集 292  ひさかたの 天の探女が 岩船の 泊てし高津は あせにけるかも
>
> 天の探女は天の若日子のそばにいる女神です。国譲りという緊張したシーンに登場します。
>
> 天の探女は大國主神の娘で、その命を受けて天の若日子の妻になった下照比売のことで、一体、何を探る使命があったのでしょうか。
>
> 1 天の若日子を大國主に従っていないあらぶる国津神をことむけること。美濃での戦いで死亡したとの伝承も残っています。
> 2 大國主に逆らわないように、天の若日子を骨抜きにすること。
> 3 高天原からの指令を妨げること。
>
>
> 天の若日子は優秀な神として派遣されています。結果的には高天原への裏切り者として射殺されますが、本当が天津日子根神のことでしょう。根は尊称、天津日子と天若日子、差がないですね。
> 御上祝系図には天津日子根神の皇女の名に赤留比売の名がでてきます。
>

ちょうど八月の歌舞伎座演目の「ひらかな盛衰記」を見てきたのですが、舞台設定がこのシーンそっくりですね。
びっくりします。

「潮干の 三津の海女の くぐつ持ち
   玉藻刈るらむ いざ行きて見む(万葉集0293)」


[11815] Re: タタリじゃ〜(Re: 七支刀)言蛇 投稿日:2015年 8月15日(土)15時19分
琉球松さんへのお返事です。
「すつきりと 筑前博多の 帯をしめ
          忍び来し夜の 白ゆりの花(北原白秋)」

雨が降ったおかげでやっとパソコンにむかえました。

>刀を勝者に差し出すことで、臣下となることを認める後世の武士の美学に通ずるでしょうか?

七支刀の場合は受け取った側・振るう側が敗者ということになりますから、武士の美学とは逆でしょうね。
石上神宮の七支刀は百済製だけど、当時でも源は中国皇帝の下賜品という認識は広まっているでしょうか
ら、日本・百済・中国それぞれがこの刀をどう認識して扱うか興味深いですね。
日本人が日本人に下す場合、それは十中八九、罠でしょう。



[11815] Re: タタリ神奈備 投稿日:2015年 8月11日(火)14時41分
かたばみさんへのお返事です。

大阪fy南河内郡河南町に白木神社・多々良宮社跡があり、その由緒は以下の通り。
 『河南町誌』は、当社は古来白木三郷(白木・長坂・今堂)の鎮守であり、江戸時代には「牛頭天王社」と呼ばれていたが、明治に白木神社と改名したとしている。白木は新羅であろる。
 『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」に、白木坂の地名があり、古代からの地名であることがわかる。
 ここより西の佐備や錦織は百済郡があった場所であり、当地は新羅からの渡来人が多く住んでいたと思われる。

 近くに多々良地名や多々良宮があり、中世には多々良千軒と云われたほど繁栄していたようだ。楠木家に仕えたが、北朝の畠山氏が楠木氏を滅ぼしたので多々良村もすっかり荒廃してしまったという。

『後太平記』に云う、多々良氏野上修理亮は楠木家に仕えて誉あり。然れども次第に衰え、終には正勝十津川の方へ漂白し、和田等も悉く何処ともなく蓄電せし故、多々良の某も我館をたちのかんとせしが、まず淋聖太子の宮に詣で、お暇を乞せしと書けり。。。。この多々良の某は長坂白木の間に住しと見えたり。多々良の谷と云う所にあり。淋聖太子は多々良氏の祖神也。仍て我館の辺に淋衝太子を請して宮を建、氏神とせしと聞こえたり。(可正旧記)

 さて、多々良千軒と呼ばれたのは、単に農業とか林業とかで特徴があって呼ばれたのかどうか、普通は タタラ といえば踏鞴製鉄が行われていたと想像するのだが、それを示すような遺跡が出ていないようなので、いくら調べても多々良千軒を特徴づけるさb業が見えてこない。

http://www.kamnavi.jp/en/kawati/siraki.htm




[11814] Re: タタリかたばみ投稿日:2015年 8月 7日(金)11時10分
>初心者さんへのお返事です。

タタラの場合は船の意であろうとみています(単純名詞)。
神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛、踏鞴フイゴにあてていますが倭国での砂鉄製鉄が盛んになってからの当て字と思います。
タタラ製鉄ではその炉の構造に大舟、小舟の呼称があります。
参考図1 確か日立金属HPの靖国製鉄だったと思うけどWEB閲覧できないな?

台湾〜フィリピンのヤミ族ではその船をタタラと称しています。
参考図2
http://modama.exblog.jp/16644224 ヤミ族の染織
(現在の素材は麻の仲間みたい、太布、タク布、タク縄→タパとつながるか)
ヤミ族系の織りの技術もあったかもしれないなあ。

炉が舟の形に似ているゆえのタタラ製鉄の呼称になったと考えています。
お姫様が製鉄ではそぐわない、媛踏鞴五十鈴媛でのタタラは船の意であり、五十鈴は小銅鐸?を取り付けたたくさんの船の意であろうと考えています。
(五十鈴川も同じ、たくさんの船のいる川の意、日向の五十鈴川と伊勢の五十鈴川)

任那の多々良公の多々良は欽明時代以降のようで、製鉄の意ではなかろうか。
(伽耶地域は最古の製鉄遺跡があり、鉄の争奪戦の地域)




[11813] Re:大和川琉球松 投稿日:2015年 8月 7日(金)10時23分
初心者さんへ

 言蛇さんが紹介してくれた絹織物を作る器具と「タタラ」は無関係ではないかもしれません。
 沖縄島南部にも「多々名グスク(城)」があって、金属精錬と養蚕との関係が指摘されています。

 中国での金属の神と言えば「蚩尤」を連想しますが、太陽神「魃」によって滅ぼされますね。
 この太陽神は西王母でしょうか? 四川省の「三星堆遺跡」出土の「神樹」は9羽のカラスが太陽を呼び寄せるとされています。この器具?に絹織物などを掛けたかは微妙ですけど、「七支刀」や「タタリ」のルーツかもしれません。
 あるいは、金属神蚩尤の祟りは溶鉱炉で再生され、無害化されて機能的な器具となったでしょうか。





画像は、三星堆博物館所蔵の「神樹」と金属神「蚩尤」。。。『Wikipedia』より


[11812] タタリ初心者 投稿日:2015年 8月 5日(水)11時55分
平成20年8月ごろ、こちらの掲示板で
結構、熱くタタリについて語られていましたが、
その時はタタリとタタラの関係についてでした。
>「『新撰姓氏録』山城国諸蕃「任那 多々良公」に・・・金の多々利
と、確かかたばみさまが引用された
金の多々利は、私の脳内では「三本脚のタタリ」でしたが
よく考えると、言蛇さんの画像の方のタタリのように思われます。
実はその時も画像を貼って下さった方がいらしたのですが
想像していた三本脚の画像ではないので、見落としていました。
で、今も南山城に「タタラ」で地名が残っていて
タタリを献上したタタラ公と古事記のヌリノミの故事から
養蚕発祥の地とされています。


[11811] Re: タタリじゃ〜(Re: 七支刀)かたばみ 投稿日:2015年 8月 4日(火)20時15分
言蛇さんへのお返事です。

初めてみます、機織り機の部品とは思えないけど先端の形状からは木の枝という感じですね。
タタリですか、動詞になるとタタルはありえそう。

崇神時代の祭祀者大田田根子、多臣族オホのタタを祖先とする子、と解釈しています。
タタを祭祀具か祭祀者か呪術の一種とみることができるか?

唐草模様、役に立たない雑草(^^; それがなぜ模様になったか。
木の葉隠れの術、狩の時はむろん戦いの時の隠れ蓑、模様化はおまじない。
自衛隊の隊員が鉄兜に葉っぱをくっつけて匍匐ホフク前進、なんか時代錯誤を感じるけど呪術のおまじないなら納得(^^;




[11810] 天の若日子神奈備 投稿日:2015年 8月 2日(日)11時35
万葉集 292  ひさかたの 天の探女が 岩船の 泊てし高津は あせにけるかも

天の探女は天の若日子のそばにいる女神です。国譲りという緊張したシーンに登場します。

天の探女は大國主神の娘で、その命を受けて天の若日子の妻になった下照比売のことで、一体、何を探る使命があったのでしょうか。

1 天の若日子を大國主に従っていないあらぶる国津神をことむけること。美濃での戦いで死亡したとの伝承も残っています。
2 大國主に逆らわないように、天の若日子を骨抜きにすること。
3 高天原からの指令を妨げること。


天の若日子は優秀な神として派遣されています。結果的には高天原への裏切り者として射殺されますが、本当が天津日子根神のことでしょう。根は尊称、天津日子と天若日子、差がないですね。
御上祝系図には天津日子根神の皇女の名に赤留比売の名がでてきます。



[11809] Re: タタリじゃ〜(Re: 七支刀)琉球松 投稿日:2015年 8月 1日(土)10時29分
言蛇さんへ

 これは面白いですね。「祟り」の起源はこの「タタリ」ではないかとも思えてきました。
 刀を勝者に差し出すことで、臣下となることを認める後世の武士の美学に通ずるでしょうか?

 江田船山刀や稲荷山刀とも合わせ、中国漢王朝と南朝宋との関係性を問う必要がありそうですね。

*** 天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占いをさせた。賢木を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。***


[11808] タタリじゃ〜(Re: 七支刀)言蛇 投稿日:2015年 7月31日(金)14時15分
かたばみさんへのお返事です。暑い中お疲れ様、奥さん元気ですか?

