摂河泉の秦氏の分布


1.試論解説:秦氏とは

1.秦氏の原型は邪馬台国にもある。
『魏志倭人伝』倭人の風俗  一人々は稲や貯麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸をつむぎ、麻糸・きぬ・綿を産出する。

 これをやったのを秦氏と言うのではないが、このような人々を統括する役割を持った豪族であった。当然税に当たるものを徴収していたはず。

『魏志倭人伝』の伊都国  伊都国(糸島か)に到着する。官はニキ(爾支)といい、副をシマコ・ヒココという。人家は千余戸ある。この国には代々国王がいて、みな女王国に統属している。ここは帯方郡からの使者が倭国と往来する時には、常に駐まるところである。
 女王国は北にある国々に対し、特別に士卒を置き、諸国を検察させている。国々はこの士卒を畏れ憚っている。士卒は常に伊都国に置かれていて、国々の内におけるその権勢は中国の刺史のようである。

 伊都国は『日本書紀』によると、仲哀天皇がおもむいた際に、築紫の伊都縣主の先祖、五十迹手(いとて)が出迎えており、『筑前国風土記』では、五十迹手は「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗っている。 王権の外交官、検察官、また「尉山に天から降ってきた日桙」とは天日矛に通じ、これは秦氏の祖とする見方も多く存在し、伊都国の首長、伊都国の機能、まさに秦氏を指し示しているように思えてならない。 秦氏は意外と古くから王権に仕えていたのかも知れない。

2.秦氏の渡来の伝承の形成

2−1 『古事記』応神天皇
 
(この御世に)秦の造の祖、まゐ渡り来つ。

2−2 『日本書紀』
応神紀十四年 弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく。「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅國に留れり」とまうす。 ここに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経るまでに襲津彦来ず。
応神紀十六年 平群木宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。(中略)乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に来り。

2−3 『古語拾遺』応神天皇
 
軽嶋の豊明の朝に至りて(中略)秦公が祖弓月、百二十県の民を率て帰化けり。

2−4 『新撰姓氏録』左京諸蕃上 漢
太秦公宿禰
 出自秦始皇帝三世孫孝武王也。男功満王。帯仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝。男融通王(一云弓月王。誉田天皇(諡応神)十四年。 来率廿七縣百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。以百廿七縣秦氏。以下略

3.弓月と兵主神
 大和の弓月岳に穴師坐兵主神社と穴師大兵主神社が上下二社として鎮座、現在は下社に合祀、これから弓月王、秦氏、兵主神と繋がってくる。また穴師坐兵主神社の祭神は御食津神で神体は日矛とされる。
 もう一つは聖徳太子を支えたと伝わる秦川勝の次の話である。 『日本書紀』の皇極天皇三年(644年)
東国の富士川周辺に住んでいた大生部多と云う者が蚕に似た虫を常世の神として信仰を広め、これを秦河勝が懲らしめたと云う。
 大生部多は秦氏の同族の宗教ホイトのような存在であったのだろうが、大生部多からは、但馬國出石郡に鎮座する二座の式内社である大生部兵主神社が想起される。 まさに兵主神と秦氏との関連を指し示す説話と思われる。

4.兵主神と天日矛神
 兵主神社は西日本に分布するが、これと天日矛神の足跡とは比較的重なっているとされる。
 兵主神社の分布は兵主神・天日槍命・赤留比賣命参照。

5.神功皇后(息長帯姫)は天日矛命の子孫、だから応神天皇もそうなる物語は何故出来た。
 息長帯姫は本当に天日矛命の子孫なのか、母親の葛城高額姫の両親であるが、田島間守と兄弟の多遅摩比多訶(父親)とまたその兄弟の清日子の子の菅竈由良度美(母親)となり、何故に葛城などの地名が頭にあるのだろうか?
 父親の多遅摩比多訶は但馬(但馬國出石郡の日出神社「多遲麻日多訶神、由良止美神」)、母親の菅竈由良度美は恐らくは出石か淡路(日出神社、淡路國津名郡出石神社「天日槍命」清日子が献上した神宝の内小刀は淡路島へ)であり、大和の葛城とは関係なさそうである。大和王権の妃であるには葛城は都合がよかった。

5−1 香春神社の祭神 辛國息長大姫大目命
 この神は息長帯姫をもじった神名なのか、香春神社を齋祀った氏族が奉戴した神のどちらかでであろう。 香春神社は初期の宇佐神宮の祭祀を務めた辛嶋氏や赤染氏に関連する銅採掘、精錬に関係する神社で、宇佐八幡の元宮とも言える。ここに出てくる氏族は秦氏の一族である。

5−2 北九州の地名の符合 『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)から
北九州の地図のつもり

  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I      甘木  香春
        ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川        
  有明海

 この地図に 武内宿禰を祖とする氏族名と同じ地名をあげています。平群と云う地名は今は奈良と千葉に見えます。珍しい地名と言える。波多の臣、許勢の臣、蘇我の臣、平群の臣、木の臣(基肄)、葛城の臣など。要するに応神天皇を支えた氏族達。

5−3 武内宿禰
 渡来して筑紫の国で力を蓄えていた武内宿禰を中心とする氏族が出石、吉備、淡路、近江、山城などの氏族と連携をとって大和の旧体制から大和国中の支配権を簒奪したと云うことだろう。
 武内宿禰はこれらの中心的役割を果たした。恐らくは五十迹手ではなかろうか。また住吉大神ではなかろうか。 応神天皇の本当の父親であるように思えてならない。住吉大神とするのは、『住吉大社神代記』に
皇后與大神有密事(俗曰夫婦之密事通)と出ているのを根拠とした。

