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[11997] Re:丹塗りの矢 神奈備 投稿日:2016年12月31日(土)10時3分
かたばみさんへのお返事です。

 皆さん、今年も色々教えていただき、また触発をいただき、ありがとうございました。

 丹塗矢は、妊娠・誕生へ繋がる説話となっていますので、日光を物体的に表現したものではないでしょうか。
 こう考えますと、百襲姫の場合には、朝の出来事で、日光を思わせるのですが、姫を死に至らしめているので、日光ではなく、やはり箸と考え、大物主と百襲姫をつなぐ絆が切れたことの象徴のような気がします。

 皆さん、よいお年をお迎えください。


[11997] 丹塗りの矢 かたばみ 投稿日:2016年12月30日(金)01時39分
山城国風土記逸文にある玉依日賣と「丹塗り矢」伝承(賀茂建角身命−玉依姫命−賀茂別雷命)。
古事記では三輪山の大物主と丹塗り矢。
古事記の神武天皇(比売多多良伊須気余理比売)でも丹塗り矢。
箸墓の「倭迹々日百襲姫」のホトを箸で突いて、はいささか不自然に過ぎる(^^;
これも大物主とのからみでの丹塗り矢の変形じゃないかな。

丹塗り矢の説話は北九州の婚姻儀礼を始発とするのではないか。
海人系譜(南西諸島系−豊玉姫−玉依姫−安曇海人)や味耜高彦根の子孫などによって畿内に運ばれ、その痕跡が丹塗り矢説話ではないかと思っています。

東京では破魔矢に白と赤があります。どっちにするか悩むところ。
来年もまたよろしくお願いいたします。



[11996] 麦の害鳥になる鴨 神奈備 投稿日:2016年12月29日(木)21時22分
渡り鳥のカモは マガモ、カルガモ、コガモ
定着のカモは ヒドリガモ

渡り鳥のカモは湿地を好むようですが、ヒドリガモは乾燥地を好むようで、植物の種子や麦の若奈を好むようです。

アジガモ現在ではは巴鴨と言い、マガモに属します。麦の害鳥にはならないようです。

このカモの名を持つのが阿遅鋤高日子根命で迦毛の大御神と称されています。


[11995] ヤブ ヤボ 神奈備 投稿日:2016年12月28日(水)14時44分
宮本常一 日本文化の生成 下 文庫
 焼畑nことを静岡・奈良・九州の山地では、ヤブ ヤボ と言う。


[11994] Re:銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月26日(月)15時28分
神奈備さんへのお返事です。

>この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です

古事記の八俣の大蛇の段の系譜では
速?佐之男命+櫛名田比売の子が八嶋士奴美神、以下妃は略して
布波能母遅久奴?奴神、深渕之水夜礼花神、淤美豆奴神、天之冬衣神、大国主神
(ここで古事記がやらかしてくる(^^; )
大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り。

しかし、大穴牟遅は「同じ古事記」で速?佐之男の娘の?勢理?売に婿入りしています。
これだけでも「古事記の別名」が信用できないのは明らか。
葦原色許男は播磨風土記で天日槍と戦っており、天日矛は崇神紀で亡命者として書かれています。
古事記の系譜を偽とみるなら話は別ですが、それでは古事記全体が信用できなくなる。
大国主とは出雲の領主を意味して個人名ではないという論がありますが、系譜の書き方から見て無理でしょう。

書紀と古事記の書く事象が一致するものがいくつかあります。
古事記の少彦名が帰郷した後に現れる「是の時に海を光らし依り来る神有り」
「吾は倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」とのりたまひき。此は御諸の山の上に坐す神なり。
書紀にあって古事記にないのが「こは大三輪神なり、この神の子はすなわち甘茂君・大三輪君等・・」

もうひとつが素盞鳴が出雲の簸の川上に降りてオロチ退治の項での書紀1書の記述。
稻田姫を見そめなはして子を生む。清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、あるいは清之名坂輕彦八嶋手命
この五世孫が大国主神なり。
素盞鳴と大国主の関係が古事記の系譜と一致します。
書紀に大国主の名がでてくるのはここだけ。
大己貴で国譲りですから大己貴時代以降は書けないはずですが、口が滑ったのでしょう(^^;

もうひとつが、天之忍穂耳と天之稚彦と味耜高彦根の説話の部分、略。

古事記の書く大国主だという事象の多くは大穴牟遅あるいは大己貴とすれば混乱はなくなる。
ただし、(真の)国譲りがいつの誰なのかが問題。


ちょいと余談
出雲国風土記の仁多郡三津郷にて
「大神大穴持命御子阿遅?伎日子命、御須髪八握于生晝夜哭之辞不通」
御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき

「辞通はざりき」、現代語訳では言葉を話せなかったと解するようです。
(声を発せなかったではないでしょう、泣いているのですから)
辞が通じなかった、とは、言葉の意味が通じなかった、だと思います。
ヒゲが伸びる年齢まで理解できない言語を使っていたということ、すなわち外国語(^^;
その後の話は灌漑と水田開発に尾ひれ付きといったところか。

出雲国風土記での「大穴持命」のほとんどは大穴牟遅または大己貴を示す。
山陰における本来の大穴持伝承は縄文系譜の先住者イメージだと考えています。
サヒメ伝承では大穴持神を避けて種まきする、大穴持神には農耕文化を持つイメージがない。

大穴持の文字を表意とみるならば、洞窟に住む人物でしょう。
縄文の洞窟追跡は多数あります。WEBの「日本における洞穴遺跡の研究」PDF参照。
弥生時代に入っても洞窟が使われた痕跡があるようで、これを以て「大穴持」の登場じゃないか。

出雲国風土記での大穴持命の説話の多くは北九州から転送された大己貴の説話で、文字に大穴持が仮借されたと考えています。
(造天下大神だけで神名を書かない場合も多数あって要注意、誘導目的ありとみる)
(播磨国風土記には大汝命と小比古尼命の奇妙な説話がありますが、播磨あたりでは大汝と聞き取ったのでしょう)


それぞれの年代の特定(起点は素盞鳴とはなにか、天孫降臨とはなにか)。
書紀の書く国譲りの意味(できるだけ早い年代で出雲の存在を抹消する)。
考古学での事象(遺跡年代、北九州での大量の戦死者、銅剣や鏡、銅鐸、などなど)。
これらを複合させて試行錯誤した結果がmyHPの弥生〜古墳初期 出雲と天孫シミュレートです。

味耜高彦根は大己貴時代の人物、BC150頃。
九州における出雲と天孫の抗争時代(大量の戦死者遺骨)であって、書紀の書く大己貴時代での国譲りは偽。
当然ながら書紀に建御名方は登場しない。

事代主は登場する、事代主は個人名ではなく祭祀者を意味するからだとみています。
(皇室の八神殿に事代主神が祀られますね)
ひょっとすると、ですけれど味耜高彦根も祭祀者(事代主)であった可能性をみるところ。
(辞通はざりき、の後に「良い場所」に至る伝承です)

建御名方は大国主時代の人物、AD30頃。
古事記の書く大国主の国譲りは正しい(子の建御名方が登場)。
ただし、神武に九州を譲るであって、神武朝(委奴国≒倭国)が成立する時代。

味耜高彦根は「国譲り」とは無関係、ということになります。




[11993] Re:銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月22日(木)16時33分
かたばみさんへのお返事です。

 国譲り神話に出てくる大國主の御子は事代主命と建御名方命とで、二柱の御子神は国譲りに同意しています。
 『古事記』では、伊邪那岐大御神、天照大御神と並んで、迦毛大御神と呼ばれる大御神の三柱の一です。また後世になりますが、出雲国造の『神賀詞』に登場する大穴持命とその男子神としては事代主命と共に阿遅須伎高孫根の命です。
 この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です。

 天津甕星として征服されていれば、国譲りのお話に出てこなくても不自然ではありません。

 天津甕星を倭文神(織物の神)の建葉槌が退治するのも不思議ですが、建甕槌が織物の神を兼ねていても不自然ではなさそうですね。

 金星が太陽を横切るのが見えたとしても、その黒点のような物が金星であると認識できたのかどうか、いささか疑問を感じます。それよりも、夜が明ける前に東の空に明るく輝き、太陽が沈んだ後にも西空に鋭く輝く姿に太陽と並ぼうとする星を目ざわりとしたのかなと考えています。

 迦毛大御神と称されるのは太陽に並ぶその姿にか、米を収穫した後の寒くなりかかる頃に麦が撒かれますが、そのころに渡って来る鴨が麦の守り神とされたのかもと想像しています。



[11992] Re;銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月13日(火)19時53分
>(物部系は田畑と農産物にタッチしない)

「物部海運商社」が扱うのは手工業品。加えて金属資源など。武器も含みます。
先代舊事本紀の天火明の随伴者に「笠縫」なんてのもあります。
若狭の籠神社の籠、手工業品。

すでに消えているであろう「サンカ」。
飛鳥奈良時代の物部支配下の手工業品生産の人々が祖だと考えています。
物部氏の消滅で支配者を失い、新たな支配者には属さなかった人々。
農地は持たない、だが農民のすぐ近くにいた。蓑や笠など農耕用品を作っていたから。

虚偽を含むらしいけど三角寛氏のサンカの研究で「私たちの祖先は神武さんより古い」といった話が事実なら、そのあたりからきていると思っています。


[11991] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月13日(火)17時23分
>神奈備さんへのお返事です。

神奈備さんの「迦毛の大御神と下照比賣考」を拝読。
私の場合はマーカーを素戔鳴渡来と天之忍穂耳渡来の年代特定を基準にしていますが、似た結果になるところ少なからずですね。

カモの語源は?ですが、カモとカモ・メで同じという論があるようです。
スズ・メやツバ・メという用法らしい。
九州の鴨の渡りが伽耶経由なら出雲とつながりそうですが、カモ・メなれば海人ともつながる。

奈良盆地の南に、紀ノ川方面から北へ高鴨神社、葛木御歳神社、鴨都波神社と並ぶ。
なんとなく時代の流れに沿って北上しているようにみえます。
高鴨神社がまずありき、迦毛之大御神は大いなる祖先といったところか。

葛木御歳神社では大歳神と高照姫命。海人から離れて農耕へ。
高照姫命は下照比売命と同義で味耜高彦根の流れの痕跡か。
淡路島で大歳神を祀る社が多いのと関係あるんじゃなかろうか。

鴨都波神社は事代主命と下照比売命。
ここでは漁労の痕跡が残る。
これも淡路島で事代主命が多いのとつながるのではないか。

鴨都波遺跡は弥生中期の高床建物と竪穴住居。和歌山の紀伊型甕(弥生中期、突帯文土器)が出土しています。
もっと北東の榛原の四分遺跡では紀伊型甕と大和型甕の折衷型が出土しています。
奈良の開拓は紀ノ川遡上から始まって、伊勢湾の津とつながる(まずは海人の弥生街道で)。
海人の仲人で尾張の天火明系の天甕津媛さんと赤衾さんが結婚・・

奈良湖の干拓開始(^^; myHPの書庫2 参考図と仮説に奈良湖推定図をアップしてあります(弥生街道を修正)。
干拓地に唐古・鍵遺跡などが登場。
後に廣瀬大社の砂かけ祭、祭神に櫛玉命がありますが、櫛玉命は物部に非ず、天火明だとみます。
(物部系は田畑と農産物にタッチしない)


出雲国風土記に佐太大神の母は支佐加比賣命キサガイヒメとあります(大己貴を治療かな)。
支佐加比賣命は神魂尊の子とされ、出雲国風土記には神魂尊の子が他にも登場しています(名のみ)。
神魂尊(神皇産霊尊カミムスビ)は東シナ海系の(高度な)文化を意味する神と考えています。
少彦名も神魂尊の手からこぼれ落ちた子、薬と酒の神様。
東シナ海系の海人の活動が活発になる年代と考えています(弥生が発達する頃の渡来と交易、BC300頃〜か)。
(高魂尊、高木神、は高皇産霊尊タカミムスビは内陸系文化を示すと考えています)

このあたりの伝承はウエツフミ(上紀)にいろいろあります。
解読 上紀
http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/
おそらくは海人系譜に伝わった資料がベース。
ただし、上紀は書紀の記述に準じて資料を再配列しているだけで、年代観はゼロどころかマイナス(^^;
無理な配列や挿入によって「疑わしい書」になってしまった。
しかし、「なにがあったか」の事象としての資料価値は高いとみています。

書紀にて少彦名が帰郷した後に、大己貴の眼前に幸魂奇魂がおぼろに現れて大和の三諸山(三輪山)に住みたい、という。
幸魂奇魂とはカノープス星だとみています。
大己貴が今後をどうしようかと自問自答した答えが「三輪山に住む=近畿方面を開拓する」だと考えています。
書紀編纂者が「本当の出雲」を臭わせているわけです。

その流れにあるのが味耜高彦根とその子孫、神魂尊系の親父譲りの長江系の文化を持つ。
最新の水稲や灌漑技術、おそらくは絹も(ただし奈良から弥生絹はでていない)。
祭祀は不明なれどやはり呉越楚など長江系だと思います。
神武朝AD36〜AD100頃では楽浪郡経由の文化に変化かもしれない。

甕棺葬もあったはずですが、海人としてはでっかい甕は運びにくい、あるいは寄港地にでかい焼き釜が必要。
九州以東では使われなかった(今後特例的に出る可能性はあり)。

出雲系文化は八島士奴美系(後に大国主)で、素戔鳴から4世代目が赤衾伊農意保須美比古佐和気能命。
山東半島の畑作文化をメインとし、祭祀も山東半島の斉の瑯邪八主だと考えています。
この文化圏のマーカーのひとつが銅鐸(紀元前後頃以降)、もうひとつが方形周溝墓だと考えていますが、まだ調査中。


さて、天甕津媛、天津甕星、甕ミカ(カメ)と壺の違いってなーに(^^;
口が広くてでっかいのが甕だと思ってますけど・・
辞書ではミカは酒造りの大きなカメともあります、御食ミケに同義ともあります。

津の用法には「なになに・の」の用法と、そのまま「港」を意味する場合あり。
天甕津媛は、天孫系の造り酒屋の普通の港の娘。
天津甕星は天空・の・大きな星(明るい星)、金星だろうと思います。

天御梶日女、天孫系で、御は尊称、梶はそのままカジノキでいいんじゃないかな。
梶は神聖な木、製紙用の繊維を採る木、諏訪大社の神紋。
こちらは北九州か、ちと高貴で味耜高彦根の妻となった。
天甕津媛と天御梶日女はまったくの別人。

星神(香香背男命)を祀る社はけっこうありますね(祭CDによる)。
岡山にも多いので海人御用達じゃないかと思います。岐阜にもあるけど愛知県境(加茂郡)でこれも海人か。
(富山との県境近くの山中にもあるけど、伊弉諾伊弉冉尊と菊理毘賣、彌都波能賣神があって相当に古い可能性あり)
書紀で星神が悪役扱いされたために消えた社が他にたくさんあるんじゃないかな。
(ウエツフミにも星神が少なからず登場)


[11990] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月11日(日)16時00分
かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

 天甕津媛命は『出雲国風土記』楯縫郡の条に、『阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多久の村までおいでになっり、多伎都比古命を産み給うた。』という記事があり、この天御梶日女命も天甕津媛命のことと考えています。だからと言って后が同じなら夫も同じとすることはできないでしょう。多夫多妻の時代でしょうから。この后は出雲国内で二人の夫を持っており、美濃や尾張によく現れたものと感心しています。

 この天甕津媛命と天津甕星がよく似た名前で、赤衾さん、阿遅須枳さん、天津甕星さんの関連が何かあるのかなと気にかかります。また、尾張国には星神社が数社鎮座しているのも、面白いことです。


[11989] Re: 味耜高彦根 かたばみ 投稿日:2016年11月22日(火)23時32分
画像を忘れました。
鴨の渡りのコース(無断転載ご容赦(^^; )
伽耶を経由していますね、ただし長崎県の鴨の場合は。




[11988] 味耜高彦根 かたばみ 投稿日:2016年12月11日(日)11時52分
味耜高彦根は大己貴の子。古事記の系譜では大国主の子にはなりえない。
味耜高彦根の妃は天御梶日女でいいんじゃないかなあ。
母は宗像三女神の多岐都比賣とされますが・・

宗像の海人は弥生初期では普通の漁労者でしょう。安曇といっしょに半島経由の避難民の救出にあたったと思います。
その初期開拓者と縄文の結合で遠賀川に「弥生」が登場BC500以降(持論でアマテラスグループ)、遠賀川土器。
古墳時代に入って沖ノ島に祭祀遺跡が登場する。
そういう流れから書紀は「天照大神から宗像三女神誕生」を創作したのだと考えています。

勘注系図では神屋多底姫=多岐津姫としていますが、妥当と思います。
神屋楯比賣は宗像の女性(巫女?)なのでしょう。
大己貴と神屋楯比賣の子が味耜高彦根。

大己貴の女性には因幡の八上比売もいる・・須勢理姫の嫉妬(^^;
因幡の白兎の治療、島根のキサガイヒメの治療、少彦名(大己貴)に通じます。
(佐太神社の佐太大神の母がキサガイヒメ/松江市の加賀神社)
このあたり、大穴牟遅や大己貴などが大国主の別名であるなんてことで混乱の極みとなる。

素戔鳴(BC190頃渡来)から10〜20年後あたりで味耜高彦根が誕生といったところか。
味耜高彦根には素戔鳴系譜の血はまったく流れていないということです。
東シナ海系海人の父と宗像海人の母の子。
成年になるのはBC150あたり。やっぱり海人で安曇海人と行動を共にしたと思います。
その年代は天之忍穂耳渡来BC150頃と一致します、すなわち天之稚彦説話。

赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と天甕津媛は2世代50年ほど後になります。
味耜高彦根系譜が近畿にやってくるとすれば、安曇海人と共に出雲系譜を輸送するとき、本格的な開墾が始まるとき。
子か孫の時代だと思います(すなわち赤衾神と同時代、BC80頃)。

妃とされる天御梶日女は何者か。
天を冠することに注目して天之稚彦の縁者の可能性が高いとみておきます。


カモ氏の祖はいろいろの論がありますが、本質は「鴨」であって味耜高彦根に収束するだろうと考えています。
奈良の高鴨神社の迦毛之大御神ですね。
大己貴(東シナ海系海人≒長江系の稲と鳥)、最新の灌漑技術。瀬戸内展開から畿内へはいった。
奈良湖の干拓開始(^^; 廣瀬大社・・稲、櫛玉命→天火明(物部に非ず)、なんかつながってくる。
ここでも各地の出雲伝承が出雲国風土記に転送されているとみて要注意(書紀では天火明系譜のあいまい化)。

大阪府高槻市の安満遺跡アマから近畿最古とされる水田痕跡が発見されています(弥生初期、おそらく持論の初期開拓者)。
この水田は洪水とみられる砂礫におおわれていて人が歩いた足跡が残ってるそうです。
(遠賀川流域も同時代に洪水で壊滅したとみています)
現在調査中のようですが長期間継続する遺跡なので時代による変化が見えてくる期待があります(マーカーになりうる)。


[11987] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月10日(土)00時05分
神奈備さんへのお返事です。

>阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが

阿豆良神社の天甕津媛、興味深いですね。なんでここに・・

祭CDによると
「今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り」
阿豆良神社の祀る天甕津媛命は出雲国風土記では赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(「赤衾神」と略します)の妃とされますね。
出雲の瀬戸内から近畿方面開拓の(本格化の)人物は「赤衾神」だと考えています。

天甕津媛はその状況証拠のひとつです。
赤衾神は素戔鳴から4世代目(櫛名田姫命−八島士奴美の系譜)。
素戔鳴渡来BC150頃とすれば、おおよそBC80前後となります。

池上曽根の発達年代がAD50あたりであること(旧年輪年代のBC50は誤り)。
朝日遺跡の弥生初期〜中期〜後期での変化のありよう。
総合して天甕津媛は天火明系譜の尾張の女性ではないか。
(政略結婚に近いかもしれないけれど)

北九州では「アマテラスグループ」と素戔鳴系譜、そこへ天之忍穂耳系譜が参入して抗争が激化。大量の戦死者遺骨が出る時代。
それでも、和平を求める動きがあったと考えています、政略結婚。
神名の「天」に注目しています。
赤衾神の母は天之都度閇泥、「天」を関しています(大国主の父も天之冬衣で天を冠する)。
この「天」は天之忍穂耳の系譜であることを臭わしている、と考えています。
(myHPの「弥生〜古墳初期 出雲と天孫シミュレート」参照)

九州以東では土地はたくさんあってまだ平穏、開拓に猫の手もほしい時代。
生めよ増やせよ・・そこで登場するのが安産と子育ての神。
赤衾神より妃の天甕津媛命のほうが旦那様より有名となって伝承が残った・・
(出雲国風土記は各地の出雲伝承を島根に転送して記述しているとみています)

天甕津媛は天火明系譜の尾張のお姫様の可能性あり。
天火明系譜なれば、垂仁に「私を祀りなさい」の伝承となるのも妥当、と考えています。


[11986] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 8日(木)20時26分
かたばみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。

 出雲の影響ですが、次のような考えはいかがでしょうか。

 阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが、阿遅須枳高日子命の由緒を借りたのではないかと思っています。この女神が祀られていることは、出雲の影響かなと考えてることができます。




[11985] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 8日(木)00時40分
神奈備さんへのお返事です。

>尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。
>中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。

確実な物証はない時代ですから、考古学的な出土物と記紀や先代舊事本紀の記述などからの「シミュレート」にならざるを得ないです。
天火明については先代舊事本紀の他には、ないといってもいいですね。
天火明の年代は天之忍穂耳の子とされますから、天之忍穂耳渡来BC150頃から1世代あたりで、BC130頃と考えています。
すべからく真偽の問題がからみますが、持論では「何があったか」についてはその源となる事象が存在した、をベースにしています。

出雲系譜が尾張までやってくるには少し時間がかかる。
瀬戸内開拓と奈良開拓が一段落してからだとみています。
銅鐸形式の分布から紀元前後から接触、AD100頃には天火明系譜は出雲文化圏に吸収されたと考えています。
朝日遺跡の大環壕はおそらくは、中国地方で倭国の侵攻が始まる頃、すなわちAD150頃とみています。

天火明(饒速日ではない)、神社としては、尾張一宮の真清田神社くらいかなあ。
国常立尊なども登場で曰く因縁がたっぷりありそうです。
尾張二宮は大縣神社、大縣大神という不明の神様を祀る。
これもなにかありそう、ひょっとすると山がご神体、奈良の大神神社に連なるものがあるか。
熱田神宮は尾張の三宮ですね。縁起は明確ですがこちらは古墳時代に下る。

社殿形式で尾張造りという独特の形式があります。
上記の真清田神社、津島神社、尾張大国霊神社(国府所在地)、高座結御子神社、氷上姉子神社。
明治26年までは熱田神宮も尾張造りだったようです(ウィキペディアによる)。
http://tsushimajinja.or.jp/map.html
津島神社参照

考古学的な代表として、朝日遺跡インターネット博物館→朝日遺跡の変遷、参照
参考図1:その中のイメージ画、厳重に防御された区画とそうでもない区画が書かれていてわかりやすい。
弥生中期後半から竪穴住居が円形から方形へ変化する、といったこともあります。AD150頃か。
尾張は二つの異文化が接触して、特有の文化を作っている、と考えています。

尾張には円窓付土器なんて奇妙な土器もあります。
参考図2 近畿から出土の円窓付土器
この土器は尾張だけじゃない、奈良にもある。
ということは、天火明系譜と出雲系譜は弥生中期頃(紀元前後頃)に接触混合(交易)している可能性あり。

海部氏系図と勘注系図(桂川光和氏)があります。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
なんで若狭湾に伊勢の元宮と称する社があるのか(籠神社)

なぜ書紀には天火明の系譜がまったく書かれていないのか・・
神武よりはるか以前に天孫が近畿にあって出雲と接触していてはまずいからだと推定。
瓊々杵尊の妃の別名とはなにか、天火明命の妃との混合処理と推定。
崇神248-273はなぜ奈良から遠く離れた伊勢にみずからの社を置いたのか・・天火明系海人国で安心だったからじゃないか。
などなど・・
これらを説明できる状況とは・・ですね、








[11984] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 5日(月)11時39分
かたばみさんへのお返事です。

> myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
> 小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。


 興味深い分布図になっています。

 尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。

 中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。


[11983] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 2日(金)17時15分
myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。

小銅鐸と一般銅鐸の違い(分類)とはなんだろう・・どーも理解できない(^^;
単純には銅鐸の側面にヒレ状のでっぱりがあるかないか、じゃないかと思っていますけれど。
小銅鐸は一般銅鐸に先行し、平行もしているようにみえます。

小銅鐸は海人の先遣隊(探査部隊)の実用品ではなかろうか、
使う場所は限定されず、埋めて隠蔽されることもなかった(単に破棄はある)。
持ち運びするので大型化はしなかった。

「一般銅鐸」は農耕民の祭祀用で、使う場所は集落(その土地)に限定される。
「その文化圏」が崩壊したとき「埋めて隠蔽」した、じゃないのか。
持ち運びはしない、後に大型化しても問題はない。

形態で分類、ではなく使う人々と使い方が問題になる、と考えています。
参考図 千葉県木更津付近出土の「小銅鐸」
右と中央の銅鐸は明らかにヒレがある、形態からは普通の銅鐸(農耕祭祀用)とみえる。
だとすれば「一般銅鐸」の東限は千葉となります。
芝野遺跡や菅生遺跡の弥生水田がありますから、移動しない農耕祭祀、で不思議はないはずです。




[11982] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 2日(金)16時59分
神奈備さんへのお返事です。

神社の場合は、平安中頃以降に記紀や先代舊事本紀の影響を受けたものが多いと思います。
単一事象だけでは神社と弥生をリンクさせるのはたいへん難しいと考えています。
複数の事象がなにかをみせてくれるかどうか。

淡路島の神社をCDでざっとながめてみました。
なんか神社の数がずいぶん多いように感じます。
大歳神、事代主命を祀る社が多いですね。

住吉あるいは応神を祀る社も多いですが、これは記紀の神功説話によるところかな。
中筒之男神と表筒之男神を祀るけれど底筒之男神がない社があった。
深読みすれば瀬戸内系海人と太平洋系海人の島であって、日本海系とは関係ないのか??

事代主命はエビスと同等とみれば海人で不思議はないですが、大歳神はこれいかに・・
大歳と称する場合は古事記の書く大年神グループのひとりの「御年神」を示すと考えています。
大年神グループは列島へ「弥生文化」を運んだ半島経由で渡来した人々とみています。

ひとつは春秋戦国からの脱出者で戦争避難民、おそらく水稲など高度文化を持つ人々を含む。
ひとつはBC1000以降の寒冷化からの脱出者で環境避難民、こちらはさしたる文化は持たない。

で、縄文と結合して北九州で拡大、これを持論では「アマテラス(グループ)」と称しています。
書紀の書く「天照大神」の原型です。
いわゆる弥生の始まりでもあります(BC500頃からか)。
(遠賀川土器や半島系無文土器)

半島から列島へ渡るそれらの人々(持論で初期開拓者)を救助あるいは輸送したのが安曇(阿曇)海人だと考えています。
本来は南西諸島から北九州あたりの漁労の民(大綿津見神)で、縄文からゴホウラ貝などの交易を行っていた。
後に安曇となって、瀬戸内での輸送も行うようになった。
その痕跡が淡路島の「大歳神」を祀る社の源流にあるのではないか。

記紀では素戔鳴尊の子とされる五十猛命や大屋彦命もこの流れにあるとみています。
屋久島などの杉を知る人物、台湾などのヒノキも(素戔鳴渡来BC190頃よりはるかに古い)。
海人に運ばれて紀ノ川遡上で植林(あいにくヤクタネゴヨウなどは育たなかった(^^; )
海人が現地で必要とするのは食糧と舟の補修用の木材。

木曽の山中にぽつんと銅鐸がある、この頃には林業集団が登場しているのかもしれない。



[11981] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 2日(金)13時34分
萩原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』に次のようなことが書いてありました。

古代中国では祖霊をよくまつれば季節の運行にも恵まれ、穀物の豊穣がもたされる。という考え方があった。死者の霊魂は地中に埋めた死体とともに地中で暮らし、子々孫々を見守ると言うのが中国の来世観である。

 魂魄に分かれて魄は地中にいて、魂は天に上り、時々降りてくる というイメージで、殷の時代に、そのような考え方があったと理解しておりましたが、意外な来世観にぶつかりました。
 もし、このような来世観が、日本列島にも来ていたとしますと、銅鐸の祀りは地中の祖霊を祀るという意味がありそうです。
 そこへ、いや、魂は天に上るから、天を祀るべきであると、銅鏡の祭祀が優位に立ったと、銅鐸から銅鏡への祭祀の転換を理解することができます。

 この来世観、本当なのでしょうか。


[11980] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年11月30日(水)15時32分
かたばみさんへのお返事です。


 銅鐸は謎の多いく、興味はつきません。

 最古の神であろう雷を呼び、豊作を祈願するとか、沼地にスズ(水酸化鉄のかたまり)が生成するようにとか、古代人が祈りに使用したもののようですが、目的などよくわかりません。

 地域別の銅鐸出土数と祭神について相関をとってみました。片や約2000年前、祭神数は現在の『平成祭データ』からとったという意味の分かりにくいものですが、何らかの参考になればと計算をしてみました。
基礎資料は、 http://www.kamnavi.jp/doutaknew3.htm  にアップしております。

 ニギハヤヒ      0.53
 海神         0.50
 アジスキタカヒコネ  0.49
 大国主・大物主    0.05
 ヒルコ        0.02

 ニギハヤヒとかアジスキは後世にブームがあったような感じのしない神だと思います。それらに若干関係がありそうな雰囲気です。


[11979] 弥生の海人 かたばみ 投稿日:2016年11月29日(火)22時43分3
銅鐸分布図に小銅鐸も追加しました、けれど暫定、最新版などで修正中です。
(PDF化の要領がいまいちよくわからない)
小銅鐸は海人の実用品とみていましたが、内陸にもあるのが不可解。
しかし弥生の海人が資源探査で行動をしていたと考えれば・・少なくとも関東では氷解(^^)

海人は土地に縛られず行動範囲が広くかつ移動が速い。
当初は一般的な輸送を行ったと思いますが、金属資源探査に従事する特化集団が登場したと考えています。

出雲系では安曇(阿曇)、大綿津見神の系譜。
西南諸島から南九州や北九州に至る広範囲です。
BC500あたりから中国の戦乱と寒冷化から逃れる人々が半島経由で列島にやってきた。
これの支援で漁労から離れて輸送に特化する海人がいた、これが安曇系海人の起源。

北九州の出雲勢力の拡大と共に瀬戸内への輸送開始。BC150頃からか。
瀬戸内へ運んだのは八島士奴美系の出雲。
そして一部が資源探査に特化、内陸にも入りさらに東北へ。

もうひとつが東シナ海系の海人。代表が大己貴と少彦名だと考えています。
登場はずっと新しく、北九州で弥生文化が形成されてからの渡来でBC180頃からか。
(古事記では少彦名を神皇産霊尊の手からこぼれた腕白坊主とする)
大己貴は素戔鳴の娘の婿となって北九州で勢力を急拡大。
北九州の開拓、福岡平野や吉野ヶ里など。山陰では鳥取あたりまでが行動範囲(因幡の白兎は医療伝承とみる)。
甕棺葬の風習を持ち、中国系の最新技術の導入。

もうひとつが物部系の海人。
原点は安曇と同じく大綿津見神と思いますが、輸送に特化するのは天孫降臨以降。BC130頃か。
天火明に随伴して日向から尾張へ、太平洋岸です。
天火明に随伴していた天之忍穂耳系(長江系)とまじりあった混成グループ。
(すなわち後の物部氏は単一の始祖を持たない)

安曇と同様に一部は資源探査に特化。内陸へも進出。
ただし、こちらには小銅鐸を使う習慣はなかったとみます(九州南岸〜伊勢志摩に小銅鐸がない)。

資源探査の第一は鉄と銅でしょう。
安曇の発見したのがまずは琵琶湖の湖成鉄かな。ついで黒姫山の褐鉄鉱、秩父の自然銅、秋田の自然銅、そして岩手の餅鉄。
物部の発見したのは琵琶湖の湖成鉄程度でさしたる収穫なし(^^;
おそらく吉野の水銀も両者が発見していると思います。
奈良周辺で安曇と物部(天火明系譜)が接触する。

たぶん、この時代では大喧嘩にはならない。資源を共有できるなら約定締結あたりでOKとみます。
土地に縛られる農耕民ではないから。
そのルートのひとつが伊勢湾(尾張)〜琵琶湖〜若狭の内陸の道。
(後に若狭での天火明系譜と出雲系譜の鳥鳴海神系譜の結合へ、尾張では朝日遺跡の異文化の二重構造)
もうひとつが伊勢湾(津)〜奈良〜紀ノ川の道。
(こちらでも出雲系譜と天火明系譜の結合へ、記紀では長髄彦伝承の源)

淡路島は安曇海人の瀬戸内での拠点。
伊勢志摩は物部海人の近畿での拠点。
大己貴系海人の拠点は北九州の糸島半島と宗像あたりかな(安曇と共有)。


さて、関東で小田原から北へ内陸部で小銅鐸が発見されています。
安曇は姫川(糸魚川)を遡上して黒姫山の褐鉄鉱を発見。
諏訪の和田峠の黒曜石、信州縄文と東北縄文の交流ルートがあるはずです(碓氷峠経由と思う)。
安曇はここから岩手の餅鉄の存在を知る。
(安曇から碓氷峠を通る途中に巴型青銅器が出土)

そのルートの途中で秩父の黒谷の自然銅を発見。そこから南下すれば小田原、舟で自然銅を輸送できます。
後の武蔵国の国府の大国御魂神社は武蔵の六つの神社を武蔵六宮とする。
武蔵六宮の成立そのものが和銅の輸送路ではないか。
で、六宮の並びと小銅鐸の位置が重なります(^^)
関東の内陸での小銅鐸の意味はこれだと思います。

出雲崩壊の時その情報は隠蔽され、秩父の自然銅の存在はAD708まで知られることがなかった。
日本武尊の関東渡来で太平洋航路が復活したとき、随伴者は物部系の海人と兵士でしょう。
そのような過去があったことはつゆ知らず、東京湾の千葉県側へ上陸・・

さて、弥生の製鉄遺跡はまだ発見されていませんが・・
粒状褐鉄鉱を使う製鉄はタイのバンドンブロン遺跡にBC200頃に登場しています。
(1991に伊那史学会にて褐鉄鉱(鬼板)による製鉄実験に成功)

黒姫山の褐鉄鉱と岩手の餅鉄がクロスするのは諏訪(サナギの鈴あり)。
天竜川を下って浜松なら日本海経由で運び出すよりずっと近道。
安曇の重要な拠点が浜松周辺と小田原周辺にあった可能性大。


[11978] Re: どんたくさん かたばみ 投稿日:2016年11月24日(木)10時44分
神奈備さんへのお返事です。

どんたくさんなど、なつかしいお名前です。

>銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら

カシミール3Dという地図ソフトではオリジナルの地名データを記録することができます。
地名を地図にプロットするとそのサブデータ(250文字まで)も記録されます。
(弥生遺跡とか神社といったレイヤ別もできます)
また補助データとして画像などを含む任意のファイルをリンクさせることもできます。
私的なデータベースになっています。

それをベースにして全体を把握する目的で、画像ソフトにて色分け銅鐸を地図にプロット。
注目地域では拡大図を作っても良さそうですね。


[11977] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年11月22日(火)23時32分
銅鐸は自然神に対する農耕祭祀と考えています(山東半島の斉の瑯邪八主と推定)。
天秤棒のごときに銅鐸を吊して、キンコーンと鳴らしながら田畑を練り歩いていたのではないかなあ。
年代についてはちょいと修正(今後も常に修正がありえます(^^; )

初期開拓者(BC500以降によって青銅器が持ち込まれることがあっても、例外的と考えます。
持論:須佐之男渡来BC190頃、天之忍穂耳渡来BC150頃がすべての基本です。
少なくともこれ以前に銅鐸は存在しない(小銅鐸を除く≒海人御用達)。

天之忍穂耳渡来後の北九州では戦闘激化、青銅剣の生産優先と考えます。
参考図1 山口県長門市の向津具銅剣(明治時代に土中より出土)
参考図2 佐賀県吉野ヶ里の銅剣(甕棺内)対馬にも同形があるらしいけれど未確認
どうも半島系銅剣の由来と使用者を考えることに目をつぶるような傾向が・・(^^;

参考図3 大分県日田市 吹上遺跡の鉄剣(甕棺内) 北九州甕棺の東限
甕棺から鉄剣がでています。
持論にて甕棺葬は大己貴系譜の出雲と考えています。
大己貴系の海人が前漢か後漢初期に輸入していて不思議なし。

福岡県宗像の田熊石畑遺跡から15口の細身青銅剣出土。BC100〜200とされるようですが、いいところかな。
須佐之男系譜と天之忍穂耳系譜、加えて地元縄文+初期開拓者(持論にてアマテラスと称す)の激戦の時代。
北九州の戦死者遺骨が大量にでる時代です。

だがBC100〜BC60頃に出雲と天孫の政略結婚がうかがえる(深淵之水夜禮花の妃、淤美豆奴神の妃)
大国主の父の天之冬衣、なにゆえ「天」を冠するのか・・
ある程度の平穏期間もあったと考えています。
最初の祭祀用銅鐸、福田型が登場し得るのはそういう時代だと推定。

島根、鳥取、広島、岡山の福田型銅鐸は、出雲系の先駆者が瀬戸内と山陰へ開拓地探索で運ばれたものと推定。
(広島の福田型は細身銅剣とともに出土)
初期の農耕地開発はBC80頃か、北九州からの福田型銅鐸搬入は紀元前後頃か。

その後、山陰ではさしたる農耕適地なく開発は停滞、銅鐸の搬入はAD36頃(大国主の引退)以前では搬入されず。
瀬戸内では、岡山、兵庫、香川、徳島、河内などの沿岸部の開拓が進み、奈良盆地の発見。
銅鐸の生産が急拡大、おそらくは菱環紐式の始発。生産は岡山か兵庫西部あたりか。
神武朝(AD36−AD100頃)の直前か。

大国主は瀬戸内や奈良の開発が進んでいることをみこして、九州を神武に譲って島根に引退ということです。
山陰開拓は大国主の子の鳥鳴海神系譜が鳥取から若狭まで進出。
使う銅鐸は外縁付紐式から扁平紐式へ変化して、これが山陰にも登場する。AD50〜AD150あたり。
銅鐸は作れる場所でどんどん作られた(^^;
弥生の寒冷化がはっきりしてくる時代で、銅鐸が大型化し祭祀も盛大となる時代。

大阪には銅剣鋳型が2ヶ所、奈良盆地には石剣はあるけれど銅剣は出土していません。
奈良は武器の必要のない平穏な弥生世界だったと推定(奈良湖の干拓(^^) )。
名古屋の朝日遺跡も大環壕はあるけれど戦闘痕跡はない。

北九州では神武朝が終了して争乱の時代へ。孝昭105-137、後漢へ王朝交代の使者=後漢書の倭国王師升。
倭国争乱となって邪馬壹国台頭(日向宮崎)、そして卑弥呼登場(新羅本紀、卑弥呼の使者AD173)


淡路島では・・
南あわじ市の古津路から銅剣14本が出土しています。
そのうちの2本が大分県大分市と広島県尾道市の中型細身銅剣と同じ鋳型の銅剣。
銅鐸に先行する重要なリンクとみています。
この銅剣がいつ持ち込まれたかはなんともいえず、ですけれど。

淡路島に後期型銅鐸がないのは、農耕不向きの土地で初期開拓だけで終了したためではなかろうか。
周囲には大阪や播磨など農耕適地がたくさんある、開拓の主力(人手)はそちらへ展開。
新しい銅鐸を追加する必要がなかった・・ということですね。

現在の淡路嶋の農業はタマネギやレタス。
「古代淡路国の社会・経済的特性」によると、律令時代では海産物と塩が租税だったようで、淡路島は海人の国だった。
(伊勢志摩も類似みたい)

淡路の五斗長垣内遺跡の鉄製品出土詳細を把握していませんが、毎度ヤマタイコクの鉄器うんぬん論・・(^^;
この遺跡は周辺で使われた鉄器(農耕具)のリサイクル工房じゃなかろうか。
鉄原料をここへ運んで生産、は考えにくい(褐鉄鉱なら長野県の黒姫山、餅鉄なら岩手、砂鉄はまだ無理と推定)。

破損したりちびてしまった鉄器を再生利用するための工房です。
出荷品のメインは釣り針・・弥生の海人の必需品だと思います。
錆びてめったに残らないと思うけど、広島市の長う子遺跡ナガウネや,福岡県(豊前)徳永川ノ上遺跡などから出土。











[11976] どんたくさん 3 神奈備 投稿日:2016年11月22日(火)21時37分
銅鐸については、学者さんも一目置いている どんたく さんにマップを紹介しましたら、次のようなコメントをいただきました。披露します。

大変な労作ですね。

突線鈕式銅鐸は、色を変えて、青色にしている点、わかりやすくていいですね。

あと、銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら
よいのになあ、と感じました。

神奈備の注

http://pcrescue.b.la9.jp/kodai3.html
小銅鐸の出土表は氏の作成です。

http://pcrescue.b.la9.jp/syoudoutaku.html




[11975] Re: 比屋武 神奈備 投稿日:2016年11月22日(火)21時27分
琉球松さんへのお返事です。

>  琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。
>  王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。
>
>  聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。
>  「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。
>  世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。
>  「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。


面白いですね。

藪サの御嶽 この サ がまた、社の訛りとすると、どうなってくるんでしょう・



[11975] Re: 銅鐸の分布図 かたばみ 投稿日:2016年11月21日(月)17時52分
神奈備さんへのお返事です。

> moritayaさん、移転中のようです・

面白いと思ったWEBはそのときに保存しておくべきですね。
以前にみたんだけど・・みつからない、というのが結構あります。

プロットミスやプロット忘れ、あります(^^; ま、各種情報を加えてぼちぼち修正。
正確な位置を特定するのがたいへんです。
地名が変更されているとますますですが、古くからある橋は地名の変更や架けかえがあっても橋の名前は残しているみたい。

淡路島など銅鐸のありようについての一考は、また後ほど。
参考図 淡路島の詳細






[11974] 比屋武 3 琉球松 投稿日:2016年11月20日(日)12時04分
琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。
 王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。

 聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。
 「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。
 世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。
 「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。。



[11973] やぼさ、やぶさ 5/e 神奈備 投稿日:2016年11月19日(土)19時41分
藪と神社

 『原始の神社をもとめて』岡谷公二著 amazon中古で400円 に、「ヤボサ神」としての節がありました。以下、内容を若干紹介いたします。

 「ヤブサ」は、小さい森や藪に祭られることから「藪」であり、「サ」は「社」の訛りと有力な説としています。

 ヤブサ神社の祭神については、「神社帳」の作成を迫られた神職が推測を以て記入したものとしています。

 ヤブサ神についての諸説
 中山太郎  古い墓の跡が聖地化したもの 『日本巫女史』
 三間十郎  開拓。開墾の守護神 『矢保佐神社考』
 「戦の神さん」
 「火の神さん」
 江口司 黄泉の国の神さん 『南島交易とヤブサ』
 折口信夫  元古墓で祖霊のある所 『雪の島』
       だいたい畑の神 『壱岐民間伝承探訪紀』
 谷川健一  古い墓跡を叢祠としたもの

 ヤボサ神の範囲
 対馬・壱岐から九州西海岸全域、薩摩 藪薩御嶽がヤブサと関係があるなら沖縄まで。

 ヤボサと朝鮮半島との関係は、今のところ見いだせていない。


 大三元さんご紹介の「八幡の藪知らず」は、この藪に入ると出てこられないという祟りの藪のようです。

 『 怪異・妖怪伝承データベース』によりますと、佐賀県東松浦郡鎮西町打上の藪墓・藪神については、「誰のものかわからない墓を藪墓といい、発熱・足の痛み・腰痛は薮神の崇りだという。」との解説が なされています、ここはヤブサ神社の多い肥前国松浦郡に属します。

 神奈備の家の墓は伊太祁曽神社の南の山中にあるのですが、夏に墓参りの際に、敷地内に竹が二本生えていました。ノコギリなど持ち合わせがなかったので、そのままにして来ました。竹藪というよりまだ竹林の側から中へ組み込まれていくような気がしました。最近の腰痛も気にかかります。

 神奈備の感想として、素朴な祖霊信仰の姿なのだろうと思っています。





[11972] やぼさ、やぶさ 4 神奈備 投稿日:2016年11月18日(金)15時13分
沖縄のこと

 『青草』への投稿から転載します。
 琉球神話でアマミクが造ったとされる九つの御嶽の一つに薮薩御嶽(ヤブサツウタキ)があります。アマミクがヤハラヅカサ上陸して浜川御嶽を経由しミントゥン城を安住の地としたとあります。実は薮薩御嶽の名は出てこないのですが、ヤハラヅカサから浜川御嶽とその上の森を総括して薮薩御嶽と称しているようです。以上

http://kamnavi.jp/ok/yahara.htm
http://kamnavi.jp/ok/hamagawa.htm

 沖縄の御嶽巡りに東御回り(あがりうまーい)というものがあります。初穂巡礼で、国王や聞得大君・神女たち・臣下が一年おきに巡拝したのです。それに薮薩御嶽があります。アマミクの上陸地では唯一の御嶽となります。

 この御嶽の名が「ヤブサツ」であり、聞得大君・神女たちのまいるのは、命婦(いちじよ)は「やぼさ社」に常に参ると言う壱岐の風習と似ているように思います。転載以上。

 薮薩御嶽を探そうと思ったのですが、「今は個人の住宅の庭の中。」と聞かされて断念しましたが、どうやら森の中に拝所があるそうです。
http://luckluck.me/okinawa/100/yabusatsu_utaki/

 さて、祖霊との関連ですが、ここぞアマミクを祭る聖所ということのようで、本土とは性格が少し異なっているようです。

また、琉球松さんが、昔、当掲示板に投稿してくれました。
> 沖縄島にも、南部に「藪薩(ヤブサツ)御嶽」、首里に「園比屋武(ソノヒヤブ・方音 スヌフィアン)御嶽」、今帰仁に「金比屋武(カナヒヤブ・方音 カナフィアン)御嶽」、中部太平洋側にも「藪地(ヤブチ)島」がありますね。

 さて、園比屋武御嶽は首里城の門の前です。これらの「屋武」がヤブサの仲間かどうか、今の所よくわかりません。




[11971] やぼさ、やぶさ 3 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)20時42分
神奈備さんへのお返事です。

ペギラさんの「古代の謎へ <銅鐸>」は、2016/11/10 15時で消滅し、取りあえず

http://pcrescue.b.la9.jp/kodai.html
に仮置きされているようです.


とどんたくさんから教えていただきました。




[11970] やぼさ、やぶさ 3 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)09時33分
壱岐には祖叡社が一つだけ見つかりました。

壱岐では、のぼさ、とも訓でいるようです。

野保佐神社(大己貴尊 事代主命 埴安命) 長崎県壱岐郡石田町筒城東触
野保佐神社(大己貴命 天忍日命 天津大日命) 長崎県壱岐郡郷ノ浦町東触

青草掲示板ログ平二十年 二月 [3582] に、 神奈備が、
 「柳田国男翁は『石神問答』で、「ヤボサ社は壱岐の外に薩摩に箭武佐社あり 又筑前に天台藪佐あり」と記しています。」と書き込みました。。

 さて、中山太郎著 『日本巫女史』から  少々概略を紹介します。

 壱岐国の巫女(イチジョウ)は「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有している。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を綜合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。

    壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云う。そして壱岐の「ヤボサ」については、後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので私は後藤氏から写真の種板の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること_然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。概略以上。

 「ヤボサ」とは墓地である。祖先の眠る地であるとの中山太郎氏の結論のようです。
 対馬や九州島からの祖神を祀る事と差異はないようです。




[11969] Re: 銅鐸の分布図 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)09時31分
かたばみさんへのお返事です。

興味深い分布表です。
おおいに刺激を受けそうです。
moritayaさん、移転中のようです・

古代で遊ぼ をクリックし、
別図  :2016/11 銅鐸形式と分布(銅鐸年代推定)(PDF)
をクリックしますと、到着します。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/sankou/doutaku.pdf



[11968] 銅鐸の分布図 かたばみ 投稿日:2016年11月16日(水)22時33分
銅鐸の分布図をmyHPにアップしました(別図 銅鐸形式と分布)。
形式を色分けして直感的にイメージできるようにしてあります。

混みあっている部分の出土位置は正確ではありません、形式の表示が優先です。
WEB上の「銅鐸出土地名表」をベースにしています(現在切り替え中のようでアクセスできないみたい)。

ある文化の様式が、古式から新式に変化し継続しているなら、その地域の文化圏は安定に成長していたと考えられます。
怖れ知らずで銅鐸の推定年代を仮定してあります(すなわち銅鐸形式が弥生中期〜末期のマーカーにできる、銅鐸編年)。
持論の年代観、ここでは大国主の国譲り(=神武)がベースです。
(もっと早い時代とする論もありますが根拠がみえないので却下(^^; )

北九州には最古型とその鋳型があるがその後がない。銅鐸文化の始発であったが直後にその文化は消えたということでしょう。
東海の浜松以東は最新型のみ。銅鐸文化の最終時代にその文化がここまで達していたということでしょう。

奈良大阪は銅鐸が密で、AD50頃からAD200頃まで銅鐸文化が栄えていたことがみえます。
岡山県の瀬戸内側も同様。
伊勢湾西岸も規模は小さいけれど同様。
山陰沿岸では後期型の銅鐸がない。大国主引退後に発達したがAD200頃には消滅か。
ただし、内陸部と瀬戸内側には後期型があります・・伝承として葦原色許男と天日矛・・じゃないか。

土佐の田村遺跡の銅鐸は不可思議です。
天火明と物部(の先祖)の拠点だったはず・・古式の銅鐸がありませんし。
ところがAD200頃の後期型の銅鐸出土、この時代では出雲が支配していたとみえます。


特に不可思議なのが淡路島。
古式の銅鐸は多数出土(松帆銅鐸7個など)、だが「銅鐸編年AD100」以降の後期型が存在しない、なぜ??
周囲には後期型の銅鐸がごろごろしているのに。
五斗長垣内遺跡(ごっさかいと)は鉄器生産集落、32棟のうち12棟が鉄器工房(推定AD100〜200頃とされる)。
昨年に国史跡に指定。
また北部に舟木遺跡が発見された(平成27年)。AD100頃とみられる後漢鏡の破片出土。
(後漢への倭国の使者はAD107の倭國王帥升、持論で孝昭105-137 、これ以降は後漢の混乱と滅亡で記録なし)

淡路島は大国主の(九州)国譲り(持論AD30頃)の後に、ここも神武朝に割譲されたのではないか・・
だから後期型の銅鐸はないけれど後漢鏡がある、そして天孫勢力の出雲攻撃のための拠点となった・・
神武東征説話(持論開化225-248)での東からの攻撃とは淡路島からの攻撃、だが撃退された。
淡路島の周囲は後期型を含めて銅鐸だらけですし。


弥生の青銅、総量で10トンほどらしい、たったの1立方メートルほどです。
この程度なら自然銅の採掘で足りていたのではないかな。
(奈良の大仏で1000トンあたり、江戸時代で年間に5000トンを輸出、生産技術は違うにしても)

九州以東における出雲と天孫の抗争は、「入り乱れて」の複雑な抗争であった可能性あり。
もし、開化が奈良突入に失敗していたら・・
九州の倭国は食糧不足と混乱で崩壊するのは同じとして、天孫系譜のあらかたも消滅(^^;
その後の列島の歴史はまったく別物になっていた・・空想が広がってゆきます(^^)





[11967] Re: 谷川健一の「藪薩御嶽」 神奈備 投稿日:2016年11月16日(水)19時34分
琉球松さんへのお返事です。

>  谷川健一が、著書『列島縦断地名逍遥』で「ヤブサ・ヤボサ・ヤブサツ ー 祖先の古墓」を考察されています。
>
https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA77&lpg=PA77&dq=
藪薩%E3%80%80谷川健一&source=bl&ots=RdyDmIP5zH&sig=x16zdtLVjaf0h8GdQ5nNL1LUjGY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiRqKaa9azQAhWKU7wKHZKwD30Q6AEIHTAA#v=onepage&q=藪薩%E3%80%80谷川健一&f=false

琉球松さん、ありがとうございます。 2008.2月にも、この件でお教え頂いております。重ね重ね感謝です。

 大御所が言っているのと、同じような結論に到達しそうですが、めげずに頑張ってみます。




[11966] 谷川健一の「藪薩御嶽」 琉球松 投稿日:2016年11月16日(水)18時11分
谷川健一が、著書『列島縦断地名逍遥』で「ヤブサ・ヤボサ・ヤブサツ ー 祖先の古墓」を考察されています。

 https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA77&lpg=PA77&dq= 藪薩%E3%80%80谷川健一&source=bl&ots=RdyDmIP5zH&sig=x16zdtLVjaf0h8GdQ5nNL1LUjGY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiRqKaa9azQAhWKU7wKHZKwD30Q6AEIHTAA#v=onepage&q=藪薩%E3%80%80谷川健一&f=false



[11965] Re: やぼさ、やぶさ 2 神奈備 投稿日:2016年11月16日(水)10時51分
大三元さんへのお返事です。

> 神奈備さん 興味ある話題をありがとうございます。
>
> ヤブサ・ヤボサに関しては琉球方面への目配りも必要かもしれません。
> なんでもアマミキヨが創った7つのウタキの一つに「藪薩御嶽」があるそうです。

> 「沖縄古語大辞典」では「やぶさす」として掲出されてました。
>
> 「養父」なんかもつながっているのかも???

大三元さん、ありがとうございます。
沖縄へ行った時、藪薩御嶽を探してみましたが、民家の庭にあると聞いていきませんでした。こんな面白そうなテーマの一齣になるんなら、行っておけばよこったと思っています。

 ヤブサは鹿児島まではつながっているようですが、沖縄に一つだけという感じです、

伊勢国の式内社の夜夫多神社や、おっしゃっておられる養父神社など、広がるのかどうか、まだよくわかっていません。

藪の中の野暮な人間ですので・・・




[11964] Re: やぼさ、やぶさ 2 大三元 投稿日:2016年11月16日(水)08時43分
神奈備さん 興味ある話題をありがとうございます。

ヤブサ・ヤボサに関しては琉球方面への目配りも必要かもしれません。
なんでもアマミキヨが創った7つのウタキの一つに「藪薩御嶽」があるそうです。

https://allabout.co.jp/gm/gc/76538/2/
 など。

「沖縄古語大辞典」では「やぶさす」として掲出されてました。

「養父」なんかもつながっているのかも???




