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名草山地方のレイライン(その6) 和歌山の神社好き 投稿日:2020年11月29日


神奈備様、とても解りにくい投稿でご迷惑おかけします。名草神社を中心にしたレイライン地図です。1枚目は、14の神社、山頂、池の位置図です。2枚目は、参考です。



名草山地方のレイラインについて(その5) 和歌山の神社好き 投稿日:2020年11月25日

名草山の北側にある神社は和田川流域にあります。朝日中言神社や竈山神社はかなり低地にありますが、神社の境内と神社の極周辺は小高い丘になっています。つまり、水害に遭わないということです。亥の森は少し奥まった所にありますし、田尻中言神社も山の際にあり水に浸からない。
一方、名草山の西側と南側にある神社は、名草山や城ケ峰等の山の際にあり、これらは水害というよりは津波に遭わない立地となっています。田尻中言神社、高皇神社、内原神社、濱宮、黒江中言神社、クモ池は被災しないのです。
古代の人々は台風や地震等自然災害から逃れる手段をなんとしても子孫に語り伝えたかったことでしょうね。その為に、名草姫と名草彦をお祀りしてその場所が安全な地であることを後世に受け継がれるように地域で親しまれる神話という形にしたのではないでしょうか。
私は、あちこちの神社を巡って、古い神社はかなり高い確率で自然災害に遭わない場所に立地していることに気づきました。なかでも、名草地方の神社については奇跡のようなレイラインが描け、何か理由があると思っていました。この謎解きの最後の手掛かりは、クモ池でした。池の南に汐見峠地蔵尊があり、熊野古道の途中ポイントです。その地蔵の由緒書きには、“安政の大地震で低地に住む人々はお地蔵さんに導かれて救われた”と書いてありました。そこで、私は、レイライン上の神社をくまなく歩いて廻り、和歌山市や海南市の水害や津波ハザードマップも参考にして、本述の仮説にたどり着きました。
名草神社は、台風の暴風を恐れて、南、西、北に少しでも高い山に囲まれた冬野の場所を選んだように想像しました(想像です (笑))。あと、吉原中言神社と杉尾神社のライン上に名草神社があります。だだ、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社の立地上の共通点は私にはまだ解りません。
最後に、三葛の高皇神社は、濱宮と日前宮のレイライン上にあり、かなり良質の湧水を得られることから、タカムスビ様を祀っていると思います。
ありがとうございました。


名草山地方のレイラインについて(その4) 和歌山の神社好き 投稿日:2020年11月25日




投稿日:

名草神社を中心にしたレイライン上の神社等について、竈山神社を中心に反時計回りに並べてみました。
@竈山神社→22.5度→A田尻中言神社→22.5度→B高皇神社→22.5度→C名草山山頂→22.5度→D内原神社→22.5度→E濱宮→22.5度→F黒江中言神社→22.5度→G城ケ峰山頂→22.5度→Hクモ池→22.5度→I千種神社→22.5度→J宇賀部神社→45度→K亥の森→45度→L朝日中言神社→22.5度→M福飯ケ峯山頂→22.5度→@竈山神社で一周します。合計360度です。
主なレイラインは前に書かせて頂きましたので、省略します。これらの神社、山頂、池について古の人にとって二つの意味があるのではというのが私の仮説です。


Re: 名草山地方のレイラインについて 和歌山の神社好き 投稿日:2020年11月16日

神奈備さんへのお返事です。 Mbr> 僕は、以前から気になっていたことがありました。和歌山市にどうして神武天皇の御兄様(彦五瀬命)が祀られているのかです。神武の兄というとても重要な方が和歌山市で眠っている。竈山神社には何か特別な意味があるのではと思い、名草地方のあちこちの神社の歩いて回り、神武と名草戸畔が激戦を交わしたという海南市のクモ池にたどり着きました。
竈山神社とクモ池を直線で結ぶと線上に冬野の名草神社がありました。レイラインの存在は知っていましたので、和歌山市の広域地図を眺めてみると幾つものレイラインが発見できたのです。それも、竈山→クモ池を借りに第1軸と名付けると、第1軸に垂直にレイラインが引け、さらに45度角で分割しても神社が名草社を中心に結ばれるという奇跡のようなラインがかけるのです。
第1軸に垂直になるのは、A伊太祈曽神社元社の亥の森(三生神社)→名草神社→内原神社。45度角で分割すると、B三葛の高皇神社→名草神社→宇賀部神社、C黒江中言神社→名草神社→朝日中言神社(桑山)。
そして最後に名草神社の場所ですが、仮説ですが、A竈山駅の北東にある福飯ケ峯とB海南市の黒江駅南東の城ケ峰を直線で結び、このA−Bに垂直になるように名草山からほぼ東へ線を伸ばすと名草神社になります。
この発見は、どんな意味があるのかずっと考えています。謎解きはこれからも続きますので、かんなび様のご感想等頂けたら嬉しく思います。


名草山地方のレイラインについて 和歌山の神社好き 投稿日:2020年11月16日
j方の多数の神社は、冬野の名草神社を中心にレイラインで結ばれているようです。詳細を投稿させて頂きたいと思っていますが、宜しいのでしょうか?レイラインで結ばれた神社の意義も研究中です。


Re: 巻向の三神社 大三元 投稿日:2020年10月12日

神奈備さんへのお返事です。ごぶさたしてます。リファありがとうございます。
倭国大亂とは一体なんぞや。でかいテーマですよね。天日槍と伊和大神の争い、崇神のタケハニヤスの乱、垂仁のサホヒコの乱、四道将軍、なんかも構成要素でしょうか。私は近著に書きましたように「出雲・越戦争」(やまたのおろち)からミホツ姫を卑弥呼と措定することに興味を持っています。
「魏の国での発音は中古音であり、「呼」は「ho」「wo」なのです。」が私の主張、というのは少し困ります。前段(魏の国での発音は中古音であり)のように限定、画定した記憶はありません。魏志の漢字音は上古音で読むべきか中古音を使うべきか判らない、字によってはいずれかで、場合によってはそれらの中間と言うことかも知れない、と思ってます(どっかに書いてないかと探しましたが見つかっていません)。後段について、以前は[ho]と考えていましたが今は[wo]だと思っています。何と言っても万葉集などで「呼」を「こ」と読む例が皆無で、音読が適当な箇所では全て「を」と読むのが相応しい、ということがあります。


