神奈備にようこそ 掲示板のログ(99/6月,7月) お名前の敬称は略させて頂きます。
 
 

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更新 99/07/31


神林 99/07/31
はい、そうです。
しかし、「不倫説」面白いですね。ただ、神々を個として捉えるか、集団の総称として捉えるかによって変わると思いますが、私としてはケースバイケースで面白い方が好きです。
さて、私は昨年の9月に伊勢、熊野、奈良を3泊4日で駆抜ける神業をやったのですが、もう一足を延ばす事が出来ず(妻と両親が一緒だった為)、丹生都比売の所へは寄れませんでした。
この次は、是非寄りたいと思っております。
長い文章になるかも知れないので、分けて掲示します。
「丹生都比売伝承」では物部氏との関係を“名草比売命”で示しておられますが、私は結構同じ祖ではなかったか?とも考えています。
それは、赤色信仰=水銀、鉄を扱う民=赤星の民。と仮定します。
そして、『尾張国風土記』に「尾張国玉置山に一石あり。赤星の落るところなり。ふもとに星池というあり。星、常にこの池に宿る〜」と記述されています。
この「玉置山」は、熊野三社の奥の院とも言われている「玉置神社」を指すと考えられます(御神体が山頂近くにある一石ですからね)。
という事は「丹生都姫」を祭られている神社に熊野神社が入っているのですから、同じ祖と考えても強ち間違いでは無いと思います。
物部氏は強力な戦闘集団だったらしいですから、それを支えたのは自身が鉄で武器を作っていたのでしょう。
前回に書いたとおり、物部はニギハヤヒと一緒に天下って来たとすると、長髄彦(ニギハヤヒ側)に破れた神武軍が、同一祖の丹生都比売一族に八当たり?し、近場で武器を作る手段を手に入れたと考えられます。
もちろん、天照大神と丹生都比売が姉妹だったという伝承を否定する気は有りません。
ただ、天津神によって史実はかなり曲げられて記されていますから、どこかで妹に摩り替えられた可能性も考えられるからです。
また、長々書いてしまいました。すみません。
今は転勤で千葉ですが、神社が一番多い新潟県の刈羽郡西山町(そう物部神社が鎮座する町です)出身です。
そんな縁でこういう事に興味を持ったのかも知れません。
それでは、また。
 

瀬藤禎祥 99/07/30
麻賀多神社について幾つかに分けて掲示します。
麻賀多神社(成田市船形34)由緒書き抄 平成祭礼CD
 麻賀多神社は、今より約千八百五十余年前、景行天皇四十二年に、日本建尊が、水路利根川、印旛沼を経て当地に御上陸なされ、近くの住民を集めて大きな杉の幹に御鏡を懸け「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」とのたまわれ、この鏡を祭祀することを教えられた。

尊はこのとき、はるかに伊勢の大神を遥拝せられ前記の緒願を祈念遊ばされ、当地方開発の基礎を築かれこの偉大な御功績を残されたのが当社の創始である。
 その後約三百年、応神天皇二十年現在の成田市船形手黒の地に印旛国造伊都許利命(神武天皇の皇子神八井耳命八世の孫)によって初めて社殿が創立せられ、その御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭されて以来、霊光が四方に輝き益々五穀豊穣し、住民の暮らしが更に豊かになり、泰平の世が続いた。
又伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によっておお杉の下より七つの玉を掘出しそれらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀せられてより、一層当地方の五穀は豊かに稔り、永く明るい楽土が築かれ、子々孫々その思恵に浴し今日に至った。
 ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神と崇められ、七つの玉(勾玉)から麻賀多と幾度か改称せられたるも、御神威は古くより輝き渡っている。
なお応神天皇二十七年に至って伊都許利命の御子浦長多津命が病で臥せられた際、父命は、真賀多真大神の御神命によって、マガタマの二柱の大神と共に病気平癒の祈祷をなされた結果御子の病は奇跡的に神癒される等、古くより家内安全、病気平癒の守護神としての御神徳も顕彰され伝承されている。
更に推古天皇十六年に、伊都許利命第八世の孫広鋤手黒彦命に再び御神命があり、現在の成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮され、この御社を大宮殿と尊称する。
その後、醍醐天皇延喜十八年、延喜式神名帳に登載の際、御社名が三種の神器と同称なるを「真賀多大神」と改称され、更に麻の名産地に因み真を麻に替え現在の麻賀多神社と改称された。