[11963] やぼさ、やぶさ 2 神奈備 投稿日:2016年11月15日(火)21時28分
 九州本体のヤブサ・ヤボサの神々

筑前国宗像郡 宗像大社摂社,矢房神社(大己貴命) 福岡県宗像郡玄海町
          矢房神社(天照大神 大己貴命 田心姫命) 福岡県宗像市日の里

筑後国上妻郡 矢鏑社(やぶさしゃ) 福岡県筑後市大字羽犬塚

肥前国松浦郡
  矢房神社(天穗日命) 佐賀県唐津市中里
  住吉神社摂社矢房神社(天神七代ほか) 佐賀県東松浦郡肥前町
  矢房神社(天穗日命) 佐賀県東松浦郡呼子町
  青幡神社摂社矢房八幡神社(應神天皇) 佐賀県伊万里市東山代町
  矢保佐神社(息長帶比賣命 大己貴神)長崎県北松浦郡田平町
  矢保佐神社(大己貴命)長崎県北松浦郡福島町
  矢房神社(祭神不詳) 佐賀県西松浦郡西有田町
  日島神社摂社矢武佐神社(猿田彦大神) 長崎県南松浦郡若松町
  矢保佐神社(素盞雄命) 五社 長崎県佐世保市野中町、柚木町、松瀬町、白岳町、上本山町
  矢保佐神社(火産靈神) 二社 長崎県平戸市大川原町、木場町
肥前国三根郡 八幡神社摂社矢保佐社(未記入),佐賀県三養基郡三根町

肥後国菊池郡 木柑子菅原神社摂社矢房神社(矢房大神) 熊本県菊池市広瀬
肥後国八代郡 豊葦原神社摂社矢房神社(武甕槌神 ) 熊本県八代市豊原上町
肥後国球麻郡 大瀬阿蘇神社摂社矢房神社(祭神不詳) 熊本県球磨郡球磨村
          渡阿蘇神社摂社矢房神社(祭神不詳) 熊本県球磨郡球磨村

薩摩国日置郡 八房神社(孝靈天皇 源爲朝) 鹿児島県串木野市下名
薩摩国出水郡 矢房神社(豐受姫命 琴平神) 鹿児島県阿久根市脇本
薩摩国鹿児島郡 八房神社<通称>健康神社(八幡太郎義家) 鹿児島県鹿児島市犬迫町

 祭神はさまざまです。

 先ず、鹿児島市の八房神社については、由緒か載っていましたので、検討して見ます。

 平成に入って社殿改築や境内整備、「地球一の大虎」安置などが行われ、とても綺麗に整備された神社でした。「トラ(阪神タイガース)ファン」にとっては格好の祈願社なのでしょう、この日も男性が二人、大虎に向かって熱心にお参りしていました。

 御祭神:八幡太郎義家、瓊々杵命、木花開耶姫命、彦火々出見命、玉依姫命、鵜鴎草葺不合命、神武天皇
 由緒:享禄3年(1530)比志島義祐により建立されたものです。祭神のうち瓊々杵命以降は近くの霧島神社を合祀した故のようです。

 神社を建立した比志島氏は源為義の末裔で、為義の祖父は源義家すなち八幡太郎で、源氏の祖とあがめて祀ったのでしょう。比志島義祐は祖先を祀る神社に八房の名を付けたのです。子孫が多くのブドウの房のように栄えることを願ったネーミングなのか、虎の乳首は八つあるとかで八房とか、祖先を祭ることを、当時にはヤブサと言う言葉で表していたのか、よくわかりません。


 もう一つの矢房神社 福岡県宗像市日の里 については由緒がネット上にありました。

 矢房神社は、鎮座地が古墳の墳丘跡だった可能性もあるけど、位置関係から見て「東郷高塚古墳の遥拝宮」だった可能性も考えられなくもない。

 と言うコメントに遭遇しました。古墳を祀ることは、そこに眠る祖神を祀ることに他ならず、ヤブサを祖先を祀る意味があったと思われます。




[11962] やぼさ、やぶさ 神奈備 投稿日:2016年11月14日(月)21時12分
 対馬を五十猛神を祀る神社を参詣しようと訪問してから約10年になります。

 その時に由緒を調べていましたら、天台矢房という言葉に ;二度も突き当たりました。一体何だろうと思いつつ、今日まで来てしまいました。

地主神社 対馬市上県町女連85番地
貞享三年(1686)の『神社誌』には佐奈豊軍殿(さなどいくさどん)、天台矢房(やぼさ)が記載されている。

国本神社 対馬市上県町瀬田1番地
『対州神社誌』によれば、瀬田には熊野権現、三宝神、天台矢房がある。

曽根崎神社 対馬市上対馬町五根緒
「神社大帳」には「曽祢山形社。或は野菩薩神と云ふ。神体紫石」とあり、この名称の曽根というのは地形状の「そね」とみられ、山房というのは町内に多いヤブサ神で、矢房と書いた例が多い。

 神社の由緒には上記のような記述がありました。

 やぼさ、やぶさ の名前の神社を、『平成祭CD』とネットで調べて見ますと、全部九州でした。それも西側が主でした。

対馬国下県郡 山本神社摂社矢房神社(矢房神) 長崎県下県郡美津島町
          嵯峨神社摂社矢房神社(氏子の祖靈) 長崎県下県郡豊玉町

とりあえず、対馬のヤブサについて検討します。『上對馬町誌』に、以下のようにあるそうです。

 野菩薩、山房、矢房、曽根山房、そばへやぶさ、天台矢房など様々である。「やぶさ神」の全島分布は、豊崎郷九社、伊奈郷三社、与良郷三社、計一五社である。社殿、鳥居のない社が多い。「天台やぶさ」の名称が多いのは、天台密教が関与したものであろう、神仏習合の信仰か……。
……たまたま、古里氏が家に伝わりし、天台野菩薩の掛繪を見るに、雲中に龍の如きもの、又異獣有りて、人雲に乗り、中程に烏帽子の如きものを着し人、弓を持ち、頭は龍の如く、体は馬の如きものに乗り、以下左右に具足陣笠を着、手にものを持ち、二人雲上に立つ。又一幅は具足を着て帯刀し手弓矢を持て、左右に立筆四人、何なる事を知らず。と述べている。しかと性格がわからぬ信仰故、参考に記しておく。
以上

『仮称リアス式』の    『長崎県大百科事典』引用から
 壱岐、対馬は最も多く、壱岐では梓巫女市の念じ神でもある。市は矢保佐の神前で弓を弾じ百合若説教を読誦して病魔退散平癒の祈祷をする。これを風打(かぜうち)と称して業とした。この神の本質はわかりにくいが、天台矢保佐の名があり、天台宗の巫女の帰依神である。対馬の一神職は「対馬の神は岳神、茂神、藪神の三種です」といった。天台宗は山岳宗教であるが、巫女は女性であるから山岳に入るを得ず。藪神によって得道するものであったろうか。矢保佐の神はきつねを令使とする。ヤボサの「サ」は神霊を意味し、上に地名を冠し何々ヤボサと称する。


 ここまでの資料では、対馬のヤブサ神につてはよくわからないと云うことですが、祭神に「氏子の祖靈」がありました。普通、祖霊社などと称しますが、対馬の場合は『平成祭CD』では、嵯峨神社摂社矢房神社以外には見あたりません。祖先を祭らない日本人はいないと思います。対馬の場合には、それが矢房神の名で祀られた可能性が感じられます。




[11961] Re: 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 7日(月)09時25分
6.『三代実録』(859)
 高鴨阿治須岐宅比古尼神が従二位勲八等から正一位に昇っている。
 高鴨神が従一位になっている。
 この時期には阿治須岐宅比古尼神は高鴨阿治須岐宅比古尼神と呼ばれていたと云うこと。一方、高鴨神は一言主神(事代主神)の祖神であるから大穴持神社の神と云うことになる。


7.延喜式神名帳(905) 葛上郡
 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 現在は、阿治須岐高彦根神 配 下照比賣命、天稚彦命の三柱である。これに母神の多紀理毘賣命を加えれば四座となるが、アジスキ以外は不詳。


外の葛上郡の式内社
葛木坐一言主神社(名神大。月次相甞新甞。) は、後に名神大社となるが、新抄格勅符抄には記載がない。
大穴持神社 御所市朝町宮山に鎮座。この宮山には鉱床があり、現在の高鴨神社の地下につながっている。二社一体の神社と言える。





[11960] Re: 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 5日(土)10時02分
4.『記・紀』(712〜720)
 雄略天皇が葛城山に猟に出かけた際、一言主尊が出現し、当初は緊張関係にあったが、結局、天皇と神は仲良く猟をしたこという。


 ●葛城の神(一言主)の神域である葛城山に天皇が踏み込んできたと云うことである。葛城山の神々は早々に追い出したい。ある神はイノシシをして突進させたが果たせなかった。一言主は追い出しに失敗し、妥協した。そこに「老夫」の姿をした神が現れて、狩猟の邪魔をしたと思われる。それが高鴨の神であった。葛城山は鴨山とも云い、高鴨神の神奈備であった。一言主の祖神に当たる神と考えられる。またその名からは鴨神の祖神とも云うべき存在と言える。


5.新抄格勅符抄(806)年
高鴨神 五十三戸 土佐廿戸、大和二戸、伊与三十戸。
鴨神  八十四戸 大和三十八戸・伯耆十八戸・出雲二十八戸。
 高鴨の神の戸数の内、大和は二戸(四石)であり、これは追放されていたので、大和での地盤を築けなかった神と見ることができる。残りが土佐・伊予である。
 一方、鴨神は大和以外に伯耆・出雲であり、明らかに味鋤高彦根尊である。事代主神も鴨神と言えるが、この神は出雲に拠点はない。


● 高鴨の神とは鴨の神々の祖神と考えることができる。即ち大穴持の神である。葛上郡には式内社の大穴持神社が鎮座しており、帰還後は暫く高鴨阿治須岐託彦根命神社の高鴨神として祀られていたが、後に大穴持神社に遷されたのだろう。
● 大穴持神の裔である一言主は事代主の一面の姿と言える。




[11959] 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 3日(木)13時37分
1.『続日本紀』天平宝字八年(764)(淳仁天皇)
再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、その弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。
 ●戻って来た神は、「高鴨の神」であるが、その正体は何であるのか?


2.『釈日本紀』に引用された『土佐国風土記逸文』風土記編纂の官命は713年に発せられた。
土左の郡。土佐の高賀茂の大社がある、その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説ではその神の名を大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であるという。
 式内大社都佐坐神社(土佐神社)の現在の祭神はアジスキタカヒコネである。
● 「高鴨の神」とは、一言主尊なのか味鋤高彦根尊なのか、はたまた。


3.日本霊異記(787)
 文武天皇の御代(697〜707)、葛城の役小角(高賀茂朝臣と云う者)が鬼神たちに吉野の金峰山と葛城山との間に橋を架け渡せと命じた所、葛城の一言主大神が人に憑いて、役小角が天皇を滅ぼそうと陰謀を企てていると讒言した。そのため役小角は伊豆の島に流されるが、大宝元年(701)に許されて仙人となって飛び去ったと云う。その後一言主大神は役小角のために呪縛され、今の世に至るもその呪縛は解けていないという
● 一言主はは文武天皇の在位中に活躍しており、土佐に流されていた訳ではない。





[11958] 桜川断層 神奈備 投稿日:2016年11月 2日(水)14時05分
大阪市内を走る断層で有名なのは上町断層ですが、桜川断層というんがあります。
地下鉄・阪神の桜川駅付近から地下鉄堺筋本町駅西200mをつなぐラインとなっています。
地下鉄四ツ橋駅付近を通っていますので、散歩がてらガンマ線量を図ってみました。

地下鉄が走っているうえでは、ほとんど検出できませんでした。ガンマ線は鉄やコンクリートで遮断しやすいそうですから地下鉄の走っていない路地に入り込み、測定をしてみました。南船場町界隈です。
測定値を南から北に歩きながら計ってみました。
0.05μSv/h
0.09〜0・14μSv/h この幅が3m程度
0.05μSv/h
南北に3mとしますと、45度の傾きですがら 断層の幅は2m程度とでました。





[11957] 柏原市の式内社 神奈備 投稿日:2016年10月30日(日)20時08分
γ線はXと同じ波長ですから強すぎますと害があるのですが、天然のものはそれほど強くありません。マイナスイオンを作り出しますから快適に感じることはあるでしょう。神社立地との関係を見てみました。柏原市のγ線濃度マップはネットから。




[11956] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 言蛇 投稿日:2016年10月29日(土)23時59分
「娘子らが 織る機の上を 真櫛もち
        掻上げ栲島 波の間ゆ見ゆ(万葉集1249)」

神奈備さまこんばんわ、実家で喪に服す事態があったりスマホに振り回されていましたが神奈月ということで挨拶に伺いました。

写真は横須賀に配備された護衛艦「いづも」です。艦内には出雲大社の分御霊が鎮社しています。さしずめ現代の「草薙の剣」とも呼べるでしょうか?





[11955] 萩原天神 神奈備 投稿日: 2016年10月22日(土)20時30分
萩原神社に初めて参詣してきました。16年ほど前になりますが、神社オンラインネットワイクのオフ会が京都でありました時、ここの神社の南條宮司様とお会いして、神社のHPのありかたなどをお話させていただき、それ以来の再会でした。
 お互い、そこそこ元気で、楽しいひと時を持つことができました。感謝。




[11954] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月22日(土)12時35分
八坂神社の御祭神(八坂神社HPから)。
素戔嗚尊 (配祀)櫛稻田姫命 神大市比賣命 佐美良比賣命 八嶋篠見神 五十猛神 大屋比賣神 抓津比賣神 大年神 宇迦之御魂神 大屋毘古神 須勢理毘賣神 稻田宮主須賀之八耳神

稻田宮主須賀之八耳神は櫛稻田姫命の父のアシナヅチ
抓津比賣神は素戔鳴尊の娘、五十猛命とともに樹木の種を播くとされる。
大屋毘古神は五十猛命の別名ともされるが?

御祭神は記紀に書かれる人物群でまとめられており、記紀が完成してからのものと考えられる。
大己貴命がいない、血縁がないから。
大国主命がいない、6世代も後の人物だから。

縁起(八坂神社HPからの抜粋)。
八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている・・
斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる・・
新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて・・

「高麗」をコウライと読むなら、この縁起書は「高麗」918が成立してからのものとなるでしょう。
AD656で神仏習合はありえず、「祇園社」なるものは存在しないはず。
神仏習合が登場しはじめた頃に「祇園社」となったことがうかがえる。
(おそらくは天代密教の最澄以降、810以降)

「新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なり」
狛国とは高句麗のこと(持論、箕子朝鮮≒後の高句麗)。
新羅国の牛頭山とありますから、隣接していた伽耶諸国の伽耶山でしょう。
伽耶山の海印寺の「海印寺事跡」という古文書に「伽耶山は牛頭山」と書かれています。
(同上に「牛頭」登場の由来らしきも書かれる)


「高麗」はコマ。
武蔵国に高麗郡コマがあります、分散していた高句麗系渡来人を716に住まわせた地域。
東京湾沿岸部に716より早くにやってきた高句麗系の人々がいたと考えられます。
高麗郡にはなぜか氷川社がありません。
氷川社(ちかつ社源流とみる)の方が後からの登場だからじゃないか(延喜式967以降)。

656は孝徳645-654であり、持論では葛城皇子(天智)が百済問題処理で北九州にあった時代と考えています。
(斉明655-660−天智661-670、白村江の戦663、高句麗滅亡668)
656の伊利之使主が高句麗人(狛国人)であった可能性はきわめて高い。
すなわち八坂神社縁起の656創建が正しい可能性もきわめて高い。

高句麗人なら祖先でもある箕子朝鮮(崩壊)の情報を持っていておかしくない。
伽耶≒出雲系譜である情報も同じく。
列島から伽耶に引退した素戔鳴尊とそれに直結する人物を祀った。
656当時での祭神は素戔鳴尊だけだったかもしれない→国記、天皇記が残っていれば・・
(北九州での類似事象が宇佐神宮とみます、辛島氏など、および韓国岳ですね)


家康はなにゆえ城内にあった太田道灌などが祀った江戸社/江戸神社(創建702年)ではなく、神田神社を江戸の鎮守としたのか。
最古とみえる鳥越神社や根津神社を鎮守としなかったのか。
第六天神ではないのはあいまいで自然神に近いからでしょう(民の社ですね)。
しかし、城内鎮守には日枝神社(大山咋神)を置いています。食べ物は必須。

うすうすとではあってもそれらの意味と由来を家康は感じとっていたからではなかろうか。
素戔鳴尊は渡来者そのもの・・それを江戸の守護神とするのはいかなものか・・
(天之忍穂耳が天皇の初代とはされないことにも通じる)
鳥越神社や根津神社は日本武尊由来の社、朝廷による関東制圧での社。

神田神社であればワンクッションのある大己貴命(海人とみる)であり、「房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀った」は江戸の開拓に通じる。
アンチ朝廷の平将門、家康の意識の根底にはアンチ朝廷があったとみています。
大宝八幡宮は関東最古の武家の神、平将門が奉斎。
神田神社の旧地の地主神が「祇園社」であれば素戔鳴尊につながり、江戸の牛頭天皇の疫病退散祈願にもつながるでしょう。





[11954] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月19日(水)00時21分
今井よりさんへのお返事です。

>お城の鎮護について教えて頂けませんでしょうか

鬼門は風水から発した陰陽道の考え方のようですね。
もっとも、風水では磁北で、建築などでは真北(北極星か太陽の南中)を使う。
東京では5度ほどずれる。さて、陰陽道ではどっち?

うちの場合の鬼門にはまずまずの神社がすぐ近く(^^;
家の北東側には出入り口はありません、隣地なので作れない。
窓もない。日当たり悪く無意味だから。防火上も安全だし。


江戸社(素戔鳴尊)(神田神社内、江戸神社)
702年に現在の皇居内に素戔鳴尊を祀ったそうです。
だれが祀ったかは不明、
京都八坂神社縁起の「高麗の伊利之が牛頭山の素戔鳴尊を656に祀る」からそう離れてはいない。
だが、この時代に当地にやってきた人物がいるか?

鎌倉で江戸氏奉斎
室町〜戦国で太田道灌1450頃 上杉氏 北条氏 奉斎
1603江戸城拡張で神田神社内の境内社となる。

神仏習合による牛頭天王はまだ登場していないはず(隅田川の牛島神社、慈覚大師860頃、など)。
創始は出雲系譜の渡来による可能性が高いか・・
ひょっとして、氷川社(近津社と同じ流れとみる)が素盞鳴尊を祀るきっかけの可能性あり。


神田神社(神田明神) 千代田区外神田2丁目16−2  (大己貴命、少彦名命、平将門)
天平2年(730)に現在の大手町1丁目付近に大己貴命を祀って創祀。
房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀ったという。
(往古の東京湾東岸には出雲系譜の痕跡少なからず)

延慶二年(1309)に鎌倉の僧侶が平将門の怨念を鎮めるためにここに合祀(首塚現存)(築土神社参照)。
江戸開府にあたって家康が当社を江戸の総鎮守とする。
慶長8年(1603)江戸城の鬼門に当たる駿河台に移転、元和2年(1616)に現在地に移転。
(1625 鬼門にあたる上野に寛永寺創建)
明治維新で平将門が削除されて少彦名命に置き換え、現在は平将門復活で三神を祀る。

江戸名所図会によれば現在地(神田神社)の地主神は祇園三社とあるので、素戔鳴尊。
すなわち京都八坂神社縁起と連なり、江戸社とも連なる可能性あり。


日枝神社(御祭神大山咋神)千代田区永田町2-10-5
江戸氏、江戸郷の守護神、山王宮
太田道灌が川越山王社勧請
徳川家康が城内鎮守とする。

大山咋神は「先の神楽の山神」に相応するのかもしれません(もうひとつの候補は大山祇神ですが縄文系)。
myHP大年神グループ参照(天知迦流美豆比売の子とされる、おそらく灌漑治水)
祖先神と自然神の中間かな。文化を表すグループ(弥生の初期開拓者)とみなしています。


隅田川神社(墨田区堤通2丁目17−1)
本来は水神社で隅田川の鎮守、新編武蔵風土記稿に御神体龍神、水神が亀に乗ってこの地に上陸の伝承有り。
江戸名所図会に「昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った(夫木和歌抄、1310頃)」とあります。
太田道灌(1432-1486)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあります。

この橋の修復をやらなかったのはおそらくは軍事上の考えからだと思います。
江戸時代に隅田川を渡る橋は千住大橋のみでした。
日光参詣へ向かう街道があったからかな。
このために明暦の大火で隅田川を渡っての避難ができず、10万ともいわれる死者が出た。
明暦の大火直後から両国橋をはじめとして次々に橋が架けられて、江戸の発達は隅田川の東側へ広がります。


大宝八幡宮 茨城県下妻市大宝667 城跡あり
大宝元年(701)、藤原時忠が宇佐神宮を勧請(位置的に正倉院戸籍721の藤原部と同じ流れと思います)
関東における最古の「八幡」だそうです。
平将門の戦勝祈願 吾妻鏡には下妻宮。

参考図1 江戸神社の御輿
参考図2 神田神社 茅輪くぐり
参考図3 神田神社の祭礼







[11953] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月17日(月)09時40分
私の歴史探訪のスタンスは

地元の氏神様の呼称の謎解きから始まり
伝承の史跡や祭事の現場へ足を運んで
且つ埋蔵文化財報告書や
史資料の精査に努めています。

考察・推論を展開する場合は
これらの事象に基ずいて
出典ありきでバックデーターを
掲載するように心がけています。
過去に掲載したデータも忘失することが多々
再度閲覧し史資料の内容を掲載
もしくはページを付記するようにしています。

この掲示板に投稿される方々は博識で造詣が深くて
私の浅学のレベルでは
理解できない箇所が多々あり、
療養中の身にはしんどくなりつつあります。
今後は楽しく拝読させて頂きます。


☆鹿児島神宮「お浜下り」
祭事前
16年10月16日








[11952] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月16日(日)17時25分
かたばみさんへのお返事です。


> 少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。

車に着いた降灰は速やかに洗い流さないと
雨で固まってしまいます。

降灰は、大抵が石英、ガラス成分が多いですから
傷が付きやすいです。
目に入って擦ったりすると危ないです。
これも同じく速やかに洗い流した方がベターです。

雨どいに溜まった降灰は、適時掃除をしないと
雨でセメントみたいにこびりついてしまいます。



先日熊本の阿蘇山が大噴火しました。
この時停電が多発しました。

これも高圧送電線の碍子に灰がこびりついて
ショートしたのが原因です。

雪国の「雪害」と似てます。
こちらの場合は、水滴や雪が碍子や電線に凍り付いて
ショートしたり、重さで断線したり、、、


霧島山には、8代将軍吉宗の頃の
火砕流の痕があります。
大樹が建ったまま炭化しています。

御嶽もそうだったかと思うと
聊か不気味です。

古代や中世に於いては
現代では想像に絶するようなことも。。

都会では計り知れない事故が田舎にはあります。





[11951] Re: 古事記の国生み筑紫島 今井より 投稿日:
かたばみさんへのお返事です。

埋蔵文化財の史料の説明ありがとうございます。

>
> YouTube 根津神社 三座の舞。
> 三座の舞のうちの山神の舞ですね。
> 山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。
>

このあきるの市のサイトは凄いですよね。
プロの歌舞伎の写真家ですね。
時々伺っては楽しんでいます。

> >南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。
>
> パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
> 土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

私のページにも記載していますが、
大正5年の桜島の噴火を基準にして、地層の年代測定をするようです。
近年、確立した年代測定方法です。
桜島の降灰は日本全土を覆ってカムチャッカ半島にまで達していますから。。
6500年前の大噴火は旧ロシアの方でも確認されたとか。。

土層に含まれる「石英」成分を測定するようですね。
専門家に伺ったことがありますが。。
根気のいるお仕事だな〜と驚嘆しました。

遺物の欠片も数年経つと一つの土器に生まれ変わったりします。。
縁の下の力持ち。。

未だ、未調査の遺物が多数ありますが、、
熊襲や隼人の痕跡が判るようになると嬉しいです。

今日は、熊襲所縁の鹿児島神宮のお浜下りです。
午前中神宮の境内や参道で撮影しました。
さっきアップしましたよ。
youtube/yorihime3/

長時間の見物は流石に疲労が、、
特に視力の低下は否めません、80歳に近い我が身に鞭打って励みましょう。



[11950] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日: 2016年10月16日(日)10時22分
今井よりさんへのお返事です。

>神楽らに造詣の深い東京在住の方です

YouTube 根津神社 三座の舞。
三座の舞のうちの山神の舞ですね。
山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。

>南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。

パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

地層として残るような火山灰、大規模噴火だと思います。
夜になると山肌が赤く染まる程度の中小規模の噴火が地層として検出できるのだろうか。
少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。
平安時代に噴火記録が増えるのは、記録されるようになったからでしょう(その火山灰は地層になっているのか)。

失礼してちょっと遺跡発掘の追求。
加治木堀遺跡、鹿児島県曽於郡大崎町、自動車道建設での発見のようで、まだ湯気が出てる(^^;
鹿児島県立埋蔵文化財センターの加治木堀遺跡PDFからの引用です。
−−−−−−
U層は黒褐色土を主とし,この中に黄褐色のパミスが混在する層(Ub層)がみられる。
Ub層は,テフラ分析の結果(第4章第2節参照),桜島起源のP4(AD764 〜766)に対比される可能性が高いことが判明した。
その直下のやや茶褐色の層(Uc層)及びその下の黒褐色(Ud層)が遺物包含層である。
V層は桜島起源のP7(約5,000年前)火山灰層に比定され,硬質の土壌で層厚は10cm程である。
−−−−−−
参考図1 同上の地層図
地層Ubというのは書かれていませんが、UcとUd層が弥生遺物の出土(山ノ口式土器)。
桜島起源の地層に挟まれた地層に弥生遺物がある。その地層がどのような由来かは決定していないと見えます。
(そこが知りたい)
なお、T層とV層の間にはU層欠落の攪乱がみえます。この攪乱は雨水による流失か?
参考図2 同上の出土物の地層(山ノ口式土器)

開聞岳 - 地形及び地質概説 - - 地質調査総合センター
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kaimondake/page4_1.html

開聞岳の2000年前の噴火、加治木堀遺跡との距離は桜島より2倍も遠い。
火山灰が降るとして、その成分は桜島と開聞岳でどう違うのか。それも知りたい。


記紀の「燃える小屋から火須勢理が飛び出してくる」。
天之忍穂耳から下ればBC100〜BC50頃、燃える小屋が火山由来なら年代と位置の推定が可能になる。

景行311-333での13年「襲国を平定して市鹿文を火の国の国造」。
(襲国、現在の鹿児島県曽於郡周辺とみて間違いないと思います)
この記事は火山学の立場からの状況を知り得るかもしれない、という方向でしょう。

景行紀18年では八代海の不知火を以て「火國」としている。
夜空に赤く染まる山、その程度での噴火で十分に「火の国」だと思います。

肥後国風土記逸文では崇神時代に火山噴火を以て「火の国」としている。
一応文献とみておきます(^^;
おそらく雲仙、これも弥生〜古墳あたりでの「大規模噴火」はみえないみたい。


山ノ口遺跡(山ノ口式土器)、肝属郡大根占町馬場山ノ口、開聞岳から東へ海を渡った海岸にあります。
調査報告書に
「開聞岳起源の暗紫ゴラの直下に当たることが判明」とあります。
{第二次の開聞岳噴火の時期に環状配石に供献されていた土器群で,優に2000年を越える弥生中期の土器である」
とあって、こちらは決定している。
当時の社会を特徴づける極めて珍しい祭祀とのこと。

この遺跡はたいへんに興味深い。
開聞岳が火須勢理の「燃える小屋」の原因であるなら、火須勢理の時代と場所が推定できるからです。
山ノ口式土器は奄美や沖縄からも出土(海神族も用いていた可能性大)。
加治木堀遺跡も山ノ口遺跡も同年代で同じ文化圏に属す、となります。

火須勢理(彦穂々出見)、火と穂、種子島の宝満神社や浦田神社(鵜草葺不合)の稲とも符合してきます。
また、穀璧のありようの推定にもつながる。

・・火須勢理はこのあたりで生まれたが、火山灰に追われて志布志湾に引っ越し(穀璧)。
だが今度は大津波に襲われて(海幸山幸)、内陸部に引っ越し。
そして鵜草葺不合誕生、種子島で陸稲から水稲への変化・・神武誕生して鹿児島へ(紀元前後頃)。

参考図3 山ノ口遺跡の軽石を用いた岩偶








[11948] 江戸城、大阪城の鎮護 今井より 投稿日:2016年10月15日(土)12時06分
以前、当地の国指定史跡「隼人塚」の鎮護について
調査していましたが、、

さっき、地震で崩落寸前の熊本城を
タモリさんが散策されてました。
(崩落前の録画でした)

どなたか名城と言われる各地のお城の
鎮護について教えて頂けませんでしょうか。
(東西南北、鬼門、寺院)


○江戸城
○大阪城
○名古屋城
○姫路城

他、ご存じの処で結構です。
ここに繋いで下さい。

宜しくお願い致します。







[11947] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月15日(土)06時20分
かたばみさんへのお返事です。

> 参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)
>
>

ご紹介ありがとうございます。
私はこれを参考にしてページを作成しております。
多分2000年頃の作成かと思います。

隼人探訪==>>隼人抗戦==>>稲積の里

この地は、和気清麻呂が流刑され一年弱居住していた処です。
幕末の志士 坂本龍馬も、新婚旅行の途中訪れています。

絵手紙には近くの「犬飼滝」のことを「蔭見滝」と
音読で記載して紹介しています。

「犬飼」は大分県に地名があります。
多分、隼人抗戦(720年)前後に当地を平定のために移住してきた
方々が居住したのではと推察しています。
この辺りの小字は「中津川」、上流には万膳と云う小字もあります。
どことなく当時の地名が残っているような。。。


☆倭名類聚鈔
☆犬飼滝(いぬかい)
☆高千穂の峯と霧島神宮の大鳥居








[11946] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)18時12分
>かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )


神楽らに造詣の深い東京在住の方です

わざをき通信

http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/index.html

凄いリンクです。2000年頃から存じてましたが、
リンク集を南九州ゾーンだけに特化した折、削除してました。
再度歴史探訪にリンクしました。

詳細はお尋ねください。






[11945] 西米良の神楽由緒 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)14時16分
一応、西米良の神楽について由緒を掲示いたします。

文明3年(1471)
御川(おんかわ)神社に
懐良親王の霊を祀り
神前に舞を奉納した
のが始まりと伝える

現在は
例年12月18日
に近い前後土・日曜日に
開催される。

豊穣感謝・無病息災を
祈願し舞われる。

鎮守や地主神が
多く登場し、着面の舞も多彩

神面の中には
「小べし見」と呼ばれる鬼面や
狩面と通称される道化面等の古面もある

神楽は厳かな「神かぐら」
賑やかな神楽囃子が歌われる「民かぐら」に
分けられ
翌朝の全演目終了後
狩法神事としての
「狩面シシトギリ」が演じられる

当社の神楽は「村所神楽」と呼ばれる
小川の米良神社の神楽
越野尾の児原稲荷神社(こばる)の
神楽と合わせて
西米良神楽として
県の無形民俗文化財に指定されている

また、村所神楽は
当社の他に竹原の竹原八幡宮や上米良の本山神社
ほかで奉納されている。

=========

田の神舞は、この神楽の中で舞われます。(33番の中の一つ)

「山の神」が郷に降臨して「田の神」となります。

他の関しては拙宅のサイトのページを適時ご覧ください。



[11944] Re: 古事記の国生み筑紫島 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)04時02分
かたばみさんへのお返事です。


>
> 確かに新しい火山ではあるようです。逆に縄文以降では元気いっぱいじゃないかな(^^;
>
> Volcanoes of Japan > 第四紀火山岩体・貫入岩体データベース > 九州
> https://gbank.gsj.jp/volcano/
> 桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。
> 地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。
> 縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。
>

南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。
それでは3500年前以降の桜島の噴火爆発は見当たりません。
水蒸気爆発はあったかもしれませんが。。

拙宅の近くのマール(噴火趾、すりばち状、現在は畠)が噴火していた記録はあります。

この手の書籍は絶版が多くて、高価で入手困難です。

鹿児島大学の応用地学講座は入学者激減で閉講されました。。
昔は先生方とは交流がありましたが、
最近、防災意識が高まってますから。。どうでしょうか。


> 銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。
> ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。

> 山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。
> では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・
> 神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。
> 祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。

高千穂や村所、日向の方にも何回か祭り探訪に出掛けて採取しています。
伊勢神楽としての伝承はあくまでも南北朝以降のこと。
残念ながらそれ以前は承知しておりません。

只、村所(西米良)の方は古文書を拝見していません。。
江戸時代の神楽の古文書は幾つか所持しています。
(66番の内の一部ですが)
それには由緒は未記載、所作だけです。

以前は土砂崩れ跡や採掘現場らにも足を運んでいました。
健康状態が良ければ地層確認でも出かけたいのは山々ですが。
しょせんは空論です。

歴史探訪は健康第一!!



☆9500年前の上野原縄文遺跡の地層








[11943] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日: 2016年10月13日(木)22時17分
桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。
地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。
縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。


>この出自はどれでしょうか?
>歴史探訪===>>南北朝動乱

銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。
ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。

宮崎県椎葉村は最後の焼畑でもあるようです(柳田國男も調査していますね)。
崇神時代に創始されたとみえる伊勢神宮(の原型)の当時の祭祀はいかなるもので、どこから運ばれたのか。
自然神に限りなく近い神、例えば山の神のごとくであったと考えています。
伊勢の式年遷宮は焼畑を儀式化したものと考えています(天武673-685頃)。

山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。
では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・
神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。
祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。

崇神以前の伊勢地域には弥生遺跡がないに等しい。
奈良盆地には遺跡が多数ある、出雲文化圏の中枢。
そこでの祭祀は銅鐸でしょう、狩猟や農耕、動物の絵が描かれています。水流を思わせる文様も。
その祭祀に「神が楽しみ民も楽しむ」が付帯していなかったはずがない。

銅鐸の絵柄からみて限りなく自然神だと考えています。
出雲文化圏の登場年代からみて、その自然神は山東半島の瑯邪八主の影響下にあると推定。
天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、兵主(例外的に祖先神、蚩尤)。

残念ながら「古出雲神楽」の痕跡はない、奈良が天孫系譜の中枢となって数百年が経過して完全に消えたのだと思います。
(民のレベルでの痕跡は全国に残るとは思いますけれど)
書紀で出雲が抹消され、自然神があいまい化されていてはなおさらで、平安あたりでの伊勢神楽に飲み込まれていったと考えています。


ちょっと追求(^^;
景行紀「13年の五月に悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
景行紀「18年五月、八代県・・日没・・人の火にあらずといふことを知りぬ・・その國を名づけて火國と・・」

襲國を平らげてから5年後に、八代海の不知火をみているとみえます。
ここでの「火國」は八代海付近。
景行大王が「襲國を平らげ」たときの「市鹿文を火の国の国造」任命から5年後となります。
景行紀には「火」が2回出てくる、一方はおそらく桜島の噴火、一方は八代海の蜃気楼。

肥後国風土記逸文に「崇神天皇の御代に火の空より下りて山に燃えしも怪し、火の下りし国なれば火の国と名ずくべし」
この「火」はおそらく雲仙の噴火によるものと思われます。
「又、景行天皇が球磨囎唹を誅ひたまひ・・・諸国を巡狩しましき・・」、続けて書紀の景行紀18年と同じ文が続きます。
肥後国風土記逸文では南九州での事象と、雲仙、不知火、3種類の「火」の記事がまじりあってる。

なお、ウィキペディアの熊襲の項に「筑前国風土記に球磨囎唹がある」とありますが、これは誤り。
筑前国風土記は存在しません。筑前国風土記逸文および筑後国風土記逸文が残るのみ(風土記/岩波書店)。
「球磨囎唹」が書かれるのは「肥後国風土記逸文」です。
(筑前国続風土記/貝原益軒では未確認)

肥後国風土記逸文に「球磨県の北西70里の海中に島あり」とある。
おそらく天草諸島でしょう。
この記事が正しいなら、古事記の「熊・曾国」の一部がAD720頃には球磨県になっているとみえます。
位置は現在の熊本県南部、球磨川周辺でよいと思います。

大隅と薩摩の語源は不明。
延喜式では大隅国、薩摩国が存在。肥後国の中に球磨あり。
拾芥抄では大隅国のなかに贈於あり。肥後国のなかに球磨あり。薩摩国のなかに薩摩と鹿児島あり。

薩摩は球磨の「球を薩」に変えての呼称ではないか。
大隅はAD720頃では「襲」あるいは「贈於」であったが、延喜式の頃では「大隅」に変更され、現在に曽於郡が残った。

参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )
参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)






[11942] Re: 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月13日(木)21時40分
神奈備さんへのお返事です。

>国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます

書紀編纂者が伊弉諾伊弉冉尊をどのようにイメージしていたか、ですね。
伊弉諾伊弉冉尊以前では具体性はほとんどなく、イメージだけ。
縄文末期の寒冷化で移動する縄文人、そのかすかに残る痕跡。それが伊弉諾伊弉冉尊の源だと考えています。

スタートは奈良周辺と木曽あたりからの縄文。
当時において距離の記憶は無理だと思います。何日もかかる、何ヶ月もかかる遠いところ、その程度。
現代人でも東京から大阪と東京から青森と、どっちが遠いかなんて?、でも方角はわかる。
いつの時代でも太陽というコンパスがあるし(冬至とか春分の概念も必須)。
書紀では縄文海退の記憶を含めた国生み島生みのイメージを構成。

説話として淡路島スタートでよいと思います(書紀の一書はばらばら(^^; )。
そして九州へ。
ここで、神々の体系を構築するために夫婦神を捨てる。
縄文イメージの終わり。
北九州から今度は日本海沿岸を東へ。ここでは半島経由の渡来者(漂着者)登場のイメージが重なる。
弥生の開始。
天照大神と素盞鳴尊、宗像三女神など登場。
住吉三神が関門海峡あたりで登場も妥当なところと思います。

素戔鳴尊は嫁さんの存在を明示。天照大神や月読尊に比して素戔鳴尊は強い具体性があったからだと考えています。
出雲文化圏の登場、その祖先神として。
天之忍穂耳尊も同様で嫁さんを書いている。
天照大神を別枠として、祖先神(歴史)の流れに変化させたのだと思います。

参考図 筑紫島の四面を少し修正
後の筑前や筑後での前や後ろは、街道の完成をもって畿内からの道程として近い方が「前」ですね。






[11941] 上町断層 神奈備 投稿日:2016年10月13日(木)16時04分
大阪市内を南北に走っている上町断層の場所が、ネットの地図を見ていましても、松屋町(まっちゃまち)筋やひどいのは大阪城の西側の上町筋としています。断層からγ線が出ているとのことで、本町通りを御堂筋から東に歩きながら測定してみました。エアカウンターという測定器をつかいました。
御堂筋 、0.05μSv/h、
堺筋   0.09μSv/h
東警察前 0.05μSv/h
東横堀川 0.19μSv/h
内本町  0.05μSv/h
谷町筋  0.09μSv/h
上町筋  0.05μSv/h
生魂御旅所 0.09μSv/h(大阪城内)
 これから見ますと、断層は東横堀川の下にあると言えます。




[11940] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日: 2016年10月12日(水)23時25分
かたばみさんへのお返事です。

> 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。

この出自はどれでしょうか?

ご承知のように九州は、朝廷からみたら「僻地」のなにものでもありません。
所謂「流刑の地」ですから、、
当時の朝廷から誅された公家や皇族が多数配流されています。
その流れで、中央の文化が移入されました。

伊勢神楽として有名な、日向の「西米良神楽」は後醍醐天皇繋がりです。
鹿児島の谷山には、懐良(かねなが)親王が

この辺りは拙宅サイトに、判る範囲で掲載しています。
歴史探訪===>>南北朝動乱

民俗芸能の所作は、専門家にお話を伺って
史資料を精査しながら、神舞を初めとする
田舎の民俗芸能を見物するのが楽しみです。

☆鹿児島神社のお祭り風景
桜島を核として三方に「鹿児島神社」を配祀した伝承有

○鹿児島神宮(霧島市隼人町)
○鹿児島神社(垂水市)
○鹿児島神社(鹿児島市草牟田)









[11939] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月12日(水)13時19分
かたばみさんへのお返事です。


>
> 地名には危険が伴う。
> 奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
> 「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
> 書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;


奈良県 磯城郡(しきぐん)

というと、田原本町近辺ですね。
昔、名古屋在住の頃、弟が居住していたので
近鉄特急で、何度か足を運んでいます。

似たような地名呼称が、現在では真逆の処が、鹿児島でもあります。

姶羅(あいら)

がそうです。古代から中世は、大隅半島の鹿屋辺りを指しますが
現在の「姶良市」は薩摩半島の加治木町、蒲生町、帖佐町です。

市町村合併で、故地が消滅するの忍び難いものがあります。
でも、史資料に登場する平安時代の小字が残っていたりすると小躍りします。


> 「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
> 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。
>

神話伝承の小字が残っていると興味をそそります。
いつかゆっくり探訪したいものです。

「神楽」当地では「神舞(かんめ)」ですが
民俗学的に貴重な生きた史資料、文化財です。
古語拾遺では「神遊」で登場します。
当地でも史資料に登場するのは、島津藩の初期の頃からです。
目下のところそれ以前は承知していません。

この16日は、鹿児島神宮の「お浜下り」です。
隼人の霊を弔った「放生会」の現代版です。
お天気がどうも下り坂。。心配です。

☆鹿児島神宮のお浜下り








[11938] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月12日(水)12時32分
かたばみさんへのお返事です。

> 景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
> 「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
> 「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
> 景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
>
> 書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
> 八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
> (景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
> 景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?
>
> 古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
> 「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。
>

こんにちわ。
ご多忙の処、当地「隼人の抗戦」について
テーマを提起して頂いてありがとうございます。

このあたりに関しては、拙宅サイト==>>隼人探訪==>>隼人抗戦

でも少し触れていますが、残念ながらお先真っ暗状態です。

一応、伝承の地として「拍子橋」や「長袋」があります。

「拍子橋」==>>熊襲猛が酒宴をはった場所跡
       酔狂に紛れて日本猛尊が。。。

「長袋」====>>熊襲が抗戦時に立て籠もった洞窟

       妙見温泉にはこの観光用の洞窟があります。
       この地は伝承の場所ではありません。
       対岸にありましたが、洪水で崩落しました。


「火の国」===>>どこでしょうか?

       ご教示の桜島ですが、縄文時代の噴火の記録がありません。
       火口やカルデラ、墳丘は多々ありますが、、
       どうもそれ以前、25000年位前らしいです。

       6500年前には姶良カルデラが大噴火をしています。。
       降灰はカムチャッカ半島迄達しているとの報告があります。

         ===>>「パミス年代測定法」:火山灰堆積層で年代測定

       現在の阿蘇地方、特に阿蘇カルデラには、
       縄文時代の噴火趾が多数あります。

       こちらの方が縄文時代は有力かも。

      ★地元としては、観光活性化で「桜島」を押したいのは山々。



☆隼人首塚
☆拍子橋
☆隼人舞(隼人塚)






[11937] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年10月12日(水)11時49分
かたばみさんへのお返事です。

 国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます。

 島根県の隠岐島の次に九州島、それから壱岐、対馬となり、佐渡の次に、大倭豊秋都島(本州)となりますが、記紀の記された頃には蝦夷の棲むあたりへの認識が高まっていたと、ここは苦しい言い訳も含めてのお話ですが。。。。




[11936] 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月10日(月)20時39分
古事記の国生み神話での筑紫島と景行紀の熊襲制圧での地域推定図です。
熊曽国/建日別は南九州全域を示す(熊・曽の混合)。
景行紀の火の国はさらに限定して桜島周辺を示す。
火遠理命/彦穂々出見命の火(桜島)に通じるものです。

であるならば、景行紀の市鹿文を「火の国の国造」とする記述は妥当。
しょっちゅう火を噴いているのは桜島だと思います。
火の国は肥国にあらず。
隼人が支配者(高級官僚)に登用された事象がみあたりません。
元邪馬壹国の末裔(開化の末裔)ならば、大隅薩摩の国造りに登用されて妥当だと思うのです。


建日向日豊久士比泥別/肥国
古事記での文字は発音と意味が共存で危険ですが、肥国は肥えた国でよいと思います。豊国と意味は同じです。
建・日向・日豊・久士比泥・別、かなあ。
日向と日豊と久士比泥という地域を混合したもの、だから呼称が長くなった。
九州中央部を横断する地域、すなわち宮崎県の日向も含む。
(後世では肥国は西岸の熊本に限定)

.隠伎之三子島/隠岐島/天之忍許呂別は五島列島だと考えています。
なーんとなく島根の隠岐である、と感じてしまうところですけれど、古事記の国生みの順からはずれてしまう。
国生みで書かれる島が流刑地になってはおかしいですし。
島根の隠岐の文字は、国生みの記述から後鳥羽上皇あたりに「沖」に代わって採用されたものではないか。

.津島/対馬/天之狭手依比売
.伊伎島/壱岐島/天比登都柱
これらに共通するのは天を冠すること。
天之忍穂




[11935] Re: 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月 9日(日)23時27分
今井よりさんへのお返事です。

古事記の国生み神話で
此の島(筑紫)は身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。

筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別
(やたら長くて丁寧、範囲が広いのか?)
熊曽国を建日別(曽の字、音を用ふ)

景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。

書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
(景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?

古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。


地名には危険が伴う。
奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;

「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。


神武の言語はいかに、神武の祭祀はいかに、神武御用達の土器はいかに・・
弥生時代の九州南部と北部での「方言」は通じる程度であったのか。
九州北部が出雲文化圏であったら通じるとは思えないのですけれど。
紀元前後頃の重要なヒントになると思っていますが、記紀にヒントはみえないなあ。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/



[11934] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 8日(土)04時04分(水)01時28分
かたばみさんへのお返事です。

> 書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
> 九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
> 熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
> 書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
> すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。
>
> もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
> 日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
> ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
> 曽於(曽於郡)のクマですね。
>
> 球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
> 神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


この辺りは、遺物なり木簡なりの出土を期待しましょう。
どのような喋り方(発音)をしていたかも興味あります。

江戸時代の「薩摩弁」については旧ロシアに
辞書が残っています。
ゴンザ辞書、一応所持しています。参考になります。


>
> 九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
> したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
> (韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

これは以前もお話ししたように、当地の民俗芸能に宿っています。
当地では、神楽の事を神舞(かんめ)と呼びますが
出雲神楽と伊勢神楽の両方が舞われます。
宮崎までは伊勢神楽が多いでしょうか、
それ以南は出雲神楽系統です。

史資料はもとより、民俗学的な考証も重要と考えています。


★霧島東神社
国の無形文化財「祓川神楽(神舞)」

尚、映像はyoutube==>>yorihime3でどうぞ。



[11933] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 8日(土)03時27分
かたばみさんへのお返事です。

またまた、割り込みで恐縮に存じます。

> 東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
> 当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

私の神社探訪の動機と酷似してます。
私は氏神様(稲荷神社)を江戸末期生まれの祖母が「おみょうけんさ〜(妙見)」と
呼ぶ不思議さでした。

この氏神様が、平家物語の敦盛愛用の「青葉の笛」所縁のお社とは。。
驚きの連続で今日に。。

>
> >神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

当地の場合、明治の廃仏毀釈で、約2500ケ寺が焼失しています。
残存した寺院は、社名を変えています、近場の例

○鹿児島神宮再建の「日秀神社」(旧三光院)
ここには唯一お堂があります。
○旧国分市上水道の第一号井戸に鎮座する「医師神社」(旧門倉薬師)
○姶良市の米山神社(旧米山薬師)

らでしょうか。

歴史の変遷を。。翻弄された神々でしょうか。







[11932] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)21時34分
神奈備さんへのお返事です。

氷川社とはなにか、を考えていたとき、楡山神社さんのうぶすな研究室の近津の記述で「ちかつ社」の存在を知りました。
東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

>神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

これは納得していません(^^;
そもそもが本地垂迹といった神仏習合は仏教サイドからのものではないでしょうか。
書紀の神々を仏教に包含しようとする意識であって、宗派によって習合のさせ方が異なり、統合された概念にもなっていない。
書紀「第六天神」、仏教「第六天魔王」の文字の偶然に惑わされた後世でのイメージとみております。
第六天神は「書紀ではあいまいな自然神」を代表させ、水害や風害除けとして開拓成就を祈願する神として扱われていた、と考えています。
(幕末〜明治の国学者にもの申す(^^;;; )

ヒンズー教のシバ神には100(だったと思う)の姿があるとされます。
インド各地の多数の部族の神をひとつに統合させるためです。
肌の黒い部族に対して、おまえさん達の神様はシバ神の化身なのだ・・マハーカーラ=真っ黒けのシバ神登場。
後に仏教に取り込まれて大黒天、日本では大国主命と重なって大黒様(鎌倉以降)。大国ダイコクでしょう・・たぶん。
第六天神でのイメージもその程度の類とみております。

書紀の編纂目的のひとつは仏教などに対抗できる「概念」の構築にあると考えています。
その統一のための概念が天照大神の和魂と荒魂だと考えています。
単純には、その源流が天照大神(おおまかに天孫)に対抗する存在だった場合は荒魂。
日本の場合はインドに比せば、氏族の差は微々たるもの、「ふたつの姿」だけで事足りた。

神社建築において「千木」の形状で、先端が垂直に切られる場合は荒魂、水平に切られる場合は和魂、と聞きました。
また、千木の装飾の穴?が先端部で切り欠き状になっている場合は女神、切り欠きになっていない場合は男神、とも聞きました。

もっとも、そういう慣習があったとしても、社殿建設の時にどれだけ引き継がれるか。
東京駒込の天祖神社(源頼朝縁起)の境内に、榊神社(面足尊)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)があり、この由来を神主さんにおたずねしましたが??でした。
寺院でも同様、大昔にある問いかけに答えられなかった若い坊さんが今は要職に。

余談
さっきNHKの歴史秘話ヒストリアで明治日本語の話をやっていました、なかなか面白かった。
標準語は必須だがどうやるのがよいか、英語にしてしまえなんて案もあったらしい(^^;
文化と血脈(部族)、その中間にあるのが言語だと考えていますが、うかつに統一化すると文化を失うかもしれない。
なかなか難しいところ。
そういえばエスペラント語なんてのがありましたが今はどうなっているのかなあ。

最近ちと気になっているのが、「なになにだそう」です。




[11931] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)16時35分
ちかつ社と第六天社を重ねてみました。
(第六天社は七所とか十二所といった伊弉諾伊弉冉尊以前としての面足尊を祀る社を含みます)
ちかつ社の変化とみる氷川社の集中する地域では省略しています。
参考図
(画像サイズが横800ドットを越えると自動縮小されて画像がぼやけるみたいですね)

みえてくる特徴は、ちかつ社は鬼怒川以南(現在の利根川以南)にはない。
茨城〜福島での「ちかつ」は蝦夷が濃厚で、関東平野の西側では諏訪の千鹿頭が濃厚、であろうとみています。

第六天社は群馬にはない。
茨城と福島ではちかつ社と第六天社が混在する。

第六天社は平安中期以降の蝦夷制圧の北上ルート(茨城県〜福島県)に登場しているとみえます。
正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部、クサカ部、卜部、物部などの人々の北上とともに、茨城の蝦夷が制圧され、その後の開拓に伴っての面足尊ではないか。

東京台東区の榊神社の縁起は「日本武尊が東征のおりこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り」とされます。
日本武尊時代に面足尊が存在することはありえない。地元住民の祭祀を日本武尊が遵守した、ということで良いと思います。
ただし、境内社に
七福稲荷神社/倉稲魂神  繁盛稲荷神社/倉稲魂神
事比羅神社/大己貴神
豊受神社/豊受姫神 があります。
出雲と食糧神です。このあたりにも第六天社の本質が隠れているかもしれない。

雄略456-489の開拓民(孔王部)は埼玉以北へは達していない。稲荷山鉄剣付近までの開拓、ということでしょう。
倭王武(武烈)の上表文の「東は毛人を征すること、五十五国」はちょいと誇大表示ということになりそう(^^;
ちなみに雄略が祀ったという外宮の豊受大御神は食糧神とみえますが、素性があいまい。

祖先神でもなく自然神ともいいにくい(あえていうなら大気都比賣命か)。倉稲魂神も同様。
ま、雄略時代にそういう概念があったかどうかもありますが、もともとあいまいだったのではなかろうか。
BC500以降の初期開拓者たちの農耕文化、その神格化が豊受大御神でよいと考えています。
倉稲魂神は稲作文化に特化で、後に稲荷にも重ねられる。

第六天が雄略につながる痕跡があるかどうか、関東で豊受大御神を主神として祀る社をざっとチェックしてみました。
たくさんありすぎていまのところ??(天照大神を同時に祀る社は除きます)。
稲荷と複合もしていて識別が容易ではなさそう。これからの課題としておきます。

古語拾遣807に鹿島の武甕槌命が登場しますから、この頃には書紀の神々の体系ができあがっているはず。
この頃に蝦夷を制圧した地域(茨城南部〜千葉)で面足尊を「開拓の成就祈願」として祀りはじめたのではないか。
群馬に第六天社がないのは、平安中期において、この方面へは開拓民が送られていなかったからだと考えています。

おそらく源頼朝は第六天には関与していない。
三島大社は崇敬したようです、こちらの祭神はあいまいなれど大山祇神とされますが、本来は海人だと考えています。
建長寺の建立にあたって浅草の宮大工を呼び寄せています。
頼朝は当時の東京湾の浅海を渡河するのに苦労しており、千葉氏と接触していても祭祀まで受け継いではいないとみるところ。
武人ではあっても開拓者ではない、だから鎌倉を拠点に選んだ。

関東平野に密集する第六天ははるかに遅く、戦国以降でしょう。
関東平野に第六天を運んだのは、おそらくは千葉氏で、祖は平常長(1051頃)。
千葉氏−北条氏−徳川幕府の流れでの展開。
小田原の周囲に第六天社が少なからずあるのは、北条氏による開拓でのものと考えられます。

面足尊を祀る社に胡録神社があります(少なくとも5社以上)。
東京荒川区の胡録神社の縁起では、上杉謙信の配下の武士がここに住んだとあります。
第六天を称していたが、明治初期に胡録の呼称となったそうです。
胡録の意味不明なれど、胡粉ゴフンの胡の文字を使った可能性あり。
胡粉は貝を石臼で引いて作る、胡録社はすべて海岸沿いあるいは海岸近くの川沿いにあります。



さて、ちかつ社。
由来はメインが諏訪の千鹿頭。これは動かないと思います。
長野県佐久市の近津神社はかっては千鹿頭神社であり、池から大蛇がでてきたという由来があるそうです。
ただしいつ頃に近津社になったかは不明。

弥生後期〜古墳時代に寒冷化で山岳地域から南下する人々が関東平野の山岳ぞいに展開した。
関東では碓氷峠からでしょう。
碓氷峠の東に貫前神社と咲前神社があります(高地性集落)。祀るのは経津主命。
諏訪から関東平野へ流入する諏訪系氏族の押さえだと思います。
貫前神社の成立は鹿島神宮や香取神宮の成立と同じ頃とみています。

鬼怒川水系(現利根川)の北岸で蝦夷との戦いが始まった。
おそらく・・垂仁273-311の五大夫のひとり物部十市根の頃、東京湾岸では豊城入彦命、鹿島側でも王朝系のだれかが上陸。
ここでは対出雲系譜の意識のなかの蝦夷であって、開拓の意識はまだない。
(この頃の王朝祭祀はいかなるものであったか)

そして正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部やクサカ部や物部など、おそらくは武装開拓民の登場。
鹿島神宮の社としての登場は721以降だと推定。
対蝦夷の社、書紀は強力そうな武甕槌命を創作。香取神宮は穏健な経津主命。
貫前神社はこれに習った、こちらは相手が出雲系譜で蝦夷ほど恐ろしくはなかったから経津主命(^^;

「ちかつ社」の多くが「近津」の文字を使いますが、なぜ??
近くに港があるわけでもないのに、疑問でした。
その起点は鹿島神宮のすぐ北にある近津社ではないかと考えています。

社名や御祭神の変化が大きかったであろう頃、すなわち延喜式の時代927頃での登場。
鹿島の港に近い、の意を以て「近津」に変更された。
御祭神も面足尊と風神の級長戸辺命、近津としては例外的に自然神ライク。
その他の社の多くがこの呼称に習った(千勝や千方など)。
ただし御祭神は別です、出雲系譜を主とする祖先神に切り替えられた。

その代表が氷川社だと考えています。
「ちかつ」にこだわらず、書紀や出雲国風土記から御祭神を素戔鳴尊とし、島根の簸川を氷川に置き換えた。
関東で河川の凍結はありえないけれど、諏訪湖の御神渡りをイメージしての氷川ではなかろうか。
そして延喜式以降に大勢力に発達した。
福島と茨城の県堺では都々古別社がグループを形成(味耜高彦根命)。
ここでは東北縄文が濃いゆえに、ツツ蛇の子の意だと思います。

鬼怒川沿いにある数社(千勝)では御祭神に猿田彦命を祀る。
おそらくは、現地の古い祭祀(≒弥生に遡る)の意をもって猿田彦命(書紀での縄文イメージ)としたのではないか。
(ひょっとすると強制的に)
全国的に、現地の古い祭祀を延喜式以降に猿田彦命に置き換えた社が少なくないと考えています。






[11930] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)16時16分
今井よりさんへのお返事です。

書きかけていたのを誤って消してしまったみたい。
マツタケご飯とぎんなんの食い過ぎかな(うんと安いカナダ産です、香りがやや洋風ですが十分)。


>海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。

磐座を伴うなら縄文にも遡り得る祭祀があった可能性もありますね。
南九州での「天智」は白村江の準備での海人(隼人など兵を含む)の招集と船の建造に関連ではないでしょうか。

>東北の蝦夷と南方の熊襲(隼人)討伐
>どちらにも「日本健尊」伝承があります。

九州での日本武尊が関東での日本武尊と同一人物かどうかはわかりませんが・・
(仲哀356-360)も日本武尊のひとりといえる)
関東では豊城入彦命は痕跡が少なくなんともいいにくいですが、日本武尊については戦闘痕跡がみえません。
また、日本武尊は出雲の残勢力の制圧であって、蝦夷との戦闘があったとしても出雲制圧の一部であったと考えています。

別項の榊神社の縁起のごとく先住者への対応が紳士的。
鳥越神社の縁起も住民が日本武尊を祀っている(榊神社は鳥越と同じ社地だったが、徳川幕府の土地利用の都合で移転)。
上野台地には出雲関連社がありますが、ここでも医療をもって日本武尊を援助しています。

景行311-333には無数の子女がいる。
婚姻融和策をとっていたと考えています。おそらく関東の日本武尊もそれを継承していると考えています。
あちこちで子を作った・・はず。
すなわち、関東には日本武尊のみえない末裔がたくさんいる・・まほとんど民間人で伝承は残っていないでしょうけれど。

書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。

もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
曽於(曽於郡)のクマですね。

球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


>この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に
>太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが

大穴持神はちとやっかい。
大穴持神は山陰で最古、半島経由の農耕渡来(BC500以降)と接触していた文化圏、サヒメ伝承。
大穴牟遅命と大己貴命は同じで、東シナ海系海人。須勢理姫の婿(素戔鳴尊渡来BC190頃。島根のキサガイヒメ(出雲国風土記)、因幡の白兎。
大国主命ははるかに下って神武 36- 66とほぼ同世代の豊後、神武への国譲りと島根への引退。
同名処理によって出雲系譜の年代や位置がぐちゃぐちゃに(^^;

九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
(韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