>
> 桑は縄文に遡って最重要樹だったと思います。食用、薬用、木の皮は繊維に、後には蚕。
> 諏訪大社の神紋が梶の葉。
> 桑科の梶(カジノキ)は紙の原料、東南アジア〜ハワイ方面でのタパ布の原料、大海原を渡るカヌーの帆が白く輝く・・
> 高木があればそこに落雷、太古からの神聖樹のイメージとからめばいろいろが生じそうです。
>
>


絹織物を作る器具の一つにタタリがあります。七支刀の大きさは丁度この器具の大きさに近いんですよね。
タタリをもとに下賜品として作られたのが七支刀の始まりなのかもしれません。七支刀を受け取ったら、その王は
「中国皇帝の端女の一柱だよ」という諧謔を込めて作られた呪いの武器。

「ことしげき 里に住まずは 今朝鳴きし
    雁に副ひて 往かましものを(万葉集1515・但馬皇女)」




[11807] Re: 七支刀川かたばみ 投稿日:2015年 7月23日(木)20時02分
そもそも、九州倭国とか近畿倭国といった別の国家のごとき意識はなかった、と考えています。
みな同族であり、宮殿(拠点)がそれぞれの時代の重要地域におかれていただけ。

ヤマタイコク時代では制圧した出雲の拠点、その最寄りに近畿出張所(^^; がおかれた。
だが本家が直後に崩壊して消えたのでバトンタッチ、後にあっちへいったりこっちへいったり・・
ある地域の利権とか支配欲による行動はいつの時代でもあったとは思うけど。

半島における高句麗や百済や新羅の国家の抗争とはまったく異なると考えています。
こちらは大陸と陸続きでもあり、やらねばやられるという激しい感覚が長年にわたって形成されていたとみています。
地域性が生み出す意識ですね(中近東あたりではそれが今でも激しい)。


弥生BC200頃の北九州から大量の戦死者遺骨がでます。
このような事象は以降の日本にはないと思います(戦国時代など狭い地域限定は別にして)。
「外国の意識」による戦いだったからだと考えています。
中国からの渡来者と半島からの渡来者の意識の衝突です。
やらねばやられる、恐怖と怖れが引き出す意識。

だが、大国主命の国譲りと神武の出雲との融合政策がこれを消していった。
幸いにして弥生の温暖期であり食糧問題も生じておらず、争うとしても一般的な物欲のため程度だった。
だが、寒冷化による食糧不足という状況が倭国争乱を引き起こす。
そして出雲文化圏への武力侵攻となる。生きるか死ぬかの状況になればなんでもやる。


崇神、垂仁を高く買っています。
勝者ではあるが、圧政を敷いた気配がない。なにがしかの反乱はあるでしょうけど。
民衆救済に動いたのが大型古墳の築造、強制労働ではない、箸墓説話でもその様子はうかがえない。
祭祀でも出雲祭祀を導入して民心安定を図った。むろん「伊勢」といった自らの祭祀もおくけれど。
だから後世に崇神とか垂仁といった名が与えられたのだと思っています。

景行には無数の子がいます。武力ではなく婚姻によって安定化をはかろうとしたからだと考えています。
日本武尊が九州の熊襲から名をもらった、熊襲が自らの先祖(ヤマタイコク)の末裔だったからに他ならない。
関東の日本武尊伝承でも戦闘の痕跡が見えず出雲系文化からの協調がみえます。
これも崇神以来の意識の影響だろうとみています。

食糧問題がない限りは、狂気の支配者ではない限り、殺し合い(≒戦争、怨念)は起きない。
ただし、いったん憎悪や怨念が生じるとそれを消すには数世代を要す。

平安〜鎌倉〜室町時代の武器に矛や槍はありません(長刀はあります)。
槍はさしたる技術なしでも相手を殺せる武器、鎌倉あたりでの戦は殺すための戦ではなかったからだと考えています。
(戦国時代になるとそんなことはいっていられなくなる、鉄砲も登場)


神功紀において、武内宿禰が仲哀の皇子を執拗に追跡して殺害する。
違和感を持っています、そこまでやるか・・?
やらねばやられるの感覚を持つ者の行動・・似ているのが蘇我氏じゃないか。
蘇我氏を嫌う雰囲気を感じますが、行動様式に類似を感じるからではないか。

物部氏の場合は武力を背景にもつ商人。
こちらは古い、先代舊事本紀での天火明命が濃尾方面へ渡航するシーン、天物部25部と従う配下に船長や笠縫といった手工業的人々がいる。
おそらく製紙や機織りも含む、こちらは四国南岸〜濃尾を経て房総半島まで進出。
海神族が多数加わっているはずで、後の物部氏を多数の氏族による海運ギルドと見なす所以です。
輸送と武器商人、農産物は扱っていないが、深山へ入って資源探索も行う集団。


さて、日本書紀。
豪族間の抗争は常にあり、それが乱れの原因になっていた。
それを防ぐ、それには絶対の権威を持つ体制を作るのがよい・・そう考えたのが書紀編纂者だと考えています。
神武スタートの万世一系、年代も中国史書とはからまない昔に遡らせて。

古墳末期〜飛鳥での宮殿はほぼ九州、天智も九州系。
だが天武にいたって宮殿は奈良で安定、「政庁システム」としの藤原京も完成。
神武の九州統一と開化の出雲制圧という事象を合成して神武東征説話を作りだし、以後の奈良以外の王朝を認めず、連動して九州系大王も認めずとなった。
現実の歴史とは異なり、そのままでは史書とはみなせない内容だが、天皇絶対化の効果はそれなりにあったと思います(悪用もされるけど)。
では、歴史として日本書紀をどう扱うか・・




[11806] Re: 七支刀かたばみ 投稿日:2015年 7月20日(月)19時08分
石上神宮では「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼んでるようですね

とんがった部分をすべて枝とみるかどうかだと思います。
剣か鉾(槍)か、長柄に装着する方が視覚効果はずっと高そう。
銘文内容に呪術性はないけれど、きらきら光るのは効果抜群かも。

「国宝「七支刀」の復元実験」参照
装飾品であり製造時から折れやすく、さしたる力が加わらずとも折れる可能性はありそうです。
しかし自然に折れるなら枝の部分じゃないかなあ、根本が折れているのは人為的なものだとみています。


桑は縄文に遡って最重要樹だったと思います。食用、薬用、木の皮は繊維に、後には蚕。
諏訪大社の神紋が梶の葉。
桑科の梶(カジノキ)は紙の原料、東南アジア〜ハワイ方面でのタパ布の原料、大海原を渡るカヌーの帆が白く輝く・・
高木があればそこに落雷、太古からの神聖樹のイメージとからめばいろいろが生じそうです。




[11805] Re: 七支刀かたばみ 投稿日:2015年 7月20日(月)19時02分
以下若干細かい歴史観(^^;

続く欽明がいかなる系譜かはおいて、半島情勢回復に懸命(書紀の記述も半島関連がほとんど)。
むろん拠点は九州で磯城島金刺宮あるいは師木島大宮(福岡県の糸島あたりか)。
伽耶地域(任那)は百済と新羅の抗争の場となって倭国は関与できずとなる。

伽耶から九州へ脱出した伽耶系倭人が蘇我氏と推定、九州から近畿へ展開し物部氏との勢力抗争開始。
近畿王の安閑宣化は名目のみだったが、欽明が半島情勢対応で近畿に手が回らない間に有力となったのが近畿王敏達。
蘇我氏は欽明には妃を入れているが敏達には入れていません。敏達が近畿の王であり接触がまだなかったからでしょう。
(敏達の子の田村皇子には妃をいれている)

九州の欽明死して用明が継承、これは欽明の子でよいと思います。
九州の用明と近畿の敏達が並立です。
近畿王敏達の死去で近畿王継承者争い、近畿情勢混乱。

物部氏と蘇我氏の抗争も激化。
隋が中国統一、用明が隋へ使者(新唐書の目多利思比狐)。
半島情勢はもはや干渉すらできない状況。
近畿の混乱収拾のために用明は大阪付近へ引っ越し、七支刀など九州にあった財宝もろともに。
(九州王を指名しているはずですが記録には残らず、あるいは書紀が無視)

ところが、崇峻が用明を毒殺・・たぶん(^^; おいらが大王じゃ・・程度のことでしょう。
崇峻もまた蘇我馬子に殺害、おめえじゃだめだ・・程度のことでしょう。
奈良は大混乱となる。
用明の子の多利思比狐が大王に即位。蘇我馬子はこれを支持、物部氏滅亡。
宮殿は大阪に出やすい斑鳩、七支刀もおそらくそこにあったと思います。

隋に使者、隋から使者、隋は既知の九州倭国とは異なる近畿倭国の存在を知る。
(隋書で「倭」のような文字が使われるのはそのため)
書紀は隋の使者すら唐の客人と偽っています。用明系譜抹消のために推古女帝を登場させる。

書紀は用明の子に厩戸皇子(聖徳太子)を書いています(これが多利思比狐大王の可能性あり)。
本来、女帝の必要性はなにもない。目的は近畿王敏達系譜の田村皇子(舒明)へスキップして天武へつなぐため。
(書紀は用明系譜の天智を天武の兄弟とする系譜改竄)

半島では百済が再び倭国に救援要請、だが今回は新羅の後に強大な唐があった。
天智は白村江で大敗を喫す。
最後の九州系大王が用明系譜の天智・・壬申の乱へ。


石上収蔵庫の武器、紛争の気配があれば出し入れが行われるはずでその位置や内容に秘密はない。
実用できる剣であれば使われたと思います(収蔵庫は空になる)。
石上神宮から財宝らしきの出土が少ないと感じます。本来武器庫だったからだと思います。

近畿における七支刀は用明系譜の宮殿にあった可能性大。例えば斑鳩宮。
蘇我馬子死して蘇我氏内部でも主導権争い、蘇我入鹿が斑鳩宮を焼き討ち。
火災、七支刀の折れる第2候補。

で、石上収蔵庫付近に七支刀を隠蔽したのは天智の娘の持統である可能性少なからずと考えています。
彼女にとっては父の遺品でもある大事な宝物。
ゆえに書紀編纂者は現物をみていない(所在も知らない)、だから銘文に七支刀と明記されるのに伝承のみで「七枝刀」と書いたのではなかろうか。

石上神宮が神社化するのはずっと後と思います、縁起としては開化崇神に遡って当時の剣の伝承を持つ。
七支刀は神社に奉納された剣ではなく、後に発見されて神宝化した、ということです。




[11804] Re: 七支刀かたばみ 投稿日:2015年 7月20日(月)18時55分
神奈備さんへのお返事です。

>九州の王がもらったものが、大和の神社に保管されて、現在に伝わる、希有なことではないでしょうか、

希有とみるか必然とみるか・・歴史観が分かれ道になると思います。
奈良で天孫王朝が主権を握っていた時代は崇神〜成務(仲哀)だけだと考えています(仁徳は九州の応神と並立)。