巻向の三神社 神奈備 投稿日:2020年10月11日

大和神社 天理市新泉町星山、穴師坐兵主神社 桜井市穴師。大神神社 桜井市三輪。

 『垂仁紀』に、天日槍が播磨国にやって来た時、天皇は三輪君の祖の大友主と倭直の祖の長尾市を尋問に派遣しました。天日矛は八種の神宝を献上し、但馬国に居を定めたのです。   尋問の二人が祀る神社に兵主神(祭神は天日槍命)が挟まれているように見えます。意気投合したのでしょうか。
 天日槍は垂仁期に来倭したように書かれていますが、五世孫の田道間守が垂仁天皇の命を受けて非時の香果を探しに出かけています。垂仁天皇が五世孫にあたる天皇は孝霊天皇となります。孝霊天皇と天日槍と同時代人と言えます。卑弥呼かも知れない倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇の娘ですが、彼女を共立した倭国乱が治まった背景に天日槍の力があったのかもしれません。天日槍と伊和大神の戦いが倭国乱の一部だったとの説もあります。
 巻向に百襲姫の墓とされる箸墓古墳、また男弟かも知れない崇神天皇の行燈山古墳は共に、前方部から後円部への線の延長先上は穴師山に当たります。兵主神社の鎮座地です。天日槍への想いが込められていると思います。
 所で、ヒボコとヒミコとは父娘関係がありそうな名前ですが、卑弥呼はヒミホと訓むのが正しいのです。アイヌ語の大三元氏によれば、魏の国での発音は中古音であり、「呼」は「ho」「wo」なのです。卑弥呼は「pie-mie-ho」「pie-mie-wo」ヒミホ.かヒミヲと訓みます。
中国では、呼は「ko」と訓まれたことは現在までありません。
 神話の話ですが、大物主の妻となった三穂津姫は高皇産霊尊の娘で、申し分のない出自です。この姫を祀る神社は、
村屋坐弥富津比売神社 奈良県磯城郡田原本町、
美保神社 島根県松江市
が有名です。大物主に二人の妻、この争いはどう治まったのでしょうか。
参考書 大山元 『卑弥呼は「ひみを」 邪馬台は「やまて」』 Amazon


神社のトコロテン遷座 神奈備 投稿日:2020年 9月17日

 伏見稲荷大社を稲荷山頂から麓に勧請したのは弘法大師空海によるとの俗説がありますが、実際は中世の出来事のようです。その麓には藤尾社(現在の藤森神社)が先に鎮座していましたが、現在地の伏見稲荷大社の1.5kmほど南へ遷座を余儀なくされました。所がその地には式内社の真幡寸神社が先に鎮座していました。真幡寸神社を城南偶境内に遷座させています。山城国紀伊郡のトコロテン遷座です。伏見稲荷の近所の住民は藤森神社の氏子だそうです。
 紀伊国の濱宮は崇神期に豊鍬入姫命が天照大神を奉じて祀った場所とされています。濱宮には同じ頃に琴の浦から天懸大神・国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられています。三年後、豊鍬入姫命は天照大神を奉じて吉備に行かれました。
 時代が下って持統天皇の紀伊行幸があり、紀伊国造は、濱宮から天懸大神、国懸大神を名草萬代宮と呼ばれる現日前国懸神宮の地に遷しました。そこには伊太祁曽神社が鎮座していましたが、これを山東の亥の森に遷座させました。これは紀の国の国譲りと呼ばれています。『続日本紀』大宝二年(702年)「是日。分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。」とあります。伊太祁曽神社にまつられている五十猛命・大屋都姫命・都麻都姫命の三柱の神を三社の神社に分けて祀るようにとの勅命が出て、伊太祁曽神社は三分割されました。おかげで朝廷からの幣帛は三倍になりました。その際、五十猛命を祀る伊太祁曽神社は現在の地に祀られました。実は先にそこに鎮座していた須佐神社(素戔嗚尊を祀る)が遥か有田郡に遷座していったと思われます。伊太祁曽神社の現在の鎮座地は伊太祈曽ですが、その西側を口須佐といい、南側を奥須佐と言います。おそらく伊太祈曽の旧地名は須佐だったのでしょう。『和名抄』には、名草郡に須佐神戸の地名があります。『寛永記』に、和銅六年(713年) 五十猛命、大峰釈迦嶽から山東の地に降臨したとあり、同じ年に須佐神社が吉野の西川峰より勧請とあります。伊太祁曽神社が須佐神社を追い出した形になっていますが、両社の祭礼の時にはお互いが氏子さんを派遣することが続いていますし、須佐神社の中に伊太祁曽神社の遥拝所があります。今、これを主張しているのは神奈備しかいないのですが、小川琢治氏は須佐神社は名草郡にあったと推定されており、心強いことです。
濱宮・日前国懸神宮・伊太祁曽神社・須佐神社とトコロテン遷座をやっているのです。



貴サイトの「吉志部神社」のページの記述に異存があります 憚りながら 投稿日:2020年 9月14日(

『 「吉志」小考 』
   先ず「新羅」というのが間違いです。
 「キシ」は新羅の官位にあるし、外交特使をやってよく行ってた一族だしであると。
   その吉志達の先祖の大彦命の実の息子で吉志の先祖の波多武日子命は、 先祖は新羅の王子の娘を娶っているから新羅王室に縁があるから対新羅外交にあてられた事は自然な事であるし、
  「キシ」なら高麗王も「(コニ)キシ」と言います。?

 3 高麗郷と高麗神社
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage59.html
  そして『新撰姓氏録』にはっきりと「大彦命の子」と書いてあるというのに、 国語的解釈がすんなりと普通になされずに、「同祖」という言葉が書き加えられているばかりに混乱を来してしまったらしく、それを変にもじって、 系譜図を見ると違う血流の、大彦命に「拾われた捨て子」で大彦命の息子に一族に加えられた擬姓的氏族の徳彦宿禰命の血流の難波忌寸と「同祖」(同じ先祖。つまり大彦命が先祖という事)と、 『新撰姓氏録』に書き加えられているばかりに、混乱されて徳彦宿禰と血流が結び付けられ、 親子とか同一人物にされてしまい、それが「定説」的になっていたりします。
  今までの歴史途中で勝手におかしな解釈をされ続けたもので、大彦命直系吉志族の崇神天皇が「ミマキイリヒコ」で「(任那(伽羅)」から卑弥呼王家に入り婿したらしい卑弥呼の側近の倭人将軍なのに、 (日本歴代天皇二千六百年史・第10代崇神天皇
 https://m.youtube.com/watch?v=6FvXkorxMHM )
 「吉志」がますます倭人ではなく朝鮮渡来の朝鮮人で神武天皇と繋がっていないかのような「定説」になっています。
   「同祖」というのは、ごく単純に普通に国語的解釈して、「同じ血流」という事ではなくして、 「先祖が同じ大彦命である」とかいう意味でしょう普通は。片や実子、片や拾われた捨て子で愛育された子。
  波多武日子命
 http://koshimiyake.web.fc2.com/saijin_1.html  
 大彦命の子に加えられている拾われ子の「得彦宿禰命」と「難波忌寸」とは直系血流で繋がっているが、 「吉志」は「波多武日子命」の直系であるのに「難波忌寸同祖」と『新撰姓氏録』に書き加えられているばかりに、 「新羅」外交で活躍した一族だとか「新羅」渡来朝鮮人だとかの、「新羅渡来朝鮮人が天皇家の大彦命に血が繋がってるのはおかしい」というバイアスが働いての、エビデンスの確たるものでもない先入観等からでしょう、 「難波忌寸同祖」=難波忌寸と同じく「大彦命」を祖先とする、を、 「難波忌寸ひいては大彦命と血が繋がっていない得彦宿禰と血流同じくする」とか、 「波多武日子は得彦宿禰と父子または同一人物」だとかと、勝手におっちょこちょい解釈・曲解されて「説」にまでされてしまっているようです。
   吉士の先祖の「五十狭茅宿禰」と忍熊皇子のエピソードについても、これは天皇家乗っ取りの為に自分の一族の血が流れ込んだ皇子を立てて戦いを挑みつつも吉士将軍家にその皇子ぐるみ殺されたそのかつての恨みを持つ藤原不比等の、この「元冠襲来女真族男」の藤原不比等の、 「吉士将軍家が騙し討ちにあって馬鹿死にする」というシナリオの脳内妄想創作であるらしいものの、 忍熊皇子が「我が君 五十狭茅宿禰よ」と、自分より目上の人に呼び掛けた言葉を「「我が君」というのはアイヌ語で弟という意味だ」と学会の権威的な人物が近年に決め付け、 「忍熊皇子の父親の天皇はアイヌが特に大嫌いで穢らわしいと思っていたのに、何度もアイヌに戦を仕掛けているのに、 そんな死に際の差し迫った時にまで、唐突に口をついてアイヌ語を使う程に自分の皇子に穢らわしいと考えているアイヌ語を教え込むだろうか?」と、 一般の人達が疑問反論を提示している有り様です。

