金神社(こがね)

岐阜市金町5丁目3番地 its-mo


鳥居




交通案内
JR岐阜駅北へ13分 名鉄新岐阜駅 北西へ10分

祭神
渟熨斗姫命(景行天皇第六皇女 一云う 五十瓊敷入彦命の妃
日葉酢姫命(垂仁天皇皇后 五十瓊敷入彦命の妃の母)
五十瓊敷入彦命
市隼雄命(五十瓊敷入彦命の御子)
境内摂社 物部神社「物部大神」など
史跡 賀夫良城 物部臣賀夫良命の奥津城


摂社群 向こうから2祠目が物部神社



由緒
 境内東北隅に賀夫良城がある。これは『国造本紀』に、三野後国造に志賀高穴穂麻御代(成務天皇の時代)物部連祖出雲大日命孫臣賀夫良命定賜國造、とあり、この國造の墓とされている。神社東北側の町名も蕪城町である。

 神社由緒書きには、「成務天皇の時代(135年)に物部臣賀夫良命が国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定めて金大神を篤く尊崇されたと伝えられています。」とある。これを創建の由緒としている。 さらに、「伊奈波神社に伝わる縁起によると、五十瓊敷入彦命は、朝廷の命を承けて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益は、五十瓊敷入彦命の成功をねため、一足先に都に帰り、命が帝位をねらっていると讒奏したため、朝敵として攻められて、この地に居たり討伐された。
 夫の死を聞かされた渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、都を発ち、御跡を慕ってこの地を訪れ、爾来朝夕ひたすら夫の死を悼んで、御霊を慰められつつ生涯を終えられたと伝えられている。
 その間、渟熨斗姫命は、地域住民を母の如く温かく慈しまれた。後世の人々は、渟熨斗姫命を聖観世音菩薩とも称え仰いだ時代もあるほど、慈悲深い神として慕われ、やがてその信仰は財宝をもたらす神として信仰されるようになった。

 伊奈波神社、金神社、橿森神社は、夫、妻、子をそれぞれ主祭神としている。

摂社の物部神社は加納に鎮座していた物部神社を合祀したものと推定される。

賀夫良城



お姿
繁華街柳瀬に近い。市街地の中の神域であり、社殿北側の賀夫良城や摂社の場所はとりわけ静かな場所であるが、社域に隣接しておそらくはマンションが建設中であり、窓から社殿を下に眺めることになる。都市部の神社としてはやもう得ない事かも。神域への不法駐車は避けねばならない。

 社殿は昭和六十三年に再建が完了し、コンクリート製の広い社殿群が堂々と建っている。 木々も豊かではないが、不足しているわけではない。これから大きくなる。

社殿

お祭り
 
 例祭  4月 4,5日

金神社の 拝のしおり

 当神社は古来殖産興業、財宝主宰、金運招福の御神徳あらたかな神として、篤い信仰を集めている美濃国屈指の名社である。御鎮座の年代は遠く上代に在って、成務天皇の御代(西暦一三五年)、物部臣賀夫良命が国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定められ、篤く金大神を尊崇されたと伝えられている。境内の東北の隅に命を祀る古墳「賀夫良城」(かぶらぎ)があり、近くに「蕪城町」という町名が存するのも之に由来するものと思われる。当神社の主祭神渟熨斗姫命は、景行天皇の第六皇女で、伊奈波神社の祭神五十瓊敷入彦命の妃である。伊奈波神社に伝わる縁起によれば、五十瓊敷入彦命は、朝廷の命をうけて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益は命の成功をねたみ、一足先に都に帰り、命が帝位をねらっていると讒奏したため朝敵として攻められ、この地に至りて討滅された。夫の死を聞かれた妃渟熨斗姫命は、悲しさのあまり都を発ち、御跡を慕って此の地を訪れ、爾来、朝夕ひたすら夫の死を悼んで、その故地の辺りで御霊を慰められつつ生涯を終えられたと伝えられている。この間、命は、この地方に度重なって起る水害に苦しむ土民等を温かく物心両面にわたって助けられ、母の如き慈愛に満ちたそのご事蹟は、後の世の人々の心の支えとなり、慕い仰がれ、やがてはそれが、人々に財をもたらす御神徳を有する神として尊崇されるようになった。元和三年(西暦一六一七年)加納城主は本殿、拝殿、瑞垣、鳥居等を建立寄進している。明治三十六年より数年の歳月をもって本殿、祭文殿を始め諸建物を造営したが、昭和二十年七月九日岐阜市空襲の際、焼夷弾を浴びて烏有に帰するところとなった。昭和三十三年に至りて漸く一応の復興は出来たものの、時局財政困難な状況下での造営であったため、建築資材等も思うにまかせず、又その規模も小さく、年を逐って老朽化が進んで来た。そこで昭和五十八年に造営奉賛会を結成し、会員、氏子崇敬者の赤誠溢るる協賛により、昭和六十三年三月金神社有史以来の大造営をみたのである。
以上


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