>『日本書記』の記事が4世紀のころまで信用できそうなのが混ざっている、すごいことだと思います。

4世紀どころではなく縄文末期に至る情報まで、相当量の情報が残っていたと思っています(特に九州においての口伝)。
書紀編纂時にそれらをどう処理して文字に残したか、だと思います。
書紀を、いつ、どこで、だれが、なにがあったか、の4つに分けて考えているのはそのためです。
なにがあったか、については原則として相応の伝承があった、とみなしています。

書紀解釈はそれらの伝承を文字にするとき、いかなる意識(思惑)を以て編纂したか、思惑がどのように加わえられているかを推定すること。これにつきると思っています。
(魏志倭人伝解釈などとは異なって、人の思惑の推定なのでやっかい)

書紀は徹底的に九州関連事象と「出雲」を消そうとしている、なぜそこまでするのか。
天皇の絶対化(万世一系)のためだと思います。
最初に神武東征説話で奈良に「天皇」をおいてしまったこと、これが「近畿の天孫」以外を認めることができない自縄自縛になってしまった。
神々の体系を統一する目的もあると思いますが、これは神武以前の神話部分だけで片付きます。

出雲文化や九州倭国など「近畿の天孫」以外の事象は無数にある。
書紀はこれらの関係を改竄するか消すしかなくなった、苦しいですね。


大王系譜と地域性の概観を大昔に遡って。
毎度の長文にて失礼。

素戔鳴尊が北九州(BC190頃)へ渡来。
天孫の親の天之忍穂耳尊渡来(BC150頃)、北九州で素盞鳴尊系譜と激戦(多数の戦死者遺骨)。
敗れた素戔鳴尊は半島南岸の伽耶へ撤収(伽耶系倭漢の源流)。

天孫降臨、九州東岸(天火明命)と九州西岸(瓊々杵尊)。
北九州では天孫と出雲の混合および抗争継続。
日本海沿岸では天穂日命の子孫が展開。

九州東岸(日向宮崎)では出雲系との混合はなく、彦穂々出見、五瀬命など。天火明命はさらに濃尾へ。
九州西岸では瓊々杵尊系と海神族の混合。
九州の東西結合(古語拾遣と新唐書の彦瀲ナギサ)から生まれるのがイワレヒコ(神武、鹿児島)。
出雲系譜は瀬戸内に進出し奈良に到達。

神武は九州西岸を北上して北九州へ達して九州統一(大国主命の国譲り)。
光武帝の金印AD57。
北九州での神武系譜と出雲系譜の混合時代。弥生の温暖期でもあり農地の拡大もできた黄金時代。
出雲祭祀との混合、神八井耳命(多臣族の祖)。

弥生の寒冷化、人口過密と農耕不振から北九州で混乱がはじまる。
孝昭、孝安、孝霊、孝元、は日向を含む北九州の天孫の濃い系譜と推定(単純に親子ではない可能性あり)。
倭国争乱、温暖な日向宮崎では安定が確保され、卑弥呼が登場。

九州以東の出雲文化圏でも農耕不振、銅鐸の大型化。だが農地にゆとりがあって混乱には至らず。
北九州では飢饉発生、食糧不足と混乱はさらに激しくなり、卑弥呼はついに東の出雲領へ侵攻開始。

開化大王その他によってAD239に奈良を制圧。
三角縁神獣鏡の景初3年とは製造年ではなく奈良制圧の記念日を示す。
(景初4年は崇神朝の発足といったところでしょう)

その直後に九州倭国は崩壊、近畿倭国が救援物資輸送(近畿の庄内式や布留式土器が九州からでるのはこれによる)。
崇神垂仁は古墳築造によって農民救済、農地開墾を行い、民心安定のために出雲型祭祀を導入(多臣族、大田田根子)。
九州復興のため景行は7年にわたって九州に宮殿を置く(日向?)。
(熊襲とは没落したヤマタイコクの子孫に他ならず、日本武尊が蛮族から名を受け取るはずがない)

農耕の安定化が進み、成務の屯田制?にて近畿倭王朝がその土地を占有化。
各地豪族の反発と反乱勃発、復興した北九州の倭王旨が反乱鎮圧中の仲哀を殺害。
北九州の倭王旨や応神は神武の直系である自負をもっていたと思います。
(仲哀側の祭祀者は中臣氏、後に書紀が九州勢力をやたら嫌う遠因かもかも・・)

北九州にて応神から倭王五代。近畿では仁徳が復権して並立。
仁徳以降に近畿では有力な王は登場せず、安康(倭王済)、雄略(倭王興)が允恭を廃して近畿〜関東まで支配。
(神武から仁徳系譜までを支援していた葛城氏も滅ぼされます)

百済本家が高句麗によって滅亡、九州倭国にあった東城王にて再興。
倭王五代の最後倭王武(武烈)が死去し継承者不在。筑紫の磐井王が継承。
当然武器庫とか宝物庫があるはずで、磐井王が継承でしょう。

そこに攻め込んだのが、応神の分派である越の男大迹王(近畿王は弱体)。
筑紫の磐井王と越の男大迹王の内戦、七支刀の折れる可能性の第1候補。
双方疲弊して半島南部(伽耶→任那)の支配力を喪失。
その後の男大迹王の拠点はあちこちかなあ(^^; 九州メインだとは思いますけど(半島情勢に対応)。

いったん段落



[11803] Re: 七支刀琉球松 投稿日:2015年 7月17日(金)18時01分
 石上神宮では「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼んでるようですね。

 たしかに「支」は六本しかないのに七支刀ってどうなんでしょうか?
 「叉」は又でしょうから、神宮の呼び方のほうが妥当だと思います。

 そこで連想するのが「雷が桑の木の枝の又に挟まって死んだ」って故事ですね。
 雷除けの呪文を「桑バラ桑バラ」と言いますが、琉球圏では「クァーギヌマタ(桑の木の又)」と唱えます。
 沖繩の雷は、なぜが桑の木を恐れてるんですよ(敵対してるとも言えそうですが)。

 七支刀って、雷神を取り込む物部の祭具じゃないでしょうかね。




[11802] Re: 七支刀神奈備 投稿日:2015年 7月17日(金)14時33分
かたばみさんへのお返事です。

台風一過の蒸し暑さの残る大阪です。


 七枝刀は石上神宮の宝庫の片隅に木の箱に入っておかれていました。確かに折れた跡が残っていました。
 隣に近年にこしらえた刀も置かれていました。でこぼこした印象でした。
 現物は、鉄板を打ち抜いたように見える平板な感じのもので、鍛造されたものとは思いにくいようにみえましたが、それだけよくできているものなのかもしれません。


 石上神宮の祭礼では七枝刀を先頭にして行列が進むそうです。現在は木箱にいれtらままのようですが、その昔には抜き身の、七枝刀を木や竹の先に取り付けて行進していたのかもしてません。

 ポロリと落ちで折れてしまったってこともおこったのかも。

 どうなんでしょう、九州の王がもらったものが、大和の神社に保管されて、現在に伝わる、希有なことではないでしょうか、

 NHK、みました。4世紀末ころの天文図、説得力がありました。そのころの倭と百済の対高句麗軍事盟約のしるし、山の上での盟約ー倭は大王が立ち会っていないーだけでは心もとないので七枝刀を差しだしたということかもしれません。
 いずれにしても、『日本書記』の記事が4世紀のころまで信用できそうなのが混ざっている、すごいことだと思います。





[11801] 七支刀かたばみ 投稿日:2015年 7月16日(木)08時20分
七支刀の解釈は古代史の様々な状況をつなぎ合わせる重要な要素と思いますが謎も多いですね。
毎度の持論と重ね合わせた長文にて失礼。

銘文の年代解釈がいろいろある。
倭王旨を王名とみなさない解釈もある(応神を仲哀の子とする書紀の記述に合わせるための論だと思うけど)。

七支刀が折れていることに注目しています。
ぼろぼろとまではなっていない鉄剣、たやすく折れるとは考えにくい。
国家間での贈答品であり、倭王五代系譜で粗雑に扱うとは考えにくい。
折れている(折られた)のはなんらかの紛争に巻き込まれた結果ではないのか。

七支刀はいつ石上神宮(の原型)の地に収蔵されたのか。
布留剣や布都斯剣は開化崇神時代だろうと思います。神武に遡る剣ではないにせよ開化時代での記念碑的剣だったかもしれない(鏡では三角縁神獣鏡)。
石上神宮の原型は武器の所蔵庫であり、開化崇神時代にも物部氏が管理したとみています。

物部氏族の行動様式は商社的であり、古くは出雲と天孫の双方にまたがって行動した。
ある系譜の王だけに所属するのではなく独立した海運ギルド(多氏族複合)といったところ。
(悪くいうならもうけるのを第一とする行動様式(^^; )
それが長髄彦と饒速日説話の源でもあると考えています。


さて、半島側での状況はいかに。
高句麗、百済、新羅が抗争中(加えて伽耶地域、ほぼ倭に属するはずだが記録記事がない)。
好太王碑(高句麗)に書かれる「倭軍」とはなにか。
半島西南部(ほぼ百済)に登場する前方後円墳はいつだれが築造したのか。
これを明確に説明できる歴史認識は・・(^^;

三国史記(1145編纂)の百済本紀では「166  肖古王即位」「214 仇首王即位」が書かれ、ずっと年代が下って「346 近肖古王即位」「375 近仇首王即位」という奇妙な王名が書かれています。
神功紀には「肖古王」が七枝刀と七子鏡を送ったとある(書紀が引用する百済本記や百済記などは現存せず)。
七支刀が166-214では神功がヤマタイコク時代となって時系列と魏志倭人伝がめちゃめちゃになってしまいます。

書紀が引用する百済の史書は百済滅亡660の後に渡来した百済の学者によって大和朝廷管理下で編纂され、このとき「近肖古王と近仇首王」という王名の書き換えがあったと考えています。
書紀の年代改竄に連動させるための百済の学者の妥協でしょう。

三国史記は高麗(高句麗系)時代の編纂、三国時代の百済と倭との関連の深さに比して倭人関連記事が異常に少なく、参照記事の多くが編纂時に削除(無視)されたと考えています。
書かれる年代については、高句麗、百済、新羅そして中国との相対的関連があるゆえにおおむね正確であると考えています。