    四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(1)
 https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/4322c6fe42d8dc57d677732ab27ddb63
 「ただ、加藤氏はその後で、新羅と厩戸王子との関係を強調して四天王寺は新羅系の難波吉士氏の氏寺だとする田村説を訂正し、難波吉士氏は新羅でなく加耶系の渡来人であることを指摘します。」
   加耶=伽羅。「吉志舞」は新羅系のものではないし、加耶(伽羅)は新羅でもなく、 「難波吉士」は新羅渡来の朝鮮人ではなく、元々伽羅から来た倭人王族で、 「ミマキイリヒコ」というように、和合の為に邪馬台国卑弥呼王家に入り婿した、 邪馬台国の将軍・男王から奈良大和朝廷の天皇である崇神天皇となった、日本の正当王家・正当天皇家でしょう。
   そして「吉志」が伽耶の「亀旨降る(キシフル)峰」に天孫降臨した金首露王の伽羅から来た、邪馬台国卑弥呼王家への入り婿王族将軍家という事は、 一般に「吉志」を新羅渡来という先入観を捨ててせめて伽羅渡来人という一歩前進があったにせよ未だ「朝鮮人」という観念を捨てられない事かと思いますが、 伽耶人は「倭人」であって、 そしてその王の「金首露王」もコリアン系だと思うでしょうものの、その伽耶の倭人達の正体とは実は驚くべき事に大陸東端を目指したイスラエルの民達という人も居ます。
   金首露王は「ダビデ王家」のメネリケの姫を娶った血流の人だったとも言います。
  そして「吉志」が歴史家達の『新撰姓氏録』への妙な解釈と違い「大彦命」の直系血流である以上、その邪馬台国将軍・男王だった大和朝廷崇神天皇の先祖の金首露王の血をひくものなのです。
  日本国家の誕生1〜伽耶国こそ倭人のルーツ〜
 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=270135
  伽耶とはどういう国だったのか 夢幻と湧源
 http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_59ad.html  
 参考までに、以下のようなサイトもあります。
 神の民の指標となった大陸最東端の伽耶と任那 日本とユダヤのハーモニー
 http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=84
  「吉志」クシフル天孫降臨の金首露王家は、「ダビデ王家」のメネリケの姫を娶って、それでソロモン王と仲の良かったフェニキア人のタルシュシュ船でジンバブエ(同和伝承)から伽羅に来たという人も居ますが、 そしてまた、ダビデ王家の血を引く秦一族の新羅王子の「天日桙命」の姫君からもまた「ダビデ王家」の血流を貰ったという人が居ます。
  波多武日子命と秦との関係について
 https://koshi-miyake.hatenablog.com/entry/2015/08/21/181237  
 第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰
 http://tsurugine.blog.fc2.com/blog-entry-128.html
 「最初の登場が、皇子の将軍あるいは側近というのは、 この氏族が、並大抵の氏族ではないと察せられる。
  不思議なことは、登場以前の活躍や出自が、全くと いうほど記述されていないこと。
  「難波吉士氏の全容を書けば、邪馬台国や倭五王の 秘密がわかってしまう」と編者たちは知っていて、書か ない道を選んだ、とブログ筆者は思う。」
   「古代シュメールの五十柱の神々(一神か多神かの混乱の起源であり八百万の神々の起源)を名に冠する「五十」の将軍の古代シュメール天孫降臨であり邪馬台国男王から大和朝廷の初代天皇になった難波吉士」の真実について書く事は、 大国主命忌部族が創作したこの日本国の起源成立や偽りの天皇家の秘密について暴露する事であり怖れられた。
   「新羅渡来の朝鮮人のままにして良かった」のだ...


投稿日:




Re: 文献解読 福島雅彦 投稿日:2020年 7月24日

*裴世清は所謂「邪馬臺國=邪馬壹國」の現地を踏査しています。
・其処には「邪靡堆」(水縄連山(耳納山地))しか無く、そこは『三国志(魏志倭人伝)』に謂う「投馬國」と「奴國-2」ですから…。


Re: 文献解読 神奈備 投稿日: 2020年 7月22日

末盧國 4000余戸
伊都國 1000余戸
奴國  20000余戸
不禰國  1000余戸
投馬國 50000余戸
邪馬台國 70000余戸
このような順で書かれています。奴國と投馬國のみを加算する論理はなんでしょうか。


文献解読 福島雅彦 投稿日:2020年 7月21日

※『後漢書』には「奴國」単独記述はなく「倭奴國」を「倭ノ奴國」との読みは出来ない。
・此れは(「倭ノ奴國」との読みは)『三国志(魏志倭人伝)』の「奴國-1」「奴國-2」に影響されている。
※現地踏査した裴世清は、「竹斯國」と「秦王國」としか述べていない。
∴「奴國-1」「奴國-2」も国名では無かった、と証言していると観る。
*「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國」二万戸、であり「邪馬壹國」も国名では無かった、と裴世清は証言している。
∵古の「邪馬臺」(國の文字を外し)は、来て観たら「邪靡堆」だつた。
・其の都の地勢=「東高西下」と水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を言い表している。
「邪靡堆」の文字撰びが゛絶妙に水縄連山(耳納山地)を表現している。
※この地は「伊都國」の南千五百里 (郡庁から萬二千餘里)に在る!!!!!!
※こんな単純明快な事が、何百年も謎だつたなんて信じがたいことである。


Re: 天孫降臨の地 福島雅彦 投稿日:2020年 7月12日

*それは、『記・紀』編纂の主眼目、半島由来の抹消、天孫降臨を天上界へ隠蔽、天武即位の正当性(万世一系)を謳い挙げるためです。
・半島由来=神武天皇の父親の名=「鵜葺草(大伽耶(うがや))葺不合(不統合)命」。
 =「狗邪韓國」=「九倭韓國」=「大伽耶國」=九人の部族長が治める国の統合に失敗して列島へ。
∵金首露王の降臨伝説=九干(部族長)の上に降臨しています。
・「高天原」を天上界へ隠蔽しましたが、後世の賢者が地上へ引き戻す為の伏線を敷いている。
・「高天原」=うきは市の日向(他に、○○日向が十二か所)。
・降臨は「筑紫の日向」から「襲の(西の)」「高千穂の?触る嶽」=水縄連山(耳納山地)です。