麻賀多神社(佐倉市鏑木町933)由緒書き抄 平成祭礼CD
 麻賀神社という神社は、当社を始めとしてこの佐倉市内に十一社、隣接する酒々井町二社、富里町二社、八千代市一社、の計十八社をかぞえます。
一見多く存在するようですが、これを全国的に見ますと他の地方には見られない珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地方にのみ存在する神社です。
しかしながら今から約1050年ほども前に完成した当時の政令というべき「延喜式」の巻第九、下総の国の項に、この「麻賀多神社」の社名が記載されており、当時すでに中央まで知られていた神社であることがわかります。
麻賀多を「まかた」と称えることについては、あまりにも古い神社なので今では定かでなく従来、徳川時代から現在まで勾玉、麻県(ふさあがた)からとか、或いは神社の存在する地形からとか、その他いくつかの推説や伝えがありますが、この小紙ではそれらを逐一紹介できませんので略します。
 筆者はこのことについて次のように考えております。
始めは麻賀多神社(ふさがおおのやしろ)と呼ばれていた。のちにいつのころからか、呼びやすい麻賀多神社(まかたじんじゃ)となった。
麻賀多神社(ふさがおおのやしろ)と呼ばれたとするのは、麻は古くはふさと読み、下総、上総の総(ふさ)と同意語で、この房総の地はふさの国と呼ばれていた。
多神社(おおのやしろ)とするのは、わが国の上代の一時期(日本書紀では成務天皇の代)に国、郡が定められ、それぞれにその長官として国造、郡司が任命されたが、国造について今日研究するのに根本資料となる先代舊事本紀巻十の「国造本紀」によると印波(今の印旛)の国造には神八井耳命八世孫 伊都許利命が任命されたとある。
神谷井耳命(かんやいみみのみこと)は今の奈良県磯城郡田原本町にある多坐(おおにます)弥志理都比古神社の御祭神で、多臣(おおのおみ)祖神である。
したがって、この方の八世の孫である印旛の国造伊都許利命も多氏族であることが知られわが国上代の各氏族は、それぞれに祖先神、崇敬神を祀って共同社会を形づくっていたので、この印旛地方に住んだ伊都許利命を始めとする多氏族は他と同様に適地を選び、氏の神を祀った。
したがって、その神社を多神社と呼び、麻の国にあるので麻賀多神社(ふさがおおのやしろ)と称した。
とかんがえるからであります。

日本の神々11(小倉博氏) 白水社 より
 麻賀多神社 本社(成田市台方字稗山)、奥宮(船形字手黒)
祭神は本社が稚産霊命(カグツチの子)、奥宮は稚日め命(天照大神の妹)。
上記の各神社サイドの由緒書きの内容を紹介しています。
手黒の奥宮の境内には7世紀後半から8世紀初頭の古墳があり、広鋤手黒彦が642年に死んでおり、彼を葬った場所に一族が社を設けて、これが奧宮となったと想定しています。
本社の西方1km、鳥居河岸に鳥居がある。麻賀多は「真潟」であり、水神の性格を見ています。
 

瀬藤禎祥 99/07/30
神林様 掲示板へのご参加ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
さて「赤色信仰および星辰(北斗星)信仰を持った部族」と云う言葉から小生は我田引水発想をしてしまうのです。
聞いて頂けますか。
甥と叔母でもある五十猛命と丹生都比売が恋人(恋神)同士=不倫=ではなかったかと云う事です。
「赤色」から丹生都比売、星辰(北斗星)信仰と五十猛命は筑紫や肥前で白木と妙見との符合、紀の国を本拠とする神々、川上に丹生都比売、川下に五十猛命の配置、紀の国での国譲りをさせられた神々としての親しさが感じられます。
 しかし伊太祁曽神社と丹生都姫神社は、鎌倉以降の高野、根来の勢力あらそいに巻き込まれました。