不自然な王名が書紀年代のずれ(改竄)を示す。
七支刀が送られた年代は「近肖古王346〜375の間」であり、百済が高句麗に対抗するために倭国(九州)の支援を求める贈答品(騎馬など軍事技術も提供と推定)。
年代解釈論のうちの369年が妥当(持論の書紀年代復元のキーのひとつ)。

倭王旨とは百済が接近しようとした九州倭王を示す(すなわち応神の父、母は不明)。
好太王碑(高句麗)の倭軍とは応神の百済支援軍(この頃近畿では日本武尊系譜の仁徳が復活、応神系と内戦モード)。
半島の前方後円墳(百済)は応神系の倭人が築造したもの(百済と倭の混合地域)。

なんだかんだで、七支刀は九州倭王に送られたものであり本来は九州にあるべきもの。
管理者はやはり物部氏だと思うけれど、折れる(折られた)のは倭王五代の継承者であろう筑紫の磐井王と(反乱を起こした)越の男大迹王との内戦による。
で、七支刀を石上神宮(の原型)に運んだのは、後に近畿王敏達の死去で九州から奈良(大阪)に展開した用明大王。

飛鳥時代となって物部氏の滅亡でその財宝は散逸したと思います。
ま、ほとんどは蘇我馬子のふところに入ったでしょうけど(^^;
書紀には七支刀と七子鏡が送られたとありますが、七子鏡は石上神宮からは出土していないですね。
保管されるなら七子鏡は七支刀といっしょのはずと思いますが行方不明。

七支刀だけで大河小説ができそう(^^;

余談
キトラ古墳の天井に描かれる天文図。
天文学からの検証ではAD400頃の長安あたりの緯度での天体図である可能性が高まった。
(16日夜のNHKのコズミックフロント参照)
注目はカノープス、南天水平線上の星。高緯度地域では見えない(内陸の長安で見えるかどうかは?)。
(少彦名命が去った後の大己貴命の眼前に浮かび上がる幸魂奇魂はカノープスであるとみています)

天文図が運ばれたのは七支刀とおおよそ同時代以降となります。
この天体図を日本へ運び込んだのはだれか・・日本へ避難した百済か高句麗の人でしょう。
学者でしょうからAD660以降の百済の学者の可能性が高い。
だとするとキトラ古墳の被葬者もその関連の人物か・・




[11800] Re: 神仏習合p-146(寺門僧記補録) より神奈備 投稿日:2015年 7月 8日(水)17時08分
溝口善久さんへのお返事です。

ありがとうございます。「寺門僧記補録」で検索していましたら、いろいろあるのですね。

その中に
那智 (出典 『寺門僧記補録』)
礼殿執金剛童子 弥勒菩薩
湯峯金剛童子 虚空蔵菩薩
石上新羅大明神 文殊菩薩
近津湯金剛童子 精進波羅密菩薩
瀧尻金剛童子 不空羂索観音
切目金剛童子 十一面観音菩薩
藤代大悲心王童子 千手観音菩薩
飛鳥大行事大宮 大威徳明王

というのがありました。熊野に関係なさそうなのも混ざっているようです。何でしょうか?





[11799] 神仏習合p-146(寺門僧記補録) より 溝口善久 投稿日:2015年 7月 6日(月)22時14分
大部分の王子神社には金剛童子が祀られているが、塩屋王子神社は
天照大神(本地仏 大日如来)で格式は一番高いとされている。
五体王子と称するのは五体の神像を祀っている王子神社のことである。

神仏習合p-146(寺門僧記補録) より
本宮大社 阿弥陀如来
速玉大社 薬師如来
那智大社 千手観音菩薩
塩屋王子 大日如来 (天照大神)
伊勢神宮 大日如来 (天照大神)

湯峰王子(湯峰金剛童子)虚空蔵菩薩
発心門王子(発心金剛童子)大白衣
近露王子(近津湯金剛童子)精進波羅密菩薩
滝尻王子(瀧尻金剛童子)不空羂策観音
切目王子(切目金剛童子)十一面観音菩薩
藤代王子(藤代大悲心王童子)千手観音菩薩

mizo_aa@ybb.ne.jp ご無沙汰しています。溝口です。



[11798] Re: 三女神神奈備 投稿日:2015年 7月 6日(月)17時10分
琉球松さんへのお返事です。

> なぜ三柱なのか、そしてまたなぜ禊ぎ祓えのところに出てくるのか。それも朝鮮半島に近いところ、北九州に揃って出てくるのか。そして九州に根源を発する八幡様も三柱の神ということもあわせて考えるべきかと

 3は空間の次元数で、おそらくは人類共通に安定を感じる数だと思います。恐らく、海の神を生む神話は、三柱の神を生むと伝わってきたのではないでしょうか。
 お書きのように、住吉、安曇、宗像に、猿田彦は伊勢の海で三神に、また皇祖を生む木花佐久夜毘売も三神、イザナギの禊祓いで三貴子、我が伊太祁曽も三神です。これは、『続日本紀』大宝二年二月二十二日条に見える「是日、分遷伊太祁曾・大屋郁比売・都麻都比売」 で明らかです。

 さて、八幡様の場合、三神でセットになっているのかどうかですが、延喜式神名帳では、
八幡大菩薩宇佐宮神社[・・ウサノミヤ](名神大)
比賣神社[ヒメカミ](名神大)
大帯姫廟神社[オホタラシヒメノ・](名神大)
と別々になっています。

一方、海の神々はセットになっています。
摂津 住吉坐神社四座[スミヨシノ](並名神大。月次相甞新甞。) 筑前 住吉神社3座[スミヨシ](並名神大)
宗像神社3座(並名神大)
志神社3座[シカウミ](並名神大)

摂津の住吉は後に姫神(神功皇后?)を合わせ祀っており、四座としています。

八幡の場合は、820年(弘仁二年) 724年創建の香椎廟宮「大帯姫」から大帯姫廟を勧請。
とあり、三神を祀ってはいますが、一体感はなさそうです。




[11797]三女神琉球松 投稿日:2015年 7月 5日(日)14時20
 古市古墳群から離れてしまいますが。。。

 三柱を祭神とする社は多くないようですが、琉球圏は3つの霊石を祀る聖域「イビガナシ」が多く、王朝成立の遥か以前と解釈されていて、やはり男子禁制です。

 これは、奄美の加計呂麻島などでは海と関わるとされていて、沖縄諸島でも「海から上がった石」ですね。
 那覇の「沖宮」の由来では木となってますが、本来は石、又は巻貝(女?)だったのでしょう。
 また、琉球圏にも3姉妹がそれぞれ沖縄島、久米島、石垣島の山に降臨したとの伝承があり、とにかく3つでなければ気がすまないような文化圏です。

 ところで、「アマミキヨ・アマミコ・アマミク」と漢字表記された女神は、もともと3集団?を一括した名ではないかとの説があり、首里王府の正史には、王朝誕生以前に島々を治めていたのは「天孫氏(テンソンシ)」とされていて、「アマミコ」はその訓読み(アマのコ)ではないかとの説があります。

 いずれにしても、奄美群島と沖縄諸島を造営したこの神の出自は九州北部と考えていいでしょうね。宮古八重山まで到達していないのは、有視界航行で行ける沖縄島や久米島が伝承の西限となってることでもわかります。

以下『先代旧事本紀の復権』より鎌田純一の言
*** 出雲大社と宗像三神の問題に関連して申しますと、『古事記』を見ても、祭神が本来三柱というのはそれほど多くはないのです。宗像三神、住吉三神、それから志賀島の安曇連らが斎く三神。(略)
 なぜ三柱なのか、そしてまたなぜ禊ぎ祓えのところに出てくるのか。それも朝鮮半島に近いところ、北九州に揃って出てくるのか。そして九州に根源を発する八幡様も三柱の神ということもあわせて考えるべきかと ***

画像は、北中城村の拝所(沖縄島中部)



[11796] Re: 古墳を造営する場所神奈備 投稿日:2015年 7月 4日(土)20時10分
琉球松さんへのお返事です。

 宗像海人は、相当古い時代から活躍しているようです。。


『肥前国風土記』には、姫社の郷に、宗像の郡の人 珂是古 が 祭祀役として登場しています。古そうに見えますが、この珂是古は 水沼君の祖とされる人です。すなわち、物部阿遅古連公(水沼君遠祖)と、『旧事紀』(天孫本紀)のこととされています。

 また、宗像三女神をまつる古社として、大分県宇佐市安心院町の 三女神社 が 宗像大社の元宮ではないかとの説があるようです。

 この神社に 水沼井があり、 珂是古が創始した神社と思われます。どうでしょう、宗像神社の元社ッポイように感じませんか。



[11795] Re: 古墳を造営する場所琉球松 投稿日:2015年 7月 4日(土)18時21分
神奈備さん、どうもどうも。

 最近は『先代旧事本紀の復権(上田正昭・鎌田純一)大和書房 2004 』を読み込んでいるところです。
 物部は面白いです。ニギハヤヒとイワレビコが重なるのはどうしてでしょうか?
 琉球圏の神歌にも現れる「ヤヲ」の地名とも合わせ、「アマミキヨ」の素性が解明できるといいのですが。。。

写真は、宮古島島尻の霊石・拝殿も本殿も、名称さえない男子禁制の空間です。



[11794] Re: 古墳を造営する場所神奈備 投稿日:2015年 7月 4日(土)17時00分
琉球松さんへのお返事です。

> 神奈備さん、お久しぶりです。
>
こちらこそ、お元気そうでなによりです。

古史は 不留知 と訓するようで、不 と 布 は 同じく フ ですから、布留 であっても 不思議ではありません。

 ご指摘のように、物部氏の遠祖を祀ったと思われる神社が周辺に鎮座しているようで、またこの地域には渡来人も多く、物部本家滅亡後に多く入ってきたのかもしれません。


[11793] Re:大和川(奈良湖)流域の社について琉球松 投稿日:2015年 7月 3日(金)15時
神奈備さん、お久しぶりです。

 便宜上「古市古墳群」とされてますが、古くは古市郷という大雑把な地域だったようですね。
 これは思いつきですが。。。「フル」が「布留」だったとすれば、物部の根拠地だったでしょうか?
 物部は大王の直轄地に寄り添うような場所で勢力を保っていたでしょうし、高屋神社と辛国神社も気になるところです。
 かたばみさんが気にされている「七支刀」は布留の石上神宮ですね。