Re: 天孫降臨の地 投稿日: 神奈備

福島雅彦さんへのお返事です。
ありがとうございます。
笠紗の御前とか高千穂の地名からは、南九州を思わせるところもありますが、おっしゃる通り耳納山地だと思います。
なぜ、笠紗の御前とか高千穂の名が出てくるのかを解読したいものです。


天孫降臨の地 福島雅彦 投稿日: 2020年 7月10日

太安万侶は『記・紀』編纂に当たり、勅命であることに忖度したのか、 或は直接指示を受けたのか、その故地を天上界の事と取られる様に記述した。 天降りした地点は古事記では、「筑紫の日向の高千穂の霊じふる峰」と記述し、 日本書紀では、「日向の襲の高千穂の峰」、「筑紫の日向の高千穂の?触峰」、 「日向の襲の高千穂の添の山峰」とある。
これらを公約数的に合成し、「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触嶽」と命名した。
これは水縄連山(耳納山地)の山容・山態の事を言い表わしている、と閃いた。
・後世の賢人が地上の故地を読み取れるように伏線を敷いている、と観ます。
*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触嶽」
・「筑紫の日向の」=うきは市妹川地区の日向。(妹川上学校前の元・日向バス停)
 うきは市には他にも「○○日向」が十二か所も現存する。
・「襲の」=“?”(seo)の=「西の」。
・「高千穂の」=「高」は「集(たか)る」の当て字。
 「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。
・「櫛触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。
 「触る」⇒“?”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。
又、降臨した火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、ともある。
・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、  のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写であろう。
※其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、  朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
 ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國が真正面になる。
これは、内陸部なのに韓國が見える?と強調している。


埴輪起源 古代豪族後裔 邇波 投稿日: 2020年 6月21日

扶餘王族の祖先は、遊牧民のスキタイと東アジアへ移動して来ましたから、スキタイの風習を倭国に持ち込みました。
倭 旨大君の埋葬迄に遺体を船に載せ国を一巡し、遺体を受け取る者は身体に傷を付ける。
馬と侍臣を絞め殺し、馬の四肢体を立たせ人の遺体の背骨に棒を通した騎馬の人を墓の周囲に配置した。
(記紀の応神天皇陵での駿 馬と交換の話し)先祖の墳墓を崇拝した件では、卑弥呼の橋(箸)墓が有名。
九州から、大倭に遷都する際に、移管した卑弥呼の墓が亀山(宇佐神宮地)に残される話が有名です。
(倭迹迹日百襲姫命)
旨の娘(美穂)と邇波 彦が結婚し、生まれた竹野(日葉酢媛)は、旨の息子仁大君と結婚して讃と珍の母と為ります。
竹野の異母兄弟の出雲王の邇波 矢田彦(野見*宿禰)は、殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、姓カバネの土師臣(朝臣)を戴きました。


> (無題) 古代豪族後裔 邇波 投稿日:2020年 6月21日

倭 讃大君は、津守 乎己志の訃報を聞き嘆きますが、直ちに倭 旨大君の孫で、 倭 豊日の子、大伴 乎多弖(武持)に副将軍を任せます。
天香具山の管理者の浦嶼 金も参戦しました。
最終的には、代表が最後の協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うな事を条件に帰服します。
大漢国の後裔には、波多野、福岡、猪飼氏等が有ります。後年、扶桑国の王は讃州(讃岐)に移動します。
倭 讃大君自身は、和睦の後に八名郡 、鳥捕山(南麓に過去大伴神社存在)の西側に高千穂宮を建設し、3年に渡り不老不死の仙薬を研究、調合試飲し水銀中毒と為り死期を悟り、陸路を内津湊へ向かいます。
天香具山が見えて来ると、有名な歌を歌われ、水を所望(愛知県日進市 ケカチ)し、飲みますが亡くなります。
倭は、国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる、倭し、うるはし
大倭から、妻や子等が来て、倭 讃大君の遺体と共に内津湊から京への帰途に着きます。


天香具山祭祀 古代豪族後裔 邇波 投稿日2020年 6月21日:

東谷山(御春→尾治→尾張山)の麓で育てられた鹿は、香具山へは、鹿乗の船着場から、犠牲の鹿(花鹿)を乗せて向かいます。
頂上を切り開いて、祖先の上陸した地を見て(360度のパノラマ。天の神(ヤハウェ)に感謝して鹿の犠牲(自分達のトーテム鹿、中国扶餘)を捧げる山だったのです。
祭壇は、切石が使えず、天香具山の土から煉瓦を作り【天香具山の土で平瓮ヒラカ(白瓷)】積み上げた物です。


最初の香具山 古代豪族後裔 邇波 投稿日: 2020年 6月21日

伊勢の海の大石(国見山)で在る天香具山は、現在の愛岐三山の弥勒山です。西側には、内津が有ります。
所謂、藤原京の敷地内に遷座してます。 片割れの御春山も春日山として、遷座し、遣唐使を遣わす際の、天神地祇を祀る場所に為ります。
紀記には、天香語山命が、高尾張(御春山)の対岸、高倉山*(天香具山)に降臨して往来したと言う。
その中間を神領と呼び当時を偲んでます。
天香具山は、字の通り天の神に香を具える山で、神が香を嗅ぐ山でも有ります
御春山(現東谷山)には、磐座多数。井戸の水位は、伊勢湾潮位に関係して居ると伝承存在。天香具山に対して此方は地神を祀ります。
尾張國風土記逸文には、建岡君(邇波彦。天香山坐櫛真智命神)が美濃國の花鹿山(天香具山)に登頂し、賢樹(榊)の枝で縵カズラを作り『吾の縵が落ちた所に神あり』(ト事占兆)と、言って投げ、縵の落ちた方向に、地神を祀る場所(御嶽ウタキ祭祀施設)として居ります。
其れが由来となって縵の里と言うと、有り蔓木(葛城)邑と蔓木山ですが、扶餘王族が来たのを邇波彦が見て迎えに出たのが4月故に御春山(奈良県遷座で春日山)と呼ばれます。春日部の発音は粕壁の意味合いで忌み嫌う所からです。


(無題) 古代豪族後裔 邇波 投稿日: 2020年 6月21日

倭 讃大君は、副将軍に津守 吾田の子、乎己志を選び、乎己志の姉妹、志保(宮簀媛 )を娶り姻戚関係を結ぶと約束しました。
津守 乎己志は、喜んで受け ますが、御春の水軍拠点から内陸の海を北に移動中に島田上縣から弓矢を射掛けられ、甲冑姿で水没(逆見の海#)して仕舞います。
#相模国は、当時自治区の遠淡海国でした。倭 建天皇(天武帝)時代の日本が中国の属国化した後に、行われた壬申革命戦の勝利に合わせ大倭王権に新規加入してます。
*近淡海国(淡海)は近江です。
直ちに岸に寄せて賊を山の上に追い詰め火を放ち焼き殺(天白区 焼山)します。
内陸の海を突き当たる四軒家(守山区)で舵を西に切り、曽根湾(東区大曽根)を抜け守山の鳥羽見を回ると天香具山*の麓の内津の湊に入り早馬で知らせます。