さて、茨城の大みか神社とは、日立市の大甕神社(大甕倭文神社)「武葉槌命」ですね。
 

手塚 肇 99/07/30
いつも解らない事ばかりで恐縮ですが、千葉県佐倉市と成田市には麻賀田神社というのが七社ほどあり、僕は佐倉城に近い社に行って来ましたが、この神社の由来とかについて御存じの方がいらっしゃったらお教え願いたいです。

神林 99/07/29
はじめまして。
この掲示板はいつも楽しく読まさせて頂いてます。
さて、「大和のアマチュア考古学者」さんが神社の向きが”北向き”という事で驚かれていたのは、所謂「うしとらの金神」に代表される祟り神の方向に門を開いていたからでしょうか?
確かに古来から北は、祟り神や不浄の地などと言われ、忌嫌われて、家を造る際玄関などは北向きにしないようにしてきました(最近は住宅事情からそうもいかないようですが)。
しかし、北が忌嫌われるようになったのは、現在の天神(天孫系)の時代からであって、地神(出雲系)までは神聖な方向であったようです。
では、何故天神は北を忌地にしたかったのか?
それは諸説ありますが、私の考えは以下のとおりです。
日本書記で国譲りの際、「香香背男(天津みか星)という神が納得していない云々」という件があります。
この天津みか星=天津赤星は、ニギハヤヒに従って降りた神で、古代史家の竹内健氏によると「赤色信仰および星辰(北斗星)信仰を持った部族」の総称ではなかったかと言われています。
という事はニギハヤヒを祖神とする物部氏が東北へと逃れた事により、天神は強敵がいる方向を忌地とし、民衆の心もそちらに行かないようにしたのではないでしょうか?
その後も蝦夷と呼び、鬼が住む地方として天神から迫害を受けたのは、そのような因縁があったからでしょう。
長々書きましたが、北は忌方向ではない。と、いうことです。
最近では「北枕は地磁気の関係から頭を冷やし、効率的な安眠ができる」という説もあります。
北には、まだまだ知らない強大なエネルギーが有るのでしょう。
という事で、今晩はこれで寝ます。いつまで、この寝苦しさは続くのでしょうね。
それでは、また。
あっ、秋田県男鹿半島に赤星神社があります。香香背男は茨城の大みか神社に封印されていました。
以上
 

大和のアマチュア考古学者 99/07/26
神社の向き。
私は、このことが、すごくきかがかりで神社にいくと必ずといって良いほど磁石で調べて遊んでいます。
その昔、飛鳥神奈備に坐していて、その社地を失い今は、飛鳥坐神社の摂社に甘んじている飛鳥山口神社、昨日「飛鳥池遺跡」の最後の現地説明会に行き寄り道してきました。飛鳥坐本殿、瑞垣同様に新造してありました。
驚きましたネ。ナント北向きではありませんか。!!
(実は、しょつちゅう訪れているのに磁石を忘れて・・・バカナ僕)
ちなみに、坐本殿のほうは、西南西向きです。

瀬藤禎祥 99/07/25
乗鞍の頂上に東向いて天照大神、西向きで五十猛命が祀られていると聞いています。五十猛命の日本最高峰です。週末に挑戦してきます。

松岡 99/07/21
松岡です。以前はハンドル(matsuya)でしたが、面倒なので止めました。
「宇須多伎→牛瀧」面白いですね。
調べてみたんですが、和泉葛城に役行者ゆかりの牛瀧寺というのがあるそうです。御所の吉祥草寺では牛瀧祭りがあるとか。 青森に牛瀧という地名があります。牛瀧神社の祭神、豊岡姫は「陸奥国風土記」に登場します。また、近くに仏ガ浦(地元では仏ガ宇陀)があり、修験場の恐山も近いとか。
福岡は如何でしたか。五十猛神社には行かれなかったようですね。