[11792] Re:大和川(奈良湖)流域の社について豆たぬき 投稿日:2015年 6月20日(土)12時56分
神奈備さんへのお返事です。

> >
> > 磐座の定義は
> >
> >  二人以上の人がその岩を神が降臨すると信じている岩とされます。


ちょっと主旨が違いますが↑が仏像に神聖性を感じる大元の要因でしょう?
仏像はいわば神霊が籠るないしは降臨する移動可能な御神体、ヒモロギと古代人は考えたハズ。
欽明朝の人々は確かにそう考えたようです?
それまでの御神体、ヒモロギは鏡や刀剣等もありますが基本的に岩や山等の移動は不可能な物でわざわざ其処に往かなければ祭儀が出来ない性格の物。

又、高山にある磐座は貴人(成人男性)の墓所、御陵で、山全体を当該貴人の御霊が隠る御神体とした御陵であると漏れ聞きます。
単なる降臨する御印しではないとか。

六甲山はロッコウサン。ですが、これは当て字の読み替えかもしれません。
正式には六甲山と言う山は国土地理院の山名には存在せず、山系全体の俗称、通称。
何となれば、少し昔は、ムコの山。ムコウの山と呼称されていたのは旧知の事実。
元の文字を推察すると、向日、日向、向。全てムコウ。
故に日向山。日向族に関係性があるのでは、、、?

甲山はカブトヤマと呼ばずにコウノヤマとすると、神山。高野山(高天原)、





[11791]Re: 越木岩神社所縁の磐座神奈備 投稿日:2015年 5月29日(金)20時18分
> 磐座の定義は
>
>  二人以上の人がその岩を神が降臨すると信じている岩とされます。
>

仏舎利や仏陀逝去の地の砂利など、小さいものも磐座の範疇にはいるそうです。故水野先生。


[11790] Re:大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 5月15日(金)23時29分
神奈備さんへのお返事です。

>古市古墳群や百舌鳥古墳群の場合は、その地が大王の直轄地であったと考えていいのだろう。
>和泉は大王の直轄地であったことは、県(あがた)がおかれていたことでわかりますが、古市はどうだったのだろうか。

いろいろな仮説(条件)を重ねて時間軸と全体をながめる必要がありそうです。
毎度持論の歴史観(歴史シミュレート)から、で長くなりますけど。
古市古墳群は単純には景行大王〜日本武尊縁戚者のものと考えています(百舌鳥古墳群も同様に仁徳及びその縁戚者)。

景行系譜は大和川を下って上町台地周辺に基盤を拡大していた、その拠点が古市古墳群。
(縄文と弥生遺跡が混在する)
奈良盆地側では葛城氏の葛城古墳群(ここも縄文と弥生が混在)。
このふたつは北の大和川と南の葛城山塊を横断する竹内街道で直結します。
葛城氏は神武時代(九州)〜卑弥呼(九州)や崇神(奈良)での王朝を支えるバックボーンであったと考えています。
その祖は椎根津彦であり珍彦であり海人系、学者であり祭祀者であり最新文化の導入者でもあったと考えています。

古市の誉田山古墳は応神陵という説がありますが、応神陵は畿内にはない、が持論です。
すなわち応神は奈良の崇神〜景行〜仲哀に対する九州の造反グループであって、七支刀の倭王旨の子だと考えています。
母は不明なれど日本海系である可能性少なからず(書紀はこれをもって神功皇后と仲哀の子であるとしたと推定)。
三韓征伐という神功皇后はいない、半島出兵は倭王旨の事跡の置き換え。


さて、崇神以降の前方後円墳築造とはなにか(AD250頃以降)。
魏の曹操が行った屯田制にヒントを得た寒冷化に伴う農民救済と農民把握(戸籍把握)のための手段だったと考えています。
開化崇神以前、すなわち九州以東の出雲支配下での農業不振対策は銅鐸の大型化という古来からの「呪術」でしか行えなかった(最新技術や知識の不足)。
魏の屯田制を(おそらく葛城氏経由で)卑弥呼が知り、崇神が古墳築造という手段で具体化した。

垂仁時代あたりで奈良盆地内では農民救済と農民把握のための古墳築造はほぼ終了したのではないか。
景行時代では河内側へその手段が拡大展開された(AD300頃以降)。
その結果が古市古墳群だと考えています。
次いで和泉方面や上町台地方面へ、崇神ともされる狭山池などの築造。
成務にいたってその開発地と農民の国有化(大王直轄化)が九州にまで行われ現地の豪族の反発が激しくなった。

そして・・仲哀を殺害した九州の倭王旨(^^;
その軍事顧問である(百済の)武内宿禰は仲哀の皇子抹殺のために瀬戸内から和泉付近に上陸。
景行系譜は大和川周辺に拠点を作っており、忍熊王はここで迎え撃とうとしたのだと考えています。
しかし敗れて上町台地から北へ逃げたが敗死。
しっかし(^^; 景行大王や日本武尊の縁戚者は無数にいた。

それが仁徳であると考えています。
葛城氏の支援で復活した景行系譜であって応神の子ではない。
で、仁徳もまた景行大王〜日本武尊時代での開墾地である大和川周辺に拠点をおいた。
応神との内戦モード突入、AD400頃。
それが百舌鳥古墳群だと考えています(上町台地の北端〜東側の治水もおそらくは仁徳)。
民のカマドから煙が消え、そしてまた煙がではじめるわけです。

この頃九州では応神が百済支援で高句麗討伐に出兵(広開土王碑)。百済系譜との混合による半島の前方後円墳登場。
これが仁徳の独立に幸いした。応神は半島出兵で疲弊して近畿には手が手が回らなくなっていたから。
そして応神死して倭王讃(応神の子の菟道稚郎子)、九州では倭王五代の時代へ。

近畿では仁徳から允恭まで、そして倭王3代目の倭王済(書紀での安康)が近畿王を奪取、倭王興(書紀での雄略)が関東までの全国制覇(書紀は安康と雄略を允恭の子としている)。
神武から允恭までのバックボーンだった葛城氏も滅ぼされます。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11789] 古墳を造営する場所神奈備 投稿日:2015年 5月12日(火)14時08分
大王家でなくても、他の豪族の土地に古墳を
造営することはできなかったと思います。妃の出身地な場合は相談の上ということで。
したがって、古市古墳群や百舌鳥古墳群の場合は、その地が大王の直轄地であったと考えていいのだろう。
和泉は大王の直轄地であったことは、県(あがた)がおかれていたことでわかりますが、古市はどうだったのだろうか。



[11788] Re: 丹後と朱豆たぬき 投稿日:2015年 5月 5日(火)15時37分
とみたさんへのお返事です。


珍彦。宇豆彦。
祝詞の常套句かつ古語でウズは沢山の、立派な等の意味合いがあります。
そうなれば、ウズ彦とは立派な貴人(彦)、、、有力な豪族の首長ないしは国の長(大己貴)
実際に?服属儀礼にひい祖父さんの天火明命(天照皇太神/スサノオ)が招来した神宝を奉呈したとされています。
アタシは神武天皇さんは記紀の創作したキャラで実際のモデルは天村雲命/健位起命((イタケ/イタテの命)。(大王)位を興した貴人と読めます。/家名としてホホデミ(天火明の本名?)を襲名していても不思議ではない)ではなかったか?と妄想しています。

神(上。尊称。大王。)、ヤマトの素晴らしい(あっぱれな)彦であるホホデミ様




> 神奈備さんへのお返事です。




>
> 神奈備さんもお元気のご様子で嬉しいですね。
>
> 神武天皇の東遷で明石海峡に居た椎根津彦=珍彦が道案内します。珍彦は明石海峡の渦巻きを連想します。
>
> 倭直、明石の国造、紀直などは海の民なんでしょう。
>
> 阿波の若杉山の水銀朱も有名です。
>
> 神武天皇は倭に入ったあと、天日別を引き連れて伊勢に進軍し伊勢ツヒコを征討します。
> イセツヒコは諏訪に逃げた。天日別は阿波忌部とされています。
>
> ところで、佐那神社は手力男と曙立王を祀っています。手力男神社は私の兄嫁の郷里の岐阜市那珂(各務原)付近に神社が多いそうです。木曽川沿いです。その延長の
>
> 愛知県犬山の大縣神社(尾張二宮)は神職によれば、当地開拓の丹羽臣は多氏系で水銀を扱う渡来人と関係があったと語られていました。
>
> 手力男は森林や鉱山に関係がありそうです。
> 平安時代になると徳島県若杉山近くに四国の遍路の道ができます。空海は佐伯氏の流れで鉱山開発で金儲けをして唐に留学できた。
>
> 高野山は丹生都媛神社の土地と同じ。まさに水銀朱の採れるところ。狩場明神から土地をいただいて真言密教の寺を開いた。
>
>
> > とみたさんへのお返事です。
> >
> >  とみたさん、久しぶりです。お元気の様子、なによりです。
> >  伊勢の国造とされる天日鷲命は忌部氏の神で、ルーツは阿波のようです。阿波には卑弥呼の頃に若杉鉱山で水銀が採れていたようです。天皇家が大和を目指したのは、阿波の水銀が枯渇しつつあり、大和の宇陀の水銀を確保するのも大きい目的だったと考えています。また古い伊勢国の水銀鉱山を手に入れるために、天皇家に近い忌部氏や和邇氏を派遣したのかもしれません。