太玉神は天孫降臨の随伴者ですから、南九州に存在しておかしくないと思います。
かえって北九州はほとんどが出雲文化圏であり、こちらには存在しなかった可能性あり。
ただし神武が運んだ可能性はあります。


さて、丹波の大粒の栗が到着。
栗むき器なるもの購入、なにせ渋皮むくのがやっかいで栗ご飯作るのを敬遠していたので。





[11929] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年10月 5日(水)20時13分
かたばみさんへのお返事です。

楡山神社さんのHPに、こんなのがありました。http://nire.main.jp/rouman/

 (3)面足命(おもだる-のみこと)
 一部の"ちかつ社"の祭神でもある面足命とは、不思議な神である。古事記冒頭の神代七代の第六代目に当ることから、神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる。
 三面六臂、八面六臂などの慣用句は、仏像の姿から来た言葉といひ、多面多肢の仏は多い。埼玉県熊谷市下増田の近殿神社(祭神:稲田姫命)は、武蔵風土記稿に「村の鎮守なり。本地十一面観音を安置す。観音寺持」とある。日本では十一面観音は四臂で描かれることも多いといふ。面足命とは、もと多面多臂の仏像を祀ったことから、近代に定められた祭神名なのかもしれない。
 漢字の字形のよく似た「百足」から来たかについては未調査である。馬蹄石のやうに、何かの動物の足跡が石などに残ったことから来たのかどうかも、考慮中である。

 『平成祭CD』を見ていますと、由緒の書いたものは少ないのですが、第六天社は鎌倉時代以降に創建されたものが多いように思われます。





[11928] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 3日(月)18時26分
かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる)
> 野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし)
> 若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命
> 宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神〜伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊〜神武
> 檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊〜伊弉諾尊伊弉冉尊 その他
>
> 鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。
> いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。
> ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。
>
>

こんばんわ。
せっかく鹿児島の話題を掲載して頂きながら、、
遅くなり恐縮に存じます。

海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。
航海の目印になったと感じます。
昔は山頂にお社があったようです。

檍神社は住吉神繋がりです。

三社とも「天智天皇伝承」と関連があるのです。
精査は頓挫状態ですが、、
天智天皇の道先案内をした海運の長がいたのでしょうか。

南北朝の頃になると、後醍醐天皇の皇子らが当地へ。
四国〜日向〜谷山(鹿児島)
この頃になると史資料が幾つか散見されます。



[11927] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年 9月14日(水)01時28分
かたばみさんへのお返事です。

またまた、割り込みで恐縮に存じます。


> 関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。
> そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。
> 藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国)


> AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。
> 対蝦夷の拠点としてです。
> 東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。
>

当地には、神奈備さんが興味をお持ちの「韓国宇豆峯神社」が鎮座しています。

☆韓国宇豆峯神社

☆剱神社

日本武尊上陸地







[11926] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 2日(日)17時07分
かたばみさんへのお返事です。

割り込みで恐縮に存じます。


> アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。
> すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。
> 起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。
> 出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。
> すなわち蝦夷の神。
> 西日本にはないといってよいです(門客神はある)。
>

秀真伝(ほつまつたえ)は、8世紀、蝦夷が多数、日向へ配流されていますので
伝承は残っていると考えます。
現に当地にはその記録があります。


===>>神社探訪==>>鎮座地別==>>霧島市・国分==>>大穴持神社


で精査途中ですがご覧ください。(一昔前の作成です)


> 古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。

この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に
太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが
由緒等が土砂崩れで流失し、精査を頓挫しています。

一応、御参考になれば幸いです。

☆大穴持神社(国分)

☆太玉神社(福山)





[11925] Re:第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年 9月28日(水)14時59分
神奈備さんへのお返事です。

>結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。

近津社と第六天社の決定的な違いは、祖先神を祀るか自然神を祀るかであろうと考えています。
近津は諏訪の千鹿頭、これに蝦夷が結合。寒冷化による山岳地域からの南下で弥生末期あたり。
第六天社は開墾と治水であり、千葉側からで。もっとも古い場合でも古墳時代かなあ。
面足尊を祀るのは、書紀の解釈によるもので、そうなるのはむろん書紀が一般化してからで平安中期以降。
自然神を祀る場合は、人間の技術の発達で消えやすくあるいは変化しやすいと思います。

myHPに関東開拓と第六天神をアップしてあります(暫定書きかけ)
myHP近津神社と日本武尊も再アップ

関東で最古の可能性のあるのは天日鷲命。
天火明命の随伴者・・土佐(田村遺跡)−阿波−尾張−関東が存在するならBC100頃、物部氏(の祖)を含む。
水稲(農耕)はなさそう、布と紙。手工業品ですね。
参考図1 酉の市 この紋所は千葉氏でしょう(七曜星もある)(酉の市の風習は関東からだと思います)

古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。
酉の市の起源は足立区花畑(旧花亦村、伊興古墳群)の大鷲神社ともされる(myHP江戸名所図絵と神社散策の鷲神社)
日本武尊も祀っています。
だが、こちらは祖先神であって開拓とか第六天社とつながるとは考えにくい。

書紀の書く自然神ライクは埴山姫と迦具土命、そこから登場のクラオカミ神(≒水神)などか。
書紀では自然神はあいまい、神代三代目から七代目(伊弉諾いざ見尊)は夫婦神。
夫婦であるなら、そこから自然神が誕生とは考えにくい。
だから・・書紀は伊弉諾尊が独り神としてから、不可思議手段で何人かの神々を誕生させた。
このあたりは書紀編纂者の苦しいところ(^^;

だから、開拓と治水をひっくるめた自然神を意味するとして「伊弉諾伊弉冉尊以前」が登場した。
ま、書紀解釈の問題でもあり、当然ながら書紀が一般化して以降のことだと思います。
これに類似は菊理姫と白山信仰だと思います。
こちらは縄文の山岳信仰と書紀解釈の結合なのだと思います(後に修験とも結合)。


関東で明確に開拓が登場するのは、雄略だと考えています。
関東到来だけであるなら、豊城入彦命と日本武尊(AD320頃)ですが、これは開拓ではなく出雲系譜の征圧。
信濃の古文献の仁科濫觴記に崇神の末太子の仁品皇子の到来記事(記紀にはみえない)。
おそらくは垂仁273-311の子の豊城入彦の縁者を書いたものと推定。

碓氷峠の東に貫前神社があります。経津主命と姫大神を祀る。
姫大神は養蚕機織の神とされるのが興味深い。おそらくはこちらが最初の御祭神ではないか。
この社の周囲は高地性集落であり、戦闘を意識していたとみえる。
だれと誰の戦闘か・・古墳時代初期、寒冷から南下する諏訪の千鹿頭系譜と関東平野側のだれか(平安中期に経津主命に変化)の可能性あり。

そして雄略456-489時代。
埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄剣銘文(雄略471とみる)。
東京都足立区の伊興遺跡群(古墳群)(縄文〜古墳)。縄文海進で海没していなかった地域の最南端です。
さて、雄略の祭祀はいかに。

伊勢外宮の豊受大御神は社伝によれば雄略時代とみえる。祖先神かどうかは不明なれど食物神ではある。
外宮の境内社に土宮と風宮、他に月夜見宮があって、なーんとなく自然神っぽいであります。
東京湯島天神の本来の御祭神は手力雄命(雄略縁起)。
ここから谷の向こう側には上野台地があり出雲系譜が濃厚、その監視の社であったと推定。

この後しばらく情報途絶。
男大迹王と磐井王の内戦、半島情勢の緊迫化。
天武673-685に至るまでの王朝の混乱によって関東への行動が断絶していた時期とみています。

正倉院文書の下総国大嶋郷戸籍AD721に孔王部。
おそらくは安康(穴穂天皇)−雄略時代の開拓民の子孫だと思います。
雄略の開拓民が下総台地の西側を北進した結果が稲荷山古墳鉄剣に連なると推定。


近津社の分布は猪苗代湖以南かつ関東平野で、現在の利根川より南の千葉側にはありません。
すなわち東北縄文の流れの存在した地域(蝦夷でもある)に近津社がある。
(東京で青森の亀ヶ岡土器が出土しています)

ちょっとずれますが
参考図2 門客神を祀る社の全国図 神奈備さんの採録されたもののそっくりコピーです。
ただし、一覧表は関東だけを抜き出しています(赤印がアラハバキの痕跡あり)。

アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。
すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。
起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。
出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。
すなわち蝦夷の神。
西日本にはないといってよいです(門客神はある)。

関東平野に多数あるようにみえますが、ほとんどが氷川社です。
氷川社は本来は近津社であって、延喜式以降に御祭神を素戔鳴尊に変更してグループ化した社と考えています。
その後に有力化したためにアラハバキの痕跡も残った。
その他の近津社もそれぞれの考えで千鹿頭を(書紀記載の)御祭神に変化させたが、非力でアラハバキの痕跡は消えた。

猪苗代湖の南に味耜高彦根命を祀る社が数社あります(myHP近津神社と日本武尊)
おそらくは小規模でグループ化して味耜高彦根命を祀る、とした社であろうと考えています。
近津社の北限かもしれない(諏訪の影響力の北限)。


さて、
下総国倉麻郡意布郷戸籍AD721では藤原部がほとんどを占める(千葉県我孫子市付近)。
王朝の混乱が落ち着き藤原姓が登場する元明707-714あたりの開拓民じゃないかな。
関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。
そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。
藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国)

藤原秀郷(俵藤太伝説)AD900頃、の祖は不明とされますが文献的には藤原部AD721でいいんじゃないかな。
奥州藤原氏もここからの一族。
藤原秀郷は騎射の始祖とされますが、おそらくは蝦夷の騎射を取り込んだのではなかろうか。

AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。
対蝦夷の拠点としてです。
東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。

そして、書紀は手力雄命より強そうな武甕槌命を創作する(^^; (自然神ライクから祖先神登場は不自然)。
おそらく経津主命も。こちらは穏和な神として(鹿島は北向き、香取は南向き、祭殿の向きが逆です)。
利根川の北側(常陸国)、蝦夷と王朝の抗争(接触)はまずはここから(坂上田村麻呂758)。


>近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません

参考図3 茨城のちかつ社(細かくやるとちとたいへんなので概略のみ)
現在の利根川(江戸以前の鬼怒川と小貝川)沿いにある「ちかつ」は一社を除き猿田彦命。
これより南(すなわち千葉県)には「ちかつのち」すらでてこないのです。
(近津で面足尊を祀る社は茨城県の北浦東岸≒太田市)

面足命を祀る社は一社を除き級長津彦命を祀るのが興味深い。
風の神のようですなわち自然神。この地域が強風の地域かどうかは知りませんけど雷の多い地域ではあるようです。

すなわち現在の利根川以南(千葉側)には「蝦夷」はやってきていない。
鹿島神宮が北を向いている理由でもあります(香取は温厚で南を向く)。
茨城南部の「ちかつ」は平安中期頃には制圧され、社名変更ないし御祭神の変更がなされた(強制的の可能性あり)。
北浦の近津+面足尊は鹿島からの開墾の流れを受けて御祭神の変更があったものではないか・・








[11924] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年 9月27日(火)08時57分
神奈備さんへのお返事です。

> かたばみさんへのお返事です。
>
>  近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡
>

 近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません。(平成祭りCD)

 また、この三社は同じ町にあり、二社は勧請されたものでしょう。

 そうすれば、近津と惶根尊とは、たまたまの組み合わせでできたとも考えることができます。

 結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。





[11923] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年 9月25日(日)19時45分
かたばみさんへのお返事です。

 惶根尊と近津神社

 茨城県の場合

 全ての本社と摂社は2468+932=3400社

 惶根尊を祀る神社は本社摂社含めて19社。 0.55%
 一方、チカツ神社は本社摂社含めて16社。  0.47%
 共に、希な祭神であり、神社名です。

 近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡

 この3社は共にppmの単位の中での出現は奇跡的と言えます。
 何らかの関係がありそうですね。






[11923] 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年 9月21日(水)22時17分
第六天神を祀る理由のチェックをぼちぼちと。
伊弉諾尊伊弉冉尊神話の島生みでは、淡路島、四国、隠岐島、.筑紫島、壱岐島、対馬、佐渡島、.大倭豊秋津島。
ただし、隠岐島が隠岐であるなら、これのみ順序的に例外。
すなわち、瀬戸内から九州へ至り、九州から日本海へ、の流れとして書いている。

島生み神話は縄文海退での奈良周辺〜瀬戸内〜九州に至る縄文人の移動が源流と考えています。
大倭豊秋津島はまとめとして追加されたものか。
壱岐島〜佐渡島は半島経由での漂着者(土笛)での、初期農耕の登場を示す。
持論での初期開拓者AD500以降、伊弉冉尊の死による穀物の登場に相応。

平安時代に縄文や弥生といった区分意識はありませんから、区分するなら書紀の書く伊弉諾伊弉冉尊より以前かどうか、だと思います。
書紀における天照大神や素盞鳴尊登場以前の意でもあります。
社の御祭神としては、後世で変化の結果、というのも少なからずとは思いますけれど。


関東の場合だと、濃密に分布するのは縄文海進で海、縄文海退で陸地化した地域。
徳川幕府の開拓した農地はその地域がほとんどを占める。ひとつの村に1社あるともいえます(新編武蔵風土記稿)。

いまのところ千葉県の加曽利貝塚と小田原の中里遺跡が関東での最古の水田痕跡のようで紀元前後頃。
東北の砂沢遺跡(BC300頃)よりはるかに遅く、長野の塩崎遺跡群よりも遅いとみえる。
水稲のはじまりを弥生時代と定義するなら、関東の弥生は紀元前後以降。

武蔵野台地に限定するなら水利が悪く農耕適地なし。縄文遺跡は多数、弥生遺跡はないに等しい。
弥生の開拓者がやってくる理由がなかった、だと思います(武蔵野の森が現代まで残る)。
青森の砂沢遺跡は出雲系の資源探索部隊の開発で近畿より早い可能性あり。
中里遺跡も加曽利貝塚もおそらく出雲系(小銅鐸、近隣に最古型の前方後円墳)。

正倉院文書の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍AD721には、関東平野の半ばが海であったとみえる大嶋郷の住人が詳細に記録されています。
そこには孔王部刀良アナホベのトラや孔王部佐久良賣なんて人物も書かれる。
(葛飾柴又、男はつらいよの山田洋次監督いわく偶然らしいけど)

大嶋郷の住人はほとんどが孔王部アナホベ、安康454-456(穴穂天皇)−雄略456-489で送り込まれた開拓民だと思います。
(安康は倭王済AD440頃〜456と推定、允恭から近畿王を簒奪とみる)
この人々がいかなる祭祀をもっていたか不明なれど当時の九州系祭祀ではないか。
雄略の武神は手力雄命=雄略創始という湯島天神の御祭神(鹿島神宮/武甕槌命は平安あたりでの登場)。

景行311-333日本武尊は船橋市付近上陸(入日神社、意富比神社の元宮とされる)。
縁起に日本武尊が天照大神を祀ったというが、これはありえない。
相殿に萬幡豊秋津姫(天之忍穂耳尊の妃)と天之手力雄命あり。こちらが本来の御祭神であった可能性少なからず。
日本武尊の祭祀は雄略と類似と推定(伊勢外宮の豊受大御神は雄略の創始とされる)。

文武697-707浅草付近の隅田川に「浮嶋牛牧」登場。
万葉集3387に、「葛飾の真間の継橋」が謡われています(下総の国府、真間の入江、千葉県市川市)。
慈覚大師(円仁)が860頃に隅田川に牛御前社(素戔鳴尊)を造立(新編武蔵風土記稿、現在の牛島神社)。
平将門の乱939 武蔵、下総。

更級日記(1000頃)にて下総の市川から太日川(旧利根川)を渡って武蔵〜東海道へ向かう道が登場。
千葉氏の祖の平常長が下総に登場1050頃。
源頼朝が千葉氏の支援で隅田川を渡る1180、これを謝して牛御前社に領地を奉納。


この流れの中に第六天神の登場があるのではないか。
縄文海退後の東京湾は千葉県側からの開墾と見えます。

伊弉諾尊伊弉冉尊以前は自然神だと思います(三代目からは夫婦神で書紀の意識も微妙ではある)。
書紀が一般にも読まれるとすれば平安後期あたりと思います。
開墾と治水、これの成就を祈願するとしたら、自然神を祀るだと思います(水に特化すれば水神様でもある)。
書紀の神話時代は時間軸の概念がない、区分するなら穀物登場だと思います。
そこから登場するのが「伊弉諾伊弉冉尊以前の神」、代表させての面足尊と惶根尊ではないか・・

関東の近津社(千鹿頭)は関東平野の山岳に添っており縄文が濃密で狩猟系でしょう、諏訪が源流で紀元前後以降。
関東の第六天社は千葉側に源流があるのではないか。これも紀元前後以降。
(ひょっとすると千葉県側の近津社は・・)
平安時代となってさらに後の戦国時代、関東平野の支配者となるのが千葉氏−北条氏−徳川氏。
その農地開拓の流れに乗った信仰。
(徳川幕府は北条家臣だった武士を開拓村の指導者としている)


参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる)
野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし)
若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命
宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神〜伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊〜神武
檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊〜伊弉諾尊伊弉冉尊 その他

鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。
いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。
ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。






[11922] Re: 女神の御神像 宮本634 投稿日:2016年 9月21日(水)21時31分
神奈備さんへのお返事です。

2年前に登ったんですか!元気ですね!
酒殿神社から丹生都姫神社までの歩かれた道は三谷坂または勅使道ともいい世界遺産目指しているようです。
昔は三谷坂からそれて、丹生都姫が降臨された滝まで行く道があったと思うのですが、あのきれいな滝が三谷坂から見えるようになるとすばらしいんですがね。地元の人でなければ絶対気づかないのでもったいないです。ちなみに、三谷は、丹生都姫が降臨された「御瀧(みたき)」がなまって「三谷」となったと言う伝承があります。
そう言えば、先日大河ドラマで「九度山」の「九度」が「空海さんが母上のおられる慈尊院に九度会いにきた」ことから「九度山」と出てましたが、九度山町史を読んだ記憶が正しければ、昔は「九度」ではなかったような気がします。丹生氏には、昔そこで「くど(かまど)」を作ったことから「くど山」と名づけられたと伝承が残っています。話し言葉も地名も時代に伴って変わっていくので難しい分野です。私にはなかなか入っていけない分野です。
しかし、丹生明神、厳島明神、気比明神の像を作った目的はなんだったのでしょうかね?どうして高野明神の像はないのでしょうか?気になるところです。
私は、最後に念願の秩父にて丹治氏を調べて、丹生氏の謎解きを終えようと思っています。何年かかるかわからないんですけどね。とりあえず来年あたりから(^^;)またいろいろとご教授ください。<(_ _)>





[11921] Re: 女神の御神像 神奈備 投稿日:2016年 9月19日(月)20時55分
宮本634さんへのお返事です。

> 神奈備様、ご無沙汰しております。

こちらこそ御無沙汰です。ご投稿、ありがとうございます。

「高野山麓 祈りのかたち」は4年前に行われた特別展でしたね。見学したと思いますが、この女神像には注意をはらっていませんでした。ありがとうございます。
 その2年前に、酒殿から天野まで歩るきました。その道筋が境内全部と言うか、参道だったとは実に広大な神域です。

 鉾立岩がありました。神跡でした。






[11920] 女神の御神像 宮本634 投稿日:2016年 9月18日(日)23時16分
神奈備様、ご無沙汰しております。
先日、神奈備様もご存知?の三谷薬師堂でこんな記事を見つけました。↓
http://kenpakunews.blog120.fc2.com/blog-entry-539.html?sp
丹生都比売、気比明神、厳島明神のご神像の木型が、丹生氏の本拠である三谷の薬師堂で見つかったそうです。丹生酒殿神社にあったのもが、神仏分離で薬師堂に移されたのだろうと。
ちなみに、丹生都比売神社と丹生酒殿神社とはどう言う関係であった説明しますと。丹生都姫が三谷に降臨し、何百年かの後、応神天皇の時代に、山上の天野にご神体をお遷しし、酒殿神社が里宮、丹生都姫神社は山宮となります。通常人々は丹生都姫神社には行かず、神主がいる酒殿神社から拝みました。紀氏も代替わりの時はこの酒殿神社に参拝しました。古代においては現在の丹生都姫神社から酒殿神社までが丹生都姫神社なのです。しかし、空海さんが高野山に来てから変わります。空海さんが丹生都姫神社を祭り、山宮であった丹生都姫神社は建物が増え、高野山真言宗の神事がどんどん増えました。また、平氏の時代に気比明神、厳島明神が勧請され、ちょうどこの頃、現丹生都姫神社では、丹生氏の神事の年4回?に、真言宗の神事が足され、年50回以上となり、神主さん達は三谷から移住し、丹生総神主は天野に単身赴任すると言う形になりました。丹生氏で、「天野は親が祭る宮、三谷は子が祭る宮」と言われるのはこのためです。
このように、丹生都姫神社は高野山の影響が強くなり、それと違い酒殿神社は高野山の影響が少ない状況となります。そのためか、丹生都姫神社で祭られている気比明神と厳島明神は酒殿神社では祭られていません。では何故「酒殿神社にあったものが神仏分離の時に薬師堂に移されたらしい」のか?酒殿神社は丹生都姫神社の遥拝所で関係は密接ではありますが、気比明神と厳島明神は酒殿神社とは関係ないのに何故?私の見方は違います。三谷薬師堂はもともと昭和の初期まで丹生氏(今苗字は変わっています)の所有で、神事においても重要な場所だったので、もとからここに神像の木型があったと見るほうが、なんかぴたっとはまる感じがします。まあ、真実は分かりませんけどね。
たまにネット上で、丹生都姫神社はどうして北向いてるの?って言う記述を見ますが、私は単純に「自分たちを見守ってほしい」との祭る人々の思いから、人々の住んでいる里宮のある三谷をむいているんだと思います。例えば家の中で神棚を後ろ向きには祭らないですよね。必ず自分たちがいる家の中向きに祭りますよね。それと同じだと思います。
私はそれより、何故何百年もたってから三谷からあえて不便な天野に神様をお遷ししたのか?「北から攻めて来たときに、南に逃げるために天野にお遷しした」との伝承もあるが・・・。酒殿神社の神事は今はなくなっていますが、もともとここで行っていた神事は丹生氏本来の神事であり丹生都姫に由来する神事で、丹生都姫を知る上で最も重要な神事であったことは疑いのないことであり、明治の世襲制廃止による神事の消滅は悲しいことだったと思います。昔8月に丹生都姫神社の池に魚を放つ神事が、酒殿神社の縁起に出てきます。明治ぐらいに丹生都姫神社の春と秋の大事な神事が8月にまとめられたことがありましたが、これは神事を減らす上で8月の神事のほうが重要だったと思われます。それらからすれば、8月の神事は実は丹生都姫が天野に鎮座したのが8月だったことを表しているのかも知れません。今は酒殿神社にも丹生都姫神社にもこの神事はありません。
古い神事はその神様がどういう神様なのかを想像するのに非常に重要で、古い神事を継承できている神社は非常にすばらしく、うらやましい神社だと言えます。
神奈備様 ながながと書いてしまいました。申し訳ありません。<(_ _)>
またいつかお会いしお話できればいいですね。





[11919] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月16日(金)07時37分
かたばみさんへのお返事です。


>
> 江戸では新編武蔵風土記稿がメイン。編纂は幕末ではありますが明治維新の影響を受けない記録で貴重です。
> (目がかすんできましてCD化を期待(^^; )
> しかし、当時でさえも隅田川の築堤や江戸川改修など徳川家康時代であろう事象の記事がない。
> 江戸初期ではまだ公式の記録所ももなく、大名による記録も明暦の大火で失われたのかもしれません。
> 編纂時の250年も昔のことですし、江戸川の名称由来すら不明(江戸時代に開削された川なら明快)。

江戸の神社探訪ガイドありがとうございます。
楽しい興味津々のお話し
いつもありがとうございます。

私は、地元の寺社探訪もなかなか捗りません。
由緒繋がりで、前出の諏訪大社や稲荷神社関連を調べている程度で
現在は地元だけで手一杯です。

このサイトやかたばみさんのサイトのデーターを参考にして
また神社探訪に精を出しましょう。

昨夜は十五夜でした
7時から1時間程河川敷で眺めていましたが
残念ながら、雲が多くて、、、

今朝3時半、西方の空に満月を。。
そしていつもの公園に5時過ぎまで。。
西の山影に沈む満月を撮ろうと思ってましたが
生憎雲が多くて、、、隠れてしまいました。

しかし、目を凝らすと、満天の星空でした。
なんか救われました。。
風も爽やかでした。






[11918] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月15日(木)22時44分
今井よりさんへのお返事です。

>結局のところ、江戸末期の「三国名勝図会」と「国分諸古記」を

江戸では新編武蔵風土記稿がメイン。編纂は幕末ではありますが明治維新の影響を受けない記録で貴重です。
(目がかすんできましてCD化を期待(^^; )
しかし、当時でさえも隅田川の築堤や江戸川改修など徳川家康時代であろう事象の記事がない。
江戸初期ではまだ公式の記録所ももなく、大名による記録も明暦の大火で失われたのかもしれません。
編纂時の250年も昔のことですし、江戸川の名称由来すら不明(江戸時代に開削された川なら明快)。

参考図 第六天社分布図
関東平野には第六天神社が多数ありました(第七天神の一つ前、面足尊オモタルと惶根尊カシコネを祀る)。
その位置からおそらくは、家康による関東平野の開墾時代にその多くが運び込まれたと考えていますが、だれが運んだのか・・
全国に分布して九州にもあるんですよね。
面足神を祀るのは、伊弉諾伊弉冉尊より古いという意味だろうと考えています。
すなわち縄文に遡る・・

しかし、明治維新後では伊弉諾伊弉冉尊より前を祀ることはありえないという当時の論に従い、また仏教の第六天魔王と重ねられることを嫌って呼称や祭神が変更されています。
myHP江戸名所図絵と神社散策の榊神社、高木神社、胡禄神社、おおざっぱな探索でも三社も残る。
(榊神社の解説の別項参照)
うちのすぐ近所にもあったのですが、20年ほど前には近くの氷川社の境内に移されて消えていました。
明治維新前にははるかに多くが(全国に)存在したとみていますが、未だに未解決の社となっています。






[11915] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月14日(水)07時04分
かたばみさんへのお返事です。

古代から中世にかけては、
当地は、御承知のように「僻地」
峻険な山地が多いですから
牛馬は重要な担い手、
祭祀されている神々からも推察できます。
馬頭観音や馬櫪尊神など。
現在でも春祭りは賑やかですよ。

牛馬は、昭和の終わりまで山間部(棚田)では
農耕に従事してました。
今でも棚田は、時々見かけますが
大半はハンディータイプの農機具でしょうか。
数年前、人力のマンガを曳いて、、
暫く拝見してましたら、、
その後暫し談笑を。

馬は結構泳ぎが得意ですよ。
遠泳をしたかは、、
鹿や猪はニュースになります。

最近は、牛馬は、当地のような田舎でも
滅多に見かけません。
牧場にでも足を運ばないと。。

しゃんしゃんと鈴や鉦を鳴らし踊り
南国に春を呼ぶ「初午踊り」は
南九州の春の風物詩です。



<




[11914] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月14日(水)01時28分
今井よりさんへのお返事です。

>農業の近代化で役目を終わり

東南アジア系の小型の馬が列島に運ばれたとして、いつ頃になんのために、ですね。

?(テン)、春秋戦国に遡り得る雲南省の国。?王之印が出土し漢委奴国王金印に類似。
You tube知られざる文明、?(てん)王国など参照。
この人々の生活を写した「貯貝器」が興味深い。
馬に乗る人物があります。

以下myHP長江流域の初期文化から引用
BC3300頃、長江中流域に屈家嶺文化、銅鉱石と銅片、甕棺あり
同じく良渚文化、巨木列柱あり、金属器なし
同時期の山東半島南部の大ブン口文化から良渚製の玉が出土

BC1400頃、洞庭湖やポーヤン湖周辺に青銅器王国登場
青銅器が単体で周囲に遺跡などがない山頂、山麓、水辺に埋められている。
深さ1m程度で周囲には細砂や黒っぽい黄土を詰めている
春秋戦国の「楚」はこの風習を引き継いでいるようで、山東省泰安(泰山南方)でも類似風習がある。

参考図 騎馬文化の造形
さて、?(テン)王国の馬、造形的には小型にみえます。
漢より早い時代に馬に乗っている可能性あり。
(鐙アブミが中国で登場は西晋時代でまずは片側のみ、馬に乗り降りするときのためとみえる)

さーて、列島に馬がもたらされたとするなら、いつ、どこからなんの目的で・・
運ぶ手段は双胴船なら可能と思います。
沖縄に双胴サバニあり(フィリピンまで漁に出ていたそうな、海洋博での情報だったと思うけど)

南西諸島で馬が必要だったか??
南九州で縄文末期に馬が必要だったか??
わかりませーん(^^;






[11913] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月13日(火)21時19分
とみたさんへのお返事です。


魏志韓伝高句麗に
其国東有大穴、名隧穴、十月国中大會迎隧神還於国東上祭之、置木隧於神座

高句麗の東とは日本海、そこにある隧穴とは鬱陵島のこととみています。
(鬱陵島には洞窟がたくさんあって観光地になっている)
参考図 半島と日本海概略図
いつの頃かはなんとも言い難しですが、鬱陵島が日本海の海人の拠点になっていたと考えています。
(ちなみに10月は始皇帝が年始としている、出雲では神在月)

海流や季節風などがどうかはありますが、島根−隠岐−竹島−鬱陵島−半島東海岸(??)の航路は十分あり得ると思います。
鬱陵島あたりで荷物の受け渡しをしたかもしれない。
半島東海岸なら「倭国の見張り」は及ばず、その点で安心。

魏志韓伝の弁辰にて、国出鉄、韓?倭皆従取之、諸市買皆用鉄・・
韓、?(ワイ)、倭、は名指し(韓は馬韓や辰韓と思う、要は伽耶周辺国)。
伽耶から入手できなくても?からなら入手可能(後に高句麗支配下)。
出雲側の対価はなにか、穀物でなんとかなったのではなかろうか。
ま、足下をみられて法外な値段をふっかけられたと思うけど(すなわち国内の鉄資源の探査)。


考古学での弥生前期とか中期というのは「そう規定する」の意で絶対年代じゃない。
また考古学は「物の歴史」どまりで「人の歴史」にはならないのが苦しい(記紀などとのジョイントがない)。
(絶対年代ではないので、離れた場所での事象とのリンクも取りにくい、各地域での編年とのずれ)

持論では土器編年など相対年代ではなく、絶対年代で考えています。
マーカーは箕子朝鮮崩壊BC194(素戔鳴)と呉楚七国の乱BC154(天之忍穂耳)です。
これ以降では記紀などに書かれる系譜(人脈)と書紀年代の復元をすりあわせて絶対年代を構成しています。

したがって、素戔鳴と天之忍穂耳の仮定が間違っていれば崩壊します(^^;
いまのところ崩壊はないですけど(^^)

四隅突出墓は弥生中期以降とされますが、持論では大国主以降(AD30頃以降)なんてことになります。
大風呂南(その周辺=若狭)は大国主の国譲り以降の神武朝時代に樂浪と交易。
奈良出雲陥落AD239以降で若狭の氏族は「天孫」に恭順して古墳時代に入る(ガラス釧は首長の伝世品を副葬とみる)。
そんな流れとなります。
(ただし・・恭順に不満を持つ人物もいた、彦坐王の子の沙本毘古王の反乱ですね)

自慢は「人の歴史」を10年程度の誤差範囲で考えることができること。
物語を作ることができる、でもあります。
ただし絶対年代のマーカーがない素戔鳴以前では、自然環境や春秋戦国からの避難者、といった程度の仮定しかできないのでおおざっぱになります。
縄文になると、アカホヤ火山灰など地質年代がベースになるので少なくとも数百年以上の誤差になります。

年輪年代法はミスさえなければ絶対に近いけれど、土器の焼成年代を50年程度の誤差で判定できるようになることを期待しています。






[11912] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月13日(火)19時36分
神奈備さんへのお返事です。

> 3.住吉三神の住吉への鎮座三題
>
> 『日本書紀』 神功皇后元年
>  表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて曰く。吾が和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながを)に居さしむべし。そうすると徃來する船を見守ることができる。そこで、神の教えのままに鎭坐していただいた。
>

こんばんわ。いつも楽しく拝読しています。
ちょうど、熊襲の征伐命令を出した時ですね。

そうすると、住吉三神は日向の橘におられたのですよね。
現在の宮崎の住吉神社の創建ということに。。。

この住吉神社ですが、橘三喜が参詣した時は
日向大地震の後で、社殿は流失していたようです。
以前、父と参拝した時
宮司さんが、古文書が流失して由来が判らないのですよ。
と残念がっておられました。

住吉大社と島津忠久  そして 何の因果か「熊襲」と
繋がるとは。。。

歴史は摩訶不思議。。

だから面白くて止められない。



[11911] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月12日(月)03時43分
かたばみさんへのお返事です。

ご丁重に長文で
ご教示頂いて感謝致します。


馬の情報について
平成10年頃でしたか、
当地の「初午祭り」関係で
少々調べました。
一応、当地の情報をお知らせ致します。


○ご指摘のように南西諸島では交配もあって
在来種は無くなったようです。


○開聞岳の野生馬「トカラ馬」に関しては説明板に

南西諸島の一つ中ノ島に共生して
農耕らに従事していた在来種。
農業の近代化で役目を終わり
昭和39年ここへ移された。

とあります。


ご指摘のように、日本の在来種として
北海道・根室市の無人島ユルリ島と
對馬馬として長崎の對馬に居るようですが
詳細は判りません。


○出水貝塚の馬について


☆縄文早期及び中期から, 後期の中葉に及ぶ遺跡
  馬遺物は後期に出土

☆馬は矮小であつて, トカラ馬と大さ殆んど等しく,
  体高110cm前後と考えられる.

☆飼育馬の埋葬

とあります。


「貝塚」としてのイメージは、
中学生の頃の社会科以来「ゴミ捨て場」でしたが、、

縄文時代は「神聖な場所」でもあったようで
目から鱗でした。

結構、丁重に埋葬されていたようで
祭祀道具の欠片も出土していたとか。。

垂水市の縄文犬に関してもしかり。。

当地には「縄文貝塚」や「遺跡」が
多数あるのですよ。
幼い頃は結構土器片もあったのですが、、
当時にタイムスリップしたいものです。
(平成に帰郷してから知ったのです。
当時は単なる土器片としか。。。)

また、戦国時代の馬は小さかったと聞いています。
なんでも今のポニー程度とか。。
そう言えば、担いでいる挿絵を見たような。。。
現に当地の中世の磐城の「切通」は、一応馬が通ったようです。
そう幅広ではありません。
当初はこんな狭い処をと思ってましたが。。。

どこかに剥製でもあると嬉しいですが。。


ここで、馬具の鉄鋳造らについて知識を頂きましたので
今後の精査の糧にしたいと存じます。
ありがとうございます。





[11911] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月11日(日)23時38分
今井よりさんへのお返事です。

>出水貝塚から縄文早期〜中期 で出土しています

参考図 アジアの小型中型馬の分布 日本古代文化の探求/馬/社会思想社/森浩一編集

トカラの馬は東南アジア系の小型馬の流れとみえます。
奄美〜八重山の小型種は現在では交雑して古形はないらしい。
森浩一氏は出土物には攪乱されている場合があるので要注意と述べられています(食糧とされた骨が埋めらるなどですね)。

時重初熊(獣医学者)が分類した記録1889だと
重馬:南部馬、秋田馬、華岡馬(場所不詳)
中馬 仙台馬、三春馬(たぶん福島県)、最上馬、蝦夷馬
軽馬 鹿児島馬
小馬 沖縄馬 隠岐馬 土佐馬 五島馬 対馬馬

この時代では列島では在来馬だけらしい。
隠岐にあるのが興味深い。離島ゆえに残ったのだと思います。
小型馬を運んだのは南西諸島系海人じゃないか。東シナ海系海人ではないとみるところ。
弥生の北九州の甕棺には大量の副葬品がありますが、馬関連の出土はひとつもないからです。
(甕棺=出雲系譜かつ大己貴系(東シナ海系)のもの、とみています。きっぱり(^^; )

半島南岸にも小型がある、この馬は神武朝が怪しい。神武北上で小型馬が荷駄を背負って随伴・・
対馬の弥生後期では車馬具や馬鐸出土ですが、騎馬に使われた様子はありません。

魏志倭人伝には牛馬なしとある。食べられてしまったのだと思ってます、マジです(^^;
倭人伝に末廬国から伊都国に至る道は草ぼうぼうで前が見えないとあります。倭国の表玄関の道が、です(AD240頃か)。
倭国が疲弊して草刈りすらできない状況だったのだと考えています。
寒冷化による食糧不足に加えて、卑弥呼による九州以東への出兵による疲弊。
飢饉多発で牛馬を飼育するゆとりなどなくなっていたとみるところ(新羅本紀に倭人が飢饉で逃げてきた193などあり)。
参考図 気候変化概略 安田喜憲の花粉分析などによる

素戔鳴の起源とみる箕子朝鮮〜BC194には車馬具出土、ただし騎馬はみあたらない。
書紀神話に素戔鳴が馬を機織り小屋に投げ込む話があります。
もし、素戔鳴が馬(中型のモンゴル馬)を運んでいても、大切な動物のはずでそんなことはしないでしょう、書紀の創作とみます。

文献で確実なところでは応神紀に百済王が馬二匹を送っています。
古事記では照古王とあるので、おそらくは近肖古王346−374で、七支刀369と同時じゃないかな。
高句麗系の中型馬だろうと思います。小型馬じゃ高句麗の重装騎兵は無理でしょう。








[11910] Re: 弥生の鉄器と馬 とみた 投稿日:2016年 9月11日(日)19時53分
かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
>
> もう少し情報がほしいところです。

かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。



私は、考古学中心で考え、それが記紀、史記などの文献との接点を従として見る立場です。
歴博の報告書で鉄の論考は一応目を通しております。

弥生時代は500年も遡りましたが、揺り戻しもあり、ただいまの年代観は
弥生時代前期末はbc300−350年。
中期初頭はbc250年
中期後葉はbc108年(前漢武帝の楽浪郡成立)、
後期初頭は紀元0年
後期後葉は紀元150年
終末期前半(庄内式古式)紀元後190年〜
終末期後半(庄内式新式)紀元後220年〜
古墳時代初頭 紀元後250年

と考えています。

鉄は燕の時代の鋳造鉄斧が北部九州に入るのが、戦国時代から前漢時代でしょう。
韓半島の南東部の蔚山達川里に鉄鉱山が見つかりましたのが須玖U式土器(中期後半)ですが、まだ鋳造鉄斧を作る技術はなく、楽浪郡の技術(鋳型が出ている)を使われています。釜山の東莱莱城や泗川勒島では鍛造鍛治工房がありそこからは紀元前後に既に鉄の素材を日本に入れていたようです。

本格的には紀元後2世紀に慶州の隍城洞で断面梯形鋳造鉄斧が作られるようになりました。
日本にも輸出するようになりました。
北部九州の福岡の三苫永浦では袋状の鉄斧の一つである有帯鉄斧が作られ始め熊本などを皮切りに全国に広がります。

私のささやかな知識です。
丹後の大風呂南墳墓は弥生時代後期後半とされその前の弥生前期・中期には、三坂や左坂で勢力を張る族がいます。
赤坂今井墳墓は大風呂南の後で後期末か終末期のものですね。


> 田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。

> 交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。
> もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。
> ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。


北部九州ルートでなく響灘経由のルートがあるような気がしますが、自信がありません。
対馬と日本海岸を結ぶルートがあれば出雲と丹後への鉄のルートが肯定できますが。

北部九州の土器(海上運搬具)が西出雲の山持遺跡や古志本郷遺跡に出たり東出雲の隠岐に出たりしているので、北部九州経由も十分あり得ます。

韓国直通と北部九州経由の両建のルートを持っていたのでしょうね。

いずれにせよ楽浪土器と三韓土器の出土地の分析が必要だと思います。



[11909] Re: 「○○タラシ」 今井より 投稿日:2016年 9月11日(日)12時16分
福島雅彦さんへのお返事です。

> ※「狗奴國」=「高(氏)ン國」と認識しています。
> ・「高句麗」建国王「朱蒙」の姓は「高氏」。「高句麗」=「高(氏)グル(仲間)」か、と。
> ・「高…」の姓は関連があるかも、と思います。

早速のご教示ありがとうございます。
これから関連付けて
また精査に勤しみます。

当地の「韓国岳」や「韓国宇豆峯」らの由来も
踏まえて精進致します。

☆16−9−1:韓国岳
古代に噴火で上部が吹き飛んでいます。
えびの高原側から望む
案外、ここから古代は朝鮮が見えたかも?
現在、長崎の普賢岳は時々、近くに見えます。

☆韓国宇豆峯神社
ここから剣神社を勧請しています。

☆居世神社(垂水市)
朝鮮王朝の始祖??








[11908] Re:「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月11日(日)11時56分
中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね。
 当時は推古天皇の代で女王であるはずなのに、これは不可解です。

 そこで琉球古語で「タラシ」を解釈すると、「たらす(誑す)」。。。これは「騙す」や「躊躇する」という意味で、中国側に気を使って、躊躇しながらもあえて騙したのではないかと考えてみました。
 現代日本語でも「女タラシ」とかあるわけで、当時の倭国のしたたかさの表れでしょうか?

 まあ、他の「タラシ彦」にもそういう性格があるのか精査してみないと何とも言えないのですが。。。



[11907] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月11日(日)11時56分
今井さんへのお返事です。

>「居住地に因んで名を賜う」

韓國===>>高原
改名していますが。

※「狗奴國」=「高(氏)ン國」と認識しています。
・「高句麗」建国王「朱蒙」の姓は「高氏」。「高句麗」=「高(氏)グル(仲間)」か、と。
・「高…」の姓は関連があるかも、と思います。



[11906] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月10日(土)13時36分
かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
>
> もう少し情報がほしいところです。


こんにちわ。

割り込みで恐縮です。


南九州の「馬」に関して

次にあります。

=====

『日本書紀』巻二二
推古天皇二十年(六一二)
正月丁亥《七》
◆廿年春正月辛巳朔丁亥。

置酒宴群卿。是日。大臣上壽。
歌曰。夜須彌志斯。
和餓於朋耆彌能。訶句理摩須。
阿摩能椰蘇訶礙。異泥多多須。
彌蘇羅烏彌禮麼。豫呂豆余珥。
訶句志茂餓茂。知余珥茂。
訶句志茂餓茂。
知余珥茂訶句志茂餓茂訶之胡彌弖。
兎伽陪摩都羅武。烏呂餓彌弖。
兎伽陪摩都羅武。宇多豆紀摩都流。

天皇和曰。
摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。

宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。

多智奈羅麼。句禮能摩差比。
宇倍之訶茂。

蘇餓能古羅烏。
於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳

====

===>>宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。

馬なら日向の駒


○また、発掘遺跡等に関しては
出水貝塚から
縄文早期〜中期 で出土しています。
トカラ午サイズだそうです。


○馬具は、近年、福岡の古賀市から
出土してますが、国内産かと
云ってましたがその後どうなったのでしょうか

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3440/1.html


○以前、お隣、宮崎県でも
宮崎市山崎町の
山崎下ノ原第1遺跡
金 銅 張 馬 具

===>>以前リンクしてたのですが
今日、検索でヒットしません。

○邪馬台国論争で有名な「西都原古墳」でも出土しています。


☆都井岬の日向駒
☆開聞岳のトカラ馬
☆当地のお祭り「初午踊り」





[11905] 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月 9日(金)19時28分
とみたさんへのお返事です。

>朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。

もう少し情報がほしいところです。
韓半島における初期鉄器の年代と特質
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185003.pdf

なぜかというと、持論にて大国主が九州を神武に譲ったのはAD30頃。
その後、綏靖、安寧、懿徳 92-105、までは神武朝であり、出雲との混合王朝であった、と考えているからです。
すなわち、この時代では出雲は伽耶や樂浪とも交易可能で、鉄の入手もできたと考えています。
田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。

出雲は大国主時代(紀元前後)では奈良の開発に成功し大発達中(唐古・鍵など)。
これあるゆえに大国主は九州を神武に譲った。
しかし対馬−伽耶の交易ルートを失うことは想定していなかった。
これをやったのが孝昭105-137、孝安137-175だと考えています。
北九州から出雲を排し半島との交易も遮断した(専有化する)。

困ったのは出雲文化圏、鉄器の使用は困難を極めるようになった。
黒姫山の褐鉄鉱や東北の餅鉄など必死の資源調達。
鉄器は錆びて消滅することもあるでしょうけれど、最後まで青銅剣を使わざるを得ず、武器の差=戦闘力の差は明白になっていたと考えています。
(開化225-248の奈良突入はせいぜいが数百人とみています、それでも制圧されてしまった)

交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。
もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。
ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。


古事記に八千矛神が馬に乗って歌を詠むシーンがあります(大国主や大己貴の別名になってるけど)。
鞍と鐙が登場、これが事実とすればこの馬はどこから入手?
魏志倭人伝では牛馬なしとある。
高句麗からだと考えています。

応神386-402頃では百済から騎馬を入手しているはずで、これが山陰経由で蝦夷に渡る可能性あり。
だが、ひょっとしてひょっとすると・・八千矛神の馬は応神の百済系の馬よりはるか昔に蝦夷に渡ったかもかも。
馬具は作れないが繁殖はできた。
南部馬はすでに消滅のようですが(北海道に残滓が残る)、高句麗の馬は残っているのかなあ。
DNA分析はいかに・・




[11904] Re: 「○○タラシ」 今井より 投稿日:2016年 9月 9日(金)09時14分
福島雅彦さんへのお返事です。

おはようございます。

早速のご教示ありがとうございます。

神社探訪を始めた頃

「保食神」の名称が各神社でまちまち
不思議に思ったものでした。

そして今度は江戸時代の史料らにも。

考えれば、昔は、文盲率が高かったわけで
神社仏閣の方々位が識者。。
お坊さんが重宝されたのも頷けます。


当地の苗字(姓)を暇に任せて
ピックアップしていて
ちょっと面白い現象を発見して
ついほくそえんでしまいました。


明治初期、平民苗字必称義務令で
苗字を名乗るようになります。

江戸時代、当地では「門割制度」があって
防災の要として威力を発揮したようです。

当地の場合、その集落の主に農民には
門割の字を付けたようです。
結構、重なる地域が多いのです。
ある集落は同姓が多くて
過疎地の場合は、皆親戚という処もあります。。

そう言えば、中世の頃にはこんなお話も。

=====

『続日本紀』巻■
延暦九年(七九〇)十一月壬申《十》◆壬申。

外從五位下韓國連源等言。
源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。
各因居地行事。別爲百八十氏。是以。

源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。
故改物部連。爲韓國連。
然則大連苗裔。是日本舊民。

今號韓國。還似三韓之新來。至於唱■。
毎驚人聽。因地賜姓。
古今通典。伏望。
改韓國二字。蒙賜高原。
依請許之。


=====

「居住地に因んで名を賜う」

韓國===>>高原
改名していますが。

ご多忙の処
ご教示ありがとうございます。




[11903] Re: 「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 8日(木)23時18分
今井さんへのお返事です。
お目に留めていただき多謝 謝々!

>鹿児島には、中世の「薩摩弁」の辞書がロシアに残っています。
「ゴンザ辞典」。。これで、当時の薩摩弁が判って楽しいです。

江戸末期の坂本龍馬が当地へ新婚旅行に来た折、
近くの「犬飼滝」(いぬかい だき)を
地元民は鹿児島弁で「いんけん だっ」と呼んでいます。
龍馬はそれに充てて「陰見滝」としています。

>===>>ある識者はこれは聴き違い、間違いと。

*これは、聞き間違いではなく其の様に聞こえたのです。

・筑後弁でも「犬=いん」と発音します。
・「飼=けェ」と訛ります。“kai”の母音の二重母音化?
・筑後弁でも「カイツブリ(水鳥)」⇒「けェツグロ」と訛ります。
・「飼の」の意の「の」=格助詞で「ン」に訛ります。
・「滝」=“tak”と閉音化して促音になった?
∴「犬飼の滝」=「いんけぇンだッ」と聞こえた、と。

*薩摩=“?”(sa)投馬(つま)國=南・投馬(つま)國。

・投馬國=“??”(tuma)國=双山国(直訳)=筑肥山地と「水縄連山(耳納山地)」の間の国。
・「對馬國」も同義⇒“??”(tuma)國=双山国(直訳)=上県郡・下県郡。

*鹿児島=土地の人は「かごンま」と。
・“????”(kagon-maeul)=「行った人の村」(直訳)=投馬國の飛び地、かと。

∴薩摩弁と筑後弁は親戚?

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。




[11902] Re: 「○○タラシ」 今井より 投稿日:2016年 9月 8日(木)20時01分
福島雅彦さんへのお返事です。

> かたばみさん、またまた横レス、失礼します。
>
> >後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。
>  帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。
>
> *倭王 「帥升」は、中国書記官の認識=“shuai−sheng”です。
> ・「倭人」が口述した音価に当て字しています。
> ・これは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=“??”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」であろうと思います。
> *「生口」160人の献上は、曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)からの製鉄技術者であろう、と。
> 時のハイテク産業で最高の贈り物です。
>
> *文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
>

興味深く拝読しています。

鹿児島には、中世の「薩摩弁」の辞書がロシアに残っています。
「ゴンザ辞典」。。これで、当時の薩摩弁が判って楽しいです。

江戸末期の坂本龍馬が当地へ新婚旅行に来た折、
近くの「犬飼滝」(いぬかい だき)を
地元民は鹿児島弁で「いんけん だっ」と呼んでいます。
龍馬はそれに充てて「陰見滝」としています。

===>>ある識者はこれは聴き違い、間違いと。


古代の言語も国際交流となると当て字が多いでしょうから
先生方のお話は勉強になります。




[11901] Re: 「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 8日(木)17時05分
かたばみさん、またまた横レス、失礼します。

>後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。
帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。

*倭王 「帥升」は、中国書記官の認識=“shuai−sheng”です。
・「倭人」が口述した音価に当て字しています。
・これは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=“??”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」であろうと思います。
*「生口」160人の献上は、曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)からの製鉄技術者であろう、と。
時のハイテク産業で最高の贈り物です。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。




[11900] Re:「○○タラシ」 琉球松 投稿日:2016年 9月 7日(水)09時30分
福島雅彦さん、かたばみさへ

 "裴世清は畿内には行っていない" のは、ありそうな話です。
 『魏志』の倭人伝さえ、陳寿は北部九州あたりを取材したに過ぎないかもしれませんね。
 いわゆる「邪馬台国」は、博多あたりのオジさんから聞いた噂をもとに書いたのかも。。。

 ところで、「タラシ」は7世紀初頭あたりではすでに尊称となっていると言うのもアリですね。
 もともと意味はあったはずなのに「足=たりる=十分で豊かな時代」などは、過去の天皇への諡号ですね。
 うがった見方をすれば。。。井沢元彦風に言うと "実はそんな時代ではなかったから" 祟りを恐れた後世の人が与えた名かもしれません(笑)

 あと、若干気になるのは「北」は「比」の誤写だとする説。。。これは同感なのですが、説としては「北狐=ペィコ(矛)」の可能性もありそうです。「銅矛」は北部九州や出雲の男王を擬人化したブランドでしょうか。



[11899] Re: 「○○タラシ」 かたばみ 投稿日:2016年 9月 7日(水)00時23分
琉球松さんへのお返事です。

>中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね

タラシ外伝ですね。
(隋書の多利思北狐は「北」と「比」の誤写だろうとみています)
新唐書に「用明亦曰目多利思比孤」もあります。
この時代では血脈は薄れて高級ブランド的タラシの尊称になっているかもしれないです。
また、タリシが発音に近いなら、この時代では「足りる」のイメージに近くなっている可能性もあり。

孝安137-175日本足彦国押人と天足彦国押人の流れに筑紫磐井がある、いまのところそう考えています。
書紀では懿徳 92-105−孝昭105-137−孝安137-175−孝霊175-204ですが、先代舊事本紀の天皇本紀ではいささか不可解。
懿徳−孝照−孝安−孝照−孝霊となっています。
「孝照」が二度登場、なんだこりゃ・・書紀のそれとは異なる情報を持っていることがうかがえます。
神武朝の終わりの時代であって、錯綜と混乱があるのでしょう。

後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。
帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。
神武朝に代わって新王朝が登場したことの報告でしょう。
位置はなんともいいにくいですが北九州ではあると思います。
神武朝が出雲との混合王朝であるのに対し、出雲を排した王朝。すなわち倭国争乱のはじまりです。

この流れが一方では日向宮崎の邪馬壹国へ(孝安137-175、卑弥呼、孝霊、孝元、開化225-248)。
もう一方が書紀にはでてこない北九州の天足彦国押人であり、旧事本紀が書くもうひとりの孝照でもあると考えています。
書紀が日本足彦国押人と天足彦国押人というそっくりの名を書くのには訳がある、といったところ。
その後の倭国争乱で天足彦国押人の系譜の記録は消滅かな。

筑紫磐井は天足彦国押人の末裔であり、おそらくは継体と同じく日本海系氏族(彦坐王)の流れも引く。
母系においては継体と筑紫磐井は縁戚者だと考えています。
で、欽明539-571は筑紫磐井の縁戚者(九州王)であって継体の子ではない。

以下用明585-586目多利思比孤(短命ではない、九州王)、多利思北狐(近畿王)と続くわけです。
敏達572-584は継体の子で近畿王、敏達死去して用明が近畿王兼務、用明に帯同した蘇我氏が物部氏を滅ぼす。
(物部滅亡によって敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できず)
で、書紀は推古と聖徳太子という創作を登場させるわけですが、また機会があれば・・





[11898] 十五夜 お月見 今井より 投稿日:2016年 9月 5日(月)16時05分
この15日は、鹿児島神宮の例祭「十五夜」です。

幼い頃から、春の「初午祭り」が
賑やかなので「例祭」かと思ってましたが、、

こちらが「例祭」なんですね。

いつからの祭事なのかちょっと勉強不足ですが、、
他の地方では、どのような祭事があるのでしょうか
興味津々です。

壱岐対馬には「十五夜相撲」があるようですね。
幼い頃は、河原で、すすきから注連縄を作って
相撲大会がありました。
結構強かったので賞品が楽しみでした。

御天気が良ければ、のんびりお月見をしたいものです。






[11897] 琉球松さま 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 5日(月)14時58分
ご高説を何時も興味深く拝読しています。
ご返信を賜り、多謝 謝々!

>中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね。
 当時は推古天皇の代で女王であるはずなのに、これは不可解です。

※私は、『日本書紀』が馬脚を現した部分だと観ています。

・即ち、『隋書』は九州皇統の「阿毎多利思比孤」に面会した、と。
・裴世清は畿内には行っていないのであろう、と観ています。




[11896] Re: 「○○タラシ」 初心者 投稿日:2016年 9月 5日(月)11時51分
福島雅彦さんへのお返事です。

> 横レス、失礼します。何時も興味深く拝読しています。
>
> ※この「○○タラシ」の初出は「天照大神」ではないかと、愚考します。
>
>    即ち、「阿毎」=「天(あま・あめ)」、「多利思」=「照」の事である。

ハングルについては、知識が全く及びませんが
>初出は「天照大神」ではないか
については、実は私も可能性を感じています。

>「多利思」=「照」
「多利思」については未考察ですが(全く頭が働きません)
 「照」=「帯」=「垂」の可能性についてのみ考えておりました。



[11895] タラシについて かたばみ 投稿日:2016年 9月 5日(月)09時43分
(たぶん皇極と斉明の天豐財重日足姫が最後)

訂正(^^;
元正715-723が日本根子高瑞浄足姫がタラシで(いまのところ)最後。
天武673-685の子の草壁皇子の子で日本根子と足を共有する女帝。

非九州系大王、継体507-530−安閑531-534−宣化535-538−敏達572-584−舒明629-641−天武673-685−(草壁皇子)−元正715-723。
持論では宣化−敏達に重なって、九州系の欽明539-571−用明(推古)があります。

myHP倭王五代〜聖徳太子〜壬申の乱シミュレート参照
皇極と元正、共通するのは敏達の子の押坂彦人大兄皇子。
敏達は継体(彦坐王系譜とみる)の子。

なにゆえ押坂彦人大兄皇子は(近畿王)敏達の後を継承できず、(書紀では)推古や聖徳太子が割り込んでくるのか。
物部氏が蘇我氏に滅ぼされて背景とする豪族を失ったからだとみています。
皇極も元正も古い祖先に彦坐王、あるいはずっと近くに継体の妃の尾張連の目子媛、が存在するという共通項があります。
パズルですね(^^;





[11894] 「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 5日(月)07時50分
横レス、失礼します。何時も興味深く拝読しています。

※この「○○タラシ」の初出は「天照大神」ではないかと、愚考します。

*「天照大神」=「天」は前述。(他のレジメ抜粋の為、後述)
・「照」=古代倭語“???”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。
・因みに高良大社の主祭神「高良・玉垂尊」=“?-?-?-??”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。
・「阿毎多利思比孤」=同伝で「大神」が「比弧(日子)」に置き換わっているだけ。
   即ち、「阿毎」=「天(あま・あめ)」、「多利思」=「照」の事である。

*「天(あま・あめ)」は⇒「高天原」=神々が居るところ、天上界を思わせる記述であるが…。「タカマガハラ」と読んでいては地上の場所は見つからない。「たか・あま ン ばル」と読むべきである。
 ・「高」は高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字、古代倭語で、“??-”(taka-)=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る(民衆書林・韓日辞典)]と、語幹を同じくする語彙である。
・「天(あ・ま)」は、前章の東の意と「ま・め」=膨れている、山の意の古語との合成。「(国の)東の聖なる山」(水源のある山)となる。
・「原=ばル」とは、“?”(beol)[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。従って、「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」と成る。
水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇いている。此地に「日向」の地名が現存している。「浮羽」も“???”(u-kil-beol)[旭日原]の語尾子音欠落清音化であり、「高天原=阿斯達」とも同義。

※「天照大神」=「天(あま・あめ)出自の大神」。

∴「○○タラシ」とは「○○出自」を謳っているのでは?