大和のアマチュア考古学者 99/07/21
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社 先日、行ってきました。
奈良県史ならびに、明日香村史によると、稲淵、字、宮山という地名の様です。向きは、北西向きです。
神楽殿と拝殿があり、本殿は、拝殿奥の小山自身の様ですネ。
 

瀬藤禎祥 99/07/20
matsuya様が穴師坐神社の摂社の天一社について御疑問を出されていました。答えになっているか、正しいかはともかく、次の説を紹介しておきます。 和泉や大和の穴師神主は斎部(忌部)系でありました。また天目一箇神は筑紫・伊勢の忌部氏の祖であり、この斎部氏をキイに考えれば、天目一箇神を祀っていると考えるのがしぜんでしょう。 穴師は足痛(一歩足)、かたや一つ目 あい通じます。谷川健一さんの名著「青銅の神の足跡」にこの辺の話が詳しく書かれています。
ウシタキ神社は高鴨神社の摂社にありますが、高鴨神社は出雲国造神賀詞の葛木の鴨の神奈備に坐す神社ですが、飛鳥の神奈備には賀夜奈流美神社が坐します。 この近くに鎮座する飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社はおそらく賀夜奈流美神社とは無関係ではありえないと思われます。宇須多伎→牛瀧は瀬藤と勝手な空想ですが。

瀬藤禎祥 99/07/19 8:00
この土日と筑紫の国を歩きました。佐賀の基山、荒穂神社から福岡の原田の筑紫神社次の日は野北の須賀神社、吉田神社と前原の託杜神社、潤神社です。 県立図書館で福岡県神社誌を3時間夢中で読みました。またサイトで報告します。高祖神社も参拝したかったのですが、次回の楽しみにします。

瀬藤禎祥 99/07/15
あらし、だけではなさそうで、折角の書き込みが消えてしまうことがあるようです。
書き込んでいただいたメモは全て小生宛のメールとなります。
掲示板backupに必ず反映させます。
今後ともよろしくお願いします。
 

菊竹@高祖神社@氏子 99/07/13
前原へいらっしゃるのならば高祖神社、怡土城、伊都歴史博物館、平原遺跡、雷山神籠石をおすすめします。 ただし、車の便が非常に悪いのが難点ですが・・・
高祖神社HP
あいにく私は前原の五十猛命神社については知りません。 日向峠からの眺めもなかなかいいですよ。

瀬藤禎祥 99/07/13
今度の週末に九州へ行こうと思っております。基山と前原あたりの五十猛命を訪問しようと思っています。 基山は日本建国の原点みたいな気がしております。来週にはレポートします。

大和のアマチュア考古学者> 99/07/12
穴師坐大兵主神社、JR桜井線、巻向駅の東側、旧上ツ道に、一の鳥居があり、そのたもとに、”正一位”と刻された石碑が建っています。

箔本起也 99/07/11
本日より平野郷は祭り一色に染まっております。
平野郷HP

matsuya 99/07/11
図に乗ってもう一つ質問させてください。
御所市の高鴨神社境内に、牛瀧神社(豊岡姫)というのがあります。豊岡姫は、豊受のことですが、「牛瀧神社」がどちらから勧請されたものか誰か知りませんか? あるいは、「牛瀧」というのは一般的なんでしょうか?

matsuya 99/07/11
2度目の投稿。
穴師坐神社を考えると面白い。
境内には、橘神社があり、御神紋も橘。橘といえばタジマモリで、天之日矛の末裔ですね。
ここで、質問ですが、同じく境内に天一社があります。これは天目一箇でしょうか。陰陽道の天一神でしょうか。神職の方に聞き忘れてしまいました。
神社を考える場合、末社や御神紋を見るとちょっと面白い。

瀬藤禎祥 99/07/09
matsuya 様 投稿ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
神が祀られ始めるのは、人が住んでいるからで、太古には先ずきれいな水が絶えることのない所であったと思います。 水神を祀り、水源地を祀り、山を祀ったのでしょう。この原始の神々が後に御食津神とされたのではないでしょうか。 しかし、matsuyaさんの丹波の天日槍と豊受をまとめて穴師神社を考えてみようとの発想は素晴らしいですね。通説では説けない謎が隠されているかもしれませんね。
私ももっと考えたいと思います。
穴師兵主神社を更新しました。