景行天皇は自在の人物から 古代豪族後裔 邇波 投稿日:2020年 6月21日

倭 旨の孫で、 仁の子、讃(景行天皇)大君は、称号の通り(陰を行く)波瀾に満ちた一生でした。
朝鮮半島で、傀儡して居た同盟国の王達は、国内の実力者から同意を得に難い状況に有り、倭国が臣下にしなければ為らない局面に達し出兵します。
中国で、秦代の造船所の船台跡が発見され、そこから復元できる秦代の船は総量5,60 噸の立派な外洋船。 想像以上に、古代の建造技術は進んで居り東支那海を越えて日本へ到着可能です。 建造技術は維持され扶餘王族の渡来に利用されました。
大国の高句麗は、同盟国の任那、加羅、新羅、百済を配下に治める為に、倭国を撃ち破ります。 扶餘も410年に滅亡します。 讃大君は、宋に朝貢し中国の力を借りる事にします。
一方、中央集権に反対する徐福後裔の大漢国(後世 穗国)の東征を行なう事を決めます。
将軍の出雲王 邇波 彦佐須伎が、先導して、息子の彌母里も従軍します。
*所謂 中臣朝臣の祖
**古代中国史書の三本足の烏とは、鵜飼いです。徐福達が齎した鵜飼いの鵜匠は3
人1組(スリーマンセル)で漁をしたのを表したものです。



古墳時代の海 古代豪族後裔 邇波 投稿日:2020年 6月21日

九州は大陸の玄関口と呼ばれてましたが、東海三神山に憧れ1世紀に渡来した弥生人達は、雲南省経由で、九州に入ってます。 未だ出来て無い瀬戸内海に沿って本州を東に進み倭国の大乱と呼ばれる衝突が繰り返されます。
弥生人達が東海地方に入ったのは、邪馬台国が魏の調停で、土着の民が定住を認めた後の3世紀初頭で、トゥキ(都支、現在の土岐)国が最初です。 彌奴(三野美濃)国は、倭 得玉が邪馬台国の討伐に恭順してます。
扶餘王族も夷州 、詰り琉球経由で潮の流れで、東海地方から入国してます。
福岡湾から大野城、倭 隋が、邪馬台国の残党の子孫を鎮圧する為にも作った大宰府、筑紫平野も海で吉野ケ里遺跡は、南に垂れ下がった半島の先です。
倭 済・興が一時的に大陸出兵の為に都を置いた甘木や、朝倉も、邪馬台国の恭順した残党を住まわせた日田迄内陸の海が入ってました。


(無題) 古代豪族後裔 邇波 投稿日: 2020年 6月21日

現在の岐阜県本巣市の下福島の一本松に潮の流れに乗り、現在の韓国から、沖縄の伊平屋島経由で、扶餘王族が渡来しました。
合議政治の実質上の王が、大国主(大人) 臣下の大君
大物主(天皇家)は、大国主だと言う主張を記紀の中でしましたから、主張通り蔓木氏を亜細亜の月氏の都、葛城へと変更し渡来系の主張を強化します。 大人を大臣に変え臣下扱いにします。 改竄は後々迄、続き各方面の公文書の書き換えを行います。
日本書紀や古事記も、倭 弥照天皇の時に改編され、記述に合わせ、源 神野天皇(嵯峨帝)の御世に本格的に改竄され始める備えが為されます。
公文書も蔵人所(機密事項取扱)が設置され其所で行われます。
書き換え不可能な物は処分が続き中身の空の伝承に置き換えて行きました。
万世一系の当初の政策も、あらゆる人種を天皇家に接続する事で、成功し、民族紛争は抑えられましたから公式には、消去されました。


(無題) 古代豪族後裔 邇波 投稿日: 2020年 6月21日

実名倭 聖大君(聖徳太子) が中国の皇帝に出した手紙「日没する処の天子(中国)」と書いた事で皇帝が激怒した」は創作です。
航路
長安―山東半島―百済国―竹島―対馬―壱岐―筑紫― 三川(海上から秦王国を眺め)―三野(海岸に達する) 倭王の使いが出迎え 倭国の王都到着
裴世清は、国書を大人の実名蔓木 摩理勢(大門・蘇我 馬子)に渡します。 実名大野 毛人(小野 妹子)は、国書を紛失したと報告し、形式上一度、流刑にされます。
裴世清が帰国すると流刑が解かれ、第三回目の遣隋使の一員として大陸に渡ってます。 帰国後は、大徳という官位十二階の最高位を賜り大出世します。
当時のアジア世界では、傀儡政権が流行り合議政治で、大人(大国主)で実質の王、大君は傀儡王(大物主)で、大人を吾兄(アセ)と呼んで敬意を表した。
天皇称号を使ったのは倭 建(天武帝)です。 次には倭 弥照天皇で、桓武帝です。


邇波=蔓木(改竄葛城→鞍作→蘇我の順) 古代豪族後裔 邇波 投稿日: 2020年 6月21日

邪馬台ヤムトェ国の場所が特定出来ぬ訳
古代の日本は、中国の東の海上に存在し、当時中国大陸と向き合っていたとされた東海地方は、古代中国から東海三神山の地と認識され、海岸線も当時は現在とは異なっていました。
それは、秦始皇帝を騙した徐福が流布、工作させたと思われ、中国の歴史書に記録される様にさせたと思われます。扶餘王族を運搬した船も秦の時代の技術でした。
中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とさせ60から70度の方向誤導をさせ、会稽郡から実際の「東」を目差して進軍しますと、倭国がその方向に位置すると判断したためなのだが、日本列島の位置を誤導させてあるため実際の東には存在せずに辿り着けない、と言う事です。
呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡らせ夷州と檀州へ派兵します。
檀州*は大海中に存在。
檀州は船州で、参州三川と変化してます。 東海三神山の地は、愛知県豊橋市です。
秦の始皇帝が徐福を遣わし、童児と童女数千人を引き連れて海を渡り、蓬莱の神山と仙薬を捜索させましたが、徐福達はこの島に留まって帰参しませんでした。
今日、代々子孫が伝わって数万戸にもなり、その州に住む者が時々会稽にやってきて、布を商ったり、逆に会稽郡に住む者が大風にあって漂流し、檀州に着く場合も有るという。しかしこの州は遥かな遠方に有り、捜しあてる事ができず、ただ夷州数千の住民を連れ帰っただけになりました。
*夷州 は琉球。会稽東冶之東」(会稽=北緯30度。東冶=北緯26度)に至る地域の東には沖縄県が存在。
逆賊征伐は失敗しました。
徐福の嘘は
607年鞍作 福利(記紀名)は、遣隋使として、皇帝煬帝に謁見しますが、煬帝に倭国への航海の秘密*を暴露しそうに為り、皇帝に激怒され、厳しい拷問を受けます。
遣隋使の随行員は、福利に砒素ヒソを飲ませ亡く為り、償わせ(大辟・・極刑)国難を乗り切ります。
小野 妹子(記紀名)は隋や高句麗の国際事情に焦点を合わせます。
皇帝は、倭国の協力に歓迎し、訓令書(国書)を持たせ倭国への航路を問い質す事になります。
対高句麗政策は、使者である裴世清が、国書を持参して遣隋使に同行し、倭国を訪れます。


混一彊理歴代国都之図は… 福島雅彦 投稿日:2020年 6月 2日

神奈備さん、地図の掲示を賜り多謝 謝々!
*矢張り、見るからに紙面に収めるための、方位と縮尺操作が疑われます。
・朝鮮半島と東シナ海の幅に対比して、列島の縮尺は著しく矮小化されていますし…。