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。





[11893] Re: 生駒について かたばみ 投稿日:2016年 9月 4日(日)21時42分
>初心者さんへのお返事です。

>「帯」については、私の聞いたお話は、字ではなく「タラシという音」に注目されている印象でした。

名からの推測・・
崇神248-273の御間入彦五十瓊植、垂仁273-311の活目入彦五十狭茅、垂仁の兄弟の豊城入彦、豊鋤入姫など今度は「入」が続々と登場。
これは新しい土地に「入城」の意味だと考えています。すなわち出雲の勢力地だった奈良への入城。

孝昭105-137の子の孝安137-175はタラシですが、続く孝霊175-204、孝元204-225、開化225-248では日本根子に尊称に変わります。
(書紀は日本ヤマトと書き古事記は倭ヤマトと書く)
倭根子とは「倭を祖先とする子」の意とみています(出雲とは無関係を強調する)。
孝霊175-204で倭国争乱の本格化、卑弥呼の登場(新羅本紀173に、倭の女王卑弥呼の使者来訪、の記述あり)

開化では稚日本根子になっています。稚とは稚児、幼いの意でしょう。
幼いとは孝霊−孝元と続いた倭根子(倭国)とは異なる「新しい倭国」の誕生を意味すると考えています。
新しい土地に新しい倭国を作った人物の意、ゆえに「開化」でもあるわけです。

書紀が書いていない(隠蔽)した部分にも(意図的に)痕跡は残している。
(古事記では単なる当て字少なからず、逆に発音を類推できる)
彦坐王など王の呼称、大国主の主の呼称、このあたりにも意味があるはず。

タラシの場合も人脈を調べるといろいろでてきますね(たぶん皇極と斉明の天豐財重日足姫が最後)。
ま、書紀には用意周到と不注意が混在しているとみてますので落とし穴には東注意ではあります(^^;

[11892] Re: 生駒について かたばみ 投稿日:2016年 9月 4日(日)21時09分
大三元さんへのお返事です。

>多良斯」がタラシであろうからこれが初出ではないかと注目しています

遠津山岬多良斯神をいつ頃の人物とみるか、ですね。
大国主命の子の鳥鳴海神系譜の最後(8世孫)。
持論年代では大国主(国譲りAD30頃)から8世代でAD200〜250頃の人物とみるところです。
すなわち孝安137-175(日本足彦国押人)より100年近く新しい人物。


山陰の弥生の状況を考慮中ですが先行しまして・・
参考図1 弥生の土笛分布
土笛は弥生前期頃の出土です、おそらくは半島経由の春秋戦国からの避難民が運んだ(作った)と考えています。
いかにも漂着しそうな場所、しかし小規模遺跡だけです。

大国主が国譲りにて島根に引っ越し、AD30頃(弥生中期)。
弥生中期以前では山陰にはこれといった遺跡がない、土笛の漂着者であろう痕跡のみ(土井ヶ浜は有名ですけど)。

ところが、弥生中期以降に田和山、妻木晩田、青谷上寺地、大風呂南、の有力遺跡が登場します。
(田和山からは硯の破片出土、楽浪郡系とみられている。大風呂南ではガラス釧、これも楽浪郡とみられる)
これらの遺跡はなにか・・大国主の子等、特に鳥鳴海神系譜による開発だと考えています。
(神武朝、出雲との混合王朝時代では出雲も樂浪系文物の入手可能)

参考図2 妻木晩田遺跡の位置
これは異様ともいえます。集落全体が山の上にある高地性集落。
「なにか」から防御する、あるいは恐れる、だと思います。
北九州で経験した素戔鳴〜神武の戦闘、これを恐れた集落だと考えています。
参考図3 弥生北九州の戦死者(ただし残るは甕棺葬のみ、それ以外の戦死者ははるかに多いはず)
おそらくは黒どくろが素戔鳴時代、白どくろが神武時代の戦闘。

その東の青谷上寺地からは多数の殺傷痕の骨がでています。
この遺跡は平地でいまのところ環濠もみあたらない。
ゆえに女子供まで惨殺された。
妻木晩田では高地性集落が功を奏して避難できたのだろうと考えています。
どちらも消滅は古墳時代初期とされます。

大風呂南では戦闘痕跡はありません。
攻撃者は西から・・卑弥呼の侵略軍・・孝霊175-204以降かな(倭国争乱でもあります)。
出雲は防衛ラインを敷いた。
それが丹後半島から明石方面ライン(播磨の弥生街道)で、周辺に散在する兵主神社がその痕跡だと考えています。

鳥鳴海神系の最後の遠津山岬多良斯神は若狭。
ここで尾張からの天火明系末裔と結合した結果が「出雲の多良斯」だと考えています(AD200〜250頃か)。
その後は奈良が開化に制圧(AD239)されて以降の系譜は不明となる(おそらく彦坐王系譜にバトンタッチ)。
遠津山岬多良斯神のタラシは大国主(の末裔)と天火明(の末裔)が混じり合った痕跡だと考えています。


ただし、尾張連のタラシが孝昭105-137頃とすると、朝日遺跡が大発達している時代。
すなわち尾張は出雲文化圏に吸収されているはずで、尾張での天火明系譜と出雲系譜の結合からタラシが登場している可能性があります。
しかしそうなると、孝昭(九州)が尾張から妃を取る理由がみえてこないのです。
(ちなみに倭国争乱≒邪馬壹国近畿論は私的に論外に近いです(^^; )
記紀での人名がどこまで正確に伝承されているかがありますが、孝安137-175日本足彦国押人にタラシを用いる理由もみえてこないのです。








[11891] Re: 生駒について 初心者 投稿日:2016年 9月 4日(日)19時36分
大三元さんへのお返事です。

> 初心者さん
>
> > 世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。
>
> 古事記の出雲系図の最後に現れる
>  遠津山岬多良斯神
> の「多良斯」がタラシであろうからこれが初出ではないかと注目しています。
>
> この神が第6代孝安天皇「倭帯日子國押人」に当たるのではないか、と考えています。
>
> 詳しくは:http://www.dai3gen.net/izm_kssi.htm
> をご覧下さい。
>
ありがとうございます。タラシについては、いつかきちんと調べたいと思っておりました。
しかし、私の能力では、出雲系図には絶対に気付かなかったと思います。
勉強させて頂きます。
大三元さまのHPとは気付いておりませんでしたが、「鳥と船」の頁をお気に入りに登録していました。
古文献中の生物(動植物)と船に特に惹かれております。




[11890] Re: 生駒について 大三元 投稿日:2016年 9月 4日(日)15時17分
初心者さん

> 世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。

古事記の出雲系図の最後に現れる
 遠津山岬多良斯神
の「多良斯」がタラシであろうからこれが初出ではないかと注目しています。

この神が第6代孝安天皇「倭帯日子國押人」に当たるのではないか、と考えています。

詳しくは:http://www.dai3gen.net/izm_kssi.htm
をご覧下さい。




[11889] 豊玉姫と対馬 とみた 投稿日:2016年 9月 3日(土)14時45分
対馬は津島でたくさんの入江=津があります。港が開けています。
対馬は、北西部の三根湾、南島と北島の間の浅茅湾、東北部の比田勝、南島東側の厳原が時代によって栄えます。


西側の津は勒島や巨済島へ向かうルートでしょう。東北側の津は慶州や金海に向かうルートでしょう。

福岡大の武末純一先生によれば、弁辰の鉄は金官伽耶の茶戸里や慶州の隍城洞から出て対馬三根湾・山辺地区や壱岐のカラカミ(唐神)遺跡に入ったのではないかとのことです。

北部九州の奴国は中広形銅矛や広形銅矛を対馬にたくさん贈っています。
鉄がほしかったのでしょう。海上運搬には海神(綿津見神)族を使います。

対馬には海神を祀る豊玉姫縁のワタツミ神社がありここが安曇族の本拠なのでしょう。和多都見神社 - 長崎県対馬市豊玉鎮座
和多津美神社 (壱岐市) - 長崎県壱岐市郷ノ浦鎮座
和多津美神社 (豊玉町) - 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮鎮座

玄界灘の入り口=奴国の玄関口の志賀島にも豊玉神をまつる志賀島神社がある。


朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
播磨の大平遺跡にこの鉄斧が伝わります。播磨一ノ宮のある揖保川流域です。ここが竜野です。
ここは伊和神社があり、出雲系鉄神と伽耶・新羅系鉄族の天日矛が争います。

かたばみさんによれば兵主神社が多いところだそうです。

出雲街道が米子から新見ー津山を経て佐用を通り、竜野を経由しますし、鳥取市因幡の千代川を遡れば竜野にもこれます。

銅鐸の兵庫県宍粟市一ノ宮の閏(ウルウ)賀銅鐸が発見されたところです。

この銅鐸は神戸市桜ヶ丘8号銅鐸が祖先です。

竜野の名前の由来はどうでしょうか。

豊玉姫は龍伝説を持っています。

竜野は東出雲の祖である野見宿禰が亡くなった地であり、宿禰神社があります。





[11888] Re: 生駒について 初心者 投稿日:2016年 9月 3日(土)09時40分
かたばみさんへのお返事です。

先日も船についてレスをいただいたのですが、私がかたばみさまに釣り合う知識もなく
お返事できずにすみませんでした。

> 初心者さんへのお返事です。
>
> >「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説
>
> もう少し掘り下げてみたいところです。
> タラシを遡れば孝昭105-137の子の、天足彦国押人と孝安137-175の日本足彦国押人があります。
> (数字は持論による即位年代)
> 二人は天と日本が異なるだけで同じ、なにかあると思ってますが、思ってるだけ(^^;
>
> 二人の母は尾張連の祖の娘(妹)の世襲足姫(たぶんタラシの初出)。
> 尾張連の祖は天火明命。旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
> 「足タラシ」の本来は「帯」だと考えています。帯の結び方などに特徴ある氏族じゃないか。

世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。
個人的に「襲」の字のつく人物に興味があるので、「襲」とタラシのコラボはワクワクします。

「帯」については、私の聞いたお話は、字ではなく「タラシという音」に注目されている印象でした。
「垂」表記についてもいわれていましたが、なにしろ、雑談でしたので。
でも、帯の結び方と言えば、影姫とシビの悲恋の記紀歌謡を思い出します。
「大君の 御帯の倭文幡 結び垂れ 誰やし人も相思わなくに」
武烈天皇は残念ながらタラシはつきませんし、全く関係のないレスですみません。
これからも、色々とご教示下さいませ。




[11887] Re: 生駒について かたばみ 投稿日:2016年 9月 2日(金)20時42分
続きの持論:

天孫降臨は二人で2ヶ所。瓊々杵は九州西海岸、天火明は東海岸。
天火明は尾張(濃尾)へ進出(旧事本紀)。
そのとき随伴した複数の人々が物部氏の祖。
多くが海運者、その他は手工業者と武人。物部氏の祖は単一の人物ではないと考えています。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命・・
饒速日と称する場合は後の大豪族となった物部氏が「祖を高貴なる人」とするために天火明と重ねたものとみています。
天火明(彦火明)とする場合は天孫の天火明を意味する、と解しています。

書紀が神武東征説話で天磐船と神宝を書きながらもも「饒速日という謎の人物」としているのは、神武以前に東国に天孫が存在していては神武東征説話が成立しなくなるからに他ならず。
ウエツフミ36綴7章でも饒速日を火明命であり天之忍穂耳の子と明示、臼杵の河内山に天降としています。
(臼杵ウスキが大分県の臼杵かどうかは? 河内山は熊本など各地にあり)

さて、天火明の降臨はBC130頃とみています(素戔鳴と天之忍穂耳の渡来理由からの逆算)。
孝昭105-137(九州東岸と推定)とはおおよそ250年ほどの差、この間に神武と出雲のありようの問題がありますが、略。

天火明の子孫の尾張の世襲足姫が孝昭に嫁いで、天足彦国押人と日本足彦国押人を生む。
神武 36- 66〜懿徳 92-105は出雲との混合王朝であり、孝昭105-137に天孫降臨時代の天火明の系譜に戻す意図があったと考えています。
(その後の孝霊175-204、孝元、開化は「倭根子」(倭の祖先と解す)の尊称に変わります)
倭国争乱の始まり(北九州)でもあり、卑弥呼登場でもあります(日向宮崎)。

さて、ここまでの流れに世襲足姫に海人の意味があるとすれば、物部氏でしょう。
すなわち「足」とは天火明の子孫尾張連に発するもので、それが若狭に継承されたと考えています。
(尾張では奈良の出雲勢力下で消えたと見る、朝日遺跡などの変化)

若狭の日本海系氏族(大風呂南遺跡など)、記紀にみえてくる人物では彦坐王(ヒコイマス、母は意祁都比賣)。
(天足彦国押人−彦姥津命−姥津姫(意祁津姫、彦坐王の母とされる)

ここで書紀は彦坐王を開化225-248の子としてますけど・・大嘘とみてます(^^;
意祁津姫あたりで開化に彦坐王をはめこんだだけ。
「意祁」が海人系譜を示すと考えています。
すなわち若狭で「足」「帯」天火明系と「意祁」日本海系海人が結合した・・

下って継体507-530の妃に尾張連の娘の目子媛があり、安閑宣化の母とされる(持論では敏達も同じくとみる)。
これも尾張と若狭の結合あるゆえの嫁取りだと考えています。

彦坐王の孫の日葉酢姫と垂仁273-311の子が景行311-333で「足」。
足(帯)タラシだけの場合は天火明の末裔(尾張−若狭)の流れを意識した用法だろうと考えています。
「意祁≒気長≒息長」の場合が海人系を意味する(隠岐、壱岐も意祁からの変化とみる)。

神功皇后説話の息長帯比売はおそらくは実在で若狭だとみています(彦坐王のひ孫)。
すなわち息長(海人)と帯(天火明)の結合氏族の子孫。
ただし、神功皇后説話は記紀の創作であって、女帝まがいの皇后(神功360-386)は存在しないと考えています。
応神は仲哀の子とされますが・・これも嘘とみてます。七支刀369の銘文の倭王旨と「若狭のだれか」の子・・倭王五代へ。

神功皇后説話で浮上するのが住吉三神。
伊弉諾尊の禊ぎで、海面、海中、海底からうまれたとされますが・・
弥生初期以降での日本海(底)、瀬戸内(中)、太平洋(表)の海人を意味すると考えています(底と表は逆かもしれない)。
(縄文にまで遡れば大綿津見神、ここからの分化でもあります)




[11886] Re: 生駒について かたばみ 投稿日:2016年 9月 2日(金)20時35分
初心者さんへのお返事です。

>「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説

もう少し掘り下げてみたいところです。
タラシを遡れば孝昭105-137の子の、天足彦国押人と孝安137-175の日本足彦国押人があります。
(数字は持論による即位年代)
二人は天と日本が異なるだけで同じ、なにかあると思ってますが、思ってるだけ(^^;

二人の母は尾張連の祖の娘(妹)の世襲足姫(たぶんタラシの初出)。
尾張連の祖は天火明命。旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
「足タラシ」の本来は「帯」だと考えています。帯の結び方などに特徴ある氏族じゃないか。

確定できるような物証はありませんから、いろいろな方面からの複合になるので、以下毎度長文になります。

籠神社(真名井神社/豊受大神、若狭湾)による海部氏系図では始祖を彦火明命とする。
勘注系図参照
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
(天火明と饒速日の解釈が私とはちょっと違いますけれど)

籠神社の縁起は天火明の子孫が尾張から関ヶ原、琵琶湖を経て若狭に進出したことによるとみています。
物部氏の奉斎を受けてなにがしかの変化をしたのが現在の籠神社だと考えています。
(物部のうちの海人を濃くする、すなわち海部でもある)

応神386-402の名前の交換の気比神宮(気比大神/御食津神)も若狭湾にある。
日本武命ヤマトタケル−息長田別王−杙俣長日子王−息長真若中比売と弟媛(どちらも応神の妃となる)、
景行311-333の子は「無数」にいます。婚姻による各地の豪族と融和するのが目的と考えています。
ヤマトタケルもそれを継承、ひ孫の息長真若中比売の「息長」はその結果だと考えています、日本海系氏族(海人)との結合です。

気比神宮も籠神社に同じく物部氏の奉斎の流れにあると考えています(気比大神/古事記、笥飯大神/書紀)。
気比は書紀の表記の「笥飯」が本来を示すと推定、食糧をいれる竹製の器(四角?)ですね。
籠神社の籠と同じ、こちらは円形で魚介類メインか、神紋はカゴメ紋)。
どちらも手工業製品です、すなわち「物の部」が関与していた社とみています(加えて海人としての物部→海部)。
ただし、こちらは記紀の神功皇后説話(息長帯比売)によって有名となり、記紀内容に準じた変化が大きいとみています。

気比神宮の北に剣神社があります(素戔鳴尊、気比大神)。
おそらく籠神社や気比神宮と同列の社。
下って織田信長の祖先は剣神社の神官という論がありますが妥当とみています(尾張と若狭のつながりを示す)。

剣の呼称がいつからかわかりませんが武人にからみそう。
旧事本紀/天神本紀に降臨に随伴する人物が多数書かれますが、「兵杖を帯びる者」は武人でしょう。
稲荷山鉄剣の「杖刀人」も同じと思います(雄略456-489時代での表現か)。
天火明の随伴者の物部(海人、手工業者、武人)のうちの武人の奉斎を受けたのが剣神社の由来かもしれない。





[11885] Re: 生駒について 初心者 投稿日:2016年 8月30日(火)20時20分
神奈備さんへのお返事です。

> 初心者さんへのお返事です。
>
> 異名同神はいろいろあり、興味深いところもありますが、これは風聞とあえてことわっている所から、あまり真剣に考える問題ではないかもしれませんね。紹介しておいて、無責任なことで、申し訳ない。

とんでもありません。興味深いです。


> 前田晴人さんは、住吉三神として、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇をあげていました。ともに、「足」 と「彦」が共通の連続した天皇達で、第四殿が仲哀の皇后である神功皇后であることも傍証になっているのかも。
>
>  これも、お話しとしては、面白いのですが、果たして・・・どう思います。

神功皇后もタラシヒメですから、全員「足」がつくというわけですね。
ヒメはヒコと対の言葉ですし。
「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説を聞いたことがあるので、
それを思い出しました。



[11884] 生駒について 神奈備 投稿日:2016年 8月25日(木)19時32分
河内の平石に磐船大神社と言う磐座が点在する神社があります。近くに高貴寺があり、神仏習合時は寺の鎮守であったようです。この高貴寺に伝わる『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。住吉三神の一柱である底筒男命とは物部の遠祖である饒速日尊であると言う内容です。



[11883] Re: 奄美の「あいのこ」 今井より 投稿日:2016年 8月22日(月)13時02分
琉球松さんへのお返事です。

>  奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
>  これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。

> 画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」

船の写真ありがとうございます。
小学校の登校路には川(新川・天降川)があって渡し舟でした。
当時渡し銭は5円でした。橋を渡ると3倍以上の周り道なのです。
往路は、良く遅刻しそうになるので重宝してました。
川船ですから、底も平だったように記憶してます。




[11882] 奄美の「あいのこ」 琉球松 投稿日:2016年 8月22日(月)09時28分
奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
 これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。
 見た目にはサバニとよく似ていますが、和船の安定性とサバニの直進走行性能がうまく合体されています。

 ちなみに、近隣の喜界島や沖永良部&与論は沖縄糸満や久高島漁師の影響が強いと言われ、サバニが利用されてきました。名称についてはジャワ島などの「サンバニャン(船の意味)」や、「鯖船」など諸説あります。

画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」





[11881] Re: 建御名方の科野への敗走 今井より 投稿日:2016年 8月19日(金)16時14分
かたばみさんへのお返事です。

早速のご教示ありがとうございます。

>
> >此伊勢津彦と云は建御名方神の亦名にて
> >即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
> >事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
> >傳への誤なるべし。
>
> 本居宣長さんの見当違いと(^^; ほぼ正しい、の複合だと思います。
> いつ、どこで、だれが、なにをしたか、これを混濁して記紀(付随して風土記)を解釈していることに原因ありと思います。

もう少し解釈を読んでみます。


>
> 南九州に建御名方あるいは諏訪社がある不思議、私もなぜ?の疑問を持っていました。
> 韓国宇豆峯神社にからむ可能性はありますが、南九州でのその登場はずっと近世の事象とみております。
> 島津氏の登場にからむ、荘園時代〜鎌倉時代。
> 島津氏には信濃島津氏があります。

吾妻鏡 巻七

文治3年 丁未(1187)
8月8日 丙子


に記載があります。

神代と異なり、この時代なら史資料があるから
助かります。


また、当地の「島津家文書」にも
尚、私の頁をご参照ください。

http://yorihime3.net/mado/shimazu_suwa.html




>
> 持論
> 建御名方はいつの時代の人物か・・大国主の子であると仮定すればAD30頃。
> なにゆえ諏訪へいったのか、ほぼ追放(^^;
> 大国主の穏健政策(神武への国譲り)に反対して徹底抗戦しようとしたから。
>
> 出雲の神在月に建御名方はやってこない。諏訪をでることを禁じられていたから、追放者だから。
> 建御名方はどこにいたのか。周防と推定しています。
> スハ、州波が原型であり、諏訪の地名はここからきていると考えています。

追放者でしょうね。

其の後、隼人や蝦夷も朝廷と抗戦し
多数配流されていますが
激しく抗戦した首領は、見せしめの公開処刑を。

その点、建御名方は救われてますね。

ご多忙の処ありがとうございます。



[11880]Re: 建御名方の科野への敗走神奈備 投稿日:2016年 8月19日(金)16時09分
今井よりさんへのお返事です。


 、『播磨国風土記』揖保郡条によの伊勢野の話 山麓に神社を建て、「山上の峰にいる伊和大神の御子である伊勢都比古の命と伊勢都比売とを祀った。」との記事があります。伊和大神とは伊和神社の神で、延喜式では、伊和坐大名持御魂神社と言う名の神社で、これは伊和狼と大名持御魂神とは同じ神と言っていることになり。伊勢都比古と出雲建子神が同じ神ということで、建御名方神と等しいように取れます。
 ただ、伊勢国の伊勢津彦は「大風四起,扇舉波瀾.光曜如日,」の状態で伊勢を去っており、この姿には、日神・風神の姿が浮かびます。
 信濃の建御名方神に、日神のイメージよりは蛇神のイメージに思えます。

 いつも思うのですが、名前の大きく違う神々を同じ神だと見なすのは、野次馬的には面白いのですが、信仰されておられる方々には迷惑な話かもしれません。





[11879]Re: 建御名方の科野への敗走かたばみ 投稿日:2016年 8月19日(金)15時46分
今井よりさんへのお返事です。

>薩摩藩には多数の諏訪神社が鎮座しています

>此伊勢津彦と云は建御名方神の亦名にて
>即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
>事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
>傳への誤なるべし。

本居宣長さんの見当違いと(^^; ほぼ正しい、の複合だと思います。
いつ、どこで、だれが、なにをしたか、これを混濁して記紀(付随して風土記)を解釈していることに原因ありと思います。

南九州に建御名方あるいは諏訪社がある不思議、私もなぜ?の疑問を持っていました。
韓国宇豆峯神社にからむ可能性はありますが、南九州でのその登場はずっと近世の事象とみております。
島津氏の登場にからむ、荘園時代〜鎌倉時代。
島津氏には信濃島津氏があります。

持論
建御名方はいつの時代の人物か・・大国主の子であると仮定すればAD30頃。
なにゆえ諏訪へいったのか、ほぼ追放(^^;
大国主の穏健政策(神武への国譲り)に反対して徹底抗戦しようとしたから。

出雲の神在月に建御名方はやってこない。諏訪をでることを禁じられていたから、追放者だから。
建御名方はどこにいたのか。周防と推定しています。
スハ、州波が原型であり、諏訪の地名はここからきていると考えています。

淳名河比賣(奴奈川媛)は大国主の妃とされますが、その場所は?
糸魚川周辺に淳名河比賣があるようですが、後世での大己貴の別名表記による錯綜とみています(このあたりは後日)。
大己貴の子である可能性もなくはないけれど、この時代(BC170頃)では諏訪へ移動する理由がない。

綏靖/淳名川耳、淳名はどこにでもある汎用の地名でしょう。
年代的に位置的に、神武の子の綏靖は北九州の淳名川の生まれかもしれない。
大国主の妃の淳名河比賣の出自と同郷かもしれない(神武と大国主はほぼ同時代)。

いつ、どこで、だれが、なにをしたか、記紀の記述をどこまで信じるか、ですね。
古事記の書く武甕槌に敗れて諏訪へ逃げた、という「事象」には源があるけれど、というわけです。
(武甕槌は書紀の創作とみています、天孫系譜の本来の武神は手力雄だとみています)

myHPの別図に近津社と日本武の図をおいておきます(暫定)。
諏訪の建御名方は関東において重要な役割をしていると考えています。
建御名方の子とされる千鹿頭の行動です。建御名方と諏訪縄文の子。
洩矢神=諏訪縄文≒ミシャグチ神。
当初はやってきた建御名方と抗争したのが洩矢神、後に和睦(諏訪の神官の守屋氏へ)。

糸魚川河口の縄文の寺地遺跡に環状木柱列があります。諏訪の御柱に直結する縄文の森林信仰と考えています。
(おそらく三内丸山の巨木柱も同じでしょう)
諏訪の北東に和田峠遺跡があります。黒曜石の大産地です。
縄文ではこれを中心に各地と交易していたと思います(伊豆七島の神津島も黒曜石の大産地)。
糸魚川の翡翠もむろんです。

弥生では黒姫山の褐鉄鉱。海人の安曇氏の資源探査で発見と推定(BC100以降か)。
これが穂高や安曇の地名由来となる(穂高神社にお船祭りあり)。
建御名方が諏訪に「追放」となったのは、鉄資源を含めてのことであり、単なる追放じゃないとみています。
(諏訪氏の起源にも注目)
蛇/ものと人間の文化史32で吉野裕子さんがミシャグチは黒姫山の褐鉄鉱の赤い川を意味するとされてます。


さて伊勢津彦が諏訪へ脱出したのはいつか。
可能性は天火明の尾張への到着時BC130頃か、「開化東征」での奈良出雲制圧時AD239でしょう。
天火明時代では諏訪は縄文の人ばかりでちと無理がある(逃げるなら東海あたりのほうがずっと良いでしょう)。

鎌倉時代、頼朝が関東で挙兵する。
このとき、関東一円に存在する近津社(千鹿頭)の信仰に注目しないはずはない(氷川社含む)。
近津社の起源の地、諏訪を味方につければ関東一円を味方にするのに同じ。
信濃島津氏の源流はここにありとみています。
ひょっとすると薩摩の島津氏より古い起源を持つ。
南九州に建御名方や諏訪社が少なからずあるのはこれにあると、今は考えています。





[11878]Re: 建御名方の科野への敗走今井より 投稿日:2016年 8月19日(金)09時24分
神奈備さんへのお返事です。


伊勢國風土記逸文 に

次のような記述があります。

======

伊勢國風土記逸文

伊勢國號 [其一]
 [伊勢國風土記云]
 夫伊勢國者,天御中主尊之十二世孫-天日別命之所平.
 始,天日別命,神倭磐余?天皇,自彼西宮,征此東州之時,
相隨天皇到紀伊國熊野村.于時,隨金烏之導,入中州而到於菟田下縣.天皇敕大部日臣命:
「逆黨膽駒長髓,宜早征罰.」亦敕天日別命曰:「國有天津之方.宜平其國.」即賜標釼.
 天日別命,奉敕,東入數百里,其邑有神,名曰-伊勢津?.天日別命問曰:
「汝國獻於天孫哉?」答曰:「吾覓此國,居住日久.不敢聞命矣.」
天日別命,發兵欲戮其神.于時,畏伏?云:「吾國悉獻於天孫,吾不敢居矣.」
天日別命令問云:「汝之去時,何以為驗?」?云:
「吾以今夜,起八風吹海水,乘波浪將東入.此則吾之卻由也.」
天日別命,令整兵窺之.比及中夜,大風四起,扇舉波瀾.光曜如日,
陸國海共朗.遂乘波而東焉.古語云:「神風伊勢國,常世浪寄國.」者,蓋此謂之也.


伊勢津?神,逃令來往信濃國.


 天日別命,懷柔此國,復命天皇.天皇大歡詔曰:
「國宜取國神之名,號-伊勢.」即為天日別命之封地國,
賜宅地于大倭耳梨之村焉.
 或本云,天日別命,奉詔,自熊野村直入伊勢國,殺戮荒神,
罰平不遵,堺山川定地邑.然後,復命橿原宮焉.
 譯註:標釼者,象?天皇之劍也.天皇雖不與天日別命同往,
而賜標釼,示以統帥之職委其命也.



底本?冷泉家本『万葉集註釋』卷第一,八一番歌條
參本?前田家本『釋日本紀』卷二十三「神風伊勢海事」條
神宮文庫本『日本書紀私見聞』「神風伊勢卜云事」道祥本三丁裏
北畠親房『元元集』卷第六「伊勢國桑名野代宮」條

======

これについて

本居宣長は古事記伝十四巻で

・・・・・・

今思ふに
此伊勢津彦と云は
建御名方神の亦名にて

右の故事は
即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
傳への誤なるべし。

・・・・・・

又、今伊勢外宮のわたり
かの高倉山のつずきなる高神山と云に
客神社とてあるは
建御名方神を祭れりと、神宮の書にあり。






[11877]神武東征の謎 とみた 投稿日:2016年 8月18日(木)11時52分
2010年九州大学の岩永省三教授が発表された論文を
引用します。
弥生時代における首長墓の成長と墳丘墓の発達と称する論文の中から抜粋します。



弥生時代後期後葉から終末期における鏡・鉄製武器・玉類などの入手元とその副葬習俗の発信地を北部九州と見る説(寺沢
2000)が根強いが、この時期の副葬実態から見れば、近畿北部・北陸を主と考えた方が良い。

ほかにも、古墳時代におけ
る碧玉製腕飾類、遡っては芝ケ原12号墳の銅釧の祖形たる南海産巻貝製腕輪類(ゴホウラ・イモガイ・オオツタノハ)の系譜
は、中期の北部九州製品でなく、この時期の南部九州→東部九州経由の製品に求めるべきであり、日向における終末期
の円形墳丘墓の盛行は、東瀬戸内集団と日向灘沿岸部集団との密接な関係の物証である。


私は、神武東征を暗示しているような気がしています。

神武が日向からでて、東瀬戸内を経由して畿内に入る.
神武天皇を瀬戸内海の道案内するのは、椎根津彦(日本書紀、古事記では珍彦=渦彦=宇豆彦)。
難所の豊予海峡や明石海峡を通過するときのガイド役をする。各地の海の民は海上運送で中継したり交易したりする。



京都府城陽市・芝ヶ原12号墳は、弥生時代の後期後半ー終末期に、実に1350余の玉を副葬している玉の流通拠点です。水上運送で稼いだ首長の墓のようです。玉には、翡翠の勾玉、カリガラスなどです。

日向(薩摩と大隅を含む)から瀬戸内を経由し淀川支流の芝ヶ原に達し、北陸からは翡翠や碧玉の玉を芝ヶ原に入れて、交易する訳です。芝ヶ原は東西の玉流通の交点と言えそうです。


淀川の支流である木津川の流域の芝ヶ原近くに下主水遺跡があり、これは弥生終末期の水運の船着場でした。
玉類はここで止まっており、ヤマト盆地までは流通していませんでした。
芝ヶ原や北陸には近江系土器があり、古の近江商人?が交易の仲介をしていたのかもしれません。近江は銅鐸が多いので青銅器の工人がいたのでしょうか。

玉類の流通網はこの段階ではヤマト政権は掌握していませんでした。ですから終末期のホケノ山以降古墳時代の前方後円墳には玉類が入りません。

桜井茶臼山の段階になって翡翠性勾玉や石製腕輪類が副葬されます。
この段階は、加賀の片山津あたりで石製腕輪類づくりをさせ、出雲で玉のブランドを作らせてヤマト王権は輸入して威信財として配ります。





[11876]建御名方の科野への敗走今井より投稿日:2016年 8月17日(水)20時12分
出雲ついでに
建御名方の科野への敗走の背景は何なのでしょうか?

諏訪大社の鎮座地の諏訪は
島津藩の祖・忠久の
最初の知行地でした。
その関係で
薩摩藩には多数の諏訪神社が鎮座しています。

☆国分市郊外に鎮座する諏訪神社








[11875]Re: 古代出雲かたばみ 投稿日:2016年 8月16日(火)23時01分
神奈備さんへのお返事です。

参考図1 松江市佐太神社周辺 縄文海進4m
古浦砂丘遺跡コウラ、島根半島の最古の稲作の可能性あり。
人骨に青銅のヘアバンド?をしていた可能性あり。
堀部第一遺跡はその人々の農耕のできる内陸部へ移動と推定。
佐多講武貝塚は縄文BC4000あたりの貝塚。

持論
初期開拓者の漂着が端緒の遺跡とみます。BC500頃以降かな(半島経由の戦争避難民、環境避難民)。
もし、青銅ヘアバンドなら中国の戦乱からの貴族級かもしれない。
いまのところ山陰沿岸では最も東での漂着、これ以上流されたら助からないと思います(^^;
(類似漂着者とみる土井ヶ浜は山口県下関市ではるか西)

佐多神社の創始はこれらの人々の農耕開始によると考えています(狭田とみる)。島根最古の社ではないか。
縄文貝塚が隣接、縄文系との接触(抗争?)もあったかもしれない。
宍道湖を渡って南に出雲熊野大社、おそらくは・・佐多神社方面から少し遅れて進出した人々の関連じゃないか。

参考図2 サヒメ伝承
やはり大田市付近への初期開拓者の漂着が起源とみます。

こちらに遺跡はありませんが、1775年の神職が役所に差し出した文書が残っています。
「往古に天より三つの瓶降れり。その一は一宮の神秘佐比賣山の神なり。二の瓶は三瓶山の麓の浮沼池に沈み納まり、
三瓶は三瓶谷八面大明神社脇の東の土中に埋もれり・・」
なんか隕石落下のような雰囲気も(^^;

ま、佐比賣山神社の現在は銀山一辺倒のようですが、これとは違う縁起をもっていたとみえます。
地形的に大田市沿岸に漂着した半島(経由?)の人々が三瓶山周辺で畑作をはじめた様子がみえます。
沿岸部に迩弊姫神社があり、三瓶山麓に迩弊姫の祠がある。
現在の祭神は?埴夜須毘賣神のようですが、土にからみそう。
原型は三瓶に対して二瓶であったのかも、瓶とは穀物の種を入れた壺か?





[11874]Re: 縄文犬今井より 投稿日:2016年 8月15日(月)13時12分
かたばみさんへのお返事です。

> >以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。
>
> おっと、失礼しました。犬を見落としています(^^;

どういたしまして。
多方面でご教示頂いて恐縮しております。

>
> 遺跡と神社などをカシミール3Dという地図アプリにプロットしています。
> 詳細情報があれば別途に記録。とてもとても全国には至っていません。

以前は全国各地の山々を彷徨っていましたから
これには即、、お世話になっています。


> 地形図をなーんとなくながめると、なにかが見えてくること少なからずです。

>
> 普通の地図ではなにもみえませんが、地形図のみで縄文海進の頃の水面を表示すると・・

追いかけている「天智天皇伝承」がまさにそれ。
現在は、海岸線から数キロの内陸に鎮座する神社のご祭神が、、
海神やお船に関連しています。
古代は、その辺りが海岸線、もしくは入り江。。
船を利用した形跡が。。

> 串間の福島川は近世?に大規模治水してますね。南の微高地側(沖積地)に川が這い上がってる。

そうですね。油津辺りは、灌漑時、古墳を調査したようですよ。
寅さんの撮影もあったそうで。。
吾平津姫神社。


> 余談
> プロットに手間がかかる原因のひとつが、緯度経度情報を書いていないものが多いからです。
> (古い情報ですと地名が変わっていて探せないこともあります)
> グーグル地図にでもプロットして位置表示してくれればよいだけなのに。

田舎の方はなかなかです。
神社や史跡の大半は未掲載。
ミレニアムの頃から、旧バージョンで、数種作成しています



[11873]Re: 縄文犬かたばみ 投稿日:8月15日(月)11時10分
>以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。

おっと、失礼しました。犬を見落としています(^^;

遺跡と神社などをカシミール3Dという地図アプリにプロットしています。
詳細情報があれば別途に記録。とてもとても全国には至っていません。
柊原貝塚遺跡は位置プロットすらしておらず、今井よりさんのご紹介で位置だけプロットしたところです。
種子島の丸木船も南九州関係の投稿がなければ知らないままだったはず(^^;

地形図をなーんとなくながめると、なにかが見えてくること少なからずです。
例えば
参考図1 串間市 国土地理院1/4万
参考図2 串間市 国土地理院10mメッシュ地形図
薄い青は縄文海進時代に海であっただろう標高部分です(オリジナル設定)
(穀璧出土地は仮プロット)

普通の地図ではなにもみえませんが、地形図のみで縄文海進の頃の水面を表示すると・・
串間の福島川は近世?に大規模治水してますね。南の微高地側(沖積地)に川が這い上がってる。
南の微高地一帯に灌漑用水を供給するための治水によるものと思います。

太古?の串間には大きな入江があり、周囲の火山灰の流出あるいは福島川の運ぶ土砂で入江が閉塞されて内陸部に沼沢が形成されていた状況が見えます。
水鳥の楽園かなあ、弥生あたりではそこは水田の適地になったはず。
早々に陸化していた微高地部分には弥生集落? 掘ればなにか出るか?(^^;

余談
プロットに手間がかかる原因のひとつが、緯度経度情報を書いていないものが多いからです。
(古い情報ですと地名が変わっていて探せないこともあります)
グーグル地図にでもプロットして位置表示してくれればよいだけなのに。







[11872]Re: 縄文犬今井より 投稿日:2016年 8月14日(日)03時48分
かたばみさんへのお返事です。


> ならば、南九州での縄文犬の骨はでているのだろうか。
> アカホヤで壊滅であるならば沖縄からか北九州からの再入国か。

以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。


鹿児島県下では御承知のように
噴火時の火砕流らで消滅しているのが
大半ですが、垂水市の柊原貝塚遺跡では
人骨と犬の骨が
発掘されています。


○柊原貝塚遺跡

> No.273[元記事へ]


目下ページは作成準備中のようですが

一応次にPDFがあります。

http://www.city.tarumizu.lg.jp/kunugibaru/kurashi/kosodate/gakko/kunugibaru/koku/documents/h24_05kouhou_tarumizu.pdf


○柊原遺跡(埋蔵文化財報告書)

http://www.jomon-no-mori.jp/sensikodai/401.pdf


○鹿児島県・埋蔵文化財センター 検索システム

http://www.jomon-no-mori.jp/kmai_public/


○垂水市文化財からのご回答


 柊原貝塚からは6体の人骨が出土しています。
@頭蓋骨・下顎骨の一部・歯のみの出土。歯の状態から壮年で、
 男性と思われるも詳細は不明。
Aほぼ全身が出土。推定身長160cmの熟年男性。
 上下顎の4本の犬歯が抜歯。
Bほぼ全身が出土。推定身長149.5cmの壮年女性。
 上顎左右の犬歯が抜歯。
Cほぼ全身が出土。推定身長161.0cmの青年男性。
 抜歯はされていない。
Dかろうじて人骨と判明できる程度の状態で、詳細不明。
E頭骨のみ出土。壮年女性。抜歯はされていない。

 いずれも縄文時代の人骨であることから、渡来人の可能性は
低いと考えられます。

 これらの人骨につきましては、本市に収蔵する施設が無い
ことから、現在は県の埋蔵文化財センターへ収蔵していただいて
おります。

 また、いずれも副葬品は伴っておりません。



> 弥生において犬を使うのに優れた人々がいた国、すなわち狗奴国・・大隅隼人か。
>

平家物語にも登場する、宮崎県高原町に鎮座する
霧島東神社(霧島六所権現の東御在所、西御在所は霧島神宮)
の本殿の両側に社殿があります。
詳細は、

神社探訪==>>宮崎県・高原町==>>霧島東神社


尚、人骨らに関しては、諸機関で検証され
データーが公開されてますが、私には難しくて。。
ネットでもPDFが幾つかヒットしました。

お役に立てば幸いです。




[11871]縄文犬かたばみ 投稿日:2016年 8月13日(土)21時13分
倭人伝の鳥奴国、海鵜(鵜飼いの使う鵜)がたくさんいる一帯とみましたが、狗奴国は・・
狗は犬でよいと思います。
WEBからの情報だけですけれど、発掘されている縄文犬は東南アジア系の犬種のようです。
沖縄と北海道に残り、弥生犬は中国系で本州などそれ以外の地域。

北海道に東南アジア系の犬・・南方系縄文文化の北上で広まったとしか考えられません。
礼文島の船泊遺跡登場の過程での伝播か。
ただし、北海道では縄文犬は大事にされていたようですが、続縄文時代になると食糧にされていた痕跡(^^;

沖縄ではイノシシ猟や鳥猟に使っていたらしい。
弓で鳥を射て犬が持ってくるのかな。
佐賀県東名貝塚からは縄文早期の犬の骨、BC5000頃。アカホヤ火山灰におおよそ同じ年代。
火山灰から生き延びた人々の犬の骨か。

ならば、南九州での縄文犬の骨はでているのだろうか。
アカホヤで壊滅であるならば沖縄からか北九州からの再入国か。

犬養部の登場は安閑531-534あたりの説があるようですが、遅くとも雄略あたりに遡るのではなかろうか。
狩猟の影が薄れたとき、犬を扱うのに優れた人々が「警護」の仕事につくのは自然だと思います。
弥生




[11870]Re: 伊和神社と銅と鉄かたばみ 投稿日:2016年 8月13日(土)20時32分
とみたさんへのお返事です。

>6月に姫路から鳥取に特急で行って、この地が理解できた。

播磨の日本海側と瀬戸内側を結ぶ弥生回廊があった・・のではないか。
瀬戸内側で加古川、日本海側で円山川と由良川、中国山地を縦断し、低山の分水嶺で接続する。
この川沿いに兵主神社が並んでいます。
参考図1 播磨の兵主神社と銅鐸

現在の兵主神社はみな穏健な出雲系祭神ですが、本来は瑯邪八主(戦国〜秦、山東半島、斉)の兵主を出雲が祀ったと考えています。
(伝説の黄帝と戦って敗れたという軍神蚩尤シユウ)
兵主の名も消してその痕跡がみえなくなった社も少なくないだろうと思っています。
(銅鐸出土はそこに祭祀場があったのではなく、「銅鐸を隠蔽した場所」がほとんどだと考えています)


以下ちょいとおつきあいくださいませ(^^;
弥生回廊は卑弥呼の侵攻に対する出雲の防衛線でもあり、「戦勝祈願の社」として兵主神社がおかれた。
青谷上寺地遺跡は紀元前後頃に大発達し、古墳時代に入って消滅する遺跡です。
持論に重ねれば(^^; 大国主命の子の鳥鳴海神後裔たちの集落、卑弥呼軍の攻撃で壊滅した。
(大量の人骨と大量の殺傷痕跡)
だが、卑弥呼軍は播磨回廊の防衛線は突破できなかった。

若狭の彦坐王系譜の集落は無傷となり、後の日本海系氏族の主力となる。
(卑弥呼海軍も明石−淡路ー和歌山の防衛線で撃退され、そこで開化が紀州熊野から決死の奈良突入・・)

葦原色許男、播磨国風土記で天日槍(天日矛)と戦ったとされる(むろん大国主の別名ではない)。
天日槍は崇神時代(248-273)に亡命渡来した新羅の王族とみています。
参考図2 新羅王統図(AD250頃、13代、14代で王位継承に混乱が見える)

天日槍は脱解の系譜でしょう。脱解は神武の兄弟とされる稲氷命とみています(新撰姓氏録)。
崇神はそれを宝物で確認し、抵抗する出雲の残存勢力の制圧に送り出した。
崇神は奈良周辺で手一杯、猫の手も借りたいといったところですね(^^;

弥生〜古墳の過渡期での播磨、そんな状況を考えています。
なんかでないかなあ、面白そうな出土品が・・






[11869]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 8月13日(土)05時10分
かたばみさんへのお返事です。

古代ロマンの話題
ありがとうございます。
参考になります。

目下のフィールドは地元探訪です。
「貝の道」や「遺物・土器の伝播」で
繋がりを埋蔵文化財報告書に求めて
閲覧する位が関の山です。


地元の神社のご祭神に「天智天皇」関連が
多いので謎解きの探訪を続けています。。。
天智天皇伝承などは、「続日本紀」にも記載されてますので
その辺りを史実との整合性を。。
平安時代の日記類を読んでいます。
貴重品は現在とは格段の差があるようで興味深いところです。
中右記、小右記、関白記 等。。

それ以前ですとさっぱりです。

☆神武や日本武尊伝承のある「若尊神社」
縄文時代の噴火口の縁に鎮座


☆日本武尊と熊襲の酒宴の地「拍子橋」
ここで退治したとありますが、、、








[11868]Re: 隼人の神話かたばみ 投稿日:2016年 8月11日(木)20時53分
今井よりさんへのお返事です。

>辛島の末裔太神の杜女は

流罪、宮崎がその時代に僻地となっていることを示していますね。
藤原氏の台頭と平行して「闇の世界」が登場か(^^; そこにうごめく欲望と権力抗争。
続日本紀でようやく史書の成立といったところか。
ロマンがなくなって、私的にはあまり興味がなくなる時代ですけど。


さて、神武、掘れないです(^^;
情報が記紀程度しかない。社伝も記紀に準ずる場合がほとんどだと思います。
血縁、文化、地理などの状況から可能性を探ってみるほかなし。
以下敬称略。血縁中心で毎度長文失礼。

瓊々杵と天火明は天之忍穂耳と栲幡千千姫の子とされ、栲幡千千姫は高木神の娘という。
高木神を高皇産霊尊とみるなら栲幡千千姫は九州の人物ではなく、呉楚七国の乱(BC154)からの脱出組のひとりとみる。
瓊々杵と天火明はまだ「生粋の渡来者」。

天火明は大山祇神の娘(ほぼ縄文、おそらく阿蘇)の木花開耶姫を妃とする、
素戔鳴の子の八島士奴美はその姉の木花知流姫を妃に、やはり阿蘇でしょう。どちらもBC130頃か。

北九州から大量の戦死者の骨がでる時代です。
天之忍穂耳系+アマテラス(縄文+初期開拓者)と素戔鳴系の戦いとみています。
平野部では素戔鳴勝利、阿蘇山麓で戦闘中。
阿蘇は出雲と天孫の接点、木花開耶姫と木花知流姫が姉妹ともされるわけです。
八岐大蛇や岩戸隠れ神話の場所と考えています。

瓊々杵の妃は吾田鹿葦津姫、おそらくは西海岸の海人に近い娘。熊本までは素戔鳴も進出していない。
ここで書紀は瓊々杵と天火明の一本化。
したがってその子らの状況は記紀からはちとやっかい。

古事記で火照、火須勢理、火遠理(天津日高日子穗穗手見)が誕生。
書紀では火闌降、彦火火出見、火明などが誕生。
記述に混乱がみえますが、隼人との関連がでてきそうです。
ここに海幸山幸神話の源があるとして、持論では、呉楚七国の乱から1〜2世代下るとしてBC130頃としています。
(2000〜2300年前の津波痕跡に一致する)

産屋の風習は各地にあって、しばらくは周囲とは接触せず、出産すれば小屋は壊してしまう。
破棄するときに燃やすこともあるでしょうけど、出産中に燃やすなんてありえない(^^;
「火」の文字は桜島の噴火の意ではないかとみています。
燃える小屋から飛び出す、なんてのはそれを含めたお話としての粉飾だと思います。

彦穂々出見は天火明の系譜、とみています(穂の文字を使う)。山幸でもあります。
宮崎県椎葉村の焼畑は列島最後の焼畑文化だと思いますが、少なくとも狩猟が焼畑はやらない。
火照、火須勢理たちが隼人と関係あるかもしれない、
ただし血縁は隼人族に天孫が流れ込むのであって、その逆とはいいにくい。

彦穂々出見の妃が豊玉姫。
ここで東岸の陸と西岸の海が結合、だが文化風習の違いから離婚。
産屋が完成しないうちに出産、あるかなあ(^^;
文化風習の違いによるなんらかのトラブルがあったのだろうとみておきます。

生まれた鵜草葺不合は豊玉姫の妹の玉依姫に育てられて後に玉依姫を妃とする。
年齢的にちと疑問のあるところですが、海人との関係が濃厚になった、とみておくだけでよいと思います。
鵜の文字をそのまま受け取るなら、神武紀の「此れ即ち阿太の養鵜部の始祖」の鵜だと思います。
むろん神武紀では畿内のごとくに書いてますが、阿太=瓊々杵の妃の吾田あるいは神武の妃の妹の阿多でしょう。
(これをヒントに倭人伝の鳥奴国は薩摩半島付近と推定)

そして神武誕生。
海人の血が半分であって隼人の血はほとんど流れていません。
しかし育った環境はほとんど隼人、神武の持つ文化や風習、加えて言語もほとんど隼人だと思います。

その妃は吾平津姫、阿多小椅君の妹とあるので位置的にも隼人でしょう。
その子は手研耳と岐須耳。神武が北九州へ向かうときの隼人部隊の隊長かな。

神武には「我は天之忍穂耳の子孫なり」の強い意識があったとみています。
子につけた「耳」の名です。
五島列島や後の倭人伝にも登場するミミ。

話が飛びまして、伎楽面の呉公や呉女の耳。

http://www.emuseum.jp/detail/100769/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D12%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D2%26owner%3D1%26pos%3D65%26num%3D7

飛鳥奈良あたりでの「呉」の人物の特徴を表しているとみています。
耳のでかいのはお釈迦様もおなじく、そういう氏族がいたのだと思います。
耳たぶの大きいことを福耳といいますが、高貴(お金持ち)につながる同様の意識だと思います。
天之忍穂耳から数世代を経た神武の耳が大きかったかどうかはなんともいえませんけど。

そして北九州へやってきた神武はカルチャーショックを受ける。
敵とだけ考えていた出雲に接触して、あららのらっ(^^;
媛踏鞴五十鈴媛を妃として生まれるのが渟名川耳(綏靖)と八井耳。
やっぱり耳ですね。

しかし綏靖以降では神武朝と隼人族との関係は悪化したはず。
渟名川耳による手研耳の殺害。文化風習の違いに因ありとみますが、継承者争いもあるでしょう。
卑弥呼時代となって狗奴国との関係は最悪に。

さて、倭人伝に書かれる倭国に「なになに奴国」が多数登場します。
これは神武が鹿児島から北上する際に制圧あるいは属国とした九州西岸地域の国名だと考えています。
参考図(ちと古いので修正を要しますけど)

魏志倭人伝に登場する奴国はふたつあります。ひとつは地理的に北九州。
もうひとつは位置不明、それが鹿児島だとみています。
後漢書に書かれる「倭国の極南界」です。
倭人伝は、この国を以て女王国の境界、と書く。
神武の後漢への使者はこちらを本国として後漢に伝えたのだと考えています。


神武(佐野、狭野、若三毛沼)の兄弟とされるのが三毛野(三毛沼)、五瀬、稲氷(稲飯)。
名の類似から神武と三毛野は兄弟だろうと考えています、三毛野が兄。
三毛野は御・ケ・野(沼)とみてます。ケは食の意、野と合わせて田畑ですね。
(沼なら水田か、種子島の浦田神社の伝承、鵜草葺不合が白米を播いたにつながるところ、記紀にはない話)
その弟の神武にはもっと狭い田畑で狭野、負けるもんかやったるで−(^^;

稲氷、神武東征説話では海に入って鋤持の神となる。少なくとも戦死ではないのでしょう。
こちらは海人の母を強調していますから神武の兄弟ではなく、瓊々杵系の後裔の海人と考えています。
新撰姓氏録では新羅の脱解とする。
神武東征説話であるなら、その戦闘海域は紀ノ川の沿岸か河内沿岸でしょう。
この位置から新羅へ渡航は考えにくく、新撰姓氏録の記事は信じがたしとなる。

だが、持論では(^^; 稲氷の戦ったのは北九州の海であって稲氷が脱解である可能性はきわめて高いとみています。
神武の戦った出雲は北九州だけではなく、半島南岸の伽耶諸国も含むはずだからです。
稲氷は半島南岸を攻撃し、新羅沿岸に達した。脱解登場時の描写は三国遺事にあります。
脱解即位AD57、倭国と国交樹立AD59/新羅本紀。持論神武時代と一致。
ロマンかなあ(^^;

神武朝(神武 36- 66−懿徳 92-105)以降では倭国争乱となって、南九州の情報は倭人伝の狗奴国以外わからなくなる。
北九州でも語り部の継承すらできなくなっていたと考えています。吉野ヶ里など大集落の伝承も消えてゆくわけです。
(寒冷化による飢饉などでの倭国の崩壊、AD250以降)。
古墳時代で南九州は僻地化していったと考えていますが、これは太平洋岸全般にいえると思います。






[11867]">Re: 伊和神社と銅と鉄神奈備 投稿日:2016年 8月10日(水)01時02分
とみたさんへのお返事です。

> 嘗て記紀神話や風土記を読んでいたとき、播磨の伊和神社が気になっていた。
> 龍野から揖保川を遡ると出雲街道沿いに伊和神社が在る。宍粟市にある播磨一宮。
> 伊和は岩や磐に通じて青銅器や鉄器に関係があると思っていました。
>

 揖保川を遡って伊和神社まで行く途中の山々の側面は削られたような跡が点々と続いているように見えます。

 、組織的に削ていって、砂鉄と薪を得て、山肌の再生をまちながら、次の山で同じような事を行い、これを繰り返してまた下流から上流へ進むという風に鉄生産を行ったように思われます。

http://maps.gsi.go.jp/#15/35.086625/134.589000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

https://www.google.co.jp/maps/@35.0840145,134.5859962,3354m/data=!3m1!1e3



[11866]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 8月 8日(月)15時15分
かたばみさんへのお返事です。



地図や図解入りの
判り易いページで
感銘しています。
お手本にしたいページです。

掲示板の復活を待望しています。


> 書紀と異なる最大は、出雲文化圏がまずは北九州に登場、神武以降(AD30頃)ではAD250頃まで九州以東の全域で主権を持っていた、です。

私が好きな当地の「神舞」
夜神楽は現在でも夕方から翌朝まで
33番を舞います。
これには、次の流れがあります。
○伊勢神楽
○出雲神楽
南九州はこの出雲神楽系が多いのです。
この辺りにも「大穴持」=「大国主」
の影を見ます。


> 社伝などもそのままは受け取れない。
> いいにくいけれど記紀に準じていないとにらまれるから(^^; ひとつは延喜式の時代、そして明治維新の時代。
> (僻地の場合はその影響が薄い可能性をみる)

参照できる史資料が多ければ検証も捗るのですが
当地の場合、明治の廃仏毀釈で貴重史資料は焼却されました。
残念でなりません。
僅かに残ったこれらを精査しながら探訪に勤しんでいます。


> 辛島氏(本来は韓島でしょう)の素性は謎ともされますが・・
> 出雲とはなにかに関連しているために、書紀の書く内容に準じていたら解けない。
> 持論で展開する他はないので・・
> myHPの別図天孫降臨〜神武と出雲(地図)および別図弥生〜古墳初期 出雲と天孫

辛島の末裔太神の杜女は
朝廷の逆鱗に触れ
宇佐神宮の神職を追われ
日向へ配流されますが、、

========

天平勝宝六年(754)十一月甲申《廿四》◆甲申。

  藥師寺僧行信。与八幡神宮主神大神朝臣多麻呂等。
  同意厭魅。下所司推勘。罪合遠流。於是。
  遣中納言多治比眞人廣足。就藥師寺宣詔。
  以行信配下野藥師寺。

天平勝宝六年(754)十一月丁亥《廿七》◆丁亥。

  從四位下大神朝臣杜女。
  外從五位下大神朝臣多麻呂並除名從本姓。
  杜女配於日向國。多麻呂於多■嶋。
  因更擇他人。補神宮祢宜祝。
  其封戸位田。并雜物一事已上。令大宰検知焉。

=======  続日本紀   ======

配流地は、椎葉村とか云われてますが。。
史資料を精査したいのは山々ですが
ちょっと「隼人」から離れるので頓挫状態です。


[11865]Re: 隼人の神話かたばみ 投稿日:2016年 8月 8日(月)11時12分
今井よりさんへのお返事です。

伝承の解釈では、いつ(時、年代)、どこで(場所)、だれが(人物)、なにをしたか(事象)に分解して考えています。
最も重要なのは「いつ」です。
(myHP第6章 日本書紀の年代復元、要若干の手直し(^^; )