大和のアマチュア考古学者 99/07/07
河童伝説、面白いと思います。研究してみます。

matsuya 99/07/07
初投稿です。よろしく。
兵主神について、穴師坐兵主では、「御食津」と記されています。神宮に祀られている豊受も天之日矛伝説の多い丹波から勧請されてきたということで、繋がりを感じています。
また、境内には「水神社」があり、河童伝説とも繋がると考えるのは単純ですかねぇ。

大和のアマチュア考古学者 99/07/06
フツヌシ
そうですネ。ニギハヤヒが本家で、カムヤマトイワレヒコは、入婿なんですよね。入婿として、結納品をたくさん持参するために、日向から宇佐、筑紫、安芸、吉備と、点々としてから大和入りしたんですよね。そんで、難波の日下で、トミノナガスネヒコの猛反発をくらったんです。 この点では、継体大王もおなじですよね。

手塚 肇 99/07/06
掲示板あらしさんのおかげで瀬藤さんのコメントを見のがしそうになりましたがバックアップでなんとかみれました。ありがとうございました。なんとフツヌシが本当は国ゆずりの御本家なのですね。

大和のアマチュア考古学者 99/07/06
兵主神について
2度目の投稿です。昨年のことでしたが、桜井の「ホケノ山古墳」を訪れていたとき、大阪は八尾から来られておられ、”鉄”の研究をなさっておられる方が言っておられました。 「鉄」の起源を調べて行くと、どうしても、「桜井市の穴師坐兵主神社にたどり着く」と。

瀬藤禎祥 99/07/06
紀ノ川流域の兵主神や蚩尤
日前国縣神宮は「日鏡」と「日矛」が御神体とされており、この内「日矛」を天日槍命として兵主神とする見方は確かに存在します。 イタテ神は小生の氏神の伊太祁曽神社の神様で、追っかけている最中です。 丹生は赤土で水銀を含むいわゆる朱砂の事ですがこの女神の丹生都比売神社も和歌山です。 金属では谷川健一さんの青銅の神の足跡(小学館ライブラリー)が網羅的で「古代の鉄と神々」とともに勉強になりました。

新村 明子 99/06/06
ところで、私の宇治と若宮八幡の問題は、とうとう鉄とのつながりももちはじめてきました。 学生社刊「古代の鉄と神々」真弓常忠著を京都八坂神社で手に入れたのですが、ここには紀ノ川流域の兵主神や蚩尤のこととからめて日光山縁起にもふれられていました。 私は日光山縁起こそ大和朝廷と下野の不思議な関係を解く鍵だと思っていたのですが、これでいよいよ紀の国との関わりも深く視野にいれなくてはならない…。 鉄…ですか…。熊野の問題もあるし、紀の国はやはりこれから重点をおかなければならない地域のようです(~o~)

瀬藤禎祥 99/07/06
またまた いたずら書き の 侵入です。 掲示板としては 一人前だそうです。祝着!。 ログは前のページの下の方から見れますのでそれをご覧下さい。 掲示板で字の色を変えたり、大きくしたりできる事が解っただけでも収穫でした。 中学生レベル以下の知性の人からでも学ぶ事があるのですね。一つだけ見本として残しました。

 掲示板あらし 99/07/05-06

瀬藤禎祥 99/07/05
どうも 教養のなさそうな人に やたらいたずら書きをされてしまい、掲示板がそうとう消えてしまいました。 このような時のために「突然の消去」の防衛はしております。前のページの下段でご覧下さい。 新村さん お知らせありがとうございます。