Re: 単純明快ー4. 神奈備 投稿日:2020年 6月 2日

福島雅彦さんへのお返事です。
ありがとうございます。
福嶋さんのおっしゃるように、水行10日の下駄を履いているの見方ができる可能性はありますね。
 伊都国から水行10日でどこまでいけるかが問題です。九州内部では鹿児島までいってしまいませんか。有明海程度frはないでしょう。
 伊都国から北九州の海岸を日本海岸をとれば、出雲や但馬あたりまで来るのかも。
 瀬戸内海を東へ行きますと吉備の国あたりまで。
 伊都国から陸行く1月で九州内を南に行きますと、鹿児島を通り抜けてしまうのでは。
 東へ行きますと、近畿地方まで来ることになりそうです。
> *混一彊理歴代国都之図は、用紙に収めるためのものと観ます。
 地図を描くのに紙面のサイズの都合で、横の者を縦に書くことはあり得ないと思います。
 会稽の東に邪馬台国が位置しているとの認識は地図を正しいと思っている証拠です。



単純明快ー4. 福島雅彦 投稿日:2020年 5月28日

 中国正史の「倭伝」、「倭人伝」、「倭國伝」で、使節の行程記述に所要日数が記載されているのは、『三国志(魏志倭人伝)』のみである。

*行程の順路
@從郡至倭循海岸水行=郡治の領域は海岸沿いに水行。
  ・方位は海岸沿いに南下するのは当たり前で、記述は省略。
A歴韓國乍南乍東=韓の領域(方四千里=『韓傳』)は「乍南乍東」の陸行。
  ・優れた文筆家は「上陸した」との直接文言は使わず文脈表現。
B到其北岸「狗邪韓國」七千餘里=韓の地は方四千里(『韓傳』)である。
・郡治の海岸水行(南下)と倭地(「狗邪韓國」領域)の合計が、差引三千餘里。
・便宜上、郡治の海岸水行と、「狗邪韓國」陸行を、夫々千五百里ずつと仮定。
∴ここまでの陸行≒五千五百里。
C始度一海千餘里至「對馬國」…又南渡一海千餘里至「一大國」又渡一海千餘 里至「末盧國」。
・海峡横断=三千餘里=日中目視水行三日。
・洛東江河口〜巨済島=一日、
*海峡横断=水行四日。
∴郡治の海岸水行=六日。
※海上水行の合計=十日。
D末盧國から東南陸行五百里到「伊都國」。
 ・「畿内説」は方位が良い加減であるとして、「南」を「東」に読み替える免罪符にす   る暴挙出たが、方位は良い加減ではナイ!
∵郡使(魏使)が来倭の真夏の日の出の方位を「東」と認識=真東より28°30“程北へ振れる。コンパスも地図も無い時代であり、整合している。
E東南至「奴國」百里…東行至「不彌國」百里。
 ・これまでの「方位+距離+国名」から「方位+国名+距離」に書き順が変わる。
 ∵郡使(魏使)は伊都國から先へは行っていない=伝聞記述である。
 ・此れは、「伊都國」までの陸行の続きで行ける、の意。次の「投馬國」への水行の記述の段落の為である。
 ∴「南至投馬國水行二十日」=「不彌國」から先ではなく、「伊都國」から、と解る。
F「伊都國の南の投馬國へは水行二十日で至れる」=郡使(魏使)は行ってない。
・「邪馬壹國」以北の「投馬國」が、北から順に書き連ねた最後とは、「邪馬壹國」と東西に並んでいて、等距離と解る。
∴水行十日陸行一月とは、「投馬國」から先の所要日数ではない、と解る。
 ・此れは、伝聞の「水行二十日」の所要日数を先に記述したので、郡使(魏使)が「伊都國」までに要した所要に数を後付けで記述したもの、と解る。
∵「伊都國」から「投馬國」と等距離(千五百里)の「邪馬壹國」を、「投馬國」の南へ水行十日陸行一月、を掛けて移動しようが無い、と解る。
※萬二千餘里の所要日数=水行十日陸行一月+水行二十日、と解る。
*全陸行=韓地四千里+「狗邪韓國」千五百里+末盧國〜「伊都國」五百里≒六千里 / 三十日。
*海上水行=郡治の海岸千五百里+海峡横断三千餘里=四千五百餘里 =水行十日。
*郡使(魏使)が実地に踏査した「倭地」=「狗邪韓國」千五百里+海峡横断三千餘里+末盧國〜「伊都國」五百里=「周旋可五千餘里」と解る。


Re: 単純明快ー3 福島雅彦 投稿日:2020 5月26日年




投稿日:2020年

*これまでの、方位+距離+国名の書き順が、方位+国名+距離に変わります。
・「伊都國」までは郡使(魏使)が踏査した部分で、「奴國」と「不彌國」へは伝聞だからと観ます。
・「伊都國」から陸行の続きで行けるが、行っていない。
∵「伊都國」の南の「投馬國」への水行二十日の記述の段落のために記述している、と観ます。
・漢文は主語省略、品詞・時制不問です。「至」=至った、至れる、かは文脈で解釈。
*混一彊理歴代国都之図は、用紙に収めるためのものと観ます。
・又は、所要時間を長さに作図している、とか。
*「投馬國」と「邪馬壹國」が東西に位置していて、「伊都國」から等距離なのに、水行十日陸行一月もどうやって移動するのでしょう?
・「伊都國」から「投馬國」への水行二十日の伝聞所要日数を記述したので、自分達の踏査した伊都國までの所要日数を付け加えないと、萬二千餘里の所要日数が完結しません。
∴後付けで挿入=「投馬國」からの所要日数ではなく、郡庁〜伊都國までが水行十日陸行一月、です。


Re: 単純明快ー3 投稿日:2020年




神奈備 投稿日:2020年 5月25日

倭人伝から
始度一海 千餘里 至對海國
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
又渡一海 千餘里 至末盧國
東南陸行 五百里 到伊都國
ここから伝聞とみておかしくはありません。しかし、伊都国から奴国、不彌國、投馬國、邪馬壹國と順に述べていると読めますが、いかがでしょうか。
また、混一彊理歴代国都之図に従えば、南は東と読めます。投馬國と邪馬壹國が西東に並んでいるのは理解できます。
東南至奴国 百里
東行至不彌國 百里
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月