年代設定のキーは素戔鳴尊と天之忍穂耳尊の登場です。この事象はなにが源か。
フィードバックを繰り返しながら現在に至っているのが以下です。
別図天孫降臨〜神武と出雲(地図)
別図弥生〜古墳初期 出雲と天孫
別図倭王五代〜聖徳太子〜壬申の乱

超大河小説の粗筋かなあ、アナログ的シミュレーション。
なにかを考察する場合、これがベースです。
新情報があったとき、この流れに乗るのであれば\(^^)/
乗らないあるいは説明できないならまたフィードバックですが、部分的追加や修正は随時ですが、ここ数年ではフィードバックの必要がなくなっています(^^)

書紀と異なる最大は、出雲文化圏がまずは北九州に登場、神武以降(AD30頃)ではAD250頃まで九州以東の全域で主権を持っていた、です。
これに付随して、書紀の神武東征説話は偽、神武の九州統一と「開化の東征」を合成した創作。
だから記紀は神武以降開化までの間を何も書けない(欠史8代)。漢委奴国王、卑弥呼、銅鐸・・面白い事象がたくさんあるのに。
(加えて万世一系を死守するための系譜改竄が大量にある、ま、これはおいときます)

社伝などもそのままは受け取れない。
いいにくいけれど記紀に準じていないとにらまれるから(^^; ひとつは延喜式の時代、そして明治維新の時代。
(僻地の場合はその影響が薄い可能性をみる)


>出雲の影は、この韓国字豆峯神社だけではないのですよ

辛島氏(本来は韓島でしょう)の素性は謎ともされますが・・
出雲とはなにかに関連しているために、書紀の書く内容に準じていたら解けない。
持論で展開する他はないので・・
myHPの別図天孫降臨〜神武と出雲(地図)および別図弥生〜古墳初期 出雲と天孫

京都八坂神社、WEBによれば、
斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
飛鳥奈良でも素戔鳴尊を意識する人物がいたということ(書紀はまだない)(高麗はまだない)。

辛島氏の登場もこれに準ずるとみています。
「新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊」とは三国時代の伽耶の牛頭山でしょう。
参考図1 伽耶諸国
656は白村江の直前、牛頭山は新羅の領土になっていたとみえます。
ここでいう高麗とは伽耶系譜か百済系譜の使者だと思います(少なくとも新羅国の使者ではない、抗争中)。
新羅が素戔鳴尊を勧請することは考えにくいし。

myHP 別図弥生〜古墳初期 出雲と天孫 の図の左上あたりに「須佐之男この頃に伽耶に引退」としています。
記紀神話で素戔鳴尊の追放として書かれる部分の源。
延々と書かねばならなくなるので(^^; 略しまして・・弥生の伽耶は列島の出雲とほとんど同体だと考えています。
後の「任那日本府」とされる地域です。
新羅本紀で倭人が攻めてきたという記述が数回登場しますが、伽耶の南岸の倭人を意味することを含むと見ています。

欽明539-571の頃、蘇我氏が登場する。
蘇我氏も伽耶の出自だとみています(伽耶系倭韓、倭人と伽耶の混血)。
こちらは用明と共に畿内へ、物部氏を滅ぼして大勢力へ。

myHP 別図倭王五代〜聖徳太子〜壬申の乱
皇極、斉明の系譜を遡ると「漢王の妹の大俣女王」が登場します、系譜の流れから見てAD560頃の渡来か。
漢王の妹の大俣女王とは何者か・・百済の王女、とみています。
すなわち皇極、斉明=寶皇女はその血を引く。
天智も天武も寶皇女の子(父が違う、天智は高向王、天武は舒明)

欽明、用明時代は伽耶系倭韓と百済系倭韓の勢力争いの時代であると同時に仏教など最新文化が流入する時代。
最新文化を取り込んだ人物・・書紀は悩んだ末に(^^;推古と聖徳太子を作り出して百済系を引く大王(多利思比狐)を隠蔽。

伽耶系倭韓の登場は弥生に遡るが、百済系倭韓の登場は応神時代。
七支刀以降応神系譜(倭王五代)は百済を支援しています。
応神で半島南西部の前方後円墳。雄略/倭王興(ないし武烈/倭王武)が百済滅亡時に東城王を送って百済を再興。
応神以降で百済系譜と倭人の混血が生じているはずです(雄略では関東に送り込んでいる可能性あり)。

日本海系氏族の北九州系に百済系が流れ込む。北陸系(出雲系)ではそれはほとんどない。
これが後に筑紫の磐井と越の男大迹王の内戦につながってゆく(その混乱で任那日本府は消滅)。

はしょりまして、辛島氏の消滅?は蘇我氏の消滅と連動しているのではなかろうか。
韓国字豆峯神社の縁起は、伽耶系倭韓の動向の中にある。
列島側ではほぼ消滅した「出雲、素戔鳴尊」が伽耶から逆輸入されているのだ・・
おそらくは蘇民将来説話も運ばれる(後の神仏習合の流れの中で牛頭天王登場/伽耶山の海印寺)。

辛島氏は宇佐神宮の神官になっていますから知識人であり、豊前での指導者でもあったでしょう。
百済と高句麗が滅亡してその避難民(新羅に属したくない人々)が北九州へ渡来する。
百済系の学者は書紀に引用される百済記、百済本記、百済新撰の編纂を行う(おそらく畿内で)。
伽耶系の人々は・・その一部が南九州へ送り出されたのが、韓国字豆峯神社の縁起の「豊前の人」ではないか。

いったん段落。






[11864]Re: 隼人の神話かたばみ 投稿日:2016年 8月 8日(月)10時50分
初心者さんへのお返事です。

言語の分析は苦手なので専門家におまかせですが・・
ワニがカヌーの意であるなら面白いです。
和珥氏は海人系譜である可能性をみています。
椎根津彦(珍彦)と同列の出雲系海人、神武朝(持論おおよそAD30〜AD100頃)に楽浪郡との交易に参加していたと推定。

因幡の白ウサギ、皮をはがれて丸裸・・「大国主神」と「大穴牟遅神」、同文中に異なる神名、別名処理での混乱錯綜でしょう。
「伏最端和邇捕我悉剥我衣服」・・兎が「衣服」を着るか? 兎は人間などのなんらかの比喩ともみえます。
伝承の複合や合成が生じている可能性あり。
兎を食べるときに皮は剥ぐのかな、兎の毛皮ってあるのかな、鰐なら丸飲み(^^;
言語の場合にいろいろな複合変化をどこでどう分解するか、がポイントとみています。





[11863]暑中お見舞い申し上げます今井より 投稿日:2016年 8月 7日(日)17時54分
暑いですね。どうぞご自愛くださいませ。

昨夕は、毎朝散歩する公園で花火大会でしたが
突発的な持病の悪化で断念し早々に就寝しました。

当地には、残念ながら、古墳がありません。
実は江戸時代の古文書には所在が記載されていますが、、
第2次太平洋戦争後の食糧増産で
墳墓の多くは農地に転用されてしまいました。
当然、遺物も行方不明です。

縄文時代以前の遺跡は、
公共工事でもあれば、また脚光を浴びるかも
しれませんが、、
近年出土した遺物の大半は非公開ですから
専門家なら考古学的な考察も可能でしょうか。

在野の歴史愛好家には肩身の狭いところです。
唯一、お祭りの奉納舞が綿々と伝承されて
居ますので、民俗学的な見地から
考察を重ねるのが目下の常套手段でしょうか

涼しくなったら、
全国の埋蔵文化財報告書の
閲覧でもと思ってますが。。。

☆国分重久、止上神社の近く
青葉小学校にある墳墓

唯一保存されている?
只遺物は不明です。
720年前後の隼人抗戦時の
朝廷方の墳墓ではと推察されていますが
詳細は不明。

☆この近くには、1200名を斬首した
「隼人首塚」があります。
首実験の爲宇佐へ持ち帰ったとあります。
遠くに6〜8世紀、隼人が籠城した「比売之城」が。

☆首を宇佐へ持ち帰った。。。
百體神社の末社の由緒(宇佐)

少しは







[11863]伊和神社と銅と鉄とみた 投稿日:2016年 8月 7日(日)10時41分
嘗て記紀神話や風土記を読んでいたとき、播磨の伊和神社が気になっていた。
龍野から揖保川を遡ると出雲街道沿いに伊和神社が在る。宍粟市にある播磨一宮。
伊和は岩や磐に通じて青銅器や鉄器に関係があると思っていました。

6月に姫路から鳥取に特急で行って、この地が理解できた。
考古学で鉄や青銅器や玉を調べてもいる。

すると播磨の大平遺跡は、断面梯形鉄斧(朝鮮半島産)が出ることで有名で、正しく播磨新宮駅の近くにあることがわかった。

そして今朝、青銅器の銅鐸を調べていて驚いた。
播磨に閏賀銅鐸があることを知ったからです。

閏賀銅鐸は宍粟市一宮の閏賀で発見されました。

谷川健一先生の著作『青銅の神の足跡』で出てくる伊和神社の近くです。

この銅鐸は、神戸市桜ヶ丘で出た桜ヶ丘銅鐸14個のうち桜ヶ丘8号鐸から変容した6区袈裟襷文様の横帯分割型銅鐸です。扁平式新段階から突線式への移行期とすれば弥生時代中期末から後期

への移行期つまり紀元前後の銅鐸と考えられます。

文献を考古学で裏付けると面白いと思います。

因みに閏とは湿潤の潤のことです。揖保川沿いの地ですから湿潤だったのでしょう。
今日は余りに暑いので素麺を食べたいですね。

素麺といえば揖保素麺です。


[11862]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 8月 5日(金)19時52分
かたばみさんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
>
> >柊原遺跡
>
> 興味深いです、人骨がきれいにでているんですね。DNAは採れないのかなあ。
> 北九州は江戸時代に掘りまくられて(^^; 発掘物のほとんどが散逸。
> 南九州ではこれからだと思います。宮崎県も発掘がんばってくださーい。

上野原縄文遺跡の中に
鹿児島県の埋蔵文化財があります。
多分、こちらで何か判るのでは。。
お問い合わせ下さい。
県下の遺跡のPDF化が思いの外
進んでいるように感じています。
嬉しいことです。


カヌーに関しては、
沖縄でしたか?
船大工の方が丸木舟を。。
いや、板船かな?
記憶が曖昧ですが
確か映像があるはずです。
今、ソニーのBRを修理に出しています。
来週受け取りますので、確認してみます。

>
> >当地の大穴持神社にも境内に祭祀しています
>
> 縁起としては延喜式以降の勧請のようですね。大己貴命、大穴牟遅神などとの錯綜もありそうです。
> 大穴持神は山陰のサヒメ伝承(穀物伝播)にからむのが原型じゃないかとみています(記紀での別名表記で混乱)。

唯一、公文書に由緒が残っている古社です。
宮司は代々「谷口家」です。
今春でしたか、渡来人の史跡探訪がてら
参拝し、宮司さん一家と暫し談笑を。
息子さんは現在、霧島神宮に。
こちらも其の後の「お田植え祭り」の時お会いしました。

>
> 霧島の韓国岳の名称の語源に「はてなあ」を持っています。
> 韓国字豆峯神社の御祭神は五十猛命、書紀が素戔鳴尊の子とした影響とみますが、出雲に関連する社にもみえる。

本来は朝鮮系の方なんでしょうね。
岩戸開きの頃、一旦お帰りになってるし。

> しかし鹿児島に出雲??
> AD714(和銅7年)に「豊前の人々」が隼人族を教導した、という縁起が社のHPにあります。

> 「豊前の人」というのは半島からの避難民ではないのか、それが「韓国」を登場させた。
> 今はこれが由来であろうと考えています。
> 「豊前の人」をどう解釈するか、ですね。

古事記伝の著者、本居宣長も触れてますね。
私の頁にもおすそ分けで掲載しています。

出雲の影は、この韓国字豆峯神社だけではないのですよ。
前出の「大穴持神社」にもあります。
一応時系列で出典を列記していますが、、
どうでしょうか?

>
> >この辺りを「徐福渡来」と繋げるのは無理があるでしょうか。?
>
> 大陸と列島での伝説のキャッチボールみたいなところがありますね。
> 徐福渡来伝承は各地にあるようですが、そのほとんどは一般海人の遭難漂着が後に徐福とつなげられたものと考えています。
> 有名人につなげたいのはやまやまでしょうけれど。
> 始皇帝時代の遺物がでるなど、物証があるか(近そうなのが種子島の広田遺跡かなあ)。
> 串間の穀璧は・・始皇帝が方士に与えるものではないと思います。

串間の穀璧、現物を拝見したいものです。
宗像大社にもあるのかしら。。?

> 徐福が船出したとして、どんな船を使ったか。
> 山東半島あたりから船出したなら黄海の漁労民が使う舟がせいぜいでしょう。済州島か対馬あたりが目一杯じゃないかな。

>
> 「古代日本の航海術/茂在寅男」にちょこっとですが徐福の記載があります。
> 神武は徐福だ、なんて説の紹介あり。
>
ま、そうであっても可笑しくはないですが。。
どこかに史資料がないものでしょうか?


> 書紀はなぜ神武を初代天皇とし、天之忍穂耳尊や瓊々杵尊ではないのか。
> ひとつには「九州統一の事跡」が大きいと思いますが、神武が少なくとも地元民との婚姻を数世代経た人物だからだと思ってます。
>
> 神武は隼人だ・・(^^;

もっと掘り下げて下さいませ。
論考を楽しみにしています。

ありがとうございます。

○神武が皇子時代過ごした場所
宮崎県高原町「皇子原古墳公園」
神武天皇を祭祀する「狭野神社」の山手側にあります。

○神武を祭祀する狭野神社


○神武東征
お船発ちの美々津に鎮座の「立磐神社」









[11861]Re: 隼人の神話かたばみ 投稿日:2016年 7月28日(木)04時44分
今井よりさんへのお返事です。

>柊原遺跡

興味深いです、人骨がきれいにでているんですね。DNAは採れないのかなあ。
北九州は江戸時代に掘りまくられて(^^; 発掘物のほとんどが散逸。
南九州ではこれからだと思います。宮崎県も発掘がんばってくださーい。

>泥の中に半年以上浸したとか

古墳時代の伊豆の巨木も狩野川(カヌー川)下りで沼津で加工したんじゃないかな。
狩野川の中流の修善寺近くに軽野神社があります。
興味深いのが彦座王を祀っていること(書紀は開化の子としていますが大嘘とみる)。

修善寺では伝世品ではありますが、最後期型の銅鐸がでています。
弥生から古墳への過渡期にこの地まで出雲系譜が進出したことを示すものと思います。
鮎釣りにきたのかな(^^;

カンナでこんなに薄く削れる、なんてTVでときおりやってますがヒノキの柾目ならだれでも削れる。
杉でやってみなー(^^;
杉は木目の硬軟の差が大きく割れやすく加工がやっかい、だから建材としてはヒノキの下におかれます。
松は加工しやすいけれどしばらくは松ヤニの処理が面倒。


>当地の大穴持神社にも境内に祭祀しています

縁起としては延喜式以降の勧請のようですね。大己貴命、大穴牟遅神などとの錯綜もありそうです。
大穴持神は山陰のサヒメ伝承(穀物伝播)にからむのが原型じゃないかとみています(記紀での別名表記で混乱)。

畑作の民俗/白石 昭臣/雄山閣によれば・・(ほとんど山陰での話です)
サヒメは大穴持神が先住するところを避けて穀物を播いたという(三瓶山など)。
大穴持神が山をまたいでしたウンコが肥料になったなんてのもあります。
大穴持神は縄文系の巨人族か?? ダイダラボッチ伝承にからむ可能性あり。


霧島の韓国岳の名称の語源に「はてなあ」を持っています。
韓国字豆峯神社の御祭神は五十猛命、書紀が素戔鳴尊の子とした影響とみますが、出雲に関連する社にもみえる。
しかし鹿児島に出雲??
AD714(和銅7年)に「豊前の人々」が隼人族を教導した、という縁起が社のHPにあります。

持論では神武以前(AD30頃の九州統一以前、大国主命の国譲り以前)の出雲の中枢は豊前豊後だ、と考えています。
しかし、平安時代の北九州に神武時代の出雲の意識を持つ人々がいたとは考えにくい(宇佐神宮にからんできそう)。

もっと下れば、開化が奈良の出雲を制圧(AD239)した後に、九州へ帰還する武将や兵士がいたはず。
西都原の船の埴輪は空想上の船ではなく、現実の葬送の船だと考えています。
西都原の家型埴輪も故郷への帰郷を意味する。
畿内での石棺にわざわざ阿蘇の石を使ったりするのも同様の意識だと考えています。
そこに出雲の伝承が残るか?

もっと下って、百済と高句麗滅亡時。その避難民が北九州から鹿児島にやってきている可能性はどうか。
関東の飯能付近は高麗郡です。百済あるいは高句麗の避難民が強制移住させられた地域、高麗の地名の由来。
「豊前の人」というのは半島からの避難民ではないのか、それが「韓国」を登場させた。
今はこれが由来であろうと考えています。
「豊前の人」をどう解釈するか、ですね。


>この辺りを「徐福渡来」と繋げるのは無理があるでしょうか。?

大陸と列島での伝説のキャッチボールみたいなところがありますね。
徐福渡来伝承は各地にあるようですが、そのほとんどは一般海人の遭難漂着が後に徐福とつなげられたものと考えています。
有名人につなげたいのはやまやまでしょうけれど。
始皇帝時代の遺物がでるなど、物証があるか(近そうなのが種子島の広田遺跡かなあ)。
串間の穀璧は・・始皇帝が方士に与えるものではないと思います。

徐福が船出したとして、どんな船を使ったか。
山東半島あたりから船出したなら黄海の漁労民が使う舟がせいぜいでしょう。済州島か対馬あたりが目一杯じゃないかな。
可能性としては土井ヶ浜もあるかなあ。
ま、尾ひれがつけば100人乗りの大船団へ(遣唐使船が120〜150人のようです)。
天穂日が山東半島からだとみてます、漂流して島根半島あたりへ(あいつらどこへいきやがった・・)


天之忍穂耳の船は双胴タイプの楼船とみています、戦国〜三国時代では楼船という戦船があります。
王族にしか使えない最高級の船、徐福にそんな船は使えないと思います。
参考図 天之忍穂耳渡来時の妄想図(^^; (HP9章天之忍穂耳上陸)
外洋竹筏ではフィリピンから鹿児島で34日、長江からなら半分くらいの日数じゃないか、直線距離ならば。

「古代日本の航海術/茂在寅男」にちょこっとですが徐福の記載があります。
神武は徐福だ、なんて説の紹介あり。


言語(の変化)は血脈と文化の中間にあると考えています。
例えば夫婦の渡来人の子がいたとして、その子はどんな言葉を話すか。
その子が成長する過程で、周囲の先住者と接触しないはずがない。
夫婦ともども先住者の言葉を使わなければ生活してゆけないと思います。
数世代後には先住者の言葉になってゆくと思います。

ただし、渡来者が非常に高度な文化を持ち、それが先住者にとって有益であった場合には、その「単語」が先住者に浸透して残る可能性はあると思います。
また渡来者に強く祖先伝承を伝えようとする意志があった場合、変形するにせよなんらかの痕跡が伝わる場合もあるかもしれない。
ただし、変形という問題と後世での尾ひれという問題をうまく分離できるかどうか・・やっかいそう。


江戸への移住者が江戸っ子とされるには江戸に三代住まねばならないなんてのがあります。
書紀はなぜ神武を初代天皇とし、天之忍穂耳尊や瓊々杵尊ではないのか。
ひとつには「九州統一の事跡」が大きいと思いますが、神武が少なくとも地元民との婚姻を数世代経た人物だからだと思ってます。

神武は隼人だ・・(^^;
神武の持つ文化と言語は・・神武の持つ祭祀とは・・ほとんど隼人だったかも、4世代目?ですから。
神武は北九州の最新の出雲文化に接して(山東半島系文化とみる)、すなわちカルチャーショック(^^;
大国主命の譲歩を引き出すと、ただちに媛踏鞴五十鈴媛を妃とし(鯨面なんかヤダー)、天日方奇日方命を大臣とし(旧事本紀)、出雲祭祀を取り込んで神八井耳命(多臣族の祖)を祭祀者とし・・
神武朝の成立、後漢の楽浪郡へ使者を送る(珍彦だと思うけど和珥氏の祖先の可能性もあり、中国語ができないと)。







[11860]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月28日(木)04時44分
かたばみさんへのお返事です。

>
> >記紀にも「枯野」で登場しますが
>
> canoe カヌーの語源はどこのいつ頃なんだろうなあ。
> 茂在寅男氏が枯野(カレノではなくカノとみる)はカヌーからであろうといわれていますが賛同です。
> 伊豆の巨木を求める、大型の刳舟(丸木船)がほしかったのでしょう。

お話に、横入りすみません。
茂在氏の論をひいた、下記のような論文があります。
これは、以前ここで話題になった「鰐」についても独特の見方をしていて驚きました。


http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0098/BO00980L001.pdf



[11861]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 8月 3日(水)18時53分
初心者さんへのお返事です。


> > >記紀にも「枯野」で登場しますが
> >
> > canoe カヌーの語源はどこのいつ頃なんだろうなあ。
> > 茂在寅男氏が枯野(カレノではなくカノとみる)はカヌーからであろうといわれていますが賛同です。
> > 伊豆の巨木を求める、大型の刳舟(丸木船)がほしかったのでしょう。
>
> お話に、横入りすみません。
> 茂在氏の論をひいた、下記のような論文があります。
> これは、以前ここで話題になった「鰐」についても独特の見方をしていて驚きました。
>
> http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0098/BO00980L001.pdf
>

古文書や神社由緒を読んでると
結構、このような事例は多いんですよ。

神社に至っては
「うけもち」でも多種。。
神社探訪を始めた頃、
中学校時代の社会の先生にお伺いしたけれど
明快なご回答はなかったわ。。

ある日、「坂本龍馬の絵手紙」を
読んでて驚いたのよ。。

近くに「犬飼滝」(いぬかい・たき)
があるのよ。
私達は鹿児島弁で
「いんけん・だっ」
と呼ぶよよ。

龍馬はそれを聴いた音読で

「陰見滝」 って書いてるの。。

同じ日本人でもこんな調子よ。
ましてや言語習俗が異なると。。。

いなばのしろうさぎ
の伝承も「かわ・いるか」ではという人も。。
私は見たことないからなんとも。。ですが。

当地の200m程の高台の絶壁の中腹辺りに
貝層があるんですよ。。
昔は隆起したからとか云ってたけど
「縄文時代には海面は現在より80mも高かった」と
いうのが通説だそうで。
同じ縄文でも「縄文海進」というものあって
6〜8m下がってる時代もあるようね〜〜。。

また、記紀に登場する、現在の錦江湾に
火山噴火で出現した島がありますが
===>>前出「大穴持神社の創建由緒」

現在の錦江湾の幾つかの島々では無いらしいです。
現在の島は、隆起の痕があるそうです。(貝層)

隆起か海進かというのも私のような素人では皆目。

それに、詞の言い回しも
全く「真逆」になったのもあるらしいわ。

だから、遺物や遺構の鑑定は大事です。
当地には、隼人の4〜6世紀の頃の遺跡が出ていますが
遺物は未整理。。
予算も適任者も無し。。。いつになるやら。。です。

ここの掲示板は
博識・見識者が多数投稿されますので
私にとっては嬉しい限りです。

ご教示から書籍を購入することもあります。





[11859]Re: 隼人の神話初心者 投稿日:2016年 8月 3日(水)13時22分
前回アップした船の画像
説明を追加します。
この後、宮崎市の商工会に問合せて
この画像をご送付頂きました。

>
> ○宮崎神宮
> 神武東征の時の船
>
> ○秋の神武祭り
>
> 西都原遺跡で古代の船の埴輪が出土して
> それを模して製作したとか。。






[11858]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 8月 2日(火)00時04分
かたばみさんへのお返事です。


> 丸木船みっけ(^^)
> ヤクタネゴヨウを使った丸木船の制作記録。
> アドレスで表示がうまくゆかない。文化遺産オンライン、「種子島のまるきぶねの製作習俗」で検索してください。
> やはり屋久島は縄文の丸木船造船所か(^^;
>
> アイヌの丸木船も上に同じくにあった。「アイヌ丸木舟および推進具」で検索。

屋久島は建材の宝庫。
多方面で利用したと推察しますが
並外れた労力が、、


> 余談
> 大昔にある造成工事でエンジュの街路樹の伐採があって、ただで譲りますというのがありました。
> 十人ほどで建設会社のクレーン付きトラックを借りてもらってきました。
> 私は長さ1mほど太さ60cmほどをふたつ、クレーンで庭先にずどどん。
> 1週間ほどでひびがびしばしはいりはじめた。これを削るためだけにチェーンソウ購入(^^;
> ある方は、嫁さんに怒鳴られたそうです(^^;
>
時々、物好き少年を発見します。。ふ、ふ。
童心に返るんですね〜〜〜。。

材木はひび割れないように、、
泥の中に半年以上浸したとか。。

駒や笛なんかも「。。。浸した」って
記述がありますね〜〜。。

そういえば、古代の造船技術を継承している方が
木造船を。。
以前テレビで見たような。。沖縄辺りでしたか??

当地の上野原縄文遺跡で
丸木舟製作教室ないのかしら。。。
この遺跡も長いこと伺ってないわ。。
夏休みだから工作教室、体験があるかも。。
ちょっとサイト覗いてみます。

ヤングの頃は手漕ぎの船で海釣りしてましたけど、、
北海道の函館のかれい釣りが最後となって、、
もう、何年も海釣りはおろか川釣りもしてません。。
たまにはのんびり糸を。。
(今は漁業権無いからダメですね
昔はそんなの無かったけど、、、)

なんか、「心の余裕」が最近無いわ〜〜。。

楽しい時間をありがとうございます。

○宮崎神宮
神武東征の時の船

○秋の神武祭り

西都原遺跡で古代の船の埴輪が出土して
それを模して製作したとか。。








[11857]Re: 隼人の神話かたばみ 投稿日:2016年 8月 1日(月)18時37分分
今井よりさんへのお返事です。

>記紀にも「枯野」で登場しますが

canoe カヌーの語源はどこのいつ頃なんだろうなあ。
茂在寅男氏が枯野(カレノではなくカノとみる)はカヌーからであろうといわれていますが賛同です。
伊豆の巨木を求める、大型の刳舟(丸木船)がほしかったのでしょう。

http://oki-park.jp/kaiyohaku/inst/35/37
海洋文化館沖縄にポリネシアなどのアウトリガーや双胴船の画像や映像がいろいろありますね。
縄文〜弥生の南九州の外洋船はこの種の船であっただろうと考えています。
天之忍穂耳尊渡来時の船も双胴船であった可能性をみています(天の浮き橋、橋が浮いている船ですね)。

草船での実験は・・現代人の体力、風や潮を見る能力、船の形状、帆もない・・申し訳ないけど(^^;
HPの「参考図と仮説」に対馬海峡横断シミュレーションとシチズン時計による漂着実験(日中文化研究4)のデータをおいてあります。


丸木船みっけ(^^)
ヤクタネゴヨウを使った丸木船の制作記録。
アドレスで表示がうまくゆかない。文化遺産オンライン、「種子島のまるきぶねの製作習俗」で検索してください。
やはり屋久島は縄文の丸木船造船所か(^^;

アイヌの丸木船も上に同じくにあった。「アイヌ丸木舟および推進具」で検索。
これは大昔になにかの記録映画で制作実験をみています。
生木のうちに大急ぎでくりぬくのが重要とのことだった。
乾くとひびがはいるのと材が硬くなって削れなくなるのだそうです。
切れる鉄斧は刃が食い込んでかえってうまく削れない。
石斧を使ってもうまくゆく、切るのではなくたたきくずすイメージです。

余談
大昔にある造成工事でエンジュの街路樹の伐採があって、ただで譲りますというのがありました。
十人ほどで建設会社のクレーン付きトラックを借りてもらってきました。
私は長さ1mほど太さ60cmほどをふたつ、クレーンで庭先にずどどん。
1週間ほどでひびがびしばしはいりはじめた。これを削るためだけにチェーンソウ購入(^^;
ある方は、嫁さんに怒鳴られたそうです(^^;





[11856]南九州の縄文人骨今井より 投稿日:2016年 7月31日(日)20時47分
ちょっと勘違いしてました。

お隣、垂水市の「柊原遺跡」からは
次のような遺物が出土しています。
私は「縄文犬」だけが頭に残っていて。。
一応私の頁から
(なんせ一昔前の作成ですっかり忘れてました)

========

数年前だったか

垂水市で「縄文時代の飼い犬の埋葬跡」の
発掘があった。

今から3〜4千年前の縄文後期の遺跡で
農道の整備事業で偶然見つかった。

県下のこれらの遺跡の場合、大抵がそうだ、
高速道路や地域開発等で150-200m程の高台から
数多く見つかっている。

利便性を追求するこれらの工事が
皮肉にも数千年の眠りを妨げてしまった。

この垂水の場合、縄文の犬だけでは無かった。
なんと人骨が5体も、それもほぼ完全な形で2体も
発掘されたそうだ。

当地の場合、火山の噴火で大半は焼失してしまう。
このようにほぼ完全な形で発掘されることは稀有だ。
それだけに貴重だ。

1体は20歳前後の男、
片方は30歳代の女、犬歯が2本抜歯されていると言う。
残念ながら他に副葬品は無かったようだ。

この遺跡は、縄文から古墳に掛けての遺構とのことであった。

詳細や写真は次を

垂水市埋蔵文化財柊原遺跡


===========

この調査が進展すれば
縄文人はどこから来たのか?

解明できるかも目下ページは作成準備中のようですが

一応次にPDFがあります。


http://www.city.tarumizu.lg.jp/kunugibaru/kurashi/kosodate/gakko/kunugibaru/koku/documents/h24_05kouhou_tarumizu.pdf



[11855]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月31日(日)18時01分
今井よりさんへのお返事です。

> かたばみさんへのお返事です。

> > 豊玉姫や玉依姫は状況から海人の娘。
> > 彦穂々出見命は天火明命の子であって、西海岸の海人とのつながりを得る。
> > 天孫系(陸)との風習の違いや海幸山幸などの主従の流れを生じながら鵜草葺不合尊から神武へ(紀元前後頃)。
> >
>
> この辺りは伝承の域を出ませんが
> トヨタマヒメ神社は前出の鹿児島県の知覧に鎮座
> 玉依姫は、宮崎市の鵜戸神宮の北方に鎮座
> 御陵もあります。
> しています。
>

玉依姫を祭祀する
日南市宮浦688の「宮浦神社」 の写真を。
詳細は私の頁をどうぞ。

○宮浦神社







[11854]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月31日(日)14時25分
かたばみさんへのお返事です。


> 桜島では月読命が祀られるのが興味深いところ。
> 月読とする場合は潮の満ち引き、すなわち漁労を意味し、月弓と書く場合は狩猟を意味すると考えています。
> どちらも弥生農耕に先立つ神、弥生農耕の発達と共に影が薄くなる。
> 隼人族の本質はこれではないかと考えています、漁労と狩猟の複合。

そうなんですよね。
三国名勝図会辺りにはその由緒というか伝承の詳細があります。
実は、当地の大穴持神社にも境内に祭祀しています。
ご存じのように、
当地では、唯一、由緒が確認できる延喜式のお社です。

続日本紀

■宝亀九年(778)■
  十二月甲申

 去神護中。
 大隅國海中有神造嶋。
 其名曰大穴持神。至是爲官社。



>
> 神武の妃の吾平津姫(阿比良比売、阿多小?姫の妹)が隼人族につながるのは確実。
> (子に手研耳命と岐須耳命、耳があるのが興味深いですがおいときます)
> アタの地名からは南九州(鹿児島)。
> 瓊々杵尊の妻の神阿多津姫も同様で、狩猟と漁労の接触する地域の娘。
> 瓊々杵尊の子は不明(書紀は天火明命の子に接続と見る、東海岸)。

プロ野球巨人軍のキャンプ地・宮崎の油津に「吾平津姫神社」が鎮座しています。
乙宮らしいですが。。

> 豊玉姫や玉依姫は状況から海人の娘。
> 彦穂々出見命は天火明命の子であって、西海岸の海人とのつながりを得る。
> 天孫系(陸)との風習の違いや海幸山幸などの主従の流れを生じながら鵜草葺不合尊から神武へ(紀元前後頃)。
>

この辺りは伝承の域を出ませんが
トヨタマヒメ神社は前出の鹿児島県の知覧に鎮座
玉依姫は、宮崎市の鵜戸神宮の北方に鎮座
御陵もあります。
しています。


>
> さて、隼人族に関してはいまのところ何もわからない、が私的現状です(^^;
> ひとつにはDNA分析がみえてこないこと。
> ひとつには南九州の縄文早期(上野原遺跡以前)から弥生での植生変化データ(花粉分析)がみえないこと。

人骨でも出土していれば朗報なのですが
火砕流で焦土と化していますから、、なかなかです。

> 縄文〜弥生での内陸系(狩猟?)と海人との接触がいかなるものであったか、これもはっきりしないこと。
> (その痕跡が桜島の月読命につながるのかどうか)

この辺りを「徐福渡来」と繋げるのは無理があるでしょうか。?
最後で述べておられますが。。


旧島津藩も神社の再建には、「屋久杉」を多用しています。
そちらの線はありでしょうか。


> 竹があるなら・・1977年に7人乗りの竹筏がルソンから鹿児島の2000qを黒潮に乗って34日の漂流航海に成功しています。
> 参考図1 HPから9章古代船
>
> 南九州には縄文時代早期の丸ノミ型石斧がある、丸木船用ですね。
> 縄文晩期〜弥生、その流れの中に隼人族が登場しているはず。
>
先日、草船の運航テストをなさってましたが
改良点が多数あるようで。。
今後が楽しみです。


どうもありがとうございます。
参考になります。

○大穴持神社
月神・日神を祭祀

○月読神社(桜島)

○吾平津姫神社








[11853]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月30日(土)22時25分
かたばみさんへのお返事です。

> 画像を忘れました(^^;
>

ご丁寧にありがとうございます。
最近、台湾や日本の学者さんが
テスト航海されてますね。
テレビで拝見しました。

記紀にも「枯野」で登場しますが、
大波の横揺れを考えると
カヌーのような方が安定するような?
素人考えですが。。

当地でも錦江湾ヨットレースが
盛大に開催されます。
近所のあちこちに小型船が横たわっています。
彼らは「月齢」はとりわけ詳しいです。

今日は土用の鰻でした。
美味しく頂きました。

○桜島

○拍子橋史蹟








[11852]Re: 隼人の神話かたばみ 投稿日:2016年 7月30日(土)21時54分
今井よりさんへのお返事です。

>朝食を済ませると、なぜか睡魔が

血のめぐりがお腹にいっちゃうんでしょうね。
食ったあ、の後は音楽聞きながらひとねむりしています。

>隼人関連と徐福関連で一回は訪れてみたいと

天孫降臨から神武に至る「母方」の氏素性はいかに。
神奈備さんとは「書紀の扱い」が違いますのであしからず(^^;

天孫降臨は二人で二ヶ所が持論。
天火明命の妃が木花開耶姫だと考えています(九州東岸、日向)。
阿蘇山麓の山岳縄文(大山祇神の娘)、櫛名田姫命や木花知流比賣(石長比賣)と同族、こちらは北九州素戔鳴尊と八島士奴美命の妃となる。
大分の大石遺跡、高千穂遺跡群、熊本の古閑遺跡という阿蘇を取り巻く黒色磨研土器という共通項のループがあります。
記紀は天火明命を消して瓊々杵尊に一本化して記述、神武より先に天孫が東国開発(降臨)ではまずいからでしょう(^^;

桜島では月読命が祀られるのが興味深いところ。
月読とする場合は潮の満ち引き、すなわち漁労を意味し、月弓と書く場合は狩猟を意味すると考えています。
どちらも弥生農耕に先立つ神、弥生農耕の発達と共に影が薄くなる。
隼人族の本質はこれではないかと考えています、漁労と狩猟の複合。

神武の妃の吾平津姫(阿比良比売、阿多小?姫の妹)が隼人族につながるのは確実。
(子に手研耳命と岐須耳命、耳があるのが興味深いですがおいときます)
アタの地名からは南九州(鹿児島)。
瓊々杵尊の妻の神阿多津姫も同様で、狩猟と漁労の接触する地域の娘。
瓊々杵尊の子は不明(書紀は天火明命の子に接続と見る、東海岸)。

豊玉姫や玉依姫は状況から海人の娘。
彦穂々出見命は天火明命の子であって、西海岸の海人とのつながりを得る。
天孫系(陸)との風習の違いや海幸山幸などの主従の流れを生じながら鵜草葺不合尊から神武へ(紀元前後頃)。

天之忍穂耳尊が瓊々杵尊を九州西岸へ送り出した目的は海人との接触、舟と航海術の確保だと考えています。
(西海岸に農耕適地はわずか)
天火明命の東岸は、農耕地の確保(宮崎)と新天地探索だと考えています。子の彦穂々出見命は宮崎へ(青島神社)。.
九州西岸と南岸の海人の協力を得た天火明命は太平洋岸を濃尾まで進出してゆく(BC130頃)。


さて、隼人族に関してはいまのところ何もわからない、が私的現状です(^^;
ひとつにはDNA分析がみえてこないこと。
ひとつには南九州の縄文早期(上野原遺跡以前)から弥生での植生変化データ(花粉分析)がみえないこと。
縄文〜弥生での内陸系(狩猟?)と海人との接触がいかなるものであったか、これもはっきりしないこと。
(その痕跡が桜島の月読命につながるのかどうか)

屋久島の一湊松山遺跡と横峰遺跡に注目です。
一湊松山遺跡からは縄文前期BC4000頃の曽畑式土器が出土しています。
曽畑式土器は熊本県宇土市の曽畑貝塚が標準。
(隣接して黒色磨研土器の古閑遺跡、東鍋田遺跡の土壌から稲科植物のプラントオパール)
アカホヤ火山灰から復興した縄文の遺跡だと思います。

ここから屋久島に土器が運ばれていた、だれがなんの目的で運んだのか。
海人が重い土器を使うか? 魚や貝なら籠で十分ではないのか?
土器ということは液体か種を運んだのではないか・・穀類。
横峰では漁労具や狩猟系の石器がでておらず、植物食糧であった可能性が高く謎とされる。
土器は市来式土器(鹿児島BC1500頃、縄文晩期)。

横峰からヤクタネゴヨウ(五葉松)という樹木の炭化材が多数でています。
松系の常緑高木で現在は絶滅危惧種だそうです(種子島にも若干残存)。
大型丸木船の材料・・絶滅危惧種につき材の利用方法はみえないけれど。
屋久島は外洋航海用の丸木船の生産拠点だったのではないか。

沖縄や奄美のリュウキュウマツはニ葉松でヤクタネゴヨウとは品種が異なる。
ヤクタネゴヨウには雲南や台湾に同族のタカネゴヨウがある。
杉は台湾にはあるが沖縄にはない。
植生として台湾〜長江方面と九州には沖縄をバイパスする流れがあるようにみえる。
高床式の建物形式も奄美を分岐点として北と南で異なるようで(技術と民族/小学館)、単に南西諸島といっても単純ではなさそうです。

天火明命はその舟と技を求めた?? 日本海より厳しい太平洋・・頑丈で帆とアウトリガーつきの丸木船。
饒速日でいうところの天の磐船。
古事記で神武が椎根津彦に出会うとき、「打ち羽振り来る人」といっています、帆だとみています。
竹があるなら・・1977年に7人乗りの竹筏がルソンから鹿児島の2000qを黒潮に乗って34日の漂流航海に成功しています。
参考図1 HPから9章古代船

南九州には縄文時代早期の丸ノミ型石斧がある、丸木船用ですね。
縄文晩期〜弥生、その流れの中に隼人族が登場しているはず。


BC4000〜BC1500、この間の渡来者に長江三苗の渡来を考えています。
参考図2 DNA中のある塩基欠損をもつ人々
長江の良渚文化はBC2000頃に洪水で崩壊します。ここからの脱出者のDNAの拡散と考えています。
中国神話での三苗、陸系三苗は殷の形成に関与する。
ポリネシア海洋文化(アウトリガー、双胴船、帆、星)の源は議論のあるところですが、私は海系三苗と考えています。

日本でも九州西岸の縄文に少なからぬ影響を与えたと考えています。
最初の赤米の渡来かもしれない。
白米は水稲技術者が必要、東シナ海沿岸から半島経由で北九州へ。
海路よりはるかに伝播は遅くなる、殷、周、戦国−BC500頃か。

赤米(陸稲)なら種を運ぶだけでもよい、海人でOKかつ高速。
沖縄と本土側の赤米のDNAはいかに。
タカネゴヨウの仲間が海人にとって重要な材であるなら、ひょっとしてヤクタネゴヨウの種も。

沖縄での塩基欠損DNAの比率はやや低い。
データ誤差ではないとするなら、ひとつには長江三苗の渡来ルートではなかったからか(長江から東シナ海ダイレクト)。
もうひとつには沖縄が中国との交流でDNA的に薄まっているためだと考えています。
(DNAの多様性が大きい、アイヌではDNAの多様性は少ない)


長くなりましたが・・
種子島の広田遺跡の埋葬遺跡と貝札とはなにか。
二層に分かれて下層はBC200頃?、上層はAD200頃?とされ、貝札は上層からの出土。
継続する墓所ではない、漂着者(遭難者)を地元民が埋葬した遺跡と考えています。

漂着者とは、BC200頃なら、天之忍穂耳の仲間、遭難漂流して種子島へ。
あるいは徐福の漂着(^^;
ま、始皇帝にとって徐福は方士のひとりでしかないでしょうから、たいした支援はしていないと思うけど。

AD200頃なら魏呉蜀三国時代の呉の使節団の遭難。
魏は対馬経由で安全確実に卑弥呼と接触。
呉はそうはいかない、東シナ海を横断しなければならない。

根拠はなにもないけれど、それぞれが仮に生きて漂着したとして、何人か、地元側の人口はどの程度か。
その場合にその地域での変化はどのようなものになるか。







[11851]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月30日(土)04時11分
神奈備さんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
>
> > 南九州の民俗学の第一人者下野先生から
>
>
> 鹿児島の民俗文化―その秘奥にせまる と言う本を、アマゾンで手配しました。楽しみです。

> 暑さ続く折、お大事にしてください。
>

下野先生の「南九州の伝統文化」シリーズを所持しています。
ふ、ふ、サインして貰いました。

今朝も室温は31度です。
これから公園でリハビリです。
朝食を済ませると、なぜか睡魔が。。。
時々お昼寝してます。



酷暑の折、留意されお過ごし下さいませ。


○止上神社のお祭り風景
性空聖人が開祖の霧島六所権現信仰の総社でした。
島津義久が国分の舞鶴城に居た頃
この神社のご神体、尾牟礼山への参道を造ったのですが
過去の集中豪雨で崩落して現在では山頂を踏むのは難儀です。
唯一30万画素のデジカメ写真が残りました。
神社探訪・国分へどうぞ。







[11850]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月28日(木)20時23分
神奈備さんへのお返事です。

> 木花之佐久夜毘売の火中

東南アジアの風俗習慣らも交えた
ご教示ありがとうございます。
参考になります。

南九州の民俗学の第一人者下野先生から
幾つかお話を伺っております。
先生は、特に南西諸島との繋がりを
探っておられます。

私は遠出が出来ないので
フィールドは近場だけです。
主に南九州の祭りや神楽(当地では神舞と呼びます)らを
追いかけています。
平安時代から綿々と継承されている祭事・風俗
も垣間見れて楽しい物です。
古典文学や史資料も閲覧できますので
傾注しています。

公開されているこれらのPDFをiPadに移して
病院での待ち時間に読んでいます。
暇つぶしには格好の題材です。
最近、柳田国男先生の書籍も
青空文庫辺りで流れていますので
お勧めです。

また、お祭りらはビデオに収録していますので
体調の不具合の時などごろ寝して
お祭りに浸っています。

さっき、鹿児島神宮の「六月灯」見物でした。
雨雲が迫っていたので
そそくさと退散しました。








[11849]Re: 隼人の神話神奈備 投稿日:2016年 7月28日(木)16時59分
木花之佐久夜毘売の火中出産
 一夜で妊娠したヒメはニニギに純潔を疑われたので、生まれる子が国津神の子ではなく、天津神の子であることを立証するため、戸のない八尋殿に入り、土を以て塗り塞いで、出産時にその殿に火をつけて、三人の御子を生んだ。、
火照命(ホデリノミコト)、こは隼人(ハヤト)阿多君(アタノキミ)の祖(オヤ)なり。海幸彦である。
次に生みし子の名は、火須勢理命(ホスセリノミコト)。
次に生みし子の名は、火遠理命(ホヲリノミコト)、亦の名は天津日高(アマツヒコ)日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト)。山幸彦である。

 火中出産で生まれたのが隼人の祖ということは、この伝承も隼人の伝承でということでしょう。
 出産後に産婦の近くで火をおこすのはフィリッピンやボルネオの少数民族の習俗として分布しているそうです。沖縄では産婦焼きとと言います。続いて失った釣り針の話になりますが、この神話は太平洋の島々に全体的に分布しており、特にミクロネシアやインドネシアの話がよく似ているそうです。

 記紀編纂の頃は王権と隼人との関係は不安定であった。隼人に花を持たせるべく、皇祖と隼人の祖を兄弟に位置づけ、懐柔を図ったとの見解があ
rいます。このような目先の事で、皇祖と隼人とを兄弟としただろうか。そうではなく、皇祖は南九州の出身で、初代天皇はそこから大和にやって来たとの伝承が語られていたのでしょう。

皇統譜
天照大神―天忍穂耳命―火 明 命                  ―五瀬命
          ―番能邇邇芸命―火 照 命           ―稲氷命
                 ―火須勢理命           ―御毛沼命
                 ―火 遠 命(穂穂手見命)―ウガヤー神武天皇


 神武天皇の名前は『紀 本文』では諱を彦火火出見としています。これは火遠命と同名です。天照大神の次からの皇祖の名は稲作に関係しています。おかしいのはウガヤフキアエズの名で、これは稲作とは無関係の名ですが、「産屋の屋根を全部葺かない」という伝承があったようで、これを皇統にいれようとしたが、その名前と神武の本名が残って入り、火遠命と―ウガヤとは大朝臣安萬侶と稗田阿禮の挿入だったのかも知れません。

 神武天皇は邇邇芸命の子だったと見ることができます。安萬侶と阿禮は隼人に伝わっていた伝承を多く集めたのでしょう。皇祖の遠き時代の古里の伝承と、皇統譜を組み合わせて古事記の物語を書き上げたと考えらることもできます。この二人はその時代の超一流の知識人だったのでしょう。南九州を歩いたのかも知れません。

『古事記』には、神武天皇が大和を征服した際、邇藝速日命が追いかけて来て、神武に恭順を示しています。邇藝速日(天火明)が邇邇芸命の兄弟であれば、神武の叔父さんに当たり、時間的に整合します。




[11848]Re: 豊玉姫と国造本紀今井より 投稿日:2016年 7月28日(木)04時44分
とみたさんへのお返事です。

おはようございます。
当地所縁の「豊玉姫」伝承
いつも楽しく拝見しています。
ありがとうございます。


昔、明神池の「御船神事」の写真があるのですが
どこに行ったかさっぱりで、、(引っ越しが頻繁で不明に)
海神が山神になったわけで、、、興味津々ですが。。

実は、当地の山奥にも「海神」を祭祀している神社があるのですよ。
明治の廃仏毀釈で消滅していますが。。
仔細を追いかけていますが、、、これが、、、なかなか。。


「海神」の当地としては、バックデーターがほしい。。
鹿児島神宮の近辺には「貝塚」があって遺物が多数出土しています。
未整理です。。新発見でもあると。。
俄然元気が出て暑気祓いになるのですが。。

今夜は、その鹿児島神宮の「六月灯」です。
他地方の精進祭りですね。
昔は提灯が境内、参道からはみ出して、、
芝居小屋や露店がでて、それは賑やかでしたが、、
今は、地元の子供の奉納太鼓や踊り位です。。
花火の〆で幕引きです。

これから、毎朝のリハビリに出掛けます。
梅雨前は、4時半頃白々としてきてたのですが、、
未だ真っ暗、5時過ぎないと、、
歩行2qと階段100段、約30分の短いリハビリ
だから続いているんでしょうね。
ぼちぼちやってます。

皆さんは何かおやりでしょうか?

○竜宮神社(南薩摩)








[11848]豊玉姫と国造本紀とみた 投稿日:2016年 7月27日(水)23時12分
豊玉姫は、先代旧事本紀の国造本紀に出る。

地祇系国造として、綿積豊玉彦=海神
これが二つに分かれる。お馴染みの人を並べる。

補高見→阿曇連・阿曇犬養連祖

これは信濃の穂高神社と上高地の奥宮の明神池の奥宮に関係がありそう。
梓川の水源に近く穂高で犀川となり東に流れて長野で千曲川に合流する。
日本海沿岸ルートか


振魂命→椎根津彦(倭国造、明石国造)

こちらは、神武東征の時に豊予(佐賀関)海峡か明石海峡かで海の道案内する椎根津彦(元の名は珍彦)

急流を棹さして案内する海人であろうか。瀬戸内海ルートか

振魂−椎根津彦とは正しく巫人が玉を振っている感じです。船の安全を祈る持衰みたいです。


高倉下→建田背(丹波国造)

建田背は海部直の祖であったり、尾張族の祖であったり、度会の祖であったり

丹波−丹後は豊受でそこは度会で伊勢の外宮ということなんでしょうか。いずれにせよ海の民。度会氏は阿波の天日鷲命を祀る。

丹波ー丹後ー瀬戸内の阿波との繋がりはどうなんでしょう。

弥生時代後期には、播磨の加古川と丹波の由良川はつながって往来がありました。


先代旧事本紀の第6巻では

皇孫本紀に、ニニギーの天降り→豊玉姫→イガヤフキアエズ→イワレヒコ(神武天皇)

これは古事記の日向ルートでしょう。

いずれにせよ、豊玉姫は、海の神に関係があり、海の幸で被征服の民で支配者の山の幸に奉仕する立場です。
豊玉姫の妹が玉依姫でいずれも玉に関係がありそう、ですから呪術と竜宮城つまり神仙の世界,道教と関係がありそうです。




[11847]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月27日(水)18時25分
神奈備さんへのお返事です。

>  邇邇芸能命は大山津見神(オホヤマツミノカミ)の女(ムスメ)、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、亦の名は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)を見初めた。大山津見神は姉の、石長比売と共に、差し出した。邇邇芸能命は木花之佐久夜毘売を留めて、一宿(ヒトヨ)婚(マグハヒ)したまひき。しかし石長比売は醜いのでを返した。

木花之佐久夜毘売をご祭神とする神社は、
鹿児島方面は少ないです。

宮崎には、
西都市の日向二宮の都萬神社と宮崎の木花神社があります。


>  隼人の人々に、バナナや木の伝承が伝わってから、どの位の時間経過があったのか、また隼人の神話が『古事記』の関係者にどのような形で伝わったのかは、不明ですが、女神の名を木花之佐久夜毘売と言う美しい名にした感覚はすばらしいものと思っています。
>
記紀の伝承から垣間見るしかありませんが
平安時代は、進物の貴重品として「檳榔(枇榔)」があります。


○都萬神社の更衣祭り
七夕の日に木花之佐久夜毘売の御召し物を取り替えます。
前日には海岸で禊をして祭事に臨みます。

○枇榔の樹
最近滅多に見かけません、
昭和の頃は大抵に庭にありましたが。

○木花神社案内







[11846]Re: 隼人の神話神奈備 投稿日:2016年 7月27日(水)17時21分
 邇邇芸能命は大山津見神(オホヤマツミノカミ)の女(ムスメ)、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、亦の名は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)を見初めた。大山津見神は姉の、石長比売と共に、差し出した。邇邇芸能命は木花之佐久夜毘売を留めて、一宿(ヒトヨ)婚(マグハヒ)したまひき。しかし石長比売は醜いのでを返した。
大山津見神は石長比売を娶っておれば、寿命が長かったろうに、木花之佐久夜毘売だけなので、木の花の咲くように栄えるだろうが、寿命は短くなると教えた。

木花之佐久夜毘売と石長比売の神話の筋は、インドネシアからニューギニアにかけて分布しているバナナと石に代表される神話に似ていることが、大林太良『日本神話の起源』で述べられています。

 セレベスの神話 人間は創造神が天から垂し下ろす贈物で命をつないでいた。ある日、神は石を下ろした。祖先は「この石をどうしてしていいのか。何か外の物を下さい」。」と叫んだ。神は石を引き上げてバナナを下ろして来た。祖先はバナナを食べた。そこで、神は、「おまえ達はバナナを選んだから、おまえ達の寿命はバナナの木のようになるだろう。」と言った。さらに、「バナナの木は子供を持つときには、親の木は死んでしまう。おまえ達が石を選んでいたら、石の生命のようにおまえ達も不老不死であったのに。」と言った。

 スマトラの神話 ある存在が天から下ろされ、彼は一ヶ月は断食をしなくてはならなかったが、空腹に耐えかねてバナナを食べた。彼はバナナのかわりに河蟹を選んで折れば、人間の寿命は蟹のように脱皮できた死なない体を手に入れただろう。

 この神話は南洋だけではなく、北海道沙流アイヌの伝承にもあります。
 国造の神が始めて人間を造るとき、何で造るかを雀を使って天神に尋ねた。天神は「木で造るべし。」と言ったが、これを後悔して、石で堅固につくるに越したことはないと考え、神意を獺(かわうそ)に伝え、急いで下界に通じさせた。所が使命を忘れた獺は魚が多くいる渕にさしかかり、追いかけるのに夢中になり、遅くなって神意が伝わらず、人間は木で造られたので、誰も不朽の命を保つ人はいなくなった。天神は怒って獺の顔を踏みつけた。

隼人の人々に、バナナや木の伝承が伝わってから、どの位の時間経過があったのか、また隼人の神話が『古事記』の関係者にどのような形で伝わったのかは、不明ですが、女神の名を木花之佐久夜毘売と言う美しい名にした感覚はすばらしいものと思っています。




[11846]e: 豊玉姫ー丹後・丹波の海の民今井より 投稿日:2016年 7月27日(水)15時56分
かたばみさんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
>
> >サーチしたら、「籠神社」でヒットしたのが
>
> ご存じかもしれませんが、元伊勢籠神社社務所発行の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」という資料があります。

ありがとうございます。
昔、神奈備さんのページで勉強させて頂きました。
偽物で話題沸騰の頃でした。
歴史読本でも特集が組まれていましたっけ。

隼人関連と徐福関連で一回は訪れてみたいと
念じていますが、、


>
> 最近は話題にならなくなりましたが・・サンカの祖は物部氏支配下の手工業者だと考えています。
> サンカは物部氏の滅亡(AD590頃、蘇我氏)によって頭領を失って流浪の民となった人々の末裔(農耕はやらない)。

平成の初期でしたか、最後の末裔と云われる方がお亡くなりになって
この話題も自然消滅してしまいましたね。
柳田国男集にも掲載されているので私の知識としてはそれ位でしょうか。
振り返ると、幼い頃、お会いした「山師」と云われる方々の中にも
居られたのかな〜〜って。。
その方々は、江戸時代末期のお生まれだったんですね。
父はその後の芥川龍之介と同世代でしたが。。

当地は、江戸末期から明治期のこれら史資料を焼却処分しているので
手がかりが無くて残念です。
(図書館の書庫に眠っているかもしれませんが、、非公開です)


○隼人の竹細工
☆熟笥七十二口。
 いりこは今も使います。
 当地では小魚を煎る

☆〓篭七十二口
 あぶり籠===>>七十二口
 あぶり(?):蝶の「虫」が『火』

 濡れた衣類を乾かすのに利用。
 多分干したのでしょうか



[11845]Re: 豊玉姫ー丹後・丹波の海の民かたばみ 投稿日:2016年 7月27日(水)14時39分
今井よりさんへのお返事です。

>サーチしたら、「籠神社」でヒットしたのが

ご存じかもしれませんが、元伊勢籠神社社務所発行の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」という資料があります。
(手持ちは平成8年の増補版146頁)
神宝に前漢の遍津鏡と後漢の息津鏡などの写真があります(息津の呼称が興味深い)。
弥生中期頃までは山陰に天火明命系譜が存在した可能性を示すのが前漢鏡の存在だと考えています。
後漢鏡は神武朝時代(AD30〜AD100頃)の楽浪郡経由かなあ、北九州の硯、島根のその破片、大風呂南遺跡のガラス釧と同じ流れです。

その後の神宝は古墳時代の太刀に飛んでいます。
持論では孝昭105-137以降で出雲の半島交易が遮断される時代となります(倭国争乱のはじまりでもある)。
そして出雲崩壊AD239以降で再び籠神社は復活した・・

養老年間から式年遷宮が20回ほど行われたとする鎌倉時代の文書あり。
少なくとも伊勢神宮と同時代に式年遷宮が開始されていたのかも。
伊勢神宮が崇神時代の成立なら、籠神社は縁起として伊勢よりはるかに古い可能性あり。