[11786] Re: 丹後と朱神奈備 投稿日:2015年 5月 5日(火)09時07分
神奈備さんへのお返事です。

神奈備さんもお元気のご様子で嬉しいですね。

神武天皇の東遷で明石海峡に居た椎根津彦=珍彦が道案内します。珍彦は明石海峡の渦巻きを連想します。

倭直、明石の国造、紀直などは海の民なんでしょう。

阿波の若杉山の水銀朱も有名です。

神武天皇は倭に入ったあと、天日別を引き連れて伊勢に進軍し伊勢ツヒコを征討します。
イセツヒコは諏訪に逃げた。天日別は阿波忌部とされています。

ところで、佐那神社は手力男と曙立王を祀っています。手力男神社は私の兄嫁の郷里の岐阜市那珂(各務原)付近に神社が多いそうです。木曽川沿いです。その延長の

愛知県犬山の大縣神社(尾張二宮)は神職によれば、当地開拓の丹羽臣は多氏系で水銀を扱う渡来人と関係があったと語られていました。

手力男は森林や鉱山に関係がありそうです。
平安時代になると徳島県若杉山近くに四国の遍路の道ができます。空海は佐伯氏の流れで鉱山開発で金儲けをして唐に留学できた。

高野山は丹生都媛神社の土地と同じ。まさに水銀朱の採れるところ。狩場明神から土地をいただいて真言密教の寺を開いた。


> とみたさんへのお返事です。
>
>  とみたさん、久しぶりです。お元気の様子、なによりです。
>  伊勢の国造とされる天日鷲命は忌部氏の神で、ルーツは阿波のようです。阿波には卑弥呼の頃に若杉鉱山で水銀が採れていたようです。天皇家が大和を目指したのは、阿波の水銀が枯渇しつつあり、大和の宇陀の水銀を確保するのも大きい目的だったと考えています。また古い伊勢国の水銀鉱山を手に入れるために、天皇家に近い忌部氏や和邇氏を派遣したのかもしれません。


[11785] Re: 丹後と朱神奈備 投稿日:2015年 4月29日(水)10時45分
とみたさんへのお返事です。

 とみたさん、久しぶりです。お元気の様子、なによりです。
 伊勢の国造とされる天日鷲命は忌部氏の神で、ルーツは阿波のようです。阿波には卑弥呼の頃に若杉鉱山で水銀が採れていたようです。天皇家が大和を目指したのは、阿波の水銀が枯渇しつつあり、大和の宇陀の水銀を確保するのも大きい目的だったと考えています。また古い伊勢国の水銀鉱山を手に入れるために、天皇家に近い忌部氏や和邇氏を派遣したのかもしれません。


[11784] 丹後と朱についてとみた 投稿日:2015年 4月28日(火)14時45分
丹後は弥生時代後期中葉から後期末に栄え、終末期には衰えます。
大風呂南1号墳と今井赤坂墳丘墓です。いずれも方形台状墓で舟形木棺に朱を塗り、ガラス玉を副葬しています。

この水銀朱は、大風呂のものは中国陝西省のもので、赤坂今井のものは、三重県多気のものと理化学的に証明されています。

多気には佐那神社があり、曙立王と天手力男を祀っています。
曙立王は丹後から近江や山代を支配した大勢力でしょう。日子坐(彦坐王)が大親分です。
このボスと南山代の木津川沿岸の荏名津(江夏)戸弁(またの名は刈幡戸弁)との間の子供が
大俣王で、その子供です。

佐那国造です。水銀を採っていたのでしょう。
伊勢の国造は和邇氏と見られています。和邇と日子坐は深いつながりがありますので合点です。
多気は櫛田川流域の中央構造線に位置します。その川の北側に飯高郡があり、飯高氏が和邇系とされています。彼らが水銀朱を採掘したのでしょう。

国造本紀には伊勢国造の祖は「天降天牟久怒命孫天日鷲命」とある。天牟久怒をアメノムラクモと読めば天村雲と見れる。

天日鷲命は阿波であり伊勢神宮の外宮の豊受神でもある。いずれも海の民であろう。
このあたりをフォロー願えればありがたいのですが・・・

火明命の天日鷲命は




[11783] 丹後と朱とみた 投稿日:2015年 4月28日(火)14時05分
丹後は弥生時代後期中葉から後期末にかけて栄えました。
大風呂南一号墳と赤坂今井墳丘墓は方形台状墓に船形木棺が入り、水銀朱が使われ、ガラス玉が副葬されます。

水銀朱が謎です。
大風呂南1号では多分、中国陝西省の朱を使っていますが、赤坂今井の朱は、三重県多気の丹生鉱山産と理化学的に証明されています。

三重の多気郡には佐那神社があり日子坐(彦坐王)の孫の曙立王と天手力男命を祀っています。
日子坐王と山代の荏名津(江夏)比売(またの名は刈幡戸弁)との間に生まれた大俣王の子供が
曙立王です。

伊勢の品遅部君、佐那造の祖とされています。
水銀を採掘したのでしょう。

伊勢国造は和邇氏とされています。櫛田川(中央構造線)の北に飯高郡があり飯高氏は
水銀を採掘していたのでしょう。飯高氏は和邇氏系とされています。

また国造本紀に伊勢の国造の祖は、天降天牟久怒命孫天日鷲命とあります。
天牟久怒は天村雲命のことでしょう。火明命も天日鷲命も海の民でしょう。

天語連は[縣犬養宿彌同祖]とあるが、縣犬養宿彌には[神魂命8世孫阿居太都(アケタツ)命の後]と見える。

このあたりを少しフォローーいただけませんか。



[11782] 弥生時代の日本海岸勢力とみた 投稿日:2015年 4月28日(火)13時17分
神奈備さん ご無沙汰しております。
現役はGWで長い休みですが、我々はサンデー毎日族にてGWの過ごし方は古代史探求が面白そうです。クイズ感覚で古代史を遊びましょう。
先日は北陸新幹線で北陸を旅し地元の考古学者からネタを仕入れてきました。

弥生時代の日本海勢力をみなさんと語りあいたいと思います。
出雲 山陰(因幡・伯耆) 但馬・丹後、若狭、越前 越中、越後の関係についてです。



[11781] 倭王五代〜壬申の乱かたばみ 投稿日:2015年 4月 8日(水)16時38分
広告つきになったのですね(^^;

HPに「倭王五代〜聖徳太子〜壬申の乱のシミュレート」を加えました(PDF)。
書紀をそう簡単には信じませんよ、が毎度前提にあります。

あまり注目されていない用明大王(九州から奈良へ、九州系)と敏達大王(大阪かr奈良へ、近畿系)が壬申の乱へのキーだと感じています。
それに連なる聖徳太子と隋書の多利思北狐と新唐書の目多利思比狐の関係にも光をあてる(^^;
(北狐は比狐の写しミスとみてます、北と比です)

蘇我馬子の死去で大王を決定できるだけの政治手腕を持つ人物がいなくなったこと、これが壬申の乱の序奏。
そして蘇我氏から藤原氏への権力移行。
ミスがあるでしょうしまだ流動的ですがご参考まで。




[11760] Re: 六甲(山)豆たぬき 投稿日:2015年 3月 9日(月)09時
天照大神荒魂の別称号、憧賢木厳御魂天疎向津日女命。
向津日女ムカツヒメの命。
ちょっとひねるとムコウ(向=日向)の(津)日女命。=六甲日女命   (六甲日女神社)
六甲日女命はムコウヒメ/ムカツヒメと読むと=天照大神荒魂(広田神社の主祭神)。
甲の文字を充てるは日(神霊、天)に通じる(|)の内意か?
甲山(広田神社(西宮皇大神)の神名備山)=神山(コウノヤマ、ミ(ワ)ヤマ、)


接続詞とされる津を湊(港湾)と考えると六甲(日向)湊の日女命。
海辺(江の島)に坐す日女神と言えば弁財天/市杵嶋姫命(道主貴)=天照大神荒魂(荒神)
西宮戎神社は沖ノ荒神社が前身?
現在の西宮市街地の中心地域は大きな内湾。恵比寿神社が港湾の入口の岬の目印(住吉大社、熱田神宮、香取神宮、鹿島神宮、等も元来は同じような立地)。天然の港湾で良港
、、、日向(ムコウ)の『大津』
広田皇大神は公然の秘密で瀬織津日女命(戦前は公言)。
神戸は神の戸(岩屋戸。)
その戸(岩屋戸)の中にいらっしゃる神は、、、
戸はト。トは十。神十=最高神。
トは菟。干支の卯。
卯。は大きな門(城門・障壁・・天岩戸)を自らの力で押し開く(克服した)様を表した表形文字

畏し。




[11759] 六甲(山)豆たぬき 投稿日:2015年 3月 9日(月)01時
六甲山と言う山は正式にはありません。
阪神高速を走りながら六甲山、甲山を遠望してドライブ中にふと降ってきたのは
六甲山=ふつうはロッコウサン(音読み)。
大和言葉(訓読み)風味ではムコ(武庫)ノヤマ。ムコウ(六甲)、、、日向!。
日向と書いてムコウと読むではないか!(京都府日向市)



[11758] 再び河合神奈備 投稿日:2015年 3月 8日(日)19時
;"> 島根大学が主宰する「古代出雲文化フォーラムV」がありました。
 国びき神話の地質学的な考察など、興味深いテーマで、島根大学の先生方の講演と、出雲大社の千家和比古さんと学長さんの対談がありました。

 対談の中で、下鴨神社の話が出てきました。マンション建設の話ではなく、その立地が川(高野川とと賀茂川)の合流点の側にあり、摂社に式内の河合神社が鎮座。千家権宮司は川の合流点は神気ただならぬ所であり、出雲大社も巨木の宇豆柱が出土した場所も川の合流点であったと言われていた。北側の山の東西から流れ込んでいた川の跡が見つかっているようだ。
 大和川中流の六川合流点も猛烈な神気の立ち上る場所で、広瀬大社が鎮座している。



[11757] 元住吉(神戸市)は日置(夏至)の宮通りすがり 投稿日:2015年 3月 2日(月)22時18分
住吉大社から見て冬至の日没方向に当たる洲本市(淡路島)の旅館やリゾート施設が集まる古茂江(古くは『菰江』)の岩礁には住吉神社が鎮座坐す。
この住吉神社の由来伝説には、郷(浦)人の前に住吉明神が顕れて、今よりこの地に永く留まる故に宜しく祀るべし。云々と宣われて忽然と消えた。
と神様が直接的にここに日置(太陽運行)のランドマークの神社を創建する事を指示なさっています 。(現実的には住吉大社の神人、神官。行者)

としたら同じ時期に夏至の日没方向にも同様に神社(住吉神社)を設けた筈で、
それが正に神戸市東灘区の住吉神社。ランドマークは摩耶山。
因みに、ほぼ同じ方向(住吉神社の北側の)には熊野権現(クマ/イヤ/ユヤ、、、(太陽運行の)隅っこ)の弓弦羽神社(神功皇后の創建。名神大)が鎮座坐す。
位置関係からは弓弦羽神社(本宮)の南宮浜社、エビス社みたいな感じに思えます。
又は後の時代の住吉大社の権益のクサビなのかも?