単純明快ー3 福島雅彦 投稿日:2020年 5月24日

つづき、です。
※郡使(魏使)が「伊都國」止まりである証拠=『三国志(魏志倭人伝)』の末盧國の役目の記事が物語っている。
*「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭國皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差後錯」=「(倭)王使いを遣わし洛陽や帯方郡や諸韓国に詣たり、郡から倭國に使いある時、(末盧國の)皆海岸に出て捜露(難破・漂流しても探し出し)し文書・賜遣物を女王に伝送差錯を得ず」、と「伝送」としている。
・「伝送」=次々に伝え送る=搬送者が次々に代り乍ら届ける。
・「伝え送る」=物・事象を或るものをを介して届ける。
∴郡使(魏使)は女王に直接手渡ししていない。
※郡使(魏使)が「伊都國」止まりである (「邪馬壹國」へ至らない) 理由。
・「邪馬壹國」は「投馬國」と東西に並んでいて、「伊都國」の南千五百里にある。
・其の行程は「伊都國」の南で水行二十日=内陸河川水行、と解る。
・海上の水行十日と区別する為の分ち書きである。
・古代に在っては、佐賀・筑後平野には有明海が久留米の水天宮辺りまで湾入。低平地は山裾近くまで、葦が生い茂る低湿地の荒野である。現代の長崎本線と鹿児島本線が略海岸線である。かてて加えて、干満の差八メートルの潟である。
・徐福は有明海の潟の澪に盞を浮かべて水路を見つけ遡り、舟が座礁する地点まで来て、潟の泥土の上に布を千反も敷いて歩いて上陸した。「浮盃・千布」の地名として残っている。従って、衣冠束帯の郡使(魏使)が、背振山の山越えをしても「邪馬壹國」(水縄連山(耳納山地))への低平地歩行横断は不可能。
・古代に在っては、河川は高速道路の様なものである。川の上流へ向かうには両岸からの曳船が在った。
・恵蘇宿八幡宮=筑後川の中流に在るが「曳船宿八幡宮」である。
・会所八幡宮=筑後川の上流の日田市にあるが「曳船八幡宮」である。
*古代に在っては、有明海と博多湾との地峡は現在より狭かった。江戸時代にはこの間の運河開削計画が再三持ち上がったが、頓挫している。
*(伊都國の)南水行二十日=初動が南ではナイ! 伊都國の南は背振山である。
・その行程=三雲遺跡〜瑞梅寺川〜今津湾〜博多湾〜御笠川遡上〜「只越=船越」〜 宝満川〜筑後川〜有明海〜矢部川遡上八女福島=「投馬國」水行二十日。
     ↓

      ↓→巨瀬川遡上うきは市=「邪馬壹國」(旧・星野村、矢部村)。

∵明治時代の廃藩置県前は、旧・星野村は浮羽郡側である。現在は八女市。
・平仮名の「つ」の入筆部=水縄連山(耳納山地)、終筆部=星野村、「つ」の懐部=「投馬國」。
∴「投馬國」と「邪馬壹國」は東西に位置し、伊都國から等距離である。


単純明快-2 福島雅彦 投稿日:2020年 5月24日

続きです。
※『三国志(魏志倭人伝)』以外に、全行程(距離と日程)を記述した「倭伝」・「倭國伝」はナイ!
・「伊都國」の南至投馬國=水行二十日、と初めて所要日数を記述。
・「伊都國」〜「投馬國」=千五百里(萬二千餘里−萬五百里)。
・郡使(魏使)は伊都國から先へは行っていない。
・伝聞情報の「水行二十日」を先に記述したので、後付けで自分達が踏査した日数「水行十日陸行一月」を挿入して、萬二千餘里の全日程が判る様にした。
∴萬二千餘里の所要日数=水行十日陸行一月+水行二十日、である。

中国正史の「倭伝」、「倭人伝」、「倭國伝」で、使節の行程記述に所要日数が記載されているのは、『三国志(魏志倭人伝)』のみである。
*行程の順路
@從郡至倭循海岸水行=郡治の領域は海岸沿いに水行。
 ・方位は海岸沿いに南下するのは当たり前で、記述は省略。
A歴韓國乍南乍東=韓の領域(方四千里=『韓傳』)は「乍南乍東」の陸行。  
・優れた文筆家は「上陸した」との直接文言は使わず文脈表現。

B到其北岸「狗邪韓國」七千餘里=韓の地は方四千里(『韓傳』)である。
・郡治の海岸水行(南下)と倭地(「狗邪韓國」領域)の合計が、差引三千餘里。
・便宜上、郡治の海岸水行と、「狗邪韓國」陸行を、夫々千五百里ずつと仮定。
∴ここまでの陸行≒五千五百里。

C始度一海千餘里至「對馬國」…又南渡一海千餘里至「一大國」又渡一海千餘 里至「末盧國」。
・海峡横断=三千餘里=日中目視水行三日。
・洛東江河口〜巨済島=一日、
*海峡横断=水行四日。
∴郡治の海岸水行=六日。
※海上水行の合計=十日。

D末盧國から東南陸行五百里到「伊都國」。
 ・「畿内説」は方位が良い加減であるとして、「南」を「東」に読み替える免罪符にす   る暴挙出たが、方位は良い加減ではナイ!
∵郡使(魏使)が来倭の真夏の日の出の方位を「東」と認識=真東より28°30“程北へ振れる。コンパスも地図も無い時代であり、整合している。
E東南至
「奴國」百里…東行至「不彌國」百里。
 ・これまでの「方位+距離+国名」から「方位+国名+距離」に書き順が変わる。
 ∵郡使(魏使)は伊都國から先へは行っていない=伝聞記述である。
 ・此れは、「伊都國」までの陸行の続きで行ける、の意。次の「投馬國」への水行の記述の段落の為である。  
∴「南至投馬國水行二十日」=「不彌國」から先ではなく、「伊都國」から、と解る。

F「伊都國の南の投馬國へは水行二十日で至れる」=郡使(魏使)は行ってない。
・「邪馬壹國」以北の「投馬國」が、北から順に書き連ねた最後とは、「邪馬壹國」と東西に並んでいて、等距離と解る。
∴水行十日陸行一月とは、「投馬國」から先の所要日数ではない、と解る。
 ・此れは、伝聞の「水行二十日」の所要日数を先に記述したので、郡使(魏使)が「伊都國」までに要した所要に数を後付けで記述したもの、と解る。
∵「伊都國」から「投馬國」と等距離(千五百里)の「邪馬壹國」を、「投馬國」の南へ水行十日陸行一月、を掛けて移動しようが無い、と解る。
※萬二千餘里の所要日数=水行十日陸行一月+水行二十日、と解る。
*全陸行=韓地四千里+「狗邪韓國」千五百里+末盧國〜「伊都國」五百里≒六千里 / 三十日。
*海上水行=郡治の海岸千五百里+海峡横断三千餘里=四千五百餘里 =水行十日。
*郡使(魏使)が実地に踏査した「倭地」=「狗邪韓國」千五百里+海峡横断三千餘里+末盧國〜「伊都國」五百里=「周旋可五千餘里」と解る。
つづく


5月23日
単純明快! 福島雅彦 投稿日:2020 5月23日

※所謂「邪馬臺國」=「伊都國」の南千五百里に在る。
*其処には水縄連山(耳納山地)が在る。
・水縄連山(耳納山地)=「筑紫の日向の襲の高千穂の?触る嶽」=「高天原」。
・隋使の裴世清は現地踏査=古の「邪馬臺」=「邪靡堆」として国名では無かった、と看破。
・其(都)の地勢=「東高西下」=水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を指している。
※「邪馬壹國」以北の九ヶ国は詳らかに出来る。
*北から=「狗邪韓國・對海國・一大國・末盧國・伊都國・奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國」
・「投馬國」⇔「邪馬壹國」は、東西に並んでいる、と解る。
∴「伊都國」の南水行二十日、と解る。
・「投馬(つま)國」=八女郡=「上・下妻(つま)郡」(『倭名類聚鈔』)、と解る。
・「投馬(つま)國」の東には「水縄連山(耳納山地)」が在る。
*水縄連山(耳納山地)=「筑紫の日向の襲の高千穂の?触る嶽」=「高天原」=「奴國-2」。
*「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國-2」二万戸、の事と解る。