籠神社の神紋をダビデ紋だとかのワイワイがあったようですが、ばかばかしい。
漁労でも農耕でも籠は必須の道具、それを作っていたのが物部氏の祖先でありカゴメ紋だということ(手工業製品)。
先代舊事本紀には「笠縫」が書かれますがこれも手工業。

最近は話題にならなくなりましたが・・サンカの祖は物部氏支配下の手工業者だと考えています。
サンカは物部氏の滅亡(AD590頃、蘇我氏)によって頭領を失って流浪の民となった人々の末裔(農耕はやらない)。
神武さんよりはるかに古い、なんて話もありうるわけです。




[11844]Re: 隼人の神話今井より 投稿日:2016年 7月27日(水)04時54分
神奈備さんへのお返事です。

隼人と天孫降臨神話の御紹介
ありがとうございます。

>  降臨の地とされる高千穂峯は霧島山のこととされ、その北側に韓国岳があります。
>
>  霧島山とは関係のなさそうな笠沙岬とは、現在の野間岬のことで、薩摩半島の南西端の突起部です。ここから北へ行けば、五島列島から壱岐対馬朝鮮とつながり、西に行けば揚子江の河口、南は奄美、沖縄から先島諸島・台湾・華南・インドシナにつながります。まさに、東シナ海に設けた情報センターと言えます。隼人に多くの神話が残されているのも頷ける話です。
>
>  邇邇芸命は呉の太伯の末裔が揚子江から渡来してきたのかも知れません。

なかなか、徐福渡来とは繋がりませんが。。
天孫降臨の地を「現在の高千穂の峯」と比定したのは
霧島六所権現の開祖性空聖人辺りからかもしれません。?
平家物語の足摺では、この高千穂の峯を認知していますから。。

>
>  野間岬の近くに野間岳があり山麓に野間神社があり、東宮には瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命が祀られており、西宮には娘媽(のうま)神が祀られています。この神は大陸と台湾では有名な航海安全の女神で、伝承によると福建省に住む漁夫林氏の六女は神術を持って溺者を救い、物事全てに百発百中の霊感を備えていたので神の再来と崇められますた。死後、人々は水上守護の神として尊崇したのです。天后、天上聖母、娘媽、媽祖とも称されました。
>  九州野間の伝承では、水死した娘媽の遺体が流れ着いたのでこれを祀ったと伝わっています。
>

長崎では盛大なお祭りがあります。
まだ見物したことはありませんが、、
ゆっくり天草のイルカ見物と兼ねて廻りたいところです。

古代人は大らかで発想も桁外れですね。
スケールが違う。。
黒潮は繋がっている。。
島か岩礁か、、
どこぞの皆さんにも読んで頂きたいわ。

○韓国岳からの展望
新燃岳と遠くに天孫降臨の高千穂の峯が

○新燃岳からの桜島
大噴火をして現在は登れません。
懐かしいショットです。
この反対側北方には、8代将軍吉宗の頃の
火砕流の爪痕があります。

○霧島東神社の春祭り・国無形文化財・祓川神舞奉納
祓川神舞は12月の第2週末、夜神楽33番を奉納します。
粉雪舞う舞庭で、幼子も裸足で、、握っているのは真剣です。
この一説に「高千穂の峯」が出てきます。
御池の畔に性空聖人の修行の磐祠があります。
平家物語の俊寛らが平穏無事の帰京を祈願したのも
この神社とされています。







[11843]隼人の神話神奈備 投稿日:2016年 7月26日(火)20時46分
天孫降臨神話を日向神話と言いいます。和銅六年(713)に、日向国から大隅国を分離、そのまえ仁薩摩国を分離しており、日向神話と言えども、宮崎県の神話とはかぎりません。
 天照大御神の太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に天火明命と天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命が生まれたので邇邇芸命を天降りさせました。

 竺紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の高千穂のくじふるたけに天降りました。「此地(ココ)は韓国(カラクニ)に向ひ、笠沙(カササ)の御前(ミサキ)に真来(マキ)通(トホ)りて、朝日の直(タダ)さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此地(ココ)は、いと吉(ヨ)き地(トコロ)」と詔(ノ)りたまひた。

 降臨の地とされる高千穂峯は霧島山のこととされ、その北側に韓国岳があります。

 霧島山とは関係のなさそうな笠沙岬とは、現在の野間岬のことで、薩摩半島の南西端の突起部です。ここから北へ行けば、五島列島から壱岐対馬朝鮮とつながり、西に行けば揚子江の河口、南は奄美、沖縄から先島諸島・台湾・華南・インドシナにつながります。まさに、東シナ海に設けた情報センターと言えます。隼人に多くの神話が残されているのも頷ける話です。

 邇邇芸命は呉の太伯の末裔が揚子江から渡来してきたのかも知れません。

 野間岬の近くに野間岳があり山麓に野間神社があり、東宮には瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命が祀られており、西宮には娘媽(のうま)神が祀られています。この神は大陸と台湾では有名な航海安全の女神で、伝承によると福建省に住む漁夫林氏の六女は神術を持って溺者を救い、物事全てに百発百中の霊感を備えていたので神の再来と崇められますた。死後、人々は水上守護の神として尊崇したのです。天后、天上聖母、娘媽、媽祖とも称されました。
 九州野間の伝承では、水死した娘媽の遺体が流れ着いたのでこれを祀ったと伝わっています。




[11842]Re:豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月26日(火)08時03分
とみたさんへのお返事です。

おはようございます。
「豊玉姫」をご祭神とする神社は
当地霧島地方には見当たりませんが、、
一応それとして??なのが
旧国分市街地に鎮座する「乙宮神社」でしょうか。

私は、天智天皇繋がりではと推察しています。

この神社の近くには、韓国宇豆峯神社が鎮座します。

他に南薩摩に「豊玉姫神社」があります。(知覧)
ここは、三国名勝図会でもご祭神です。
一応、たんぼの中にご陵もあります。
水からくりの人形芝居が有名です。

詳細は神社探訪メニューからどうぞ。

○乙宮神社
氏子の崇拝を受けて、境内には厄除け祈願の石碑が多数。

○豊玉姫神社の水からくり人形
平日でもこのようにご覧になれます。
動きはやはり、、、

○韓国宇豆峯神社の「お田植え祭り」
参加する子供が少なくなって風前の灯状態です。








[11841]Re: 豊玉姫ー丹後・丹波の海の民今井より 投稿日:2016年 7月26日(火)03時40分
とみたさんへのお返事です。

> 宮津の籠神社は海部族を祀ります。
> 丹波が律令期に丹後に分かれます。その丹後一宮が籠神社です。
> 海部は尾張族でもあり、その本山は尾張一宮の真清田神社です。


おはようございます。
「海幸・山幸」情報、ありがとうございます。

昔、このテーマで追いかけていて
先日お話のあった先生の著書

inf53 古代日本と古墳文化 森浩一 講談社学術文庫

で、この辺りのお話を知って
サーチしたら、「籠神社」でヒットしたのが
ここのサイトでした。
懐かしく思い出しています。
確か、系図が、偽物と話題沸騰の頃
其の後、国宝に指定されましたっけ。。

元伊勢とか、、舟屋とか、、
それに徐福渡来伝承も多々。

一回は探訪したい地。。いつになることやら。。

☆玉の井
南薩摩。開聞町の
トヨタマヒメを見初めた場所








[11840]豊玉姫ー丹後・丹波の海の民とみた 投稿日:2016年 7月25日(月)18時55分
宮津の籠神社は海部族を祀ります。
丹波が律令期に丹後に分かれます。その丹後一宮が籠神社です。
海部は尾張族でもあり、その本山は尾張一宮の真清田神社です。

丹後の郷土史家によれば、本来の弥生時代の海部の本拠は久美浜(函石浜)だそうです。

丹後の弥生時代の勢力の墳丘墓は、後期前葉は三坂神社、中葉は左坂、後葉は大風呂南、末は赤坂今井にあります。

いずれも船状の木棺です。船=海の民を連想できます。交易で栄えたようです。

丹後といえば、伊根の棚屋を思い出します。

床下が船のガレッジになっている家屋構造です。
この構造は、中国広東方面の蛋民(水上生活者)が海南島などに設けているようです。

大風呂南墳丘墓といえば、青色のカリガラスの腕輪を副葬しているので有名です。
これは丹後と広州・広東との間の交易で獲得したという考え方と楽浪郡の都との取引で獲得したとする考え方があります。

弥生時代後期には因幡は北部近畿(但馬と丹後)の影響を受けていましたし若狭は丹後と近い関係でした。日本海沿岸の因幡白兎神社と若狭姫神社が阿曇族の神であるワダツミ神の娘である豊玉姫を祀ることの意味が理解できます。

大和朝廷の中央官僚の阿曇氏は、各地の海部=安曇部民を統括し海産物を皇室のために收集しました。
海部の分布を調べると頷けます。

丹後、因幡、隠岐、伊勢、尾張、紀伊、阿波、肥前、筑前、豊後、安芸などです。
信濃や上総安房にも進出します。





[11839]Re: 豊玉姫 南九州について今井より 投稿日:2016年 7月25日(月)13時05分
神奈備さんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
>
> 霧島市の上野原縄文遺跡
>
御紹介ありがとうございます。
前回、時間があればご案内したい場所の一つでした。

ここを筆頭に市町村当たり三か所程の縄文遺跡が点在し
これまた驚きです。
大半が遺物の鑑定はこれからです。


○連結土坑
煮炊きや燻製を作ったようです。

○パミス
桜島の大正噴火を起点とした地層による年代推定

○上野原縄文遺跡からの霧島連山
右が天孫降臨の高千穂の峯







[11838]Re: 豊玉姫 南九州について神奈備 投稿日:2016年 7月25日(月)09時31分
今井よりさんへのお返事です。

霧島市の上野原縄文遺跡

 国内最古最大級の定住集落遺跡で国指定史跡に認定されている遺跡です。霧島市東部の標高二百五十米の台地上にあり、約九千五百年前には定住したムラがつくられ、また約七千五百年前には儀式を行う場として、縄文時代の早い段階から多彩な文化が開花し、個性豊かな縄文文化がきずかれていました。約三千六百年前にはおとし穴をつくり、狩り場となり、約二千五百年前〜約二千年前、約千六百年前〜八百年前にかけては、再び台地上に人々が住みムラをきずいていいました。また、第二次世界大戦中には軍事施設もつくられ、戦後は畑として広く利用されていたそうです。

 縄文文化は「北から」という常識は、この発見で覆されたと思います。縄文早期に、既に土偶や耳栓が出ているのは、高度な精神文化を持っていた社会が実現していたことを示していると言えます。

 『紀』でニニギ尊の印象として「膂宍之空國:そししのむなくに」と形容しています。これは、従来はやせた土地と解釈されていましたが、そししとは獣の背の肉でそこからむねにかけての肉は、しもふりで甘い肉であり、豊穣の土地と言う褒め言葉である」と谷川健一氏は述べています。このように豊かだと言われた南九州だからこそ、これほどの縄文文化が花開いていたのでしょう。海の幸、山の幸に恵まれた土地柄だった。皇祖が住んでいた土地であっても、何ら不思議ではありません。

 この遺跡から桜島を見て、180度目をかえすと、高千穂峯が見えるそうです。古代の人々にとっても、神の降臨するに相応しい山容と見えたであろうとは、『古事記の真実』長谷部出雄著 に記してあります。




[11837]Re: 日前国懸神宮かたばみ 投稿日:2016年 7月24日(日)23時24分
神奈備さんへのお返事です。

>A 日前国懸両大神宮が天降りました時に、天道根命は、従臣として仕え始めた。

参考図 銅鐸分布図に天火明命(とその随伴者)の航路推定図を加えたものです。
(銅鐸分布図のみはHPに大判を暫定アップ)

BC130頃、天火明命は(先代舊事本紀の書く)随伴者を従えて尾張(農耕適地)をめざした。
紀ノ川河口付近でひと休み。
随伴者のだれかがここに拠点を作ったと思います(おそらく奈良盆地の存在はまだ知らない)。
その痕跡が残る可能性はあると思います。

ただし、銅鐸の分布のごとく、その地は後に出雲の版図になり、痕跡はほとんどが出雲文化圏に吸収されて消えたと考えています。
その痕跡が残っていても、周囲との関連は失われて先代舊事本紀や書紀の書く記述に準ずる他はないと思います。

ちなみに神武東征説話での敗北も淡路からの直接上陸作戦を書いたものでしょう。
実際には神武ではなく「開化東征AD240頃」ですが、書紀に準ずるなら神武がからむことになると思います。
銅鐸分布からもこの方面は出雲の強力な防衛地域(高地性集落があります)。
軍船の動きはまるみえで、四方から囲まれたらどうにもならない。
そこで開化は迂回して紀州熊野からの山越えの攻撃に作戦変更・・

さて、天火明命は尾張に到着。
注目するのは熱田神宮と、朝日遺跡です。
天火明命の行動と重なる位置にある、加えて出雲の版図に含まれてもゆき、熱田神宮は「複雑な過去」を持つ伊勢よりはるかに古い起源があると考えています。
こちらも書紀の記述に準じて平安中期あたりに現在伝わる縁起になったものと思います。

ちなみに天火明命自身が若狭まで進出とは考えていませんが、「物部氏の祖先」が若狭にまで進出したと考えています。
BC80あたりか、安曇氏とも接触。
この頃出雲は瀬戸内から奈良に進出。

AD30頃。大国主命が島根に引退、その子等も山陰沿岸に展開。
以前は日本海側の氏族の流れは天穂日命の後裔がメインとみていましたが、現在は違います。
大国主命の後裔がメイン、大国主命の子とされる鳥鳴海神の流れが大きいとみています。
出雲系海人の安曇氏もこの流れに添っていると考えています。

すなわち後の重要氏族となる日本海系氏族のメインは大国主命の後裔。
九州北岸では神武系天孫と混じる、筑紫の磐井の祖先。
若狭〜北陸では彦坐王を経由して男大迹王(継体)に至る。

男大迹王は尾張連の娘を妃に入れていますが、天火明命−若狭の流れによるもので自然だと思います。
その系譜は安閑、宣化、敏達、舒明、天武に至る(仁徳系譜はとっくに消滅(^^; )。
天智は筑紫の磐井の系譜であって(欽明−用明−多利思比狐)、もともとはやはり日本海系氏族の流れを持つ。
聖徳太子も推古もでてこない・・(^^;
うんぬんかんぬん・・





[11837]Re:豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月24日(日)08時03分
とみたさんへのお返事です。

おはようございます。


> 海の民も、得意不得意があるのでしょうし、本拠地もあって縄張りがあるやもしれません。

>
> 阿曇族と宗像族は違うのでしょうか。
> 隼人は南九州つまり肥後から薩摩あたりが本拠なのでしょうか。薩摩隼人と大隅隼人。こちらは阿多、吾田などの呼び方ですね。
>


当地南九州では、過去、遺跡や遺物らが無造作に廃棄されたので
なかなかです。
平成に入って、九州縦断道路や新幹線らの工事中に
古代の眠っていた遺跡が。。
大抵が縄文時代です。
神話伝承は縄文早期でしょうか。。
これまた遺構は難しい。。

皆さんのお知恵を頼りに史資料を精査していますが。。
事象成り遺構・遺物が欲しい。。

> 対馬は津島つまりたくさんの入江がある島とされるのが森浩一(故人)先生です。対馬の海神(ワダツミ)神社は延喜式の式内社です。

先生とは生前、ご来鹿された折、暫しお話を。
先生の監修された「日本の古代」(中公文庫)シリーズを読み漁ったのを
懐かしく思い出しています。

今日は、鹿児島市の「御祇園さ〜」です。
神輿行幸は午後です。
昔、百歳の父と何度か見物しました。。とにかく暑かったのを
覚えています。

○鹿児島市の祇園祭
○隼人の末裔・弥五郎祭り(曽於市岩川)
弥五郎は三兄弟だそうです。
詳細は拙宅ページへどうぞ。







[11836]豊玉姫とみた 投稿日:2016年 7月23日(土)23時38分
海の民も、得意不得意があるのでしょうし、本拠地もあって縄張りがあるやもしれません。

常識的には、玄界灘の玄関口の志賀島を本拠とするのが、阿曇族。守護神はワダツミ。
委奴国の金印が出ていますから奴国の海運を担当していたのでしょう。
住吉族は博多湾の那の河の入口が本拠でしょう。4−5世紀になって応神ー仁徳時代になると大阪湾の住吉に移るのでしょう。

3世紀の半ばには、博多湾が交易の中心地ですが、4世紀半ばからは博多湾を経由せず、大和朝廷が沖ノ島を経由して(航海の安全を祈願した祭りをして)朝鮮半島の南部に赴いた。

宗像族が勢力をました。この本拠は宗像の辺津宮(田島)でしょうか。
宗像は胸形つまり入れ墨(文身)をしています。
阿曇も文身をしています。

阿曇族と宗像族は違うのでしょうか。
隼人は南九州つまり肥後から薩摩あたりが本拠なのでしょうか。薩摩隼人と大隅隼人。こちらは阿多、吾田などの呼び方ですね。

志賀島の志賀島神社が綿津見神を祀る宮司は今も阿曇氏です。
志賀海神社の祭神は阿曇磯良で海藻(わかめなど)を採るのが仕事でしょう。

阿曇は北部九州から瀬戸内海や近畿に進出する。

住吉も北部九州から瀬戸内海や畿内に進出する。
阿曇と住吉はどう違うのでしょう。

瀬戸内では海藻は採れないようです。回遊して魚を採るのでしょう。海藻採りは日本海岸でしょうね。北部九州は海藻は採れます。

魏志倭人伝で末羅国は魚鰒を捕え水に沈没して取るとされています。
万葉集歌ではでは志賀の白水郎は釣りと魚火と藻塩作りです。
白水というのは泉を分解したことば、つまり白水郎は中国の泉州の海の民のことを指します。

阿(安)曇族は、中央の貴族は安曇連とか宿禰で地方地方の現場の安曇部民を統括します。
各地の部民は海部と称するようですね。

信州の松本には安曇族が来ています。安曇村です。

対馬には豊玉町があります。最も弥生時代の遺物が出るところです。
対馬は津島つまりたくさんの入江がある島とされるのが森浩一(故人)先生です。対馬の海神(ワダツミ)神社は延喜式の式内社です。




[11835]Re:豊玉姫とみた 投稿日:2016年 7月23日(土)22時50分
今日は東京は比較的涼しいのでパソコンの前で、キーを叩けます。
みなさんから賑やかの投稿していただいて有難いです。

10数年、古代史探求も神社から始めて、文献に移り、そして考古学にかなり嵌りました。
そして再度神社を見たら何かわからないかと思っています。

豊玉姫は因幡の白兎神社だけでなく、日本海沿岸では若狭小浜の若狭一宮の若狭彦神社と対の若狭姫神社の祭神ですね。若狭彦神社の祭神は、彦火火出見尊だから山幸彦です。

山幸彦と海幸彦は山の幸が竜宮城に行って亡くした釣り針を見つけます。
山幸は支配者で海幸は支配者に従う側でしょう。

海幸は海の民で、いろいろな役割で奉仕するのでしょう。漁猟で魚を採り、海藻を採集する。
海上輸送をする物流。交易をして稼ぐ事もあるでしょう。後になると兵隊を運んだり、海賊になるかもしれません。




[11834]Re:豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月23日(土)09時49分
琉球松さんへのお返事です。

>  日本神話では豊玉姫はサメですが、同時に龍や亀でもあるのでしょう。
>  彼女は実在の人ではなく、産屋(溶鉱炉)でウガヤフキアエズ(銅鏡)を "出産" した銅鐸だと解釈できるかもしれません。銅鐸信仰から太陽信仰への転換でしょうか。
>
> 以下『日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の生死観/谷川健一(富山房インターナショナル)2012 』より

おはようございます。
谷川健一先生の御紹介ありがとうございます。
信州の「海洋の民」についても一考されてますが
伝承の背景は奥が深いですね。。

幼い頃、田舎では、味噌や醤油を造ってました。
ある日、蒸籠の蓋を開けて
こっぴどく怒られた事を思い出します。

味噌は、出来ず、いぶされて煙り臭くて
とても賞味出来ませんでした。
母が数日も丹精かけたものが、、、
あれ以来、自宅では造らなくなりましたっけ。。

溶鉱炉や龍り窯、、染色にしても、、
途中での不本意な手順は命取り。。
そんな警鐘もあるんでしょうか。

南九州では、火山の噴火で埋没した村が
記紀に記述されていますが、、、
発掘され脚光を浴びるようになると
また、「邪馬台国論争」が彷彿と。。

当地では、近年(この7年で)
國府比定地辺りの住宅が改修ラッシュで、、
ピカピカの豪邸が。。。
建設前に何度か所轄の窓口にその旨
お知らせしたのですが、、、
さっぱりでした。。
(この地は、私のホームドクターへの通り道で
2週間おきの受診に、、)

未だに「國府址は不明」のまま。



[11833]Re:山陰の旅、豊玉姫琉球松 投稿日:2016年 7月22日(金)13時39分
日本神話では豊玉姫はサメですが、同時に龍や亀でもあるのでしょう。
 彼女は実在の人ではなく、産屋(溶鉱炉)でウガヤフキアエズ(銅鏡)を "出産" した銅鐸だと解釈できるかもしれません。銅鐸信仰から太陽信仰への転換でしょうか。

以下『日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の生死観/谷川健一(富山房インターナショナル)2012 』より
*** 産屋は『日本書紀』には「無戸室」と記され、『古事記』には「戸無き八尋殿を作りて、その殿の内に入り、土を以ちて塗り塞ぎて」とある。(略)
 ヒコホホデミが産屋をのぞきみしたというかどで、トヨタマヒメは本つ国の「わだつみの宮」に帰ってしまった。
 女が動物の姿をあらわして水浴をしている姿をのぞきみされたために去っていくという話は、世界各地に分布している。豊玉姫の物語はその一つの類話にすぎないようにみえる。中国の晋の『捜神記』には、ある女性が水浴中に亀に変じたとあり、その姿を見られて、深い淵に入ってしまった。そこで、その家では代々亀の肉を食わなかったとある。また高麗でも、龍王の女をめとった男が、窓の外にある井戸から龍宮と往来する妻の姿をのぞきみしたので、龍王の女は龍の姿をあらわして、とうとう井戸に入ってしまったという説話がある。(略)
 産屋はあとで火をつけて焼かれ、こわされて、海に流された。私が産屋を焼いたという丹生の話を重視するのは、『古事記』にコノハナサクヤヒメが、戸のない大きな家屋を作り、その中に入って土をもって塗りふさいでその殿に火をつけて産んだという記述があるからである。また垂仁帝の条に、稲城を焼くたときに火の中から生まれたからその子はホムチワケと名乗ったという一節がある。ホは火、ムチは尊称である。***

画像は、鵜戸神宮本殿前方の「霊石亀石」





[11832]Re:山陰の旅、豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月22日(金)10時02分
かたばみさんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。

>
> 情報の真偽と流動性(変化)、古い情報と最新情報、様々を(固定概念抜きで)組み合わせるとなにが見えてくるか。
> 難しくもあり、面白くもありですね。

おはようございます。
神話伝承の背景を模索するのは楽しいです。
歴史探訪はいつも「謎解き」の連続。。
歴史的な背景と事象・遺構や遺物らを繋げて、、、
だから今も楽しく続けられている。。
そんなところでしょうか。。。

もし9500年前の縄文時代の集合住居遺跡らが
出現しなかったら、、、、
神話伝承もここまで「信憑性」を持たなかったのでは。。
例の「神の手」以来、縄文が霞んで
徐福伝承が、頓挫しているのはちょっと残念です。




[11831]Re:山陰の旅、豊玉姫かたばみ 投稿日:2016年 7月21日(木)22時05分
今井よりさんへのお返事です。

>地元の文化財では認識していないようです

串間の穀璧については16年ほど前に私のHPでも書きました(8章初期開拓者→穀璧と支石墓)。
日本の古代遺跡25宮崎/保育社によれば、財団法人前田育徳会所蔵(国宝)のようですが、現在どうなっているかは未確認。
発見時に隣接して鉄剣腐食の痕跡とみえる状況があったらしいけれど、近代考古学の手順による発掘ではないのが残念。

余談
東北大震災後の調査で土佐市蟹ケ池に大津波痕跡の発見があった。
http://www.jamstec.go.jp/donet/rendou/report/predict02.html
海人系の釣り針の話は東南アジアにもありますが、海幸山幸神話では海の民が海に溺れるのが特徴的。
なぜ?と思っていましたが、巨大津波に襲われたのなら納得できます。
(土佐の田村遺跡にも泥土埋没痕跡と遺跡の一時衰退あり、弥生の南海大地震だろうと思ってます)
その痕跡年代は持論シミュレートにどんぴしゃ(^^)

記紀の神武東征説話に兵士がばたばた倒れる謎めいた事象が書かれています。
なんだろうなあ、このネタの源は・・

https://gbank.gsj.jp/volcano/cgi-bin/volcanic.cgi?id=080
こちらは「小さな噴火」ではありますが、みっけ(^^)
神武は(大分へ進軍中に)由布岳の噴火に遭遇したのだ・・これも地質年代どんぴしゃ(^^)

情報の真偽と流動性(変化)、古い情報と最新情報、様々を(固定概念抜きで)組み合わせるとなにが見えてくるか。
難しくもあり、面白くもありですね。



[11830]Re:山陰の旅、豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月21日(木)08時23分
かたばみさんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
> 琉球松さんへのお返事です。
>
>
> 九州縄文は鬼界カルデラの噴火でBC5300頃にいったん壊滅しただろうなあ。
> (アカホヤ火山灰、上野原遺跡などおそらく日本最古の縄文の消滅)

かたばみさんのお話はいつも興味津々です。

研究者はそのようなお話の様です。

「パミス」なんて、この歴史探訪を初めてから
知ったことで。。。
探訪や登山時には、崩れた崖に目が移り、地層を追ってます。



>
> 大隅半島の串間市(玉の山古墳)から穀璧(玉璧)が発見されています。
> http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52384712.html
> (近代の考古学的発見ではなく、江戸時代だったかな古墳から出土したとされる伝世品)

これに関しては、地元の文化財では認識していないようです。
以前、メールで確認しています。
江戸時代の発見で、遺物が見当たらないようです。

それと、以前、yahooのオークションに
古墳の遺物が出品されていて物議を。。

先日も、志布志辺りの古墳探訪時の写真を眺めていました。

ありがとうございます。また宜しくお願い致します。



[11829]Re:山陰の旅、豊玉姫かたばみ 投稿日:2016年 7月19日(火)20時47分ui;
訂正です。
>そして鵜草葺不合尊(志布志湾、吾平山上陵付近、玉の山の穀璧)が種子島に白米を運ぶ(広田神社、宝満神社)。

広田神社ではなく浦田神社です。
おそらくですが、宝満神社は鵜草葺不合以前の赤米だろうと考えています。




[11828]Re:山陰の旅、豊玉姫かたばみ 投稿日:2016年 7月17日(日)19時51分
今井よりさんへのお返事です。
琉球松さんへのお返事です。


九州縄文は鬼界カルデラの噴火でBC5300頃にいったん壊滅しただろうなあ。
(アカホヤ火山灰、上野原遺跡などおそらく日本最古の縄文の消滅)
屋久島の縄文杉もこれ以降のものでしょう。
でも鬼界カルデラから千年ほどたてば山林は復活しているはず。

それが屋久島で発見された横峯遺跡(旧石器〜縄文、縄文は竪穴住居400戸ほど、BC1500?頃)ではなかろうか。
南九州の考古学での検証はまだまだこれからだと思いますが、少なくとも鬼界カルデラ以前の縄文は東日本の狩猟系旧石器からの縄文とは異なる流れを持っていたと考えています。
参考図 旧石器から縄文初期頃の列島周辺


さて、それはおいて・・
縄文〜弥生、南西諸島系の海人は漁労メインとして九州以東の縄文との交易は海人上位だったと考えています。
縄文はゴホウラ貝がぜひほしい、海人側の対価は数頭の猪あたりか。
(黒曜石なら1対1かなあ、九州代表は大分の姫島)

縄文の寒冷化(BC2000〜BC1000頃)では九州山岳部では落葉広葉樹も登場、「東日本的縄文」として復活可能か。
この頃信州縄文は寒冷化で壊滅状態、近畿縄文は西へ移動開始(これが伊弉諾伊弉冉神話の源と推定)。
この頃の九州南部に登場するのが隼人族の祖先と考えています。漁労と狩猟の複合です。
(鬼界カルデラ以前の縄文とつながるかどうかはなんともいえず)

大きく様相が変わるのが弥生、北九州で農耕が発達を始めたとき。BC500あたり以降。
水朗はまだ未発達としても、豆や小麦や野菜など半島経由の最新の畑作物の登場です(山陰含む)。
初期開拓者+縄文(大山祇神)のグループの登場(記紀では天照大神(グループ)の原型、持論でアマテラスと称す。
おそらくは遠賀川流域始発で一部は瀬戸内から紀ノ川遡上(遠賀川土器と縄文の共存)。
(記紀の書く五十猛命や大屋彦命はこれに属す)

以降、海人との交易の様相が変わったと考えています。
ゴホウラ貝の対価がそれまでの海人にはなかった食糧の小麦や大豆に変化した。
(小麦+猪(豚)=ソーキ蕎麦の登場・・嘘です(^^; )
縄文が求める、から海人も求めるへの変化。海人の交易の主力は一気に山陰にまで拡大した。


ハイヤ節という歌(踊り)があります。
熊本県牛深市が発祥とされますけれど・・西南諸島系〜北九州系海人の歌と踊りに起源を持つのではないかと考えています。
その同類は全国の港に伝播(新しくは北前船などによる伝播)。
有名どころでは阿波踊り、佐渡おけさ、おはら節、ひょっとして青森ねぶたのお囃子・・

沖縄のエイサーもハイヤ節と同列ではないかと考えています(現代のそれは中国の影響大と思う)。
縄文の歌と踊りがいかなるものであったか・・強い二拍子のハイヤ節、なんか自然に体が動き出す。
神武さんも宴会で踊っていたかも。記紀が書くような「奇妙な詩歌」じゃないものを・・


大隅半島の串間市(玉の山古墳)から穀璧(玉璧)が発見されています。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52384712.html
(近代の考古学的発見ではなく、江戸時代だったかな古墳から出土したとされる伝世品)
穀璧は鏡のような交易で入手できるような品ではありません、中国の王族しか持てない。
前漢時代の穀璧がなぜ大隅半島からでたのか。
いつの時代かにそういう王族がここに運び、いつの時代かに古墳に副葬されたとみるのが妥当でしょう。

北九州からも破片がでています。
「天孫降臨の物証」に限りなく近いと考えています。
おそらくは複数枚が北九州に持ち込まれ、天孫降臨の当事者に別けられて本家は北九州(天之忍穂耳、呉楚七国の乱からの脱出者、BC154)。
穀璧を持つ分家のひとつが瓊々杵尊(神阿多津姫、西海岸、薩摩川内市付近)。
もうひとつが天火明命(木花開耶姫、東海岸、日向市付近)。


持論シミュレート
そして鵜草葺不合尊(志布志湾、吾平山上陵付近、玉の山の穀璧)が種子島に白米を運ぶ(広田神社、宝満神社)。
神武誕生(吾平津姫、鹿児島)、隼人族(陸戦隊)を率いて北九州へ(紀元前後頃)。
この頃の北九州のほとんどは素戔鳴尊と大己貴命の後裔による出雲の版図(吉野ヶ里などの大集落含む)。
その指導者は大国主命(大分)・・

神武海軍のメインは西海岸の瓊々杵系かな。
椎根津彦(珍彦)が大国主命の国譲り(神武の九州統一)後に後漢の楽浪郡と交易開始・・
後に倭人伝が書く奴国(委奴国、伊都国)が当時の神武の拠点。
倭人伝が書くもう一つの奴国が鹿児島(後漢書の書く倭国の極南界)、すなわち漢委奴国王の誕生地。





[11827]日前国懸神宮神奈備 投稿日:2016年 7月14日(木)20時50分
以下、『日本の建国史ー三替統合の精華ー』 田中卓 國民會舘叢書 を参考にして述べる。

 『天孫本紀』には、饒速日尊は天磐船に乗り、まぜ河内国河上哮峯に天降り、それから大倭国鳥見白庭山に天降ったとしている。饒速日尊は長髄彦の妹の御炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を誕生させている。饒速日尊の降臨の伴として三十二人があげられており、その六番目に天道根命の名がある。この天道根命については、『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。

A 日前国懸両大神宮が天降りました時に、天道根命は、従臣として仕え始めた。
B 神武天皇が二種の神宝を天道根命に授け、奉戴せしめた。
C 天道根命は二種の神宝を奉戴し、紀伊国名草郡毛見郷に到り、琴浦の地に奉安した。
D 神武東征の時、両大社の神徳によって群虜を平定し、その賞として、天道根命に紀伊国を賜い、国造に補せられてより、両大神に奉仕した。

 この所伝AとDとからは、神武東征の前に日前国懸大神がすでに鎮座し、これに天道根命が仕えているよ読める。そうすると、Bの文は何だろうか。場違いのようであるの無視する。

 日前国懸神宮の鏡についての解釈はいくつかある。
a 天照大神のよりしろとなる鏡は二種あって、一つは伊勢神宮の鏡で天懸神、二つ目は日前神(国懸神)である。
b 日前神の鏡は最初に鋳られたもので、少し意に会わないもので、「天照大神の前の御霊」である。
c 日前国懸神宮の所伝では、初度に鋳る鏡を日前大神とし、日矛を国懸大神とする。

 『天孫本紀』と『紀伊国造家譜』を考え会わせれば、日前神とは饒速日尊のよりしろの鏡のことと理解できる。饒速日尊は天火明命のことであり、邇邇芸命の兄であるので、天孫族である。
 饒速日尊は物部氏尾張氏の遠祖であり、この両氏は天皇の親衛隊として活躍することになる。その饒速日尊に供奉し、紀伊国の平定に力のあった天道根命を初代紀伊国造に任じ、日前国懸神宮の祭祀を続けさせた。

 奈良時代の中頃には神社に神階があたえられたが、伊勢神宮と日前国懸神宮は神階を与えようがなかったのは、天孫族の祖としての、天照大神と饒速日尊を祭祀しているからと思われる。

  また、出雲大社を祀る出雲氏と紀伊氏には国造制が廃止された後も国造を継続することができた。出雲国造神賀詞が国造の交代の際に、朝廷で読み上げられたが、紀伊国にもあったと思われるが、残念乍残っていない。服属の儀礼であるが、また名誉なことでもある。

 日前国懸神宮は日前神と国懸神の二神を祀ったのはいつ頃からだろうか。
 『日本書記』に、天武天皇朱鳥元年(686)秋七月に、奉幣を紀伊国懸神に献じて病の恢復の祈願をしている。また、720年編纂の『紀』の天岩戸の物語の一書第一には、紀伊国においでになり日前神との表現がある。 この間に日前神と国懸神とが明確になったものと思われる。それまでは日前に居ます国懸神だったと思われる。日前を地名とみることができる。これは大和飛鳥の檜前もそうだ。

 日前座国懸神がやがて日前神と国懸神との分化し、本来の祭神の饒速日尊は国懸神であり、新たに天照大神を日前神としたのではなかろうか。




[11826]Re:山陰の旅、豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月13日(水)14時14分
琉球松さんへのお返事です。

>  「豊玉姫」について、以下のような解釈があります。
>  沖縄奄美からの見解の一つですが、参考になるでしょうか。
>

> 画像は、貝の道模式図『貝交易の語る琉球史(木下尚子)』

どうもありがとうございます。
貝の道の図も、帰郷して
「隼人研究会」辺りのセミナーで知りました。
もう20年位前のことで、9500年前の上野原縄文遺跡の発掘ブームに
湧いてる頃でした。目から鱗でした。

天智天皇の「トヨタマヒメ」伝承は、
平安時代の「小右記」、「中右記」や「御堂関白記」らに
散見される当時は貴重品の「檳榔(枇榔)」から派生しているようです。
一応、ページにピックアップしましたが、、」
まだ検証までに至っていません。。

幼い頃は、大抵、庭先にこの枇榔の樹が茂っていたものですが
最近はとんと見かけません。

当地、鹿児島神宮のご祭神「豊玉姫」に関しては
南洋との繋がりも垣間見れますが、、
なんせ史資料や遺物が皆無では、、
推論の域を出ません。

ま、上野原縄文遺跡を彷彿とさせるような遺構が
出現することを祈るのみでしょうか。



[11825]Re:山陰の旅、豊玉姫今井より 投稿日:2016年 7月13日(水)11時03分分
かたばみさんへのお返事です。

>
>
> 海人の行動範囲と移動速度は広範囲かつ高速、陸の人々のそれとは比較にならない。
> また意識としても狩猟民と同じで、田畑での境界線(国境)なんてのはない。
>
> 南西諸島系海人は東シナ海系の海人を含みBC2000以前の長江の三苗渡来にまで遡り、記紀では大綿津見神と書かれると考えています。
> その文化圏は書紀が書く神皇産霊尊におおよそイコール。
>
> 縄文でも沿岸部の漁労民の一部は交易に参与していたと思います。
> 北海道礼文島からはイモガイの装飾品が出土していますが、少なくとも九州との交易存在がうかがえます。
> 航海の安全性からみても日本海沿岸経由だと思います。
>

> ゴホウラ貝など南西諸島系海人との交易もこのグループ。
> 安曇氏の祖先もこれに属す。系譜は大綿津見神−穂高見命(宇都志日金拆命)−安曇氏。
> 北アルプスの穂高や安曇の地名の語源。
> なぜ山中に海人の安曇氏が・・まずは糸魚川から翡翠の交易。東北縄文に運んだと思います。
> (糸魚川遡上で翡翠の探索、諏訪周辺の黒曜石も東北へ輸送したかもしれない)
> 後に金属資源探索に従事と考えています(宇都志日金拆命の名がそれをうかがわせる)。

これらの検証のバックデーターとして
全国の「埋蔵文化財報告書」の閲覧に
地元、霧島市の上野原縄文遺跡に出向いていたのですが、、
赤字のバス路線が廃止になってページ更新も頓挫しています。

最近は、島津藩の祖・忠久の赴任地、信州にも夢を馳せていますが。。
こちらも史資料不足で、、
精査もなかなか捗りません。





[11824]豊玉姫琉球松 投稿日:2016年 7月 9日(土)10時36分
「豊玉姫」について、以下のような解釈があります。
 沖縄奄美からの見解の一つですが、参考になるでしょうか。

『邪馬台国総合説 赤椀の世直し/名護博(ゆい出版)2001 』より
*** 豊玉姫とその妹の玉依姫が、もともと凶暴なワニでありながら「玉」で表されるのは、彼女らが貝や石で出来た美しい腕輪すなわち「玉」でもあったからであろう。豊玉姫姉妹は反面は銅鐸であり、もう一方の反面がそれを再生させるゴホウラであり、そのゴホウラは太陽を象徴するものであった。
 このように考えると、邪馬台国運動を主導した人々が、「南島は竜宮であり、常世国である」と理想化した上で、種子島以南の南島を「世直し」の装置として、最大限に利用したことが推定できる。おそらく沖縄は、邪馬台国連合にとって教育センターのような働きをしたのではないか。



画像は、貝の道模式図『貝交易の語る琉球史(木下尚子)』



[11823]Re:山陰の旅、豊玉姫yori 投稿日:2016年 7月 4日(月)17時48分
とみたさんへのお返事です。

> 豊玉姫は海の神なのでしょうか。
> 教えてくださいませんか。
>
> 綿津見の神なのでしょうか。
> 宗像の宗像族や奴国の安曇族や住吉族の海の民と棲み分けとか時間差があるのでしょうか。

鹿児島在住ですが、地元には
鹿児島神宮が鎮座します。
ご祭神は、この彦火火出見尊と豊玉姫です。

鹿児島神宮は、神社探訪で
また、「海洋の民・隼人」は
隼人探訪で御紹介しています。

「貝の道」は、この歴史探訪を初めてから知りました。
一応、学校では「黒潮ルート」は習いましたが。。。

鉱物資源や遺物・遺構らを
埋蔵文化財報告書からピックアップしています。

当地の上野原縄文遺跡には全国のこの史料があるので
何度か閲覧に通ったのですが、
赤字路線のバスが廃止になって久しく
足が無くなって、このルート検証も頓挫状態です。

各地の埋蔵文化財報告書の公開を待ちわびています。

余談ながら、当地には
「豊玉姫」は、九州王朝の天智天皇伝承説にも登場します。
もちろん別人ですが、、、

これも、歴史探訪の「天智天皇伝承」をご覧ください。

宣伝になって申し訳ございません。




[11822]Re:山陰の旅、豊玉姫かたばみ 投稿日:2016年 7月 3日(日)20時14分
とみたさんへのお返事です。

>連想ゲームみたいですね

パズルでもあってこれが楽しいですね(^^)
以下長文かつ錯綜します、ご容赦。

豊玉姫の説話の最古は彦穂々出見尊の妻、鵜草葺不合尊の母とその離婚ですね。
彦穂々出見尊や鵜草葺不合尊はどこに住んでいたか、あたりがスタートになりそうですが、豊玉姫は「海人の娘」で間違いないと思います。
説話の内容からは九州南部、すなわち南西諸島系の海人の娘と考えています。
(琉球松さん紹介の江戸時代の奄美の風物史「南島雑話」に鰐退治の絵があります)
では、それらの伝承がどのように後世につながってゆくか。

海人の行動範囲と移動速度は広範囲かつ高速、陸の人々のそれとは比較にならない。
また意識としても狩猟民と同じで、田畑での境界線(国境)なんてのはない。

南西諸島系海人は東シナ海系の海人を含みBC2000以前の長江の三苗渡来にまで遡り、記紀では大綿津見神と書かれると考えています。
その文化圏は書紀が書く神皇産霊尊におおよそイコール。

縄文でも沿岸部の漁労民の一部は交易に参与していたと思います。
北海道礼文島からはイモガイの装飾品が出土していますが、少なくとも九州との交易存在がうかがえます。
航海の安全性からみても日本海沿岸経由だと思います。

さて、BC500あたりでは大陸の春秋戦国からの避難民や半島からの避難民が列島にやってくる。
記紀でいう大年神グループの渡来(HP大年神と弥生農耕参照)。
これが弥生の始まりと考えています。書紀の書く高皇産霊尊の文化圏におおよそイコール。

この人々と北九州縄文(大山祇神)との結合が書紀での天照大神の源流であり、持論にてアマテラスと称しています。
まずはその渡来者の遭難救出と渡海支援に携わる海人、これが列島で最初の輸送という「新しい仕事」に携わる海人の登場だと考えています。

むろん漁労や交易もやる、半島南岸部と北九州の海人の一体化でもあります。
縄文にもまたがる年代であって、書紀が書く伊弉冉伊弉冉尊の文化の範疇に含むと考えてもあながち誤りでもない。
(素戔鳴尊を伊弉諾尊から生まれたとする神話)

これらが記紀の書く宗像三女神の祖先といったところとなります。
同じく記紀の書く五男神のうちの天津日子根命と活津日子根命もこのグループに属する海人とみています。
(天津日子根命は東シナ海に近く活津日子根命は日本海に近いグループか)

ゴホウラ貝など南西諸島系海人との交易もこのグループ。
安曇氏の祖先もこれに属す。系譜は大綿津見神−穂高見命(宇都志日金拆命)−安曇氏。
北アルプスの穂高や安曇の地名の語源。
なぜ山中に海人の安曇氏が・・まずは糸魚川から翡翠の交易。東北縄文に運んだと思います。
(糸魚川遡上で翡翠の探索、諏訪周辺の黒曜石も東北へ輸送したかもしれない)
後に金属資源探索に従事と考えています(宇都志日金拆命の名がそれをうかがわせる)。

さて、素戔鳴尊がやってきます(箕子朝鮮崩壊からの脱出者とみる、BC190頃)。
「出雲」のはじまり。
素戔鳴尊は内陸系で船は苦手。記紀の説話でも船を作らねばならないといってます。

その娘の須勢理姫と結婚するのが大己貴命。
東シナ海系の海人とみています(少彦名命も同様、神皇産霊尊の手からこぼれたとされる)。
素戔鳴尊グループは航海技術を入手。
ここからは記紀の記述には要注意(^^; 出雲風土記も同様。
書紀は大己貴命が国譲りしたとして、以降の出雲の存在を消去するからです。

東シナ海系海人の大己貴命と安曇氏(の祖)と南西諸島系海人が交易を行わないはずはなし。
ここで南西諸島−九州南岸−九州北岸−日本海沿岸という海人の交易リンクができあがる。

大己貴命と宗像三女神の多岐都比賣の間に味耜高彦根命が誕生。
海人同士の子、むろん海人でしょう。他のあちこちでも子を作る(^^;
後の天之稚彦命と容姿が似ているとされる、同じ東シナ海系海人で衣装のデザインも同じだったのではないかな。

海部氏系図(国宝)の補足資料に勘注系図があります。

http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/index.html

「大己貴神娶多岐津姫命亦名神屋多底姫命」とあります。神屋楯比賣=宗像三女神の多岐都比賣でよいと思います。


出雲は北九州のほとんどに版図を広げて瀬戸内へも進出中。
その海運を担ったのが味耜高彦根命とその子孫だと考えています。行動範囲は出雲の拡大に等しく、メインは瀬戸内。

書紀は大己貴命の国譲りで、以降に出雲は存在せずとして出雲を抹消したために、困ったのは古事記(^^;
「別名処理」で矛盾を回避しようとした(出雲風土記も同じ)。
これによって大己貴命の事跡が大国主命の事跡のごとくにもされ、味耜高彦根命が大国主命の子のごとくにも解釈されてしまった。
古事記自身が大国主命は素戔鳴尊の6世孫と明記しているにもかかわらずです。
(HP弥生〜古墳初期 出雲と天孫参照)

因幡の白ウサギの鰐は南西諸島と東シナ海系の交易によって山陰にまで広まり、これに最新の医療技術の伝播が重なっていった説話と考えています。
少彦名命は薬と酒の神様とされます、大己貴命とともに最新の大陸文化の伝達者だと思います。

素戔鳴尊渡来の40年ほど後に天之忍穂耳尊が渡来、BC150頃。
(呉楚七国の乱BC154の呉の王族とみています)
このころの素戔鳴尊勢力(出雲)の版図は北九州のほとんどに拡大。
先住だった初期農耕+縄文のアマテラスグループは阿蘇山中へ避難(櫛名田姫はここに属す)。
記紀神話では大気都比賣命の殺害など素戔鳴尊と天照大神の「不仲」にその痕跡を残す。

天之忍穂耳尊はアマテラスグループを支援しながら(天の岩戸神話)、手狭の北九州から九州西岸と東岸へ二人の子を送り出す。
これが天孫降臨(HP天孫降臨〜神武と出雲 九州シミュレート参照)。
輸送者は長江系の最新の船と技術を持っていたはずです。
しかしその船と技術は1世代程度で消滅でしょう、九州に高度技術を継承できる下地がまだなかったから。

西海岸で瓊々杵尊、東海岸で天火明命。
後に東西が南西諸島系海人を介して結合(鵜草葺不合尊−神武)。
記紀で事勝国勝長狭神あるいは塩土老翁と書かれる海人グループの登場です。
豊玉姫と彦穂々出見尊、海幸山幸などの神話の登場でもあります(BC130〜100頃と推定)。

書紀は天火明命の後裔を書いておらず、天孫降臨を瓊々杵尊に一本化した。
(ここでも妃の名を木花開耶姫と神阿多津姫を別名として一本化)
先代舊事本紀では天火明命(饒速日)が尾張方面へ進出とし、その系譜を詳細に明示。

その(尾張氏)系譜と海部氏系譜のある時代まではほぼ一致しています。
むろん同族だから。天火明命あるいは随伴者の子孫のひとつが海部氏ということです。

この頃安曇氏族は出雲グループとして秋田にも達して資源探査中。秋田の銅発見についで東北を南下。岩手で餅鉄を発見。
青森に砂沢遺跡があります。近畿とほぼ同時代ともされる水稲遺跡です。
探索部隊の食糧生産用の水田だと考えています。
出雲系の文化と人が東北縄文と混じってゆく、これが蝦夷の祖だと考えています。

先代舊事本紀の天火明命に随伴した人々に五部物部や二十五部物部の随伴が書かれています。
船乗りや手工業者が含まれていますが農耕関係はない。
これが物部氏の祖、単独の人物を祖とするのではなく船を含む手工業関連の人々の複合です、物の部民ですね。

物部氏の祖先もまた資源探索を行う。ただし太平洋岸にはこれといった資源はなかった。
内陸への探査、琵琶湖方面へ。湖成鉄の発見、さらに日本海沿岸へ・・
尾張−関ヶ原−琵琶湖北岸−日本海、最短距離で太平洋と日本海が接続するルートです。
天火明命の子孫も展開、これが海部氏系譜に残された。籠神社=元伊勢(籠=手工業製品ですね)。

物部氏ははなから海運商社的な集団(ギルド)だと考えています。
貴人ではない物部氏の祖先、後に大豪族となって先代舊事本紀では天火明命=饒速日として高貴な祖を持つごとくに書かれた。

物部氏の祖の最初は天火明命の尾張への輸送であって、発進地は日向でしょう。
天孫降臨時の長江系の船の技術や手工業技術の流れを持つ(おそらく紙や布の技術も)。
最初の拠点は土佐の田村遺跡(物部川あり)。
ついで室戸を回って徳島の海部郡経由で淡路島から紀ノ川、紀州西岸を南下して熊野へ。
そして伊勢志摩から尾張濃尾へ、これが太平洋岸航路、といったところかな。

「開化の東征」ではまずは淡路島から堺市和泉市あたりへの上陸をめざすも失敗。
出雲側の防御態勢は強力だし、軍船の移動もまるみえだし。
そこで熊野に回って紀伊山地縦断作戦。
神武東征説話に登場する高倉下命、武器などの調達は物部海運商社のお手のもの。

安曇氏は出雲の崩壊(AD250頃)とともに消えて、痕跡が穂高や安曇の地名に残るのみとなった。
天火明命系譜は奈良の出雲中枢とも接触していると思います。
その痕跡が記紀の書く長髄彦、出雲に吸収された天火明命の末裔のひとり(書紀は饒速日の縁戚とする)。
濃尾の朝日遺跡には異なる文化の共存がみえますが、これも天火明命系と出雲系の混合によるものと思います。

天火明命の後裔は安曇氏とも接触していると思いますが、日本海沿岸では天穂日命系譜(出雲臣)や大国主命後裔とも重なり、系譜としてはちとやっかい。
これ以降では海部氏系譜と尾張氏系譜は異なるものになるわけです。

安曇氏と出雲臣と天火明後裔が交錯しながら、後の彦坐王に連なる「日本海系氏族」が登場する。
寒冷化による農耕不振とは無縁の豊かな漁労を背景にして勢力を拡大、島根−鳥取−若狭−能登半島。
(若狭湾の西側に大風呂南遺跡があります、そのすぐ隣が籠神社/元伊勢です)
彦坐王は越の男大迹王の直接の祖とみています。書紀は開化の子としますが大嘘でございましょう(^^;
(筑紫の磐井王も同族とみる)

大国主命の妃に鳥耳神があって、その子に鳥鳴海神があり古事記に8世孫が書かれています。
この8世孫はどこにいったのか(AD30頃以降、神武の九州統一時代)。
大国主命の引退先は島根杵築大社、事代主命はちょい東の美保神社、そのさらに東は鳥取。
鳥取には妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡の大集落があります。
鳥鳴海神の引っ越し先はここであろう・・社としては登場せず遺跡のみが残る。

すなわち大国主命の子孫は後の日本海系氏族に大量に流れ込んでいる・・
(鳥耳神は、「鳥取神」の誤記があったのではないかとみています)
後に卑弥呼の軍勢(書紀は四道将軍の遠征と書く)の侵攻でやられて8世孫(約250年)で記録途絶。


神武東征説話では饒速日で「何者かの東国への降臨」を臭わせています。
天火明命の後裔の拡大(拡散)は広範囲で、尾張濃尾から日本海沿岸にまで進出した。
その随伴者だった物部氏は古墳時代を経て強大な氏族に成長する。
(行動様式は商社的とみています、悪くいえば主義主張より実利(^^; )
だから高貴なる祖先がほしくなる≒先代舊事本紀の記述となる。

日本海沿岸、瀬戸内、太平洋沿岸、海人系譜を三つに大別して書紀は伊弉諾尊の禊ぎで住吉三神が誕生したと書く。
場所は関門海峡、すべからく九州から東への展開ですから神話としては妥当なところと思います。



[11821]Re:山陰の旅、豊玉姫とみた 投稿日:2016年 6月28日(火)05時08分
神奈備さんへのお返事です。

魏志倭人伝の時代、弥生後期ー古墳出現期は、朝鮮の狗奴韓国つまり金官伽耶から対馬ー壱岐原の辻ー玄界灘 唐津・糸島・博多の海路が主要ルートだと考えられます。

弥生時代後期後半になると、対馬から響灘?経由で山陰へ鉄素材を運ぶルートが開かれた様なのです。運搬には海の民が関与したでしょう。

対馬は北端の比田勝港と中西部の三根湾の峰町とその東の浅茅湾仁位浦が栄えます。

仁位浦は豊玉町があり、弥生時代後期に栄えるようです。
そこで豊玉姫が気になりました。

豊玉姫は謂わば,海人族の大女王でしょう。
それが因幡の白兎に関与しているのは何故かと不思議だったのです。
ワニを騙し海を渡ろうとした。ワ二との関係があります。
大国主に助けられて、大国主と因幡の八上姫との結婚の仲介をした。

八上姫は鳥取県河原町の勢力です。
豊玉姫は日向で葺アエズ神を産むとき、産小屋でワニの姿でした。

ワニや竜宮城に関係がありますね。そうすれば丹後の浦島太郎(嶋浦子)とも関係がありそうです。

丹後となれば、豊受神です。天照は伊勢神宮内宮、豊受は外宮です。
豊受は海産物の神、磯部氏、阿波忌部氏を連想します。

天日鷲命と関わりそうで、天日別は神武天皇の東征にも関係がありそうです。



>  『古事記』では、、豊玉姫は和多都美神(豊玉彦)の娘で、山幸彦と結ばれ、ウガヤフクアエズ命を生んでいます。おっしゃる通り、対馬に縁のある女神ですが、面白いのは、阿波国の延喜式内社に名方郡に天石門別豊玉比賣神社と和多都美豊玉比賣神社があります。阿波って不思議ですね。

阿波の天石門別は阿波(徳島)の矢野地方ですね。ここは銅鐸が出て丹(水銀朱)や玉の交易にも関連があります。

豊日霊(豊のヒルメ)とのことで、日霊(ヒルメ)=天照(アマテル)のお嫁さんです。

そういえばアマテルは対馬の阿麻?留神社
がルーツのようです。

連想ゲームみたいです。

>  それぞれの海人族は『日本書記』などでは、安曇氏が統括したとか、宗像海人と安曇海人な仲がよかったとか、いろいろ出ています。



[11820]Re:山陰の旅、豊玉姫神奈備 投稿日:2016年 6月27日(月)15時41分
とみたさんへのお返事です。

白兎神社は、どうやら。江戸時代に、大阪靭の氏神である御霊神社境内に再建されていたようでね。まったく、無縁ではない神様のようです。

 さて、祭神に豊玉姫神が名を連ねているのは、不思議なことです。

 『古事記』では、、豊玉姫は和多都美神(豊玉彦)の娘で、山幸彦と結ばれ、ウガヤフクアエズ命を生んでいます。おっしゃる通り、対馬に縁のある女神ですが、面白いのは、阿波国の延喜式内社に名方郡に天石門別豊玉比賣神社と和多都美豊玉比賣神社があります。阿波って不思議ですね。

 さて、白兎神社の祭神に白兎神と豊玉姫が並んでいるのは、白兎をひん剥いた鰐として、敵味方の融和の気持ちからではないでしょうか。

 それぞれの海人族は『日本書記』などでは、安曇氏が統括したとか、宗像海人と安曇海人な仲がよかったとか、いろいろ出ています。



[11819]山陰の旅、豊玉姫とみた投稿日:2016年 6月27日(月)10時18分
神奈備さん ご無沙汰しております。

先週山陰を旅してきました。
因幡の白兎で有名な白兎神社を訪れました。

祭神が豊玉姫であることを知りました。
豊玉姫といえば対馬の神ですね。

豊玉姫は海の神なのでしょうか。
教えてくださいませんか。

綿津見の神なのでしょうか。
宗像の宗像族や奴国の安曇族や住吉族の海の民と棲み分けとか時間差があるのでしょうか



[11818]琉球神奈備 投稿日:2016年 6月18日(土)14時03分
8. をなり神信仰の歴史  『琉球文学』屋嘉宗兄 から

1) 村落時代(3・4世紀から12世紀)
 御嶽が兄弟達(村の指導的男子、村長)の信仰の対象であるのと同時に、一切の社会的活動は、これを中心に展開された。つまり神託と加護が、村長の日常生活の支えであり、祭祀をとりおこなうことによって保たれて北。この祭祀を司ったのが姉妹=をなりであり、その神託により政治を行ったのが、村長であった。すなわち祭祀摘主権はをなりが持ち、政治的主権は村長が持つと言う政教二重主権の形態がとられていた。ヒメヒコ制であり、ここに「をなり神」信仰を見ることができる。

2)按司時代(12世紀〜15世紀)
  按司とは村長から発達した形態で、村落の均衡が破れ、各村を束ねた太村長を按司と言う。祝女(のろ)は、按司の支配下にある各村落のをなり達を支配した祭祀的主権者で、按司の姉妹(をなり)が任じられた。

3)王国時代(15世紀〜17世紀初期)
  第二尚氏時代の尚真王(1477〜1516)のときに。神女の組織化は完成した。中央集権を確立し宗教的統一により、それを維持しようとした。
 祭祀的主権者である聞得大君は国王の姉妹(をなり)から選択され、聞得大君を頂点とした大阿母志良礼(おおあむしられ)、その下に各村々に祝女(のろ)さらにをなりがいた。このことは、をなりの力がいかにおおきく政治におよんでいたかを示すものでありこの時代においても、政教二重主権の形態がとられていた。


9.勝連町の漁村の神歌

  『赤倭の世直し』名護博 現代語  勝連町は本島東側の半島の南部の町
 うーとーと うー尊        あー尊・あー尊いことだ
 いづがぎー あめーらわん   水掛け勧えても
 てだがぎー はくらって     太陽 掛け誇られて
 神のうんまりたちや       神の生まれ立たちは
 やまとのふそ(ん)のうたけ  大和の臍の御嶽
 うちなーならわん        沖縄だけになっても
 すぢがもとたてて        霊統の元をたてて
 うやの神はうんつけーしやびら 親の神におつかえしよう
 やまとからくだる        大和から降った
 あかわんのよーし       赤椀の世直し
 なかむらち うしゃくしゃびら 中盛らして御酌しよう
 やしろからくだたる      山代から降った
 くるわんのよーし       黒椀の世直し
 はたもらら うしゃくしゃびら 端盛らして御酌しよう
 『南島歌謡大成 沖縄編 上』

 自分たちの崇める神は大和の臍の御嶽のお生まれである、と言っている。これを唱える時、神女(のろ)達は匂玉を首にかける。匂玉を掛けるのは本土では古墳時代に終わっている。今、残っているのは沖縄だけである。古墳時代かそれ以前に伝わった神歌と考えられる。沖縄が崇める神はアマミキヨ(大和=天ノ宮)であろうが、シネリキヨと対の稲作の神である。何故、女神が大和から赴いたのかであるが、弥生時代末期までゴブウラやイモガイと言う貝が腕輪の材料としてもたらされていた。ゴボウラ貝は太陽の巻き貝と言われ、沖縄は常世の国だと思われていた。ここに赴いた女神は、ヒミコになった倭迹迹日百襲比賣命の妹の倭飛羽矢若屋比賣命が相応しかろうと考えているが証拠はない。



[11817]琉球神奈備 投稿日:2016年 6月18日(土)10時17分
7. ヒメヒコ制

 日本の女性は男性のもたない特殊な霊力をもち、巫女王、神の嫁、采女、斎王、遊女などの古代王権にかかわって来た。そして、王権と女性という問題の根底に本土のヒメ・ヒコ制や沖縄の「をなり神」の信仰がある。本土のヒメ・ヒコ制は『魏志倭人伝』に記述のある邪馬台国の卑弥呼とその弟の関係にまでさかのぼる。この二人は3世紀ごろに実在した人物。
 女性が霊力をもつと信じられたのは、神がかりによる特殊な予知能力をもつからである。つまり憑霊型の女性シャーマンである。故上田正昭氏の巫女王説では、日本の古代における巫女王として、卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王をあげている。全員、憑霊型の女性シャーマンと思われる。




[118166]琉球神奈備 投稿日:2016年 6月18日(土)10時16分
6. 古代日本の同母兄妹婚 記・紀から

○神世七代の後半四代の対の神々、七代目は伊邪那岐神・伊邪那美神である。

○若倭根子日子大毘々命(開化天皇)、伊迦賀色許売命を娶して、生みましし御子、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命。二柱。所が、崇神天皇の段では、御真木入日子印恵命、大毘古命の女、御真津比売命を娶して生みましし御子、伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇)とある。同母兄妹婚をごまかそうとしたが、失敗している。

○浅津間若子宿禰命(允恭天皇)が忍坂之大中津比売命を娶して、木梨之軽王、長田大郎女、穴穂命、軽大郎女、亦の名は衣通郎女、御名に衣通王と負はせる所以は、その身の光、衣より通り出づればなり。木梨之軽王と軽大郎女との性愛は有名な事件であった。

○穴穂命(安康天皇)が長田大郎女(大日下王の摘妻であった)を皇后とした。

○『日本書紀』巻二五白雉四年(六五三)是歳
是歳。太子奏請して曰く。願わくは倭の京に遷りたい。天皇は許さなかった。それで皇太子は皇祖母尊・間人皇后を奉じ、并せて皇弟等を率いて倭の飛鳥河邊行宮に居します。時に公の卿大夫・百官人等皆隨ひて遷った。天皇は恨に國位を捨てた。そうして間人皇后に送って曰く。
舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。
 かなきつけ あが飼う駒は 引出せず  吾が飼う駒を  人見つらむか
 当時、「見る」とは、男女相会うとの意味があり、皇太子と皇后の仲を深く疑った。
 孝徳天皇の次に天皇になってもよい年齢(28)であったにもかかわらず、高齢の母親の斉明天皇を重祚させているのは、なかなか天皇になれなかった理由として同母兄妹の性愛を疑われていたとの見方がある。



[11815]Re: をなり神神奈備 投稿日:2016年 6月17日(金)09時51分
琉球松さんへのお返事です。

> 我が家でも、息子の修学旅行などに際しては娘(息子の姉)の髪の毛を1本お守りに添えたものです。

現在まで続いている信仰なのですね。感激します。



> 琉球国王と聞得大君の関係や、卑弥呼と男弟など弥生時代晩期にまでさかのぼるでしょうか?