6.国津神(土着の民:土蜘蛛)と対決した日矛一族、九州では景行天皇も。
『播磨國風土記』から
 
韓国から来た天日槍命が宇頭の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命に土地を求めたが、海上しか許されなかった。天日槍命は剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘に上がった。
 「剣でこれをかき回して宿った。」これは、ひとつはオノゴロ島を思わせるし、建御雷の神と大国主の国譲りの物語を想起せしむる。

7.秦氏のいくつかの特長
7−1 他の氏族系秦
 『新撰姓氏録』山城國神別 
秦忌寸 神饒速日命男味真治命之後也
 がある。出自を偽ったのではなく、物部の部民が秦氏に組み込まれ、そこから忌寸(太秦からの出世)に登った秦氏がいたと云うことであろう。王権の伸張に伴い、租庸調の民を直接王権に組み込んで財政基盤を固めたのであるが、その段取りを秦氏が行ったと云うことである。これらをもって擬制氏族とされる由縁である。

7−2 王権を狙わない秦氏
 皇室の祖神を祀るのは伊勢神宮だけではない。宇佐神宮もそのように云われる。応神天皇を祭神とするがゆえである。すなわち王権そのものが秦氏と言える。
 また別に、新たに渡来してきたハイテク技術を吸収し続けている。氏族的にも厚遇したものと思える。日本では蕃別に分類されることは覚悟の上の集団を目指したのかも。丁度マレーシアなどで経済を押さえている華僑ではあるが、彼らは政治の表舞台には出ず、政治はマレー人に任せるといったスタンスを思わせる。

7−3 屯倉運営と街道・境界
 各地に屯倉を設置、税の徴収を任されたのが秦氏。集めた税は中央へ運ばせる必要がある。街道には盗賊浮浪者遊女神懸かり詐欺師などうじゃうじゃいて虎視眈々と獲物を狙っていたはず。まともな事では税が都に届かない。秦氏は街道の警備に当たった。同時に宿場と宿場の間にたむろする浮浪者などを懐柔し施しもしていたのであろう。彼らの中にも秦氏に組み込まれた者がいたはず。先に書いた大生部多などもそのような者だったと思われる。


2.摂河泉の秦氏と神社
河内国 茨田郡幡多 
           
仁徳記 秦人を役てて茨田堤を作る。 門真市大字稗島 堤根神社 秦氏と多氏
  茨田勝 呉国王孫皓の後 寝屋川市秦町 熱田神社 秦氏と尾張
  寝屋川市太秦中町 細屋神社 星辰信仰  
   
河内国 交野郡 茨田三宅 交野市 倉治 機物神社 星辰信仰
   
河内国 安宿郡 柏原市国分 天白山妙見寺テラ 尾張郷
   
河内国 大県郡 八尾市神宮寺 常世姫神社  
  秦氏系の赤染氏は八世紀に常世連に改姓、赤染氏は香春神社の神官  
   
河内国 石川郡波多郷  武内宿禰男八多八代宿禰  
   
河内国 高安郡 三宅史、秦寸忌 八尾市恩地 恩地神社  
  三宅史 魏の司空の後   
   
河内国 丹比郡三宅郷 松原市三宅中 屯倉神社  
  八尾市教興寺 天照大神高座神社  
  天照大神高座神社は住吉大社の真東、住吉と秦氏(五十迹手)  
  新撰姓氏録  
  大里史 太秦公宿禰同祖 秦始皇帝五世孫融通王之後也
  秦宿禰 秦始皇帝五世孫融通王之後也  
  秦忌寸、高尾忌寸、秦人 秦宿禰同祖 融通王之後也  
  秦公 秦始皇帝孫孝徳王之後也  
  秦姓 秦始皇帝十三世孫然能解公之後也    
     
摂津国 西成郡  西淀川区姫島 姫嶋神社    
  秦人広立 神護景雲三年 秦忌寸に    
   
摂津国 住吉郡 平野区 赤留比賣神社住吉大社摂社
   
摂津>国 島上郡 服部連  高槻市服部 神服神社  
   
摂津国 島下郡 茨木市太田 太田神社  
  播磨国風土記の呉勝、紀の国より播磨へ  
   
摂津国 豊嶋郡服部 豊中市服部元町 服部天神宮 少名彦ー辰韓−秦
   
摂津国 豊嶋郡秦下郷 池田市室町 秦下神社(呉服神社  
   
摂津国 豊嶋郡秦上郷 池田市綾羽 秦上神社(穴織神社  
   
摂津国 新撰姓氏録 秦忌寸 太秦公宿禰同祖 功満王之後也  
  秦人 秦忌寸同祖 弓月王之後也  
      勝 上勝同祖 多利須須之後也      
和泉国 南郡 武内宿禰男八多八代宿禰 岸和田市畑町 波多神社   
   
和泉国 和泉郡 泉大津市豊中町 泉穴師神社  
  岸和田市西之内町 兵主神社  
  貝塚市久保 阿理莫神社(捕鳥万の妻の里
  聖神は秦氏の神 和泉市王子町 聖神社  
  武内宿禰男八多八代宿禰 岸和田市八田町 矢代寸神社  
   姓氏録 道守朝臣、山口朝臣、林朝臣 武内宿禰男八多八代宿禰之後也  



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