[11756] Re [11755] Re:大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月28日(土)17時06分
>神奈備さんへのお返事です。

>石山の東、森ノ宮の北側、に天王寺跡とありますが、物部守屋屋敷でもあったのかな。

ずばり、その可能性が高いと考えています。
大和川などの水運の要、蘇我氏にとっては目の上のたんこぶ(^^;
当初はそこに物部守屋殺害を鎮魂する寺があり、後に現在の四天王寺として再建され、その由来は書紀の記述によって変化したと考えています。
法隆寺も同様で、原型は山背大兄王殺害の鎮魂の寺であったと考えています。

豪族の権力抗争が大王をも揺り動かす。
聖徳太子とは隋書の書く多利思比狐大王であり、推古女帝は存在せずが持論です。

敏達大王の渟中倉太珠敷尊の意味が重要になってきます。敏達大王もこの付近に拠点があったのではないか。
敏達−用明−多利思比狐(聖徳太子)の流れは妥当と考えています。それを支えていたのが物部氏。
そこへ食い込んでくるのが新興の蘇我氏という図式です。

先の古地図の下(西)に安良と百済の地名と久宝寺がありますが、こちらは蘇我氏系の拠点だったのではないか。
久宝寺の地名は大阪八尾市に多数ありますが(往古の大和川と百済川があった)、中央区役所の西にも北久宝寺町と南久宝寺町の地名が残りますね。
古地図の久宝寺はこの付近だと思います。

鵲森宮(かささぎもりのみや)社の由来では、聖徳太子が父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を祀り、この森に「元四天王寺」を創建なされた、とあります。
古地図はこの「位置関係」を示しているとみえます。ただし由来は書紀の影響下にあるとみます、元住吉社に類似です。


物部と蘇我の権力抗争で大王は揺さぶられ、崇峻暗殺など血なまぐさい勢力抗争の時代。
ちょい後には中大兄皇子や中臣鎌足によって蘇我入鹿殺害・・藤原氏が権力者として登場し、そして書紀の編纂。
書紀がこの時代をどうまとめようとしたか、これらの人脈とその周辺、書紀をうかつには信用できず。
敗者は万世一系から切り離す、「書紀にとって危ない人脈」では女帝を登場させる・・



http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11755] Re:大和川(奈良湖)流域の社について神奈備 投稿日:2015年 2月27日(金)12時
かたばみさんへのお返事です。


> >東区史の古地図には旧四天王寺に隣接して「用明天王社」と読める書き込みがあります。


興味深い古地図です。

> 中央左の橋は現在の天神橋かなあ。

この橋は天満橋の場所に該当しそうです。座摩さんより東ですから。


石山の東、森ノ宮の北側、に天王寺跡とありますが、物部守屋屋敷でもあったのかな。
よくわからないところです、


[11754] Re:大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月26日(木)
連チャン失礼。
>東区史の古地図には旧四天王寺に隣接して「用明天王社」と読める書き込みがあります。

その地図です、左が北。10年ほど前の採集です。
石山と書かれるあたりが後の大阪城でしょう。
石山本願寺はなく生玉社があります。応仁の乱〜戦国時代あたりの古地図ではないかと思います。

赤字で「今森宮」が現在の森ノ宮でしょう。玉造は現在も玉造。
中央左の橋は現在の天神橋かなあ。




[11745] Re:[11744[ 大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月24日(火)20時43分
参考図、にじんで読めない。失礼して修正して再アップ。



http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

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[11744] Re: 大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月24日(火)20時43分
神奈備さんへのお返事です。

>紀ノ川沿いには鴨氏の神と思われる神社は見当たらず

参考図は私の歴史シミュレーションを背景にした海人系氏族の系譜推定です。
紀ノ川遡上で奈良のルートは弥生の最初期だけと考えています。
持論の初期開拓者の時代、まだ出雲となる氏族は登場していない(BC500〜BC200頃)。
五十猛命や大屋彦命は初期開拓者に属し、素戔鳴尊(BC190以降)よりずっと古い人物がモデルとみています。
(書紀は半島経由の人物を年代にかかわらず素戔鳴尊の子として処理している)

いわゆるカモさん系譜は出雲系海人で日本海系に属し、後に若狭−琵琶湖−京都方面へ南下したと推定。
瀬戸内にカモさん系譜があっても近畿での拠点は神戸〜西宮沿岸と堺〜池上曽根沿岸となっていて、紀ノ川には登場しないと思います。
ま、古墳時代になると出雲崩壊によってシャッフルが激しく、人の思惑による変化も大きくやっかいになりそうですけれど。

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[11743] Re: 大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月23日(月)13時02分
神奈備さんへのお返事です。
神功紀の忍熊王との戦いの部分で、上、中、底筒男神曰く
「吾が和魂を、うべ大津の渟名倉の長峽に居らしむべし、すなはち因りて往き來ふ船を看む」
元住吉神社の由来は書紀を写したものと思いますが「吾が和魂をば大津の淳中倉の長峡に居さしむべし」のようです。
渟名倉と淳中倉、どちらも「倉」です。

大津の長峽はどこか、元住吉社は神戸市付近とみなしているのでしょう。
私は大津の長峽とは上町台地のことだとみています。
神功紀の忍熊王追撃では紀州に上陸、忍熊王はおそらくは上町台地にあって北に敗走し、宇治(菟)から瀬田川(淀川に流入)で戦死。
神功紀を信じるかどうかはありますが、このあたりの事象はおおよそ事実だろうと思ってます。
ま、それ以前に謀反人は武内宿禰の方だと思うけど・・勝てば官軍(^^;

とすると住吉三神の告げた渟名倉が神戸側では無理がある。
神戸〜西宮沿岸には遺跡が密集していますが沼沢であったとはみえず、海に山が接近はしていますが「長狭」と称するともみえません。

淀川や宇治川に通じるのは大阪湾、長狭とは上町台地を示す(前出の参考図)。
まだ沼沢地であったろう「長狭」周辺には多くの「渟名倉」(淳中倉)があった。
上町台地付近に住吉三神を祀ったと考えるのが妥当と思います。
淳名倉とは水運における荷揚げや川船への積み替えを行う倉庫。

神明造りも原型は倉庫(保存用)だと思いますが、住吉造りでは高床の高さが低いそうです(未検証)。
船積みのための倉庫なら納得できます。
神戸側の元住吉社の原型も倉庫で水運にからむと思いますが、祭祀化ははるかに古いだろうと思います。
少なくとも古墳時代ではない、おそらくは池上曽根遺跡と同時代・・オリオンの三つ星(^^;

大阪からは多数の舟形埴輪がでています(神戸周辺からはでていない)。
市街地化で遺跡の多くが消滅していますが、出土物は保存されているようです。
古墳時代(埴輪)での淀川や大和川の水運系氏族の拠点になっていて、祭祀も行われた痕跡と考えています。

なお敏達大王(572-584)は渟中倉太珠敷尊ですね。
この地域は敏達大王−用明大王−聖徳太子(多利思比狐大王とみる)に受け継がれ、上町台地北部の旧四天王寺と奈良の斑鳩宮を大和川で結んでいたと考えています。
どちらも当初から寺ではないでしょう、法隆寺は斑鳩宮の主の鎮魂のために建立と推定)
東区史の古地図には旧四天王寺に隣接して「用明天王社」と読める書き込みがあります。

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[11743] Re: 大和川(奈良湖)流域の社について通りすがり 投稿日:2015年 2月22日(日)11時42分
神奈備さんへのお返事です。 > 住吉大社の社殿を倉庫と見なすのは興味津々です。
>
> 一般的には船団とされていますが、荷物や人間を運ぶために入れる箱とみれば、同じことですね。 >
>
> さて、大和川の水運ですが、鴨氏の神が、葛城川の上流に高鴨神社があり、河内湖につきあたると阿遅速雄神社が鎮座しています。紀ノ川沿いには鴨氏の神と思われる神社は見当たらず、河内王朝の前にも大和川の水運が使われていたと考えることができそうです。
> 住吉大社の場所はまさにスミ(端っこ、境界)のエ(入江)に当たる場所。
瀬戸内海上からは東の後背の特徴的な山容の信貴山(二上山を左右逆にしたような形、、、神名備山)を目指せば
自然と河内入江の岬に鎮座した住吉大社。大和川河口、大和の入り口に着船。
西を向く神。(西から飛来するとされた悪しき物、疫病、勢力を防塞。)
摂津と河内の境(スミ)。物コトのスミ
いわゆる霊ライン上では、紀伊半島南端の潮岬と近畿最北端の丹後半島の経ヶ岬を結んだライン上の丁度ほぼ中間辺り。(蒲生田岬、室戸岬他とも紐付け)
更にロングレンジでは、宇佐八幡(神宮)から東大寺(手向山八幡宮)矢を放ったライン上と先のラインが交わった地点。
海の神、海路の目印そのもの。
、、、海部/尾張氏の大御祖神(社家の津守氏は海部氏の分流。鎮め祀る神は当然その大御祖神(ツツ(都都、十十(天上天下に最高)の王(神)、、、)))、 、
、、ハタ/ワタ(海)の神。ヤ・ワタ/ハタ・・・大綿津見神。猿田彦神(海神/船玉神。船玉神の祝詞は陸上、海上共に安く穏やかに導き幸いたまう、、、)
寄り付く神。エビス神。
此の線上(船上?)には宇佐八幡から岩清水男山に分霊を勧請する途上に
沖合いから『琴を弾きながら』御座船を寄せて上陸し暫し逗留した香川県観音寺(琴弾八幡宮の神宮寺)の琴弾八幡宮
(ここから動きたくはないと八幡大菩薩様が宣った?)
琴平町の金比羅大権現宮(金比羅讃岐本宮)、
伊弉諾神宮等(イサナギ大神が『神業を終えられて九州(筑紫島)から多賀の浜(御旅処で摂社の浜神社)に着船、上陸』なさり神宮に鎮まった云々。)がきれいに居並びます。


[11740] Re: 大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月21日(土)15時25分
亀虎、木虎(京都)、帰虎(京都)あたりは単なる当て字でしょうね。
神戸市の北にカタカナでキトラがあります。
名古屋の緑区に北浦キトラ、紀ノ川の海草郡の山中に北浦キトラ、そのすぐ北に北原と書いてキトラ(地図で見る日本地名索引より)。
いまのところ近畿限定と見えます。

キタ・ウラがキト・ラになりえるのか? みな「キトラに聞こえる発音」からの当て字じゃないか?
なにかがあると思っています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

[11753] Re: 大和川(奈良湖)流域の社について通行人 投稿日:2015年 2月20日(金)01時10分
>> キトラ古墳とかキトラってどういう意味??