 人間の本性による信仰でしょう。古代から「妹の力」が働いていたと思われます。



[11814]をなり神琉球松 投稿日:2016年 6月16日(木)09時14分
神奈備さんへ

 この信仰は、奄美沖縄諸島に濃厚ですから、宮古八重山でのそれは王朝時代に琉球本島から流布されたと推測できます。
 琉球国王と聞得大君の関係や、卑弥呼と男弟など弥生時代晩期にまでさかのぼるでしょうか?
 我が家でも、息子の修学旅行などに際しては娘(息子の姉)の髪の毛を1本お守りに添えたものです。

白鳥節(琉球古典音楽)
*** 御船のたかともに 白鳥がゐちょん 白鳥やあらぬ ウミナイおすじ

よいすら節(奄美大島民謡)
*** 船のたかどぅもに 白鳥ぬ居ちゅり 白鳥やあらぬ ウナリ神がなし



[11813]琉球神奈備 投稿日:2016年 6月16日(木)08時38分
5. 池間島の話

  宮古島の隣の池間島の若者が航海途中、にわかに風波が荒れ、船は水浸しとなった。陸の仲間達は一心不乱に祈った。天のぶなりや(妹)は白鳥となって船霊のひもろぎであるホンプー(本帆)の頭にとまった。すると風の神はちからを弱め、雨の神はその手をやすめた。宮古島や池間では、「をなり神」の信仰はないとされているので、上記の話は後世の作り話であるが、池間に兄妹婚がおこなわれていた。この作り話の背後には兄妹相姦とか兄妹神が現実に存在していたことは否定できない。
 兄妹相姦とか兄妹神は琉球に限らない。東南アジア一帯に見られる。琉球には兄妹相姦が現実に存在していたので禁忌はいっそう厳しいものがあった。兄妹間の性愛は哀切をおびるのはこれゆえである。「をなり神」信仰の根底に兄妹間の性愛があると見るべきだろう。




[11812]琉球神奈備 投稿日:2016年 6月13日(月)20時08分
4. 宮古島の船立御嶽の由緒 宮古島市平良

 神代に久米島按司という人に一人の娘がいた。兄嫁は邪険放埒な女で娘を邪魔に思い、按司にこの娘は毎夜しのんでくる男がいると讒言した。按司はこれを信じ怒って娘を小舟に乗せて沖に流した。これを見かねた兄は小舟に泳ぎ乗り、妹とともに漲水の浜に漂着、その夜の夢に神のお告げがあり、兄妹は船立の地に移り苫屋を設けて住んだ。
 里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らしていたが、やがて妹は住屋里かねこ世の主と夫婦となり九人の男子を儲けた。成人した子供達は祖父に逢いたいと思い、母を伴って久米島に行き、按司に対面した。按司は先罪を悔いて親子の愛を尽くし、黒がね・巻物を引き出物に贈って宮古島に返した。
 兄はこの黒がね・巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラ・鎌などの農具を作ったので農業が発達し豊穣の世になった。万民飢えをしのぎ、安楽に暮らせるのはこの兄妹のお陰だとして、二人の白骨を船立山の納め御嶽の神として崇めた。

 この話は直接的には「をなり神」の話ではないが、兄を霊的にに妹が守るということは、兄が社会的に妹を守るという相互扶助の考え方があることを示しているように思える。



[11811]信州 御船神事等に神奈備 投稿日:2016年 6月11日(土)21時11分
私が信州(旧信濃)に興味を抱いているのは
次のような理由からです。

鎌倉幕府下知状


承久3年(1221):5月8日

可令早左衛門尉惟宗忠久
為信濃國大田庄地頭職事

右人、可為彼職之状、頼仰下知如件

承久3年5月8日

  陸奥守平朝臣在判(北条義時)


==== (島津家文書)====

島津藩の祖・忠久の最初の赴任地だからです。
初陣で諏訪大社に戦勝祈願をし武勲を揚げ
其の後の薩摩に多数勧請しています。
神社探訪を始めた頃はこれが不思議でした。
諏訪やら南方やら、、、それに稲荷

最近、また初心に戻って
貯めこんだ史資料を読み直しています。




[11810]Re: 琉球yori 投稿日:2016年 6月11日(土)15時03分
神奈備さんへのお返事です。

> yoriさんへのお返事です。
>
>  沖縄と薩摩との関係は、畿内から見ていますと、ひとくくりにできそうな地域に見えますが、実際には、あまり親密ではないのが本当のようですね。
>
>  沖縄にとって良かったのか、悪かったのかは別に考えなければならないのでしょうが、本土にとって今の沖縄に日本語をしゃべる人が多いのは、いいことだと思っています。これは江戸時代の薩摩藩が沖縄侵攻を行ったおかげと思っています。
>

私の座右の書
「三国名勝図会」から

===============

琉球征伐出軍事略



・・・・・・・・

慶長11年(1606)
慈眼公琉球征伐を
東照烈公祖に請ふ
是を許さる
いまだ師期に及ばず
烈祖公をして
尚寧を召す、至らず、
廼ち(ない・その時すぐ)
命じて是を討つ
是に至て
公樺山權左衛門尉久高
平田太郎左衛門尉増宗を遣し、
三千餘人を率て、
琉球を伐つ
是春三月四日暁
久高・増宗山川港を發し
七日琉球の屬島大島に至る
大島逆へ服す
十七日、徳島に至る
既にして永良部島に至る
皆降る
二十五日進て琉球運天港に至る
尚寧ノ弟具志頭、三司官浦添
名護・謝那をして
舟に乗じて来る

・・・・・・・・

  ==== 図会 2-497 ====

皮肉なことに
和睦を妥結した
平田太郎左衛門尉増宗
はこの後、
藩主・家久に誅されます。






[11809]Re: 琉球神奈備 投稿日:2016年 6月11日(土)09時39分
yoriさんへのお返事です。
ありがとうございます。最近、米の伝播についても、柳田節が見直されているとのことだそうです。


3. 普天間権現に伝わる民間伝承

 父と長男が支那に行った時の話。ある晩妹が睡眠中、大きな音をたててもがくので、一緒に寝ていた母が、なぜそんなことをするのかと、一方の手をつかまえて揺り起こしたら、惜しいことをした、二人の乗った船が、今嵐に巻き込まれたところで、右の手で兄さんを助けて、左の手でお父さんをつかまえようとするところを、手が動かなくなって、お父さんを助けることが出来なかったと言った。
 程経て支那に行った兄から手紙が来て、途中で船が難破して、自分は助かったが、父は溺死したとのことであったので、皆々びっくりしたということである。

 彼女は他家に嫁がず、家族以外の人に見られたことがなかった。ある時、妹の夫に姿を見られたので、普天間の洞窟に逃れて、後日神として祀られた。今に至るまで、旅立つ人が、普天間に参詣して旅行の平安を祈るのは、こういうことから来たのである。「をなり」が「ゑけり」と別れるのを悲しんで、結婚を忌避した消息を語るものである。
 2.3.の話は、伊波普猷著『をなり神の島』から引用。



[11808]Re: 琉球神奈備 投稿日:2016年 6月 9日(木)10時00分
yoriさんへのお返事です。

ありがとうございます。

2. 久高島の例 以下しばらく<『をなり神の島』伊波普猷 から/B>

 故郷を離れる男子には、「をなり神」が終始つきまとって、自分を守護して呉れるという信仰があった。姉妹の項(うなじ)の髪の毛を乞うて守り袋に入れ、或いは手拭いを貰って旅立つ風習が行われていた。姉妹(をなり)のない時は、従姉妹(いとこをなり)なりのそれを貰って、お守りにした。
   琉歌。          意味
おみなりが手巾     (姉妹の手拭いは)
まぼるかんだいもの   (我が守護神なれば)
引きまわし給れ     (我を庇護し給れ)
大和までも       (日本に行ってまでも)





[11807]Re: 琉球yori 投稿日:2016年 6月 9日(木)04時10分
神奈備さんへのお返事です。

>  柳田国男は、『妹の力』の中で、次のように記している。

民俗学のパイオニア
柳田国男先生の書籍は
当地に関連の文庫本を
主に読んでましたが、、

最近、全集を購入しました。
半世紀前の古本ですが
新刊と見まごうばかり、、
過去に購入した書籍は
色あせたり、書き込みがあったり、、
今回購入したのには感激しました。
売れ残って書庫にでも眠っていたのでしょう。

これで歴史探訪に弾みがつきます。

この九巻「妹の力」には
玉依姫や聖、それに巫女の
考察ら参考にしています。



[11806]琉球神奈備 投稿日:2016年 6月 5日(日)21時37分
1. をなり神

 明治初期までの琉球は独立国であり、米国ペリーと琉米修好条約を締結していた。琉球王の姉妹や后が国家最高のの神官である聞得大君(きこゑおおきみ)になっていた。彼女を頂点とする地方の神職である祝々(のろ)までが神と称されていた。そこで今なお、一切の女人が、その兄弟等に、「をなり神」として崇められている。「をなり神」に「姉妹の生御魂」の義がある。妹の枕元を歩かない、けんかをしたら、兄がひっこむ、いいものをもらったら、まず妹にあげる、と言ったことが日常生活の中でおこなわれる。
 琉球では、兄弟のことを、ゑけり、姉妹のことを、をなり、と言う。ところが、兄弟姉妹のことを、をなり・ゑけり、と女性上位の表現になり。これは南島全体の共通した表し方と言える。
 柳田国男は、『妹の力』の中で、次のように記している。
 往古の祭祀祈祷の宗教上の行為は,肝要な部分はことごとく婦人の管轄であった。
 巫は女性であって、家々の婦女は必ず神に仕え、その中の最もさかしき者が、最もすぐれた巫女であった。これには数千年の根底がある。日本の男子にとって、未来に対する疑惑と杞憂とは、仏教やキリスト教では処理しつくすことができなかった。その欠陥を満たすべき任務は、太古以来同胞の婦女に属していた。
兄の寂寞を妹が慰めるのも、いわばこの民族の一続きの大いなる力であろう。




[11805]Re: 陸奥出羽の人々 4かたばみ 投稿日:2016年 5月27日(金)13時39分
神奈備さんへのお返事です。

>武烈天皇の墓は『古事記』では、「片岡の石杯岡(いわつきのおか)にある。」

倭王五代〜聖徳太子〜壬申の乱シミュレートを改訂しました(毎度ちょこまか手入れ)。
仲哀〜応神を加えて倭王五代登場の因縁が見えるようにしました。
半島南西部の前方後円墳の登場、好太王碑に書かれる倭軍との戦闘、これらは応神の事跡。
「弥生〜古墳初期 出雲と天孫」とジョイントすれば、弥生から平安初期までのシミュレートになります。

百済本紀では、475に高句麗によって蓋鹵王が殺され、子の文周王は南へ逃げて文周王の弟の子の東城王が即位479、とあります。
4年間大王不在の空白で反乱があったと書いています。
事実上の百済本家の滅亡です。

雄略紀23年に「筑紫の兵500人を付けて末多王を百済に帰国させて東城王とした」とあります。
(雄略即位を456とすれば479で百済本紀の年と一致)
百済本紀ではここでの倭国との関係をまったく書いていません。
応神時代では使者を出迎えるとか贈答品の授受を何度も書いてるのだけれど。
東城王は倭国の傀儡王であって、恥と感じたのだろうと考えています。

書紀では雄略没年を477とし、古事記では没年を489として12年ほどのずれのある問題があります。
私はこの12年が雄略(倭王興)が武烈(倭王武)に九州王を譲位して、奈良の泊瀬朝倉宮で近畿関東の支配に専念した時代、と考えています。
(この間に清寧と顕宗というよくわからん大王がはまりこむけど)

そして507に武烈死去、武烈は仁賢の子ではないし悪逆非道でもない。
近畿側(書紀側)からみれば安康(倭王済)が允恭から近畿王を簒奪した系譜。それが途絶えて、ざまーみろなのでしょう(^^;
(雄略も書紀は大悪天皇なんて書いてる)
武烈の墓は北九州だと思います、雄略も北九州じゃないかな。

百済は東城王を継承した武寧王462に至って「自己主張」が明確になります。古墳の形状もそうです。
東城王の「倭国による支配時代」からの脱却なのでしょうけれど、なにがしかの倭国の影響は残っていると思います。


余談
天智と天武の関係とは・・キーは寶皇女。ご興味あればどうぞ。
寶皇女は幼少の天智を連れ子として舒明と再婚し、そして天武が生まれた。
天武は壬申の乱以降では妃(持統)に頭が上がらなくなって、尻に敷かれていた(^^;

この頃から40年ほどは政治の中枢を女性が動かすことになります(藤原氏の台頭でもある)。
書紀編纂の基本構成もこのころからはじまるわけで、書紀解釈に重要と思います。

陸奥出羽の人々についてはまた後ほど。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/


[11804]Re: 陸奥出羽の人々 6,7大三元 投稿日:2016年 5月17日(火)08時52分
神奈備さんへのお返事です。

>  また、個人的には、天甕津姫と天甕星との関係を詰めたい気分です。

私の考えは:http://www.dai3gen.net/tuti.htm
に述べましたが:
「みかつ」姫は「みか星」の妹であり、「みかつち」の妻になったのであろうとコトバの上から推理して
います。




[11803]Re: 陸奥出羽の人々 6神奈備 投稿日:2016年 5月16日(月)21時42分
大三元さんへのお返事です。

 大三元さん、御教授ありがとうございます。

 昨日の勉強会の方々への追加情報とさせていただきます。

 また、個人的には、天甕津姫と天甕星との関係を詰めたい気分です。




[11802]Re: 陸奥出羽の人々 4神奈備 投稿日:2016年 5月16日(月)21時39分
かたばみさんへのお返事です。

かたばみさんの二朝(九州と畿内)並立はダイナミックな構想ですが、こちらは畿内の内でのささやかな並立のお話しです。

豊中歴史同好会の講演の紹介。
 武烈天皇の墓は『古事記』では、「片岡の石杯岡(いわつきのおか)にある。」と記されています。該当しそおうな古墳としては香芝市狐井の狐井城山古墳が考えられえています。(塚口義信先生。西川壽勝先生など)。この古墳の創建年代が5世紀末〜6世紀初頭とされています。出土した石棺が面白いことに百済の武王の墓から出た高野槙でできた木棺に造作が酷似しており、武寧王の没年は523年で、武烈天皇もその頃まで生きていたとしますと、二朝並立の時代だったのではと西川壽勝が述べられています。
 傍証になるかどうかですが、『百済本記』での日本の天皇が没した際の記事や、秦大津父が目撃した二匹の狼の争いの記事などが、二朝並立とその終焉を表しているのではないかとのことをおっしゃっていました。





[11901]Re: 陸奥出羽の人々 6,7大三元 投稿日:2016年 5月16日(月)14時07分
>  江戸時代の平田篤胤は、天津甕星のことを金星としている。実に興味深い見方と思う。太陽が出る前に東の空で輝き、太陽が沈んだ後でも西の空で輝く、明けの明星であり、宵の明星である。輝き方は鋭い。太陽崇拝者から見るといかにも目障りな星に思える。天照大神と並ぶ大御神であっていい。

甕星(みかぼし)は「三日星」かなぁ、とも考えてます。三日月の「三日」です。
金星は日面通過をする、だから太陽を邪魔する悪者。
 http://naojcamp.nao.ac.jp/phenomena/20120606-venus-tr/
金星は満ち欠けして三日月状に見えることもある(昔の人は肉眼でも見えた?)
 http://www.astron.pref.gunma.jp/flash/venus2.html

上のような考えしてる人も既に居られるかも。
お邪魔しましたぁ。
私の考えは:http://www.dai3gen.net/tuti.htm
に述べましたが:
「みかつ」姫は「みか星」の妹であり、「みかつち」の妻になったのであろうとコトバの上から推理して
います。




[11900]陸奥出羽の人々 6,7神奈備 投稿日:2016年 5月15日(日)09時09分
6.アヂスキ
 アヂスキはカラスキの神格化したものとも見解がある。主流の見解と思われる。一方、オリオン座のことをカラスキの星と言う。天津甕星とは三箇星とするとオリオン座と三つ星と言うことになる。これらからアヂスキと天津甕星はオリオン座の三ツ星と言えそうだ。住吉三神と同じとなる。これは神話の物語とは矛盾する。
 江戸時代の平田篤胤は、天津甕星のことを金星としている。実に興味深い見方と思う。太陽が出る前に東の空で輝き、太陽が沈んだ後でも西の空で輝く、明けの明星であり、宵の明星である。輝き方は鋭い。太陽崇拝者から見るといかにも目障りな星に思える。天照大神と並ぶ大御神であっていい。
 金星のことを太白星と言う。これで思い起こすのは、『梁書諸夷伝』(七世紀成立)には、「倭者は自ら太伯の後と云う。俗、皆文身す。」とあることである。
 『史記 卷三十一 呉太伯世家 第一』に、呉の太伯と弟の仲雍は周の大王の王子で、王の季歴の兄。大王は季歴を立てて次の王にしたい気持ちを持っていました。従って、太伯と仲雍の兄二人は荊蠻に行き、文身斷髮を行い、二度と戻ることのないことを明らかにした。太白は王位につかない名前となる。アヂスキにピッタリ、これが蝦夷の支持を受けたのだろう。

7.陸奥のアヂスキを祀る式内社
陸奥國白河郡 都都古和気神社(名神大) 福島県東白川郡棚倉町大字八槻
陸奥國白河郡 石都都古和気神社 福島県石川郡石川町
の二社があり、ここから陸奥国内に17社も勧請されている。都々古別神社や近津神社で祀られている。
さて、都都古和気のツツは星を意味すると見ていい。ツツコワケは星の王子様というような意味だろう。アヂスキを祀る神社は陸奥国が最も多い。出羽とあわせて26社となる。事代主神を祀る神社も多い。夷神を蝦夷が祀ったのであり、鴨の大御神を蝦夷達が祀ったのである。蝦夷は鴨の神を大切にしてきたのである。




[11899]Re: 陸奥出羽の人々 4かたばみ 投稿日:2016年 5月15日(日)00時58分
>神奈備さんへのお返事です。

>天武側に有利な託宣を行った神
>皇統が天智系に戻った以降としますと

宮中諸事の制定はいつごろなのかなあ。文武、聖武あたりか。
藤原氏が台頭してから、書紀の基本形ができてからだと思いますけど。

HP,倭王五代〜聖徳太子〜壬申の乱のシミュレート参照
以下複雑なのでちょい長くなります。

安閑、宣化、敏達は継体(日本海系)から派生した近畿王、九州の欽明と並立。
敏達は伊勢豪族の娘を妃とし糠手姫を生む。
また敏達はおそらくは日本海系の息長真手王の娘の間に押坂彦人大兄皇子を生む。
糠手姫と押坂彦人大兄皇子の間に生まれるのが田村皇子(舒明/息長足日廣額)。

舒明と寶皇女の間に生まれるのが天武(大海人皇子)。この間に蘇我氏の血ははいっていません。
その名からも天武が日本海系であり、伊勢豪族の血を引くとみえます。
天武が壬申の乱で伊勢豪族の支援を受けていたなら、勝利の返礼として伊勢への便宜を図るのは自然だと思います。


天智はちとやっかい、書紀が偽装工作をしているから(^^;
天智と天武は舒明の子で兄弟・・書紀の大嘘(^^;

欽明は継体の子とされますが妃は手白川皇女、この周辺には安閑宣化を含めて年代のずれもみえて疑わしい。
私は筑紫の磐井の後継者(縁者)が欽明であろうと考えています。
ま、少なくとも九州大王だと思います。その配下に蘇我氏があって、欽明に妃をいれています。
宮殿は磯城島金刺宮(古事記では師木島大宮)、北九州おそらくは志賀島あたりか、島ですね。
欽明死去で後を継ぐのは用明(敏達は近畿王)。

用明は短命王ではなく事跡も大きく、書紀はこれを隠蔽(敏達死去後の短期間とする)。
新唐書に「用明を以てまた曰く目多利思比狐が隋と通ず」とあります。
敏達死去後に奈良に入り、おそらく宮殿は斑鳩宮。
大和川を介して瀬戸内〜九州をつなぐのに最良(隋の使者の道程)。
(以前参考アップした大阪の古地図、大阪城付近に用明廟らしきがあります、第2拠点かな)

用明の次が隋書での多利思北狐(北は比の誤記とみる)。
書紀はこれを推古女帝と聖徳太子に置き換えて多利思北狐大王を水面下に隠蔽。
重要事跡が多すぎて消せなかったのだと思います。時代も近く上宮聖徳法王帝説など文字記録も残る。
書記は斉明紀に「用明の孫の高向王」を書く。

上宮聖徳法王帝説には蘇我入鹿が斑鳩宮の山背大兄王を焼き討ちしその一族を滅ぼしたとあります。
蘇我馬子が死去して蘇我氏内部の統率がとれなくなっていたのではないか。
あるいは「斑鳩宮の主」が百済に接近し、蘇我氏との確執があったかもしれない。
(蘇我氏は伽耶系倭人、すなわち出雲系の倭韓と推定)
このあたりは豪族の思惑と権謀術数の固まりでしょうからなんでも起きえる(^^;

その1年後に中臣鎌足と中大兄皇子(後の天智)が入鹿を殺害。
斑鳩宮焼き討ちの仇討ちだと考えています。
すなわち中大兄皇子は「斑鳩宮の主」の縁戚者。
ふるえる中大兄皇子を中臣鎌足がうながして殺害とある、おそらく中大兄皇子はこのとき10〜15才くらいの子供でしょう。
この事件は豪族間の抗争を利用した中臣鎌足の策謀・・かも(^^;

すなわち、この頃は大王不在で、書紀が書くよりずっと早くに天智即位とみています。
その混乱を隠すのが書紀の書く、またまた女帝の皇極と斉明登場だと考えています。
寶皇女(皇極)は田村皇子(舒明)と高向王の二人の妃となって、すこぶる怪しい(^^;

寶皇女は単純に田村皇子の妃、それだけと推定。
書紀の書く人物からは高向王が天智の父でもよいと思う。
皇極と斉明にはさまれた孝徳は政局混乱のなかでの天智と並立かもしれない。
(書紀の書く天智以前の天智、すなわち百済問題で九州に移動していた天智との並立)

白村江の戦いの前後の短期間に6回も遣唐使が送られていますが、百済問題の交渉でしょう。
天智の出自はやっかいではありますが「斑鳩宮の主」の縁者であると考えています。


というわけで、壬申の乱は欽明〜用明系に対する敏達〜舒明系の反乱。
天武の軍事背景には少なくとも日本海系と伊勢系がある。
大友皇子(弘文)の背景の蘇我氏は本家が消滅して統率できずになっている。
九州勢力は白村江の大敗で大損耗、唐新羅軍の侵攻もあり得る状況で援軍どころにあらず。
その勝敗は明らか。

その間をうまく立ち回って漁夫の利を得るのが中臣氏、文武の妃に宮子姫をいれて一気に王朝の主役へ。
書紀編纂開始は天武の後、宮中諸事の制定は王朝安定の文武聖武の後じゃないかな。

天照大神とは何かを含めて、平安の宮中はそのあたりの事情は熟知だったと思います。
宮中に非公開資料があるかどうかはおいといて(^^;




[11899]Re: 陸奥出羽の人々 4神奈備 投稿日:2016年 5月12日(木)09時08分
かたばみさんへのお返事です。

コメント、ありがとうございます。
事代主神が祀られた理由に、壬申の乱での託宣の功を考えてみたのですが、宮中八神の成立時期が天照大神が入っていないこともあり、奈良末期から平安初期の頃かと考えて、皇統が天智系に戻った以降としますと、天武側に有利な託宣を行った神をわざわざ八神の中にいれることはなかろうと見て、戎神であることを重視しました。
あまり自信がありませんが・・・・




[118998]Re: 陸奥出羽の人々 4かたばみ 投稿日:2016年 5月10日(火)21時23分
神奈備さんへのお返事です。

>宮中八神の一柱として事代主神が祀られているのは

神道のことではありますが、八神殿をながめますと・・
高皇産霊尊と神皇産霊尊は大陸、半島、列島の陸系文化と海系文化を意味すると考えていますので妥当の2柱。
(書紀編纂者の考え方と一致かなあ(^^; )
食糧や生産など物質と精神(心霊)の神が4柱。
宮殿の運営管理らしきが1柱、これはいかにも宮中らしい。

事代主命は祭祀(事代、託宣)の意識だと思います(大国主命の子とされる事代主命を祀るとは限らない)。
大国主命の子が伝承としておそらく最古で、雄略でも登場を続ける。
最初の2柱を除けば具体性が濃い。

HP弥生〜古墳初期 出雲と天孫シミュレート参照 ちょこまかいじっています。
なぜ大国主命はいないのか・・
大国主命は北九州を譲渡(神武と和睦)して杵築大社に引退した事象のみで、他に特徴はない。;
記紀の「別名処理」によって大穴牟遅(大己貴)の事象が大国主命に転化されているのみ。

古事記系譜を採用するなら素戔鳴尊(大己貴命)と大国主命の間には約200年の差がある。
古事記説話の誘導だけでは転化は起きないはずだけれど・・大己貴命は渡来者で大国主命は地元、の潜在意識が働いているかもしれない。
杵築大社が古墳時代以降に継続し、かっての出雲系譜の人々の信仰の対象になっていたこともあるかもしれない。

なぜ天孫系譜がいないのか・・常に簒奪者だったから(^^;
ま、宮中に非公開の資料があるかどうかはおいといて(^^;





[11898]陸奥出羽の人々 4神奈備 投稿日:2016年 5月 7日(土)09時07分
4.事代主神
 『古事記』の国譲りの段
ここに大国主神答へ白さく、「僕は得白さじ。我が子、八重言代主神、これ白すべし。然るに、鳥遊・取魚して、御大の前に往きて、未だ還り来ず」とまをしき。故ここに天鳥船神を遣はし、八重事代主神を徴し来て、問ひたまひし時、その父の大神に語りて言はく、「恐し。この国は天つ神の御子に立奉らむ」といひて、すなはちその船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りき。
事代主神はまさに「鳥遊・取魚」と言う狩猟活動を行っており、後にエビス神として祀られている。祀ったのは漁民が多かった。漁民もまた沿岸に古くから住み着いたエビスであり、天孫に国をゆずっている。漁民達の統率者がエビス神として祀られているのは、早くから大和王権に服従したからであろう。
宮中八神の一柱として事代主神が祀られているのは、国譲りの功績とすれば、それは、大国主神が祀られるべきだろう。事代主神が祀られているのは、夷神として、漁民達を言向けたことだろう。




[11897]陸奥出羽の人々 3神奈備 投稿日:2016年 5月 4日(水)17時02分
3.陸奥の土蜘蛛・蝦夷
『陸奥国風土記』に見る土蜘蛛。
  八槻と名付けるわけは、巻向の日代の宮に天の下をお治めになった(景行)天皇の時、日本武尊が東の夷(えみし)を征伐しようとして、この地に来て、八目の鏑矢で賊を射て倒し、その矢が落ちたところを矢着(やつき)というようになったことによる。八槻には役所がある。神亀三(七二六)年、表記を八槻と改めた。
 また、古老は次のように言う。昔、この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、官軍を射た。そのため官軍は進む事ができなかった。日本武尊は通常の弓矢を取って七発、八発と射た。すると七発の矢は雷のように鳴り響いて津軽の蝦夷らを追い散らし、八発の矢は土知朱の八人の首長を射貫いて倒した。その土知朱を射た矢は全て芽が生えて槻の木となった。その地を八槻の郷という。ここに役所がある。神衣媛と神石萱の子孫は許されて、郷に住んでいる。今、綾戸(あやべ)というのはこれである。

八槻には土蜘蛛に慕われた神(後述)を祀る都都古和気神社が鎮座している。




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[11896]陸奥出羽の人々 2神奈備 投稿日:2016年 4月30日(土)20時24分
2.大和の土蜘蛛
『日本書紀』神武紀で、大和の国に入って来てから、先住民と出会う。
●:抵抗勢力、  ○:従順。
 菟田県の魁帥 ●兄猾  ○弟猾
 吉野   ○井光 吉野の首の先祖
 吉野   ○磐押別の子:吉野の国樔部の先祖
 吉野の西 ○苞苴担の子:阿太の養鵜部の先祖
 宇陀国見丘 ●八十梟帥
 磯城邑  ●兄磯城と八十梟帥  ○弟磯城
 葛城邑  ●赤銅八十梟師
 高尾張邑(葛城) ●土蜘蛛 侏儒(ヒキヒト)と相似たり。『魏志倭人伝』又有侏儒国在其南 人長三四尺 去女王国四千余里 に関連があるのか。
 鳥見   ●長髄彦
 層富県波タ丘岬 ●新城戸畔
 和珥の坂本 ●居勢祝
 臍見の長柄丘岬 ●猪祝

 神武以前の大和は、長髄彦、物部氏、鴨氏などが支配していた。この時代、外から来た人々と先住民とは調和しながら生活していたと思われる。




[11895]陸奥出羽の人々神奈備 投稿日:2016年 4月28日(木)16時38分
1. 北の人々
 狩猟・採取を主とした先住民の縄紋文化は、北方で大きく花を開き、そこに多くの人々が居住していた。このような文化を(夷)エビスまたは(蝦夷)エミシの文化と見なしていい。 エミシについては、『日本書記』神武紀に、
エミシヲ ヒタリ モモナヒト ヒトハイヘドモ タムカヒモセズ と言う歌がある。大和近くの夷であろうが、100人力であるが、手向かいもしなで負けた、従順なエビスと言えよう。夷達は大和王権に組み込まれていき、農耕にも取り組んだ。ここで考えられるのは、夷を導いた指導者がいたのであろうと言うことである。長髄彦や鴨や物部などの古い氏族の長などであろう。
 しかし全ての夷が従順で農耕に勤しんだはずもなく、在来の文化を根強く持ち続けて、王権に抵抗」ていたのが東北地方の蝦夷や土蜘蛛とよばれる住人であった。
西南日本にも、大和にも、そのような住人がいたのである。



[11894]Re: かたばみさん、恐れ入りましたかたばみ 投稿日:2016年 4月22日(金)22時06分
CADで描いてPDF化しています。
PDF化した新しいのが現在はメイン、古いのは改訂を要するものあり。

複数の事象の時間軸をそろえて図表化すると新たな発見もあります。
先の出雲と天孫相関図は古墳時代にかぶりますが、古墳時代なると数年単位の精度がほしくなる。
神功紀での「新羅にはお宝がある」の意味も明解に・・対外情勢に敏感なのは北九州。
仲哀は新羅なんて知らん・・で、ばっさり(^^;

書紀は出雲だけでなく九州系大王の存在も隠そうとしている。
系譜改竄もやむなしで万世一系を死守(^^;

余談
外宮を祀ったのは雄略とされますが、書紀はこれを書いていない。
書きたくなかったのでしょう。
雄略が北九州系の大王だから(応神〜倭王五代は北九州勢力と日本海系勢力の結合から登場)。
天孫といっても文化基盤が違う。
当然ながらその祭祀も同じとはいえないでしょう。




[11893]かたばみさん、コメント有り難うございます。 かたばみ 投稿日:2016年 4月17日(日)19時43分
鴨脚建雷さんへのお返事です。

神武〜雄略〜推古の年表・・ありますよ、自作のが(^^; HP書紀年代の復元図。
書紀の書く年代、だれもが違和感を持っていると思います。
その補正にいろいろな考え方がある。
干支60年単位で補正・・だめです。ある部分だけでしか成立しない、大王と大王にまたがって連続的には補正できない。

大王の即位年を10年平均とみなすなんて考え方もある。
神武東征説話をAD250あたりとしないと銅鐸や古墳など考古学的状況の説明ができないからです。
これはそういう前提(先入観)に合わせるためのものでしかない。

書紀の書かれる年代、様々な大型建築物が建造されています。
建築手法、これを応用して年代を修正(改竄)しているのではないか・・そう気がついた、ほぼ「直感」(^^;
比例配分です。例えば雄略から神武の年代をゴムひものようにぎゅーっと伸ばしてやる。
実際には三角形を作って作図します、当時の大工さんには常識の寸法拡大法(縮小法)。

ここには重要な決断があります。神武が奈良に入って倭王朝を作ったという神武東征説話の否定です。
そうしたらあーら不思議、いろいろな疑問や矛盾がすっきりと・・(^^)
神武東征説話の呪縛をなぎ払えばよかったのだ・・
ま、様々な事象をフィードバックさせて煮詰めた結果、ではございます。


神武以前の年代決定ポイントは少し前にアップした出雲と天孫相関図 激動の弥生に書いた通り。
確たる根拠はありません。だからシミュレートなのです。
元になるデータが正確で多数あるなら事実に限りなく近づくわけですが・・
データがあいまいで少ないなら結果はいろいろな方向にずれやすくなる。

確たる根拠があるなら「論」などは登場しないでしょう。
考古学でも年代決定は論、年輪年代法も登場時は絶対をうたっていたけど今はそうじゃない。
炭素14については以下「邪馬台国の会」のレポートを参照。

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku276.htm
このシリーズはすべて読破をおすすめします(信じろということではありません(^^; )

>神武朝のAD80
神武 36- 66の年代決定は持論の書紀年代復元によります。
最近発見された楽浪郡と見える硯。北九州と島根で同様の硯。
ガラス釧、北九州、島根、丹後、流れは北九州〜日本海沿岸。
楽浪郡の文物の入手の可能性は神武朝(天孫出雲合体時代)。
後漢と神武朝(出雲含む)の交易が可能になるのは「漢委奴国王」AD57より後であろう。

倭国王師升の使者/後漢書AD107は新王朝成立の挨拶であろう。
すなわち孝昭105-137であり、天孫と出雲の分離と争いの再燃(寒冷化と倭国争乱の始まり)。
これよりは前、AD80あたり、ですね。

>鉄製工具はAD10頃以降の伽耶の鉄か
魏志韓伝に周辺国が鉄を取り合うとあります、当時の弁韓と辰韓の中間あたりか。参考図。
書かれる記事内容から年代はそのあたりとなります。
弥生製鉄の情報は乏しく考古学的には確定されていないようですけれど(馬山市城山貝塚に鉄の痕跡)。
神武以前の鉄は伽耶の鉄がメインと考えています。
出雲の鉄は伽耶の鉄か岩手の餅鉄、黒姫山の褐鉄鉱(水酸化鉄)だと推定。
(鉄剣を作れる鋼は百済も新羅もAD300頃、おそらく西域系)

>大風呂南のガラス釧の被葬者は開化AD239〜崇神AD248頃の人物
開化225-248、崇神248-273の年代決定は持論の書紀年代復元によります。
AD239とは・・亡くなられた森浩一先生の示唆によります。
「ラーメンどんぶりの底に書かれる年号はどんぶりを作った年ではない、なんらかの記念の年号である」・・(^^;

銅鐸の時代の終わり、古墳時代の始まり、考古学的にAD250前後。
「開化」の名の意味とは・・「稚倭根子彦大日日」の「稚」の意味とは・・「新しくまだ幼子の倭国」の開設者。
景初3年(AD239)とは開化が近畿出雲を制圧した記念を魏の年号で書いたもの・・翌年の景初4年だという人もいた(^^;
これが正しいならピンポイントの時代の切り替わりを三角縁神獣鏡が示している、となります。

文化的に位置的に被葬者は開化に属する人物に非ず、出雲文化圏に属す。
ただし、鉄剣の入手がいつか、によっては埋葬年代のずれも生じ得ます。
佐紀古墳群、北を向いた祭祀の人々により近く、かつ前方後円墳の慣習にはなっていない人物。







[11892]Re: 出雲と甕棺葬かたばみ 投稿日:2016年 4月10日(日)22時49分
北九州の大集落は倭国争乱時代に消滅します。
温暖時代では農耕拡大で人口急増、寒冷化時代ではその人口過密が仇となって食糧不足を招いた。
天孫系集落でも同じ、倭国争乱の引き金です。
新羅本紀に飢饉の記事が登場、飢饉から倭人が逃げてきたとあります。

その弥生末期に魏の使者AD240がやってきた、その使者がみたもの・・
倭人伝は末盧国から伊都国へ至る道が草ぼうぼうで前も見えないと書いています。
倭国の表玄関の道が草ぼうぼうとは・・

100年以上前には楽浪郡の使者を迎える館が伊都国にあったかもしれないのに。
「活気のある国々」もみえない。
魏の使者がみたのは吉野ヶ里などの大集落が消滅しつつある崩壊寸前の倭国だった。
(狗奴国との抗争なんて小さい小さい(^^; )
仮に使者が邪馬壹国へ達したとしても、その道も荒廃して何ヶ月もかかって当然だったかもしれません。

集団が衰亡の危機に瀕しているとき、語り部をどこまで維持できたか。
北九州に大集落を展開したグループの伝承がないのは書紀の思惑とは別にこれに原因があると考えています。


さて
書紀は少彦名が帰郷して、悩む大己貴の眼前におぼろな幸魂奇魂が現れて、我は三輪山に住みたいといった、と書いています。
幸魂奇魂ってなに? なんで三輪山に住みたいの?
出雲が奈良に進出することを暗示させる記述だと考えています。
書紀が後に神として書く大物主をリンクさせるための伏線。
抹消した出雲の空白をつないでいるわけです。

幸魂奇魂とはカノープス。シリウスに次いで明るく、日本では水平線上にゆらゆらとかろうじて見える星。
東シナ海方面の海人の星、すなわち大己貴の星(神)。

大物主は三輪山の神として書かれますが、実在の出雲の最後の王でしょう。
奇稲田比賣−八島士奴美から近畿へ進出した系譜、赤衾伊努意保須美比古佐倭気/風土記の子孫と推定。
その長い名が残るのはなにかのエポックにからむ人物だからだと思います。

豊前豊後から瀬戸内経由で近畿方面を開拓したグループ。
大国主が北九州の主権を神武に譲ったのはその開拓成功を知っていたからに他ならない。
九州で抗争するより九州以東の開拓に全力を注ぐ、といったところ。
後にその人々の信仰の対象が島根の杵築大社となり、書紀はこれを利用して出雲=島根を誘導する。

倭迹々日百襲姫の箸墓伝承、開化の奈良制圧(AD239)で出雲の王と天孫の巫女が実際に結婚したとみています(政略結婚)。
書紀はまともにはそれを書けない、三輪山の神に置き換えて濁した。
ホトを箸で突いて死んだ、とは処女性を失って巫女ではなくなった意、と考えています。
大物主の子孫は実在カモカモ、直系かどうかはおくとしても。





[11891]出雲と甕棺葬かたばみ 投稿日:2016年 4月10日(日)22時46分
出雲と甕棺葬

https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
佐賀平野〜福岡平野には大量の甕棺葬がある(半島南岸の金海にも若干)。
しかし豊前豊後や瀬戸内や近畿ではほぼゼロです、この極端な偏差はなぜか・・
納得できる論はみあたりませんが、このシミュレートで説明できる・・かなあ(^^;
以下長文ご容赦。

出雲神族(須佐之男系譜)には、須佐之男+奇稲田比賣の子孫と、須佐之男の娘の須勢理姫+大己貴の子孫の二流がある。
奇稲田比賣の子孫系譜は古事記に書かれて大国主に至ります。
これを信じるなら人間の寿命の誤差で大国主までの年代特定ができる。

しかし須勢理姫の母や子については記述がない。説話はいろいろあるのに。
大己貴が大国主に転化されてしまったからだと考えています。
須勢理姫は須佐之男の娘ですから古事記の系譜からは大国主の妻ではありえない、にもかかわらずです。

須勢理姫の母はだれか.。
須佐之男の妻として古事記は神大市比賣を書く。
大山祇神の子(縄文の子)、大歳神(大年神ではない)や宇迦之御魂神の母とされます。
初期農耕に関連する大年神グループに属する人物とみてよいと思います(HP大年神参照)。
場所は遠賀川土器の起点とされる遠賀川流域か。

古事記の書く大年神グループでは天知迦流美豆比売の娘に大気都比賣命があります。
大気都比賣は須佐之男に殺されますが、生き延びた女性もいたのでしょう。
それが神大市比賣であり、その娘が須勢理姫でよいと思います。
そして大己貴の妻となった。

では大己貴とは何者か。
ここに甕棺葬のありようがはまりこみます。
甕棺葬は中国では長江流域と東南アジアにあって、東シナ海系の文化のひとつとみえます。
大己貴がその文化圏の人物(少彦名も同じく)であるならば・・

大己貴がその船乗りであるならば、宗像などの港々に女あり・・(^^; 日本海沿岸をあちこちに旅したでしょう。
味耜高彦根と天之稚彦のようなよく似た容貌の子もいたでしょう。
大国主に転化された出雲伝承の源はここにあり。

書紀では大己貴での国譲りとして以降に出雲は存在せずとして出雲を抹消。
そのためにこれらの伝承が大国主の話に転換されてしまった。
大己貴の時代に登場する少彦名は薬(酒)の神とされます、因幡の白ウサギ伝承の本質は兎の治療にあり。
総じて前漢時代の最新文化の導入をもたらすのが大己貴と少彦名。
(ウエツフミに多くの記述あり、ただしやはり書紀に準じているために無理や大国主に転化がある)


甕棺葬は五島列島〜佐賀〜福岡に分布。
吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡など大集落の開拓者は須勢理姫と大己貴であり、その文化を持つ。
甕棺葬は遠賀川から西進した水田適地に展開したグループにある。
(門の上に鳥を置く、稲と鳥、鳥居の原型でしょう)
大規模遺跡が多数あるのにこのグループの伝承はない、かろうじて神大市比賣と大歳神や宇迦之御魂神に痕跡を残すのみ。
なぜか、後述。

対して奇稲田比賣系(八島士奴美〜大国主)の出雲は大己貴との血縁関係はなく甕棺葬文化を持たない。
こちらは遠賀川から東ないし南に展開したグループ。
根拠地は豊前豊後と阿蘇山麓がメイン(銅矛祭祀を持つ)

この系譜の水稲は豊前程度で、他は陸稲と畑作だったのではないか。
阿蘇や英彦山など山岳に接し、集落は多数あるけれど吉野ヶ里のような大集落はありません。
木花知流比賣や木花開耶姫の出身もこの地域(天火明の降臨ルートに接する)。
縄文の狩猟系部族もあったはずで、初期の農耕系との抗争が八岐大蛇神話の源だと考えています。

九州以東へ進出したグループは古事記伝承の受け持ち範囲外でしょう(やはりウエツフミに残る、年代は?なれど)。
大国主の国譲りで、北九州の主たる出雲の首長は九州以東の各地に退去、大国主周辺の伝承が残った。
北九州で天孫系譜との混合が進みます。
神武朝の時代、AD30頃〜AD100頃は温暖で平穏な弥生時代、出雲系譜も後漢系の文物の入手ができたと思います。
(楽浪郡経由の硯とかガラス釧などです、ただし鉄剣などはおそらく不可の禁制品でしょう)





[11890]出雲と天孫の相関図 激動の弥生かたばみ 投稿日:2016年 4月10日(日)22時44分
弥生の激動時代のシミュレートをHPにアップしました。
ご興味ありましたらどうぞ。
天孫降臨〜神武の地図シミュレートと連動しています。

古事記の書く出雲系譜は原則として正しいとみなします。
書紀では大己貴の国譲りの記述以降では出雲は存在せずとするのでどうにもならず。
年代決定は持論の書紀年代の補正による神武と、須佐之男渡来(箕子朝鮮崩壊BC194)と天之忍穂耳渡来(呉楚七国の乱BC154)がマーカーです。

BC200〜神武の年代誤差は人間の寿命程度(^^; 神武以降では±10年程度。
土器編年のようなあいまいさはなし。
ただし、記紀等の「事象の記述」を基本とするシミュレートですから、その基本がはずれたら・・(^^;

古事記は書紀の思惑に準じるために別名扱い処理があって、時代と人物と場所については信用できず。
(大己貴/大穴牟遅=大国主は書紀の出雲抹消に準じるための苦渋の処理、200年近い錯乱が生じる)
風土記も同様で特に出雲関連地域では信用できない。
デジタル化された各国の風土記逸文が以下にあります(岩波の風土記に記載と同じみたい)。

http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoki_itsu.html

先代舊事本紀も書紀に準じた基本構成なので諸事に錯綜の可能性がある。
デジタル化された現代語訳旧事本紀が以下にありますが若干の解釈問題を含むようです。

http://mononobe.webcrow.jp/kujihongi/yaku/index.html





大阪の待兼山丘から発見され、現在大阪大学待兼山修学館に展示されているワニを中心に書かれています。子供用の本になっていますが、本格的な入門書です。


[11889]ワニの本神奈備 投稿日:2016年 4月 9日(土)19時22分




[11888]Re: 播磨王朝5 終わり言蛇 投稿日:2016年 3月26日(土)15時05分
「君なくは なぞ身装はむ 櫛笥なる
   黄楊の小櫛も 取らむとも思はず(9-1777:播磨娘子)」

神奈備さまこんにちわ、年初の記事お疲れ様でした、いっぱいどうぞ。
穂高神社は奉射祭りが終わり春を迎える準備が出来ました。
そういえば、去年は姫路城の化粧直しが終わりましたね。


> 考古学的遺物 『風土記』の伝承を史実とする考古資料は見いだされていない。岩屋とか居住地などは見いだしにくいが、二王子と根日女との悲恋のしるしとなる玉丘古墳が残っているが、築造年代は5世紀前半とされており、二王子の時代は5世紀末頃であり、ガップが大きい。
>

写真下は姫路城大手門に使われている古墳の石棺です。
この地方の古墳は城に形が変わっているのかもしれません。




[11887]> トカラ語琉球松 投稿日:2016年 3月13日(日)15時03分
大里さん、初めまして沖縄島の者です。

 トカラ語は、九州と琉球諸語とを繋ぐと思われますが、「ボゼ」はトカラ語でどういう意味でしょうか?
 資料がほとんど出てこない語ですので興味深いですし、琉球語の中の不明な部分にオーストロネシア系言語が残っている可能性もあります。
 琉球王国の最盛期ではトカラ列島の南端4島が琉球領でしたね。

 ところで、大里さんは苗字からしてルーツは沖縄島でしょうか。

画像は、杖を持って島人を追いかける3神。。。トカラ悪石島の「ボゼ」と宮古島島尻の「パーントゥ」







[11886]Re: 神奈備さんへ神奈備 投稿日:2016年 3月11日(金)19時38分
福島雅彦さんへのお返事です。

ありがとうございます。

掲示板を御覧頂いている方々は福島雅彦さんのご活躍を承知されていることでしょうが。

key を 福島雅彦 古代倭語 方言と朝鮮語に片鱗を留める にして検索すれば、どっさりとでてきます。

よろしく・



[11885]神奈備さんへ福島雅彦 投稿日:2016年 3月11日(金)18時07分
ご無沙汰しています。こちらへは頻繁に訪問させて頂いています。
皆様の貴重な書き込みを拝読しています。
投稿するのは久しぶりですけど…。
相変わらず、「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」(福島命名)を駆使して、
古代史の謎解きに挑んでいます。
某大学のゼミの講義も来年度(28年度)で、連続十二回目の要請を請けました。
公開講座も九回目を講義します。又、レジメをお送りします。



[11884]之ではどうでしょうか?大里 投稿日:2016年 3月 9日(水)23時40分
福島さんへ

返信ありがとうございます。

私はあまり話すと不正確な話をしてしまうので自分を押さえないとと思いながらですが、気づいた事があります。

中国語の「之」(シ)には日本語の「の」の意味があるようです。

しかし言語のちゃんぽんになってしまいますが、現代日本語でグループのリーダーと言っても通じるようにそういうことはあります。しかし助詞に中国語「之」を使えば中国語です。
東夷語・オーストロネシア系言語から中国語に入り込んだ助詞もありえるのかもしれませんが、わかりません…(ちなみに牛頭という解釈でも「し」は抜けているようです…?)

製鉄の頭という意味は明快で説得力があります。スサノオの特徴に非常に合っていると思います。
必ず真実の側面を捉えていると思います。

あまりログを流すのも申し訳ないので、これにて私の方からの書き込みは失礼させていただきますが、楽しかったです。またふらりと現われるかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いいたします。



[11883]大里さんへ福島雅彦 投稿日:2016年 3月 9日(水)22時05分
>siがみつからないです。
おそらく韓国の方がそういう発想が出なかったのは、日本語の助詞「の」にあたるのが韓国語だと「エ」だからなんでしょうか。
高句麗語の助詞が分かりません。高句麗語が解明されていないのがはがゆいです。
siは助詞ではなく「place(場)」で鉄-場-長とかあるいは別の単語なのでしょうか。

※“si”は助詞であると思っています。

*“soe-si”規矩(かね)=指しがね(曲尺)=金属製の曲尺、にも観られます。
金属製の規矩が出来る前は木製(竹製?)だったか、と。

∴曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)、のままか、と。



[11882]Re: RE:トカラ語Bで…大里 投稿日:2016年 3月 9日(水)19時47分
福島雅彦さんへのお返事です。

> 大里さん、始めまして!トカラ語とは寡聞にして初耳です。
>


福島様、返信ありがとうございます!

説得力のあるお話でした。
複数言語をクロスして意味を探るのは難しい事を痛感させられます。
もっと知識が欲しいです。

wikipediaの扶余語族に関するページで、基本単語が載っているので確認させていただきました。

金属は新羅語でso高句麗語でもso

かしら/おさは新羅語でMarip-gan高句麗語でmori-ji(現代韓国語でモリ)

スサノオが金属のかしら、の所へ行った、と考えれば明確ですね。

siがみつからないです。
おそらく韓国の方がそういう発想が出なかったのは、日本語の助詞「の」にあたるのが韓国語だと「エ」だからなんでしょうか。
高句麗語の助詞が分かりません。高句麗語が解明されていないのがはがゆいです。
siは助詞ではなく「place(場)」で鉄-場-長とかあるいは別の単語なのでしょうか。

ソエモリを日本人が聞き違えたとしてもおかしくはないと思います。



[11881]RE:トカラ語Bで…福島雅彦 投稿日:2016年 3月 9日(水)18時10分
大里さん、始めまして!トカラ語とは寡聞にして初耳です。

*私は古代史の謎ときに、「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」(福島命名)を駆使しています。それに拠りますと…。

・「素盞嗚尊」=倭王 「帥升」=“shuai−sheng”=“??”(soe−sang)=鉄上=製鉄王です。
・「高天原」を追放になり新羅(『記・紀』編纂時の呼称)の曽尸茂梨の処へ。
・曽尸茂梨???−???(soe−ssi−mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)の処(倭地)です。
・『三国志(魏志韓伝)』に「國出鐵韓[シ歳]倭皆從取之」=国に鉄を産するが韓も[シ歳]も倭も之を從(ほしいまま)に取る、とあります。即ち、半島の倭地で現地生産している、と。
※文字化けはハングル表記





[11880]トカラ語Bで少し解釈します。大里 投稿日:2016年 3月 9日(水)12時55分
こんにちは。
神奈備さん達こちらの方々の知識は広いので、少ない教養で書き込むのはためらいます。
しかしおそらく新しい発想をもたらすのは悪くない事だと思い、書きます。


出雲の熊野大社によるすさのおのみことの神名「くしみけぬのみこと」という名前にはクシという謎の単語が入っており「くしなだひめ」にもありますがこれは亀茲国の事であって西域の言語であるトカラ語がある程度使われていた可能性があるでしょうか。

スサノオと言う呼び名は”ササ(砂鉄)の王”という日本側からの名称だと思っていますが、トカラ語で名詞を読むといくつかの点でクリアになるものがあるのです。

スサノオの時代…おそらく弥生時代末期から古墳時代初期にはまだ新羅は無くて辰韓でしたがこの地方は秦からの移民が多く、その中には西域からの人々もいた可能性があります。

スサノオは牛頭天王とも言われます。

keu kor トカラ語で牛 首(読みはケウコル?)