 掲示板あらし 99/07/04-05

瀬藤禎祥 99/07/03
【手塚 肇様(99/06/28)へのコメント】
 元々の伝承は経津主が葦原中つ国の平定と伝わっていたとされ、これに記紀編纂時の権力を握っていた藤原氏がその祖神の建御雷之男神が活躍するように割り込ませたとの説があります。 古事記は私史、日本書紀は公史、公史では公知の経津主の伝承は省けなかったようです。なお建御雷之男神は別名建布都神または豊布都神とやはり布都が入っています。
【石上神宮の系図について】
 昔は石上坐布留御魂神社と呼ばれていました。万葉集に
石上 振の神杉 神さびて 恋いをも我は さらにするかも
とあるように「フル」の神として知られていました。布留川沿いには多くの遺跡が出ています。 石上坐布留御魂神社は天武天皇によって石上神宮として国家守護の神として祀られたとされています。 後世に布都努斯魂神を石上布都之魂神社(岡山県赤磐郡吉井町石上字風呂谷)から遷したとあります。 この時には既に布都御魂が祀られていたと伝わっています。これから見ると最も古くから祀られていた神は布留御魂と言うことになります。古い神ほど系図的には子、孫に位置付けられるようです。

stan 99/06/30
新村さん こんばんわ 「農と祭」などご確認ご連絡ありがとうございました。こちらも再度探して見ます。「大阪府神社史資料」私も利用しています^^。瀬藤さんもよくご存知と思います。方違神社ですかちと懐かしい。紀氏といえば、ご存知と思いますが、滋賀と三重県の境近くに有る白山と八幡神社、両社とも木地師の本山ですがこのあたりは紀有常、惟喬親王とか藤原仲成などの伝承があるようです。

新村 明子 99/06/29
stanさま 遅くなってしまい、どうもスミマセンでした。早川考太郎氏の「農と祭」と西岡秀雄氏の本の件ですが…今日、町田の図書館で探してみたのですが、見つかりませんでした。(結構大きい図書館なんですが…。)で、他の手段なんですが、私は希望の本が図書館にない場合、だいたいリクエストで他の図書館から取り寄せてもらっています。stanさんの平塚の図書館もこのようなサービスをやっていませんか?一度尋ねてみてください(~o~) さて、20〜23日までの京都・奈良・大阪神社巡り旅行ですが、一番おいしかったといえば、堺市の方違神社!に合祀されている向井神社でした。祭神が仁徳・履中・反正天皇、宇治稚郎子、王仁の5人とはなんておいしい神社なんでしょうっ!(初めて後世の事情からでない履中天皇が祭神の神社を見つけたような気がしますが…。)いろいろ想像をかられて、その後堺市の図書館にも出かけたら、「大阪府神社史資料(上・下)」という本を発見! もうめちゃくちゃ大阪がうらやましいです。こんな一つの神社ごとに文献を羅列して、祭神や由緒の変遷を事細かに掲載してくれる書籍など、他県では見た覚えがありません。大阪の神社を調べている方、是非ともお勧めです。一度閲覧をしてみてください(^○^)
瀬藤さん、さらサイト、またまたとっても参考になりました。和歌山まで時間がなく、堺市で断念をした今回の旅行でしたが、今度行く時は是非とも!紀氏のことも少し調べてみます。
そしてstanさん、西相模から伊豆ですね!早速調べてみます。あと宇治稚郎子が祭神の神社は下野にもありますよ。野木神社といって、豊城入彦命の子孫にあたる奈良別という人物が、仁徳に命じられて稚郎子の遺骨をもって奉斎した神社だと伝わってます(^_^)

手塚 肇 99/06/29
大和のアマチュア考古学者様 御親切にどうも。実は此の本、買っていて良く読んでなかったものです。僕の勉強不足から単純に香取神宮のフツヌシと物部のフツシミタマが結びつかなかったのです。

大和のアマチュア考古学者 99/06/29
手塚 肇さま 正確に、お伝えします。冊子は、
「古代日本正史」原田常治著 同志社
             S51年9月27日初版発行
             H 7年6月10日17版
の出雲・大和一族系図によりますと、
フツ(布都御魂)−フツシ(布都斯御魂)−フル(布留御魂)−宇摩志麻呂治尊(物部氏の祖)とあります。