「キトラ」は地名ですね。
今の地図には「キトラ」とありますが、古い地図だと「亀虎」。
もっと古い地図だと「北浦」です。

[11752]Re: 大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 2月12日(木)11時53分
神奈備さんへのお返事です。

>大和川の水運をつかさどる物部の影がちらほらしているようです。

廣瀬神社は物部海運の拠点になっていたからだと考えています。
大和川を船で遡上できるなら残存する奈良湖も船で移動できる(亀ノ瀬部分では陸路でしょう)。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2007_11_18.htm

ただし、参考図 往古の大阪湾周辺
大和川は江戸時代の付け替えまでは大阪の沼沢を経て流れ出るやっかいな川(和気清麻呂の付け替え失敗)。
大和川はちょい危険なルートだが物部海運にとってはなんのその(^^;
その沼沢に弥生遺跡が複数ありますが、洪水で流されてもやむなしとする倉庫だったと考えています。
これらは住吉大社の原型でもあると思っています。住吉造の社殿形式の原型は倉庫(淳中倉)。

船が通れるように「広い瀬」の川砂も掘り下げた・・弥生ですでに活動と思います。
こちらの物部は瀬戸内系でしょう(出雲系譜に属するようになる)。
太平洋側では天火明命(天孫系譜)で書紀(先代舊事本紀)以降に天火明→饒速日に複合変化。
ここでも物部氏は単一氏族ではないとみるところです。
(葛城は物流には直接関与せず天孫系の学者ないし祭祀の系譜と推定)

金剛山地の二上山の南に竹内峠を越える竹内街道があります。
大阪の太子町から飛鳥京を結ぶ古道です。
興味深いのはその街道の奈良盆地に出る部分に弥生のキトラ山遺跡があって高地性集落とされています。
弥生時代にはすでにこの古道が存在し、これを監視する目的だったのであれば納得です(長髄彦の原型(^^; )。

キトラ古墳とかキトラってどういう意味?? 北浦と書いてキトラは和歌山県と三重県にあるけど和歌山は山の中。
ひょっとして「西日本系縄文語」の流れを引くか??

奈良盆地への最初の入植者は紀ノ川遡上で奈良盆地南部へ入ったと思います(遺跡状況から縄文と共存)。
BC300頃かなあ、持論でいう初期開拓者、吉野に杉も植林したでしょう。
和泉市の池上曽根遺跡の位置に?を感じていましたが、ここが瀬戸内からの新たな上陸拠点であれば納得できます。
竹内古道が整備されれば池上曽根と奈良盆地が安全な陸路で最短距離でつながる、唐古・鍵遺跡など奈良盆地が大発達してゆく。


飛鳥奈良での交通路、隋の使者はどこを通ったのか。
聖徳太子(多利思比狐大王とみる)は交通路をどう考えていたか。
なぜ「残存奈良湖」の北岸に斑鳩宮(法隆寺)を作ったのか。
残存奈良湖を防衛用にしているようにみえる、往古の四天王寺も同様、民衆のための場所とは考えにくい。
物部氏、多利思比狐大王、蘇我氏、この関係は人の思惑の塊でもあってやっかいしごくですが飛鳥〜平安のありようのキーですね。
(書紀をうかつに信じるわけにはゆかない(^^; )

平城京は奈良盆地の北にありすぎて交通不便。難波との水運路を含めた平安遷都の意識になったと推定。
京都なら日本海へ抜けるにも便利。
継体大王いわく・・奈良になんか行きたかねえぞ(^^; であります。




[11751]Re: 大和川(奈良湖)流域の社について 神奈備 投稿日:2015年 2月10日(火)14時50
かたばみさんへのお返事です。

> HPの奈良湖を改訂しました。

 拝見いたしました。

> 奈良湖の拡大図に馬見古墳群の小規模古墳を追加しています(黒いシミみたいなもの)。
> 水没しなかったであろう微高地に納まっています。

よい目印になるということですね。

広瀬大社の相殿に櫛玉命が祀られています。また宮司家の庭に饒速日命社が鎮座しています。します。
鎮座地は奈良盆地を流れる八川の合流する場所にあります。住所は河合町川合です。大和川の水運をつかさどる物部の影がちらほらしているようです。


石見の物部神社も川合町川合に鎮座しています。地図を眺めても住所が川合になるようには見えませんが、偶然にしても不思議なことです。


<
[11750]Re: 大和川(奈良湖)流域の社について かたばみ 投稿日:2015年 2月 9日(月)20時53分
奈良湖を改訂しました。
「縄文と江戸の地勢図」の最後の部分です。
たいしたことは書いてないけどついでがありましたらご覧ください。

奈良湖の拡大図に馬見古墳群の小規模古墳を追加しています(黒いシミみたいなもの)。
水没しなかったであろう微高地に納まっています。
葛城氏族はここで奈良〜瀬戸内〜九州のルートを抑えていたのだろうと考えています。
北の大和川経由と南の紀ノ川経由の両方です。

金剛山地側にはキトラ山遺跡があり高地性集落とみえます。
紀ノ川ルートの途中にある鴨都波遺跡(弥生〜古墳)は半島系遺物がでると同時に三角縁神獣鏡もでていて注目。
葛城氏族とは何者か、少なくとも書紀のいう武内宿禰系譜の氏族ではない。
神武時代に遡り(珍彦)、後に卑弥呼を登場させた黒幕(^^;の後裔か・・考察中。



[11748]大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 1月31日(土)23時37分
大三元さん、神奈備さんありがとうございます。
今は八幡様なんですね。
密かに期待しているのは往古の廣瀬神社の現場事務所だったのでは、です(^^;
そうだったとしても痕跡は消えているだろうなあ。

参考図のごときを作りました。
いつの時代かの土石流で大和川が閉塞されたことがある・・現在の亀ノ瀬の標高は45m。
45m標高の水面としても奈良の低地部は5m以上の水面下となる。

なんか危険を感じています。
奈良〜大阪の鉄道が2度も地盤不良で破棄されて、現在は大和川の南側へ迂回。
現代の気候変動に伴う異常気象で再び土石流が発生しないのか・・超巨大災害になりかねないです。




[117466] Re;[11746] 大和川(奈良湖)流域の社について神奈備 投稿日:2015年 1月31日(土)15時35分
大三元さんへのお返事です。

> かたばみさん
> 「絵馬殿」にクリップを上げておきました。
> 西の方が「峠八幡神社」、東の方が「八幡神社」とありますがこれらでしょうか。


かたばみさん、こんにちは。大三元さん、ありがとうございます。

おっしゃる通りだと思います。

藤井八幡神社 奈良県北葛城郡王寺町字藤井
藤井八幡神社


峠八幡神社 大阪府柏原市峠496
峠八幡神社

どちらも、地すべり対応の工事で遷座しているようです。うろ覚えでは、峠八幡は地すべり工事のために山の手に遷座、それ以前は壮麗な社殿だったようです


[11746]Re;[11745] 大和川(奈良湖)流域の社について大三元 投稿日:2015年 1月31日(土)08時43分
かたばみさん
「絵馬殿」にクリップを上げておきました。
西の方が「峠八幡神社」、東の方が「八幡神社」とありますがこれらでしょうか。


[11745] 大和川(奈良湖)流域の社についてかたばみ 投稿日:2015年 1月31日(土)08時43分
> ぶさたしています。
以前に投稿した奈良湖について調べています。
奈良の河合町の廣瀬大社(廣瀬神社)、崇神時代に遡り天武あたりでいろいろが制定されたとみえます。
ここの砂かけ祭の由来は大和川の開削作業である、と確信しています。

参考図は大和川の三郷町と王寺町付近の詳細図です(10m等高の詳細図が最近登場した)。
大和川をはさんで存在する矢印の2社の情報をお持ちではないでしょうか。
国土地理院の地図上に神社マークがあるのみで社名はおろか住所すらわかりません。

奈良湖は往古の大和川が土砂によって閉塞されてできたもので、その存在期間は地質学的には短かったと考えています。
しかし縄文末期から古墳時代まで存在し、奈良の古代史を考える上で重要だとも考えています。

余談
縄文末期、BC1500頃に寒冷化に伴う異常気象で大和川北岸で大規模な山体崩落が発生し大和川を閉塞した。
これにより一気に奈良盆地底部は湖水と化し、縄文集落があったとしても湖底に沈んで消滅した。
弥生にはいり農耕など新技術をもつ集団が奈良盆地に達し、詳細図の亀の瀬岩付近の開削を開始。
(その短い川筋の現在の標高はその前後より高い、土石流が埋めたためと推定)
湖水の水位は徐々に下がって広大な農地が誕生(その中心が唐古・鍵遺跡)

開化崇神の支配(纒向)となっても開削作業は継続。これが現在の廣瀬大社の砂かけ祭の由来と思います。
AD500頃となって奈良湖のほとんどは消滅し、廣瀬大社や隣接する大塚山古墳(河合町)が登場。
(参考図2 大塚山古墳は奈良での最後の大型前方後円墳、葛城氏の馬見古墳群の領域にありますがすでに滅亡、仁賢大王と推定(^^; )。
飛鳥奈良でもまだ湖と呼べる水面は残っており、交通と人々の動きに重要な影響を与えていたと考えています。






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