「素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。」
とありますが…

コウクリを辰韓にいた月氏族が聞いて「牛首国」と理解し現地の韓族語でソシモリと高句麗の事を呼んだりするかもしれません。高句麗が楽浪の北から南下して百済や新羅と接触するのは五胡十六国の時代にまで下るので牛首が高句麗をさしていた時期があったのでしょうか。

「素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、(さらに)”高句麗”の所においでになった。」

という事であればなんの事もない文章です。


トカラ語では別の言葉の解釈もできます。

kem nua 新しい大地(読みはケムニュア?)

kem:大地(女性名詞) nu:新しい(印欧語族のnew等)が女性名詞を修飾して語尾が-a(トカラ語は形容詞が前置修飾も後置修飾もできます。)私はトカラ語の専門家ではありませんので語尾変化に間違いがあるかもしれません。

しかし熊野、毛野、狗奴、といった音が似ている言葉のうちいくつかの本来の意味がトカラ語で新しい大地newlandであればbearfieldとかhairfieldとかdogslaveよりある意味では日本への移住者がつける名前としてふさわしいのではないでしょうか。


ytarye 道(読みはイターリェ?)

イターリェがいたてとなったとすれば、
五十猛神が道の神という意味になり、阿曇氏のような海人、倭人の祖神に相応しい名前であるように思います。スサノオの道案内をしたことになります。

トカラ語の辞典は大学図書館にはありますが部外者が閲覧するには敷居が高く、英語の本ですので公共図書館は中々置かないと思いますし、調査するのは大変ですが、高句麗語や百済語よりはずっと研究が進んでいる言語ですので、古代史を探る時に役に立つかもしれません。(トカラ語が極東アジアで使われていたのがまず前提ですが…)

知識が少ないため、あまりいられませんが、少しお話できて嬉しいです。失礼いたします。



[11879]Re: アイヌ語の単語の起源言蛇 投稿日:2016年 3月 8日(火)15時01分
鳩摩羅童子さんへのお返事です。

イランカラッテ!
はじめましてこんにちわ、遠いところからようこそ。

> アイヌ語単語は、フィンランド語似。かつ、フィリピン語似。
>
> ---アイヌ語の単語は、「ウラル語系」と「ポリネシア語系」のものが多いです。

「スンダランド→アイヌ→北方草原シルクロード→フィンランド」
の順に移動した部族がいたということでしょうか?

写真は釧路湿原の鶴とアイヌの外洋船イタオマチプです。
先週まで高円宮妃殿下の写真展が三渓園であったのですが出張と重なって拝見できず残念です。

「高円の 秋野の上の なでしこの
 花うら若み 人のかざしし なでしこの花(万葉集1610)」



[11878]Re: Re: タケル君かたばみ 投稿日:2016年 3月 7日(月)22時26分
神奈備さんへのお返事です。

>記紀伝承からは、出雲、素戔鳴尊などとの関連がほしいところですが・・・

ウエツフミに興味深い記述があります。
解読ウエツフミ 田中勝也 参照


http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html
これの第5綴第5章に「須佐之男、天照女神に大蛇の剣を献上」があります。
素戔鳴尊が天照大神に剣を返還したとき、天照大神は「美濃淡海の伊吹に落としし叢雲の剣なり」とあります。
(美濃淡海の文字は田中氏の解釈による漢字化)

ウエツフミ解釈も記紀と類似解釈をしていますが、素戔鳴尊関連では前半は素戔鳴尊、後半はその子孫が近畿方面へ進出するのをみな素戔鳴尊として記述しているとみています。
(伝承と時間軸の配置に誤はあっても思惑はないとみております)

持論シミュレートからは、須佐之男勢力とアマテラス勢力の抗争は事実。年代はBC190〜BC130頃の北九州。
アマテラス劣勢にて阿蘇山中へ後退中での、須佐之男の戦い(八岐大蛇、櫛稲田媛=アマテラス勢力)でアマテラス勢力から奪った青銅剣、これが叢雲剣。

草薙剣はその名のごとく、日本武尊が東海あたりで出雲の残勢力に草原で火を放たれて窮地に陥ったときに神助となったとされる宝剣。
すなわち孝昭105-137が尾張連の祖の瀛津世襲に贈った白銅剣、実際に日本武尊が腰に帯びていたかどうかは別です。

須佐之男勢力の剣はおそらくはオルドス型青銅剣か遼寧式青銅剣の進化型。
当初のアマテラス勢力は石剣程度でしょう。
天之忍穂耳尊渡来以降(天の岩戸神話)で桃氏銅剣を入手と考えています。
叢雲剣は天孫降臨時での天火明命が所持した剣(桃氏銅剣)と同系の可能性が高いとみています。

ふたつにつながりはまったくない。天火明命の濃尾進出、孝昭大王の贈った剣と濃尾、日本武尊311-333頃と濃尾、濃尾という共通項でふたつの剣の伝承が複合したと考えています。
濃尾の朝日遺跡のありように注目(ふたつの墓制が混在する)。
天火明命系譜(先着)と出雲系譜が混合した遺跡と考えています(大環壕があるけれど戦闘痕跡はない)。

熱田の剣の形状はいかに、材質はいかに・・ですね。
もし白銅剣であれば神武朝由来の剣に確定と思います。
参考図 古代刀と鉄の科学/雄山閣 で想定する草薙剣(洛陽中州路とあるのが桃氏銅剣)






[11877]Re: Re: タケル君神奈備 投稿日:2016年 3月 6日(日)19時59分
かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。古代の剣のレジメ、貴重な資料です。

> 熱田神宮伝世の草薙剣とはなにか・・毎度持論シミュレートからは(^^;
> 孝昭105-137(北九州)の妃に尾張連の祖の瀛津世襲の娘の世襲足媛が入ったとき、孝昭大王からその一族に贈られた白銅剣だと考えています。

記紀伝承からは、出雲、素戔鳴尊などとの関連がほしいところですが・・・


6. タケルについて(武、猛、建、梟帥)
 『記・紀』に登場するタケル群像を示します。


建速須佐之男命 古事記の表示 速須佐之男命 須佐之男命 もあります。「速」は、疾風や急の意味で、やはり力強いの形容と思われます。勇猛迅速に荒れすさぶ神。

武甕槌神 大国主に國譲りを強制した天津神。
建御名方神 大国主神の御子神、科野国の州羽に鎮座。古事記にのみ登場。

五十猛神 素戔嗚尊御子神、植樹の神とされますが、坂上田村麻呂が五十猛神と日本武尊を祀ったとされる神社が横浜市保土ヶ谷町の杉山神社の伝承にあり、福島県双葉町の?野(くさの)神社の伝承では、日本武尊が五十猛神を祀ったのが創祀と言います。このように五十猛神を武神とする根強い伝承があったと思われます。しかし、『紀』では、植樹を行った神としか出てきません。柳田國男翁はイタケルの神のイタケをアイヌ語のItak と見て、意味をto say、言うとか荘重に「かくのごとく言えり」とされています。『古事記』三貴子の条に伊邪那伎大神が天照大神に与えた御頸珠の名を御倉板挙之神と言っています。
みくらたなの神とされますが、板挙之神をイタケの神と理解しています。柳田翁は、「この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。おそらくはイタケの神にして、姫神が父神を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。また紀州の国幣中社伊太祁曽神も社伝には日前・国懸の二神斎祀の時に現れ来たまえりといえば、すなわち一種の斎の神なるべし。」と述べています。すなわち、板挙こそ五十猛神との主張です。御子神・若宮は荒魂であると同時に親神を祀り。親神の神意を託宣する神でもあります。

建葉槌命 天津甕星を退治した倭文神の祖。これも織物の神です。

日照命  天穂日の子

皇祖
彦波瀲武鵜草葺不合尊 神武の父。
大泊瀬稚武天皇 雄略天皇
日本武尊。
稚武王 日本武尊の子。

地方の武力勢力の長 殺される側。
磯城 八十梟帥  梟帥とは武勇ある者の集団に名付けたもの。
葛城邑 赤銅八十梟帥。
熊襲 八十梟帥。
川上 八十梟帥。
出雲建 飯入根のことを唄った歌に登場。

皇族将軍
稚武彦命 吉備臣の先祖 孝霊天皇の皇子。
武埴安彦 孝元天皇の皇子 崇神天皇の御代に反乱。
武渟川別 四道将軍の一。東海におもむく。 阿倍臣の先祖。
武渟川別 孝元天皇皇子の大彦命の子 阿倍臣(阿倍氏)の祖。
倭日向武火向彦八綱田 狭穂彦の乱乱を鎮圧した 上毛野の君の祖八綱田。
稚武彦 孝霊天皇の皇子
吉備武彦 稚武彦の皇子

その他
屋主忍男武雄心命 武内宿祢の父
武内宿祢。武振熊 和珥の臣の先祖 忍熊王と戦った武将 『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記される。
廬城部連武彦 雄略紀に 伊勢の斎宮の栲幡皇女と通じたと讒言された。

以上





[11876]Re: Re: タケル君かたばみ 投稿日:2016年 3月 6日(日)12時09分
神奈備さんへのお返事です。

>江戸時代の草薙剣の検分記録では銅剣だったそうです。弥生時代のものでしょう

参考図1 春秋戦国の騎馬民族系のオルドス式の剣
この剣の形式がどういうルートではいってきたのか・・半島経由であるのは間違いないと思うけど。
(高句麗の青銅剣の形状不明)
唐津市の剣は甕棺内から、出雲系譜が用いた剣でしょう。

滋賀県の鋳型はだいぶ簡素、形式だけを真似たのではないかなあ。
倭国争乱時代(孝昭105-137以降)となって対外交易のルートを失った出雲(九州以東)の剣のひとつと推定。

参考図2 半島系の剣
これだけでも吉野ヶ里が半島系につながる集落であるのは明らかと思います。
箕子朝鮮−素戔鳴尊、倭国争乱時代以降でも(九州以東の)出雲系譜が使っていた剣の代表。

参考図3 越王句践の剣、桃氏銅剣、少なくとも長江系(天孫系)の遺跡とみえます。
(ただし、桃氏銅剣は甕棺外の上層から出土、当初は出雲系であった墓所が天孫系の墓所に切り替わった可能性あり)

聖福寺の剣と青柳種信の記録の剣はユニーク。
この形状は大陸や半島に類似がなく、列島で工夫された剣だと考えています。
桃氏銅剣と細身銅剣の合体・・すなわち天孫と出雲の合体・・すなわち神武朝で使われた剣。

これ以降の天孫系譜はおそらく後漢から輸入の鉄剣でしょう(錆びて残らない)。
神武朝以降(倭国争乱のはじまり)の出雲は伽耶との通行を遮断されて、対外交易はできなくなった。
剣も旧態然の青銅剣が主力のままとなったと考えています(錆びずに残る)。


熱田神宮伝世の草薙剣とはなにか・・毎度持論シミュレートからは(^^;
孝昭105-137(北九州)の妃に尾張連の祖の瀛津世襲の娘の世襲足媛が入ったとき、孝昭大王からその一族に贈られた白銅剣だと考えています。
(瀛津世襲は天火明命の子孫と推定)
天孫系譜の実用剣は鉄剣に切り替わりつつあったが、神武時代に用いられた形式による儀仗用の剣。

尼崎市の田能遺跡から白銅製釧(ゴホウラ貝輪を模した腕輪)が出土しています。
年代と位置からは出雲系譜の遺跡とみえます(甕棺葬あり)。
出雲も白銅を所持できていたということで、神武朝時代の白銅製釧の埋納だと推定。
(田能遺跡にはないがガラス製釧にも注目)
神武朝時代では後漢の様々な物品が輸入され、出雲系譜も利用できていたと考えています。

古代刀と鉄の科学/雄山閣によれば、玉籤集(裏書)にある草薙剣の見聞記事から聖福寺の銅剣に似ている。
色は白で楠の箱に収められていることから、銅剣でも鉄剣でもないとあります(楠(樟脳)は鉄を腐食する)。
青銅はすでにだれでも作れる安物金属(^^; 白銅はそうはゆかない。
もしこの時代の儀仗用の白銅剣が伝世されていれば宝剣(神剣)となるのは確実でしょう。
そして日本武尊と草薙剣伝承の誕生へ・・この時代での出雲勢力は東海と関東と信州に残存。


三雲遺跡からは「穀璧」の破片も出土しています。
完全品の穀璧が鹿児島県玉の山古墳から出土(発掘の記録およびその伝世品)。
鏡と違って穀璧は輸出入できるような代物ではない、前漢〜後漢の王族が王族の証として所有するもの。
天孫はまずは南九州に本拠あり。

あいにく三雲遺跡は江戸時代に発掘されて出土品は散逸してしまった。
かろうじて青柳種信の記録が残るのみ(筑前国怡土郡三雲村古器図説)。







[11875]Re: Re: タケル君神奈備 投稿日:2016年 3月 5日(土)14時35分
4. 日本武尊と尾張
日本武尊関連の神社の分布図が春日井市の民俗考古調査室作成のものを示します。これを見ますと、尾張と関東が目立ちます。尾張を拠点として関東のまつろわぬ者達をことむけたものと考えることができます。
 先ず、関東へのことむけの旅は、尾張の宮簀媛の下からであった。また、伊吹山への遠征も宮簀媛の下からとされています。
 勿論、日本武尊の本貫の地は大和であり、東国へは伊勢を経由して尾張からとなっており、大和への帰路も尾張から伊勢に行き、最後を迎えています。

5. 尾張、その他。
邪馬台国と対立していた狗奴国は尾張地方にあったとの根強い説があります。

 景行天皇の頃は、すっきり全国が倭王権によって統一されていたとはかんがえられません。徳川時代から明治時代を経て統一国家になったのでしょう。
古墳時代になっても狗奴国の後裔国が関東に跋扈していたことでしょう。これらをことむける努力がなされて来たことが日本武尊の物語として語られたものと思われます。




[11874]タケル君神奈備 投稿日:2016年 3月 4日(金)19時53分
1. 尾張氏
 継体天皇に続いて安閑・宣化が大王位に就きました。尾張連草香り娘の目子媛が生んだ皇子達です。この目子媛か草香を埋葬した古墳が断夫山古墳で東海地方で最大の前方後円墳です。熱田神宮の側にあります。熱田神宮には倭王権の象徴である草薙剣が祀られています。継体擁立に尾張氏の力が大きくかかわったことと結びついている思います。
江戸時代の草薙剣の検分記録では銅剣だったそうです。弥生時代のものでしょう。
また、継体朝の頃に出雲西部が大和王権に服属したとされており(和田萃)、八岐大蛇神話が畿内に伝わったのでしょう。
 王権の象徴としての伊勢神宮の八咫鏡も弥生時代の筑紫の平原墳墓から出た銅鏡と同じく最大の大きさのものと伝わるっています。
 倭王権の歴史が弥生時代に遡ることを示していると思われます。邪馬台(ヤマト)国からつながっている王権なのでしょう。

2. 倭王武の上表文 『宋書』倭国伝 から
 わたしの国は,はるか遠いところにあって,宋からいえば海外の国になっています。わたしの父祖たちは,みずからよろい・かぶとに身を固め,山や川をわたり歩いて,おちついて休息するひまもありませんでした。そのおかげで,東では蝦夷の55か国を平らげ,西では熊襲の66か国をおさえ,さらに海をわたって朝鮮半島の95か国をしたがえました。(以下略)

3. 雄略天皇
 大泊瀬稚武天皇と称され、幼武尊であった雄略天皇には、往古の日本武尊の伝承が伝わっていたから、先の上表文を書くことが出来たのでしょう。その成果と志を受け継いだという自負が雄略天皇にありました。





[11873]最古級の硯の出土かたばみ 投稿日:2016年 3月 2日(水)18時53分
北九州糸島半島の三雲・井原遺跡からBC100〜AD200頃の硯が発見された(2016/03/02読売新聞その他)。
形状は楽浪郡の硯と同一、50個以上の楽浪系土器も出土。

楽浪郡の存在期間はBC108〜AD313(前漢〜後漢の出先機関)。
列島側の歴史は空白、考古学的にはそのあたりの年代推定となるのでしょう。
では楽浪郡からの使者の相手はだれか・・倭人伝の記事内容に飛ばすくらいしかできず。


持論シミュレートに重ねますと・・ずっと面白くなる(^^;
硯はAD30〜40頃。神武が北九州を統一した年代(大国主命が島根へ引退した年代)。

神武の最初の使者が楽浪郡へむかった。
前漢(BC206〜AD8)へは使者は送っていないはず。
神武の祖先の天之忍穂耳尊は前漢の呉楚七国の乱を起こした一族ですから前漢へは使者を送りにくい。
後漢の成立(AD25)を知って使者を送った。
楽浪郡からも偵察兼使者がやってくる。

その滞在施設が三雲・井原遺跡にあった、ということ(遺跡状況から天孫系の遺跡)。
東シナ海系海人が通訳でしょう、珍彦かその仲間かな(後の葛城氏の祖とみる)。

後漢書に書かれる光武帝の金印(AD57)、事前調査なしで送るはずはない。
最初の情報と調査から20年ほどをへて「漢委奴国王」となるわけで、妥当なところと思います。
(委奴国イドコク=倭人伝時代での伊都国)

歴史は楽しい(^^)




[11872]Re: 奄美大島のワニ?かたばみ 投稿日:22016年 2月23日(火)17時33分
琉球松さんへのお返事です。

>『挿絵で見る「南島雑話」/大島高校南島雑話クラブ(奄美文庫) 1997 』より

さすが地元ですね。現代文ありがとうございます。

ベトナムに竜と結婚したが別居するという豊玉姫によく似た伝承があります。
海幸山幸の釣り針をなくす話はインドネシアにもある。
ただし、まるっきり同じじゃない。
釣り針の貸し借りのトラブルは海人ならどこでも起きそうです。
海幸山幸では、その後に海幸が海に溺れますが、インドネシアにこれはない。

東北大震災をきっかけにした調査で、土佐市蟹ケ池で2000〜2300年前に巨大津波があった痕跡が発見されています。
地質年代は海幸山幸の(持論)年代に一致(^^)
海人の釣り針民話に南九州の大津波と「天孫系と先住者の主従関係の発生」が結合したのが海幸山幸神話であろうと考えています。

ワニが九州や山陰にいなくてもいいんです(^^; 民話ならば、ですけど。
奄美にはワニがいた、ゴホウラ貝の交易範囲にワニの実像と民話が伝わり、その地の民話と複合しても不思議なし。


>銅鐸の製造に関わったかもしれない古代の豪族「和珥氏」が気になりますね。

あくまで持論のシミュレートの立場から、での和珥氏とは・・

銅鐸が大型化する前の特殊型に福田型銅鐸(邪視紋)があります。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html
その鋳型が北九州の鳥栖市安永田遺跡で出土(弥生中期)、ここから中国地方に運ばれたとみられています。

吉野ヶ里遺跡では遼寧式銅剣が出ていましたが、2008年に辛上地区から福田型銅鐸も出土。
吉野ヶ里が出雲系譜の大集落であったことがより確実に・・(倭国争乱時代に入って衰微消滅)。
ま、考古学では記紀の記述に触れることはタブーではありますけど。
福田型銅鐸は九州の神武朝時代における出雲系譜の地域で制作された最初期型の銅鐸であろうと考えています。

神武朝(持論:神武 36-66〜懿徳 92-105)。北九州にて出雲系譜と天孫系譜が共存する時代(神武と大国主命の和睦→国譲り)。
和珥氏の祖は東シナ海系海人、渡来文化の伝達者であり、出雲系譜に参入(天孫系譜へ参入が椎根津彦/珍彦)。
大己貴命(大穴牟遅命)などの渡来系譜と重なり、錯綜している可能性もあり。
神武朝時代に青銅技術を北九州から奈良へ運び、後に開化崇神の出雲制圧で衰微したが飛鳥奈良あたりで復活・・

孝昭105-137の子の天足彦国押人命を祖とするなんてのがありますが、あいまい部分を書紀の天孫系譜につないだものとみています。
(和珥、ワ+ニ、どちらも呉音、自己申告の名じゃないかな、鰐にも通じるし(^^; )





[11871]奄美大島のワニ?琉球松 投稿日:2016年 2月22日(月)09時46分
かたばみさんへ

 『南島雑話』は東洋文庫版などオリジナルに近いですから読み辛いですね。
 と言うことで、例のワニの部分の現代語訳を紹介します。
 ここでは、「駝竜(イリエワニ)」とされていて、島の方言では「アマダツ」と記されています。

以下『挿絵で見る「南島雑話」/大島高校南島雑話クラブ(奄美文庫) 1997 』より
*** 1、昔は渡るこのはできなかったという。内側は大きな船も入れる大きな内海である。
    2、駝竜(イリエワニ) 昔、住用の内海という所に、たびたび海から陸地へ上がり、海岸の草深い所へ寝ているのを村人が見かけたことがあるという。あるとき、村の女が見つけ、馬の綱に木をくくりつけて捕らえたのを、追々、男たちが来て打ち殺した。
    3、その肉を、村の老人が「若者は万一にも毒に当たれば、大変心残りがあろう。その点、老人は後いくら生きられないので、試しにわれわれ老人が食べてみよう。その上で毒もなかったら、若い人も食えばよい」といって煮て食べたら、大変おいしかった。そこで、若い人も食べたという。味は海亀に似ていたという。
    4、この竜が昔からいたということは伝わっていない。近頃、内海の入り口がだんだん浅くなったのは、この竜を捕らえた後のことだと村人は言い伝えている。
    5、駝竜 方音はアマダツ。***

 以上がワニ?の部分ですが、奄美大島は遣唐使の南島航路寄港地でしたから、中国のイリエワニや揚子江ワニの情報が伝わっていたでしょうか。あるいは実際に中国からワニを持ち込んだかも?
 古く、九州全域にワニが生息していてた証拠が見つかるといいのですが。。。



[11870]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月20日(土)01時06分
琉球松さんへのお返事です。

はずかしながら、南島雑話の巻頭近くの鰐の絵の文章をちゃんと読めない(^^; (東洋文庫注文中)
この絵は「漂着した鰐を退治する村人」ではないかな。
想像では描けない絵だと思います、その他の絵もそうです。

棲息であれ漂着であれ、少なくとも南九州の弥生人がワニとサメを違う生き物として知っていた、のは確実と思います。
豊玉姫の説話は南九州の海人(南西諸島系あるいは東シナ海系)の「ワニ関連の神話」がベース、にほぼ決定。

因幡の白ウサギはちとやっかい。
古事記でも「和邇」であってサメを連想させる記述はどこにもないことがまずは肝要。

山陰の郷土料理にワニ料理があるそうですが、実際にはサメの料理。
これを以てワニ=サメの論があるようですが、その料理名がいつから登場か、の根拠がないゆえに却下です。
山陰で弥生からサメをワニとも称していた可能性はみえない。
ワニが黒潮に乗って太平洋岸に漂着は実例があるようですが、日本海側でのそれらしきはない。

山陰ではワニは実見されていない、おそらく。
だとするならばワニ=サメ論は最初から意味を持たない。
因幡の白ウサギ説話を山陰独自の伝承と決めつけてはならない、ということですね。

山陰の「和邇」は、大己貴命など東シナ海系海人(持論)の進出によって伝わった「彼らの神話」が変化して古事記に採用されたもの、である可能性が高いとみます。

豊玉姫は直系の南方系海人伝承がベース(天孫系譜)。
因幡の白ウサギは間接的であり、原型にアレンジが少なからず含まれる、と考えます(出雲系譜)。

ま、山陰のワニ料理の呼称はうんと新しく、古事記が一般に読まれるようになってからで中世以降じゃないかな。
むろん銅剣の絵はサメであって、出雲時代の安曇氏のトーテムであろう、は変わらず。


>サメザメと泣く

擬声語、擬態語、擬音語。
ちょっと堅いですが「日本語オノマトベ語葉の語源について」が参考になると思います。

擬音語の余談
書紀の神武東征にて「神の毒気にあてられて気を失う」とあります。
毒気を具体化するならば火山性ガスとみるのが妥当だと思います。

古事記では大熊に出会って「遠延」となって気を失う、とあります。
熊に出会うのはどこにでもあるとして、「遠延」とは?
注釈には状況を当て字したものとある、オノマトベの文字化でしょう。
オエッ・・ですね(^^;

記紀の記述はどちらも火山性ガスで失神する状況を書いている。
神武は火山の噴火に遭遇したのだ・・(近畿に火山はない)。

九州の由布岳は現在はお休みですが、2200年前以降に噴火しているそうです(歴史時代での噴火記録はない)。
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/514_Yufudake/514_index.html
(持論、豊前豊後は大国主命の国譲り前までの出雲の中枢)





[11869]Re: ワニについての統一理論琉球松 投稿日:2016年 2月18日(木)15時23分
かたばみさんへ

 『南島雑話』の挿絵で描かれているワニ?は想像かもしれませんけどね。
 しかし、このリアルさは実際に見た事がないと描けないと思います。
 これ、中国長江や揚子江あたりで見た方が監修?してるでしょうか。
 ワニは「鮫」の事でしょうけど、鮫に足を付けてもこうはならないでしょう。

 それはそれとして、銅鐸の製造に関わったかもしれない古代の豪族「和珥氏」が気になりますね。
 鰐も鮫も海蛇も天に昇り龍になるはずで、「サメザメと泣く」って言うのも、鳴らす銅鐸を使って雨乞いしたでしょうか?




[11868]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月18日(木)11時14分
神奈備さんへのお返事です。

>補充編がありました

総じての私見は以下ですが、弥生の列島にワニがいたかどうかの物証があれば話はちょっと違ってきます。

記紀などのいう「ワニ」(豊玉姫や因幡の白ウサギ)は列島での現物伝承ではない。
東シナ海系海人が運んだ彼らの話(あるいは神話)が着床し、その口伝がさらにアレンジ(記紀)されたもの。
弥生の列島の海人に祖先の記憶として「ワニ」の言葉とイメージが残っていたならば、容易に重なると思います。
記紀以降での記述も、記紀ベースの解釈論(想像)が入り込んだもので危ない。

参考図は弥生中期(紀元前後)の謎の土器絵です。
持論の天孫降臨〜神武時代、大阪も同時代で出雲文化圏でのものとなります。
渡来した前漢の銅鏡の図(龍?)を模倣したのではないかと思っています。






[11867]Re: ワニについての統一理論琉球松 投稿日:2016年 2月18日(木)09時04分
神奈備さんへ

 幕末期の奄美大島住用川にワニがいたかもしれません。
 左遷された薩摩藩士が記録してますね。この川はマングローブの群生で有名です。

画像は奄美のワニ?・『南島雑話(名越左源太)』より




[11866]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月18日(木)11時30分
琉球松さんへのお返事です。

おお、これはすばらしい\(^^)/
デジタルライブラリ化されていますね。さっそく閲覧中。
奄美にワニがいたのなら弥生の九州にいないなどとはいえないです。



[11865]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月20日(土)01時06分
琉球松さんへのお返事です。

はずかしながら、南島雑話の巻頭近くの鰐の絵の文章をちゃんと読めない(^^; (東洋文庫注文中)
この絵は「漂着した鰐を退治する村人」ではないかな。
想像では描けない絵だと思います、その他の絵もそうです。

棲息であれ漂着であれ、少なくとも南九州の弥生人がワニとサメを違う生き物として知っていた、のは確実と思います。
豊玉姫の説話は南九州の海人(南西諸島系あるいは東シナ海系)の「ワニ関連の神話」がベース、にほぼ決定。

因幡の白ウサギはちとやっかい。
古事記でも「和邇」であってサメを連想させる記述はどこにもないことがまずは肝要。

山陰の郷土料理にワニ料理があるそうですが、実際にはサメの料理。
これを以てワニ=サメの論があるようですが、その料理名がいつから登場か、の根拠がないゆえに却下です。
山陰で弥生からサメをワニとも称していた可能性はみえない。
ワニが黒潮に乗って太平洋岸に漂着は実例があるようですが、日本海側でのそれらしきはない。

山陰ではワニは実見されていない、おそらく。
だとするならばワニ=サメ論は最初から意味を持たない。
因幡の白ウサギ説話を山陰独自の伝承と決めつけてはならない、ということですね。

山陰の「和邇」は、大己貴命など東シナ海系海人(持論)の進出によって伝わった「彼らの神話」が変化して古事記に採用されたもの、である可能性が高いとみます。

豊玉姫は直系の南方系海人伝承がベース(天孫系譜)。
因幡の白ウサギは間接的であり、原型にアレンジが少なからず含まれる、と考えます(出雲系譜)。

ま、山陰のワニ料理の呼称はうんと新しく、古事記が一般に読まれるようになってからで中世以降じゃないかな。
むろん銅剣の絵はサメであって、出雲時代の安曇氏のトーテムであろう、は変わらず。


>サメザメと泣く

擬声語、擬態語、擬音語。
ちょっと堅いですが「日本語オノマトベ語葉の語源について」が参考になると思います。

擬音語の余談
書紀の神武東征にて「神の毒気にあてられて気を失う」とあります。
毒気を具体化するならば火山性ガスとみるのが妥当だと思います。

古事記では大熊に出会って「遠延」となって気を失う、とあります。
熊に出会うのはどこにでもあるとして、「遠延」とは?
注釈には状況を当て字したものとある、オノマトベの文字化でしょう。
オエッ・・ですね(^^;

記紀の記述はどちらも火山性ガスで失神する状況を書いている。
神武は火山の噴火に遭遇したのだ・・(近畿に火山はない)。

九州の由布岳は現在はお休みですが、2200年前以降に噴火しているそうです(歴史時代での噴火記録はない)。

http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/514_Yufudake/514_index.html
(持論、豊前豊後は大国主命の国譲り前までの出雲の中枢)



[11864]Re: ワニについての統一理論琉球松 投稿日:2月18日(木)15時23分
かたばみさんへ

 『南島雑話』の挿絵で描かれているワニ?は想像かもしれませんけどね。
 しかし、このリアルさは実際に見た事がないと描けないと思います。
 これ、中国長江や揚子江あたりで見た方が監修?してるでしょうか。
 ワニは「鮫」の事でしょうけど、鮫に足を付けてもこうはならないでしょう。

 それはそれとして、銅鐸の製造に関わったかもしれない古代の豪族「和珥氏」が気になりますね。
 鰐も鮫も海蛇も天に昇り龍になるはずで、「サメザメと泣く」って言うのも、鳴らす銅鐸を使って雨乞いしたでしょうか?



[11862]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月18日(木)11時14分
神奈備さんへのお返事です。

>補充編がありました

総じての私見は以下ですが、弥生の列島にワニがいたかどうかの物証があれば話はちょっと違ってきます。

記紀などのいう「ワニ」(豊玉姫や因幡の白ウサギ)は列島での現物伝承ではない。
東シナ海系海人が運んだ彼らの話(あるいは神話)が着床し、その口伝がさらにアレンジ(記紀)されたもの。
弥生の列島の海人に祖先の記憶として「ワニ」の言葉とイメージが残っていたならば、容易に重なると思います。
記紀以降での記述も、記紀ベースの解釈論(想像)が入り込んだもので危ない。

参考図は弥生中期(紀元前後)の謎の土器絵です。
持論の天孫降臨〜神武時代、大阪も同時代で出雲文化圏でのものとなります。
渡来した前漢の銅鏡の図(龍?)を模倣したのではないかと思っています。







[11861]Re: ワニについての統一理論琉球松 投稿日:2016年 2月18日(木)09時04分
神奈備さんへ

 幕末期の奄美大島住用川にワニがいたかもしれません。
 左遷された薩摩藩士が記録してますね。この川はマングローブの群生で有名です。

画像は奄美のワニ?・『南島雑話(名越左源太)』より




[11860]Re: ワニについての統一理論神奈備 投稿日:2016年 2月14日(日)20時51分
かたばみさんへのお返事です。

ご一読ありがとうございます。

補充編がありました。

http://www.kamnavi.jp/as/yamanobe/nodaronbun2.pdf



[11859]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月14日(日)20時12分
神奈備さんへのお返事です。

>  鳥取県出土の銅剣にサメらしい線刻が発見されました。

面白そうな会のようですね。
私の場合は亡くなられた森浩一先生の影響が大きいですが、資料としては東アジアの古代文化(大和書房2009年廃刊)がたいへんに参考となりました。
素人投稿も可能でしたが敷居が高い、廃刊後では参考になる論が入手難になった(^^;
(代わりにWEBでの論がいろいろ登場なれど、敷居が低すぎて(^^; 玉はめったに(^^; )


ワニ、列島に大型爬虫類がいたか。
縄文形成時にまで遡れば、ジュゴンなどとともに列島に鰐がいたと考えています。
ただし、弥生まで生き残ってはいないと思います。
列島の河川じゃ餌がたりないでしょう、縄文中期には絶滅じゃないか。
ただし、「ワニ」の言葉は「縄文語」として弥生でも生き残っていた可能性をみています。

揚子江ワニ、弥生の東シナ海系の海人なら普通に見ていた動物と思います。
その話が大己貴命や少彦名命などによって伝わり、後に因幡の白ウサギなど別名としての大国主命に重ねて神話化された。
(書紀の書く「大己貴命」は古事記の書く「大穴牟遅神」と同一とみる、素戔鳴尊時代BC170頃か。むろん大国主命とは無関係)
(和珥氏、ひょっとするとその源流はここにある可能性、漢文化の海人、そのトーテム)

銅剣の絵はサメだと思います。
サメないしワニを描く場合の違いは、ヒレの表現か手足の表現か、だと思います。
ワニでしたら水平方向へ4本を描くのではないか(龍に近い描き方)。
サメでしたら上と左右で尾びれあり、だと思うのです。
描いた本人はワニを知らないとみます。

サメも縄文に遡る言葉だとみています(これも呉音漢音に類似発音はない)。
寒冷の北海道でも、海のない長野でも縄文のサメの歯が出土。
「勇猛」といった海人系の象徴だったのではないかなあ。
長野のサメは安曇氏か、サメ銅剣の持ち主も。

北海道へのサメ進出は最温暖化の時代BC4000頃でしょう(礼文島の縄文遺跡の頃)。
ワニとサメは縄文〜弥生において識別されており、同義と見る論は記紀編纂後だと思っています。

 


[11858]ワニについての統一理論神奈備 投稿日:2016年 2月11日(木)20時49分
;"> 鳥取県出土の銅剣にサメらしい線刻が発見されました。

豊中歴史同好会の尊敬する先輩の野田昌夫氏の「ワニ孝」を想起しました。
 古典の言葉ワニについての統一理論です。ご一読下さい。





[11857]瑞津姫命を娶る+辺津宮・高津姫神は大己貴神妃かたばみ 投稿日:2016年 1月25日(月)10時58分
記紀に登場する「神々」を歴史上の人物ととらえるのかどうか、まずはここですね。
私は歴史上の人物としてとらえようとしています。
そのために必須なのは時代はいつか、だと思います。
時間軸を統合的に決定(仮定)しておかないと、記紀などの記述や神社伝承などの情報を関連づけることができなくなるからです。

書紀は神武以降から開化までの事象を削除して記述している。
目的は、「神武天皇」以降に天孫以外の対立する勢力の存在があってはならない、とすること。
(もうひとつの編纂目的は神々の体系化(理念化)。仏教など論理性をもつ宗教に対抗できるようにすること)

古事記では書紀の書かなかった(書けなかった)事象も書いている、ただし書紀に矛盾はしないように。
そのためには異なる時代の異なる人物を混ぜ合わせる必要が生じ、これが「別名」という状況を生んだ。
その典型が大国主命、別名となった人物の存在年代があいまいになる解釈が登場する。
(記紀はそれを意図的に誘導しているとみています)

高皇産霊尊、神皇産霊尊、天照大神、書紀編纂者がある文化圏の文化を擬人化した神、と考えています。
高皇産霊尊は大陸の内陸系文化を示し、神皇産霊尊は東シナ海の海洋系文化を示す。
天照大神は縄文と初期農耕が結合した文化を示す(縄文の大山祇神+稲でもある、持論でアマテラスと称す)。
幅のある時代と広範囲な地域の総合文化を擬人化したもので、これは書紀編纂者のナイスアイデアだと思っています。


先代舊事本紀、いつだれが書いたのか。
平安末期〜鎌倉時代の書紀編纂者より一段落ちる学者(^^;と推定。
ただし、記紀の書かなかった情報の一部を知る学者(物部系譜の学者かもしれない)。

その情報の出所は天皇記ないし国記編纂用の資料だろうと考えています(書紀編纂でも利用されたと思う)。
だから、先代舊事本紀はタイトルに蘇我馬子と聖徳太子を書いた。
だがこれはまずかった、一撃で偽書とされてしまう。
当時では聖徳太子信仰は普遍的になっていたのでしょうけれど。
記紀を信じた上で手持ち情報を重ねた書が先代舊事本紀だと考えています。

ちなみにウエツフミ、より広範囲な情報を所持する学者が鎌倉あたりで編纂した書。
ただし学者としては先代舊事本紀の編者よりさらに落ちる(^^;
やはり記紀を信じた上でそこに手持ち情報をはめ込んで書かれた書。
出雲文化圏の情報が豊富にみえます。
それ故にその年代配列は物理的に非常に苦しくなります。記紀は天孫と出雲が平行していた状況を書いていないから。
ちなみにホツマツタエ、東海限定の情報を持ってはいるが、個人の思想書であって歴史情報とはみなせないと判断。


神屋楯比賣命は大国主命の妃なのか・・大己貴命の妃なのか・・
大国主命や大己貴命はいつの時代の人物なのか・・

さて・・名の先頭に神を関する人物がいます。
素戔鳴尊の妃とされる神大市比賣命。
瓊々杵尊の妃とされる神阿多都比売(吾田鹿葦津姫)。
大国主命の妃とされる神屋楯比賣命。

他にもいるかな。
神が先頭にある人物は水稲を普及させた重要人物だ、と考えています。

素戔鳴尊の妃の神大市比賣命も水稲、こちらは大気都比賣命と同グループ(大年神)で遠賀川か。
瓊々杵尊の妃の神阿多都比売も水稲です。
こちらは南九州での水稲普及を示す。種子島に白米を伝えたという鵜草葺不合尊のおばあちゃん。
(HPの天孫降臨〜神武シミュレート地図参照)

ちなみに、素戔鳴尊の妃とされる櫛名田姫命(書紀で奇稲田姫)も稲に関連する、だが縄文系の陸稲じゃないかな。
ゆえに「神」ではなく「クシ」の名どまりとなった(^^; 住まいは阿蘇の東山麓〜五ヶ瀬川流域か。
神大市比賣命を妃としたのは素戔鳴尊にとって水稲が貴重だったから(半島北部に水稲痕跡はありません)。

古事記では大気都比賣命は素戔鳴尊に殺害される(大年神グループ、おそらく住まいは遠賀川)。
直接的な戦闘行為における殺害の伝承だと推定。
大気都比賣命に神を関していないのは陸稲を含む畑作系譜だったからではないか。

書紀が書く類似は月読神(月弓神、月夜見神)が保食神を殺す事象。
こちらは狩猟文化と農耕文化の抗争を表現するもので、大気都比賣命殺害とは似て非なる伝承とみています。


須勢理姫は大己貴命と素戔鳴尊の接触を示し、同時代の人物であることを示している。
古事記で大国主命は素戔鳴尊より7世代ほど後とされる。
(書紀は系譜を書いていない・・出雲関連のねつ造がばれるので書けない(^^; )
持論の歴史観では素戔鳴尊はBC190頃(箕子朝鮮崩壊からの渡来)で、大国主命が7世代ほど後なら紀元前後となります。
紀元前後は弥生中期、稲作は普遍化しており、「神」を付帯させるほどの革新的事象はなさそうです。

神屋楯比賣命と大国主命、大国主命と大己貴命を同一人物の別名とみなすことから派生した誤リンクだと考えています。
大己貴命と神屋楯比賣命は水稲でつながっている可能性あり。

大己貴命は少彦名命ともども東シナ海系の海人と考えています。
最新文化の伝達者であり、その後の出雲発展の基盤となる人物。
宗像三女神と接触するのは同じ海人同士での結合、稲作とは無関係。

ならば事代主命の母は? 海人系譜じゃないかな(海人の大己貴命とも錯綜する)。
ゆえに事代主命が漁労の神様エビスにも変化してゆくわけです(島根の美保神社の御祭神)。
事代主命は大国主命の島根引退(杵築大社)に同行しているんじゃなかろうか。
その娘の媛踏鞴五十鈴媛は神武の妃となる。

水稲伝播には2経路ある可能性を示す、半島西南岸経由と東シナ海ダイレクトです。
半島経由が神大市比賣命、神屋楯比賣命は東シナ海系の水稲関与の可能性をみています。




[11855]播磨王朝5 終わり神奈備 投稿日:2016年 1月19日(火)12時22分
逃亡先の異説 14性器半ばに書かれた『峯相記』 南北朝の頃に書かれた。ここでは逃亡先を播磨国宍粟郡としている。『紀』などが知られていたはずだが、、あえて異論を唱えた理由はよくわからない。

考古学的遺物 『風土記』の伝承を史実とする考古資料は見いだされていない。岩屋とか居住地などは見いだしにくいが、二王子と根日女との悲恋のしるしとなる玉丘古墳が残っているが、築造年代は5世紀前半とされており、二王子の時代は5世紀末頃であり、ガップが大きい。

『風土記』 意祁、袁祁の二人が美嚢の郡の志深の里の高野の宮におられて、山部の小楯を遣わして国造許麻の女、根日女を妻問うた。根日女は仰せに従ってお受けした。二人の王子は互いに譲り合って結婚しないで日を重ねた。根日女は年老いてみまかってしまった。王子達は悲しんで、玉で飾った墓を造ろうと仰せられた。よってこの墓は玉丘と呼ぶ。



[11854]Re: 眉唾かたばみ 投稿日:2016年 1月16日(土)07時41分
神奈備さんへのお返事です。

>志摩や神宮周辺の地は豪族の磯部氏の跋扈する地であった。

磯辺氏はWEBに書かれることしか知りませんが、戦国以前はよくわからないみたいですね。
そのうーんと祖先が天火明命に随伴(輸送)した海人なら熊野速玉大社〜伊勢志摩あたりになるかも。
九鬼水軍も伊勢志摩、こちらはより天火明命に遡る可能性があるかなあ。

出雲勢力の紀伊半島南下は西岸で田辺市まで、東岸で津市までと考えています(銅鐸出土地)。
紀伊半島の弥生遺跡は紀ノ川流域に集中して他にはないに等しい(三重県にもほぼない)。
それ以南では農耕に適する土地がないからだと思います(農地は濃尾方面へ)。
しかし海人の拠点なら熊野〜伊勢志摩はぴたり。


崇神の祭祀はなぜ奈良にはないのか(宮殿らしきも未発見)。
書紀の書くごとくで、奈良には置けなかったからだと考えています。
出雲文化圏の中枢であって、強引にやれば混乱を生じたからでしょう(そこで大田田根子が仲介役で登場する)。
唐古・鍵遺跡(楼閣文様土器、銅鐸生産)が消える時代、池上・曽根遺跡も消えてゆく。

民心掌握、崇神の名は出雲の神をおろそかにしなかったの意とみています。
そして崇神は自らの祭祀を問題の少ない地域の伊勢においた。
伊勢市周辺は過疎地域だったようで弥生遺跡がありませんでしたが、外宮の最寄りに隠岡遺跡が発見された。
弥生後期〜古墳初期の遺跡で崇神時代に一致、書紀の書く伊勢神宮の原型登場につながる可能性大。
(元伊勢や海部氏とのからみもでてくると思う)

九州の五ヶ瀬川の源流域の高千穂には縄文末期〜弥生の遺跡が多数あり、黒色磨研土器が出土。
黒色磨研土器は縄文晩期の土器で北九州、熊本、大分などで出土。
山東省の龍山文化の黒陶の影響ありの論あり、ほぼ賛同。弥生初期農耕のひとつは山東半島経由とみています。

縄文と弥生農耕の過渡期(合体時代)、持論でのアマテラス文化圏です。
大山祇神の文化+高皇産霊尊文化(大陸側の内陸系)と神皇産霊尊文化(東シナ海の海洋系)の合体、ともいえる。
すなわち木花開耶姫など記紀の書く「大山祇神の子等」の住むところを示すと考えています。
ここへスサノオが登場、抗争がはじまる。「出雲」の始発(HPの天孫降臨〜神武のシミュレート地図)。

弥生初期の九州での交易路の中継地が高千穂にあった可能性大。
様々な状況が錯綜流動し、以降の列島の「歴史」の始発となる時代だと考えています。
関連キーワード:突帯文土器、黒色磨研土器、遠賀川土器、丹塗磨研土器・・有柄式銅剣(遼寧式、半島系)、桃氏銅剣(長江、中国系)・・甕棺葬(東シナ海、東南アジア)・・


崇神時代に九州の五十鈴川の地名と猿田彦伝承も運ばれた。
猿田彦や天鈿女の伝承をを海人が運べば海の臭いがするかも。
伊勢神宮の神饌には魚介類たっぷりですね(たしか漁労系の道具も使っていたはず)。

自宅の地鎮祭で神主さん(天照大神の社)に、もっと魚介類を多くしてくださいといわれました。
近所の八百屋に注文したので海人がおらず、アワビやスルメはおいてなかった(^^;

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/



[11853]播磨王朝4神奈備 投稿日:2016年 1月13日(水)14時23分
新王朝と日向 神武天皇は日向かから船出をし、大和で初代の天皇位についた。
応神天皇は日向の諸県の君牛諸井の助力があったと思われる。
播磨から見いだされた二人の天皇には日下部連の吾田彦が仕えている。

身分を明かす 袁祁王は身分を明らかにすれば殺されるかも知れないと言うリクスをおかしても勇気を持って明かした。

皇位の譲り合い 二人はろくに教育も受けておらず、ましてや大王としての心構えなどもなく、皇位についたら恥をかく。袁祁王(顕宗天皇)は勇気を持って引き受けたのであるが、心労が重なり、早逝したのだろう。

顕宗天皇の陵 傍丘磐杯丘に葬ったと『紀』にある。塚口義信先生は、築造年代から狐井城山古墳は武烈天皇陵として、その北側の狐井稲荷古墳を顕宗天皇陵とされている。狐井城山古墳は全長140mであるが、狐井稲荷古墳はその20%もない。果たして顕宗天皇は後世に大王とされたが、当時はそう見なされていなかったのではないか。
そうであれば、不自然な皇位の譲り合いなどは単なる作り話となる。

雄略天皇の墓を壊すとの話があります。顕宗天皇が兄に持ち掛けたのです。兄は墓のそばの土をチョット掘って、親の仇であっても大王であったので、チョット恥をカカセテきたと報告し、天皇も良しとあいた。
その兄は雄略天皇の娘の春日大郎女を娶っている。息子の武烈天皇が仁賢天皇の後で即位しているところから見ると、結婚は播磨で発見されて大和へ来てすぐのことだろう。よく弟の顕宗天皇が了承したものと思う。

仁賢天皇の皇女に手白香皇女がいる。継体天皇の皇后となり、欽明天皇を生んだ。仁賢天皇は天智・天武天皇から現代に続く皇室の祖先である。貴い人格者で賢人であってほしい。



[11852]Re: 眉唾神奈備 投稿日:2016年 1月11日(月)10時18分
かたばみさんへのお返事です。

 猿田彦はウズメに送られて伊勢に戻り、夫婦となったようだ。猿女君は巫女や語り部として活躍した。稗田阿礼も後裔である。記紀へ伊勢の物語を持ち込んだのは猿女君だったと思われる。
 阿耶訶での物語は猿田彦には海人族の匂いがする。志摩や神宮周辺の地は豪族の磯部氏の跋扈する地であった。

 磯部氏は全国に磯部の地名がある。
 伊勢国度会郡 伊蘇(SとTとが交替)。 三河国渥美郡 磯部。相模国余綾郡 伊蘇
 信濃国埴科郡 磯部。上野国碓水郡 磯部、越前国坂井郡 磯部。美濃国席田郡 磯部。
 これから見ると、磯部氏は陸地にも上がった海人族と言えよう。

 『筑前国風土記逸文』 によれば、仲哀天皇が行幸した際、怡土の県主の祖、五十跡手が三種の神器を捧げてお迎えしたので、誰かと尋ねられて、日桙の末裔と名乗った。天皇は賞して、伊蘇志といい、この国を恪勤(いそし)の国と名付けるがいいと言われた。磯部は渡来系かも知れない。伊勢神宮は渡来人が祀っていたことになる。



[11851]播磨王朝3神奈備 投稿日:2016年 1月10日(日)21時26分
二王子は双子 『紀』景行天皇と皇子の大碓皇子、小碓尊は双生児である。おおうす、おううす。
億計王(意祁王)は「おけ」、 弘計王(袁祁王)は「をけ」。

『古事記』 かれ、山代の苅羽井に到りて御粮食す時、面黥(メサ)ける老人来てその粮を奪ひき。ここにその二はしらの王言りたまはく、「粮は惜しまず。然れども汝は誰人ぞ」とのりたまへば、答へて曰はく、「我は山代の猪甘ぞ」といひき。かれ、玖須婆の河を逃げ渡りて針間国に到り、その国人、名は志自牟の家に入りて身を隠して馬甘・牛甘にツカはえたまひき。

『丹後風土記残欠』穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。

日下部連使主と 丹後には彦坐王の後裔として日下部氏がいる。浦嶋子も先祖である。
吾田彦 垂仁皇后の狭穂姫の後裔の日下部連が大和にいた。
大吉備津彦の子大屋田根子命の後。
仁徳天皇と日向髪長比売の皇子の大草香皇子の御名代。生駒の日下。
隼人と同族。吾田彦の名からは日向にゆかりの日下部氏と思われる。

なぜ丹後か 大和から遠い上に同名の日下部氏を頼ったのか。。

何故播磨か 丹後の日下部氏が信用できないと感じたか。播磨国美嚢郡は明石の北側の小さい盆地で、隠里のような地である。『紀』では赤石郡としているのは、清寧天皇の頃は赤石郡に属していたからである。

なぜ縮見の里か 兵庫県三木市志染町が比定地。『播磨国風土記』履中天皇が国の境を決める時に、志染の里の許曽の社にこられている。志染町御坂243に鎮座する御坂社の由緒書きに、「また第十七代履中天皇が当社に御参拝ありしことも播磨風土記に記録している。」とある。
また、志深と名付けたのは、履中天皇がこの地で食事をされた時、ご飯を入れた箱に信深貝(しじみがい)が上がってきたので、これは阿波で食べた貝ではないかと言われたので、志深の里というようになった
二王子は履中天皇の孫であり、縁の地に落ちのびて来たのであろう。



[11850]播磨王朝2神奈備 投稿日:2016年 1月 9日(土)10時20分5分
1.二王子にかかわる系譜



2.年表
億計王(意祁王) 弘計王(袁祁王)誕生
454 仁徳天皇と日向髪長比売の皇子の大草香皇子が根使主の讒言で殺される。
456 大泊瀬幼武皇子(雄略天皇)、市辺押磐皇子を殺す
二王子 逃亡
舎人日下部連使主とその子の吾田彦は二人をお守りして丹波国与謝郡に逃
げた。更に播磨国縮見山の石屋に避けた。使主は自殺した。弘計王は兄の
億計王を促し、縮見屯倉首に仕えた。吾田彦は離れずに仕えた。
457 雄略天皇即位
478 白髪皇子(清寧天皇)を皇太子とする
479 雄略没(雄略23年8月7日)
480 清寧天皇即位
481 山部連の祖の伊予来目部小楯が播磨国明石軍の縮見屯倉首である忍海部造細目の家の新築の宴で億計王、弘計王を見いだした。そのいきさつは、祝いの席で先に兄が舞い、次に弟が家褒めの歌をうたい、その中で、自分達は市辺押磐尊の御裔であると明かした。さっそく清寧天皇に知らされ、、二人を迎えるように指示された。
  482 翌年、宮中に迎い入れた。
四月 意祁王(後の仁賢天皇)を皇太子にする。
七月 飯豊皇女(二皇子の姉、男と交合した。別に変わったことはない、以後交合しない。
483 天皇は兄の億計王を皇太子に、弟の弘計王を皇子とした。
484 清寧天皇崩御
億計王と弘計王とが皇位を譲り合う。
飯豊皇女、政務を見るも11ヶ月で没・
485 弘計皇子が顕宗天皇として近つ飛鳥の八釣宮で即位
阿閉臣事代を任那に派遣。高皇産霊神を祀る。
顕宗天皇、八釣宮で崩御。
488 億計王が仁賢天皇として石上で即位
皇太子を小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇)に決定
498 天皇崩御
499 武烈天皇即位



[11849]播磨王朝神奈備 投稿日:2016年 1月 8日(金)16時07分
『播磨国風土記』について
和銅六(713)に諸国へ土地の名、産物、肥痩、由緒、古老の伝聞などを記録し、報告しなさいとの命令がでました。『播磨国風土記』が霊亀三(717)にできあがりました。もっとも早い完成です。
賀古の郡に、比礼墓のことが記されています。景行天皇が妻問いをした印南の別嬢が亡くなって日岡に墓を造ったのですだ、遺体は風にとばされてしまい、櫛箱と褶を葬った。褶墓と言う。この古墳は日岡山古墳とされ、4世紀前半の造営とされている。年代観に合致している。

天皇行幸の回数御代として、時代を示す伝承も多く語られています。回数の多い順に記します。

12回 応神天皇
 6回 神功皇后
 3回 景行天皇
 2回 仲哀天皇
 1回 履中天皇

御世5回 仁徳天皇
    御世1回 成務 応神 宇治 雄略 安閑 孝徳 天智
5世紀前後の応神。仁徳の伝承が圧倒的に多い。河内王朝から重要視されていたことを物語っている。



[11848] Re: 眉唾かたばみ 投稿日:2015年12月25日(金)17時45分(火)18時09分
神奈備さんへのお返事です。

>岐神とは猿田彦神のこと。また、杖に椿を用いれば、霊力が強くなるそうです。

岐神は「生活圏の境界」の守護神と解しておけばよいと思います。
農耕と土地の固定化が登場してからであれば村落の境界と守護でもあって道祖神の登場。

猿田彦命の本質は天孫降臨の道案内と天鈿女命との結婚。
猿田彦命は後に道祖神、塞神など境界や道に関連する事象が重ねられて神格化されていった。

猿田彦命の容姿と意味において「伎楽の治道」の影響が非常に大きいと考えています。
伎楽は貴族だけではなく寺社で演じられたとき、庶民も参観できたと思います。
そして猿楽や能へ、あるいは白拍子など庶民の演芸へ。
庶民の旅が可能になったとき、猿田彦も伎楽の容姿で旅にでた・・

>椿大神社は猿田彦神を祀る式内社です

椿ツバキの語源、昔の神奈備掲示板でもやりましたね。
新井白石は厚葉木とか艶葉木なんて語呂合わせをやってる(^^;
ツバを吐いて邪を防ぐ呪術、これは世界共通のようにみえます。
椿は硬く丈夫な木で杖や護身用に使われたのでしょう(景行大王も土蜘蛛退治に椿の枝を使ったとある)。

旅人の守護でもあり、道、旅、足・・といった「身近なこと」での守護者として猿田彦命が庶民に広まった。
わらじが奉納されたりしてますが、幸か不幸かセックスの神として広まってはいないと思うけど・・ま、天狗には若干(^^;

東京の湯島天神、縁起は雄略時代の手力雄命ですが、手力雄命にお参りする人は皆無と思います。
菅原道真は庶民にとって身近で祈願する目的も明確。
文書として手力雄命が書かれていなかったら、100年のうちに置き換わると思います。
社は古を伝えると同時に今を写す。
そういう変化は大小を問わず各地に無数にあると思っています。


三足烏の最古は長江河姆渡遺跡の文様にあるとみています(二羽の鳥が太陽を運ぶ)。
太陽に住む鳥として三足烏が登場するのは漢時代のようで、漢文化の浸透で周辺諸国へも伝播(高句麗にも登場)。
日本には天之忍穂耳尊がもたらしたと考えています(BC150頃、呉楚七国の乱、長江の呉の王族の渡来とみる)。
それが天孫降臨(日向、天火明命)をへて紀州熊野に伝わった。

山陰の穀物伝承では鳥が種を運ぶイメージはあっても三足烏はないとみえます。
佐太神社などの由来の時代ではまだ登場していないからだと思います(BC500〜BC200あたり、春秋戦国〜秦)。


天孫降臨では猿田彦命が道案内をした。
神武東征説話では八咫烏が道案内をした。
なぜ猿田彦命ではないのか。
紀州熊野の最寄りに猿田彦命(神)があるならば道案内の最適は猿田彦命のはずです。

書紀編纂者の意識による、と考えています。
神武(あるいは開化)の「歴史時代」では猿田彦命の紀州での出番はない。
紀州熊野の縦断で道案内と補給を支援したのは、天火明命系譜の三足烏を持つ熊野の住人。
書紀編纂者はそのあたりの情報を持っており、その人々を八咫烏として表現したのだと考えています。

ちなみに、伊勢の語源は?
日向の五ヶ瀬川ゴカセガワ、現在はゴカセですが本来はイツセであり、これがイセに転じたと考えています。
書記で神武 36- 66の兄とされる五瀬命イツセです(AD30頃か)。
日向市の五ヶ瀬川河口に伊勢と伊勢ヶ浜の地名あり(後世に伊勢の文字で逆輸入と推定)。

参考図 天孫降臨〜神武 書きかけですけど

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