手塚 肇 99/06/28
大和のアマチュア考古学者様 情報ありがとうございました。布留とニギハヤヒはやはり関係がありそうですね。

渡部 智志 99/06/27
仕事が落ち着いて、久しぶりに来てみましたが盛り上がりつつ有るようですね。皆さんは随分勉強されている様で、私など足下にも及ばない感じですが、宜しくお願いします。 先日、中臣氏の本拠地(?)を訪ねたく、大阪茨木市周辺の三嶋群と呼ばれた地域をめぐりました。阿為神社に行くのが目的でしたが、本当にいい土地で、自分もここに地盤を置きたいと思える所でした。 阿為神社は、中臣氏とはどの様な関係にあるのでしょう。恐らく、周辺の阿威・阿威川等は、この阿為神社からついているはずなので、そこそこ力というか、影響が大きい神社と考えるのですが、如何でしょう。 もっと私も勉強します。

瀬藤禎祥 99/06/26
「フツ」は剣で切る音とされています。「主」も「御魂」も神を表します。 香取氏は物部香取氏で氏の神は物部氏の氏の神である「経津主」であり、「布都御魂」と言うことです。

手塚 肇 99/06/25
千葉の香取神宮に行って来ましたがあれは香取駅から行くと大変です。佐原駅からバスが妥当でしょう。しかし祭神のフツヌシは奈良の石上神宮のフツノミタマとどう言う関係があるのでしょうか。どなたかお教え下さい。

瀬藤禎祥 99/06/23
新村 明子 さん、掲示板への書き込みありがとうございます。それにしても、思う存分神社めぐりをするとはうらやましいですね。いかがでした。次回はぜひ和歌山へも。 大阪ミナミの付近も気になるとの事、泉州ですね。大阪ミナミとやると難波周辺の飲み屋街のイメージに重なってしまう「おじさん」です。和歌山の神功皇后の足跡伝承の残る神社をリストアップしてあります。さらサイトからどうぞ。

つげの 99/06/23
瀬藤さま。遅くなりましたがリンク有り難うございます。リンクして頂いてから全く更新出来ませんでしたが、最近漸く資料と(鈍い)頭の整理が付き、[神様の名前」の続きを書き始めました。7月半ばには何とかアップ出来る様にがんばりますので、見に来て頂けるとうれしいです。 早々

瀬藤禎祥 99/06/22
gens@alpha-net.ne.jpさんからお知らせを頂きました。紹介させてもらいます。先日、五十猛のことを調べるのに、貴HPの杉鉾別神社もめぐりました。その由緒を挙げておられたので興味深く拝見しました。つらつら眺めておりましたらアイヌ語で考えるととても不思議(?)なことが判りまして、一文をアップしましたので御案内いたします。
イタケルです。お時間が御座いましたら御笑覧下さい。

板倉さんちのTAMA 99/06/20
足利市の板倉町に板倉神社があります。全国の神々が出雲大社に集まるさい、皆より一ヶ月遅れて帰るのが板倉神社の神様。そして板倉神社では12月にその神様をお迎えするお祭りが毎年あるのだそうです。そのへんの詳しい事情いきさつ、またこの板倉神社に関する詳しいことを知りたいと思っています。誰か御存知でしたら教えてください。

stan 99/06/19
新村明子さん、すみません、お名前 まちがえました。下。

stan 99/06/19
こんばんわ、仲村さん、はじめまして 宇治稚郎子を祀る社は、京都宇治に2つ、相模に一つ、いずれも式内社ですが、遠く離れて相模にあるというのがなかなか興味あるところです。前鳥の由来はご存知と思いますが、相模一宮寒川のほぼ対岸にあること、前鳥より創祀は後のようですが西相模から伊豆にかけて、本宮・来宮・貴宮と名乗る社が点々数十社もあること。小田原には惟喬親王を祀る社、由来の寺があること、この辺りがkeyではないかと。「サ」の神についての本、お手数おかけしますがもし見かけましたらよろしくお願いします。
http://member.nifty.ne.jp/stan/

箔本 起也 99/06/19
web-BBS開設おめでとうございます。これからちょくちょく覗きに来させて頂きます。さっそくですが、ひとつ「いちゃもん」つけます(笑)かきこする方の名前が表示される部分、黒色では見にくくありません?
http://www.power.co.jp/tm/hakumoto
http://www4.osk.3web.ne.jp/~kumata/
平野はもうすぐ祭りです。皆さんどうぞお越しを。