※『三国志(魏志倭人伝)』以外に、全行程(距離と日程)を記述した「倭伝」・「倭國伝」はナイ!
・「伊都國」の南至投馬國=水行二十日、と初めて所要日数を記述。
・「伊都國」〜「投馬國」=千五百里(萬二千餘里−萬五百里)。
・郡使(魏使)は伊都國から先へは行っていない。
・伝聞情報の「水行二十日」を先に記述したので、後付けで自分達が踏査した日数「水行十日陸行一月」を挿入して、萬二千餘里の全日程が判る様にした。
∴萬二千餘里の所要日数=水行十日陸行一月+水行二十日、である。
つづく


卑弥呼 klarin 投稿日:2020年 3月15日

上古音、pieg mier hagがほぼ正しいように思います。
しかし、h音が当時、日本にあったとは思えませんので、
実際はピミパでしょうね。日は太陽、mipa>mifa>miwaで
神を意味すると考えています。つまり日神です。
今でも、神川と書いてミハ川と読みます。
2005年以来の書き込みです。少しの進歩もないklarinでした。


Re: 『卑弥呼は「ひみを」』 大三元 投稿日:2020年 3月14日

神奈備さんへのお返事です。
応援ありがとうございます。
「絶賛販売中、売り切れ間近」ってなことにはなっておりませんで、何も印刷されていない巻紙にかないません・・・
ま、自分の「生存証明」とか「墓碑がわり」ということで納得することになりそうです。


『卑弥呼は「ひみを」』 神奈備 投稿日:2020年2月27日

畏友 大三元さん 大山元さん  が
『卑弥呼は「ひみを」』を刊行されました。
マゾンで買えます:
https://www.amazon.co.jp/s?k=9784864767682&_encoding=UTF-8&camp=759&creative=3887&link_code=wql&tag=v2solution-22
大三元さんのサイト
http://www.dai3gen.net/



箸墓を素粒子で透視 投稿日:2020年




神奈備 投稿日:2020年2月 9

毎日新聞の2月6日号にミューオンで見る世界と言う記事が載っていました。レントゲンで人の体を透視するように、ミューオンで古墳やピラミッドを透視しようとするものです。
 ミューオンと言う素粒子は、百万分の2秒と言う短時間の寿命しかありませんが、光に近い速度で飛んでいますので実用できるのです。移動速度と時間の進み方には関係があります。またもやアインシュタインの相対論です。光の90%の速度の場合、時間は44%しか進みません。光の99%ですと14%になります。
 ミューオンは一秒間に1000個、人体を貫通しています。 br> <奈良の橿原考古学研究所が箸墓古墳を透視するそうで、結果を特別展「出雲と大和」で公開するそうです。


Re: 卑弥呼 は ピミホ 神奈備 投稿日:2020年 2月 1日


福島雅彦さんへのお返事です。
ありがとうございます。
女王の称号を聞いて音写したものと思います。
ヒミホ と 聞いたから 卑弥呼 と 書いた。
もし、 ヒミコ と聞いたのなら 卑弥古 卑弥子 とか 書くと思います。
角川の古語辞典での万葉仮名のページには、乎や呼は、を wo の所に入っています。

Re: 卑弥呼 は ピミホ 福島雅彦 投稿日:2020年 2月 1日

*中国正史の書記官は「倭語」の何と謂う意味の何と謂う発音を「音写」したら、此の文字撰びをするか、を考察すべきと。


Re: 卑弥呼 は ピミホ 神奈備 投稿日:2020年 1月30日

大三元さんへのお返事です。 > 大物主とミホツヒメの結婚
 ミホツヒメは高皇産霊神の娘ですから、出自も申し分ありません。卑弥呼の神名にふさわしいと思っていま


Re: 卑弥呼 は ピミホ 神奈備 投稿日:2020年 1月30日

福島雅彦さんへのお返事です。
> *倭人の喋った音価への当て字ですから、中国音の正確な音価は逆に「倭語」の再現には障りになる、と。
 倭人の発音を、不正確に聞いての記述なら、もっと障りが大きいと思いますがいかがでしょうか。


Re: 卑弥呼 は ピミホ 大三元 投稿日:2020年 1月30日

神奈備さんへのお返事です。
拙論のご紹介、言及ありがとうございます。
丁度今そこら辺の話をまとめて本にしようとしております。
「卑弥呼」は ひみを、「邪馬台」は やまて というタイトルです。 というわけで、大変時宜にかなった好都合なご発言でしたので宣伝にやって参りました。


Re: 卑弥呼 は ピミホ 福島雅彦 投稿日:2020年 1月30日(

神奈備さんへのお返事です。
>  魏の人々の読み方では、卑弥呼 は ピミホ、ヒミホ で、日本では9世紀以降に 呼 は コ と読まれるようになり、それ以前は ホ ないし ヲ の発音です。魏志倭人伝の読み方を何時まで江戸時代の学者さんに従っているのでしょうか。
>
>  卑弥呼
> 上古音なら、pieg mier hag
> 中古音なら、pie mie ho
※何時も興味深く拝読しています。が、異議があります。
*倭人の喋った音価への当て字ですから、中国音の正確な音価は逆に「倭語」の再現には障りになる、と。
・「卑彌呼」の音価に、鬼道で衆を惑わす形態(トランス状態で呪文を喚く?)をも兼ねているのではないか、と。
*「卑彌呼」="?"(him)尊(みこと)=最高位の尊。
・"?"(him)=力(ちから、りき)、筋肉の働き、体力、物理上の力、働き、力量、能力、知るか覚ることのできる才能、精力や権力、精力、元気、『民衆書林・韓日辞典』=「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」。
・ひン投げる=圧倒的力の差で相手を投げ飛ばす。(九州弁)
・ひンの叫(おら)び=この上もない大音声で叫ぶ。(〃)
・ひンだれる=この上もなく疲労困憊。(〃)
*「卑彌呼」=卑しく・愈々・叫ぶ、の形態表現も加味している、と。
・「尊・命」=九州弁で“mikot”=「みこッ」の音価です。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。


卑弥呼 は ピミホ 神奈備 投稿日:2020年 1月29日

 魏の人々の読み方では、卑弥呼 は ピミホ、ヒミホ で、日本では9世紀以降に 呼 は コ と読まれるようになり、それ以前は ホ ないし ヲ の発音です。魏志倭人伝の読み方を何時まで江戸時代の学者さんに従っているのでしょうか。
 卑弥呼
上古音なら、pieg mier hag
中古音なら、pie mie ho

 つまり、ヒミ、までは良いとしても、最後の「呼」を「コ」と捉えるのはどうしてでしょう? 通説の通り「日神子、日御子、日巫女」なんかの都合の良い読みが「近
く」にあったので語呂合わせしただけではないでしょうか。
 確かに、日本では後代「呼」を「コ」と発音するようになったようですが、彼の国では、上表のように、ハ→ホ→フ→フ、と変遷して来たとされます。現代北京語もフーに近い音です。
http://www.dai3gen.net/gishi02.htm
http://www.kamnavi.jp/ym/index.htm


投稿日:2020年





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