新村 明子 99/06/17
瀬藤さん、こんにちは。先日はメールのお返事どうもありがとうございました。私も今週やっと派遣の契約が終わり、我慢できずとうとう20日から23日まで思う存分大阪・京都・奈良の神社めぐりをすることに決めました。とくに応神・仁徳朝を調べている私としては、大阪ミナミの付近、そして和歌山市周辺の部分がとても気になり、事前の予習として瀬藤さんのHPがとても参考になりました。(どうもありがとうございます。)ところで、紀州については、どうしても宇治との関連が気になってしまいます。宇治という名前の前には「き」の国と呼ばれていたこと。宇治と紀氏との深い関係。そして竹取物語…。中上健次の本などの読んでいろいろと考えてはいるのですが…。それと話は変わりますが、stanさん、相模の神社の件では私、前鳥神社の祭神が宇治稚郎子である理由がどうしてもわからず、下野との関係、日本武尊とのつながりからいろいろと考えていたのですが、そうですね…「サ」の問題も…。私、「農と祭」と西岡秀雄氏の本、町田市の図書館で調べてみます!

stan 99/06/17
こんばんわ、いつもお世話になっております。「古代であそぼ」stanです。相模の神社を調べ始めましたら「サ」にあたりまして、相模の式内社に「サムカワ」「サキトリ」「サムタ」とありますが、「サ」は「(山の)神」、「カミ]はインドネシア辺りで「沢山」の意味とか。民俗学者、早川孝太郎氏の「農と祭」とか西岡秀雄氏の本を探しているのですが手近にありません。ここの図書館にあるよ!といった情報ありましたら。お教え戴けると幸甚です。
 現在:神奈川平塚在、stan
http://member.nifty.ne.jp/stan/

瀬藤禎祥 99/06/10
花坂志郎 様 ご投稿ありがとうございます。私も2度頂上に登らしてもらいましたが高宮神社の方向が北西とは気が付きませんでした。出雲大社と鹿島神宮とは日本列島最長の東西線上に鎮座しているとの指摘が吉野祐子さんの「隠された神々」に記載されていました。神社の向きや鎮座の場所も大きい情報ですね。

大和のアマチュア考古学者 99/06/08
はじめまして、花坂志郎@自称:大和のアマチュア考古学者と申します。開設者の瀬藤さん、三輪山の起源の発想は、とても面白いと思います。ご存じかもしれませんが、三輪山の頂上には、奥津岩座と言われる直径1.5m大の黒々とした岩石が数十個あり、その雰囲気は異様なものを感じます。その岩座の手前には、日向御子命を祭神とする大神神社の摂社が、北西(=出雲の方)向きに建てられています。この3つの関係(大和/出雲/日向)も面白いと思われませんか。

瀬藤禎祥 99/06/06
渡部 智志 様 書き込みありがとうございます。高槻市天神町1-15-5の 上宮天満宮は元々野見神社ですが、ここの神職の方々は大変立派な方々です。
http://www.mahoroba.ne.jp/%7Ejogu/index.htm
是非ご訪問を。

渡部 智志 99/06/06
瀬藤さんお久しぶりです。以前メールを送った青森出身の渡部です。覚えていらっしゃいますか?さて、私が住んでいる高槻には、神社・遺跡が豊富ですが、それらの説明や資料が不足気味であるのと、資料館が少ないと思っています。(高槻の埋文にも行きましたが)仕事が忙しく休みもそんなに無いのですが(今時珍しく、仕事が忙しい・・・)、休日には妻とそれらを見たり調べたりが、私達の楽しみになっています。高槻の神社・遺跡関連の資料をお持ちの方は、教えて欲しいと思います。

開設者の瀬藤禎祥です。 99/06/05
太古、人の葬送は山に行った。「はかやま」と言った。はかないやま?これが「はやま」になった。ご用邸もある。大和の三輪山は敬称の「御」+「はやま」が「みわやま」となった。どうでしょうか?
 

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